紙風船(一幕)
岸田國士

人物


時  晴れた日曜の午後


所  庭に面した座敷



夫  (縁側の籐椅子に倚り、新聞を読んでゐる)

「米国フラー建材会社のターナー支配人が一日目白文化村を訪れて、おゝロスアンゼルスの縮図よ! と申しましたやうに、目白文化村は今日瀟洒たる美しい住宅地になりました」

妻  (縁側近く座蒲団を敷き、編物をしてゐる)なに、それは。

夫  (読み続ける)「四万坪の地区には、整然たる道路、衛生的な下水水道電熱供給装置テニスコート等の設備があり多くの小綺麗なバンガローや荘重なライト式建築、さては、優雅な別荘風の日本建築などが、富士の眺めや樹木に富む高台一帯の晴れやかな環境に包まれて……」(新聞を投げ出し)おい、散歩でもして見るか。

妻  いゝから、川上さんとこへ行つてらつしやいよ。

夫  是非行かなくつてもいゝんだよ。

妻  あたしは、思ひ立つた時すぐでなけれやいやなの。

夫  散歩か。

妻  散歩でもなんでも……。


(間)


夫  散歩でもなんでもつたつて、ほかに何かすることがあるかい。

妻  ないから、それでいゝぢやないの。

夫  あ。

妻  川上さんとこへいらしつたらどう、そんなこと云つてないで。

夫  もう行きたくないよ。

妻  行つてらつしやいよ、ね。

夫  行かないよ、お前のそばにゐたいんだよ。わからない奴だなあ。

妻  わかつてますよ、憚りさま。


(間)


夫  あゝあ、これがたまの日曜か。

妻  ほんとよ。

夫  (また新聞を拾ひ上げ、読むともなしに)

かういふ場合の処置なんていふことを、新聞で懸賞募集でもして見たら、面白いだらうな。

妻  あたし出すの。

夫  (新聞に見入りながら、興味がなさゝうに)何んて出す。

妻  問題はなんて云ふの。

夫  問題か……問題はね、結婚後一年の日曜日を如何に過すか……。

妻  それぢや、わからないわ。

夫  わからないことはないさ。ぢや、お前云つて見ろ。

妻  日曜日に妻が退屈しない方法。

夫  そして、夫も迷惑しない方法……。

妻  いゝわ。

夫  名案があるのか。

妻  あるの。先づ女は、朝起きたら、早速お湯に行つて、ちやんとお化粧をすまして、着物を着替へて、一寸お友達の処へ行つて来ますつて云ふの。

夫  すると……。

妻  すると、男は、きつといやな顔をするにきまつてるでせう。

夫  きまつてやしないさ。

妻  あなたのことよ。

夫  おれが何時いやな顔をした。

妻  しないの。

夫  まあいゝ、それからどうする。

妻  いやな顔をするでせう。さうしたら、かう云ふの──実は、あんまり行きたくもないんだけれど、うちでぶらぶらしてたつていふことが後でわかると具合が悪いから……それが、会ふたんびに、一度遊びに来い、日曜なら主人もゐるし、一緒に芝居にでもつて、さう云はれるんでせう、今日は、どうせあなたもうちにゐて下さるんだし、一寸行つて来ようと思ふの。それとも、何か御都合でもあればつて優しく訊いて見るの、それとなくよ。

夫  それとなくね。いや、別に、おれの方はかまはないが、お前がゐなくつて、昼飯はどうする。

妻  お昼は、お茶潰の用意をして置きました。

夫  晩は。

妻  晩は、出がけに「あづまや」へ寄つて、「親子」でもさう云つて置きませう。

夫  また「親子」か。帰りは遅くなるだらう。

妻  さうね、まあ、はつきりわからないけれど、十時になつたら、お床を敷いて寝てゝ頂戴。

夫  金は持つてるかい。

奏  それがもう、すつかりなの。

夫  ぢや、これを渡しとかう。さ、十円。

妻  ありがたう。

夫  夜風はもう寒いよ、襟巻を持つてけ。

妻  えゝ。

夫  さて、おれは、これからゆつくり本でも読まう。湯だけ沸くやうにしといてくれ。客が来たら、ビスケツトの残りがまだあると……。髭も今日は剃るまい。あゝあ、長閑な日曜だ。

