雲霧閻魔帳
吉川英治



人生じんせいあいやま


 なるべく、縁起のにしようぜ。御幣ごへいをかつぐ訳じゃないが、物は縁起ということもあるし、お互い様に明日あすの首の座は分らない。こちとら、白浪渡世──

 いうにゃ及ぶ。

 さて、その日は?

 そうよ。──初日の出の元日──あたりはどうだ。

 なるほど、そいつアいい。

 元日より縁起の吉い日はねえ理窟だ。──次には、場所だが。

 その場所は、伊勢のあいやまと決める。そして、年暮立くれだちに、各〻めいめいが、土地を飛び、正月の抜け詣りを装って、落ち合う事にしようじゃないか──というような約束が、何日いつからか、土地を離れた五人の間に、出来上がっていたのである。

 発起人は、絵師の応挙おうきょの内弟子、その正月をとって、十七歳になる仁太郎だった。

 大坂のいたちを誘って、大晦日おおみそかの晩、約束の間の山へつき、そこの雲霧茶屋くもきりぢゃやで待っていると、やがて、第二着が、駿府の羅宇屋煙管らうやきせるの五郎八、次にやって来たのが、浜松のお仮面めん屋のせがれ丹三郎。──一番遅く、夜明け近くに、江戸の本職小猿七之助が、これは贅沢ぜいたくに、数日前から流連いつづけしていた二見の茶屋から、駕を打たせて、乗りこんできた。

「顔が、揃った」

 と、挨拶になって──

「てまえ、大坂の鼬でござんす」

「あっしゃ、江戸の七で」

「これは初めまして」

「御高名は、雷の如く──」

「お互いに、お初様、何分、よろしくお引き廻しを」

 などと、名乗って、

「さて、元の御商売は。また、お年は?」

 と、順々に洗ってみると、会わないうちは、自分が一番年下だろうと思っていた仁太郎が、三番目で、羅宇屋煙管きせるの五郎八が、三十一の年頭としがしら、江戸の七が二十二、四番目と五番目のいたちと丹三郎が、同じ年の十六だった。

「五人男だ」

 と、八百屋の御用聞きでまた掻っ払いの名人、チビの鼬は、英雄じみた昂奮でいった。

 初日の出が上る──

 五人は、匕首あいくちを抜いて、

「さ、兄弟分の盃」

 と、二の腕を切り、日の出より赤い血を、すすり合った。

「生きるも死ぬも、一心同体、これからは、お互いに、ケチな小稼ぎはつつしんで、日本一の大泥棒になり合おうぜ。なあ兄弟」

「無論だ」

 と、仁太郎は、羅宇屋煙管の五郎八に、答えて、

「だが──大泥棒になっただけじゃ、つまらない。何かしなければ」

「するとは」

「人間らしい事をよ。──男と生れた生き甲斐がいのある事をよ」

「なるほど」

 と、みんな腕をんだ。

 仁太郎は、年上の羅宇屋も、本職の七之助も、土蔵ぶんこ破りは、名人だろうが、頭が低いな──とすぐめてしまった。で、弁をふるって、

「人間、五十年、贅沢ぜいたくをして、食って過ぎるだけなら、何もぬすなんて、短気な世渡りをするにゃ当らねえぜ。早い話が、俺の師匠みたいに、絵を描いても、堂島で米相場をやっても、そんなことあ、出来ら」

「ふん……大きに。だが、それじゃ一体、俺ッちは、何をしたらいいんだい?」

「だから、名を揚げることだ」

「名を売るだけなら、大泥棒になりさえすれや、嫌でも名が出る。石川五右衛門でも、自雷也でも」

「おら自雷也が、好きさ」

 とお仮面屋めんやせがれがいった。

「俺も、大好きだ」

 といたちも、眼を光らして、

「自雷也みてえな泥棒になりてエなあ」

「あれは、支那の大盗だ。吾来也という支那の盗賊を、日本の作者が焼き直したんだ」

 と、仁太郎は、ちょっと、知識を誇って、

「──だが、自雷也は偉い、あれは、義賊だからな。だから、日本まで名が伝わった。泥棒でも、何かしておかないと、往生際おうじょうぎわに人にわらわれるよりも、何だか、一生涯を煙にしちまったような気がするものだ」

「そうかなあ」

「一つ、天下を取ってみようとか、世間の貧乏人を救ってみようとか。──何とか目的がなくっちゃ、狐鼠こそ狐鼠だろうじゃねえか。──ところで今、世の中を見ると、天明の大飢饉だいききんだ」

「ム。食えてるのは、泥棒と役人だけだ」

「ここで一番、顔の揃った五人で、食えない奴を、食わしてやる。──という仕事は、面白いぜ」

「じゃ、義賊になるのか」

「そうよ。義賊になったッて、自分の贅沢ぐらい、いくらでも出来らあな」

「やろうやろう」

「やるかい、兄貴たちは」

「おめえッちが、そういうなら──」と、七も、五郎八も、雷同した。

 年長としかさの二人は、いい加減な顔つきだったが、丹三、鼬、仁太の三人は、将門まさかどが旗上げでもするような気持だった。同時に、本職の七之助には、小猿という立派な異名があるが、自分たちにはそれがない。何か、有名になりそうな、いい異名を持ちたいという慾と、相談も、出て来て、その結果──

暁天あかつき星五郎──(羅宇屋煙管五郎八)

鼬小僧新助──(八百屋の御用聞き新助)

紫紐丹三郎──(仮面屋めんやの伜丹三郎)

雲霧仁左衛門──(応挙の内弟子仁太郎)

 とこう自分自分で変え名を作って、すっかり、いい気持になった。

 雲霧は、みんなの出会った、あいやまの茶屋の名に思いついて、そのまま、自分の異名に取ったのである。

 仁太郎改め仁左衛門──十七歳の雲霧は、それっきり、京都へは、帰らなかった。師匠の応挙は、彼の親元である江戸の狩野善納という貧乏画家へ、その由を、報じたきりで、結局、厄介払いをしたように、よろこんでいた。

 それから、四、五年の間──その不良少年と二人の大供が、五十三次、東海道の宿々を、まるで稲を襲った害虫のように、荒し廻ったのは。

 天明五人男。

 彼等の望みどおり、世間から、ちょっと騒がれたが、生命いのちは短く、やがて誰も彼も、宿場役人や、天領の十手にかかって、一人残らず、ふん縛られてしまった。

 雲霧、時に、まだ二十一。


煩悩・遠三味線


「──嘘つきめ」

 雲霧は、いきどおっていた。

 牢びさしに、女の眉ほどな、月が、青い。

 カチ、カチ、カチ……

 遠い、火の廻りの木。

「どいつも、此奴も、ろくでもねえくずばかり。何だって、俺あ、あんな狐鼠狐鼠こそこそ野郎ときたねえ、血などめ合って、義兄弟になったんだろう」

 と、そんな悔いさえ交じって、可惜あたら、棒に振った生涯が、腹が立って、たまらない。──しかし自分だけは、多少はやりかけた、となぐさめた。

(同じぬすでも、何か意味のある大盗になろうぜ)

 と約束したあいやまの会盟は、結局、自分以外は、みんな偽物だったのだ。

 いたちも、暁天あかつきも、小猿も、持って生れたコソ泥根性は抜けず、打つ、買う、飲む、の貪欲にこき使われて、最後の日まで、世間泣かせの小稼ぎをやっていたというではないか。

「──それでも、獄門は獄門だ。馬鹿野郎め」

 雲霧は、真ッ暗な牢内で、ののしったが、その声は、また、自分へも、返って来る気がした。

「つまり、大馬鹿五人男か。──あははは。これで死にゃ、人間も、世話アねえ」

 自嘲の歯をいて、からからと、独りで肩をゆすぶっていると、牢鞘ろうざやの外で、

「おい、雲霧」

 と、誰か低く呼ぶ者がある。

 暗闇の牛みたいに、のっそり、人影が動いた。雲霧は──ははあ、もう牢番の交代時刻か──卯平うへいがやって来たな、と直感した。

「何を、思い出してるのだ。──もう明後日あさっては本牢へ送られ、この月の内にゃ小塚ッ原で、胴と首の生き別れじゃないか」

「だからよ」

 と、雲霧は、もう一度、唇で薄く笑った。

「おかしくなったのさ」

「おかしいか」

「…………」

 黙然と、彼は、牢廂ろうびさし蜘蛛くもを見ていた。月に架けた一すじの糸に、青い露の玉が、キラと、明滅している。──人生。そんなものが、雲霧にも考えられた。

 ここは、深川の御船蔵おふなぐら。その中にある仮牢だ。仲間のいたちだの、小猿だのが、皆、ケチな兇状につまずいて、東海道筋から軍鶏籠とうまるかごで、江戸へ差立てになったと聞き、役人への反抗と、仲間の面当てに、

(よし、俺だけは、天下をアッといわすような大仕事をして、いちどに、義賊の名をとどろかしてやる)

 と、こう、短気になった雲霧が、その仕事を深川の御船蔵につないである将軍家の安宅丸あたかまるに眼をつけて、入ったのが、失敗だった。

 安宅丸は、盗ッ人仲間の誘惑だった。手近な宝の山みたいな存在だが、そこへ忍び込んだ盗賊で、首尾よく、仕事をして、帰った者は一人もない。

 不馴れな水の上だ。それと、予想外な内部のきびしさに、手もなく雲霧も、警固の網に引ッかかってしまったのである。そして、二十日余りを、この仮牢に抛り込まれたまま、伝馬送りと、獄門の日を待つ身になった。

 吟味の時には、

(俺は義賊の雲霧だ)

 と、胸を張って、名乗ったものである。

 また、ここ三、四年の兇状も、つつまず自白し、五人組の首領だと、たんかを切った。

 少しも、隠さないし、事実、今日まで盗んだ金は、貧民窟へばらいていたらしいので、役人達も世話の焼けない、さっぱりした盗賊だと思った。──また下級したの、貧しい小者や牢番たちの間には、義賊というのでうけがいいし、殊に、牢番の卯平などは、

(この泥棒は、悪いんじゃないのだ)

 と思い込んでいた。

明後日あさってか──」

 ふと、雲霧は、呟いて

「卯平、おめえにも、永い間世話になったが、もうお別れだな」

「お達者に──といいたいが──まあ諦めて、その日までは、心静かにしたがいい」

「ありがとう、覚悟はしている。だが、伝馬牢へ移されちゃ、もう、おめえのような親切者に、死出の世話をして貰うこたあ出来めえと思うと、何だか、名残なごり惜しい」

「なあに、あっちの牢番号も分ってるし、手をかける者も、知れてるから、よく蔵六にも、頼んでおいてやろうよ」

「蔵六とは」

「伝馬の牢番では、一番古顔な男さ」

「お係は?」

「吟味与力、高梨小藤次様」──と口走ってから、あわてて、

「おいおい雲霧、だが、これや、内密だぜ。いいかね」

 と念を押した。

 見廻りが来る。火検ひあらためが通る。コトン、コトン、と淋しい六尺棒の音が消えると、程なく、警板が鳴った。

「寝ませいっ──」

 と、卯平は、役目の時刻を呶鳴ってから後でまた、低い、べつな声で、牢格子へ、

「──お寝み──」

 といった。

 雲霧は、薄っぺらなわらぶとんへ、ごろんと、横になった。二十日も、湯浴みをしない皮膚は、臭くって、かさかさして、自分の身体みたいな気がしない。それが自分の物かと、獣じみた姿を考えると、早くこんな腐れ損いは、小塚ッ原で火焙ひあぶりにして貰ったら、定めし、さっぱりするだろうと思った。

 横になるまでは、眠くって眠くって堪らなかったが、木枕を、首にあてると、ぴーんと妙に、神経は冴え返って、

「ええ、また今夜も」

 と、寝返りを打った。そして、

「──忌々いまいましい三味線だな」

 と、雲霧は眠られぬ眼を開いて、牢天井の濃い闇を睨んだ。

 毎晩聞える、遠い三味線。

 ばちの音が、大川に、ひびくせいか、ばかに近く聞えるのだった。卯平の話によると中洲に、仮宅ができたので、四季亭とか、花明庵とかいう茶屋が、ひどく繁昌するということだった。

