帽子箱の話
スティーヴンスン
佐藤緑葉訳



 十六歳まではある私立の學校で、それから後は英吉利がそのために有名になつてゐるある大きな學園の一つで、ハリー・ハートリー氏は、紳士としての普通の教育を受けた。その頃彼はもう勉強が厭でたまらなくなつてゐた樣子だつた。そして彼のたゞ一人の生き殘つてゐる親は、からだも弱く、頭もなかつたので、その後はつまらぬ、上品な遊藝の修業などに暇をつぶしても、別に故障を言ふものもなかつた。それから二年の後に彼は孤兒になつて、殆ど乞食のやうな身の上となつてしまつた。といふのは、彼は總ての活動的な勤勉を要する仕事には、その天性からいつても、自分の受けた教育からいつても、等しく不適當であつた。彼は情熱的な小唄などが歌へて、またピアノの伴奏なども相應に出來た。臆病ではあるが、上品な優男であつた。將棋に強い趣味を持つてゐた。そして生れつき、人の心を惹きつけるやうな容貌を惠まれてこの世の中に出て來たのであつた。髮の毛は紅く、顏は桃色で、眼は鳩のやうに優しく、いつも温やかな微笑を浮べてゐた。何となく氣持の好い優しさと、哀れつぽい樣子をしてゐて、ひどく柔順なそして慕ひ寄るやうな態度を持つてゐた。だが何れにしても、軍隊を指揮したり、閣議を董督したりする人物ではなかつた。

 ハリーがかういふ悲慘な境遇に陷つた時、都合のよい機會と、ある傳手つてとで、バス勳章第三等陸軍少將トマス・ヴァンデラー卿の秘書役の地位を得る事になつた。トマス卿は六十ばかりになる、聲の高い、騷々しい、横柄な態度の人であつた。ある理由があつて、即ち度々内密に頼まれたが、その都度ことわつてゐたやうな事を、結局叶へさせてやつたといふやうな功勞のために、トルキスタンのカシュガル王から世界で六番目といふ有名なダイヤモンドを贈られた。この贈物から、ヴァンデラー將軍は貧乏人から金持に、名もない一軍人から倫敦社交界の流行兒の一人となつてしまつた。このダイヤモンドの持主は、極めて排他的な社會で歡迎された。そして彼は若い、美しい、生れの良い婦人までも手に入れた。その婦人はトマス・ヴァンデラー卿と結婚してまで、そのダイヤモンドを自分の物と呼びたいと望んでゐたのであつた。その當時、類は友を呼ぶといふ諺のやうに、一つの寶石が他の寶石を引き付けたと一般に言はれたものであつた。確かにヴァンデラー夫人は、その人柄が最も美しい光澤を放つ寶石であつたばかりでなく、非常に贅澤な道具立をして世間に出たのであつた。それで多くの通人たちから、英國でも三四人の最も服裝の立派な婦人の一人であると考へられてゐた。

 秘書役としてのハリーの務めは、特に面倒なものではなかつた。だが彼は何でも時間の長くかかる仕事が嫌ひだつた。指をインキでよごすのは彼の苦痛とするところで、ヴァンデラー夫人の縹緻や、その化粧などに惹きつけられて、度々書齋から夫人の私室の方へ出かけて行つた。彼は婦人の仲間になると隨分遣り手の方であつた。流行の事なども好んで話せるし、リボンの色合の品さだめをしたり、小間物屋へ使ひに出かけたりする時などは、この上もなく樂しさうであつた。さういふわけで、トマス卿の手紙は兎角あとまはしになり、夫人はいま一人の侍女を手に入れたやうなものだつた。

 將軍は多くの司令官の中でも最も氣短かな人物だつたが、たうとう癇癪を起して立ち上つた。そして紳士仲間では滅多に用ひられぬやうな、はつきりした意味を現はした身振をして、秘書役にもうこの上用は無いと言ひ渡した。その時生憎扉が開いてゐたので、ハートリー氏は階段から眞逆さまに轉げ落ちたのであつた。

 彼は漸く起き上つたが、少し怪我をしてゐる上に、心の中はひどく不平だつた。將軍の家での生活は彼にはどこまでも適してゐた。多少はつきりしない立場ではあつたが、極めて身分の高い人達の中に立ちまじり、仕事は碌々しないで、最も良い物を食べ、そしてヴァンデラー夫人の前では生温い滿足も感じられた。それをまた自分の胸のうちでは、もつと誇張した氣持で考へてゐた。

 彼は將軍から足で侮辱を加へられると、急いで夫人の私室へ驅けて行つて、その悲しみを訴へた。

「ねえハリー、お前さん、自分でよく思ひあたる筈ぢやないの。」と、ヴァンデラー夫人は答へた。夫人は彼を子供か女中のやうに呼びずてにしてゐた。「お前さんはいつでも將軍のおつしやつた事をしたためしが無いぢやないの。私だつて何もしないとお前さんは言ふかも知れないけれど、しかしそれは間違つてゐますよ。女はちよいと如才のない樣子をすれば、隨分長い間勝手な眞似をしてゐても、それで許して貰へるものよ。けれど秘書役と奧樣ではまるで立場が別だからね。お前さんを手離すのは殘念ですわ。でも、お前さんの方で侮辱を加へられた家にはもうゐられないといふなら、お別れしませう。尤も將軍のやり方はきつと私がたしなめてやりますよ。」

 ハリーはがつかりした。眼に涙を浮べて、物優しく責めるやうにヴァンデラー夫人をぢつと見つめた。

「奧樣、侮辱が何でせう。」と、彼は言つた。「それ位の恨みで人を許す事の出來ないやうな人は問題になりません。併しお友達と別れるといふ事は、愛情のきづなを斷ち切るといふ事は──」

 彼は續けて言ふ事が出來なかつた。感情で胸が塞がつたので、たうとう泣き出したのであつた。

「このお馬鹿さんたら、私が惚れてるとでも思つてるのだよ。」と、夫人は考へた。「この人が將軍の召使でなくて、私の召使でいけないつてわけは無いわ。この男はお人好しで、愛想も惡くはないし、また着物のことなども分つてる。その上さうして置けばいたづらもしないだらう。本當にこの男は綺麗だから思ひ付かれる心配かあるわ。」

 その晩夫人は將軍といろ〳〵話しあつた。將軍も既に幾らか自分の遣り過ぎを恥ぢてゐたので、ハリーはその役目を婦人係の方に移された。この新らしい方面での彼の生活は、殆ど何とも言へない程のものだつた。彼はいつも素晴らしい立派な着物を着て、釦孔には美しい花を揷し、そして如才なくしかも氣持よく客をもてなす事がうまかつた。彼は美しい婦人の用事を勤めることを得意にして、ヴァンデラー夫人の言ひつけを特別な寵愛のしるしだと考へてゐた。そして自分を嘲弄したり輕蔑したりする男の前で、自分は男女中で、男小間使であると言つて、却つてそれを喜んでゐた。また彼は道徳的の立場から自分の存在を十分に考へる事が出來なかつた。惡といふものは彼には本來男の屬性であるやうに思はれ、そして美しい女と一緒に日を送り、重に裝身具のことなどで時間をつぶすといふことは、人生といふ嵐の中で、魔法にかゝつた島にでも住んでるやうな氣持がした。

 ある天氣の良い朝、彼は應接室に這入つて行つて、ピアノの上に載つてゐる幾册かの樂譜を整理し始めた。ヴァンデラー夫人はその室の向ふの端で、兄のチャーリー・ペンドラゴンと、大分熱心になつて話し込んでゐた。この兄といふのは年輩らしく見える青年で、道樂にすつかり身を持ち崩し、そして片足がひどくびつこを引く男だつた。二人は秘書役がそこへ這入つて來た事には氣が付かなかつたので、ハリーの方では二人の話の一部を漏れ聞かざるを得なかつた。

