みだれ髪
与謝野晶子

この書の体裁は悉く藤島武二先生の意匠に成れり表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり


臙脂紫



夜のちやうにささめき尽きし星の今を下界げかいの人の鬢のほつれよ


歌にきけな誰れ野の花に紅きいなむおもむきあるかなはるつみもつ子


かみ五尺ときなば水にやはらかき少女をとめごころは秘めて放たじ


血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな


椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬいろもゝに見る


その子二十はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな


堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみにきやうたまへ君


紫にもみうらにほふみだればこをかくしわづらふ宵の春の神


臙脂色えんじいろは誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりのいのち


紫の濃き虹説きしさかづきにうつる春の子眉毛まゆげかぼそき


紺青こんじやうを絹にわが泣く春の暮やまぶきがさねとも歌ねびぬ


まゐる酒にあかき宵を歌たまへをんなはらから牡丹に名なき


海棠にえうなくときしべにすてて夕雨ゆふさめみやるひとみよたゆき


水にねし嵯峨の大堰おほゐのひとがみ絽蚊帳ろがやの裾の歌ひめたまへ


春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花ばいくわのあぶら


今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾みすそさはりてわが髪ぬれぬ


細きわがうなじにあまる御手みてのべてささへたまへな帰る夜の神


清水きよみづ祇園ぎをんをよぎる桜月夜さくらづきよこよひ逢ふ人みなうつくしき


秋の神の御衣みけしより曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ


きやうはにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ


山ごもりかくてあれなのみをしへよべにつくるころ桃の花さかむ


とき髪にむろむつまじの百合のかをり消えをあやぶむ淡紅色ときいろ


雲ぞ青き来し夏姫なつひめが朝の髪うつくしいかな水に流るる


夜の神の朝のり帰る羊とらへちさき枕のしたにかくさむ


みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき


やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君


許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき


わすれがたきとのみに趣味しゆみをみとめませ説かじ紫その秋の花


人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴をごとにもたす乱れ乱れ髪


たまくらにびんのひとすぢきれし小琴をごとと聞きし春の夜の夢


春雨にぬれて君こし草のかどよおもはれ顔の海棠の夕


小草をぐさいひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少女をとめ


牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君


春よ老いな藤によりたる舞殿まひどのゐならぶ子らよつか老いな


雨みゆるうき葉しらはす絵師の君に傘まゐらする三尺の船


御相みさういとどしたしみやすきなつかしき若葉わかばだちなか盧遮那仏るしやなぶつ


さて責むな高きにのぼり君みずやあけの涙の永劫えいごふのあと


春雨にゆふべのみやをまよひ出でし小羊こひつじきみをのろはしの我れ


ゆあみする泉の底の小百合花さゆりばな二十はたちの夏をうつくしと見ぬ


みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神にちゝおほひあへず


くれなゐの薔薇ばらのかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな


旅のやど水に端居はしゐの僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月


春の夜のやみなかくるあまき風しばしかの子が髪に吹かざれ


水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君


誰ぞゆふべひがし生駒いこまの山の上のまよひの雲にこの子うらなへ


悔いますなおさへし袖に折れしつるぎつひの理想おもひの花にとげあらじ


ぬかごしにあけの月みる加茂川の浅水色あさみづいろのみだれ藻染もぞめ


御袖みそでくくりかへりますかの薄闇うすやみ欄干おばしま夏の加茂川の神


なほ許せ御国遠くば御神みかみ紅盃船べにざらふねに送りまゐらせむ


狂ひの子われにほのほはねかろき百三十里あわただしの旅


今ここにかへりみすればわがなさけやみをおそれぬめしひに似たり


うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今


わかき小指をゆび胡紛ごふんをとくにまどひあり夕ぐれ寒き木蓮の花


ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯


ふしませとそのさがりし春の宵衣桁いかうにかけし御袖かづきぬ


みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす


しのび足に君を追ひゆく薄月夜うすづきよ右のたもとの文がらおもき


紫に小草をぐさが上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝


絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき


しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅


嵯峨の君を歌に仮せなの朝のすさびすねし鏡のわが夏姿


ふさひ知らぬ新婦にひびとかざすしら萩に今宵の神のそと片笑かたゑみし


ひと枝の野の梅をらば足りぬべしこれかりそめのかりそめの別れ


鶯は君が夢よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る


紫の紅のしたゝり花におちて成りしかひなの夢うたがふな


ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清瀧きよたき夜の明けやすき


むらさき理想りさうの雲はちぎれ〳〵仰ぐわが空それはた消えぬ


乳ぶさおさへ神秘しんぴのとばりそとけりぬここなる花のくれなゐぞ濃き


神のせなにひろきながめをねがはずや今かたかたの袖こむらさき


とや心朝の小琴をごとの四つの緒のひとつを永久とはに神きりすてし


ひく袖に片笑かたゑみもらす春ぞわかき朝のうしほの恋のたはぶれ


くれの春隣すむ画師ゑしうつくしき今朝けさ山吹に声わかかりし


郷人さとびとにとなりやしきのしら藤の花はとのみに問ひもかねたる


人にそひてしきみささぐるこもりづま母なる君を御墓みはかに泣きぬ


なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな


おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る


ゆあみして泉を出でしわがはだにふるるはつらき人の世のきぬ


売りし琴にむつびのきよくをのせしひびき逢魔あふまがどきの黒百合折れぬ


うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風よかぜの青き


恋ならぬねざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏


このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日きのふすらさびしかりし我れ


おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろやよるを蝶のねにこし


その涙のごふえにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月はつかづき


水十里ゆふべの船をあだにやりて柳による子ぬかうつくしき(をとめ)


旅の身の大河おほかはひとつまどはむやしづかに日記にきの里の名けしぬ(旅びと)


