種山ヶ原
宮沢賢治



種山ヶたねやまがはらというのは北上山地きたかみさんちのまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩じゃもんがんや、かた橄欖岩かんらんがんからできています。

 高原のへりから、四方に出たいくつかの谷のそこには、ほんの五、六けんずつの部落ぶらくがあります。

 春になると、北上の河谷かこくのあちこちから、沢山たくさんの馬がれて来られて、の部落の人たちにあずけられます。そして、上の野原にはなされます。それも八月のすえには、みんなめいめいの持主もちぬしもどってしまうのです。なぜなら、九月には、もう原の草がれはじめ水霜みずしもが下りるのです。

 放牧ほうぼくされる四月よつきの間も、半分ぐらいまでは原はきりくもとざされます。じつにこの高原のつづきこそは、東の海のがわからと、西の方からとの風や湿気しっきのおさだまりのぶっつかり場所ばしょでしたから、雲や雨やかみなりや霧は、いつでももうすぐおこってくるのでした。それですから、北上川のきしからこの高原の方へ行く旅人たびびとは、高原に近づくにしたがって、だんだんあちこちに雷神らいじんを見るようになります。その旅人とっても、馬をあつかう人の外は、薬屋くすりや林務官りんむかん化石かせきさがす学生、測量師そくりょうしなど、ほんのわずかなものでした。

 今年も、もう空に、とおった秋のこな一面いちめんわたるようになりました。

 雲がちぎれ、風がき、夏の休みももう明日あすだけです。

 達二たつじは、明後日から、また自分で作った小さな草鞋わらじをはいて、二つの谷をえて、学校へ行くのです。

 宿題しゅくだいもみんなましたし、かにることも木炭すみあそびも、もうみんなきていました。達二は、家の前のひのきによりかかって、考えました。

(ああ。の夏休み中で、一番面白おもしろかったのは、おじいさんと一緒いっしょに上の原へ仔馬こうまれに行ったのと、もう一つはどうしても剣舞けんばいだ。とりの黒いかざった頭巾ずきんをかぶり、あのむかしからの赤い陣羽織じんばおりた。それからかたいたを入れたはかまをはき、脚絆きゃはん草鞋わらじをきりっとむすんで、種山剣舞連たねやまけんばいれんと大きく書いた沢山たくさん提灯ちょうちんかこまれて、みんなと町へおどりに行ったのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊ったぞ、踊ったぞ。町のまっ門火かどびの中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。楢夫ならおさんと一緒になった時などは、刀がほんとうにカチカチぶっつかったぐらいだ。

 ホウ、そら、やれ、

むかし 達谷たっこくの 悪路王あくろおう

まっくらぁくらの二里のほら

わたるは ゆめと 黒夜神こくやじん

首はきざまれ 朱桶しゅおけもれ。

 やったぞ。やったぞ。ダー、ダー、ダースコ、ダーダ、

青い 仮面めんこの こけおどし、

太刀たちを びては いっぷかぷ、

夜風の そこの 蜘蛛くもおどり、

胃袋いぶくろぅ はいて ぎったりぎたり。

 ほう。まるで、……。)

達二たつじるが。達二。」達二のお母さんが家の中でびました。

「あん、居る。」達二は走って行きました。

わらすだはんてな、おじぃさんど、あいど、上の原のすぐ上り口で、草ってるがら、弁当べんとうってって。な。それがら牛もれてって、草ぁせで。な。兄がらはなれなよ。」

「あん、て来る。行て来る。今草鞋わらじ穿ぐがら。」達二ははねあがりました。

 お母さんは、ものの二つのひつと、達二たつじの小さな弁当べんとうとを紙にくるんで、それをみんな一緒いっしょに大きなぬの風呂敷ふろしきつつみました。そして、達二が支度したくをして包みを背負せおっている間に、おっかさんは牛をうまやからい出しました。

「そだら行って来ら。」と達二は牛を受けって云いました。

「気ぃけで行げ。上であいがらはなれなよ。」

「あん。」達二は、垣根かきねのそばから、やなぎえだを一本り、青いかわをくるくるいでむちこしらえ、しずかに牛を追いながら、上の原へのみちをだんだんのぼって行きました。