妻  (黙つて下を向いてゐる)

夫  どうしたい。

妻  あなたは、もう駄目。

夫  どうして。

妻  どうしてでも

夫  (新聞を投げだし)さうか、それぢや、お前が若し男だつたら、さういふ時、どうする。

妻  さういふ時つて……。

夫  止めるかい。

妻  止めるわ、なんとか云つて。

夫  何んて云つて止める。

妻  是非行かなくつても済むんなら、今日は、おれと芝居を附合はないかとか、何んとか……

夫  なるほど。附合はうつて云はれたらどうする。

妻  行けばいゝわ。

夫  行けばいゝさ。しかし、行きたくなかつたらどうする。行きたくつても、事情が許さなかつたらどうする。今日見たいに。

妻  ぢや、芝居が活動になつたつていゝぢやないの。

夫  活動か……あれや、お前、夫婦で見に行くもんぢやないよ。

妻  なぜ。

夫  誰にでも訊いて見ろ。

妻  それがいけないの、あなたは。あたしはほかの女と違ひますよ。

夫  違ふだらう。違ふから、なほあぶない。

妻  何を云つてるの。

夫  やつぱり出るといふものは、止めない方がいゝやうだな。

妻  さうね、だから行つてらつしやい、川上さんとこへでもなんでも。

夫  しつつこいな。今朝お前は何んて云つた。おれが、川上の処へ行つて来るつて云つたら、川上さん川上さんつて毎日社で顔を合はせてる人を、なんだつてさう恋しがるんでせうね、日曜ぐらゐ一日うちにいらつしつたつて損はないでせう。何んの為めに、あたしがかうしてゐるんです。──さう云つたね。

妻  それがどうしたの。

夫  どうもしないさ。問題は、お前が、何んの為めにかうしてゐるかつていふことだ。

妻  (やゝむきになり)あら、かうしてゐてはいけないの。

夫  かうしてゐるにも、かうしてゐやうがあるぢやないか。おれが新聞を読む。お前は編物をしはじめる。おれが溜息を吐く。お前も溜息を吐く。おれが欠伸をする。お前も欠伸をする。おれが……

妻  だから、どつかへ行きませうて云へば、あなたが、なんとか、かんとか云つて……。

夫  よし、それはわかつた。だが、おれたちは、日曜にどつかへ行く為めに、夫婦になつたわけぢやあるまい。うちにゐたつて、もう少し陽気な生活ができる筈だ。

妻  あなたが話をなさらないからよ。

夫  話……どんな話がある。

妻  話は「する」ものよ。「ある」もんぢやないわ。

夫  なんだ、それや……。哲学か。よし、話は「する」ものとして置かう。お前だつて話をしないぢやないか。

妻  うるさいつておつしやるからよ。

夫  何かしてる時に喋舌るからさ。

妻  うそよ、寝てからでもよ。

夫  ねむいからさ。

妻  (しんみり)ほんとを云ふと、あたしは、黙つてあなたのそばにゐさへすれば、それで満足なの。あなたが、もう少しあたしに気をつけて下さると、それこそ、どんなにいい方だか知れないんだけれど……。

夫  (小鼻をうごめかし)晩飯の菜はなんだい。

妻  (快活に)未定よ、今日の成績次第。

夫  (その気持に乗り兼ねて)お前はいつまでも女学生だね。

妻  どういふ意味。あたし、何時でもさう思ふの、日曜なんか、それや余裕がある時は、お芝居を見に行くなり、何かおいしいものを食べに行くなり、さういふこともあつていいけれど、そんなことは第二として、もつと家庭らしい楽しみが、いくらだつてあると思ふの。お庭だつても、これぢやあんまりだわ。あなたが手伝つて下されば、一寸した花壇ぐらゐこしらへるのは、それこそなんでもないわ。今頃、コスモスなんかがいつぱい咲いてて御覧なさい。外から見ても綺麗ぢやないの。

