福沢諭吉
ペンは剣よりも強し
高山毅



この伝記物語でんきものがたりむまえに────────────


てんひとうえひとをつくらず、

ひとしたひとをつくらず。」

明治めいじのはじめ、「学問がくもんのすすめ」で、いちはやく

人間にんげん自由じゆう平等びょうどう権利けんりのとうとさをとき、

あたらしい時代じだいにむかう日本人にほんじんに、

みちしるべをあたえたひと

それまでねっしんにまなんだオランダをすてて、

世界せかい通用つうようする英語えいごを、独学どくがくでまなんだひと

アメリカやヨーロッパに三もわたり、

自分じぶんでじっさいにたしかめた、

外国がいこくのすすんだ文化ぶんか思想しそうをしょうかいし、

おおきなえいきょうをあたえたひと

上野うえの戦争せんそうのとき、砲声ほうせいをききながら、

へいぜんと講義こうぎをつづけたひと

福沢諭吉ふくざわゆきちは、ながい封建制度ほうけんせいどにならされた人々ひとびと

ざめさせるのは、学問がくもんしかないと、

けわしい教育者きょういくしゃみちをえらびました。

いま、慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく図書館としょかんには、

「ペンはけんよりもつよし。」

のことばが、ラテンかれています。

諭吉ゆきち一生いっしょうは、この理想りそうでつらぬかれました。

日本にっぽん民主主義みんしゅしゅぎかんがえるとき、

わたしたちはいつも、

諭吉ゆきちにたちかえらなければなりません。


1 勉強べんきょうはごめんだ


びんぼうどっくりをさげた少年しょうねん


 なつのはじめのあるのことでした。

 十二、三さいになる少年しょうねんが、九州きゅうしゅう中津なかつ大分県おおいたけん)のまちを、むねをはってあるいていました。こしに大小だいしょうかたなをさしているので、士族しぞく(さむらいのいえがら)のどもとすぐわかりますが、ふるぼけたふろしきづつみをひだりわきにかかえ、ちいさなとっくりをそのにさげています。どうやら少年しょうねんは、まちいものにきたかえりのようでした。

 町人ちょうにんたちは、さも、ふしぎなものをみたといわんばかりに、少年しょうねんのうしろすがたをゆびさして、ささやきあいました。

「おさむらいのが、まっ昼間ぴるま、どうどうと、びんぼうどっくりをさげて、いものにくるとは、おどろいたな。」

「まったくだ。ちかごろは、おさむらいも、ふところぐあいがよくないとみえて、一しょう(一・八リットル)どっくりをさげていにみえるが、はずかしそうにほおかむりをして、しかも、のくれがたとか、よるになってから、いにくるというのが、ふつうだからな。」

「まあ、おさむらいには、士族しぞくとしての体面たいめん(せけんにたいするていさい)があるからな。それを、あのようにどうどうと……いったい、どこのどもだろう。」

 町人ちょうにんたちがはなしている、その少年しょうねんは、じりじりとてりつける太陽たいようにあせばんだのか、ときおり、右手みぎてで、ひたいのあせをふきながら、士族しぞくやしきへかえっていきました。

 やがて、少年しょうねんがたちどまったのは、もんこそありますが、ふるぼけた、そまつなかやぶきやねのいえでした。

「ただいま、かえりました。」

 少年しょうねんが、げんかんからはいると、

「おかえり、諭吉ゆきち。ごくろうだったね。とちゅうで、りあいのひとにあわずにすんだかね。」

と、おかあさんのおじゅんがやさしくむかえました。

「ええ、だれにもあいませんでした。でも、だれかにあったって、わたしはへいきです。自分じぶんかねで、ものをうんですから、すこしもはずかしいことはありません。」

「そうとも、そうとも。よくいってくれました。かあさんは、そのことばをきいて、とてもうれしいんだよ。うちがびんぼうでも、おまえがいじけないでそだってくれるということがね。……そうそう、かえってきてすぐでわるいけれど、たんすがあかなくなったから、ちょっとなおしてもらえないかしら。」

「いいですとも。あかなくなったのは、どのたんすですか。」

 諭吉ゆきちのひとみは、きゅうにいきいきとかがやき、かたなをいつものところにおくと、たんすのある部屋へやにかけこむようにしてはいっていきました。

「このたんすのひきだしなんだけどね。」

 あとからついてきたおかあさんのいうのをきいて、諭吉ゆきちは、そのひきだしのあちらこちらをしらべはじめました。それから、かぎをつっこんで、まわしてみましたが、なかなかあきません。

「これは、かぎがこわれたんですね。くぎでなければ、あかないかもしれません。」

「そうかい。では、くぎをつかって、あくようにしておくれ。」

 おかあさんは、台所だいどころのほうへさっていきました。

 諭吉ゆきちは、くぎをもってきて、そのさきをまげて、かぎあなにさしこんで、あっちにまわしてみたり、こっちにまわしてみたり、いろいろとくふうをこらしました。かおのあたりを、かが四、五ひき、うるさくとんでいるのをでおいはらいながら、かんがえこんでいます。両足りょうあしをかわりばんこにあげているのは、かにさされないためでもありますが、便所べんじょにいきたいのをがまんしているためでもありました。それほど、ひきだしをあけるのにいっしょうけんめいになっていたわけです。

 そのうち、ひきだしがすっとあきました。

「おかあさん、あきましたよ。」

といったとたん、こらえていることができなくなったのでしょう、諭吉ゆきちはバタバタと便所べんじょへはしりました。


なんだ、いしころじゃないか


 ところが、そのとき、にいさんの三之助さんのすけが、ほご(ものをかきそこなって、不用ふようになったかみ)を部屋へやいっぱいにひろげて、整理せいりをしていました。

 いつもなら諭吉ゆきちは、便所べんじょへいくのに、その部屋へやをとおらないのですが、いまはいそいでいるものですから、近道ちかみちをして、つい、ほごをふんでしまったのです。すると、

「こりゃ、まてっ、諭吉ゆきち。」

と、にいさんがおおきなこえでしかりつけました。

「おまえは、がみえぬのか。これをみなさい。なんとかいてある。奥平大膳大夫おくだいらだいぜんのだいぶと、とのさまのおまえがかいてあるではないか。」

と、えらいけんまくです。八つ年上としうえにいさんのいうことですから、しかたがありません。諭吉ゆきちは、

「ああ、そうでございましたか。でも、わたしは、つい、しらなかったものですから。」

と、いいわけをしました。

「しらなかったで、すむか。があればみえるはずだ。とのさまのおまえをあしでふむとは、なんたることか。臣子しんしみち(けらいや、のまもるべきこと)をわきまえない、ふこころえものだぞ、おまえは。」

「わたしは、とのさまをあしでふんだわけではありません。たまたま、わたしのふんだほごに、とのさまのおまえがかいてあっただけのことです。」

「だまれっ、とのさまのおまえのかいてあるものを、あしでふみつけたことは、とのさまをふみつけたとおなじことだ。お父上ちちうえきておられたら、これをなんといわれるか、かんがえてみるがよい。」

 ごろは弟思おとうとおもいのにいさんが、ほんとうにかんかんになっておこっているのです。諭吉ゆきち便所べんじょにはやくいきたいので、いまは、あやまるよりほかに方法ほうほうがないとおもいました。

「これは、わたしがわるうございました。これからはをつけますから、かんにんしてください。」

と、おじぎをしてあやまり、いそいで便所べんじょにいきました。やっと、ときはなされたような気持きもちになりました。

 しかし、がおちついてくると、にいさんのことばには、なっとくのできないものがあります。

(なんだ、とのさまのあたまをふんだというのではない。ただ、をかいてあるほごをふんだだけのことだ。かみうえなど、かまうことはないじゃないか。それを、にいさんはあんなにおこったりして……。)

と、諭吉ゆきちはふまんにおもい、そして、かみうえ文字もじを、ただたいせつにするということに、うたがいがわいてきました。

 にいさんがいうように、とのさまののかいてあるほごをふみつけてわるいのなら、かみさまのまえのかいてあるおふだをふんだら、どうなるだろうか。こうかんがえた諭吉ゆきちは、さっそく、そのかみだなから、おふだを一まいとって、こっそりあしでふんでみました。ところが、べつにかわったことはおこりませんでした。

(うん、なんともない。これはおもしろいぞ。よし、こんどは、便所べんじょにもっていって、ためしてみよう。)

 おもいきって、便所べんじょなかへおとしてみました。なにごとかおこったら、すぐとびだせるように用意よういして、こわさのために手足てあしのふるえるのをがまんして、じっとようすをみていました。しかし、やはりなにごともおこりません。

(そうれ、みろ。にいさんがよけいなことをいってしかったが、あんなことをいうのはおかしいんだ。)

と、諭吉ゆきちはあんしんもし、また、かたくしんじることができたので、とくいにもなりました。

 しかし、こればかりは、にいさんにはもちろん、おかあさんにもねえさんにもはなせません。はなせば、きっとしかられるにちがいありませんから、一人ひとりでそっと、自分じぶんこころなかにしまっておきました。

 諭吉ゆきちは、にいさんのいうことになっとくがいかず、それをそのままにしておかずに、じっさいにためしてみて、自信じしんをえたわけでした。すると、もっと、いろいろなことをためしてみたくなりました。

 諭吉ゆきちのおじさんのいえにわのかたすみに、おいなりさんをまつったちいさなほこらがありました。それを、大人おとなたちは、しんみょうなかおつきでおがんでいますが、いったい、おいなりさんの正体しょうたいはどんなものか、それをしりたくてたまりません。しかし、大人おとなたちは、かみさまの正体しょうたいをみるなどということは、だいそれたことで、ばちがあたってがつぶれたり、あしがまがってしまうぞ、とおどかすばかりで、諭吉ゆきちによくわかるようなせつめいをしてくれません。そこで、

(よし、ぼくがみてやろう。)

と、ある、あたりにひとのいないのをみすますと、いなりのほこらのとびらを、そっとひらいてみました。おっかなびっくりであけたのですが、そのとたんに、

「なあんだ、いしころじゃないか。」

と、おもわずこえをだしたほどでした。ほこらのなかには、なんのへんてつもないいしころが、一つはいっているだけではありませんか。

 みたところ、みちばたにころがっているいしころと、ちっともかわったところはありません。これに、なにかとくべつにかみさまのちからがやどっているのでしょうか。もし、そうだとすれば、このいしころをほうりだして、そのへんにころがっているべつのいしをほこらにいれたら、どんなことになるでしょうか。大人おとなたちは、にせのおいなりさんをありがたがらなくなるでしょうか。

 諭吉ゆきちは、それをためしてみるために、ほこらのいしをとりかえておきました。

 べつだん、なんのかわったこともおこりません。それどころか、あくるあさ、おいなりさんをみにいくと、近所きんじょのおばあさんが、おみきとあぶらあげをそなえて、なにやらくちなかでぶつぶつとなえながら、しんみょうにおがんでいるではありませんか。

(あっはっはっ。ばかなおばあさんだな。ぼくのれたいしころに、おみきとあぶらあげをあげておがむなんて……。)

と、諭吉ゆきちは、おかしさをこらえて、そのをたちさりました。

 けれども諭吉ゆきちは、このことを、だれにもはなしませんでした。はなせば、しかられるにきまっているし、自分じぶんでも、けっしてよいことをしたとはおもっていなかったからです。それでも、このいたずらによって、かみさまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭吉ゆきちははっきりとしることができました。


勉強べんきょうなんて、だいきらい


 諭吉ゆきちは、このように、自分じぶんでなっとくのできないことについては、自分じぶんでじっさいにためしてみるという、しっかりした少年しょうねんでした。おまけにさきがきようなので、いえではたいへんちょうほうがられていました。

 いどにものがおちたといえば、どういうふうにしてあげたらよいか、その方法ほうほうをかんがえだして、わけなくひきあげました。しょうじをはることなど、うまいもので、いえのしょうじはもちろん、しんるいからたのまれて、はりにいくこともありました。げたのはなおもすげれば、たたみばりをってきて、たたみのおもてがえまでやりました。ですから、ひまさえあれば、のきれをけずって、なにかをつくっていました。

 あのおいなりさんの正体しょうたいをみてからも、諭吉ゆきち生活せいかつには、べつだんかわったことがありませんでした。

 一ねんたって、またなつがやってきました。

 ある、おかあさんがせんたくをしようとして、たらいをもちあげると、たががゆるんでいたのでしょうか、ばらばらにこわれてしまいました。あたらしいたらいをうほかないとおもわれました。しかし、諭吉ゆきちは、このばらばらにこわれたたらいをなおすやくをひきうけました。

 たけをわって、たがのわをつくるのは、たいへんむずかしい仕事しごとですが、諭吉ゆきちはいろいろとかんがえて、とうとう、もとどおりのたらいになおしてしまいました。自分じぶんながら、よくやれたものだと、いささかとくいになって、

「どうです、おかあさん。こんなにりっぱになりましたよ。みてください。」

といいました。

 おかあさんやねえさんはおおよろこびでしたが、にいさんは、あまりよいかおをしません。

諭吉ゆきち、たらいのたがをなおすのもよいけれど、すこし勉強べんきょうをしたらどうだ。さむらいのが、をならわず、まるで職人しょくにんがやるようなことばかりしているのは、みっともないぞ。」

 せっかく、いい気持きもちになっているところへ、このようにきびしくいわれたので、諭吉ゆきちはむっとしました。

にいさんは、わたしに勉強べんきょうしろというんですか。いやなことだ。勉強べんきょうなんて、わたしはだいきらいです。」

「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」

「そうですね。まあ、日本にっぽん一の大金持おおがねもちになって、おもうぞんぶんおかねをつかってみたいものですね。」

「なにっ、大金持おおがねもちになりたいだと? 諭吉ゆきち、おまえは、それでもさむらいのか。さむらいのというものは、おかねもうけなどかんがえてはならんぞ。おまえは、まだちいさかったからおぼえてもいまいが、お父上ちちうえはな、さむらいのかねかんじょうなどならうものじゃないといって、わたしがかよっていたならいの先生せんせいが、かけざんのをおしえたら、そんな先生せんせいのところへどもをあずけられないといって、おこられたことがあるくらいだ。お父上ちちうえは、りっぱな学者がくしゃだった。そのをひいたおまえが、勉強べんきょうはだいきらいだなんていって、はずかしいとおもわぬか。」

「わたしは、勉強べんきょうがきらいなんですから、しかたがないじゃありませんか。それに、さむらいのがおかねのことをいって、どうしてわるいんですか。うちだって、もっとおかねがあったら、どんなにいいか。にいさんだって、こころなかでは、そうおもっているくせに。」

「へりくつをいうな。おまえのさきざきのことをかんがえて、勉強べんきょうするようにすすめてやっているのに、おまえは、それがわからんのか。なんというばかものだ。そこへすわれ、お父上ちちうえにかわって、おまえのしょうね(こころね)をたたきなおしてやるから。」

 にいさんは、そばの木刀ぼくとうをとって、諭吉ゆきちのほうへ、あらあらしいあしどりでつめよりました。このとき、

「おまちなさい、三之助さんのすけっ。」

と、おかあさんが、なかにわってはいりました。

兄弟きょうだいげんかはいけません。諭吉ゆきち勉強べんきょうぎらいは、かあさんにもせきにんがあります。いえがまずしいものだから、つい、諭吉ゆきちいえだすけばかりをしてもらっていました。諭吉ゆきちには、かあさんから勉強べんきょうするようにいいきかせますから、このはかんにんしてやっておくれ。」

 木刀ぼくとうをもってたっているにいさんのあしもとに、おかあさんはきちんとすわって、あたまをたたみにすりつけんばかりにして、たのみました。にいさんも、こしをおろして、木刀ぼくとうをかたわらにおき、おかあさんのまえに、だまってあたまをさげていました。おかあさんのうしろには、諭吉ゆきちがおなじように、あたまをさげていました。


おんなこじきをいたわるおかあさん


 それから二週間しゅうかんもたったでしょうか。よくはれたのおひるちかくに、着物きものはぼろぼろ、かみはぼうぼうのおんなこじきが、諭吉ゆきちいえもんそとにたち、はいろうか、はいるまいかと、ためらっていました。それを、せんたくものをほしていた諭吉ゆきちのおかあさんが、ざとくみつけました。

「まあ、おチエじゃないか。ひさしぶりだね。さあ、こちらへおはいり。」

と、にわのほうへよびいれました。おチエはすなおににわのほうへはいってきましたが、右手みぎてあたまをなんべんもかいています。

「おや、おチエは、また、しらみをわかしたとみえるな。さあ、そこへおすわり。わたしがとってあげるから。」

と、にわくさうえにすわらせ、

諭吉ゆきちや、ちょっときて、てつだっておくれ。」

と、土間どまぎれをけずっている諭吉ゆきちこえをかけました。諭吉ゆきちは、すぐにでてきましたが、

「ああ、また、しらみたいじですか。おチエは、からだがくさいから、いやだなあ。」

と、はなをおさえながらいいました。

 おかあさんはいつも、おチエのしらみをとってやるのでした。そのとったしらみを、庭石にわいしうえにおきます。しらみははいだそうとします。それを、小石こいしをもってつぶすのが、諭吉ゆきち役目やくめでした。諭吉ゆきちは、こればかりは、きたなくて、きたなくて、むねがわるくなるようでした。でも、おかあさんのいいつけなので、いつもがまんして、てつだいました。

 おチエは、中津なかつまちでは、だれからもばかにされていました。それなのに、諭吉ゆきちのおかあさんは、士族しぞくとしての身分みぶんなどにこだわらず、よくおチエのめんどうをみてやるのでした。

「まあ、こんなに、しらみがうようよわいていては、おチエもかゆかったろうね。これからは、かみをよくあらうようにして、しらみをわかすんじゃないよ。」

と、まるでおさないどもにでもいうように、おチエにおしえさとしながら、しらみをつぎつぎにとります。諭吉ゆきちも、いそがしくしらみをつぶします。

 おチエは、さもうれしそうに、ときおり、にたっとわらってみせています。そのうち、あたまがかゆくなくなって、気持きもちがよくなったのか、おチエは、ねむたそうに、こっくりをはじめました。

「さあ、そっとしておいてやりましょう。諭吉ゆきち、おチエのかおをみてごらん。よいゆめでもみているのか、うれしそうなかおをして、まるでほとけさまみたいじゃないか。」

と、おかあさんがいいました。諭吉ゆきちは、

「ええっ。」

とおどろきましたが、そういわれて、おチエのかおをみると、なるほど、おかあさんのいうことがわかるような気持きもちがしました。

 これまでおんなこじきをいたわるおかあさんを、ふうがわりなおかあさんだとおもっていたのですが、人間にんげんは、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、