「ダーダー、スコ、ダーダー。

夜の頭巾ずきんは とり黒尾くろお

月のあかりは………、

 しっ、歩け、しっ。」

 日がカンカンっていました。それでもどこかその光に青いあぶらつかれたようなものがありましたし、また、時々、つめたい風がひものようにどこからかながれては来ましたが、まだ仲々なかなかあついのでした。牛が度々たびたび立ち止まるので、達二は少し苛々いらいらしました。

「上さ行ってい草食え。早ぐ歩げっ。しっ。馬鹿ばかだな。しっ。」

 けれども牛は、美しい草を見る度に、頭を下げて、したをべらりとまわしてべました。(牛の肉の中で一番上等じょうとうの舌だというのは可笑おかしい。よだれで粘々ねばねばしてる。おまけに黒い斑々ぶちぶちがある。歩け。こら。)

「歩げ。しっ。歩げ。」

 空に少しばかりの、白い雲が出ました。そして、もう大分のぼっていました。谷の部落ぶらくがずっと下に見え、達二たつじの家の木小屋きごや屋根やねが白く光っています。

 みちが林の中に入り、達二はあの奇麗きれいいずみまで来ました。まっ白の石灰岩せっかいがんは、ごぼごぼつめたい水をき出すあの泉です。達二はあせいて、しゃがんで何べんも水をすくってのみました。

 牛は泉をまないで、かえってこけの中のたまり水を、ピチャピチャめました。

 達二が牛と、またあるきはじめたとき、泉が何かを知らせるように、ぐうっと鳴り、牛もひくくうなりました。

「雨になるがも知れなぃな。」と達二は空を見てつぶやきました。

 林のすそ灌木かんぼくの間を行ったり、岩片いわかけの小さくくずれるところを何べんも通ったりして、達二はもう原の入口に近くなりました。

 光ったりかげったり、幾重いくえにもたた丘々おかおかむこうに、北上きたかみの野原がゆめのようにあおくまばゆくたたえています。かわが、春日大明神かすがだいみょうじんおびのように、きらきら銀色にかがやいてながれました。

 そして達二たつじは、牛と、原の入口にきました。大きなならの木の下に、兄さんのなわんだふくろげ出され、沢山たくさんの草たばがあちこちにころがっていました。

 二ひきの馬は、達二を見て、はなをぷるぷる鳴らしました。

あいるが。兄。来たぞ。」達二はあせぬぐいながらさけびました。

「おおい。ああい。其処そころ。今行ぐぞ。」

 ずうっとむこうのくぼみで、達二の兄さんの声がしました。牛は沢山の草を見ても、格別かくべつうれしそうにもしませんでした。

 がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中からわらって出て来ました。

ぐ来たな。牛もれで来たのが。弁当べんとうってが。善ぐ来た。今日ぁひるまがらきっとくもる。おらもう少し草あつめて仕舞しむがらな、らにろ。おじいさん、今来る。」

 兄さんはむこうへ行こうとして、いてまたいました。

はらったら、弁当べんとう、先にべてろ。風呂敷ふろしきば、あの馬さ結付ゆいつけでおげ。ひるまになったらまた来るがら。」

「うん。此処に居る。」

 そして達二の兄さんは、行ってしまいました。空にはうすい雲がすっかりかかり、太陽たいようは白いかがみのようになって、雲と反対はんたいせました。風が出て来てられない草は一面いちめんなみを立てます。

 どうしたのか、牛がにわかに北の方へ馳せ出しました。達二たつじはびっくりして、一生懸命けんめいいかけながら、兄の方に振り向いてさけびました。

「牛ぁげる。牛ぁ逃げる。あい。牛ぁ逃げる。」

 せいの高い草を分けて、どんどん牛が走りました。達二はどこまでも夢中むちゅうで追いかけました。そのうちに、足が何だか硬張こわばってきて、自分で走っているのかどうかわからなくなってしまいました。それからまわりがまっさおになって、ぐるぐるまわり、とうとう達二は、ふかい草の中にたおれてしまいました。牛の白いぶちおわりにちらっと見えました。

