動員挿話(二幕)
岸田國士



人物

宇治少佐

従卒太田

馬丁友吉

少佐夫人鈴子

友吉妻数代

女中よし


時  明治三十七年の夏


所  東京



第一幕


宇治少佐の居間──夕刻


従卒太田(騎兵一等卒)が軍用鞄の整理をしてゐる。

鈴子夫人が現れる。


夫人  さ、此の毛糸のチヨツキをどこかへ入れといて頂戴。──あとから送つてもいゝけれど、どさくさ紛れに失くなされでもするとつまらないから……。それに、もう、あつちは、九月になると寒いつて云ふぢやないの。──何もかも、あんたのお世話になるのね。ほんとに、よろしく頼むわ。大変だらうけれど……。病気だけは気をつけてあげて頂戴ね。すぐおなかをこはすのよ。

従卒  さうすると、入れるものは、これだけでありますか。

夫人  さうね……。もう大概それくらゐのもんね。おまもりはあすこへ入れたと……。

従卒  ウイスキイは二本でよろしうありますか。

夫人  沢山でせう。御自身でも一つ、図嚢へ入れてらつしやるのよ。

従卒  太田も一つ持つて行きます。それから馬丁もゐますから……。

夫人  そんなに……? 寒い晩にお酒なんかあがるのはいけないんださうだけれどね。よく凍死するんですつて、それで……。

従卒  は?

夫人  凍えて死ぬのよ。お酒に酔つてなんかゐると……。

従卒  どうしてでありますか。

夫人  どうしてだか知らないけれど……。婦人会の講話で、さう云ふお話をうかゞつたことがあるわ。あんたは飲まないのね。

従卒  はあ駄目であります。

夫人  駄目の方がいゝわ。


(此の時、宇治少佐、浴衣姿にて現る)


少佐  もう片づいたか。

従卒  はあ、片づきました。

夫人  ウイスキイばかりこんなにお持ちになつて、どうなさるんですの。

少佐  お前の知つたことぢやない。(太田に)そいぢや、今日は帰つていゝ。家のものには、もう会つたのか。

従卒  いゝえ、まだ会ひません。別に用もありません。

夫人  でもねえ……。

少佐  明日は来んでもいゝ。それから、副官に、今晩はもう用はないからつて、さう云へ。

従卒  は。副官殿に、今晩はもう用はないつて、さう申します。(証明書を取り出し)御判をどうぞ……。

少佐  出発前に、からだをこはさんやうにせい。

従卒  はあ。(軍用鞄を担ぎ、出で去る)

夫人  御苦労さま。


(少佐と夫人とは、対座したまゝ、暫く無言。──おもてを号外売りが通る)


夫人  号外、買はせませうか。

少佐  うむ。

夫人  (奥に向ひ)よしや、号外を買つて来て御覧。

よしの声  はい。


(長い沈黙)


夫人  何を考へていらつしやるんですの。

少佐  あいつ、また馬丁部屋へあそびに行つてゐるんじやないか。

夫人  たけしですか。

少佐  かずつて云ふ女は、どうも子供によくない智恵をつけていかん。玩具の鉄砲を自分の喉に当てゝ、自殺をする真似なんかして見せたらしい。

夫人  まあ。何時ですか。

少佐  さつき、おれが帰つて来たら、門のところで、ほかの子供たちと一緒にそんなことをやつて遊んでるんだ。誰から習つたつて訊いたら、数からだつて、さう云つた。

夫人  ほんとに困りますわね。

少佐  馬丁の家内が、なまじつか、女学校なんか出てるからいけないんだ。言ふことは生意気だし、することが巫山戯ふざけてゐてどうも気に食はん。おれの留守中でも、あんまり子供なんか委せて置けないよ。

夫人  気を付けますわ。世間を知りすぎてるんですわね。

少佐  すれてるのさ、つまり……。

夫人  そこへ行くと、よしつて云ふ女は……。


(よしが襖を開ける。夫人、口を噤む)


よし  号外屋さんはもうをりませんです。

夫人  お前の呼び方が遅いからだらう。

よし  いゝえ、わたくしが御門の外へ出ました時は、もうどこかへ行つてしまつとりました。

夫人  りんは聞えなかつたの。

よし  鈴で御座いますか。さあ、鈴は方々で聞えましたけれど──。

少佐  もういゝ。友吉ともきちを呼べ。

夫人  今のことをおつしやるんですの。

少佐  いゝや。


(長い沈黙)

(馬丁友吉、恐る恐る現る)


友吉  何か御用で……。

少佐  もつとこつちへはひれ……。寝藁は新しいのと取り更へたね。

友吉  はあ。

少佐  それではと、早速だが、お前の決心を聞きたいんだ。

友吉  ……。

少佐  どうだ、おれと一緒に戦地へ行くか。

友吉  (黙つてうつむく)

少佐  副馬の方はまあいゝとして、正馬の方は、あの通り手のかゝる馬で、お前にはやつと馴れたところでもあるし、お前がついて行つてくれゝば、おれは大変助かる。将校の馬を預つてゐれば、日頃こんな時の覚悟も、まあしてゐるだらうとは思ふが、念のために聞いて見るんだ。