「今日でなけりや駄目ですよ。」と、夫人は言つた。「一度限りですよ。どうでも今日でなけりやいけませんわ。」

「駄目だといふなら、今日するが。」と、兄は溜息をつきながら答へた。「併し危ない仕事だよ。身の破滅になりかねないね。ねえクララ。後になつて悔むやうな事になるかも知れないぞ。」

 ヴァンデラー夫人は少し變な顏をして、ぢつと兄の顏を眺めてゐた。

「あなたは忘れてゐるのね。あの人だつて結局は死ぬに違ひないわ。」

「いやどうも、クララ。」と、ペンドラゴンは言つた。「お前は世にも無情な奴だな。」

「あなた方男つてものは、」と、夫人は言ひ返した。「本當にお粗末に出來てると見えて、まるで言葉の細かい味ひといふ物が分らないのね。あなたこそ慾張りで、亂暴で、破廉恥で、何もかも無差別ですわ。そのくせ行く末の事をちよつとでも考へると、女のやうにびくりとなさるわ。私はそんな人勘忍して置けませんわ。あなたは私たち女といふものは馬鹿なものだと思つて、まるで平銀行員のやうに輕蔑してゐるのでせう。」

「お前の言ふ事は全く本當らしいよ。」と、兄は答へた。「お前はいつも私より悧巧だつたよ。だが兎に角、お前は私のいふ「何よりも先づ家族」といふ口ぐせを知つてるね。」

「えゝ、知つてますわ。」と、彼女は兄の手をとつて答へた。「あなたの口ぐせは、あなたが知つてるよりもよく知つてますわ。「そして家族よりも先づクララ!」といふのがその次の文句にならなくつて? 本當にあなたは兄弟中の一番いゝ方ですわ。私はあなたが大好きよ。」

 ペンドラゴン氏はかういふ親身らしい言葉をきいて、少し狼狽した顏付をして立ち上つた。

「私はぶつからない方がいゝね。」と、彼は言つた。「私は自分の引受けた役目はよく知つてるよ。で、あの優男には眼を付けてゐる事にしよう。」

「さうして頂戴。」と、夫人は答へた。「あの男は下劣な人間ですよ。そして何もかも臺なしにして了ふかも知れませんよ。」

 彼女は自分の指先に接吻して、上品に兄に挨拶した。そこで兄は夫人の私室を通つて、裏梯子から歸つて行つた。

「ハリーや。」ヴァンデラー夫人は、二人だけになると、直ぐ秘書役の方へ向いて言ひ出した。

「私は今朝お前さんにして貰ひたい事があるのよ。けれど馬車で行つておくれよ。私は自分の秘書役を日に燒けさせたくはないからね。」

 彼女は最後の言葉に力を入れて言つた。そして半ば母親らしい誇りを見せて眺めたので、哀れむべきハリーは非常な滿足を覺えた。そして彼女のために働く機會を與へられたのは有難いと述べたてた。

「これは私達の大事な秘密の一つなんだよ。」と、女主人はあだつぽい樣子で言葉をつゞけた。

「そして私と私の秘書役の他は誰も知つてはならない事なのよ。トマスさんはよく情ない騷ぎをするでせう。あゝいふ折に私がどんなに辛い思ひをしてるか、お前さんがそれを知つてくれたらねえ! あゝ、ハリーや、ハリーや、お前たち男といふものは、どうしてあんなに亂暴で無理なことをするものか、お前さんにはそのわけが分つて? でも、實際お前さんに分る筈はないわねえ。お前だけはこの世の中で、あゝいふ見苦しい癇癪なんて、全く知らないたゞ一人の人だものねえ。ハリーや、お前さんは本當に親切な良い人だよ。少くとも、お前さんは女の友達になれる人だよ。ねえ、私はお前さんのやうな人があるから他の人が一層醜く見えるやうに思ふわ。」

「そんなに親切におつしやつて下さるのはあなた樣ばかりでございます。」と、ハリーは色男ぶつて言つた。「奧樣は私を……らしく──」

「お母樣らしくと言ふのでせう。」と、ヴァンデラー夫人は言葉を揷んだ。「私はお前さんのお母樣になつてあげようと思ふの。でなければ、少くとも、」と、ほゝ笑みながら言葉を更めて、「まあお母樣といふ處にね。實をいふと、私はお前さんのお母樣には若過ぎると思ふわ。お友達と言はうかしら──親しいお友達と。」

 夫人はそこで言葉を切つて、自分の言つたことがハリーの感傷的な心に徹へるのを待つてゐた。だが相手に返事をさせるまで待つてはゐなかつた。

「併しこんな事は大切なお話ぢやなかつた。」と、彼女はまた言ひ出した。「あの樫の箪笥の左側の方に帽子箱がありますよ。この間の水曜日に私がメクリンと一緒に着た桃色のスリップの下にあるのよ。それを直ぐにこの宛名の處へ持つて行つて頂きたいの。」さう言つて、夫人は彼に一枚の紙を渡した。「けれど私が書いた受取を貰ふまでは、どんな事があつても、これを向ふの手に渡しては駄目よ。分つて? 言つて見てよ、ねえ、言つてみてよ! これはとても大切な事なのよ。だから餘程氣を付けて貰はねば困りますよ。」

 ハリーは夫人の言ひ付けた事をそつくり繰返して、相手の氣を落ちつかせた。そこで彼女がまた何か言はうとした丁度その時、ヴァンデラー將軍が腹を立てゝ顏を眞紅にして、その部屋へ飛び込んで來た。その手には長い綺麗な字の書いてある小間物屋の勘定書を持つてゐた。

「これを見て貰ひたいな。」と、將軍は言つた。「どうかこの書付を見て貰ひたいな。私はお前が私の金に惚れて結婚したといふ事はよく知つてる。また私は自分が世間の誰にも負けないほど寛大にやつて行けるものと思つてる。だが何にしても、かういふ外聞の惡い無駄遣ひはやめて貰ふつもりだ。」

「ハートリーさん。」と、ヴァンデラー夫人は言つた。「お前さんのする事はわかつたでせうね。直ぐそれを引受けてくれますか?」

「待て。」と、將軍はハリーを呼び留めた。「行く前に一寸言ふことがある。」さう言つて、それからまたヴァンデラー夫人の方へ向いて、「この結構人の使ひといふのは何だ? 改めて言つとくが、私はこの男もお前と同樣信用しないぞ。もしこの男が毛筋ほどでも正直といふ事を知つてゐたら、この家にゐようなどゝは思へん筈だ。又この男が給料を貰つて何をやつてるか、誰でも不思議に思つてるぞ。何の使ひにやるのだ? どうして又この男を急に出て行かせるのだ?」

「私は何か私に内證でお話があるのかと思ひましたわ。」と、夫人は答へた。

「お前は使ひの事を話してゐたぢやないか。」と、將軍は言ひ張つた。「私がこんなに腹を立ててるのに、だまさうとしても駄目だぞ。お前は確かに使ひの事を話してゐたぢやないか。」

「あなたが私達の間の恥かしいいざこざを、召使の者にまで知らせようとおつしやるのでしたら、」と、ヴァンデラー夫人は答へた。「それはハートリーさんにお待ちなさいといふのもいゝでせう。さうぢやございません?」夫人は續けて言つた。「それならハートリーさん、行つてもようござんすよ。お前さん、こゝで聞いた事はよく覺えてゐるでせうね。お前さんにも爲になる事かも知れませんよ。」

 ハリーは直ぐに應接室から逃げ出した。そして二階へ驅け上つて行く間も、將軍のどなり立てる聲と、その合間にヴァンデラー夫人が低い聲で氷のやうに應答するのが聞こえて來た。彼はどれ程實意をこめて夫人を讃美したらう! なんて旨くあの面倒臭い詰問を言ひ拔けた事だらう! 敵の砲火を浴びながら自分の命令を繰返すあの確實な圖々しさ! それとはあべこべに、どれほど彼は亭主の方を嫌つたことか!

