万の死
小川未明



 まん正直しょうじきな、うらおもてのない人間にんげんとして、むら人々ひとびとからあいされていました。小学校しょうがっこうえると、じきに役場やくば小使こづかいとしてやとわれました。かれは、母親ははおや一つでおおきくなりましたが、そのはははやんだので、まったくひとりぽっちとなりました。こんなことが、人々ひとびと同情どうじょうをそそるのでありましょう。どこへいっても、きらわれることなく、おくりました。

「おまえさんも、はやくおよめさんをもらうのだな。」と、ひとりぽっちのかれこころからあわれんで、いってくれるものもありましたが、

わたしには、まだそんな気持きもちはありません。」と、まんは、かしらをふりました。それには、はやいからという意味いみばかりではありません。始終しじゅう不自由ふじゆうをして、まずしくんでいった母親ははおやのことをおもうと、すこしのたのしみもさせずにしまったのを、こころからいるためもありました。

 かれははは、じつにやさしかったのです。かれ父親ちちおやはやわかれたので、その不憫ふびんもあったのでしょうが、また、このなかはは一人ひとり一人ひとりとしてみれば、たがいにいたわりあうのが、むしろ、ほんとうのなさけでもありました。

 ──あるまんは、した学校がっこう復習ふくしゅうをしていました。はは眼鏡めがねをかけて、手内職てないしょくはりをつづけていました。まどそとでは、雨気うきをふくんだかぜが、はげしくいています。そして、そのとしれも間近まぢかせまったのでした。ははは、なにをおもったか、ふいに、まんはなしかけました。

「おまえが、まだ物心ものごころのつかないころだったよ。このむらに、おつるさんといって、孝行こうこうむすめさんがあった。こんなような、れにおしせまった、あるのこと、できあがった品物しなものってまち問屋とんやへとどけ、おかねをもらってかえりに、そのおかねをみんなとられてしまったんだよ。かわいそうに、それでむすめさんはかわげてんでしまいました。」と、ははかたりました。

 これをくと、まんしたをむいてほんていたかおげました。

「だれに、おかねをとられたんです。ただ、それだけでんだのですか。」と、いかえしました。もっと、くわしいことがりたかったのです。

「おまえ、そのおかねがなければ、いえひとたちがとしせなかったのだよ。したには、ちいさいおとうとはたくさんいたし、それに、父親ちちおや病気びょうきていたんだからね。」

「どうして、そんな大事だいじかねを、とられたんだろうな。」と、まんは、不審ふしんでたまらず、あたまをかしげました。

「それが、まだわかむすめさんだろう、無理むりはないよ。活動写真館かつどうしゃしんかんまえって、ぼんやりと写真しゃしんていたそのすきをねらって、すりがすったらしい。まのわるいときというものは、すべて、そういうものさ。のついたときは、もうおそい。しかたがないから、おつるさんは、問屋とんやきかえしたんだよ。」

「かわいそうにな、問屋とんやさなかったんでしょう。」

「そうだな。おつるさんは、はたらいてかえすから、どうかおかねしてくださいと、主人しゅじんたのんだのだよ。おもいやりも、なさけもない主人しゅじんは、すげなくことわったのです。」

「なんといって。」と、まんは、かおあかくしながら、こみがってくる感情かんじょうを、さえきれませんでした。

「あんまり、あんたはむしがよすぎる、このかね出入でいりのせわしいれに、自分じぶん不注意ふちゅういからかねをなくしたといって、またせというのは。こちらもいそがしいので、いちいちたのみをきいていられない。なんとおっしゃっても、今日きょうはだめです、ってね。」

こまるからたのむんじゃないか! それから、どうしたの?」

「いつまでも、いえでは、おつるさんがかえらないので大騒おおさわぎとなり、いつしかむらじゅうのものがして、夜中よなかまで方々ほうぼうさがしたがわからなかった。二、三にちすると、死骸しがい川下かわしもほうかんだのだ。その当座とうざは、みんなが、問屋とんや主人しゅじんをわるくいわないものはなかったよ。」と、ははは、またつづけて、