 達二は、仰向あおむけになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらをうす鼠色ねずみいろの雲が、はやく速く走っています。そしてカンカン鳴っています。

 達二はやっとき上って、せかせかいきしながら、牛の行った方に歩き出しました。草の中には、牛が通ったあとらしく、かすかなみちのようなものがありました。達二はわらいました。そして、(ふん。なあに、何処どこかでのっこり立ってるさ。)と思いました。

 そこで達二は、一生懸命それをけて行きました。ところがその路のようなものは、まだ百歩も行かないうちに、おとこえしや、すてきに背高せいたかあざみの中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一向いっこうわからなくなってしまいました。達二たつじは思い切って、そのまん中のをすすみました。けれどもそれも、時々れたり、牛の歩かないようなきゅうところ横様よこざまぎたりするのでした。それでも達二は、

(なあに、むこうの方の草の中で、牛はこっちいて、だまって立ってるさ。)と思いながら、ずんずん進んで行きました。

 空はたいへんくらおもくなり、まわりがぼうっとかすんできました。つめたい風が、草をわたりはじめ、もう雲やきりが、切れ切れになっての前をぐんぐん通りぎて行きました。

(ああ、こいつはわるくなってきた。みんな悪いことはこれからたかってやって来るのだ。)と達二は思いました。まったくその通り、にわかに牛の通ったあとは、草の中でくなってしまいました。

(ああ、悪くなった、悪くなった。)達二はむねをどきどきさせました。

 草がからだをげて、パチパチったり、さらさら鳴ったりしました。霧がことしげくなって、着物きものはすっかりしめってしまいました。

 達二は咽喉のど一杯いっぱいさけびました。

あい。兄。牛ぁ逃げだ。兄。兄。」

 何の返事へんじも聞えません。黒板こくばんから白墨はくぼくこなのような、くらつめたいきりつぶが、そこら一面いちめんおどりまわり、あたりが俄にシインとして、陰気いんきに陰気になりました。草からは、もうしずくの音がポタリポタリと聞えてきます。

 達二たつじは早く、おじいさんの所へもどろうとしていそいで引っかえしました。けれどもどうも、それは前に来た所とはちがっていたようでした。だい一、あざみがあんまり沢山ありましたし、それに草のそこにさっきかった岩かけが、度々たびたびころがっていました。そしてとうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなりの前にあらわれました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向うの方は底知れずの谷のように、霧の中に消えているではありませんか。

 風が来ると、すすきほそい沢山の手を一ぱいのばして、いそがしくって、

「あ、西さん、あ、東さん、あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんてっているようでした。

 達二はあんまり見っともなかったので、目をつぶってよこきました。そしていそいで引っかえしました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山たくさんの馬のひづめあとで出来上っていたのです。達二は、夢中むちゅうで、みじかわらい声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。

 けれども、たよりのないことは、みちのはばが五すんぐらいになったり、また三じゃくぐらいにかわったり、おまけに何だかぐるっとまわっているように思われました。そして、とうとう、大きなてっぺんのけたくりの木の前まで来た時、ぼんやりいくつにもわかれてしまいました。

 其処そこは多分は、野馬のあつまり場所ばしょであったでしょう、きりの中に円い広場のように見えたのです。

 達二たつじはがっかりして、黒い道をまたもどりはじめました。知らない草穂くさほしずかにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図あいずをしてでもいるように、一面いちめんの草が、それ来たっとみなからだをせてけました。

 空が光ってキインキインと鳴っています。それからすぐの前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらわれました。達二はしばらく自分の眼をうたがって立ちどまっていましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄ちかよって見ますと、それはつめたい大きな黒い岩でした。

 空がくるくるくるっと白くらぎ、草がバラッと一度いちどしずくはらいました。

間違まちがって原をむこがわへ下りれば、もうおらは死ぬばかりだ。)と達二は、半分思うように半分つぶやくようにしました。それからさけびました。

あい、兄、居るが。兄。」

 また明るくなりました。草がみな一斉いっせいよろこびのいきをします。

伊佐戸いさどの町の、電気工夫こうふわらすぁ、山男に手足ぃしばらえてたふうだ。」といつかだれかの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。

