大岡政談
尾佐竹猛校訂



解題


法學博士 尾佐竹 猛


 古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。

 所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。

 その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。

 古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。

 しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。

 これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指圖から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。

 それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。

 そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。

 また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。

 古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ〳〵廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。

 こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。

 そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。

斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が

大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。(日本文學講座第十八卷「日本の文
學に及ぼしたる歐洲文學の影響」

の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、

天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助

の十六件である。

 この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば

天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌〻増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。

四月二十一日於評定所申渡之覺
天一坊改行
酉三十一

僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也

常樂院

改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也

本多源左衛門
南部權太夫
矢島主計

改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也

これが天一坊事件の梗概である。

 次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。

 お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に

此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々

とあるのは眞實である。

「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。

「村井長庵一件」これは架空の物語である

「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。

本書に

近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々

とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。

「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。

「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に

遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々

とあるのが作者の本音であらう。

「畔倉重四郎一件」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。

「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。

「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。

「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。

「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。

「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。

しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益〻精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。

 さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。

 その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。

 世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。

 本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに

當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる〳〵休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々

とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに

延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬

貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳

貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳

元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳

元祿十五年五月、御書院番士  二十六歳

寶永元年十月 御徒頭  二十八歳

同  年十二月 布衣

同 四年八月 御使番  三十一歳

同 五年七月 御目附  三十二歳

正徳二年正月 伊勢國山田奉行

  同年三月 從五位下 能登守

この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、

享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳

同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳

同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳

元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳

同年十二月 雁の間席並

寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。

寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず

此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士

墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。

 淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。

 大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。

大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて

問ひてましかたりてましをあまた世を

         へたてゝけりな道の友垣

と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。

──解題終──

大岡政談首卷

大岡政談おほをかせいだん首卷しゆくわん


大岡越前守出世しゆつせこと


 大聖孔子たいせいこうしいはくうつたへをきくわれなほ人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ公事訴訟くじそしようねがひ事になりたとへば孔子こうし聖人せいじんには公事訟訴くじそしよう出來たる時はことわざにちゑなきとの事われ猶人の如くと也さりながら孔子聖人奉行ぶぎやうとなつて其訴そのうつた自然しぜんと世の中にたえるやう天下ををさめ仁義じんぎをもつてたみ百姓ひやくしやうをしたがへ道におちたるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことにしゆんといへども聖人せいじんの御代には庭上ていじやうつゞみを出しおき舜帝しゆんていみつから其罪そのつみたゞしあらためあしき御政事おんせいじ當時は何時にても此皷このつゞみうち奏聞そうもんするにていたとへば御食事おんしよくじの時にてもつゞみおとを聞給ひたちまち出させ給ひ萬民ばんみんうつたへを聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに當世たうせい奉行ぶぎやう役人やくにんは町人百姓を夜中やちうにてもかまはず呼出よびいだこしかけに苦勞くらうをさせおのれら我意がいまかせて退出後たいしゆつごにゆる〳〵休足きうそく酒盛さかもりなどして夜に入て評定ひやうぢやうし又もなかれてかへすなとよく〳〵舜帝しゆんていの御心をおそれながらかんがへまなぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ世こぞつて諫鼓かんこのつゝみといふ其後そのごほどなく天下よく此君このきみにしたがひとくになつきければ其皷そのつゞみ自然しぜんとほこりたまりこけしやう諸鳥しよてうも來りてやすめけるとなん此事を諫皷かんここけふかうしてとりおどろかずと申あへりいまもつぱら江戸えど大傳馬町おほでんまちやうより山王御祭禮さんわうごさいれいつゞみつくりもの出し祭禮の第一番に朝鮮てうせんにおいて上覽しやうらん是あるなり往古わうこ常憲院じやうけんゐんさま御代までは南傳馬町のさるのへいをもちしつくりものゝ出でしを第一番にわた諫皷かんこは二番にわたしけるが或時あるとき祭禮さいれい彼猿かのさるの出しつくらふひまに先へぬけたり此時よりして鳥の出し一番にわたるとの嚴命げんめいにてながく一番とはなりにけり是天下太平のこうなり

此猿このさるめんは南傳馬町名主なぬしの又右衞門といふものつくりて主計かずへさるといふよし今以てかの方にあるよしなり

然りといへども繁華はんくわの日夜にましけるゆゑ少々つゞのうつたへはふん〳〵としてさらにやむことなしさればこそ奉行ぶぎやうは是をえらむべきの第一也三代將軍しやうぐん御代みよより大猷公たいいうこう嚴有公げんいうこうの兩君にまたがりて板倉いたくら伊賀守同周防守すはうのかみ内膳正ないぜんしやうまこと知仁ちじん奉行ぶぎやうなりと萬民ばんみんこぞつて今に其徳そのとくをしたふか板倉のひえ炬燵こたつとは少しもがないといふ事なりと火と同音どうおんなればなり夫より後世こうせい奉行ぶぎやういつれも堅理けんりなりといへども日を同じくかたるべからず然るに享保きやうほはじめ大岡越前守忠相たゞともといふ人町奉行となつてとしひさしく吉宗公に勤仕きんししける此人あつぱれ大丈夫だいぢやうふにして其智萬人にすぐれとほき板倉のともがらに同じされば奉行ぶぎやう勤仕きんし勤功きんこう同越前守よく〳〵上をうやまひ下をあはれみてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事まことけんなりといふべしさて大岡おほをか忠右衞門とて三百石にて御書院番ごしよゐんばんつとめ其後そののち二百石加増かぞうあつて五百石と成を越前守家督かとくつぎ御小姓組おこしやうぐみなる勤仕きんしこうあらは有章公いうしやうこうの御代に御徒頭おかちがしらとなり其後伊勢山田奉行ぶぎやう仰付られ初て芙蓉ふよう御役人のれつに入りけるなり


第二回


 ことわざにいはく千里のみちはしる馬つねにあるといへども是を伯樂はくらくもなく其智者そのちしやにあへはなしとかや人間にんげんも又同じ忠信ちうしん義信ぎしんの人おほくあつても其君そのきみのこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく泥中でいちうたまをうづめんが如くにりて過るなしすべての人の君たる人はよく〳〵これさつすべきことなりしゆんも人なりわれも人なり智に臥龍ぐわりよう孔明の
事なり
ゆう關羽くわんうの如きもの當世たうせいの人になからんやこゝに有章院殿の御代大岡おほをか越前守伊勢山田奉行ぶぎやうとなりてかしこに至り諸人しよにん公事くじ彼地かのちにて多く裁許さいきよあり先年より勢州路せいしうぢ紀州領きしうりやう境論さかひろん公事くじありてやむ事なし山田奉行かはりのたび事にねがひ出るといへども今もつて落着らくちやくせず是は先來紀州殿きしうどの非分ひぶんなりといへども御三家の領分りやうぶん相手あひてなれば御大身をおそれ時の奉行もさばきかねてあつかひを入てすますといへどもあつかくづうつたへ出る事たび〳〵なり然るにこの度大岡越前守山田奉行やまだぶぎやうと成て來りしかば百姓ひやくしやうども又々境論さかひろんを願ひ出づるを忠相たゞとも段々きかれける所紀州殿きしうどのはなはだ非分ひぶんなりとてあきらかに取捌とりさばきけり只今までの奉行ぶぎやういかなれば穩便をんびんにいたし置けるにや幸ひに越前守相糺あひたゞすべきなりとて紀州きしうの方まけと成て勢州山田方理運りうん甚だしかりきこゝにおいて年頃としごろのうつぷんをさんじ大いによろこび越前守のをかんじけるまことに正直しやうぢき理非りひまつたふして糸筋いとすぢの別れたるが如くなりしとかや其後正徳しやうとく六年四月晦日みそか將軍家繼公しやうぐんいへつぐこう御多界ごたかいまし〳〵すなはち有章院殿と號し奉る御繼子けいしなく是によつて御三家より御養子ごやうしなり東照宮とうせうぐうに御血脉けつみやくちかきによつて御三家の内にても尾州公びしうこう紀州公きしうこう御兩家御帶座ごたいざにて則ち紀州公上座じやうざなほり給ふ此君仁義じんぎ兼徳けんとくにまし〳〵吉宗公よしむねこうと申將軍しやうぐんとなり給ふ其後そのご諸侯しよこうの心をかんがへ給ふ處におよそ奉行たる者は正路しやうろにあらざれば片時へんじ立難たちがた其正直そのしやうぢきにて仁義じんぎのもの當世たうせいに少し然るに大岡越前守伊勢山田奉行ぶぎやうとして先年の境論さかひろんありし時いづれの奉行も我武威わがぶゐをおそれ我方非分ひぶんと知りながら是をさばく事遠慮ゑんりよする所かの越前守は奉行ぶぎやうとなつてたちまち一時に是非ぜひたゞ我領分わがりやうぶんをまけになしたるだんあつぱれ器量きりやう格別かくべつにしてじんゆうとく兼備けんび大丈夫だいぢやうふなりかれ我手取わがてどり呼下よびくだし天下の政事せいじすべしなば萬民のためならんとの上意じやういにて則ち大岡殿を江戸へ召寄めしよせられける夫より越前守早速さつそくはせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち忠相たゞともを以て江戸町奉行仰付られけりまこと君君たればしん臣たるとは此事にて有るべき


第三回


 享保きやうほはじめころ將軍吉宗公町奉行まちぶぎやう大岡越前守と御評議ごひやうぎあつて或は農工商のうこうしやうつみなるものに仰付けられ追放つゐはう遠島ゑんたうかはりに金銀を以てつみをつぐのひ給ふ事初り今是過料金くわれうきんといふなり大にえきある御仁政ごじんせい然るに賢君けんくんの御心をしらず忠臣ちうしんの奉行をしらざるともがら此過料金このくわれうきんの御政事せいじなんしていはく人のつみを金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一よくにふけり以の外いやしきおきてなり然らば金銀あるものはわざ惡事あくじなしむつかしき時にはわづか金銀を出せば濟事すむこと也となどたかをくゝり惡事あくじをなさん是かへつ罪人ざいにん多くならんなかだち也とあざけりし人多しとかや是非ぜひ學者がくしやろんなりといにしへより我朝わがてうおきてにぞかゝる事なけれども利の當然たうぜんなり新法しんはふを立らるゝ事天晴あつぱれ器量きりやうといひ其上唐土もろこしにもしうの文王たみ百姓のつみあるものを金銀を出させて其罪そのつみをつぐなうとあれば聖人せいじんおきてにも有事なり然らばあし御政事ごせいじにてはなきと决せり又非學者ひがくしやなんじていはく文王は有徳うとくな百姓町人のつみけいにあらざるものを過料くわれうさせて其金銀を以て道路だうろにたゝずみ暑寒しよかんをしのぐ事あたはざるもの飢餲きかつにうれふるものには其金銀を與へてくるしみをのぞき給ひしが當時たうじのありさまを見るにさしてこゝ一日人をすくひ給ふ事もなしみな公儀こうぎ用意よういなるはいかにといひ是又上の御賢慮ごけんりよ奉行ぶぎやう良智りやうちをしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸其外そのほか所々より出す過料くわれう金銀は公儀こうぎに御入用などにはけつしてもちひ給ずたゞはし道等みちとう御修復金ごしゆふくきんと成る多くははし普請ふしんのみ入用に成事なり是にてこゝゑる人をすくふ道利だうりにてみな此内にこもる聖君せいくん御賢慮ごけんりよ御いさをし也

はし功徳經くとくきやうにいはく

 わたりにふねたるが如く暗夜あんやにともし火をたるが如なりはた經文きやうもんの心をたるが如く也此經文きやうもんの心にて見ればうゑたるものしよくを得たるか旅人りよじんのこめなればひとへにはだかなる者衣類いるゐを得たるか如くにてあれはこゝえる人にころもを下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば御憐愍ごれんびんの御政事こゝを以て知るべしとき常憲院さま五十のの時何をもつて功徳くどくちやうと成べきと智化ちけの上人へ桂昌院樣けいしやうゐんさま一位樣御尋おんたづね遊ばされしに僧侶そうりよこたへて申上げるはおよそ君たる人の御功徳くどくにははしなき所へ橋をかけ旅人りよじんのわづらひを止め給ふ事肝要かんえうならんと申ければすなはち兩國橋りやうごくばし永代えいたいとの間へ新大橋しんおほはしかけられ諸人のために仰付られけるとかや右過料くわれう御政事ごせいじに當りてまこと諸人しよにんの爲と成て可なりしとかや江戸いけはた本門寺ほんもんじは紀州の御菩提所ごぼだいしよなれば吉宗公と御簾中ごれんちう本門寺ほんもんじ御葬送ごさうそうを被遊て源徳院殿げんとくゐんでんと號し奉るなりよつて去頃さるころ家重將軍いへしげしやうぐん是へ爲成候に付御成まへにはかにあたら敷御成門おなりもんとして出來ければ淨土宗じやうどしうのともがら是をねたみ御成門への内に大文にて祐天風いうてんふう南無阿彌陀佛なむあみだぶつかきたりたれとも知れざれども不屆ふとゞき仕方しかたなりよつて御成門なりもんを又々あらたあらた立直たてなほ奉行所ぶぎやうしよへ申上て昨夜さくや御成門へいたづら仕りしが南無阿彌陀佛なむあみだぶつと書しは淨土宗じやうどしうのともがらねたみしと相見あひみえ申候如何計申べしや何卒なにとぞ公儀こうぎ威光ゐくわうを以ていたづら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞうつたへおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門のは大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽だいたんの者ども不屆千萬ふとゞきせんばん言語同斷ごんごどうだんの致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも嚴敷きびしく取計も成難なりがたかくせよとて大岡殿白紙はくしへ一首の狂歌きやうかをなされ是を御門へはるべしとなり

狂歌きやうかにいはく

西方さいはうのあるじと聞し阿彌陀佛あみだぶつ

       今は法花ほつけ門番もんばんとなる

かくの如く遊されて本門寺ほんもんじへ渡し是を御門へ張置はりおくべしと仰渡おほせわたされけりよつて右の狂歌きやうか張置はりおきければ是にはぢかさねてさやうないたづらをばせざりしとかや


大岡政談首卷

天一坊一件

天一坊てんいちばう一件いつけん


第一回


 下野國しもつけのくに日光山につくわうざん鎭座ちんざまします東照大神とうせうだいじんより第八代の將軍しやうぐん有徳院吉宗公いうとくゐんよしむねこうしようたてまつるは東照神君とうせうしんくんの十一なん紀伊國きいのくに和歌山わかやま城主じやうしゆたか五十五萬石をりやうするじゆ大納言光貞卿だいなごんみつさだきやうの三なんにて幼名えうみやう徳太郎とくたらう信房のぶふさしようのち吉宗よしむねあらたむ御母おんはゝ九條前關白太政大臣くでうさきのくわんぱくだじやうだいじん第四の姫君ひめぎみたかかたにて御本腹ごほんぷくなり

假令たとへ三家方さんけがたにても奧方おくがた江戸えどあるべきはずなり紀州にての御誕生ごたんじやう本腹ほんぷくなりとは大納言光貞卿だいなごんみつさだきやう紀州きしう和歌山わかやまにて大病たいびやうにつき奧方おくがた國元くにもといらせられぢき看病遊かんびやうあそばされたきよし度々たび〳〵の願ひ先例せんれいにはなくとも格別かくべつ家柄いへがらゆゑ聞濟きゝずみに成り國許くにもとのぼらせられ御看病遊ごかんびやうあそばし平癒へいゆ懷姙くわいにんなるゆゑ和歌山にて御誕生ごたんじやうありしなり

さて奧方ある夜のゆめ日輪にちりん月輪ぐわつりん兩手りやうてにぎると見給みたまひ是より御懷姙ごくわいにん御身おんみとはなり給ふ

ゆめ五臟ござうのわづらひといひつたふれども正夢しやうむにして賢人けんじん聖人せいじん或は名僧めいそう知識ちしきの人をむは天竺てんぢく唐土もろこし我朝わがてうともにそのためすくなからずすで玄奘法師げんさうほふしは夢を四ツにわけ一に現夢げんむ二に虚夢きよむ三に靈夢れいむ四に心夢しんむとす現夢げんむとはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢きよむとは心魂しんこんつかれよりして種々しゆ〴〵樣々さま〴〵の事を見るをいふ靈夢れいむとは神靈しんれい佛菩薩ぶつぼさつ御告おんつげをかうむるをいふ心夢しんむとはつね平生へいぜいこゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時奧方おくがたの見給ふは靈夢れいむにして天下の主將しゆしやうなるべきさが後々のち〳〵思ひしられたり

奧方おくがたにはあまりふしぎなる夢なればとて大納言光貞卿に告給つげたまへば光貞卿ふかよろこびこの度懷姙くわいにんの子男子なんしならば器量きりやうすぐれ世に名をあぐる程のものならんとおほせありしことなりころ貞享ていきやう甲子きのえね正月廿日こく玉の如くなる御男子ごなんし誕生たんじやうまし〳〵ければ大納言光貞卿をはじめ一家中いつかちう萬歳まんざいしゆくし奉つれり奧方看病かんびやうのため國元くにもとへいらせられ若君わかぎみ誕生たんじやうにては公儀こうぎへ對しはゞかりありとて内々ない〳〵にて養育やういくのおぼしめしなりまた大納言光貞卿は當年たうねん四十一歳にあたり若君わかぎみ誕生たんじやうなれば四十二の二ツ子なりいかなる事にやむかしよりいみきらふ事ゆゑ光貞卿にも心掛こゝろがかりに思召おぼしめしある日家老からう加納將監かなふしやうげんをめし其方そのはう妻女さいぢよちかき頃安産あんざんいたせしと聞及ぶしかるに間もなく其兒そのこ相果あひはてしよし其方は男子なんしの事なれば左程さほどにも思ふまじけれども妻女さいぢよは定めてふところさびしくも思ふべしさいはひこの度出生しゆつしやうせし徳太郎はが爲には四十二の二ツ子なりよつ我手元わがてもとにて養育やういく致し難し不便ふびんには思へども捨子すてごにいたさんと思ふなりそのはう取上とりあげ妻女の乳を以てやしなひくれよ成長せいちやうの後其方に男子なんし出産しゆつさんせば予が方へかへもしまた男子なくばその方の家名かめい相續さうぞくいたさすべしとおほせありければ將監しやうげんつゝしんでかたじけなくも御本腹ごほんぷくの若君を御厄年おやくどしの御子なりとて某に御養育ごやういくを命ぜらるゝ儀有がたくぞんじ奉つるしかしながら上意のおもふき愚妻ぐさいへ申聞かせ其上にて御請仕おんうけつかまつりたし小兒せうに養育やういくの儀はひとへに女の手に寄處よるところにて私しの一存に行屆ゆきとゞき申さずとていそぎ御前を退しりぞき宿へ歸りて女房にようばう御内命ごないめいおもぶきを申し聞せければ妻女おほいよろこびさりながら御本腹ごほんぷく若君わかぎみを我々が手に下されん事は勿體もつたいなし御幼年ごえうねんの内は御預おあづかり申あげ御成長遊ごせいちやうあそばし候後は太守樣たいしゆさまの御元へ御返おんかへし申上何方いづかたへなりとも然るべき方へ御養子ごやうしに入らせらるゝ樣に御取計おんとりはからひ有てよろしかるべし當家たうけ相續さうぞくなどとは思ひも寄らず私し今日より御乳おちゝを奉つりて御養育ごやういくを申上んといふにぞ將監しやうげん道理もつともなりと同心し早速さつそく御前へ出てさいが申せしおもむきを言上に及ぶに光貞卿ふかよろこび然らばしばらくの内其方へあづおくべしとて城内二の丸の堀端ほりばた大木たいぼくの松の木あり其下へ葵紋あふひもんぢらしの蒔繪まきゑ廣葢ひろぶたに若君をにしきにつゝみ女中一人ほかつきの女中三人そひ捨子すてごとし給ふ加納將監は乘物のりものかゝせ行き直樣すぐさまひろひ上乘物のりものにて我家わがやへ歸り女房にわたしてやしなひ奉つりぬ加納將監は本高ほんだか六百石なるが此度このたび二百五十石を里扶持さとふぢとして下しおか都合つがふ八百五十石となりいよ〳〵忠勤ちうきんつくしけりこゝ徳太郎君とくたらうぎみは日をおつ成長せいちやうまし〳〵器量きりやう拔群ばつくんすぐ發明はつめいなれば加納將監夫婦ふうふひとへに實子の如くいつくしみそだてけるさて或日あるひ徳太郎君につきの女中みなあつま四方山よもやまはなしなどしけるが若君には御運ごうんつたなき御生おうまれなりと申すに徳太郎君御不審ごふしんおぼしめし女中に向ひ其方ども予が事を不運ふうんなりとは何故ぞと仰せければ女中ども若君わかぎみにはじつ太守たいしゆ光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の御厄年おやくどしの御子なりとて御捨遊おすてあそばされしを將監御拾おひろひ申上將監の子とならせ玉ひしは御可憐いたはしき御事なり御殿ごてんにて御成長あそばし候へば我々とても肩身かたみひろく御奉公ごほうこうつとむべきに殘念ざんねんの事なりと四人ともども申上しを聞しめししからば予は太守光貞卿の子とやとおほせありしがそれよりは將監が申事も御用おんもちゐなくことほか我儘わがまゝ氣隨きずゐに成せ給へりある日書院しよゐんの上段に着座ちやくざまし〳〵て將監々々〳〵〳〵よばせ給ふこゑきこえければ將監大いにおどろき何者なるや萬一もし太守たいしゆの御出にもと不審ふしんながらふすまを少しあけけるにこはいかに徳太郎君には悠然いうぜんと上段にひかへ給ふ將監この形勢ありさまを見て大いにおどろき其方は狂氣きやうきせしか父に向ひて無禮ぶれい振舞ふるまひ何と心得居るやと申ければ徳太郎君おほせけるはいかにかくすとも予は太守光貞みつさだの子なり然れば其方は家來けらいなるぞ以後はさやう心得こゝろえよと仰ありて是迄これまでは將監をじつおやの如くうやまひ給ひしが其後は將監々々と御呼およびなさるゝゆゑ加納將監も是よりして徳太郎君を主人しゆじんの如くにうやまひかしづき養育やういくなし奉つりける


第二回


 さて徳太郎君は和歌山わかやま城下じやうかは申すにおよば近在きんざいなる山谷さんこく原野げんやへだてなく駈廻かけめぐりて殺生せつしやう高野かうや根來等ねごろとう靈山れいざんのちには伊勢いせ神領しんりやうまであらさるゝゆゑ百姓共迷惑めいわくに思ひしが詮方せんかたなく其儘そのまゝ捨置すておきけりこゝに勢州阿漕あこぎうらといふは往古わうこより殺生禁斷せつしやうきんだんの場なるを徳太郎君へも到り夜々よな〳〵あみおろされける此事早くも山田奉行やまだぶぎやう大岡忠右衞門きゝて手附の與力よりきに申付召捕めしとるにはおよばず只々嚴重げんぢう追拂おひはらふべしと申ふくめければ與力よりき兩人その意を得て早速さつそく阿漕あこぎうらへ到り見ればあんたがはずあみおろす者あり與力こゑをかけ何者なれば禁斷きんだんの場所に於て殺生せつしやういたすや召捕めしとるべしと聲を掛くれば彼者かのもの自若じじやくとして予は大納言殿の三なん徳太郎信房のぶふさなり慮外りよぐわいすな此提灯このちやうちんあふひもんは其方どもの目に見えぬかと悠然いうぜんたる形容ありさまに與力は手荒てあらにすべからずと云付いひつけられたれば詮方せんかたなく立歸り奉行ぶぎやう大岡忠右衞門に此趣このおもむきをたつすれば殺生禁斷せつしやうきんだん場所ばしよあみおろせしと見ながら其儘そのまゝ差置難さしおきがたし此度は自身じしんまゐるべしとて與力よりき二人を召連めしつれ阿漕が浦にいたれば其夜も徳太郎君れいの如くあみおろして居られしゆゑ忠右衞門大聲たいせいにて當所たうしよ往古わうこより殺生禁斷せつしやうきんだんの場所なれば殺生せつしやうする者あれば搦捕からめとるなりと呼はるを徳太郎君聞給きゝたまひ先夜も申聞すごとく予は紀伊大納言殿きいだいなごんどのの三男徳太郎信房のぶふさだぞ無禮ぶれい致すな提灯ちやうちんもんは目に見えぬか慮外りよぐわいせばゆるさぬぞとのたまふ大岡大音だいおんあげ紀伊家の若君が御辨おわきまへなく殺生禁斷せつしやうきんだんの場所へあみを入させ給ふべきは全く徳太郎君の御名をかた曲者くせものそれ召捕めしとれはげしき聲に與力ども心得たりと左右より組付くみつきなんなくなはをぞかけたりける徳太郎君當然たうぜんの理に申わけなければ是非ぜひなく山田奉行の役宅やくたくへ引れ給へりさて其夜そのよ明家あきやへ入れ番人ばんにんを付て翌朝よくてう白洲しらすへ引出し大岡忠右衞門は次上下つぎがみしも威儀ゐぎたゞし若ものをはつたと白眼にらみおのれ何者なれば殺生禁斷せつしやうきんだんの場所をけがあまつさへ徳川徳太郎などと御名をかたる不屆者ふとゞきもの屹度きつと罪科ざいくわおこなふべきなれども此度このたび格別かくべつ慈悲じひを以て免しつかはす以後見當みあたり候はゞ決してゆるさゞるなり屹度きつと相愼あひつゝしみ心をあらたむべしと申渡してなはといてぞはなしける徳太郎君は何となるべきと案じわづらひ給ひしにかくゆるされ蘇生そせいせし心地し這々はう〳〵ていにて和歌山へ立歸たちかへり此後は大人おとなしくぞなり給ひけるとなんかくて徳太郎君追々おひ〳〵成長せいちやうまし〳〵早くも十八歳になり給へり此年このとし加納將監江戸えど在勤ざいきん仰付おほせつけられけるにぞ徳太郎君をも江戸見物えどけんぶつの爲に同道どうだうなし麹町なる上屋敷かみやしき住着すみつけたり徳太郎君は役儀もなければ平生ふだんひまに任せ草履取ざうりとり一人をつれ兩國りやうごく淺草等あさくさとう又は所々の縁日えんにち熱閙場さかりばへ日毎に出歩行であるき給ひければ自然しぜん下情かじやうに通ず萬端ばんたん如才じよさいなく成給へり程なく一ヶ年もすぎ將監も江戸えど在勤ざいきんの年限はてければ又も徳太郎君をともなひ紀州へこそは歸りけれこゝに伊豫國新居郡にゐごほり西條の城主じやうしゆ高三萬石松平左京太夫此程このほど病氣びやうきの所ろいまだ嫡子ちやくしなし此は紀伊家の分家ぶんけゆゑ家督評議かとくひやうぎとして紀州の家老からう水野筑後守みづのちくごのかみ久野但馬守くのたじまのかみうら彈正だんじやう菅沼すがぬま重兵衞渡邊對馬守つしまのかみ熊谷くまがや次郎南部なんぶ喜太夫等の面々めん〳〵うちより跡目あとめの評議に及びけるとき水野筑後守進出すゝみいでて申けるは各々の御了簡ごれうけん如何いかゞか存ぜざれ共左京太夫殿どの家督かとくの儀は御國許おんくにもと加納將監方に御預おんあづけ置れ候徳太郎君をしかるべく存ずると申出たり一同此儀このぎしかるべしと評議一けつしければいそ此趣このおもむき和歌山おもて早飛脚はやびきやくを以て申送れば國許くにもとにても家老衆からうしう早々さう〳〵登城とじやうの上評議ひやうぎに及ぶ面々は安藤帶刀たてわき同く市正いちのかみ水野石見守いはみのかみ宮城丹波みやぎたんば川俣彈正かはまただんじやう登坂式部とさかしきぶ松平監物けんもつ細井圖書等づしよとうなり江戸表よりの書状しよじやう披見ひけんに及べば此度松平左京太夫殿御病死ごびやうしの所御世繼よつぎこれ無に付ては加納將監方へおあづあそばし候徳太郎君御跡目あとめしかるべしとの事なり此儀このぎもつともの事なりとて早速さつそく加納將監へ其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ立戻たちもどりて其趣そのおもむきを徳太郎君に申上出立しゆつたつの用意に及び近々きん〳〵江戸表御下おんくだりとは相成あひなりける。こゝに又和歌山の城下じやうかより五十町みち一里半ほどざいに平澤村といふ小村こむらあり此處へ先年せんねん信州者にて夫婦にむすめ一人ひとりつれし千ヶまゐりの平左衞門と申者來りぬ名主なぬし甚兵衞は至て世話好せわずきにて遂に此三人を世話して足をとゞめ甚兵衞はおのが隱居所をかしつかはおけり其後平左衞門病死しあとは妻のお三とむすめなりお三は近村きんそん産婆とりあげを渡世としお三婆々さんばゝよばれたり娘も追々おひ〳〵成長せいちやうして容貌きりやうも可なりなるにはや年頃になれば手元におくも爲によからじ何方いづかたへ成とも奉公ほうこういださんと口入の榎本屋えのもとや三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公ほうこう住込すみこみたりこゝにて名を澤の井とよび腰元こしもとをぞつとめける此女へ何時いつしか徳太郎君の御手がつき人しれず馴染なじみかさつひに澤の井懷姙くわいにんしてはや五月帶いはたおびを結ぶ時とぞなりにき澤の井ひそかに徳太郎君にむかひかね〳〵君の御情おなさけを蒙りうれしくもまたかなしくいつか御胤おたねをやどりはや五月いつゝきあひなり候と申上げれば徳太郎君きこめし甚だ當惑たうわくていなりしがやゝあつて仰けるは予は知る如き部屋住へやずみ身分みぶん箇樣かやうの事が聞えては將監が手前てまへ面目めんぼくなし予もまた近々きん〳〵に江戸表へ下り左京太夫殿の家督かとく相續さうぞくするはずなれば首尾しゆびよく右等の事の相濟あひすみし上は呼迎よびむかへて妾となすべし夫迄それまでは其方の了簡れうけんにて深くつゝしみだり口外こうぐわい致すべからずしかしつきにも相成あひなる上は奉公ほうこうも太儀なるべし其方は病氣びやうき披露ひろうし一先宿へさがり母のもとにて予が出世しゆつせを相待ち懷姙くわいにんの子を大切たいせつに致すべしとて御手元おてもと金百兩をさわつかはされたり澤の井は押戴おしいたゞ有難ありがたきよしを御禮おんれい申上左樣なればおほせに隨がひ私儀わたくしぎは病氣のつもりにて母のもとへ參るべししかしながら御胤おんたね宿やどし奉りし上は何卒なにとぞ御出生の御子おんこを世に立度たてたく存じ奉れば後來迄のちのちまでも御見捨なき爲に御證據おんしようこの品をくだし置れ度と願ければ徳太郎君も道理におぼし召て御墨付おすみつき御短刀おたんたうそへて下されけり澤の井は押戴おしいたゞ御短刀おんたんたうを能々拜見はいけんしてさて申やう此御短刀は私しのぞみ御座なく候何卒君の常々つね〴〵手馴てなれし方をいたゞき度むね願ひければ君も御祕藏ごひざうの短刀をつかはさるゝは御迷惑ごめいわくの體なりしが據處よんどころなく下されておほせけるは此品このしなは東照神君よりつたはれるにて父君にもふか御祕藏ごひざうの物なるを先年せんねん自分じぶんに下されしなり大切の品なれども其方そのはうねがひ點止もだし難ければつかはすなりと御墨付おんすみつきを添てくだんの短刀をぞたまはりける其お墨付すみつきには

其方懷姙くわいにんのよし我等血筋ちすぢ相違さうゐ是なしもし男子なんし出生に於ては時節じせつを以て呼出よびいだすべし女子たらば其方の勝手かつてに致すべし後日ごにち證據しようこの爲我等身にそへ大切に致候短刀たんたう相添あひそへつかはし置者也依而よつて如件くだんのごとし

寛永二申年十月
徳太郎信房
澤の井女へ

と成され印をすゑし一書を下しおかれ短刀は淺黄綾あさぎあやあふひ御紋ごもん染拔そめぬき服紗ふくさつゝみて下されたり。さて又徳太郎君には道中もとゞこほりなく同年霜月しもつき加納將監御供おんともにて江戸麹町紀州家きしうけ上屋敷へ到着たうちやくと相成り夫より左京太夫殿家督相續かとくさうぞく萬端ばんたん首尾しゆびよく相濟せられたり。しかるに澤の井は其後漸くつきかさなり今はつゝむに包まれず或時あるとき母に向ひはづかしながら徳太郎ぎみ御胤おんたね宿やどしまゐらせ御内意ごないいを受け御手當金てあてきん百兩と御墨附おすみつき御短刀までのち證據しようことて下されしことちく物語ものがたればお三ばゝは大いによろこび其後は只管ひたすら男子の誕生たんじやうあらんことをぞいのりたるが已につき滿みち寛永くわんえい三年三月十五日の上刻じやうこくに玉の如くなる男子なんしを誕生し澤の井母子おやこの悦び大方おほかたならず天へものぼ心地こゝちして此若君このわかぎみ生長せいちやうを待つより外はなかるべし


第三回


 しかるにお三ばゝ母子おやこ若君わかぎみ誕生ありしにはじめて安堵あんどの思ひをなせしが老少らうせう不定ふぢやうの世のならひ喜こぶ甲斐かひもあらかなしや誕生たんじやうの若君は其夜そのよの七ツ時頃むしの氣にてつひむなしくなり給ひぬはゝ澤の井斯と聞より力をおとし忽ち産後さんごあがり是も其夜の明方あけがた相果あひはてければあとのこりしお三婆は兩人ふたり死骸しがいに取付天をあふぎ地に泣悲なきかなしむより外なきは見るもあはれの次第なり近邊きんぺんの者どもばゝ泣聲なきごゑを聞つけたづね來り見れば娘の澤の井と嬰孩みどりご死骸しがいに取付樣々の謔言よまひごと言立いひたて狂氣きやうきの如き有樣なれば種々いろ〳〵すかなだ兩人ふたり死骸しがい光照寺くわうせうじといふ一向宗かうしうの寺へはうむりしがお三婆は狂氣きやうきなし種々さま〴〵の事をさけび歩くにぞ名主なぬしの甚兵衞ももてあまし其隱居所いんきよじよ追出おひいだしけりさればお三婆は住家すみかを失なひ所々方々とうか彷徨さまよひしを隣村りんそん平野村の名主なぬし甚左衞門は平澤村の甚兵衞名主のおととなるがこれも至つて慈悲じひふかきものにてお三ばゝまよ歩行あるくを氣の毒に思ひ何時いつまで狂氣きちがひでも有まじ其内には正氣しやうきに成べしとておの明家あきやすまはせ此處にあること半年程はんねんほどにて漸やく正氣しやうきに成しかば以前の如く産婦さんぷ世話せわわざとして寡婦暮やもめぐらしに世を渡りける。こゝに寶永三年四月紀伊きい大納言光貞卿御大病ごたいびやうの處醫療いれうかなはず六十三歳にて逝去せいきよまし〳〵ける此時松平主税頭ちからのかみ信房卿は御同家青山あをやま百人町なる松平左京太夫さきやうのたいふ養子やうしとなり青山の屋敷やしきおはせりさてまた大納言光貞卿の惣領そうりやう綱教卿つなのりきやうは幼年より病身びやうしんと雖も御惣領ごそうりやうなればおし家督かとくに立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六さいにて逝去せいきよなり然るに次男じなん頼職卿よりなりきやう早世さうせいなるにより紀伊家はほとん世繼よつぎたえたるが如し三なん信房卿同家へ養子やうしならせられてなけれ共外に御血筋ちすぢなき故まづ左京太夫頼純よりすみの四男宗通むなみちの次男を左京太夫頼淳よりあつと號して從四位少將せうしやうに任じて家督かとくとし主税頭ちからのかみ信房卿は是より本家相續さうぞく相成あひなり紀州和歌山にて五十五萬五千石のぬしとはなり玉へり舍兄しやけい綱教卿は忌服きふく十二月朔日ついたちに明けよく二日從三位中納言ちうなごんに任ぜられ給ひけり。さて寶永は七年つゞきて八年目の五月七日に正徳元年と改元かいげんあり正徳は五年つゞき六年目の三月朔日ついたちに享保元年と改元かいげんある然るに正徳三年の九月六代の將軍家宣公いへのぶこう御他界ごたかいあり御幼年の鍋松君なべまつぎみ當年八歳にならせ給ふを七代の將軍とあが家繼公いへつぐこうとぞ申したてまつる此君御不運ふうんにまし〳〵もなく御他界ごたかいにて有章院殿いうしやうゐんでんと號したてまつる是に依て此度は將軍家に御繼子けいしなく殿中でんちう闇夜あんや燈火ともしびを失ひたる如くなれば將軍家御家督ごかとく御評定ごひやうぢやうとして大城たいじやう出仕しゆつしの面々には三家十八國主四溜老中したまりらうぢうには阿部豐後守あべぶんごのかみ政高。久世大和守重之やまとのかみしげゆき。戸田山城守忠實やましろのかみたゞさね。井上河内守かはちのかみ正峯。御側おそば御用人間部まなべ越前守詮房のりふさ。本多中務大輔なかつかさのたいふ正辰たゞとき。若年寄には大久保長門守正廣ながとのかみまさひろ。大久保佐渡守常春つねはる。森川出羽守俊胤ではのかみとしたね寺社奉行じしやぶぎやうには松平對馬守近貞つしまのかみちかさだ。土井伊豫守利道としみち。井上遠江守正長とほたふみのかみまさなが大目付には横田備中守重春びつちうのかみしげはる。松平安房守乘宗あはのかみのりむね。中川淡路守重高あはぢのかみしげたか等なり此時井伊掃部頭ゐいかもんのかみ發言はつごんにより松平陸奧守綱村卿つなむらきやう進みいでて申されけるに天下の御繼子ごけいしの儀は東照神君御血筋ごちすぢちかき方よりつがせ玉はす事こそ順當じゆんたうなるべし然れば紀州公は神君の御彦おんひこに當らせ給へり紀州公こそしかるべからんとぞ申されける諸侯其道理もつとも然るべしと異口同音いくどうおん賛成さんせいなれば彌々いよ〳〵紀伊家より御相續さうぞく相極あひきはまる是に因て同年八月吉宗公よしむねこうと御改名かいめいあり

正二位右大臣うだいじん右近衞大將うこんゑのたいしやう征夷大將軍せいいたいしやうぐん淳和じゆんな奬學さうがく兩院りやうゐん別當べつたう源氏長者げんぢのちやうじや

右の通り御轉任ごてんにんにて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり寶永はうえい四年紀州家きしうけ御相續より十月とつき目にて將軍に任じ給ふ御運ごうん目出度めでたき君にぞありけるこれよつて江戸町々は申すにおよばず東は津輕つがるそとはま西は鎭西ちんぜい薩摩潟さつまがたまでみな萬歳ばんざいをぞしゆくし奉つる別して紀州にては村々むら〳〵在々ざい〳〵までことの外に喜びしゆくしけるとぞ。さても平野村甚左衞門方に世話せわに成居るお三婆は此事をきくよりおほひなげかなしみ先年御誕生ごたんじやうの若君の今迄いままでも御存命におはしまさば將軍の御落胤おんおとしだねなれば何樣いかやうなる立身をもすべきに御不運にて御早世ごさうせいなりしは返す〴〵も殘念ざんねんなりとひと泣悲なきかなしむもことわりとこそきこえけれ扨も八代將軍には或時御側御用おそばごよう取次に御尋おんたづね有やうは先年せんねん勢州せいしう山田奉行をつとめし大岡忠右衞門と申者は目今たうじ何役なにやくを致し居るやと御尋おんたづね御側衆おそばしう申上げるやう大岡忠右衞門儀いまだ山田奉行勤役きんやくにて罷在まかりある旨を申上ければ吉宗公上意じやういに忠右衞門は政事せいじわたくしなく天晴あつぱれ器量きりやうある者なり早々さう〳〵呼出すべしとの事故に台命たいめいおもむきを御老中に申たつしける是に依て御月番おつきばんより御召出おめしいだし御奉書ごほうしよ勢州山田へ飛脚ひきやくを以てつかはさる大岡忠右衞門には御奉書到來たうらい熟々つら〳〵かんがふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入のせつ阿漕あこぎうらにて召捕めしとり吟味ぎんみせし事あり此度はからずも將軍にならせられたれば此度の召状めしじやう必定ひつぢやう返報へんぱう御咎おんとがめにて切腹せつぷくでも仰付らるゝか又は知行ちぎやう御取上おんとりあげかさらずば御役御免おやくごめんなるべしと覺悟かくごし用意も匇々そこ〳〵途中とちうを急ぎ程なく江戸表へちやくしければ早速さつそく御月番おつきばん御老中へ到着たうちやく御屆おんとゞけに及び此段上聞じやうぶんに達しければ早々忠右衞門に御目見おめみえ仰せ付らるべきのおもむきなれば大岡忠右衞門早速さつそく御前へ罷出まかりいで平伏へいふくしける時に將軍の上意じやういに忠右衞門其方は予が面體めんたい見覺みおぼあるかとの御尋なり此時忠右衞門かしこまり奉る上意の通り私し儀山田奉行勤役中きんやくちう先年阿漕が浦なる殺生禁斷せつしやうきんだんの場所へ夜々よな〳〵あみを入れ殺生する曲者くせものありとのうつたへに付私し出役しゆつやく仕つり引き捕へ吟味ぎんみ仕り候處に彼曲者かのくせものは紀伊家の徳太郎信房卿のぶふさきやうの御名前をいつはる曲者ゆゑとくと吟味に及び候おそれ乍ら右曲者の面體めんていきみ御容貌ごようばうによく申す樣に存じ奉るとぞ御答おんこたへ申上ければ將軍家にはふか其忠節そのちうせつを御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて御譽おほめの御言葉を下されすぐに江戸町奉行をぞ仰付おほせつけられける。これよつて越前守と任官にんくわんし大岡越前守藤原忠相ふぢはらのたゞすけと末代までも名奉行めいぶぎやうの名をとゞろかしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々上意じやういありしとかや


第四回


 こゝ長門國ながとのくに阿武郡あふのごほりはぎは江戸より路程みちのり二百七十里三十六萬五千ごく毛利家の城下にてことにぎはしき土地なり其傍そのかたはらに淵瀬ふちせといふ處ありむかし此處このところはぎの長者といふありしが幾世いくよをか衰破すゐは斷滅だんめつし其屋敷あとはたとなりてのこれり其中に少しのをかありて時々とき〴〵ぜに又は其外そのほか種々いろ〳〵器物きぶつなど掘出ほりだす事ある由を昔より云傳いひつたへたりまた里人の茶話ちやばなしにもあしたに出る日ゆふべに入る日もかゞやき渡る山のは黄金千兩錢千ぐわんうるしたる朱砂しゆしやきんうづめありとは云へどたれありて其在處ありどころを知る者なし然ども時として鷄の聲などのきこゆる事ありて此は金氣きんきの埋れあるゆゑなりと評するのみ又誰も其他をさだかに知るものなかりける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人扶持ふちをとる原田兵助はらだひやうすけと云者あり常々田畑でんばた耕作かうさくする事を好みしが或時兵助山の岨畑そばはたへ出て耕作しけるに一つの壺瓶つぼがめ掘出ほりだしたりひそかに我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに古金こきん許多そくばくあり兵助大いに喜び縁者えんじや又はしたしき者へも深くかくおきけるが如何して此事のもれたりけん隣家りんか山口やまぐち郎右衞門ろゑもんが或日原田兵助方へ來りやゝ時候の挨拶あいさつをはりて四方山よもやまはなしうつりし時六郎右衞門兵助にむかひて貴殿には先達せんだつて古金のいりかめ掘出ほりだされし由をたしかうけたまはりおよびたり扨々さて〳〵浦山敷うらやましき事なり何卒其古金の内を少々拙者せつしや配分はいぶん致し賜れと云ふに兵助ははつと思へど然有さあら風情ふぜいにて貴殿にはさることを何者にか聞れし一向蹤跡あとかたなき事なり拙者毛頭もうとう左樣さやうの事存じ申さずと虚嘯そらうそぶにも不束ふつつかなる挨拶なるにぞ六郎右衞門はむつとし彼奴きやつ多分の金子を掘り出しながらすこしの配分をもこばみ夫のみならず我にたいして不束の挨拶こそ心得ぬよし〳〵其儀そのぎならようこそあれといそぎ我家へ立歸たちかへ直樣すぐさま役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を掘出ほりいだし候ところかみへも御屆申上げずひそかに自分方へ仕舞置しまひおき候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ呼寄よびよせ其方事此度はたけより古金のかめを掘出し其段そのだん早速さつそく役所へ屆け出づべきになくして自分方に隱置かくしおき其方そのはうの得分に致さんとの心底しんてい侍にも似合ず後闇あとくらき致し方にて重々不屆に思召おぼしめさるよつて相當の御咎おんとがめをも仰せ付らるべきを此度は格別の御慈悲じひを以て永の御暇下おんいとまくだおかる早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも立退たちのくべし尤も掘出せし器物は其儘そのまゝかみへ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも御請おうけ致し是全く六郎右衞門が訴人そにんせしに相違さうゐなしとは思へど今更いまさら詮方せんかたなければ掘出せし金瓶きんぺいは役所へ差出し家財かざい賣拂うりはらひ一人の老母を引連ひきつれなみだながらに住馴すみなれし萩を旅立て播州ばんしう加古川かこがはすこし知音しるべのあれば播州さしてぞ立去たちさりける老母をせし旅なれば急ぐとすれど捗行はかゆか漸々やう〳〵の事にて加古川につきたれば知音しるべたづね事の始末しまつくはしはなし萬事を頼みければ異議いぎなく承知ししばらくの内は此處の食客しよくかくとなりしが兵助はほかに覺えし家業も無ければ彼の知音の世話せわにて加古川の船守ふなもりとなり手馴てなれわざ水標棹みなれざをもその艱難かんなん云ん方なしされど原田兵助は至て孝心かうしんふかき者なれば患難を事ともせず日々ひゞ加古川の渡守わたしもりしてまづしき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とてふしければ兵助は家業かげふやすみ母のかたはらをはなれず藥用も手をつくしたれど定業ぢやうごふのがれ難く母は空敷むなしくなりにけり兵助の愁傷しうしやう大方ならずされなげき甲斐かひ無事なきことなれば泣々も野邊の送りより七々四十九日のいとなみもいとねんごろにとふらひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦ながいとまとなりて浪人らうにんの身となり姿すがた虚無僧こむそうかへて所々を徘徊はいくわいせしがフト心付き原田は播州へゆきしとの事なり今我斯樣かやうに浪々の身となり艱難するももとは兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず只管ひたすら兵助をうらみいざや播州へ赴き兵助に巡逢めぐりあひ此無念このむねんはらさんと夫より播州さしてぞいそぎける所々方々と尋ぬれど行衞ゆくゑは更にしれざりしが或日途中とちうにて兵助に出會であひしも六郎右衞門は天蓋てんがいかふりし故兵助は夫ともしら行過ゆきすぎんとせしに一陣のかぜふき來り天蓋を吹落ふきおとしければ思はず兩人はかほ見合みあはせける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずやわがかく零落れいらくせしも皆汝が仕業しわざぞとかたはらにある竿竹さをだけとつて突て掛る六郎右衞門も心得こゝろえたりと身をかはし汝此地に來りしときゝ渺々はる〴〵尋ねし甲斐かひあつ祝着しうちやくなり無念をはらす時いたれり覺悟かくごせよといひさま替の筒脇差つゝわきざしにて切かゝり互ひにおとらず切結きりむすびしが六郎右衞門がいらつて打込うちこむ脇差にて竿竹さをだけを手元五尺ばかはすかけに切落きりおとせり兵助は心得たりと飛込とびこみそのはすかけにきられし棹竹にて六郎右衞門が脇腹わきばら目掛めがけ突込つきこんだり六郎右衞門は堪得たまりえず其處にだうとぞたふれたり兵助立寄たちより六郎右衞門がもちし脇差にて最期刀とゞめをさし無念ははらしたれど今は此地に住居はならじと直樣すぐさま此處を立去たちさり是よりは名を嘉傳次かでんじあらため大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊はいくわいめぐり〳〵て和歌山わかやまの平野村と云へる所にいたりける此平野村に當山派たうざんは修驗しゆけん感應院かんおうゐんといふ山伏やまぶしありしが此人甚だ世話好せわずきにて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次にむかひ申けるは和歌山の城下に片町かたまちといふあり其處に夫婦に娘一人あり親子三人暮さんにんぐらしの醫師なりしが近頃兩親共に熱病ねつびやうにて死去し娘ばかりぞのこれり貴公きこう其所へ養子に行て手習てならひ指南しなんでもせばよろしからんといふ嘉傳次是をきゝ成程なるほど何時いつ迄當院の厄介やくかいなつても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして早速さつそくかの片町の醫師方へゆきみぎはなしをなしもし御承知なら御世話せんといふに此時娘も兩親ふたおやはなれ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故相談さうだんとみ取極とりきまりて感應院は日柄ひがらえらみ首尾よく祝言しうげんをぞ取結とりむすばせける夫より夫婦なかむつましく暮しけるが幾程いくほどもなく妻は懷妊くわいにんなし嘉傳次はほか家業なりはひもなき事なれば手跡しゆせきの指南なしかたは膏藥かうやくなどねりうりける月日早くも押移おしうつ十月とつき滿みちて頃は寶永二年いぬ三月十五日のこく安産あんざんし玉の如き男子出生しゆつしやうしける嘉傳次夫婦がよろこび大方ならずほどなく七夜しちやにも成りければ名をば玉之助たまのすけなづ掌中たなそこの玉といつくしみそだてけるしかるに妻は産後の肥立ひだちあし荏苒ぶら〳〵わづらひしが秋の末に至りては追々疲勞ひらうつひ泉下せんかの客とはなりけり嘉傳次の悲歎ひたんは更なりをさなきものを殘しおき力に思ふ妻に別れし事なれば餘所よそ見目みるめ可哀いぢらしく哀れと云ふも餘りあり斯くてあるべき事ならねばそれ相應さうおう野邊のべの送りをいとな七日々々なぬか〳〵追善供養つゐぜんくやうも心の及ぶだけはつとめしが何分男の手一ツでをさなき者の養育やういく當惑たうわくひるは漸く近所きんじよとなりもらちゝなどしよる摺粉すりこを與へ孤子みなしごなればとて只管ひたすら不便ふびんに思ひやしなひけり扨て玉之助も年月のたつに從ひ成長せいちやうしければ最早もはや牛馬にもふまれじと嘉傳次も少しく安堵あんど益々ます〳〵成長の末をいのりし親の心ぞせつなけれ其夏の事とか嘉傳次は傷寒しやうかんわづらひ心のかぎり藥用はすれども更に其驗そのしるしなく次第々々に病氣のおもるのみなれば或日嘉傳次は感應院を病床びやうしやうまねき重きまくらあげさて申けるは抑々そも〳〵私しが當國につゑを止めしより尊院の御厚情ごこうじやうあづかりし其恩をしやし奉つらずして此度の病氣とて全快ぜんくわい覺束おぼつかなし何卒此上とも我なきあとの玉之助が事ひとへに頼みまゐらするとなみだながらにのべにける感應院は逐一ちくいちに承知し玉之助の事は必ず氣にかけられな萬一もしもの事あらば拙者が方へ引取ひきとつ世話せわつかはすべし左樣の事はあんじずすこしも早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなどすゝめければ嘉傳次は感應院を伏拜ふしをがみ世にもうれしげに見えにけるが其夜そのよ嘉傳次はひとりの玉之助を跡に殘しおく先立さきだつならひとは云ひながらゆふべつゆ消行きえゆきしは哀れはかなかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の死骸なきがらをばかたの如く菩提寺ぼだいじはうむわづかなる家財かざい調度てうど賣代うりしろなし夫婦が追善のれうとして菩提寺へをさ何呉なにくれとなく取賄とりまかないと信實しんじつに世話しけりされば村の人々も嘉傳次がを哀み感應院のあつなさけかんじけるとかや