 娑婆しゃばの灯が、まぶたにちらつく。──白い、女の顔、琥珀こはくの酒のかおり。

「ああ、俺ア、まだ二十一だった……」

 もだえたものの、どうしようもない。


心境・ふたおもて


「雲霧だ、雲霧だ」

「五人組の義賊の親分──」

「若いなあ」

「いい男だ。情けぶかい顔をしてら。俺ッちには、救いの神だのに」

「世直しの仁左衛門っ──」

 軍鶏籠とうまるかごが、永代橋へかかるころから、差立ての列は、そこらに、群れをなしていた立ン坊だの、屑屋だの、軽子だの、乞食だの、まるで生ける餓鬼草紙がきぞうしみたいな、臭い人種に囲まれて、

「ならぬッ」

「近づくと、承知せぬぞ」

 と、役人らは、呶鳴りつづけに、歩かなければならなかった。

 それが伝馬牢近くへ来ると、命乞いだの、嘆願者だのと、よけいにひどい騒ぎである。雲霧は、軍鶏籠の隙から、路傍に坐って、自分を拝んでいる老婆だの、不具者だのを見た。

「はてな?」

 彼は考えた。

「──俺ア、いことをしたかしら?」

 伝馬では、もうくどい吟味はない。白洲で、二番目の時、其方ども五人、当月二十七日、磔刑はりつけを命じる──と、それだけのいい渡しをうけたに過ぎなかった。

 雲霧は、満足した。

 考えてみると、自分では、大した仕事とも、月日とも、思えずに来たが、この足掛け四年に、強盗斬りりの件数九十七ヵ所。金高一万両をこえている。

「それだけは、貧乏人をうるおした訳だ。──いわれてみると、俺ア、いつの間にか立派な大盗になっていたんだ。宿願の義賊ともいわれ、世間にも、ちッたあ、有名になったらしい」

 満足だった。雲霧は、すっかり、満足して、死ぬ日を待った。むしろその日が、待ち遠しくもあった。

「これや、差入れ物だぜ。お情けに取次いでやるんだから、有難く頂戴しねえよ」

 ここの牢番、蔵六というのは、もう五十を越えた男だった。袖の蔭から、そっと、萩の餅を一盆入れてくれた。煙草より、酒より、甘い物が、欲しいところだった。雲霧は三つの萩の餅を、夢中で食べて、

「──誰からの差入れでございましょうか」

「戸塚の宿で、首をくくるところを、助けて貰った婆といえば、分るといって置いて行ったが」

「助けた人間は、多勢おおぜいあるので、どうも思い出せませんが……」

 舌に残る甘い唾をみながら俯向いた。

「なあ、雲霧、人間は善いことをして置きてえものだな」

「まったくで」

「俺も、十七年も牢番をしてるが、おめえみたいな、人気のある泥棒は、はじめて扱った。──お処刑しおきの日にゃ、大変な人出だろうという噂だぞ。体を、大事にしろよ」

「有難う存じます」

 言葉さえ、彼はだんだん人格的に気をつけた。一日、膝も崩さない。生き身のまま、神になって行くような気がして来た。

「俺は今自雷也だ」

 彼は、自分の達願を信じ、自分の偉さを信じた。──だが、そこの伝馬牢へ移ってから七日目の朝、

「しまった!」

 と、雲霧は、何を思い出したか、ふいに叫んだ。

 夜明け交代になる牢番の女房が、弁当でも、長屋へ運んで来ているのであろう。──嬰児あかごの泣き声が、彼の耳を、つよくった。

「アア忘れていた。俺ア、たった一つ、娑婆しゃばへ、悪い事をし残している。──その後子を生んだたあ、聞いていたが、どうしたろう、あのは?」


残恨ざんこんけぬからす


 思い出すと、雲霧は、もう矢もたても、堪らない。

 京都の師匠にも、江戸の親にも、このになって、会いたいとは、みじん思わぬがたった一つ見届けなければ、気がかりな、女と、子がある。

「何とかして──」

 彼の眼は、その朝から、落着かなかった。

 夜半よなかを待って当番の蔵六へ、

「おやじどん……。おやじどん」

 そっと、話しかけると、

「おう、まだ寝ないのか」

「毎晩、御苦労様ですね」

「何さ、馴れッこだ」

「卯平ってえ、御船蔵の方の番人に、薄々、噂を聞きましたが、伝馬牢の御牢番もなかなか、何年勤めても、楽にゃ行かねえそうですね」

「生活の方かね」

「ま、その懐中ふところで」

「それや、牢番と来たひにゃ、おこもよりゃ増しくらいなものだからな。十七年もやっているが、うまい酒はおろか、正月の餅だって、腹いっぱい食ったことはありゃしない」

「子供は」

「やりきれねえ、七人だ」

「じゃ、大変だ。勤めは重く、扶持ふちは軽し、ってえ奴ですな」

「そこへ持ってきて、奉公先の伜が、売掛け金を持ち逃げしたり、女房は、床につくし、餓鬼がきゃ餓鬼で、おとといの夕方、軽尻馬に蹴とばされて、肋骨あばらを折って、寝てる始末だ」

「おやおや、そいつあ」

 と雲霧は、人情ぶかい眼を、牢格子に寄せて、

「おやじどん、どうする気だい」

「しかたがねえから、女衒ぜげんに口をかけて、一番姉を売っとばそうと、覚悟はしてるが伜の埋め金は、とても、そんな事じゃ、追いつくめえし、訴えられりゃ、お上のお役は、その日からくびになるしの……」

 と、蔵六は、貧乏皺びんぼうじわの寄った額に手をあてて、重い息をついた。

「そうかい、道理で、この二、三日、おめえの顔色が悪いと思った。──だが、心配しねえがいい。きッと、俺が」

「えっ?」

「耳を貸しねえ……」と、唇をつけて「実あ、ひょっと、思い出したことがある。──というなあ、俺が、お手当をくう前に、三河島の紙漉村かみすきむらの貧乏人に、施してやるつもりで、谷中の天王寺の近くへ埋めておいた金があるんだ」

「ほう」

「たんとじゃねえが四、五百両。──俺が死んだら、世間にも出ず、勿体もったいねえなあ、と考えついて、実あ、おやじどんに話しかけてみたわけだが、そいつを、使ってくれねえか」

「さあ? ……」と、蔵六は、ふるえながら、考えこんだ。

「ほんとかい、雲霧」

「だれが、嘘を。──何も、死んでゆく俺の身は、三途さんずの渡し賃さえあれやいいわけだが、天下の御通宝を、腐らしちまうなあ、余り、勿体ねえからの」

「勿体ないとも!」

「嫌なら、無理たあいわねえが、おやじどんが、使ってくれる気なら、ちょッくら行って、おめえの家へ、抛り込んで来てやるが……」

 ぶるッと、蔵六は、腰に下げている大きな牢の鍵を、抑えてみた。──飯と水を入れてやる時のほか、それっきり、彼は、牢の前に寄らない事にした。

「ふッ、気の小せえ奴だ」

 雲霧は、あざ笑った。

 すると、翌々日の深夜、

「おいおい、この間の話は、ほんとかい」

 と、蔵六が、怖々こわごわ、あたりを見廻しながらささやいた。

「嘘なら、嘘としておいたがいい」

「いやさ……。そ、それが真実ほんとなら、場所を教えてくれねえか。──どうせ、おめえは死ぬ身体」

「気の毒だが、そいつが、天王寺の五重の塔の上と来ているんだ。俺みてえな、身の軽さと、ぬす走りのすねを持っている人間ならべつな事、素人しろうとにゃ、あの五階へは、登れまい」

「じゃ、どうして、そいつを?」

「ここを、開けて、出してくれりゃ、夜明けまでに、ちゃんと、用を達して帰って来る。牢長屋の開かねえうちなら、からすだって、気がつくめえじゃねえか」

 蔵六は、腕をんで、

「きっと、帰って来るか」

「来なかったら、閻魔えんまの庁で、舌でも抜け。義賊の雲霧は、そんなケチな男じゃねえ」

「──親分。疑って、すまなかった」

 ひたっと、体を、牢格子のじょうへ押しつけた蔵六の手は、わなわなと、腰の鍵を外していた。ガチッと、掌のなかで、錠のつのねた。

「何処だ、何処だ」

 雲霧は、外へ、這い出した。

「な、な、なにが?」

あわてちゃいけねえ。金を届けてやるにも、おめえの住居が分らなくっちゃあ」

「あ──神田、神田の、紺屋ッ原」

「原の一軒家じゃあるまいが」

「人が、悪口に、もッそう長屋という、牢番ばかりが住んでいる棟がある。そこに、真っ暗な、紺屋の溝川どぶかわがあって、西の土橋から七軒目、路地の角だよ」

「それだけ詳しく聞けば──じゃ行ってくるぜ」

 どこへ、足を掛けたのか、ぽんと牢廂から大屋根へ、

「あッ」

 夜鴉みたいな、迅い影が、星の空から、消えたとたんに、蔵六は、自分の首が、抜けて行った気がして、

「いっぱい、食わされたかな?」

 と、いう疑惑や、後悔や、職務の自責や、いろんなものが、頭にこんがらかって、体が、ひとりでに、うろうろした。

 無論、居眠りどころか。

 蔵六は、空ばかりを見、半刻ごとの、鐘の音ばかりを、数えていた。


迷走めいそうあお溝川どぶかわ


 いくら馴れても、夜明けになると、しいんと冷えてくる。

 牢番長屋の隅ッこにある、掘ッ立て便所へ通うたびに、蔵六は、番茶みたいに濁った自分の小便を見た。

「どうしたろう、彼奴あいつめ……うう寒」

 と、菖蒲革しょうぶがわ番太袴ばんたばかまに、ワラ草履を引きずって、二月の別れ霜が、うすく降りているドブ板を浮き足に踏んで戻ると、もう杉の森に、鴉が、があがあと騒いでいる。

「あっ……夜が。畜生め、畜生め、義賊の何のといっても、やっぱり、悪党は悪党。ああいけねえ!」

 ほの赤い、朝暁あさあぐもを仰いで、蔵六は、頭が、くらくらとなった。──どんと、牢格子に背中をもたせかけて、

「ウーム……」と、絶望的に唸った。

 すると、

「おやじどん、お早よう」

「えっ?」

 蔵六は、きょろッとして、

「その声は、雲霧じゃねえか。──どこに、何処にいるんだ」

「あっしの居場所は、ここよりほかにゃねえ。牢の中に、けえっていますよ」

「ははあ……」

 蔵六は、茫然としたが、ハッと気がついたように、慌てて錠をピンとかけた。

「何時の間に?」

「たった今。──だが金は、何しろ、五重の塔から降ろすので、一度にゃ、持ち出せねえ。ゆうべ二十両だけ、おめえの家の窓から抛り込んでおいたから、けえったら、戸袋へ、手を突っ込んでみなせえ」

 交代が来ると、蔵六は、へとへとになって、紺屋ッ原へ、帰って行った。黒い溝川どぶかわと、枯れ草と、霜解けとの中に、もっそう長屋の塀が、っくり返っていた。百戸ばかりの牢番が住んでいる。

ちゃンが帰った。父ンが──」

 と、たこをあげていた鼻ったらしが、二、三人、彼に取っついた。がたびしの入口は、下駄の歯を叩いた泥で、惨憺さんたんだ。障子には、絵や字が、描いてあるし、奥には、ぴいぴい泣いている。子供だけで、沢山なのに、病人の女房の裾に、赤犬が、後足をめていたので、