小傘をがさとりて朝の水くみ我とこそ穂麦ほむぎあをあを小雨こさめふる里


おとに立ちて小川をのぞく乳母が小窓こまど小雨こさめのなかに山吹のちる


恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき


長き歌を牡丹にあれの宵の殿おとど妻となる身の我れぬけ出でし


三月みつきおかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪


いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬはねあるわらは


ゆふぐれの戸に倚り君がうたふ歌『うき里去りて往きて帰らじ』


さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ


君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速の宿は秋寒かりき


その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ


今の我に歌のありやを問ひますななき繊絃ほそいとこれ二十五げん


神のさだめ命のひびきつひの我世ことをのうつ音ききたまへ


人ふたり無才ぶさいの二字を歌に笑みぬこひ二万ねんながき短き


蓮の花船



漕ぎかへる夕船ゆふぶねおそき僧の君紅蓮ぐれんや多きしらはすや多き


あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ


御袖ならず御髪みぐしのたけときこえたり七尺いづれしら藤の花


夏花のすがたは細きくれなゐに真昼まひるいきむの恋よこの子よ


肩おちてきやうにゆらぎのそぞろ髪をとめ有心者うしんじや春の雲こき


とき髪を若枝わかえにからむ風の西よ二尺に足らぬうつくしき虹


うながされてみぎはやみに車おりぬほの紫の反橋そりはしふぢ


われとなくをさの手とめしかどうた姉がゑまひの底はづかしき


ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日きのふの無きにしもあらず


人まへを袂すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ


ひとつはこにひひなをさめてふたとぢて何となきいき桃にはばかる


ほの見しは奈良のはづれの若葉宿わかばやどうすまゆずみのなつかしかりし


あけに名の知らぬ花さく野の小道こみちいそぎたまふな小傘をがさ一人ひとり


くだり船昨夜よべ月かげに歌そめし御堂みだうの壁も見えず見えずなりぬ


師の君の目を病みませるいほの庭へうつしまゐらす白菊の花


文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉虫たまむしひめし小筥こばこふた


ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪先つまさきぬらす海棠の雨


ゆく春をえらびよしある絹袷衣きぬあはせねびのよそめを一人ひとりに問ひぬ


ぬしいはずとれなの筆の水の夕そよ墨足らぬ撫子なでしこがさね


母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ


のろひ歌かきかさねたる反古ほごとりて黒き胡蝶をおさへぬるかな


ぬかしろき聖よ見ずや夕ぐれを海棠に立つ春夢見姿はるゆめみすがた


笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき


白檀びやくだんのけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな


母なるが枕経まくらぎやうよむかたはらのちひさき足をうつくしと見き


わが歌にひとみのいろをうるませしその君去りて十日たちにけり


かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな


春の川のりあひ舟のわかき子が昨夜よべとまりうたねたましき


泣かで急げやは手にはばき解くえにしえにし持つ子の夕を待たむ


燕なく朝をはばきのひもぞゆるき柳かすむやそののめぐり


小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子あさ


鶯に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき


道たま〳〵蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山


君が前に李青蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな


あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはひかかるかな


わが春の二十姿はたちすがたと打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹


春はただ盃にこそぐべけれ智慧あり顔の木蓮や花


さはいへど君が昨日きのふの恋がたりひだり枕の切なき夜半よ


人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙蓉といふ文字


琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君


うたたねの君がかたへの旅づつみ恋の詩集の古きあたらしき


戸に倚りて菖蒲あやめる子がひたひ髪にかかる薄靄うすもやにほひある朝


五月雨さみだれもむかしに遠き山の庵通夜つやする人に卯の花いけぬ


四十八そのひとてらの鐘なりぬ今し江の北雨雲あまぐもひくき


人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき


ふりかへり許したまへの袖だたみやみくる風に春ときめきぬ


夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ


いはをはなれ谿たにをくだりて躑躅つゝじをりて都の絵師と水に別れぬ


春の日を恋に誰れ倚るしら壁ぞ憂きは旅の子藤たそがるる


あぶらのあと島田のかたと今日けふ知りし壁にすもゝの花ちりかかる


うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君


まどひなくて経ずする我と見たまふか下品げぼんほとけ上品じやうぼんほとけ