 その朝の出來事は少しも珍らしい事ではなかつた。といふのは、彼はいつもヴァンデラー夫人の秘密の用事を、殊に小間物屋に關係のある用事を、果すのを常としてゐたからである。彼もよく氣がついてゐたが、この家には何か秘密があつた。夫人の底拔けの贅澤と、限りもない負債とは、久しく彼女自身の財産を呑み盡して居て、日に日に夫の財産をも呑み込まうとしてゐた。毎年一度か二度位それが曝露されて、今にも破滅が來さうに思はれた。そしてハリーは次の季節が過ぎるまでは、いろ〳〵な出入商人の店を驅けまはつて、つまらぬ嘘を竝べたてたり、澤山の勘定に少しばかりの内金を支拂つたりして日を過ごし、そして夫人とその忠實な秘書は始めて息をつくのであつた。なぜかといふに、ハリーは二重の資格でその方面の戰ひには夢中になるのであつた。つまり彼は夫人を慕つて、その夫を恐れ且つ嫌つてゐたばかりでなく、生れつき華美好みには同感してゐて、自分の唯一つの贅澤も仕立屋の店にあつた。

 彼は言ひ付けられた場所で帽子箱を見つけ出し、自分も氣をつけて身じまひを直し、そして家を出た。よく晴れた日であつた。行く先までの距離は可なり遠かつた。彼は家を出る時に突然將軍が部屋へ這入つて來たので、夫人から馬車賃を貰ひそこねた事を思ひ出して狼狽した。こんな蒸し暑い日には、どうしても自分の顏色をひどく害ねざるを得なかつた。そして倫敦のやうな町をいつまでも帽子箱をかゝへて歩くことは、彼のやうな性格の青年には殆ど堪へられぬ屈辱だつた。彼は立ち留つた。そして獨りで考へて見た。ヴァンデラー家はイートン・プレースに住んでゐて、自分が行かうとしてゐる處はナテイン・ヒルの近くであつた。それでうまく廣場ばかり通り、人ごみの横町はさけて、公園をぬける事が出來た。そして朝もまだ比較的早いのだと思つた時、これは運がよいのだと喜んだ。

 この厭な仕事から早く免れたいと思つて、彼はいつもよりも幾らか早足に歩いた。そしてケンシントン公園の中をもう可なり歩いたなと思つた時、樹立の中の寂しい場所で、彼はばつたり將軍に出つ會した。

「御免下さい。」と、ハリーは丁寧に片側に身をさけて言つた。といふのは、相手が彼と眞正面に向ひ合つたからである。

「君はどこへ行くんだ?」と、將軍はたづねた。

「樹立の中をちよつと散歩してゐるところでございます。」と、青年は答へた。

 將軍は手にしてゐる杖で帽子箱を叩いて、

「そんな物を持つてか?」と叫んだ。「嘘をつくな。貴樣、知つてながら嘘をついてるな!」

「まあ、旦那樣。」と、ハリーは答へた。「そんな權幕でおたづね下すつては恐れ入ります。」

「貴樣は自分の立場が分らんな。」と、將軍は言つた。「貴樣は俺の召使だぞ。しかもかねがね最も怪しいと睨んでる召使だ。その箱の中には茶匙がくすね込んであるかどうか知れたもんぢやないぞ。」

「いえ、この中にあるのは友達のシルクハットで御座います。」と、ハリーは言つた。

「よろしい。」と、ヴァンデラー將軍は答へた。「ではその友達のシルクハットといふのを見せて貰はう。俺はな、」と、將軍は物凄い顏をして附け加へた。「妙に帽子を見たい癖があるのだ。それに貴樣も知つてるだらうが、俺は幾分剛情の方でな。」

「御免下さい、旦那樣。それではまことに困ります。」と、ハリーは辯解した。「併し、實のところ、これは個人の問題でございます。」

 將軍は片手で相手の肩先を手荒く掴んで、他方の手で、ひどく脅かすやうな態度で、杖を振り揚げた。ハリーはもうこれまでだとあきらめた。だが丁度其折、天がチャーリー・ペンドラゴンといふ形で、思ひがけない味方を下し給うたのであつた。彼は今樹立の後から大股にこちらへ出て來たのである。

「まあ、まあ、閣下、お待ち下さい。」と、彼は言つた。「こりや禮儀にも叶はず、また男らしいとも言へませんよ。」

「ほう! ペンドラゴン君か!」と、將軍は叫んで、この新らしい敵の方へぐるりと向き直つた。「ところで、ペンドラゴン君、俺が君の妹と結婚したばかりに、俺は君のやうな信用の無い、身代限りの道樂者に後を跟けられたり、邪魔をされたりして、平氣でゐると思ふかね? 俺は家内と知つてから、家内の家族の者はみんな嫌ひになつたよ。」

「それではヴァンデラー閣下。」と、チャーリーはやり返した。「あなたは私の妹が不幸にしてあなたと結婚した爲に、それで忽ち婦人としての權利も特權も失つたと思ふのですか。私ははつきり言ひますが、妹はこの結婚によつて誰にも負けない悲慘な位置に墮ちたのです。だが私にとつては、妹は矢張ペンドラゴン家の者です。私は妹を保護して、非紳士的な暴行を蒙らぬやうにしてやるのを私の仕事にしてゐます。あなたが十倍も立派な妹の夫であつても、私はあれの自由を束縛する事は許しませんよ。また妹の個人的の使を亂暴にも取り押へたりなどさせませんよ。」

「とうだ、ハートリー君、」と、將軍は尋ねた。「ペンドラゴン君も私と同意見らしいぞ。この男も亦、ヴァンデラー夫人がお前の友達のシルクハットと何か關係があると疑つてゐるんだ。」

 チャーリーはばか〳〵しい失錯をやつたと思つたので、あわてゝそれを取繕はうとした。

「何ですつて、閣下?」と、彼は叫んだ。「私が疑つてゐますつて? 私は何も疑つてはゐませんよ。私はたゞ人が力を濫用したり、自分より目下の者を虐げたりするのに氣が付いた時、進んでそれを匡正してやるのです。」

 かう言ひながら、彼はハリーに合圖をした。だが相手は餘りに感じが鈍く、また餘りに顛倒してゐたので、その合圖を悟る事が出來なかつた。

「俺は君の向背をどう解釋したらいゝんだ?」と、ヴァンデラーはたづねた。

「さあ、どうとも御勝手に。」と、ペンドラゴンは答へた。

 將軍は再び杖を振り揚げて、ペンドラゴンの頭に一撃を加へようとした。だが相手は跛者ではあつたが、傘でその打撃をさけて、急に走り寄つて、忽ち恐ろしい敵に組付いた。

「逃げろ、ハリー、逃げろ!」と、彼は叫んだ。「逃げろ、馬鹿者!」

 ハリーは暫く石のやうに硬くなつて、二人の男が烈しく組合つてのたうちまはつてゐるのを眺めてゐたが、やがて踵をかへして逃げ出した。振返つて眺めると、將軍がチャーリーに組み敷かれて、しかもそれを跳ね返さうとして死物狂ひになつてゐるのが見えた。そして公園は、四方から喧嘩の場所へ驅け集まる人で一杯らしかつた。それを見ると秘書役は飛ぶが如くに走り出して、ベーズウォータ通に達するまでは足を弛めなかつた。それから人通りの少ない横町へ盲滅法に飛び込んだ。

 自分の知つてる二人の紳士がかうしてお互ひに烈しく打ち合ふのを見て、ハリーはひどく面喰つた。彼はその光景を忘れたいと思つた。何よりもヴァンデラー將軍から出來るだけ遠ざかりたいと思つた。そしてその事にだけ夢中になつて、自分の行く先の事はすつかり忘れてしまつて、ふるへながら、まつしぐらに驅けて行つた。彼はヴァンデラー夫人が、あの鬪つてゐる人の一方の妻であり、他方の妹である事を思ひ出した時、間違つてさういふ悲しむべき位置に置かれた婦人に對する同情で心を打たれた。また將軍の家庭に於ける自分の位置までが、かういふ亂暴な事件から考へてみて、いつものやうに愉快なものとは思はれなかつた。

