恋愛恐怖病(二場)
岸田國士



第一場


静かな海を見下ろす小高い砂丘の上

日没前後


男と女とが、向うむきに、脚を投げ出して坐つてゐる。「なんでもない同志」の間隔が、それとなく保たれてゐなければならない。


やゝ長い間


男  あアあ。南京豆が食ひたくなつた。

女  南京豆……? それより、あれ御覧なさい、靄がだんだんこつちへ来てよ。

男  靄は毒ぢやないでせう。これやいかん、尻がつべたい。僕は何時の間にか砂を掘つてゐた。

女  燈台に灯がつくまで、こゝにゐませうね。

男  勿論僕だつて帰らうとは云ひません。今日はなんだか重大な日だ。胸騒ぎがします。

女  あたしは、なんだか知らないけれど、喉がかわくの。(急に歌ひ出す)

波の底に

呼ぶ声あり

われあらずば

誰か応へん

男  (それを受けて、歌ふやうに呼ぶ真似をする)

オーイ

オーイ


やゝ長い間


女  (朗かに笑ふ)

男  女の友達つていふものは、どうしてかう、妙に相手をはぐらかすのかなあ。

女  それは、男の友達つていふものが、変にどこへでもついて来たがるからよ。

男  それは僕に云ふことぢやないでせう。僕はあなたからきめられた時間以外、場所以外に、あなたに近づかうとしたことはありません。

女  それは別としてよ。

男  僕は一度だつて、あなたの触れない問題に触れたことがありますか。

女  それはないやうね。

男  それ御覧なさい。

女  しかし、あなたも──あなたもよ──あなたも、絶えず人が何を考へてゐるかと探らうとしてゐらつしやるわね。

男  それは、一寸意外な観察ですね。相手が何を考へてゐるかを知らうとしないで、一時でも人間と人間とが顔を突き合はしてをれますか。

女  をれさうなものぢやない? いろいろな見栄を捨てゝしまひさへすれば……。

男  そして、相手を不愉快にすることを恐れさへしなければね。

女  へえ、あなたにも、さういふ心遣ひがおありになるのかしら? あなたは、一所懸命に、人を怒らさうとしてらつしやるんだと思つたら……。

男  それに、どうしても怒れないところがあると見えますね。

女  まあ、さういふことにして置きませう。(間)でもあなたは品子さんを、たうとう怒らしておしまひになつたぢやないの。

男  あれは向うが悪いんです。僕に手を持つて泳がせてくれつて云ふから手を持つて泳がせてゐたんです。すると、いきなり、手の握り方が気に入らないつて云ふんです。そんなもんぢやないつて云ふんです。

女  おやおや……。

男  それで僕は、ぢや勝手になさいつて手を放したんです。すると……。

女  もう沢山……、そんな話……。

男  それで、多少水を飲んだらしいんです。これが絶交の原因です。

女  もう少し寛大になつてもいゝのね、あなたは……。

男  さういふことにですか。

女  男と女とがお友達になるつていふのには、いくらかさういふことに興味がもてなくつちやね。

男  さうか知ら……。僕はさうは思ひませんね。友達は友達、恋人は恋人、夫婦は夫婦、かうちやんと区別をつけてほしいな。

女  つけなくつたつていゝぢやないの。それや、区別をつけたい人はつけたつていゝわ。例へば、あなたとあたしとは、友達以上のものになりたくないと思へば、ならずにすむわけだわ。

男  もちろん、僕もさう心掛けてゐるのです。

女  心掛なくつたつて大丈夫よ。あなた見たいな方は、恋人として熱がないし、夫としては落ち着きが足らず……。

男  友人としてだけ尊敬ができるわけですね。あなたは流石に眼が高い。だからこそ、僕は安心して、あなたとだけは、かうして、向ひ合つてゐられるのです。恋愛なんていふものは、一方だけがしつかりしてゝもなんにもならない。そこへ行くと、大丈夫なのはあなただけではない。僕の方も大丈夫です。なぜなら、あなた見たいな女は、恋人としては気紛れで……