ながしつる四つの笹舟さゝぶね紅梅を載せしがことにおくれて往きぬ


奥ののうらめづらしき初声うぶごゑに血の気のぼりしおもまだ若き


人の歌をくちずさみつつ夕よる柱つめたき秋の雨かな


小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひて虹あらはれぬ


かしこしといなみにいひて我とこそその山坂を御手に倚らざりし


鳥辺野は御親の御墓あるところ清水坂きよみづざかに歌はなかりき


御親まつる墓のしら梅なかに白く熊笹くまざさ小笹をざさたそがれそめぬ


をとこきよし載するに僧のうらわかき月にくらしのはす花船はなぶね


経にわかき僧のみこゑの片明かたあかり月の蓮船はすぶね兄こぎかへる


浮葉きるとぬれし袂のあけのしづくはすにそそぎてなさけ教へむ


こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよしら蓮の露


明くる夜の河はばひろき嵯峨のらんきぬ水色の二人ふたりの夏よ


藻の花のしろきを摘むと山みづに文がらぢぬうすものの袖


牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる


誰が筆に染めし扇ぞ去年こぞまでは白きをめでし君にやはあらぬ


おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々かみ〴〵


五月雨に築土ついぢくづれし鳥羽殿とばどののいぬゐの池におもだかさきぬ


つばくらのはねにしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪


しら菊を折りてゑまひし朝すがた垣間みしつと人の書きこし


八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖


春かぜに桜花ちる層塔そうたふのゆふべを鳩のに歌そめむ


憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ


おばしまのその片袖ぞおもかりし鞍馬を西へ流れにし霞


ひとたびは神より更ににほひ高き朝をつつみしねり下襲したがさね


白百合



月の夜のはすのおばしま君うつくしうら葉の御歌みうたわすれはせずよ


たけの髪をとめ二人ふたりに月うすき今宵しらはす色まどはずや


荷葉はすなかば誰にゆるすのかみ御句みく御袖みそで片取かたとるわかき師の君


おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合


いづれ君ふるさと遠き人の世ぞと御手はなちしは昨日きのふの夕


三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿


今宵こよひまくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢


夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ


次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみぢかき


友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいひぬ


ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし


いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人ふたり一人ひとり


もろ羽かはし掩ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋


星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の声


人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今日けふ秋くれぬ


星の子のあまりによわし袂あげて魔にも鬼にもたむと云へな


百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか


しろ百合はそれその人の高きおもひおもわはにほ紅芙蓉べにふようとこそ


さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花


友は二十はたちふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へむ


その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき春を山蓼やまたでたづねますな君


秋を三人みたり椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき


かの空よ若狭は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山


ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へむくれなゐ


『筆のあとに山居やまゐのさまを知りたまへ』人への人の文さりげなき


京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき


恨みまつる湯におりしまの一人居ひとりゐを歌なかりきの君へだてあり


秋のふすまあしたわびし身うらめしきつめたきためし春の京に得ぬ


わすれては谿へおりますうしろ影ほそき御肩みかたに春の日よわき


京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ


琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人みたりよ人そぞろなりし


京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小指をゆびの血のあと寒き


山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ


魔のまへに理想おもひくだきしよわき子と友のゆふべをゆびさしますな


魔のわざを神のさだめと眼を閉ぢし友の片手の花あやぶみぬ


歌をかぞへその子この子にならふなのまだすんならぬ白百合の芽よ


はたち妻



露にさめてひとみもたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹


やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな


何となきただ一ひらの雲に見ぬみちびきさとし聖歌せいかのにほひ


神にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ


淵の水になげし聖書を又もひろひそら仰ぎ泣くわれまどひの子


聖書だく子人の御親みおやの墓に伏して弥勒みろくの名をば夕に喚びぬ


神ここに力をわびぬときべにのにほひきようがるめしひの少女をとめ


痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな


おもはずや夢ねがはずや若人わかうどよもゆるくちびる君にうつらずや


君さらば巫山ふざの春のひと夜妻よづままたの世までは忘れゐたまへ


あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙


歌に名はあひはざりきさいへ一夜ひとよゑにしのほかの一夜とおぼすな


水の香をきぬにおほひぬわかき神草には見えぬ風のゆるぎよ


ゆく水のざれ言きかす神の笑まひ御歯みはあざやかに花の夜あけぬ


百合にやるあめの小蝶のみづいろのはねにしつけの糸をとる神


ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる


わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲きぐものちぎれ


むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子


うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ


今日けふを知らず智慧の小石は問はでありき星のおきてと別れにし朝


春にがき貝多羅葉ばいたらえふの名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ


ふた月を歌にただある三ぼん加茂川千鳥恋はなき子ぞ


わかき子がちゝの香まじる春雨に上羽うはばを染めむ白き鳩われ


夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘


見しはそれ緑の夢のほそき夢ゆるせ旅人かたり草なき


胸と胸とおもひことなる松のかぜ友の頬を吹きぬ我頬を吹きぬ


野茨のばらをりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君まちわびぬ


春を説くなその朝かぜにほころびし袂だく子に君こころなき


春をおなじ急瀬はやせさばしる若鮎の釣緒つりをの細緒くれなゐならぬ


みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる


秋を人のよりし柱にとがめあり梅にことかるきぬぎぬの歌


京の山のこぞめしら梅人ふたりおなじ夢みし春と知りたまへ


なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇


詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に


歌にねて昨夜よべ梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色


下京しもぎやう紅屋べにやかどをくぐりたる男かはゆし春の夜の月


枝折戸あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくしき


しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば


二十はたとせの我世のさちはうすかりきせめて今見る夢やすかれな


二十はたとせのうすきいのちのひびきありと浪華の夏の歌に泣きし君


かづくきぬにそのとこの梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君


それ終に夢にはあらぬそら語りなかのともしびいつ君きえし


君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌


なさけあせし文みて病みておとろへてかくても人を猶恋ひわたる


夜の神のあともとめよるしら綾の鬢の香朝の春雨の宿


その子ここに夕片笑ゆふかたゑみの二十はたちびと虹のはしらを説くに隠れぬ


このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな


恋の神にむくいまつりし今日の歌ゑにしの神はいつ受けまさむ


かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君


くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる


そよ理想りさうおもひにうすき身なればか朝の露草つゆくさ人ねたかりし


とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き


『あらざりき』そはのちの人のつぶやきし我には永久とはのうつくしの夢


行く春の一絃ひとを一柱ひとぢにおもひありさいへかげのわが髪ながき


のらす神あふぎ見するにまぶたおもきわが世の闇の夢の小夜中さよなか


そのわかき羊は誰に似たるぞのひとみ御色みいろ野は夕なりし


あえかなる白きうすものまなじりの火かげのはえのろはしき君


紅梅にそぞろゆきたる京の山叔母の尼すむ寺は訪はざりし


くさぐさの色ある花によそはれしひつぎのなかの友うつくしき


五つとせは夢にあらずよみそなはせ春に色なき草ながき里


すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よかを生駒いこま葛城かつらぎ


裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の真昼まひるしづけき


紫のわが世の恋のあさぼらけ諸手もろでのかをり追風おひかぜながき


このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春


みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ


そら鳴りの夜ごとのくせぞくるほしきなれ小琴をごとよ片袖かさむ(琴に)