「こいつッ」

 と、家へ上がるが早いか、蔵六は、手の弁当箱を投げつけた。

「あ痛ッ」

 病人のそばで、密々ひそひそ、話し込んでいた女衒ぜげん粂吉くめきちが、耳を抑えて、飛び上がった。

「やいっ、老ぼれ奴! な、何よう、しやがンでえ」

「あたったか。犬に」

「犬はもう外で、尻ッ尾を振ってら。あやまれ」

「そう怒るなよ」

 と、女房の枕元に泣いている娘に気づいて、

「粂吉さん、娘の奉公口は、都合が変ったから、見合せてもらいてえが」

「何だと、見合せてくれ?」

「む。金が、いらなくなった」

「ふッ、ふざけちゃいけねえ。病人と、おめえとで、を合せて拝んだなあ、おとといのことだぜ。先の楼主だんなに、無理を願って、この通り、金と証文を──」

「いやいや」と蔵六は手を振って──「もう要らない、もう、断る」

「ただは返せねえぜ、ただは」

「だって、しようがあるまい、要らないものは」

「手数と、詫び金を、付けて出せ」

「幾ら」

「一両」

「たかい。一両はたかい。──二分くらいなら出すから、四、五日うちに、またお寄り。ああ、わしがいないでも、分るようにしておくよ。──左様なら」

 追い出すように返すと、

「お父っさん、折角、調ととのいかけた話を、破談にして、どうするんですか。──さっきも、兄さんの主人が来て、今明日中に、目鼻をつけなければ、訴えると、門口で、わめいて帰りましたのに」

 と、売られる運命だった長女うえのお登利は、泣きらした眼で、父の顔つきを疑った。

「いいわさ、心配すんな」

 病人と二人へいって、破れ障子を開けた。

 見ると、自分の家の腕白と、ほかの悪童どもが集まって、泥棒ごっこをやっている。一番年上の悪太郎が、前垂まえだれで、覆面をして、

「ドロンドロン、ドロン。おいらあ、義賊の雲霧仁左衛門」

 と、銀紙の刀を抜いて、押入の中から出て来るところへ、蔵六は、入って来た。

「馬鹿野郎ッ」

 と、刀をたくって、

「出て行けっ。泥棒の真似なんぞしやがッて、大きくなって、何になるつもりだっ」

 と、呶鳴りつけた。

 蜘蛛くもの子みたいに、ばたくさと、悪童たちが逃げ出した後で、蔵六は、障子を閉め窓の戸袋を見廻した。──戸を閉めたり、開けたりして、

「はてな、窓はここだけだが? ……」としきりに、首をかしげている。

「何ですか、お父っさん」

 お登利が、後ろに立つと、

「何でもいい、あッちへ行ってろ!」と、叱りとばして、今度は、引き出した戸を、二枚とも外して、戸袋の奥へ、手を伸ばしたり、覗き込んだりした。

 けれど──鼠のふんと、すすだけだった。かねらしいものは、釘一本ない。

 彼は、うろたえた。立場を失った。──娘に対しても、病人に対しても。

 裏へ、飛び出して、崖の土まで真っ青な、紺屋川の枯れ草の中に、

「さあ、どうしよう?」

 と、腰をついて、ふさぎこんだ。

 すると、霜解けの原を、ぐしゃぐしゃと、歩いてくる男がある。ひょいと見ると棟は違うが、同じもっそう長屋に住んでいる卯平だ。

「おう、今帰りか」

「なあに、きょうは昼番だが、とてつもねえ事が起ったので、朝早く、八丁堀まで行って来たのさ」

「何しに」

「金が降って来やがった」

「けッ、金が──」

 蔵六は、ぴんと突っ立ったが、慌てて、しゃがみ直して、

「脅かすない。てへへへ」と、わら草履ぞうりの土を、枯れ草へ叩いて、青い迷走の溝川どぶかわを泣きたそうに見つめた。

「嘘じゃねえよ」と、卯平は、その溝川のすぐ向う際まで歩いて来て、

「俺も、吃驚びっくりしたさ。──朝、窓の戸を開けるってえと、茶袋に、石でも入れたような物が、転がり落ちた。また、おめえンの悪太郎でも、悪戯いたずらしやがったかと思って、ひょいと、拾って見ると、中にゃ、金が小判で二十両」

「えッ、二十両」

「おまけに、包の上に、雲霧と書いてあるんだ、雲霧と」

「しまった。──いや、た、大変だそいつあ」

「雲霧は今、伝馬にいて、現に、おめえの持ち牢だろうじゃねえか。仰天して、そいつをそのまま、お係の御吟味与力、高梨小藤次様のお屋敷へ、駆け込み届けをして来たというわけなんだが、いやもう、今朝みたいに、胆をつぶした事はねえ」

「そうかい。ウウム……じゃもう届けてしまったのか。で高梨様は、何とか、いっていたか」

「不思議だ、不思議だと、繰返しているばかりよ。──なぜなら、俺の家へ、金を投げ込んだ奴も雲霧なら、雲霧が、世間に、二人出来ちまッたことになる。──そうなると、高梨様だって、はじめっから、吟味を洗い直さなくッちゃならねえからの」

 蔵六は、もう、腑抜けになった形である。家へ、入る気力もない。

 原ッぱの空の下では、さっき追い出した長屋の悪童たちが、銀紙をひらめかして、

「御用だ、御用だ」

 と、雲霧ごっこに、夢中だった。


分身ぶんしんひと印籠いんろう


 急に、再吟味が開かれた。

 白洲を見下ろして、吟味与力、高梨小藤次は、峻烈しゅんれつに、

「雲霧ッ」と、口を切った。

「へい……」

 浅黄あさぎぼけのお仕着しきせ、青白い額をおお五分月代ごぶさかやき、彼は、自分の肩や胸の薄ぺッたさを感じながら、砂利を見つめた。

 黙っている──

 鋭い小藤次の眼が、いつまでも、頭の上にこたえる。四十近い、立派な与力だ。雲霧は、息づまってきた。

「……何なりとも、お訊ねを」

「余り、手数をかけるな」

「死ぬ日を彼岸と、楽しみに、待っている雲霧。決して、むだな手数は……」

「きっと、正直にいってくれるな」

「へい」

「では、相糺あいただすが、そちはまことの雲霧ではあるまい、影武者? ──いや影の男、身代りであろう。張本の雲霧は、まだ世間の裏に潜んでおると認めるが、どうじゃ」

「ふ、ふ、ふふふ。こいつア藪から棒、この世に、雲霧は二人とはおりませぬ」

「上役人が、そんな欺瞞ぎまんに乗るかっ。拷問いたすが、よいか」

「あいや」

 雲霧は、手をあげた。

「恐れ入ったか」

「──飛んでもないこと。まったく、覚えのないお疑い、何を以て、にわかに左様な再吟味となりましたやら、それをお明し下さらば有難い儀にござりますが」

「──見せてやれ」

 書記へ、投げるように、小藤次がいった。

 雲霧は、ぎょっとした。茶袋に入れた二十両の金は、もうそこの机に乗っている。高梨小藤次は、うなずいた。

「──にせ雲霧、いくら、親分乾分こぶんの義理立てかは知らぬが、死んでは、つまらんではないか。安宅丸あたかまるへ忍び入った時も、そちのほかに、もう一名、逃げおった者があるに違いない。明らかに申せは、そちの罪は、ぐっと軽いものだ。──ようっく、胸に手をあてて、明日あすまで、考えておくがいい」

 拷問はしなかった。若いし、明敏だし、人情味もある。あれで、高梨小藤次が、もう一出世したら、大岡越前や曲淵まがりぶち甲斐らに伍する名奉行になるだろう、とは書記や同心仲間での嘱望だった。

「へい──」

 と、雲霧も、この人には、ひとりでに頭が下がった。

 だが、牢へ曳かれてゆく途々みちみち今日だけはおかしくって、笑靨えくぼを、俯向けて歩いた。──なるほど死ぬその日まで、人間には、面白いこともあるものだと感じた。

 晩の八刻やつになると、老牢番、蔵六が、どんよりした顔を持って、勤務つとめに出てきた。

 牢格子を隔てて、ちら、と見合ったが、眼と眼だけで、時刻を待った。

 待ちかねた夜半よなかが来た。

 コツ、コツ、コツ……

 啄木鳥きつつきみたいに、蔵六が、牢を指でたたいた。雲霧は這いよって、

「うぬッ、恩を仇で」

 と、睨んだ。

 再吟味のあったことを聞いていた蔵六は、あわてて、かぶりを振って、

「門違いだ。親分、おめえが、間違えたんだ」

「そんなわけはない。たしかに、溝川どぶかわの土橋から七軒目の窓へ」

「いや、いい忘れたが、その土橋が二つある。わしの家は、原ッぱの西側だ」

「ははあ、そうか。──だが、あの御船蔵の卯平にも、恩がある。間違いにしても、まあよかった」

「でも、届けられてしまっては」

「うんにゃ、こっちの気持は運んだというものだ。──おやじどん、落胆しねえがいい。今夜あ間違いなく、おめえの家へ、抛り込んでやる」

 蔵六は、ゆうべで、もうすっかり彼を信用していた。ふるえずに、牢の錠を開けて、

「だが、親分。おめえさんの名は、大したもんだ。家の餓鬼を初め、どこの町を歩いても、腕白どもが、遊びといや、みんな、雲霧ごっこだといって、騒いでいやがる」

「ふム。そうか」

 雲霧は、ちょっと、うれしかった。音もなく牢を飛び出ると、牢路地を指さして、

「蔵六、そこだけが、気になる。見張っていてくれ」

「はい」

 と、彼が、そこへ首を出している間に、あられでも走るような軽い音が、屋根に消えた──ぽうんと、闇の外へ、雲霧は、もう飛び降りていた。

 ぱさっと、途中で、お仕着の裾が、何かに引っかかった。胡粉ごふんより白いものが点々と、月代さかやきや、肩や、耳の裏に、こびりつく。

「つまらぬところに、梅が咲いてやがる。もちッと、気のきいたところへ、咲きゃあいいに」

 そこは、凸凹な湿地だ。枯れあしと、低い団栗どんぐりの木、猫柳、野梅が二、三本。

 高い、塀を廻って、彼は深夜の町へ出た。風みたいに、軒下を走ると、すぐ田所町の何丁目か──そこをまた、路地へ入って、土蔵と、勝手口と、庭口のくッついた商家の裏手へ立って、

「こんばんは──」

 と、戸へ耳をつける。

 たった一声で、すっと、中から開いた。表は質屋、裏の客は、緑林から運んでくるのを受けている故買けいずかい。出て来たのが主人で、でっぷりと肥えた五十男である。佐渡屋幸吉を略して、佐渡幸といえば通っていた。

「毎晩、どうも」

「なあに、お安い御用だ。さんざ、もうけさして貰っている親分のこと」

「そういわれちゃ、面目ねえ。だが、甘えておくぜ」

「さ、どうか」

「ちょっと拝借」

 閉める。──帯を解く、お仕着しきせを脱ぐ。

 ちゃんと、台所わきの行燈あんどん部屋に、乱れ箱が出ている。雲霧は、手ッ取り早く、その中の衣類を身につけた。

 きゅッ、と博多帯はかたを鳴らしながら、

「ゆうべ、使いに行ってくれたなあ、誰だっけ」

「伝助じゃねえか」

「ちょっと、呼んでくんねえ」

 土蔵二階、なぐさみをしていた若い者の中から、一人が降りて来て、

「あ、親分で」

「伝公、てめえ、ゆうべは門違いをしちまったぜ」

「えッ、そうでしたか」

「西の土橋から、七軒目だ。──向う側の土橋から数えたろう」

「そうですか。相済みません」

「今夜あ、間違わねえでくれ」

「幾ら抛りこんで来ますか」

「やっぱり、二十両でいい」

「承知しました」

「頼んだぜ」

 出る時は、店廊下を、突きぬけて、大戸のしとみ障子を開け、田所町の通りへ、ぶらんと、懐手ふところでで、歩き出した。

 寒そうだが、いきあわせに、羽織なしだった。少し、横っちょへ結んだ博多帯の腰から、さめの脇差が、こじりを落し、珊瑚さんごたまに、一つ印籠。

 四つ辻の暗がりから、すぐ、もそもそと、

「若旦那、行きやしょう。──辰巳たつみで。へへへへ。吉原きたほうで。それとも、或いは、お手近で照降町?」

「四つ手か」

「へい」

「出せ、駕を」

「相棒ッ、乗って下さるとよ」

「急ぐんだぞ」

「へ。どちらへ」

「柳ばし」


夏の夜の罪


「ここでいい」

 雲霧は、駕を捨てた。柳橋の上である。橋のてすりにいつまでも、ひじをもたせて、

「待てよ、止めたがいいか。それとも? ……」と、何か、もだえているふう、迷っている様子。

 盗みにではない、女の愛に、また、子の愛にである。

 代地の権内ごんない住居すまいが、黒板塀や、霜除け松を川明りに描いて、ついそこに見える。この界隈かいわい夜叉権やしゃごんといわれる高利貸だ。

「もう、一昨年おととしだあ」

 雲霧は、ふと、瞼に描いた。

「──忘れもしねえ、餓鬼時分から、早熟ませたちだといわれた俺が、十九の夏の晩だった」

 強慾者、無慈悲な金貸と、前から眼をつけていた権内の家へ、雲霧は、忍び込んだ。

 権や召使を縛りあげて、彼は、ぞんぶんな荒仕事にかかった。そのうち、ふと、一間の蚊帳かやの中に、逃げおくれていた白い顔が、驟雨しゅううを予感する夕顔の花みたいに、わなわなとおののき顫えているのを見出した。

