時計と窓の話
小川未明



 わたしまれるまえから、このおき時計どけいは、いえにあったので、それだけ、したしみぶかいかんがするのであります。あるのこと、ちちが、まだ学生がくせい時分じぶん、ゆきするまち古道具屋ふるどうぐやに、この時計とけいが、かざってあったのをつけて、いい時計とけいおもい、ほしくてたまらず、とうとうったということです。

「これは、外国製がいこくせいで、こちらのものでありません。ある公使こうしかたってかえられましたが、そのかたが、おなくなりになって、こんど遺族いぞくは、いなかへおうつりなさるので、いろいろのしなといっしょにたものです。機械きかい正確せいかくですし、ごらんのとおり、どこもいたんでいません。」と、そのとき、みせ主人しゅじんは、いったそうでした。

 ちちは、主人しゅじんのいうことをしんじ、ほりしものをしたとよろこんで、これをだくようにして、自分じぶんのへやへかえりました。

 わたしは、ちちからいた、そんなとおむかしのことをかんがえながら、いま自分じぶんほんだなにのっている時計とけいをながめていました。外国がいこくから、日本にっぽんへわたり、ひとからひとへ、てんてんとして、使用しようされてきたので、時計とけいも、だいぶとしをとっているとおもいました。

 たとえ、ふるくなっても、そのうつくしいかたちは、かわらなかったのです。四角形かくけいというよりは、いくらか長方形ちょうほうけいで、金色きんいろにめっきがしてあり、左右さゆうはしらには、ぶどうのつるがからんでいて、はとのとんでいるきぼりがしてあるので、いつても平和へいわな、しずかなかんじがするのでした。

 わたしほんだなには、教科書きょうかしょや、雑誌ざっしや、参考書さんこうしょなどが、ごっちゃにはいっています。かべには、カレンダーがかかっているし、へやのすみには、野球やきゅうのミットがしてあって、べつにかざりというものがなかったから、この時計とけいだけが、ただ一つひかって、宝物たからもののようにえました。

 ははも、そうおもっていたようです。しかし、はは宝物たからものおもったのは、多少たしょうぼくがおもったのと、意味いみがちがうかもしれません。なぜなら、ちちははが、いえったはじめのころは、まだいまのおおきな柱時計はしらどけいもなくて、このおき時計どけいただ一つがたよりだったからでした。毎朝まいあさちちは、この時計とけい出勤しゅっきんしたし、またははは、この時計とけいて、夕飯ゆうはんのしたくをしたのでした。そして、時計とけいは、やすみなく、くるいなく、忠実ちゅうじつに、そのつとめをはたしたのです。

 けれど、ぼくがまれて、学校がっこうへあがる時分じぶんには、いつしか、ちゃはしらへ、おおきな時計とけいがかかって、時間じかんごとに、いいおとをたてたり、すべてごようをたすようになっていたので、この金色きんいろのおき時計どけいは、わすれられたように、ちち書斎しょさいで、しょだなのうえにのせられたまま、ほこりをあびていました。

 わたしは、ほこりをあびて、まっている時計とけいるたびに、なんだか、かわいそうにおもい、人間にんげんのかってままにたいして、腹立はらだたしくさえかんじました。

「おとうさん、あのおき時計どけいをもらっても、いいでしょう。」と、わたしは、たのみました。

 なぜか、ちちは、すぐにやるといわなかったのです。それを無理むりにたのんで、わたし時計とけい自分じぶんのへやへってきました。その当座とうざのこと、ははは、そうじをしに、わたしのへやへはいってこられると、おき時計どけいをごらんになって、

「これは、いい時計とけいですから、だいじになさい。」と、いわれたのでした。さも、どもがつようなしなでないといわれるようでした。

「なにしろ、しょうちゃんのまれるまえから、うちにあるのだし、おとうさんが、だいじにしていられたのですからね。それに、この時計とけいると、平和へいわかんじがするでしょう。」と、おかあさんは、いわれました。

「ぼくも、そうおもうんです。しかし、時間じかんは、正確せいかくなんですか。」と、わたしは、いいました。

 いつか、山本やまもとくんがあそびにきて、ラジオをきながら、この時計とけいあげて、

「おや、この時計とけいは、おくれているのだね。」と、いったことがあるからです。

「それは、正確せいかくでしょうよ。おとうさんが、外国製がいこくせいのいい時計とけいだと、いつもほめていらしたのですから。」

 はは戦時中せんじちゅう、この時計とけい疎開先そかいさきっていって、こちらへかえると、時計屋とけいやへみがきにしたこと、そして、それがなかなか手間てまどるので、ちちさい三さいそくにいったことなど、おもしました。