 このやうな默想に耽りながら、幾らも道のりを行かない中に、彼は他の通行人に輕く衝き當つて、自分の手に帽子箱をかゝへてゐる事を思ひ出した。

「おや!」と、彼は叫んだ。「頭がどうかしてるぞ? 私はどこをまごついてゐるのだ?」

 そこで彼はヴァンデラー夫人から渡された封筒を調べてみた。それには住所は書いてあつたが、宛名は無かつた。ハリーはたゞ「ヴァンデラー夫人から包みを受取るべき紳士」を尋ねて、もしその人が留守なら歸るまで待つやうに言ひ付けられただけだつた。またその紳士は夫人の自筆の受取を渡さなければならぬ、といふ注意書が添へてあつた。この事は如何にも不思議で、また何よりも宛名が省いてある事と、受取の形式とが非常にハリーを驚かした。彼は夫人からこの事を話の間にそれとなく言はれた時には、ついそれをはつきり考へてみなかつた。併しいま冷靜にそれを讀んでみたり、他の不思議な事柄と結びつけて考へてみると、自分が何か危險な事件に關係してゐる事が分つて來た。彼はほんの暫くだつたがヴァンデラー夫人その人までも疑つてみた。といふわけは、これらの瞹昧なやり口は、あのやうに地位の高い婦人には幾分ふさはしくないし、又その秘密が自分に隱してあつたとすると、一層あぶなつかしくなると氣が付いたからであつた。だが彼の精神を支配してゐる彼女の勢力はどこまでも深かつた。彼は自分の疑ひを拂ひのけて、さういふ考へを抱いたのは惡い事だと、却つて自分を責めるのであつた。

 併したゞ一つの事だけでは、彼の義務と利害、寛容と恐怖とが一致した。──即ち出來るだけ早く帽子箱を處分するといふことである。

 彼は最初に出會つた巡査に言葉をかけて、丁寧に道を尋ねた。そして自分はもう目的の場所から遠くない處へ來てゐるといふ事を知つた。數分間歩いて行くと、ある横町の、新らしく塗りかへた、極めて念入りに注意の屆いてゐる、小さな家の前に出た。戸敲も引綱も立派に磨いてあつて、どこの窓の框にも鉢物の花が飾つてあつた。そして何だか贅澤な布地の窓掛が懸けてあつて、家の中が好奇心のある通行人に見えないやうにしてあつた。その邊の樣子は何となく靜かで、隱れ棲む場所といふ風があつた。そこでハリーもすつかりさういふ氣持になつて、いつもよりももつと氣を付けて戸を敲き、又一層注意して靴の塵を拂つたのであつた。

 何となく人を惹き付ける樣子の女中が直ぐ戸をあけて、そして不親切でもないらしい眼付で秘書役を見たらしかつた。

「これはヴァンデラー夫人からの包みでございます。」と、ハリーは言つた。

「左樣でございますか。」と、女中は頷いて言つた。「併し旦那樣は只今お留守でございます。私がお預り致しませうか。」

「それは困ります。」と、ハリーは答へた。「ある條件でなければ渡してはいけないと言ひ付けられて參りましたのです。御迷惑でせうが、待たせて頂きませうか。」

「えゝ、結構でございますわ。」と、女中は言つた。「私、ほんとに寂しうございますのよ。それにあなたは女をひどい目に會はせるやうな方ではなささうですわ。でも旦那樣の名はどんな事があつてもお尋ねなさらないで下さい。それだけは申上げられない事になつてゐますから。」

「はゝあ。」と、ハリーは叫んだ。「何だか妙ですな。ですが實は私はさつきから變な事にばかり出あつてゐるのです。そこで只一つだけお尋ねしてもよからうと思ふのですが、旦那樣といふのはこの家の御主人ですか。」

「下宿していらつしやる方なんです。それもまだ八日にもなりませんのよ。」と、女中は答へた。「では私もお尋ね致しますが、あなたはヴァンデラーの奧樣を御存知なんでございますか?」

「私は奧樣の秘書役なんです。」と、ハリーは幾らか得意らしい調子で答へた。

「綺麗な方ぢやございませんか?」と、女中はつゞけて言つた。

「えゝ、綺麗ですとも!」と、ハリーは叫んだ。「非常に綺麗な方です。その上、優しくて親切です!」

「あなたも御親切らしく見えますわ。」と、彼女は言ひ返した。「そしてきつとヴァンデラーの奧樣より十二倍も立派な方ですわ。」

 ハリーは相應に反感を起して、

「私が!」と、彼は叫んだ。「私はたゞの秘書役ですよ。」

「それは私に當てつけたおつもりですか?」と、女中は言つた。「私がたゞの女中だものですから、ねえ。」だが、それでハリーがひどく當惑した樣子を見ると、心が和いだらしく、「そんなつもりでおつしやつたのではございませんわね。」と附け加へた。「私はあなたの御容子が好きよ。でも、ヴァンデラーの奧樣なんか何とも思ひませんわ。えゝ、あゝいふ奧樣たちつたら!」と、彼女は叫んだ。「あなたのやうな立派な方に──帽子箱などを持たせて──この眞晝間に使ひに出すなんて!」

 こんな話をしてゐる間、二人は元の儘の位置で立つてゐた。女中は戸口の踏段に、彼は歩道に、頭を冷さうとして帽子を脱いで、手には例の帽子箱を抱へて、立つてゐた。だが話がこの最後の段階になつて、こんな具合に自分の風采を打ちつけに褒めたてたり、それと共に妙にそゝりたてるやうな眼付をする事などに氣が付くと、ハリーはもう堪らなくなつて、自分の態度をかへ、左から右へとあわてゝ眼を動かし始めた。さうやつて、彼はその横町の向ふの端に顏を向けたが、すると自分の眼がヴァンデラー將軍の眼にぶつかつたので、彼は口もきけない程驚いてしまつた。將軍は暑さと、急いだのと、腹を立てたのとで、すつかり逆上して、義兄を追ひかけてこの町をあさつてゐたのであつた。だがこの不都合な秘書役を見かけるや否や、彼の目的は急に變つた。彼の怒は新らしい水口へ流れ出して、忽ちその踵をかへし、物狂はしい身振をして、わつとわめき立てながら、亂暴に横町を驅け出して來た。

 ハリーはたゞ女中を追ひたてゝ、家の中へ逃げ込むより他には方法が無かつた。そして追跡者の眼の前で扉をぴしやんとしめてしまつた。

「閂がありますか、錠はかゝるんですか?」と、ハリーは尋ねた。一方でやかましく戸敲を叩く音が家中に響き渡つた。

「まあ、あなたどうなすつたの?」と、女中は尋ねた。「あの年寄の方どうなすつたの?」

「もしあの人につかまつたら、」と、ハリーはさゝやいた。「私は死んだも同じことです。あの人は一日私を追ひ𢌞してるんです。仕込杖を持つて、印度軍の士官ですよ。」

「お立派なやり口だわ。」と、女中は叫んだ。「それで、ねえ、お名前は何ていふ方?」

「あれが將軍ですよ、私の主人の。」と、ハリーは答へた。「この帽子箱を追ひかけてゐるんです。」

「言はないこつちやないわ。」と、女中は得意になつて叫んだ。「私はヴァンデラーの奧樣なんて、碌な者ぢやないつて言つたでせう。あなたに見る眼がおありでしたら、あの方がどんな方か、あなたにもお分りですわ。恩知らずのあばずれ者ですよ。それこそ!」

 將軍は改めて戸敲を叩き出した。そして容易に戸があかないので癇癪を起して、扉の鏡板を蹴とばしたり、叩いたりし始めた。

「家に私ひとりだけで仕合せですわ。」と、女中は言つた。「あの人、くたびれるまで敲かせて置けばいゝわ。誰も開けてやる人はないから。こちらへ入らつしやいよ。」

 さう言つて、女中はハリーを勝手の方へ連れて行つた。そして其處に懸けさせて、自分は男の肩に手をかけて、色つぽい樣子をして傍に立つてゐた。扉を叩く音は弱るどころか、ます〳〵その度を増して行つた。そしてその音をきく度に、不幸な秘書役はびくびくした。