第五回


 光陰くわういんは矢よりも早く流るゝ水にさもたり正徳元年辛卯年かのとうどしれり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ引取ひきとられ弟子となり名をば寶澤はうたくと改めける感應院は元より妻も子もなく獨身どくしんの事なる故に寶澤を實子じつしの如くいつくしみてそだてけるが此寶澤はうまれながらにして才智さいち人にすぐ發明はつめいの性質なれば讀經どくきやういふおよばず其他何くれとをしゆるに一を示して十をさとるの敏才びんさいあれば師匠ししやうの感應院もすゑ頼母たのもしく思ひわけて大事に教へやしなひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の智慧ちゑありて手習は勿論もちろん素讀そどくにも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお三婆さんばゝとは懇意こんいにしけるが或時寶澤をよびて申けるは其方そち行衣ぎやうえ其外ともあかつきし物をもちお三婆の方へ參り洗濯せんたくを頼み參るべしと云付られ元來寶澤は人懷ひとなづきのよき生れなれば諸人みな可愛かあいがる内にもお三婆は取分とりわけ寶澤を孤子也みなしごなりとていつくしみうまき食物などの有ば常に殘し置てつかはしなどしける此日師匠の用事にて來りけるをりから冬の事にて婆は圍爐裡ゐろりあたりゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて此寒このさぶいに御苦勞ごくらうなり此爐このろの火のぬくければしばらあたゝまりて行給ゆきたまへといふに寶澤は喜びさらば少時間すこしのまあたりて行んとやが圍爐裡端ゐろりばたへ寄て四方山よもやまはなしせしついで婆のいふやうは今年ことし幾歳いくつなるやと問ふに寶澤ははだくつろげかけまもり袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年三月十五日の夜こく出生しゆつしやうしるありければ指折算ゆびをりかぞへ見るに當年ちやうど十一歳なりわすれもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆はしきり落涙らくるゐしテモ御身は仕合しあはせ物なりとて寶澤がかほを打守りしみ〳〵悲歎ひたんの有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきにそれを仕合とは何事ぞや當歳たうさいにてうみの母に死別しにわか七歳なゝつの年には父にさへしなれ師匠のめぐみ養育やういくせられ漸く成長はしたるなりかくはかなき身を仕合とは又何故にお前は其樣になげき給ふぞとたづねけるお三婆はおつる涙を押拭おしぬぐひ成程お身の云ふ通り早く兩親にわか師匠樣ししやうさま養育やういくにて人となれば不仕合の樣なれ共併しさう達者たつしやで成長せしは何よりの仕合なりわけいへば此婆が娘のうみし御子樣當年まで御存命ごぞんめいならばちやうどお身と同じとしにて寶永三戌年いぬとししかも三月十五日子の刻の御出生なりしとかたり又もなみだに暮るてい合點がてんのゆかぬ惇言くりことと思へば扨はお前のお娘のうみまごありて幼年にはてられしやは又如何なる人の子にてありしぞととふに婆は彌々いよ〳〵涙にくれながらも語り出るやうわしさはといふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃將監樣しやうげんさまに徳太郎樣と申す太守樣たいしゆさまの若君が御預おあづかりにてわたらせ給へり其若君が早晩いつか澤の井に御手を付け給ひ御胤おたね宿やどしたれど人に知らせず婆がもと呼取よびとりしも太守樣の若君樣が御胤おたねなればひそかに御男子が御出生あれと朝夕あさゆふ神佛かみほとけいの甲斐かひにや安産せしは前にも云へる如く御身と年月刻限こくげんまで同じ寶永二年の三月十五日よる子刻ねのこくなりき取揚とりあげみれば玉の如き男子なれば娘やばゝがよろこびは天へものぼる心地なりしが悦ぶ甲斐もあらなさけなや御誕生ごたんじやうの若君は其夜の明方あけがた無慘むざんあへなく御果成おんはてなされしにぞ澤の井は是をきくひとしく産後の血上り是もつゞきて翌朝よくあさ其若君の御跡したひ終にむなしく相果あひはてたりひとり殘りしばゝがかなしみ何にたとへん樣もなく扨も其後徳太郎樣には御運ごうん目出度めでたくましまし今の公方樣くばうさまとはならせ給ひたりされば娘のもち奉りて若君の今迄御無事にましまさば夫こそ天下樣の落胤おとしだねなれば此ばゝも綾錦あやにしきを身にまと何樣どのやうなる出世もなるはずを娘に別れ孫を失ひ寄邊よるべなぎさ捨小舟すてこぶねのかゝる島さへなきぞとわつばかりに泣沈なきしづめり寶澤は默然もくねんと此長物語を聞畢きゝをはに女はうぢなくて玉の輿こしうんあれおもひの外の事もあるものと心の内に思ふ色をおもてにはあらはさず夫は氣の毒にもをしき事なりしかし夫には證據しようこでも有ての事か覺束おぼつかなし孫君の將軍の落胤らくいんでもたやすく出世は出來まじ過去すぎさりし事はあきらめ玉へとすかなだむればばゝは此言葉ことばきゝいしくも申されたりをさなくして兩親ふたおやはなるゝ者は格別かくべつに發明なりとか婆も今は浮世にのぞみのつなきれたれば只其日々々を送り暮せどはからずも孫君まごぎみと同年ときゝ思はず愚痴ぐちこぼしたりさて干支えとのよくそろひ生れとて今まで人にしめさざりしが證據しようこといふ品見すべしと婆はかたへのふる葛籠つゞら彼二品かのふたしなを取出せば寶澤は手に取上とりあげまづ短刀たんたう熟々つく〴〵見るに其結構けつこうなるこしらへはまがふ方なき高貴の御品次に御墨付すみつきおしひら拜見はいけんするに如樣いかさま徳太郎君の御直筆おぢきひつとは見えけることわざに云へる事ありじやは一寸にして人をかむの氣ありとらは生れながらにしてうしくらふの勢ひありとか寶澤は心中に偖々さて〳〵ばゝめがよき貨物しろものを持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の落胤らくいん名乘なのつて出なば分地でもぐらゐ萬一もし極運きやくうんかなふ時はとやつと當年十一のこゝ惡念あくねんおこしけるはおそろしとも又たぐひなし寶澤は此事を心中に深くし其時は然氣さりげなく感應院へぞ歸りけるさてよく年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし師匠ししやう感應院のともして和歌山の城下なる藥種屋市右衞門やくしゆやいちゑもん方へ參りけるに感應院はおくにて祈祷の内寶澤はみせに來り番頭ばんとう若者もみな心安こゝろやすければ種々さま〴〵はなしなどして居たりしかるに此日は藥種屋にて土藏の蟲干むしぼしなりければ寶澤もくら二階にかいへ上りて見物せしがつひに見もなれざる品を數々かず〴〵ならべたるかたへには半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤そばよせて色々藥種の名をきけば半兵衞も懇篤ねんごろに教へける中にはるはなして一段高き所につぼ三ツならべたり寶澤ゆびさし彼壺は何といふ藥種の入ありやとたづねければ半兵衞のいふやうあれこそ斑猫はんめう砒霜石ひさうせきと云ふ物なるが大毒藥だいどくやくなれば心して斯はとほくに離したりときいきもふとき寶澤はわざと顏をしかめテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞしめしたり折節をりふししたより午飯の案内あんないに半兵衞はしばし頼みまする緩々ゆる〳〵見物せられよと寶澤をのこし己はめしくひにぞ下りけり跡には寶澤たゞ一人熟々つら〳〵思ひめぐらせばいまの二品をぬすかば用ゆる時節はこれかうと心の中に點頭うなづきつゝやが懷中紙くわいちうがみを口にくはへ毒藥のつぼ取卸とりおろし彼中なる二品を一かけづつ紙につゝみ盜取ぬすみとりあともとの如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを待居まちゐたり半兵衞はやがて歸り來り偖々さて〳〵御太儀なりしお小僧にも臺所だいどこへ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤はうれ下行おりゆき食事もをはりける頃感應院も祈祷きたうを仕舞ひければ寶澤もともして歸りぬ彼盜取かのぬすみとりし毒藥はひそかに臺所のえんの下の土中どちうへ深くうづめ折をまつて用ひんとたくむ心ぞおそろしけれ


第六回


 ころ享保きやうほ丙申ひのえさるしも月十六日の事なりし此日はよひより大雪おほゆきふりて殊の外にさぶき日なりし修驗者しゆげんじや感應院には或人よりさけ二升をもらひしに感應院はもとより酒をすこしも用ひねば此酒は近所きんじよ懇意こんいの者に分與わけあたへける寶澤はうたく師匠ししやうに向ひ申やうは何卒なにとぞ那酒あのさけを少し私しへ下さるべしとこひけるに感應院其方そのはうのむならば勝手かつてに呑べしと云ふ否々いや〳〵私しはいかでか酒は用ひ申べきお三婆さんばゝは常々私しを可愛かあいがりれ候へば少しいたゞきてかれに呑せたしといふ感應院これを聞てよくこそ心付たれ我はばゝの事に心付ざりし隨分ずゐぶん澤山たくさんつかはせと有ければ寶澤は大いによろこ早速さつそく酒を徳利へうつさかなをば竹の皮につゝ降積ふりつもりたる大雪おほゆき踏分々々ふみわけ〳〵彼お三婆のかたいたりぬ今日はけしからぬ大雪にて戸口とぐちへも出られずさぞ寒からんと存じ師匠樣ししやうさまよりもらひし酒を寒凌さぶさしのぎにもと少しなれど持來もちきたりしとてくだん徳利とくり竹皮包かはづつみ差出さしいだせばお三婆は圍爐裡ゐろりはたに火をたきたりしが是をきいて大きに悦びよくも〳〵此大雪をいとは深切しんせつにも持來り給へりと麁朶そだをりくべて寶澤をも爐端ろばたへ坐らせ元よりすきの酒なればすぐかんをなし茶碗ちやわんつぎした打鳴うちならし呑ける程にむねに一物ある寶澤はしやくなど致し種々とすゝめける婆は好物かうぶつの酒なれば勸めに隨ひ辭儀じぎもせず呑ければ漸次しだいよひ出て今は正體しやうたいなく醉臥ゑひふしたり寶澤熟々此體このていを見て心中に點頭うなづき時分はよしと獨り微笑ほゝゑあたりを見廻せばかべに一筋の細引ほそびきを掛て有に是屈竟くつきやう取卸とりおろし前後も知らず寢入ねいりしばゝが首にまとひ難なくくゝり殺しかね認置みおきし二品をうばとり首に纒ひし細引ほそびきはづし元の如くかべにかけ圍爐裡ゐろりほとりには茶碗ちやわん又はさかなを少々取並とりならおき死したるお三婆がからだ圍爐裡ゐろりの火の中へ押込おしこみ如何にも酒に醉潰ゑひつぶころげ込で燒死やけじにたる樣にこしらへたれば知者しるもの更になし寶澤はあらぬていにて感應院へかへり師匠へもばゝがあつれいを申せしと其場を取繕とりつくろ何喰なにくはぬ顏して有しに其日の夕暮ゆふぐれに何とやらんあやしきにほひのするに近所きんじよの人々寄集よりあつまりて何のにほひやらん雪の中にて場所も分らず種々さま〴〵評議に及びかゝる時には何時いつも第一番にお三ばゝが出來いできた世話せわをやくに今日けふは如何せしや出來いでこぬは不思議なりとてさゝやきけるこゝ名主なぬし甚左衞門のせがれがフト心付お三ばゞの方へいたり戸を押明おしあけて見ればそも如何いかにお三ばゝは圍爐裡ゐろりの中へかしら差込さしこみ死し居たりにほひの此處よりおこりしなれば大いにおどろき一同へおや甚左衞門へも此事をつうじけるに名主も駈來かけきた四邊あたり近所きんじよの者も追々おひ〳〵あつまり改め見れば何樣いかさま酒に醉倒ゑひたふ轉込まろびこみ死したるに相違さうゐなきていなりと評議一決し翌日よくじつ此趣このおもむきをこほり奉行へとゞけければ早速さつそく檢使けんしの役人も來りあらため見しに間違もなき動靜やうす成ば名主始め村中むらぢう口書くちがきとられ大酒に醉伏ゑひふし燒死やけじにたるに相違なき由にて其場は相濟あひすみたり是に依て村中評議ひやうぎの上にてお三ばゝの死骸しがいは近所の者共請取うけとり菩提寺ぼだいじへぞはうむりける隣家りんかのお清婆きよばゝと云は常々お三ばゝと懇意こんいなりければ横死わうしを聞て殊更ことさら悲歎ひたんの思ひをなし昨日きのふの大雪にて一度もたづねざりしゆゑ此事をしらざりしぞ不便ふびんなれとてなげきけるとぞ是より日々はか參詣さんけいして香花かうげ手向たむけける扨も寶澤はお三ばゝを縊殺しめころかのしなうばとり旨々うま〳〵打點頭うちうなづき此後はわれ成長せいちやうして此品々を證據しようことし公方樣くばうさま落胤おとしだねと申上なば御三家同樣夫程迄それほどまでならぬも會津家あひづけぐらゐの大名には成べししかしながら將軍の落胤おとしだねなりとあざむく時は如何なる者をもあざむおほすべけれどもこゝに一ツの難儀なんぎといふは師匠ししやうの口から彼者は幼年えうねんの内斯樣々々かやう〳〵にて某し養育やういくせし者なりと云るゝ時は折角せつかくたくみも急ちやぶるゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が其間そのあひだ養育の恩は須彌しゆみよりも高く滄海さうかいよりも深しと雖ども我大望わがたいまうには替難かへがたし此上は是非に及ばず不便ふびんながらも師匠の感應院をころたれしらぬ樣になし成人せいじんの後に名乘出なのりいづべしと心ふとくも十二歳の時はじめおこ大望たいもうの志ざしこそおそろしけれ既に其歳もくれて十二月十九日となりければ感應院には今日けふは天氣もよければ煤拂すゝはらひをせんものと未明みめいより下男げなん善助相手あひてとし寶澤にも院内ゐんない掃除さうぢさせけるがやゝ片付かたづきて暮方になりはやのこる方なく掃除さうぢ仕舞しまひければ善助は食事しよくじ支度したくをなし寶澤は神前の油道具あぶらだうぐを掃除しけるが下男げなんの善助は最早もはや膳部ぜんぶも出來たれば寶澤に申ける御膳ごぜんも出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりとかねたくみし事なれば今われ給仕きふじしては後々のさはりに成んと思ひければ善助にむかひ我は油手あぶらてなれば其方給仕きふじして上られよとたのむに何心なき善助は承知していまみづくみて後に御膳ごぜんを差上べしといひおもての方へ出行たりあとに寶澤は手早く此夏中このなつちうえんの下へ埋置うづめおき二品ふたしな毒藥どくやくを取出し平としるの中へ附木つけぎにてすくこみ何知ぬていにて元の處へ來り油掃除あぶらさうぢして居たりけり善助はいかで斯る事と知るべき水を汲終くみをはり神ならぬ身の是非ぜひもなや感應院の前へ彼膳部かのぜんぶを持出し給仕をぞなし居たり感應院が食事しよくじ仕果しはてし頃を計り寶澤も油掃除あぶらさうぢなしはて臺所だいところへ入來り下男げなん倶々とも〴〵食事をぞなしぬむねに一物ある寶澤が院主ゐんしゆの方をひそかにうかゞふに何事もなしさて不審ふしんとは心に思へど色にもあらはさずすでに其夜も五ツ時と思ふころ毒藥どくやくかう總身そうしんに廻り感應院はにはかに七てんたうしてくるしみ出せば寶澤はさもおどろきたる體にてなきながらまづ近所の者へ知せける土地ところの者共おどろあわ早速さつそく名主なぬしへ知せければ名主も駈付かけつけ醫者いしやくすりさわぎしに全く食滯しよくたいならんなど云まゝ寶澤は心には可笑をかしけれど樣々介抱かいはうなしゐしがおびただしくはいつひに其夜の九ツ時に感應院はあさましき最期さいごをこそとげたりける名主を始め種々しゆ〴〵詮議せんぎすれば煤掃すゝはき膳部ぜんぶより外に何にもたべずとの事なりよつて膳部を調しらぶれども更にあやしき事なければ彌々いよ〳〵食滯しよくたいと決し感應院の死骸しがいは村中よりあつまり形の如く野邊のべおくりを取行ひけるさて此平野村には感應院よりほか修驗しゆげんもなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ差支さしつかへなりと名主甚左衞門は感應院へ村中の者をあつさて相談さうだんに及ぶは此度このたび不圖はからづも感應院の横死わうしせしが子迚ことても無ればあと相續さうぞくさすべき者なしさりとて何時迄いつまでも當院を無住むぢうにもて置れず我思ふには年こそゆかねど寶澤は七歳の時より感應院が手元てもとにて修行しゆぎやうせし者なりことには外の子供とちが發明はつめいなる性質せいしつにて法印ほふいん眞似事まねごと最早もはや差支さしつかへなし我等始め村中が世話せわしてやらば相續さうぞくとして差支さしつかへなしすれば先住せんぢう感應院に於てもさぞかし草葉くさばかげより喜び申すべし此儀如何とのべければ名主なぬしどのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の手元てもとそだち殊には利發りはつ愛敬者あいきやうものなり誰か違背いはいすべきいづれも其儀然るべしと相談さうだんこゝに決したり


第七回


 かくて名主甚左衞門は寶澤をまねき申渡しける樣はさて先達せんだつて師匠の死去しきよせしより當村に山伏やまぶしなしかつまた感應院には子もなければ相續さうぞくすべき者なし依て今日村中を呼寄よびよせ相談に及びしは其方は幼年えうねんなれども感應院の手許てもとにて教導けうだうを受し事なれば可なりに修驗しゆけん眞似まねは出來べし我々始め村中より世話せわをすれば師匠感應院の後住ごぢうにせんと村中相談一けつしたり左樣に心得こゝろえべしと申渡せば寶澤はうたくつゝしんで承はり答へけるは師匠感應院の跡目あとめ相續致し候樣と貴殿きでんを始め村中のあつき思しめしの程は有難ありがたく幼年のわたくしの身に取ては此上もなき仕合しあはせに存じ奉つり早速さつそく御受すべき處なれど師匠ししやう存命中ぞんめいちう申聞せ候にはおよそ山伏やまぶしと云者は日本國中の靈山れいざん靈場れいぢやうめぐ難行苦行なんぎやうくぎやうをなし或はし山にし修行をする故に山伏やまぶしとは申なりさてまた山伏の宗派しうはといツパ則ち三わかれたり三派と云は天台宗てんだいしうにて聖護院宮しやうごゐんみやを以て本寺となしたう眞言宗しんごんしうにて醍醐だいご寶院はうゐんの宮を本山とす出羽國ではのくに羽黒山派はぐろさんは天台宗てんだいしうにて東叡山とうえいざん品親王ぽんしんわうを以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山しよざん修行しゆぎやう修學しゆがくの名にて難行苦行なんぎやうくぎやうをして野に伏し山に宿しゆく戒行かいぎやうはげむゆゑに山伏といふ又修驗しゆけんといツパ其修行そのしゆぎやう終り修行滿みちたる後の本學ほんがくとあれば難行苦行をなし修行しゆぎやうをはりて後の本名ほんみやうなりかるがゆゑに十かい輪宗りんしう嘲言てうげんてつすればいとふべき肉食にくじきなし兩部りやうぶ不二の法水をなむればきらふべき淫慾いんよくなしと立るはふなり三寶院は聖護大僧正しやうごだいそうじやう宗祖しうそとし聖護院は坊譽大僧正ばうよだいそうじやう宗祖しうそとするなり然どもいづれ開山かいざんと申は三派ともにえん小角せうかくが開き給ひしなりさて亦山伏が補任ほにん次第しだい

小阿闍梨こあじやり 大々法印だい〳〵ほふいん 金蘭院こんらんゐん 律師りつし 大越家たいえつか 一山大先達いつさんたいせんだつ 内議僧ないぎそう 院號ゐんがう 坊號笈籠ばうがうきふこ 權大僧都ごんだいそうづ

七道具なゝつだうぐ左之とほり

篠掛すゞかけ 摺袴すりはかま 磨紫金ましきん 兜巾ときん かひ 貝詰かひつめ 護摩刀ごまたう

ひやうに曰此護摩刀ごまたうのことは柴刀さいたうとも申よしこれは聖護院三寶院の宮樣みやさま山入やまいりせつ諸國の修驗しゆけん先供さきどもの節しば切拂きりはらひ護摩ごま場所ばしよこしらへる故に是を柴刀さいたうとも云なり

かくの如く山伏にはむづかしき事の御座候よし兼て師匠ししやうより聞及び候に私事は未だ若年じやくねんにて師匠の跡目あとめ相續の儀は過分くわぶんの儀なれば修驗のはふを一向にわきまへずして感應院後住ごぢうの儀は存じもよらず爰にさればひとつの御願ひあり何卒當年たうねんより五ヶ年の間諸國修行致し諸寺しよじ諸山しよざん靈場れいぢやうふみ難行苦行を致しまことの修驗と相成て後當村へかへり其時にこそ師匠ししやう感應院の院を續度つぎたく存ずるなりあはれ此儀を御許おんゆるし下され度夫迄それまでの内は感應院へはよろしき代りを御いれおき下され度凡五ヶ年もすぎ候はゞ私し事屹度きつと相戻あひもどりますれば何卒相替あひかはらず御世話おせわ下されたし尤とも此事は師匠存命ぞんめいの内にも度々相願あひねがひしかども師匠はわたくしをいつくしむの餘り片時へんじそばを離すをきらひて幼年なれば今四五年も相待あひまつべしととゞめ候故本意ほんいなくは思へども師匠の仰せ默止難もだしがたく是迄は打過うちすぎ候なり此度こそさいはひに日頃の宿願しゆくぐわんはたすべき時なり何卒此儀このぎをおゆるし下されと幼年に似合にあはず思ひ入たる有樣ありさまに聞居る名主をはじ村中むらぢうの者は只管ひたすら感心かんしんするより外なく皆々口をとぢて控へたり此時名主なぬし甚左衞門進出て申す樣只今願のおもむ委細ゐさい承知しようち致したり扨々驚き入たる心底しんてい幼年には勝りし發明はつめい天晴あつぱれの心立なり斯迄思込おもひこみし事をむざ〳〵押止おしとゞめんも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年すぎて歸り來るまでは感應院へは留守居るすゐを置べし相違さうゐなく五ヶ年の修行しゆぎやうげ是非とも歸り來り師匠ししやうの跡目をつぎ給へとて名主をはじめ村中も倶々とも〴〵すゝめて止ざりけりさても寶澤は願ひの如き身となりたび用意よういもそこ〳〵にいとなみければ村中より餞別せんべつとして百文二百文分におうじておくられしにちりつもりて山のたとへ集りし金は都合八兩貳とぞ成にける其外には濱村はまむらざしの風呂敷ふろしき或は柳庫裏やなぎごり笈笠おひがさくもしぼり襦袢じゆばんなど思々の餞別せんべつに支度は十分なれば寶澤はさも有難げに押戴おしいたゞき幼年よりの好誼よしみと此程のあさからぬ餞別重々ぢう〳〵有難き仕合しあはせと恩をしやしいよ〳〵明日の早天さうてん出立しゆつたつ致す故御暇乞いとまごひに參り候なりと村中へ暇乞にまはれり此時寶澤はやうやく十四歳の少年なり頃は享保きやうほいぬ年二月二日成し幼年えうねんより住馴すみなれし土地をはなるゝはかなしけれど是も修行しゆぎやうなれば決して御案おあんじ下さるなとて空々敷そら〴〵しく辭儀じぎをなし一先感應院へ歸り下男げなん善助に向ひ明朝あした早く出立すれば何卒握飯にぎりめしを三ツ許りこしらへ呉よと頼み置き床房ふしどへ入てやすみける其夜丑滿うしみつの頃に起出おきいでて彼の握り飯を懷中くわいちうなし兼て奪取うばひとりし二品を所持しよぢし最早夜明に程近ほどちか緩々ゆる〳〵と行べしと下男善助に暇乞し感應院をぞ立出たちいでたりなれしみちとてやみをもいとはずたどり行に漸々と紀州加田浦かだのうらいたる頃は夜はほの〴〵と明掛あけかゝりたり寶澤は一休ひとやすみせんと傍の石にこし打掛うちかけ暫く休みながらむかうを見れば白きいぬぴき臥居ふしゐたり寶澤は近付ちかづき彼の握飯にぎりめしを取出しあたへければ犬は尾をふりよろこ喰居くひゐるを首筋くびすぢつかんでえいやつてなげつけ起しもたゝず用意の小刀こがたなを取出し急所きふしよをグサと刺通さしとほせば犬は敢なくたふれたり寶澤は謀計はかりごと成りと犬の血をおのれが手に塗付ぬりつけ笈笠おひがさへ手の跡を幾許いくつとなくなすり付又餞別にもらひし襦袢じゆばん風呂敷ふろしきへも血を塗てたる衣服いふくの所々を切裂きりさきこれへも血を夥多したゝか塗付ぬりつけたれが見ても盜賊たうぞくに切殺れたるていこしらへ扨犬の死骸しがいおもりを付て海へしづめ其身は用意の伊勢參宮いせまゐり姿すがたに改め彼二しな莚包むしろづゝみとして背負せお柄杓ひしやくを持て其場を足早あしばやに立去しはおそろしくもまたたくみなるくはだてなり稍五ツ時頃に獵師れふしの傳九郎といふが見付みつけ取散せし笈摺おひずる并に菅笠すげがさを見れば血にまみれたる樣子は全たく人殺ひとごろしにてからだは海へ投込なげこまれしなるべしと早速さつそく土地ところの名主へとゞけゝれば年寄等としよりらが來りあらためしに死骸しがいは見えねども人殺しに相違さうゐなければ等閑なほざりならぬ大事なりと此段このだん奉行所へも屆出とゞけいでしにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共馳來はせきたれり此品々を見れば一々寶澤へ餞別せんべつつかはしたる品に相違さうゐなし依て平野村の者より右の次第を濱奉行にうつたへ私し共見覺みおぼえある次第をのべ村方感應院と申す山伏やまぶしが昨今病死びやうしし其弟子でしたう十四歳なる者五ヶ年間諸國修行しよこくしゆぎやうの願にて昨日出立につき村中よりせんべつつかはしたる金子は八兩貳あり此品々も跡々あと〳〵よりおくりものなり幼年にて多分たぶんの金子を所持しよぢし候を見付られかく仕合しあはせ全くぞくの爲に切害せつがいせられ候なるべしと申上ければ濱奉行はまぶぎやうも是をきゝ如何樣盜賊たうぞく所爲しよゐなるべし此品々は其方共へもどわけには參らず欠所藏けつしよぐらへ入置るゝなり何分にも不便ふびんの至りなりとて其場は相濟あひすみたりさても寶澤は加田浦にて盜賊たうぞくに殺され不便の者なりとて師匠ししやう感應院の石塔せきたふそばかたばかりのはかを立てられ村中替々かはる〴〵香花かうげ手向たむけあと念頃ねんごろとふらひけるとなん


第八回


 寶澤は盜賊たうぞく殺害せつがいされしていこしらへ事十分調とゝのひぬと身は伊勢參宮いせまゐり姿なりやつし一先九州へ下り何所いづかたにても足を止め幼顏をさながほうしなひて後に名乘なのり出んものと心は早くも定めたりまづ大坂へいで夫より便船びんせんを求めて九州へおもふかんと大坂にて兩三日逗留とうりうし所々を見物けんぶつ藝州迄げいしうまで便船びんせんあるを聞出きゝだして此を頼み乘しが順風じゆんぷうなれば日ならずして廣島の地にちやくせしかば先廣島を一けんせんと上陸じやうりくをぞなしにける抑々そも〳〵此廣島は大坂より海上かいじやう百里餘にて當所たうしよ嚴島いつくしま大明神だいみやうじんと申は推古天皇すゐこてんわうの五年に出現しゆつげんましませし神なり社領しやりやう千石あり毎月六日十六日祭禮さいれいなり其外三女神によじんの傳あり七濱なゝはま七夷等なゝえびすとうまはり夫より所々を見物けんぶつしける内一ぴき鹿しか追駈おつかけしが鹿のにぐるに寶澤は何地迄いづくまでもと思あとをしたひしもつひに鹿は見失ひ四方あたり見廻みめぐらせば遠近をちこちの山のさくら今をさかりと咲亂さきみだれえも云れぬ景色けしきに寶澤は茫然ばうぜんと暫し木蔭こかげやすらひてながめ居たり此時はるかむかうより年頃四十ばかりの男編綴へんてつといふをまと歩行あゆみ來りしがあやしやと思ひけん寶澤に向ひて名をふ寶澤こたへて我は徳川無名丸むめいまると申す者なり繼母けいぼ讒言ざんげんにより斯は獨旅ひとりたびを致す者なり又其もとは何人にやとたづかへせば彼者かのもの芝原しばはらへ手をつかへ申けるは徳川と名乘なのらせ給ふにはさだめて仔細しさいある御方なるべしそれがし事は信濃國諏訪すはの者にて遠州屋ゑんしうや彌次六と申し鵞湖散人がこさんじんまた南齋なんさいとも名乘候下諏訪しもすは旅籠屋はたごや渡世とせい仕つれり若も信州邊しんしうへんへ御下りに成ば見苦みぐるしくとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は打點頭うちうなづきさては左樣の人なるかそれがしも此度よんどころなき事にて九州へ下るなれ共此用向のすみ次第しだいに是非とも關東くわんとうへ下向の心得なれば其節そのせつは立寄申べしと契約けいやくし其場はわかれたりさて寶澤は九州徊歴くわいれき肥後國ひごのくに熊本の城下じやうかに到りぬこゝは名におふ五十四萬石なる細川家ほそかはけの城下なれば他所とはかは繁昌はんじやうの地なり寶澤は既に路用ろようつかひ盡しはや一錢もなくなりいと空腹くうふくに成しに折節をりふし餠屋もちや店先みせさきなりしがたゝずみて手の内を乞としばしえんもとやすらひぬ餠屋もちやの店には亭主ていしゆと思しき男の居たりしかば寶澤其男にむかひ申けるは私しは腹痛ふくつう致し甚だ難澁なんじふ致せばくすりのみたし御面倒樣めんだうさまながら素湯さゆ一ツ下されとこひけるにぞ其男は家内かないに云付心よく茶碗ちやわんへ湯をくみて與へたり寶澤は押戴おしいたゞ懷中くわいちうより何やらん取出してのむ眞似まねせり此時以前のをとこ寶澤に向ひ尋けるは其方は年もゆかぬに伊勢參宮いせまゐりと見受たり奇特きどくの事なりいづれの國のうまれなるやと問ふ思慮しりよふかき寶澤は紀州と名乘ば後々のち〳〵さはりなるべしと早くも心付わざいつはりて私しは信州のうまれにて候と云亭主ていしゆ此を聞てまゆひそめ信州と此熊本とは道程みちのり四五百里もへだたりぬらんに伊勢いせ參宮より何ゆゑ當國迄たうごくまでは參りしやと不審ふしんうた敏速さそくの寶澤は空泣そらなきしてさても私しの親父おや養子やうしにて母は私しが二ツの年病死びやうしし夫より養育やういく成長ひとゝなりしが十一歳の年に故郷こきやうの熊本へ行とてに私しをあづけ置て立出たちいでしが其後一向に歸り來らず然に昨年病死びやうしし殘るは私し一人と成りせめては今一度對面たいめんし度と存ず夫故に伊勢參宮より故郷こきやうあとにして遙々はる〴〵と父の故郷は熊本くまもとと聞海山うみやまこえて此處迄は參り候へ共何程いかほど尋ても未だ父の在所ありかしれ申さず何成いかなる過去くわこ惡縁あくえんにて斯は兩親にえんうす孤子みなしごとは成候かと潸然々々さめ〴〵泣沈なきしづめば餠屋もちやの亭主ももらなき偖々さて〳〵幼少えうせうにて氣の毒な不仕合ふしあはせ者かなとしきり不便ふびん彌増いやましさて云やう其方の父は熊本とばかりでは當所もひろ城下じやうかなれば分るまじ父の名は何と申し又商賣しやうばい何渡世なにとせいなるやと尋ねられ寶澤は泣々なく〳〵父は源兵衞と申し餠屋商賣もちやしやうばいなりと口より出任でまかせこたへければ亭主は是を實事まことと思ひ然らば我等と同職どうしよくなればくはしく尋る程ならばたとへ廣き御城下じやうかでも知ぬ事は有まじ今夜こんや此方このはうとまり明日未明みめいより餠屋仲間なかまを一々尋ね見るべし我も仲間帳面なかまちやうめん調しらやらんとて臺所へ上て休息きうそくさせけるさて其日もくれに及び夕飯ゆふはんなど與へられ夜に入て亭主は仲間帳面なかまちやうめんを取出し源兵衞といふ餠屋や有と繰返くりかへし改めしに茗荷屋みやうがや源兵衞と云があり是は近頃遠國ゑんごくより歸し人ときゝ及ぶさだめてこれならんと寶澤にも是由を云聞せ明朝みやうてうは其家に至り尋ぬべしと云れたり翌朝よくてう夫婦共に彼是と世話せわくだん茗荷屋みやうがや源兵衞の町所をくはし書認かきしたゝめて渡されしにぞ寶澤はわざうれしげに書付をもち茗荷屋へと出行いでゆきたり其夕暮ゆふぐれ寶澤には歸り來りいと白々しら〴〵しく今朝こんてう茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の親父おやぢにては是なきゆゑ夫より又々所々しよ〳〵尋ねたれ共相知申さずと悄々しほ〳〵として述ければ餠屋夫婦もどくに思ひ其夜もとめつかはし又翌朝よくてうも尋に出したれ共元來もとよりしれはずはなし其夜寶澤は亭主にむかひ申けるは扨々さて〳〵是迄あさからぬおなさけにて御城下じやうかあらまし尋ねたれども何分父の居所ゐどころ相知あひしれ申さず何時迄いつまであだに月日を送らんも勿體もつたいなし明日よりはもち背負せおひてお屋敷や又は町中まちぢうを賣ながら父を尋ね度ぞんずるなり此上のおなさけに此儀を御許おゆるくだされなば有難しと餘儀よぎなげに頼むに夫はよき思付おもひつきなり明日より左樣さやういたし心任こゝろまかせに父の在所ありかを尋ぬべしとて翌日より餠を背負せおはせて出せしに元より發明はつめいうまれなれば屋敷方やしきがたへ到りても人氣じんきを計り口にあふやうに如才じよさいなくあきなふゆゑに何時も一ツものこさずみなうり夕刻ゆふこくには歸り來り夫から又勝手かつて手傳てつだひなどするにぞ夫婦は大によろこ餠類もちるゐは毎日々々賣切うりきれて歸れば今はみせにて賣より寶澤がそとにてあきなふ方が多き程になり夫婦は宜者よきものつと名も吉之助と呼び實子じつしの如く寵愛ちようあいしけり或夜夫婦は寢物語ねものがたりに吉之助は年に似氣にげなき利口者りこうものにて何一ツ不足ふそくなき生れ付器量きりやうといひ人品迄よくもそろひし者なり我々に子なければ年頃神佛しんぶついのりし誠心せいしんを神佛の感應かんおうまし〳〵天よりして養子やうしにせよと授け給ひし者成べし此家をつがせん者末頼母すゑたのもしと語合かたらふを吉之助ひそかに聞て心の内に冷笑あざわらへど時節をまつには屈強くつきやう腰掛こしかけなりと心中に點頭うなづきこれよりはべつして萬事に氣をつけ何事も失費しつぴなき樣にしていさゝかでも利分をつけ晝夜ちうやとなく駈廻かけまははたらく程に夫婦は又なき者といつくしみける扨も此餠屋このもちやと云は國主こくしゆ細川家の御買物方の御用達ようたしにて御城下にかくれもなき加納屋かなふや利兵衞とて巨萬きよまんの身代なる大家に數年來實體じつていに奉公をつと近年きんねん此餠屋の出店をだしもらひ夫婦とも稼暮かせぎくらす者なりフト吉之助の來てより家業かげふいそがしく大いに身代しんだいを仕出たり光陰くわういんの如く享保きやうほも七年とは成ぬ吉之助も當年たうねんは十八歳と成けり夫婦相談さうだんして當年の内には吉之助へも云聞いひきか良辰りやうしんを撰みて元服げんぷくさせ表向養子やうし披露ひろうもせんとて色々其用意よういなどしける處に或時本店ほんてんの加納屋より急使きふつかひ來り同道にて參るべしとの事故餠屋もちや亭主ていしゆは大いに驚き何事の出來せしやと取物とるものも取敢ずいそぎ本店へおもむきけるに利兵衞は餠屋をおくの一間へ呼入れ時候じこう挨拶あいさつをはり扨云やう今日其方をまねきしは別儀にも非ず此兩三年はお屋敷やしきの御用も殊の外鬧敷いそがしく相成ど店の者無人むにんにて何時も御用の間をかきはなはだこまり入が承まはれば其方に召仕めしつかふ吉之助とやらんは殊の外發明者はつめいものの由なり拙者方せつしやがた召使めしつかひたしとの事なるが何共迷惑めいわくに思ども主人のたのみなればいやとも云れずよんどころなく承知なし早々我家へ歸り女房にようばうにも此事を相談さうだんしければ妻も致し方なくやがて吉之助をび今日本店ほんてんよりの使は斯々にて本店ほんだな無人に付しばらくの内其方をかりたしとの事なり未だ其方にはなしは致さねども當年たうねんの内には元服げんぷくさせ養子にせんと思しも本店へ引取ひきとられては我が所存しよぞんむなしく殘念ざんねんなれども外々ならば如何樣にもことわり申すべきが本店の事なれば是非ぜひに及ばず明日よりは彼處かしこへ參り一しほ出精しゆつせいし奉公致しくれべしと申渡しければ吉之助は心中によろこび是ぞうん向處むかふところなりわれ大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にもせずわざ悄々しほ〳〵として是迄のあつ御高恩ごかうおんを報じもせずして他家たけに奉公致す事はまこと迷惑めいわくなれども御本店の事なればいたし方なしと誠に餘儀よぎなきてい挨拶あいさつをぞなしにける


第九回


 然程さるほどに吉之助は其翌日そのよくじつかの加納屋利兵衞方へ引移ひきうつり元服して名をば吉兵衞と改め出精しゆつせいして奉公しける程に利發者りはつものなれば物の用に立事古參こさんの者にまさりければ程なく番頭ばんとう三人の中にて吉兵衞きちべゑには一番上席じやうせきとなり毎日々々細川家ほそかはけ御館おやかたへ參り御用をたつしける萬事利發りはつ取廻とりまはしゆゑ重役衆ぢうやくしうには其樣にはからひ下役人へは賄賂わいろおく萬事ばんじ拔目ぬけめなきゆゑ上下こぞつて吉兵衞を贔屓ひいきし御用も追々多くなり今は利兵衞方りへゑかたにても吉兵衞なくてはかなはぬ樣に相成けり然共されども吉兵衞は少もたかぶらず傍輩はうばいなかむつましく古參こさんの者へはべつしてしたしみける故内外うちそと共に評判ひやうばんよく利兵衞がよろこび大方ならず無二者またなきものと思ひけりしかるに吉兵衞は熟々つら〳〵思案しあんするに最早もはや紀州を立退たちの夥多あまたの年をすごしたれば我幼顏わがをさながほも變りはて見知る者無るべしさらば兩三年の内には是非々々大望たいまうくはだてに取掛とりかゝるべし夫に付ては金子きんすなくては事成就じやうじゆがたし率や是よりは金子の調達てうだつに掛らん物をと筆先ふでさき十露盤玉そろばんだまにてかすめ始めしが主人は巨萬きよまんの身代なれば少しの金にはも付ずわづかに二年の内に金子きんす六十兩餘をかすり今は熊本に長居ながゐやくなし近々に此土地を立去たちさらんと心に思ひさだめける頃しも享保きやうほ巳年みどし十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分細川家ほそかはけの役所より請取うけとるべき事あり右の書付かきつけしたゝめ吉兵衞に其方此書付に裏印形うらいんぎやうを申請御金おかね會所くわいしよにて金子受取參るべしと云遣いひやりけるにぞ吉兵衞はかの書付を懷中くわいちうなしこゝ彌々いよ〳〵決心し兼て勝手かつてを知し事なれば御勘定ごかんぢやう部屋へやに到り右の書付かきつけを差出ければ役人は是をあらため見るに金四十七兩二歩とありやが調印てういんをなしわたされたり此部屋このへやに勘定役四五人ありて夫々に拂方はらひかたを改ため相違さうゐなければ役所にて金子何程なにほどぜに何貫文なんぐわんもん書付に引合せてわたさるべしと裏印うらいんなし其書を金方かねかたの役所へまはし金方にてはらひを渡す事なりいま吉兵衞が差出たる書付かきつけも役人があらた添書そへしよに右の通りしたゝ調印てういんしてわたしける此勘定部屋と金方役所かねかたやくしよとは其間三町をへだちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ行道ゆくみちにてくだんの書付を出し見るに〆高しめだか金四十七兩二分と有しかばひそかこしより矢立やたてを取出し人なきをうかゞひ四十の四のの上へ一畫いちくわくひいて百十七兩二歩となほし金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞御拂おんはらひくださるべしといふ役人やくにん請取うけとりあらたむるに勘定方かんぢやうかた添書そへしよ印形いんぎやうも相違なければやがて百十七兩二分の金子を吉兵衞にわたされたり吉兵衞は悠々いう〳〵と金子を改め一れいのべ懷中くわいちう歸宅きたくの上主人利兵衞へは四十七兩二歩をわたのこり六十兩はおのれものとし是迄に掠取かすめとりし金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ最早もはや長居ながゐは成難しと或日役所やくしよにてわざいさゝかの不調法ぶてうはふを仕出し主人へ申譯立難たちがたしとて書置かきおきしたゝ途中とちうより加納屋へとゞけ其身はすぐに熊本を立退たちのきまづ西濱さして急ぎゆけり此西濱と云はみなとにて九州第一の大湊おほみなとなり四國中國上方筋かみがたすぢへの大船はいづれも此西濱より出すとなりしかるに加納屋利兵衞方にて此度このたび天神丸てんじんまると名付し大船をつく極月ごくげつ廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸しんざうおろしをなし大坂へまはして一商賣ひとしやうばいせんつもりなりし此事はかねて吉兵衞も承知しようちの事なれば心に思ふ樣是より西濱にしはまに到り船頭せんどうあざむき天神丸の上乘うはのりして上方筋かみがたすぢおもふかんとむねたくみ足を早めて西濱にいたりければ天神丸ははや乘出のりいださん時なり吉兵衞は大音だいおんあげオヽイ〳〵と船をまねけば船頭せんどう杢右衞門もくゑもんが聞つけ何事ならんと端舟てんまおろして漕寄こぎよせ見れば當時本店ほんてんにて日の出の番頭ばんとう吉兵衞なれば杢右衞門もくゑもん慇懃いんぎんに是は〳〵番頭樣にはなに御用ごようにて御いでなされしやと尋ければ吉兵衞こたへ御前方おまへがたも兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄精心せいしんつくして奉公せし故御主人方ごしゆじんがたにても此兩三年は餘程の利分りぶんを得られたれば此度このたび旦那だんなおほせ別家べつけでも出しつかはすべきか幸ひ天神丸の新艘卸しんざうおろしなれば其方上乘うはのりして大坂へなり又は江戸へなり勝手かつてな所で一はたあぐべしとて手元金として七百兩をくだされたり若も商賣しやうばい都合つがふで不足なれば何程でも助力じよりきしてつかはさんと御主人のあつきお心入辭退じたいも成ず夫故かく火急くわきふの出立にて參りしなり今日より天神丸の上乘うはのり方と成り一まづ上方かみがたへ參るつもりなりと申ければ船頭せんどう杢右衞門は是をきいて大きによろこび是迄何事によらず御うんつよき吉兵衞樣の商賣初しやうばいはじめといひ天神丸の新艘卸しんざうおろ傍々かた〴〵以て御商賣しやうばい御利運ごりうんに疑ひなしお目出度めでたし〳〵といはひつゝ吉兵衞を端舟てんまのせて天神丸へぞ乘移のりうつしけりさて杢右衞門もくゑもんは十八人の水主かこ呼出よびだし一人一人に吉兵衞に引合ひきあはせ此度は番頭ばんとう吉兵衞樣御商賣のお手初てはじ新艘しんざうの天神丸の上乘成うはのりなさるゝとの事なり萬事ばんじ御利發ごりはつのお方なり正月三日のおいはひ番頭樣ばんとうさまおごり成ぞ皆々悦び候へと語りければ水主等かこらは皆々手をつい挨拶あいさつをぞなしたり其夜吉兵衞には酒肴しゆかう取寄とりよ船頭せんどうはじめ水主かこ十八人を饗應もてな酒宴しゆえんもよほしける明れば極月ごくづき廿九日此日は早天より晴渡はれわたり其上追手おつての風なれば船頭杢右衞門は水主共かこども出帆しゆつぱん用意よういをさせさらばとて西濱の港より友綱ともつなとき順風じゆんぷう眞帆まほ十分に引上ひきあげ走らせけるにぞ矢をる如く早くも中國四國の内海ないかい打過うちすぎ晝夜の差別さべつなくはしり晦日みそかの夜のこくごろとは成れり船頭せんどう杢右衞門はやうや日和ひよりを見て水主等かこらに此處は何所いづこおきなるやと尋けるに水主等はしかとは分らねど多分たぶん兵庫ひやうごおきなるべしと答けるにぞ杢右衞門もくゑもんは吉兵衞にむかひ番頭樣貴所あなたの御運のよきゆゑにたつた二日二夜で海路かいろを走り早攝州せつしう兵庫のみなとに參たり明朝みやうてうは元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式おぎしきを取行ひ四日には兵庫のみなとなり共大阪の川尻かはじりなり共思し召にまか着船ちやくせんすべしと云ふ吉兵衞熟々つら〳〵考ふるに今大阪へあがりても兵庫へつきても船頭せんどうが熊本へ歸り斯樣々々かやう〳〵はなさば加納屋利兵衞方より追手おつてを掛んも計難はかりがたし然ば一先とほ江戸表えどおもておもむきて事をはからふに如ずと思案し杢右衞門もくゑもんに向申けるは我種々いろ〳〵思案しあんせしが當時大阪よりは江戸表えどおもてかた繁昌はんじやうにて諸事便利べんりなれば一先江戸をめぐりて商賣しやうばいを仕たく思ふなり太儀たいぎながら天氣を見定みさだめ遠く江戸廻えどまはりしてもらひたしといふ杢右衞門はかしらをかき是迄の海上かいじやう深淺しんせんよくぞんじたれば水差みづさしも入らざりしが是から江戸への海上かいじやう當所たうしよにて水差をたのまでは叶ふまじといへば吉兵衞はそれは兎も角も船頭せんどうまかせなればよきやうはからひ給へとて其議に決し此所こゝにて水差をたのみ江戸まはりとぞ定めける


第十回


 享保十巳年みどしくれ明ればおなじき十一午年うまどしの元日天神丸てんじんまるには吉兵衞はじめ船頭杢右衞門もくゑもん水主かこ十八人水差みづさし一人都合つがふ二十一人にて元日の規式ぎしきを取行ひ三が日のあひだ酒宴しゆえんに日を暮しおのが樣々のげいつくしてきようをぞもよほしけるが三日もくれはや四日となりにける此日は早天さうてんより長閑のどかにて四方晴渡はれわたり海上青疊あをだたみを敷たる如くあをめきわたりければ吉兵衞も船頭せんどう船表ふなおもてへ出て四方をながなみしづかなる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫ひやうごおきを今日出帆しゆつぱんせんは如何といふ杢右衞門は最早もはや三が日の規式ぎしき相濟あひすみ殊に長閑のどかなるそらなれば御道理ごもつともなりとて水差みづさしを呼て只今番頭樣ばんとうさまより今日はことによき日和ひよりゆゑ出帆しゆつぱんすべしとの事なり我等も左樣さやうに存ずればいそ出帆しゆつぱんの用意有べしといふ水差みづさし是を聞て如何にも今日は晴天せいてんにて長閑のどかにはあれど得て斯樣かやうなる日は雨下あまおろしといふ事あり能々天氣を見定みさだめ出帆しゆつぱん然るべしといふ吉兵衞はじめ皆々今日のごとき晴天せいてんによも雨下あまおろしなどのなんは有べからずと思へば杢右衞門又々水差みづさしに向ひ成程足下そくかの云るゝ處も一理なきにも有ねどあまよき天氣てんきなればよも難風なんぷうなど有まじく思ふなりおし出帆しゆつぱんすべく存ずると云に水差みづさしも然ばとて承知し兵庫のおきをぞ出帆したり追々おひ〳〵かぜも少し吹出ふきいだ眞帆まほを七分に上てはしらせハヤ四國のなだを廻りおよそ船路ふなぢにて四五十里もはしりしと思ふ頃吉兵衞はふねみよしへ出て四方をながめ居たりしがはるかむかうに山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は水差みづさしに向ひあの高き山は何國いづくの山なりやかきし駿河の富士山ふじさんよくも似たりと問ふ水差みづさしこたへて那山あのやまこそ名高き四國の新富士しんふじなりと答ふるをりから抑何そもいかに此山の絶頂ぜつちやうより刷毛はけにて引し如き黒雲くろくもの出しに水差は仰天ぎやうてんしすはや程なく雨下あまおろしの來るぞや早く用心ようじんして帆をさげいかりをといふ間もあらばこそ一ぢん颺風はやてさつおとし來るに常のかぜとはことかはうしほ波を吹出てそらたちまち墨をながせし如く眞闇まつくらやみとなり魔風まふうます〳〵吹募ふきつの瞬時間またゝくま激浪あらなみは山の如く打上うちあげ打下うちおろ新艘しんざうの天神丸も今やくつがへらん形勢ありさまなり日頃大膽だいたんの吉兵衞始め船頭せんどう杢右衞門十八人の水主かこ水差都合二十一人の者共きもたましひとばし更にいきたる心地もなくたがひかほを見合せ思ひ〳〵に神佛しんぶついの溜息ためいきつくばかりなり風は益々つよく船を搖上ゆりあ搖下ゆりおろ此方こなたたゞよひ彼方へゆすれ正月四日のあさこくより翌五日のさるこくまで風は少しもやま吹通ふきとほしければ二十一人の者共は食事しよくじもせす二日ふつか二夜ふたよを風にもまれて暮したりやうやく五日のさる下刻げこくに及び少し風もしづまり浪もやゝおだやかに成ければわづかに蘇生そせいの心地してよろこびしが間もなく其夜の初更しよかうに再び震動しんどう雷電らいでん颶風ぐふうしきりに吹起ふきおこり以前にばいしてつよければふね搖上ゆりあ搖下ゆりおろされ今にも逆卷さかまくなみに引れ那落ならくしづまん計りなれば八かんねつ地獄ぢごくの樣もかくやとばかりおそろしなんどもおろかなり看々みる〳〵山の如き大浪おほなみは天神丸の胴腹どうはらへ打付たればあはれやさしも堅固けんごしつらへし天神丸も忽地たちまち巖石がんせきに打付られ微塵みぢんなつくだけ失たり氣早きばやき吉兵衞は此時早くも身構みがまへして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に打付うちつけられし機會はずみはるかの岩の上へ打上られしばし正氣しやうきも有ざりけるやゝときすぎて心付ほつと一いきつきゆめの覺し如くさるにても船は如何せしやとかすかにてら宵月よひづきの光りにすかし見ば廿人の者共は如何にせしや一人もかげだになし無漸むざん鯨魚くぢら餌食ゑじきと成しか其か中にてもわれひとりからくいのちたすかりしは能々よく〳〵うんかなひし事かなされど二日二夜海上にたゞよひし事なれば身心しんしんつか流石さすがの吉兵衞岩の上にたふふし歎息たんそくの外は無りしが衣類いるゐは殘らずしほぬれ惣身そうしんよりはしづくしたゝり未だ初春しよしゆんの事なれば餘寒よかんは五體に染渡しみわたはりにてさゝれる如くなるをこらへて吉兵衞漸々やう〳〵起上おきあがり大事をかゝへし身の爰にてむなしく凍死こゞえしなんも殘念ざんねんなりと氣をはげまし四方を見廻みまはせば蔦葛つたかつらさがりてあるを見付是ぞ天のあたへなりと二しなの包みを脊負せおひまとふ葛を力草ちからぐさ漸々やう〳〵と山へ這上はひあがりて見ば此はいかに山上は大雪おほゆきにて一面の銀世界ぎんせかいなり方角はうがくはます〳〵見分がたく衣類いるゐには氷柱つらゝさがしほぬれし上を寒風に吹晒ふきさらされかみまで氷りて針金はりがねの如くなれば進退しんたいこゝに極まりて兎にも角にも此處で相果あひはつる事かと思ふばかりなり時に吉兵衞倩々つら〳〵思にわれ江戸表えどおもてへ名のり出て事露顯ろけんに及時は三尺たかき木のそらいのちを捨る覺悟かくごなれども今こゝ阿容々々おめ〳〵凍死こゞえしなんは殘念なり人家じんかは無事かとこゞえし足をひきながらはるか向ふの方に人家らしきところの有を見付みつけたれば吉兵衞是に力を艱苦かんくしのび其處を目當にゆき踏分々々ふみわけ〳〵たどりゆきて見れば人家にはあらで一簇ひとむらしげりなればいたく望みを失ひはや神佛しんぶつにも見放みはなされ此處にて一命のはてる事かと只管ひたすらなげかなしみながら猶も向をながめやればはるか向ふに燈火ともしびの光のちら〳〵と見えしに吉兵衞やうやくいきたる心地こゝちし是ぞまがひなき人家ならんと又も彼火かのひひかり目當めあてゆき踏分々々ふみわけ〳〵たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は衣類いるゐ氷柱つらゝれ其上二日二夜海上にたゞよ食事しよくじもせざれば身體しんたいつかはて聲もふるへ〳〵戸のそとより案内をこひしに内よりは大音にて何者なにものなるや内へ這入はいるべしといふ吉兵衞大いによろこび内へ入りて申やう私し儀は肥後國ひごのくに熊本の者なるが今日の大雪おほゆきみち踏迷ふみまよ難澁なんじふいたす者なり何卒なにとぞなさけにて一宿しゆくぱん御惠おんめぐみを願奉ると叮嚀ていねいに述ければ圍爐裡ゐろりはたに年頃卅六七とも見ゆる男の半面はんめん青髭あをひげはえ骨柄こつがらのみいやしからざるが火にあたりて居たりしが夫はさだめし難澁なんじふならん疾々とく〳〵此方こなたあがり給へ併し空腹くふふくとあればすぐに火にあたるよろしからず先々臺所だいどころへ行て食事しよくじいたし其火のへんより玉へといと慇懃ねんごろに申けるに吉兵衞は地獄ぢごくほとけあふたる心地なし世にもなさけあるおことばかなと悦び臺所だいどころへ到りて空腹くうふくの事ゆゑ急ぎ食事しよくじせんものと見ればいづれも五升も入べき飯櫃めしびつ五ツならべたりめし焚立たきたてなりければ吉兵衞は大きに不審ふしん此樣子このやうすでは大勢おほぜいの暮しと見えたれども此程の大家に男は留守るすにもせよ女の五人や三人はをるべきに夫と見えぬはいと不審いぶかし如何なる者の住家すみかならんと思ひながらうゑたるまゝに獨り食事しよくじし終り再び圍爐裡ゐろりはたへ來りてかの男にあつく禮をのべければ先々ゆるりと安座あんざして火にあたり給へといふ吉兵衞は世にも有難ありがたく思ひ火にあたれば今まで氷たる衣類いるゐの雪もとけかみよりはしづくしたゝり衣服はしぼるが如くなればかの男もこれを見て氣のどくにや思ひけん其衣類そのいるゐではさぞかし難儀なんぎなるべし麁末そまつなれども此方の衣服いふくかし申さん其衣類は明朝みやうてうまで竿さをにでも掛てほし玉へとのこる方なき心切なる言葉ことばに吉兵衞はます〳〵よろこび衣類をかり着替きかへぬれ着類きるゐ竿さをに掛け再び圍爐裡ゐろりはたへ來りてあたれば二日二夜のくるしみに心身しんしんともつかれし上今十分に食事しよくじを成して火にあたゝまりし事なれば自然しぜん眠氣ねふけもよほしけるされど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣をはりれども我しらしきりに居眠ゐねぶりけるを彼男は見兼みかねたりけん客人には餘程草臥くたびれしと見えたり遠慮ゑんりよなく勝手かつてに休み給へ今に家内の者共が大勢おほぜい歸り來るが態々わざ〳〵おき挨拶あいさつには及ばず明朝までゆるりとねられよ夜具やぐ押入おしいれ澤山たくさんありどれでも勝手に着玉へまくら鴨居かもゐの上に幾許いくつもありいざ〳〵と進めながら奧座敷おくざしき差支さしつかへ有れば是へはみだりに這入はいり給ふな此儀は屹度きつとことわりたりと云ふに吉兵衞委細ゐさい承知しようちし然らば御言葉ことばしたが御免蒙ごめんかうむるべしとて次の間へいたり押入をあけて見るに絹布けんぷ木綿もめん夜具やぐ夥多おびたゞし積上つみあげてあり鴨居かもゐの上には枕のかず凡そ四十ばかりも有んと思はれます〳〵不審ふしん住家すみかなりと吉兵衞はあやしみながらも押入おしいれより夜具取出して次の間へこそふしたりける


