人間否定か社会肯定か
小川未明



 私達は、この社会生活にまつわる不義な事実、不正な事柄、その他、人間相互の関係によって醸成されつゝある詐欺、利欲的闘争、殆んど枚挙にいとまない程の醜悪なる事実を見るにつけ、これに堪えない思いを抱くのであるが、それがために、果して人間そのものについて疑いを抱かないだろうか。

 知らぬ人間を容易に信じてはならないということは、一般の人々の習わしの如くになっている。それは、人間を信ずるの余り、思わぬ災害に逢着する事実から、お互に、妄りに信ずべからずとさえ思うに至ったのである。

 人間が、人間を信じてならないということは、正しいことだろうか。また、みだりに知らない人を信ずることができないという、それ等の事実は、この人生に於て、黙止してすむべきことだろうか。

 いま、多くの人々は、自己の周囲についてのみ、あまりにこだわり過ぎていまいか。そして、あまねく人間に対する考察に於て、また、同じく愛し合わなければならぬ筈のものを、忘れてしまっているのではあるまいか。

 自分達の生活──それは、実利的な、独善的な──たゞ、それが支障なく送られゝばそれでいいという考えから、広く人類について、また社会について、考える必要がないとでも思っているのではあるまいか。

 そういう人達にとっては、人間に対する、真の慈愛ということも、信義ということも欠けているのだ。

 しかし、若し、その人達が、人間についてほんとうに考えるなら、そして、人間を愛する心があるなら、現在、みんなが、人間に対して抱いているような、甚しく、人間それ自からの価値を侮蔑したような考えを有していることに堪えられなくなる筈だ。少くとも、深い疑いを有しなければならぬ筈だ。

 かくの如き疑いは、子供の姿を見て、一層切実なるものがあることを感ずる。

 子供は、どの子供も正直だ。そして、やさしみがあり、空想的であり、活々として、愉快であることに、少しも異りがない。

 大抵の子供は、こうした状態で小学校へ入るまでは、真に楽しい日を送るのである。金持の子供であろうと、また、貧乏人の子供であろうと選ぶところがないのだ。

 それが、学校へ入った時分からおのおのの環境によって、異って来る。社会の造った生活というものを知るからだ。

 なぜ、こんな正しい、善良な、無邪気な子供が、こうしたよくない人間に変ってしまうのだろう? こゝに、疑いを抱かないものがあろうか。

 ほんとうに、みんなが、疑いをば、こゝに抱くべきなのだ。人間というものが、年を取ると、悪くなるとは、きまっているのでない。ます〳〵持っている、よいところを生長させることが当然として考えられなければならない筈なのだ。

 子供の純真な姿を見た者は、決して、この人間に対して、絶望をしないであろう。もし人間が救われないものなれば、誰か、人間に対して、理想と信条を有し得よう。誰か、人間の生活について、希望を持ち得よう。

 こゝに至って、私は、現在の社会について考え至らなければならない。その禍のよって来る原因を社会に探ねなければならない。そして、社会が、人間を悪くするのであったら、いかにしてそれを改めなければならぬかについて考えなければならない。

 社会は、その禍の源を人間に在りとはしなかったか。そして、今、尚お、個人を責めるに苛酷なのではなかろうか。法律がそうであり、教育がそうであり、そして、文芸が、また、そうなのである。しかし、子供の姿を見た者は、疑わずにはいられない。人間から、この純真と無邪気さとを奪ったものは、いったい誰なのか?

 顧みて、私達は、年少の時代から、今日に至るまで、どんな考えを抱いて道を歩いて来たか。そのいずれの時代にあっても、曾て希望をば捨てなかった。

『きっと、いまにいゝ世界が、自分達の眼前に開かれる。』

 そう思って来たのだ。そして、いま、ようやく、その考を捨てなければならなくなった。虚偽と譎詐けっさと不正に満ちた社会には、もう光明がない。希望を繋ぐことができない。そう考えんとするのだ。

 この美しい自然も自由な大空も決して美しくもなければ、また、自由でもないと思うに至ったのである。

 人生は、こんな醜悪なものだ、行っても、行っても灰色な道だ。美しいと思っていたのが誤りだったと、誰がそう信じて、満足するであろうか。

 人間は、希望と光明を持てばこそ、はじめて、幾多の辛酸を凌いでも、前へ、前へと進んで来たのである。人間が、年若くして、人生を美しいと思った。その信念には、間違いがない筈であった。自然は美しく、大空はかくの如く自由であると考えた。思想は、やはり永久に、変るところがない、正しい思想でなければならないのだ。

 人間を絶望せしめ、憂鬱ならしめ、人生に対し、社会に対して、疑いを抱かしめるに至ったのは、たしかに、その原因が、社会になければならない。人間は、自ら造った社会のために、いまや、不具者にされ、人間性を忘れんとさせられている。

 そして、ある者は、後から来る無邪気な子供を見て、憐れむのである。その無邪気も、光明も希望も、快活も、やがて奪い去られてしまって、疲れた人として、街頭に突き出される日の、そう遠い未来でないことを感ずることから、涙ぐむのであった。

 人間性を信じ、人間に対して絶望をしない私達もいかんともし難い桎梏しっこくの前に、これを不可抗の運命とさえ思わなければならなくなってしまった。

 しかし、こういうことが、良心あり、一片反抗の意気ある者にとって堪えられようか。私は、これを、いま芸術家の場合についていおうとするのだ。

 芸術は、現実の凝視から産れる。現実を忘れて、そこに、吾人に価値ある芸術は存在しない。

 私達は、この現実に於て、暴力がはばからずに行われていることを知っている。強者は、徒らに弱者を虐げている事実を見あきる程見ている。人間が、人間を奴隷とし、自欲のためには、他の苦艱くかんをも意としない、そのことが人道にもとるにもかゝわらず。不問にされることも知っている。そして、この社会は、民衆が喜んだり、楽しんだりすることよりは、一層、苦しんだり、悲しんだりしているところであることもよく感じている。

 これが疑いなく現実である。それにもかゝわらず、多くの芸術家は、敢てこの現実に触れようともしない。

 私のこゝにいう触れるということは、直ちに、その真相を究めようとする誠意のある輩が少いということである。

 最も、正直で良心あるものが、芸術家でなければならぬ筈だ。人間に対する深い愛と同情と、正義に対する感激がなかったら、その人は、詩人でない。また、私達のいう芸術家でもない。

 最も正直な人間は、誠実なる人間は、この現実を空しく目睹もくとするに忍びなかろうと思う。そして、凝視して、飽迄もその真相を突きとめ、原因を究めようとするにちがいない。

 この誠実と感激と良心とから、筆をとるでなければ、私達民衆の仲間でもなければ、また私達の芸術家でもない訳だ。

 もし、芸術が、現実生活の描写であり、批評であるなら、何を好んで、彼等はこれを逃れて独善的享楽に行こうとするのか?

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「芸術の暗示と恐怖」春秋社

   1924(大正13)年710日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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