「あなたのお名前何ておつしやるの?」と、女中はたづねた。

「ハリー・ハートリーといふんです。」

「私の名前は、」と、彼女は續けて言つた。「プルーデンスつて言ふのよ。お氣に入らない?」

「結構ですね、」と、ハリーは言つた。「だが一寸お聞きなさい。まあ何て戸を敲くのでせう。きつと將軍は押し込んで來ますよ。あゝ、さうすれば私は死ぬより他どうする事も出來ません。」

「あなたはつまらない事に餘り氣をお使ひなさるわ。」と、プルーデンスは答へた。「構はずに叩かせてお置きなさいよ。手の皮をすりむくだけですわ。私、あなたを大丈夫お助けできないのに、こゝにお引きとめしてるとお思ひになつて? いゝえ、私、私の好きな人のいゝお友達ですわ! それからこの家には他の道にぬけられる裏口もありますわ。ですが──。」彼女は相手をおさへて、言葉を附け足した。といふのは、この耳寄りな話をきいて、ハリーが急に立ち上つたからであつた。「ですが、私に接吻してくださらなきや、私そこは教へてあげられませんわ。接吻して下さる? ハリーさん。」

「承知しました。」と、彼は自分に優男の心得がある事を思ひ出して言つた。「だがこれは裏口のためぢやなくて、あなたが親切で美しいからですよ。」

 さうして、彼は二三度實意のこもつた接吻を施してやつた。女も同じやうにそれを返してやつた。

 そこでプルーデンスは彼を裏門の方へ連れて行つて、その鍵に手を掛けて、

「また入らして下さる?」とたづねた。

「參りますとも。」と、ハリーは言つた。「命を助けて貰つたのぢやありませんか。」

「それでは、」と、彼女は扉をあけながら附け加へた。「出來るだけ一生懸命驅けていらつしやい。私、あの人を家へ入れますから。」

 ハリーにはこの助言も殆ど必要がなかつた。怖ろしさで一杯になつてゐるので、何は措いても逃げのびるつもりであつた。二三歩驅けだしさへすれば、それでこの苦しみからのがれて、ヴァンデラー夫人の處へ、立派にそして無事に歸れると思つた。併しその二三歩もまだ驅け出さない中に、彼はいろ〳〵な惡口を竝べたてゝ、自分の名前を呼びながら、大きな聲でどなりたてる男のある事に氣が付いた。振返つて見ると、それはチャーリー・ペンドラゴンで、兩手を振つて歸つてこいと合圖をしてゐるのであつた。この新らしい事件は非常に突然でもあり、また驚くべきものであつたが、そればかりではなく、ハリーは既に神經がひどく昂ぶつてゐたので、たゞもう一層足を早めて、どん〳〵逃げのびる事より外は考へられなかつた。彼は確かにケンシントン公園で見た光景を思ひ出さねばならなかつた。將軍が自分の敵なら、チャーリー・ペンドラゴンは自分の味方に相違ない、といふ結論も確かに考へられる筈だつた。併し彼の心はすつかり逆上して、狼狽してゐたので、そんな考へはまるつきり頭に浮ばなかつた。そしてたゞ一層足を早めてその横町を驅け續けた。

 チャーリーは、その聲の響きからみても、また秘書役に投げつける惡態から考へても、明かに氣が狂ふ程腹を立てゝゐるに違ひなかつた。で、彼も亦出來るだけの早さで追ひかけた。だがどんなに早く走つても、彼にはからだの造りに有利な點が缺けてゐた。それでその叫び聲も、割栗石を敷いた道に響くびつこの足音も、だん〳〵ハリーの耳から遠のくばかりであつた。

 ハリーの胸には再び希望が湧いて來た。道は嶮しくて狹かつたが、兩側には庭の塀が立つてゐて、樹の葉がそれに覆ひかゝり、何とも言へない程物寂しかつた。そして前の方を見ると、眼の屆く限り、人つ子一人歩いてゐず、また開いてゐる戸口も無かつた。天はもう虐め疲れて、今や彼に逃げ終せる廣野を與へたのだ。

 ところが、やれやれ! 彼が栗の花の被ひかゝつてゐるある庭の戸口の傍まで來た時に、それが急に引き開けられたので、彼がその内側に眼をやると、その庭の小徑に、手に皿を抱へてゐる肉屋の小僧の姿が見えた。彼はそれをちらりと見たばかりで、もうそこをかけぬけて數歩先に行つてゐた。だが小僧の方にはよく彼を見る餘裕があつて、一人の紳士が異常な早さで驅けて行くのを見て、たしかにびつくりしたらしかつた。そこで通りへ出て來て、ハリーの後から皮肉な懸け聲で囃し立てるのであつた。

 この小僧が現はれたので、チャーリー・ペンドラゴンの頭に一つの新らしい考へが浮んで來た。彼はもう情けない事にはすつかり息が切れてゐたが、そこでまた聲を張りあげて、

「泥棒、待て!」と、叫んだ。

 すると、肉屋の小僧は直ぐ同じことを叫び出して、一緒になつてハリーを追ひかけた。

 これは追はれてゐる秘書役にとつては苦しい一刻だつた。怖いと思つてゐるので、その足が尚更早くなり、そして一足毎に追手から遠ざかる事が出來たのは事實だつた。併し彼はもう殆ど策が盡きてゐる事によく氣が付いてゐた。もし向ふから誰かやつてくるのに出會つたら、この狹い横町では、彼の立場は全く絶望に陷るのであつた。

「こりやどうしても隱れ場を見つけなけりや駄目だ。」と、彼は考へた。「それもこの二三秒のうちだ。それが駄目ならもうお終ひだ。」

 かういふ考へが彼の胸の裡に浮んだか浮ばぬうちに、道が急に曲つてゐる處へ來た。そして敵から見られなくなつた事に氣が付いた。どんな力の無い人間でも、時によると非常に強くなつて、又素晴らしい決斷力をあらはしてくる場合がある。また極めて用心深い人でも、自分のいつもの愼みを忘れて、恐ろしく向ふ見ずな決心をする事があるものである。ハリー・ハートリーにとつては、その時の場合が特にそれだつた。彼を最も良く知つてゐる人でも、その時の彼の大膽不敵な行動を見たら、きつと非常に驚いたに相違ない。彼は突然立ち停つて、帽子箱を塀越しに放り込み、それから信じられない程の身輕さで塀をよぢ登り、兩手で笠石を掴み、そして箱を追うて庭の中へ眞逆さまにころがり込んだ。

 暫くすると正氣に返つたが、見ると自分は小さな薔薇の植込の縁に坐つてゐた。手にも膝にも切傷が出來て血が流れてゐた。といふのは、その塀には古い瓶のかけらが無暗に植ゑ付けてあつて、こんな具合によぢ登るのを防いであつたからだつた。彼はからだぢゆう骨離れがしたやうな感じがして、頭が氣持惡くふら〳〵するやうな氣がした。庭は綺麗に手入れが行き屆いてゐて、ひどく氣持のよい匂ひの花が咲きみだれ、その向ふには家の後側が見えてゐた。それは可なり大きな家で、たしかに人が住んでゐた。だが庭とは不思議な對照をなしてゐて、何だかがた〳〵してゐて、手入れもわるく、貧相な樣子の家だつた。庭の塀の續きは、そちら側の外にはどこにも切れ目が無いやうだつた。

 彼はその場の有樣をこんな具合にたゞ機械的に眺めやつた。だが彼の心はまだそれらの物を纏めあげたり、自分の見たものから合理的な考へを造りあげたりする事は出來なかつた。そして砂利道を歩いてくる足音を聞いても、眼をその方へ向けるには向けたが、それは防がうとか逃げようとか考へた爲ではなかつた。

