書を愛して書を持たず
小川未明



 私は、蔵書というものを持ちませんが、新聞や、雑誌の広告に注意して、最新の出版でこれは読んで見たいなと思うものがあると求めるのがありますが、旧いものは、これは何々文庫というような廉価本で用を達しています。読んでしまえば、それでいゝようなものゝ、性来の潔癖もあって、汚れたのや、破れたのは、どうしても手に取る気がしません。少なくも、その書中から、滋養をるのに、それも稀にしかない本でゞもないかぎり、手垢がついていては、不快を禁ずることができないのであります。

 書物でも、雑誌でも、私はできるだけ綺麗に取扱います。それなら、それ程、書物というものをありがたく思うのかというに、それは、自から別問題という気がします。


 表題だけを見る時、「あゝこういう本が読みたかったのだ」と、興奮に近いものを感じながら、早速これを求めることがある。よく、こうした例は、屡々青年時代にあったことで、丸善の店頭などで、日頃名をきいている欧米の作家や、批判家の最新の著書を見出すと、これを読めば、明日からでも、自分の見識が変るような気がして、それでなくてさえ、何をか常に追うている時代であったら、金がなかった時には、本箱の本を売っても、新書を求めたものでした。

 本の包みを抱いて帰る道すがら、また、その二三日というものは、強い味方が自分に付いているような気がしたが、たま〳〵友達のところへ遊びに行って、同じ本を机の上にながめた時、いまゝでの興奮はどこへやら消えてしまったのでした。

 そればかりでありません。同じような本を誰彼の処で見出した時、「みんなが流行を追うているんだな」と、あまり自分達に個性がなさすぎるのが悟られて、反動的に、自己憎悪を感じたのでありました。


 事実、面白いといわれたので、自分に少しも面白くないものがあります。その文体が、そこにあらわれた趣味、考え方が、どうしても、ぴたりと心に合致しないのです。私は、書物は独立した一個の存在であると信じています。そこには、著者の個性があり、また感情があります。従って、これを好むと好まざるとは、互の素質に因らなければなりません。殊に、文学や、芸術に関するものに於て、このことがいわれます。

 ある種の文体は、それを好む人達にとって魅力があるにしても、ある人々にとっては、全く縁なきものであります。一行、一句にも心を捕えられ、恍惚として、耽読せしむるものは、即ち知己であり、その著者と向志を同じくするがためです。眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置かれるのを証する以外に、何ものでもありません。それであるから、所謂、良書なるものは、その人によって、定められるのが当然です。


 自分が、真に愛読するという本は、そう沢山あるものでない。面白く、読み終らせるだけでも、愛読書ということができるでありましょう。しかし、その程度のものは、一生の間に、恐らくもう二度と手にとって見ることがあるかどうか、分らないものです。

 師となり、なぐさめとなり、志を同じうするものこそ、即ち自分の正しく良書と推すべきものです。こうした、著者が世界に幾人もないごとく、況んや良書のそう沢山ある筈はありません。

 何はともあれ、人生の楽しみにして良書を得た時より、さらに深きものは他にないということができます。


「書を読んで、悉く信ずれば、読まざるに如かず」という諺があります。蓋し、至言となします。いかに、尊敬する人の著書にしろ、時代に推移があり諸科学上に進歩があるからです。書中の認識や、引例等にも、多少の改変を要するものあるは勿論であります。こうした批評眼を有しないものならば、また、読書子の資格のなきものです。


 雑誌に載った時は、読みたいとも思わなかったのが、単行本となって、あらわれて、はじめて一本をあがなって、読むということがあります。綜合雑誌の中に混っては埋れて個性的な感じを与へなかったのが、独立して、真価を発するのを見れば、本来から、其種に別があり、雑誌向のものがあるような気がします。

 ジャナリズムの舞台として、雑誌は新聞に近き性質のものです。机上に置いて玩味し、黙読し考うるのは、むしろ書物そのものが持つ特性でありましょう。私などどうしても、書物を読んで、それから得た知識でなければ、真に身にならない気がします。一つは雑誌であると、百貨店へ行ったように他へ気が散るからであります。