「しかし、金持かねもちにはかなわないんだね。仕事しごとをさせてもらわなければならぬし、いつしかぺこぺこあたまげていくようになったよ。」

問屋とんやって、あのまち袋物屋ふくろものやですか。おおきいみせなのに、そんなかねがないわけでなし、どうしてだろうな。」と、まんきました。

「どうして。大金持おおがねもちだというけれど、もとは、みんな貧乏びんぼうひとたちをできるだけやすはたらかして、もうけたかねなのだから、かんがえれば、わたしどもは、ちっともうらやましいことはないのさ。」と、母親ははおやは、はり燈火あかりちかづけて、ゆびをはたらかしながら、いいました。このとき、まんには、なみだひかっていました。

 そのまんは、いくたびもまちて、袋物屋ふくろものやまえとおりました。そのたびに、ここのいえだなと、おもって、なかをのぞきました。たいてい、きゃくはいっていてなにかていました。そして、めったに主人しゅじんかおなかったが、あるとき、四かくかおをした、それらしいおとこが、おうへいな言葉ことばつきで、ひとはなしをしていました。よく注意ちゅういすると、昼間ひるまからさけんだとみえて、いい顔色かおいろをしていました。相手あいてばかにするのは、やはり、こちらがなにかたのんでいるからでしょう。

 まんは、むすめげてんだというかわにかかるはしわたるときは、かならずちどまって、欄干らんかんによりかかり、じっとみずて、かんがえるのであります。あるときは、さむかぜが、すすりくように、川面かわもいているのでした。また、なつ晩方ばんがたには、あかくもが、さながらながすようにうつっていることもありました。かれは、ははからいた、おつるさんという不幸ふこうむすめのことをおもしたのでしょう。

「なにより、いのち大事だいじなんじゃないか。ななければよかったのに。だが、おれは、まだちいさくて、なんにもできなかったのだ。」と、ひとりごとをするのでした。

 このとき、かれが、どんなことをかんがえていたか、だれもるものはありません。まれつき、無口むくちまんは、おもったこと、かんがえたことを、めったに、はなしません。役場やくばつとめてからも、まじめ一ぽうはたらくばかりでした。しかし、なにか、うまいものがかれはいると、だれのまえもはばからず、きっと、

「こんなものを、かあさんにべさせてやりたかったなあ。」と、いうのでした。そして、ところをわすれて、母子おやこが、さびしくまずしくらしたころのことをかべるのでした。また、なにかおもしろいもよおしでもあるときは、

「こんなのを、かあさんにせてやりたかったなあ。」と、かならずいうのでした。そして、すこしのたのしみもらず、一人ひとり子供こどものために、はたらきつづけた、みじめなやもめをおもすのでした。けれど、それさえ、かれくちさなかったから、かれが、どれほどの正直者しょうじきものであるか、るものがなかったのです。

 かれは、日常にちじょう役場やくばまったり、自分じぶんやぶかえったりしていました。

 ところが、いつからとなくみょうなうわさがむらなかにひろまりました。それはごろからまん生活せいかつり、かれ正直しょうじき人間にんげんおもっていた人々ひとびとにとって、意外いがいちぬことだったのです。