 そこへ來た人は、背の高い、粗野な、ひどく品の惡い男で、庭仕事の着物をつけ、左の手に如露を持つてゐた。ハリー程とり亂してゐない人だつたら、この男の大きな體躯と、その怒つたやうな、不機嫌な眼付を見て、隨分びつくりする筈だが、ハリーは塀から落ちて激動を受けてゐたので、たいして怖ろしいとも感じなかつた。そして庭師から眼をそらす事は出來なかつたが、ただ絶對的に受身の状態で待つてゐた。そして相手が近づいて來て、肩先に手をかけて、亂暴に引き起しても、少しも抵抗しないでゐた。

 暫くの間、二人は睨みあつてゐた。ハリーは魅入られたやうな顏をして、男は怒りと殘忍な薄ら笑ひとを浮べて。

「お前は誰だ?」と、男はたうとう言ひ出した。「お前は誰だ? 人のうちの塀を乘りこえて來やがつて、人の造つた花を臺なしにしやがつて。お前の名は何て言ふんだ?」と、男はハリーを突きとばしながら附け加へた。「そして何の用があつてこゝへ來たんだ?」

 ハリーは一言の説明すら口に出せなかつた。

 併し丁度その時、ペンドラゴンと肉屋の小僧とが、塀の外をばた〳〵と走り過ぎた。その足音と、嗄れた叫び聲とは、狹い横町に高く響き渡つた。庭師はそれで樣子が分つたと思つた。そして如何にも憎々しさうな笑ひを浮べて、ハリーの顏をぢつと見おろした。

「泥棒!」と、彼は言つた。「違えねえ。手前それで旨え事をやつてるに違えねえぞ。手前が頭のてつぺんから足の先まで旦那方らしくしてるんで分らあ。手前、そんな恰好をして、正直な人間と一緒に世間を渡るのが恥かしくねえのか? みんなは手前の綺麗な古着でも買へれば喜んでるのだぞ。何とか言へ、けだものめ。」男は更に續けて言つた。「手前だつて言葉は分るだらう。俺は手前を警察へ引つ立てる前に、少し手前に話してえ事があるんだ。」

「全くもつて、」と、ハリーは言つた。「とんでもない誤解をしていらつしやる。もし私と一緒にイートン・プレースのトマス・ヴァンデラー卿のお屋敷まで行つて下されば、きつと何もかもはつきり分ります。私も今始めて氣がついたのですが、どんなに正直な人間でも人から疑はれるやうな立場になることがあるものです。」

「おい小さいの。」と、庭師は答へた。「俺は手前と一緒に隣の町の警察より先へは行かねえぞ。署長さんなら多分喜んで手前と一緒に、イートン・プレースへでもどこへでもぶらつきに行くかも知れねえ。そして手前のその大層な知合からお茶の御馳走にでもなるだらうよ。それとも手前眞直に内務大臣のところまで出かけたいか? トマス・ヴァンデラー卿だつて、全くね! 多分手前は俺が人を見て、本物の旦那方と、手前のやうな有りふれた塀破りとの見分けがつかねえとでも思つてるんだらう。どんな着物を着てゐようが、俺の眼にやはつきりよめるんだ。手前のそのシャツは俺の餘處行の帽子位高いだらうさ。その上着だつて襤褸市なぞでは決してお目にかゝれねえ代物だらう。それから手前の穿いてるその靴だつて──。」

 男はその時ふと眼を大地に落したが、急にそれまでの侮蔑的な言葉をやめてしまつた。そして暫くの間熱心に足許にある何物かを眺めてゐた。やがて彼がまた口をきゝ出した時には、その聲は不思議な位變つてゐた。

「一體まあ、」と、男は言つた。「こりやア何だい?」

 ハリーはその男の眼の方向を眺めやつて、そこに展かれてゐる有樣を見ると、恐れと驚きとで口がきけなくなつてしまつた。塀から眞逆さまに落ちた時、彼は帽子箱の上に眞直に落ちて、それをぺしやんこに壓し潰してしまつたのであつた。で、その中から素晴らしい立派なダイヤモンドが飛び出して、そこらあたりに散らばり、その一部は土の中に踏み込まれ、また一部は地面に撒きちらされて、王侯のやうな光をきら〳〵と放つてゐるのであつた。そこにはヴァンデラー夫人が冠つてゐるのを見て、彼が屡々讃美した素晴らしい寶冠もあつた。また指環や、ブローチや、耳飾や、腕環などもあつた。それからまだ鏤めない珠までが、あちらこちらと薔薇の植込の中にころがつて、朝露の玉のやうにきらめいてゐた。實に素晴らしい財産が、二人の男の間に大地の上に投げ出されてゐたのだ──何人の心をも奪はねばやまない、堅硬な、永持ちのする形の、前垂に入れて持ち運びの出來る、それだけでも美しい、日光を無數の虹のきらめきとかへて撒きちらす財産であつた。

「しまつた!」と、ハリーは言つた。「もうお終ひだ!」

 彼の心は考へ及ばない程の早さで過去へ驅け戻つて行つた。そしてその日の奇妙な出來事を、全體として考へたり、自分自身の性格と運命とが捲き込まれた悲しむべき紛擾を認めたりして、やつと會得し始めた。で、彼は助けを求めるかのやうにあたりを見𢌞した。併し庭にゐるのは自分だけで、ほかには散らばつてゐるダイヤモンドと、例の恐ろしい相手の男ばかりであつた。耳を澄ましてきいても、樹の葉のさら〳〵鳴る音と、自分の心臟の忙がしい鼓動の音より他には、何の物音も聞こえなかつた。この青年がすつかり元氣をなくしてしまつて、力の無い聲で、「もうお終ひだ!」といふ最後の言葉を繰返してゐたのも、驚くには足りなかつた。

 庭師は惡漢らしい樣子であたりを睨め𢌞したが、どの窓にも人の顏は見えなかつた。そこで彼は再び息を吐いたらしかつた。

「元氣を出せよ。」と、彼は言つた。「手前馬鹿だな! かうなりやもう、仕方がねえやな。なぜ始つから二人にや十分あるつて言はなかつたんだ? 二人にや?」と、繰返して、「いや、二百人にだつて餘らあ! だが向ふの方へ行かうぜ、こゝにゐると人に見られるかも知れねえからな。そして見つともねえから言ふが、帽子を眞直ぐにして、着物の塵を拂ふんだ。そんな阿呆のやうな恰好ぢや二歩もあるけやしねえぜ。」

 ハリーがこんな言葉を聞いて、機械的に身づくろひを直してゐる間に、庭師は跪いて、急いで散らばつてゐる寶石を掻き集めて、それを帽子箱の中に戻した。その高價な結晶物に觸ると、男の逞しい骨組も、一種の心持でぶる〳〵と顫へるのであつた。その顏は容子が變り、眼は慾情で光り出した。實際彼は贅澤にその仕事を長引かせて、自分が扱つてゐるダイヤモンドを一粒毎に娯しんでゐるかのやうであつた。併したうとうそれも終つた。そこで庭師は帽子箱を仕事着の下に隱して、ハリーを手招きし、そして先に立つて家の方へ歩いて行つた。

 戸口の近くで二人は確かに坊主らしい青年に出會つた。その人は色の淺黒い非常に縹緻のよい青年で、弱々しさと決斷力とが混つてゐるやうな顏つきをして、自分の階級にふさはしく非常にきちんとした服裝をしてゐた。庭師は思ひがけない人に會つて、確かに困つた樣子だつた。だが出來るだけ何氣ない顏をして、追從たら〴〵、微笑を浮べて話しかけた。

「結構なお天氣でございますな。ロールズ樣。」と、彼は言つた。「まことに結構なお天氣樣で。この方は私の若い友達でございますが、私の造つた薔薇が見てえと言ひますので、勝手に案内して參りました。他の下宿の方も別にいけねえとはおつしやるまいと思ひましてな。」