「おかあさんはえらいな。」

と、あらためておかあさんをそんけいしたくなりました。

諭吉ゆきちや、かあさんは、このあいだから、おまえにいってきかせようとおもっていたことがあります。おまえは、にいさんに、なんになるつもりだときかれて、大金持おおがねもちになりたいとこたえましたね。けれど、にいさんのいわれるように、勉強べんきょうはやはりしてもらいたいとおもいます。なくなられたおとうさまは、おまえをおぼうさんにしたいといわれていたんですよ。」

「えっ、わたしをおぼうさんにするって、ほんとうですか、おかあさん。」

「ほんとうですとも。それには、すこし、わけをはなさなければ、おまえには、わからないかもしれないが……。」

 こういって、おかあさんがはなしてくれたのは、つぎのようなことでした。


とうさんのえがいたゆめ


 諭吉ゆきちのおとうさんは、福沢百助ふくざわひゃくすけといい、中津なかつのとのさまのけらいでした。ひじょうにしょうじきで、まじめなひとであり、また、学問がくもんのすきな、すぐれた漢学者かんがくしゃでした。けれども、身分みぶんがひくいために、つまらない役職やくしょくにがまんしていなければなりませんでした。

 それは、江戸幕府えどばくふのおわりにちかいころでしたが、そのころの日本にっぽん社会しゃかいは、まだ、さむらいがいちばんえらいとされていました。町人ちょうにんやひゃくしょうたちは、いつも、さむらいにいじめられていました。

 さむらいのいえまれたものは、どんなにつまらない人間にんげんでもさむらいになり、いばることができました。町人ちょうにんやひゃくしょうのどもは、いくらすぐれた人間にんげんでも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいのなかでも、身分みぶんのたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身分みぶんのひくいさむらいのは、身分みぶんのたかいさむらいのよりうえ役目やくめにつくということは、ゆるされませんでした。

 そんなわけで、諭吉ゆきちのおとうさんは、りっぱなひとでしたが、つまらない役目やくめにしか、つくことができませんでした。

 中津なかつのとのさまは、大阪おおさか堂島どうじまにくらやしきをかまえていました。このくらやしきは、どこのとのさまももっていたもので、自分じぶんくにでとれるこめや、名産めいさん特産とくさん品々しなじなを、このくらやしきにおくってきて、それを大阪おおさか商人しょうにんりわたして、自分じぶんくに財政ざいせいをまかなうことになっていました。

 諭吉ゆきちのおとうさんは、そのくらやしきにつとめて、回米方かいまいかたというやくについていました。回米方かいまいかたというのは、このくらやしきにおくりこまれてきたこめはりのばんをしたり、商人しょうにんったりする仕事しごとで、ずいぶん、せきにんのおもい役目やくめでした。けれども、そのころのさむらいは、かたなをつかうようなやくにつくものはだいじにされますが、おかねのかんじょうなどをする役目やくめのものはみさげられていました。この回米方かいまいかたもまた、みさげられる役目やくめだったのです。

 諭吉ゆきちは、そのおとうさんのすえっとして大阪おおさかまれました。いちばんうえにいさんの三之助さんのすけで、そのしたに三にんのねえさんがありました。おんなが三にんつづいたあとに、おとこまれたのですから、おとうさんはおおよろこびでした。

「おまえがまれたときは、やせてはいたけれど、ほねぶとで、じょうぶそうなおおきなあかちゃんだったものだから、さんばさんが、『ちちをたくさんのませれば、りっぱにそだちますよ。』というのをきいて、おとうさまは、たいへんおよろこびになってね、『これはよいだ。とおか十一になったら、おてらへやって、りっぱなおぼうさんにしよう。』とおっしゃったのですよ。そののちも、くちぐせのように、『おぼうさんにしたい。』とおっしゃっていました。

 ところが、おまえがかぞえどしで三つのときに、おとうさまはなくなられました。それで、かあさんは、おまえたちをつれて、中津なかつへかえってきたわけだけどね。もし、おとうさまがきておられたら、おまえは、いまごろは、どこかのおてらぞうさんになっているところだよ。」

と、おかあさんがいいました。

「でも、わたしは、おぼうさんはきらいです。お父上ちちうえは、どうして、わたしを、おぼうさんにしようとなさったのですか。」

「さあ、それは、かあさんにも、よくわかりませんがね。まあ、りっぱなおぼうさんになるには、勉強べんきょうをうんとしなければなりません。おとうさまは、学問がくもんのすきなかたでしたから、おまえに勉強べんきょうをしてもらいたかったのじゃないかとおもいます。どうだろ、おぼうさんになっては……。」

「おぼうさんになるのだけは、かんべんしてください。そのかわりに……。」

「そのかわりに?」

勉強べんきょうをします。」

 諭吉ゆきちのしんけんなかおつきをみて、おかあさんは、いかにもうれしそうに、にっこりとしました。

「さあ、それでは、おチエがまもなくをさますでしょう。おにぎりでもつくってやることにしましょう。わたしたちも、お食事しょくじをしなくてはならないしね。」

 気持きもちよさそうにひるねをしているおチエのかおをみながら、おかあさんは、台所だいどころのほうへはいっていきました。あとにのこった諭吉ゆきちは、おぼうさんにならずにすんだので、ほっとしました。

 勉強べんきょうをすることは、このあいだ、にいさんからいわれて、なるほどとおもい、自分じぶんでも、やらなければならないな、とかんがえるようになっていたので、それほどにはならなかったのです。勉強べんきょうなんてだいきらいだといっていた諭吉ゆきちが、すすんで勉強べんきょうするといいだしたことを、おかあさんからきいて、にいさんはとてもよろこびました。

 といっても、いまのような学校がっこうはありませんから、勉強べんきょうするといえば、ちかくにあるじゅく(むかしの学校がっこう)にかようほかありません。そこへかよって、漢字かんじがいっぱいつまった中国ちゅうごくほんをならうのです。それを漢学かんがくといいました。生徒せいとは、七、八さいのちいさなから十三、四さいまでのものばかりで、諭吉ゆきちがいちばん年上としうえですから、たいへんきまりがわるいことでした。けれども、けんのつよい諭吉ゆきちは、

「なあに、いまにみろ、みんなにおいついてやるから。」

と、こころをふるいたたせて、むちゅうで勉強べんきょうにはげみました。そのため、みるみるうちに、おなじとしごろのどもたちにおいつき、やがて、そのどもたちをおいこしてしまいました。

 じゅくは二、三かい、かわりましたが、そのなかで、いちばんたくさんほんをならったのは、白石常人先生しらいしつねひとせんせいでした。漢学かんがくがおもでしたが、諭吉ゆきち歴史れきしがすきで、すきなほんは、何回なんかいもよみ、暗記あんきしてしまうほどでした。

 十五、六さいごろになると、諭吉ゆきちは、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身分みぶんのちがいということは、どもどうしのなかにもあったからでした。だい一に、ことばづかいがちがうのです。諭吉ゆきちたちしたっぱのいえのものは、身分みぶんうえいえにむかっては、

「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」

と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、

「きさまは、ああいった、こうしろ。」

といったちょうしです。

 じゅくのせいせきは、諭吉ゆきちのほうがうえですし、からだもつよくしっかりしていながら、あたまがあがりません。それは、おやいえがらや身分みぶんがちがうためにできたわけへだてでした。それが、諭吉ゆきちにはくやしくてくやしくてたまりません。すると、おとうさんが、自分じぶんをおぼうさんにしようとした気持きもちがわかってくるようでした。

 諭吉ゆきちのおとうさんは、学問がくもんのあるりっぱなひとでしたが、身分みぶんがひくいために、つまらない役目やくめにがまんしていなければなりませんでした。ところが、おぼうさんだけは、出世しゅっせするみちがあったのです。たとえ、さかなのむすこや、ひゃくしょうのであっても、いっしんふらんに勉強べんきょうし、しゅぎょうをすれば、えらいおぼうさんになるみちがひらけていました。そうなれば、さむらいはもとより、もっとうえにいるとのさまや将軍しょうぐんにも、せっきょう(ときおしえること)をすることができますし、とうとばれ、うやまわれもしたのです。

 おとうさんは、そこにをつけて、

どもに、自分じぶんとおなじように、いきのつまりそうにきゅうくつで、ふこうな一しょうをおくらせたくない。もってまれたさいのう⦅まれつきのちから⦆を、のびるだけのばさせてやりたい。)

 きっと、そうかんがえられたのだ、と諭吉ゆきちはおもいました。

(おお、そうだったのか。それにがつけば、もっとはやく勉強べんきょうにとりかかるのだったのに。これはぼやぼやしておれないぞ。だが、わたしがおぼうさんになれば、わたし自身じしんはすくわれるかもしれない。けれども、おなじようなひとがせけんにはたくさんいるのだ。それらの人々ひとびとのふこうをほうっておくわけにはいかない。

 いちばんだいじなことは、このようなふるいおきてや、わるいならわしを、一にちもはやくうちやぶることだ。封建制度ほうけんせいどをなくすことだ。封建制度ほうけんせいどこそ、おとうさんのかたきだ。にくいにくいかたきだ。)

と、諭吉ゆきちは、はっきりかんがえるようになりました。


中津なかつまちからでていきたい


 ところが、封建制度ほうけんせいどというものは、ながいあいだにきずきあげられたものですから、ちっとやそっとのちからでくずれるものではありません。そのころの日本にっぽんは、どの土地とちも、このふるいおきてでおさめられていましたが、とりわけ、九州きゅうしゅうのいなかである中津なかつは、それがつよいのでした。

 ですから、このまちをとびだして、すこしでも自由じゆうなところにいかなければ、一しょう、このままでおわってしまう、と諭吉ゆきちはしみじみとかんがえるようになりました。

 にいさんの三之助さんのすけは、おとうさんのあとをついで、したっぱの役人やくにんになっていました。いとこたちも、仕事しごとについているものはしたっぱの役人やくにんばかりでした。三、四にんあつまると、身分みぶんのたかいいえのむすこが、たいしたちからもないのに、よいやくについていばるとか、自分じぶんたちは、ちからがあっても、どうにもならぬのだ、とふへいをもらしあいました。

 諭吉ゆきちも、そのふへいにはおなじおもいでしたが、ぐちのいいあいになったのでは、いみのないことだとおもいました。そこで、こういうのでした。

「まあ、そんなはなしはやめようじゃありませんか。この中津なかつにいるかぎりは、なんべん、そんなことを、ぐずぐずいっても、やくにたちませんよ。ふへいがあったら、でていくことですね。でていかないのなら、ふへいをいったってはじまりませんよ。」

「いったな、諭吉ゆきち。ばかにおおきなくちをきくではないか。それなら、きみは、中津なかつをでていくというのか。」

「さあ、それは、なんともいえませんがね。」

 あまり、はっきりしたことをいえば、どんなうるさいことがおこるかもしれませんから、諭吉ゆきちはことばをにごしました。しかし、このころから、こころなかでは、中津なかつからでていくことを決心けっしんして、その決心けっしんを、なんとしてでも実行じっこうしようと、おもいさだめました。

 そうして、ひそかにじゅんびをはじめたのでした。ちょうど、白石先生しらいしせんせいのところでいっしょに勉強べんきょうしている生徒せいとなかに、諭吉ゆきちよりももっとまずしいひと二人ふたりいました。その二人ふたりは、あんまを内職ないしょくにして、勉強べんきょうしているのでした。

 そのことをきいて、諭吉ゆきちは、

(これは、よいことをきいた。自分じぶんも、そのうち中津なかつからとびださなければならないが、あんまを内職ないしょくにすれば、にいさんからおかねをだしてもらわなくてもすむ。)

 そうおもって、さっそく、その二人ふたりに、あんまをおしえてもらい、しきりにけいこをしました。もともと、さきがきようなので、すぐこつをおぼえ、おかあさんをじっけんのあいてにしました。

白石先生しらいしせんせいのところでは、学問がくもんばかりおしえるのかとおもっていたら、あんまのやりかたもおしえてくださるのかね。ああ、いい気持きもちだ。諭吉ゆきちのうでまえは、なかなかたいしたものだよ。」

と、お母さんはおおよろこびです。

 もとより、おかあさんは諭吉ゆきち中津なかつをとびだそうとしていることをしりません。けれども、諭吉ゆきちは、そののくるのを、じっとまっていたのでした。

 そうして、諭吉ゆきちがかんがえていることのあらわれるが、にみえないところで、すすんでいました。時代じだいおおきくうごいてきていたのです。


2 ほこりたかき書生しょせい


西洋せいようのまど、長崎ながさき


 諭吉ゆきちのまちのぞんでいたときが、やがておとずれました。それは、諭吉ゆきちが二十一さいとなった、安政あんせいがん(一八五四)ねんがつのことでした。

 そのまえのとしの六がつに、アメリカから、ペリーが軍艦ぐんかん四せきをひきいて浦賀うらが神奈川県かながわけん)にやってきて、

くにをひらいて、ぼうえきをしようではないか。」

と、はげしくせまりました。いやだというなら、大砲たいほうをうちこんでも、うんといわせるといういきおいでした。これは、江戸幕府えどばくふにとっては、たいへんむずかしいもんだいでした。

 というのは、江戸幕府えどばくふは、それまで、およそ三百ねんちかくのあいだ、外国がいこくとのつきあいをせず、品物しなもののとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世界せかい国々くにぐにのようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国さこく」といいます。つまり、くにをとじて、外国がいこくをしめだしてしまったわけでした。ただ、中国ちゅうごくとオランダとだけは、長崎ながさきでぼうえきをすることがゆるされていました。

 なぜ、幕府ばくふくにをとざしたかといいますと、それは、キリストきょう日本にっぽんにはいってくるのをおそれたからでした。中国ちゅうごくとはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリストきょうくにではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリストきょう日本にっぽんへひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました。

 ところが、こんど、キリストきょうをしんずるアメリカが、日本にっぽんくにをひらかせて、自由じゆうにぼうえきをやろうといってきたのです。こまった幕府ばくふは、ペリーのさしだしたアメリカ大統領だいとうりょうからの手紙てがみだけをうけとりました。ペリーは、へんじは一ねんのちにもらうからといって、かえっていきました。

 さあ、それからがたいへんでした。くにをひらこうというかんがえのひとと、外国人がいこくじんはみなおいはらえというかんがえのひとと、日本にっぽんは二つにわかれました。しかも、京都きょうと天皇てんのうのがわは、くにをひらきたくないかんがえだったので、幕府ばくふは、外国がいこくとのいたばさみになったかっこうでした。

 でも、ぐずぐずしてはいられません。一ねんたったら、ペリーがまたやってきます。もしも、「アメリカのいうとおりにはできない。」というへんじをすれば、軍艦ぐんかんから大砲たいほうをうってくるかもしれません。そこで、幕府ばくふは、品川しながわのおきに、砲台ほうだい大砲たいほうをすえたじん)をつくって、江戸えど(いまの東京とうきょう)のしろをまもろうとしました。そのためには、砲術ほうじゅつ大砲たいほうのつかいかた)をまなばなければならないと、やかましくいわれはじめました。

 あちこちのとのさまたちのあいだでも、けらいに砲術ほうじゅつをまなばせることがはやってきました。もちろん、中津なかつにも、このことがつたわってきました。人々ひとびとは、にわかに砲術ほうじゅつというものにこころをむけはじめました。

 その砲術ほうじゅつをまなぶには、オランダからまなぶよりほかありません。それには、どうしてもまずオランダ勉強べんきょうして、オランダでかいたほんがよめるようにならなければなりません。

 あるにいさんの三之助さんのすけが、諭吉ゆきちをよんで、いいました。

「どうだ、諭吉ゆきち。オランダ勉強べんきょうして、原書げんしょ外国語がいこくごでかかれたほん)をよんでみるはないか。」

 いきなり、こんなことをいわれたので、諭吉ゆきちは、をまるくしました。それに、原書げんしょということばははじめてきいたことばなので、

「その原書げんしょっていうのは、なんですか。」

とききかえしました。

「オランダでかいたほんのことだよ。日本語にほんごにも、かなりほんやくされているけれども、だいじなところだけをみじかくかいたり、ときには、まちがってほんやくしたところがあるそうだ。だから、砲術ほうじゅつをほんとうにしるには、自分じぶんで、その原書げんしょをよまなければならないんだ。」

「ずいぶんむずかしいんでしょうね。」

「それは、むずかしいにきまっているさ。けれども、原書げんしょをよむことができれば、ほんとうのことがわかるからおもしろいぞ。どうだ、やってみないか、諭吉ゆきち。」

「やりましょう。どうせ、ひとのよむものなら、横文字よこもじであろうが、なんであろうが、やれないということはないでしょうから。」

 諭吉ゆきちけずぎらいな気持きもちが、むくむくと、むねのなかにわきあがって、そういわせました。

「そうだとも。おまえなら、そのにさえなれば、きっとやれるとおもうよ。」

と、にいさんは、にっこりわらいました。

 けれども、中津なかつには原書げんしょもなければ、おしえてくれる先生せんせいもありません。オランダのことばを勉強べんきょうするには──それを蘭学らんがくといっていました──、長崎ながさきへいかなければなりません。長崎ながさきだけが、そのころの西洋せいよう文明ぶんめいがながれこむ、一つのまどのようなところだったのです。

 さいわいなことに、にいさんが、役所やくしょ用事ようじ長崎ながさきへでかけることになったので、諭吉ゆきちもいっしょにいくことになりました。

中津なかつからとびだしたい。)

という諭吉ゆきちのきぼうは、こうしてかなえられたのでした。

 数日すうじつののち、長崎ながさきについた諭吉ゆきちは、桶屋町おけやちょう光永寺こうえいじというてらにいきました。ちょうどそのころ、中津なかつ家老かろう大名だいみょう小名しょうみょうのけらいのちょう)の奥平壱岐おくだいらいきというわかいさむらいが、砲術ほうじゅつ研究けんきゅうのためにやってきて、ここにとまっていたからです。それで、このひとにたのんで、おてらにやっかいになりましたが、半年はんとしほどのちには、やはり壱岐いきのせわで、砲術研究家ほうじゅつけんきゅうか山本物次郎やまもとものじろうというひといえで、はたらきながら、オランダの学問がくもんをまなぶことになりました。

 ところが、山本先生やまもとせんせいがわるくて、ほんをよむことが不自由ふじゆうなので、諭吉ゆきちは、なかのうごきなどについて、いろいろな先生せんせいがたの漢文かんぶんでかいたものをよんであげたり、手紙てがみをかわりにかいてあげたりしなければなりません。また、山本先生やまもとせんせいにはむすこが一人ひとりありましたが、その漢文かんぶんをおしえる家庭教師かていきょうしやくも、仕事しごとの一つでした。