女  妻としては我儘で……。ね、さうでせう。

男  (笑ひながら)それに、友達としてのあなたは、実に申し分がない。淡泊で、敏感で、思ひやりがあるところ、少くとも、僕が今までつき合つた男、女を通じて、あなたほどの友人は一人もなかつた。このことだけは、僕も、お世辞でなく、あなたの前で云ひきることができます。

女  真面目になるのはよしませう。

男  真面目に聞いてゐるからいけないんです。

女  あなたは、今日は、変よ。もう少し落ちついてものをおつしやいよ。お互に毎日、かうして話をし合つてゐるんだから、お互に、どういふところに興味をもち合つてゐるか、それがわからなくちや駄目……。

男  …………。

女  いゝのよ。そんな顔をなさらなくつたつて……。あたしは、あなたのどこが好きかつて云へば……さうぢやないの、あたしは、あなたから何を求めてるかつて云へば、あなたの、その……女を女とも思はない図々しさなの……。あら、ほんとよ……。勿論、多少の誇張はあるけれど、それは仕方がないわね。そこにあなたの宗教があるんだから……。

男  …………?

女  人によつては、それがわざとらしく思はれたり、却つて気障きざに見えたりするかもわからないけど、あたしは、さういふ男の友達が好きよ。(間)えゝ、まあ、好きつて云つてもいゝわ。

男  話がそこまで来たなら、僕も云つてしまひませう。僕は、今迄、恋愛の過程でしかないやうな、さういふ友達づきあひほど、異性間の間柄を月並にするものはないと思つてゐました。それで、どうかして、自分も男であることを忘れ、対手も女であることを忘れて、しかも、お互に、異性からでなければ受けられないやうな……親しみ、と云つては悪いかな、まあ、一種の親しみですね、さういふものを感じ合ひ、それによつて、お互の生活を新鮮にして行きたいと思つてゐたのです。

女  あたしは、異性の友達といふものに、それほど期待をかけてはゐないの。生活を新鮮にするのは、新しい恋愛だと思つてゐるんですからね。しかし、恋愛のできない男──かりにさういふ男があるとすれば──そして、さういふ男性を友達にしてゐるとすれば、それはそれでまた面白いと云ふ程度なの。しかし、あたしは、あなたを恋愛のできない男の一人だとは思つてゐませんわ。

男  それは、まあ問題外さ。少し話がやゝこしくなつて来たなあ。

女  (笑ふ)周章てないでもいゝわ。思つてゐることをおつしやいよ。あたしではそろそろお気に召さなくなつたんでせう。友達としても、やつぱり落第つていふわけね。それかと云つて……。

男  そんなでもありませんよ。早く云へば、あなたは少し美し過ぎるんだ、友達としてはね。それは、つまり、僕にも弱味があるといふことになるんだが……一つ、此の辺で、あつさり手でも、握るかな。

女  さあ、どうぞ(手を出す)握れるなら、握つて御覧なさい、どんなことになるか。

男  (無器用に笑ふ)僕は冒険は嫌ひだ。

女  さうでもないくせに……。あたしの見るところでは、あなたの生活が、もう一つの冒険だと思ふわ。

男  あなたの生活はどうです。

女  だからあたしは、冒険家を以つて任じてるんだわ。さうね。あなたは、用心をしながら冒険をするつていふところがあるわね。

男  …………。

女  独身で婆やを置いてらつしやるのなんかもそれよ。

男  (笑ふ)なるほど、さうか、独身は冒険なんですね。

女  あなたのお年ではね。

男  結婚はなほ冒険でせう。

女  一度で済むわ、その代り……。

男  一度で済まなければ……。

女  冒険でなくなるばかりよ。

男  あつさりしてら。僕は兎に角、冒険はきらひです。独身が冒険だと云はれゝばしかたがないが、少くとも独身を利用することは慎しんでゐるのです。あなたのやうな自由な考へ方も面白いが、僕もこれで、なかなかしつかりした考へをもつてゐるつもりなんです。心を乱したり、生活を煩はしくしたりするやうな一切の誘惑は、頭から斥けよう、かう決心をしてゐるのです。あなたとかうしておつきあひをするやうになつたのだつて、僕の方から求めたわけぢやないんですからね。

女  えゝ、それやあたしの方から品子さんにお願ひして紹介して頂いたんだわ。

男  その品子さんといふのがまた、友人の妹といふだけで、別に……、

女  なんでもないつておつしやるんでせう。そんなことはお断りにならなくつてもいゝわ。それで、あたしにどうしろつておつしやるの。また絶交しようつておつしやるの。

男  それもいゝかも知れません。しかし、今のところ、それほどの理由もないやうです。僕は、こはいんですよ。実は……。

女  あたしが?