夫  だからお前は女学生だよ。

妻  そんなら、あなたは小学校の生徒よ。

夫  (笑ひながら)さういふところがあるかい。

妻  あつてよ。

夫  おい、散歩しよう。

妻  もう遅いわ。

夫  その辺でもいゝや。

妻  どこ、井の頭。

夫  多摩川でもいゝ。

妻  そんならもつとゆつくりした時にしませうよ。どつかでお昼でも食べるつていふやうにしなくつちや、つまらないわ。

夫  お前の処にいくらある。

妻  もういや、今日は、そんな話は。

夫  (指を折りながら)十六、十七、十八、十九……。

妻  それこそ、朝から用意をして、朝御飯を食べたらすぐ出掛けるぐらゐでなけれや……。

夫  前の晩に話をきめといてね。

妻  さうよ、何処なら何処へ行くつて。

夫  日帰りで鎌倉あたりへ行くのもいゝな。

妻  行きたい処があるわ。

夫  さうするつていふと、東京駅を八時何分かに出る汽車がある。

妻  二等よ。

夫  当り前さ。早くあの窓ぎはの向ひ合つた席を占領するんだなあ。おれのステツキとお前のパラソルとを、おれが、かう網の上にのせる……。

妻  あたし、持つてる方がいゝの。

夫  さうか。後からはいつて来る奴らは、おれ達を見て、はゝあ、やつてるなと思ひながら、成るべく近くに席を取るに違ひない。

妻  馬鹿ね。

夫  汽車が動き出す。

妻  窓を開けて頂戴。

夫  煤がはいるよ。あれ御覧、浜離宮の跡だ。

妻  まあ。

夫  品川、品川、山手線乗換。

妻  早いのね。あたし、キヤラメルを買ふの。

夫  よし、おい、キヤラメル。

妻  あなたはいかが。

夫  もらはう。大森は通過、もうぢき社長の家が見える。

妻  あれがさう、けちな家ね。

夫  けちな家だ。蒲田、川崎は飛ばして横浜と。こんな処にも用はない。程ヶ谷、戸塚、さあ大船へ来た。

妻  あたし、サンドウヰツチ買ふの。

夫  よし、おい、サンドウヰツチ。

妻  あなたはいかが。

夫  うむ、もらはう。

妻  いやよ、一人でたべちや。

夫  さ、降りる用意をした。下駄を穿いて……。

妻  坐つてなんかゐません、そんな……。

夫  先づ行くとすると八幡宮だらうな。知つてるか。

妻  知つてますよ。それより、海岸へ行つて見ませうよ。

夫  それもよからう。えゝと……。

妻  自動車を呼べばいゝわ。

夫  さうか、おい、タクシー。さあ、お前先へ乗れ。

妻  ぢや、御免遊ばせ。

夫  そこで、煙草に火をつけると。

妻  その前に、行先をおつしやいよ、運転手に。

夫  海岸でいゝぢやないか。

妻  をかしいわ、海岸までなんて。一寸、運転手さん、海浜ホテル。

夫  海浜ホテルは閉まつてやしないか。

妻  うそおつしやい。

夫  しようがない。行つちまへ。ブウ、ブウ、ブウ……。

妻  何よ、それや。もう来たのよ。

夫  やれやれ。ぢや、見晴しのいゝ部屋へ通してくれ給へ。

妻  食堂でいゝぢやないの。

夫  さうさ、だから、お前、何か註文しろ。

妻  あなたは。

夫  おれはなんでもいゝ。

妻  ぢや、カルピスを二つ、冷たいのね。

夫  おい、君、君、昼まではまだ間があるから、少しその辺を歩いて来よう。十二時には帰つて来るから、何か美味いものを食はして呉れ。

妻  さう。

夫  それから当分滞在したいんだが、いゝ部屋があいてるかい。バスルームのついた……。

妻  バスルームつて……お風呂場ね。

夫  しツ。あ、さう。ぢや、それにしよう。いや、見ないでもいゝ。それから、君のうちに飛行機はないの。

妻  あなた。

夫  ない。それぢや仕方がない。歩いて行かう。さ、おれのステツキは……。

妻  また汽車の中に忘れて来やしない。

夫  いや、ボーイに渡した。あゝ、それだ。

妻  どつちへ行くの。

夫  向うに見えるのが江の島だ。

妻  いゝ景色ね。

夫  気をつけないと転ぶよ。どら、手を曳いてやらう。