 それから、山本先生やまもとせんせいいえはくらしむきはおおきいのですが、びんぼうで借金しゃっきんがあるものですから、そのいいわけをしたり、ときにはおかねをかりにいかなければなりません。下男げなんおとこ使用人しようにん)が病気びょうきになれば、みずくみもしました。女中じょちゅうおんなのおてつだいさん)にさしつかえがあれば、台所だいどころのてつだいもしました。ふきそうじはもちろん、先生せんせいがふろにはいられると、せなかをながしてあげたり、きもののすきなおくさんのっているいぬやねこのせわもしなければなりません。

 こんなに、うちのなかのざつようでもなんでも、諭吉ゆきちは、すこしもいやなかおをしないで、かいがいしくはたらくので、先生せんせいばかりでなく、おくさんにも、女中じょちゅうにも、いえじゅうで、たいへんちょうほうがられました。

 そのころの砲術家ほうじゅつかは、じっさいに大砲たいほうをつくったり、大砲たいほうのうちかたのけいこをするわけではありませんでした。ただオランダの砲術ほうじゅつほんをいろいろもっているということと、それをよんでせつめいができるというだけでした。

 そのほんをおれいをとってかしたり、それをうつしたいといえば、うつすためのおれいをとるというわけで、そのおれい山本家やまもとけ収入しゅうにゅうになります。そのほんをかすのも、うつすのも、山本先生やまもとせんせいがわるいので、みな諭吉ゆきちがかわってやりました。

 大砲たいほうをつくるための設計図せっけいずがほしいとか、出島でじまのオランダやしきをみたいとかいってくるひとがあります。それらのせわをするのも山本先生やまもとせんせい仕事しごとでした。設計図せつけいずなど、諭吉ゆきちは、じっさい大砲たいほうをうつのはみたこともないのですが、図面ずめんをひくだけなら、もともとさきがきようなものですから、わけはありません。さっさとをひいたり、せつめいをかいてわたします。

 諭吉ゆきちは、全国ぜんこくからあつまってくるひとたちをあいてにして、まるでもう、十ねんもまえから砲術ほうじゅつをまなんだ、りっぱな砲術家ほうじゅつかだとおもわれるほどに、ひとにあってこたえられるようになりました。

 こうした、いそがしい仕事しごとを、てきぱきとやってのけるあいまには、諭吉ゆきち自分じぶん勉強べんきょうをもわすれませんでした。もともと長崎ながさきにでてきたもくてきは、原書げんしょがよめるようになるということでしたから、オランダりゅう医者いしゃや、オランダのつうやくをするひといえなどにいって、いっしんふらんに原書げんしょ勉強べんきょうをしました。諭吉ゆきちは、原書げんしょというものをはじめてみて、

(これはむずかしいぞ。)

とおもいました。それはむりもありません、アルファベット二十六をおぼえてしまうのに、三日みっかもかかったのですから。けれども、五十にち、百にちがたつにつれて、だんだんよめるようになり、いみもわかるようになってきました。

 こうなると、おもしろくないのは、奥平壱岐おくだいらいきでした。壱岐いき身分みぶんのたかい家老かろうのむすこで、諭吉ゆきちより十さいぐらい年上としうえです。はじめはせんぱいぶって、あれこれとおしえてくれていたのですが、そのうちに、砲術ほうじゅつについても、オランダについても、諭吉ゆきちのほうがうえになって、壱岐いきはそれまでとはあべこべに、諭吉ゆきちからおそわらなければならなくなりました。それが、壱岐いきにはしゃくのたねでした。

 それなら、いっしょうけんめいに勉強べんきょうすればよいはずですが、なにしろおぼっちゃんのことですから、自分じぶんでどりょくするということがありません。ただ、諭吉ゆきちうえのこぶのようにおもわれてきました。そこで、わるぢえをおもいつきました。


家老かろうのむすこのわるぢえ


 諭吉ゆきち長崎ながさきへきてから、一ねんあまりたったときでした。中津なかつ藤本元岱ふじもとげんたいという、医者いしゃをしているいとこから、とつぜん手紙てがみがとどきました。

「お母上ははうえさまが、おもい病気びょうきになられました。すぐかえってこられるように。」

といういみの手紙てがみでした。よんでいく諭吉ゆきちかおからは、みるみるうちにのけがひいていきました。

 にいさんの三之助さんのすけは、なくなったおとうさんとおなじように、大阪おおさかのくらやしきにつとめており、三にんのおねえさんはみなよめりして、ふるさとの中津なかつのうちには、としをとったおかあさんのおじゅん一人ひとりいるだけなのです。

 それにしても、あんなにじょうぶなおかあさんが、いったいどうなさったのかと、うそのようにおもわれてなりません。けれども、どうじに、一人ひとりこころぼそくねておられるおかあさんのすがたをおもうと、諭吉ゆきちは、じっとしていられないほどでした。その手紙てがみをくりかえしよんで、諭吉ゆきちおとこなきになきました。

 ところが、ふと、いとこからは、もう一つう手紙てがみがきていることにがつきました。それをいそいでよんだ諭吉ゆきちかおには、のけがよみがえってきました。

「お母上ははうえさまのご病気びょうきというのは、うそです。じつは、こういうわけがあって……。」

と、その手紙てがみには、つぎのようなことがかかれていました。

 それは、奥平壱岐おくだいらいきのしくんだひきょうなはかりごとだったのです。諭吉ゆきち長崎ながさきへきたとき、壱岐いきはおなじ中津なかつのものだというので、めんどうもみてくれたし、なつかしがりもしました。けれども、自分じぶんよりも身分みぶんのひくい諭吉ゆきちが、勉強べんきょうがどんどんすすんでいき、ひょうばんのよくなっていくのをみて、これでは、自分じぶんのねうちがさがってしまうとおもいこみました。

 なんとかして、諭吉ゆきち長崎ながさきからおいだしてしまおうとかんがえて、そのことを中津なかつ父親ちちおやにしらせてやったのでした。父親ちちおやというのは家老かろうですが、自分じぶんのむすこにたいしてはとてもあまいおやばかでしたから、諭吉ゆきちのいとこ藤本元岱ふじもとげんたいをよびつけて、

諭吉ゆきち長崎ながさきにいては、せがれ壱岐いき出世しゅっせのじゃまになるから、中津なかつへよびもどしてくれ。ただし、そのりゆうには、はは病気びょうきだといってやれ。」

と、きびしいめいれいです。家老かろうじきじきのめいれいですから、ことわるわけにいきません。

「かしこまりました。」

とこたえて、諭吉ゆきちのおかあさんにもはなしをして、そうだんのけっか、おもてむきは、家老かろうのめいれいどおりの手紙てがみをかいて、もう一つうには、このいきさつをかいて、

「ほんとうは、おかあさんは元気げんきですから、けっして心配しんぱいするな。」

とかいてやったのでした。

 これをよんだ諭吉ゆきちのむねは、いかりのために、ばくはつしそうになりました。

(なんというひきょうなわるぢえだ。よしっ、この手紙てがみをみせて、壱岐いきをとっちめてやろう。)

と、いちじはかっとなりましたが、

(いやいや、まてよ。いま、ここでけんかをしたところで、身分みぶんがちがうから、こっちがまけるにきまっている。それに、壱岐いきだって、それほど悪人あくにんではないのだ。)

と、ぐっとがまんをしました。

(けれども、こういうことをきいては、この長崎ながさきにもいたくない。おかあさんがお元気げんきなんだから、中津なかつへかえることもない。どうすればよいか。)

と、さんざんにかんがえこんだすえ、

(そうだ、江戸えどへいこう。江戸えどにも、りっぱな先生せんせいがおられるはずだ。)

 こう決心けっしんした諭吉ゆきちは、なにもしらないふりをして、壱岐いきのところへ、おわかれのあいさつにいきました。

「じつは、中津なかつのいとこから、ははがきゅうに病気びょうきになったから、すぐかえってくるようにとしらせてまいりました。ふだんは、いたってじょうぶなほうでしたが、わからないものです。いまごろはどういうようすでしょうか。とおくはなれていますと、になってなりません。」

と、心配しんぱいそうに、いろいろのべたてますと、壱岐いきも、さもおどろいたようなかおをして、

「それは、きのどくなことじゃ。さぞ心配しんぱいであろう。とにかく、一にちもはやくかえったほうがよかろう。しかし、母上ははうえ病気びょうきがなおったら、また、長崎ながさきへこられるようにしてやるから。」

と、なぐさめがおにいうのでした。

「それでは、おさしずどおり、さっそくくにへかえりますが、お父上ちちうえさまにおことづてはございませんか。いずれかえりましたら、おにかかります。また、なにかおとどけする品物しなものがありましたら、もってまいります。」

と、一どわかれをつげて、つぎのあさ、またいってみますと、壱岐いき自分じぶんいえにやる手紙てがみをだして、これをやしきへとどけてくれ、それからお父上ちちうえにあったら、これこれつたえてくれといい、またべつに、諭吉ゆきちのおかあさんのいとこにあたる大橋六助おおはしろくすけというひとにあてた手紙てがみをとりだして、

「これを大橋おおはしのところへもっていけ。そうすると、きさまがまた長崎ながさきへでてくるのにつごうがよいだろう。」

といって、わざとその手紙てがみにふうをせずに、あけてみよといわぬばかりにしてありますから、

「なにもかも、いさいしょうちいたしました。」

と、ていねいにわかれをつげました。うちにかえって、ふうなしの手紙てがみをあけてみますと、

諭吉ゆきちはは病気びようきにつき、どうしてもくにへかえるというから、しかたなしにかえらせるが、まだ勉強べんきょうのとちゅうののうえだから、また長崎ながさきへでてくることができるように、そちが、よくとりはからってやれ。」

というもんくです。諭吉ゆきちは、これをみて、ますます、しゃくにさわりました。

(いまごろは、けいりゃくがうまくいったと、とくいになっているにちがいない。このさるまつ⦅壱岐いきのあだ⦆めっ、ばかやろう。)

と、はらのなかで、さんざんののしりました。けれども山本先生やまもとせんせいにも、ほんとうのことはいえません。もし、このはなしがわかって、奥平おくだいらというやつはひどいやつだというようなことにでもなれば、わざわいはかえって諭吉ゆきちにふりかかって、どんなめにあうかしれません。それがこわいので、

はは病気びょうきになりましたので、中津なかつへかえらなければならなくなりました。」

といって、いとまごいをしました。


ただしい勉強べんきょうだい


 ちょうどそのとき、中津なかつからくろがね惣兵衛そうべえという商人しょうにん長崎ながさきにきていて、用事ようじがすんだので、中津なかつへかえることになっていました。諭吉ゆきちは、そのおとこといっしょにかえろうとやくそくをしておいたのですが、もとより中津なかつへかえるつもりはありません。こころ江戸えどへむかっていました。といっても、江戸えどにはたよっていくところがありません。

 さいわい、江戸えどから長崎ながさき勉強べんきょうにきている書生しょせいなかまに、岡部おかべという青年せいねんがいました。しっかりした人物じんぶつですし、そのおとうさんは、江戸えど医者いしゃをしていました。

「ひとつ、きみにおねがいがあるんだけど。もし、わたしが江戸えどへいったら、きみのおとうさんのいえのげんかんばんにしてくれるよう、きみからたのんでもらえまいか。」

とたのみますと、

「いいとも。日本橋にほんばしにいって、医者いしゃ岡部おかべときいてもらえば、すぐわかるよ。」

と、さっそく手紙てがみをかいてくれました。

 こうして、三がつのなかばごろのある諭吉ゆきちたちは長崎ながさきをたって、諫早いさはや長崎県ながさきけん)へむかいました。そこへついたのは、つきのあかるいばんでしたが、諭吉ゆきちは、くろがねにむかっていいました。

「ところで、くろがね。おれは長崎ながさきをでるときに、中津なかつへかえるつもりであったが、きゅうにかえるのがいやになった。これから下関しものせきへでて大阪おおさかへむかい、それから江戸えどへいくことにした。ついては、めんどうでも、このにもつと手紙てがみをとどけてはもらえまいか。」

「それは、とんでもないことです。あなたのようなとしのわかい、たびになれないおぼっちゃんが、一人ひとり江戸えどへおいでになるなんて。」

と、くろがねは、びっくりしてとめました。けれども、諭吉ゆきちはかたく決心けっしんしたことです。くろがねとわかれて、一人旅ひとりたびをつづけ、下関しものせきからふねにのりました。

 ところが、このふねは、きょう大阪おおさかなどを見物けんぶつにでかける人々ひとびとをのせたふねでしたから、そのとちゅうでも、あちらこちらのみなとによって、見物けんぶつをしたり、ふねなかでは、ごちそうをひろげてさかもりをしてさわいだり、まことにふねのすすみぐあいがおそいのです。

 諭吉ゆきちは、勉強べんきょうにでかけようとはりきっているのですから、ばかばかしくてしかたがありません。十五にちめに、やっと明石あかし兵庫県ひょうごけん)についたとき、ふねからおろしてもらいました。これから大阪おおさかまであるこうというのです。それでもふねよりははやく大阪おおさかにつくことがわかったので、ふねからおろしてもらったのでした。

 大阪おおさかまでは十五(やく六十キロ)あるとききました。おかねがないものですから、すきばらをかかえて、とぼとぼとあるきつづけました。宿屋やどやにとまることもできません。よるになって、さびしいくらいみちをとおっているときなど、

(わるいやつがでてこなければよいが。)

と、おもわず、かたなのつかをにぎっていることもありました。あしをひきずりながら、やっとのおもいで大阪おおさかにいさんのところにたどりついたのは、よるの十すぎでした。

 にいさんは、たいへんおどろきましたが、くわしいわけをきくと、

「そうだったのか、よくわかった。だが、長崎ながさきからここにくるには、中津なかつによってくるのがみちのじゅんというものだ。それを、おまえはおかあさんのおられる中津なかつをよけてきた。まあ、わたしがここにいなければともかく、おまえとここでかおをあわせながら、このまま江戸えどへいかせたとあっては、まるで兄弟きょうだいがぐるになってやったようで、おかあさんにもうしわけないではないか。おかあさんは、それほどにはおもわれないかもしれないが、どうしてもわたしのがすまない。江戸えどへいかなくとも、大阪おおさかにだって、よい先生せんせいがありそうなものだ。そのことをかんがえてみてくれ。が、今夜こんやは、おまえはつかれているだろうから、ゆっくりやすんだらよかろう。」

と、やさしくいたわってくれました。

 諭吉ゆきちは、かぞえどしで三つのときに、中津なかつへかえり、こんど十八、九ねんぶりで、大阪おおさかへきたのですが、くらやしきのまわりには、まだ諭吉ゆきちのことをおぼえているものがたくさんありました。ですから、あくるになると、諭吉ゆきちがきたことをしって、これらの人々ひとびとがあつまってきました。

「おお、ほんとにおおきくなられた。やっぱり、あかちゃんのときのおもかげが、どこかにのこっていますね。」

などといって、なみだをながさんばかりに、よろこんでくれるひともいました。諭吉ゆきちのおもりをしてくれた武八ぶはちじいさんは、自分じぶんのまごがきたようなよろこびかたで、堂島どうじまのあたりをあるきながら、

「のう、わかぼっちゃま。おまえさまのおまれなすったとき、このわしは夜中よなかに、あの横町よこちょうのさんばさんのところへむかえにいったもんです。そのさんばさんは、いまもたっしゃにしておるようです。それから、よくおまえさまをだいて、毎日毎日まいにちまいにち、すもうのけいこをのぞきにいったものですが、あれがそうです。」

と、ゆびさしておしえてくれました。それをきいていると、諭吉ゆきちは、むねがいっぱいになって、おもわずなみだをこぼしました。

 こんなわけで、諭吉ゆきちは、自分じぶんたびにあるとはおもえず、ほんとうに、ふるさとにかえったような気持きもちがしました。

 そこで、にいさんのすすめもあることだし、大阪おおさか勉強べんきょうすることにし、緒方洪庵おがたこうあんという先生せんせいじゅくにはいることになりました。

 じゅくは「適塾てきじゅく」といい、船場せんば過書町かいしょまち(いまの東区ひがしく北浜きたはま丁目ちょうめ)にありました。緒方先生おがたせんせいはすぐれた町医者まちいしゃで、オランダとオランダ医学いがくをおしえていて、おおぜいの書生しょせいがいました。

 諭吉ゆきち適塾てきじゅくにはいったのは、安政あんせい二(一八五五)ねんがつのことでした。先生せんせい諭吉ゆきちにむかって、

「いままで、どんな勉強べんきょうをしてこられたのかね。」

とたずねました。

「はい、きまった先生せんせいはございません。長崎ながさきで、いろいろな先生せんせいからならいました。」

「では、これをよんでごらん。」

 先生せんせいがさしだしたほんを、諭吉ゆきちはしばらくみていましたが、やがてよみはじめました。これまでに勉強べんきょうしたことをおもいだしながら、日本語にほんごにほんやくしていきました。

「ほほう。本場ほんば長崎ながさき勉強べんきょうしただけあって、きみは、よみかたがうまい。」

とほめてくれたので、諭吉ゆきちがおもわずにっこりしますと、

「だが、どうも、きみは正式せいしき勉強べんきょうをしてないようだね。土台どだいがしっかりしていない。外国語がいこくごのいみをただしくくみとるには、文法ぶんぽう、つまりことばのきまり、やくそくだね、それをよくしっていなければいけない。文法ぶんぽう文章ぶんしょう土台どだいだ。きみは、文法ぶんぽうを、あたらしくだいからやりなおすひつようがあるね。」

といわれ、がっかりしてしまいました。

 けれども、そのまま、へこたれてしまうような諭吉ゆきちではありません。

「ようし、はじめからやりなおしだ。」

 もちまえのけじだましいをだして、がんばりましたから、諭吉ゆきち勉強べんきょうはどんどんすすんでいきました。にいさんはいつも、そばではげましてくれたり、いろいろとちからになってくれました。

 ところが、つぎのとし正月しょうがつごろから、にいさんがリューマチという病気びょうきをわずらって、右手みぎて自由じゆうがきかなくなりました。

 そのうちに、こんどは諭吉ゆきちちょうチフスにかかりました。それは、適塾てきじゅくあにでしであるきしというひとが、ちょうチフスにかかったのをかんびょうしていて、うつったのでした。たいへんおもくて、これでもうんでしまうのではないかとおもわれるが、いくにちもつづきました。

