しらかばの木
小川未明



 さびしいいなかながら、えき付近ふきんまちらしくなっていました。たばこをみせがあり、金物かなものをならべたみせがあり、また青物あおものや、荒物あらものなどをみせなどが、ぼつり、ぼつりとられました。そして、駅前えきまえから、あちらのやまのふもとの村々むらむらへいく、馬車ばしゃがとまっていました。いぜんには、バスが往復おうふくしていたが、戦争せんそうがはじまってから、馬車ばしゃにかわったのでした。

 もうほどなく、馬車ばしゃるというので、待合室まちあいしつにいた人々ひとびとが、はこなかへはいりかけました。なかにはおおきな荷物にもつをかかえたおとこがいました。たぶん山間やまあい農家のうかへあきないにいくのでしょう。またはでながさをった、わかおんながいました。これは、まちはたらいているのが、法事ほうじかなにかあるので、休暇きゅうかをもらい、実家じっかかえるのかもしれません。ほかに一人ひとり、やぶれた学生服がくせいふく少年しょうねんりました。少年しょうねんは、このへんのものでようたしにどこへかいくのか、それとも、はやいえかけて、もう用事ようじをすまして、かえるみちなのかもしれません。それらのひとたちといっしょにったのが、このほど戦地せんちから帰還きかんした秀作しゅうさくさんでありました。

 いま、おはなしするのは、その秀作しゅうさくさんのことであります。秀作しゅうさくさんは、やはりあちらのやまのふもとにまれたのでした。幼児ようじのころちちをなくして、そのは、ただ母親ははおや一人ひとりにそだてられておおきくなりました。そして、十五、六のころ、とおまちのほうこうにやられて、そこで一人前にんまえ職工しょっこうとなったのですが、かたときもわすれなかった、なつかしいははは、そのあいだんでしまいました。

 こんど、戦争せんそうがはじまると、秀作しゅうさくさんは、寄留先きりゅうさきから召集しょうしゅうされて、いさましく出征しゅっせいしたのであります。

 あのはてしない戦線せんせんで、あるときは、にごったおおきなかわわたり、あるときは、けわしい岩山いわやまをふみこえて、頑強がんきょうにていこうする敵兵てきへいと、すさまじい砲火ほうかをまじえ、これを潰滅かいめつし、げるをついげきして、前進ぜんしん、また前進ぜんしんしたのでありました。

 あるのこと、これも山岳地帯さんがくちたいであったが、わずかにたにをへだてててき対峙たいじしたことがあります。こちらは寡勢かぜいへいすくないこと)で、てきのほうは大部隊だいぶたいであるうえに、てき拠点きょてん(よりどころ)でもあったから、すたまは、さながらあめるように集注しゅうちゅうされました。ヒュン! ヒュン! と、ちいさなうなりが、みみもとちかくやけつくようにすると、左右さゆうくさが、パッ、パッとびちりました。こうした場合ばあい、もしすこしでもひるむことがあればてきはあなどって逆襲ぎゃくしゅうするのがきまりだから、ますます攻勢こうせいなければならない。いままで勇敢ゆうかんたたかっていた戦友せんゆうが、ばたり、ばたりと前後ぜんごにたおれていきました。それにつらかったのは、たまのつきかかったことでした。さいごには突撃とつげきするのであるが、そのときまで、のこりのたまをもっとも有効ゆうこう使つかわなければならなかった。秀作しゅうさくさんは、むねをはり、いきをれて、一ぱつ必殺ひっさつ信念しんねんをこらしました。このときふと一ぽん木立こだちにとまりました。それはしらかばのようです。「おや、たことのあるけしきだぞ。」と、秀作しゅうさくさんは、突如とつじょこうおもうと、自分じぶんをうたがいました。は、なだらかな斜面しゃめんって、した雑草ざっそうがしげり雑草ざっそうにまじって、むらさきいろはないていました。しゅんらんかもしれません。

秀作しゅうさくや、わたしは、さっきからここで、おまえをているのだよ。どうかりっぱにたたかって、日本男児にっぽんだんじとして、はじないはたらきをしておくれ。」

 おお、おかあさんだ。ほんとうにおかあさんが、あすこにこしをかけていられる。仕事着しごとぎの、あのすがたで、こしをかけていられる。

 かれは、われわすれてそのそばへかけよろうとしたが、「む、だめだ。」と、はげしくあたまをうちふって、自分じぶんでまぼろしをうちけし、じきにそのもえつくは、前面ぜんめんてきをにらんで、攻撃こうげきをつづけたのでした。