 髪は、たしか、結綿ゆいわたと覚えている。ぎれしぼり鹿の子は、少し寝くずれた首すじに、濃むらさきの襟が余りにも似合っていたし、早熟ませな十九の男には、眼に痛いほど、蠱惑こわくだった。

おんなだ。鬼の娘にはなぜ生れたろう……」

 雲霧は、蚊帳かやの外に、ぼっとして立っていた。──その年頃にはもうかなりな女の数を知っていた彼だから。

 女は。

 すくんだきりだった。

 まるで、凍った花みたい。

 恐怖にみちた眼を、蚊帳の隅から、じっと向けたまま、冷ややかな友禅の長襦袢ながじゅばんを崩して、守るが如く、乳のあたりを、白い手でぎゅっと抱いていた。

(恐いかい?)

 雲霧は、にやりと笑んでみせた。しかしそれは、かえって、彼女の極度な恐怖を刺戟した。ぴくっと、手を、蚊帳の裾へかけて、脱け出そうとする様子に、

(あッ、待ちねえ)

 いきなり飛びかかると、娘は、籠のうぐいすが、小さい心臓へ水を浴びたように、ぱっと、向うの裾へ、逃げ屈んだ。

 其方そっちへ、廻ると、此方こっちの隅へ逃げる。此方で捕まえようとすると彼方あっちへ逃げる。──二、三度、繰返しているうちに、雲霧の血は、もう盲目的になり、

(騒ぐと、殺すぞッ)と、思わず一喝した。

 手の匕首あいくちが、無意識に、蚊帳のり手をばらッと切って落した。同時に彼は、水底をゆく魚のように、真ッ青な波の下へもぐりこみ、小柄な彼女の体を両腕に抱きしめていた。娘はもがきもだえ、のしかかる暴力へ可憐な爪をたてて拒んだが、それは雲霧の慾情をなお火とさせるに過ぎなかった。まるで野獣が鶏でもむさぼるような彼だった。(殺すぞ──声を出すと)

 波打つ八畳蚊帳の下に、泣くとも叫ぶともつかない声も圧し伏せられて、つぼみの花は、狂児のあやしいたわむれにかき散らされた。そして若い彼と異性の肌から醗酵する、汗の香、涙の香、黒髪の香が……燃え抜けた飽慾のあとの肉体にあまい気だるさとなって、いつまでもうっとりと、彼女の泣きぬれた顔が見まもられていた。

 夏の夜は短かった。

「──罪な真似を」と、雲霧は、今考えても、生々しい慚愧ざんきを感ずる。思い出す度に、いい気持ではなかった。気にかかるので、後で探ると、娘は、それから十月目に、ててなし子を産んで土蔵部屋に産後を病んでいるという近所の者の噂だった。

 自分の子。──彼は不思議な念にたれた。恐ろしい気もした。その子は、どうなるだろう。その母は?

(俺は、緑林の巨人──)

 とさえ思い込んで、今ではその信念が、人格的にさえなりかかっている雲霧の心に忘れ得ぬ悪行の極印を残してるのはその一事だった。

 彼も人の子である以上、当然な、愛情の本能からも、また、後天的な大盗の誇りからも、ぜひ、その悪行のあとだけは、この世から拭い消して置かねばならぬと思った。

「さだめし、俺を、恨んでいるだろう。──せめて死ぬ前に、手をついて、娘へは詫びの一言、ててなし子の顔も一目」

 こう考えて、ゆうべも来たが、盗みになら鉄壁も越えるが、さて煩悩ぼんのうの塀は越え難い。

 わん! わん!

 雲霧は、はっと振り向いた。

「畜生ッ」

 と、こぶしを振り上げると、橋の袂へ痩犬やせいぬが腹で土を摺って逃げてゆく。

「あら怖い」

「今のうち──」

 手をつないだ座敷着のおんなたちがつまを高くあげて彼の前を通りすぎた。万八楼の小提灯が、遅く帰宅かえ料理番いたまえの老人を、とぼとぼと河岸かしづたいに送って行く。

「そうだ、夜明けまでの体、愚図愚図しちゃいられねえ」

 代地河岸の砂利場へ潜んで、しばらく、様子をうかがっていた雲霧は、やがて、権内の家の裏塀を越えて、何の苦もなく、忍びこんだ。

 土蔵付きの母屋おもやが、八間か九間、家は広いが、けちぼうな権内は、ろくに雇人やといにんも使っていない。雲霧は、がたっともいわせず、風呂場からぬっと這入ると、手拭で顔をつつみ、あわせの裾を横に端折りあげた。

 手と、膝で、廊下を歩く。

 どの部屋も、冷やッこい。寝息もなければ灯影もなかった。──雲霧は、闇にかがみこんで、耳をすました。

 どこかで、子のむずかる声でも聞えないか。乳の香でも漂っていないか。また彼女のかすかな寝息でも──と。


暁暗ぎょうあん・うつつがね


 チャラ、チャラ……

 また、ざらざらと、金の音だ。どこかで、金を数えているかすかな音である。

 雲霧の耳が、ぴくっとそばだった。土蔵前の障子に、薄暗い燈芯とうしんがゆれている。そっとのぞいてみると、鼈甲べっこうぶちの眼鏡をかけた権内が、十畳の座敷いっぱいに金をならべて、その真ん中に、腕拱うでぐみをしているのだった。

 小判は小判で耳をそろえ、一朱金は一朱金で並べ、二分銀は二分銀で積み、鍋銭は鍋銭で、盛り上げてある。

「さあて、少し、算盤そろばんがあわねえぞ」

 ひとちをもらしながら、権内は、両わきの帳面と、算盤の珠とを見くらべて、

「去年は、たっぷり、二割七分に廻ったものが、今年ゃ、一割五分にも足らぬ。──こんなことじゃ大変だ。わしの年が今、五十八、もう二十年と見てこの金を、十万両とするにゃ、一割五分じゃ難しいわい」

 ての小判を一枚、指に挟んで、

「だがいい色だな。いつ見ても、悪くないのは山吹色だ。音もちがう」

 チーンと、今度は、二枚を持って、耳のそばで、小判と小判とを触れ合せながら、その音色を楽しんでいた。

「いや、待てよ」

 それを置いて、帳面を繰返しながら、

「そうそう、麹町こうじまちの取立てを、元利とも払い下げの買地の方へ廻したのが付け落ちている。──すると、どうやら、先月も二割上かな。いや、三割近いぞ。──だのに、金がそう殖えてないのは? ……。ははあいけねえ、娘の医者だの、餓鬼の何だのと、この頃は、一人口が殖えた上に、物要ものいりつづき。だいぶ出銭が多いせいじゃろう。ろくでもねえ餓鬼だ。くたばるかと思や、くたばりもせず、親がこうして金に子を生ませていれや、娘は、ぬすの種なんぞはらみやがって……」

 みしッと、その時土蔵と座敷の境で、人の気配がしたらしく感じられたので権内は、大きな声で、

「誰だッ。──娘か」

 と、いって見た。人影が、障子に触って、

「俺だ」

 と、静かにいう者がある。

「な、なんだと」

一昨年おととし邪魔をした雲霧だよ。──父っさん、お達者かい」

「けッ。雲霧だ?」

 いた障子へ、権内は、ぎょっとした眼鏡の光を振り向けた。

 座敷の中へ眸を落して、雲霧はにたりと、

「ほ、豪勢な……。盗ッ人は、眼がくらみそうだ」

 権内は、火の出たように、慌て出した。金を両手で掻き集め、座蒲団をかぶせて、その上へ、坐りこんだ。

 そして、ぶるぶると硬ばった全身に、虚勢を張って「うぬか、一昨年おととしの泥棒は。味をしめて、また来たのだろうが、そうは、いつも柳の下に、どじょうはいねえぞ。このすぐ前に、新しく、自身番が出来たのを知らねえか。一文でもこの金に、手をつけてみやがれ、大声で、番太を呼んで、ふん縛ってくれるから」

「ははは、父っさん、騒ぎなさんな。今夜の用事は、金じゃねえ。俺ア、改めて、詫びをしに来たんだ」

「詫びを──。だ、だれに」

「おめえの娘に。それからててなしに」

 と、しきいの外へ、片膝を折って、

「──一目、会わして、もらいてえ」

「ならねえッ」

 と、権内は、彼の姿から弱い影を見つけ出すと、急に血相を、たけらして、

「太々しい亡者野郎め、白ばッくれたつらをして会わせてくれたあ、何てえ図々しい犬畜生。やい野良犬、よく聞け。てめえのために、娘は傷ものにされるし、大事な持参金の聟は破談になるし、産後の病気で医者にゃあ金がかかる。どれほど、損をうけたか知れねえんだぞ。その上、また娘に承知で会わせてやる大馬鹿がどこの世界にあるものか──」

「──そうか、じゃ、頼むめえ」

 雲霧は廊下へ身を退くと、

「あッ、うぬッ、何処へゆく」

 と、権内は、ぱっと先へ廻って、薄い灯影の洩れている土蔵の網戸を背負って、立ちふさがりながら、

「会わせねえといったら、金輪際こんりんざい、会わせる事あ出来ねえんだ。足元の明るいうちにとッとと消えて失せねえと、ここから、すぐ前の番屋へ呶鳴って、くくるからそう思え」

「父っさん、おめえはさっきから、番屋番屋と脅かすが、そんな者にびくつくような雲霧じゃねえぜ。悪く足掻あがいて、怪我でもしねえうちに、退いてくんな」

「くそでも食らえ、大盗ッ人め。また娘に畜生のたねでもはらませようという量見だろう。あんまり代地の権内を甘く見るなよ」

「どうしても、退かねえな」

「会わすも会わさぬも親の権利。骨が舎利しゃりになっても、動くもんか。けえけえれ、色情狂いろきちがいめ」

「勘違いしちゃいけねえ。俺ア詫びに来たんだ一目顔を──」

「それ程、見てえものならば、うぬが生ませた餓鬼だけは、たった今、ここへ連れて来てやるから、背負って帰るとも、殺すとも、好きなように始末をしろよッ」

 毒舌にまかせて、こう吠えると、権内は、土蔵部屋の戸を開けて中へ躍りこんだ。薄ぐらい行燈あんどんに、陰湿な煎じ薬の香が漂っていた。荒っぽい権内の手が、隅の小屏風を退けたと思うと、あれっ、と眼をさました病婦が、ふいに、乳ぶさから奪われた子を、夢中で、彼と争い合った。