 そして、黒いみちが、にわかに消えてしまいました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常ひじょうに強い風がいて来ました。

 空がはたのようにぱたぱた光ってひるがえり、火花がパチパチパチッとえました。

 達二たつじはいつか、草にたおれていました。

 そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の出来事できごとのようでした。牛がげたなんて、やはりゆめだかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いていたのでしょうか。

 達二はみんなと一緒いっしょに、たそがれの県道けんどうを歩いていたのです。

 橙色だいだいいろの月が、来た方の山からしずかにのぼりました。伊佐戸の町です火が、赤くゆらいでいます。

「さあ、みんな支度したくはいいが。」誰かが叫びました。

 達二たつじはすっかり太い白いたすきをけてしまって、地面じめんをどんどんみました。楢夫ならおさんが空にむかって叫んだのでした。

「ダー、ダー、ダー、ダー、ダースコダーダー。」それから、大人おとな太鼓たいこちました。

 達二は刀をいてはね上りました。

「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」

あぶなぃ。だれだ、刀抜いだのは。まだ町さも来なぃに早ぁじゃ。」怪物かいぶつ青仮面あおかめんをかぶった清介せいすけ威張いばってさけんでいます。赤い提灯ちょうちん沢山たくさんともされ、達二の兄さんが提灯をって来て達二とならんで歩きました。兄さんの足が、寒天かんてんのようで、ゆめのような色で、無暗むやみに長いのでした。

「ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」

 町はずれの町長のうちでは、まだ門火かどびを燃していませんでした。その水松樹いちいかきかこまれた、くらにわさきにみんな這入はいって行きました。

 そして達二はまたうとうとしました。そこできり生温なまぬるのようになったのです。可愛かわいらしい女の子が達二をびました。

「おいでなさい。いいものをあげましょう。そら。した苹果りんごですよ。」

「ありがど、あなたはどなた。」

「わたしだれでもないわ。一緒いっしょむこうへ行ってあそびましょう。あなた驢馬ろばっていて。」

「驢馬はってません。ただ仔馬こうまならあります。」

「只の仔馬は大きくて駄目だめだわ。」

「そんなら、あなたは小鳥はきらいですか。」

「小鳥。わたし大好だいすきよ。」

「あげましょう。わたくしはひわを有っています。ひわを一ぴきあげましょうか。」

「ええ。しいわ。」

「あげましょう。私今持って来ます。」

「ええ、早くよ。」

 達二たつじは、一生懸命けんめい、うちへ走りました。うつくしい緑色みどりいろの野原や、小さなながれを、一心に走りました。野原は何だかもくもくして、ゴムのようでした。

 達二のうちは、いつか野原のまん中にっています。いそいでかごけて、小鳥を、そっとつかみました。そして引っかえそうとしましたら、

「達二、どこさ行く。」と達二のおっかさんがいました。

「すぐ来るがら。」と云いながら達二たつじは鳥を見ましたら、鳥はいつか、萌黄色もえぎいろ生菓子なまがしかわっていました。やっぱりゆめでした。

 風がき、空がくらくて銀色ぎんいろです。

伊佐戸いさどの町の電気工夫でんきこうふのむすこぁ、ふら、ふら、ふら、ふら、ふら、」とどこかでっています。

 それからしばらく空がミインミインと鳴りました。達二はまたうとうとしました。

 山男がならの木のうしろからまっな顔を一寸ちょっと出しました。

(なにこわいことがあるもんか。)