日本にっぽん荒鷲あらわしだ。」と、さけんだものがあります。そらくろくおおうように、爆撃機ばくげききあたまうえをすれすれにぶかとみると、てきのトーチカをがけて、爆弾ばくだんとしました。たちまちくろけむりのなかからばしらががり、万山ばんざん鳴動めいどうしました。これよりはやく、秀作しゅうさくさんの部隊ぶたいは、敵陣地てきじんちがけて突進とっしんしていたのです。

 そののことをおもすと、秀作しゅうさくさんは、いのちのあったこともふしぎだが、おかあさんのすがたをたこと、ことごとくゆめのようながするのでした。

「おかあさんについて、やまへいったとき、自分じぶんはまだ八つか九つであった。そのしたやすんだとうげのしらかばのは、まだあるだろうか。」

 帰還きかんしてから、秀作しゅうさくさんは、毎日まいにちのようにそのことをおもったのでした。とうとうたまらなくなって、自分じぶんまれたむらかえみちにあったのです。たとえむらかえっても、自分じぶんをむかえてくれるいえがあるのでなし、また自分じぶんっていてくれるものもなかろうとおもうと、秀作しゅうさくさんは、たよりないような、さびしいがしました。しかし、そんなことはどうだっていい。自分じぶん子供こどものじぶん、おかあさんといっしょにそのしたやすんだ、しらかばのっているとうげへさえいけばいいのだ。そして、そのなつかしいけしきをふたたびることができれば、のぞみがたりるのだとおもいました。そこへいけば、なれたおかあさんが、きっとていらして、ほんとうにおかあさんにあえるというがしたのでした。

「ホウ。」といって、そのとき、馭者ぎょしゃは、つなをひきました。やせた赤毛あかげうまが、ガラッ、ガラッとわだちをきしらせました。つづいて、ピシッ、馭者ぎょしゃがむちをあてるとうま本気ほんきになってはししました。そとていると、だんだんえきからとおざかりました。やぐらがあったり、警防団けいぼうだんのふだのかかったこやなどがあったりしました。ひでりつづきで、みちがかわいているので、すこしのかぜにも、しろいほこりがまいがりました。それから、停留場ていりゅうじょうごとに、ひとったり、りたりしました。松林まつばやしにさしかかるころは、うまも、はやつかれたのか、くろくあせがにじんで、あえいでいました。

「ホレ。」といって、ピシリ、ピシリと馭者ぎょしゃは、つづけざまにむちをうまはらにあてました。

 秀作しゅうさくさんは、馭者ぎょしゃほうながら、

親方おやかた、おまえさんは、戦争せんそうにいきなさったか。」と、ききました。ふいにこういかけられたので、馭者ぎょしゃは、おどろいたかおをして、

「どうしてですかね。」と、いいかえしました。

戦線せんせんでは、兵隊へいたいうまもいっしょだからよ。うまはおとなしい、ききわけのあるかわいいやつでくちをきかないだけさ。ピシりとたたかれると、おれがたたかれるようながしてね。」と秀作しゅうさくさんは、しいておおきくわらいました。おおきな荷物にもつったおとこは、

「あんたは戦争せんそうにいってきなすったか。」とはなしかけました。車中しゃちゅうひとはみんな秀作しゅうさくさんのかおをみました。

北支ほくしから、中支ちゅうしへ二ねんばかり。」

「それは、ごくろうさんでした。おうちは、このちかくですかね。」

わたしは、たびでくらしていますが、ひさしぶりで、おふくろにあいにいこうとおもって。」と、秀作しゅうさくさんは、ついそういってしまったのでした。

「それは、それは、どんなにかおよろこびでしょう。」

 馭者ぎょしゃは、秀作しゅうさくさんにいわれてから、うまにむちをあてるのも、手心てごころしているようにみられたのです。やまのいただきにしろくもがわいて、とおくのほうで、かみなりのおとがしました。

底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社

   1977(昭和52)年1110日第1刷発行

   1983(昭和58)年119日第5刷発行

底本の親本:「少国民の友」

   1943(昭和18)年6月号

初出:「少国民の友」

   1943(昭和18)年6月号

※表題は底本では、「しらかばの」となっています。

※初出時の表題は「白樺の木」です。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:酒井裕二

2017年1124日作成

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