 緒方先生おがたせんせいは、ひじょうに心配しんぱいして、いろいろとめんどうをみてくれました。そのおかげで、四がつごろにはそとにでてあるくことができるようになりました。にいさんも、だいぶんよくなりました。

 ちょうど、そのころ、にいさんの役所やくしょのつとめがおわり、中津なかつまちへかえることになったので、諭吉ゆきちも、なつかしいおかあさんのそばで、病後びょうごのからだをやしなうことになりました。

 にいさんといっしょにふねにのってかえったのは、五、六がつのことでした。

(もう二どと中津なかつへなんか、かえるものか。)

と、かくごをきめていた諭吉ゆきちですが、おかあさんのつくってくださるりょうりをいただいていると、にみえてけんこうをとりもどしてきました。にいさんのリューマチも、いますぐあぶないというようすもないので、八がつにふたたび大阪おおさかにもどって、勉強べんきょうをはじめました。

 ところが、あきになってまもない九がつ十日とおかごろ、おかあさんから、九がつ三日みっかにいさんがなくなったから、すぐかえってくるようにとのらせがありました。びっくりした諭吉ゆきちは、すぐさま中津なかつへかえりました。そうしきはおわっていましたが、かわいいあととりむすこをなくしたおかあさんと、やさしいにいさんをなくした諭吉ゆきちとは、をとりあって、かなしみあいました。


築城書ちくじょうしょをこっそりうつす


 にいさんがなくなったので、諭吉ゆきちは、福沢家ふくざわけのあととりとなり、中津藩なかつはん役所やくしょ毎日まいにち、つとめなければならなくなりました。けれども、こころなかでは、中津なかつにいることが、いやでいやでたまりません。

 ある、おじさんのところでなんのなしに、大阪おおさかへまたいきたいとはなしますと、

「ばかなことをいうな。福沢家ふくざわけのあととりとなったからには、この中津なかつで、役所やくしょ仕事しごとにはげまなければいけない。よそへいって、おまけに、せけんできらわれているオランダの学問がくもんをしたいなんて、とんでもないはなしだ。」

と、おそろしいけんまくで、しかられてしまいました。

 そのころ、中津藩なかつはん空気くうきだい西洋せいようぎらいでしたから、諭吉ゆきち気持きもちなどさっしてくれるものがないのも、むりはありません。そこで、諭吉ゆきちは、おかあさんにさんせいしてもらうほかに方法ほうほうがないとかんがえ、そのゆるしをえるじきをねらっていました。

 そうしたある諭吉ゆきちは、長崎ながさきからかえってきた奥平壱岐おくだいらいきのところへあいさつにいきました。壱岐いき諭吉ゆきち長崎ながさきからおいだしたひとですが、家老かろうのむすこですから、しらぬかおをしているわけにもいきません。ひさびさのあいさつをかわし、よもやまのはなしはなをさかせているうちに、壱岐いきは、一さつの原書げんしょをとりだして、

「ときに、どうじゃ。このほんは、長崎ながさきれたオランダの築城書ちくじょうしょしろのつくりかたのほん)だ。めずらしいものじゃろうが。なにしろ、わずか二十三りょうったほりだしものだからな。」

と、じまんそうにみせました。

 諭吉ゆきちは、大阪おおさか適塾てきじゅくで、医学いがく物理ぶつりほんをみたことはありますが、まだ築城書ちくじょうしょをみたことはありません。それに、ペリーがきてからは、日本国にっぽんこくじゅうで、うみのまもりや、りくしろづくりのはなしおおさわぎをしているときでしたから、諭吉ゆきちは、いっそうこのほんをよんでみたくなりました。しかし、かせといったところで、かしてくれるはずはありません。でも、うまくおだてたら、ひょっとしたら、というかんがえがうかんだので、

「いや、これは、まったくすばらしいほんです。それを二十三りょうでおいになったなんて、ほんとうにほりだしものです。オランダ勉強べんきょうがうんとすすまれたから、こういうほりだしものをみつけられたんですね、きっと。わたしなどには、一ねんや二ねんでよみとおせるものではございません。けれども、せめて、絵図えずともくじだけでも、ひととおりはいけんしたいものですが、いかがでしょう、四、五にち、かしていただけませんか。」

 おもいきって、こう、きいてみました。すると、壱岐いきは、ほめられたのが、よほどうれしかったとみえて、

「ああ、いいとも。四、五にちでよいなら、もっていきなさい。」

といいました。よろこんだ諭吉ゆきちは、壱岐いき気持きもちがかわらぬうちにと、原書げんしょをだいじにかかえて、いそいでいえにかえってきました。

 さっそく、はねペンと墨汁ぼくじゅうかみ用意よういして、二百ページあまりの築城書ちくじょうしょを、かたっぱしからうつしはじめました。なにしろ、ひとにしられてはたいへんなので、いえのおくにひっこみ、だれにもあわず、ひるよるも、ちからのかぎり、むちゅうになってうつしました。

 このとき諭吉ゆきちは、しろ門番もんばんをするつとめがありました。三日みっかに一どは、そのばんがまわってきます。そのだけは、ひるはうつすことができません。しかし、よるになると、こっそりとはじめて、あさしろもんがあくまでうつしました。かおははれぼったくなり、病人びょうにんのようにみえました。

 横文字よこもじをうつすこともたいへんですが、もしも、このことが壱岐いきにわかったら、ただ原書げんしょをとりかえされるだけではすまないかもしれません。いろいろとむずかしいことになるだろうとおもうと、その心配しんぱいひととおりではありません。

(まるで、どろぼうをしているようなものだ。)

と、壱岐いきにたいして、わるいとおもいましたが、

(でも、壱岐いきはわるだくみで、自分じぶん長崎ながさきからおいだしたんだから、まあ、これで、あいこというものだ。)

と、自分じぶん自分じぶんのやっていることをいいわけしてなぐさめ、とうとう、二十日はつかばかりでうつしおえました。

「せっかくおかしいただいたのですが、もくじをみても、ちんぷんかんぷんで、なにがかいてあるのか、よくわかりませんでした。それで、つい、おそくなってしまいました。」

 諭吉ゆきちが、こういってかえしますと、壱岐いきは、かえって、うれしそうなかおつきをしました。これで、壱岐いきには、なにもしられずにすみ、諭吉ゆきちはほっとしました。

 とどうじに、諭吉ゆきちは、このぬすみうつした築城書ちくじょうしょをよんでみたくなりました。それには、大阪おおさかへいって、みっちり勉強べんきょうしなければなりません。けれども、としとったおかあさんが、どんなにさびしがるだろうとおもうと、諭吉ゆきちこころはまよいました。でも、おもいきって諭吉ゆきちがはなしますと、おかあさんは、気持きもちよくゆるしてくださいました。

 大阪おおさかへいくとなると、あとのしまつをしておかなければなりません。にいさんの病気びょうきなどで、借金しゃっきんがだいぶありました。そこで、いえのどうぐなどをりはらって、それをかえしてしまいました。

 しかし、諭吉ゆきちは、これまでとはちがって、福沢家ふくざわけのあととりとなったのですから、はんのゆるしがなければ、中津なかつから一そとへでることができません。蘭学らんがく勉強べんきょうにいきたいというねがいをだしました。すると、したしくしているかかりのひとが、

蘭学らんがくしゅぎょうというのは、さきにれいがないし、ぐあいがわるい。砲術ほうじゅつしゅぎょうにいきたいというねがいにしたほうがよい。」

注意ちゅういしてくれました。

「しかし、緒方洪庵先生おがたこうあんせんせいといえば、大阪おおさかでもゆうめいな医者いしゃですよ。その医者いしゃのところへ砲術ほうじゅつしゅぎょうにいくというのは、おかしいではありませんか。」

 諭吉ゆきちがたずねますと、

「いや、そうしたほうがよい。そうでないと、なかなかゆるしがでないから。」

というのでした。

 かたちやていさいだけにこだわる役所やくしょのやりかたをばかばかしくおもいましたが、とにかく、そういうねがいにかきかえてだしますと、かかりのひとがいったとおり、ゆるしがでました。


ほこりたかきばんカラ書生しょせい


 大阪おおさかへふたたびやってきた諭吉ゆきちは、すぐ緒方先生おがたせんせいのところへいきました。二かげつぶりにあった先生せんせいに、諭吉ゆきちは、中津なかつであったいろいろなことをほうこくし、かりた原書げんしょをうつしてしまったこともはなしました。

「そうか。それは、ちょっとのあいだに、けしからぬことをしたような、また、よいことをしたようなものじゃな。はっはっは。」

とわらいながら、ことばをつづけて、

「ところで、いまのはなしで、おまえには、どうしても学資がくし勉強べんきょうするためのおかね)がでないことがわかったから、わたしがせわをしてやりたい。しかし、ほかにも書生しょせいがいることだし、おまえ一人ひとりにえこひいきするようにみられては、おたがいによくない。どうだろうな、その、おまえがうつしたという築城書ちくじょうしょは、おもしろそうだから、それをおまえにほんやくしてもらうということにしては……。うん、それがよい。そうしなさい。」

と、しんせつにいってくれました。

 諭吉ゆきちは、よろこんで、そのから、適塾てきじゅくにねとまりして、勉強べんきょうすることになりました。ここには、日本にっぽんじゅうのあちこちから、西洋医学せいよういがく勉強べんきょうをこころざす青年せいねんや、諭吉ゆきちのように、医学いがくではなく、ただ蘭学らんがくをまなびたいという青年せいねんたちが、八、九十にんもあつまってきておりました。じゅくにねとまりしているものもおおぜいいました。

 このじゅくでは、はじめて入学にゅうがくしたものには、上級生じょうきゅうせいが、ガランマチカ(文法ぶんぽう)をおしえ、やさしいぶんのよみかたとやくしかたをおしえました。これがすむと、セインタキス(文章法ぶんしょうほう)をおしえ、すこしむずかしいぶんをならわせます。この二つがわかるようになると、あとは、自分じぶん勉強べんきょうをすすめていくのです。

 勉強べんきょうのていどによって、クラスが七つか八つにわかれていて、クラスごとに五にんとか十にんとかがあつまって、一人ひとりずつじゅんばんに原書げんしょをよんで、日本語にほんごにやくします。これを会読かいどくといいますが、わからないところがあっても、だれにもきくことはできません。ただ、ドクトル=ズーフというオランダじんのつくった、おおきな「ハルマ」という字引じびきをひいて、自分じぶんでかんがえるのでした。

 原書げんしょといっても、じゅくにあるのは、物理学ぶつりがく医学いがくほんだけで、一つのしゅるいのものは一さつずつしかなく、ぜんぶで十さつばかりでした。そこで、おおぜいの生徒せいと勉強べんきょうするには、くじで、じゅんばんをきめて、めいめいに原書げんしょ半紙はんしに四、五まいぐらいうつしとるわけでした。それに字引じびきは一さつしかありませんから、たいへんでした。

 会読かいどくは、毎月まいつききまったに六かいぐらいおこなわれました。よくできたひとにはしろまる、できなかったひとにはくろまる、わりあてられた文章ぶんしょうがぜんぶできたものには、しろい三かくのしるしをつけます。これで三かげつつづけてしろい三かくをもらったひとは、一つうえのクラスにすすむことがゆるされました。ですから、ふだんは兄弟きょうだいのようになかのよい生徒せいとたちも、このときばかりは、はげしいきょうそうになりました。

 諭吉ゆきちは、まえに勉強べんきょうしていたので、こんどは中級ちゅうきゅうのクラスにはいりました。夕食ゆうしょくをすますと、すぐひとねむりして、よるの十ごろにをさまし、それからずっとほんをよみます。けがた、台所だいどころのほうで朝食ちょうしょくのしたくのはじまるおとをきくと、もう一どねむり、朝食ちょうしょくができあがるころにおきて、すぐあさぶろにいき、かえって朝食ちょうしょくをすますと、またほんをよむといったありさまでした。

 そのため、せいせきはぐんぐんあがって、とうとう、じゅくにあるほんをぜんぶよんでしまい、ちからもついてきました。こうして、三ねんたつうちに、諭吉ゆきちは、先生せんせいからみとめられて、塾長じゅくちょうになりました。

 けれども、諭吉ゆきち勉強べんきょうむしになったわけではありません。おおいに勉強べんきょうするとともに、かなりないたずらもやってのけ、おおいにあそんだのです。

 新入生しんにゅうせいは、緒方先生おがたせんせい入門料にゅうもんりょうをおさめますが、そのとき塾長じゅくちょう諭吉ゆきちにも、いくらかのおれいをもってきます。つき新入生しんにゅうせいが四、五にんもあれば、ちょっとした金額きんがくになります。これでなかまをさそって牛肉屋ぎゅうにくやへいって、ぎゅうなべをつつきながら、さけをのみました。そのころぎゅうなべをつつくのは、ひんのわるいものがやることで、いれずみをしたまちのごろつきと、適塾てきじゅく書生しょせいとにかぎられていました。諭吉ゆきちは、どものときからのさけずきだったものですから、ずいぶんおさけをのみました。

 こづかいがなくなると、ズーフの字引じびきをうつします。あちこちのはんから、字引じびきをうつしてくれという注文ちゅうもんがありますので、そのうつしだいをかせぐわけです。それでも、こづかいにこまって、しかも、さけがのみたいというときには、こんなこともやりました。

 道修町どしょうまちのくすりにくまがとどいて、そのくすり主人しゅじんが、適塾てきじゅく書生しょせいさんに、かいぼうをしてみせてもらいたいと、たのんできました。それはおもしろいというので、諭吉ゆきち医者いしゃしぼうではないからいきませんでしたが、じゅくから七、八にんがそろってでかけていって、かいぼうにとりかかり、これがしんぞうで、これがはい、これがかんぞうだ、とせつめいしてやると、

「まことに、ありがとうございました。」

といって、くすり主人しゅじんは、さっさとかえってしまいました。これは、適塾てきじゅく書生しょせいにかいぼうしてもらえば、くすりにするくまのきもが、うまくとれるとかんがえてしくんだものですから、くまのきもさえとれれば、用事ようじがすんだわけでした。

 じゅく書生しょせいたちには、このことがわかっていますから、おさまりません。諭吉ゆきち中心ちゅうしんとなって、くすりにかけあう手紙てがみをかき、使者ししゃにいくのはだれ、おどかすのはだれ、と、それぞれのやくをきめて、かけあいにいきました。くすり主人しゅじんも、これにはこまったとみえて、ひらあやまりにあやまり、さけを五しょうに、にわとりとさかななどをおれいとしてだしました。

「これはしめた。」

とばかり、そのよる諭吉ゆきちたちがおおいにのんだのは、いうまでもありません。

 ところが、このさけのみのことで、諭吉ゆきちだいしっぱいをやりました。なつよるのことでした。大阪おおさかなつはあついので、諭吉ゆきちたちは、まるはだかでねることにしていました。諭吉ゆきちが二かいの部屋へやにねていますと、したからおんなひとこえで、

福沢ふくざわさん、福沢ふくざわさん。」

とよびます。諭吉ゆきちゆうがたさけをのんで、いまねたばかりです。

「うるさいなあ。いまごろ、なんのようがあるのか。」

と、むっとして、まるはだかのままとびおきて、はしごだんをおりて、

「なんのようだ。」

と、ふんぞりかえったところ、なんと、緒方先生おがたせんせいのおくさんではありませんか。にげようにもにげられず、諭吉ゆきちさけのよいがいっぺんにさめてしまいました。おくさんも、きのどくにおもったのか、なにもいわず、おくのほうにひっこんでしまわれました。

 諭吉ゆきちは、そこではんせいをしました。

さけをのんでいたから、こんなしっぱいをしたのだ。よしっ、さけをやめてしまおう。)

 それから、ぷっつりとさけをやめました。なかまのものは、びっくりしました。なかには、

「なあに、三日みっかぼうずで、すぐにのみだすにちがいない。」

と、ひやかし半分はんぶんにみているものもありましたが、十日とおかたち、十五にちたっても、さけをのみません。

 高橋たかはしという親友しんゆうが、

「きみのしんぼうはたいしたものだ。みあげてやるぞ。しかし、人間にんげんというものは、たとえわるいならわしでも、きゅうにやめることはよくない。きみが、いよいよさけをのまぬことに決心けっしんしたのなら、そのかわりにたばこをはじめたらどうか。人間にんげんには、なにか一つぐらいたのしみがなくてはいけないぞ。」

と、しんせつらしくいってくれました。

 諭吉ゆきちは、たばこはだいきらいで、これぐらい、なんのたしにもならぬものはないと、さんざんにわるくちをいっていたのですが、高橋たかはしのいうことも一つのりくつだとおもい、たばこをはじめました。はじめのうちは、からくてくさくて、いやでしたが、だんだんになれていき、一かげつもたつうちには、たばこのみになってしまいました。

 いっぽう、さけのほうもわすれることができません。いけないとはしりながら、ちょいと一ぱいやってみました。すると、もう一ぱいのみたくなります。けっきょく、さけはまたのむようになり、たばこものむようになってしまいました。

 諭吉ゆきちたちのやることは、せけんの人々ひとびとからみると、いたずらとしかみえませんが、じつは研究けんきゅうねっしんのせいでした。諭吉ゆきちたちは、いつも原書げんしょくびっぴきでじっけんにはげみました。

 あるとき、ろしゃ(塩化えんかアンモニウムのべつの)をつくってみることになりました。それにはまず、アンモニアをつくらなければなりません。アンモニアはほねからとりますが、ほねのかわりに、うまのつめのけずりくずを、たくさんもらってきて、とっくりのなかれ、そとがわにつちをぬりました。

 また、すやきのおおきなかめをってきて、しちりんのかわりにし、をどんどんおこして、そのなかへ、とっくりを三ぼんも四ほんれて、うちわでバタバタあおぎました。すると、とっくりのくちにつけたくだのさきから、たらたらとえきがながれてきました。これがアンモニアですが、そのくさいこと、くさいこと、じゅくのせまいにわでやっているのですから、たまりません。

 緒方先生おがたせんせいのうちのほうでも、気持きもちがわるくなって、ごはんもたべられない、ともんくがでました。いやなにおいが着物きものにしみこんでしまって、ゆうがた、ふろにいくと、着物きものばかりか、からだにまでくさいにおいがしみついていて、みんなからはいやがられるし、いぬさえもほえついてきました。

「このごろ、適塾てきじゅく書生しょせいさんたちは、さけどっくりをちっともかえしてくれないが、どうしてだろう。」

 酒屋さかやのおやじさんが、こっそりさぐらせると、なにかひどくくさいにおいのするもののじっけんにつかっているというのです。

 酒屋さかやはその、なんといってもさけをもってこなくなりました。これには、みんなこまりました。

 このときのじっけんでは、アンモニアすいをつくれたものの、かたまらず、かんぜんなろしゃになりませんでしたし、あまりくさいので、いったんうちきることにしました。しかし、せっかくできかかったものをやめてしまうのは、学者がくしゃのふめいよだというので、二、三にんのものは、淀川よどがわふねをうかべて、じっけんをつづけました。