男  いゝえ、あなたといふ訳ぢやないが……。

女  あたしとかうしてゐることが……?

男  いゝえ、それより、僕自身の問題なんです。僕は、早晩、身動きができなくなるでせう。

女  いゝぢやありませんか。

男  そのうち、あなたに、どんな要求をし出すかわかりませんよ。

女  いゝぢやありませんか。

男  僕は、あなたなしには、生きて行けなくなるでせう。

女  いゝぢやありませんか。

男  (独言のやうに)いゝぢやありませんか……。(間)いゝぢやありませんか……。(間)ちつともよくはありませんよ。


長い沈黙


女  (だしぬけに)燈台に灯がついたわ。

男  もう帰る時間でせう。

女  さうね。ぼつぼつ……。(間)ぢやこれでお別れね。

男  どうでせう、さうした方がいゝでせうか。

女  さあ、あたしはどつちでも……。(間)処で、こんなことを真面目くさつて相談するなんて、随分あたしたちも馬鹿ね。めいめい、自分の好きなやうにしたらいゝぢやないの。あなたは帰るならお帰りなさい。あたしは、もうすこし、かうしてゐるの。

男  お腹はすかないんですか。

女  人のことなんか心配しないだつていゝわ。

男  …………。

女  なによ? あたしは、煮えきらない男は嫌ひよ……。

男  煮えきるにも煮えきらないにも、別段、今、決心をしなけれやならん場合ぢやないでせう。

女  (ふき出して)決心をしなけりやならん場合よ。

男  さうですか。ぢや、決心をしませう。(起ち上らうとする)さよなら。

女  (わざと横を向いて聞えないふりをしてゐる)

男  さよなら、御機嫌よう。(起ち上る)

女  (いきなり、男の手をつかまへて、そばへ引き据える)駄目!

男  …………?

女  駄目よ、行つちや……。

男  さ、放して下さい。

女  (男の眼を見据ゑ)あなたは、臆病なのね。

男  (真面目くさつて)ゆるして下さい。

女  (なんでもないやうに笑ふ)ゆるしてあげるから、もう一度こゝへお坐んなさい。

男  (しかたがなしにすわる)

女  (男の手を握つたまゝ、詰るやうに)どうして……?

男  (面目なげに顔を伏せる)

女  どうして逃げやうとなさるの、何がこはいの、誰にわるいの。(間)ねえ、それを聴かして……?

男  (こゝで女の顔を見る)なかなかあなたも芝居がうまいや。(笑はうとするが、口の辺がこはばる)

女  そんなことをおつしやるなら、もつと事務的にお話をしませう。ね、そんならいゝでせう。

男  さういふ意味ぢやないんです。僕達二人のことについては、もうこれ以上いろんな問題に触れない方がいゝと思ふんです。さつきも云つたとほり、僕達は飽くまでも友達としておつき合ひをしたいと思つてゐるんです。あなたとならそれができると思つてゐたのです。僕は、今どんな異性とでも、友達以上の関係を結びたくないんです。その理由をお話するとながくなりますが、一口に云へば、恋愛つていふものに、まつたく興味を失つてゐるのです。いや、さういふと語弊がありますね。つまり、さういふ関係から必然的に生じる、いろんな繁雑さに、堪えられない気がするんです。

