童話に対する所見
小川未明




 今日世間ではしきりに文化的ということを言っている。しかしそれは単に趣味の上で洗練されたことを言っているのだろう。今日の社会に於いて教養とか、或いは趣味とか、或いは人格の洗練とかいうことは、凡そ何を標準として言うのであるか。それは窮極の生活に於いて、気持ちのよい生活をするということにすぎない。言葉を換うれば今日の文化はそのまま肯定して、今日の文明に適当した生活を指して言っているのだろう。

 だから文化的ということは、今日どういう階級によって口にせらるるかといえば、それは勿論ブルジョアの知識階級に於いてである。そして所謂いわゆる知識階級に於いてである。その精神は何といっても今日の文明の擁護ようごである。決して今日の文明の否定ではない。



 又彼等に解せらるる芸術というものがそうである。所謂詩的な表現だなどいっているが、その詩的とはどんなものであるか、彼等に解せられた詩的とは恐らく刺身さしみのツマにすぎぬものであろう。彼等は言う、今日の生活は余りにも殺風景なものであり、これを美化して円滑えんかつならしむるものは芸術であると。然り芸術は彼等にとっては一種の享楽にすぎない。このことは私は今ここで言うだけでなく、従来といえども機会あるごとに言っているのである。ほんとうの詩、ほんとうの芸術というものは決してそんなものではない。常に芸術は現在生活の否定である。理想の追求である。ほんとうの理想とか創造とかは、まず現在を破壊すべきものだ。決して現在の醜悪なる社会生活を粉飾ふんしょくしてこれを美化せんとするものではない。詩や芸術の根本精神というものは決してそんなものではない。



 人間の生活はいつしか物質的経済組織によって硬化されてしまった。そして人々は今、形式の桎梏しっこくに悩んでいる。これから解放されなければ──即ちこの鉄鎖てっさをたたなければ、そこにほんとうに新しい新人生は生まれて来ない。新人生の叫び、それが即ち感激ではないか? 最も偉大なる感激ではないか。これが即ち私達の詩である。そして、それは最も美しいものである。これが即ち私の芸術である。字句の妙味や、技巧や主題などそれが何になるものであろう。何と弁護してもそれは有閑階級の所作事しょさごとたるにすぎない。ほんとうの芸術、ほんとうの文化は革命的精神の中にある。常に吾々が物にぶつかってくだけて新しいものをめぐむ、その感激を措いてほんとうの芸術も文化的精神もない。今日のブルジョア階級──ある社会の一部分が芸術を誤解しているのみならず、芸術家自身が在来の享楽的芸術を芸術としている。ほんとうにこの人間性に目ざめてきたものが、今日の第四階級芸術として表れようとしている。



 しかし私は第四階級芸術を待たなくして、子供の冒険性を信ずる。子供の純真を信ずる。ほんとうに子供を理解したら何もかも一切が子供にあるということを知らなければならぬ。ブルジョアに恐怖される共産主義の哲学も、純一なる美の世界も、無差別の社会も皆子供には存する。

 大人が子供より怜悧れいりであるというのは、人間的に堕落したものだ。私たちが童話に於いて子供の精神を把握はあくして、もう一度死んだ大人の頭から霊魂を呼びかえさんとする真意は、即ちこれに外ならぬ。故に新興芸術と童話とは非常に密接な関係あるばかりでなく、非常に考うべき問題でなければならぬ。

底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社

   1977(昭和52)年210日第1刷発行

   1977(昭和52)年C第2刷発行

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:栗田美恵子

2019年426日作成

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