 ところが、かざむきによって、そのくさいにおいが、かわからまちのほうへながれていくので、またそこからもんくがでました。それで、川上かわかみのほうへのぼったり、川下かわしものほうへくだったりしながら、研究けんきゅうをつづけるというありさまでした。

 このように、適塾てきじゅく書生しょせいたちは、ときにしっぱいしたり、ときには、せけんの人々ひとびとからしかられるようなこともしましたが、どれもこれも、青年せいねんらしい、あたらしいことをしりたいという、はげしい気持きもちのあらわれでした。自分じぶんたちだけが、西洋せいようのすすんだ学問がくもんにせっしているのだというほこりが、みんなのこころなかにありました。そうして、ほんをよむだけでなく、じっさいに自分じぶんでやってみて、あたらしい知識ちしきにつけ、なかやくだつ学問がくもんをすすめようと、勉強べんきょうにうちこんでいるのでした。

 こうした適塾てきじゅく生徒せいとなかから、わかい革命家かくめいか橋本左内はしもとさない軍人ぐんじん政治家せいじか村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)、医療いりょう制度せいどをあらためた長与専斎ながよせんさい日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃをつくった佐野常民さのつねたみなど、のちに幕末ばくまつから明治めいじにかけてかつやくしたひとたちがでました。

 むろん、諭吉ゆきちも、そのなか一人ひとりでした。勉強べんきょうをすればするほど、諭吉ゆきち西洋せいよう学問がくもんのすすんでいることがわかり、日本にっぽんも、おそかれはやかれ、これをもっとねっしんにとりれなければならないがくるにちがいない、とかんがえるようになってきました。


3 西洋せいようたびみやげ


オランダ先生せんせいとなったが


 適塾てきじゅくでねっしんに勉強べんきょうしている諭吉ゆきちのもとへ、とつぜん、江戸えど中津藩奥平家なかつはんおくだいらけのやしきから、使つかいのものがやってきました。それは安政あんせい五(一八五八)ねんあきのことで、諭吉ゆきちは二十五さいになっていました。こんど蘭学らんがくじゅくをひらくことになったから、その先生せんせいになってほしいというのです。これははんのめいれいですから、諭吉ゆきちはしょうちして、いよいよ江戸えどへいくことになりました。

 諭吉ゆきちは、べつにけらいなどいりませんが、はんからけらい一人ひとりぶんの旅費りょひがでましたので、じゅくのなかまに、だれか江戸えどへいきたいものはないかといいますと、岡本周吉おかもとしゅうきち原田磊蔵はらだらいぞうという友人ゆうじんが、いっしょにつれていってくれともうしでましたので、三にん東海道とうかいどうをあるいて、江戸えどへむかいました。江戸えどについたのは、十がつもおわりごろで、もう、すこしうすらさむいきせつでした。

 木挽町汐留こびきちょうしおどめ(いまの新橋しんばしのふきん)にある奥平おくだいらやしきにいきますと、鉄砲洲てっぽうず築地つきじ)にあるなかやしきの長屋ながやをかしてくれるということでした。諭吉ゆきち岡本おかもと二人ふたりでそこにすんで、じゅくをひらくことになりました。

 もう一人ひとり、いっしょにきた原田はらだは、下谷したや大槻おおつきというお医者いしゃのところへいきました。

 諭吉ゆきちのところへは、そのうちに、オランダをならいに、生徒せいとがぼつぼつやってきはじめました。中津藩なかつはんどもばかりでなく、ほかからも入門にゅうもんするものがあって、十にんあまりの生徒せいとに、諭吉ゆきちは、毎日まいにちオランダをおしえていました。

 ところで、この長屋ながやは、そのときから八十八ねんまえの明和めいわ八(一七七一)ねんに、前野良沢まえのりょうたく杉田玄白すぎたげんぱくたちが、オランダのかいぼうがく生物せいぶつのからだをきりひらいて研究けんきゅうする学問がくもん)のほんを、くしんしてやくした場所ばしょなのでした。それは「解体新書かいたいしんしょ」といって、日本にっぽんのあたらしい医学いがくにたいへんやくだちました。

 そのことをきいた諭吉ゆきちは、ふかいかんげきをおぼえ、

「よしっ、このじゅくを、江戸えどでいちばんりっぱな蘭学塾らんがくじゅくにしてみせるぞ。」

とはりきりました。

 それにつけても、江戸えど蘭学者らんがくしゃたちのちからはどれほどのものであろうか、それをしっておきたいとおもいました。

 ある島村鼎甫しまむらていほという蘭学者らんがくしゃをたずねてみました。島村しまむらはやはり緒方先生おがたせんせいのところでまなんだことのある医者いしゃで、江戸えどにきて、オランダのほんのほんやくなどをしているのでした。ですから、二人ふたりはすぐしたしくなりましたが、このとき、島村しまむらは、生理学せいりがく生物せいぶつのからだのはたらきを研究けんきゅうする学問がくもん)の原書げんしょをほんやくしているところで、そのほんをもってきて、

「ここのところが、どうもわからなくてよわっていたところだ。きみ、ひとつ、やってみてくれないか。」

といいました。諭吉ゆきちがよんでみますと、なるほどやくしにくいところでした。

「ほかのひとにも、そうだんしてみましたか。」

「ええ、もう、ともだち五、六にんにはなしてみたんだが、どうしてもわからないというんだ。」

 そこで諭吉ゆきちは、三十ぷんばかりかんがえているうちに、ちゃんとわかってきたので、島村しまむらにせつめいしてやりますと、

「なるほど、そうか。やはり、大阪おおさかじこみはたいしたものだ。」

と、諭吉ゆきちちからをほめてくれました。これで、蘭学らんがく大阪おおさかのほうがすすんでいたことがわかり、諭吉ゆきちは、こころなかでほっとあんしんしました。

 それからのちも、諭吉ゆきちは、原書げんしょなかから、むずかしい文章ぶんしょうをひっぱりだして、

「ここは、むずかしくてわかりませんが、どうやくしたらよいでしょうか。」

ともちかけて、いろいろな学者がくしゃたちのちからを、それとなくためしてみましたが、あまりすぐれたひとはみあたりませんでした。

 ですから、諭吉ゆきちが、やがて江戸えどばんのひょうばんをとるようになったのも、あたりまえのことといわなければなりません。諭吉ゆきちはまことによい気持きもちでした。てんぐにさえなっていました。ところが、諭吉ゆきちのそのてんぐのはなをへしおるような、たいへんなことがおこったのです。


さあ、こんどは英語えいご勉強べんきょう


 嘉永かえい六(一八五三)ねんの六がつに、アメリカからペリーがやってきて、開国かいこくをせまったことは、まえにかいておきましたが──幕府ばくふは、一ねんのちに神奈川かながわ(いまの横浜よこはま)で、アメリカとのあいだに和親条約わしんじょうやく(おたがいになかよくしようというとりきめ)をむすびました。ところが、それだけでは、日本にっぽんをほんとうに開国かいこくさせたということにならないので、アメリカは、ぜひ、修好通商条約しゅうこうつうしょうじょうやく商売しょうばいのとりきめ)をむすぼうとかんがえるようになりました。そのため安政あんせい三(一八五六)ねんに、ハリスがアメリカの総領事そうりょうじとして、伊豆いず下田しもだ静岡県しずおかけん)へやってきて、幕府ばくふとこうしょうしました。

 けれども、日本にっぽんなかでは、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんになり、幕府ばくふとしては、これをおさえるちからがなく、なかなかはっきりしたたいどがきまりません。京都きょうと朝廷ちょうてい天皇てんのうがた)も、修好通商条約しゅうこうつうしょうじょうやくをむすぶことにははんたいでした。いっぽう、ハリスからのさいそくはつよくなりました。そこで、大老たいろう井伊直弼いいなおすけは、自分じぶんだけのかんがえで、この条約じょうやくにはんをおしてしまいました。

 そのは、諭吉ゆきち江戸えどへでてくる四かげつほどまえの、安政あんせい五(一八五八)ねんがつ十九にちのことでした。

 つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスの四かこくとも条約じょうやくをむすび、すでに日米和親条約にちべいわしんじょうやく開港かいこうされていた下田しもだ箱館はこだて函館はこだて)にくわえて、ちかいしょうらい、神奈川かながわ横浜よこはま)・長崎ながさき新潟にいがた兵庫ひょうご神戸こうべ)のみなとをひらくことがきめられました。

 よくねんには、横浜よこはま外国人がいこくじんがやってきて、ぼうえきをすることがゆるされました。これまでは、ちいさな漁村ぎょそんだったのですが、きゅうにいきいきとしたまちになりました。このあたらしくひらけた横浜よこはまを、諭吉ゆきちはぜひみておきたいとおもいました。

 そこで諭吉ゆきちは、ま夜中よなかの十二ごろに江戸えどをでて、よる東海道とうかいどうをあるいて、夜明よあけごろに横浜よこはまにつきました。さっそく海岸かいがんのほうへいってみました。けれども、みなととしてひらけたばかりなので、まだ外国人がいこくじんのすがたもすくなくて、きゅうごしらえのそまつな西洋館せいようかんが、ぽつぽつたてられ、みせがいくつかならんでいるだけでした。

 それらのみせを、諭吉ゆきちはめずらしそうに、きょろきょろとみまわしながら、あるいているうちに、

「はてな。」

と、くびをひねりました。どのみせのかんばんをながめても、みせさきにならんでいるしなものをみても、かいてあることばが、さっぱりよめないではありませんか。外国人がいこくじんどうしがはなしていることばも、諭吉ゆきちのとくいなオランダとはちがっているようで、なにがなにやら、すこしもいみがわかりません。

 さんざんあるきまわったすえ、ある一けんのみせによって、オランダではなしかけてみました。すると、みせ主人しゅじんはドイツじんでしたが、さいわい、オランダのわかるひとでした。

 諭吉ゆきち発音はつおんがわるいので、うまくつうじませんが、かみにかけばわかるというので、諭吉ゆきちがかいてみせますと、

「おお、あなたは、オランダ、なかなかうまいことあるね。でも、ここでは、まったくやくにたたない。英語えいごでなければだめ。みんな、英語えいごしゃべっている。かんばんも、なにもかも英語えいごばかりね。」

と、みせ主人しゅじんからいわれました。

「そうか、英語えいごでなければだめか。」

と、諭吉ゆきちはかんがえこんでしまいました。

 みせ主人しゅじんがすすめたオランダ英語えいごとの会話かいわほんなど、二、三さつをうと、諭吉ゆきちは、おもいあしをひきずって、江戸えどへかえってきました。

 ちょうど夜中よなかの十二ちかくでしたから、まるまる二十四時間じかん諭吉ゆきちはあるいていたわけで、へとへとにつかれきっていました。けれども、それは、あるきつかれたからだけではありません。五、六ねんもかかって、いっしょうけんめい勉強べんきょうしたオランダが、なんのやくにもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられたからでした。

「なんというばかなことをしたものだ。」

と、諭吉ゆきちはなきたいくらいでしたが、

「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英語えいご勉強べんきょうをするんだ。」

 諭吉ゆきちは、そのつぎのから、英語えいご勉強べんきょうにとりかかりました。

 とはいっても、いったい、どこで、だれに英語えいごをおそわったらいいのか、さっぱりけんとうがつきません。そのころの江戸えどには、英語えいごをおしえてくれる先生せんせいなど、一人ひとりもいませんでした。でも諭吉ゆきちは、あきらめないで、あちこちたずねているうちに、みみよりなはなしをききました。それは、長崎ながさきでつうやくをしている森山多吉郎もりやまたきちろうというひとが、いま江戸えどにきて、幕府ばくふのごようをつとめているが、英語えいごができるといううわさをきいたのです。

 諭吉ゆきちはたいへんよろこんで、さっそく、森山もりやまをたずねていきました。森山もりやまは、諭吉ゆきちのねっしんなたのみをきいてはくれましたが、幕府ばくふ仕事しごとがいそがしくて、おしえてくれる時間じかんがなかなかありません。

「それでは、まあ、せっかくならいたいということですから、毎日まいにちあさはやくおいでください。役所やくしょへでかけるまえに、おしえてあげましょう。」

といってくれました。

 そこで、諭吉ゆきちは、あさはやくおきて、鉄砲洲てっぽうずから森山先生もりやませんせいのすんでいる小石川こいしかわまで、八キロメートルあまりを、てくてくとあるいてかよいはじめました。ところが、森山先生もりやませんせいいえについてみると、

「きょうはおきゃくがきているから。」とか、

「もうすぐ役所やくしょへでかけなければならないから。」

といってことわられ、毎朝まいあさのように、むだあしをふみつづけました。それでも、諭吉ゆきちは、こんきよくかよいました。森山先生もりやませんせいはこれをみて、きのどくにおもい、

「どうもあさはだめだから、あすからは、ばんにきてみてください。」

といいました。

 それで諭吉ゆきちは、こんどはゆうがたにかよいはじめましたが、森山先生もりやませんせいは、あいかわらずいそがしくて、おしえてくれるひまがありません。およそ三かげつほどかよいましたが、とうとう、なにもおしえてもらえませんでした。おまけに、森山先生もりやませんせいも、それほど英語えいごができるわけでもないことがわかりましたから、諭吉ゆきちは、森山先生もりやませんせいからおそわることをあきらめてしまいました。

 それからは、ちいさい字引じびきれて、自分じぶん一人ひとり英語えいご勉強べんきょうちからをそそぎました。けれども、おもうようにはすすみません。

(これは、一人ひとりではだめだ。おなじようななやみをもっているともだちをみつけて、いっしょに勉強べんきょうすれば、きっとすすむにちがいない。)

 こうおもった諭吉ゆきちは、ともだちの神田孝平かんだたかひらにあってはなしてみますと、

「じつは、わたしもやってみたのだが、さっぱりわからない。もう、こりごりだ。まあ、きみは、いつでも元気げんきがいいから、おおいにやってみることだね。」

と、あいてになってくれません。

 そこで、こんどは、村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)にすすめてみました。すると、

「なにも、そんなくろうをすることないじゃないか。やめたほうがよい。ひつようなほんなら、オランダじんがほんやくするから、それをよめばよいじゃないか。」

といわれてしまいました。

 これではしかたがないので、三ばんめに原田敬策はらだけいさくのところへいってはなしてみますと、

「そうか、それはおもしろい。ぜひやろう。二人ふたりならばがつよい。どんなことがあっても、やりとげようじゃないか。」

と、さんせいしてくれました。

 こうして、なかまをみつけることのできた諭吉ゆきちは、それからというものは、すこしでも英語えいごをしっているひとがあれば、すぐにたずねていって、おしえてもらうといったありさまでした。

 だんだん勉強べんきょうをしていくうちに、英語えいごがオランダにかなりにていることがわかってきました。そうして、英語えいごちからがめきめきとすすんでいきました。


アメリカのたび、ヨーロッパのたび


「このたび、アメリカへいかれるそうですが、わたしをぜひつれていってください。」

と、諭吉ゆきちはつてをもとめて、はじめてあった幕府ばくふ軍艦奉行ぐんかんぶぎょう木村摂津守喜毅きむらせっつのかみよしたけに、しんけんにたのみこんでいました。それは、安政あんせい六(一八五九)ねんふゆのあるのことでした。うん、うんと諭吉ゆきちのことばをきいていた木村きむらは、

「よろしい。それほどのぞまれるのなら、つれていってあげよう。」

と、そのでしょうちしてくれました。

 じつは、幕府ばくふは、まえにとりきめたやくそくにしたがって、条約書じょうやくしょをとりかわすために、アメリカへ新見豊前守しんみぶぜんのかみ村垣淡路守むらがきあわじのかみ小栗豊後守おぐりぶんごのかみの三にん使節しせつとして、おくることになりました。この使節しせつたちは、アメリカからむかえにきたふね、ポーハタンごうにのって太平洋たいへいようをわたるわけですが、それといっしょに、幕府ばくふは、日本にっぽん軍艦ぐんかん咸臨丸かんりんまるをアメリカへいかせることにしました。それにのりこむのは、軍艦奉行ぐんかんぶぎょう木村摂津守喜毅きむらせっつのかみよしたけです。

 軍艦ぐんかんというからには、たいそうおおきなふねのようにきこえますが、わずか二百五十トンで、みなとのはいりだけにじょうきをたき、あとはただ、かぜをたよりにすすんでいかなければならない、ちっぽけなふねでした。

 乗組員のりくみいん艦長かんちょう勝麟太郎かつりんたろう海舟かいしゅう)ら九十六にん、ほかに日本にっぽん近海きんかい測量そくりょうにきて、なんぱしたアメリカの海軍士官かいぐんしかんブルック大尉たいいら十にんがのりました。

 咸臨丸かんりんまるは、万延まんえんがん(一八六〇)ねんがつ十九にち使節しせつたちをのせたふねよりも一足ひとあしさきに浦賀うらが船出ふなでしました。

 ふゆのことですから、北風きたかぜがつよく、くるもくるも、あらしにおそわれました。ふねのようにゆれ、たかいなみはかんぱんにおどりあがり、うっかりしていると、人間にんげんもころがされるしまつで、みんなあおかおをしていました。けれども、日本人にほんじん自分じぶんたちの軍艦ぐんかんで、はじめて太平洋たいへいようをわたるのだというほこりがあるので、みんなちからをあわせて、あらしとたたかいました。こうして、日本暦にほんれきで二がつ二十六にちに、ぶじにサンフランシスコにつきました。

 サンフランシスコの人々ひとびとは、たいへんなかんげいぶりをみせました。ちょんまげに、はおりはかまをつけ、こしにかたなをさした日本人にほんじんのかっこうが、ものめずらしかったせいもありましょうが、ちっぽけなふね太平洋たいへいようのあらなみとたたかってきたということに、よりおおく感動かんどうしたのにちがいありません。馬車ばしゃにのせて、りっぱなホテルにあんないし、まちのおもだった人々ひとびとが、あとからあとからとおしかけて、したにもおかないもてなしぶりでした。あらしにもまれてこわれた咸臨丸かんりんまるも、ただでなおしてくれました。

 諭吉ゆきちは、西洋せいようほんをたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいにでみるのははじめてです。そうして、百ぶんは一けんにしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。

 日本にっぽんではとても高価こうかなじゅうたんが、部屋へやいっぱいにしきつめてあって、アメリカじんがそのうえをくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どのいえにもガスとうがついていて、よるひるのようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカじんが、おとこおんなをくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。