女  つまり面倒臭いのね。

男  億劫なんです。

女  気味が悪いんぢやない。

男  飽きあきしてるんですね。

女  本当の味がわからずにね。どうしてお笑ひになるの。あたしがこんなことを云つては可笑しいか知ら……。あなたにだけ可笑しいのかも知れないわ。

男  (とぼけて)僕だけに可笑しいことが、此の世の中に一つでもあれば、それはなんと得意ではないか。

女  (お話をして聴かせるやうに)さうよ、あなたは、どんなに得意におなりになつてもいゝわ、あなたは、一人の女から、命をかけて愛されていらつしやるのよ。

男  その愛を、僕は、命をかけて拒まうとしてゐるのです。

女  とおつしやるのは口ばかりで、その愛がどんな愛かといふことを御覧になつたら、きつとその命とやらは、また懐へしまつておしまひになるでせう。

男  (おどけて)いえ、いえ。

女  いえいえなもんですか。さ、耳を澄まして、あたしの歌ふ唄を聴いていらつしやい。

男  その前に、僕は一寸、飯を食つて来ます。

女  いけません。歌がお嫌ひなら、お話にしませう。

あたしたちは、先づ決して誓ひといふものを立てません。

その代り、あたしたちは、誰もゐないところへ行つて、二人だけの愛の巣をつくります。

あたしたちは、夜が明けてから、日が暮れるまで、顔を合はせないやうにします。

あたしは、その間、なるだけ淋しさうな顔をしてゐます。あなたが、何時、なんどき、あたしのしてゐることを、見にゐらつしやるかわからないから……。さうして、あたしが独りで淋しさうな顔をしてゐることは、あなたにとつて、なにより幸せなことでせうから……。

男  そんなことはありません。

女  そんなことはないんですつて……。それぢや、何時も、楽しさうな顔をしてゐませう。あなたの腕に抱かれてゐるときも、さうでないときも同じやうに晴れやかな顔をしてゐませう。あなたはどんなときでもあたしをお呼びになることができるの。しかし、あたしは、あなたのお許しがなければおそばに行かれないことにしませう。女は、それくらゐにしないと、自分を制することができないものですから……。

男  …………。

女  あたしたちは、どんな仕事をしませう……? あなたは、やつぱり童話をお書きになるのね。あたしは、あなたのお好きなことをしますわ。草花を作りませうか。鶏を飼ひませうか。

男  鶏はよしませう。

女  さう、ぢや、鶏はよしませう。お台所とお針だけにしませうか。それと、お洗濯……。

男  婆やがゐるぢやありませんか。

女  あの婆や、あたし、ゐない方がいゝわ。

男  …………。

女  それとも、あたしにさういふことをさせるのがおいやなら、小さな女中を一人置きませう。

十三から十五までの……無邪気な、よく云ふことを聴く……。あたし上手にし込みますわ。

おや、こんなことを云ふと、まるで、あなたの奥さんになるやうね。

そこで、今度は、二人が一緒にゐるときはどうするかつて云ふこと……。


長い沈黙


女  何をそんなに考へていらつしやるの。

男  僕は非常にがつかりしたんです。さういふ夢を見てゐる時のあなたは、やつぱり平凡な女だといふことがわかつたからです。なるほど、あなたのやうな若い美しい女の口から、さういふ歌を唄つて聞かされるのは、それだけとして、悪い気持はしない。それどころか、僕は、年甲斐もなく、ほろりとさへしました。しかし、子守歌はやつぱり子守歌ですね。僕はもう、そんなことで、すやすやと寝つきはしませんよ。

女  人間は誰でも、男でも女でも、真剣になると平凡よ。

男  …………。

女  あなただつて、今日は、いつものあなたぢやなくつてよ。さうお思ひにならない? でも、うれしいの。あなたを少しばかりしんみりさせたから……。

男  …………。

女  云ひたいことを云つてしまつたら、胸がせいせいしたわ。(間)でも、悪く思はないで頂戴……。

男  僕はなんとも思つてやしません。(間)しかし、何処までが真面目でどこまでが戯談なんだか……。

女  もちろん。これがお芝居だと云つて済まされないことはありませんわ。

男  その方が、起ち上るのに都合がいゝでせう。さ、もとの二人になつて、何時もの通りに、さよならをしませう。

女  (力なく、しかし、男の口調を真似て)よからう。(間)ところが、もう真暗だ。ホテルまで送つて来てくれ給へ。ついでに、晩飯を一緒に食はうぢやないか。(間)よかつたら、僕んところへ泊つて行くさ。部屋はいくらでもあいてる。