友吉  ……。

少佐  それとも、戦争に行くのがこはいか。

友吉  いゝえ、こはくはありません。

少佐  そんなら、どうだ。行くか。

友吉  (また、顔を伏せる)

少佐  兵隊に取られたと思へばなんでもなからう。そのからだで、その若さで、意気地のないことは云ふまいな。

友吉  ……。

少佐  人間はどうせ一度は死ぬんだ。畳の上で死んでも一生は一生、汽車に轢かれて死んでも一生は一生だ。国家の為に、潔よく命を投げ出せば、それだけ死花を咲かせることになるんだぞ。男子の本懐ぢやないか。

友吉  (黙つて頭をさげる)

少佐  給料は倍にするし、お上からも、無論手当は出る。その上、無事に帰れば、従軍徽章も頂戴できるわけだ。

夫人  それに戦争と云つても、普通の兵隊さん見たいに、そんなに危いところへ出ないでも済むんでせう。

少佐  それもさうだ。なに命は大丈夫だよ。(間)こつちへ残して行くものゝ世話は勿論引き受ける。お前に万一のことがあつても、心配はいらん。

友吉  (黙つて頭をさげる)

少佐  無理に引張つて行くわけにも行かんから、お前のいゝやうにしろ。

友吉  ぢや、一つ、かゝあに相談して見ます。

少佐  それがよからう。だが、お神さんは、お前、女だぜ。

友吉  へえ。

少佐  行く方がいゝか、行かない方がいゝかつて云へば、行かない方がいゝつて云ふにきまつてやしないか。お前がかうと決心をして、おれは行くんだと云つてしまへば、それを行くなとは云ふまい。日本の女は、そんな事は云はんよ。

友吉  へえ。でも……。

少佐  でも、なんだ。

友吉  実は、さつきも一寸話をしましたんですが、なにしろあの女も、身よりはありませず、わたくしに行かれつちまふと……。

少佐  だから、あとはこつちが引き受けると云つてるぢやないか。

友吉  どうか一つ、そこんところを旦那からよろしくおつしやつていただきたいんで……あの女は、一度云ひ出したことは後へ引かない女で……。どうも、困つてしまひます。

少佐  すると、お神さんは、お前が行く事を不承知なのか。

友吉  それと申しますのが、かう申しちやなんですが、ああいふいきさつも御座いましたくらゐで、わたくしと致しましてもあとで、どんな短気な真似をされるかもわからないつていふ心配もあるんで……。

少佐  そんなこともあるまい。今日、男といふ男は、みんな、妻子なり、親姉妹なりを残して、敵地に向はうとしてゐるのだ。お前の女房一人が、あとへ残るんぢやあるまい。さう訳がわからんでも困るな。それぢや、おれからよく訊いて見てやらう。

夫人  それや、あん時はね、二人が一緒になれるかなれないかつていふ場合だつたから、死ぬの生きるのつていふ騒ぎをしたのだけれど、今度のことは、また別だわね。あたしが、大事にあづかつて、あげるわ、そんなことがないやうに……。

友吉  へえ、恐れ入ります。何しろ、どうもあの気性で……全く、わたくしの手には……。(頭をかく)

少佐  (笑ひながら)弱音を吐くな。自業自得だ。しかし、なかなか、睦じさうで結構は結構だが……。

友吉  なんですか、ちつとかう、息が詰りさうなんで……。

夫人  (笑ひながら)おやおや、随分ね、この人は……。

少佐  数を呼んで御覧。

夫人  (去る)

少佐  おれを見ろ、おれを……。おれは誰にも相談なんかしはせんぞ。

友吉  へ……。

少佐  お前は、少し、女房の云ふことを聞き過ぎやせんか。

友吉  それが、さうしませんと、あとが五月蠅いもんですから……。

少佐  どう五月蠅いんだ。

友吉  嬶は何時も、あたしのからだはあんたのもの、そのかはりあんたのからだはあたしのものつて、かう申しますんです。

少佐  さうすると、主人はどうなる?

友吉  へえ、そりや、もう、わたくしは、なんですが、まあ、二人つきりの時だと、さういふわけなんで……。夜、こちらからお暇が出ますと、それきり、煙草を買ひに行くことも出来ません。

少佐  果報者だよ、お前は……。(間)しつかりしろ、しつかり……。なんだ、その面は……。


(此の時、夫人が、友吉の妻、数代をともなつてはひつて来る)

(数代、丁寧に会釈をする)


少佐  そんなに改まらなくつてもいゝ。そこで、あらまし話は聞いてゐるだらうが、今度、戦争がはじまつて、師団にも動員が下つたわけなんだが、知つての通り、将校はみんな馬丁を一人連れて行くことになつてゐる。おれは、友吉を連れて行かうと思ふが、お前に異存はないか。

数代  (黙つて友吉の顔を見る)

友吉  (その視線を避けて、顔を伏せる)

少佐  今、友吉に話したところだが、友吉は、お前さへ承知すれば、行つてもいゝと云ふのだ。これが、われわれ兵隊なら、家内に相談も糞もない。それだけまあ、馬丁などは自由なわけだが、日本の男と生れて、この千載一遇の好機会に少しでも国家の為に働きたいと云ふ望みは、これは、誰しも一様なわけだ。

