民衆芸術の精神
小川未明



 ミレーの絵を見た人は、心ある者であったならば、誰しも涙ぐましさを感ずるであろう。ミレーは貧しい人間の生活をほんとうに見ているように思われます。貧しいといって、それは、田舎の百姓の生活であり、また、無産者である多数民衆の生活であります。

 邪念なく労働に服する人、無心に地の上で遊んでいる子供、そして、其処に生きているには変りのない、人間も、小羊も、また鶏に至るまで、同じ霊魂を持つことによって、軽かな大空の下に呼吸することに於て変りのない、其等がみんな仲の好い友達であり、さびしい時の話相手であることを、ミレーは厚く見ていたのであります。

 私は、いま、彼の描いた、田舎家の一隅を思い出さずにはいられません。それは、まだ年若い母親が、膝の上に乳呑児をのせて、何かあたゝかなものをさじですくって、急がずに落ついた調子で子供に与えています。子供は、柔らかな長い衣物に包まれている。そのなよやかな、弱々しく見える、肉体の表わした衣物の上の線は、実にほゝえまずにはいられないほど無邪気な、何ともいえない、また貴い味いを、腰かけている母親の温かな、ふっくらとした膝の上に描いています。

 あくまで描く上に真実であるミレーは、これだけに満足しない。傍には土鍋の如きものに、多分牛乳か、粥のようなものが入っているのであろう。其れから白い湯気が立ち上っています。うす暗い、煤けた家の裡の陽炎のように上る湯気には、また限りないなつかしさが籠る。そして季節は秋の末であろうか、ストーヴには火が燃えている。小猫が、安心をして、其の傍に火の方を向いて坐っている。

 ミレーは、独り、この絵ばかりでなしに、どの絵に於ても、あまり多くを語り過ぎると思う程であります。しかし、そこにまたミレーの真実さがある。正直に見、正直に感じ、そして、それについて多く、深く思い、さらに天地の間の生命ある者に即して思う。画家にして、同時に熱烈な詩人であったミレーの永久に民衆の良心に培う叫びが聞かれる所以ゆえんなのです。

 私は、思い出すまゝ、偶然ミレーを最初に例として言ったが、同じく、悲痛な、そして、民衆的な、言い換えれば人間的な、共に、人の心を動かさずには止まない、真実の存在をレムブランドの芸術に、また、トルストイの芸術に見ることを得るのであります。

 私は、また、二たびミレーの絵にもどって言うが、なんという母親の子供に対する温かさだろう。子供は、また、安心をしている。恐らく子供は、母親に抱かれている時程、安心している場合が他にないともいえる。たとえ、火の中へでも、また水の中へでも、母親とさえいっしょであるならば、はいることを厭わない。それは、ちょうど真理に奉仕する殉教者のように、また深い信仰を有する人が神について惑わないように、刹那まで安心して微笑んでいるでありましょう。

 かくて太平和の家庭にあっては、命あるものは、みんな同情し合うであろう。ストーヴにあたっている猫もやはり家庭の一人であります。みんなは、日暮に間近くなって吹く、外の嵐の音に耳を傾けているか、野に、丘に、圃に働いて、体を冷やして帰って来る家族の余の人々を待っているようであります。

 こうした、つゝましやかな生活には、愛と平和とやさしみとがあふれている。それは真に涙ぐましい程貴く、また真実なものであります。言を換えれば、これが民衆の生活であります。この民衆の生活の底には、真の力が宿っています。愛のために、正義のために感激する強い力が横わっています。

 彼の都会に於て、虚栄の町に於て、もしくは富豪の家庭にて、潜在する如き幾多の虚偽と罪悪に満ちた生活には、外面は城壁で守られ、また剣で講られる必要があっても、内部に何の反撥する力というものが存在しない。一蹴すれば、蟻の塔のようにもろく壊れてしまう暗い運命の影を負っている如くも認めることが出来る。