男  ぢや、兎に角、送つて行つてあげませう。あの道は一人ぢや物騒だ。(起ち上る)

女  なあに、こはいことはないさ。たゞ、道を迷ひさうなんだ。あの杉林の中は、昼間でも、うつかりしてると間誤つくからね。(起ち上る)あぶねえ。(と云つて、よろけながら、男の肩に腕を投げかける)駄目だよ。そんなに急いぢや……。(男を引き留める)どら、どんな顔をしてる。(男の顔をのぞき込む)ちつたあ、笑へよ。(と云ふなり、男の頬へ唇をあてる)

男  なにするんです。(と云ひながら、驚いて女を突きのけ、逃げるやうに走り去る)

女  (笑ひながら)戯談よ、今のは戯談……。何処へ行くの……。もうしないつてば……。本当にもうおしまひよ……。


長い沈黙


女  (突然声をあげて笑ふ。そして男の後を追ふ)


第二場


同じ砂丘の上


男が別の男と並んで、正面向きに、脚を投げ出してすわつてゐる。


別の男  しかし、昨夜、君と二人で此処にゐたのを見たものがゐるんだ。

男  それやなんの証拠にもならないぢやないか。

別の男  なんの証拠にもならないかねえ。それぢや、その先を云つても、君は驚かないか。

男  驚かない。

別の男  彼女は、夜中まで、此処で泣いてたんだよ。一人で……。

男  …………。

別の男  泣いてたのを見たのは僕なんだ。

少し驚いたらう、しかし、その先を云はうか。もつと驚くことがあるんだ。

男  …………。

別の男  彼女は、今、僕の処にゐるんだ。昨夜から、僕の部屋にゐるんだ。

男  昨夜から?

別の男  君はこれでも驚かないか。ぢや、最後のひと言を云はう。僕達は結婚したんだ。

男  え?

別の男  勿論。僕は、君の驚く顔を見たさに、これだけのことを君に云ひに来たんぢやない。僕はたゞ、自分の立場を明かにしに来たんだ。

男  …………。

別の男  僕があの女に参つてゐたことは、君達はとつくに知つてる筈だ。恐らく、此の避暑地に来てゐる連中で、それを知らないものはあるまい。彼女が食つた西瓜の種を、残らず拾つて集めてゐるといふ噂も、まんざら嘘ぢやないんだ。

男  …………。

別の男  所が、あの通りの女だ。僕も昨夜迄は知らずにゐたんだが、今迄、自分を愛してゐると口に出して云つた男には、その場限り絶交を宣言することにしてゐたんださうだ。

男  …………。

別の男  僕も、その一人だつたんだ。

男  …………。

別の男  僕だけぢやない。聞けば、「山猫」もさうだ、「ダヌンチオ」もさうだ。「緑の猿股」もさうだ。それから、「棚つ尻」……。

男  タナツチリ……?

別の男  識らないか。そら、女学校の教師だとかいふ、尻を突き出して歩く奴がゐるだらう……。光明寺の庵室を借りて自炊してゐる……。

男  あゝ。

別の男  「棚つ尻」……こいつは、一度免されて、また失敗つたんだ。

男  あいつが……?

別の男  まだあるかも知れん、まあ、それやどうでもいゝ、僕は、此の一週間、その為に、彼女と口を利かずにゐた。何のことはない、台所を追はれた野良犬さ。此の土地にゐちやよくないと思つた。そこで昨夜は、思ひ出の仕入れ方々、月がいゝのを幸ひ、浜伝ひに此処迄歩いて来たんだ。(間)見ると、女が一人、ハンカチを眼にあて、啜り泣きをしてゐる、轟く胸を押し鎮めて、女のそばに近づいた。(間)──どうしたんです、今頃……。と云つて、そこへしやがんだまではよかつた。それが、意外にも、彼女なんだ。