数代  さう致しますと、行つても行かなくても、それは本人の勝手なんで御座いますか。

少佐  まあ、さうだ。

数代  それなら、宿は、お伴を致し兼ねます。

少佐  そりや、どうして……。

数代  別れるのがいやで御座います。

少佐  たゞ、それだけか。

数代  たゞそれだけで御座います。

少佐  もう考へ直してみる余地はないか。

数代  さきほどから、よく考へてみました、実は陸軍の馬丁が戦争に行かなければならないものか、どうか、わたくしどもにはよくわからなかつたので御座います。行かなければならないのなら、またそれだけの覚悟も御座います。ですけれど、只今のお話では、行かなくてもすむといふことで御座いますから、わたくしは行つて貰ひたくは御座いません。

少佐  お前が行つて貰ひたくないと思つても、亭主が行くと云へば仕方があるまい。

数代  そんな筈は御座いません。行くと申す筈が御座いません。二人の間に、話はもうちやんとついてゐるので御座います。

友吉  しかし、なあ、数代、旦那もあゝおつしやるんだしさ……。いろいろ御世話になつた義理から云つても、お伴をしないわけにや行くまいと思ふんだ。

数代  いまさら、あなた、なんですか。お世話になつたことは、またほかの方法で御恩がへしができるぢやありませんか。──あんたが戦争になんか行けるもんですか、人一倍臆病なくせに……。鉄砲の音を聞いただけで腰をぬかすでせう。

友吉  冗談云ふない。そんなこたないさ。それに、馬丁は、危いところへは行かないんだとさ。

数代  あたしがいやだつたら、仕方がないぢやないの。


(長い沈黙)


夫人  そばから余計な口を利くやうだけれど、どうだらう、数や……ほかの場合と違つてあたしらは、自分たちだけのことを考へてはゐられない時なんだからね。お前も一つ決心をしたら……? 友吉だつて世間への顔があるだらうからね。

友吉  それがありますんで……。今日なんかも、隊で、仲間の奴らから、お前行くかつて聞かれましたが、無論行くつて云つてやつたくらゐです。

数代  まだそんなことを云つてるの。さつき、あんた、なんと云つた、あたしに……。

友吉  (ぐつとつまり、妻の顔を見た儘、もぢ〳〵してゐる)

数代  今まで、二人のことでは、いろいろ御心配をかけました上に、かういふ時お役に立たないなんて、まつたく、人でなしとお思ひになりませうが、こればかりは、どうか、御勘弁を願ひます。もつとなんとか、お断りの致しやうも御座いませうが、なまじ作り事を申して、動きの取れない羽目になりますよりもと存じまして、あからさまなところを申し上げます。この人に行かれてしまひましては、わたくしもう生きてゐる甲斐は御座いません……。(急に袖を眼に押しあてる)

少佐  わかつた、もうなにも聞く必要はない。お前は、それで女学校まで行つたと云ふのに、国民の義務と云ふことがわからんと見えるな。しかたがない。いま、わしが、それを教へてるひまはない。友吉も、よくよく運のわるい奴だな。これから、何処へ行つても、肩身のせまい思ひをするんだ。

数代  そのことなら、御心配下さいますな。此の人に肩身の狭い思ひをさせて、わたくしが黙つてはをりません。世間はもつと広い筈で御座います。

夫人  数や。口が過ぎはしないか。

少佐  もういゝから、二人とも、あつちへ行け、そんな奴等と口を利くのも汚らはしい。今日かぎり、主従の縁を切るからさう思へ。

友吉  相済みません。

数代  致し方ございません。その覚悟だけはいたしてをります。御差支へなければ、宿は何処かで仕事の口を見つけ、わたくしは、こちらで、奥様の御手伝ひでもいたしたいと存じてをりましたが、それも御迷惑とあれば、二人ともお暇をいたゞきます。(間)では旦那さま、奥さま、お機嫌よろしう……。さ、あんたも御挨拶をなさい。

友吉  (頭を下げる)

夫人  お前たちは、さういふ風にしてこの家を出て行く気かい。あしたから、お馬の世話は誰がするんだい。

友吉  (妻の方を見ながら)さうだ。明日の朝、鞍は誰が置く……。

少佐  おれが自分で置く。出陣の鞍を置くのに、そんな意気地なしの手をりたくない。(憤然と起つて、奥に去りかける)

数代  (キツとなつてその後を見送る)

友吉  (満身の勇をふるひ起すやうに)旦那……。

少佐  (後をふり返る)

友吉  意気地なしとはなんですか。(声をふるはせ)わたくしは、命なんか惜しくはありません。わたくしも男です。そんな侮辱を受けるわけはありません。

少佐  (故らに微笑を泛べ)よし、意気地なしと云はれて腹が立つなら、お前の根性もまだ腐つてはゐない。もう一晩考へろ。(姿を消す)

夫人  まあまあ、お前も、さうかどを立てない方がいゝ。旦那さまにして見れば、お前の態度を歯がゆくお思ひになるのは当り前さ。それや、お前達の立場は、わかつてゐるよ。あたしは、だから、もつと穏便に、今度のことはお願ひするやうにしたいと思ふの。