「私だけの考へでは、」と、ロールズ師は答へた。「いけないなどゝいふ事はございませんな。また他の人にしても、そんな事に兎や角言ふものはありますまいよ。庭はあなたの物ですからね、レイバーンさん。私達は誰でもそれを忘れてはなりません。またあなたは私達に勝手にこゝを歩かせて下さるのですから、私達の方でもその御親切に甘えて、あなたのお友達のお娯しみの邪魔などをしては、本當に失禮といふものです。それはさうと、」と、彼は續けて言つた。「この方には前にお目にかゝつた事があるやうです。多分ハートリーさんでせう。お氣の毒な、どこからかお落ちになつたのぢやございませんか。」

 さう言つて彼は手を差し出した。

 ハリーは少女らしい一種の品格と、出來るだけ説明の必要を延ばしたいといふ願ひに動かされて、折角のこの助かる機會を退けて、自分がその人物である事を否定してしまつた。彼は知人に好奇心や疑念を抱かれるよりも、自分にとつては少くとも見ず知らずではあるが、この庭師の優しい慈悲心を選んだのであつた。

「それは何かのお間違ひでございませう。」と、彼は言つた。「私はトムリンスンと申しまして、レイバーンさんの友達でございます。」

「さうですかな?」と、ロールズ氏は言つた。「實によく似た方があるものですな。」

 この話の間、茨の上にでも坐つてゐるやうな氣持でゐた庭師は、この邊で話を切り上げるのが一番よいと思つた。

「それでは御自由に御散歩なさいませ。」と、彼は言つた。

 さうしてハリーを從へて家の中に這入り、それから庭に面した一つの部屋に連れて行つた。そこで彼の先づしたことは日よけを引きおろす事であつた。それはロールズ氏がまだ彼等と別れた場所に立つてゐて、何だかわけが分らぬやうな顏をして、考へ込んでゐたからである。そこで庭師は壞れた帽子箱をテーブルの上にあけた。そしてすつかり曝された寶物の前に、うつとりしたやうな貪慾な顏をして、兩手を股で擦りながら立つてゐた。ハリーはかういふ賤しい感情に動かされてゐる男の顏を見ると、今までの苦痛に更に他の苦痛が加はるのを覺えた。自分の清い、優しい生活から、一息に、賤しい、罪深い關係に飛び込むなどゝいふ事は、それは信じられない事だつた。彼は自分の良心を責めようとしても、少しも罪ある行ひをした覺えはなかつた。しかも彼は今最も鋭いそして最も殘酷な形で罪を責められてゐるのであつた──それは刑罰の怖ろしさ、立派な人の抱く疑惑、下劣で殘忍な人間の仲間となり、それに汚されるといふ事であつた。彼はその部屋から遁れ出て、レイバーンの仲間からぬけられるものなら、喜んで自分の生命でも棄てられるだらうと感じた。

「さて、」と庭師は寶石を殆ど同じ位に二分してから、その一方を自分の近くへ引寄せて言つた。「さて、何でもこの世の中ぢや代金を拂はないぢや手に入らねえものだ。しかも代物によると相當氣前よくな。どうだね、ハートリーさん──とかいふ名前だつたね──俺は至極氣さくな人間だよ。人が好いので今まで損ばかりしてきた始末さ。俺がさうするつもりなら、こゝにある綺麗な石つころをみんな俺の懷へ仕舞こめるよ。そして君のほざく面でも見てゐたい位なものだ。だが俺は何だかお前が氣に入つてるやうな氣がするよ。といふのは、お前をさうめちやに踏み倒す氣は起らねえからな。そこで、分つたかね、全くの親切心で、俺は二人で山分けにしようと言ふんだ。それぢやこれで、」と、二つの山を示して、「俺には言ひ分なしの分け前だと思はれるがね。何かごたくを言ふ事があるかね? ハートリーさん。俺はブローチの一本や二本にこだはる人間ぢやねえよ。」

「ですが、あなた、」と、ハリーは叫んだ。「そのお話は出來ない相談です。この寶石は私の物ぢやありません。そして人の物を分けるなんて、私には出來ない事です。誰とでも、どんな割合でも。」

「こりやお前の物ぢやねえつて?」と、レイバーンは言つた。「そして誰とでも分ける事あ出來ねえつて? はてな? そりやお氣の毒といふもんだ。といふわけは、さうときまりや、俺はお前を警察へ突き出さなけりやならねえからな。警察だよ──よく考へてみろよ。」と、彼は續けて言つた。「お前の親達の不面目も考へてみろよ。それからまた、」と、ハリーの手頸を掴んで、言葉を續けた。「追放のことや、最後の裁きの日の事も考へてみろよ。」

「私には出來ない事です。」と、ハリーは泣き出した。「私が惡いんぢやないのです。あなたは私と一緒にイートン・プレースへ行つちやくれないし。」

「駄目だよ。」と、男は答へた。「俺はどうあつても行きやしないよ。俺はこゝでこのおもちやをお前と二人で分けるつもりなんだ。」

 さう言つて、彼は突然若者の手頸をひどく捩り上げた。

 ハリーは叫び出さずにはゐられなかつた。顏には汗がにじみ出して來た。恐らく苦痛と恐怖とが彼の智慧を促したものと見えた。兎に角その瞬間、全體の事が別の見方から彼の頭に閃めいて來た。今はたゞこの惡者の言ひ草をきゝ入れるより外に方法は無い。そしてもつと都合のよい時期になつて、自分自身の疑ひもすつかり晴れた時、この家を見つけさせて、この男に吐き出させるばかりだ、と彼はさう悟つた。

「よく分りました。」と、彼は言つた。

「さう來なくちやね。」と、庭師はあざ笑つた。「どうせ自分の損得は分るだらうと思つてゐたよ。それからこの帽子箱だがな。」と、彼は續けて言つた。「これは俺ががらくたと一緒に燒いてしまふぜ。これは好奇心の強い奴らが氣を𢌞しさうな代物だからな。それからお前だが、そのぴかぴかをかき集めてポケットへ收めてしまひなよ。」

 ハリーは相手の言葉に從つて寶石をかき集めた。庭師は彼を見つめてゐたが、そのきら〳〵する光から折々慾望がまた燃え立つてきて、秘書役の分から改めて一つつまみ出して、それを自分の分へ附け加へた。

 それが終ると、二人は正面の戸口の方へ進んで行き、レイバーンは用心深くそれをあけて、通りの樣子を眺めやつた。そこには見やつたところ往來の人も無かつた。すると彼は突然ハリーの襟首を掴んで、顏を下へ押し向けて、道路と家の踏段しか見えないやうにして、亂暴に前の方へ突き飛ばしながら、凡そ一分半位の間、ある町筋を下つて行き、そして別の通りを上つて行つた。ハリーは町角を三つ曲つたのを覺えてゐるが、その時庭師は手を弛めて、「さア、勝手に消えちまへ!」と叫んだ。そしてうまく狙ひをつけて、力を入れて蹴飛ばしたので、若者は頭を先にしてけし飛ばされた。

 ハリーは半ば目を𢌞して、だら〳〵鼻血を流したが、漸く己れに歸つた時には、レイバーンの姿は全く見えなくなつてゐた。彼は始めて怒りと苦痛とに強く胸をつかれたので、急に泣き出して、道の眞中に咽びながら立つてゐた。

 かうして幾らか感情が鎭まつたので、彼はあたりを見𢌞し始めた。そして自分が庭師から放り出された町の名を讀んでみた。彼は矢張西倫敦の人通りの少ない場所で、別莊や大きな庭園などの間に來てゐるのであつた。だが氣がつくと、ある家の窓に幾人かの人がゐて、その人達は確かに彼の不幸を見てゐたらしかつた。そして間もなく一人の召使がその家から驅け出して來て、彼に一杯の水をくれた。それとまた同時に、どこかその近邊をうろついてゐた一人の汚ないあぶれ者が別の方面から彼に近づいて來た。

「お氣の毒ねえ。」と、その女中は言つた。「ほんとに、何て酷い事をなさるんでせう。まあお膝に怪我をしていらつしやるわ。それに着物も臺なしになつてしまつて! あなたはこんなひどい事をした惡者を御存知なんですか?」

「えゝ知つてゐます。」と、ハリーは水を飮んだので幾らか元氣づいて言つた。「あいつがどんなに用心してゐようと、とつちめずには置きません。今日の事にはきつと仕返しをしてやります。」