第十一回


 扨も吉兵衞が宿やどりたる家の主人を何者なにものなると尋るに水戸中納言殿みとちうなごんどの御家老職ごからうしよくに藤井紋太夫もんだいふと云ふあり彼柳澤が謀叛むほんくみして既に公邊こうへんの大事にも及べき處を黄門光圀卿くわうもんみつくにきやう明察めいさつ見露みあらはし玉ひお手討に相成あひなりける然るに紋太夫に一人のせがれあり名を大膳だいぜんと呼べり親紋太夫の氣を受繼うけつぎてや生得しやうとく不敵ふてき曲者くせものなれば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事露顯ろけんせつ扶持高ふちたかも住宅をも召上めしあげられ大膳は門前はらひとなりよんどころなく水戸を立去り美濃國みのゝくに各務郡かゞみごほり谷汲たにくみさと長洞村ながほらむらの日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の當住たうぢう天忠上人てんちうしやうにんと聞えしは藤井紋太夫がおとゝにて大膳が爲にはじつ伯父坊をぢばうなれば大膳は此長洞村へ尋ね來りしばらく此寺の食客しよくかくとなり居たりしが元より不敵の者なれば夜々よな〳〵往還わうくわんへ出て旅人をおびやか路用ろよううばひて己が酒色のれうにぞつかすてけり初の程は何者の仕業しわざとも知る者なかりしが遂に誰云ふとなく旅人りよじんはぐの惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ〳〵評判ひやうばん高くなりなんと無く影護うしろめだくなり此寺にも居惡ゐにくく餘儀なく此處を立退たちのき一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道とうかいだうをば下りけりふとこさびしければ道中にても旅人をがいし金銀をうばひ酒色にふけいそがぬ道も日數ひかずやうやく江戸へ近づき神奈川宿の龜屋徳右衞門かめやとくゑもんといふ旅籠屋はたごやへ泊りとなり座敷をうかゞへば女の化粧けしやうする動靜やうすなり何心なくのぞこめば年の頃は十八九の娘の容色きりやうすぐれ美麗うつくしきが服紗ふくさより一ツの金包かねつゝみを取出し中より四五りやうわけて紙に包み跡をば包てとこの下へ入しかさは百兩ほどなり強慾がうよくの大膳は此體このていを見るより粟々ぞく〳〵と喜びながらも女の身としてかゝる大金を所持し一人旅行りよかうするは心得がたしとまづ宿やどの下女をまねひそかに樣子をたづねければ口惡善くちさがなき下女の習慣ならひあれこそ近在の大盡だいじん娘御むすめごなるが江戸のさる大店おほだな嫁入よめいりなされしが聟樣むこさまきらひ鎌倉の尼寺あまでらへ夜通のつもりにて行れるなり出入の駕籠舁かごかき善六といふがたつての頼み今夜はこゝに泊られしなりと聞かぬ事まで喋々べら〳〵と話すを大膳は聞濟きゝすまし夫は近頃不了簡ふれうけんの女なりなどいひほどなくまくらにはつきたり已に其夜も追々おひ〳〵ふけわたり丑滿頃うしみつころとなりければ大膳はひそかに起出おきいであひふすま忍明しのびあけぬき足に彼女をうかゞへばひるつかれかすや〳〵とやす寢入ねいり居り夜具の上よりゆかとほれと氷のやいばなさけなくも只一つき女は苦痛くつうの聲も得立ずあへなくもいきたえたれば仕濟しすましたりととこの下よりくだん服紗包ふくさつゝみを取出し大膽にも己が座敷へ立戻たちもど何氣なにげなきていにて明方近くまで一寢入しにはかに下女を呼起よびおこし急用なれば八ツ半には出立のつもなりしが大に寢忘ねわすれたりすぐに出立すれば何も入ず茶漬ちやづけを出しくれよと逆立せきたてられ下女はあわて膳拵ぜんごしらへすれば大膳は食事を仕舞ひ用意も底々そこ〳〵に龜屋をこそは出立せり最前さいぜんの如く江戸の方へはゆか引返ひきかへして足にまかせてまたかみの方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸をあけしに驚きさす旅宿屋やどやの主人だけよひことわりもなき客のきふに出立せしはいかにも不審ふしんなりとて彼の座敷をあらためしにかはる事もなければとなり座敷をうかゞふに是もしづかなれど昨日きのふ駕籠屋かごや善六に頼まれしわかき女なればとあんじて座敷へ入り見れば無慚むざんあけそみて死しゐたり扨こそ彼侍かのさむらひが女を殺して立退たちのきしとにはかに上を下へと騷動さうどう追人おつてかけんもハヤ時刻じこくのびたり併し當人を取迯とりにがしては假令たとへうつたへ出るとも此身のとがまぬかれ難しことには一人旅ひとりたびとめ御大法ごたいはふなり女は善六の頼みなれば云譯いひわけたつべけれどさふらひの方は此方の落度おちどのがれ難し所詮しよせん此事はかくすにしかじと家内の者共にのこら口留くちどめしてあたりの血も灑拭ふきぬぐひ死骸は幸ひ此頃うゑし庭の梅の木を引拔ひきぬきふかく掘りてひそかに其下へうづめける爰に駕籠舁かごかきの善六といふは神奈川宿にて正直しやうぢきの名をとりし者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は通駕籠とほしかごにて鎌倉迄かまくらまでゆくべき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主にかくと言入れ約束やくそくかごむかひに參りたりといはせたり徳右衞門は南無なむ三と思ふ色をかく何氣なにげなき體にて彼女中の客人は今朝こんてう餘程よほどはやたゝれたり貴樣の方へはゆかずやといふ善六かしらふり左樣さやうはずはなし其譯そのわけ昨日きのふ途中にて駕籠へのるとき駕籠蒲團かごふとんばかりではうすしとて小袖を下にしきしが今日ものらるゝ約束なれば小袖は其儘そのまゝ我等があづかり置て只今持て參りたりされば一應のはなしなくて出立すべき筈はなしいへば徳右衞門押返おしかへしいや決していつはならじつ昨夜ゆうべ女中よりの咄には明日あす鎌倉の尼寺まで通駕籠とほしかごで參る約束はしたれ共那駕籠屋あのかごやは何とやらん心元こゝろもとなし明朝迎ひに參らば程能ことわくれよと頼まれたりもしいつはりと思はゞ家探やさがしなり共致さるべし何とてせんなき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此をきゝ不審いぶかしとは思へ共にもかくにもあらそふも詮方せんかたなし勿論もちろん昨日きのふ駕籠賃かごちんはまだ受取うけとらず今日一所にもらふ筈なりしが早立しとなれば是非ぜひもなし過分くわぶんなれど此小袖は昨日の駕籠賃のかたに預りおくべしと善六は駕籠をかたげて出行たりあとは徳右衞門をはじめ家内の者もホツト溜息ためいき吐計つくばかりなりかくて善六は神奈川だいへ行て駕籠かごおろ棒組ぼうぐみはなしけるは只今龜屋方の挨拶あいさつ昨夜ゆうべの女客の今朝早く出立せしとは不審ふしんなり殊に亭主の顏色かほいろといひ何共合點がてんゆかぬ事なりとはなしる處へ江戸の方より十人ばかりの男の羽織はおり股引もゝひきにて旅人とも見えずさりとて又近所の者にはあらずと見ゆるがいききつて來りつゝ居合はせし善六に向ひたづぬる樣に昨日年頃としのころ十八九の女の黒縮緬くろちりめんに八丈の小袖を襲着かさねぎせしがもし此道筋このみちすぢを通りしを見懸みかけられざりしやあとの宿にてたしかに昨日の晝頃ひるごろに通りしときけもし見當り玉はゞをしへ玉はれといふに善六はくだんの小袖を取出し其尋そのたづぬる人は此小袖の主にや此は斯々かう〳〵にて今朝けさむかひに參りしが龜屋の亭主に傳言でんごんして先刻お立なされしとの事なり此小袖このこそでは昨日の賃錢ちんせんに私が預りたり私へ沙汰さたなしに立れしは合點がてんゆかずと今もはなしてをる所なり不審ふしんに思はれなばくはしくは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも年倍としばいの男が進出すゝみいでたづぬるは此人に相違さうゐなしさても駕籠のしう種々いろ〳〵とお世話せわかたじけなしと一れいのべじつは我々仔細しさい有て其女中をたづぬる者なり何共御太儀ごたいぎながら今一おう其旅籠屋そのはたごやまで案内してくれまじきやといふにぞ夫れは易き事なりと善六はさきたちくだんの人々をともなひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事となほ然氣さりげなく善六に答へし如く此者どもにもはなしたりさらばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺あまでらつかはし殘り七人は其儘そのまゝ龜屋に宿やどりて鎌倉の安否あんぴ相待あひまちける其日の夕暮に及び尼寺へゆきし人々は立歸たちかへりけるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば皆々みな〳〵たゞおどろばかりなりついては龜屋徳右衞門に不審ふしんが掛り追々おひ〳〵うたがはしきこともあれば此事つひに代官所の沙汰さたとなり吟味ぎんみつよくなりて龜屋徳右衞門の家内はのこらず呼出よびいだされ跡へ役人來りて家搜やさがしせしに庭の梅の木のもとの土のあたらしければあやしとて掘發ほりおこすに果して女の死骸しがいうづありしとぞ龜屋徳右衞門は其儘そのまゝ牢舍らうしやせられ度々の吟味ぎんみに始めて前の次第をちく一に白状はくじやうにはおよびされば殺害せしと思ふ當人を取逃とりにがし殊に御法度はつと一人旅ひとりたびとめ落度おちどの申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人にし長き牢舍らうしやのうちあはれむべしかれ牢死ろうしをぞなしたり一たん不覺悟ふかくごにて終に一家の滅亡めつばうを來せしは哀れなりける災難さいなんなり


第十二回


 爰に大膳は神奈川の旅店はたごやにて婦人を切害せつがいし思ひがけぬ大金を奪取うばひとりたれば江戸は面倒めんだうなるべししかず此より上方に取てかへし中國より九州へわたらんにはとつひに四國に立越たちこえしが伊豫國なるふぢはらと云ふ山中に來り爰に一個ひとつ隱家かくれがを得て赤川大膳あかがはだいぜんと姓名をへんじ山賊をげふとして暫く此山中に住居しが次第々々に同氣どうき相求あひもとむる手下の出來いできしかば今は三十一人の山賊さんぞく張本ちやうほんとなり浮雲ふうんとみに其日を送りける然るに一年ひととせ上方に住し折柄をりから兄弟のやくむすび藤井左京ふぢゐさきやうと云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客となりて居たりしが時は享保十一午年うまどし正月五日の事なりし朝より大雪おほゆき降出ふりいでしが藤井左京は大膳に向ひそれが去冬きよとうより此山寨このさんさいへ參り未だ寸功すんこうもなくむなしくらすも殘念ざんねんなり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひふもとの往來へ罷出まかりいで一當ひとあてあてんとぞんずるなり就ては御手下を我等に暫時ざんじ貸給かしたま一手柄ひとてがらあらはし申さんと云ふ大膳かくと聞て左京殿に我手をかすはいと易けれど此大雪では旅人たびびと尾羽をはつかね通行する者あるべからず折角せつかく寒氣かんきをかし行かれしとて思ふ如き鳥もかゝるまじまづ今日はやめに致し玉へ手柄は何時でもできる事と押止おしとゞめけれど思ひこみたる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしとたつての懇望こんまうなれば然程さほどに思はれなば兎も角もと手下の小賊せうぞく貸與かしあたへたれば左京は欣然きんぜんと支度を調とゝのふもとさして出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが意地いぢを立んとて此大雪に出で行きたれどもなん甲斐かひやあらん骨折損ほねをりぞん草臥くたびれ所得まうけ今に空手からてで歸りんアラ笑止せうしの事やとひとごと留守るすしてこそは居たりけり

かへつとく吉兵衞は宿やどりし山家やまがの樣子何かに付てうたがはしき事のみなればまくらには就けどもやらず越方こしかた行末ゆくすゑのことを案じながらも先刻せんこく主人あるじの言葉に奧の一間を見るなとかたせいせしは如何なるわけかとしきりに其奧の間の見まほしくてそつ起上おきあがり忍び足して彼座敷かのざしきふすま押明おしあけ見れば此はそも如何に金銀をちりばめ言語ごんごぜつせし結構けつこうの座敷にてまづ唐紙からかみは金銀のはく張付はりつけにて中央には雲間縁うんげんべりの二でふだいまうけ其上に紺純子こんどんすの布團を二ツかさかたはらに同じ夜具が一ツ唐紗羅紗たうざらさ掻卷かいまきひとツありでふの左右には朱塗しゆぬり燭臺しよくだいを立床の間には三幅對ぷくついの掛物香爐かうろを臺にいたゞいてあり不完全物ながら結構けつこうづくめの品のみなりうちゆかしき違棚ちがひだなには小さ口の花生はないけへ山茶花を古風にさしたり袋棚ふくろだなの戸二三寸明し中より脇差わきざしこじりの見ゆれば吉兵衞は立寄たちよりて見れば鮫鞘さめざやの大脇差なり手に取上とりあげさやを拂て見るに只今人をあやめしが如くまだ生々なま〳〵しきあぶらういて見ゆればさすがに吉兵衞は愕然ぎよつとして扨ても山賊の住家なりかゝる所へ泊りしこそ不覺ふかくなれと後悔こうくわいすれど今は網裡まうりの魚函中かんちうけものまた詮方せんかたなかりければ如何はせんと再びまくらつきながらも次の間の動靜やうすを如何ぞとみゝ振立ふりたてうかゞへば折節をりふし人の歸り來りて語る樣は棟梁おかしらおほせとほり今日は大雪なれば旅人は尾羽をばちゞめ案の如く徒足むだあしなりしとつぶやきながら臺所へあがる其跡に動々どや〳〵と藤井左京を初め立戻り皆々はたへ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の御異見ごいけんしたがはず我意がいつのりて參りしか此雪で往來には半人はんにん旅客りよかくもなし夫ゆゑ諸方しよはう駈廻かけまはり漸く一人の旅人たびびとを見つけばつさりやつて見れば一文なしの殼欠がらつけつ無益むやく殺生せつしやうに手下の衆をらうし何とも氣毒きのどくの至りなり以來いらい此左京は山賊はやめ申すと云ふに大膳呵々から〳〵と打笑ひ左京どの沙彌さみから長老ちやうらうと申し何事でも左樣うまくは行ぬ者なり山賊さんぞくとても其通り兎角辛抱しんばう肝心かんじんなり石の上にも三年と云へば先づ〳〵氣長きながにし給へ其内には好事よきことも有るべし扨また我は今宵こよひの留守にらうせずして小千兩のとりおさへたりと云ふに左京は是をきいて大いにいぶかり我々は大雪を踏分ふみわけさむさをいとはずふもとへ出てあみはつても骨折損ほねをりぞんして歸へりしに貴殿は内に居てあたり乍ら千兩程の大鳥をかけられしとは更に合點がてんの參らぬ事なり此は貴殿の異見いけんをもきか徒骨むだぼねをりしを嘲弄てうろうさるゝと思はれたりと云へば大膳は莞爾につこり打笑うちゑみいなとよ此大膳なにしにいつはりを申べき仔細しさいを知らねばうたがはるゝも道理もつともなりいで其譯そのわけは斯々なり宵に御身たちが出行いでゆきし跡へ年の頃廿歳ばかり容顏ようがんうるはしき若者來れりいづれにも九しうへん大盡だいじん子息むすこならずば大家たいけつかはるゝ者なるべし此大雪にみち踏迷ふみまよひ此處へ來りて一宿しゆくこひし故こゝろよくとめおいて衣類はぬれたれば此方のをかしつかはしたるが着替きかゆる時に一寸ちよつと見し懷中ふところの金は七八百兩と白眼にらんだ大膳が眼力がんりきはよもたがふまじ明朝みやうてうまで休息きうそくさせ明日は道案内みちあんないに途中まで連出つれだしてわかぎはに只一刀だいまいの金は手をぬらさずと語る聲を次の間に寢入ねいりふうの吉兵衞はくはしく聞取り扨こそ案にたがはざりし山賊の張本ちやうほんなりけりかく深々ふか〴〵あなの内に落し身の今更いまさらにげるともにがさんや去乍ら大望のある身をむざ〳〵と山賊どもの手にかゝあひはつるも殘念なりとしきりに思案しあんめぐらしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれどいま寸功すんこうも立てざればせめ今宵こよひ舞込まひこみし仕事は何卒拙者せつしや料理方れうりかたゆづり給はるべし手始めの功とも致したく明朝あすとも云ず今宵の中に結果かたづけ申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしときゝて左京は大によろこさらば早々らちあけんと立上るを大膳はしばしと押止おしとゞめ先々待たれよ今宵の仕事はふくろの物を取り出すよりもやす先々まづ〳〵ぱいのんだ上の事とて是より酒宴しゆえんもよほしける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は我膽力わがたんりよく渠等かれらに知らせ首尾しゆびよくはからば毒藥もかへつて藥になる時あらん此者共をおびやかし味方に付る時は江戸表えどおもて名乘なのりいづるに必ず便利べんりなるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り燭臺しよくだいあかりをともしとねの上に欣然きんぜんと座を胴卷どうまきの金子はわきの臺に差置さしおき所持の二品を恭々敷うや〳〵しく正面しやうめんとこかざ悠々いう〳〵としてひかへたり大膳左京の兩人はかゝこととはいかで知るべき盃の數もかさなりて早十分にゑひを發し今はよき時分じぶんなりいざ醉醒ゑひざめの仕事に掛らんと兩人は剛刀だんびらたづさへ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳不審ふしんに思ひさるにてもたしかねかせしに何方いづかたへもゆく氣遣きづかひなしと此所彼所とさがして奧座敷へ至れば此はそも如何いかに若者は二でふだいの上に威儀ゐぎ堂々だう〳〵おそなくひかへたれば兩人はきもつぶし互ひに顏を見合せて少時しば言葉ことばなかりしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とてすなはち山賊の棟梁とうりやうなりまたこれなるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟のえんむすびし者なりなんぢ當所たうしよとまりしは運命うんめいつくる處なり先刻せんこく見置みおきし金子はや〳〵拙者どもへ差出せよと荒々あら〳〵しげに申ける吉兵衞は少しもわるびれたる氣色けしきもなく此方こなたに向ひ兩人ども必ず慮外りよぐわい振舞ふるまひを致す事なかれ無禮ぶれいは許すそばちかく參るべし我はかたじけなくも當將軍家吉宗公よしむねこう御落胤ごらくいんなり當山中に赤川大膳といふ器量きりやうすぐれの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に召抱めしかゝへたく遙々はる〴〵此處まで參りしなりいさゝかの金子などに心をかける事なく隨身ずゐしんなすべしおつては五萬石以上に取立て大名にしつかはすべしまよひとらしか返答へんたふ致すべしとさも横柄わうへいのべけるに兩人再び驚きしが大膳は聲をはげまし汝天下の御落胤ごらくいんなどとあられもなきいつはりを述べ我々をあざむき此場をのがれんとする共われなんぞ左樣の舌頭ぜつとうあざむかれんや併し夫には何か證據しようこでも有て左樣には申すかもし當座たうざの出たらめなれば思ひしらすと睨付ねめつければ吉兵衞莞爾につこと打笑ひ其方共のうたがひも理なきにあらず先づ是を見て疑念ぎねんを散ずべしと彼二品を差示さししめせば大膳は此品々を受取まづ御墨附おすみつきを拜見するにまさしく徳太郎君の御名乘に御書判おかきはんをさへすゑられたり又御短刀おんたんたうを拜見し暫く見惚みとれて有りしが大膳きふに座を飛退とびしさ低頭平身ていとうへいしんしてうやまひ私儀は赤川大膳とてもと水戸家みとけの藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々よく〳〵知れり斯る證據のある上は將軍の御落胤ごらくいんに相違なし斯る高貴かうきの御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ幾重いくへにも御免おんゆるしをかうむり度此上は我々共御家來のすゑに召し出さるれば身命をなげうつて守護仕しゆごつかまつるべし御心安く思し召さるべし然れども我々は是迄これまで惡逆あくぎやくをなせし者なり江戸表へ御供致せば惡事あくじ露顯ろけんいたすべしればたちま罪科ざいくわに行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り親子しんし對面たいめんする上は是迄の舊惡きうあくは殘らずゆるつかはすべしとの言葉に大膳は有難く拜伏はいふくし茲に主從しうじうの約をなし左京をもすゝめてこれも主家來の盃盞さかづきをさせにける此時吉兵衞は布團ふとんの上よりくだり兩人に向ひ申けるはわれ將軍しやうぐん落胤らくいんとは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の修驗者しゆけんじや感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠におたねやど此御墨附このおすみつきと御短刀を戴きしが其若君は御誕生たんじやうの日におはてなされ其娘も空しくなり此二品は婆の持腐もちぐされにしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取うばひとり江戸へ名乘出んとは思しが師匠ししやう感應院かんおうゐんの口よりもれんも計りがたければ師匠は我十三歳の時に毒殺どくさつしたり尚も幼顏をさながほなくさん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望をくはだつるには金子きんすなくてはかなふまじと此度金七百兩をかすめ取り出奔しゆつぽんなし船頭杢右衞門もくゑもんたばかりて天神丸の上乘うはのり不慮ふりよの難にあひて此處まで來れる事の一伍一什いちぶしじふ虚實きよじつまじへて語りければさしもの兩人も舌をき恐れ其不敵なるを感じ世にたぐひなき惡者わるものも有れば有る者とます〳〵心をかたぶけて兩人とも一味なして寶澤がうんを開き西丸へ乘込のりこみの節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ約束やくそくにて血判けつぱん誓詞せいしにぞ及びける


第十三回


 扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが此時このとき大膳だいぜんは兩人に向ひて我手下は今三十一人あれども下郎は口の善惡さがなき者なり萬一此一大事の手下の口よりもれんも計り難し我に一の謀計ぼうけいこそあれのちわざはひをさけんには皆殺しにするよりほかなし夫には斯々とひそかに酒の中へ曼多羅華まんだらげといふ草をいれ惣手下そうてしたの者へ酒一たる與へければいかでか斯るたくみのありとは思はんやゆめにも知ず大によろこやがて酒宴を開きけるに皆々漸次しだい酩酊めいていして前後をうしなふ程に五體ごたいにはか痿痺出しびれだせしも只醉の廻りしと思ひて正體しやうたいもなきに大膳等は此體このていを見て時分はよしと風上より我家に火をばかけたりける折節をりふし山風はげしくしてほのほは所々へ燃移もえうつれば三十一人の小賊共スハ大變たいへんなりと慌騷あわてさわぐもどく酒に五體のきかざればあはれむべし一人ひとりも殘らず燒燗やけたゞれ死亡しばうに及ぶを強惡がうあくの三人は是を見て大に悦びまづ是にてわざはひたちたれば更に心殘こゝろのこりなし大望成就じやうじゆうたがひなし今は此地に用はなしいそぎ他國へ立越たちこえん幸ひ濃州のうしう谷汲の長洞村ほらむら法華ほつけ山常樂院長洞寺の天忠日信と云はおや藤井紋太夫の弟にて我爲には實の伯父をぢなるがかゝる事の相談には屈強くつきやう軍略ぐんりやく人にて過つるころおんを受し師匠の天道と云を縊殺しめころ僞筆にせひつ讓状ゆづりじやうにて常樂院の後住と成り謀計ぼうけいに富たる人なりと云ば寶澤はうち點頭うなづきそは又めうなりとて則ち赤川大膳が案内あんないにて享保きやうほ十一丙午ひのえうま年正月七日の夜に伊豫國いよのくに藤が原の賊寨ぞくさいを立去三人道を急ぎ同月下じゆん美濃國みのゝくになる常樂院へちやくし案内をこひ拙者せつしやは伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なりまゐりしおもむき取次玉はるべしといふ取次の小侍こさむらひは早速此事をおくへ通じたれば天忠聞て大膳とあら我甥わがをひなり遠慮に及ばず直に居間ゐまへ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は吉兵衞きちべゑ左京さきやうの兩人を次の間へひかへさせ己れひとり居間へ通り久々ひさ〴〵對面たいめんたがひに無事をしばし四方山の話に時をぞうつしける時に天忠は大膳にむか先達せんだつての手紙にて伊豫の藤が原とかに住居すまひたる由は承知しようちしたり彼地にて家業かげふは何を致し候や定めていそがしき事ならんとのたづねに大膳は然氣さりげなく御意ぎよいの如し藤が原に浪宅らうたくいとなみ候へども彼地は至て邊鄙へんぴなれば家業もひまなり夫故それゆゑ此度同所を引拂ひきはらひ少々御内談ないだんも致度事これありて伯父上をぢうへ御許おんもと態々わざ〳〵遠路ゑんろいとはず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ面白おもしろき事でも有やと申けるに大膳こたへさん隨分ずゐぶん面白おもしろからぬにも此なしまんよく仕課しおほせなば五萬石ぐらゐの大名には成るゝ事なれ共夫には我々の短才たんさいでは行屆ゆきとゞき申さず依て伯父御をぢご智慧ちゑ拜借はいしやく仕つり度是迄推參すいさん候といふに強慾がうよく無道ぶだうの天忠和尚滿面まんめんゑみふくみ夫は重疊ちようでふの事なりさてわけは如何にと尋ぬるに大膳はひざすゝめ聲をひくくし申けるは此度藤が原より召連れ候者ありたゞ今御次にひかへさせたり其中一人の若人わかうど吉兵衞と申す者實は生國しやうこく紀州きしう名草郡なぐさのごほり平野村ひらのむらなる感應院かんおうゐんと申す修驗者しゆけんじや弟子でしにて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ産婆とりあげばゝありそのむすめさはの井と云が紀州家の家老職からうしよく加納將監かなふしやうげん方へ奉公せし折將軍家は其ころ徳太郎君と申し御部屋ずみにて將監方におはしけるが彼澤の井に御手を付させられ懷姙くわいにんし母お三婆のもとへ歸るみぎり御手づから御墨付すみつきと御短刀たんたうそへて下し置れしが御懷姙の若君わかぎみは御誕生たんじやうの夜むなしく逝去遊おかくれあそばせしを見より澤の井も産後さんごなげきに血上りて此も其夜のうちに死去したりよつてお三婆は右の二品を所持なせどさらに人にはかたる事も無りしが寶澤は別して入魂じゆこんの上に未だ少年こどもの事なれば心もゆるして右の次第を物語ものがたりしかば寶澤が十二歳の時かの婆を縊殺しめころし其二品をうばひ取大望たいまうさまたげなればとて師匠感應院をも毒殺どくさつし其身は諸國修行しよこくしゆぎやういつはり平野村を發足ほつそくし其翌日加田浦かだのうらにて白犬をころし其血にて自分は盜賊たうぞく切殺きりころされしてい取拵とりこしらへ夫より九州へ下り肥後ひご熊本くまもとにて加納かなふ屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子をかすめ夫を手當てあてとして江戸表へ名乘なのり出んとせし船中にて難風なんぷうに出合船頭せんどう水主かこ皆々みな〳〵海底かいてい木屑もくづとなりしが果報くわはうめでたき吉兵衞一人ひとりからふじてたすかり藤が原なる拙者のかくれ家へ來り右の次第を物語れり證據しようこの品もたしかなれば我々も隨從ずゐじうして將軍の御落胤らくいんなりと名乘出ん所存なり萬々ばん〳〵首尾しゆびよく仕課しおほせなば寶澤の吉兵衞には西のまる乘込のりこむか左なくとも三家の順格位じゆんかくぐらゐは手の内なれば此度このたび同道仕つりしとつまびらかに物語れば天忠は始終しじうを聞て思ず太息といきつき驚き入たる大膽だいたん振舞ふるまひ其性根そのしやうねならんには首尾しゆびよく成就じやうじゆなすべしとさすがの天忠もひそかしたをばまきて先兎も角も對面たいめんせんと大膳だいぜん案内あんないさせければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ美僧びそうあり年は廿歳許はたちばかりなり三人へちや給事きふじなどして天忠のかたはらにひかへける此時天忠は天一に向ひ用事あらよぶべし夫迄それまで臺所だいどころへ參り居よといへば天一は勝手かつてへと退しりぞきける強慾がうよくの天忠は兩人に向ひ委細ゐさいの事は只今大膳よりきゝ及び承知したりしか箇樣かやう大望たいまうは中々うきたる事にては成就じやうじゆ覺束おぼつかなしまづ根本こんぽんより申合せてたくまねば萬一まんいち中折なかをれして半途はんと露顯ろけんに及ぶ時は千辛萬苦せんしんばんくも水のあわなるばかりか其身の一大事に及ぶべし先名乘なのり出る時は必ず其生れ所とそだちし所をたゞさるべし其答が胡亂うろんにては成ず即ち紀州名草郡平野村にて誕生たんじやうと申立る時は差向さしむき紀州を調しらべられんにはたちまばけの皮のあらはるゝなり此儀はすでとく差支さしつかへなくとゝのひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞左京さきやうも未だ其へん密議みつぎに及ばねばはた返答へんたふ當惑たうわくなしぬ時に大膳は了簡れうけん有氣に其儀は先達せんだつてより心付き種々しゆ〴〵工夫くふうは仕つれど未だ然るべきかんがへも付ずねがはくは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠しばし兩手をくみ默然もくねんたりしがやゝ有て三人にむか拙僧せつそう少し所存あり夫は只今此所へ茶をくみまゐりし者は當時は拙者弟子なれども元は師匠ししやう天道てんだうが弟子にてかれは師匠が未だ佐渡さど淨覺院じやうがくゐんの持主たりし時門前にて有しをひろひ上げ養育やういくして弟子となしける者なり天道遷化せんげの後は拙僧が弟子となして永年召使めしつかふ者なればいかにも不便ふびんには存ずれど大功は細瑾さいきんかへりみずと依てかれころし其後吉兵衞殿に剃髮ていはつさせおもざしの似たるをさいはひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡尾島をじま村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀をそへて捨て有しを天忠が拾上げ養育なしたてまつり其後當所たうしよ美濃國常樂院へ轉住てんぢうの頃もともなひ奉つりたれば御成長せいちやう美濃國みのゝくにと申立なばたれ有て知者あらじ然すれば紀州の調しらべも平野村のたゞしも無して事のやぶる氣遣きづかひなし此儀如何にと申ければ三人はかんじ入まことに古今の妙計めうけいと一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺はやすけれどこゝに一ツの難儀なんぎといふは小姓こしやう次助佐助の兩人にてかれは天一とは幼年えうねんより一所にそだちし者なれば天一を殺せば兩人の口より密計みつけい露顯ろけんに及は必定ひつぢやうなりされば兩人ともいかし置難し無益むやく殺生せつしやうたれど是非ぜひに及ばず此兩人をも殺害せつがいすべしさてかの兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其案内あんないに兩人を差遣さしつかはすべし山中に地獄谷ぢごくだにと云處ありにて兩人を谷底たにそこ突落つきおとして殺し給へ必ず仕損しそんずる事あるまじ其留守るすには老僧らうそう天一を片付申すべし年はよつたれどもまだ一人や二人の者を殺すはもなし拙僧の儀は御氣遣おきづかひあるべからず呉々くれ〴〵小姓共は仕損じ給ふなと約束やくそくし夫より酒宴をもよほし四方山の雜談ざふだんに時を移し早こくすぎたれば皆々臥房ふしどへ入にける天忠は翌朝よくてうは何時より早く起出おきいで小姓の次助佐助兩人に今日は御客人おきやくじんが山見物けんぶつにお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷のあたりは他國の人にはめづらしく思はるべければ能々よく〳〵御案内申せよと言付いひつけられ神ならぬ身の小姓兩人はかしこまりしと支度したくして三人をともな立出たちいでたり


第十四回


 去程さるほど常樂院じやうらくゐんの小姓次助佐助の兩人りやうにんおのれが命のあやふきをば知よしなく山案内やまあんないとして大膳吉兵衞左京の三人をともなひ山中さしていたる事凡一ばかりなりこゝは名におふ地獄谷ぢごくだにとて巖石がんせき恰も劔の如きは劔の山に髣髴さもにたり樹木生茂りてそこも見え分ぬ數千丈の谷は無間むげん地獄とも云なるべし何心なき二人の小姓こしやう師匠ししやうことばに從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々御覽ごらんあれと巖尖いはかどに進て差示せば三人は時分じぶんよきぞと竊に目配めくばせすれば赤川大膳藤井左京つゝと寄て次助佐助が後に立寄たちより突落つきおとせばあはれや兩人はすうぢやう谷底たにそこ眞逆樣まつさかさまに落入て微塵みぢんに碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出しやりし後に天一をよびちかづけ今日は次助佐助は客人きやくじんの山案内につかはし留主なれば太儀ながら靈具れいぐは其方仕つるべしと云に天一かしこまり品々の靈具を取揃とりそろへ先住のつかへ供にとゆくあとより天忠は殊勝氣しゆしようげ法衣ほふいちやくし内心は惡鬼羅刹あくきらせつの如くふところに短刀を用意し何氣なきていにて徐々しづ〳〵と歩行寄けり天一は斯る惡心ありとはゆめにも知ず靈具を供畢そなへをはり立上らんとする處を天忠はかくし持たる短刀を拔手ぬきても見ずつかとほれと突立れば哀むべし天一は其儘そのまゝ其處へ倒れ伏ぬ天忠は仕遂しすましたりと法衣を脱捨ぬぎすてすそをからげ萬毒ばんどくの木の根をほりて天一が死骸しがいを埋め何知ぬ體に居間へ立戻たちもどり居る所へ三人も歸來り首尾しゆびよく地獄谷へ突落せし體を告囁つげさゝやけば天忠は點頭うなづきて拙僧も各々の留主に斯樣々々にはからひたれば最早心懸こゝろがかりはなしさればとて大望たいまう密談みつだんをなし已に其議も調のひければ急に本堂ほんだうわきなる座敷に上段をしつらへ前にみすおろし赤川大膳藤井左京の兩人は繼上下つぎかみしもにて其前にひかへ傍らに天忠和尚をしやう紫の衣を着し座す其形勢ありさまいと嚴重げんぢうにして先本堂には紫縮緬むらさきちりめんしろく十六のきく染出そめいだせしまくを張り渡し表門には木綿地もめんぢに白とこんとの三すぢを染出したる幕をはり惣門そうもんの内には箱番所はこばんしよを置き番人は麻上下あさがみしもの者と下役は黒羽織くろはおりを着し者をつめさせ檀家だんかの者たりとも表門の通行つうかうきん裏門うらもんより出入させ墓場への參詣さんけいをば許せども本堂ほんだうへの參詣はかたく相成ざる由を箱番所はこばんしよの者共よりせいさせける是則ち天一坊さまの御座所ととなへて斯の如く嚴重げんぢうかまへしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世をしの拙僧せつそうが弟子と披露ひろうし置候へ共じつは當將軍家の御落胤らくいんたるゆゑ近々江戸表へ御乘出しあそばされ公方樣くばうさま御親子ごしんし御對顏ごたいがんあれば多分たぶん西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りはかなはざる樣なり依て近々きん〳〵御出立前ごしゆつたつぜん格別かくべつの儀を以て當寺の檀家だんか一同へ御目見を仰付らるべし此旨村中むらぢうへ申達すべしとの事なり下男共げなんども何事も知らざれば是を聞てきもつぶし此頃迄臺所だいどころで一つに食事しよくじをせし天一樣は將軍樣の若君樣わかぎみさまなりしかさればこそ急にみすの中へ入せられ御住持樣ぢうじさまうちかはり御主人の樣に何事も兩手りやうてつい平伏へいふくなさると下男共は此等の事を村内へ觸歩行ふれあるきしゆゑ村中一とう此頃の寺の動靜やうすさては然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度こんど江戸へ御出立になれば二度御目通り成ねば當前あたりまへさらば今の内に御目見おめみえを仰付らるゝは有難い事とて村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ集來つどひきたり天忠につきて取次をたのめば和尚は大膳に向ひ拙寺せつじ檀家だんかの者共天一坊樣御暇乞おいとまごひ御尊顏ごそんがんはいし奉り度由あはれ御聞屆ねがはんと申上れば是迄の知因よしみに御對面たいめん仰付らるゝとて御座の間のみす卷上まきあぐれば二疊臺にでふだい雲間縁うんけんべりたゝみの上に天一坊威儀ゐぎたゞして着座ちやくざなし大膳が名前を披露に及べば天一坊は言葉ことばすくなにいづれも神妙とばかり大樣の一聲ひとこゑに皆々低頭ていとう平身誰一人おもてを上て顏を見る者なかりしとこゝ浪人體らうにんていさむらひの身には粗服そふくまとひ二月の餘寒よかんはげしきに羊羹色やうかんいろの羽織を着て麻のはかま穿はきつかはづれし大小をたいせし者常樂院じやうらくゐんの表門へ進みいらんとせしが寺内の嚴重げんぢうなる形勢ありさまて少し不審ふしんの體にて箱番所の前を行過ゆきすぎんとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ貴殿きでんには何人にていづれへ通り給ふや當時たうじ本堂は將軍しやうぐん若君わかぎみ天一坊樣の御座所ござしよと相成り我々晝夜相詰まかりありととがむれば浪人は拙者せつしやは當院の住職ぢうしよく天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば暫時ざんじ此處に御休息ごきうそくあるべし其段そのだん拙者共より方丈はうぢやうへ申通じうかゞひし上にて御案内ごあんないせんといふに彼浪人も夫はもつともの事なりと自分じぶんも番所へ上れば番人は浪人の姓名せいめいを問に只先生が參りしと申給へと云ば番人はかほ見合みあはせ先生と許ではなに先生せんせいなるや分り申さず御名前おなまへうけたまはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生がまゐりしと申し給へとの事なれば早速さつそく其趣そのおもむきをつうじければ山内先生の御出とならば自身に出迎でむかうべしと何か下心したごころのある天忠が出來いできた行粧ぎやうさう徒士かち二人を先立自身はむらさきの法衣ころも古金襴こきんらん袈裟けさかけかしらには帽子ばうしを戴き右の手に中啓ちうけいを持左の手に水晶すゐしやうつまぐりくつふみしめ徐々と出來る跡には役僧やくそう二人付そひ常にかはり行粧ありさまなりやがて門まで來り浪人にむか恭々うや〳〵しく是は〳〵山内先生には宜こそ御入來ごじゆらい成たりいざ御案内と先にすゝめ浪人らうにんおくする色なく引續ひきつゞいて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふにもと九條前關白殿下くでうさきのくわんぱくでんかの御家來にて山内伊賀亮やまのうちいがのすけしようせし者なり近年病身びやうしん云立いひたて九條家を退しりぞき浪人らうにんして近頃美濃國の山中にかくれ住ければ折節をりふしこの常樂院へ來り近しくまじはる人なり此人奇世きせい豪傑がうけつにて大器量だいきりやうあれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮をうやまふ事大方ならず今日はからずも伊賀亮の來訪らいはうあづかれば自身に出迎ひて座敷ざしきしやうじ久々にての對面を喜び種々饗應きやうおうして四方山よもやま物語ものがたりには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日さいはひの處へ御入來なりし拙僧せつそう大慶たいけいに存ずる仔細しさいは拙僧がをひなる赤川大膳と申者此度將軍家の御落胤ごらくいんなる天一坊樣のお供致し拙寺せつじへ御入にて御逗留中ごとうりうちうなり近々江戸表へ御名乘出おんなのりいでにて御親子御對顏遊ばすはずならば時宜に依ては西にしまるなほらせらるゝか左無とも御三家順格ごさんけじゆんかくには受合なり然時は拙僧せつそうも立身の小口こぐちに先生も御隨身ごずゐしんの思召あらば拙僧せつそう御吹擧ごすゐきよおよぶべしといふ伊賀亮は是をきゝしばし思案して申ける樣和尚は何とおもはるゝや拙者せつしや大言たいげんはくに似たれども伊賀亮ほどの大才ある者久しく山中にかくれてある黄金こがねを土中にうづむるに均し今貴僧のはなさるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人召抱めしかゝへに相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身にのぞみなきにあらず老僧らうそうよろしく取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび早速さつそく大膳にも相談さうだんに及びし所ろ大望たいまうくはだつるには一人も器量勝れし者を味方にせねば成就じやうじゆがた屈強くつきやうの者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日拙寺せつじへ參る所の客人きやくじんもと京都きやうと九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人だいきりやうじんなり上は天文地理てんもんちりさとしも神儒佛しんじゆぶつの三道にわた和學わがく軍學ぐんがくに至るまでなに一ツ知ずといふ事なき文武兼備の秀才士しうさいしなり此人を御家來ごけらいなされなばいかなる謀計ぼうけいも成就せん事疑ひなしと稱譽しようよしてすゝめければ天一坊は大に悦喜えつきし左樣の軍師ぐんしを得る事大望成就の吉瑞きつずゐなりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の契約けいやくあるべしと相談さうだんこゝに一決し天忠はつぎ退しりぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の大才だいさい御稱美ごしようびありて早速御召抱おめしかゝへ成るべくとの由なれば直樣すぐさま御對面ごたいめんあらるべしついては先生の御衣服おいふくあま見苦みぐるし此段をも申上たれば小袖こそで一重ひとかさね羽織はおり一ツとをくだしおかれたり率御着用有りて然るべしとのべければ伊賀亮呵々から〳〵わら貴僧きそう御芳志ごはうしかたじけなけれど未だ御對面もなき中に時服じふく頂戴ちやうだいするいはれなし又拙者が粗服そふくで御對面なされ難くば夫迄の事なりおして拙者より奉公は願ひ申さずと斷然きつぱり言放いひはなし立上るいきほひに常樂院はあわて押止め然ば其段いま一應いちおう申上べしまづ〳〵御待下されと待せ置ておくへ行き暫時ざんじにして出來り然らば其儘そのまゝにて對面たいめんあるべしとの事なりと告れば伊賀亮はも有べしとやが粗服そふくのまゝ天忠に引れて本堂の座敷ざしきへ到ればはるか末座まつざに着座させられぬ


第十五回


 この時上段のみすの前には赤川大膳あかがはだいぜん藤井左京ふぢゐさきやうの兩人繼上下つぎかみしもにて左右に居並び常樂院天忠和尚てんちうをしやう披露ひろうにつれ大膳が簾をまけ雲間縁うんけんべりでふの上ににしきしとねしき天一坊安座し身には法衣ころもを着し中啓ちうけいを手に持て欣然きんぜんとしてひかへたりやがて言葉を發して九條家の浪人山内伊賀亮いがのすけとやらん其方の儀は常樂院よりつぶさ承知しようちしたり此度予につかへんとのこゝろざし神妙しんめうに思なり以後精勤せいきんを盡すべしいざ主從の契約けいやく盃盞さかづきつかはさんと云ばこの時かねて用意の三寶さんばう土器かはらけのせ藤井左京持出て天一坊の前に差置さしおけば土器取あげ一こん飮干のみほして伊賀亮へつかはす時に伊賀亮はかしらあげつく〳〵と天一坊の面貌めんばうを見て土器を取上ず呵々から〳〵打笑うちわらひ將軍の御落胤ごらくいんとは大のいつはり者餘人は知らず此伊賀亮かくの如きあさはかなる僞坊主にせばうず謀計ぼうけいあざむかれんや片腹痛かたはらいたたくみかなと急に立退たちのかんとするを見て赤川大膳は心中に驚き見透みすかされては一大事と氣をはげましいか山内やまのうち狂氣きやうきせしか上にたいし奉つり無禮の過言くわごんいで切捨きりすてんと立よりて刀のつかを掛るを伊賀亮ます〳〵わらひこゝ刀架かたなかけめ其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと立掛たちかゝるを左京と常樂院の兩人は中へ分入押止おしとゞめければ天一坊は疊の上より飛下とびおり伊賀亮に向如何に伊賀亮僞者にせものとの過言其意を得ず何か證據しようこが有て左樣には申すや返答聞んと詰寄つめよれば伊賀亮どうずる色なくたしかに證據なくして麁忽そこつの言を出さんや其證據しようこを聞んとならばれいあつくして問るべしまづ第一に天一坊の面部めんぶあらはれしさうは存外の事をくはだつる相にて人を僞るの氣たしかなり又眼中に殺伐さつばつの氣あり是は他人を切害せし證據假初かりそめにも將軍家の御落胤に有べからざる凶相きようさうなり僞物にせものと申せしがよもあやまりでござるかと席をたゝいて申ける天一坊始め皆々口をとぢ茫然ばうぜんたりしが大膳こらへ兼御墨付おすみつきと御短刀たんたうを持出し伊賀亮どの貴殿きでん只今の失言しつげん聞惡きゝにくし則ち御落胤らくいん相違さうゐなき證據は是にありとく拜見はいけんあるべしと出し示せば伊賀亮苦笑にがわらひしながらさらば拜見せんと手に取上これはまがひなきたう將軍家の御直筆ごぢきひつなり又御短刀をぬいながむるに是も亦違もなき天下三品さんぴんの短刀なりと拜見しをはりて大膳にもどし成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては僞物にせものに相違なしといふ此時このとき天忠席を進みあつぱれなる山内先生の御眼力がんりき恐入たり左樣にほしさして仰らるゝ上はつゝかくすにえきなし此上は有體ありていに申べし實に斯樣かやうなりと大望たいまうを企てし一始終しじうおちなく物がたり此上は何卒なにとぞ先生の知略ちりやくを以て此證據の品にもとづき事成就じやうじゆ致すやう深慮しんりよの程こそ願はしとのべければ伊賀亮は欣然きんぜんと打笑ひ左こそ有べし事を分てたのむとあれば義を見てざるはいさみなしとか惡とはしれども一工夫ひとくふう仕まつて見申べしとやゝ暫く思慮しりよに及びけるが人々に向ひまづ天一殿の面部は當將軍家の幼稚をさなだち御相恰ごさうがふよくしのみか音聲おんじやう迄も其儘なれば十が九ツ此企このくはだて成就せんと云に皆々打よろこび茲に主從しうじうの約をぞむすび五人かしらを差寄て密談みつだん數刻すこくに及びける伊賀亮申すやう斯樣かやうなる大望を企てるには金子とぼしくては大事成就覺束おぼつかなし第一に金子の才覺さいかくこそ肝要かんえうなれ其上にてはからふむねこそあれ各々の深慮しんりよは如何と申ければ天一坊進出すゝみいでて其金子の事にて思ひ出せし事ありそれがし先年九州へ下りしみぎ藝州げいしう宮島みやじまにて出會であひし者あり信州しんしう下諏訪しもすは旅籠屋はたごや遠藤ゑんどう屋彌次六と云ふ者にて彼は相應さうおうの身代の者のよしかたらおきし事も有ば此者を手引てびきとし金子きんす才覺さいかく致させんには調達てうだつすべき事もあらんと云にまかつひに其儀にけつ密々みつ〳〵用意して天一坊と大膳の兩人は長洞ながほら村を出立し信州下諏訪へとおもむきたりやうやく遠藤屋彌次六方へちやく案内あんないこひ先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し早速さつそくむかへ能こそ御たづね下されしと夫より種々しゆ〴〵饗應きやうおうに手をつくしける天一坊は大膳を彌次六に引合ひきあは種々いろ〳〵内談ないだんに及びぬ爰に諏訪明神の社人しやにん諏訪右門すはうもんとて年齡としいまだ十三歳なれど器量きりやう拔群ばつくんすぐれし者有り此度遠藤屋へ珍客ちんきやくの見えしと聞より早速さつそく彌次六方へ來り委細ゐさいきゝつひに彌次六の紹介とりもちにて天一坊に對面たいめんげ是も主從のやくをぞむすびける是より彌次六は只管ひたすら天一坊を世にいださんものとふかく思ひこみ兎角とかくして金子を調達てうだつせんと右門にも内談ないだんをなすに右門の申やう我等われら同職どうしよくうちにて有徳うとくなるは肥前ひぜんなり此者を引入ひきいれなば金子の調達てうだつも致すべし此儀如何あらんと申ければ彌次六も大いによろこ早々さう〳〵夫となくかの肥前をまね樣々さま〴〵饗應もてなしゐる内天一坊には白綾しらあや小袖こそで紫純子むらさきどんす丸蔕まるぐけわざにはへ出て小鳥ことりながめ居るさまにもてなし肥前が目にとまりて心中にあやしと思はせん者とはかるとはつゆ知らざれば肥前は亭主ていしゆの彌次六に向ひたゞ今庭へ出給ふ御方は如何いかなる客人にや當人たゞびととは思はれずと云に彌次六は仕濟しすましたりと聲をひそめあの御方の儀に付ては一朝一夕いつてういつせきのべがたしまづ斯樣々々かやう〳〵の御身分の御方なりとてつひに天一坊と赤川大膳だいぜんに引合せすなはち御墨付すみつきと御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は篤實とくじつの者故いたおそうやまひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞといづれにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり何卒なにとぞ貴殿きでん周旋しうせんにて金子の御口入くちいれあひ成まじきやと餘儀よぎもなくたのみければ肥前はなれば拙者せつしやには多分の儀は出來かねれど少々は工夫くふうせんと聞て兩人は大によろこびいよ〳〵金子御調達下てうだつくださるれば天一坊樣江戸表にて御親子しんし對顏たいがん相濟あひすみなば當明神を御祈願所きぐわんじよと御定め一ヶ年米三百ぺうづつ永代えいだい寄附きふある樣に我々取計とりはからひ申べし然すれば永く社頭のほまれにも相成候事なり精々せい〴〵はたらき下されと事十分なるたのみの言葉ことばに肥前の申樣は御入用の金子は何程いかほどぞんせねど拙者せつしやに於ては三百兩を御用立ようだて申べし其上は自力じりきに及びがたしといふ彌次六申やう御入用高は未だとく相伺あひうかゞはねばまづ貴殿方きでんかたの御都合つがふもあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は委細ゐさい承知しようちなして歸宅きたくせしが早速さつそく右の金子三百兩持參ぢさんしければ此むね天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ毎年まいねん奉納ほうなふ有べしとしたゝめし證文しようもん引替ひきかへにし金子をば受取一先美濃國みのゝくにへ立歸らんと天一坊は大膳右門うもん遠藤屋彌次六との三人を同道して常樂院じやうらくゐんへ歸り來りて右の首尾しゆびを物語れば常樂院もさらば拙僧せつそうも一目論もくろみして見よと庚申待かうしんまちもよほ講中かうちうの内にて紺屋こんや五郎兵衞蒔繪師まきゑし三右衞門米屋六兵衞呉服屋ごふくや又兵衞の四にんを跡へ止め別段べつだん酒肴しゆかうを調のへ一間へまねきて酒も餘程よほどまはりしころ常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世をしのび給ひし天一坊樣は實は佐州さしう相川郡尾島村をじまむら淨覺院じやうがくゐんの門前にすてられ給ひしを師匠ししやう天道和尚のひろひし上弟子でしいたし置れしがまつたくは當將軍家の御部屋住へやずみの内の御落胤らくいんなり此度御還俗遊げんぞくあそばし我々御ともにて江戸おもてへ御のぼり遊ばすなり御親子しんし對顏たいがんの上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは必定ひつぢやうなり夫に付ては差向さしむき金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者にはすなはち三百石の御高おんたかを下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是にじゆんじて宛行あておこなはるゝ思召なりれば各々方おの〳〵がたも今の内に御用金を差上られなば御直參ぢきさんに御取立に成樣師檀しだんよしみを以て拙僧よろしく御取持せん思しめしもあらばうけたまはらんと説法口せつぱふぐちべんに任せて思ふ樣にたばかりければ四人の者共は先頃さきごろよりの寺の動靜やうす如何樣かく有んと思へど誰もたくはへは無れど永代えいだいの家のかぶと無理にも金子調達てうだつ仕つらんそれには御實情じつじやうの處もうかゞひたしといふに心得たりと常樂院はおくおもぶき此由をはなすぐに四人をともなひて客殿きやくでん末座ばつざに待せ置き其身もせきつらなりける四人ははるか向ふを見れば上段のみすの前にかしら半白はんぱくにして有てたけからぬ一人のさふら堂々だう〳〵として控へたり是ぞ山内伊賀亮いがのすけなり次は未壯年さうねんにして骨柄こつがらいやしからぬ形相ぎやうさうの侍ひ二人是ぞ赤川大膳だいぜんと藤井左京さきやうにて何れも大家の家老職と云ともはづかしからざる人品じんぴんにて威儀ゐぎを正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり


第十六回


 さても常樂院は紺屋こんや五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々うま〳〵と用金を出させんと先本堂ほんだうの客殿にしやうれいの正面のみすを卷上れば天一坊はあつたけからざる容體ようだいに着座す其出立には鼠色ねずみいろ琥珀こはく小袖こそでの上に顯紋紗けんもんしや十徳じつとくを着法眼袴はふげんはかま穿はきたり後の方には黒七子くろなゝこの小袖に同じ羽織茶宇ちやうはかま穿はき紫縮緬むらさきちりめん服紗ふくさにて小脇差こわきざしを持たる剪髮ぜんぱつの美少年の面體めんていゆきあざむくが如きは是なん諏訪右門なり其かたはらに黒羽二重くろはぶたへの小袖に煤竹色すゝたけいろ道服だうふくを着したるは遠藤屋彌次六一號鵞湖山人がこさんじんなりいづれ整々せい〳〵として控たれば四人の者は思はずはつと計りに平伏へいふくす時に天一坊こゑ清爽さはやかに其方共此度予に隨身ずゐしんせんとの願ひ神妙しんめうに存ずるなりよつて父上よりたまはりし證據しようこの御品拜見さし許し主從のさかづき取らすべしとのことばの下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷うや〳〵しく持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒なにとぞ家來けらいに御召かゝへ下され度と詞をつくして願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺さいかくして差出し御判物はんものを戴き帶刀たいたう苗字めうじをゆるされしかば夫々に改名かいめいして家來分となりにけるまづ紺屋五郎兵衞は本多源右衞門ほんだげんゑもん呉服屋又兵衞は南部權兵衞なんぶごんべゑ蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人ふぢしろかなめと各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間いるま郡川越に有徳うとく親類しんるゐあれば彼方どなたか御同道下さらば金千兩位は出來しゆつたいすべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越ざいの百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續てつゞきにてべんまかして諸人を欺き櫻井村にて右膳うぜん權内ごんない内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井わくゐ五兵衞千つか六郎兵衞大圓寺だいゑんじ自性じしやう寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩出來しゆつたいせりさて千塚ちつか六郎兵衞は帳本ちやうもとにて金子は常樂院へ持參の上證文と引替ひきかへ約束やくそくにて伊賀亮に附從つきしたがひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州さうしう浦賀うらがに有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越たちこえ六郎兵衞のすゝめに因て江戸屋七左衞門叶屋かなふや八右衞門美作みまさか屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御出府しゆつぷせつ途中とちう迄御出迎仕むかへつかまつらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃みのへ立もどり川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來しゆつたいせしと物語れば皆々大によろこまづ六郎兵衞に夫々の判物はんものわたせしかば六郎兵衞は是を請取うけとり川越の地へ歸りけりあとに皆々此圖をはづさず近々に江戸表へくだらんと用意にこそはかゝりける先呉服物一式いつしきは南部權兵衞是を請込うけこみ染物そめものは本多源右衞門塗物ぬりものの類は遠藤森右衞門が引請夜を日についで支度にかゝれば二月の末には萬々ばん〳〵用意はとゝのひたり爰に皆々を呼集よびあつ評定ひやうぢやうに及ぶ樣はすぐさま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜やうすうかゞはんやと評議區々まち〳〵にて更に決着けつちやくせざりしにぞ山内伊賀亮すゝみ出て申樣はすぐに江戸表へ罷下まかりくだらん事先以て麁忽そこつに似て然べからず其仔細しさいは先年駿河大納言殿の御子息しそく長七郎君も先大坂へ御出の吉例きちれいあれば此先例にまかせ一先大坂へ出張ゆる〳〵關東くわんとう動靜やうすを見定めへんおうじて事をはからはんこそ十全のさくと云べしとつくして申ければ皆一同に此議に同ず道理もつともの事とて評議は此に決定したりさらいそぎ大坂へ旅館りよくわんかまへ是へ御引移ひきうつりあるべしとて此旅館のかり受方には伊賀亮が内意ないいを受則ち常樂院が出立する事にぞさだまりぬ頃は享保きやうほ十一午年うまどし三月朔日ついたち常樂院は美濃國長洞ながほら村を出立し道を急ぎ大坂渡邊わたなべ紅屋庄藏べにやしやうざう方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿はたごや金比羅こんぴら參りの定宿ぢやうやどにて常樂院は其夜主人あるじの庄藏を呼近づけ申樣は此度聖護院せいごゐんみや配下はいか天一坊樣當表へ御出張に付御旅館取調とりしらべの爲に拙寺が罷越まかりこし候なり不案内の事ゆえ萬端ばんたんもとをおたのみ申なりとて手箱のうちより用意の金子を取出しこれは些少させうながら御骨折料ほねをりれうなりと差出しければ庄藏は大いによろこ委細ゐさいかしこまり候とよく未明みめいより大坂中を欠廻かけまはつひに渡邊橋向ふの大和屋やまとや三郎兵衞の控家こそ然るべしとかり入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速承知しようちしければ庄藏は我家へ歸り其おもぶきを常樂院へ物語れば常樂院はひとへに足下のはたらきなりしと賞賛しやうさんし庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方におもむべんかざりて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下そくか控家ひかへや借用しやくようの儀を頼入たのみいれしに早速の承知かたじけなしと述終のべをはり此は輕少けいせうながら樽代たるだいなりと金子をおくり借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印てういん宿老しゆくらうへも相屆け萬端ばんたん事も相濟たれば常樂院はなほも紅屋方に逗留とうりうし翌日より大工泥工さくわん諸職人しよしよくにんを雇ひ破損はそんの處は修復しゆふくを加へ新規しんき建添たてそへなどし失費もいとはず人歩をまして急ぎければわづかの日數にて荒増あらまし成就じやうじゆしたれば然ばとて一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守るすのこしいよ〳〵天一坊樣御出張のせつは斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾しゆび斯樣々々かやう〳〵の場所へ普請ふしん出來しゆつたいの事まで申のべければ常樂院が留守中に此方こなたも出立の用意調とゝのひ居ればあらば發足有べしとて其手配てくばりに及びける頃は享保十一年四月五日いよ〳〵常樂院のもとを一同出立には及びたり其行列ぎやうれつには第一番の油箪ゆたんかけし長持十三さを何れも宰領さいりやう二人づつ附添つきそひその跡より萠黄もえぎ純子どんすの油箪白くあふひの御もんを染出せしを掛し長持ながもち二棹露拂つゆばらひ二人宰領二人づつなり引續ひきつゞきて徒士かち二人長棒の乘物にて駕籠脇かごわき四人やり挾箱はさみばこ草履取ざうりとり長柄ながえ合羽籠かつぱかご兩掛りやうがけ都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供さきとも御長持あづかりの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人網代あじろの乘物駕籠脇のさむらひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門諏訪すは右門遠藤彌次六藤代要人かなめ等なり先箱二ツは手代てがはりとも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人傘持かさもち草履取合羽籠兩掛茶辨當ちやべんたう等なり引續いて常樂院天忠和尚をしやう藤井左京山内伊賀亮等いづれも長棒の乘物にて大膳が供立に同じそう同勢二百餘人其さま美々びゞしく長洞村を出立し大坂さしおもむき日ならず渡邊橋向のまうけの旅館へぞちやくしたり伊賀亮が差圖さしづにて旅館の玄關げんくわん紫縮緬むらさきちりめんあふひの御紋を染出せしまく張渡はりわたひのきの大板の表札へうさつには筆太ふでぶとに徳川天一坊旅館の七字を書付て門前におし立玄關には取次の役人繼上下にて控へいかにも嚴重げんぢうの有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向いつかうに知ざる處ろ翌朝よくてうに至り市中の者共は是を見付て只きもつぶすばかりにて誰云となく大評判だいひやうばんとなり紅屋は不審ふしんはれかくもと大和屋三郎兵衞方へいたり前の段を物語り後難こうなんおそろしければ何に致せ表札と幕をば一先はづさせ申べしとて兩人は急にはかま羽織はおりにて彼旅館へおもむき中の口に案内をこはば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄わうへいに何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手をつき私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒急速きふそくに常樂院樣に御目とほり願ひ相うかゞひ度儀ありて推參すゐさん仕れり此段御取次下さるべしと慇懃いんぎんに相のぶれば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申しつうじければ天忠和尚はさては紅屋等が何か六かしき事を申こしたかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮打點頭うちうなづき夫こそ表札幕へうさつまくなどの事にて來りしならん返答へんたふの次第は斯々かう〳〵委細ゐさいに常樂院へ差圖さしづしたりける