数代  なんとおつしやられても、致し方御座いません。たとへこの人が意気地なしでも、わたくしに取つては、かけがへのない大切な夫で御座います、御主人御一人の御機嫌を損じたゞけで、夫の命を拾ふことができれば、こんなうれしいことは御座いません。

夫人  さういふことは、云はなくつてもいゝことだわね。

数代  いゝえ、奥さま方と、わたくし共とは、物を見る眼が違ふので御座います。立派な御身分の方々は、その御身分だけの気高いお心掛けがあるんで御座いませうけれど、さういふ御心掛けは、わたくし共にはわかりません。通用いたしません。わたくし共に取つて、名誉は紙屑と同じで御座います。陸軍の馬丁が、死んで神様に祀られると申せば馬が嗤ひます。

夫人  しかし、お前……。

数代  (夢中で)いゝえ、それだからと申すのでは御座いません。たとへ何百万円といふお金を積んでいたゞきましても、この人を戦争などに出すことはいやで御座います。戦争はおろか、一日別れてゐることさへ、わたくしにはできません。かう申してもおわかりになりますまい。(思ひ出すやうに)一度、二度、三度……別れるといふ悲しみは、もうり凝りで御座います。この人と一緒になつた時、今度こそは、どんなことがあつてもそばを離れまいと決心いたしました。(間)一度目の夫は、急病で、あつといふまに失くなつてしまひました。──この人が病気で斃れたら、わたくしもその後を追ふ覚悟をいたして居ります。(間)二度目の夫は旅先で女をこしらへ、行衛ゆくゑくらましてしまひました。──この人が旅へ出る時は、わたくしもきつとついて行くつもりでをりました。一身同体とまで申します間柄に、どうして別れるなどといふ悲しいことがあるんで御座いませう。きつと、それは、間違つてゐることに相違ございません。死んでも離れないのがほんたうで御座います。──奥さま、わたくしどもが、こんなことを申すのを、きつと可笑しくお思ひになりませう。

夫人  (しんみり)口で云ふだけでなく、それがほんたうに出来る身分だから羨ましいよ。


(この時、襖を開けて、女中のよしが半身を現す)


よし  奥さま、あの、旦那さまがお呼びでいらつしやいます。

夫人  それぢや、まあ、今日は、これで引取るといゝ。御暇をいたゞくにしても、穏やかにね、あとあとのこともあるんだから……。(女中と共に退場)

友吉  あつちへ行かうか。

数代  あんたも、云ふ時には云ふのね。

友吉  当り前さ。侮辱されて黙つてる奴があるかい。主人だと思つてへえへえしてれや好い気になりやがつて……。

数代  いゝぢやないの、なんとでも云はしとけば……。どうせこれから世話になるんぢやなし……。

友吉  おれや、戦争がこはいんぢやねえ。

数代  わかつてるわ。

友吉  だけど、いまいましいな。世間はうるさいからな。

数代  東京にゐなけりやいゝぢやないの。

友吉  馬も可愛いしな。

数代  あたしとどつちが可愛いの。

友吉  (妻の顔を見てにやにや笑ふ)

数代  どつちが可愛いのよ。

友吉  (数代の頬を指で突つつく)

数代  (その手を取り)それ御覧なさい。もう心変りをしちやいやよ。ぢや、きめたわね。(間)さ、はやく何処かへ行きませう。(急に明るい顔になり)大阪へ行かない、大阪へ……。大阪ならあたしの叔父さんがゐるわ……。きつと、どうかしてくれるわ……。ね、そうしませう。さ、はやく……。


(起ち上つて友吉を引き立てようとする。友吉は、なかなか起ち上らない)


──幕──



第二幕


馬丁友吉夫妻の部屋──昼頃


綱で括つた行李が一つと、風呂敷包が二つ、部屋の隅に置いてあり、膳の上に布片がきせてある。

数代が瀬戸火鉢で何か煮物をしてゐる。入口の土間に立つたまゝ、女中のよしがしきりに喋舌つてゐる。


よし  それや、気骨きぼねは折れないさ、旦那さまがお留守だとね。だけど、奥さん一人になつて御覧。なんだかんだつて愚痴を聞かされて……。それだけならいゝさ。やれ淋しいつて云つちや怒られ、やれ便りがないつて云つちやあたられ……そばについてるものこそ、いゝ迷惑さ。あたしや、しばらくお妾さんのうちにゐたことがあるから、よくわかるんだよ。

数代  (うはの空で聞いてゐる。歯が痛むらしい。時々頬に手をあてなどする)

よし  だけどさ、あんたがゐてくれないと、あたし、こまることがあるの。(間)さうさう、今朝、旦那さまと奥さまが、水盃つていふのをなすつたわよ。あの様子を、あんたに見せたかつたわ。

数代  さういふとこが違ふのね。

よし  あたしなんか、あゝいふ時、どうしても泣けちまうね。

数代  奥さん、泣かなかつた。

よし  不思議だね。

数代  ……。

よし  昨夜、そつと泣いたかも知れないよ。奥さまは、でも、あんたが羨ましいつて云つてらしつたわよ。

数代  何時?

よし  さつき……。(間)旦那さまは、もう今夜から、隊の方へお泊りになるんだつて……。

数代  ずつと?