「家へ入らつしやいませ。そして水をお使ひになつたり、塵をお拂ひになつたりする方がようございますわ。」と、女中は續けて言つた。「奧樣は喜んでお迎へしますわ。御遠慮なさいますな。さあ、帽子をお持ちしませう。まあ、どうしたんでせう!」と、彼女は叫び出した。「こゝへダイヤをお撒きになつたのはあなたぢやないでせうか!」

 それはかういふわけだつた。レイバーンに奪ひとられた後、彼の手に殘つてゐた寶石の半分餘が、彼がとんぼ返りをした時にポケットから振り飛ばされて、再び地面に落ちて光つてゐるのであつた。彼は女中が眼早かつたので助かつたと思つた。「どん底まで落ちないのでまだしもだ。」と考へた。そして僅かでもかうして取り戻せる事が、その他の全部を失ふ位の大事件に思はれた。だが憐むべし! 彼が寶石を拾はうとして身をかゞめた時、先の浮浪人が急に驅け寄つて來て、ハリーと女中を二人とも兩手で引き倒して、ダイヤモンドを二握りも抄ひ取り、そして呆れるばかりの早さで町を逃げて行つた。

 ハリーは起上るや否や、幾度かどなりたてゝ、惡者の後を追ひかけた。だが惡者の方が足が達者で、それにまたその邊の事情にも遙かによく通じてゐるらしかつた。それで追手が町角を曲つた時には、もう逃げ手は全く影も形も見えなかつた。

 ハリーはすつかり落膽して、災難に會つた場所へ引き返した。女中はまだそこに待つてゐたが、正直にも彼の帽子と、落ちてゐたダイヤモンドの殘りを返してくれた。ハリーは心から深く感謝した。そして今はもう少しも節約といふやうな事は考へず、そこから最も近い辻馬車の客待ち場へ行つて、馬車でイートン・プレースへ向つて出發した。

 歸りついて見ると、家族の間に何か大事變でも起つたらしく、家の中が何だが混雜してゐた。召使等は皆廣間に集まつてゐたが、秘書役の襤褸だらけになつた姿を見た時には、誰も噴き出さずにはゐられなかつた。また噴き出すまいと氣を使ふ者もなかつた。彼は繕へるだけ威嚴のある態度を造つて、彼等の前を通り過ぎて、眞直ぐに夫人の私室の方へ歩いて行つた。そして扉を開けてみると、驚くべき、また恐ろしいとも言へる光景が、眼の前に展けてゐた。といふのは、將軍と、夫人と、それから人もあらうに、チャーリー・ペンドラゴンがそこにゐて、三人一緒になつて、何か重大な問題を、熱心に、また大眞面目に話しあつてゐた。ハリーには説明して貰はなくとも、直ちにその樣子が分つた。──將軍の懷に對する計畫的の詐欺手段と、その計畫の不幸なる失敗とが、確かに殘らず將軍の前に告白されたのであつた。そして彼等は一緒になつて共通の危險に當つてゐるのであつた。

「まア助かつた!」と、ヴァンデラー夫人は叫んだ。「歸つて來ましたわ! 帽子箱は、ハリー──帽子箱は!」

 だがハリーは彼等の前に默つて悄れ返つて立つてゐた。

「返事をしないの!」と、夫人は叫んだ。「返事をさ! 帽子箱は何處へ行つたの?」

 男達も脅かすやうな身振をして返事を促すのであつた。

 ハリーはポケットから一掴みの寶石を取り出した。彼の顏はひどく蒼ざめてゐた。

「これだけしか殘つてゐません。」と、彼は言つた。「はつきり申しますが、これは私が惡いからでは御座いません。それから暫くこらへて頂けたら、幾らかは永久になくなるかとも思ひますが、他の物はきつとまだ取り返せるだらうと思ひます。」

「まあ!」と、ヴァンデラー夫人は嘆息した。「私達のダイヤモンドは皆無くなつてしまつたのだ。そして私は着物に九萬ポンドの借があるのだ!」

「ねえお前。」と、將軍は言つた。「お前はその泥溝をお前のがらくた物でうめられるかも知れん。お前の借高を今の話の五十倍にもする事が出來るかも知れん。私の母の遺品の寳冠や指環などを盜み出せるかも知れん。また自然といふものは妙なものだから、最後には私がお前を許すといふやうな事にならんとも限らん。だが、ねえお前、お前は王樣のダイヤモンドを盜んだのだぞ──それは東洋人が詩的な言葉で「光の眼」と呼んでる品物だ──カシュガルの自慢の品物だ! お前は王樣のダイヤモンドを私から盜んだのだぞ。」と、彼は兩手を擧げて叫んだ。ねえ、おい、これで俺達の仲ももうお終ひだぞ!」

「結構ですわ。」と、彼女は答へた。「それこそ私が今までにあなたのお口から伺つた一番嬉しいお言葉ですわ。どうせ私どもは落ちぶれるのでせうが、あなたから解放して頂けるのでしたら、さうなるのも私には却つて有難い位ですわ。あなたはこれまで度々私に、私があなたのお金を目當に結婚したのだとおつしやいましたわね。今こそはつきり言ひますが、私はいつもこの取引をひどく後悔してゐたのです。そしてあなたがまだ結婚出來るとしてですね、その頭より大きなダイヤモンドを持つていらつしやるとしても、私は自分の使つてる女中にだつて、そんな面白くもない不幸な嫁入はするなと勸めますわ。それから、ハートリーさん。」と、夫人は秘書役の方へ向いて言葉を續けた。「お前さんはこの家で結構な性質をふんだんに見せて下すつたわね。私どもには、お前さんが、男らしさも、分別も、自尊心も、一つも無いといふ事がよく分りました。そこでお前さんにとつては、行く道はたつた一つしかないと思ひますわ──それは今すぐ引取つて、出來ることなら、もう歸つてこないといふことよ。それからお前さんのお給金ですが、これまでの私の夫が破産したのだから、お前さんは債權者といふ立場になるわけよ。」

 ハリーはこの侮蔑の言葉をよく理解しないうちに、將軍からまた別の侮辱を投げつけられた。

「それは兎に角、」と、將軍は言つた。「私と一緒についそこの署長さんの處まで行つてもらはう。貴樣は單純な兵隊位はだます事も出來ようが、法律の眼は貴樣の人ぎきの惡い秘密位見破るぞ。貴樣と妻とが惡戲をした爲に、よしこの私が老後を窮迫の中に暮さねばならぬとしても、少くとも貴樣を痛い目にあはせずには措かんつもりだ。そして貴樣がこれから死ぬまで赤い着物でも着ないうちは、よし私が滿足したと言つても、神樣が承知して下さらないぞ。」

 さう言つて、將軍はハリーを部屋から引きずり出した。そして階下へ追ひ下し、町を引き立てて、その區の警察署へ連れて行つた。

(帽子箱の悲しむべき話はこゝで終る。とアラビヤの原作者は言ふ。併しこの不幸な秘書役にとつては、この事件は新らしいそして男らしい生活に入る始めであつた。彼が潔白である事は警察で容易に明かになつた。また彼もその後の搜索に出來る限りの援助を惜まなかつたので、その後刑事部長の一人から、その態度の實直で淡白な事を褒められさへもした。またある人達はこの不幸な男の爲にひどく身を入れて世話をした。その後間もなく、彼はウースターシアにゐた獨身者の叔母から相應な遺産を讓られた。そこで彼はプルーデンスと結婚して、この上もなく滿足して、また何よりの希望を抱いて、ベンデイゴに向つて出帆した。また別の噂によると、それはトリンコマリーだとも言はれてゐる。)

底本:「新アラビヤ夜話」岩波文庫、岩波書店

   1934(昭和9)年630日第1刷発行

   2009(平成21)年219日第11刷発行

※「尋ねた」と「たづねた」の混在は、底本通りです。

入力:門田裕志

校正:sogo

2018年1024日作成

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