「馬鹿ッ、放せッ、馬鹿。来たが、勿怪もっけさいわいだ。くれてやれ、こんなもの!」

 青白い乳ぶさをはだけた胸元を、一つ、蹴とばすと、子は、権内の手に、すぽっと抜き奪われて、虫を起したように、ひいーッと泣く。

「やいッ」

 風呂敷包でも持つように、泣く子を、引ッ吊るしたまま権内は、夜叉権という名をあざむかない、無情な眼を角ばらして振り向いた。

「──さッ、持ってゆけ!」

 ごろん、と因果な肉塊は、うしろに立っていた雲霧の足元へ、抛り出された。ひッ──と泣いていたのが、途端に、黙って、裂けた笛みたいに、ぴくともしなかった。

 はッ──と雲霧は足をすくめた。すねから背へ、冷たいものが、さっと這いのぼった。それは、全身を憤怒の火にして、ぶるッと、彼の本性が、その唇をつよく噛んだと思うと、

「あッ、よくも俺の子を」

 と、両手で、ぐッと権内の体を前に掴みよせた。その襟もとを、力まかせに──極度な怒りをこめた腕で──捻じ切るほど締めたのである。

「うッ畜生ッ。ううッ……うううむ……」

 と、権内は、四肢を痙攣けいれんさせ、眼を上にった。──長い呻きを曳いて、肋骨あばららしたはずみに、ぐたっと、雲霧の手から離れて、二つほど醜く転がった。

 すると、小屏風の蔭で、

「あれッ、お父様がッ」

 雲霧は、はっと、飛びついて、

「しッ、静かにッ」

 と、蒲団から刎ね上がった、娘の身体を、両腕に、抱き抑えた。ぼきっと、折れはせぬかと思われるほど、細い──痛々しい──人間の春は遠く去っている娘の肉体だった。

「騒ぐなッ、し、静かにしてくれ。──な、なにも驚くこたあねえよ。……もう俺ア、決して、決してあんな乱暴は」

 必死に、爪を立ててもがく娘の口を、彼のが、ふたをしていた。そして、羽交はがいじめに抱いたまま、その顔をのぞき込むと、自分のと、痩せこけた娘の顎の間から、絹糸のような血がタラタラと垂れたので、

「やッ? ……舌を」

 と、彼は、思わず手を離した。

 朽木くちきのような細い体は、とたんに、黒髪を重そうにして、仰向けに、倒れた。──ろうより白い死の顔は──その唇は、鬼灯ほおずきをつぶしたような血のかたまりを含んでいた。

「しまった……し、しまった……」

 重心を失ったかの如く、雲霧は、よろよろと腰をついた。

 茫然と──

 何もかも真っ暗だ。

 ただ、幻みたいに、見えるのは、自分の為した罪の結果だけだった。──いやその一つのみではなく、今日まで為した無数の諸悪や業も、彼の弱味に、今こそつけ込んで、この土蔵の中の四角な闇に、げたげたと嘲笑あざわらっているかとも感じられた。

 遠く──回向院えこういん七刻ななつがうつつな耳に聞える。

「……あ。朝が来る」

 雲霧は、よろりと、立った。

 そして、力なく、土蔵の口へ歩きかけると、もろい足の乱れが、何か柔らかいものに蹴つまずいた。──はっと、薄氷を踏んだような寒さが、背ぼねを突きぬけて行った刹那せつなに、足の先から、息をふっ返した幼い一つの生命いのちが突然、火のついたように泣き出したのであった。


胸底きょうてい・どでんがえ


 それから、間もなく──

 田所町のけいず買い、質屋の佐渡幸の奥座敷に、この家にはふしぎな嬰児あかごの泣き声がれていた。

「オヤ、どこの子が?」

 二階で、夜どおし、つぼの音をさせていた乾分こぶんが、

「──家にゃ、赤んぼは、いねえはずだが」と、不審がって、のぞきに降りてくると、閉め切ってあるその部屋から、

「何が面白れえッ。馬鹿っ、彼方あっちへ行ってろ」

 と、佐渡幸が、どなった。

 乾分は首をすくめて、二階へ舞い戻った。

 佐渡幸は、生れてまだ十月ぐらいな、愛くるしい女の子を、あぐらの中に抱えてあやしながら、

「決して、心配しなさんな」

 と、自分の前に、両手をついている雲霧へ、

「たしかに、俺が、預かって一人前に育ててやる」

 と、いった。

 雲霧は、そうしている間も、気がせわしそうに、

「今も、話したような因果のかたまり。──どうか、お願いいたします」

「ああ、いいとも。親はなくとも子はそだつ。折角、立派に覚悟をした雲霧が、そんな事を案じていちゃあ、往生のさまたげだ」

「これで、すっぱりと、いたしました。──夜が白みかけたようだから、じゃ、これで御免なすって」

「行くかい」

 佐渡幸は、子を抱いたまま、立ち上がって、

「──もう一目、見てゆきねえ」

「とても」

 と、雲霧は顔をそむけて、

「いくら無心な嬰児あかごにでも、この面ア真ともにゃ向けられません。──佐渡幸親分。おめえにもこれっり……」

「オオ、磔刑はりつけの日にゃ、矢来の外で、この子を抱いて、見送ってやるぜ」

「どうか、お達者に。……あっ、いけねえ、引窓の隙が白くなった」

 あわてて、伝馬牢のお仕着しきせに着かえ直した彼は、赤合羽を貰って、頭からかぶると、裏口から夜明けの町へ駈け出した。

 伝馬裏の沼の中へ、合羽をすてて、ゆうべの梅の木を足場にして、牢内へ飛び降りた、豚小屋みたいな牢番長屋から、たきぎが燃えいぶっていたけれど、気のつく者はなかった。

「やあ、お帰り──」

 と、蔵六は、彼を牢へ迎え入れた。

 まるで、主人に仕えるように、

「寒かったろう」

 と、ねぎらった。そしてすぐ、

「ゆうべは、分ったろうな。間違いなく、自家うちの窓へ──」

「ああ、入れておいたから、けえったら、探してみねえ。百両も──と思ったが何しろ五重の塔から持って降りるにゃ、二十両が関の山なんだ」

「結構結構。それだけあれば一時のしのぎはつくからなあ」

 番交代を待ちかねて、蔵六は、家へ帰って行った。

 心も体も、雲霧は、綿のように疲れはてた。といって、眠気もささない。頭の中はあの土蔵の闇を詰めて来たように、混濁こんだくしている。──消そうとすればするほど、薄命な女の死に顔や、因果な子の乳の香が、そこらに、ちらつく。

 もっそう飯も、今朝ばかりは、食う気がしなかった。

 ひる近くなると、伝馬役所の空気は、何となく、騒がしく感じられた。吟味与力の高梨小藤次は、同じ役所に、同心見習をしている子息の外記げきだの、役所外の目明しや役人を四、五人ほど連れて、

「べつに、変った事はないか」

 と、見廻って来た。

 交代した牢番は、みじんも異状のない事を答えた。牢路地の辻に、他の者を残して小藤次は、子息の外記と二人だけで、雲霧の牢の前に立った。

「…………」

 雲霧は、黙って、頭を下げた。

「どうじゃ」

「へい」

昨日きのう、申し渡したことは、考えておいたか」

「一向に考えようがございませぬ」

「何といっても、そちはまことの雲霧ではなかろうが」

「どういたしまして。雲霧仁左衛門に、相違ございませぬ」

「よほど、死にたい奴じゃの」

 と、小藤次は、子息の外記と、顔を見あわせて苦笑しながら、

「後悔いたすな、獄門の日は、迫っておるぞ」

「こうして、静かに、考えれや考える程、罪業の怖ろしさがよく分りました。──すべて消滅する日が、待ち遠しゅうございます」

「ふーム? ……」

 高梨小藤次は、疑惑にくるまれた顔をして、そういう闇の中の雲霧を、じっと、鋭い眼で、見つめていたが、やがて、

「よい覚悟だ。──其方ども五人の賊党は、明後日、千住のお処刑場しおきばにおいて、刑に行われる事に相成ったから、左様心得るがよかろう」

「ありがとう存じます」

 静かに、下げた頭を、上げてみると、もう小藤次も外記も、見えなかった。

 ──明後日あさって

 そんな早くとは、雲霧は思わなかった。白洲の吟味ぶりも、蔵六の話も、月半ば過ぎだろうという事だのに、どうして磔刑はりつけの日がそんなに急になったのだろうか。

「──するともう、今夜と明日あすの晩」

 磐石ばんじゃくと信じていた彼の覚悟は、騒ぎ出して来た。俺は天下の大盗だ。俺は緑林の巨人だ。──と心にいって聞かせても、騒ぐ波はしずまらなかった。

 夜になると、また、牢番たちに、交代の時刻が来たが、蔵六だけは顔を見せなかった。それとなく訊いてみると、蔵六は風邪ッ気で今朝、戻るとすぐ床についたといって、娘のお登利が、病気の届けを持って来たという話。

 翌晩の七刻ななつになった。

 だが、待っていた蔵六は、やはり来ないで、隣房の番人が、代って牢の前に付いていた。

 きのうからもだえ出した雲霧の心は、もう、眸に出て、落着かない光をぎらぎらと、牢の中にさまよわせている。しまったッ、しまったッ、と胸の底で叫びぬいているように。

「あ、あ……」

 時々、牢天井へ、彼は弱々しい嘆息たんそくをあげて、

「今夜きりだ」と、呻いた。

「──俺ア、一生の算盤玉を、ケタ違いした。飛んでもねえ考え違いをやっていたんだ。死ぬんじゃなかった。死んでどうする! 義賊の何のといわれたところで、太閤様の墓にだって、五年も経ちゃあ、ペンペン草が生えるんだ」

 眉は、いらだった。膝が、ひとりでに、がくがくと浮いた。

「それよりゃ、俺にゃ、することがあった。俺は、俺の生ませたあの子供を、決して俺のような人間にしちゃあならねえ。──けいず買いの佐渡幸に預けて置きゃ、行く末は知れている」

 彼は、生命いのちが惜しくなった。生きたいともだえた。こん度は、ほんとに、本能的に、牢を破って出たくなった。──最後に迫った肉体は、刻々、もがきを増してくる。

 けれど──もう遅い。

 真剣に、そう思った時は、もう明日あすとなった切迫である。重罪人のみを入れる伝馬五番棟の本牢だ。破ろうとしても、断じて、破れる堅固さではない。蔵六でもいればだが、牢番が変っていては、だましもかず、ことばをわす手段もない。

 一晩中、悪夢は、彼をなやませた。

 いやな、鴉啼からすなき──

 夜が白むと、やがて、

「雲霧、お呼び出しだぞ」

 と、彼は、牢役人や、同心や小者など、大勢の人々がさせる鉄鎖てつさの音と共に、外へ曳き出された。


春昼しゅんちゅうふたつの人出ひとで


 木遣きやりの音頭だ。

 手古舞の金棒だ。

 じゃらん──じゃらん、と。

 宝町の三井では、建築たて増しの竣工できた祝いと、新開きの西店の売出しとで、一町内に、紅白の幕を張り、紺の暖簾のれんに、花傘を植えならべて、屋根の上から、餅をいていた。

 たいへんな客、たいへんな弥次馬である。

「ほ、餅撒きか」

 雲霧は、ぼんやり、足を止めた。

 そこまで、どう歩いて来たか、彼自身はうつつだった。──伝馬町の不浄門からぽい、と突き出されて、いきなり、娑婆しゃばの朝東風こちに吹かれた途端は、覚えているが?