「こりゃ、山男。出はって。切ってしまうぞ。」達二は脇差わきざしをいて身構みがまえしました。

 山男がすっかり怖がって、草の上を四つんいになってやって来ます。かみが風にさらさら鳴ります。

「どうか御免御免ごめごめじょなことでもんす。」

「うん。そんだらゆるしてやる。かにを百ぴきって。」

「ふう。蟹を百疋。それけでようがすかな。」

「それがらうさぎを百疋捕って。」

「ふう。ころしてきてもようがすか。」

「うんにゃ。わがなぃ。生ぎだのだ。」

「ふうふう。かしこまた。」

 油断ゆだんをしているうちに、達二たつじはいきなり山男に足をつかまいてたおされました。山男は達二を組みいて、刀をり上げてしまいました。

小僧こぞう。さあ、来。これから、れの家来けらいだ。来う。この刀はいい刀だな。じつきをよぐかげである。」

「ばが。うなの家来になど、ならなぃ。殺さば殺せ。」

仲々なかなかず太ぃやづだ。ったら来ぅ。」

「行がない。」

「ようし、そんだらさらって行ぐ。」

 山男は達二を小脇こわきにかかえました。達二は、素早すばやく刀をかえして、山男の横腹よこばらをズブリとしました。山男はばたばたまわって、白いあわ沢山たくさんいて、んでしまいました。

 きゅうにまっくらになって、かみなりはげしく鳴り出しました。

 そして達二はまたひらきました。

 灰色はいいろきりはやく速くんでいます。そして、牛が、すぐの前に、のっそりと立っていたのです。その眼は達二たつじおそれて、よこの方をいていました。達二はさけびました。

「あ、だが。馬鹿ばかだな。うなは。さ、べ。」

 かみなりと風の音との中から、かすかに兄さんの声が聞えました。

「おおい、達二。るが。達二。達二。」

 達二はよろこんでとびあがりました。

「おおい。居る、居る。あいなぁ。おおい。」

 達二は、牛の手綱たづなをその首からいて、引きはじめました。

 黒いみちがまたひょっくり草の中にあらわれました。そして達二の兄さんが、とつぜん、眼の前に立ちました。達二はしがみきました。

さがしたぞ。こんたなどごまで来て。してだまって彼処あそごなぃがった。おじいさんうんと心配しんぱいしてるぞ。さ、はやべ。」

「牛ぁげだだも。」

「牛ぁ逃げだ。はあ、そうが。何にびっくりしたたがな。すっかりぬれだな。さあ、おらのけらろ。」

一向いっこうさむぐなぃ。兄のなは大きくて引きるがらわがなぃ。」

「そうが。よしよし。まずべ。おじいさん、火たいてってるがらな。」

 ゆる傾斜けいしゃを、二つほどのぼりしました。それから、黒い大きなみちについて、しばらく歩きました。

 稲光いなびかりが二ばかり、かすかに白くひらめきました。草をにおいがして、きりの中をけむりがほっとながれています。

 達二たつじの兄さんがさけびました。

「おじいさん、だ、居だ。達二ぁ居だ。」

 おじいさんは霧の中に立っていて、

「ああそうが。心配しんぱいした、心配した。ああがった。おお達二。さむがべぁ、さあ入れ。」といました。

 半分に焼けた大きなくりの木のもとに、草で作った小さなかこいがあって、チョロチョロ赤い火がえていました。

 兄さんは牛をならの木につなぎました。

 馬もひひんと鳴いています。

「おおむぞやな。な。何ぼがいだがな。さあさあ団子だんごたべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体ぜんたい何処どこまで行ってだった。」

笹長根ささながねの下り口だ。」と兄が答えました。

あぶなぃがった。危ぃがった。むこうさりだらそれっ切りだったぞ。さあ達二たつじ団子だんごべろ。ふん。まるっきり馬こみだぃに食ってる。さあさあ、こいづも食べろ。」

「おじいさん。今のうぢに草片附かたづげで来るべが。」と達二の兄さんが云いました。

「うんにゃ。も少しで。またすぐ晴れる。おらも弁当べんとう食うべ。ああ心配した。おらとらこ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつがった。雨も晴れる。」

今朝けさほんとに天気好がったのにな。」

「うん。またぐなるさ。あ、雨ってきた。草少し屋根やねさかぶせろ。」

 兄さんが出て行きました。天井てんじょうがガサガサガサガサいます。おじいさんが、わらいながらそれを見上げました。

 兄さんがまたはいって来ました。

「おじいさん。明るぐなった。雨あれだ。」

「うんうん。そうが。さあ弁当べんとう食ってで草片附かたづげべ。達二。弁当食べろ。」

 きりがふっと切れました。の光がさっとながれて入りました。その太陽たいようは、少し西の方にってかかり、幾片いくへんかのろうのような霧が、げおくれて仕方しかたなしに光りました。