よし  だから、今朝、お別れの水盃をなすつたんだわ。──でも、お出ましになる時は、なんだか、あたしまで胸がつまるやうだつたわ。

数代  ……。

よし  勇しいやうな、悲しいやうな、あたし、万歳つて云ひたくなつたよ……。

数代  もうお昼の支度はすんだの?

よし  あ、忘れてた。あのね、手がすいたら、奥さまが、一寸つて……。

数代  なんだか、工合が悪くつて……。

よし  そんなことないわよ。奥さまはなんとも思つてらつしやりやしないわよ。たゞ、これからどうするつもりだらうつてさう云つて、心配してらしつたわ。

数代  代りがあるまでなんて、いやだわね、馬丁の代りぐらゐいくらでもありさうなものね。男はみんな戦争に行きたいんだつて云ふから……。

よし  戦争もいゝだらうけれど、死にさへしなけれやね。

数代  それより、死ぬか生きるかわからないからいやなの。


(この時、鈴子夫人が現はる)


よし  あら……。只今、さう申したんですけれど……。

夫人  まだ手がすかないの。──急に淋しくなつたから、話に来ておくれよ。

数代  はい。でも……。

夫人  旦那さまも、今朝は、あのとほり御機嫌を直してお発ちになつたんだから、お前も気兼ねをすることはないだらう。今日にでも代りが見つかれば、それでいゝんぢやないか。友吉も、今日は、御用のしをさめだと思つて、いつもよりも甲斐甲斐しく、お馬の口を取つてゐたわ。あれでこそだ。あたしはうれしかつたよ。

数代  恐れ入ります。

夫人  動員完結までには、まだ四五日あるらしいから、それまでに適当な人が見つかればいゝけれど……。お前も、さう、あわてゝ出て行く用意をしなくつたつて、どうせこの部屋は明いてゐるんだし、先々の計画が立つまで、ゆつくりしておいでよ。

数代  有りがたう御座います。

夫人  (よしに)お前、そんなところに立つてないで、早く、お昼の用意をして来ておくれ。

よし  はい、お昼は何にいたしませう。

夫人  昆布の煮たのがまだあつたね。おしやけでも焼いといて貰はうか。

よし  ……(去る)

夫人  御飯なら、うちのをおあがりよ、お冷が一杯あるの。

数代  はい。恐れ入ります。宿が、若しかしたら、お昼に帰つて来るつて申しましたから……。

夫人  今朝、お前、お玄関で泣いてたね。どうして泣いてたの。

数代  あら、奥さま、見ていらしつたんで御座いますか。いゝえ、ね、あの時、何ですか……。旦那さまをお見送りしながら、わたくし、かう、大きな力にうたれるやうな気がいたしましたの。奥さまは、坊ちやまのおつむにお手をおかけになつて、たゞ黙つて、お目をお伏せになりました。お坊つちやまが、いつもの通りに、「行つてらつしやい」つて、元気よくおつしやいますと、旦那さまは、あとをお振り返りになつて、優しく目礼をなさいましたでせう。すると、奥様は、急に坊つちやまをお引寄せになつて、かうお笑ひになりましたわね。

夫人  まあ、詳しく見てたのね。

数代  見てをりましたとも……。(間)奥さま、わたくしは、あの時、自分がほんたうに見すぼらしい女だといふことがわかりました。でも、それは致し方御座いません。わたくしどもには、かうしなければならないといふことがないんで御座いますもの……。

夫人  その方が気楽でいゝわ。

数代  その代り、いつも眼の前は真暗で御座います。一人では歩くことができません。どうかすると、勝気のやうに見えますけれど、あれはたゞ、自分を叱つてゐるだけで御座います。

夫人  しかし、お前ぐらゐしつかりしてゐれば、世の中にこはいものはないよ。たゞ、なんと云つたつて女だからね。友吉は、お前の前だけれど、あゝいふ、どつちかと云へば、人の云ふなりになる人だし、これから先だつて、随分苦労がないとも云へないよ。また、お前一人で思案に余ることがあつたら、何時でも相談をしにおいで。あたしが出来ることなら、なんでもするから……。

数代  さうおつしやつて頂くと、却つて辛う御座います。どうせ不義理をしてお暇を頂くんで御座いますから、いつそ、激しいお小言を浴びながら、御門を出ました方が、幾分でも心が軽いやうな気がいたします。

夫人  それがお前のわるい癖だよ。

数代  いゝえ、奥さま、どうかもうほんとにわたくしたちのことはお気にかけて下さいませんやうに……。

夫人  さう、お前見たいに、人の親切を無にするもんぢやないわ。

数代  さうで御座いますか。わたくしどもはさげすみを受けるだけでは、まだ足らないんで御座いますか。この上、まだ、憐みを受けなければならないんで御座いますか。(急に語調が乱れる)それや、あんまりです、あんまりです……。(泣く)


(この時、友吉がしほ〳〵とはひつて来る)

(夫人に会釈したる後、妻のたゞならぬ顔色を見て、不審らしく夫人の方を見返す)