ぬしえらばず胸にふれむの行く春の小琴とおぼせ眉やはき君(琴のいらへて)


去年こぞゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ


十九つづのわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき


ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君


白きちりぬ紅きくづれぬゆかの牡丹五ざんの僧の口おそろしき


今日の身に我をさそひしなかの姉小町こまちのはてを祈れとにぬ


秋もろし春みじかしをまどひなく説く子ありなば我れ道きかむ


さそひ入れてさらばと我手はらひます御衣みけしのにほひやみやはらかき


病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日けふ文ながき絵筆とる君


河ぞひのかど小雨ふる柳はら二人ふたり一人ひとりめす馬しろき


歌は斯くよ血ぞゆらぎしと語る友に笑まひを見せしさびしき思


とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの


庭下駄に水をあやぶむ花あやめはさみにたらぬ力をわびぬ


柳ぬれし今朝けさかどすぐる文づかひ青貝あをがひずりのその箱ほそき


『いまさらにそは春せまき御胸なり』われ眼をとぢて御手にすがりぬ


その友はもだえのはてに歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き


そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云ひたまへ


いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな


もろかりしはかなかりしと春のうた焚くにこの子の血ぞあまり若き


夏やせの我やねたみの二十妻はたちづま里居さとゐの夏に京を説く君


こもり居にしふの歌ぬくねたみ妻五月さつきのやどの二人ふたりうつくしき


舞姫



人に侍る大堰おほゐの水のおばしまにわかきうれひの袂の長き


くれなゐの扇に惜しき涙なりき嵯峨のみじか夜暁あけ寒かりし


朝を細き雨に小鼓こつづみおほひゆくだんだら染の袖ながき君


人にそひて今日けふ京の子の歌をきく祇園ぎをん清水きよみづ春の山まろき


くれなゐの襟にはさめる舞扇まひあふぎ酔のすさびのあととめられな


桃われの前髪ゆへるくみ紐やときいろなるがことたらぬかな


浅黄地に扇ながしの都染みやこぞめ九尺のしごき袖よりも長き


四条ばしおしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲つ夕あられ


さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶あげはてふ小褄とる手に雪ちりかかる


舞姫のかりね姿ようつくしき朝きやうくだる春の川舟


紅梅に金糸のぬひの菊づくし五枚かさねし襟なつかしき


舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊わたどの


まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまま夜をなに舞はむ


三たび四たびおなじしらべの京の四季おとどの君をつらしと思ひぬ


あてびとの御膝みひざへおぞやおとしけり行幸源氏みゆきげんじ巻絵まきゑ小櫛をぐし


しろがねの舞の花櫛おもくしてかへす袂のままならぬかな


四とせまへ鼓うつ手にそそがせし涙のぬしに逢はれむ我か


おほつづみかゝへかねたるその頃よきぬきるをうれしと思ひし


われなれぬ千鳥なく夜の川かぜに鼓拍子つづみびやうしをとりて行くまで


いもうとの琴には惜しきおぼろ夜よ京の子こひし鼓のひと手


よそほひし京の子すゑてきぬのべて絵の具とく夜を春の雨ふる


そのなさけ今日舞姫まひひめひますか西の秀才すさいが眉よやつれし


春思



いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春


春みじかし何に不滅ふめつの命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ


むろに絵の具かぎよる懸想けさうの子太古の神に春似たらずや


そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれつひの十字架


わかき子が胸の小琴のを知るや旅ねの君よたまくらかさむ


松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな


きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ


歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消ぬべし


神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな


湯あがりを御風みかぜめすなのわが上衣うはぎゑんじむらさき人うつくしき


さればとておもにうすぎぬかづきなれず春ゆるしませなかの小屏風


しら綾に鬢の香しみし夜着よぎの襟そむるに歌のなきにしもあらず


夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき


もゆる口になにを含まむぬれといひし人のをゆびの血は涸れはてぬ


人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ


ここに三とせ人の名を見ずその詩よまず過すはよわきよわき心なり


梅の渓のもやくれなゐの朝すがた山うつくしき我れうつくしき


ぬしや誰れねぶの木かげの釣床つりどこあみのめもるる水色のきぬ


歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな


朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君


御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅筆べにふで歌かきてやまむ


春寒はるさむのふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ


歌筆をべににかりたるさきてぬ西のみやこの春さむき朝


春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七だん堂のきざはし


手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ


病むわれにその子五つのをととなりつたなの笛をあはれと聞く夜


とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな


かくて果つる我世さびしと泣くは誰ぞしろ桔梗さく伽藍がらんのうらに


人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ


卯の花を小傘をがさにそへて褄とりて五月雨わぶる村はづれかな


大御油おほみあぶらひひなの殿とのにまゐらするわが前髪に桃の花ちる


夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風


道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る


魔に向ふつるぎのつかをにぎるには細き五つの御指みゆびと吸ひぬ


消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか


恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩人しじんもありき画だくみもありき


君さけぶ道のひかりのをちを見ずやおなじあけなるもやたちのぼる


かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在のはねなからずや


ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神


うしや我れさむるさだめの夢を永久とはにさめなと祈る人の子におちぬ


わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国


結願けちぐわんのゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ


罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ


そとぬけてそのもやおちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき


春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ


もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔神まがみつばさ


酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき


その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子


花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ


みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根


ゆく水に柳に春ぞなつかしき思はれ人に外ならぬ我れ


その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き


きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讃嘆さんたんのこゑ


病みませるうなじにほそきかひな捲きて熱にかわける御口みくちを吸はむ


天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな


染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風あきとなりぬ


たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを歎きつつ死なむ


うき身朝をはなれがたなの細柱ほそばしらたまはる梅の歌ことたらぬ


さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき


その歌をします声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき


明日あすを思ひ明日の今おもひ宿の戸に倚る子やよわき梅暮れそめぬ


金色こんじきはねあるわらは躑躅つつじくはへ小舟をぶねこぎくるうつくしき川


月こよひいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな


恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時


星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ


わかき子のこがれよりしは鑿のにほひ美妙みめう御相みさうけふ身にしみぬ


清し高しさはいへさびし白銀しろがねのしろきほのほと人のしふ見し(酔茗の君の詩集に)


かりよそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝夕あさゆふ


来し秋の何に似たるのわが命せましちひさし萩よ紫苑よ


柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず


さちおはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち


打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうときひつじ


誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ


庫裏くりの藤に春ゆく宵のものぐるひ御経みきやうのいのちうつつをかしき


春の虹ねりのくけ紐たぐりますはぢろがみあけのかをりよ


むろの神に御肩みかたかけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲ひとかさね


あめさいここににほひの美しき春をゆふべにしふゆるさずや


消えてりて石と成らむの白桔梗しろぎきやう秋の野生のおひ趣味しゆみさて問ふな


歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ


そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ

底本:「みだれ髪」新潮文庫、新潮社

   2000(平成12)年11日発行

底本の親本:「みだれ髪」名著複刻全集 近代文学館、日本近代文学館

   1968(昭和43)年12月発行

初出:「みだれ髪」東京新詩社・伊藤文友館

   1901(明治34)年815日発行

※このファイルには、青空文庫からリンクされている以下のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。

「みだれ髪(明治34年)」(入力:岡島昭浩、大阪大学のサイト(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開)

※初出の復刻版をもとにした底本は、本文では誤植もそのままなぞり、別に、監修者、松平盟子による訂正表を掲載しています。このファイルでは、同表において誤りとされた箇所をあらため、「」の形式で注記しました。

※底本編集時に、*を添えて新たに付されたルビは、入力しませんでした。

※解説の便宜のために、底本編集時に加えられた通し番号は、入力しませんでした。

入力:田中哲郎

校正:富田倫生

2012年28日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。