「──俺は生きてる」

 そればかりを、余りの不思議さに、夢か、間違いかと、ただふわふわした気持だ。

「だが、間違いじゃねえ。夢でもねえ」

 と、雲霧は、動いている世間、華やかな江戸の春に、眼をみはって、つぶやいた。

 今朝、牢から引き出されると、いきなり白洲で、放免をいい渡されたのだった。なぜか、まるで見当がつかない。

 それを、歩き歩き考えてみると、どうも、代地の権内の事件が原因らしい。──先おとといの晩、夜叉権やしゃごんを襲ったのは、義賊の雲霧だと、町では、彼が想像以上な噂なのだ。いや、人気といった方がいい、

 小耳に挟む、路傍の人の話にも──

「呆れたね」

「どうしても、今自雷也だ」

「奉行所も、手を焼いているッてじゃねえか。折角、捕まえたと思ったのは、にせ雲霧でよ」

「役人面アねえや」

「舌を出して、笑ってら。どこかで、ほんとの雲霧が」

「そうとも、当節のボケ役人なぞに捕まるような、間抜けな雲霧じゃねえと、俺ア、初めッから睨んでたんだ。──だが、胸がスウッとしたな、夜叉権の一件にゃあ」

「強慾な金貸野郎が、あんな目に遭うなあ世間の薬だ」

「今まで、彼奴あいつのために、泣きを見せられていた貧乏人達ゃあ、大欣びで、赤の飯をいたろう」

「雲霧大明神か」

「お互いに、あんまり、非道な金は、しぼるめえぜ」

下手へたあすると、次は、三井だって、あぶねえことさ」

「ホイ、今日は、餅撒きだ。早く行かねえと、仕舞いになるぞ」

 そんな話を行く先々、人間の群れる所で、彼は聞いた。

「役人からも、世間からも俺ア、何日の間にか、偽者と決められていたんだ」

 不意に、運命の門口が変った体を、どこへ持って行ったらいいか、彼自身にもまだ分らなかった。

 華やかな騒音と、人浪に誘いこまれて、うかうかと室町の角までくると、屋根から飛んできた切餅が一つ、雲霧の顔にぶつかった。

「あ痛……」

 抑えた頬から、ふところへ、餅が落ちた。

 その生餅をかじりながら、餅と人間の争いに揉まれていると、

「若旦那。椀徳わんとくの若旦那──」

 と、誰か呼ぶ。

 ひょいと振り向くと、雑鬧ざっとうの中を、泳ぎ抜けてきた手古舞の芸妓おんなが、

「まあ、どうして? ……まあ?」

 と、彼の姿に、眼をみはった。

「おう、鶴松」

「とにかく、家へいらっしゃいよ」

 照降町の新道へ、鶴松は、無理に彼を引っぱり込んだ。──椀屋徳三郎というのは雲霧の遊び名前で、深く、馴染んだ芸妓おんなではないが、先ではよく覚えていたらしいのである。

「どうなすったんですえ、このごろは?」

 小ぢんまりした御神燈格子。鶴松は、自前らしい。風呂が沸いているからといって風呂に入れ、ひげがのびているからといって、手拭に、剃刀かみそりを添えてくれる。

 雇い婆に、耳打ちして、てん屋へ、何かあつらえにやる様子を、雲霧は、風呂の中で、感じていた。すると、格子先で、女衒ぜげんくめが、

「鶴松姐さん」

「オヤ、粂さんかい、どうしたえ、この間話のあったは」

「何が、ヘマになるか、判らねえ。あの貧乏牢番が、間際になって、何処から工面しやがったか、急に金が調ったからといって、とうとうオジャンさ」

「そうかい、もうそこなったね。──だが、あの伝馬勤めの、蔵六とかいう、牢番の伜は、本町の薬問屋に奉公していた人じゃない」

丁稚でっちから仕上げて、やっと小番頭になったところで、店の金を使い込み、親妹弟きょうだいをすてて、何処かへ逃げてしまったという話だが」

「その人なら、今朝分ったんだけれど、銀杏家いちょうやの秀弥さんに熱くなって、あの女と二人で、江戸川で心中したとさ」

「へッ? 心中したんで?」

「だから主人も、持って逃げた金は、香奠こうでんにして、示談になったに違いないよ。そうすれば、娘を身売りすることもないからね」

「道理で、蔵六爺め、きのうは、寝込んでいやがった」

「ま、そう悪くおいいでないよ。またいいことがあるだろうから」

「なくっちゃ、まらねえや。──じゃ、またそのうちに」

「おや、まあいいじゃないか。大層、お急ぎだね」

「今日はこれから、千住へ行こうと思って」

「玉を見にかい?」

「なあに、評判の義賊の五人組が、磔刑はりつけになるっていうから、そいつを、見物してやろうと思って」

 雲霧は、体を拭いて、風呂から上がっていた。

 黙って出しておいてくれた肌着、あわせ、それを着て、鶴松がすすめる長火鉢の赤い座蒲団は、眺めただけで、

「飛んだ、世話になったね」

「いやですよ、若旦那」

「折角だが、ちと急ぐから、また四季亭か、向島か、いずれ呼んだら、来ておくれ」

「どうして。──何か怒ったんですか、若旦那」

「何さ、ちと、家に事情があって」と、金を一両ほど無心して、呆っ気にとられる鶴松の顔を、格子の中に捨てると、振り向きもせず、新道から歩きだしていた。

(そうだ、よそながら、線香の一本も上げてやろう)

 彼は、風呂場の中で、思いついた。

 初めの意気も、約束も失ったので、今では、義兄弟とも、乾分とも、思っていないが一度は、あいやまの初日の出に、大盗立志伝中の人間になろうぜと、血をすすり合った事もある四人の最期に──。

「駕屋、千住まで」

 と乗ったのが、もう午近いころ。

 垂れを鳴らして、その駕が、葭町よしちょうの辻を斜めに切ると、すぐまた、辻燈籠と芽柳の間に、ひょいと、姿を見せた十八、九の若い武士が、

「駕屋駕屋、もう一挺──」

 と、あわただしく、手を上げた。

 その侍は、今朝から、室町の餅撒もちまきにも、照降町てりふりちょうの新道にも、ちらちら姿を見せ、たえず雲霧の後をけていた。──聡明な眼と、機敏な動作は、すぐ、次の駕にひそんで、先のを追った。

 伝馬役所の同心見習、高梨外記である。

 雲霧一件に、係吟味となっている彼の父──高梨小藤次とは、むろん、十分、何かしめし合せた上の行動であることは疑いない、気がかりらしく、外記は時々、タレを上げて先の方を覗いていた。

 白、あか、所々のあぜどてに、見頃の梅花が眺められる千住道を、の行列みたいに、ぞろぞろと人が出る。

 磔刑はりつけの見物人だ。餅撒きと同じ意味で、人の死を見にゆく遊山だ。

 二月の昼である。うすく埃の立つ東風こちの中を、駕は飛ぶ、駕は追う。


一失いっしつ智者ちしゃ智亡ちぼう


「ああ、来なけれやよかった」

 雲霧は、生唾なまつばを吐きながら、枯草の中にしゃがみ込んだ。

 刑は、今終った。

 黄昏たそがれの空に、眼隠しをされた死骸が、まだ四つ並んでいる。青い獄衣が、血のしまになって、れていた。

 があがあと、見物人は、なだれ押しに、帰ってゆく。町の噂を知らない百姓が、五人と思ったのに、かんじんな雲霧が欠けているといって、不平らしく、呟いて通った。

「──ばッ、馬鹿にしてやがる」

 雲霧は、青ざめた顔をして、枯草の中から立ち上がった。

「死んで堪るものか! 死んで!」

 強く、口のうちで、こういった。

「四人の奴等にゃ、これくらいが、相応な往生だろう。だが、俺は……」

 彼は、これから持ってゆく自分の体の方針が、やっと、ついたように、

「俺は、真っ平だ。義賊にしても、狐鼠泥こそどろにしても、割の悪い世間の横渡り。きょうのざまを見るにつけ、自分の子にゃ、横道を踏ませたくねえものだ」

 宿場旅籠で、雲霧は、ふた晩、真面目に考えた。

 そこを、二日目の宵立ちに出た時は、旅合羽のすそに、鉄こじりを見せ、面隠つらかくしの笠寒い素わらじの指先を、江戸へ向け返して、田所町へ。──そして、

「ごめん」

 と、質屋構えの裏口から入った。

「佐渡幸親分に、ちょっと顔を──」と、そこに、立ったまま、草鞋わらじを脱がなかった。

 奥から、あわてて、佐渡幸が、

「おお雲霧、おめえ、御放免になったってえじゃねえか」

「へい。妙なわけで」

「恥かしくねえのか。義賊だの、五人男のと、世間でいわれている頭領かしらが。──血まですすり合った四人の乾分こぶんが、獄門に、首ッ玉あ並べているに、うぬあ、気まりが悪くねえのかッ」

「べつに、恥かしくはございません」

「やいッ。みんな、ここへ出て、恥知らずの腰抜け面を見てやれ。この間うち、ふいに夜半よなかに来やがって、夜叉権の娘の一件を俺に打ち明け、死んでゆくにも、こうしてえと、立派な口を叩きゃあがるから、さすがは雲霧はぬすにしても、男がちがう。なるほど世間で、義賊だ、世直しの神様だと、騒ぐほどの器量はあると、後の回向えこうや、餓鬼の身まで、引きうける気になっていたが、のめのめ、俺に生き面を見せるたああきれた奴。愛想あいそがつきた。唾でも、吐きかけてやれ」

「あッ、ひでえことを……」

 と、雲霧は、むらがる故買けいずかい仲間が、ベッ、ベッ、と吐きかける唾に、我慢の眼をふさいで、

「──佐渡幸親分」

「なんだッ、カス!」

「奥で泣いているようでございます。飛んだ、お世話になりましたが」

「いわなくッても、たたけえしてやろうと思っていたところだ。──それっ、持ってゆけ」

 奥へ、駆けこんで、荒っぽく、抱き取って来た子を、両手を伸ばしていた彼へ、ほうるように渡した咄嗟とっさだった。

「雲霧ッ。──たしかに、雲霧ッ」

 うしろで、一喝いっかつ、耳をった。

「あッ?」

 と、掴まれた襟がみへ、片手をのばして、雲霧はよろめいた。

 踏み外したドブ板から、さっと、黒い泥水がね上がって、彼の合羽にも、彼をじ伏せようとする高梨外記の顔にも。

 どどどっと、物凄い家鳴りがそれと同時に、佐渡屋の表にも二階にも暴風雨あらしのように起った。御用提灯は、もう畳の上を駈け廻っていた。

 十手は走る。皿は飛ぶ。

 まるで、地幅じふくが二尺も揺れているように、瓦が落ち、壁がくずれ、人間は、芋みたいに転がった。

「父上ッ。──この路地を。父上ッ」

 助勢を、求めながら、外記は、雲霧を全力で離さなかった。

「ええッ、何しやがる」

 びりッ──と合羽が裂け、雲霧は、七尺も先へ突ンのめって、腰を突いた。

 赤ン坊が泣く。

 声を聞いて、捕手が、

「逃がすなッ」

 と、路地の口をふさいだ。

 だが、そこのひしめきは無益である、雲霧は、ぱっと、台所から家の中へ駈けこんだ。すがる外記の肩先へ、梯子段の途中から、チカッと、後ろなぎに、脇差の光が走った。つづいて、煙草盆、土瓶、灯のついたままの行燈まで──手当り次第に。

 そこに、落ちていた三尺帯を足ですくって、雲霧は、物干しから屋根へ、踊って出た。みだれる提灯を、眼の下に、すばやく、帯で嬰児あかごを背なかに縛りつけた。息が、止まってしまったのか、子はもう泣きもしないのである。紐の端を、ぎゅっと結んで締めた胸で、雲霧は、俺は、この子の父だと思った。死ぬなら一緒に、と思うのだった。

「外記ッ。──不覚をとるな」

 軒先の路地で、高梨小藤次の声がした。提灯の火光が下にも、屋根にも赤かった。外記は分銅のついた捕縄ほじょうを口と腕とに掛けながら、物干しのてすりを踏み台に、大屋根をのぞき上げた。

 その顔へ、瓦が飛んできた。二、三度首を沈めて、

「おのれッ」

 と、飛び上がると、雲霧は、

「蹴落すぞッ」

 と叫んだ。

 はっと、外記は、瓦へ寝た。

 背に子を負って、大脇差を構えたまま、ぬっと立っている相手の背丈せいが、魔みたいな大きさに見えたのだった。

「──義賊ともあるものが、神妙にせいッ。雲霧っ、名折れだぞ」

 十手を、低く、つけたまま、外記は腹で、瓦を這った。一尺一尺と、無言でいる雲霧の刃の下へ。

 下でも、秩序のない混乱がつづいていた。けいず買いの佐渡幸は、乾分こぶんたちを、八方へ逃がした後で、土蔵の戸を、中から閉め、その中へ隠れこんだらしいのである。幾重にも、そこばかりを囲んで離れなかった捕手たちは、袋の中のものを抑えるような考えでいたが、やがて、塗籠ぬりごめの隙間から異臭のある煙が洩れだしたので、