友吉  どうかいたしましたんですか。

夫人  数はどうかしてゐるの。今度のことでいろいろ気苦労もあるんだらうけれど、あたしが、折角、打ちとけて話をしようと思ふと、なんだか、それを変に取つて……。(数代に向ひ)まあ、もつと心を鎮めて、素直にあたしの云ふことを聞いて御覧。

友吉  こいつは、どうもひねくれてゐて困ります。それに、昨日から、少しばかり気が立つてゐるやうですから……、どうも飛んだ失礼をいたしました。

夫人  いゝえ、あたしはかまはないの、そんなこと……。二人のことで心配してあげたのは、これがはじめてぢやないんだからね。

友吉  全くで……。

夫人  あん時だつて、二人があゝいふ風になつた時だつて、旦那さまの前をいゝやうに取りなしてあげたのは、あたしなんだからね。数や、お前は、あん時、このあたしに云つたことを忘れやすまいね。(間)友吉と一緒になれたら、どんな苦労でもするつて……。それから、かうも云つたね、奥さまの御恩は死んでも忘れませんつて……。いゝえね、あたしは、人に恩なんかきせたくはないよ。たゞあたしの心持が、お前にわからないかと思ふと、少し残念なの。

友吉  はあ、そりやもう、二人で、いつも話し合つてゐることですが、決して、さういふわけぢや御座いません。今度のことにつきましても、全くわたし共の心得違ひだつたといふことが、今になつてわかりましたやうな次第で……。それと申しますのが、今日、隊で、仲間の奴等が、一人残らず御主人の御伴をするといふことを聞きまして、わたくしもたうとう決心をいたしました。

数代  (突然顔を上げて、友吉を見つめる)

友吉  やつぱり、お伴をいたすことになりました。旦那からもお許しが出ました。なに、さう決まれば、なんでもありません。おい、数代、今云つた通り、おれも行くことになつたから、そのつもりで支度をしてくれ。

数代  (黙つて友吉の顔を見てゐる)

夫人  (数代の方に気を兼ねながら)さういふことは、なにかい、数やに相談しないで決めてしまつていゝの。

友吉  なあに、こんなことを、女房に相談するのが間違つてゐました。さあ、支度をしてくれ。

夫人  一体そりや、ほんとなの。それでよけれや、なんにも云ふことはないぢやないか。そいぢや、まあ、ゆつくり別れを惜しむといゝ。あたしは、その間に、お昼をすまして来るから……。(去る)

友吉  (すこしてれ臭さうに)どうして黙つてるんだい。おい、なんとか挨拶をしろよ。(間)おれは、どうしても行かなけりやならないんだ。いや、おれは行きたいんだ。なんにも云はずに、行かしてくれ、なあ、おい、数代、辛抱してくれ。

数代  (夫の顔を見るでもなく、眼を下に落すでもなく、ぼんやり遠くの方を見つめたまゝ、黙りこくつてゐる)

友吉  昨夜あれだけ固い約束をしたのにと思ふかもわからないが、あん時は、おれは、悪い夢を見てゐたんだ。(間)死ぬやうなヘマな真似はしないから、今度だけ行かしてくれ。きつと無事に帰つて来る。帰つて来たら、今まで以上にお前を可愛がらあ……。な、それでもいやか。

数代  ……。

友吉  どうして返事をしないんだい。(間)留守中、奥さんのそばで、気楽に暮してゐてくれ。何も心配はいらない。だつてお前、うちの奥さんを見ろ、奥さんを……。おんなじことぢやないか。

数代  (突然、癇高く)違ふ、違ふ、あれは女ぢやない。自分の夫が、何時帰つて来るかわからないやうな、遠い遠いところへ行くのを、平気で見送れるやうな女が、どうして女と云へるものか。いや、いや、行つちやいや、行つちやいや……。

友吉  だからよ、こつちは、何時でも帰つて来られるぢやないか。病気だつて云へば、何時だつて帰れるんだ。

数代  そんなことまでして行かなくたつていゝわ。(友吉の方に躙り寄り)よくつて、あたしは、あんたが一つ時でも側にゐてくれなけりや、生きて行けない女よ。あたしは、ほかの女と違ふのよ。毎日毎日、生きてるか死んでるかわからないあんたのことを想ひつゞけて、だんだん瘠せて行くあたしのことを考へて頂戴……。いゝえ、それより、あんたが行つてしまつたら、あたしは、すぐに死んでよ、うそぢやなくつてよ。今、こゝで死んで見せるわ。

友吉  おい、おい、冗談云ふのはよせ。

数代  冗談だと思ふの。(間)あたしは、小さい時から苦労に苦労をしつゞけて来たのよ。いまだつて、あんたにわからない苦労があるわ。たゞ、あんたと一緒にゐるだけで、その苦労が苦労にはならないの。あんたの顔を、かうして見てゐるだけで、この世の中に生きてゐたい気がするの。(間)ね、だからさ、後生だから思ひ止つて頂戴。戦争に行くのが偉いのなら、戦争に行かないことだつて偉い筈よ。さうでせう、人を殺さないですむんですもの……。(間)それに戦争に行つて死ぬことなんか、かうして生きてゐることから見れば、人から馬鹿にされ、可哀さうがられて生きて行くことより、どんなに楽だか知れやしないわ。でも、そんなことはどつちでもいゝの。苦しい目にあふのが誰かのためなら、あたしたちは、いくらだつて苦しんで見せるわ、苦しみませうよ、一緒に、二人きりで、人なんか当にしないで……。