男  …………。

別の男  それが、彼女であつて見れば、話は却つてし易い。ね、さうぢやないか、果して話は簡単に運んだ。

男  …………。

別の男  と云ふと、君はそんな顔をするだらう。待ち給へ。それには入り組んだ事情がある。彼女の云ふところはかうだ。彼女は、人知れず、君に心を傾けてゐたらしいんだ。

男  …………。

別の男  しかし、彼女は、その気持を、君に見破られることを恐れてゐたんだ。と云ふよりも、君に先手をうたれることを恐れてゐたんだ。なぜなら、彼女は、君の告白を冷かに聞き流す勇気がないことを知つてゐた──と、まあ、彼女は、さう云ふんだがね。従つて、自誡を破らなければならない。だが、それは、彼女の自尊心が許さない。

男  …………。

別の男  そこで、彼女は、一策を案出した。つまり、君の腕から逃れる為に、自ら君の腕に飛び込むと云ふ戦法がそれなんだ。

男  …………。

別の男  わからんかね。(間)早く云へば、こつちから持ちかければ、向うが逃げると見たんだ、彼女はね。(間)果せるかな、君は逃げた。と、彼女は云つたよ。(間)

男  …………。

別の男  それや、本当かい、君……。君は、しかし、変な男だよ。僕がそれを云ふと可笑しいが、君はなんだつて、逃げたんだ。

男  …………。

別の男  君は、実際、あの女に気はないのかい。

男  …………。

別の男  言葉が悪けれや、云ひ直さうか。君は、あの女がどうなつたつてかまはないか。僕は、それを君に聞きに来たんだ。僕として、それを聞くのが、そんなに不自然ぢやないと思ふんだ。だから、もう一度聞くが、君は、僕の手から、あの女を取り戻さうとはすまいね。

男  …………。

別の男  なに、さう云つたつてかまはんよ。あの女は、君の出方一つで、君の思ふ通りになるんだ。それが、偶然僕の懐へ飛び込んで来た、と云つて、何も不思議はない。僕の懐は、彼女の病院なんだ。(間)彼女は一種の病人だよ。

男  …………。

別の男  彼女は、昨夜から僕のものにはなつたが、絶対に「ラヴ」といふ言葉を口に出すなと云ふんだ。(間)僕の机の上にあつたトランプを一枚一枚めくりながら、ハートの札を片つ端から引裂いてしまつた。まるで狂気だ。

男  …………。

別の男  狂気だと云へば、彼女は、君の写真を一枚欲しいと云つてた。なににするのか知らないが、あるならやつてくれ。僕は、彼女が、たとへその写真を、肌の護りにしやうとも敢て苦情は云はん。

男  …………。

別の男  君は僕を馬鹿だと思ふだらう。しかし、僕は君に感謝する。君のやうな果報者に、惨めな男の気持はわからんよ。僕はこれから、彼女を連れて、田舎へ引つ込む。彼女もそれを望んでゐるのだ。尤もそれが、長く続くかどうかわからん。華やかな生活に慣れた彼女が、都の灯を慕ひ出せば、その時は又その時の話だ。僕と云ふ男に用がなくなれば、その時もまたその時の話だ。しかし、今日といふ明日、彼女を他の男の手に奪ひ去られたくない。それで、ひと言君の返事を聞きに来たんだ。

男  …………、

別の男  君はほんとうにどうもないか。

男  (きつぱり)どうもない。

別の男  さうか。

男  君は、今、君の懐は彼女の病院だと云つたが、それでなにか、彼女はたゞ、それだけの理由で、君の懐を求めて来たと思つてゐるんだね。その事について、もつと突つ込んだ考へ方はしてゐないんだね。

別の男  突つ込んだ考へ方とは……?