妻  人が見るわよ。

夫  見る奴が損をする。草臥れたか、ぢや、この辺で一と休みしよう。なんなら、海へはいつてもいゝよ。

妻  あたし、はいるわ。

夫  はいれ。うむ、お前も裸になると、なかなか好い体格だ、あんまり遠くへ行くな。

妻  大丈夫よ。

夫  待て待て、そこで、さうしてゝ見ろ。写真を一枚取つて置かう。さ、いゝかい。うむ、これや素敵だ。(だんだん興奮して来る)今迄、お前が、こんなに美しく見えたことはない。どうだい、その形は……。なんといふ素晴らしい色だ。さうさう、やあ、お前の髪の毛は、そんなに長かつたのか。お前の胸は、そんなにふつくらしてゐたのか。あ、笑つてるね。こつちを向いて御覧。うん、それがお前の眼だつたのか。あゝその口は……(われを忘れたやうに叫ぶ)

妻  (はじめて顔を上げ、たしなめるやうに)あなた。


(長い沈黙)


夫  こゝへ来て見ろ。

妻  (笑つてゐる)

夫  (両手を差出し)来て御覧。

妻  いや。

夫  来て御覧つてば。

妻  (起ち上り、夫の両手を取り、それを振りながら)あなたには、丁度いゝつていふところがないのね。

夫  どういふ風に(妻を引寄せようとする)

妻  いや、そんなことしちや。

夫  (妻の手を取りたるまゝ)お前は、ほんとに、おれがいやになりやしないか。おれとかうしてゐるのが……。

妻  あなたはどうなの。

夫  おれは、お前とかうしてゐることが、だんだんうれしくなくなつて来た、それは事実だ。しかし、お前がゐなくなつた時のことを考へると、立つても坐つてもゐられないやうな気がする。それも、ほんとだ。

妻  どつちがほんとなの。

夫  どつちもほんとだ(間)だから、おれは、こんなことぢやいけないと思ふ。が、どうにもならないんだ。(間)お前が、さうして、おれのそばで、黙つて編物をしてゐる。お前は一体、それで満足なのか。そんな筈はない。おれの留守中に、お前は、どこか部屋の隅つこで、たつた一人、ぼんやり考へ込んでゐるやうなことがあるだらう。おれは外にゐて、お前のその淋しさうな姿を、いくども頭に描いて見る。百円足らずの金を、毎月、如何にして盛大に使ふか、さういふことにしか興味のないおれたちの生活が、つくづくいやになりやしないか。今更そんなことを云つてもしかたがないと諦めてゐるかも知れない。しかし、お前は決して理想のない女ぢやないからね。おれは、今のお前がどんなことを考へてゐるか、それが知りたいんだ。かういふ生活を続けて行くうちに、おれたちはどうなるかつていふことだらう。違ふか。それとも、お前が、娘時代に描いてゐた夢を、もう一度繰り返して見てゐるのか。

妻  あなたは馬鹿よ(笑はうとしてつい泣顔になる)

夫  人間はみんな馬鹿さ。自分のことがわからずにゐるんだ。さ、もうよさう、こんな話は。

妻  でも久しぶりよ、泣いたのは。

夫  おれが、日曜日にお前をほうつて外へ遊びに出る。それをお前が不満に思ふのは当り前だ。たまには気晴らしもしたいだらう。活動ぐらゐなんでもない。夕飯でも食つたら、出掛けるか。

妻  (うなづく)

夫  行かう。そんならそれで、早く風呂へでもはいつて来い。

妻  (涙を拭きながら)今日はいゝの。

夫  どうして。

妻  あなたこそ、今日で三日目よ。

夫  うむ、少し風邪気味なんだけれど……まあ、今日はよさう。それより、今が三時半だから……さうだ、夕飯までに一寸出て来るからね。

妻  (元の座に着き、恨めしげに)どこへいらつしやるの。

夫  なに、ぢき帰つて来る。

妻  (夫の顔を見つめ、何か云はうとして、急にうつむき)えゝ、いゝわ。

夫  (もぢもぢしながら)川上んとこぢやないよ。

妻  (気まづげに)何処だつていゝことよ。

夫  (妻の傍にしやがみ)玉突だと思つてるんだらう。

妻  (その方は見ずに)いゝから、行つてらつしやいよ。

夫  怒つたのか。

妻  (また泣いてゐる)