友吉  (当惑して天井を見てゐる)

数代  あんたは、だから意気地がないのよ。

友吉  あの馬は、おれが行かないつていふことを、何時の間にか感づいてゐた。今朝、何気なしに人参を持つて行つてやつたら、いつもうまがつて食ふ人参を、鼻の先で押しのけやがる。無理に口の中に突き込まうとすると、歯を食ひしばつて、どうしても口を開けようとしないんだ。やつ、おれを恨んでやがるに違ひなかつたんだ。

数代  そんなことないわよ。おなかが大きかつたのよ。

友吉  いゝや、違ふ。外のものぢやないぜ、人参だぜ。──だから、おれは、冗談に、「行くよ、行くよ、安心しろ」つて云つてやつたんだ。さうしたら、大きな口をあんぐり開けやがつた。


(長い沈黙)


数代  ぢや、あたしが、かうしてゐるから行つて御覧なさい。(友吉の頸に腕を巻きつける)

友吉  お前を連れて行けるといゝんだがなあ……。


(長い沈黙)


友吉  (女の腕と一緒に、なにかの誘惑を振り払ふやうに起ち上る)さ、かうしちやをられない。

数代  (友吉を見すゑながら)でも、なによ、あんたは、戦争に行くことを、さも大事なことのやうに思つてるけど、あんたは、軍人でもなんでもないのよ。たかの知れた馬丁よ。戦争つていふものは、芝居見たいなもので、好い役者だけが手を叩かれるのよ。うちの旦那さん見たいに、勲章を沢山つけて、長い剣を抜いて馬の上から号令をかけるんなら、戦争に行く甲斐があるわ。あんた見たいに、貧弱な恰好をして、馬の後から走つて行くだけなら戦争も糞もあつたもんぢやないわ。(間)おだてられちや駄目よ、調子に乗つちや駄目よ。こつちばかりがお国の為と思つても、肝腎のお国が、目をかけて下さらなけりや、なんにもならないぢやありませんか。

友吉  そんなこと云つたつてしやうがないさ。

数代  どうして、しやうがないの。

友吉  お前にはわからないことがあるんだよ。

数代  なにがわからないの。──さうよ、さうなのよ。あんたは、もう、あたしのことなんか考へてはくれないのね。

友吉  また、そんなことを云ふ。なんべん云つてもおなじことだ。おれはたゞ、世間を狭く渡りたくない、たゞそれだけなんだ。仲間の奴等が、威勢よく出かけて行く。そいつを、おれ一人が、黙つて見てゐるわけに行かないんだ。それぢや、あんまり情ない気がするんだ。お前だつて、これからさき、毎日毎日鬱いでゐるおれの顔は見たくないだらう。どうしたつてさうなる。何処へ行つても、あれは宇治少佐の馬丁だつて云はれるからなあ。

数代  それぢや、どうしても行くつて云ふのね。

友吉  さうさしてくれ、若し、これで、お前がどうあつても行くなと云やあ、おれは生きちやゐられない。

数代  生きちやゐられないつて……。あんた、ほんとに死ぬ気なの、あたしと一緒に死んでくれるの。

友吉  ……。

数代  あんた一人に行かれちまうよりは、その方がよつぽど、あたし、うれしいわ。(間)かうして一緒にゐたつて、何時また悲しい目に遭ふかも知れないんだわ。ほんとにさうだわ。あんたが、さういふ気になつてくれた時こそ、思ひきつて、なんでもできるんだわ。(間)ぢや、そのつもりで支度をするわ。どういふ風にして死ぬか、あんた、考へて頂戴。あんまり苦しまないやうな、……なんか、一と思ひに死ねるやうな工夫はないか知ら……。でもいゝわ、少しぐらゐ苦しくたつて……。どうせ、五分か十分なんだから……。

友吉  下らないことを云ふのはやめてくれ、そんな……そんな馬鹿な……物笑ひだ。

数代  笑ふ奴は、勝手に笑ふがいゝわ。あたし、どうして今まで、そのことを考へなかつたか知ら……。こんなことがなくつても、何時かあんたと別れなければならないつていふ心配で、胸が一つぱいだつたの……。それこそ、御飯もたべられないくらゐだつたの。


(この時、従卒太田が現れる)


太田  まだゐたのか。

友吉  (慌てゝ起ち上り)今飯を食つたところなんだ。これから、服を着かへて、すぐ行かうとしてゐたんだ。

太田  二時に師団司令部集合だから、もうぽつぽつ馬の用意をして置かうぢやないか。三時から武装検査があるしな。

友吉  さうだ。おい、(数代に向ひ)早く、あつちの服を出してくれ。それから、水筒に茶を入れて……。

太田  雑嚢に入れるものは……?