第十七回


 かくて常樂院は伊賀亮いがのすけの内意をうけ徐々しづ〳〵と出で來り彼庄藏かのしやうざう三郎兵衞の兩人に對面たいめんするに兩人は口をそろへて申す樣なにとも恐入おそれいり候事ながら貴院きゐん先達せんだつて仰聞られ候には聖護院しやうごゐん宮樣の御配下ごはいかにて天一坊樣の御旅館りよくわんとばかり故庄藏御世話せわ申三郎兵衞の明店あきだな御用立差上候ひしに只今御玄關おげんくわんを拜見仕つるに徳川天一坊樣御旅館ごりよくわんとの御表札ごへうさつあり又御玄關おげんくわんには葵御紋あふひごもん御幕おんまくを張せられしが右樣の儀ならばまへ以て私共わたくしどもへおはなしの有べきはずなり若し此事町奉行所まちぶぎやうしよより御沙汰ごさたあらば貸主かしぬし三郎兵衞は勿論もちろん世話人の庄藏までの難儀なんぎなり何卒なにとぞ右の表札へうさつと御玄關なる御紋付ごもんつきのお幕はお取外とりはづしを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉ことばを聞て打笑乍うちゑみながら申けるは成程仔細しさいしらねばおどろくも無理ならずされども御表札ごへうさつ御紋付ごもんつきの幕を暫時ざんじなりとも取外とりはずす儀はかなひ難し其故は聖護院宮樣みやさま御配下ごはいか天一坊樣御身分は當將軍吉宗公よしむねこうの未だ紀州公御部屋住おへやずみの時分女中に御儲おんまうけの若君にて此度このたび江戸表へ御下向ごげかうあり御親子ごしんし御對顏ごたいがんの上は大方おほかたは西の丸へなほらせらるべし左樣にかるからぬ御身分おみぶんにて徳川は御苗字ごめうじなりまたあふひ御定紋ごぢやうもんなり其方たちが少しもあんじるには及ばず若も町奉行まちぶぎやうより彼是を申出ば此方へ役人をつかはすべし屹度きつと申渡すべきすぢあり其方共も落度おちどには毛頭もうとう相成あひなら氣遣きづかひ無用なり何分無禮ぶれいなきやうに致すべしと云渡いひわたしければ兩人は是をきゝきもつぶし將軍の御落胤ごらくいんとの事なれば少こし安堵あんどしけれども後々のとがめおそ早速さつそく名主組合へ右のだんとゞけ夫より町奉行の御月番おつきばん松平日向守殿御役宅おやくたくへ此段をうつたへける是によつひがし町奉行鈴木飛騨守殿ひだのかみどのへも御相談ごさうだんとなり是より御城代ごじやうだい堀田相模守殿へ御屆おんとゞけに相成ば御城代は玉造口たまつくりぐち御加番ごかばん植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿おほすみのかみどのへも御相談となりしが先年松平まつだひら長七郎殿のれいもあり迂濶うくわつには取計とりはからひ難し先々町奉行所へ呼寄よびよせとく相調あひしらべ申べしと相談さうだんけつし御月番なれば西町奉行松平日向守ひうがのかみ殿は組與力くみよりきほり十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋わたなべばしの天一坊の旅館りよくわんつかはさる兩人は玄關げんくわんより案内あんないに及べば取次は遠藤ゑんどう東次右衞門なり出て挨拶あいさつに及ぶに兩人の與力よりきの申には我々は西にし町奉行松平日向守組與力くみよりきなるが天一坊殿に御重役ごぢうやく御意ぎよいたし少々御伺おうかゞひ申度儀ありと取次とりつぎの遠藤東次右衞門は早速さつそく奧へかくと通ぜんとまづ兩人を使者ししやの間へしやうじ暫く御待おんまち有べしとひかへさせける間毎々々まごと〳〵立派りつぱに兩人もひそかにきもつぶし居しがやがて年頃は三十八九にていろしろせいたか中肉ちうにくにて人品じんぴん宜しき男の黒羽二重くろはぶたへ小袖こそであふひ御紋ごもんつけ下には淺黄無垢あさぎむくちやく茶宇ちやうはかま靜々しづ〳〵ならして出來るは是なん赤川大膳あかがはだいぜんなりやがて座に就て申樣拙者せつしやは徳川天一坊殿家來けらい赤川大膳と申者なり何等の御用向ごようむきにて參られしとたづねければ與力等よりきら平伏へいふくして私し共は當月番たうつきばん町奉行松平日向守組與力くみよりき堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守御目通おんめどほり致しぢき御伺おんうかゞひ申度儀御座候得ば明日御役宅迄やくたくまで天一坊樣に御入來ごじゆらいある樣とのおもむきなりとのべければ大膳はとく聞濟きゝすまし其段は一おううかゞひの上御返事おへんじに及び申べしと座を立て奧へ入しがしばらありて出來り兩人にむかひ御口上のおもむき上へうかゞひしに御意ぎよいには町奉行の役宅は非人ひにん科人とがにんの出入致しけがらはしき場所のよし左樣の不淨ふじやうなる屋敷へは予は參る身ならず用事ようじあらば日向守殿に此方へ來られよとの御意ぎよいなれば此段このだん日向守殿へ御達おんたつし下されと言捨いひすてて奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰てもちぶさたよんどころなく立歸たちかへり右の次第を日向守へ申きければ等閑なほざりならぬ事なりとて又も御城代ごじやうだい堀田相摸守殿さがみのかみどのへ申上らるれば左樣さやうの儀ならば是非ぜひなし御城代屋敷やしき呼寄よびよせ對面たいめんせんと再び堀片岡の兩人を以て御城代ごじやうだい堀田相摸守殿屋敷やしきへ明日天一坊殿いらせられ候樣にと申入ける此度このたび異儀いぎなく承知のおもむきの返答へんたふあり依て日向守殿には與力よりき同心へ申付るやう天一樣さだめし明日は乘物のりものなるべしされど御城代の御門前ごもんぜんにて下乘げじよういたさすべし若も下乘げじようなき時は屹度きつと制止せいしに及ぶべしと嚴重げんぢうにこそ申渡しあくるおそしとまたれける頃は享保きやうほ十一丙午年ひのえうまどし四月十一日天一坊は供揃ともぞろひして御城代の屋敷やしきおもむく其行列そのぎやうれつには先に白木しらき長持ながもちさを萌黄純子もえぎどんす葵御紋付あふひごもんつき油箪ゆたんを掛け宰領さいりやう二人づつあとより麻上下あさがみしもにて股立もゝだちとりたるさむらひ一人是は御長持おながもちあづかりの役なりつゞいて金御紋きんごもん先箱さきばこ二ツ黒羽織くろはおり徒士かち八人煤竹すゝたけ羅紗らしやふくろに白くあふひの御紋を切貫きりぬき打物うちものを持せ陸尺ろくしやく十人駕籠かごの左右に諏訪右門すはうもん本多源右衞門高間たかま大膳同じく權内ごんない藤代要人ふぢしろかなめ遠藤東次右衞門等また金御紋きんごもん跡箱あとばこ二ツ簑箱みのばこ一ツ爪折傘つまをりがさには黒天鵞絨くろびろうどむらさき化粧紐けしやうひもかけ銀拵ぎんごしらへの茶辨當ちやべんたう合羽籠かつぱかご兩掛りやうがけあとより徒士かち四人朱網代しゆあじろ駕籠侍かござふらひ四人打物うちものを持せ常樂院天忠和尚てんちうをしやう引續ひきつゞいておな供立ともたてにて黒叩くろたゝき十文字のやりを持せしは山内伊賀亮やまのうちいがのすけなり其次にも同じ供立に鳥毛とりげやりを持せしは藤井左京さきやうなり少しはなれて白黒しろくろ摘毛つみげの鎗を眞先まつさき押立おしたて麻上下あさがみしもにて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭おともがしらたり右の同勢堂々だう〳〵として渡邊橋の旅館を立出たちいでしたに〳〵と制しをなし御城代の屋敷やしきさして來りければ道筋みちすぢ見物けんぶつやまをなしておびただしく既に御城代屋敷へ到り乘物のりもの玄關げんくわん横付よこづけにせん氣色けしきを見るより今日出役しゆつやく與力よりき駈來かけきたる是ぞ島秀之助といふ者なり大音だいおんあげ下乘々々げじよう〳〵と制せしが更にきかぬ風してなほも門内へ舁込かきこまんとす此時このとき島秀之助駈寄かけより天一坊の乘物の棒鼻ぼうはなへ手をかけ押戻おしもど假令たとへ何樣いかやうなる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀こうぎより御達おたつなきうちは御城代の御門内ごもんない打乘うちのり決して相成申さず是非ぜひ御下乘とせいしてやまざれば然ばとて餘儀よぎなく門外にて下乘し玄關げんくわんへこそは打通うちとほりぬ

島秀之助が今日の振舞ふるまひのちに關東へ聞え器量きりやう格別かくべつの者なりとて元文ぐわんぶん三年三月京都町奉行まちぶぎやうを仰付られ島長門守しまながとのかみいひしは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享えんきやう三年寅年とらどし免ぜらる

此時天一坊の裝束しやうぞくには鼠琥珀ねずみこはく紅裏付こううらつきたる袷小袖あはせこそでの下には白無垢しろむくかさねて山吹色やまぶきいろ素絹そけんちやく紫斜子むらさきなゝこ指貫さしぬき蜀紅錦しよくこうにしき袈裟けさを掛け金作こがねづく鳥頭とりがしらの太刀をたいし手には金地の中啓ちうけいにぎ爪折傘つまをりがさ差掛さしかけさせくつしと〳〵と踏鳴ふみならし靜々とぞ歩行あゆみける附從つきしたがふ小姓こしやうの面々には麻上下あさがみしも股立もゝだちを取て左右を守護しゆごしける引續ひきつゞいて常樂院天忠和尚てんちうをしやうむらさきの衣に白地の袈裟けさを掛け殊勝しゆしようげに手に念珠ねんじゆたづさへて相隨あひしたがひ山内伊賀亮には黒羽二重くろはぶたへ袷小袖あはせこそで柿染かきぞめ長上下なががみしもその外赤川大膳藤井左京さきやう皆々麻上下にてつゞいて隨ひ來る其行粧そのぎやうさう威風ゐふう堂々だう〳〵として四邊をはら目覺めざましくも又勇々敷ゆゝしくぞ見えたりけるかくて玄關に到れば取次の役人やくにん兩人下座敷げざしきまで出迎でむかへ案内して廣書院ひろしよゐんへ通せしを見るに上段にはみすおろし中には二でふだいの上ににしきしとねを敷て座をまうけたり引れて此處このところ着座ちやくざすれば左右には常樂院天忠てんちう山内赤川藤井等の面々威儀ゐぎたゞして座をしめたり


第十八回


 大坂御城代ごじやうだい堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊をしやうし書院上段の下段げだんに御城代相摸守殿をはじめとして加番かばんには戸田大隅守殿おほすみのかみどの同植村土佐守殿町奉行まちぶぎやうには松平日向守ひうがのかみ殿鈴木飛騨守ひだのかみ殿大番頭おほばんがしら松平采女正うねめのしやう殿設樂したら河内守殿御目附おんめつけ御番しう列座れつざ縁側えんがはには與力十人同心二十人出役しゆつやく致しいと嚴重げんぢうかまへたり時に上段のみすをきり〳〵と卷上まきあぐれば御城代堀田相摸守殿平伏へいふくいたされ少しかしらを上て恐れ乍ら今般如何いかゞなる事ゆゑ御上坂ごじやうはん町奉行へ御屆おんとゞけもなく理不盡りふじん御紋付ごもんつきの御幕を御旅館ごりよくわんへ張せられ町家まちやには御旅宿ごりよしゆく相成候やあまつさへ御苗字ごめうじの表札をたてさせ給ふ事不審ふしんに存じ奉る此段うかゞひ申さん爲今日御招おんまねき申したり御身分のあきらかに仰聞おほせきかせられたしとぞ相述あひのべらる時に天一坊言葉ことばやはらげ相摸殿よくうけたまはられよ徳川は本性ほんせいゆゑ名乘申すまたあふひも予が定紋ぢやうもんなる故用ゆるまでなり何の不審ふしんか有べきとのことばを聞より相摸守殿はおそれながら左樣の仰聞おほせきけらるゝ計にては會得ゑとくつかまつり難し右には其御因縁そのごいんえんも候はんが其を委敷くはしく仰聞られくだされたしといふ其時そのとき伊賀亮少しくせきすゝみ相摸守殿に向ひ相摸守にはうへ御身分ごみぶん不審ふしんせらるゝ御樣子ごやうす是は尤も千萬なり御筋目おんすぢめの儀は委敷この伊賀より御聽おんきかせ申べし抑々そも〳〵天一樣てんいちさま御身分と申せばたう上樣うへさま未だ御弱年ごじやくねんにて紀州表御家老からう加納將監方に御部屋住へやずみにてわたらせ給ひ徳太郎信房のぶふさ君と申上し折柄をりから將監妻が腰元こしもとの澤の井と申女中に御不愍ごふびん掛させられ澤の井殿御胤おんたね宿やどし奉つり御形見おんかたみ等を頂戴ちやうだいし將監方をいとまを取生國は佐渡さどなれば則ち佐州へ老母諸共らうぼもろともに立歸りしが其後そののち澤の井殿には若君わかぎみうみ奉つり産後肥立さんごひだちかね相果られ其後は老母らうぼの手にて御養育ごやういく申せしが右の老母病死びやうしみぎり若君をば同國相川郡あひかはごほり尾島村淨覺院じやうかくゐんと申す寺の門前に御證據しようこの品を相添あひそへ捨子すてごとして有しを是なる天忠淨覺院住職ぢうしよくみぎひろひ上て御養育申あげし處間もなく天忠には美濃みのゝ各務郡かゞみごほり谷汲郷たにぐみがう長洞村常樂院へ轉住てんぢう致し候に付若君をもともなひ奉つれり依て御生長ごせいちやうの土地は美濃國にて候此度このたび受戒じゆかい得道とくだうなし奉つり常樂院の後住ごぢうにもなほし申べくと存じ候得どもまさしく當將軍の御落胤ごらくいんたるを知つゝ出家しゆつけになし奉らんは勿體もつたいなき儀に付今度我々守護しゆごし奉つり江戸おもてへ御供仕つるについては一度江戸表へ御下りのうへは二度京坂けいはん御見物ごけんぶつも思召にまかせられざるべしと依て只今のうち京坂けいはん御遊覽ごいうらんの爲當表たうおもてへは御出遊いであそばされしなり委細ゐさいは斯の如し相摸殿にも是にて疑念ぎねん有べからずと辯舌べんぜつ滔々たう〳〵として水のながるゝ如にのべたり是を聞居きゝゐ諸役人しよやくにん御城代をはじめとし各々おの〳〵顏を見合せたれあつて一ごん申出る者なく如何いかにももつともの事と思ふ氣色けしきなり此時御城代ごじやうだい相摸守殿申さるゝ樣は成程なるほど段々の御申立委細ゐさい承知しようちせり併し夫にはたしか御落胤おらくいんたるの御證據しようこ拜見はいけん願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊にむかひ御城代相摸守より御證據ごしようこ拜見はいけんの願ひあり如何いかゞつかまつらんと云に天一坊は願のおもむ聞屆きゝとゞけたり拜見致させよとの事なりすなはち赤川大膳御長持ながもちあけて内より白木しらきはこ黒塗くろぬりの箱とを取出し伊賀亮がまへへ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮もくれいうや〳〵しくくだんはこひもとき中より御墨附おんすみつきと御短刀たんたうとを取出し相摸殿いざ拜見はいけんと差付れば御城代はじめ町奉行に至る迄各々おの〳〵再拜さいはいし一人々々に拜見はいけん相濟あひすこれまぎれもなき正眞しやうじんの御直筆ぢきひつと御短刀なれば一同におどろき入る是に於て疑心ぎしんはれ相摸守殿には伊賀亮にむかかくたしかなる御證據おんしようこの御座ある上は將軍の御落胤ごらくいんに相違なくわたらせ給へり此段早速さつそく江戸表へ申たつ御老中ごらうちう返事へんじを得し上此方このはうより申上べしまづ夫れ迄は當表たうおもて御逗留ごとうりう緩々ゆる〳〵御遊覽ごいうらん有べき樣言上ごんじやうせらるべし御證據ごしようこの品々はまづ御納下おんをさめくださるべしと伊賀亮へかへしぬ是より種々饗應きやうおうに及び其日の八つすぎ御歸館ごきくわんふれぬ此度は相摸守殿には玄關げんくわん式臺迄しきだいまで御見送おんみおくり町奉行は下座敷へ罷出まかりい表門おもてもんを一文字に推開おしひらけば天一坊は悠然いうぜんと乘物のまゝもんを出るや否や下に〳〵の制止せいし聲々こゑ〴〵とゞこほりなく渡邊橋の旅館りよくわんにこそ歸りける今はたれはゞかる者はなく幕は玄關げんくわんひらめき表札は雲にもとゞくべく恰もあさひのぼるが如きいきほひなれば町役人まちやくにんどもは晝夜相詰あひつめいと嚴重げんぢう欵待あしらひなりさて御城代には御墨附おすみつきうつし并びに御短刀おたんたう寸法すんぱふこしらへ迄委敷くはしくしたゝ委細ゐさいを御月番の御老中へあて急飛きふひを差立らるこゝに又天一坊の旅館りよくわんには山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等なほ密談みつだんに及び大坂は餘程よほどとむなり此處にて用金ようきんあつめんと評議ひやうぎに及び即ち紅屋べにや庄藏大和屋三郎兵衞の兩人をまねき帶刀をゆるさて申談ずる樣は天一坊樣此度このたび御城代の御面會ごめんくわいも相濟たれば近々江戸表よりの御下知おげぢ次第江府かうふへ御下り有て將軍へ御對顏ごたいがん相濟あひすまば西の御丸へなほられたまふに相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金ごようきんを差出すに於ては返金へんきんは申に及ばず御褒美ごはうびとして知行ちぎやう百石づつ下し置れる樣拙者せつしやどもが屹度きつと取り計ひつかはすべし若し御家來に御取立をのぞまずば永代えいだい倉元役くらもとやく周旋しうせんすべし依て千兩は千石の御墨附おすみつきと御引替にくだおかるべしとかたらうに兩人とも昨日の動靜やうす安堵あんどしければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳きゝつたへて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞襖屋ふすまや三右衞門播磨はりま屋五兵衞等をはじめとして我先にと金子きんすを持參し少しも早く御用立ごようだつる者は知行ちぎやう多く下さるとて毎日々々紅屋べにや方へ取次とりつぎを頼み來る有徳うとくの町人百姓又は醫師など迄思ひ〳〵に五百兩千兩と持參する者引もきらず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同はまづこれにて差向さしむきまかなひ方には不自由無し此上あんじらるゝは江戸表えどおもて御沙汰ごさたばかり今や〳〵と相待あひまちける


第十九回


 さても大坂御城代の早打はやうちほどなく江戸へ到着たうちやくし御月番御老中ごらうぢう松平伊豆守殿御役宅へ書状しよじやうを差出せば御同役松平左京太夫殿さきやうだいふどの酒井讃岐守殿さぬきのかみどのを始め自餘の御役人列座れつざの席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を御相談ごさうだんあり何れもたしかなる證據しようこと有上は大切たいせつの儀なり宜しく上聞に達し御覺悟おんかくご有せらるゝ事成ばいそぎ當地へ御下おんくだり申し其上何樣いかやうとも思召にまかせ然るべしと評議ひやうぎ一決しけるが此儀を上へうかゞふには餘人にてはよろしからず兼々御懇命ごこんめいかうむる石川近江守然るべしとて近江守をまねかれ委細ゐさい申しふく御機嫌ごきげんを見合せ伺ひ申べしとのことにてまづ夫迄それまでは大坂の早打はやうち留置とめおけとの趣きなり近江守は甚だ迷惑めいわくの儀なれども御重役ごぢうやくの申付是非ぜひなく御機嫌のよろしき時節を待居たり或日將軍家には御庭おんにはへ成せられ何氣なにげなく植木うゑきなど御覽遊ごらんあそばし御機嫌ごきげんうるはしく見ゆれば近江守は御小姓衆おこしやうしう目配めくばせし其座を退しりぞけ獨り御側おんそば進寄すゝみより聲をひそめて大坂より早打はやうちの次第をうかゞひたれば甚だ御赤面ごせきめんの體にてしらぬ〳〵との上意じやういなれば推返して伺ひけるに成程なるほど少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は御答おこたへの趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方御評議ごひやうぎとなり御連名にて返翰へんかんを遣されたり其文は先達せんだつ仰越おほせこされ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處上樣うへさまには御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分粗略そりやくなく御取計ひ有べく候なほ御機嫌ごきげんを見合せ追て申達すべしとの返翰へんかんなり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとのなれば御城代ごじやうだいの下知としてにはかに天一坊の旅官りよくわんを前後左右に竹矢來たけやらいを結び前後に箱番所はこばんしよを取建四方の道筋みちすぢへは與力同心等晝夜出役して往來わうらいの旅人うま駕籠かご乘打のりうちを禁じ頭巾づきん頬冠ほゝかぶりをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の首尾しゆびも宜しき事と見えたりとて各々おの〳〵よろこび勇み居たりけり


第二十回


 去程に御城代ごじやうだいより天一坊の旅館を斯く嚴重に警固けいごありければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は成就じやうじゆせりと悦びさらば此上は近々のうち當所たうしよを引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢ゐせいを示し其より江戸表へ下るべし相談さうだん一決いつけつせしが未だ御家來不足なり大坂にて召抱めしかゝへんと夫々へ申付此度新規しんきに抱たる者共には米屋甚助事石黒善太夫いしぐろぜんだいふ筆屋三右衞門事福島彌右衞門ふくしまやゑもん町方住居ぢうきよの手習師匠矢島主計やじまかずへ辰巳屋たつみや石右衞門番頭三次事木下新助きのしたしんすけ伊丹屋十藏事澤邊さはのべ十藏酒屋長右衞門事松倉まつくら長右衞門町醫師いし高岡玄純たかをかげんじゆん酒屋新右衞門事上國かみくに三九郎鎗術さうじゆつ指南しなんの浪人近松ちかまつげん八上總屋五郎兵衞事相良さがらでん九郎と各々改名かいめいさせ都合十人の者を召抱めしかゝへ先是にてなりに合べし然らば片時へんじも早く京都へ立越べしと此旨を御城代へとゞけける使者は赤川大膳是をつとむ其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京ごじやうきやう遊ばすに付當表の御旅館りよくわん引拂ひきはらひ成べくに付此段お達しに及ぶとのおもむきなり夫と聞より大坂の役人中やくにんちう疫病神やくびやうがみを追拂ふが如くに悦び片時も早く立退たちのかせんと内々ない〳〵さゝやきけるとなり斯て天一坊の方にてはまづ京都きやうとの御旅館の見立役みたてやくとして赤川大膳は五六日先へ立て上京し京中きやうちう明家あきやを相尋ねしに三條通でうとほりの錢屋四郎右衞門らうゑもん方に屈竟くつきやうの明店あるを聞出し早速さつそく同人方へ到り掛合樣此度聖護院しやうごゐんみや御配下天一坊樣御上京につき拙者せつしや御旅館展檢てんけんため上京し所々聞合せしに貴所方きしよかた明店然るべしと申事なり何卒なにとぞ御上京御逗留中ごたうりうちう借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく承知しようちしければ同人の口入くちいれにて直樣金銀ををしまず大工だいく泥工さくわんを雇ひ俄に假玄關かりげんくわんを拵らへ晝夜の別なく急ぎ修復しゆふくを加へ障子しやうじ唐紙からかみたゝみまで出來に及べば此旨このむね飛脚ひきやくを以て大坂へ申こせば然ば急々上京すべし尤とも此度このたびは大坂表へ繰込くりこみせつより一際ひときは目立樣にすべしと伊賀亮いがのすけは萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々役割やくわり申付用意も荒増あらましに屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の連名れんめいにて大膳方へ書翰しよかんを以て彌々いよ〳〵明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意そのようい有べしとしたゝめ送れり頃は享保十一丙午年六月十日の早天さうてんに大坂渡邊橋わたなべばしの旅館を出立す其行列そのぎやうれつ以前に倍して行粧ぎやうさう善美ぜんびよそほひ道中とゞこほりなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞちやくなせり則ち大坂の如くに入口玄關へはむらさ縮緬ちりめんあふひもんの幕を張渡はりわたし門前へは大きなる表札へうさつを立置ける錢屋ぜにや四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に對面たいめんして仔細を問に天一坊樣はたう將軍の御落胤らくいんなれば徳川の表札御紋付の幕も更にはゞかる儀にあらずと彼紅屋等かのべにやらに語りし如く空嘯そらうそふいて告ければ四郎右衞門は今更詮方せんかたなく迷惑めいわくが無ればよしと心中に思ふのみ乍ら捨置すておいては無念ならんと此段奉行所ぶぎやうしよ町役人ちやうやくにん同道どうだうにて訴へいでおもむきは此度錢屋四郎右衞門方へ聖護院宮樣しやうごゐんのみやさま御配下ごはいか天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に昨夜さくや御到着ごたうちやくのち玄關げんくわんへは御紋付きの御幕をはりあまつさへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御本姓ほんめいあふひ御定紋ごぢやうもんとの趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを書面しよめんにし訴へいで町奉行所にては是ぞ大坂にうはさの有者しか理不盡りふじんの振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに召連めしつれまゐるべし仰せかしこまり候とて手附てつきの與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに嚴重げんぢうなる有樣なれば粗忽そこつの事もならずとまづ玄關げんくわんに案内をこひ重役ぢうやくに對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければやがて山内伊賀亮繼上下つぎかみしもにて出來いできたり與力に向ひ申す樣各々には何用なにようの有て參られしやといふにこたへて餘の儀に非ずたとへ何樣いかやうの御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御とゞけあるべき筈なるに其儀もなくあまつさへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御同道どうだう申さんため我々兩人まゐつて候なりと聞て伊賀亮はわざ氣色けしきへ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には如何樣いかやう身分みぶんにて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ召連めしつれ奉らんなどうへへ對し容易よういならざる過言くわごん無禮ぶれいとや言ん緩怠くわんたいとや言ん言語に絶せし口上かなかたじけなくも天一坊樣には當將軍家の御落胤らくいんにて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成御左右ごさう次第しだい江戸へ御下向ごげかう御積おんつもり其間に京都御遊覽いうらんの爲め上京じやうきやう此段町奉行にも心得有べき筈不屆至極ふとゞきしごくの使者今一言申さばと威丈高ゐたけだか遣込やりこめ其上汝知らずや町奉行所はとがざい人の出入する不淨ふじやうの場所なり左樣なるけがれし場所へ御成を願ふは不埓千萬ふらちせんばんなり伺ひ度儀あらば奉行が自身に參上さんじやうすべき筈なり今般の儀は役儀やくぎに免じ御許しあるべし此趣き早々まかり歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツとおくいれば兩人は散々にはぢしめられ凄々すご〳〵と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は捨置すておき難しと早速さつそく諸司代しよしだいへ到り牧野丹波守殿まきのたんばのかみどのへ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味をとげ相違無に於ては當表たうおもてよりも江戸へ注進ちうしんすべしと評定ひやうぢやう一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方こなたは思ふつぼなれば此度は異儀いぎなくまゐるべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと行列ぎやうれつよそほひ諸司代屋敷へおもむきしかば牧野丹波守殿對面たいめん有て身分より御證據しようこの品の拜見もありしに全く相違なしと見屆みとゞけ京都よりも又此段を江戸表御月番御老中おつきばんごらうちう御屆おんとゞけに相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの早打はやうち上聞じやうぶんに達せしに御覺悟ごかくご有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略そりやく無樣なきやうはからひ申さるべしとの事ゆゑさらば其儘に差置さしおかれずとにはか組與力等くみよりきら出張せしめ晝夜ちうやとも嚴重げんぢうかためさせける此方にては愈々上首尾と打悦うちよろこび又も近邊の有徳なる者どもを進め用金ようきんをばあつめける京都にても五萬五千兩程集まりきやう大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば最早もはや金子は不足ふそくなし此勢にじようじて江戸へ押下おしくだりいよ〳〵大事を計らはんは如何にと相談さうだんありしに山内伊賀亮進出て云やう京坂は荒増あらまし仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く是迄これまでとはちがひ先老中には智慧ちゑ伊豆守いづのかみあり町奉行には名代なだいの大岡越前などあれば容易には事を爲難なしがたし依て一先ひとまづ江戸表へ御旅館ごりよくわん修繕しつらひとく動靜やうす見計みはからひ其上にて御下り有て然るべし其あひだには江戸表の御沙汰ごさたも相分り申さんへんおうじて事を計らはざれば成就じやうじゆほど計難はかりがたしといふに然ば江戸表に旅館りよくわんかまゆる手續てつゞきに掛らんとて常樂院の別懇べつこん南藏院なんざうゐんいふ江戸芝田しばた町に修驗者しゆけんじやあれば此者方へ常樂院じやうらくゐん添状そへじやうを持せ本多源右衞門ほんだげんゑもんに金子を渡しまづ江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸芝田しばた町南藏院方へちやくし常樂院の手紙てがみわたし其夜は口上にて委細ゐさいはなしに及べば南藏院はとくと承知し早速さつそく懇意こんいなる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞あはやきちべゑ品川しながは宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋まつや四郎下鎌田村しもかまだむら長谷川はせがは兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等べつかふやきすけとうの五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面ぢめん芝高輪しばたかなわ八山やつやまあるを買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間大書院おほしよゐん書院しよゐん居間ゐま其外諸役所長屋等迄とうまでのこる所なく入用をいとはず晝夜ちうやを掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて荒増あらまし出來上り建具屋たてぐや疊張付たゝみはりつけ諸造作しよざうさく庭廻にはまはりまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけりよつて本多源右衞門と南藏院の兩名りやうめいにて普請ふしん出來せし旨を京都へ申つかはしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談みつだんとげいよ〳〵江戸の普請ふしん成就じやうじゆの上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す謀計ぼうけい幾計いくらもあるべし首尾能御目見おんめみえさへ濟ば最早氣遣きづかひなし然ば發足有べしと江戸下向げかうの用意にこそはかゝりける


第二十一回


 かくて江戸高輪の旅館りよくわん出來しゆつたいの由書状しよじやう到來せしかば一同に評議ひやうぎの上早々江戸下向と決し用意も既に調とゝのひしかば諸司代牧野丹波守殿まきのたんばのかみどのへ使者を以て此段を相屆あひとゞける頃は享保きやうほ十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列ぎやうれつ先供さきどもは例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人りやうにん一日代りの積りにて其供方には徒士かち若黨わかたう四人づつ長棒ながぼう駕籠かご陸尺ろくしやく八人跡箱あとばこ二人やり長柄ながえ傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて眞先まつさきなる白木しらきの長持にはあふひ御紋ごもん染出そめいだしたる萌黄緞子もえぎどんす油箪ゆたんを掛て二棹宰領四人づつ次に黒塗くろぬり金紋きんもんむらさきの化粧紐けしやうひもかけたる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く御紋ごもんを切付しふくろ打物うちもの栗色くりいろ網代あじろの輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ跡箱あとばこ二ツ是も同く黒ぬり金紋付むらさきの化粧紐けしやうひもを掛たりつゞいて簑箱みのばこ一ツ朱の爪折傘つまをりがさ天鵞絨びろうどの袋に入紫の化粧紐を掛たり引馬ひきうま一疋銀拵ぎんごしらへの茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて朱塗しゆぬりに十六葉のきくもんを付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人打物うちものを先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の徒士かち若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮ほかに乘物十六ちやう駄荷物十七桐棒きりぼう駕籠五挺都合上下二百六十四人の同勢どうぜいにて道中すぢは下に〳〵と制止聲を懸させ目をおどろかすばかりいと勇ましく出立し既に三河國かはのくに岡崎の宿へぞちやくしける此岡崎をかざきの城下は上の本陣ほんぢん下の本陣迚二軒あり天一坊はかみの本陣へ旅宿りよしゆくを取表に彼の大表さつに徳川天一坊旅宿とかきしを押立おしたて玄關にはむらさき縮緬の幕をはり威儀ゐぎ嚴重げんぢうに構へたり此時下の本陣には播州ばんしう姫路ひめぢの城主酒井雅樂頭殿どの歸國の折柄にて御旅宿なりしが雅樂頭うたのかみ殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來におほせらるゝやう兼々かね〴〵江戸表にもうはさありし天一坊とやら此度このたび下向と相見えたり此所にて出會ては面倒めんだうなり何卒行逢ゆきあはぬ樣にしたしと思召御近習きんじゆを召て其方ひそかに彼が旅宿のへんへ參り密々明日の出立の時間じかんを聞合せ參るべしと申付らる近習はやがて上本陣の邊りへ立越便宜びんぎうかがへば折節本陣よりさぶらひ一人出來りぬればすゝみ寄て天一坊樣には明日は御逗留ごとうりうなるや又は御發駕ごはつがに相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は當所たうしよに御逗留の積なりとぞ答へたりこれは伊賀亮が兼てのたくみにて若も酒井家より明日の出立しゆつたつを聞合せてまゐるまじきにもあらず其時は逗留とうりうと答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に油斷ゆだんさせ明朝途中とちうにて行逢ゆきあひ威光ゐくわうを見せんとの謀計ぼうけいなりしとぞ斯る巧のありとはゆめにも知ず其言葉をまことと思ひ早速立歸たちかへりて雅樂頭殿へ此由このよしを申上れば然ば明朝は未明みめいかれに先立出立せん其用意致すべしと觸出ふれいだされける然ば其夜何れもる者なくはやくも用意に及びとらこくにも成ければ出立いたされくらきに靜々しづ〳〵と同勢を繰出さる天一坊かたには山内伊賀亮がはからひにてしのびを入れ此樣子を承知して遠見とほみを出し置雅樂頭殿出門しゆつもんあらば此方も出門に及ぶべしとこと〴〵く夜の内に支度を調へ今や〳〵と待居たり只今たゞいま雅樂頭出門とのしらせに直此方も繰出くりいだせり酒井家はかくあらんとは少しも知ず行列ぎやうれつ嚴重げんぢうに來懸る處此方は御墨附おすみつき短刀たんたうの長持を眞先に進ませ下に〳〵と制止せいしかくれば雅樂頭殿是をきゝ玉ひ驚かれしが今更いまさらあとへ引返さんも如何なり何とかせんと猶豫いうよの内に最早御墨附の長持と行逢ゆきあふ程に成たりこゝいたつて雅樂頭殿はよんどころなく駕籠かごより下てひかへられ御墨附の通る間雅樂頭殿にはかしらさげて居給へり元來もとよりたくみし事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に引添ひきそひて來り天一坊は駕籠の中よりこゑかけ酒井殿乘打のりうち御免ごめんと云捨て馳拔はせぬけければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと蹉跎あしすりなしていかり給ひしが今更詮方せんかたも無りしとぞ假初かりそめにも十五萬石にて播州姫路の城主たる御身分ごみぶん素性すじやうもいまだたしかならぬ天一坊に下座ありしは殘念ざんねんと云も餘りあり天一坊は流石さすが酒井家さかゐけさへ下座されしとわざ言觸いひふらし其威勢ゐせいおほなみの如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく揚々やう〳〵として下りけるは大膽不敵だいたんふてきの振舞と云べし扨も享保十一うま年九月廿日に京都を發足し威光ゐくわう列風れつぷうの如く十三日の道中だうちうにて東海道を滯りなく十月二日に江戸芝高輪八山やつやまの旅館へ着せり玄關にはれいの御紋附の幕をはり徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を押立おしたてたれば之を見る者さてこそうはさのある公方樣くばうさまの御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せばとがめも有んと恐れざるものもなく此段早くも町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿のみゝに入り彼所かしこたう奉行支配の地なれば捨置難すておきがたしと密々みつ〳〵調しらべられしうへこの段御老中筆頭ごらうぢうひつとう松平伊豆守殿いづのかみどのへ御屆に及ばるれば早速さつそく御老中若年寄わかどしより御相談ごさうだんうへまづ伊豆守殿御役宅おんやくたく相招あひまね實否じつぴ取糺とりたゞしの上にて御落胤に相違なきに於てはすみやかに上聞じやうぶんたつ取計とりはからひ方も有べしと評議ひやうぎ一決し則ち松平伊豆守殿より公用人こうようにんを以て八山やつやまなる旅館へ申遣しけるおもぶきは此度天一坊樣御下向ごげかうついては重役の者一とう相伺あひうかゞひ申たきこそ有ば明日五ツどき伊豆守御役宅へ御出あらせられたしとの口上こうじやうを申るればやがて山内伊賀亮出會しゆつくわいふたゝ出來いできたおんこしおもぶき伺ひし處明日みやうにち伊豆守殿御屋敷へいらせられ候儀御承知の御返答なり其節そのせつ萬端ばんたんよろしく伊豆殿に頼み入趣きなりとの挨拶あいさつなり扨翌朝になり八山にては行列をそろへ今日は先供として山内伊賀亮御墨附おすみつきの長持を宰領さいりやうす供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふほどなく伊豆守殿御役宅に到るに開門かいもんあれば天一坊の乘物は玄關げんくわん横付よこつけにしたり案内の公用人にひか廣書院ひろしよゐんへ通り上段じやうだんなる設の席に着す常樂院伊賀亮等はつぎへ着座す又此方に控へらるゝ御役人方おんやくにんがたには御老中筆頭ごらうちうひつとう松平伊豆守殿を始め松平まつだひら左近將監酒井さかゐ讃岐守戸田とだ山城守水野みづの和泉守若年寄わかどしよりには水野みづの壹岐守本多ほんだ伊豫守太田おほた備中守松平左京太夫御側御用人には石川いしかは近江守寺社じしや奉行には黒田くろだ豐前守小出こいで信濃守土岐とき丹後守井上ゐのうへ河内守大目附おほめつけには松平相摸守奧津おきつ能登守上田うへだ周防守有馬ありま出羽守町奉行には大岡越前守諏訪すは美濃守御勘定ごかんぢやう奉行には駒木根こまきね肥前守かけひ播磨守久松ひさまつ豐前守稻生いなふ下野守御目附には野々山のゝやま市十郎松田勘解由まつだかげゆ徳山とくやま兵衞へゑとう諸御役人しよおんやくにん輝星きらぼしの如く列座れつざせらる此時松平伊豆守殿進出すゝみいでて申されけるは此度天一坊殿關東くわんとう下向げかうに付今日御役人ども御對面ごたいめんねがふとのおもむきなり此時隔のふすまを押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も鷹揚おうやうに此方を見廻せば一どう平伏へいふくある時に伊豆守殿は伊賀亮にむかはれ申さるゝ樣天一坊殿御出生ごしゆつしやうならびに御成長の所は何の地なるやとたづねらるゝに此時常樂院は懷中くわいちうより書付かきつけを取出し御身分の委細ゐさいこれに相認め御座候と差出さしいだす伊豆殿請取うけとつて開き見らるゝに佐州さしう相川郡あひかはごほり尾島村をじまむら淨覺院じやうかくゐんの門前に御墨附に御短刀相添てすて是有これありしを淨覺院先住せんぢう天道てんだう是をひろひ揚て弟子とし參らせし處天道先年遷化せんげのち天忠即ち住職ぢうしよくつかまつり其みぎりに天一坊樣をも附屬ふぞく致され後年御世に出しまゐらすべしとの遺言ゆゐごんなれば天忠御養育ごやういくなし參らせし處其後天忠美濃國みのゝくに谷汲郷たにぐみがう長洞村ながほらむら常樂院へ轉住てんぢうせしに付御同道申あげ同院どうゐんにて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿見終みをはり玉ひ御書面にて先御誕生後ごたんじやうご御成長迄は分りたれどもいま如何いかなる御腹おんはらに御出生ありしや不分明ふぶんめいなり此儀は如何にととはれたり


第二十二回


 此時山内伊賀亮すゝみ申樣天一坊樣御身分の儀は只今たゞいまの書付にてくはしく御承知ならんが御腹の儀御不審ふしんもつともに存候されば拙者より委細ゐさい申上べしそもたう將軍樣紀州きしう和歌山わかやま加納將監方かなふしやうげんかたに御部屋住にて渡らせ給ふせつ將監しやうげんさい召使めしつか腰元こしもとさはと申婦女ふぢよ上樣うへさま御情おんなさけかけさせられ御胤を宿し奉りし處御部屋住おんへやずみなれば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄それまでは何れへ成とも身をよせ時節じせつを待べしとの上意にて御墨附おんすみつき御短刀おたんたうを後の證據しようことして下し置れしが澤の井儀はもと佐渡さど出生しゆつしやうの者故老母諸共生國佐州へかへり間もなく御安産なりしが産後さんご血暈ちのみちにて肥立ひだちかね澤の井樣には相果られ其後は老母らうぼの手にて養育やういく申上しが又候老母も病氣にて若君の御養育やういく相屆あひとゞかず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去しきよ致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言ゆゐごんかくの如し依て常樂院初め我々御守護申上何卒なにとぞ御世みよに出し奉らんと渺々はる〴〵御供おんとも申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々たう〳〵と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方おやくにんがたいづれもことばは無くたゞ點頭うなづくばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷くはしく相分りたり此上は御證據しようこの品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊にむかひ伊豆殿御證據の御しな拜見はいけんを相願はれ候如何いかゞはからひ申さんといふに天一坊はゆるすと計り言葉少なに言放せば大膳はかぎ取出し二品を取出し三寶さんばうのせ持出もちいで伊豆守殿の前に差置さしおくにぞ伊豆守殿初め重役の面々各々手水てうづして先御墨附を拜見はいけんに及ばる其文面そのぶんめんは例の如く

其方そのはう懷妊くわいにんの由我等血筋に相違是なしもし男子なんし出生しゆつしやうに於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等われらに添大切に致し候短刀たんたう相添あひそへつかはし置者也依て如件

寛永二申年十月
徳太郎信房
澤の井女へ

とあり御直筆おんぢきひつに相違なければ面々めん〳〵恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するにまがふ方なき御品なれば御老中若年寄わかどしよりには愈々將軍の御落胤ごらくいんに相違なしと承伏しようふくし伊豆守殿すなはち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻せんこくより重役ども一同御身の上委細ゐさい承知仕りかくの如くたしかなる御證據ある上は何をかうたがひ申べき將軍の若君わかぎみたるに相違なく存じ奉る此上は一同いちどうとく相談さうだん仕り近々に御親子御對顏ごたいがんに相成候樣取計ひ仕るべし夫迄それまで八山やつやま御旅館ごりよくわん御座成ござなされ候樣願ひ奉ると言上に及ばるこれにて御席おせき相濟あひすみ伊豆守殿より種々御饗應ごきやうおう有て其後歸館を相觸あひふれらる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光ゐくわう彌増いやましたり是にて愈々いよ〳〵謀計ぼうけい成就じやうじゆせりと一同安堵あんどの思ひをなしにけり扨又伊豆守殿御役宅おんやくたくには天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿水野和泉守殿みづのいづみのかみどの若年寄衆は水野壹岐守殿みづのいきのかみどの本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等御相談ごさうだんの上にて御側おそば御用御取次を以て申上られけるは先達せんだつて大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事今般こんぱん芝八山御旅館へ御到着ごたうちやくに付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れながら御身分の御調おんしらべ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしがいづれ近日吉日きちにちえらび御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日げん御沙汰おさたねがひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是をきこめされ限りなき御祝着ごしうちやくにて片時へんじも早く逢度あひたくとの上意なりし御親子の御間柄あひだがらまた別段べつだんの御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸りひとり熟々つら〳〵勘考かんかうあるに天一坊の相貌さうばう不審ふしん千萬なりと思はるれば翌朝よくてう未明みめい伊豆殿御役宅へ參られ御あひを願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談ごないだん有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守をまねかれける時に越前守低頭ていとうして恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御評議ひやうぎ如何候やうかゞたく參上せりときかれ伊豆守殿のおほせに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御落胤らくいんに相違なきと存ずればよつて上聞にたつせしにかみにも御覺悟かくご有らせられすみやかに逢度あひたくとの上意なれば近々吉日をえらび御對顏の取計とりはからひ其上は上の思召おぼしめしまかすべきに決せりとの事なり此時まで平伏へいふくせられし越前守かしらすこし上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議御決定ごけつぢやうに相成候を越前斯樣かやうに申上候ははなは恐入おそれいり候へ共少々思付候仔細御座候是を申のべざるも不忠ふちうと存候此儀私事には候はず天下の御爲おんためきみへの忠義ちうぎにも御座あるべく依てつゝまず言上仕り候越前儀未熟みじゆくながら幼少えうせうの時より人相にんさういさゝ相學あひまなび候故昨日あひへだち候へ共彼の方をとくと拜見候處御面相ごめんさう甚だよろしからず第一に目とほゝとのあひだ凶相きようさう現はる是は存外の謀計はかりごとくはだつる相にてまた眼中がんちう殺伐さつばつの氣あり是は人をがいしたる相貌さうばうなり且眼中に赤きすぢありて此筋このすぢひとみつらぬくは劔難けんなんの相にて三十日たゝざる内にやいばかゝ相果あひはつるの相なり斯る不徳ふとく凶相きようさうにして將軍の御子樣とは存じ奉りがたし越前守が思考かんがへには御品は實なれど御當人に於てはなにともあやしく存ずるなり愚案ぐあん御目鏡おめがねにはそむき候へども何卒なにとぞ此御身の上は今一おう越前へ吟味ぎんみ相許あひゆるし下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏ごたいがんの儀御取計ひ有るともおそかるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給きゝたまふよりたちまいかおもてあらはれ越前守を白眼にらまへ越前只今の申條過言くわごんなり昨日重役ども並に諸役人一同相調あひしらべし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極みきは上聞じやうぶんにもたつしたる儀を其方一人是をこば贋者にせものと申立たしかなる證據もなく再吟味さいぎんみ願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆ふゆきとゞきと申にや何分にも重役どもをないがしろに致す仕方しかた不屆至極ふとゞきしごくなりとしかり玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡れうけんを立んとて御重役をないがしろに致すべきや此吟味の儀は御法にそむき候とはいやしくも越前御役をも相勤あひつとむる身分なればわきまへ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じいさゝか忠義と心得候へば何卒なにとぞまげ御身分おみぶん調しらべの事一おう越前へ御許し下されたしとおして願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味をもどき再吟味を願ひもし將軍しやうぐんの御胤に相違なき時は其方そのはう如何致す所存にやとおほせられければ越前守つゝしんで答らるゝ樣御意ぎよいに候再吟味願の義は越前が身にかへての願ひに御座候へは萬一まんいち天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行ちぎやうは元より家名斷絶かめいだんぜつ切腹せつぷくも覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方はあくまで拙者どもないがしろにしおして再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞひかへられよと仰せらるれども假令たとへ身分は何樣いかやうに相成候ともくるしからず君への御爲天下の爲なり幾重いくへにも再吟味の儀御許し下され度ひとへに願ひたてまつると再三押て願はれければ伊豆殿散々さん〴〵氣色けしきそんぜられ其方左程さほどに再吟味致し度とあれば勝手かつてにせよと立腹りつぷくの體にて座をばたちたまひたり是によつて御列座も皆々退參たいさんと相成りければ跡に越前守只一人のこり手持てもちなき體なりしが外にせんすべもなくて凄々すご〳〵として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義にこりなる所存をかため種々に思案しあんめぐら如何いかにも天一坊怪敷あやしき振舞ふるまひなれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令たとへ此身は御咎おとがめかうむるとも明朝あすは未明に登城に及び直々ぢき〳〵將軍家しやうぐんけに願ひ奉るよりほかなしと思案をきはめ家來を呼び出され明朝みやうてうは六時の御太鼓たいこ相圖あひづに登城致すあひだ其用意そのよういいたすべしと云付けられたり


第廿三回


 扨も松平伊豆守殿には大岡越前守のもどられし跡にて熟々つら〳〵と思案あるに越前さだめし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へぢきに願ひ出るもはかがたし然ば此方も早く登城し越前に先をこし申上おかざればかなふ可らずと是も明朝明六時あけむつのお太鼓に登城の用意を申付られたりすでにして翌日よくじつ御城おんしろのお太鼓むつ刻限こくげん鼕々とう〳〵鳴響なりひゞけば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠かごをぞはせられけり又大岡越前守にはおなじく六のお太鼓を相圖あひづに是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下にしまるしたなり越前守の御役宅は數寄屋橋すきやばし御門内なれば其道筋そのみちすぢへだたれば伊豆守殿には越前守よりすこしく先に御登城あり御用ごよう取次とりつぎは未だ登城なく御側衆おそばしうの泊番高木伊勢守のみ相詰あひつめたりすなはち伊豆守殿芙蓉ふように於て高木伊勢守をめさ突然とつぜんと尋ねらるゝは貴所きしよには當時の役人中にて發明はつめいは誰れとの評判と存ぜらるゝやとたづねらるゝに伊勢守は不思議ふしぎの尋なりと當惑たうわくながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯づしうこう其許そのもとをこそ智慧伊豆ちゑいづ下々しも〴〵にては評判も致し御筆頭ひつとうと申し其許樣そのもとさまに上越す御役人はこれあるまじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置さしおき外々ほか〳〵の御役人にては誰が利口りこう發明はつめいなるうはさにやと仰せらる其時伊勢守さん候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やにうけたまはる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭うなづかれ成程當節たうせつは越前を名奉行と人々うはさを致すやに聞及べりされは越前はきらひなり兎角に我意がい振舞ふるまひ多く人をかろんずる氣色けしきありて甚だ心底しんていおうぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及びもし直願ぢきねがひ取次等とりつぎらを申出るとも取次させまじとわざかくは其意をさとらせし言葉なるべし