「なるほど、いくらいい機械きかいでも、ながあいだには、はがねがすれて、へってしまうだろう。」と、ちちは、ってかえった時計とけいをながめて、いっていました。

「どうかなったのですか。」と、おかあさんが、そのそばへいくと、

むかし機械きかいは、いたんでも、とりかえができぬから、こわれれば、それまでだということだ。これは機械きかいにかぎらず、なんでもそうだろう。しかし、まだやくにたちそうだから、このままにしておきましょう。」と、そのとき、ちちがいったことをおもしたので、

「あちらのものは、こわれると、こちらではなおされないといいますから、こまりますね。」と、ははは、いいました。

 このことばをくと、ぼくは、外国品がいこくひんだけに、かえって、不安ふあんがしました。いくら宝物たからもののようにだいじにしても、時計とけいであるかぎり、時間じかんがくるえば、まったく価値かちはなくなるとおもったからです。

 ある学校がっこうと、野球やきゅう試合しあいをするので、しょうに、グラウンドへあつまる約束やくそくをしました。ぼくは、すこしはやめにいったつもりなのに、もうみんながきて、ぼくのくるのをっていました。

しょうといったのに、きみがこないから、どうしたのかとおもっていたよ。」と、一人ひとりが、せめるごとくいいました。

「そのつもりで、きたんだが。」と、わたしは、どうして、おくれたのか、ふしぎにおもったのです。

しょうちゃんの時計とけいは、やはりおくれているのだ。ラジオのほうが、まちがっているなんて、きみはおかしなことをいったよ。ちょうど、日本にっぽん世界せかいじゅうでいちばんつよいとおもっていたのと、おんなじなんだぜ。」と、山本やまもとくんが、じょうだんをいってわらいました。それをきいて一どうわらしました。ぼくは、そういわれると、さすがに、はずかしくなりました。ちち自慢じまんした時計とけいが、やはり正確せいかくでなかったのかとおもったのであります。

 いえかえると、さっそく、柱時計はしらどけいと、おき時計どけい時間じかんくらべてみました。やはり、十五ふんばかりちがっていました。いままで、こんな研究けんきゅうをしなかったことにも、がありました。

「おとうさん、あのおき時計どけいは、くるっていますね。」と、ぼくは、ちちにむかっていいました。

「そうか。すすむのか、おくれるのか。」と、ちちは、きかえしました。

外国製がいこくせい正確せいかく時計とけいとばかりしんじて、ラジオのほうをちがっているとおもったのですが、いまると、やはり、おくれているんです。」

 そう、ぼくがいうと、ちちは、わらして、

「そんなことをいうと、わらわれるよ。標準時ひょうじゅんじにあわせてあるので、ラジオのほうがいつもただしいのだ。この時計とけいをみがきにやって、ながくかかったのも、そんなことだったろう。……時計屋とけいやでは、したとしたことがないかといっていたから。それでなくても、ながあいだには機械きかいがすれて、くるいがくるので、もう、むかしのように、なおらないかもしれない。」

 こう、くと、わたしのいままでのほこりとよろこびは、たちまちきえてしまいました。しかしちちはこういったけれど、まだ時計とけいたいして、いくらか未練みれんっているようでした。

時間じかん正確せいかくでなければ、家宝かほうでも、なんでもありませんね。」と、ぼくがいうと、ちちは、

「しかたがない。なんにでも、寿命じゅみょうというものが、あるからな。」と、さびしそうに、いいました。

「このごろは、日本にっぽんでも、いい時計とけいができるから、そのうち、あたらしいのをってやる。」と、いって、さすがに、ちちは、いつまでも価値かちのないものに、こだわるようすはなかったのです。

 わたしは、あまり、あきらめのいいのを、かえってものたりなくさえかんじました。

「おかあさんも、平和へいわかんじのするいい時計とけいだとおっしゃったが、ほんとうにおしいことですね。」と、ちちにむかって、いうと、

「いや、時計とけいは、時間じかんるものだ。かざっておく、こっとうひんではない。もうちっと、っておいで、いいのをってやるから。そのまえに、おまえのへやをなおしたいとおもっているのだ。」と、ちちが、いいました。

 それというのは、ことし三年生ねんせいになったいもうとが、まだ自分じぶんのすわるつくえっていないので、いつもちゃのちゃぶだいや、えんがわで、かばんからほんして、勉強べんきょうしているのをて、ははは、かわいそうにおもって、