 諭吉ゆきちは、電信でんしんや、めっき工場こうじょう、さとうの製造所せいぞうしょなどもみてまわりましたが、みなほんでよんでいることばかりなので、そのしくみにはさほどおどろきませんでした。

 わからないのは、政治せいじ社会しゃかいのしくみでした。ある諭吉ゆきちはたずねてみました。

「ワシントンの子孫しそんのかたは、いまどうしていますか。」

「さあ、どうしていますかねえ。ワシントンにはたしか、むすめがいたはずですから、だれかのおくさんになってるんでしょうね。」

 このへんじには、おどろいてしまいました。

 アメリカの初代大統領しょだいだいとうりょうのジョージ=ワシントンといえば、日本にっぽんでは鎌倉幕府かまくらばくふをひらいた源頼朝みなもとのよりともか、江戸幕府えどばくふをひらいた徳川家康とくがわいえやすとおなじようなものです。徳川家とくがわけのものがずっと将軍しょうぐんをついでいる日本にっぽんとくらべて、なんというちがいでしょう。

 もちろん、諭吉ゆきちはアメリカが共和国きようわこくで、大統領だいとうりょうが四ねんごとの選挙せんきょでかわることはしっていました。が、じっさいにアメリカじんからきいて、なんともふしぎながしました。

 諭吉ゆきちは、いっしょにいった中浜万次郎なかはままんじろうとはなしあって、ウェブスターの辞書じしょを一さつずついました。これが日本にっぽんにウェブスターの辞書じしょがはいったはじめです。

 中浜万次郎なかはままんじろうは、ジョン=マンともいい、土佐とさ高知県こうちけん)のりょうしでした。あらしにあってひょうりゅうしているところを、アメリカの捕鯨船ほげいせんにすくわれ、アメリカで勉強べんきょうしてうんよく日本にっぽんにかえり、幕府ばくふにつかえ、つうやくとしてのりくんでいたのです。

 すこしおくれて、サンフランシスコについた条約じょうやくとりかわしの使節しせつたちが、ワシントンへいくのとはんたいに、諭吉ゆきちたち咸臨丸かんりんまるの一こうは、日本にっぽんへひきかえすことになり、五十にちあまりをすごしたサンフランシスコをあとにして、とちゅうハワイによってから、日本にっぽんへもどりました。なつかしい日本にっぽんにかえりついたのは、もう木々きぎのわかが、みどりのにかわる五がつのはじめのことでした。

 諭吉ゆきちがいなかったわずかのあいだに、日本にっぽんのようすはとてもかわっていました。京都きょうと朝廷ちょうてい江戸幕府えどばくふとのあらそいがはげしくなり、くにをひらくことにさんせいのひとと、外国人がいこくじんをおいはらえというひとたちのあいだには、いまにもたたかいがおこりそうな、ふあんな空気くうきがただよっていました。そうして、このとしの三がつ三日みっかには、桜田門外さくらだもんがいで、水戸みと浪士ろうし主人しゅじんをもたないさむらい)が、幕府ばくふ開国かいこくしたことをおこって、そのせきにんしゃである大老たいろう井伊直弼いいなおすけをおそうというじけんまでありました。

 しかし、アメリカのりっぱな文明ぶんめい自分じぶんでみてきた諭吉ゆきちは、これを日本にっぽんにとりれなければならないとおもいました。

 そこで、諭吉ゆきちは、鉄砲洲てっぽうずじゅくにもどると、もうオランダをおしえることはやめて、英語えいごばかりおしえることにしました。しかし、英語えいごをおしえるといっても、諭吉ゆきちは、字引じびきをたよりに、一人ひとり勉強べんきょうしたわけですから、英語えいご自由じゆうによみこなすことはできません。ですから、生徒せいとにおしえながら、自分じぶんもいっしょに勉強べんきょうするのでした。

 そうしているうちに、木村摂津守きむらせっつのかみのせわで、諭吉ゆきちは、幕府ばくふ外国方がいこくかた(いまの外務省がいむしょうのような役所やくしょ)のほんやくがかりとしてつとめることになりました。それは、外国がいこくからさしだしてくる文書ぶんしょを、日本語にほんごになおすやくでした。おかげで、世界せかい国々くにぐにのようすがよくわかりますし、英語えいご勉強べんきょうにもやくだちました。

 このとしがくれて、文久ぶんきゅうがん(一八六一)ねんになると、諭吉ゆきちは、おなじ中津藩なかつはん上級士族じょうきゅうしぞく土岐太郎八ときたろはち次女じじょきんとけっこんしました。

 ところが、その十二がつに、諭吉ゆきちはヨーロッパへいくことになりました。それは、幕府ばくふがこんどはヨーロッパ各国かっこく使節しせつをおくることになり、諭吉ゆきちはほんやくがかりとして、くわわることをめいぜられたからです。外国奉行がいこくぶぎょう竹内下野守たけうちしもつけのかみ松平石見守まつだいらいわみのかみ京極能登守きょうごくのとのかみの三にん使節しせつで、その役目やくめは、まえにやくそくしていた江戸えど大阪おおさか兵庫ひょうご神戸こうべ)・新潟にいがたでとりひきをはじめるのを、すこしのばしたいというはなしあいをするためでした。

 使節しせっの一こうは、イギリスの軍艦ぐんかんオージンごうにのりこみ、品川しながわから出発しゅっぱつしました。一こうは四十にんたらずでしたが、外国がいこくでは、たべものが不自由ふじゆうだろうというので、白米はくまい何日なんにちぶんもふねにつみこんだり、宿やどがくらくてはこまるとおもい、ろうかにつけるかなあんどんや、ちょうちん・ろうそくまでそろえてもっていきました。まるで、大名だいみょう東海道とうかいどうをとおって、宿屋やどやにとまるときとおなじような用意よういをしたわけでした。

 ところが、パリについてみると、まったくむだなじゅんびをしたことにがつきました。あんないされたのは、ホテル=デ=ローブルという、五かいだての、おしろのようにおおきいホテルでした。部屋へやが六百、はたらいているひとが五百にんもおり、おきゃくも千にんぐらいはとまれるほどのひろさでした。部屋へやには、ふゆだというのに、あたたかな空気くうきがほかほかとここちよくながれ、部屋へやにもろうかにも、ガスとうがいっぱいついていて、よるもまるでひるのようにあかるいのです。それに、すばらしいごちそうがでました。

 ですから、せっかく用意よういしてきたかなあんどんや、ちょうちんなどは、はずかしくてだせません。また、たくさんの白米はくまいも、すっかりじゃまものになってしまいました。そこで、せわがかりの下役したやくおとこに、ただでもらってもらうというありさまでした。

 シガー(たばこ)とシュガー(さとう)をまちがえて、たばこをいにやったら、さとうをってきたというような、わらいばなしのようなしくじりもありましたが、もっとけっさくもうまれました。

 ある諭吉ゆきちがホテルのろうかをあるいていくと、使節しせつのけらいが、ろうかでしゃちこばって、ぼんぼりをもってばんをしているではありませんか。なにごとかとおもってよくみると、使節しせつ一人ひとりが、大便だいべんをしに便所べんじょにいったおともでした。便所べんじょの二つもあるドアはみなあけはなされ、そのおくでは、いまや一人ひとり使節しせつが、日本流にほんりゅうようをたしているのが、まるえです。ろうかは、外国がいこく男女だんじょがいききしているのですから、はずかしいったらありません。

 びっくりした諭吉ゆきちは、そのおもてにたちふさがって、ものもいわずにドアをしめ、それから、けらいにわけをはなしてやりました。

 こうしたしくじりをやりながら、使節しせつの一こうは、フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシアの国々くにぐにをたずねて、やく一年間ねんかん、ヨーロッパのたびをつづけました。イギリスでは、議会ぎかいがあって、政党せいとうというものが、おたがいに政治せいじのやりかたや、意見いけんのうえであらそい、せんきょによってったほうの政党せいとうくに政治せいじをやるしくみになっているときかされましたが、諭吉ゆきちには、よくのみこめませんでした。

 しかし、こんどの旅行りょこうではじめて鉄道てつどうにのって、そのべんりなことがわかり、すべてのてんで、西洋せいようがすすんでいることをじっさいにしったので、諭吉ゆきちは、政治せいじのやりかたについても、きょうみをもちました。

 ロシアでは、医者いしゃ病人びょうにんのしゅじゅつをするところをみせてくれました。諭吉ゆきちは、だいたんな人間にんげんであるくせに、どものときから、をみるのがだいきらいだったものですから、医者いしゃがメスをれて、ぱっとがとびだすのをみると気持きもちがわるくなり、がとおくなってしまいました。いっしょにいったものが、諭吉ゆきちそとにつれだしみずをのませると、やっと正気しょうきにかえりました。

 ところが、使節しせつのつとめは、うまくいきませんでした。はなしあいやかけひきが、へただったせいもありましょうが、そのころの日本にっぽん国内こくないでは、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんで、外国人がいこくじんをただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこったからです。

 そのため、はじめフランスへいったときには、ひじょうによろこんでむかえられたのに、各国かっこくをまわって、ふたたびフランスへもどったときには、まるで、にくいかたきにでもあったように、つめたいあつかいをうけなければなりませんでした。

 それは、ちょうどこのとき、日本にっぽん生麦なまむぎじけんがおこったというらせが、フランスへつたえられたからでした。

 薩摩さつま(いまの鹿児島県かごしまけん)のとのさまの行列ぎょうれつが、江戸えどをたってくにへかえることになり、東海道とうかいどう生麦村なまむぎむら(いまは横浜市内よこはましない)をとおっていたとき、横浜よこはまにきていたイギリスじんがうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。

 そのころ、大名行列だいみょうぎょうれつといえば、みちばたのいえ雨戸あまどをおろし、とおりかかったものはみちをよけて、とおくからつちうえにすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリスじんはしりませんから、行列ぎょうれつをよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。

 これにたいして、イギリスは幕府ばくふにこうぎをしましたが、フランスも、このような日本人にほんじんのやりかたをふんがいしたからです。


あぶないせとぎわにたつ日本にっぽん


 諭吉ゆきちは、このヨーロッパ旅行りょこうで、日本にっぽんくにをひらいて、西洋せいよう文明ぶんめいをとりれなければならないというかんがえをつよめました。そこで、役所やくしょからうけとったおかねだいぶぶんで、原書げんしょをたくさんってかえってきました。

 けれども、日本にっぽんではあべこべに、外国人がいこくじんをおいはらえといううんどうがさかんになり、諭吉ゆきちのように、外国がいこくほんをよみ、ヨーロッパがえりの人間にんげんだといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうななかになっていました。こういううごきは、まえまえからあったのですから、諭吉ゆきちは、べつにこわいともおもっていなかったのですが、ともだちのいくにんかが、じっさいにあぶないめにたびたびあっているので、

(これはをつけなければいけない。)

とかんがえなおしました。

 そうしたあるほんをよみふけっている諭吉ゆきち部屋へやに、女中じょちゅうがあわててはいってきました。

「みょうなおきゃくさまがいらっしゃいました。」

「どんなひとかね。」

おおきなかたで、はかたで、ながいかたなをさしています。」

「そりゃ、ぶっそうなひとのようだが、はおたずねしたか。」

「はい、おききしましたが、おにかかればわかるからとおっしゃって……。」

 どうも、うすきみがわるいとおもったので、諭吉ゆきちは、しょうじのすきまから、そっとげんかんのほうをのぞいてみました。すると、そこには、緒方先生おがたせんせいのところでいっしょに勉強べんきょうしていたことのある原田水山はらだすいざんというともだちがたっているではありませんか。ほっとした諭吉ゆきちは、げんかんへでていって、おもわず、おおきなこえで、

「このばかやろう。なぜ、をいわなかったんだ。こわいおもいをさせやがって、ひどいやつだ。」

とどなりつけました。

 そのあとで、二人ふたりおおわらいをしましたが、西洋せいよう学問がくもんをしていた人々ひとびとは、いつも、こんなおもいをくりかえしていたのです。まことに、あぶないなかでした。それとどうじに、日本にっぽんくにも、ひじょうにあぶないせとぎわにたたされていました。

 外国人がいこくじんをおいはらえという人々ひとびとは、ちょっとしたことがあると、すぐ外国人がいこくじんをきりころすようならんぼうをしました。生麦なまむぎじけんもその一つで、これはをひきました。イギリスは、つよい艦隊かんたいをおくって、幕府ばくふにたいしてへんじをもとめ、フランスもいっしょになって、おそろしいたいどで、幕府ばくふをせめたてました。

 イギリスからの文書ぶんしょを、諭吉ゆきちはほんやくさせられましたが、イギリスがどんなにつよい決心けっしんをもっているかがわかり、どうなることかと心配しんぱいになりました。いつ、戦争せんそうになるかもしれないありさまでした。

 けれども、幕府ばくふが、イギリスのいいぶんをききれて、たくさんのおかねをはらったので、さいわい戦争せんそうにはなりませんでした。でも、幕府ばくふのよわい外交がいこうをふんがいした地方ちほうはんでは、外国がいこく軍艦ぐんかんにいくさをしかけて、けっきょく、さんざんなめにあわされるようなじけんが、ひきつづいておこりました。

 このようなさわがしさのなかで、緒方洪庵先生おがたこうあんせんせいが、急病きゅうびょうでなくなりました。それは、文久ぶんきゅう三(一八六三)ねんがつ十日とおかのことでした。緒方先生おがたせんせい幕府ばくふのおかかえ医者いしゃとなって、大阪おおさかから江戸えどにきて、下谷したやにすんでいました。諭吉ゆきちは、二、三にちまえに先生せんせいをたずね、元気げんき先生せんせいと、いろいろはなしをしてきたばかりでした。そのお通夜つやには、緒方先生おがたせんせいおしえをうけたものが、たくさんあつまってきました。そのなかに、村田蔵六むらたぞうろく(のちの大村益次郎おおむらますじろう)もいましたので、諭吉ゆきちが、

「おい、村田むらたくん、いつ、長州ちょうしゅう(いまの山口県やまぐちけん)からかえってきたんだ。下関しものせきでは、たいへんなさわぎをおこしたようだな。じつにばかなことをしたもんだよ。あきれかえったはなしじゃないか。」

とはなしかけますと、村田むらたは、にかどをたてて、いいました。

「なんだと。外国がいこく軍艦ぐんかんをほうげきしたのがわるいというのか。」

「そうとも。まるできちがいざたじゃないか。」

「き、きちがいとはなんだ。けしからんことをいうな。長州ちょうしゅうでは、外国人がいこくじんをおっぱらうことに、はんのほうしんがきまっているんだ。あんな外国がいこくのやつらに、わがままをされてたまるものか。外国人がいこくじんはぜんぶおいはらうにかぎるよ。」

と、えらいけんまくです。これでは、まるではなしになりません。

 諭吉ゆきちは、村田むらたとはなすことをやめました。そうして、いっしょに西洋せいよう学問がくもんをまなんだ村田むらたでさえ、このように外国人がいこくじんをおいはらえというありさまですから、いよいよ、自分じぶんのことばやおこないにをつけて、このあらしの時代じだいきていかなければならないと、かくごをしました。

国民こくみんのみんなが、世界せかいのようすをよくしり、日本にっぽんが、どんなに文明ぶんめいにおくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしくちからづよい日本にっぽんをつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国民こくみんが、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国民こくみん教育きょういくしなければだめだ。よし、わたしは、その教育者きょういくしゃになろう。さいわい、こんどまた、アメリカへいってくることになった。いろいろとききしてこよう。)

 諭吉ゆきちは、アメリカに注文ちゅうもんした軍艦ぐんかんを、ひきとりにいく幕府ばくふ使節しせつの一こうにくわわって、二どめのアメリカのたびにでかけていきました。ときに、慶応けいおう三(一八六七)ねん正月しょうがつのことでした。

 諭吉ゆきちは、そのまえに、大小だいしょうかたなぽんずつをのこして、あとはぜんぶりはらってしまいました。

(これからのなかかたななんていらない。)

とかんがえたからです。


4 明治めいじのともしび


ここまで、たまはとんでこない


先生せんせいっ、たいへんです。上野うえののほうがくでくろいけむりがたちのぼっています。も、ちらちらともえあがりました。」

 かけこんできた生徒せいと一人ひとりが、いきをはずませてしらせました。それまでしずかだった講堂こうどうが、きゅうにざわめいてきました。

 ドカーン、ドドドーン。

 はげしい大砲たいほうおとが、それにわをかけました。

「あっ、また、大砲たいほうだ。」

と、みみをやる生徒せいともあれば、ほんをおいて、いきなり、そとへとびだそうとする生徒せいともありました。

 このとき、諭吉ゆきちは、生徒せいとたちを講堂こうどうにあつめて、経済学けいざいがく講義こうぎをしているところでしたが、

「しょくん、おちつきたまえ。ここまで、たまはとんできはせん。」

と、ひとこというと、あとはなにごともなかったように、講義こうぎをつづけていました。生徒せいとたちも、それにつりこまれて、いつのまにか、そとのさわぎも、大砲たいほうおとにならず、講義こうぎみみをかたむけていました。そうして、やがて、時間じかんとなりました。

「さあ、やねのうえにあがって、上野うえののけむりでもみたまえ。ペンのちからけんちからよりもつよいということを、よくかみしめてね。」

 諭吉ゆきちは、講義こうぎをおわって、にっこりわらい、講堂こうどうからでていきました。生徒せいとたちは、

「わっ。」とばかり、かけだしました。

 自分じぶん部屋へやへもどった諭吉ゆきちは、たいへんまんぞくそうでした。生徒せいとたちがそとおおさわぎのなかで、ねっしんに講義こうぎをきいてくれたことが、うれしかったのです。それは、慶応けいおう四(一八六八)ねんの五がつ十五にちのことでした。

 この上野うえのでは、江戸えどへはいった官軍かんぐん彰義隊しょうぎたいとのあいだに戦争せんそうがあり、そこから八キロメートルばかりはなれた慶応義塾けいおうぎじゅくまで、大砲たいほうおとがきこえてきました。生徒せいとたちはじゅくのやねのうえにあがって、しきりに上野うえののほうをみているようすですが、諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくをこの新銭座しんせんざにうつしたことが、いかによかったかと、ひそかにかんがえるのでした。

 諭吉ゆきちは、そのまえのとしの六がつにアメリカからかえってきましたが、そのかえりのふねなかで、幕府ばくふのわるくちをいったというので、きんしん(きまったすまいから、ある期間きかん外出がいしゅつをきんじられること)をめいじられました。いえなかではなにをしてもよいが、役所やくしょへでてきてはならないというのです。諭吉ゆきちにとっては、かえって生徒せいとにおしえるのにぐあいがよいくらいでした。