「気をつけろ、中に、硝薬しょうやくがあるッ」

 と、ひとりが呶鳴った。

 直感に、さっと、無数の影が、往来へ散らばると、一瞬、土蔵はぐわうん──と自身を破壊して、炎と猛炎が、割れた口から、一丈も噴騰ふんとうした。

 火と、焼け土とが、滝となって、ざっと落ちてきた。──屋根の上の外記が、死を決して、雲霧へ、跳びかかろうとした瞬間に、その震動が、二人をぐらっとよろめかしたのである。

「あッ──」

「あッ!」

 と、二人は、一緒だった。顔を抑えて、俯伏うっぷしたのである。外記は、ふたつの眼が、二つとも焼金に突き貫かれたような痛みを感じて、

「残念ッ。──残念だッ」と、さけんだ。

 ばらばらと降る灰に、髪がげる、耳が焦げる。

 外記は、それを払うのが、やっとだった。眼が開けないのだ。──いくら、開こうとしても、もがいても。

「ちいッ」

 と、瞳の激痛をこらえながら、瓦の上を、手探りに、それと思うあたりを、十手で払うと、

「外記ッ。わしじゃ」

 と、父の小藤次の声が──

「わしに、早く、わしの背につかまれ、もうこの家の下も火だ」と、いった。

「やッ、父上で」

「あぶないッ」

 小藤次は、外記の手を肩に取って立とうとしたが、外記は、振りもいで、

「雲霧はッ、雲霧は?」

「失せた。──たった、一足ちがいで」

「えッ、逃げましたと」

 外記は、絶望的に──「父上、何と、この御職責を」

「わしの不明だ。智恵負けだ。腹を切っても、失策の埋合せはつくまい。──行こう外記、参ろう」

「何処へです、何処へです」

「役所へは、無論、不面目。お役を辞して雲霧に縄を打つまで。──それよりほか、わしら父子のとる道はない。あっせがれ、もうそこまで、炎の舌が這ってきた。父の肩にしっかりとすがれッ」


惨虐ざんぎゃくししむら


 朝霧に、夕霧に、一日まし、秋は蕭殺しょうさつと、恵那えなの高原から、人間の通う峠へも下りてくる。

 もう一年余りは過ぎた。──先はまだ幾年歩かなければならない道だろう。職の責めを負って、役目を辞し、突然江戸表から姿を消した高梨小藤次と外記父子の旅は──

足助村あすけむらかの、中之御所かの。上手な眼医者が住んでいると、麓で聞いたが」

 恵那峠の茶屋で、休んだついでに、小藤次が訊ねてみた。

 土間炉で、小鳥の肉を、串にさして、あぶっていた亭主が、

「さあての?」

 と、考えていると、でっぷり肥えた女房らしいのが、

「いつもの、針屋が来たら、分るが」

 と、口を出した。

「そうだ、あの針売りなら、ここらから、岡崎辺りまで、しょッ中、小まめに歩いているので、聞きかじっているかも知れぬ」

 と呟いて、床几しょうぎから外へ向いて、背を並べている二人の背へ、

「お眼が悪いと仰っしゃるのは、御子息様で」

「む、これに連れている伜」

「お若いのに──」

 と、嘆じて、

「山旅に、眼が御不自由では、御難儀な」

「いや、途方に暮れたとは、この事か」

「お若い方は、余り御勉強が過ぎまするで」

「ならば、なおりも早かろうが、火災の折、火に吹かれての……」

 外の道を、秋風が、さあっと、木の葉を掃いて行った。美濃の明知あけちから三州境へかかるこの峠も、七刻ななつを過ぎるとさびれだった。

 すると遠くから子守唄が聞えた。といっても、子守女の哀調ではなく、元気のいい男の声。それに交じって、嬰児あかごの泣き声が、近づいてくる。

「来たそうな」

 女房は、土間を抜けて、裏へ駈け出した。乳ぶさをひろげて、待ちながら、

「おうおう泣いて。──ひもじゅうなったか」

 と、いった。裏口から、入って来た男は、

「やれ、今日は、弱らせられた。──この、泣き虫め」

 と、台所の縁へ、菅笠をほうり出した。笠には、一目につくように、

 みやこ針みすや。

 と、書いてある。

 針包の荷を、風呂敷で背なかに廻し、その上に、猿廻しの猿みたいに、まだ母の肌恋しい、満二歳まるふたつになるかならぬ女の児を背負って歩いている旅の針屋は、

「商売が商売だから、乳を貰うにゃ都合がいいが、きょうは、押井村であてにしていたお内儀かみさんが留守で、そのまま、えさをやらねえもんだから……」

「じゃあ、無理はない」と、女房は抱き取って、乳をふくませながら、

「かわいそうに、こんなに、むしゃぶりついて」と、無心なえくぼを指で突いた。

 針屋は、子を預けると、

「ア、楽々した。──おや、美味うめにおいがすると思ったら」

 と、土間炉で、小鳥の串焼をしている亭主の肩からのぞいて、

「俺も、餌がほしい。一本、御馳走になろうか」と、手をのばした。

「それは、つぐみだ、美味くないぜ。こっちのは雉子きじだから食べてみな」

「雉子? 雉子はいけねえ」

「なぜ」

「焼け野の雉子きぎすというじゃねえか。子供を持っている俺にゃ、雉子の肉は、美味くねえや」

「なるほど。……そういえば、今、店に休んでいらっしゃる御武家の御子息が眼が悪いので、足助村か、中之御所に、眼医者の上手があるかって訊ねておいでなすったが、お前、知らないかい」

 針屋は、小鳥の串を、横にくわえながら、

「それや、足助村の香積寺こうせきじに泊ってる坊さんだろう。医者じゃねえ、禁厭まじないをする人だぜ」

「禁厭も、いいかも知れない。知っているなら教えて上げてくれ」

「何処にいる? そのお侍ってえのは」

「おやッ? ……」と、亭主は、腰を上げて、

「たった今、そこにいたんだが。笠もあるし、振分も置いてあるのに」

「外へ出て、谷間の紅葉もみじでも眺めているんじゃねえか」

 と、針屋は、口を、むしゃむしゃ動かしながら、何の気なく、店先へ出てゆくと、いきなり物陰から、彼の二の腕へぴしっ、と十手が唸ったと思うと、

「雲霧ッ。御用ッ」

 と、眼のわるい武士──高梨外記が呶鳴った。

 あッ──よろめいてきた雲霧の首すじへ、二度目の十手が、その頸動脈を狙って走ったが、眼のわるい外記、手元が狂って針屋の雲霧に、かえってその腕くびを掴まれたと思うと、

「えいッ、何しやがる」

 肩越しに、軒先へ、投げつけられた。

 すると、ほとんど一緒に、裏口で茶店の女房が、異様な声をあげた。──不意に、女房の乳ぶさから無心な子を、わしのように、抱きさらった高梨小藤次は、その悲鳴をうしろに、家の横を駈け抜けて、往来から、

「雲霧ッ。この子が可愛くないか」

「やッ──」雲霧は、さけんだ。

 悪の闇から足を抜いた後は、ただ一つ、その子の可愛さに生きて──また生きようとして、細い針あきないと、乳貰いに、今の若さを旅のあかにつぶしながら、惜しいとも思わずにいる雲霧だった。

ばくにつけッ、雲霧、神妙にお縄を頂戴いたせ。──さすれば、この子は助けてやる」

「ウーム、畜生」

 雲霧は、もだえた。歯をかんで、

「畜生めッ。俺の一番弱い所を、うぬあ、よくも知ってやがるな。返せッ、その子を」

「お縄をうけるか」

「くそうくらえッ」

 匕首あいくちの光が、ぱっと迫ると、小藤次、すばやく、それだけの距離を飛び退いて、

「考え違いいたすなッ。役人ながら小藤次は、そちの悪行ばかりを見てはおらぬ。いずれは、極まる悪党の末路。なぜ、男らしくせぬか。なぜこの子の行く末を、わしに頼まん」

 と、彼は智と弁をふるって、この例外な悪人を、江戸へくくって帰り得るものと信じた。

 しかし、飽くまで十手の威厳と、力とで、雲霧を捕えようと焦った外記は、その声を目あてに、ぽっと黒く見えた相手の姿へ、うしろから再び飛びかかって、

「おのれッ」

 と組みついた。

「誰がッ、うぬらに!」

 外記は、強く振り捨てられた。

 それへ、眼もくれず、匕首は小藤次の真っ向へ、

「返せッ!」

 と、喚いて、とびかかった。小藤次は駆けだした。そしてまた、

「お縄をうけい! お縄をうけい!」と叫んだ。

「そんな、甘手にのるかッ」

 彼の眼は、血走った。兇悪な野性が久しぶりでその面上いっぱいにみなぎり出して、小藤次を追い廻した。小藤次はまた、とても、この野にある猛獣が、眼の不自由な、外記とふたりの力では、制し得ないものと、初めから考えていたので、

「この子のためを、なぜ考えぬ。義賊雲霧仁左衛門の末路を、なぜ、いさぎよくせぬか」

 と、叱咜しったしては、逃げていた。彼の疲れと、自覚を待つように。

 だが、もう彼の耳には、入らなかった。小藤次の期待は反対になって、雲霧は、暴れじしみたいに迫った。子を取り上げた小藤次は、かえって、その子が邪魔になって来た。彼の烈しい匕首あいくちを交わしつつ、足助川の絶壁へ、転げ落ちてしまった。

「あッ……。俺の子ッ」

 崖っぷちの灌木にすがって、彼が、泣くような叫びを谷間へ投げた時、探り歩きに、追いかけてきた外記が、

「やッ、よくも父を」──と、仰天して、自暴的に、宙へ、十手を抛り捨てると、腰の刃を、抜き打ちに、雲霧の背へ斬りつけた。

 くわッ、と振向いた雲霧は、横っ飛びに避けると、勢いよく、灌木の根へ走った刀の手元をつかんで、それを、引ッ奪くった。

「──来てくれッ。大変だッ」

 茶店の夫婦が、山小屋の木挽こびきだの、石切工だのを、呼び集めて来てみた時は、もう、雲霧はいなかった。

 ずたずたに斬られて、そこへ俯伏せになっていた高梨外記は、もう虫の息もない。死骸は、滅茶滅茶だ。胸いたを突いた痕ばかり七、八ヵ所もある。復讐ふくしゅう的な虐殺だ。

「──分らねえもんだ、あのまあ、気だてのいい、針屋が?」

 と、人々は、首を振って、不思議がったり、余りのひどさに、眉をひそめたり、何だか、世の中も、世の中に住む人間も、わけの分らない気がしてきた。


三界さんがい・ふぶき月夜づくよ


 わけの分らない世の中が、天明から、寛政、文化と流転るてんした。

 あれから、まさに春秋二十余年。

      ×   ×   ×

 カアーン。カアーン。

 みぞれでも呼ぶように、灰色の冬の寒空に、かねをたたいて歩く男がある。

 あおぱなだの、腫物できものたかりだの、眼やにくそだの、味噌っぱだの、頬も手も、かじかんでる癖に、寒さを知らない伊吹山の麓の風の子たちが、

「地蔵様へ、花げろ。──地蔵様へ、花供げろ」

 と、道ばたの寒椿の、白いのや、紅いのを、むしり取っては、前へ鉦を叩いてゆく、男のおいずるへ投げつけていた。

 伊勢路近江路、時には、京や大坂あたりにも見かける、地蔵行者である。

 雨露によごれた白衣びゃくえを短く着、笈の上から天蓋をかざしている。左の手には、旗を持っていた。旗の文字も、雨に流れているが、

御堂建立勧進みどうこんりゅうかんじん、地蔵愛行者心蓮しんれん

 と、読める。

「──子を大事になさいよ。親は子を育てたいといいますが、私は、子に救われ、子のため、人間になりました。わしばかりでござるまい、世間、親と威張る衆は多いが、実は、子に救われている親御衆の方が、どんなに多いか知れないので……」