さて又大岡越前守には明六あけむつのお太鼓を相圖あひづに登城なされしがはや伊豆守殿には登城ありて芙蓉ふようひかへ給ひ伊勢守と何か物語ものがたりの樣子なれば越前守には高木伊勢守をひそかまねき語る樣は此度江戸表へ御下向おげかう有て芝八山の御旅館にまします天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は御相違ごさうゐなしとて近々御對顏ごたいがんの儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず其譯そのわけと申すは天一坊樣の御面相ごめんさうを拜するに目とほゝの間に凶相きようさうあらはれ中々以て高貴かうき相貌さうばうにあらず拙者の勘考かんかうには御證據の品は實ならんが御當人ごたうにん贋者にせものなりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしがはや評議ひやうぎ一決の由にて聞屆きゝとゞけられず由々敷ゆゝしき御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀御許おんゆるし下され候樣に直願ぢきぐわんつかまつり度何卒此段御取次下されたしと思ひ込で申ける高木伊勢守も打聞うちきいいたく驚きしが先刻せんこくの口上もあれば迷惑めいわくに思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の將軍家しやうぐんけ御許おんゆるしあるべしすれば伊豆守殿には不首尾ふしゆびと相なるべし當時此人ににくまれては勤役きんやくなり難しと思案しは大岡越前守が願ひ取次も御採用おとりもちひなき樣に言上ごんじやうするよりほかなしと思案をさだめ伊豆守殿の方へ目配めくばせしつゝ越州ゑつしう御願おんねがひおもむき早速さつそく上聞じやうぶんに達し申さんと立て奧の方へいたり將軍の御前へ出て申あげける樣はおそれ乍ら言上仕り候此度このたび御下向おげかうにて芝八山の御旅館にまします天一坊樣御事は先達さきだつて伊豆守役宅へ御招き申上御身分とく御調おんしらべ申上しに恐れながら君の御面部めんぶ其儘そのまゝ加之しかのみならず御音聲迄ごおんじやうまでよく似遊にあそばしうりを二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なくあらせらるれば近々きん〳〵御親子ごしんし御對顏ごたいがんの御儀式ぎしき執計とりはからひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前再吟味願度由さいぎんみねがひたきよし此段このだんうかゞひ奉ると言上に及びければ將軍にはきこめされ天一はよくるとや音聲迄おんじやうまでも其儘とな物の種は盜むも人種はぬすまれずと世俗せぞくことわざさもありあらそはれぬ者かな早々さう〳〵天一に逢度あひたしとの上意なり世の中の親の心はやみならねど子を思ふ道にまよふとか云ひて子をいつくしむ親の心はかみ將軍よりしも非人ひにん乞食こじきに至る迄かはる事なきことわりなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配しはいなりとて越前我意がいつのり吟味を願ふとなすでに重役ども取調べ予が子に相違なきにきはまりしを一人彼是かれこれと申こばむは偏執へんしふの致す處か再吟味は天下の法にそむく相成ぬと申せとの事なれば伊勢守はおほかしこまり奉り候とてやがて芙蓉の間へ出來いできたり上座につき越前上意なりと申渡さるゝに越前守にははるかに引下りて平伏へいふくなす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前我意がいつのり再吟味願の儀はすでに重役どもとくと相調べ相違なきを一人彼是申こばむは重役をないがしろに致す所行しよぎやうことに再吟味は天下の大法たいはふそむあひだ相成ぬとの上意なりと嚴重げんぢうにこそ申渡しける越前守ははつとばかり御受を致され恐入おそれいつ退出たいしゆつせらる跡より大目附土屋六郎兵衞下馬げばより駕籠かご打乘うちのり御徒士目附おかちめつけ御小人目附おこびとめつけ警固けいごして越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より閉門へいもんを申渡し表門には封印ふういんし御徒士目附御小人目附ども晝夜ちうや嚴重げんぢうに番をぞ致しける良藥は口ににが忠言ちうげんみゝさからふの先言せんげんむべなるかな大岡越前守は忠義一圖いちづ凝固こりかたまりて天一坊の身分再吟味の直願ぢきぐわんを致されしがかろからざる上意にて今は閉門へいもんの身となりけれど此事は中々なか〳〵打捨置難うちすておきがたき大事なれば公用人平石ひらいし右衞門吉田よしだ三五郎池田大助いけだだいすけの三人をまねかれ申されけるは予は天一を贋者にせものと思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが自己じこ言状いひじやうを立んとて取上られずよんどころなく今朝直願に及びしが是又御親子の御愛情あいじやうひかされ給ひ筋違すぢちがひの事重役を蔑如べつじよし大法に背くとの趣きにて重き上意をかうむり予は閉門へいもんを仰付られしが一同とも神妙しんめうに致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は平伏へいふくして御意の趣き委細ゐさい承知仕れりまことに月に浮雲うきくもさはり花に暴風ばうふううれひ天下の御爲忠義を思召おぼしめしての再吟味の御願ひ御許しなきのみかあまつさへ閉門を仰付られ候だんまことに是非もなき次第なり此上は何樣なにやうの御沙汰あらんも計り難しと愁傷しうしやうていなれば越前守には此體を見られ澘々はら〳〵落涙らくるゐせられ此方はよき家來を持て滿悦まんえつに思ふなり三人の忠節ちうせつ心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有ればひそかに申聞すべし近ふ〳〵と三人を側近そばちかくこそ進ませたり


第二十四回


 其時そのとき越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元ひざもとへ進ませ申されけるは其方共そのはうども家の爲め思ひくれだんかたじけなく存るなりよつて越前が心底しんていを申聞すなり今越前不慮ふりよの儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定ひつぢやうなり萬一御對顏ののち贋者にせものと相分るも最早もはや取戻とりもどしなり難しすれば第一天下の恥辱ちじよく二ツには君への不忠なり依て越前は短慮たんりよの振舞致さず今宵計略はかりごとを以て屋敷をしのび出んとおもふなり仔細しさいは斯樣々々なりまづ次右衞門其方の老母病死なりと申いつは不淨門ふじやうもんより出て小石川御館おやかた推參すゐさんし今一應再吟味の儀を願ふ所存しよぞんなり萬一小石川御屋形おやかたに於ても御取用おとりもちひなき時は越前が運命うんめいつくときなり其時予は含状ふくみじやうを出して切腹せつぷくすべし然有時さあるときは將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏ごたいがんあたふまじ其内には天一坊の眞僞しんぎ必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなればいそぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等こうようにんら早速さつそく古駕籠ふるかごちやう古看板ふるかんばん三ツ并びにおび三筋女の掛無垢等かけむくとうを用意なし日のくるゝをぞ相待あひまちける扨夜も初更しよこうの頃になりしかば越前守は掛無垢かけむくかしらよりかぶりて彼古駕籠に身をひそむれば公用人三人は中間體ちうげんていに身をやつし外に入用の品々は駕籠の下へ敷込しきこみ二人にて駕籠をき今一人は湯灌盥ゆくわんたらひつゑを添てになひ不淨門へ向ひ屆けるやうは今日用人平石次右衞門老母儀らうぼぎ病死びやうし致候依て只今菩提所ぼだいしよへ送り申なり御門御通し下さるべしとことわりけるに當番たうばんの御小人目附はぢやうを明け駕籠をあらため見るに如何さまをんなの掛無垢をかぶりしは死人のていなれば相違なき由にてとほしけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御堀端ほりばた通りを行鎌倉河岸かまくらがしまで來りたればまづ此所にて駕籠をおろし主從四人ほツとばかり溜息ためいきつきながらも先々首尾しゆびよくいつはり出しをよろこび最早氣遣きづかひなしとこゝにて越前守には麻上下あさがみしもを着用なし三人はいづれも羽織袴はおりはかまに改め駕籠等は懇意こんいの町人の家に預置あづけおき小石川さして急ぎ行に夜は次第にふけやゝ四ツ時とおぼしき頃小石川御館おんやかたには到りたりやがて御中の口へかゝりて案内をこふに取次出來れば越前守申さるには夜中やちうはなはだ恐入存ずれど天下の一大事に付越前ゑちぜん推參すゐさん仕つて候何卒中納言樣へ御目通おめどほりの儀願上奉るむねのべらる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言綱條卿つなえだきやう先達せんだつてより御病氣なりしが追々おひ〳〵御全快ごぜんくわいにて今日は中奧にうつらせ給ひ御酒ごしゆくだされて御酒宴の最中さいちうなり中にも山野邊主税之助やまのべちからのすけと云ふは年は未だ十七歳なれど家老職からうしよくにて器量きりやうひとすぐれしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席おんせきめさ御酒ごしゆ頂戴ちやうだいの折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前夜陰やいんの推參何事なるか主税其方對面たいめんいたし委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助はおもて出來いできたり越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助やまのべちからのすけと申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達せんだつてより御所勞ごしよらうなり夜陰の御入來じゆらい何樣なにやうの儀なるや御口上承まはるべしとの御意なりと叮嚀ていねい相述あひのべければ越前守頭をさげ扨申されけるは越前かく夜中やちうをもかへりみず推參すゐさん候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀御座有ござあつての儀なり此段御披露ひろうたのみ存ずるとぞのべられたり主税是を聞て尋常じんじやうの儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが國家の御大事を拙者せつしや如き若年者の承まはる可事覺束おぼつかなし兎も角も中納言樣へ言上ごんじやうの上御挨拶あいさつすべし暫く御控へ有べしと會釋ゑしやくして奧へ入り綱條卿つなえだきやうに申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事出來しゆつたいに付夜中をもはゞからず推參仕り候おもむき若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿きこめし深く驚かせ給ひ天下の一大事出來しゆつらいとは何事ならん夫は容易よういならざる事なるべし越前を書院しよゐんへ通すべし對面たいめんせんとのおほせなり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内あんないせらる最早中納言樣には御書院に入せられ御寢衣ねまきまゝ御着座遊おんちやくざあそばさる越前守には敷居際しきゐぎは平伏へいふくせらる時に中納言樣には越前近ふ〳〵との御言葉ことばに越前守は少し座をすゝかしらさげて申上らるゝやうおそれながら天下の御大事に付夜中をもかへりみず推參すゐさん候段恐入おそれいり奉り候御病中もいとはせ給はず御目通めどほり仰付おほせつけられ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥おんしとねを下られ給ひ天下の一大事たる儀をうけたまはるに略服りやくふくの段は甚だおそれ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入おそれいつ言上ごんじやうに及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御下向げかうありし天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御まねぎ申し御身分みぶん調しらべ申せしに將軍の御落胤らくいんたるに相違さうゐなく御證據の品も御座あれば近々きん〳〵御對面ごたいめんの御儀式ぎしきあらせらるべきあひだ取計とりはからひ申べしとの事に候然るに私いさゝ相學さうがくを心掛候に付きへだて候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部をひそかに拜し奉りしに御目とほゝの間に凶相きようさうあり存外ぞんぐわいなるたくみあるの相にて又眼中がんちう赤筋あかすぢあつひとみつらぬき候は劔難けんなんの相にて三十日以内にやいばに掛るべき相もあり旁々かた〴〵かゝ凶惡きようあく上將軍かみしやうぐんの若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品はじつなるべきが御當人に於ては贋者にせもの必定ひつぢやう見究みきはめ候依て重役共へ再吟味の儀度々どゝ申立候へども相許あひゆるさずよんどころなく今朝こんてう登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀直願ぢきぐわん仕りしが御親子しんしの御愛情あいじやうにや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役をないがしろにいたしうへ再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意のおもぶきにて越前閉門へいもん仰付おほせつけられ既に切腹とも存じ候へ共もし明日にも御對顏ある上萬一まんいち贋者にせものにてもある時は取返とりかへし相成らず御威光ごゐくわうにもかゝはり容易よういならざる天下の御恥辱ちじよくと存じ越前をしからぬ命をながらへ御とがめの身分をはゞからずおして此段御屋形樣へ言上ごんじやう仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状ふくみじやうを仕つり其節そのせつ切腹せつぷく仕るべき覺悟かくごに候然らば當年中にはよも御對顏のはこびには相成まじく其内に眞僞しんぎ判然はんぜんも仕らんかと所存を定め候あひだ今晩こんばん亡者まうじや姿すがたにて不淨門の番人をいつはり御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿つなえだきやうきこされ越前其方が忠節ちうせつ頼母たのもしく存ずるなりよくも其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難かへがたし明朝登城し將軍家へ拜謁はいえつし如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝みやうてう予が登城致す迄に萬一もし切腹せつぷくの御沙汰あらんも計り難し假令たとへ上使ありとも必ず御請おうけを致さず押返おしかへして予が沙汰に及ばざる内は幾度いくども御ことわり申立べし是は其方より上意をそむくにはあらいはば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じをるべしと御懇切ねんごろなる御意をかうむり越前守感涙かんるゐきもめいじ有難くそゞろに勇み居たりけり


第二十五回


 水戸中納言綱條卿は越前守に打對うちむかひ給ひ其方死人の體にて不淨門ふじやうもんより出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの御意ぎよいに越前守平伏して御意の通御役宅を出候には番人ばんにんいつはり候へども歸の程甚だ當惑たうわくつかまつると申上ければ中納言樣には主税之助ちからのすけを召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方よりほかに勤る者なし必ずおくれを取候な其刀を遣す程にもし無禮ぶれい振舞ふるまひ致す者あらば切捨きりすてに致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は委細ゐさいかしこまり奉つると直に支度を調とゝのさふらひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守主從しゆじう四人都合十人にて小石川こいしかは御屋形を立出たちいで數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅をさしいそゆくはやこくぎ屋敷に近付ちかづき一同に表門へ懸り小石川御館の御使者ししや山野邊主税之助なり開門かいもんあるべしと呼はれば夜番の御徒士目附こたへて越前守には閉門中へいもんちうにて開門かなひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう土屋つちや六郎兵衞殿の申付なりと此時このとき主税之助わざいかりの聲を振たて何と申され候や土屋つちや六郎兵衞のことば夫程それほどおもきか中納言樣の御詞おことばそむくに於ては仰付おほせつけられの心得ありと大音に呼はりければ何れもきもつぶし時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先にたつて門を通らんとする時御徒士目附聲をかけしばらく御まちあるべし小石川御屋形やかたの御使者御供の人數を調しらべ申さんと有ゆゑ主税之助答へてとく念入ねんいれ調しらべらるべしと主税之助主從十人とかぞへてぞ通しける主税之助は越前守の主從を無難ぶなんに屋敷へ送込おくりこみおくへ通り呉々も越前守に申ふくめけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は大切たいせつの御身と主人よりも申付て候何樣なにやうの儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度きつとよろしき御沙汰有べしと申おき暇乞いとまごひして歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者おししや只今たゞいまかへり申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人不足ふそくなれば主税之助に向ひ最前さいぜんの御人數はさふらひ分六人中間三人主從十人に候ところ只今たゞいま御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やといふ主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや先刻せんこくよりは人數四人不足とや御手前方おてまへがたは何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の屋敷やしきへ參り居殘致ゐのこりいたす者は一人もなし狼狽うろたへたる申分かな彼是かれこれ申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆もよんどころなく開門して通しける主税之助は首尾能しゆびよく仕課しおほせ急ぎ小石川へ歸り御前ごぜんへ出て右の次第を委敷くはしく言上に及びければ中納言樣には深く御滿悦遊ごまんえつあそばし汝ならでは然樣さやうの働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ夜明よあけ待遠成まちどほなるべし明朝は六ツ時登城すべし然樣さやうに計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御觸出ふれいだしに及びける夫よりは御寢所しんじよへも入せられず直樣すぐさま御月代を遊ばされんとのおもむきなれば主税之助初め御病中ごびやうちう御月代の儀は御延引えんいん遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には長髮ちやうはつにて登城し將軍の御前へ出るは失敬しつけいなり我將軍をうやまはずんば誰か將軍を重ずべき病中とてくるしからず月代さかやきせよとの御意なれば掛りの役人やくにんも是非なく御櫛おくし取上とりあげける夫より御行水おんぎやうずゐ相濟あひすみ頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば御供揃おともぞろひにて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人がたは一人も登城なく御側衆そばしう泊番太田おほた主計頭のみなり主計頭かずへのかみを召れ天下の一大事に付將軍へ御逢おんあひため登城に及べり此段このだん取次とりつぎ申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上におよばれける將軍家聞し食させ大におどろかせ給ひ早速御裝束ごしやうぞくを改めさせられ御對面あるに此時このとき將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事いちだいじよし何事なるやと御尋あれば中納言綱條卿つなえだきやうには衣紋えもんを正し天下の一大事と申候はにも候はずまづうかゞひ度は町奉行越前をめい奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御たづねなり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は名奉行めいぶぎやうなりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ斯樣かやうに仰上られしものなるべし此時このとき將軍には御不審の體にて御在おはしますにぞ又申上らるゝ樣はかの綸言りんげんあせの如しまた武士ぶしに二言なしとか君のお目鏡めがねにて名奉行と仰せられ候越前天下の御ためを存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿御身分ごみぶん再吟味願候に越前へ閉門仰付られしとうけたまはる町奉行たるものが支配内の事を吟味ぎんみ致すに筋違すぢちがひとは如何なる儀にや此段承まはりたしと御老人らうじんにがり切たる有樣なれば將軍にも御當惑たうわくの體にてさすが名君のふくし見え給ひほとんど御こまりの御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方只今たゞいまより越前宅へ罷越まかりこしよび參れとの上意なれば主計頭は御受に及び直樣すぐさま馬をとばむちを加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り御上使ごじやうし々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を聞付きゝつけスハ切腹の御上使と一家中色を失なひさわぎける表門には御上使とある開門かいもんしければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に對面たいめんありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守委細ゐさい承知しようちし則ち馬を急し家來に申付火急くわきふの御用なり駕籠は跡よりまはせと申付麻上下あさがみしもに服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には皆々みな〳〵打寄うちより只今たゞいま御上使と御同道にて御登城有しは迚も御存命ぞんめい覺束おぼつかなし是は將軍の御手打か又は詰腹つめばらか兎に角大岡の御家は今日限り斷絶成だんぜつなるべし行末如何成ことやらんと主の身の上より我行末迄ゆくすえまでも案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も將軍家しやうぐんけには中納言綱條卿と御對座たいざにて御座おんましまし越前が登城今や〳〵と待給まちたまふ時しも太田主計頭が案内にて越前守おそる〳〵御前へいではるか末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前召連めしつれて候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に旅館りよくわんの天一坊身分再吟味の儀越前其方が心にまかせつくるぞと仰なれば越前守には發と計り御うけ申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今きかせらるゝ通り越前へ右の如く申つけたり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿にはに御名將の思召おぼしめしいさぎよく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御列座れつざの御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣のおほせに芝八山に旅宿致さるゝ天一身分みぶん再吟味さいぎんみ今日より越前にまかすとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分とりわけ予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が言葉ことばと心得られよ越前も又左樣さやう相心得あひこゝろえ心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達てまへたちに於て宜く心付致さるべしとの御意ぎよいなれば越前守は願の通り再吟味の台命たいめいを蒙り悦こび身に餘りいさみ進んで下城にこそは及ばれたり下馬先げばさきには迎の駕籠廻り居て夫にのり徐々しづ〳〵と歸宅せられたりやがて屋敷近くなりしころおさへが一人駈拔かけぬけて表門よりお歸り〳〵と呼はれば此をきゝて家來の男女はまた驚きつゝがなき歸りをば悦び且疑ふばかりなり


第二十六回


 さても大岡越前守には三人の公用こうよう人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が心任こゝろまかせとの台命たいめいを蒙り又天一坊吟味中越前が申ことばは小石川御館樣の御言葉ことばと心得よとの御意なりされば次右衞門其方は只今より八山へ到り明日みやうにちたつ上刻じやうこく天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申つけられ又吉田三五郎には天一坊の召捕方めしとりかたを池田大助には召捕手配方めしとりてくばりがたを申付られたり是によつて吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數にんずくばり先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣しかためさせ外九口へは是又人數若干そこばくを配り海手うみては深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切とりきり備船そなへぶね沖間おきあひへ出し間々は鯨船くぢらぶねにて取固とりかたも嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は桐棒きりぼうの駕籠に打乘若黨長柄草履取を召倶めしぐし數寄屋橋の御役宅をいで芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に九條殿くでうどのの浪人にて大器量人とうはさある山内伊賀亮には逢度あひたくなしされば赤川大膳を名差なざしにて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が旅館りよくわんの門前に來りける箱番所はこばんしよには絹羽織きぬはおり菖蒲皮しやうぶかははかま穿はきひかへし番人大音に御使者と呼上よびあげれば次右衞門は中の口に案内をこひけるに此時戸村次右衞門と云者いふもの次上下つぎがみしもにて取次とりつぎに出來れば次右衞門は懷中より手札取出し拙者せつしやは町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と申者まをすものなり天一坊樣御重役赤川殿へ御意ぎよいて越前守が口上の趣きを申述度のべたくぞんず何卒此段御取次下さるべしと云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞てまゆひそめ町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと不審ふしんに思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申すものきたり某しに面會し主人越前が口上こうじやうのべたしとの事なれど町奉行より使者の來るわけはなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮成程なるほど越前より使者を遣はすすぢなけれど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方しかるべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は大器量人だいきりやうじんなりされば使者の平石とやらんも一くせあるべし貴殿應對は氣遣ひなりと小首こくびを傾けられて大膳は氣後きおくれし然らば拙者は病氣と披露ひろうして貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何よりやすけれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ御意ぎよいたしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目にかゝるべしと申せば宜に今となりて大膳儀病氣びやうきなれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川はとるたらざる者ゆゑ出會いであはぬと見えたりと貴殿の腹を見透みすかさるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の大名だいみやうに御取立になり貴殿は三千石の御旗本位おはたもとぐらゐこれが御承知ならば伊賀亮何樣いかやうにも計ひ對面すべしと云に強慾がうよく無道ぶだうの大膳是をきゝ夫なれば某し對面し口上を承まはらんしかし返答に何と致して宜しかるべきやと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の差圖さしづは出來ず夫こそ臨機りんき應變おうへんと云者なり向ふの口上に因て即答そくたふあるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやといへば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も見兼みかねて大膳殿左程に案じ給ふならば極意ごくいをしゆべし先平石の口上を聞て返答に差詰さしつまりし時は暫く控へさせ上へうかゞひ申して後返答致すべしとておくへ來り給へ其口上に依て返答の致し方は種々さま〴〵ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者をよんで次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば戸村とむらは中の口へ來り平石に向ひいざ御案内ごあんない申すべしと先にたち使者の間の次へ來る時戸村は御使者には御帶劔ごたいけんを御預り申さんといふ平石次右衞門脇差わきざしを渡さんと思ひしがまてしばし主人が八山へ參り町奉行の威光ゐくわうを落すなと仰られしはこゝなりと平石は態と聲高こわだかに拙者は何方いづかたに參るも帶劔を致す身分なればおあづけ申事は相成がたしと云に戸村は町奉行公用人衆こうようにんしうは外々の公用方と御身分違候やいづれの公用方でも此處にて帶劔は御預り申候御老中方ごらうぢうがた公用人の御身分はいかなる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候とこたへけるまた御城代公用方の御身分は如何ととふに是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張やはり御直參ごぢきさん同樣どうやうに候と答へける戸村しからば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡しなさるゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でもちがひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて別段べつだん身分みぶんは違はず併しながら赤川大膳殿には何程いかほどの御身分にて帶劔のまゝお目に懸れぬや又此處は天一坊樣の御座ござ近ければ帶劔のならざるやまた大膳殿には御座のちかくより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に御目おめに懸り主人越前守の口上をのべ候へば夫にて使者の役目は相濟あひすむ事なれば假令たとへ御廊下ごらうかの端御玄關のすみにてもくるしからず帶劔の出來る所にて御目に懸り度ぞんじ候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此ことば閉口へいこうし大膳に右の次第を委しくはなせば大膳はいよいよ驚きとても平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の居間ゐまに來り貴殿の眼力がんりよくの通り越前守が使者と申奴は頗る秀才しうさいの者と見えたり其譯は今戸村が使者のへ案内し帶劔をあづからんと申せしに斯樣々々かやう〳〵の挨拶の由拙者對面しなば後々の障碍さはりと成べし伊賀亮殿御太儀ながら御逢下あひくださるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の寄所よるところたまとは能も申たり越前守はよき家來けらいもちうらやましと譽めながら戸村をよびかの使者に大膳殿は今日御上御連歌れんがの御相手にて御座ござの間よりほかへ出席成難なりがたし同役山内伊賀亮非番ひばんなれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと言付いひつけられて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て迷惑めいわくに思へども今更詮方なく控へ居るやがて山内伊賀亮は黒羽二重くろはぶたへの小袖に繼上下つぎかみしもつけ出來いできたり申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は其方そのはうなるか拙者は天一坊樣重役ぢうやく山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど勤役中きんやくちう太儀たいぎと然も横柄わうへいの言葉なり平石次右衞門は平伏し御意のとほり大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣益々ます〳〵御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡參上さんじやうし以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕りかね候間使者を以て申上奉あげたてまつり候明日たつ上刻じやうこく天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの口上こうじやうなり山内聞いて町奉行宅は罪人ざいにん科人とがにんの出入する穢の場所なり左樣な不淨ふじやうの處へ天一坊樣にはいらせられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て屹度きつと御止め申なり此だん立歸たちかへり大岡殿へ申されよといふにぞ平石は案に相違しけれど此儘このまゝにては天一坊には御役宅へ來らじと言葉ことばあらため申けるは此度天一坊樣御身分調しらべの儀に付ては越前守申す事は小石川御屋形おやかたの御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉をそむかるゝは則ち上意を背くも同然の事なりとふにぞ山内も上意じやういとあればかるからざる儀なり先づ一應伺ひの上返答へんたふ致すべし暫くひかへられよとておくへ入りやゝありて再び出で來り次右衞門にむかひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども公方くばう樣の上意とあれば如何いかにも其の刻限こくげんに御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を仰付おほせつけられたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと謂捨いひすてて奧へは入たり次右衞門はホツと溜息ためいきを吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける


第二十七回


 扨も平石次右衞門はお役宅やくたくへ歸り來り早速主人のまへにいづれば大岡しゆじんの曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ失念しつねんしたり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢てはあしかりしが何人に逢しやとたづねらるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御重役ぢうやく赤川大膳殿へお目にかゝりたしと申入しに赤川殿は御連歌ごれんがのお相手にて御座の間より外へ出席なりがたきゆゑ非番の山内伊賀亮が對面たいめん致すとて面談せしに明日刻限こくげん通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は大器量人たいきりやうじんの山内伊賀を越前が一言のしたに恐れいらせんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門のかへりしあとにて山内は役人を招ぎ御上にはてん文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其用意よういすべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなしまづ天文臺へは五しきの天幕を張廻し長廊下より天文臺まで猩々緋しやう〴〵ひ布續しきつゞける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ちつゞいて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にてすゝゆきけりさて臺上へのぼりて山内は四人にむかひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を呼寄よびよせるは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳はきもつぶし果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々切腹せつぷくなさんといふ山内また云やう未だ二度に切拔きりぬける事も有べし早計はやまり玉ふな明日大膳殿には先驅さきどもなれば某しが警戒いましむべき事あり其は越前守の役宅やくたくにて必ず無禮ぶれいを働くべし決していかりはつし刀などに手をかけ給ふな町奉行の役宅にて劍㦸の沙汰に及べば不屆者ふとゞきものと召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と密談みつだんに及びし内既に黄昏たそがれになりしかば山内は四方をきつと見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火のひかりみゆるがあれを何とか思るゝやと問へば大膳是を見てあれこそは縁日抔えんにちなどの商人の燈火ともしびならんといふに山内くび打振うちふり否々いや〳〵に非ず夫等それら火光くわくわう人氣にんき和融くわゆうなれば自然しぜんとそらへ丸くうつるべきに今彼光は棒の如くとがりて映れり彼人氣じんき勇烈ゆうれつを含むの氣にて火氣と云ひ旁々かた〴〵我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の篝火かゞりびなるべし此人數は凡そ千人餘ならんとまた一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火ともしびの見るは何舟なりやと問ふ大膳あれこそ白魚しらうをる舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕んため舟手ふなてにてかためたる火光にして其間にまるみゆる火光こそ全くの漁船なり海陸かいりくとも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき手筈てはずと見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合てしからば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮推止おしとゞめ未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口へいこうさせて見すべければ呉々も大膳殿明日みやうにちは怒を發し給ふなと戒め夫より翌日よくじつの支度にぞ掛りけるはや其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳先驅さきどもとして徒士四人先箱二ツ鳥毛とりげの一本道具を駕籠の先へ推立おしたて長棒ながぼうの駕籠にろく尺八人侍ひ六人跡箱あとばこ二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の役宅やくたくへ來り門前にて駕籠をおろし表門おもてもんかゝる此時大膳は熨斗のし目麻上下なりすでにして若黨潜門くゞりもんへ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり開門かいもんせられよと云に門番は坐睡ゐねむりし乍らなに赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が吟味ぎんみを受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし彼是かれこれいは繩目なはめに及ぞと云に大膳かくと聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來はのこらず門外に殘しおき玄關へかゝれば取次として平石次右衞門出來いできたりて大膳を伴うて間毎々々まごと〳〵にはり向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の與力よりき同心どうしんばんをなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來短氣たんきの性質なれば無念むねん骨髓こつずゐてつすれども伊賀亮が戒めしはなりと憤怒ふんどこらへ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし萌黄純子もえぎどんす油箪ゆたんを掛たる長持二さを黒羽織の警固けいご八人長持ながもち預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は金葵きんあふひもんつきたる栗色くりいろの先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の徒士かち十人づつ三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を縫出ぬひいだせし袋を掛たる長柄は金の葵唐草からくさ高蒔繪たかまきゑにて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の手代てがはり一人引添ひきそひたり又麻上下にて股立もゝだちとつたる侍ひ十人宛二行に並ぶ次にちゞら熨斗目に紅裏こううらの小袖麻上下にて股立取たるは何阿彌なにあみとかいふ同朋どうぼうなりさて天一坊は飴色網代の蹴出付けだしつき黒棒くろぼうの乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とりあとより沓臺持くつだいもち一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐をかけ乘物のりものの上下にはしゆ爪折傘つまをりがさ二本を指掛さしかけ簑箱みのばこ一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋へうの皮の鞍覆たる馬一疋黒天鵞絨くろびろうどに白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋供鎗ともやり三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なりつゞいて常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六きくの紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて陸尺ろくしやく六人駕籠脇の侍ひ四人あと箱貳ツ何も紫きの化粧紐をかけたり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり引續ひきつゞいて藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠にのり若黨わかたう四人黒叩き十文字もんじやりを持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少しおくれて山内伊賀亮は白摘毛しろつみげの鎗を眞先に押立おしたて大縮おほちゞら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等相添あひそへ右の同勢にて八山をいでしたに〳〵と呼り數寄屋橋を指て練來ぬひきたるしかるに往來の横々は木戸を〆切しめきり町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて相詰あひつめたり程なく惣人數そうにんずは數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも警固かための人數多く既に天一坊の同勢どうぜい見附みつけ這入はひれば門を〆切しめきりそれを相圖に外廓の見附は何も〆切しめきりたり斯て越前守の役宅へ近付ければ只今たゞいま天一坊樣いらせられたり開門せよと呼れば此日は池田いけだ大助門番を勤め何天一坊がまゐりしとや天一坊は越前守が吟味を受る身分みぶん開門は相成あひならず潜りより這入れと云に徒士等之を聞てきもつぶし其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の乘物のりものの側へ來り奉行越前は將軍の御名代ごみやうだいなれば開門致さぬとの事潜より御通りしかるべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代とあれば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物をおりくつ穿はきて立出ける其衣服は葵の紋を織出したる白綾しろあやの小袖を着用し其下に柿色かきいろ綾の小袖五ツを重ね紫きの丸帶まるぐけしめ古金襴の法眼袴を穿ち上には顯文紗けんもんしや十徳を着用し手に金の中啓ちうけいを持頭は惣髮そうはつ撫附なでつけにて威風ゐふう近傍を拂つて徐々しづ〳〵と進み行く續いて常樂じやうらく院天忠和尚は紫きの直綴ぢきとぢを纏ひ蜀紅錦しよくこうにしきの袈裟を掛けて手に水晶の念珠を爪繰つまぐりたり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を悠然いうぜんとしてあゆく門内には與力同心の數人スハと云へばからとらんと控へたり


第二十八回


 既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内とりつぎあんないとして平石次右衞門出迎いでむかへ平伏し先に立て案内す天一坊はくつの儘にて次右衞門につれられゆくに常樂院は天一坊のいまだ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手をかけければ天一坊は常樂院を見るにはやくつを脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をもみるに何も履物はきものを穿ざれば天一坊も沓をぬぎ捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高きとこを設け其上に越前守忠相たゞすけまるに向ふ矢車の定紋をつけつぎ上下にて控へ左右に召捕手の役人數多あまた並び居るにぞ如何なれば大坂御城代ごじやうだいを始京都所司代御老中の役宅にても自分じぶんを上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座ちやくざなすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿役宅やくたくにては間も隔しゆゑもし見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌めんばう熟々よく〳〵るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見きはめしも未だ確なる證據なき故召捕めしとること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主このばいす坊主ばうず餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極ふとゞきしごくなりと叱付しかりつければ天一坊は莞爾くわんじと打笑ひ越前は逆上ぎやくじやうせしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿かうろくになり當時町奉行を勤め人々尊敬そんけいすればとて慢心増長なせしかもしが答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじたゞ聞流きゝながしにして遣さんに篤と勘考かんかうすべしとて悠然と控へければやがて常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠和尚をしやう進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主僞物にせものなりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂おほさか京都及び老中の役宅に於て將軍しやうぐんの落胤に相違なしと確認みきわめの附しを足下のみ左樣に云るゝは如何いかゞなりと云に越前守假令たとへ大坂御城代ならびに御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が目には僞物に相違さうゐなしと思はるゝといふ常樂院またふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角とかくに知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧せつそう詳細くはしく認めて御目に掛んと筆を取出とりいだし佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子すてごに成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育ごやういくなし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住てんぢうすれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取うけとり再三よく〳〵見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略あらましは知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事にかゝり居ては面倒なり山内めを呼出よびいだし渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代并に御老中の役宅にて喋々べら〳〵饒舌しやべりし者は此席にゐる罷出まかりいでよ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人よにんに尋んより我に問ば我一言のもとに越前を屈服くつぷくさせんとまつ處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中らうぢうの役宅にて取切とりきつて應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方そのはうなるか然ば手札を出すべしと云ふに山内懷中くわいちうより手札を差出す越前守は手にとり克々よく〳〵見て其方の名前は山内伊賀亮かとたづねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守推返おしかへして伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字もじは其方心得て附たるや又心得ずして附たるやとたづねらるゝに山内その儀如何にも心得あつてつけし文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮このすけいふ文字は則ち守といふ字にて取もなほさず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來けらいにて何を以て守を名乘なのるやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人はおろか如何に零落れいらくするとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲にだまれ山内其方以前は九條家でうけの家來とあれば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位はさしおかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也けらいなりとて正四位上中將の官位くわんゐにて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から〳〵と打笑うちわらひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理もつともなり此伊賀亮の身分に正四位上中將のそなはりある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿ろくひくきもの故に聊か役にたつものあれば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中ざいきんちうは北の御門みかど御笏代おしやくがはりに雇れ參りし事折々なり此きた御門みかどとは四親王の家柄にて有栖川宮桂宮かつらのみや閑院宮かんゐんのみや伏見宮ふしみのみやを四親王と稱す當時は伏見宮をのぞき三親王なり此伏見宮を稱して北の御門みかどと云其譯は天子に御世繼の太子たいしましまさぬ時は北の御門御夫婦禁庭きんていへ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代をつとむる事は正四位上中將の官ならではあたはず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿のせつしやくにて禁中きんちうの間毎々々に垂あるみすを揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏りうがんを拜し玉ふ時は此笏を持事もつことの叶はぬ故御笏代りとて御裾おすその後に笏を持ち控居て餘所乍よそなが玉體ぎよくたいを拜するを得者うるものなり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身のせつ北の御門へ奏聞そうもんとげしに御門は御略體ごりやくたいにてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代しやくがはりをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令たとへ九條家を退身し何國いづくの果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官ぞうくわん正二位大納言たるべしとの尊命を蒙むれば山内此末非人乞食こつじきと成果るも官位は身に備れば伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候なり辯舌べんぜつ滔々たう〳〵と水の流る如くにのべければ流石の越前守も言葉なく暫時しばし控られしがやゝあつて山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物にせものに相違なければ召捕べしといふに伊賀亮いがのすけかたちを改め越前守殿何故に天一樣を似者にせものと云るゝやと尋ければ越前守されば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしにすこしおぼえなしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是をきゝ將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆ぢきひつと墨附及びお證據のお短刀たんたうあり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御面部めんぶうりわりたるが如きのみか御音聲迄おんじやうまでも其儘なりこれ御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御うかゞひ下されたし克々よく〳〵勘考かんかう遊ばされなば屹度御覺有べしと述れば越前守は大音に伊賀亮だまれ天一坊の面體よく將軍御幼年えうねんの御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とはいつはり者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人らうにんにて將軍の御音聲を知べき筈なしととがめられしに山内は嘲笑あざわらひ御面部また御音聲まで似奉にたてまつる事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御簾中れんぢうは九條前關白太政大臣の姫君ひめぎみにてお高の方と申し其お腹に誕生たんじやうまし〳〵しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せしみぎり拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者ししやにて參りお手習てならひ和學わがくの御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までもよく承知しようちいたせばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守殿どのお疑ひは晴しやと言詰いひつめるに越前守は亦た言葉ことばなく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫をこらして居られける


第二十九回


 扨も大岡越前守は再度さいどまで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時しばし思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中しんちうに悦こび此度こそは閉口へいこうさせんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達きんだちならば官位は何程なるやと問ふに山内最初さいしよの官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又宰相さいしやうは東叡山の宮樣と何程の相違ありやとふに山内宮樣は一品親王ほんしんわうなり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなしまづ天子てんしの御隱居遊されしを仙洞御所せんどうごしよと稱し一品親王なり又天子御世繼よつぎの太子を東宮とうぐういひ是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一品准后ほんじゆんこうにして准后とは天子のきさきじゆんずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓おくつを取者のくらゐさへ左大臣右大臣ならでは取事とることかなはざれば御登城には御沓取なくお乘物のりものを玄關へ横付よこづけにせられ西湖せいこの間にて將軍に御對顏たいがんあらばお沓はお用ひなしゆゑに宮樣と宰相とは主從しゆじうの如くなれど今少し官位の相違さうゐあらんかと答へらる越前守是をきかれ然らば天一坊を召捕めしとれといふ山内また何故に天一坊を召捕とはるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色あめいろ網代あじろ蹴出けだし黒棒くろぼうは勿體なくも日本ひろしと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣みやさまひとしき乘物に乘しは不屆なれば召捕といひしなり此の時山内から〳〵と打笑ひ越前守殿左樣にしらるゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなきはずなり今ま山内がにて飴色網代のおはなし申さんに先將軍の官職より解出ときいださゞればし難し抑々將軍に三の官ありしは征夷せいい大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給とりつぎたまふの官なり尤も小石川御館のみはぢきに京都より官職を受るなり二は淳和院じゆんなゐんとて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院しやうがくゐんとて總公家そうくげを支配する官職なり然れど江戸にてかく京都の公家を支配するわけは天子若關東をはからせらるゝことありては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮しんりよを以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞そうもんありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言ゆゐごんせられしに秀忠公も亦深慮をめぐらされ京都へ御縁組遊ばし其上にて事をはからはんと姫君お福の方を後水尾院ごみづのをゐんの皇后に奉つらる之を東福門院とうふくもんゐんと稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし〳〵ける其末そのすゑの太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺えんりやくじを關東へ移し東叡山寛永寺を建立すこれ宮樣みやさまの始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御東伐とうばつある時は宮樣を天子として御綸旨ごりんしを受る爲なり然ども天子には三種みくさの神器あり此中何れにてもかければ御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久をいのる爲と奏聞有て草薙くさなぎ寶劔はうけん降借かうしやくせられ其後返上なく東叡山に納たりそれたからは一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座ごせんざと唱へ毎月晦日つごもりに三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物はうもつゆゑ闇の夜ならでは持歩行もちあるく事ならず依て月の晦日は闇なれば假令たとへひるにても燈火照して御遷座あるは此譯なり斯く如く宮樣の御身分おみぶんは今にも天子に成せ給ふやまた御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物のりものの中を朱塗しゆぬりになし其上に黒漆くろうるしを掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容をあらはしたるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふいま天一坊樣の御身も御親子ごしんし御對顏ごたいがんの上は西丸へ直らせらるゝや又御三家格けかくなるやはた會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名にならせ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗しゆぬりの上に黒漆を掛て飴色網代に仕立したてしは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀あしかるべきやと問詰とひつめれば越前守は言葉なく無念におもへども理の當然なれば齒を切齒くひしばりて控へられしがやゝありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊にむかひ奉行越前御證據の御品おんしな拜見願ひ奉つるとひければ天一坊は奉行越前へ拜見ゆるすと云ふやがて藤井左京長持の錠を開て二しなを取出し越前守の前に出す越前守は覆面ふくめんもせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するにうたがひもなき天下三品の短刀にて縁頭ふちがしら赤銅斜子しやくどうなゝこに金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子くるひじしさくは後藤祐乘いうじようにて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎兼氏かねうぢなり是は東照神君が久能山くのうざんに於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じこしらへにて備前三郎信國のぶくにの短刀は御十男尾張大納言義直卿へまた同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀たんたうは御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿にくだされたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見はいけんし終りてもとへ收め俄に高き床より飛下低頭平身してかくの如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男ごそくなんに相違有ましく越前役儀やくぎとは申乍まをしながら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒彼方あれへ入らせらるゝ樣にとふすまを明れば上段に錦のしとねを敷前には簾を垂て天一坊が座を設たりやがて赤川大膳をもよび來り簾の左右には伊賀亮常樂院其つぎには大膳藤井左京等並居る此時越前守ははるか末座にひざまづきてお取次を以て申上まをしあげ奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前差控さしひかへ餘人を以て吉日良辰りやうしんを撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此よし披露ひろうに及ぶ簾の中より天一坊は越前目通りゆるすとの言にて簾をきり〳〵と卷上まきあげ天一坊堂々と越前守にむかひ越前予に對し無禮過言せしは父上ちゝうへの御爲を思ひてなれば差控さしひかへには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮ぶれいは許すといひ又越前片時へんじも疾く父上に對面の取計とりはからふべしと有ば越前守はおそれ入て有難き上意を蒙り冥加みやうがに存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければれまでは八山御旅館に御休息ごきうそくある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急とりいそぎて御親子御對顔の儀たのみ入と云に越前守には何れにも近々きん〳〵の内取計らひ申べしと返答へんたふに及れける是より歸館きくわん觸出ふれだして天一坊は直樣敷臺より乘物のりものにて立出れば越前守は徒跣はだしにて門際もんぎはまで出て平伏す駕籠脇かごわきすこし戸を引ば天一坊は越前ゐるかと云に越前守ハツと御うけを致されたり斯て天一坊の威光ゐくわう熾盛さかんに下に〳〵と呼りつゝ芝八山の旅館りよくわんを指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付にらみつけうんと計り氣絶せしかば公用人をはじめ家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水をそゝぎなどしければ漸々にして我にかへりホツといきつき乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしにかれが器量のすぐれしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶きぜつしたりと切齒をなしていきどほられしも道理ことわりなる次第なり


第卅回


 去程さるほどに大岡越前守は今日こそは山内伊賀亮を恐入せ天一坊始めのこらず召捕めしとらんものをと手當にまで及びしが思ひのほか越前守は言伏られ返答にさへ差閊さしつかへたれば一先恐入て天一坊に油斷ゆだんさせ自ら病氣と披露ひろうし其内に紀州表を調しらべんものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣びやうきの御屆けを差出させまた平石ひらいし次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊をはじめ常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣きづかふ物なし近々の内には大岡の取計とりはからひにて御對顏あるに相違なし事大方成就じやうじゆせりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣ありさまなれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入おそれいらせしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿きでん一人うれひ給ふは如何成仔細に候やとたづねければ山内は成程なるほど各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口へいこう屈伏くつぷくしたりと思はるゝならんが此伊賀亮がおもふには今日大岡が恐れ入りしはいつはりにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調しらぶるは必定ひつぢやう越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一苦勞くらうなりと云に大膳始め皆々驚愕おどろきしからば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何してよからんなどあんじけるに山内笑ひて大岡手を變へて事をなさば我又其うらをかく詮方てだてありと皆々に物語る處へ取次戸村とむら馳來はせきたり只今町奉行方より平石次右衞門使者ししやに參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡氣脱きぬけいたし候や癪氣しやくきさし起り候に付今日より引籠ひきこもり候との由なりと云ふに山内是を聞てさてこそ只今申通り我々を召捕了簡と相みえたりと云へば皆々山内が明察めいさつを感じてやまざりしと扨も越前守は若黨草履取をともに連紀州の上屋敷へ到り門番所もんばんしよにて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤ざいきんなるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去しきよせられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一れいのべ加納大隅守殿の長屋を聞合きゝあはせ直樣宿所へ趣き案内をこひ大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守推參すゐさんつかまつり候御取次下さるべしと云に取次とりつぎの者此由をつうじければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾そつじながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御召使めしつかひにさはと申女中の御座候ひしやときくに大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死びやうし致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年あとの事は一かうわきまへ申さずと答へらる越前守推返おしかへして然らば御母公ぼこうには御存命ぞんめいに御座候やと申さるに大隅守殿拙者儀せつしやぎは妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢おんあひなされ候とも物の役には立申さずといはるゝに越前守御老體御迷惑めいわくとは存候へども御目通り願ひ度候といはるゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母正榮尼しやうえいにに向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通りねがひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御當病たうびやうと仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼しやうえいにいやとよ奉行越前守が折角せつかく來り給ふを對面せぬも無禮なりあひ申べし大隅心遣こゝろづかひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人らうじん後々のち〳〵さはりになることは申すまじよし申にもせよ老耄らうもう致し前後のわきまへ無と申さば少も其方の邪魔じやまには成申すまじ氣遣きづかひ無此方に案内致す可と申さるゝゆゑ大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母らうぼの居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候じこう挨拶あいさつのべ次に御むつしくとも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三ねん以前いぜんに御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやとたづねらるゝに母公答て私し共紀州表に住居ぢうきよ致し候節召使の女も五六人づつ置候が澤の井瀧津たきつ皐月さつきと申す名は私し家の通名とほりなにて候故何の女なりしや一かうに分り兼候といふ越前守然らば其中にて御家に御奉公長くつとめ候女中御座候やとあるに母公されば和歌山在西家村の神職伊勢がむすめの菊と申者私し方に十五年相勤あひつとめ候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しとうけたまはり候と云るゝに越前守さらに手懸なく然ば廿二三年あとの澤の井が證文御座候やときゝけるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一つうも御座なく斯樣かやうばかり申ては何か御不審も有べけれど紀州きしうの國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿やどは存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二けんあり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致しをんなは榎本屋三藏世話せわにて此二軒より主人方へ證文差出しかゝへ候にて主人方にては一かう奉公人の宿を存申さず親元おやもとよりは口入人の方へ證文を出し候由うけたまはり候然ば奉公人の宿やどを御尋成り候には紀州表にて口入人を御調しらべなされずは相分あひわかり申まじと云に越前守委しく承まはり左樣さやうならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一れいのべいそぎ御役宅へ立歸り公用人こうようにん平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣すぐさま紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋えのもとや三藏の兩人りやうにんを調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べしまん一澤の井の宿榎本屋三藏方にてわかかね候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監かたに十四五年も相勤あひつとめ居候由成ば此者を呼出よびいだしなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家こくかの一大事家の安危あんきなるぞ急げ〳〵途中は金銀ををしむな喩にも黄金とぼしければ交りうすしと云へり女子によしと小人は養ひ難しとの聖言せいげんを守るなと委細ゐさいに申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命しゆめいかしこまり奉つると早速まづふれを出し直樣桐棒駕籠に打乘うちのり白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿じゆくより道中駕籠一挺に人足廿三人を付添つけそへ酒代も澤山に遣す程に急げ〳〵と急立ける御定法の早飛脚はやひきやくは江戸より京都まで二日二夜半よはんなれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財まきちらして急がせける程に百五十里の行程みちのりを二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎いでむかへ彼奉行所本町ひがしの本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息きうそくもせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出よびいだし澤の井の宿所しゆくしよを尋ねしに大黒屋源左衞門はをとこのみ世話する故女の奉公人のは存じ申さずとの事なればさらばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所をたゞしけるにおや三藏は近年病死びやうし致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年あとの事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年ぜんの奉公人の宿帳やどちやう調しらぶべしと申付るに三年以前に隣家りんかより出火しゆつくわ致し古帳は殘らず燒失せうしつ致し候と云故少も手懸りなければ次右衞門三五郎は三藏にむかひ和歌山に西家村と云處ありやと云へば是より一里許りざいに候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢しんしよくいせ同人妻菊同道にて東の本陣へまかり出べきむね差紙を遣はしける神職伊勢は差紙さしがみを見て大いに驚き女房にむかひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方そのはう和歌山加納樣方に奉公致しをり候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人やくにんより何事を尋ねらるゝ共一かうおぼえ申さずと云ふべしなまじひに知顏しりがほなさば懸合かゝりあひとなりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細ゐさい承知しようちなし少しも案じ給ふ事なかれ何事もらずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり


第卅一回


 神職伊勢は女房きく同道にて東の本陣へ到り此よし通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢にむかひ西家村の神職伊勢同人つま菊と申すは其方そのはうなるかと云にいざちやで御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方そのはうなるかと尋るに只々漣で御座るとこたへ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫まひだいふを致さるゝやと尋ねけるに御意ぎよいの通り舞太夫を仕つり候とこたへければ然ば妻女の名前を漣太夫いざちやだいふと申さるゝやと聞に如何いかにも左樣さやうに候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に數年すうねん奉公したりときくじつもつて左樣なるやと尋ければ菊は一かうぞんじ申さずと云に押返おしかへして將監方に奉公ほうこう致たるに相違有まいなと尋るにさらぞんじ申さずと答へければ否々廿二三年あと其方奉公中傍輩に澤の井と申す女中ぢよちうありしと存じ居べしと尋ねけれ共一かう存申さずと云に次右衞門はこれは伊勢より女房に口留くちどめしたるに相違なしと心付たれば懷中くわいちうより小判十枚取出し紙につゝみて差出しいざちやどの此金子は將軍樣しやうぐんさまより其方へくださるゝ金子なれば有難く頂戴ちやうだい致されよとて渡しあらためて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし御幼名ごえうみやうを徳太郎君と申し其方にはあつく世話になり玉ひしよし依て此金子を遣はせとの上意じやういなり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の宿やどを調べに參りしなり其方存じをらば教へ申べしやはらかに諭ければ菊は十兩の金を見て心打解うちとけ成程考へ候へば加納將監樣の呉服ごふくの間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候去乍さりながら宿やどの儀は存じ申さずとおもなげに云を次右衞門は聞てさらば澤の井の宿を存じたる者はなきやと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致惣助そうすけと申者澤の井に頼れ手紙を持て折々をり〳〵宿やどへ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時何方いづかたゐるや申聞すべしといへば只今は御普請ごふしん奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞさらばとて早速使を仕立したて御差紙を以て小林軍次郎召使めしつかひ惣助同道にて早々本陣へ罷りこすべき旨申達せしに軍次郎は大におどろき惣助を腰繩にて召連來めしつれきたれば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中にたのまれ手紙使に折々宿へ參りしよしさだめて澤の井の宿を存じをるべし何方に候やと尋けるに一向におぼえ御座なく候と答へける吉田三五郎懷中くわいちうより又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を其方そのはうより惣助へ遣はし澤の井の宿を尋呉たづねくれよと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は徳太郎とくたらう樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも召出めしいだ御褒美ごはうび下さるゝ筈なれ共今は宿をしりたる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば能々よく〳〵かんがへて御役人樣へ申上られよとき惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金のほしさに樣々と考へ成程なるほど澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが其頃そのころ澤の井さんの申には糸切村いときりむらの茶屋迄持て行ば宿やどへは直にとゞくと申されしゆゑ茶屋迄は度々たび〳〵持參りしと云にぞよくこそしらしたりとて彼十兩は惣助へつかはし然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻にはいとまやり次右衞門三五郎寺社奉行差添さしそへ小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より淡島道あはしまみち五十町一里半をもみもん丑滿うしみつの頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々とたゝき起せば此家このやの亭主何事にやと起出おきいづるにまづ惣助亭主に向ひ廿二三年あとに澤の井樣より手紙を頼まれ毎度まいど頼み置し事有しが其手紙そのてがみは何方へ屆けしやと尋ねけるに亭主ていしゆ答へて私し方は道端みちばたの見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十ぽんほども有ば一々に覺え申さずことに二十二三年跡の事なれば猶更なほさらぞんじ申さずとこたへけるにいよ〳〵澤の井の宿所しゆくしよ手懸てがかりなく是に依て次右衞門三五郎の兩人はいろを失なひ斯迄かくまで千辛萬苦して調しらぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじこの旨江戸へ申おくり我等は紀州きしうにて自殺致じさついたすより外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き懷中くわいちうより又金十兩取出し亭主ていしゆに向ひ其方澤の井の手紙てがみを頼まれ宿やどへ參らずとも村名位むらなぐらゐは覺の有さうな物なり今十兩つかはす程に能々よく〳〵かんがへて思ひ出せと申にぞ亭主はかねを見て思ひも寄ず十兩に有付ありつく事と兩手をくんで樣々と思案しあんをしやゝしばらく有て思出しけん申樣澤の井殿の宿やどの村名は私しのおとうとの名の字を上へ付候樣におぼえ申候と云に其方のおとうとの名を何と申すやと尋ぬるに弟はへい五郎と申し候とこたへけるに郡奉行こほりぶぎやうだんじ急ぎ平の字の付たる村々を調しらべさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々亭主ていしゆ讀聞よみきかすに平澤村ひらさはむらと云に到りて亭主はたと手をうち其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ立越たちこえんとこゝにて大勢支度したくをしまづ平澤村へ先觸さきぶれを出し其あとより百五十人餘の同勢にて平澤村さしいそぎけるさてこの平澤村と云はたか二十八石家數やかず僅二十二けんにて困窮こんきうの村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しかどもかゝり合をおそれ村中相談さうだんなし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとかされば平澤村には先觸さきぶれ來れば又れいの澤の井の調しらべなるべし是迄これまでの通り村中すこしも存じ申さずと言放いひはなし懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ役人やくにんの來るをまちしに此度は是迄とはかはおよそ百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着しすぐ村中むらぢうへ觸をいだして十五歳以上の男子なんしを殘らず呼集よびあつめ次右衞門三五郎正座になほ座傍かたはらには寺社奉行じしやぶぎやう并びに遠藤喜助小林軍次郎等列座れつざにて一人々々に呼出よびいだし澤の井の宿を吟味ぎんみに及ぶも名主をはじめ村中のこらず存じ申さずとのこたへなれば少しも手懸てがかりはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中申合まをしあはせ掛り合を恐れて斯樣かやうに申立るならんとせきあらため威儀ゐぎたゞして申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共よくうけたまはれ將軍の上意なればかるからざる事なりしかるに當村中一同に申合せしらぬ〳〵と強情がうじやうを申つのるに於ては是非に及ばず此大勢おほぜいにて半年又は一年かゝりても澤の井の出所しゆつしよ調しらべねばならぬぞ左樣さやうに心得よと威猛高ゐたけだかになりておどすにぞ村中の者きもつぶし此大勢にて十日も逗留とうりうされては村中の惣潰そうつぶれと成るべし如何いかゞはせんと十方にくれたれ有て一言半句はんくを出す者なし此時末座まつざより一人の老人らうじん進み出ではゞかりながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の草分くさわけ百姓にて善兵衞と申す者なるが當時たうじ此村は高廿八石にて百しやう二十二軒あるはなは困窮こんきうの村方なればかく御大勢長く御逗留ごとうりう有ては必死と難澁なんじふに及ぶべし澤の井の一でうさへ相分り申せば早速さつそく當村を御引取下され候やとおそる〳〵申すにぞ次右衞門こたへて澤の井の一でうさへ相分り候へば何故に逗留とうりうすべきすぐ我々は出立しゆつたつ致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞はさればにて候澤の井が身の上は村中におぼえ居候者は有間敷あるまじく只だ私し一人委細ゐさい心得まかり在候間申上べし當村の名主甚兵衞と申は至つて世話好せわずきにて先年信州者しんしうものにて夫婦にむすめ一人をつれ同行三人にてせん參り旁々かた〴〵當地へ參りしをかの甚兵衞世話せわいたし自分の隱居所いんきよじよ貸遣かしつかはし世話致し候ひしに兩三年すぎ右當人平右衞門死去しきよ致し跡には女房にようばうお三と申ばゝと娘の兩人に相成あひなりしがお三婆はさん取揚とりあげ家業かげふとし娘をそだてしが追々成長せいちやうするにしたがはり仕事を教へ居し内年頃としごろにて相成候へば何處どこぞへ奉公ほうこうに出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を同道どうだういたし城下へ參り榎本屋えのもとや三藏に頼み加納將監かなふしやうげん樣へ御針おはり奉公に出しつかはし候に其のち病氣びやうきなりとて宿やどへ下り母のもとに居候が何者のたねなるか懷姙くわいにん致し居候故村中むらぢう取り〴〵うはさを致し候に翌年よくねん三月安産あんざんせしが其夜の中に小兒せうに相果あひはて娘も血氣ちのけ上りて是も其夜のあかつきに死去致し候に付き近邊きんぺんの者共寄集よりあつまり相談するも遠國者ゑんごくもの菩提所ぼだいしよなく依て私しの寺へ頼みはうむり遣し候其後お三婆は狂氣きやうき致し若君樣わかぎみさまを失なひて殘念ざんねんなりと罵詈狂のゝしりくるひ歩行候ゆゑ甚兵衞も迷惑めいわくに存じ隱居所いんきよじよを追出せしにお三婆は宿やどなしとあひなりしを隣村りんそんの名主甚左衞門といふ者當村の名主なぬし甚兵衞がおとゝにて慈悲じひふかきひとにて是をあはれ何時迄いつまで狂氣きやうきでも有まじ其内には正氣しやうきに成るべしとてつれ歸り是も隱居所いんきよじよへ入置つかはせしに追々おひ〳〵正氣に相成あひなりければ又々以前の如く産婦さんぷ取揚とりあげを致し候が十年程以前病死びやうし致し候由に御座候これにて澤の井の一でう御得心ごとくしんに相成候やと云に次右衞門三五郎は是をきゝいかにも概略あらまし相分あひわかりたり其若君と澤の井をはうぶりし寺は當村なりやとたづぬるに向ふに見え候山のふもとにて宗旨しうしは一向宗かうしう光照寺と申し候ときいて然らば其せつ住持ぢうぢは未だ存命ぞんめい致し居やと有にさん候其節の住持祐然いうねんと申すは未だ壯健たつしやに候と答へける吉田よしだ三五郎さらば光照寺住持ぢうぢ祐然をこゝ呼參よびまゐべしとの事なれば早速さつそく村の小使こづかひはしらせ江戸表より御着ごちやくの役人方より御用の由早々名主宅迄なぬしたくまで御出なさるべしといはすれば祐然は聞ておどろき何事やらんと支度したくなし急ぎ甚兵衞方へおもむきけり