 幕府ばくふは、その十がつに、政権せいけん政治せいじをおこなうけんり)を朝廷ちょうていにかえしました。源頼朝みなもとのよりともが、鎌倉かまくら幕府ばくふをひらいてからは、日本にっぽん政治せいじ武士ぶしがおさめていて、天皇てんのうはただのかざりにすぎなかったのですが、このときから、天皇てんのうかみにいただくあたらしい政府せいふ政治せいじをとることになりました。

 けれども、諭吉ゆきちは、あたらしい政府せいふ不安ふあんをもっていました。なぜなら、朝廷ちょうていは、まえから、くにをひらくことにはんたいしていたからです。もしも、そのあたらしい政府せいふが、外国がいこくをきらい、外国人がいこくじんをおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外国がいこく戦争せんそうをひきおこすようなことになり、よわくてちいさい日本にっぽんは、つよくておおきい外国がいこくに、うちまかされてしまうにちがいありません。

(そうなったら、あのちいさいどもたちがかわいそうだ。)

 諭吉ゆきちは、にわであそんでいるわが一太郎いちたろう捨次郎すてじろうのすがたをみながら、かんがえこみました。

(このどもたちには、戦争せんそうというかなしいめにあわせたくない。日本にっぽんが、一にちもはやく、平和へいわなあかるい文明国ぶんめいこくになってくれるとよい。まあ、いまの大人おとなたちはだめだが、わかい人々ひとびとは、きっと、自分じぶんのこういう気持きもちをわかってくれるにちがいない。よし、わたしは、わかいひとたちのために、あたらしい教育きょういく仕事しごとをしよう。それにはほんをたくさんかいて、西洋せいようのようすをしってもらわなければならない。)

 このように決心けっしんした諭吉ゆきちは、まえよりもじゅくをさかんにしようとかんがえました。

 ところが、じゅくのある鉄砲洲てっぽうず奥平家おくだいらけのやしきは、外国人がいこくじんのすむところになるというので、幕府ばくふにとりあげられることになりました。そこで、諭吉ゆきちは、しば新銭座しんせんざ有馬ありまというとのさまの土地とちって、じゅくをたてたのでした。

 そのころ、幕府ばくふがたの勝海舟かつかいしゅうと、朝廷ちょうていがたの西郷吉之助さいごうきちのすけ隆盛たかもり)のはないによって、江戸城えどじょうはぶじにあけわたされましたが、それにはんたいの人々ひとびとがかなりあって、彰義隊しょうぎたいのり、上野うえのやまにたてこもったりしていました。ですから、いまにも戦争せんそうがはじまりそうで、江戸えど市中しちゅうはざわついていました。

 こんなときに、ひろい土地とちい、おおきないえをたてようとするのですから、人々ひとびとはおどろいてしまいました。しかし、仕事しごとのないときですから、大工だいくたちはよろこんでやすいちんぎんではたらいてくれ、なかなかりっぱなじゅくができあがりました。それに年号ねんごうをとって、「慶応義塾けいおうぎじゅく」とづけたのでした。

 そうして、五がつ十五にち上野うえのでは、官軍かんぐん彰義隊しょうぎたいのあいだに戦争せんそうがはじまり、彰義隊しょうぎたいは、まけてちりぢりばらばらになり、寛永寺かんえいじもやけてしまいました。しかし、慶応義塾けいおうぎじゅくでは、しずかに講義こうぎがおこなわれたのでした。諭吉ゆきち教育きょういく仕事しごとは、こうして戦火せんかをくぐりぬけて、しだいにくりひろげられていくことになりました。

 彰義隊しょうぎたいけいくさにおわったあと、幕府ばくふがわのひとたちは、東北地方とうほくちほうにのがれ、二本松にほんまつ会津若松あいづわかまつや、北海道ほっかいどう箱館はこだて函館はこだて)の五稜郭ごりょうかくなどで、官軍かんぐんにてむかい、つぎつぎにやぶれていきました。幕府ばくふ海軍かいぐんのせきにんしゃだった榎本武揚えのもとたけあきも、この五稜郭ごりょうかくでとらえられたのでした。

 このようになかがさわがしかったので、幕府ばくふ学校がっこうはつぶれてしまっていましたし、あたらしい政府せいふは、まだ学校がっこうをつくることまでにはがまわりませんでした。慶応義塾けいおうぎじゅくだけが、西洋せいようのあたらしい学間がくもんをおしえていたわけです。そこで、生徒せいとかずも、二百にん、三百にんをかぞえるようになりました。

 そのころのあるのことでした。九州きゅうしゅうから、慶応義塾けいおうぎじゅくにはいりたいと、はるばるやってきた青年せいねんがありました。りっぱななりからかんがえて、さむらいのであることはまちがいありません。青年せいねんは、ちょうどであった町人ちょうにんふうのおとこみちをたずねました。

「これこれ、慶応義塾けいおうぎじゅくへは、どういけばよいのか。」

 きかれたおとこは、じつにていねいにおしえてくれました。おしえられたとおりにいくと、いどがあって、そのそばで、一人ひとりのおやじがまきわりをしていました。

「これこれ、おやじ、慶応義塾けいおうぎじゅくはここか。そうしてぐちはどこか。」

とたずねると、これまた、しんせつにおしえてくれました。

 こうして、じゅくなかへはいってくると、さきほど、みちをおしえてくれた町人ちょうにんふうのおとこが、塾頭じゅくとう小幡先生おばたせんせいで、まきわりをしていたおやじが、なんと福沢先生ふくざわせんせいではありませんか。その青年せいねんは、あなでもあればはいりたいほど、ひやあせをかきました。

 慶応義塾けいおうぎじゅくは、こんなふうに、民主的みんしゅてきなふんいきをもっていました。そうして、明治めいじ四(一八七一)ねんに、慶応義塾けいおうぎじゅくは、新銭座しんせんざから三田みたへうつりました。


あんさつしゃが、そこにもいた


 諭吉ゆきちは、三田みた慶応義塾けいおうぎじゅくをうつしたとき、自分じぶんのすむいえもたてましたが、大工だいくにたのんで、いえのゆかをふつうよりたかくして、おしれのなかからゆかしたへもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるいかんがえをもつひとが、西洋せいようのあたらしい学問がくもんをしているゆうめいなひとをころすことがはやっていたからです。慶応義塾けいおうぎじゅくをひらいた諭吉ゆきちは、しだいにひょうばんのまとになってきたので、ごろから、けいかいをしていたわけでした。

 そのまえのとし明治めいじ三(一八七〇)ねん諭吉ゆきちは、いのちにかかわるようなちょうチフスにかかりました。まだすっかりなおりきらないからだで、東京とうきょうへおかあさんをよぶために、中津なかつへでかけました。中津なかつは、ふるさとでもあるし、しんるいやしっているひともおおいので、をゆるしていました。ところが、このまちでも、諭吉ゆきちはねらわれていたのです。

 諭吉ゆきちのまたいとこに、増田宋太郎ますだそうたろうという青年せいねんがありました。十三、四さいばかりとししたで、いえもちかく、あさばん、にこにこしてやってくるので、諭吉ゆきちは、

そうさん、そうさん。」

とよんで、したしくつきあっていました。このそうさんが、じつは、諭吉ゆきちのようすをさぐるためにやってきていたのでした。

 あるばんのこと、諭吉ゆきちのところにしりあいのおきゃくがあって、おさけをのみながら、二人ふたりはさかんにはなしあっていました。そのとき、そっとにわにしのびこんで、このようすをうかがっている青年せいねんがありました。青年せいねんは、おきゃくがはやくかえっていって、諭吉ゆきちがねるのをまっていたのですが、はなしはなかなかおわりそうになく、十二がすぎ、一がすぎても、おきゃくはかえりそうにもありません。

 青年せいねんは、とうとうあきらめて、たちさっていきましたが、これこそ、諭吉ゆきちのねこみをおそってころそうとたくらんでいた宋太郎そうたろうだったのです。諭吉ゆきちは、それをこのときにはしらなかったのですが、四、五ねんたってからきかされて、びっくりしました。自分じぶんのまわりに、いのちをねらうものがいたのでした。

 そればかりではありません。いえなかのかたづけをおわって、諭吉ゆきちは、おかあさんとめいとをつれて、東京とうきようへかえることになり、ふねにのるため、中津なかつから四キロメートルほど西にししままでいって、宿屋やどやにとまりました。宿屋やどやのわかい主人しゅじんは、これをみると、使つかいのものをこっそりと中津なかつへはしらせ、

今夜こんやこそ、福沢ふくざわをころすのにもってこいの機会きかいだ。」

としらせました。

 ところが、このらせをうけて、中津なかつでは、だれが諭吉ゆきちをころしにいくかで、あらそいがおこり、ぎろんをしているうちに、があけてしまいました。これで諭吉ゆきちは、ぶじにふねにのり、いのちびろいをしたわけですが、神戸こうべ宿屋やどやについてみると、東京とうきょう塾頭じゅくとう小幡おばたから、手紙てがみがきていました。

「きくところによりますと、ちかごろは大阪おおさか京都きょうともおだやかでなく、先生せんせいをつけねらっているものがあるそうですから、神戸こうべについたら、なるべくひとにしられないようにをつけて、すぐ東京とうきょうへかえってきてください。」

 諭吉ゆきちは、おかあさんに、京都きょうと大阪おおさかなどを、ゆっくり見物けんぶつさせて、よろこばせてあげようとおもっていただけに、がっかりしました。でも、おかあさんに、ほんとうのことをはなしたら心配しんぱいするので、きゅうな用事ようじができたことにして、見物けんぶつをやめ、いそいで東京とうきょうにかえりました。

 諭吉ゆきちがねらわれたのは、このときだけではありません。それから二ねんほどたって、諭吉ゆきち関西かんさいにでかけたとき、宋太郎そうたろう大阪おおさかにきていて、ひそかに諭吉ゆきちをころそうとするけいかくをたてていました。ところが、宋太郎そうたろうは、ふるさとのおかあさんがおもい病気びょうきになったので、きゅうに中津なかつへかえらなければなりませんでした。そこで、なかまの朝吹英二あさぶきえいじに、この仕事しごとをたのんでかえりました。

 朝吹あさぶきは、ちょうど諭吉ゆきちがとまった、諭吉ゆきちのいとこの医者いしゃいえ書生しょせいをしていました。ですから、諭吉ゆきちは、大阪おおさかにいるあいだは、この朝吹あさぶき自分じぶんのおともにしていたのです。

(これはうまくいくぞ。)

と、朝吹あさぶきは、すきをうかがって、あんさつしようとしていました。

 たまたま、諭吉ゆきちは、わかいころせわになった緒方先生おがたせんせいいえによばれて、朝吹あさぶきをつれていきました。先生せんせいはもうなくなられていたわけですが、先生せんせいのおくさまと、なつかしいおも出話でばなしをしているうちに、もふけて十ごろになりました。おくさまのすすめで、諭吉ゆきちはかごにのり、そのわきに朝吹あさぶきがついていました。もうひとどおりはなく、さびしいふけのまちに、かご足音あしおとばかりがおとをたてていました。

(いまだ。)

と、朝吹あさぶきかたなをかけて、すっと、かごにしのびよりました。そのとたんに、

 ドドドド、ドンドン。

と、たいこがなりました。ふいのおとに、朝吹あさぶきはびっくりしてしまい、をひっこめてしまいました。それは、ちかくのよせ(落語らくご講談こうだんなどのかかる小屋こや)のたいこのおとで、かえりのひとがぞろぞろでてきたので、朝吹あさぶきはもうどうすることもできませんでした。諭吉ゆきちは、なにもしらず、いえへかえることができました。

 こんなことがあってから、朝吹あさぶきは、諭吉ゆきちはなしをいろいろときいて、ときにはぎろんをしましたが、だんだん、このひとはほんとうに日本にっぽんのためをおもっているひとだ、とかんがえるようになりました。そうして、自分じぶんのかんがえていたこと、やろうとしていたことが、まちがっているようにおもわれたので、諭吉ゆきちにすっかりはなしてあやまり、慶応義塾けいおうぎじゅくにはいりました。

 これをきいて、宋太郎そうたろうは、

朝吹あさぶきはけしからんやつだ。」

と、はらをたてましたが、その宋太郎そうたろうも、自分じぶんのわるかったことをさとって、諭吉ゆきちにあやまり、やがて慶応義塾けいおうぎじゅくにはいってきました。

自分じぶんのわるかったことにがついて、あらためるというのは、りっぱなことだ。」

と、諭吉ゆきちは、二人ふたりをほめました。

 このように諭吉ゆきちは、一どは自分じぶんをにくんで、ころそうとまでした人間にんげんでも、わるいとさとってあやまってくれば、すなおにゆるしてやり、勉強べんきょうさせたり、のうえのこまかいめんどうもみてやったのでした。そうして宋太郎そうたろうは、のちに西南せいなんえき西郷隆盛さいごうたかもり部下ぶかとなり、城山しろやまんだのですが、朝吹あさぶき慶応義塾けいおうぎじゅくをさかんにするうえで、なくてはならぬひとになりました。


人間にんげんのいのちはたいせつだ


 諭吉ゆきちは、ただしくないこと、ひきょうなこと、いくじなし、おとこらしくないことは、だいきらいでした。ですから、そういうことをみたりきいたりすると、かんしゃくだまをばくはつさせて、じっとしていることができませんでした。仙台せんだい洋学者ようがくしゃ大童信太夫おおわらしんだゆうをたすけだしたり、千葉ちば長沼村ながぬまむら人々ひとびとのために、ちからをつくしたこともありますが、ここでは、その一つのれいとして、榎本武揚えのもとたけあきをすくったはなしをとりあげておきます。

 榎本武揚えのもとたけあきが、北海道ほっかいどう五稜郭ごりょうかくにたてこもって、あたらしい政府せいふにてむかい、とらえられたことは、まえにかきましたが、そののち、武揚たけあき東京とうきようにおくられ、とりしらべをうけてから、ろうやに入れられていました。

 ところが、武揚たけあきいえにはなんのたよりもなく、ゆくえさえはっきりしらされていませんでしたから、としのいったおかあさんや、ねえさんやおくさんは、たいへん心配しんぱいしていました。

 そこで、武揚たけあきいもうとのおっとである江連えづれというひとから、諭吉ゆきちのところへ手紙てがみでといあわせてきました。江連えづれ幕府ばくふ外国奉行がいこくぶぎょうをしていたので、諭吉ゆきちとはしりあったなかでした。江連えづれ当時とうじ榎本えのもと家族かぞくといっしょに静岡しずおかにすんでいたのですが、手紙てがみには、つぎのようにかいてありました。

榎本えのもとはどうしているのでしょうか。江戸えどにきているといううわさはかぜのたよりにきいたのですが、それもたしかめることができません。ははやきょうだいが心配しんぱいしていますので、江戸えどのしんるいにといあわせましたが、だれも、自分じぶん政府せいふににらまれるのをおそれてか、ただの一どもへんじをくれません。あなたにきいたら、なにかようすがわかるだろうと、かんがえて、お手紙てがみをさしあげるわけです。ごぞんじのことがあったら、どうぞおしらせください。」

 よみおわった諭吉ゆきちは、きのどくだな、とおもいました。ことに、としとったおかあさんがかわいそうでなりませんでした。

 もともと、諭吉ゆきちは、榎本武揚えのもとたけあきという人間にんげんをしってはいましたが、ふかいつきあいをしたことはありません。ですから、武揚たけあきがろうやにれられているといううわさはきいたことがありますが、べつに、それいじょうはにもとめていなかったのです。しかし、江連えづれ手紙てがみをみて、しんるいのものたちが、政府せいふににらまれるのをおそれて、へんじをよこさないということをしって、そのひきょうなたいどにふんがいしました。

(なんというはくじょうな、ひれつなやつらだ。幕府ばくふ人間にんげんは、みな、これだからいけない。よし、おれが一人ひとりでひきうけてやる。)

 こうおもいたった諭吉ゆきちは、すぐに、あちらこちらにをまわしてしらべました。さいわい、武揚たけあきはまだころされず、ろうやにとらわれのとなっていました。

「ころされるかどうか、そこのところはどうもわかりませんが、とにかく、ただいまのところは、病気びょうきもせず、元気げんきでいます。」

としらせてやりました。すると、江連えづれから、

ははあねが、東京とうきょうへいきたいといいますが、いってもよいでしょうか。」

といってきました。

「わたしは、政府せいふからにらまれてもかまわないから、どうぞ、東京とうきょうへでていらっしゃい。」

 諭吉ゆきちが、こうへんじをかいたので、二人ふたりはよろこびいさんで、諭吉ゆきちのところにやってきました。そうして、武揚たけあきのようすをたずねたり、ひつようなものをさしれたりしているうちに、武揚たけあきのおかあさんは、一どでいいから、むすこにあいたいといいだしました。

 諭吉ゆきちは、なんとかして、あわせてやりたいとおもいましたが、どうしたら、あわせられるのか、それがわかりません。あれやこれやとかんがえたすえ、武揚たけあきのおかあさんにあいがんしょというものをかいてださせることをおもいつきました。その文章ぶんしょうは、おかあさんがかいたもののようにして、諭吉ゆきちがかいてやりました。

「せがれの釜次郎かまじろう武揚たけあきのこと)が、朝廷ちょうていのおこころにそむきまして、つみをおかしたことは、まことにおそれおおいことでございますが、釜次郎かまじろうはひじょうな親思おやおもいもので、ちち病気びょうきのときはよくかんびょうしてくれました。この親思おやおもいものが、あんなにおおきなつみをおかしましたのは、あくまのしわざでございましょうか、いまさらなげきかなしんでも、もはや、とりかえしのつくことではございません。死刑しけいになりましても、けっしておうらみはいたしません。けれども、わたくしのいのちも、もうながくはございません。できることなら、せがれのがわりにしていただきたいところですが、せめて、一ど、あわせてはいただけないでしょうか。」

 こんなことを、こまごまとかいて、それをねえさんが清書せいしょをし、おかあさんが、つえをついて、とぼとぼと役所やくしょまであるいていってさしだしました。これをよんだ役人やくにんは、たいへんこころをうごかされて、すぐに面会めんかいをゆるしてくれました。

 さあ、そうなると、諭吉ゆきちは、なんとかして武揚たけあきのいのちをたすけてやりたいとおもいました。すると、たいへんつごうのよいことがおこりました。

 ある政府せいふ役人やくにんが、オランダのノートをもってきて、ぜひ、日本語にほんごにほんやくしてほしいとたのみました。諭吉ゆきちは、それをめくってよんでいくうちに、