 と、行者心蓮は、子供のいる家の前に立つと子の功徳を説き、地蔵愛をし、わけて子を亡くしたという家を聞くと、必ず訪ねて慰めた。

「お心がございましたら、一文でも二文でも、地蔵堂の建立に御寄進ねがいます。──私の死ぬまでに、それがどこかの紫雲英れんげの原に、ささやかな一宇の愛の御堂となれば、私は、その原の白骨となって御守護いたします。はい、一人でも二人でも、世の親御様たちに、私の心が届けば、それで本望なのでございます」

 カーン。カアーン……

 かねは、そういって、黄昏たそがれの迫る村を歩くのだった。

「地蔵様へ、花げろ」

 ぞろぞろ、いて歩いていた子供たちも、一人り、二人減り、彼のまわりは、もう寒い伊吹颪いぶきおろしと夕闇だけだった。

「ああ、雪が来た」

 心蓮は、空を仰いで、初老を越えかけた眼をしばたたいた。天蓋に──勧進旗──横なぐりの雪がぼたぼたと吹きつけた。

 見る間に、草鞋わらじの型がつく。

「木賃はないし……」

 彼は、戻りかけては、また先へ歩いた。もうそこは、村端むらはずれの土橋だった。

「そうだ、これもぎょうの一つ。朝までに凍えて死ねば、それまでのこと……」

 どこの納屋か、わらが積んである。それへ、おいをおろし、軒先に屈みこんで、足の先に積ってくる雪を見ていた。見ているまに、指がかくれ、甲が隠れ、今に体も埋まるかと思われるほど、風は、伊吹の雪を送ってきた。

「まあ」

 ふいに、後ろの戸が開いて、戸の隙間から女の顔が見えた。人は住まない外納屋なやと思っていた心蓮は、あっと、驚きの目をふりあげた。

「旅のお方。先ほどから、気づいてはおりましたが、女一人、父が戻るまでは、お上げ申すわけには参りませぬが、この雪に、そんな所においでなされては、凍え死にまする。──土間へ這入って、芋粥いもがゆなと召しがりませ」

「かたじけない──」と、心蓮は、雪と共に、戸の内へ飛びこんで、はあ、と息で両手を温めた。

 炉には、芋粥が、ふつふつと煮えていた。

「さ、そこで」

 と、女は、炉の火を、火桶に移し、また芋粥を茶碗に盛って、土間のかまちへおいた。

 心蓮は、人心地がついた。

 女ひとりと、いわれたので、彼はつつましく、土間の榾薪ほたまきに、腰をおろし、火桶に顔をかざしながら、話も遠慮がちに、黙然と、吹き荒るる雪の音を聞いていた。

 女は、べりに、縫物をひろげ、これも黙って、後ろ向きに、針の目を運んでいる。

 その横に、地袋の小床があり、伊賀土産の梅干壺に、一輪、寒椿が投げてあって細い句軸がかかっている。そして、ちょうど、女の白い襟あしの上に、仏壇の燈明、ほのかにゆれているのだった。家具らしい物はほかに何もなく、外納屋に、手を入れたくらいな、あばだった。

 だが──

 心蓮は、ひたいごしに、さっきから女の姿態に注意をとられていた。人妻ではない。処女むすめである。二十三か、四か。農家の女ではない。きりっと、帯の締め方にも、武家風なたしなみが見える、すんなりと伸びた襟あし、肩の線、それへすべらせた下げ髪、好ましい形である。

 ──そして、似ている。

 誰に?

 さあ、それを心蓮はさっきから考えぬいているのだった。

 彼は、記憶の絵巻を、昨日きのうから少年のころまで、逆に、繰返してみた。四、五日まえ、彦根の屋敷小路で見た品のよい娘か、京都で見た多くの美しい女性のうちか、ずっと遠いころの恋人か、人妻か、乳母か、いったい、誰にだろう。

 どうしても、覚えのある気はするが、記憶をつかむ努力に疲れて、眼をらした。

「おや? ……」

 すると、ふとまた、心蓮はその眼をみはった。彼女の襟脚から二尺ほど上の仏壇の中に、奇異な物を見出したのだ。血痕でもついたのがそのまままだらびたかのような十手と、一すじの捕縄とが、掛かっているのだ。

 ぞっと、彼は肩をすぼめて、家の中を見廻しながら、

「もし──」と、女へいった。

「はい」

 針刺しへ指をとめて、

「お茶でございますか」

「いいや、つかぬことを伺うが、床の御風雅、御主人は、俳諧はいかいでもおやりかの」

「左様でござります。京都の夜半亭の社中から出た月杖げつじょうという俳諧師。あなた様も、おたしなみでございますか」

「何の、一向に無風流者。父が狩野派の貧乏絵師なので、幼少のころ、ちとばかり、画道は師匠につきましたが」

「おや、そうですか。ちょうど、今夜父が出かけました庵寺の運座も、京都から遊歴に来た絵描きさんのためだといっておりましたが」

「ほ。何というお方で」

「丸山応震おうしんとか──」

「応震? 聞いたような……」

「応挙の御子息だとか。──あの応挙は惜しいことに、お亡くなりになりました」

「そうですか、応挙は亡くなりましたか。そうでしょうな。もう……そうでしょう……」

 と、心で指を繰るように、眼をふさいでいたが、またちらと、仏壇を気にして、

「運座では、お戻りの遅いはず。ご主人のお帰りなさる間、こうしておるも所在ない。お仏壇へ暫時ざんじ誦経ずきょうをおゆるし下さるまいか」

「え……さあ?」

 と、娘は、迷惑げな顔をしていたが、もう彼が、草鞋わらじを解きかけているので、少し針箱を片寄せてそのまま、他念のない針をチクチク運んでいた。

 静かに心蓮は、彼女のうしろに立った。そして、土間からは見えなかった仏壇の位牌に眸をこらした。もう竹藪の雪が落ちるほど積ってきたのか、ざざっ、どどっ、と地ゆるぎのするたびに燈芯の灯がゆらめくのだった。

「あッ……」

 心蓮の顔は、とたんに、血の気を失っていた。

 法名と共に、書いてある月日。そのわきには、俗名高梨外記。

 かねも鳴らぬ……。誦経の声もいつまでしない。

 どどどと、雪の音だ。

 まるで、真空のような静かさだ。女は、ふっと縫い物に無心な心を寒くした。

 針の先が、妙にふるえる。──自分のふるえではないのに──と、ふと、眼の隅から袂の後ろを恐る恐るのぞくと、行者心蓮の足は、畳についていないようにがくがくとふるえているのであった。

「?」

 はっと、彼女はその人へ、顔を上げた。

 燃える二つの眼が、上から、じっと、彼女を見ている。

 仮面めんみたいに、硬ばった顔は、涙にぬれていた。──ぎょっと彼女が縫物と共に、飛び退いたせつなに、心蓮はいきなり、

「おうッ、お前はッ」

 と、彼女の体を抱いたのであった。こわひげがザラザラと、彼女の頬を所きらわず刺した。湯みたいな液体をもった瞼が、夢中になって、白いうなじをこすり廻った。

 きゃッ──

 ころころと行燈あんどん灯皿ひざらが輪を描いて土間へ転げ落ちた。

「娘、娘」

 さっきから外で、下駄の歯の雪をたたきながら、こう呼んでいた十徳着の老人は、戸を開けると、不審そうに、

「オヤ、灯明あかりが消えた……」

 吹雪が、土間の中へ、斜めに、白い光の縞を投げこんで、妖しげなすすり泣きを吹きさらった。

「どうしたのだ。娘……娘……」

「お父様ッ」

 泣き声と一緒に、彼女は、老人の胸へ飛びついてきた。

「これ、どうした。──お前、泣いてるのか」

「お、父様ッ……」と、彼女は、極度な感情に、全身をふるわせ、父を怖れる眼で、父を疑った。

「何で泣く。わけをいえ、何で泣いておるのじゃ」

「私にも──分りませぬ──お父様、聞かして下さい。どうして、私には、二人の父があるのでしょうか」

「ば、ばかッ。──誰がそんな事を。誰が」

「たった今、裏から逃げた、地蔵行者が」

「な、何といった」

「いきなり、私を抱きしめて、俺の子だ! と」

「げッ、──灯明あかりを、早く、灯明を」

 土間に、置きすててあるおいずるを、老人はひっくり返して、あわただしくあらためた。赤いよだかけをした地蔵如来、幾つもの巾着、守札まもりふだ、椿の花──

 みんな、乳の香のするものばかりだった。そして、笈が、一個の空箱となった後その奥に、ぺたんと貼ってある一枚の紙位牌が老人の眼を、はっと射た。

 俗名、高梨外記殿

「ううむ、分った」

 老人は、十徳をかなぐり捨てた。おどり上がって、仏壇のさび十手と、干からびた捕縄をつかみ取ると、

何方どっちへ、何方へ」

「お父様っ、聞かして下さい、今のことを」

「ええお前は、黙っていればいい。──あっ裏口が開いている」

 びゅう──と、雪は、大竹藪をなぐっていた。

 その下を、彼は、若者の如くくぐッて駆けて行った。藪を出て、一すじの小川を跳ぶと、伊吹の裾につづく関ヶ原の曠野は視野のかぎり、真っ白だ。ただ点々と、黒く見える。足跡のほかは。

 その足跡を、彼は、追った。呼吸いきが、はッはッと、口の外で動悸を打つ。

「おおうーい」

 しわがれた声のあらし。

 のめる。転ぶ。

「おおーいっ。雲霧ッ」

 はっと気づけば、足痕は切れている。頭も顔も、雪だらけにして、雪の中に黙然と立ちどまっている白衣の人間を、老人はきっと見出した。

「御用ッ」

 投げた捕縄に狂いはなかった。それを手に取らないこと二十年、すでによわいも六十をこえた俳諧師月杖は、昔の吟味与力、高梨小藤次なのである。

 白い人影は、ぴくっと身を屈めた。捕縄の端は、その手に掴まれていた、地蔵行者の心蓮──雲霧仁左衛門の手に。

 ぴんと、二人をつないだ縄。

 何と深い、この縄の宿縁だろう。二十余年を経た今日でも、それは地獄を生めば生める。──呼へばたちまち、夜叉やしゃ、悪鬼、羅刹らせつ、あらゆる魔のすがたは、この一すじの上へ降りて来るだろう。

「つい、逃げたのは、お恥かしい。──まだ昔の根性が、どこかに残っていたものとみえますな、ははははは」

 雲霧は、そういって、たかく笑いだした。

「──自分から、お願いすることは、あなたが二十年も先からやっていて下すった。何とお礼をいっていいか。──さあ、高梨小藤次様、縛って下さい」

 腕を、自分で後ろへ廻すと、何と思ったか小藤次は、ぽいと、捕縄を吹雪へ投げて、

「心蓮殿、地蔵堂の地は、この辺がよろしいのう。今は、満目の雪でござるが、春ともなれば、紫雲英れんげ、菜の花、里の子供の遊び場にもようござる」

 と、いった。

「え?」

 と、怪しんで問い返すと、月杖は、まだ今夜の運座の句作が頭にあったのか、少し顔を上げて、

遊ばばや子とも鬼とも紫雲英草げんげそう

 と呟いた。

 吹雪は、まだ、二人の姿を消してしまうほど荒れていたが、空には、月が顔を出していた。

 どこかで、よよと、泣いている女の声を、上から傷ましがっているように。

底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社

   1990(平成2)年911日第1刷発行

   2003(平成15)年425日第8刷発行

初出:「週刊朝日 新春特別号」

   1933(昭和8)年

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2013年123日作成

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