第卅二回


 光照寺祐然いうねんは江戸表より御役人到着たうちやくにて召呼めしよばるゝと聞き何事やらんとおどろきながら役人のまへへ出ければ次右衞門三五郎の兩人りやうにん祐然にむかひ廿二三年以前當村たうそん住居ぢうきよ致し候お三がむすめ澤の井ならびに若君とかを其方てらはうむりし趣きなるが右は當時たうじ無縁むえんなるか又はしるし石塔せきたふにてもたてありやと尋けるに此祐然もとより頓智とんち才辨さいべんの者故參候若君わかぎみ澤の井の石塔せきたふは御座候も香花かうげ手向たむけ候者一人も是なししか拙僧せつそう宗旨しうしの儀は親鸞上人しんらんしやうにんよりの申つたへにて無縁むえんに相成候つかへはめい日には自坊じばうより香花かうげ手向たむけ佛前ぶつぜんに於て回向ゑかう仕つり候なりと元より墓標はかじるしなき取繕とりつくろひ申にぞ次右衞門三五郎口をそろへて然らば其石塔せきたふ參詣さんけい致し度貴僧きそうには先へ歸られ其用意よういをなし置給へと云に祐然かしこまり候と急ぎ立歸りて無縁むえんの五りんたふを二ツ取出しほどよき所へ据置すゑおき左右へは新らしきしきみの花をさし香爐臺かうろだいに香をくゆらし前にはむしろしきて今や〳〵と相待あひまちける所へ三五郎次右衞門寺社奉行じしやぶぎやう郡奉行こほりぶぎやう同道にて來りしかば祐然は出迎いでむかたゞち墓所はかしよへ案内するに此時三五郎は我々は野服のふくなれば御燒香せうかうを致すはおそれあり貴僧きそう代香だいかうを頼み入と云に祐然則ちうけたまはり代香だいかうをなし夫より皆々本堂ほんだうへ來り過去帳くわこちやうを取出させ委細ゐさい調しらべける

寶永二酉年三月十五日寂  釋妙幸信女  施主 三

寶永二酉年三月十五日寂  釋春泡童子  同人

右の如くにしるありしかば住持ぢうぢ祐然いうねん書寫かきうつさせ其おくへ右之通り相違さうゐ御座なく候につき即ち調印てういん仕り候以上月日寺社じしや奉行何某殿なにがしどの奧書おくがきしたゝめさせ次右衞門是を受取うけとれば三五郎懷中くわいちうより金二十兩を取出とりいだし祐然にあたへ是は輕少けいせうながら我々より當座たうざ回向料ゑかうれうなりなほ又江戸表へ立歸らばよろし披露ひろう致し御沙汰さた有之候やう取計ひ申すべしと挨拶あいさつに及び夫より祐然にいとまを告げ光照寺くわうせうじをば立出たちいでける是にて平澤村の方は調しら埓明らちあきしかば直樣隣村りんそん平野村へ立越たちこえ名主なぬし甚左衞門方へ落付おちつき村中殘らず呼集よびあつめ次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門にむかひ其方にたづねたき仔細しさいあり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申すばゞ當村たうそんへ參りしとうけたまはるが其者はいま存命ぞんめいなるやまた何方いづかたへか參りしやとたづねけるに甚左衞門おほせの通りたしか寶永はうえい二酉年三月頃とおぼえ候が右お三は其むすめ澤の井と申者相果あひはて候より狂氣きやうきなし平澤村を追出され所々しよ〳〵流浪るらう致しをり不便ふびんに存候故途中とちうよりつれかへり私し明家あきやへ住居させ候に追々狂氣きやうきをさま正氣しやうきに立歸り以前の如く渡世とせい致し居候内享保きやうほ元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は大雪おほゆきにて人通りもまれなるにお三には酒に圍爐裏ゐろりまろおち相果あひはて申候と聞て次右衞門三五郎は役柄やくがらなれば早くも心付其死骸しがいを見付し者は何者なるやとたづねけるに甚左衞門死骸しがい最初さいしよに見出し候者はわたくせがれ甚之助に御座候其仔細そのしさいは同日の夕刻ゆふこく雪も降止ふりやみ候に何となくあやしにほひ致せば近所の者共表へ穿鑿せんさく致し候に何時いつも何事にても人先に出て世話せわいたし候お三ばゞのみ一人相見え申さざれば私しせがれ甚之助不審ふしんに存じかれが家の戸をあけはじめて見出し申候と云に次右衞門はせがれ甚之助は其頃何歳なんさいなりしやとたづぬるにさればに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳のときに御座候とこたへけるに然らば其甚之助は只今たゞいま以て存命ぞんめいなるやと尋ねるに甚左衞門さんおやの口より我子をほめ候は恐入おそれいり候へ共幼年えうねんより發明はつめいなればすゑ頼母敷たのもしく存居しに生長にしたがひ惡事をこのみ親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時御帳おちやうつき勘當かんだう仕つり候其後一向に行衞ゆくゑ相知あひしれ申さず村の者共かれうはさを申し甚之助には能方よきかたおもむけばやりすぢ主共しゆとも成るべきが惡方あしきかたへ趣けば馬の上にてやりあともたせる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれどもおやの心には折々をり〳〵思出し不便ふびんに存じ候となみだながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎はかほを見合せたがひに心中はいま江戸表八山に居る天一坊は多分たぶん此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬていにて其方のせがれ甚之助はうまつき體面かほだち如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は疱瘡はうさうおもく候故其あと面體めんていのこはなはみにくく候と云にさて人違ひとちがひならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年ちがひの男子が當村たうむらをりしやと尋ぬるに甚左衞門は即ち人別帳にんべつちやう調しら寶澤はうたくと申す者有しが夫は盜賊たうぞくころされしと云に其仔細そのしさいは如何にとたづぬれば甚左衞門はこたへて右寶澤と申すは九州浪人らうにん原田何某のせがれにて幼年の頃兩親りやうしんに別れ夫より修驗者しゆけんしや感應院かんおうゐんの弟子と成りしが十三歳のくれ感應院には横死わうしいたし候に付みぎ寶澤へあとつぎ候樣村中むらちう相談さうだんの上申聞候にかれ幼年えうねんながら發明はつめいにて我々へ申候には山伏やまぶし艱行苦行なんぎやうくぎやうする者にて幼年の私し未だ右等みぎら修行しゆぎやうも致さず候へばしばら他國たこく致し苦行くぎやうを修め候上立戻たちもど師匠ししやうあとつぎ申度とたつて申聞候故村中むらぢうより餞別せんべつ取集とりあつつかはし候金子八兩二分を所持致し出立せしがみぎ金子きんすを所持せし故にや加田かだうらにて切害せつがいされ死骸しがいは海中へいれ申候しか相見え申さず此浦このうらには鰐鮫わにざめすみ候故大方はさめ餌食ゑじきと相成候事と存られ候衣類いるゐならびかさは血に染り濱邊に打上うちあげ是有候故濱奉行へ御屆に相成候かつ村中不便ふびんに存じ師匠ししやう感應院のはかそば塚標はかじるしを相立懇篤ねんごろとふらひ遣し候と云に兩士りやうしは是を聞より其寶澤はうたくの身の上こそ不審ふしんなりと思ひ其寶澤と云は常々つね〴〵お三ばゝの所へ往復ゆきかよひ致せしかと尋るに如何にも寶澤はつねにお三婆の所へ參りすでに相果候あとにてうけたまはり候へば其日寶澤は師匠ししやうよりさけさかなもらひ持參せし由其酒にて醉伏ゑひふし相果あひはて候事と存じられ候と聞より彌々いよ〳〵不審いぶかしく思ひ次右衞門申樣右寶澤の顏立かほだち下唇したくちびるちひさ黒痣ほくろ一ツ又左の耳の下に大なる黒痣ほくろ有しやと聞に如何にも有候とこたへるにぞ然ば天一坊は其寶澤に相違さうゐなしと兩士は郡奉行遠藤喜助にむかひ其寶澤の衣類等いるゐとう御座候はゞ證據しようこにも相成るべく存じ候へば申受度と云に喜助きすけ申樣夫は先年某濱奉行勤役中きんやくちうにて笈摺おひづるかさ衣類は缺所藏けつしよぐらの二階のすみへ上置候へば當時たうじの濱奉行淺山あさやまごん九郎へ申談じ差上申べしと其旨そのむね濱奉行へ申達しんだつし右の品々を取寄とりよせ兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見にかさ衣類いるゐ笈摺おひずる等一々きずつけ有共其疵口きずぐちの不審さに流石さすが公儀こうぎの役人是は盜賊たうぞく所爲しわざならず寶澤人に殺されしていに自身に疵付きずつけし者ならんとそみたる所を見れば年限ねんげんへだたりて黒染すみにじみの樣なれば人間の血のそみたるとは大にことなりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主なぬし甚左衞門に向ひ山伏やまぶし感應院の死去せしは病氣びやうきなりしやとたづねけるに甚左衞門病氣は食滯しよくたいうけたまはり候と云然らば其時は醫師いしに見せ候やと聞にさん候當村に清兵衞と申す醫師有てそれに見せ候と答ふ然らば其醫師いしを是へ呼べしとの事に早速さつそく人をはしらせ清兵衞を呼寄よびよせける三五郎清兵衞に向ひ其はう醫道いだうしかと心得ありやとたづねけるに少しは心得罷居まかりをり候と云に又押返おしかへして確と醫道いだうを心得居るやといふに今度はしかと心得候とこたへける然らば感應院病死びやうしせつは其方病症びやうしやうをばたしか見留みとめたるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は大食滯だいしよくたいに候去ながらわたくし事は病症びやうしやう見屆みとゞけの醫には候はず病氣をなほす醫師なれば食滯しよくたいと申し其座を立退たちのき候病症見屆の醫師に候はゞ大食滯だいしよくたいを申立其場は立去申まじと答ければ感應院の死去しきよは全く毒殺どくさつこそ知られけり抑々そも〳〵此清兵衞と云はもと紀伊大納言光貞卿みつさだきやう御意に入の醫師にて高橋意伯いはくとて博學はくがくの者なりしが光貞卿の御愛妾あいせふさくの方といふに密通みつつうなし大納言殿の御眼にれ其方深山幽谷しんざんいうこくに住居すべし家督かとくせがれへ申付捨扶持すてふちとして五人扶持をつかはすとの御意にていとまになり又たさくの方もすぐながの暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持くだし置れしかば意伯いはくはお作の方と熊野くまの山奧やまおく蟄居ちつきよし十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ都合つがふ十五人扶持にて平野村ひらのむらに住居し名を清兵衞とあらためしなり斯る醫道いだうくはしき人なれば今此返答へんたふには及しなりされば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の荷物にもつを持來し善助と云ふ者元感應院に數年すねん奉公せし故よくぞんじ居ると云を郡奉行へ相談の上見知人みしりにんの爲江戸表へ連行つれゆく事と定めけれど老人らうじんなれば途中とちう覺束おぼつかなしと甚左衞門をも見知人みしりにんに出府致す樣申渡し直に先觸さきぶれを出し東海道とうかいだう廻遠まはりとほ難所なんしよにても山越に御下向げかう有べしとて勢州せいしう田丸街道たまるがいだうへ先觸を出し桐棒駕籠きりぼうかごちやうには次右衞門三五郎打乘うちのり宿駕籠やどかご二挺には見知人甚左衞門善助の兩人打乘うちのり笈摺おひずる衣類いるゐ證據しようこに成べき品々は駕籠かごの上に付紀州和歌山を出立しゆつたつなし田丸越たまるごえをぞ急ぎける


第卅三回


 此時江戸表には八代將軍吉宗公よしむねこう近習きんじゆめされ上意には奉行越前守は未だ病氣全快びやうきぜんくわいは致さぬか芝八山やつやまに居る天一坊は如何いかがせしやとほつと御溜息ためいきつかせ給ひながら是は内々なり必ず沙汰さたべからずとおほせられたるがかく吉宗公が溜息ためいきつかせ給ふは抑々そも〳〵天一坊の身の上をおぼめしての事なり世の親の子を思ふ事貴賤きせん上下の差別さべつはなきものにて俚諺ことわざにも燒野やけの雉子きゞすよるつるといひて鳥類てうるゐさへ親子の恩愛おんあいにはかはりなしかたじけなくも將軍家には天一坊はじつの御愛息あいそく思召おぼしめさばこそかく御心をなやませられし成るべし此は容易よういならざる事成と御そば御用御取次おとりつぎより御老中筆頭ひつとう松平伊豆守殿へ此よし申達しんだつせらるゝに伊豆守殿も捨置すておかれずと御評議ひやうぎの上小石川御館おやかたへ此段申上られける此時このとき中納言綱條卿思召おぼしめさるゝ樣奉行越前病氣びやうきとゞけ致せしは自ら紀州表へ取調とりしらべに參し者かたゞしは家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數もかゝるべしさりながら捨置すておきがたしと伊豆守殿へおほせけるは越前守役宅やくたく上意じやういおもむき申遣はすべしとの事なれば早速さつそく伊豆守殿より使者ししやを以て越前守方へ此度このたび將軍の上意じやういに越前守には未だ病氣全快びやうきぜんくわい致さぬかしば八山やつやまに居る天一坊は如何いかゞせしやとの御事なれば明朝みやうてう早速すみやか登城とじやう致し御返答ごへんたふ申上らるゝか今宵こよひの内に御役御免おやくごめんを願ふか兩樣の内何共いづれとも決心けつしん致さるべしとのおもむきを申つかはしたるに此方こなたは越前守は公用人こうようにん次右衞門三五郎の紀州表へ出立しゆつたつせし其日より夜終よもすがら行衣ぎやういを着し新菰あらごもの上にて水垢離みづごりとり諸天しよてん善神ぜんしん祈誓きせいかけ用人無事に紀州表の取調とりしら行屆ゆきとゞき候樣丹誠たんせいこらし晝は一間に閉籠とぢこもりて佛菩薩ぶつぼさつ祈念きねんし別しては紀州の豐川とよかは稻荷いなり大明神だいみやうじん遙拜えうはいし晝夜の信心しんじんすこしも餘念よねんなかりしにかゝる處へ伊豆守殿より使者ししやを受け口上のおもむきを聞き茫然ばうぜんと天をあふぎて歎息たんそくなし指屈ゆびをりかぞふればハヤ兩人出立しゆつたつなしてより今日は七日目なぬかめなり行路ゆくみち三日歸り路三日紀州表の調しらはやくして三日なり然ば九日くにちならでは歸り難し然るを今宵こよひの中に御役御免をねがへ今宵こよひか明日は御親子御對顏ごたいがんあるに相違さうゐなし然すれば是迄つくせし千辛萬苦せんしんばんくも水のあわとなり諸天善神へ祈誓きせいかけし甲斐もなく嗚呼あゝ是非ぜひもなし明朝みやうてう六ツの時計を相圖あひづせがれ忠右衞門を刺殺さしころし我自ら含状ふくみじやうを致して切腹せつぷくなすべし然らば當年の内はよも御對顏ごたいがんは有まじく其内には紀州へつかはせし兩人も調しらべ行屆てかへるべしかゝればわれはてしとてのち忠義の程あらはるべしと覺悟かくごを定め當年十一歳なるせがれ忠右衞門を呼出よびいだ委細ゐさい言含いひふくめ又家中一同を呼出して今宵は通夜つやを致し明朝みやうてう六ツの時計を相圖あひづわれ切腹せつぷく致すなりと申渡されけるに家中の面々大におどろ今宵こよひこそは殿樣とのさまへの御暇乞おいとまごひなりとて不覺そゞろに涙をながし各々座敷へ相詰あひつめける越前守は家中一同を屹度きつと見て池田大助だいすけ側近そばちかよびて申樣汝に遺言ゆゐごんする事あり明朝は忠右衞門も予と共に切腹せつぷく致せば予がなきあとは三日をまたず其方ならびに次右衞門三五郎はたう御役宅おやくたくへ奉公すべし必らず忠臣ちうしん二君につかへずとの聖言せいげんを守るなよこの三人は予が眼鏡めがねに止りし者なれば屹度きつと御役おやくに立者なり必ず〳〵此一言をわするゝな次右衞門三五郎等歸府きふなさば此遺言このゆゐごんを申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなきあとは三日をまた夫々それ〴〵へ奉公すべし兩刀りやうたうたいする者は皆々天子てんしの家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの言葉ことばを用ゆるな浪人らうにんを致して居て越前の行末ゆくすゑかと後指うしろゆびさゝるゝな立派な出世致すべしかくてこそ予にたい忠義ちうぎなるぞと申聞られ一人々々ひとり〳〵盃盞さかづきを下され夫より夜のあくるをまちける此時越前守の奧方おくがたには奧御用人を以て明朝きみには御切腹ごせつぷくせがれ忠右衞門も自害致し死出しで三途さんづ露拂つゆはらつかまつるとの事武士の妻が御切腹ごせつぷくの事兼て覺悟かくごには御座候へども君に御別おんわかれ申其上愛子あいし先立さきだたれ何をたのしみに此世に存命ながらへべきや何卒なにとぞわたくしへも自害じがい仰付られ度と願はれければ越前守是をきゝ道理もつともの願なりゆるし遣はすへだたれば遲速ちそくあり親子三人一間ひとまに於て切腹せつぷくすべければ此所へ參れとの御言葉に用人はかしこまり此旨このむね奧方おくがたへ申上げれば奧方には早速さつそく白裝束しろしやうぞくあらためられ此方の一間へ來り給ひなみだこぼさず良人をつとそばざして三人時刻をまつ風前ふうぜん燈火ともしびの如くあは墓無はかなき有樣なり皆々は目を數瞬しばたゝ念佛ねんぶつとなへ夜の明るをうらみながき夜も早晩いづしか更行ふけゆはやあけ六ツに間も有じとて切腹の用意にかゝらるゝに明六ツの時計とけい鳴渡なりわたれば越前守は奧方おくがたに向ひせがれ忠右衞門切腹致さば其方介錯かいしやく致せ其方自害じがいせば予がぢき介錯かいしやくすべし予が切腹せば介錯かいしやくには大助致すべしと言付いひつけて又忠右衞門に向ひ最早もはや時刻じこくなるぞおくれを取なといはるゝに忠右衞門殊勝けなげにも然らば父上ちゝうへ御免をかうむり御先へ切腹仕つり黄泉くわうせん露拂つゆはらひ致さんといさぎよくも短刀たんたうを兩手にもち左の脇腹わきばらへ既に突立つきたてんとする折柄をりから廊下らうかをばた〳〵と馳來はせくる人音ひとおとに越前守せがれしばしと押止おしとゞめ何者なるやと尋ぬれば紀州よりの先觸さきぶれと呼はりける越前守是を聞き先觸さきぶれへと申にぞ其儘そのまゝに差出せばいそふう押開おしひらきて是は三五郎の手跡しゆせきなり此文體ぶんていにては紀州表の調しらべ行屆ゆきとゞきたりと相見えいさみたる文段なりさりながら兩人のちやく是非ぜひ晝過ひるすぎならん夫迄は猶豫いうよ成難なりがた餘念ざんねんながら是非に及ばずせがれ忠右衞門おくれを取な早々はや〴〵用意を致せといふ言葉ことばに隨て然ば御先へと又短刀たんたう持直もちなほしあはや只今突立つきたてんとする時亦々廊下らうか物音ものおとすさまじく聞えければ越前守何事やらん今暫いましばらくと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士亂髮らんぱつの上を白布しろぬのにてまき野服のふくまゝにてかたなつゑに越前守殿の前に駈來かけきたり立乍ら大音だいおんあげ天一坊は贋者にせものにて山伏やまぶし感應院の弟子でし寶澤と云者いふものなり若君には寶永はうえい二酉年三月十五日御早世ごさうせいに相違なし委細ゐさいは是に候とて書留かきとめひかへ差出し兩人ははつた平伏へいふくなし私共天一坊贋者にせものの儀を早々申上御安堵ごあんどさせ奉つらんと一圖に存じこみ君臣のれいを失ひ候段恐入奉つり候よつて兩人は是より差控仕さしひかへつかまつる可と座を退しりぞかんとするを越前守大音だいおんあげ次右衞門三五郎しばしまてよび止れども兩士はしひ退座たいざせんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は是非ぜひなく立戻たちもどり越前守がまへに出て平伏へいふくす是時越前守には次右衞門三五郎の手をられ兩人の丹精たんせいかたじけなく思ふなり家來けらいとは思はぬぞやとて夫より伊豆守殿より使者ししやあづか捨置難すておきがたければ親子しんし三人覺悟かくごなし只今既に忠右衞門切腹せつぷくするの所ろ兩人の歸着きちやくこそ神佛しんぶつ加護かごとはいへ全たく誠忠せいちうの致す所なりと物語ものがたられせがれ忠右衞門一代は兩人をば伯父々々をぢ〳〵よぶべしと言ければ兩人は有難涙ありがたなみだくれあつ御禮おんれい申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置休息きうそく致させける是に依て越前守には池田大助だいすけに命じ全快屆ぜんくわいとゞけの書面をしたゝめさせ公儀こうぎへこそは差出されける


第卅四回


 さても越前守には紀州より兩臣歸着きちやくにて逐一ちくいち穿鑿せんさく行屆たれば直樣すぐさま沐浴もくよくなし登城の觸出ふれだし有て御供揃ともそろひに及び御役宅おやくたくを出で松平伊豆守殿御役屋敷をさしいそがせられすでに伊豆守殿御屋敷おやしき御玄關おげんくわんへ懸て奉行ぶぎやう越前守伊豆守殿へ内々ない〳〵御目通おめどほり致度と申入るに取次の者此趣このおもむきを申上ければ伊豆守殿不審ふしんに思はれ奉行越前は昨夜さくやの内に御役おやく御免を願ふはずなるに今日全快屆ぜんくわいとゞけを出し予に内々あひたしとは何事ならんと早速さつそく對面たいめんありしに越前守申さるゝには少々せう〳〵御密談おんみつだん申上度儀候へば御人拂ひとはらひ願ひたしとの事故公用人こうようにん一人のこし餘はみな退しりぞけらる越前守はふたゝび公用人をも御退おしりぞけ下さるべしと言るゝに伊豆守殿顏色がんしよくかへ是れ越前其方は役柄やくがらをも相勤あひつとめ候へば斯程かほどの事はわきまへ居るべし老中らうぢうの公用人は目付代めつけかはりなり役屋敷やくやしきに於て密談みつだん致す事は元より御法度ごはつとなりと申さるゝを越前守ゑちぜんのかみ少しもおくせず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀につき少々せう〳〵御密談申上度存じ態々わざ〳〵推參すゐさん仕つり候御聞屆おきゝとゞけなきに於ては致し方なし然れば御暇おんいとま仕つらんと立懸たちかゝるに伊豆守殿天一坊の事ときゝて何事やらんと心懸こゝろがかりなれば言葉ことばやはらげられ越前天一坊儀とあれば伊豆守もうけたまはらねばならぬ事なりとてやがて公用人をも退しりぞけられ今はまつたく二人差向さしむかひに成れける此時このとき越前守申さるゝ樣はわたくし先達てより天一坊の身分再吟味さいぎんみの役をかうむり候處病氣びやうきに付御屆申上引籠ひきこもり罷在其内に家來を以て紀州表きしうおもてへ調方につかはし候ひしが今朝やうや歸府きふ仕つり逐一相糺あひたゞし候處當時八山に旅宿りよしゆく致し居天一坊といふはもと九州浪人らうにん原田嘉傳次と申者のせがれにて幼名えうみやうを玉之助といひ幼年にて父母に別れ紀州きしう名草郡なぐさごほり平野村の山伏やまぶし感應院の弟子となり名を寶澤はうたくと改め十二歳の時お三婆さんばゞ縊殺しめころし御墨附短刀をうばひ取十三歳にして師匠ししやう感應院を毒殺どくさつし十四歳の時村中をいつはり諸國修行とがうし平野村を立出其夜加田の浦にて盜賊たうぞくに殺されし體にこしらへ夫より同類どうるゐかたらひて將軍の落胤おとしだねなりと名乘なのり出候に相違有間敷候此度見知人も是有彼地かのちより兩人同道にて連參つれまゐり候なりと委敷くはしく申述けるに伊豆守殿かくと聞て仰天ぎやうてんし暫々言葉ことばも無りしがやゝ有ておほせけるは越前はよくも心付たり定めて御褒美ごはうびとして五萬石は御加増ごかぞう有べし夫に引替ひきかへ此伊豆守は半知はんちと成て御役御免に相成可しと悄々しほ〳〵として言ければ越前守打點頭うちうなづき私し儀御加増ごかぞうのぞみ立身を心懸こゝろがけ心底しんていには候はず左樣の存じよりあらば何とて今日御役宅へ御密談おみつだんに參り可申や配下はいかの身として御重役ごぢうやく不首尾ふしゆびを悦ぶ所謂いはれなし只今申上候御密談と申はほかの儀に候はず伊豆守殿には拙者せつしやより先へ御登城ごとじやうなされ將軍家へ天一坊儀は重役共ぢうやくどもより先達さきだつ身分みぶん相調あひしらべ候處全く將軍の御子樣おこさま相違さうゐなく存じ奉つり此段言上ごんじやう仕り候へ共退しりぞいて能々よく〳〵勘考かんかう仕つり候へば不審ふしん廉々かど〳〵も御座候ゆゑ奉行越前心付していに仕り内々吟味ぎんみ致させ候に天一坊儀は全く贋者にせものにて山伏感應院の弟子でし寶澤と申す賣僧まいすに御座候と仰上おほせあげられなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の御心付おこゝろづきにて御内密仰含ごないみつおほせふくめられ候に依て内々にて吟味仕り候處贋者にせものまぎれ御座なく候と言上ごんじやう仕り候らはゞ双方さうはう言葉ことば符合ふがふ致すべしと云に伊豆守殿にはきいて大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上ごんじやう致すべし其方も相違さうゐなく左樣さやうに言上致され候や其節に及び双方さうはうの申立相違さうゐ致ては伊豆守が身分みぶんにも相懸あひかゝり候儀なれば能々よく〳〵承知しようち有たし只今の口上に異變いへんなきやと再應おほせらるゝにぞ越前守かほたゞし私しより申上候儀なれば毛頭もうとう相違は御座なく候とこたへらるゝに然らば越前同道どうだうにて登城とじやう可致と御供觸おともぶれを出され御同道にて御登城ごとじやうに及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召ておほせけるは伊豆守越前守とも言上ごんじやうの儀有之候に付御目見得下めみえくだし置れ候樣御取次あるべしとの事なれば御用御取次は此段早速さつそく言上に及ばれける將軍家にも奉行越前病氣全快びやうきぜんくわいと聞し召れ御悦氣ごえつきにて早速さつそく召出され御目見仰付おほせつけらる此時伊豆守殿には天一坊儀上樣うへさま御落胤ごらくいんに相違なしと存じ奉つり先達さきだつて此段上聞にたつし候へ共退しりぞきて倩々つら〳〵かんがへ候へばいさゝ不審ふしんの事も御座候故御證據しようこたしかの御品ながら當人はもしまぎらはしき者にやと心付候へ共重役ぢうやく共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意ないい仕つり同人心付候よしにて吟味ぎんみ致させ申候處はたして天一坊儀は贋者に相違さうゐ御座なく候と委敷くはしく言上に及ばれければ將軍には能々よく〳〵聞し召れ越前守にむかはせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしがじつは伊豆が心付て内意ないい有たるに相違なきや越前如何いかゞぢやとの上意に越前守發と平伏へいふくなし只今伊豆守より言上ごんじやう仕り候通り毛頭もうとう相違御座なく候委細ゐさいは此書面にしたゝめしとて書付を出さるれば御用ごよう御取次是を受取將軍家へ差上さしあぐる御ぢき御覽ごらんあるに當時天一坊と名乘候者はもと九州浪人らうにん原田嘉傳次かでんじの悴にて幼名えうみやう玉之助とよび幼年にて兩親に別れ平野村の山伏やまぶし感應院の弟子となり寶澤はうたく改名かいめいし十二歳にしてお三婆を縊殺しめころし御墨附御短刀をうばひ取十三歳にて師匠を毒殺どくさつし十四歳のはる紀州加田の浦にて盜賊たうぞくに殺されしていに取こしらへ夫より所々を徘徊はいくわいなし同類をかたらひ此度將軍家の御落胤おとしだね名乘なのり出候に相違御座なくしかと記し有を御覽遊ごらんあそばし殊のほか御顏色ごがんしよくかはらせ給ひにく坊主ばうずめが擧動ふるまひなり仕置しおきの儀は越前が心にまかすべし此段兩人りやうにん同道にて水戸家みとけへ參り左樣に申べしとの上意じやうい直樣すぐさま伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館おやかたさして急行いそぎゆきける小石川にては綱條卿つなえだきやう今朝奉行越前病氣全快屆ぜんくわいとゞけを出せし由さだめて屋形へも越前參るべしと思召遠見とほみを出すべしとの御意ぎよいにて則ち遠見の者をいだされけるに此者下馬先げばさきにて越前守伊豆守殿と同道どうだうにて小石川御屋形の方をさして來るを見るより急ぎ馳歸はせかへりて只今松平伊豆守殿大岡おほをか越前守御同道にて御館おやかたを指てまゐられ候なりと申上るに中納言ちうなごん綱條卿斯と御聞とりあそばし伊豆守同道とは何事ならんと御まち有けるにもなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道參上さんじやうつかまつり御目見をねがたてまつると取次を以て申上るに中納言綱條卿つなえだきやうは如何思召おぼしめしけん伊豆守はひかへさせよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を御廣おんひろ書院へ通し伊豆守殿をば使者ししやの間へひかへさせられたり間もなく綱條卿には御廣おんひろ書院へ入らせられ越前守に御目見おんめみえ仰付らる此時越前守すこしくかしらを上申上らるゝ樣は先達さきだつて私し心付候由にて天一坊身分みぶん再吟味さいぎんみの儀願ひ奉つりすなはち御免をかうむり候へ共是は私しの心付には御座なく全く伊豆守いづのかみ心付なり然共されども先達て將軍の御落胤おとしだねに相違なしと上聞じやうぶんに達し其後の心付なりとて一旦いつたん重役ぢうやく共申出し儀を相違つかまつり候ては御役儀もかろ相成あひなり候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免をかうむり其後病氣と披露ひろう仕つり引籠ひきこもちう家來けらいを以て紀州表相調あひしらべ候に天一坊儀は贋者にせものに相違是なく委細ゐさいは此書面に御座ござ候と差上らるゝに綱條卿是を御手おてとらせ玉ひ御覽ごらん有るに全くの若君わかぎみには寶永三酉年三月十五日御誕生ごたんじやうにてすぐ御早世ごさうせい澤の井も其明方あけがたに同じく相果あひはて平澤村光照寺へはうむり右法名ほふみやう共にうつし有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして幼名えうみやうを玉之助といひ七歳にて兩親にすてられ山伏やまぶし感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を縊殺しめころし十三歳のふゆ師匠感應院を毒殺どくさつし十四歳のとし諸國修行といつはり加田の浦にて盜賊にころされたるていにし夫より諸國を經廻へめぐ同類どうるゐを語らひ今般こんぱん將軍の御落胤おんおとしだねなりと名乘出候に相違さうゐ御座なく候としたゝめたれば扨々にく惡僧あくそうなり如何に越前此調このしらべは伊豆守の内意ないいを受て紀州表を吟味ぎんみ致したりと申せども全くは左樣にはあらざるべし其方が心付しに相違さうゐあるまいな其方重役ぢうやくの身を思ひこうを他にゆづる心なるべし予が眼力がんりきによも相違は有るまじとさいおほせらるゝに越前守おそれながら言葉ことばを返へし奉つるに候へ共私存じ仕候樣に申上しは僞言いつはりにて實は伊豆守よりの内意ないいを受候に相違御座なく候と申上げるに綱條卿つなえだきやうの御意に越前たいしてことばを返へし候段はわすれて遣すとの御意ぎよいなりしか


第卅五回


 此時中納言ちうなごん綱條卿の御意には伊豆守を是へ呼出よびいだすべしとの事なれば伊豆守殿には案内あんないつれて恐々出來り平伏ある中納言綱條卿にはしば八山やつやま旅宿りよしゆく致居る天一坊の身分調方しらべかた伊豆其方が心付にて内意ないい致し奉行越前が心附していはからひ再吟味を願ひ紀州表を相調あひしら穿鑿せんさく方行屆候由只今越前より左樣さやうに申せしが伊豆が内意ないい致せしに相違なきやとの御意ぎよいなれば伊豆守殿には恐入おそれいり越前より言上仕り候とほ相違さうゐ御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守はよき配下はいかもち仕合しあはせ者なりとのおほせに伊豆守殿は胸中きようちう見透みすかされはりむしろに坐する如く冷汗ひやあせながしてひかへらる此時綱條卿には越前天一坊の仕置しおきの儀は其方が勝手に致べしゆるすぞ越前は小身者せうしんものなれば天一坊召捕方めしとりかたの手當等はむづかしからん伊豆其方そのはうより萬端ばんたん助力じよりよくいたしつかはし早々其用意よういを致べしとて御いとまを下し置かる是に依て伊豆守殿にはほついきつき漸く蘇生そせいしたる心地して退出たいしゆつなし役宅やくたくへこそ歸られけるさて越前守はあとのこり御懇意こんいの御言葉ことばを蒙り御いとまを給はり面目めんぼくを施して勇進いさみすゝんで御役宅やくたくへ歸り早速さつそく公用人二人を呼出よびいだし次右衞門に言付いひつけけるは其方是より芝八山へ參りあくこく越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ずさとられるなと心付られ又三五郎をよびて其方は天一坊召捕方めしとりかた手配てくばりを致べしと仰付られ池田大助には天一坊召取方めしとりかたを申付らる是によつて三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數にんずくばまづ品川新宿板橋千住の大出口おほでぐち四ヶ所へは人數千人づつかためさせ其外九ヶ所の出口でぐちへは人數五百人づつを守らせおきの方は船手ふなてへ申付深川新地しんちより品川おき迄御船手ふなてにて取切御そなへの御船は沖中おきなかへ押出し其外鯨船げいせん數艘すそうを用意し嚴重げんぢうこそそなへける然ば次右衞門は桐棒きりぼう駕籠かごに打乘若徒わかたう兩人長柄ながえ草履ざうり取を召連めしつれ數寄屋橋御門内御役宅やくたくを出芝八山をさして急ぎゆきしが道々思案しあんするには先達て赤川大膳を名指なざしにせしが此度も又大膳だいぜん對面たいめんなさんか否々いや〳〵若し山内伊賀亮がわきより聞てさとらば一大事なりさらば此度は伊賀亮を名指なざしにてかれに對面してあざむおほせん者をと工夫くふうこらやがて八山の旅館りよくわんに到り案内をふに中村市之丞取次とりつぎとして出來れば次右衞門申やう町奉行まちぶぎやう大岡越前守使者ししや平石次右衞門天一坊樣御重役ぢうやく山内伊賀亮樣に御目通めどほり致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞此旨このむね伊賀亮へ申つうじけるに伊賀亮熟々つら〳〵思案しあんするに奉行越前病氣びやうき披露ひろうし自分に紀州表へ調しらべに參りしに相違さうゐなし然ばゆき三日半歸り三日半調しらべに三日かゝるべし越前病氣引籠びやうきひきこもりより今日は丁度ちやうど八日目なり十日すぎての使者なれば彌々いよ〳〵役宅へ呼寄よびよせ召捕めしとる工風くふうなるべけれど四五日早く使者ししやの來る處を見れば謀事はかりごと成就じやうじゆせしと相見えたりとて次右衞門を使者の間へ通しやがて伊賀亮對面たいめんに及びたる此時このとき次右衞門申けるは越前先日せんじつ以來病氣に候處すこしくこゝろよかたにて御座候故今日おして出勤致し候一たい越前守參り以て申上べきの處なれど未だしか全快ぜんくわいも仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御親子しんし對顏たいがんの御規式ぎしきを御取計ひ仕り候もつと重役ぢうやく伊豆守越前役宅まで參られ天一坊樣へ御元服げんぷくを奉り夫より御登城とじやうの御案内には伊豆守は勿論もちろん西の御丸へなほらせられ候節は酒井左衞門尉さゑもんのじようより御やり一筋獻上けんじやうつかまつり候事吉例きちれいに候へ共左衞門尉は在國ざいこく出羽鶴が岡にまかり在候に付名代みやうだいとして伊豆守より猿毛さるげの御やりすぢ獻上仕り候上樣よりは御祝儀しうぎとして御先箱さきばこ一ツ御打物うちもの一トふり右は雨天に候節は御紋ごもん唐草からくさ蒔繪まきゑ晴天せいてんに候へば青貝柄あをかひえの打物に候大手迄は御譜代ふだい在江戸の大名方出迎でむかへ御中尺迄ちうしやくまでは尾州紀州水戸の御三方さんかたの御出迎でむかひにて御玄關げんくわんより御通り遊ばし御白書院おんしろしよゐんに於て公方樣くばうさま對顏たいがん夫より御黒書院くろしよゐんに於て御臺みだい樣御對顏ふたゝ西湖せいこの間に於て御三方樣御さかづき事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御たかの儀は吉例きちれい四國なれば上野國かうづけのくににて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合つがふ五十萬石上野國佐位郡さゐのこほり厩橋うまやばし城主格じやうしゆかくに御座候と辯舌べんぜつさわやかに申述なほ申殘しの儀は明日成せられ候せつ越前直々ぢき〳〵に言上仕つり候と申のべをはれば伊賀亮是を聞てさては事成就じやうじゆせりと心中に悦びける是餘人成ば城中じやうちうの事くはしくは知ざればうたがはしくおもふべけれ共伊賀亮は城中の事をよく心得居る故今次右衞門のいふ處一々に當ればさすがの伊賀亮も心をゆる此計略このけいりやくにはのせられたるなりさて伊賀亮は奧へ來り皆々みな〳〵此趣このおもむきを申聞せ伊賀亮所持しよぢ金作きんづくりかたなを持出て次右衞門に向ひ越前守より申こされし段上樣へ申上候處御滿足まんぞく思召おぼしめし明日の刻に越前役宅へ參るべしとの上意じやういなり是は余が所持しよぢの品如何敷いかゞはしく候へども其方へつかはすとて一かたなを差出せば次右衞門は此刀このかたなを申請あつく禮をのべいとまを告て門前迄いで先々まづ〳〵仕濟しすましたりとほつと一いきついて飛が如くに役宅へ歸り此趣このおもむきを越前守へ申上彌々いよ〳〵召捕めしとる手筈てはずをなしにける斯て八山には皆々みな〳〵打寄うちより實に明日こそ御親子御對顏たいがんに相成に付最早もはやこと成就じやうじゆせりと次右衞門が計略けいりやくに乘りしとはらず大いに悦び斯樣かやうなる悦しき事は一夜を待明まちあかすなりとて伊賀亮がはからひとして金春太夫こんぱるだいふ觀世太夫くわんぜだいふを呼で能舞臺のうぶたいに於て御悦びの御のうもよほしける然るに其夜こくとも覺敷頃おぼしきころかぜもなくして燭臺しよくだい燈火ともしびふツとえければ伊賀亮不審ふしんに思ひ天文臺てんもんだいのぼりて四邊あたり見渡みわたすに總て海邊かいへんは數百そうの船にて取圍とりかこかゞりたき品川灣を初め江戸の出口でぐち十三ヶ所へ人數にんずくばりかためたる有樣ありさまなれば伊賀亮驚き最早もはや露顯ろけんせしと見たり今は是非に及ばず名も無者なきもの召捕めしとらるゝは末代まつだい迄の恥辱ちじよくなり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば本望ほんまうなり大坂御城代ごじやうだい京都諸司代御老中迄もあざむきし上は思殘す事更になしと自分じぶんの部屋へ來りてかゞみを取出し見れば最早もはやかほ劔難けんなんさうあらはれたれば然ば明日は病氣といつはり供を除き捕手とりての向はぬ内に切腹せつぷくすべしと覺悟かくごを極め大膳のもと使つかひを立伊賀亮事にはか癪氣しやくき差起さしおこり明日の所全快ぜんくわい覺束おぼつかなく候間萬端ばんたん宜敷御頼み申也と云おく部屋へや引籠ひきこもり居たりけるさて其夜もあけたつ上刻じやうこくと成ば天一坊には八山を立出で行列ぎやうれつ以前よりも華美くわびよそほひて藤井左京赤川大膳だいぜん供頭ともがしらとなりて來る程に途中とちうの横町々々は大戸を〆切町内々々ちやうない〳〵自身番屋じしんばんやにはとびの者共火事裝束しやうぞくにてつめ家主抔いへぬしなどかはり〴〵相詰たり數寄屋橋御見附みつけ這入はいれば常よりも人數夥多おびたゞしく天一坊の供のこら繰込くりこむを待て御門をはたと〆切たり越前守御役宅おんやくたくへ到れば大門を開き敷臺迄しきだいまで駕籠かご横着よこづけになし平石次右衞門池田大助下座敷げざしき平伏へいふくす時に越前守にはつぎ上下にて敷臺迄出迎いでむかへ上段の間へ案内あんないし是にて暫く御休息遊ごきうそくあそばすべし其内には伊豆守參上仕つるべしとて退しりぞかるみすの前には常樂院赤川大膳藤井左京諏訪右門すはうもん各々威儀ゐぎを正して居竝ゐならびたり越前守は見知人みしりにんの甚左衞門善助を御近習きんじふ仕立したて寶澤に相違なくはたもとを引べし夫を相圖に召捕べしと申渡し彼紀州よりもち來りし笈摺おひずるには紀州名草郡平野村感應院かんおうゐんの弟子寶澤十四歳と記し所々血汐ちしほそめし品々をかべ懸置かけおき最早手筈は宜と越前守みすの間へ來りて控居ひかへゐる然る所へ伊豆守殿の使者ししや來り申述けるは今日伊豆守當御役宅たうおやくたくへ參りて元服げんぷく奉るべきの所今日佐竹左京太夫さきやうたいふ殿江戸着にて伊豆守上使じやうしに參り今日は御規式おぎしきの御間に合兼あひかね候由何共おそれ入奉り候へ共明日巳の刻に越前役宅やくたくへ入せられ候樣願上奉ると有ければ越前守には大膳にむか只今たゞいま御聞おんきゝの通り伊豆守方より斯樣に申參り候へばとても今日のには參り申さずおそれながら明日又々いらせられ候樣願ひ奉ると申に大膳も此趣このおもむきを天一坊へ申傳へるに伊豆守役儀と有ば是非に及ばず又明日參るべしとの事にてやが歸館々々きくわん〳〵觸出ふれだしければ天一坊は上段じやうだんの間より靜々しづ〳〵と下り立ちけるに引續いて常樂院大膳左京右門のともが玄關げんくわんさし歩行あゆみけり


第卅六回


 天一坊初め一味のともがら町奉行御役宅の玄關げんくわんさしいでけるに豫て越前守が見知人として近習きんじゆに仕立召つれし彼甚左衞門善助は此時ぞと天一坊を能々よく〳〵ればまぎれもなき寶澤なれば越前守に目配めくばせなしひそかにたもとを引たりける此時は天一坊は既に玄關迄來りしが向のかべに懸し笈摺おひずりを見てさすが大膽不敵の天一坊なれど慄然ぞつと身の毛よだち思はず二足三足跡へ退しりぞくを見て取越前守大音に寶澤待と聲を懸けければ此方は彌々いよ〳〵愕然びつくりし急に顏色がんしよく蒼醒あをざめ後の方を振返るにそれ召捕めしとれと云間も有ず數十人の捕手ふすまかげより走り出なんなく高手たかて小手になはをば懸たりけるかくるより大膳はことあらはれしと思ければ刀引拔勢ひたけ縱横たてよこ十文字に切て廻り切死せんとはたらくを大勢にて取籠とりこめつゝ階子はしごを以て取押とりおさへ漸く繩をぞ懸たりける此間このまに常樂院藤井左京諏訪右門等各々召捕れ其餘一人も殘ず召捕たり越前守は豫て手配てくばりせし事なれば急ぎ八山へ捕方とりかたを遣はせしに山内伊賀亮は早くも覺悟かくごし自分の部屋へやへ火を懸て燒立やきたて其中にて切腹し果たれば死骸は更にわからずとなん惡徒とは云へ天晴あつぱれの器量人と稱すべし斯て越前守には御目附野山のやまいち十郎松田勘解由まつだかげゆ等立合にて一同呼出し先天一坊を吟味ぎんみに及ばれけるが只々伊賀亮いがのすけ萬事を取計ひしゆゑ委細いさいは存じ申さずと云に然らばとて常樂院其餘の者を吟味ぎんみするに是も同斷の答へゆゑ入牢の上嚴重に拷問がうもんを懸られたれば終に殘らず白状に及びける是に依てうかゞ相濟あひすみ享保十一丙午ひのえうま年の十一月廿一日町奉行所に於て大岡越前守御勘定奉行駒木根肥後守筧播磨守かけひはりまのかみ野山市十郎松田勘解由立合にて大岡越前守左の通り申渡されける

元長州浪人原田嘉傳次悴
玉之助
當山派修驗感應院弟子
となり其後改寶澤當時
獄門           天一坊

其方儀そのはうぎ感應院かんおうゐん師恩しおんわきまへず西國修行に罷り出度由申立あざむきて諸國を遍歴へんれき徒黨とたうを集め百姓町人より金銀を掠取かすめと衣食住いしよくぢう侈奢ししやをなしたるだんかみを恐ざる致方いたしかた重々ぢう〳〵不屆至極に付獄門申付る

天一坊家來
死罪           赤川大膳

みぎ大膳儀だいぜんぎ先年神奈川かながは旅籠屋はたごやとく右衞門方に於て旅人を殺害し金子を奪取うばひとり其後天一坊に一謀計ぼうけい虚言きよげんを以て百姓町人をあざむき金銀を掠取かすめとり衣食住に侈奢おごり身の程をもわきまへずかみないがしろに致たるだん重々不屆に付死罪申付る

天一坊家來
死罪           藤井左京

其方儀そのはうぎ天一坊へ一味いちみ致し謀計ぼうけい虚言きよげんを以て百姓町人をあざむき金銀を掠取り衣食住に侈奢おごり身の程をもわきまへず上をないがしろに致たる段重々不屆に付死罪申付る

美濃國各務郡谷汲郷
長洞村日蓮宗
遠島           常樂院天忠

其方儀そのはうぎ天一坊身分みぶんしか相糺あひたゞさず百姓町人を欺き金銀を掠取かすめとり候段かみないがしろに致し重々不屆につき遠島ゑんたう申付る(八丈島)

芝田町
重追放          山伏南藏院

其方儀天一坊身分しかと存ぜずとは申ながら常樂院にたのまれかり住居の世話申候段不埓ふらちに付重追放申付る

品川宿地面賣主
過料五貫文        儀右衞門

其方儀天一坊身分しか相糺あひたゞさ地面ぢめん賣遣うりつかはし候段不埓に付過料くわれう五貫文申付る

品川宿名主
身分取上         茂太夫

其方儀天一坊身分しかと相糺さず萬事ばんじ華麗くわれいていたらく有しを如何いかゞ相心得居申候やうつたへもせず役儀やくぎをもつとめながら心付ざる段不屆に付退役申付る

天一坊家來
本多源右衞門
南部權兵衞
遠藤森右衞門
中追放          藤代要人
諏訪右門
浮木立平
高間左膳

みぎにん者共ものども天一坊身分みぶんしか相糺あひたゞさず主從しうじう盟約めいやくを致し候だん不屆ふとゞきの致しかたに付中追放申付る

天一坊家來
高間權内
石黒善太夫
輕追放          福島彌右衞門
矢島主計

みぎ四人の者同斷に付輕追放けいつゐはう申付る

天一坊家來
木下新助
澤邊十藏
松倉長右衞門
高岡玄純
門前拂          上國三九郎
近松源八
相良傳九郎
森川玄蕃

みぎ八人の者共同斷どうだんに付門前拂もんぜんばらひ申付る

天一坊家來
作右衞門
權助
石平
傳藏
專藏
無構           八助
半五郎
六左衞門
源七
八内

みぎ十人の者共は請人うけにん引渡ひきわたし可申事

時に享保十一丙午ひのえうま年十一月廿一日右の通り裁許さいきよ相濟あひすみ其外金子差出候者共は呼出しの上夫々相當の過料くわれう申付らるかくて天一坊一けん善惡ぜんあく邪正じやせい明白に決斷けつだん相濟み落着らくちやくとなりければ此段このだん上聽じやうちやうたつしける將軍家の上意にもし越前ゑちぜん無ば彼惡僧にたばかられん者と深く御稱美ごしようび有て三州額田郡ぬかたごほり西大平にしおほひらに於て一萬石加増仰付られ越前守是迄の心勞しんらう一方ならざりしも其甲斐そのかひありて愁眉しうびひらかれけるさて平石ひらいし次右衞門吉田三五郎の兩人より越前守へ言上いひあげ彼若君かのわかぎみ澤の井の死骸しがいはうむりし光照寺へ永代佛供料えいたいぶつくれうとして十八石の御朱印ごしゆいんを下し置れける是ひとへ住持ぢうぢ祐然いうねん發明はつめい頓才とんさいの一言に依て末代まつだい寺號じがうかゞやかせり且又見知人として出府せし甚左衞門善助の兩人へは越前守より目録もくろく其外の品々をたまはり目出度歸國きこく致ける然ばまがれる者は折易をれやすすぐなる者は伸易のびやすしとか山内伊賀亮程の器量きりやうある者も惡事に組し末代の今に到るまで汚名をめいのこしけるが越前守には明智を以てかゝる惡事を見顯みあらはし忠功をたて後世迄も美名びめい海内かいだいかゞやかし子孫の繁榮はんえいのこすはいと有難ありがたき事共なり