「これは、しめたぞ。」

とよろこびました。このノートは、武揚たけあきが、オランダへ学問がくもんをしにいったとき、勉強べんきょうした航海術こうかいじゅつ講義こうぎをうつしたものでした。武揚たけあき五稜郭ごりょうかくにたてこもったときにも、これをだいじにもっていましたが、いよいよこうさんしたとき、

国家こっかのためにやくだたせてください。」

という手紙てがみをそえて、官軍かんぐん参謀さんぼう黒田清隆くろだきよたかにおくったのでした。諭吉ゆきちは、そのノートだとわかりましたので、これをうまくつかって、武揚たけあきをたすけようとおもいついたのです。

 そこで、諭吉ゆきちは、はじめのほうだけすこしほんやくして、

「これは、航海こうかいになくてはならぬりっぱなものです。しかし、ざんねんなことに、これは講義こうぎをきいてかいたものですから、その本人ほんにんでないと、わからないところがあります。本人ほんにんはだれだかしりませんが、これがぜんぶほんやくできたら、わがくににとってたいへんやくにたつものとおもわれます。」

 諭吉ゆきちは、その本人ほんにん武揚たけあきであることを、ちゃんとしってはいましたが、わざとしらないふりをして、そのノートを政府せいふにかえしました。そうすれば、武揚たけあきのいのちがたすかるかもしれないとかんがえたからです。

 それとどうじに諭吉ゆきちは、黒田清隆くろだきよたかとはしりあったなかでしたから、

「どうでしょうか。榎本えのもとというおとこは、たいへんなさわぎをやったのだから、死刑しけいになっても、しかたがないのだけれども、一どいのちをとれば、あとからどうすることもできない。人間にんげんのいのちというものは、なによりもたいせつなものですから、いのちだけはたすけてやったほうが、よいのじゃないですか。」

ともちかけました。

「わしも、榎本えのもとというおとこのえらいところはしっている。だが、ろうやにれられて、きながらえている気持きもちがにくわない。どうして、いさぎよくなぬのだろうか。」

「とんでもない。武揚たけあきんでしまえば、それっきりです。しかし、あれほどの人間にんげんかしておけば、日本にっぽんくにのために、どれほどやくにたつかしれません。」

「なるほど、きみのいうことも、一つのりくつだな。」

 黒田くろだは、諭吉ゆきちはなしこころをうごかされ、武揚たけあきをたすけるために、ちからになってくれることをやくそくしてくれました。

 こうして、明治めいじ五(一八七二)ねん武揚たけあきは、ゆるされてろうやからでてきました。けれども、そのおかあさんは、病気びょうきですでになくなっていました。武揚たけあきは、その公使こうし大臣だいじんになって、日本にっぽんくにやくだつひとになりましたが、その武揚たけあきをたすけだしたのは、諭吉ゆきちそのひとでした。


てんひとうえひとをつくらず


 諭吉ゆきちは、慶応義塾けいおうぎじゅくであたらしい教育きょういくをし、「文部省もんぶしょう竹橋たけばしにあり、文部大臣もんぶだいじん三田みたにいる。」と、せけんでいわれたほどですが、それとどうじに、出版しゅっぱんちかられました。ほんをだして、一人ひとりでもおおくのひとに、自分じぶんかんがえをわかってもらい、西洋せいようのすすんだ文明ぶんめいをとりれてもらいたいと、いっしょうけんめいにげんこうをかきました。そうして出版社しゅっぱんしゃにまかせておいたのでは、そのいいなりのおれいしかもらえないことがわかりましたので、自分じぶん出版社しゅっぱんしゃをつくりました。

 その出版社しゅっぱんしゃ慶応義塾けいおうぎじゅくのしきなかにたてて、主任しゅにんには、いつか大阪おおさか諭吉ゆきちをねらった朝吹英二あさぶきえいじをあて、職工しょっこうをたくさんやといれ、製本所せいほんじょもつくりました。諭吉ゆきちのかいたほんばかりでなく、すぐれたものはどんどん出版しゅっぱんしました。

 諭吉ゆきちほんをかくのは、日本人にほんじんかんがえかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文章ぶんしょうをかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文章ぶんしょうは、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。

 諭吉ゆきちのかいたほんはたくさんありますが、そのなかでゆうめいなのは、「西洋事情せいようじじょう」「世界国尽せかいくにづくし」「学問がくもんのすすめ」などです。これらのほんは、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人々ひとびとによまれました。

 ことにおおきなえいきょうをあたえたのは、

てんひとうえひとをつくらず、ひとしたひとをつくらずといえり……。」

ということばではじまる「学問がくもんのすすめ」でした。

 このほんで、諭吉ゆきちは、人間にんげんはだれもがびょうどうでなければならないことを、はっきりとかきました。地位ちいとかいえがらとか、おかねのあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人間にんげんとしてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学問がくもんをしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学問がくもんをするようにどりょくしようではないか、というのでした。

 その学問がくもんというのは、ただむずかしい文字もじをおぼえたり、わかりにくいふるくさい文章ぶんしょうをよんだり、和歌わかをよんだり、をつくったりするようなことではなく、「人間にんげんふつう日用にちようにちかき実学じつがく」だといいました。そうでない学問がくもんは、なぐさみの学問がくもんにすぎないというわけでした。

 近代的きんだいてきかんがえかたを、そのものずばりにはっきりいったので、ふるいかんがえかたの人々ひとびとは、まっかになっておこりました。しかし、それらの人々ひとびとなかにも、これをよんでいくうちに、諭吉ゆきちのかたよらないかんがえかたや、ただしい意見いけん感心かんしんしてくるものもでてきました。

 あたらしい政府せいふも、いままでの外国がいこくぎらいをやめて、諭吉ゆきちの「西洋事情せいようじじょう」をさんこうにして、アメリカやヨーロッパの文明ぶんめいをとりれて、あたらしい政治せいじをおこなうようになりました。

 明治めいじ四(一八七一)ねんには、いままでのはんをやめて、あたらしくけんをおくことになりました。とのさまも、政府せいふ役人やくにんとおなじになったわけです。そうして、諭吉ゆきちにたいしては、役人やくにんになって、政府せいふ仕事しごとをやってもらいたいと、しきりにたのんできました。諭吉ゆきちは、病気びょうきといって、ことわりつづけました。

 神田孝平かんだたかひら柳川春三やながわしゅんさんは、諭吉ゆきちとおなじ洋学者ようがくしゃでしたが、政府せいふからたのまれて、役人やくにんになっていました。その神田孝平かんだたかひらが、ある諭吉ゆきちをたずねてきて、

「どうだ、福沢ふくざわ、もう一どかんがえなおして役人やくにんになってくれないか。そうすれば、ぼくと柳川やながわは、とてもたすかるんだ。幕府ばくふとちがって、すぐれたものはどんどん出世しゅっせもできるし、政府せいふ身分みぶんのたかいひとも、きみにぜひきてほしいといっているのだ。」

と、ねっしんにすすめました。

「いや、わたしはごめんだね。役人やくにんにはなりたくないし、役人やくにん出世しゅっせしたいなど、一どもかんがえたことはない。わたしは平民へいみん、ただの国民こくみんでいいのだ。」

と、諭吉ゆきちは、きっぱりとこたえました。

「どうして、きみは役人やくにんをきらうのかね。」

「そうだね。まずだい一ににいらないのは、役人やくにんがからいばりをするからだ。

 だい二に、きみのまえではいいにくいことだが、役人やくにんぜんたいが下品げひんなことだ。

 だい三には、幕府ばくふにちゅうぎそうなかおをしていたものが、幕府ばくふがつぶれると、すぐさまあたらしい政府せいふのほうへついて、すこしでもよい地位ちいをえようとまなこになっていることだ。そうして地位ちいがあがると、いばりちらす。そこのところがにくわない。

 だい四には、国民こくみんだ。士族しぞくはもちろん、ひゃくしょうや町人ちょうにんどもでも、すこしばかり文字もじがわかるやつは、みんな役人やくにんになりたがっている。役人やくにんになれぬまでも、政府せいふにちかづいていって、なにかかねもうけをしようとたくらんでいる。そうして、せっかくあたらしいなかになったのに、国民こくみん役人やくにんにへいこらしている。しっかりとひとりだちをして、自分じぶんをたっとぶという精神せいしんがない。これでは、日本にっぽんはひらけない。

 わたしは、役人やくにんにならないで、ほんとうに自由じゆうで、ほんとうのひとりだちの生活せいかつとは、こういうものだと、せけんの人々ひとびとに、ひろくみせてやりたいとおもうのだ。」

「いやに、役人やくにんをやっつけるじゃないか。まるで、ぼくに役人やくにんをやめさせようとしているみたいだ。」

「そんなことはない。きみは、それでいいんだ。きみのかんがえどおり役人やくにんになったんだからね。自分じぶんかんがえどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうにおとこらしい人間にんげんなんだ。わたしは、役人やくにんがきらいだから、役人やくにんにはならない。きみが役人やくにんになったのを、わたしがさんせいするように、きみは、わたしが役人やくにんにならないのをみとめてくれなくっちゃ、いけない。」

「なるほど、きみのりくつにあっては、まけだ。」

 神田かんだは、あきらめて、わらいながらかえっていきました。

 こういった諭吉ゆきちですから、あるひとが、諭吉ゆきちのてがらをたたえて、政府せいふがひょうしょうしなければならないといいますと、諭吉ゆきちは、

「とんでもない。わたしは、自分じぶんがすきだから、じゅくをひらいたり、ほんをかいたりしてきたわけだ。それをほめるとか、むくいるとかいうのは、おかしい。とうふがとうふをつくり、車屋くるまやくるまをひくのと、おなじことではないか。わたしをひょうしょうするというのなら、そのまえに、となりのとうふからひょうしょうしてもらいたいものだね。」

と、いかにも平民へいみんらしいこたえかたをしました。

 諭吉ゆきちは、このように役人やくにんにはならず、せけんのいっぱんの人々ひとびととともにきながら、教育者きょういくしゃとして、またほんをかいて、自由じゆう民主主義みんしゅしゅぎひかりをたかくかかげて、どうどうとすすんでいきました。西南せいなんえきもおわった明治めいじ十二(一八七九)ねんの七がつには、国会論こっかいろんをかきあげて、慶応義塾けいおうぎじゅく出身者しゅっしんしゃがへんしゅうしている報知新聞ほうちしんぶんに、社説しゃせつとして一週間しゅうかんほど、毎日まいにちはっぴょうしました。

 福沢諭吉ふくざわゆきちまえはださないで、文章ぶんしょう諭吉ゆきちがかいたのだと、わからないようにくふうしてのせました。これはたいへんなひょうばんになって、国会こっかいをひらかなければならないというぎろんが、ひじょうにたかまってきました。

 そのため、政府せいふも、明治めいじ十四(一八八一)ねんに、国会こっかい明治めいじ二十三(一八九〇)ねんにいよいよひらくというやくそくを、しなければならなくなったほどでした。

 諭吉ゆきちは、さらに明治めいじ十五(一八八二)ねんに、「時事新報じじしんぽう」という新聞しんぶん発行はっこうし、政治せいじ教育きょういく外交がいこう軍事ぐんじ婦人ふじんもんだいなどについて、論文ろんぶんをのせました。


おんなでどうしてわるいか


「ああ、また、しょうじをやぶったな。なかなか元気げんきがあって、こみがあるぞ。」

「まあ、元気げんきがあってよいなんておっしゃって。おんなですから、もうすこし、おとなしくしてくれるといいんですが……。」

「いやいや、おんなだって、元気げんきがあるほうがいいよ。」

 諭吉ゆきちは、自分じぶんのむすめが、しょうじをやぶるのをながめながら、おくさんと、こんなはなしをかわしながら、よろこんでいました。ふつうのうちのおとうさんだったら、どもがしょうじをやぶったり、いたずらをしたりしたら、たいていはおおきなこえでしかるものですが、諭吉ゆきちはちがっていました。

 明治めいじ十六(一八八三)ねん諭吉ゆきちは五十さいになっていましたが、このとしなつ、四なん大四郎だいしろうまれたので、諭吉ゆきちは四なんじょ、あわせて九にんという、おおぜいのだからにめぐまれました。そのどもたちを、わけへだてなく、かわいがったのはいうまでもありません。

 どもたちは自由じゆうでかっぱつであったほうがいい、と諭吉ゆきちはかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるようにをつけました。

 ですから、いえなかで、どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉強べんきょうよりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭吉ゆきちはかんがえていたからです。そこで、どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉強べんきょうをさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつもをつけました。したがって、福沢家ふくざわけでは、

「きょうは、おとなしくよく勉強べんきょうしたね。」

などといって、ほめられることはありませんでした。それよりも、ちいさなどもが、

「きょうは、遠足えんそくがあって、とてもとおかったけれど、がんばってあるいて、先生せんせいにほめられました。」

とか、そのうえが、

「きょうは、たいそうがあって、はしりきょうそうで一ばんになりました。」

とかいうと、

「それはえらかったね。では、ごほうびをあげよう。」

 こういったちょうしで、勉強べんきょうよりも、うんどうができたほうが、ほめられるのでした。

 それから、いえなかでは、ひみつなことはいっさいないということにしていました。なんでも、ざっくばらんにはなしあうことにしていました。ですから、諭吉ゆきちどものわるいところをとがめると、どものほうも、諭吉ゆきちのわるいところをいうというありさまで、ほんとうにあかるい家庭かていでした。

 そのころ、しつけのきびしいいえでは、主人しゅじん外出がいしゅつするときは、いえじゅうのものがげんかんにおくってでて、をついておじぎをしたり、かえってきたときには、また、げんかんにでむかえるというのがならわしでしたが、諭吉ゆきちは、けっして、そんなことはやらせませんでした。諭吉ゆきち外出がいしゅつするといっても、げんかんからでるとはきまっていません。台所だいどころからさっさとでていくことだってありました。かえるときも、そのとおりで、そのときのあしのむいたほうからでていったり、はいったりしていました。

 あるとき、出入でいりの商人しょうにんがきて、いいました。

先生せんせい、わたしのうちには、またおんなまれました。こんどこそ、おとこまれてほしいとおもっていましたので、がっかりしました。」

 これをきいた諭吉ゆきちは、

おんなで、どうしてわるいのかね。じょうぶでさえあれば、いいじゃないか。せけんでは、おとこまれると、『たいそうめでたい。』といい、『おんなであってもじょうぶなら、まあまあめでたい。』などといっているが、わたしは、そんなつもりでいっているのではない。おとこおんなのちがいがあろうわけがない。そこにかるいおもいはないはずだ。わたしは、九にんがみんなおんなだって、すこしもざんねんとはおもわないね。ただ、おとこが四にんおんなが五にんというふうに、半分はんぶんずつで、いいあんばいだと、おもうだけだ。おんなまれて、がっかりすることなんてないな。」

先生せんせいのおはなしをおききしていましたら、なるほど、おんなでもわるくないというがしてきました。じつは、家内かないが、おんなまれたというんで、わたしいじょうにがっかりしているところです。ありがとうございました。さっそく、いえにかえって、家内かない先生せんせいのおはなしをきかせてやって、元気げんきをつけてやります。」

 その商人しょうにんは、いそいそとかえっていきました。

 諭吉ゆきちは、くちさきでいうだけではなく、毎日まいにち生活せいかつでも、ざいさんをわけるときにも、おとこおんなをすこしもくべつせず、まったくおなじでした。それは、諭吉ゆきちが、女性じょせいくだしたりはけっしてしなかったからにちがいありません。そこで諭吉ゆきちは、おくさんをそんけいし、諭吉夫婦ゆきちふうふはひじょうになかよく、むつまじくくらしました。諭吉ゆきちは一をしゅちょうし、もちろん、自分じぶんでもそれを実行じっこうしました。

 このように諭吉ゆきちは、民主主義みんしゅしゅぎというものをよくりかいし、これを、せけんの人々ひとびとにわかりやすい文章ぶんしょうでといただけではなく、自分じぶん実行じっこうしたのでした。それを、すべてのことにわたって、つらぬきとおしていました。

 諭吉ゆきちは、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明治めいじになって、やっと身分みぶんからかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身分みぶんのくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。

 明治めいじ三十一(一八九八)ねんに、諭吉ゆきち脳出血のうしゅっけつでたおれ、いのちがあぶないとつたえられたとき、政府せいふは、諭吉ゆきちに、しゃくいをさずけようとしました。そのらせがあったとき、家族かぞくをはじめ、慶応義塾けいおうぎじゅく人々ひとびとは、諭吉ゆきちかんがえをよくしっていましたので、そうだんのうえ、それをことわりました。

 諭吉ゆきちは、さいわい、よくなりましたが、このはなしをきいて、

「ああ、よくことわってくれた。」

と、こころのそこからよろこびました。

 こうして、明治めいじ三十四(一九〇一)ねん諭吉ゆきちは、六十八さいの正月しょうがつをむかえました。それは、あたらしい世紀せいき、二十世紀せいきのはじめのとしでした。

 慶応義塾けいおうぎじゅくのわかい学生がくせいたちは、ふるい十九世紀せいきをおくり、あたらしい二十世紀せいきをむかえるために、一九〇〇ねん十二がつ三十一にち、にぎやかなかいをひらきました。そのうちにはあけて、一がつ一日ついたち年始ねんしのあいさつにきた人々ひとびとに、諭吉ゆきちはいいました。

「いよいよ二十世紀せいきだ。十九世紀せいき日本にっぽんは、封建制度ほうけんせいどがつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたしたなかだった。けれども、日本にっぽんはあたらしいなかをむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」

 諭吉ゆきちはあかるくかがやき、希望きぼうにみちたかおは、とてもわかわかしくみえました。ですから、

福沢先生ふくざわせんせいは、元気げんきになられた。」

と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。

 ところが、その一がつもおわりにちかいころ、諭吉ゆきちは、きゅうに病気びょうきでたおれました。脳出血のうしゅっけつが、ふたたびおこったのでした。そうして二がつ三日みっか、とうとうその一しょうをおわりました。

 おもえば、福沢諭吉ふくざわゆきちこそ、民主主義みんしゅしゅぎひかりをかかげた、明治めいじおおきなともしびでありました。いや、明治めいじだけではなく、大正たいしょう昭和しょうわとつづき、今日こんにちのわたくしたちにとっても、なおおおきなともしびであるといわなければなりません。

(おわり)

底本:「福沢諭吉」講談社火の鳥伝記文庫、講談社

   1981(昭和56)年1119日第1刷発行

   2009(平成21)年29日第51刷発行

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2011年1128日作成

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