読むうちに思ったこと
小川未明



 絵のように美しいという言葉はあるが、いゝ絵は、見れば、見る程、ひきつけられるように感ずるものです。風景にしろ、人物にしろ、無駄に描かれた線はなく、どの部分を見ても生動するものですが、そういう絵は、よ程いゝ筆者を待たなければなりません。

 しかし、尽せぬ滋味を汲むことには、絵も文章もかわりがないのです。むしろ、文章の方が、より多く想像を要するだけ、惹きつける力も、より深い場合があるといえます。

 たとえば、レマルクの、「その後に来るもの」の中にも、ところ〴〵、一幅の絵として見るに足る叙景があったと記憶します。水溜りにうつった空の景色や、柔らかな畠の土の色などを、そのまゝ、手に触れるように書かれているというよりは、描かれているように思いました。私は、その筆致に、どこやらヂッケンスを偲びましたが、ヂッケンスの自然描写にも、遙かに、絵にまさるものがあったように思います。それは文字であらわす方が、時間的にも、生動する姿を捉え得るためです。

 しかし、この種の味のあるものとしては、レムブランドの風景画であります。かゝる天才の画に至ってはまた物語りの領域にはいる程の魔力を有しています。それであるから、一概に、絵と文章といずれがまさるかなどといわれないが、文字の表現がいかに人の想像に訴えて、ほしいままに空間に形を描き、声なき声を発し、色なきに、紅紫絢爛、さま〴〵な色彩を点ずるかゞ知られるのであります。

 学生時代に、その講義を聴いた小泉八雲氏は、稀代な名文家として知られていますが、たとえば、夏の夜の描写になると、殆んど、熱した空気が、肌に触れるようにまた、氏の好めるやさしい女性が、さゝやく時には、その息が、自分の顔にまで、かゝるようにさえ感じられたのであります。これなどは、容易に、絵では描きあらわされない境地であろうと思います。

 また、文は、その人為を現わすといわれています。その人の感情、感想から生れたものが、その人の文章であるかぎり、人格を現わすに不思議がないのでありましょう。故に、文章を読むことは、即ち、その人間に接することです。文品の高い、低いは、即ち、人品の高い、低いに他ありません。

 作為なく、詐りなくして、表現されたものが、即ちその人の真の文章であります。しかしながら、たとえ作為を用いても、また、詐ろうとしても、そうした文章には、自然なところがないから、ほんとうのものでないということが分るものです。

 自分をいつわらないのが、ほんとうにその人の文章です。自然たらざらんと欲しても、畢竟、自然に趣くもので、自分をいつわることはできぬものです。文品の高い、低いにかゝわらず、はじめより自己をいつわらぬ自然の表現は、その文章を読む時に快いものであり、面白味を覚えるものです。自己をいつわった文章というものは、不自然であり、どこかにぎごちないところがあるために、読むものに、決して面白味を感じさせるものでありません。書く人が自由であり、書きあらわす、そのことに、悦びを持たないかぎり、文章は、味と輝きとを持つものでないといえます。

 文品を高くせんには、その人の生活をより正しく、より善くするにあります。その人が、正直で、真理を愛するなら、文章に、それが自然的に、にじみ出るものです。

 その人の生れたところの風土や、また生活状態等が文章と離れることのできない有機的関係を持つといわれるのも、考えれば、当然のことであります。私達はそこに、文章の面白味を知り、また個々の性格を知り多元的な生存の特質を知り、さらに人生の何たるかを悟らんとするのであります。

 私は、よく、折にふれて空想するのであるが、人生観を持たず、何等信念を有せぬ貴婦人や、金持があったとする。彼等は、いま、驕慢で、贅沢で、貧乏人を蔑んではいるが、いかなるまわり合せで、おちぶれて、空腹を感ずるような時がないとはかぎらないであろう。その時、果して、いやしい考えを起さないだろうかと。

 これと同じ悲哀を、まのあたりに見るからです。曾て自から高しとしたにかゝわらず、いまや、もろくも、その誇りを捨て、ジャナリズムに追従せんと苦心する文筆家が、即ちそれであるが、文章に、自然なところがなく、また明朗さがなく、風格がなく、何等個性の親しむべきものなきを、如何ともすることができないでありましょう。

 独創なき書物は、畢竟平凡な教師のようなものです。

 知っていることを、伝えればそれでいゝというのでない。伝えるにしても、生かして与えると、死なして与えるとの相違があります。はつらつたる感情や、勇気や、光輝というようなものは、創生の喜ぶに伴うものです。しからざるかぎり、たとえ、積極的には、間違ったことを伝えなくとも、そこに、喜びがなく、たゞあるものが、怠屈ばかりであったら、それは、何も与えなかったことになるばかりでなく、徒らに、読者をして、焦燥に悶えしめるものです。

 事務的に書かれたものに、よくこうした書物があります。それには、いろ〳〵原因のあることであるが、この頃はことに、そうした書物が多いのではなかろうか。

 支配下に強圧されて、職業意識にしかのみ生きない教師等が、なんで、児童を善く感化し、これに、真理と道義の観念を与えることができましょう。

 私達は、知りつゝ出来ずにいるが、児童の教育に、その先生を選択しなければならぬごとく、書物を求むるに、まず内容の一般を知らなければならない。

 こうして、いろ〳〵と感ぜられるが、所詮良い書物程、私達を喜ばせ、また生活を明るくし、そして力強からしむるものは、他にないのであります。

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「童話雑感及小品」文化書房

   1932(昭和7)年720日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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