夫  (途方に暮れて)どうしたんだい、一体。

妻  あたしが悪かつたの。

夫  いゝも悪いもないぢやないか。だから、後で活動へ行くんだよ。

妻  (溜息を吐き)もう、わかつたの。

夫  何がわかつたんだい。

妻  もういゝ加減に諦めるわ。

夫  なにを……。

妻  御免なさい。

夫  変だぜ。

妻  をかしなものね。よその奥さんたちは、旦那さんがお留守だと、けつく気楽だつてよろこんでゐるの。だけど、あたし、それが不思議だつたの。

夫  それや、不思議なのが当り前さ。

妻  それが今日、やつと不思議でなくなつたの。

夫  え。

妻  男つていふものは、やつぱり、朝出て、晩帰つて来るやうに出来てゐるのね。

夫  (苦笑する)

妻  男つていふものは、家にゐることを、どうしてさう恩に着せるんでせう。女は、それがたまらないのね。

夫  何も恩に着せるわけぢやないさ。

妻  だから、行く処があつたら、さつさと行つて頂戴。その方が、ずつと気持がいゝわ。

夫  (また椅子にかけて、新聞を読み始める)

妻  あたし、日曜がおそろしいの。

夫  おれもおそろしい。


(間)


妻  あなたは、あんまり、あたしを甘やかし過ぎるのよ。(編物をし始める)

夫  さうでもあるまい。

妻  いゝえ、さうなのよ。

夫  むづかしいもんだな。

妻  よそのうちを御覧なさいよ。

夫  見てるよ。

妻  あの通りになさいよ。

夫  出来ないよ。

妻  女はつけ上るものよ。

夫  知つてるよ。

妻  そいぢやいゝわ。


(長い沈黙)


夫  おれたちは、これで、うまく行つてる方ぢやないかなあ。

妻  もう少しつていふ処ね。

夫  金かい。

妻  さうぢやないのよ。


(長い沈黙)


夫  犬でも飼はうか。

妻  小鳥の方がよかない。


(長い沈黙)


夫  (欠伸をする)

妻  (欠伸をする)


(間)


夫  おい、話をしてやらうか。

妻  えゝ。

夫  昔々ある処に、男と女とがあつた。男は学校を出るとすぐ会社に勤めた。女は、まだ女学校に通つてゐた。二人は毎朝、同じ時刻に、郊外の同じ停車場で顔を合せた。そのうちに、二人は、お辞儀をするやうになつた。男が早く来た時には、男は女の来るのを待つた。女が早く来た時には、女は……

妻  先へ行つてしまつた……。

夫  さういふこともあつた。


(此の時「あらツ」といふ女の子の叫び声が聞える。庭の中に、大きな紙風船が転がつて来る)


夫  (新聞を投げ出し、庭に降りて風船を拾ふ)

妻  (独言のやうに)千枝子ちやんは、おうちにゐるの、今日は。

夫  (黙つて風船をつきはじめる)

妻  およしなさいよ、あなた……(大きな声で)千枝子ちやん、いらつしやい。をばちやんと風船をついて遊びませう。

夫  (相変らず一生懸命に風船をつく)

妻  (起ち上り、玄関から下駄を持つて来て庭に降り)あなた、駄目よ、そんなに力を入れちや……(子供が垣根の向ふにゐるらしい、それに)さ、をばちやんとつきませう。(かう云ひながら、夫のついてゐる風船を奪ひ取るやうにしてつく)千枝子ちやん、あつちから廻つていらつしやい。

夫  (妻の後を追ひながら、じれつたさうに)どら貸して見ろ、おい……。


──幕──

底本:「岸田國士全集1」岩波書店

   1989(平成元)年118日発行

底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院

   1931(昭和6)年210日発行

初出:「文芸春秋 第三年第五号」

   1925(大正14)年51日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kompass

校正:門田裕志

2011年124日作成

2016年413日修正

青空文庫作成ファイル:

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