まんは、ひとりものだから、給料きゅうりょうだけで、りぬはずはないのだがな。」と、一人ひとり思案顔しあんがおをしていうと、

はやよめたすのがいいのだ。ひとりでいれば、どうしてもあそびにいくだろうから。」と、一人ひとりこたえました。

「だが、あのおとこにかぎって、そんなようにはえないが、かねをためているのかな。」

「ほかからりてまでかねをためることはしまいが、なにしろわかいものだもの、あそびにいくかもしれない。」

 こんなはなしを、みちうえちながらするものもありました。そうおもうと、またべつのひとたちは、

「どうも、このごろのまんはおかしい。はっきりとはいえぬが、ばくちをするんでないかな。」と、一人ひとりが、分別ふんべつありげにあたまをかしげると、

「いや、あのかたおとこにかぎって、ばくちはしまい。それにしてもおかしいことだ。もうちっと、だまってようすをていよう。」

「おまえさんのところから、いくらりたんだね。」

「なに、たいしたかねでない。それだけおかしいのさ。かえそうとおもえば、いつだってかえせるのを……。」

 こうして、まんについてはなしをするひとたちは、いずれもむらかねのある地主じぬしとか、物持ものもちとしてられてる人々ひとびとでした。これをても、まんは、かねりるのに、かねのありそうなひとたちだけをねらったものとみえました。このことは、そのそのはたらいてらさなければならぬものには、どういう事情じじょうがあっても、まんは、無心むしんをたのむになれなかったのでしょう。それであるから、まんは、だんだん金持かねもちからきらわれるようになったのもしかたがありません。しかし、かれ勤勉きんべん生活せいかつぶりは、だれのにも、いままでとわったとはえませんでした。

 そのも、まん役場やくばからかえると、すぐやまへたきぎをりにかけました。うすさむい、あめもよいので、かれくらくなってから、あめにぬれながら、おもっていえへもどりました。このとき、えたものか、かぜをひいたのです。そのから、急激きゅうげきねつたかくなって、医者いしゃにもかかったけれど、ついに悪性あくせい肺炎はいえんこし、近所きんじょ人々ひとびと看護かんごをしてくれたかいもなく、とうとう、んでしまいました。

 まん葬式そうしきは、わずかにかれむら人々ひとびとだけで、さびしくおこなわれました。当日とうじつひつぎむらて、山麓さんろく墓地ぼちへさしかかろうとすると、このとき、どこからあらわれたものか、たくさんの乞食こじきや、浮浪児ふろうじれつをつくって、ひつぎあとについてきたので、一どうがびっくりしました。としわかい、元気げんき役場やくばのものが、

今日きょうはおまえたちに、ほどこすものなんかないんだ。」といいました。すると、そのなかとしよりの乞食こじきが、

「そんなつもりでありません。おとむらいにきたんです。」と、こたえました。

 これをくと、役場やくばのものはじめ、むらひとたちは、不思議ふしぎがして、きゅうには、なっとくできなかったのです。

「なぜ、わざわざ、こんなにしてやってくるのだ。」と、ひげをはやした書記しょきが、いちばんさきにいた宿やどなし少年しょうねんにたずねました。

「だって、んだおじさんは、おれたちに、やさしい、いいおじさんだったもの。」と、少年しょうねんこたえました。

「ほほう、どんなふうにやさしかったのか。」

 この書記しょきばかりでなく、一どうが、意外いがい返事へんじに、おどろいて、少年しょうねんずにいられませんでした。

「おれたち、もらいがなくてかえれば、親方おやかたにしかられるだろう。そんなとき、おじさんにたのむと、おかねをくれたんだ。」

「おらあ、三日みっかめしわんとき、たすけてもらったんだ。」と、べつ少年しょうねんがいいました。そして、ここにいるものはみんなまんにめぐみをうけたものばかりだということがわかりました。

 それは、ながあいだ、なぞであったまんの、金持かねもちから借金しゃっきんする理由りゆうが、これらのひとたちにほどこすためのものであったことをらせたのであります。

 松林まつばやしなかに、まんは、母親ははおやならべてほうむられました。その土色つちいろのまだあたらしいはかまえには、ごとに、だれがあげるものか、いつもいきいきとした野草のぐさはなや、山草やまぐさ手向たむけられていました。また、つきあかるいばんなど、このあたりからこるふえは、まん霊魂れいこんをなぐさめるものとおもわれました。そして、村人むらびとみみに、切々せつせつとして、かなしいしらべをおくるのでした。こころあるひとは、人間にんげんの一しょうというものをかんがえました。

 かれ本名ほんみょうは、万三まんぞうとか、万蔵まんぞうとかいったのであるが、むら人々ひとびとには、まんで、とおっていたのであります。

底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社

   1977(昭和52)年1210日第1刷発行

   1983(昭和58)年119日第5刷発行

底本の親本:「太陽と星の下」あかね書房

   1952(昭和27)年1

初出:「新児童文化 第4冊」

   1949(昭和24)年11

※表題は底本では、「まん」となっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:酒井裕二

2017年620日作成

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