 草からはしずくがきらきらち、すべてのくきも花も、今年のおわりの陽の光をっています。

 はるかの北上きたかみあおい野原は、今きやんだようにまぶしくわらい、むこうのくりの木は、青い後光をはなちました。

底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店

   1996(平成8)年325日初版発行

底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第八巻 童話 本文篇」筑摩書房

   1995(平成7)年525日初版第一刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※底本巻末の大塚常樹氏による注釈は省略しました。

※表題は底本では、「種山ヶたねやまがはら」となっています。

※「 町はずれの町長のうちでは、まだ門火かどびを燃していませんでした。その水松樹いちいかきかこまれた、くらにわさきにみんな這入はいって行きました。」と「 そして達二はまたうとうとしました。」の行間に、底本の親本の104、105頁にあたる下記の文章が脱落しているのは底本通りです。

「 小さな奇麗な子供らが出て来て、笑って見ました。いよいよ大人が本気にやり出したのです。

「ホウ、そら、遣れ。ダー、ダー、ダー、ダー。ダー、スコ、ダーダー。」「ドドーン ドドーン。」

「夜風さかまき ひのきはみだれ、

 月は射そゝぐ 銀の矢なみ、

 打ぅつも果てるも 一つのいのち、

 太刀たあちきしりの 消えぬひま。ホッ、ホ、ホッ、ホウ。」

刀が青くぎらぎら光りました。梨の木の葉が月光にせわしく動いてゐます。

 「ダー、ダー、スコ、ダーダー、ド、ドーン、ド、ドーン。太刀はいなづま すゝきのさやぎ、燃えて……」

組は二つに分れ、剣がカチカチ云ひます。青仮面あをめんが出て来て、溺死いっぷかっぷする時のやうな格好かつこうで一生懸命跳ね廻ります。子供らが泣き出しました。達二たつじは笑ひました。

 月が俄かに意地悪い片眼になりました。それから銀の盃のやうに白くなって、消えてしまひました。

(先生の声がする。さうだ。もう学校が始まってゐるのだ。)と達二は思ひました。

 そこは教室でした。先生が何だか少し瘠せたやうです。

「みなさん。楽しい夏の休みももう過ぎました。これからは気持ちのいゝ秋です。一年中、一番、勉強にいゝ時です。みなさんはあしたから、又しっかり勉強をするのです。

どなたも宿題はして来たでせうね。今日持って来た方は手をあげて。」

 達二と楢夫さんと、たった二人でした。

「明日は忘れないでみなさん持って来るのですよ。もし、ぜんたい、してしまはなかった人があっても、やはりその儘、持って来るのです。すっかりしてしまはなかった人は手をあげて。」

 誰も上げません。

「さうです。皆さんは立派な生徒です。休み中、みなさんは何をしましたか。そのうちで一番面白かったことは何ですか。達二さん。」

「おぢいさんと仔馬を集めに行ったときです。」

「よろしい。大へん結構です。楢夫さん。あなたはお休みの間に、何が一番楽しかったのですか。」

「剣ばひです。」

「剣ばひをあなたは踊ったのですか。」

「さうです。」

「どこでゞすか。」

伊佐戸いさどやあちこちです。」

「さうですか。まあよろしい。お座りなさい。みなさん。外にも剣舞に出た人はありますか。」

「先生、私も出ました。」

「先生、私も出ました。」

「達二さんも、さうですか。よろしい。みなさん。剣舞けんばひは決して悪いことではありません。けれども、勿論みなさんの中にそんな方はないでせうが、それでお銭を貰ったりしてはなりません。みなさんは、立派な生徒ですから。」

「先生。私はお銭を貰ひません。」

「よろしい。さうです。それから………。」

達二は、眼を開きました。みんな夢でした。冷たい霧や雫が額に落ちました。空は霧で一杯で、なんにも見えません。俄かに明るくなったり暗くなったりします。一本のつりがねさうが、身体を屈めて、達二をいたはりました。」

入力:ゆうき

校正:noriko saito

2010年95日作成

2017年716日修正

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