 平和と愛と労働者の讃美者であり、宣伝者であり、味方であったミレーは、彼のさびしくも、微笑むような静かな芸術の底に限りない、決して屈せない力を含めている。──若し、この善良な民衆の生活を、脅威するものがあったならば、また破壊するものがあったならばという偉大な握り固められた拳がある。斯くして人道主義の最も敬虔にして勇敢な戦士の赤誠を心ある人々の胸から胸へ伝えている。

 こうした涙ぐましい、謙譲にして真摯の芸術こそ、今日のような虚偽と冷酷と圧迫と犠牲とを何とも思っていない時代によって、まさしく正しい人々の胸に革新の火を燃やさずには措かないのである。トルストイの芸術がやはりそれだと思うのであります。

 愛を知り、涙を知り、人間らしい感情に生きる民衆こそ、暴虐に対して、憤り、反抗する理由と実力とを有するのです。またこの霊魂をもって書かれた大芸術こそ、人生のための芸術であり、我等の高遠な目的に向って進むに当って、鼓舞して止まない真の芸術ではあるのです。

 流石さすがに、ラッセルは、我が国に来て講演した際に、社会進化の考察を二つの立脚点からすることを忘れなかった。経済制度の改革に、これに伴うに精神進化をもってしたのです。真理に対する憧憬は其の一つです。愛を感じ正義に味方することが、またその一つです。そして、強い、信念が民衆の胸に湧いた時に、また今迄の目覚めなかった人間本来の美しい感情がほんとうに目覚めた暁に、この世界の生活は、より善く、より正しく革まるのです。私は、こゝに良心ある一人を動かし、万人を動かし、やがて地上の全社会を動かす信念の力について改めて説くまでもないことを感じます。

 今日では、レーニンを殺伐な組織の上の革命家とのみ見るものは少なくなったようです。彼は、殉教者であり、熱烈な無産階級の代弁者であり、また、実に其のものであるのです。

『働かざるものは食うべからず』『彼等麺麭パンを得る能わざるに、菓子を食うは罪悪なり』これ等の語は、ソヴィエットの標語の如く知られているが、よく、其心持は分るというばかりでなく、身に染みるような気がします。

 が、なぜであるか。あまりに人間的であるからである。そして、無産者にしてはじめて、人生を見る、至高、至醇な感激があるからであります。

 レーニンの革命が、よしや形の上に於て失敗する時があったとしても、クレムリンの聖者としての彼は、後世いかなる感化を人心に及ぼすであろうか。

 いまは既に昔、ヤスナポリヤナに幾百人のつゝましやかな敬虔な心の深い青年が巡礼に出かけたであろう。

 無産階級にとって心からの喜びは、物質的に救わるゝことによって不自由をしないということでない。それも、要求の一つであろうが当然得らるべくして得られない時には、これがために争いもし、平等の権利を主張するにはちがいないが、むしろ、それよりも強く共鳴して止まないものは、どんな苦しみでも、いっしょにしようという、愛でなければならない。この人生に最も貴い愛、母親に抱かれながら、火の中にも、水の中にも、ほゝえんで入る子供の母親を信ずるにも等しい、人類に根ざす共存の愛の精神は全くブルジョア階級に死んで、独り無産階級にのみ生きている。蓋し、この愛の高潮でなければならないと信じます。

 共産制度の世界に到達して、生産の豊富から、物資の潤沢をのみ夢むような輩は、尚お、心にブルジョアの、安逸と怠惰の念が抜けきらないからです。私達、真の無産者は、喜びを共にし、苦しみを共にし、永久に、平和な、そして自由な、青空の下に相抱いて生きるという信念に於てのみ、感激し、行進曲が奏でられなければならぬのです。

 この精神を有する芸術のみが、即ち民衆の芸術であるということを私は、こゝに絶唱して止まないのであります。

──一九二一、九、一三──

底本:「芸術は生動す」国文社

   1982(昭和57)年330日初版第1刷発行

底本の親本:「生活の火」精華書院

   1922(大正11)年710日初版

入力:Nana ohbe

校正:仙酔ゑびす

2011年1130日作成

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