 しかし、雑誌は、決して、軽んぜらるべきものではない。雑誌の価値は、古くなればなる程出て来るものです。この点に於て、書物と対蹠的の感じがします。

 この理由は、個人の研究や、創造はいかに貴くとも幾十年の間も、その光輝を失わぬものは少ないけれど、これに反し、集団の行動は、その動向を知るだけでも時代が分るためです。故にその時代を見ようと思えば、当時の雑誌こそ、何より有益な文献でなければなりません。

 この意味からいっても、同人雑誌は極めて有意義のものです。新しい芸術上の運動も、そのはじめは、同志の綜合であり、同人雑誌を戦闘の機関としなかったものはなかったからです。


 東京堂月報にると昭和八年上半期の新刊書数は、実に二千四百余種に達しています。これに後半期を入れて一ヶ年にしたら、おびただしき数に上るでありましょう。この点近代人が、木版、手摺の昔の出版界時代を幼穉ようちに感ずるのも無理がありません。

 しかし、こうして月々出版された書物はどこへ行くのか。何人も時にこれを疑わぬものはないでありましょう。

 思うに、半分は、屑とされて消滅し、半分は、自然消滅に帰するものと考えられますが、その中、幾何良書として後世にまで残存するであろうか。印刷術と製本術とが、機械でされるようになって以来、生産の簡易化は、全く書物に対する考え方を変えてしまいました。同じく、文化を名目とはするものゝ、珍らしい、特志の出版家でもないかぎり、出版は、資本主義機構上の企業であり、商業であり、商品であり、また今日の如く、大衆を顧客とするには、著者の趣味如何にかゝわらず、粗製濫造も仕方のないことになるのです。

 一方、人生の精神文化は、遅々として向上せず、大衆の趣味、理想は、依然として低くあるかぎり、たま〳〵良書が出版されても、その再版、三版は期し難いのであります。何人も知るごとく、必ずしもよく売れる本がいゝとはいわれない。大衆性を有するものだけが、いつの時代でもよく売れるということは明かであります。

 これに較べると、昔の和本は、生紙を使用して木版で摺られている。そして、糸で綴られていて、一見不器用だけれど、手工業時代の産物としての趣味があり、一種の芸術味が存している。中には揷絵などが入っていて、一層の情趣を添えるのもあって、まことに書物として玩賞に値するのであります。

 和本は、虫がつき易いからというけれど、この頃の洋書風のものでも、十年も書架に晒らせば、紙の色が変り、装釘の色も褪せて、しかも和本に於けるように雅致の生ずることもなく、その見すぼらしさはないのであります。

 これから見ても、和本は、出版の部数は少なかったけれど、これを求めた人は愛玩し、また、古本となって、露店へ出ても、買った人は大事にして、本箱に樟脳しょうのうをいれたりして、永久に保存したでありましょう。この場合、他の骨董こっとう品と同じく、数が少なければ、それだけ珍重されたのも、和本そのものが、すでに芸術的に出来ているがためです。


 たとえ、今日洋装の書物が、耐久性からいっても、趣味の上からしても殆んど永久の蔵書に値しないかもしれぬが、なほ優に二三十年間は、原型をとゞむるでありましょう。

 かりに、私が、愛書家であり、蔵書家であっても、それで満足がされます。なぜなら、自分の限りある一生の間にそれだけの長い月日、書斎を飾れば沢山だからです。遠く後世を考えるなら別に、図書館があります。私は、人の命のはかなさ、書物の持つ生命のはかなさを考えるだけで、何一つ、所有欲は起らないのであります。

 たゞ漢詩は、和本の木版摺で読まないと、どういうものか、あの神韻漂渺ひょうびょうたる感が浮んでまいりません。

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「童話と随筆」日本童話協会出版部

   1934(昭和9)年910日初版

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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