「よしちゃんにも、一つつくえってやらなければ。」と、いったことがありました。ちちも、

正吉しょうきちのいる、四畳半じょうはんで、二人ふたり勉強べんきょうするにはすこしくらすぎるから、あたらしくまどをつけてやりたい。」と、はははなしているのをきました。

時計とけいよりか、へやのあかるくなるほうがうれしいです。」と、ぼくは、いって、なぜはやく、いもうとのことをかんがえてやらなかったろうと、自分じぶんをはずかしくかんじました。

大工だいくのつごうで、すぐにしてやるよ。」と、ちちがいいました。おもいがけない二つのよろこびが、一にやってきたようで、わたしむねはおどりました。

「こんなに、わたしたちのことをおもってくださるのか。」と、こころのうちで感謝かんしゃしたのです。

 ひがしにしかまどがなかったのを、西にしにもまどがつくと、おなじへやとはしんじられないほど、あかるくなりました。しかも、そのまどからは、これまでられなかったもりや、電信柱でんしんばしらや、とおくのたか煙突えんとつまでが、さながら、油絵あぶらえるようににうつったのです。このあたらしい風景ふうけいは、ぼくの気持きもちを、どんなにたせたかしれません。

「これから、うんと、勉強べんきょうができるぞ!」

「にいちゃん、ごらんなさい。あんなにくもがきれいだこと。」と、いもうとが、もりのいただきをさして、びかけました。

「あ、きれいだね。よしちゃん、クレオンで、あのくも写生しゃせいしてごらんよ。」と、ぼくは、こころそらへむかって、とびおもいがしました。

 こうして、いきいきとした自然しぜんると、たとえ、どんな平和へいわ景色けしきでも、時計とけいについているうごかないかざりを、感嘆かんたんしてがしなかったのでした。それに、時間じかん不正確ふせいかくとわかると、そばにおくはもうなかったのです。

「こんどは、いい時計とけいが、はやくほしいな。」と、ぜいたくとりながら、いもうとにむかって、わたしは、希望きぼうはなしたのでした。

 この希望きぼうも、たちまちたっせられたのは、十何年なんねんまえに、ちちが、おき時計どけいった、古道具屋ふるどうぐや主人しゅじんが、有田焼ありたやきおおきな丸火鉢まるひばちを、とどけてくれたからでした。

「ご苦労くろうさま。」と、ははは、ねぎらいました。

 ちちは、おくからてきて、

「この時計とけいですよ、おぼえがありませんか。公使こうしかたかえられたとかいうのですが。」と、主人しゅじんせました。

「そんなことがありましたかな。十ねんといえば、いや、わたしだって、このとおりあたまがはげましたから、時計とけいが、いたむのもむりはありません。このごろ、日本製にっぽんせいでいいのができました。このさい、おとりかえなさるほうが、およろしいかもしれません。」と、主人しゅじんはいいました。

「こんなになっても、ひとがありますか。」と、ちちきました。

「それが、おかしなもので、外国製がいこくせいというので、っていくひとがありますから。」と、主人しゅじんわらいました。

「ただ、かざりにするなら、この時計とけいは、りっぱなもんだ。」と、ちちも、わらいました。

 主人しゅじん時計とけいちさってしまってから、わずか二日ふつかばかりのうちに、ちちは、日本製にっぽんせいあたらしいざまし時計どけいってきてくれました。いかにも、はりきっていて、元気げんきよく、めざまし時計どけいは、シャン、シャン、と、ひびきをへやじゅうにたて、くろはりは、数字すうじうえをまことに正確せいかくにさしたのでした。

「このほうが、いいわ。わたしたちまで元気げんきになったようね。」と、いもうとが、ひかった時計とけい見上みあげて、いったのです。

「そうだね、ぼくたちまで、ぼやぼやするなと、いわれているようだね。」と、わたしが、いうと、

「やはり、外国製がいこくせい?」と、いもうときました。

「むろん、日本製にっぽんせいさ。それだから、外国がいこくにまけるな、むだにときをすごされないぞと、いっているじゃないか。」と、わたしこたえて、いま日本にっぽん貧乏びんぼうくるしいのをいもうと説明せつめいして、むかしのようにふたたびがるのには、ぼくたちが、しっかりしなければならぬのを、おしえてやりました。

底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社

   1977(昭和52)年1210日第1刷発行

   1983(昭和58)年119日第5刷発行

底本の親本:「太陽と星の下」あかね書房

   1952(昭和27)年1

初出:「小学五年生 4巻6号」

   1951(昭和26)年9

※表題は底本では、「時計とけいまどはなし」となっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:酒井裕二

2019年830日作成

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