天一坊一件

白子屋阿熊一件

白子屋阿熊しろこやおくま一件いつけん


第一回


 けんにしてたからおほければ則ち其志そのこゝろざしそんにしてたからおほければ則ち其過そのあやまちをますかつそれ富貴ふうきしううらみなりと此言やむべなるかな享保のころ麹町二丁目に加賀屋かがや四郎右衞門とて間口まぐち十八間餘けんよ番頭ばんとう手代てだい丁稚でつち五十餘人其外下女下男二十人夫婦に子供こども都合つがふ七十人餘のくらしにして地面四五ヶ所をもち呉服物ごふくものあきな日々ひゞ繁昌はんじやうなすに近頃ちかごろ其向そのむかう見世開みせびらきをなして小切こぎれ太物ふとものひさ駿河屋するがや三郎兵衞と云者ありしが此方こなた新規しんき小見世こみせいひむかふは所に久しき大店なれば客足きやくあし自然おのづからむかふへのみ行勝ゆきがちなれども加賀屋よりもをりにふれては代呂物しろもの融通等ゆうづうとうもなし出入邸でいりやしきあきなひをして取續とりつゞたれども或年あるとし三月節句せつく前金二十兩不足にて勘定かんぢやうたゝざれば是非なく向ふの加賀屋へいた亭主ていしゆあひて此節句前二十兩不足ゆゑ問屋とひやはら行屆ゆきとゞかざるに付何卒節句過まで金子借用致したきむね只管ひたすらたのみければ此四郎右衞門は情有者なさけあるものにて夫はさぞ御難儀ごなんぎならん向前むかうまへいひ類商賣るゐしやうばいの事なれば此度に限らず御都合次第何時にても御遠慮なく仰越れよとこゝろよくかしければ三郎兵衞大いによろこ書付かきつけを入れんと云に四郎右衞門書付には及び申さず御同商賣の事故たがひに融通ゆうづうは致すはずなりと眞實面に顯れければ三郎兵衞はまことかたじけなしと厚く禮を述て歸らんとするを四郎右衞門先々まづ〳〵引止ひきとめ下女に云付さけさかなを出し懇切ねんごろ饗應もてなして三郎兵衞を歸しけり其後三月十日に三郎兵衞二十兩加賀屋へ持參ぢさん先達せんだつての禮を述て返濟なし其節も馳走に成しが其後五月節句せつくまへ又三十兩不足に付借用致し度と云ければ四郎右衞門は以前の如くこゝろよくかせしを夫も五月十日に返濟なし七月盆前ぼんぜんに五十兩借是又同廿日に返し九月節句前にも八十兩借同月晦日みそかに返濟せしがさて今度は十二月となり年のくれなれば誰も金をかさぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも眞實者しんじつものなればこまると聞て利も取らず極月ごくげつ金百兩かしたり斯の如く鰻登うなぎのぼりに借る事三郎兵衞もとより心に一物あれば此百兩の金を十二月大晦日おほつごもりに持行けるが四郎右衞門其日は殊の外勘定に取込居とりこみをり三郎兵衞の來りても碌々ろく〳〵挨拶あいさつもせず帳合ちやうあひ爲居なしゐたりし所へ三郎兵衞右の金百兩を返濟しければ其儘そのまゝ硯筥すゞりばこの上に置て下女に申付さけさかなを出させ三郎兵衞を饗應もてなしながら猶帳合をなし居けるうち邸方やしきがたよりむづしきはらひ殘りの掛合かけあひなどありて四郎右衞門も忙敷いそがしくたり立たりせしまぎれに三郎兵衞は掛硯筥かけすゞりばこの上に置たる彼の百兩をそつと取て懷中へ入たるを誰も知る者なかりしが其後三郎兵衞はしばらはなしをなして歸りけるあとにて四郎右衞門彼の百兩を仕廻しまはんとするに見えざれば萬一もし忙敷いそがしきまぎれ外の金子の中へ這入りはせぬかと種々尋ぬると雖も一向知れず大晦日おほみそかの事ゆゑ邸方やしきがたより二百兩三百兩づつ度々來るに付入帳には付けたれども百兩不足に受取しや合點がてんゆかずと種々考ふれども帳合あはず然るを下女の中にて三郎兵衞を少しうたがふ者ありしが夫は證據なき事とて是非なく今年ことし厄落やくおとしと斷念あきらめ帳面を〆切しめきりしが是を不幸けちの始として只一人の娘にむこえらあとをもつがせんと思居たりしに其年五月大病にて死亡みまかりしにぞ其力落しより間もなく妻も病死なし僅か一年の中に妻子に別れ夫より手代なども引負して掛先のたふれ多く斯程の身代も一しゆんの間に不手廻になり四郎右衞門も大病をわづらひ漸く全快はなしたれども足腰あしこしよわ歩行事あゆむことかなはず日々身代に苦勞なすと雖種々しゆ〴〵物入ものいりかさみ五年程に地面も賣拂うりはらひ是非なく身上を仕まひて今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に掛人かゝりびとにぞなりたりける此茂兵衞と云は四郎右衞門に數年すねんつとめし者なりしが資本金もとできんを與へ暖簾のれんわけ加賀屋茂兵衞とて同六丁目にて小切類こぎれるゐあきなひ居ると雖も元來もとよりほそき身代なれば漸々其日を送るのみ四郎右衞門は此中へ掛り人となる程なれば其零落そのれいらく思ひ遣られしなり然るに駿河屋するがや三郎兵衞は彼の百兩を取てより其金を資本もとでとして是より見世の者へ云付代物しろものに色を付景物けいぶつ手拭てぬぐひ等を添てあきなひ或は金一分以上の買人かひてには袖口そでくち半襟はんえりなどをまけうりければ是より人の思ひ付よく追々おひ〳〵繁昌はんじやうなすに隨ひ見世をも廣げ手代てだい丁稚でつち大勢おほぜいかゝへ今は一かどの身代となり向ふの加賀屋おとろへるに引變ひきかへ彌々いよ〳〵繁昌なしけるが加賀屋四郎右衞門は茂兵衞方へ引とられし其身そのみ病勝やまひがちうへ老衰らうすゐして漸々近所を歩行あるくくらゐなれば四郎右衞門倩々つく〴〵かんがふるにかく爲事なすこともなく茂兵衞方に居れどもかれ貧窮ひんきうの身ゆゑ何卒なにとぞ少しにても茂兵衞の資本もとでを助け遣りたくと或時駿河屋三郎兵衞方へ到り御亭主ごていしゆへ御目にかゝたしと云を番頭は四郎右衞門が見苦敷みぐるしき姿すがたを見ていにしへを思へば氣のどくに心得奧へ通しけるに三郎兵衞は若い者を大いにしかり四郎右衞門來たらば留守るすと云て歸せと申に若い者お宿やどに居らるゝ旨申せしかば今更然樣には申されずと云故三郎兵衞不承々々ふしよう〴〵に面會なし何用有て來られしやと申ければ四郎右衞門段々だん〳〵との不仕合ふしあはせ物語ものがたむかし其許そのもとに金子を用立し事も有により昔を忘れ給はずは斯の如く難儀せし間少しの合力がふりよくあづかたくことばひくふして頼けるに三郎兵衞は碌々ろく〳〵耳にも入ず合力は一向なり申さず勿論もちろんむかしは借用致したれども夫は殘らず返濟したりすれば何も申分有べからずとの返答に四郎右衞門成程なるほど其金は受取たれども仕舞しまひの百兩は大晦日おほみそかの事にてちやうへは付ながら金は見え申さず不思議の事と思へども最早もはやそれむかしの事我等が厄落やくおとしと存じ思切てすましたり夫を申立るには非ず當時茂兵衞が身代あしく我等へ扶助ふぢよも難儀の樣子なり其上かく病身に相成手助てだすけもなしがたきによりせめいさゝかなりとも資本もとでたすけ度存ずるに付昔しかしたる利分と思ひ少々の金を貸給かしたまへと云けれども三郎兵衞更に承知せず外の話にまぎらして取合ざれば四郎右衞門も大いにはらたてこれほど事をわけて頼むに恩を知ぬ人非人なりとのゝしりけるに三郎兵衞大いに怒り人非人とは不禮ぶれい千萬と云樣いひざま銀煙管ぎんぎせるを以て四郎右衞門のかしらうちければひたひよりながれけるに四郎右衞門今は堪忍かんにん成難なりがたしと思へども其身病勞やみつかれて居るゆゑ何共なにとも詮方せんかたなく無念を堪へ寥々すご〳〵とこそ歸りけれ


第二回


 其後そののちまた湯屋ゆやにて出會であひとき三郎兵衞は四郎右衞門をとら此乞食このこじきめと人中ひとなかにて散々さん〴〵のゝしはづかしめければ今は四郎右衞門もはらすゑかね大いにいきどほりけれどもとてもうでづくにてはかながたしと思ひ其日もこらへて歸りしが不圖ふと心付こゝろづき日來ひごろ信心しんじんなす金毘羅こんぴら祈誓きせいこめのろくれんと三郎兵衞の人形ひとがたこしらへ是へくぎうつて或夜三郎兵衞が裏口うらぐちよりしのび入り居間ゐまえんの下にうづめ置是で遺恨ゐこんはらさんと思ひしは貧苦ひんくせまりし老人のおろかなり折節をりふし臺所だいどころの男共小用こようおきしが裏口うらぐちの明てありしを不審いぶかりたてんとなす時迯出にげいだす人あるによりそれ盜人ぬすびと出逢々々であへ〳〵と大聲に呼はりけるに大勢馳來はせきたりて見れば加賀屋四郎右衞門なり皆々是は人違ひとちがならんと云に三郎兵衞之を見て否々いや〳〵人違ひとちがひに非ず盜賊は此者に相違なく此程我に無心を云掛いひかけしを聞ざるゆゑぬすびに入しならん直樣すぐさまうつたへ申べしと云を町内の人々來り我等にあづけ給へとて無理に四郎右衞門を連歸つれかへもとは此所の分限者ぶんげんしやなりしを盜賊に落さんも氣の毒に思ひ家主のたくへ寄合ひ四郎右衞門にわけを尋ぬるに前々の始末を殘らず話しまた此頃このごろ湯屋ゆやにて惡口あくこうされし事如何にも殘念に存て斯々はなせど盜みに入りしには非ずと申ければ是を聞て皆々みな〳〵三郎兵衞は人に非ずとにくみ四郎右衞門を憫然あはれに思ひて町内申あはせ無盡むじん取立とりたて金子十兩こしらへて與へければ大いに悦び茂兵衞も倶々とも〴〵れいを云て悦びけり然るに三郎兵衞は四郎右衞門を盜賊におところさんとせしに皆々に止められしがなほ所々しよ〳〵あらため見るに我が居間ゐまえんの下より怪きはこさがし出しふたあけけるにおのれのろ人形ひとがたなれば大いに怒り夫より呪咀しゆそ始末しまつ書記かきしるし町奉行大岡越前守殿へ訴へ出しかば則ち駿河屋三郎兵衞加賀屋四郎右衞門ならび茂兵衞もへゑ町内の者共一同呼出され吟味ぎんみ有しに皆々四郎右衞門が申せし通りを申立ければ大岡殿おほをかどの三郎兵衞をよばれ其方前々四郎右衞門より金子借用せしに相違さうゐなきやと尋問たづねられしに三郎兵衞御意ぎよいの如く十ヶ年以前三月節句前せつくまへに金廿兩五月三十兩七月五十兩九月八十兩十二月百兩借候へども其節々そのせつ〳〵のこらず皆濟仕かいさいつかまつり其後四郎右衞門不勝手ふかつてに相成私し方へ無心に參り候處ろ取合申さず右を遺恨ゐこんに存じ呪咀しゆそ致せしに相違さうゐなく何卒なにとぞ御吟味ごぎんみねがひ奉つると申立ければ大岡殿吟味有しに四郎右衞門呪咀しゆそ致せしに相違なししかれども末に百兩返濟の時其金見えずすで其節そのせつ三郎兵衞を疑ひし者も御座りしかど證據しようこなき事故厄落やくおとしと心得相濟し候夫を今更いまさら申には御座なく候へども貧窮ひんきうの餘り無心申せしよりかくの仕合せと申に付大岡殿コリヤ三郎兵衞彼百兩は彌々いよ〳〵返濟へんさいなせしくれの事に取紛とりまぎれ萬一忘却致したるにはあらずやとくかんがへ見よいつはつゝむに於ては屹度きつと糺問きうもん致すぞ其方そのはう鰻登うなぎのぼりに金を借る程の者なれば油斷ゆだんならざる男なりと言れし時三郎兵衞はギヨツとせし樣子やうすを見られしが又四郎右衞門は身代しんだい果程はてほどありこまつた事をなし不便ふびんの至りなり勿論呪咀しゆそとが屹度きつと申付るぞされど三郎兵衞は其百兩のかね彌々いよ〳〵返濟したるやいなや明白に返答致すべしと有ば三郎兵衞ハツと云のみ何とも返答へんたふなし大岡殿又三郎兵衞に向はれ其方は左右とかく物忘ものわすれ致すと見えたり忘れし事を思ひ出すには閑靜しづかなる所がよきものなり因て見張みはりつけるによりあき長屋ながやいたとくと考へ見よとて同心に遠見とほみを致させ裏手うらてあき長屋ながやへ入られおよ二時ふたときあまり過て又白洲しらすへ呼出されいまだ考へ出ずば又明日出よ尤も其方のたくは終日客も入來り騷々さう〴〵しからんにより日々奉行所へいで明長屋にて思ひ出すまでかんがふべしと申わたされ一同さげられしかば三郎兵衞は我が家に歸り熟々つく〴〵かんがへけるにもし返濟へんさいせぬならば明日又々明長屋へ入れらるべし如何致したれば宜しからんとこまり居るを家内の者ども皆々みな〳〵三郎兵衞に向ひ是は全くわすれ居たりとて差出さしいだす方宜しからん只今の身上にて百兩の金はのみ難儀にも成るまじと申けるにぞ三郎兵衞も詮方せんかたなく翌日よくじつ百兩持參して出しに大岡殿如何に三郎兵衞いまだ思ひ出さずやしからば又々長屋に行てかんがよと申されければ三郎兵衞いな其金のは全く失念しつねん致し居りしに相違さうゐ是なく候と云によりされば未だ返さぬのかとねんおされしに三郎兵衞然樣さやうなりと申しける故彌々いよ〳〵其方四郎右衞門より借用致したるに相違さうゐなくは右百兩の金に十年の利分りぶんかぞふれば廿五兩一分の利にして百二十兩となるよつて元利合せて二百二十兩四郎右衞門へかへすべし早速さつそく宿元やどもとより取寄とりよすべしと申渡さるまこと當然たうぜんなれば三郎兵衞は是非なくかしこまるとは申ものゝ只今たゞいま二百二十兩の金子匇々なか〳〵以て出來できかね候により何分御勘辨下ごかんべんくださるべしと申を大岡殿大いにしかられ其方二百二十兩出す事難儀なりと申せども其方が借し金を忘却ばうきやくせし爲め四郎右衞門如何程か難儀致したらん然れども出來るに於ては只今たゞいま百五十兩出すべし是をいださずんば牢舍らうしや申付んと申されける故是非なく三郎兵衞いへより五十兩取寄とりよせあはせて百五十兩出しければ大岡殿元利百五十兩四郎右衞門に請取うけとら殘金ざんきん七十兩は三十五ヶ年賦ねんぷいたつかはせ如何に三郎兵衞殘金は毎年金二兩宛四郎右衞門方へ屹度きつとわたすべしみぎ七十兩相濟あひすみ次第しだい四郎右衞門は相當の御仕置おんしおき仰付おほせつけらるべし町役人共四郎右衞門は殘金相濟あひすむまで其方共へ預置あづけおくなり然樣さやう心得よと申渡されしは天晴あつぱれ頓智とんち裁許さいきよにして正直を助け惡をこらさるゝ事萬事ばんじかくごとしとかや

この四郎右衞門は當年たうねん六十五歳の老人らうじんなり夫を是より三十五年のあひだ殘金ざんきん勘定かんぢやうかゝらばこれ何歳なんさいに至るぞや大岡殿おほをかどの仁心じんしんおもふべし


第三回


 こゝに上州より太物ふとものあきなふて毎年まいねん江戸へいづ商人あきびと井筒屋ゐづつや茂兵衞金屋かなや利兵衞と云者あり平生へいぜい兄弟の如く親類しんるゐよりも中睦なかむつましかりしが兩人のつまとも此頃懷姙くわいにんなし居たり或時あるとき江戸より歸る道々みち〳〵はなしに利兵衞は茂兵衞にむかわたし今年ことし四十になり始めて子と云者いふものを持ちたり貴殿おまへは二十歳ばかりの子息むすこあれば今度こんどうまれたりともわたし程には思ふまじと云に井筒屋ゐづつやかうべふりわれ成人せいじんせがれは有れども貴殿おまへも知ての通り五年以前出家しゆつけして諸國しよこく行脚あんぎやに出たれば我が子でも我子にあらすゑの役には立難し夫につけ一ツの相談さうだんあり今兩人のつま同月のさんなればうまれし子が男女なんによならば夫婦ふうふにすべし又男子なんしばかりか女子ばかりならば兄弟きやうだいとして成人せいじんの後まで一家となすは如何にと云ふに金屋かなや至極しごくのぞむ所なりと兩人未前みぜん約束やくそくをなし夫より國許くにもとへ歸れば間もなく兩人りやうにんの妻安産あんざんなし金屋のかたは女子にて名をおきくと呼び井筒屋ゐづつやかたは男子にて吉三郎と名付なづけ互ひのよろこび大方ならずかね約束やくそくの如く夫婦ふうふにせんと末をやくして各々妻にも其趣そのおもむきを云聞いひきかせ是より兩家べつしてむつましく交際つきあひけり然るに兩人の子供こども丈夫ぢやうぶ成長せいちやうなすうちはや吉三郎十三歳と成し時ちゝの茂兵衞大病たいびやうわづら種々しゆ〴〵療養れうやうを加へけれどもしるしなきゆゑ茂兵衞の枕元まくらもとへ金屋利兵衞をはじめ家内のこらず呼集よびあつわれ此度の病氣全快びやうきぜんくわい覺束おぼつかなし因て江戸の得意とくいを利兵衞殿へあづけ申なりせがれ吉三郎成人迄せいじんまで何卒我が得意先とくいさきを宜敷御廻おまはり下さるべし是のみ心懸こゝろがかり故縁者えんじや同樣の貴殿きでんなれば此事頼み置なりまた妻子さいしのこともよろしくお世話下せわくだされよと遺言ゆゐごんなし夫よりせがれ吉三郎に向ひ利兵衞殿むすめお菊は其方そなた胎内たいないより云號いひなづけせしに付利兵衞殿を父と思ひ大切たいせつにせよかならず何事も同人の意にそむことなかれと能々よく〳〵教訓けうくんして五十三歳を一となしつひむなしくなりしかば是より利兵衞は毎年江戸えど得意とくい井筒屋の分迄ぶんまで一人ひとりにて廻りける故にはかあきなひ多くたちまち多分の金子きんすまうけ二人前かせぎけるにぞ五六年の中に餘程よほどの金をたくはへしが後には江戸えどへも見世みせを出さんととほ油町あぶらちやう間口まぐち十間奧行おくゆき新道迄しんだうまで二十間餘の地をかひ土藏どざうもあり立派りつぱなる大身代おほしんだいとなり番頭ばんとう若い者都合つがふ廿餘人に及びけることひとへに井筒屋茂兵衞が多分のよき得意とくいおのれが得意と一ツにし一手にてあきなひせし故なり然るに又上州じやうしうの吉三郎ならびに母のおいね兩人は利兵衞が江戸えどへ店を出さば早速さつそくむかひに來る約束なるに三四年立ども一向に沙汰さたもなければ餘儀よぎなく吉三郎は人の周旋せわにて小商こあきなひなどして親子おやこやうやく其日をおくり江戸よりむかひの來るを今か〳〵とたのしみ居たれどあん相違さうゐして其後一かう手紙てがみも來らず此方このはうよりは度々たび〳〵文通ぶんつうすれども一度の返事へんじもなきにより今は吉三郎の母のおいねも大に立腹りつぷくをつと茂兵衞が臨終りんじう那程迄あれほどまでに頼みしをわすれはせまじ餘りなさけなき仕方しかたなりと利兵衞をうらみけるが吉三郎はもとより孝心かうしんふかければ母をなぐさめ利兵衞殿斯の如く約束やくそくへん音信おとづれをせざればとて此方こなたに於て如何共せんすべなく樣子もわからざれば若や病死びやうしにても致されしや假令たとへ夫にしてもお蔦殿つたどのお菊共約束やくそくあり此方このはうの得意までまかせ置し者なれば是非ぜひともむかひは參るべし深く案事あんじられ病氣びやうきにてもいでぬやうなし給へと云紛いひまぎらせども母は我が子の窶然みすぼらし形容なりかたちを見て憫然あはれに思ひすこしも早くお菊とめあはせ昔の井筒屋を取立とりたてさせたく神佛かみほとけいのりる中又半年も待けれども音沙汰おとさたなければ或時母は吉三郎に申やう二人して江戸へいで先達せんだつてよりうはさの如く江戸通えどとほり油町なれば尋ねき利兵衞殿にあう談判かけあひ我々親子を引取ひきとるや否や其心底そのしんていさぐり若し引取ずんば其時は何をてなりとも繁華はんくわの江戸ゆゑ親子二人渡世とせいのならぬ事は有まじもしうんよく立身りつしんいたしなは今の難儀なんぎせしおもて見返みかへさん何は兎もあれ一先ひとまづ江戸へ出べしとて夫より世帶せたい仕舞しまひ家財かざいうり路銀ろぎんとなし母子おやこ二人江戸へ立出馬喰町ばくろちやう定宿ぢやうやど武藏屋清兵衞方へ宿を取り翌日よくじつ吉三郎一人油町へゆきて見るに人のうはさたがはず金屋のみせ立派りつぱなれば勝手より入てわたくしは上州じやうしうより參りしが利兵衞樣に御目にかゝり度と云入けるに利兵衞是をきゝ上州よりたれも來るはずなしさては吉三郎たづね來りしならん此方こなたとほせとて吉三郎に對面たいめんし其方は何用なにようりて來りしやと云に吉三郎は叮寧ていねい挨拶あいさつをなし餘り久々御疎遠ごそゑんなれば御機嫌ごきげんうかゞひ度又此方の御樣子ごやうす如何と存じ母を同道していで馬喰町武藏屋清兵衞方に罷在まかりあり候と申けるに利兵衞の心はとくよりかは持參金ぢさんきんのあるむことる所存なれば今吉三郎が來りしを忌々敷いま〳〵しく思ひ何卒して田舍ゐなか追歸おひかへさんと心にたくみ夫は態々わざ〳〵尋ね來りしかど此方このはうかはる事なければ今母公はゝご對面たいめんするには及ばず早々さう〳〵國へ歸りて母を大切たいせつに致せよと云捨いひすてて奧へ行んと爲るを吉三郎最早堪兼こらへかね利兵衞がすそとらへ何故然樣さやうの事を申され候や此身になりても御無心ごむしんに參りしには非ず貴殿あなたには我が父より御頼おたのみ申せしことを忘れ給ひしやとことばはなちて申けるに利兵衞は何共返答へんたふなく其儘そのまゝ振切ふりきつて奧へ入ければ吉三郎はあきはて頼切たのみきつたる利兵衞が斯の如くの所存しよぞんなれば所詮しよせんまたあうたりとも取上べき樣なし我が身一人ならば此處このところにて自殺じさつをも爲べけれども母をつれ遙々はる〴〵きたりしなればと燃立もえたつむねさすり何事も勘辨かんべんして寥々すご〳〵金屋の家を立出で二三ちやうきたりけるにあとより申し〳〵と呼掛よびかける者有故振返ふりかへるに田舍ゐなかにて見覺みおぼえあるおたけと云し女なり此女は金屋かなや井筒屋ゐづつやへ出入なす織物屋おりものやの娘にて利兵衞が江戸へみせを開きし時分お竹は母にわかれ父とともに利兵衞方へたづね來りしを父は番頭となし娘のお竹はお菊と相應さうおう年恰好としかつかうなれば腰元こしもとにして召仕めしつかひけるが此者子供の時より吉三郎とも心安こゝろやすくお菊と云號いひなづけのことも知り居けるにぞ吉三郎が臺所だいどころより來りけるを不圖ふと見付てお菊にかくつげければ母おつた聞付きゝつけ呼度よびたく思へども利兵衞が得心とくしんせざる故よんどころなく打捨置うちすておきけるをむすめお菊は吉三郎に逢度あひたく思ひながら父利兵衞にしかられんことをおそひそか腰元こしもとお竹に頼みしかば吉三郎があと追駈おつかけ來りしなりさてお竹は吉三郎にむかひお菊樣が貴郎あなたに是非お逢成あひなされ度との事成ば先々此方こなたへ來り給へと手を取引戻ひきもどすゆゑ吉三郎さては娘の心は變らず我を云號いひなづけと思ひ居る事の嬉敷うれしくは思へども利兵衞殿の心底しんていかはりなければお菊にあふまじと云をお竹は無理むりに吉三郎を連來つれきたり今度は新道しんみちへ廻り庭口にはぐちの切戸をあけてお菊の部屋へ誘引いざなひしに吉三郎はお菊に向ひ利兵衞殿むかし約束やくそくを變じ外にむこを取んとの心と見え我を追返おひかへさんと成されしを何故に呼返よびかへし給ふやと云れけばお菊は太息といきつき夫に付て種々いろ〳〵談話度事はなしたきことあるにより御迎へ申したり今は間合まあひも惡ければ何卒なにとぞあすの夜此處まで忍び來り給へ緩々ゆる〳〵とおはなし申さんと呉々くれ〴〵も吉三郎に約束やくそくなして歸しけるさて翌日よくじつの夜吉三郎は彼の板塀いたべいの處へ來りしに内よりお竹出迎いでむかへて吉三郎が手をとりお菊の部屋へ誘引いざなひたり然るに此お菊は幼年えうねんより吉三郎と云號いひなづけと聞居たりしが今年ことし十七歳になり始めて吉三郎を見るに衣裳なり見苦みぐるしけれども色白くして人品ひとがら能くひなまれなる美男なればこゝろ嬉敷うれしくねやともなひつゝ終に新枕にひまくらかはせし故是より吉三郎もお菊をにくからず思ひ毎夜まいよ此處へかよひお竹が手引にてあはせしが此隣このとなりに兩替屋の伊勢屋三郎兵衞と云者有り或夜子刻頃こゝのつどきごろに表の戸を叩きて旅僧たびそうなるが一夜の宿を貸給かしたまへと云ふを番頭ばんとうさまし旅人をとめる處は是より少々せう〳〵ゆけば馬喰町と云處に旅籠屋はたごや多くあれば夫へ到りてとまり給へと挨拶あいさつなすに彼の僧は如何にもくるなる聲にて我は腹痛はらいた歩行事あゆむことかなはず願はくは板縁いたえんにても一夜を明させ給へかつくすりのみたく何卒湯一ツ賜れと云ども番頭は盜賊たうぞくならんとうたがひて戸を締切しめきり一向に答もせざればそう詮方せんかたなく此表にだいぐるまのありしを幸ひ其蔭そのかげ風呂敷ふろしきを敷て其上に頭陀袋づだぶくろよりくすりを取出してのみ暫時しばし其處に休み居ける中段々夜も更行ふけゆき四邊あたりしんとしける此時手拭てぬぐひに深くおもてをつゝみし男二人伊勢屋のかどたゝずみ内の樣子を聞居たりしがやがて一人の男は相手あひての肩にのぼりて難なくへいの中へ忍び入りまたかたへ乘たる男はへいの外に待居けるに程なく忍び入たる男出來りて何か密々ひそ〳〵さゝやきしが其の男は西の方をさして立去たりあとに殘りし男はなほ内の樣子をうかゞひ居る故旅僧たびそうは見付られなば殺されもやせんといきこらへて車のかげかゞみ居る中此方の板塀いたべいの戸を開きて金屋の庭先より吉三郎は今宵こよひもお菊の部屋に忍び來りつも談話はなしの中旅籠屋はたごや永逗留ながとうりうして大分入用がかさみ其の上母は病氣びやうきにて藥のしろたくはへもつかひ果したる由委細ゐさいに物語りけるをお菊はいたく氣の毒に思ひ我故にかく成行なりゆき給ふなれば何卒見繼みつぎ度思へども親にやしなはるゝ此身なるゆゑ何事も心にまかせず是は僅なれども私しが手道具てだうぐなれば大事なしうりてなりとも旅籠はたごの入用母御の藥のしろ爲給したまへと鼈甲べつかふくし琴柱ことぢ花菱はなびし紋付もんつきたる後差うしろざし二本是はあたひに構はず調とゝのへし品なりとて吉三郎に渡しければ大いに悦び其芳志そのこゝろざしきくうへは假令夫婦になられずとも本望なりさらば此品暫時しばらく借用申すと受納うけをさめ立歸らんとするにお菊はなみだうかめ此程より申せし通り父御ちゝごは御身を入ずほかより金を持參のむこを取らんと云るゝこといと心苦こゝろぐるしけれど必ず母樣とともに父御をなだめ申べきにより時節を待ちたまへ我が身に於てはほかに男をもつこゝろなしと堅くちかひて別れければ腰元こしもとお竹は毎度いつもの通り吉三郎を送り開戸ひらきどを明て出しあととざしける吉三郎は母の病氣びやうき案事あんじけれどもお菊がなさけひかされて毎夜々々通ひはなすものゝ何時もとまる事なく夜更よふけて歸りけるが今夜も最早もはや丑刻やつすぎ頃馬喰町へぞ歸りける然るに先刻さきより樣子をうかゞひ居たりし彼の曲者くせもの今吉三郎が歸り行くていを見て扨は渠等かれら色事いろごとならん究竟くつきやうの事なりと彼の開戸ひらきどの處へゆきそとよりほと〳〵たゝきけるに中にはおたけ庭に下立おりたち何かお忘れ物に候やと小聲こごゑひながら何心なく戸を開くに吉三郎にはあらで一人の男拔打ぬきうち切掛きりかけしかばお竹はあなやと驚き奧の方へ迯入にげいりながら泥棒どろぼうと聲を立てるを半分はんぶんいはせずうしろより只一刀に切殺し此方へ入來いりきたるにぞお菊はお竹が聲におどろ迯出にげいださんとするに間合まあひなければ屏風びやうぶかげへ隱れ戰慄ふるへたりし中曲者くせものは手ぢかに在しお菊が道具だうぐを見付手當てあたり次第に掻浚かきさらもとし道より出行けりお菊は盜賊たうぞくの立去るを見てやがて家内を起せしかば利兵衞りへゑ始め走來りて庭にお竹が殺され居るを見て大いに驚き盜人は何所へゆきしやらんと家の隅々すみ〴〵までさがしけれども最早もはやのがれ行しと見えてには切戸きりどの明て有しかば若い者共表へ走り出其所そこよとたづねけるにまたとなりの伊勢屋三郎兵衞方にても盜賊入たりとて大いにさわぎ立ち男共大勢立出見るに板塀いたべいの上をこえ迯行にげゆきしと見え足跡あしあとの付てあれば追駈おつかけよとひしめき合ふに以前いぜんの旅僧未だ車のかげに居たりしが此騷このさわぎを聞我此所に居るならば盜賊たうぞくうたがかゝりてとらへられんもはかがたし早く此處このところを立去べしと立上りしを伊勢屋いせやの男共は見付さてこそ盜人は此坊主ならんと大勢にてなんなく旅僧を捕へたり三郎兵衞べゑは家内を改め見るに金五百兩あらねば金は何所へ隱せしぞと彼の旅僧を種々いろ〳〵詮議せんぎしけれどももとよりおぼえなき事なれば云ふべき樣なく然れども宵に表を叩き宿を貸呉かしくれよと云ひしは此僧にちがひなし爰にて詮議せんぎんよりは奉行所へうつたへ可と願書を認め大岡殿おほをかどのうつたいでたり又隣りの金屋利兵衞方よりも盜賊たうぞくいり下女げぢよ殺害せつがいに及びしだんうつたへければ役人來りてお竹が死骸しがい檢査あらため是は宅へ迯込にげこむ所を後よりきりたる者ならん又盜まれし品々は書付を以て訴ゆべしとて役人は歸へけり此家の番頭はお竹が父親なりしかば大いに悲みお竹の亡骸なきがら取納とりをさめける扨利兵衞はむすめきくを呼て其方盜賊の面體めんてい恰好かつかうを見たるやと問ふに娘は勿々なか〳〵怕敷おそろしくる事叶はざれば如何樣の者なるや一かうおぼえ申さずとこたふるにぞ利兵衞してまたお竹は何故なにゆゑ夜更に庭へ出たるやと云けるにおきくたゞ差俯向さしうつむいて詞なし利兵衞は暫時しばらくかんがへ此盜人我少し心當りの者あり然れども是と云證據なきゆゑ訴へ出難いでがたしとて夫より盜れし娘が手道具てだうぐうち紛失ふんじつの品々を書付になし大岡殿へ訴へ出でにけり


第四回


 さても吉三郎は彼の菊よりもらひし櫛とかんざしとを持歸り亭主ていしゆに見せ申しけるは是にてくすり調とゝのへ度存候是は我母わがはゝの若き時に差たる品なりとて頼ければ亭主は氣の毒に思ながら出入の小間物屋與兵衞こまものやよへゑ云者いふものへ彼二品を見せ亭主ていしゆ保證人うけにんになりて是を二りやうに賣渡しければきち三郎大いによろこび是にて藥など調とゝのへ醫師をもかへて其身もそばを放れず看病かんびやうおこたりなかりけるさてまた此與兵衞このよへゑ平生へいぜい金屋かなやへも心易く出入なすにより彼の吉三郎より調とゝのへたる二品を持行もちゆきせければ利兵衞の妻は見覺えのあるおきくかんざしなるゆゑおほいおどろき夫利兵衞にかくげしに利兵衞も是を見て此品は一昨夜我等方へ盜賊たうぞくしのびいつぬすまれし娘がかんざしなり如何して手に入しやと問ければ與兵衞大に肝を潰し彼旅籠屋の客人きやくじんよりかひたりと答ふるに利兵衞はた横手よこてを打我が推察すゐさつに違ず此盜賊は吉三郎なり其譯そのわけ先達さきだつて我が方へたづね來りし時我樣子を見るに如何にも見苦敷みぐるしきていにて店の者へ對し我も恥入處はぢいるところなりかくはたらきのなき者はむこ爲難しがたしと思ひいまだ約束のしるし取交とりかはさぬをさいは強面つれなくして彼がこゝろはげましたるにそれいきどほり我が家へしのび入て種々しゆ〴〵ぬすにげんとするをりお竹に見付みつけられし故殺したるならとくよりは思ひけれども是ぞと云ふ見定みさだめたる事なければ今迄いままでひかへたり最早證據あればかれ天命てんめいのがれぬ處なるにより早速さつそく願書ぐわんしよしたゝめ吉三郎盜賊人殺しに相違さうゐなきむねうつたへんとて番頭へも其趣そのおもぶき申きけければ妻のおつたをつといさめ吉三郎は勿々なか〳〵然樣さやうの事を致すべき者にあらず是には何かわけの有べき事なりもし吉三郎盜みしにもせよむすめきく云號いひなづけなれば此方のむこなり是を訴へんは此方こなたはぢならずやまげて容し給へとのべけるを利兵衞少しも聞き入ず何をおのれるべきやとしかつけ直樣奉行所へ訴へけり是は利兵衞が内心ないしんには幸ひ吉三郎を科に落し外より持參金ぢさんきん澤山たくさんあるむこを取る存意ぞんいなりしとぞ大岡殿金屋利兵衞が願書ぐわんしよを一らんあつすなはち吉三郎を召捕べしと役人へ申付られけり却てとくの吉三郎は母のやまひ二三日べつして樣子あしければそばはなれず附添つきそひ種々しゆ〴〵心配しんぱいなして勞はり居しが母は暫時しばし睡眠まどろみし中醫師の方へくすりを取に行んと立出る所を役人兩三人上意とこゑかけいましめられしかば何故斯る憂目うきめ逢事あふことやら合點行ずもとより惡事のおぼえなきゆゑ我が身に於て辯解まをしわけつべけれどもわれをらざれば母の看病かんびやうたれも爲るものるまじと思ひしきりかなしく心は後へひかれながら既に奉行所ぶぎやうしよへ來り白洲しらす引居ひきすゑられたり此日伊勢屋三郎兵衞方にては彼旅僧を連て訴へしが番頭は進み出私しは油町伊勢屋三郎兵衞名代喜兵衞と申もの御座ござ主人しゆじん店先みせさきへ一昨夜九ツどきすぎ此法師このほふし來り戸を叩きて一夜の宿を貸呉かしくれやう申に付旅籠屋はたごやあらずとことわりしところ其後は音もつかまつらず候故何方へか參りしやと存じやすみ候に丑刻やつどき過頃すぎごろしのび入金子五百兩盜み迯出にげいづる時家内の者目をさま追駈おつかけ候へども此僧足早に迯去にげさり候を漸々やう〳〵捕押とりおさへ申候よつ御吟味ごぎんみねがひ奉つり候と願書ぐわんしよを差出したり此時このとき大岡殿先吉三郎に向はれ如何に其方そのはう上州じやうしうより遙々はる〴〵きたりて利兵衞方へしの盜賊たうぞくをなし其上腰元竹を殺したる事大膽不敵の擧動ふるまひなり伊勢屋方よりうつたへたる旅僧も同夜の事なれば是はなんぢ同類どうるゐなるべし殊更ことさら其方そのほうは金屋にて盜みし櫛を小間物屋與兵衞こまものやよへゑうりたるよしかれ金屋かなやへ持行しより此事顯れ則ち利兵衞與兵衞兩人うつたへたりかゝたしかなる證據しようこあるうへは少しも包む事なく白状はくじやういたせとまをされければ吉三郎思ひもよらぬ事の糺問たゞしあきはてけるが屹度きつと思案しあんするにこれかならずものゝ間違まちがひならんとつゝしんでかうべあげ私し事は上州より毎年まいねん江戸へ太物商賣ふとものしやうばいまゐ井筒屋茂兵衞ゐづつやもへゑせがれきち三郎と申者にて候是なる利兵衞は私しおや茂兵衞もへゑ兄弟きやうだい同樣どうやうまじはり其上利兵衞の娘菊事私し胎内たいないよりの云號いひなづけなり然るに私し十二歳のとき父茂兵衞病氣に付枕元まくらもとへ利兵衞を呼江戸の得意とくいのこらず預け私し成人せいじんの後娘にめあはせんとの遺言ゆゐごんを利兵衞も承知しようちに付父茂兵衞は安心あんしんいたしやが相果あひはて申候夫より利兵衞は江戸へいでみせをも開し由四五年をすごし候へどもかう音信なくよつて母と相談さうだんうへ世帶せたいを仕舞江戸へ出でて利兵衞を相尋あひたづね先々のはなしいたしける處に何時か心變こゝろがはいたをり以前いぜんの約束をちがへて私し母子を寄付申さず母は其不實を怒ると雖詮方せんかたなく頼み切たる利兵衞りへゑかくの如き心底しんていなれば當惑たうわくいたしたれどもかく繁昌はんじやうの御當地に付如何樣にも口過くちすぎ相成あひなり申べくとぞん其後そのごは一相尋あひたづね申さず櫛簪くしかんざしは利兵衞娘菊より内々ない〳〵もらはゝの病氣にてたくはつき候故與兵衞よへゑに賣て母の病氣すくひ候なりけつしてぬすみしには候はず何卒なにとぞ此段このだん御賢察下ごけんさつくだされ御免をかうぶり母の看病仕かんびやうつかまつりたしと涙ながらに申けるを大岡殿聞れ汝が申でう道理もつともには聞ゆれどもまた胡亂うろんなる處ありわけ其方そのはう遙々はる〴〵利兵衞をたのみに思ひて來りしにかれ約束やくそくを變じよせつけねば其後一度もゆかずと申一ゆかぬ者が如何いかゞして娘菊にしなもらひしやと尋問たづねられしかば吉三郎はつと當惑たうわくの體にて密通みつつういたもらひしとは大勢の中ゆゑ云兼いひかねたゞ差俯向さしうつむいことばなし大岡殿かさねてこの二品の出處でどころれざれば盜賊ののががたし其方ひそかに通じて娘にもらひしやと正鵠ほしをさゝれしにぞきち三郎は彌々いよ〳〵かほを赤うして差俯向さしうつむきたり大岡殿おほをかどの大概おほよそこれさとられそれより彼の旅僧たびそうむかはれ其方そのはう出家しゆつけの身として盜みせしだん大膽たいたんなり早々白状せよと申されければ旅僧は吉三郎が吟味中ぎんみちうしきりと首をかたむけ居たりしがいまとはるゝにしたがわたくこと上州じやうしうさんにて雲源うんげんと申十五さいとき出家仕しゆつけつかまつり候へども幼少えうせうよりぬすこゝろあり成人せいじんなすにつけ尚々なほ〳〵相募あひつのすでに一昨夜さくや伊勢屋いせやしのいりて金五百兩ぬすみ取其隣の金屋かなやとやらんへも忍入しのびいつぬすいたし出る處を女に見付られ據ころなく切捨申候然れば天命てんめいのがれずかく繩目なはめに及ぶこともとより覺悟なり然るにあれなる若者を盜賊たうぞくなりとうたがひ掛り候よし何共見兼申候私し委細ゐさい白状仕つりし上はとがなき若者を御助け下されはゝ看病かんびやういたさせ度候とおくしたる形容けしきもなく申立れば是を聞れ其方が申ところ不分明ふぶんみやうなり伊勢屋方にて五百りやうぬすみ又金屋へも入りて種々しゆ〳〵ぬすみ女を殺したりと白状はくじやういたせどもぬすみたる金も見えず又女を殺したる刄物はものもなしとるに旅僧頭を上げ其せつぬすみし金子きんす刄物はものにげせつ取落とりおとし身一つになり候處を捕へられ候と申せば大岡殿おほをかどの伊勢屋いせやの番頭にむかはれ此者を捕ゆる時何ぞ所持しよぢしなはなきかとたづねられ番頭喜兵衞ほかには何も候はずたゞ網代笠あじろがさがい頭陀袋づだぶくろ一つ之ありしと申に大岡殿其頭陀袋づだぶくろ是へと申されるにより差出さしいだしければ中を檢査あらためて書付などよまれ何か心に合點うなづき仔細しさいあれ追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶとて一同下られ小間物屋こまものや町内ちやうないあづけ吉三郎旅僧は入牢申付られけりさて翌日よくじつ大岡殿吉三郎を呼出し其の方彌々いよ〳〵菊と密通みつつういたしてくしかんざしもらひしやはづかしとてかくすべからずと懇切ねんごろたづねられければ吉三郎赤面せきめんしながらおほせの如く相違さうゐこれなく候なほまた菊を御呼出しのうへ御尋おんたづね下さるべしと申に大岡殿やがて同心を馬喰町旅籠屋清兵衞方はたごやせいべゑかたつかはされ吉三郎が母を隨分ずゐぶんいたはり申すべし一兩日中には吉三郎を無事に返しつかはさん夫迄それまで能々よく〳〵看病かんびやう大切たいせつ取扱とりあつかふべしと申つけられ其後そののち差紙さしがみにて金屋利兵衞かなやりへゑむすめきく伊勢屋いせや三郎兵衞小間物屋まものや與兵衞よへゑ旅籠屋清兵衞せいべゑ雲源等うんげんとうのこらず呼出されしにお菊はおくりし二しなゆゑ無實むじつつみにて吉三郎牢舍らうしやと聞あるにもあられずなげかなしむといへども此事云にも云れず然とて云ねば吉三郎が身の上をおもひそかはゝ委敷事くはしきことを語りければはゝおどろき今度の御呼出およびだしは吉三郎と對決たいけつさせんとの事なるべければ種々いろ〳〵御尋おんたづねあるならんが其時そのとき委細ゐさいを申さば父の越度をちどとなりまたいはずば吉三郎は殺さるべし兩方まつたきやうには何事もゆかざれども能々よく〳〵かんがへてこゝろしづかに双方さうはう無事になるやうの御答おこたへを申べしと云ばおきく得心とくしんして出たりけりさて大岡殿おほをかどの利兵衞にむかひ如何に利兵衞其方そのはうくしかんざし證據しようことして與兵衞供々とも〴〵吉三郎を盜賊たうぞく人殺ひとごろしなりとうつたへけれども吉三郎事はかねて其方むすめきく密通みつつういたをりむすめよりもらひて與兵衞よへゑうりたりと云故其段そのだん明白に吟味ぎんみせんためむすめを呼出したり其方そのはう此事を知らざるやと申されければ利兵衞こたへて夫は跡形あとかたもなきいつはりにて是全くつみのがれん爲吉三郎がこしらへ事にて候如何に菊吉三郎と密通みつつういたしおぼえなきならば其通そのとほり早く申上よと急立せきたちけるにお菊は生れしよりはじめて奉行所ぶぎやうしよへ呼出され大勢の中にて吉三郎がいましめられやつれたるを見て涙をうかめしが大岡殿おほをかどの是を御覽ごらん大概おほよそさつしられ如何いかきく此越前守このゑちぜんのかみ媒酌なかうどとなりやがて吉三郎にそはつかはすべし隨分ずゐぶん安堵あんどしてよとやはらかに言れければ吉三郎もそばよりお菊殿きくどの何故なにゆゑに明白に云給いひたまは御身おんみまでかくされては我等われら何時いつ御免おゆるしうけんや其中は母の看病かんびやうくすり何呉なにくれさだめて不自由ふじいうならんと此事のみ心にかゝ牢舍らうしやしたる我心を少しは汲譯くみわけはや現在ありのまゝに申上て此苦このくるしみをたすけられよと申を聞おきく尚々なほ〳〵かなしく白地あからさまに云んと思へども母のをしへの通り父のとがうつたへるも同前云ねば吉三郎は殺されんと心を千々ちゞいたていを大岡殿はやくもさつしられ其方そのはうは吉三郎を牢舍らうしやさするやちゝ利兵衞を牢舍らうしやさするやと尋ねられければお菊は何卒なにとぞ父利兵衞吉三郎ともに御免おんゆるし下され其代りに私しをらう御入下おんいれくださるゝやうにと涙ながらに申立るを聞れ大岡殿おほをかどの大に感じられこれにて何もかも相分あひわかりたり決して吉三郎は盜賊たうぞくあら追付おつつけゆるして其方と夫婦ふうふいたつかはすべしと申されさてまた利兵衞を呼ばれ其方そのはう以前の約束やくそくへん茂兵衞もへゑせがれ吉三郎を追返おひかへし不實のうへとがなき者を盜賊人殺と麁忽そこつうつたへをなすことはなはだ以て不屆ふとゞきなり屹度きつと曲事きよくじに申付べき所なれども娘菊が孝貞かうていに免じ汝が越度をちど差免さしゆるすなり落着らくぢやくの後は娘菊を吉三郎にめあはせ其身は隱居いんきよいたすべし然れども二にん盜賊たうぞくいまれずよつ盜賊たうぞくしれまでひかへよと申渡されさてまた小間物屋は町内預ちやうないあづけ伊勢屋も呼出すまでひかへ申べし吉三郎は當時たうじ旅籠屋へあづけ町内の者氣を付母の看病致させよ又諸入用は金屋利兵衞かなやりへゑかならこれおくるべしかつ旅籠屋清兵衞はたごやせいべゑ入用にふよう何程なにほどかゝりても金屋利兵衞方かなやりへゑかたより請取うけとられ又利兵衞は吉三郎の母は病中の事ゆゑ夜具やぐ布團ふとん其外に心付け食事等しよくじとう宜敷よろしく見繼みつぐべし此段このだん屹度きつと申付たるぞもし麁末そまつ成事なることあら曲事きよくじたるべしと申わたされ皆々下られけりさて旅僧たびそう一人をのこおき一同下りしのち其方そのはう何故なにゆゑいつはりを申すやと有しかば雲源うんげんまつたいつはりは申上ず私し盜賊たうぞくまぎれ之なく候御仕置おしおき仰付おほせつけらるべしと云に大岡殿おほをかどのいや彼の吉三郎は其方と兄弟にあらずや人相にんさう恰好かつかう音聲おんせいまでもよく似たりなんぢおとゝすくはん爲に故意わざつみおちいりしならん何ぞ是を知らずして殺さんや其方は井筒屋茂兵衞ゐづつやもへゑ惣領そうりやうならんと申されければ雲源うんげんおどろき感じ今は何をか包申べき御賢察ごけんさつの通り茂兵衞もへゑせがれなれども十五さいとき仔細しさいありて出家つかまつり諸國修行しよこくしゆぎやうの身に御座ござ其後そののちおとゝ出生しゆつしやうことほのかうけたまはりしまゝ此程國許へまゐたづね候所おとゝきち三郎金屋利兵衞方にわけりて國許を立出たちいで江戸へ參り候由に付あと追來おひきた何卒なにとぞいま母や弟に對面たいめんいたたく江戸中をさが歩行あるきうちかく仕合しあはせゆゑおとゝが無實のつみおちいる事のいたはしく殊更ことさらはゝは旅籠屋にて病氣の由うけたまはりしにより何卒なにとぞおとゝを助け母に孝行かうかうつくさせたくわたくしは出家しゆつけ遁世とんせいゆゑ母や弟をたすけ候事なれば身命しんめいすて候てもすくはんとぞんじ其盜賊なりと申いつはり候其夜全くの盜賊は迯去にげさりたり其譯そのわけは私事はゝや弟をたづねんと所々方々を歩行あるきうち先夜せんや伊勢屋の前へまゐかゝりし時腹痛ふくつうにて難儀仕なんぎつかまつり夜更なれども詮方せんかたなく伊勢屋の戸をたゝき湯をもらはんとぞんじ候處一かうに戸を明申さず是非ぜひに其の所に車の御座ござかげしばら相休あひやすをり候處夜も丑刻頃やつどきごろ兩人りやうにんの曲者來り一人は伊勢屋いせやの家に忍び入り暫時しばらくすぎて出けるが外に待居まちゐたる者と何かさゝやき其の者は西の方へ馳行はせゆきのこりし一人は其後そのご金屋の切戸きりどより人の出行しあと這入はひりしに女のさけこゑしてほどなく彼の男何やら風呂敷ふろしきに包みたるを背負せおひて立出是も西の方へ行しがやがて伊勢屋の家内かないさわぎ立しゆゑ私し此處こゝらば盜賊の連累まきぞへに成んと是をおそれて迯出せしをりかくとらはれて候なりと申せしかば大岡殿是を聞れしからば必定かならずほか盜賊たうぞくあるべきにより早々さう〳〵詮鑿せんさくすべし窮屈きうくつながら今少し辛抱しんばうせよといたはられ又々牢屋らうやへ下げられけり