男  結局彼女は君を愛してゐるんだとは思はないかい。

別の男  それはなんとでも考へられるさ。或は、もつと突つ込んで──君の言葉を借りればだね──例へば、僕を通して君を愛さうとしてゐるかも知れないよ。

男  …………。

別の男  或はまた、さうすることによつて、彼女は僅かに自尊心を慰めてゐるかも知れないよ。

男  それで君は、なんともないのか。

別の男  …………。

男  こんなことを君に聞く必要はないのだが、僕としては、君がそこまで考へた上で、僕の処へその話をしに来たんだといふことを知るのは非常に興味があるんだ。兎に角僕は君に誓ふ──僕と彼女とは永久に「なんでもない」よ。

別の男  それぢや、もう別に云ふことはない。今迄、あまり話をする機会はなかつたのに、何時の間にか、かうして、ざつくばらんに話ができるやうになつてゐたのは幸ひだ。君が僕のことを人に話す時に、多額納税者の道楽息子とは云はずに、大学で一緒に講義を聴いたことのある男と云つてゐるといふことは、蔭ながら、君に親しみを感じさせた一つの理由だ。

男  僕は君が多額納税者の道楽息子だなんていふことは知らなかつたよ。

別の男  さうか、それほどお互に無関心だつたんだ。さう云へば、今度だつて、あの女を通じて、二人は話をし合ふやうになつたんだからね。

男  君は僕を覚えてゐたと云ふぢやないか。

別の男  覚えてゐたよ。君は夏も冬も同じ服を着てゐた。君は講義の途中で、よく席を立つた。君は女子聴講生を一人友達にしてゐた。

男  あれは妹だよ。なるほど、君はよく覚えてゐる。それから、君は、僕が一度、心理の時間に脳貧血を起して倒れたのを知つてるか。

別の男  知らない。僕は一度しかなかつたことは知らないと云つていゝ。


長い沈黙


男  君は彼女の云つたことを悉く信じてゐるのか。

別の男  悉く信じてはゐない。一体僕は、女の云ふことは半分だけ信じることにしてゐるんだ。尤も、何を信じ、何を信じないといふやうなことを、ちやんときめてかゝることはできないが、そんなことはどうでもいゝんだ。大概あてずつぽうに、これはほんとだ、これは嘘だ、さう判断をしてかゝれば大した騙され方はしないよ。

男  騙されても半分だけだ。

別の男  さうだ、半分だけだ。

男  それから一層、全く信じなければいゝぢやないか。騙される率はなほ少いわけだ。

別の男  それや少い。然し、全く騙されないといふことは淋し過ぎるよ。僕が若し君なら、彼女に一度騙されてやるね。

男  …………。

別の男  彼女が実際君を騙さうとしたかどうかは知らんが、さう考へて見るのも面白いぢやないか。(間)つまり、彼女は君を愛してはゐないといふことになるのだ。

男  それさ、僕の云はうと思つたことは……。

別の男  さうか、さう云ふ風に考へて行けば、昨夜の芝居は、また観方が違つて来るわけだ。

男  その方が、君自身には面白からう。

別の男  さうでもないよ。君の方だつて、その方が楽だらう。気持がね。聡明な君にも似合はないことだ。女を泣かしちまふなんて……。それや、向うだつて口惜しいだらう。まんまと芝居の裏をかゝれちやね。僕だつたら、もう少し、彼女の玩具になつてゐてやるよ。初めから逃げるかはりに、見事に背負投げを喰つてやるよ。そして、アハハハハつて笑つてやるよ。どうだ、此の手は気がつかなかつたらう。

男  (苦笑しながら)かうして話してるうちに、だんだん色々なことがわかつて来た。しかし、僕にはやつぱりその勇気はない。それも一種の火いたづらだからね。

別の男  火いたづらか……。それが君の自惚かも知れないよ。これから帰つて、あれによく聞いて見よう。ぢや、これで失敬。(起ち上る)君は来年もこゝへ来るね。僕達も多分来るだらう。まあ、せいぜい、泳ぎ給へ。(去る)

男  (黙つてその後姿を見送る。やがて、腹這ひになり、沖の方に向ひ、小声で唱ふ)

波の底に

呼ぶ声あり


(すると、此の歌の後を受けて、遥かに、女の声が)


われあらずば

誰かこたへん


男  (恐る恐る半身を起して、此の声に聴き入る)


その間に──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「新選岸田國士集」改造社

   1930(昭和5)年28日発行

初出:「改造 第八巻第十号」

   1926(大正15)年91日発行

入力:kompass

校正:門田裕志

2012年14日作成

2016年413日修正

青空文庫作成ファイル:

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