友吉  うん、わかつてるよ。

太田  そいぢや、一と足、先に帰るからな。奥さんから手紙を事づかつた。中を一寸読みたいな。

友吉  ぢや、あんた、先へ行つて旦那の外套を巻いといてくれないか。鞍へつけるんだから……。

太田  よし。お神さん、そいぢや、御機嫌よう。友さんはおれが預かつた。心配はいらないよ。(元気よく出で去る)


(長い沈黙)


数代  (もぢ〳〵してゐる友吉に、険しい視線を向け)それぢや、やつぱり行くのね。

友吉  どうしよう。

数代  どうでも、あんたの好きなやうにしたらいゝぢやないの。

友吉  おれは、お前のいゝやうにする。どうしていゝかわからん。(ぐつたり腰をおろす)

数代  ぢや、あたしは、もう、なんにも云はないから、あんたの気のすむやうにして頂戴。行くならば行くで、機嫌よく、あたしを安心させてから行つて頂戴。行かないなら行かないで、思ひきりよく、あたしを恨まないで、一緒にゐて頂戴。

友吉  お前を安心させるつて、どういふふうにすればいゝんだい。

数代  ……。

友吉  お前のことは決して忘れやしないよ。

数代  それだけ?

友吉  浮気なんか、する気遣ひはなからう。

数代  それだけ?

友吉  帰りにはうんと土産を持つて来らあ。

数代  それだけ?

友吉  出来るだけ度々、便りをするよ。

数代  それだけ?(声がだん〳〵小さくなる)

友吉  長くなるやうだつたら、都合をつけてはやくかへつて来る。

数代  それだけ?(殆ど聞えない)

友吉  さ、そんな事を云つてないで、早く支度をしてくれ。

数代  (黙つて行李の紐を解き、服を出す)


(遠くで進軍喇叭の音が聞える)


友吉  (着てゐる服を脱ぎはじめる)

数代  (涙を押へて)あたし、一寸、奥さんのところへ、お知らせして来るわ。すぐ来るから待つてゝ頂戴。(友吉の顔も見ずに、何物かの後を追ふ如く、よろめきながら出で去る)

友吉  (一時その後を見送つてゐるが、思ひ出したやうに、手早く服を着替へる)


(喇叭の音)

(女中よしが現れる)


よし  たうとう行くことになつたんですつて……。

友吉  おれは、なに、初めからそのつもりでゐたんだ。──あとを宜しく頼むぜ。

よし  なんかお手伝ひしませうか。お神さんは……?

友吉  一寸、奥へ行つてるんだ。あんた、済まないが、その腹巻を取つてくれないか。

よし  (上へあがり、取つてやる)はい。

友吉  (それを腹に巻き)これぢや、少し暑いな。

よし  暑くつたつてしめてらつしやいよ、ひどい汗ね。(手拭で背中をふいてやる)

友吉  もういゝや。

よし  いゝから、ぢつとしておいでよ。

友吉  戦争に行くつていふと、待遇が違はあ……。

よし  なに云つてるの。

友吉  留守中いろいろ世話になるだらうが、ほんとにたのむぜ。あれで人一倍淋しがりと来てるからな。

よし  あんたの方が淋しいんでせう。

友吉  よせやい、おれは、これでも、日本男児だ。女房風情に後髪を引かれて溜るかい。

よし  えらい、えらい。お神さんが聞いたらよろこぶわよ。


(この時、鈴子夫人が「よしや」と呼びながら現れる)


夫人  またお喋舌をしてるね。友吉に、なんにもないけれど、お頭づきで、お膳をこしらへてね……。

友吉  いゝえ、もう、さうしちや、をれません。どうか、そんなことは……。

夫人  いゝよ、まあ、あたしの志なんだから……。

よし  さう致しますと……?

夫人  あゝ。今朝、旦那さまにした通りに……。

よし  はい。(出で去る)

夫人  お神さんは?

友吉  只今、奥さまのところへあがるつて、出て参りましたが……。

夫人  あゝ、来たけれど、すぐ帰つたよ。ぢや、何か買物にでも行つたんだらう。

友吉  あいつには、全く手こずりました。でも、やつと、承知させました。(強ひて笑ひ声を立てる)

夫人  それやねえ、あゝ云つてゝも、なにもかもわかつてるんだから……。


(この時、突然、よしのけたゝましい声が聞える。続いて、よしが、血相を変へて飛び込んで来る。一同その方に向き直る)


よし  奥さま、大変で御座います。

夫人  どうしたの。

よし  (外の方を指しながら)お神さんが、あの、井戸で御座います、奥さま、井戸……。(あとは声が出ない)

夫人  (驚いて外に走り出る)

よし  (後に続く)

友吉  やりやがつたな。(これもその後から走り出ようとするが、何を思つたのか急に部屋に飛び上り、柱につかまつたまゝ、恐怖に満ちた眼を一杯に見開き、声をふるはせながら)うそだよ、うそだよ、おれは行かないよ。行かないつてばさ。えゝい、うそだつて云ふのに、これでもわからんのか……。(殆ど狂乱の体にて、悶え呼ぶ)


──幕──

底本:「岸田國士全集3」岩波書店

   1990(平成2)年58日発行

底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院

   1931(昭和6)年210日発行

初出:「演劇芸術 第一巻第五号」

   1927(昭和2)年91日発行

※第一稿は「太陽 第三十三巻第一号」(1927(昭和2)年71日発行)に掲載されました。

※表題は初出では、「改作 動員挿話」となっています。

入力:kompass

校正:門田裕志

2012年14日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。