第五回


 こゝに新材木町なる白子屋しろこやしやう三郎一家の騷動さうどう委曲くはしくたづぬるに享保きやうほの始めの事なりしがこの白子屋の地面間口十二間奧行は新道しんみちの方へ廿五間すなは券面けんめん千三百兩の地を一けんにて住居ぢうきよなし此近邊このきんぺん大身代おほしんだいなり主は入聟いりむこにてしやう三郎と云今年ことし六十さいつまは此家のむすめにて名をおつねび四十さいなれども生得しやうとく派手はでなる事をこのはなは婬婦いんぷなりしが娘おくま容顏きりやう衆人しうじんすぐれて美麗うつくしく見るものこゝろうごかさぬものなく二八の春秋はるあきすぎて年頃に及びければ引手ひくて數多あまたの身なれども我下紐わがしたひもゆるさじと清少納言せいせうなごんをしへも今は伊達だてなる母を見慣みならひて平生へいぜいはすはにそだちしは其の父母の教訓をしへいたらざる所なり取譯とりわけはゝこゝろよこしまにて欲深よくふかく亭主庄三郎は商賣しやうばいの道は知りても世事せじうと世帶せたいは妻にまかおくゆゑ妻は好事よきことにしてをつとしりき身上むきを己がまゝ掻𢌞かきまは我儘わがまゝ氣儘きまゝ振舞ふるまひたりしが何時しか町内廻りの髮結かみゆひ清三郎と密通みつつうをなし内外うちそとの目を忍びて物見遊山に浪費ついえいとはず出歩行であるくのみかむすめくまにも衣類いるゐの流行物櫛笄くしかうがひ贅澤ぜいたくづくめに着餝きかざらせ上野うへの淺草あさくさ隅田すみだはな兩國川りやうこくがは夕涼ゆふすゞみ或は芝居しばゐかはと上なきおごりをなしければこゝろあるひとみな爪彈つまはじきしてわらふ者多く此妻の渾名あだな一ツ印籠いんろうのおつねと云て世間せけんに誰知らぬ者も無りしとかやれば女の子は父親ちゝおやより母の教方をしへかたにて志操みさをうつくしかるべきにかゝはゝゆゑ幼少えうせうよりそだちもいやしく風俗ふうぞく芝居しばゐ俳優やくしやを見る如く淨瑠璃じやうるり三絃さみせんの外は正敷事たゞしきことを一ツもをしへずことに女の爲べき裁縫たちぬひの道は少しもらず自然しぜんとうは〳〵しきことにのみ心をかたむけしこと淺猿あさましけれこゝに白子屋の商賣しやうばいかゝりてしやう三郎が名代をも勤め此家の番頭ばんとうよばれたるちう八と云者何時いつの程にかお熊と人知ひとしらぬ中となりけるが母のお常は是を知ると雖も其身も密夫みつぷあるゆゑかれせいする事出來ずかへつて取持しは人外といひつべし是より家内の男女なんによ色欲しきよくふけりおつねは何時も本夫をつとしやう三郎には少しの小遣こづかひをあてがひてあそびに追遣おひやあとには娘おくま番頭ばんとうちう髮結かみゆひせい三郎ともに入込いりこみ下女のおひさお菊もおつね仕込しこまれ日毎に酒宴しゆえん相手あひてをなしたりしが或日おつねきん出して下男げなん云付いひつけさけさかな取寄とりよせ芝居者しばゐもの淨瑠璃語じやうるりかた三絃彈さみせんひきなど入込いりこま皆々みな〳〵得意とくいの藝をあらはたはぶきようじけり茲にまた杉森すぎのもり新道しんみち孫右衞門店まごゑもんたな横山玄柳よこやまげんりういふ按摩あんまあり是はわけて白子屋へ入浸いりひた何樣なにさま白子屋一けん定得意ぢやうとくいとなし居る身の上なればおつね勿論もちろんちう八が云事にてもそむく事なく主人の如くにつか毎日まいにちつねかたなどもみ機嫌きげんをとりたりかく日々ひゞおごりにちやうじければさしもの身代しんたい漸々やう〳〵おとろ享保きやうほねん十月夷子講えびすかうまへにはきん二百りやう不足ふそくつきつまのおつね番頭ばんとうちう八と申あはせ亭主しやう三郎にかくと申ける故しやう三郎はなはこまいると雖も親類しんるゐ一家はもとよりつまおごりを見るにつけたれあつて用立ようたつものなきによりしやう三郎日頃ひごろ懇意こんいなる加賀屋長兵衞方かがやちやうべゑかたゆきみぎ概略あらましはなしければ長兵衞は氣のどくに思ひ材木屋ざいもくや仲間なかまうち山形屋やまがたや箱根屋はこねや加賀屋かがや其外十人の者をたのみて無盡むじんを取立一人前掛金かけきん二十りやうづつとなしもつとも長兵衞世話人せわにんゆゑしやう三郎のぶんまで都合つがふ四十りやういだし二百りやうあつめてしやう三郎にわたあつまりし人々をもあつ饗應もてなしかへされけるよつしやう三郎はおほいによろこみぎの二百兩を夷子棚えびすだな上置あげおき其夜そのよは長兵衞方へれいゆきたりしが此加賀屋長兵衞このかがやちやうべゑいふもと同町どうちやうの加賀屋彌兵衞方やへゑかたへ十さいの時奉公ほうこうに來りて十年の年季ねんきつとなほ禮奉公れいぼうこう十五年をつとあげ都合つがふ廿五ねんあひだ見世みせの事に心をつくしければすなはち加賀屋の暖簾のれんもらひ同所へ材木店ざいもくみせを出せしが漸次しだい繁昌はんじやうして此春より將軍家桶御用をけごようかぶゆづられ猶々なほ〳〵さか消光くらしけるも必竟ひつきやう長兵衞ちやうべゑ心懸こゝろがけよき故なりかくて白子屋しやう三郎は長兵衞方へあつれいのべ我が家へ立歸りしに其夜そのよの中に夷子棚えびすだな上置あげおきし二百兩のかねえざればおつねちう八も狼狽うろたへたるていにて主人へかくと申けるにぞしやう三郎は大いにおどろ周章あわて其分そのぶんには捨置難すておきがたしと直樣すぐさま加賀屋長兵衞方へゆきみぎわけはなし是は是非々々ぜひ〳〵うつたへねばならぬと急込せきこむを長兵衞先々まづ〳〵とて樣子をとくきゝ何樣なにさまこれは外より入たる盜人ぬすびとにては有まじ然れどもいまこれを訴へる時には我々われ〳〵かく仲間なかましうへ二十兩出させたうへ又々番所ばんしよへ引出しては何分どくにて我等われら濟難すみがたきによりまづ内々ない〳〵詮鑿せんさくいたされよとは云ものゝ明日あしたはらひにこまらるべければ我等われら二百りやう用立ようたてんによりそれにて此節季このせつきすまさるべしもつとも此金は利分りぶんに及ばず御都合ごつがふ宜敷よろしきをり返濟へんさいなさるべしと金子二百兩をいだしてわたしければしやう三郎押戴おしいたゞきて段々だん〳〵御深切ごしんせつの上またかゝ災難さいなんまで貴公きこう御苦勞ごくらうあづか御禮おんれいは申つくがたしとて涙をなが打歡うちよろこびてぞかへりけり又おつねちう八はまんまと夷子棚えびすだなの二百兩をあざむとり仕合しあはせよしと微笑合ほゝゑみあひこれかうしてあゝしてとおごる事而已のみ談合かたらひけりさて其年そのとしくれあくれば享保きやうほ九年春も三月となりしに江戸中えどぢう大火たいくわに付此白子屋も諸侯方しよこうがたはじ多分たぶんようたし屋敷方やしきがた普請ふしんばかりにても二千兩まうけありしとなりしかれども彼の加賀屋長兵衞かがやちやうべゑより借請かりうけし二百兩の事はちう八が算盤そろばん奇變あやなししやう三郎にいつはりていま辨濟へんさいせざれども長兵衞は催促さいそくもなさず彼是するうちまたとしすぎ翌年よくどしなり身代しんだいひだり前にて難儀なんぎなるよしちう八より申せしかば庄三郎も不審ふしんに思ひ何とて其樣そのやうなりしぞと云に忠八御屋敷おやしき普請ふしんぞんじのほかつもちがひにて一はこ損金そんきんになり其外そのほか彼是かれこれにて二千兩餘のそんに爲たりとくちから出任でまかせにいつはるをおつねそばから種々いろ〳〵口車くちぐるまかぢを取しかば又々また〳〵加賀屋へいた段々だん〳〵仔細しさいを話けるに長兵衞は左右とかくどくに思ひつき或時あるときしやう三郎にむか時節じせつとは云ながふるき御家の斯迄かくまで不如意ふによいになりたまふ事是非ぜひなき次第しだいなりそれつき少々せう〳〵御相談ごさうだんあり其譯そのわけはお娘子お熊殿くまどの持參金ぢさんきんのあるむこ入給いれたまひては如何いかゞもつとも外に男の子も御在おはさぬ事ゆゑ熊殿くまどの年のふけぬうちに聟養子むこやうしをなし持參ぢさん金子きんすを以て山方やまがた問屋とひやかり償却つぐなひくらし方もを付て身上しんしやう立直たてなほやうに相だんして見給みたまへと深切しんせつ言葉ことばに庄三郎大に喜び何から何迄なにまで段々だん〳〵御世話おせわかたじけなく是にすぎたる事はなし然れども我々われ〳〵かたまゐ養子やうしあるべき能々よく〳〵御聞糺おんきゝたゞしくださるゝやうひとへ御頼おたのみ申なりと云けるにぞしからば先方へ申きくべきあひだ御家内うちかたへも此段このだん能々よく〳〵御相談ごさうだん成るべし我等方は明日みやうにちしかいたしたる返事へんじうけたまはりしうへ又々また〳〵御話おはなし申べくとて庄三郎をかへしけりそれより長兵衞は大傳馬町おほでんまちやう家主いへぬし平右衞門方へいゑもんかたゆき先達さきだつ御話おはなし聟殿むこどの白子屋庄三郎方にてもらたきよしゆゑ御世話下おんせわくださるべし白子屋事は材木町ざいもくちやうにて千三百りやう地面ぢめん持居もちをり御屋敷方おやしきがたの出入澤山たくさんあり株敷かぶしきは三千兩ほどなり然れば五百りやうぐらゐ持參ぢさんありてもよろしかるべし殊更ことさら娘お熊は當年廿二歳にて容貌きりやうもよくうけたまはれば聟殿むこどのは四十にちかしとか隨分ずゐぶん相應さうおう縁組えんぐみなれば能々よく〳〵御世話頼入おせわたのみいると申を平右衞門へいゑもんきゝそれ相應さうおう相談さうだんなり當人といふは我等われら同町どうちやう地主ぢぬし彌太郎方やたらうかたに勤居らるゝ又七と申者なり隨分ずゐぶん辛抱人しんばうにんにて主人しゆじん彌太郎やたらう事は最早もはや六十にもなれど一人も子なく金ばかり澤山ありて地面ぢめんは十三ヶ所も持居もちをり此人親分おやぶんとなるつもりなれば何事も氣遣きづかひなし先方せんぱう能々よく〳〵はなせし上明日御返事ごへんじいたすべしとて長兵衞をかへ其後そのご平右衞門へいゑもん口入くちいれにて相方さうはう相談さうだん調とゝの吉日きちにちえらみて五百りやう持參金ぢさんきんをなし又七を彼の白子屋しろこや聟養子むこやうしとぞなしたりけり此事はもとよりお熊の不承知ふしようちなるを種々いろ〳〵ときすゝあとかくまづ當分たうぶんその五百兩を取りてまたたのしむべしうへ此方の仕向しむけによりむこの方より出てゆくときかねかへさずにすむ仕方しかたは如何ほども有べしとおつねちう八の惡巧わるだくみにて種々しゆ〴〵に言なしつひに又七を入けれどもお熊は祝言しうげんの夜より癪氣しやくけおこり難儀なんぎなりとてはゝそばかしおくまちう八母はせい三郎と毎夜まくらならべて一ツをなすこと人外にんぐわいの仕方なりされども又七は是を一かうらず最早もはや一年餘に及べどもお熊と一添寢そへねをせず加之そのうへむこに來りてより家内中かないぢう突掛者つゝかけものとなりやさしことばかくる者一人もなけれど下男げなん長助ちやうすけと云者のみ又七を大切たいせつになし彼の四人の者どもにくみけるが或時給金きふきん三兩を田舍ゐなかつかはさんとて手紙てがみふう瀬戸物町せとものちやうの島屋へ持行もちゆき途中とちう橋向はしむかふにて晝抅盜ひるとんびうばはれ忙然ばうぜんとして立歸たてかへりしがかねを取れてはまた一年奉公ほうこうを爲ねばならぬと力をおと顏色がんしよく蒼然あをざめて居ける處へ又七は立出たちいで何故なにゆゑ其樣にふさぎ居るや心地こゝちにてもあしきかとひけるに長助はりのまゝわけを話し涙をながしけるを又七は憫然ふびんに思ひ我等われら其金をあたへんとて懷中より三りやう出し長助へ渡しけるに長助は大地だいち鰭伏ひれふし此御恩このごおんわすれまじとてよろこびけり是よりはべつしてこの長助而已のみ毎度まいどつねはじめの惡巧わるだくみを内通ないつうして又七をすくひしなり或時あるとき彼の四人打寄うちよつ耳語さゝやくやう又七こと是迄これまで種々しゆ〴〵非道ひだうになすと雖も此家を出行いでゆく景色なし此上このうへは如何せんと相談さうだんしけるにおつねひざすゝめ是は毒藥どくやくのませるにしくなけれども急に殺してはあらはるゝ故一ヶ月ばかりもすぎて死ぬ樣にくすり調合てうがふして用るがよろしからん此事はまづ新道しんみち玄柳げんりう方へ行て相談さうだんいたすべしと四人打連立うちつれだちて出行たりさて彼の長助は毒藥どくやくと云こゑ不圖ふときこえければ又々四人の者共が惡事あくじならん何れまたさまの事なるべしとおつねの部屋のそばより立聞たちぎきをなしけるが新道の玄柳げんりう方にて調合てうがふなしもらはんと出行いでゆくていゆゑ素知そしらぬかほ臺所だいところ立戻たちもどりたり又彼の玄柳げんりうは毒藥のことを請合うけあひけれども針醫はりいの事なれば毒藥どくやくもとめんことかたしと思へば風藥かぜぐすりふくを四十もんにてかひ炮烙はうろくにて是をいり金紙きんがみに包み鄭重たいそうらしくしておつねに密とわたしければお常はよろこ金子きんすを玄柳につかはしおくま倶々とも〴〵あつく禮を述たりけり此時玄柳はわづか四十もんの風藥にてお常より三兩忠八より五兩お熊より一兩都合九兩の金にあり付しは藥九層倍所か是藥百倍と云べしと喜びけり夫より此藥を下女に云付又七がめししるちやなどへれて毎日々々もちひしとぞ彼の長助も此事をきゝしかば又七へも密かに告置つげおきおのれ隨分ずゐぶん心を付ると雖も大勢おほぜいにて爲る事なれば何時いつの間に入けるや知らざれども或時あるときひらめ切身きりみさらもり彼の藥をお熊が手より入れて又七の前へ持來もちきたり是は母樣はゝさまよりお前に上んとて新場より取寄とりよせうをなればおあがさるべしと一年餘のあひだはじめてお熊の口より又七へ物云ものいひければ又七は喜び直樣すぐさまめし取寄とりよせ是をくはんと爲るを長助は目配めくばせをなしとむていゆゑさてはと思ひ何かまぎらして是をくはず夫より又七は新道しんみちの湯に行けるに長助もあとより同くきたり彼の毒藥どくやくをお熊が入たる事をひそかに話しわたくしにも昨日さくじつぷくつかはして貴君樣あなたさまの食事に入れてくれよとたのみ候と彼藥を見せければまた委細ゐさいを聞ておどろき我は加賀屋かがや長兵衞方へ參るあひだ其方後よりまゐるべしとて其足そのあしにて又七は長兵衞方へいた是迄これまでの事を物語り勘辨かんべんなり難しと立腹りつぷくいたしければ長兵衞ももつての外におどろきける處へ長助も來り三人ひたひを集めて相談さうだんしける中長兵衞心付こゝろづき彼のくすりを猫にくはせてためしけるに何の事もなければ是には何か樣子やうすあるべし我又致方いたしかたあれ隨分ずゐぶん油斷ゆだんあるべからずとて又七をなだめ一まづかへしけり其後二三日すぎて長兵衞は白子屋庄三郎并につまつねを呼び段々だん〳〵内證ないしよう都合迄つがふまでも聞何共氣のどくなる事なりしからばむこ又七殿どのお熊殿との中よろしくば家をわた世帶せたいを若夫婦にまかせ番頭ちう八にはいとまつかはし小手前にして家内かない取廻とりまはしきが肝要かんえうなりして御兩人ごりやうにんは氣樂に御隱居ごいんきよあらまた宜敷事も有べしと事を分て段々だん〳〵遠廻とほまはしにおつね異見いけんをなしけるにしやう三郎は大によろこび何かとあつき思召のほどかたじけなく承知しようちいたしたりと申しけるにおつねはなは不承知ふしようちの面にて長兵衞にむかひ又七に世帶せたいを渡せとおほせらるれども追々おひ〳〵かれ擧動ふるまひを見るに一として商賣しやうばいの道にかなはず其上いまだ出入とうの勝手もおぼえず今忠八にいとまを出しては猶々なほ〳〵都合つがふわる手代てだいおほくの中にも忠八は發明にて萬事ばんじ心得居者をるものなり又七はもとよりお熊となかむつましからす持參金ぢさんきんを鼻にかけて我々を見下し不孝の事のみ多く其上下女などに不義ふぎ仕懸しかけ何一ツ是ぞと云取處とりどころなく斯樣かやうの者に家を渡す事は勿論もちろん忠八にいとまつかはせなどとははゞかりながらあまりなる御差圖おさしづなり我々隱居いんきよいたすよりは又七を離縁りえんいたすはうかへつて家の都合つがふなりと申ければ長兵衞是を聞夫は何分聞こえぬろんなり下女につけるなどとは必竟ひつきやうお熊殿の取扱とりあつかひ惡きゆゑおこる事なり何はもあれ兎角とかく家の丸くをさまるがよければ何事も堪忍かんにんあり隱居いんきよあるべしとすゝめけるにお常は大いに立腹りつぷくして一々云あらそひ氣に入ぬむこなれば地面ぢめんを賣てなりとも持參金ぢさんきんもど不縁ふえんいたすべしとのゝしりけるを長兵衞種々いろ〳〵いさめれども一かう承知しようちせず疊を蹴立けたて此樣なはなしは聞ずと直樣すぐさま御歸りあれとをつとしやう三郎を引立てぞ歸りける夫よりおつねは庄三郎にすこしのぜにあた講釋かうしやく寄席よせせき追遣おひやあとは忠八おくま清三郎を招き例の如く酒宴さかもりを始め長兵衞が云し事どもを委細ゐさいはなして此上は金子きんす五百兩こしらへ又七にそへ離縁りえんするに如なしすれば長兵衞彼れこれいはれぬすぢなり又七を出す事ゆゑ忠八此金このかね算段さんだんせられよと申ければ忠八は打悦うちよろこび其金子かなら調達てうだついたすべしわたくし一ツの工夫くふうありとて清三郎に耳語さゝやきたの其夜そのよ油町あぶらちやう新道しんみち伊勢屋いせや三郎兵衞方へしのび入て金五百兩をぬすみ取清三郎は其隣そのとなりの金屋利兵衞方へ入りて彼の腰元こしもと竹を切殺きりころし娘の手道具てだうぐうばひ取り來りしが忠八にも是を話し我もたゞかへるは殘念ざんねんゆゑ是程のはたらきをせしと取たる品々しな〴〵あらため見るに蝦夷錦えぞにしき楊枝指やうじさしかくはし其外かうがひかんざしるゐ何れもかね目の物多くありければ兩人これまうけものなりとよろこびけり然れども此品このしな賣拂うりはらはゞあらはるべしとて暫時しばしあひだの玄柳方へあづおきけるが此品々このしな〴〵より終に二人が天罰てんばつむくい來とは知ざりけりさても白子屋にては又七が事は地面ぢめんうつてなりとも持參金ぢさんきんかへ離縁りえんいたすべしとおつね長兵衞ちやうべゑに云しことばあれつひ離縁りえんの事を申こみたり


第六回


 扨もお常は忠八をたのみ金五百兩才覺さいかく致させけれ共又候をつと庄三郎をいつはり又七を離縁りえんなす金にさしつかへる間地面ぢめん書入かきいれにて金五百兩借出かりいだすべしとすゝめけるに庄三郎是非ぜひなく又々長兵衞方へ行き金子きんすにさしつかへおもむきをはなせしかば長兵衞も是はお常の仕業しわざならんにより捨置すておくべしとは思ひけれども庄三郎がたつての頼みをきかざるもどくと思ひ長兵衞申は何卒なにとぞ身代しんだい持直もちなほし給へことに先祖代々の地面ぢめん人手ひとでわたさるゝ事さぞかし殘念ざんねんなるべし然らば我等其五百兩は用達ようだち申べしれども今度このたび金子きんす出來でき次第しだい百兩にても五十兩にても御返濟ごへんさいなされよ利分は取り申さず金子相濟あひすみ次第に證文は返却へんきやく致すべけれどもまづ證文しようもんあづかおき申べし其地面人手ひとでわたさるゝが氣の毒にぞんずる故なりお常殿にも此話このはなしをなされ請人うけにんとも御三人御印形ごいんぎやう御持參ごぢさんあるべしと申ければ庄三郎大いによろこ立歸たちかへりてお常忠八に長兵衞が申せしとほはなしけるにお常はこれきゝそれは長兵衞事此地面このぢめんを自分がしければていよく然樣さやうなるべし何は兎もあれ五百兩かり候はんとてお常が合口あひくちなる親類しんるゐつれて三にん印形いんぎやうを持ち長兵衞方へゆき五百兩かりて歸りけるがお常は此金このきんいりしより又々はなすがをしくなりし事まことに白子屋滅亡めつばうもとゐとこそは知られけれさて何をがな又七が落度おちど見付みつけ云立いひたてなば金はかへすに及ぶまじと思ひ居けるに或日庄三郎は又七をよび松平相摸守殿まつだひらさがみのかみどのの屋敷へ金子六十兩請取うけとりに參るべしと申付けしかば忠八是をきゝてお常にかくと知らせの清三郎をまねき三人なにひそか耳語さゝやきけるがほどなく清三郎は出行いでゆきたり是は途中とちうにて惡者わるものに喧嘩を仕掛しかけさせ屋敷より請取うけとりきたる六十兩をうばひ又七は此金を受取うけとり遊女いうぢよがよひにつかこみしと云立いひたてそれとがに離縁せんとのたくみなりかくとも知らず又七は下男げなん長助をともつれ出行いでゆき屋敷より金子を請取うけとりそれより呉服橋へ掛り四日市へと來懸きかゝるに當時そのころは今とちがひ晝も四日市へんさびしく人通ひととほまれなれば清三郎は惡僕わるもの二人ふたりと共に此處に待伏まちぶせなし居たり又七は金を持ちたる故隨分ずゐぶん用心ようじんはすれども白晝ひるひなかの事なれば何心なく歩行あゆみきたりし所手拭てぬぐひにて顏をつゝみたる大の男三人あらはれいで突然ゆきなり又七に組付くみつくゆゑ又七は驚きながら振放ふりはなさんとる所を一人の男指込さしこ懷中くわいちうの金子をうばはんとなすにぞ又七は長助にこゑを掛け盜人々々ぬすびと〳〵よばはりければ長助は先刻せんこくよりほか一人の男と組合くみあひたるが此聲を聞て金をとられては大變たいへん振放ふりはなし又七の懷中くわいちうへ手をいれたる男の横面よこつら充分したゝか打叩うちたゝきければ彼の男よこどうたふされしにぞ其間そのひまに又七と共に殘り二人の惡者わるもの散々さん〴〵に打叩きける故みなかなはじと散々ちり〴〵にげ行けりされば金は取られずまづ無事に其場を立去たちさりたり此長助は力量りきりやうすぐれし男故さいはひに打勝うちかちしとは雖も何共合點がてんの行かぬ者なりまさしく是も四人の者のたくなるべしと話合はなしあひながら長助は道々みち〳〵お常は清三郎とわける事おくまちう八と不義ふぎの事などおちもなくかたりければ又七は始めてお熊は忠八とわけありし事を聞き扨は日頃ひごろ仕方しかたおもひ當りたりとそれより二人に歸り庄三郎に金子をわたしけるにお常忠八は是を見て清三郎にたのみし事手筈てはずちがひたりと思ひ又々玄柳方げんりうかたへ行きて相談さうだんすべしと其翌日そのよくじつ三人玄柳方へぞいたりけるかくて又清三郎は四日市にて長助に十分したゝかうたかほきずうけければ我が家に引込ひきこみ居たりしに玄柳方より呼びに來りしかば早速さつそく走り行き四人打寄うちより又々惡事の相談をなすにお常は聲をひそめ我一ツ思ひついたる手段しゆだんあり其譯そのわけは下女の菊は生得しやうとく愚成者おろかなるものなれば是に云付いひつけ又七がねやへ忍ばせ剃刀かみそりにて又七へ少しにても疵を付け情死しんぢうせんとて又七にだまされ口惜くちをしければ是非ぜひとも又七をころして我も死ぬ覺悟かくごなりとよばはらせ其處へ我々駈込かけこみ種々しゆ〴〵詮議せんぎして菊が口より云々しか〴〵いはせんは如何にやと申ければ三人是を聞き其謀計そのはかりごと奇妙々々きめう〳〵誠に當時たうじ智者ちしやなりと譽稱ほめたゝへ夫より白子屋へ歸り年増としまの下女お久をひそかに呼びお熊の小袖三ツと金一兩を出し菊に斯々かく〳〵言含いひふくくれよと頼みければお久承知して我部屋わがへやへお菊を呼び始終しじう事共ことども委曲くはしくはなし又七樣へきずを付け其身も咽喉のんどすこ疵付きずつけ情死しんぢうと云ひてなくべしとをしへ頼み居たるを長助は物影ものかげより是をきゝて大いに驚きながらなほいきつめ聞居きゝゐたり斯くとも知らず元來もとよりお菊はおろかなれば小袖金子を見てたちま心迷こゝろまよひ何の思慮しりよもなく承知をぞなしたりける又長助はとくと樣子を聞濟きゝすまし早々又七に右の事故ことがらを話し御油斷ごゆだんあるべからずと云ふにより又七點頭うなづき今宵こよひもし菊が來たらばわれぢきに取ておさなはを掛くべし其時其方は早々さう〳〵加賀屋長兵衞をよびきたるべしとひそかに示合しめしあはせてわかれけり菊は只金と小袖のほしさに其夜そのようしこくすぐる頃又七が寢間ねまへ忍び入り剃刀かみそり逆手さかでもち又七が夜着よぎの上より刺貫さしとほしけるに又七は居ず夜具やぐばかりなれば南無三と傍邊かたへを見る間に又七はお菊を蹴倒けたふなんなく繩をかけ又七は大音だいおんあげ長助々々〳〵よぶこゑに家内の者共目をさまし何事にやと庄三郎お常お熊忠八も此所へ來り彼是かれこれなすに長助は加賀屋へ駈行かけゆき又七樣只今たゞいまきふ御逢成おあひなさたきとの事出來しにより私し御供おんとも仕つるべきあひだ御入下おんいりくだされよと申ければ長兵衞驚き直樣すぐさま同道どうだうにて入り來るにお常は長兵衞にむかひ又七事お熊を指置さしおき下女の菊と不義ふぎをなしつひ情死しんぢうとまでのさわぎなり夫故それゆゑ平常つね〴〵お熊となかわる家内かないをさまらずと云ひければ又七是を聞き是は思ひもよらぬ事を仰せらるゝもの哉今宵こよひ菊が何故か刄物はものを持て我が寢所ねどころへ來りし故怪敷あやしくおも片蔭かたかげかくれてうかゝひしに夜着よぎの上より我をさし候樣子に付き取押とりおさへて繩をかけしなり此儀このぎ公邊おかみうつたへ此者を吟味ぎんみ致さんと云ひけるを長兵衞は先々まづ〳〵こと穩便をんびんに世間へきこえぬうちすます方が宜しからんお常殿もお熊殿もよく御思案ごしあんあるべし縱令たとへ又七殿がお菊に通じたるにもせよお常殿より又七殿にとく御異見ごいけんあつてお菊にいとまいだせば濟む事なり是を又七殿訴へなば大亂たいらんとなり白子屋の家名かめい立難たちがたしお常殿は女の事故其處そのところへ氣もつかれざるは道理もつともの事なれども能々よく〳〵勘辨かんべんありて隨分ずゐぶん又七殿をなだ家内かない和合わがふ致さるゝやうなさるべし不如意ふによいの事は及ばずながら此長兵衞見繼みつぎ申さんと利解りかいのべけれどもお常は一かう得心とくしんせず又七事菊と忍合しのびあひ情死しんぢうなさんとせしを見付けしに相違さうゐなければ公邊おかみへ訴へ何處迄どこまでも黒白を分け申べしと片意地かたいぢはつて持參金を返濟へんさいせぬ工夫くふうをなすに忠八もそばより日頃又七樣下女に手をつけられし事私共存居り候と云ひければ又清三郎も傍邊かたはらよりすゝいで御兩人の仰せ御道理也ごもつともなり又七樣御持參金をはなに掛け我々迄も見下げ給ふ事はなはだしと云ふを長兵衞は見遣みやりなんぢまはりの髮結かみゆひならずや何故此所へ來り入らざる差出口さしでぐち過言くわごんなり長助の者を擲出たゝきだせと云ひければ長助は立掛たちかゝり清三郎が首筋くびすぢつかみておもて突出つきだ門口かどぐち材木ざいもく投付なげつけしにぞ清三郎はいかおのれ此間も四日市にて我をたゝき今又かく投付なげつける事此返報このへんぱうおぼえ居よとのゝしりけるに扨は四日市の盜人ぬすびとおのれかと云はれてハツと思ひしかばあとをも見ずしてにげ歸りけり扨又長兵衞はお常にむかひ此事訴へなば怪我人けがにんも多く出來る故何分なにぶん穩便をんびん取扱とりあつかひ白子屋の家名にきずの付かぬやう我々が異見いけんしたがひ給へと云へどもお常は少しも承知せざれば長兵衞も今は是非ぜひなく又七を連れて我がへ立歸りたり其間そのまに夜もあけければ長兵衞は傳馬町なる平右衞門方へいたり右の次第を物語ものがたりければ平右衞門は大に立腹りつぷくし白子屋の者共如何にも不屆なる仕方なれば早々さう〳〵地主ぢぬしへ申きかせんと夫より彌太郎方へ行き右の仔細しさい話し居る處へ番頭忠八髮結清三郎の兩人入來いりきた彌々いよ〳〵訴へいづるにより又七をあづかりし手形てがたを出せと店先みせさきにて談事だんじければ彌太郎も今は堪忍かんにん成難なりがた其方そなたよりの訴訟うつたへまたず此方より訴へんと云時いふとき又々下男長助又七をたづね來り夜前やぜん清三郎が云ひし四日市のことをはなしけるにぞ尚々なほ〳〵遺恨ゐこんかさね右のおもぶきまで願書にしたゝめ居たるに加賀屋長兵衞入り來り我等何分なにぶんにも取扱ひ候間いますこし御待ち下さるべし白子屋方へ能々よく〳〵異見いけんを加へ内濟ないさい致すべしと云置いひおきそれより又白子屋へ行き此事訴へられては此方こなた家名かめいうしなもとゐなるべきにより内濟ないさいにし給へと種々さま〴〵ときすゝめると雖もお常は一かう承知せずかへつて長兵衞迄も散々さん〴〵のゝしりける故長兵衞も今は是非ぜひなく打捨うちすてければつひに彌太郎の方より訴訟にこそ及びけれされば大岡殿是を聞かれ此訴訟のおもぶきにては大いなる罪人つみびとぎやくの者多し是をたゞすは誠になげかしき事なりと種々いろ〳〵利解りかいあつさげられけれども双方さうはう得心とくしんなければ是非なく吟味ぎんみとぞなりにけるころ享保きやうほ十二年十月双方さうはうそう呼出よびだしの人々には白子屋庄三郎ならびつまつねむすめくま番頭ばんとうちう下男げなん長助ちやうすけ下女げぢよひさきくむこまた大傳馬町おほでんまちやう居付ゐつき地主ぢぬし彌太やた加賀屋長兵衞等かがやちやうべゑとうなり此砌このみぎり髮結かみゆひせい三郎は出奔しゆつぽんして行方ゆくへ知れず大岡殿彌太郎に向はれ其方願書の趣き相違さうゐなきやと尋問たづねらるゝに彌太郎御意ぎよいとほりすこしも相違さうゐこれなく候とこたへしかばやがて庄三郎と呼ばれ其方妻常娘熊番頭忠八斯の如き惡事あくじをなす事ぞんじ差置さしおきしや又知らざるやと申されしに庄三郎其等の儀は實以じつもつて存じ申さずと云ひければ又大岡殿お常にむかはれ其方むこ又七に毒殺どくさつおぼこれあるやと尋問たづねらるゝにお常はかうべあげ如何にも驚きたるていをなしけつして覺え之なく又七事妻を差置さしおき下女に不義を仕掛しかけ不屆ふとゞきつき離縁りえん致さんと存じ候處かくの訴へに及びし迄にて候何卒なにとぞ御慈悲おじひを以て又七儀離縁りえん仕つる樣願ひ上奉つると申立るをきゝて又七恐れながらとすゝいで毒藥どくやくの儀相違之なく則ち稻荷いなり新道しんみち横山玄柳よこやまげんりうと申す醫師にくすりもらひしせつの證文等もあり候御呼出おんよびだしの上御吟味くださるべしと申ける故早速さつそくみぎ玄柳を呼出されて尋ねられし所玄柳申立るはお常の頼みに候へ共毒藥は容易よういならざるに付調合てうがふせず斯々かく〳〵致し風邪藥かぜぐすりにて間を合せ候とこたふるにぞ大岡殿次に下女お菊をよばれ其方主人のねや刄物はものもちしのび入る事大膽不敵だいたんふてきなり但し汝が一存か又は人に頼まれしか正直しやうぢきに申さずんば一命に及ぶべしといはれけるにお菊はいきたる心地こゝちなく恐れ入りてお常はじめ四人の者に頼まれしだん白地あからさまに白状しければ大岡殿ソレしばれと下知をつたへお菊になはをうたせ又娘お熊手代忠八兩人にむかはれ其方共日來ひごろ密通みつつういたしをりむこの又七を殺さんとせし段不屆ふとゞきなり有體ありていに申立よとありすぐに繩を掛させられしかばお常是を見てハツと仰天ぎやうてん今更いまさら後悔こうくわいてい差俯向さしうつむきしを大岡殿發打はつた白眼にらまれ其方養子又七にきずつけ候樣下女菊に申付たる段不屆なり有體ありていに申せといはれしかばかくすことあたはずお常お熊共に白状にぞ及びける又庄三郎は家内の者の斯如かくのごとき不屆を存ぜざる段不埓ふらちなりなほほかに何ぞ心當りの事は之無これなきやと申されければ庄三郎何も是と申す程の儀御座なく候へども髮結かみゆひ清三郎と申す者常々つね〴〵入浸いりびたり居しは心得難く候と申立るに大岡殿同心どうしんよばれ白子屋家内を檢査あらため清三郎をとらへ來れと下知せられしかば同心馳行はせゆき檢査あらためしに清三郎は逐電ちくでんせし樣子なれど道具だうぐうち斯樣の品ありしと其品々を持來もちきたりし中に蝦夷錦えぞにしき箸入はしいれ花菱はなびしの紋付たる一角のはし鼈甲べつかふかんざしなどありしかば大岡殿是を見給ひ即時そくじ金屋かなや利兵衞を呼出よびいだされ此品其方おぼえ有るやと尋ねられければまさしく覺え之あり私むすめ手道具てだうぐなるよし申立てしにぞなほまたお常お熊兩人へ嚴敷きびしくたづねられしかば忠八清三郎兩人よりもらひしまゝ何事も存ぜずと申により忠八を糺問きうもんありければつひに白状致しけりよつて金屋の盜賊たうぞくも相知れ夫より清三郎へ追手おつてかけられたり扨牢内より彼の旅僧たびそう雲源うんげん呼出よびいだされ又伊勢屋三郎兵衞をも呼れて五百兩の盜賊たうぞく相知あひしれしにより人違ひとちがひにて是迄雲源をくるしめ候あひだ其代そのかはり雲源を宜敷よろしく扶持ふち致すべしと申渡され雲源は出牢しゆつらうとなり利兵衞は得意を吉三郎に返さゞるだん不屆ふとどきなれば身代を半分にして吉三郎に菊をめあはせ養子となし利兵衞夫婦ふうふ隱居いんきよ致す可し且つ彌太郎方へは又七を取戻とりもどせと申渡されけり


第七回


 享保十二年十二月大岡殿白洲しらすに於て申わたし左之通り

新材木町しんざいもくちやう
白子屋しろこやしやう三郎養子やうし
また七 さい
くま
二十二歳

其方儀そのはうぎ手代てだいちう八と密通みつつういた不屆至極ふとゞきしごくつき町中まちちう引廻ひきまはしのうへ淺草あさくさおい獄門ごくもんくる

白子屋しろこやしやう三郎手代てだい
ちう
二十八歳

其方儀主人しゆじん庄三郎養子又七つま熊と密通致し其上そのうへとほ油町あぶらちやう伊勢屋三郎兵衞方にて夜盜やたう相働あひはたらき金五百兩ぬすみ取り候段重々ぢゆう〳〵不屆ふとゞきつき町中まちぢう引廻ひきまはしの上淺草あさくさに於て獄門ごくもん申付くる

白子屋しろこやしやう三郎下女げぢよ
きく
十八歳

其方儀主人しゆじんつま何程なにほど申付候共又七も主人のつき致方いたしかた有之これあるべき處主人又七にきずつけあまつさへ不義ふぎの申かけを致さんとせし段不屆至極ふとゞきしごくに付死罪しざいつく

白子しろこしやう三郎つま
つね
四十歳

其方儀養子やうし又七にきずつけあまつさへ不義の申かけ致候樣下女きくに申つける段人にはゝたるのおこなひにあら不埓ふらち至極しごくつき遠島ゑんたうつく

杉森すぎのもり新道しんみち孫右衞門店まごゑもんだな
針醫はりい
横山玄柳よこやまげんりう

其方儀白子屋庄三郎さいつねはじめの惡事あくじ荷擔かたんいたし候段不屆に付追放つゐはうつく

新材木町しんざいもくちやう家持いへもち
白子屋しろこやしやう三郎
六十歳

其方儀養子やうし又七にきずつけせつとくと樣子も見屆ず其上つまつねむすめくま手代てだいちう八不屆の儀を存ぜぬ段不埓ふらちに付江戸構えどがまひつく

同人手代どうにんてだい
清兵衞せいべゑ
ひこ
長助ちやうすけ
伊助いすけ

其方共儀不埓ふらちすぢも之なくにつきかまひなし

たゞし當時このころ下女げぢよひさ病死びやうしよつ名前なまへこれなし

とき髮結かみゆひ清三郎は上總かづさ迯行にげゆきし所天網てんまうのががたつひ召捕めしとら拷問がうもんの上殘らず惡事を白状に及びければこれまた引廻ひきまはしの上獄門ごくもん申付られけりさて亦お熊は引廻しのせつうへにはぢやうしたには白無垢しろむく二ツをちやく本繩ほんなはに掛りえりには水晶すゐしやうを掛け馬にりて口に法華經ほけきやう普門品ふもんぼんを唱へながら引かれしとぞ此時お熊のたるより世の婦女子ふぢよしぢやうは不義のしまなりとてきらひしはたはれ事の樣なれども貞操ていさうこゝろともいふべし然るを近來ちかごろ其事を知る者もまれなりと雖もまた不開化ふかいくわなどといふ者もあらんかあゝつゝしむべしといふくちまたつゝしむべし

當時そのころ狂歌きやうか

まこと畜生ちくしやうくまなれや不義ふぎくもりしむねつき

白子屋しろこやしたからよめばおやころしむこころさんこゝろおそろし

婦人ふじんこゝろ不仁ふじんよくつね理不盡りふじんたくみなりけり


白子屋阿熊一件

煙草屋喜八一件

煙草屋喜八たばこやきはち一件いつけん


第一回


 こゝに享保年間下總國しもふさのくに古河こがの城下に穀物屋吉右衞門こくものやきちゑもん云者いふものあり所にならびなき豪家がうかにて江戸表えどおもてにも出店でみせ十三げんありて何れも地面ぢめん土藏共どざうども十三ヶ所を所持なし出店でだな親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひゆたかに世をおくりけるが一人のせがれ吉之助とて今年ことし十九歳人品じんぴんよきうまれにて父母の寵愛ちようあいかぎりなくれども田舍ゐなかの事なれば遊藝いうげいならはせんと思へども然るべき師匠ししやうなきにより江戸兩國りやうごく横山町よこやまちやう三丁目かどにて折廻をりまはし間口奧行拾三間づつ穀物こくもつ乾物かんぶつるゐあきなひ則ち古河の吉右衞門が出店なるを番頭傳兵衞でんべゑいへる者あづか支配しはいなし居たるが此處に吉之助をつかはして諸藝しよげいの師をえらみ金銀にかゝはらずならはするに日々生花いけばなちや其外そのほか遊藝いうげい彼是なにくれと是を己が役にして居る所に兩國米澤町の花の師匠にて相弟子の六之助と云ふは同所どうしよ廣小路ひろこうぢの虎屋の息子むすこなるが何事も如才じよさいなく平生へいぜい吉之助とはまじはあつかりしが或時あるとき吉之助を引誘さそひ納涼すゞみに出し歸りがけ船中せんちうよりすぐに吉原の燈籠とうろうを見物せんとすゝめけるに吉之助は御當地ごたうちはじめての事なれば吉原はべつして不案内ふあんないゆゑかた辭退ことわり此日は漸々やう〳〵宿やどへ歸り番頭傳兵衞に此事をはなしければ傳兵衞かうべかたぶけ六之助殿は江戸えどうまれの事にて何事も如才なきにより此事御斷おことわきりにもなるまじもし明日みやうにちにもまた誘引給さそひたまはゞ彼の地に行六之助殿にまけられてはおかほよごれることなれば金銀は隨分ずゐぶん奇麗きれいに御遣ひなされ斯樣々々になし給へと委細ゐさいをしへけるにぞ吉之助承知して其後そののち又々涼船すゞみぶね花火はなび見物けんぶつの時六之助同道どうだうにて吉原へ行き蓬莱屋ほうらいやと云ふ六之助が馴染なじみの茶屋へ上りけるに吉之助は傳兵衞がをしへはこゝなりと女房にようばうむすめを始め若い者女子迄七八人近付ちかづきならんと惣纒頭そうばなうち江戸町一丁目玉屋内たまやうち初瀬留はせとめと云ふ娼妓おひらんあげほどなく妓樓ぢよろやともなはれ陽氣やうき酒宴しゆえんとこへ入りしが六之助は夫よりさき初瀬留をひそかまねき吉之助は古河こが一番の大盡だいじん息子むすこにて江戸のみせ遊藝稽古いうげいけいこの爲に參られ此處へは始めての事なれば隨分ずゐぶん宜敷よろしくはからひくれよ此後も度々連參つれまゐらんと内證を吹込ふきこみける故初瀬留も男振をとこぶりし大盡の息子と聞き眞實しんじつつくして待遇もてなしけるにぞ吉之助はかゝる遊びの初めてなれ魂魄たましひ天外てんぐわいとびたゞうつゝの如くにうかれ是よりして雨の夜雪の日のいとひなくかよひしかば初瀬留もにくからず思ひ吉之助ならではと今はたがひふか云交いひかはし一にちあはねば千秋の思ひをなすにぞ番頭傳兵衞は最初さいしよおのれをしへし事のかへつどくと成しかば大いにこまり度々異見いけんを加へすこしの事はくるしからざれども最早もはや二箱近く御遣おつかひ成されし故御國許おくにもとの旦那へきこえては此傳兵衞申わけなしとてなほ種々しゆ〴〵に異見致しけれども一かうに用ゆる氣色けしきもなくつひよく享保きやうほ九年七月迄に金二千七八百兩つかすてたれば今は傳兵衞もあきはて是非なく國許くにもとへ此由知らせしにより父吉右衞門是をきゝもつてほかに驚きにくせがれ行状ふるまひ言語同斷ごんごどうだんなりとて直樣すぐさま出府しゆつぷなし吉之助を呼びて着類きるゐぬが古袷ふるあはせ一枚ぜに三百文與へて何國いづくへなりと出行いでゆくべしと勘當かんだうなしければ番頭若い者等種々いろ〳〵詫言わびごとすると雖も吉右衞門承知せず其儘そのまゝ古河へ歸りけり依て吉之助は今更いまさら途方とはうくれ此體このなりにては所詮しよせん初瀬留にもあはれず死ぬより外に詮術せんすべなしと覺悟かくごきはめ其夜兩國橋へ行きすでに身をなげんとたりしとき小提灯こちやうちんを持ちたる男馳寄かけよつてヤレまたれよと吉之助をいだとゞめるに否々いな〳〵是非死なねばならぬ事ありはなしてと云ふをはおわかしう不了簡ふれうけん死ぬは何時いつでも易い事先々まづ〳〵此方こなたられよと云ふかほれば吉原の幇間たいこ五八なれば吉之助は尚々なほ〳〵面目なく又もや身をなげんとせしを五八も驚きしつかといだは若旦那にてありしか私し事は多く御恩ごおんあづかり何かと御贔屓下ごひいきくだされし者なれば先々まづ〳〵わけあとの事手前の宿やどへ御供を致しかく宜敷計らひ候はん初瀬留樣にも此程このほどは日毎に御噂おうはさばかりなりと無理むりに手を取り其邊そのあたりなる茶屋へともなさけさかななどいださせて種々馳走ちそうをなししてまたこよひの事がらは如何なるわけ問懸とひかくるに吉之助は面目めんぼく無氣なげこたふる樣此程父吉右衞門國元くにもとより來り我等二千七八百兩のあなあけしを大いにいかり終に勘當かんだううけたれば最早もはや初瀬留には逢事あふこともならず所詮生てはぢをかゝんよりはと覺悟かくごきはめし事なりと一伍一什いちぶしじふを物語れば五八は是を聞きをは父公樣おやごさま御腹立おはらだち御道理ごもつともなれど若い中にはあるならひ又其中には御詫おわびなされ方も御座らう程にまづ此度このたびは初瀬留樣と諸供もろとも御勘氣ごかんきゆるさるまで此五八が御匿おかくまひ申あげんと力をつけ夫より五八が宅へつれかへり女房にも仔細しさいはなし初瀬留が方へも此事をしらせけるにそ初瀬留は打驚うちおどろ早速さつそくきたりて吉之助にひ私し故に御勘當ごかんだうの御身となられし由さぞかしにくき者と思召おぼしめされんが此上は私し何事も御見繼おみつぎ申さんにより何處いづくへも行き給はず五八の方に居給へとて夫より呉服屋ごふくやへ言ひ付吉之助が衣類いるゐ其外そのほか何不自由なにふじいうなくおくりければ是ぞ誠に鷄卵たまごに四かく眞實しんじつ仕送しおくらるゝ身は思ふなるべし或日五八は吉之助をれ淺草の觀音へ參詣さんけいしけるに地内にて吉之助を呼掛よびかける者あり誰ぞと振返ふりかへり見れば古河にありとき召使ひし喜八と云ふ者にて吉之助がそばに來り貴君樣あなたさまには何時御當地へ御出おんいでありしや途中とちうながら御容子ごようすうかゞたしと申けるに此所は人立ひとだちしげければとて傍邊かたへの茶屋にともなひ吉之助は諸藝稽古しよげいけいこの爲め横山町の出店でだなへ來りしより多くの金をつかこみ父の勘當をけ身をなげんとせし時に是なる五八にたすけられ今は五八方に居て初瀬留に見繼みつぎを受け不自由なくは消光くらし居れど何卒なにとぞ勘當かんだうわびをせん爲に觀音へ參詣さんけいの處思はず其方にあひしなりと委細ゐさいの事を話せしに喜八は大に驚きしがまづもつて五八殿とやらん御深切ごしんせつだんかたじけなしさりながら親旦那も只一人の若旦那をわづか二千や三千の金位に御勘當ごかんだうとは餘りなり當分の見懲みごらしなるべきまゝ今にも私し參り御詫おんわび仕つらんなれども吉原に御在ござられて女郎の世話になり給ふと有りては御詫のさまたげ今よりすぐに私し方へ御供申さんと云ふにぞ五八も其理そのりふく如何樣いかさま私し方に御出おんいでありてはかへつて御詫の妨げ此由初瀬留樣へも申べし自然しぜん御用もあらば御文は私し方へつかはされよ御取次申べしとこゝに於て五八は吉之助を喜八にわたし別れてこそは歸りけれさて此喜八は古河吉右衞門が方に十年の年季ねんき首尾能しゆびよつとあげ吉右衞門より金五十兩もらひて穀物店こくもつみせを江戸へ出しけるが二年のあひだに三度類燒るゐせうなし資本もとでうしなひしかば是非なく今は麻布原町あざぶはらまち刻煙草きざみたばこの小店を出し其身そのみは日々糶賣せりうりをして女房に店はまか漸々やう〳〵其日を送りけるが此喜八もとより實體じつていなる者故にこまればとて人に無心合力がふりよくなどはけつして云し事なくかすか渡世とせいにても己れが果福くわふくなりと斷念あきらめ其日を送りけるされば喜八は吉之助を連歸つれかへりしかど我が家は貧窮ひんきうにして九尺間口まぐち煙草店たばこみせゆゑべつに此方へと言所いふところもなく夫婦諸共ふうふもろとも吉之助をいたはると雖もよるの物さへ三布蒲團みのぶとん一を漸くに二人し事なれば吉之助にせる物なく其夜はみぎの三布蒲團を吉之助に着せ夫婦は夜中やちう辻番つじばんだいて夜をあかしけれども是にては主人をあたゝかかす事ならずかねて金二分に質入しちいれせし抱卷かいまき蒲團ふとんあれども其日を送る事さへ心にまかせねばしちを出す金は猶更なほさらなく其上吉之助一人口がふゑ難儀なんぎの事故夫婦はひざ突合つきあはせ相談なすに妻のお梅は漸く二十三歳にて縹緻きりやうもよく志操こゝろざしやさしき者なるがをつと難儀なんぎ見兼みかね何事も御主人樣ごしゆじんさまのお爲なれば此身を一年のあひだ何方いづかたなりとも水仕奉公みづしほうこうに遣られ其給金にて夜具蒲團を質請しちうけして御主人をあたゝかにやすませられよほかに思案は有まじと貞節ていせつを盡して申を聞き喜八も涙を流して其志操そのこゝろざしかんわづか二分か三分の金故妻を奉公に出さん事も口惜くちをしけれども外に工面くめんの致し方なく此上は一人の口をへらすより外なしと近所きんじよの口入を頼みけるに早速さつそくき口ありて麻布あざぶ我善坊谷がぜんばうだに火附盜賊改ひつけたうぞくあらた組與力くみよりき笠原粂之進かさはらくめのしんと云ふ方へ中働なかばたらきに住込すみこみける是にてお梅の給金三兩のうち取替とりかへきん二兩り内金一兩二分はお梅素より何一ツなければ夜具其外支度に掛殘りの二分は質物に入れたる夜具蒲團を請出うけいだし吉之助樣にきせまゐらせられよとお梅はやがて奉公にこそ出でたりけれ


第二回


 然程さるほどに喜八は妻のお梅を奉公にいだ取替とりかへとして金二兩り内一兩二分は支度したくつかひ殘り二分をもちて同町の質屋源右衞門方しちやげんゑもんかたへ行き當夏たうなつ入置いれおきし夜具蒲團を請出うけいだしけるに此質屋此邊このへんにてのよき身代しんだいゆゑ多く下質したしちを取りけるが今外より下質の金八十兩請取うけとり亭主ていしゆ財布さいふに入れけるを喜八ぢつと見て居たりしが心の中に偖々さて〳〵有處あるところには澤山たくさんに有るもの哉我は只二分の金にさしつかへ妻を奉公に出せしに八十兩と云ふ金をいしかはらの如く取扱ふ事偖々さて〳〵渡世とせい貧福ひんぷくは是非もなし我に八十兩の金あれば主人に不自由もさせず一ツには勘當かんだうわびたねにもなり二ツには妻につらき奉公はさせまじと倩々つく〴〵思ひめぐらほど世の無端あじきなきかここゝの身代にて八十兩位は我が百文の錢程にも思ふまじ何事も御主人の爲と思ひあの金八十兩を盜取ぬすみとらんと喜八が不圖ふとむねうかみしはこれ災難さいなんもとゐなり夫より喜八は質物を我家わがや持歸もちかへりて吉之助をかしおき其夜そのようしこくとも思しき頃かね研澄とぎすましたる出刄庖丁でばばうちやう懷中くわいちうなし頬冠ほゝかぶりして忍びいでやがて質屋の前へ行き四邊あたりを見るに折節をりふし土藏どざう普請ふしんにて足代あししろの掛り居たればこれ僥倖さいはひと其足代よりのぼりしが流石さすが我ながらにおそろしく戰々わな〳〵慄々ふるへるを漸くにふみしめ勝手かつて屋根やねいたらんとするをり思ひも寄らぬ近傍かたへまどより大の男ぬつくと出ければ喜八はハツと驚き既に足を踏外ふみはづさんとするに彼の男は是を見て汝は何者なるやわれ今宵こよひ此質屋へ忍び入り思ひのまゝぬすまんといま引窓ひきまどより這入はひりたるに屋根にて足音あしおとする故不思議ふしぎおも出來いできたりたり汝聲を立てなば一うちこほりの如きやいば突付つきつける故喜八は増々ます〳〵驚き齒のも合ざりしが漸くにいきのみこみ私しことは此家このや盜賊たうぞく這入はひらん爲に只今屋根へのぼりしなり見遁みのがしたまへと申ければ彼男は微笑ほゝゑみナニ盜賊に這入らんとする者が其樣にふるへては所詮しよせんぬすむ事出來ずさてひんせまりし出來心のしんまい盜人どろばうかと云ふに喜八仰せのとほり何をかかくし申すべき私しは此谷町にすむ喜八とてかすかくらす者なるが昨日主人の若旦那を私し方へあづかり候處夫婦のたる三布蒲團みのぶとん一ツのほかはなく金の才覺さいかくなほ出來ず是非なく妻を奉公にいだ取換とりかへの二分にてしち入置いれおきし夜具をうけ先刻さきほど此家へ參りし處八十兩の金を掛硯かけすゞりの引出しへ入置處いれおくところを見たるに付何卒なにとぞこれぬすみ御主人の不自由をすくひ勘當のわびの種にもなし又妻をも取戻とりもどして消光度無くらしたくなくてはかなはぬ金子故しうの爲には親をもすてならひ後日に我が首をきらるゝ如きは容易おろかと思ひ道ならぬ事ながぬすみに參りしとありまゝに語りければ彼の男是を聞き汝が見たる八十兩は是なるやと懷中くわいちうより取出して見せければ如何にも是にて候と云に彼の男喜八のていを見て其方其如くふるへては此金を取らん事思ひもらず今云事のいつはりにもあるまじしうの爲の出來心にて盜みに來りしと正直しやうぢきに云ふ事の憫然あはれなれば此金を汝に與へん間主人しゆじん難儀なんぎすくひ妻をも取戻とりもどせと財布さいふまゝ喜八に渡しけるにぞ喜八は押戴おしいたゞ偖々さて〳〵世の中に其許そのもとの如き盜賊はまれなるべし命をまとに掛て取りたる金を我に與へ給ふは誠に有難ありがたし然らば申受んと涙を流し此御恩このごおんは死すともわすれ申さず何卒なにとぞ其許そのもとの御名をきかせ給はるべしと云ひければ彼の男點頭うなづき我は田子たご伊兵衞いへゑと云ひて一とほりの盜賊に非ず百兩や二百兩の金はのみ大金とも思はず今迄いままで火附ひつけ人殺ひとごろ夜盜等よたうとうの數自分ながらも何程か知れず明日にも召捕めしとられ其罪科そのざいくわおこなはれなば汝今のなさけを思ひ我が亡跡なきあととふらくれよ此外に頼み置事おくことなし汝にひしも因縁いんえんならん疾々とく〳〵見付られぬうち歸るべし〳〵我はいま仕殘しのこしたる事ありと云ひつゝまた引窓ひきまどよりずる〳〵と這入はひ質物しちもつ二十餘品をぬすみ出し其上そのうへ臺所だいどころへ火を付何處いづくともなく迯失にげうせけり折節をりふしかぜはげしく忽ち燃上もえあがりしかば驚破すは火事くわじよと近邊大に騷ぎければ喜八はまご〳〵して居たりしが狼狽うろたへ漸々やう〳〵屋根よりはおりたれ共あしちゞみ歩行あゆまれず殊に金子と庖丁はうちやう懷中くわいちうに入れし事なれば若し見咎みとがめられては大變たいへんと早々迯出にげいだす向ふより火附盜賊改め役奧田主膳殿おくだしゆぜんどのくみの與力同心を二三十人連て此處へ來らるゝ故喜八は夫と見るより一さん駈拔かけぬけんとしけるを奧田が組下くみした山田やまだ軍平ぐんぺいと云者喜八がかたちを見てあやし曲者くせものまてと聲を掛ながら既にとらへんと喜八の袖をおさへしにぞ喜八は一しやう懸命けんめいと彼の出刄庖丁にて軍平が捕へたる片袖かたそできつて早くも人込ひとごみの中へ迯込にげこんだり軍平もあとより追駈おつかけけれども終に見失みうしなひ切たる片袖は軍平が手にのこりければ奧田が前へ持出もちいでて只今火附を捕へんとせし處斯の如く袖を切りて迯行にげゆき候と申けるに奧田殿扨々さて〳〵それをしき事なり然らば切たる袖は後の證據とならん是へとて右の袖を見らるゝに辨慶縞べんけいじま單物ひとへものふるきを茶に染返そめかへしたる布子ぬのこなり是は取置とりおけと申付られやがて火もしづまりしかば皆々火事場をひかれけり扨又喜八はあやふくも袖を切て其の場をのが漸々やう〳〵我家へ歸りてむね撫下なでおろし誠に神佛の御蔭おかげにてたすかりたりと心の内に伏拜ふしをがみ吉之助には火事にて驚きたりといつはり彼の八十兩の金は戸棚とだなすみに重箱有りける故其中へいれおきすでやすまんとする時表の戸をたゝものありさては役人後を追來りしかど更に心も落付おちつかず返事さへろくにせざれば表には又々また〳〵たゝき早く此處をお開下あけくだされと云ふを聞けば女の聲なる故不思議ふしぎに思ひすこあけ其許そのもとは何用有て此の夜更よふけに來られしや云ふに彼女私しは吉原より參りし者なり吉之助樣にお目にかゝりたしと云ふ聲初瀬留なれば吉之助は奧より走出はしりいで大いに驚き如何して夜中やちう遙々はる〴〵の處を來りしやまづ此方こなた這入はいられよと云ふに初瀬留は御免成ごめんなされと戸口を入り漸々やう〳〵むね撫下なでおろし餘りの御懷おなつかしさに今宵こよひくるわ逃亡かけおちして此處へ來りしと物語ものがたりなど彼是なす中程なく夜もあくるにぞ喜八は起出おきいで引窓ひきまどを明け釜元かまもと焚付たきつけ扨々昨夜ゆうべは危き事かなと一人いひつゝ吉之助初瀬留をもおこさんとしけるをり昨夜さくや喜八をとらへたる山田軍平は朝湯あさゆの歸り掛け煙草たばこかはんと喜八のみせ立寄たちよりしが未だおもてしまり居る故煙草たばこくれと聲をかけしかば喜八ハイと答へて揚戸あげどあげときたもとはす引裂ひきさけてあるゆゑ軍平はとめて見るに縞柄しまがらも昨夜の布子ぬのこ相違さうゐなければすぐに召捕んとせしが取迯とりにがしては一大事と然有さあらていにて煙草を買ひて歸りがけすぐ笠原粂之進かさはらくめのしんかたへ行き夜前やぜんの火付は原町の煙草屋喜八と云ふ者なり今朝こんてう私し煙草をかひ候時かれが布子のしまたれば心を付て見るにたもとの切れてありすれば昨夜の火付はかれわざに相違なく早々さう〳〵召捕めしとり給へと申するに粂之進しからば取迯とりにがさぬ樣支度したくせよとて手配てくばりにぞかゝりける喜八は如何に周章あわてしや昨夜の布子を着替きかへもせず居たりしはつたなき運と知られけり茲に原町の家主に平兵衞へいべゑと云ふ者あり近邊きんぺんにて評判の如才じよさいなき男にて至つて慈悲じひふかく人をあはれみけるが平生へいぜい喜八の正直なる心をかんじ何時も憫然あはれかけける處に町内の自身番屋じしんばんやへ火附盜賊改役奧田主膳殿組下與力笠原粂之進は同心を引連ひきつれきたりて平兵衞を呼び其方そのはう店子たなこ煙草屋たばこや喜八事御用のすじあるより案内あんない致せとて平兵衞を先に立て同心二人喜八がたくへ來り御用の聲と諸共もろとも高手たかて小手こてに喜八をいまし引立ひきたてゆくにぞ吉之助初瀬留は大いに驚き是は如何にとあきはてたるばかりなり斯くて粂之進は彼の切れたる袖と喜八がたる布子を合せ見るにしつくりとあひければ扨は此者に相違さうゐなしとて家内を檢査あらためしに戸棚のすみの重箱に財布さいふに入りたる金八十兩有りければ彌々いよ〳〵盜賊火附にきはまりしと此趣このおもぶきを添状そへじやうにて町奉行大岡殿へ引渡ひきわたし吉之助初瀬留の兩人は家主いへぬしあづけられたりさて喜八儀は火附盜賊に相違なしとて送りになりしかば直樣すぐさま入牢じゆらう申付られしに付き家主平兵衞は喜八を片蔭かたかげまね段々だん〳〵の樣子をきくに喜八はしうため妻を奉公に出し其給金にてしち請出うけだし八十兩の金を見て不圖ふと出來心できごころより其夜忍び入りて伊兵衞と云へる盜賊に右の八十兩をもらひしまでありのまゝつぶさかたりけるにぞ家主は始めて是をきゝ憫然あはれに思ひ如何にもして御慈悲おじひを願ひて見るべしと夫より平兵衞はたくへ歸り吉之助初瀬留にむか偖々さて〳〵喜八は憫然あはれにも是々の事により最早もはや近々ちか〴〵御所刑おしおきなるべし偖々是非もなき事なりと語りしかば吉之助大いに驚き扨は喜八事我が爲の出來心にてぬすに入り既に御所刑にならんとかすれば我が手で殺すも同じ事なり同人を殺し汚面々々をめ〳〵我而已われのみいき勘當かんだうゆるさるゝとも何のよろこびかあらん我も冥土めいど途連みちづれせんとて既に首をくゝるべきていなれば初瀬留も是を聞き其元のおこりは皆私し故なれば倶々とも〴〵しなんと同じく細帶ほそおびはりかけるにぞ家主はあわ狼狽ふためき漸々やう〳〵と兩人をとゞめ今二人とも此處にて死なれては我一人の難儀なり何分なにぶん此儀このぎは我等にまかせ給へよしや無事にゆかず共せめては喜八が御慈悲願おじひねがひを致して見ん夫に就て急々きふ〳〵古河こが相談さうだんなしたきものなれども外の人をつかはしては事のわかるまじければ詮方せんかたなし我古河へ行きて吉右衞門殿に面談めんだんげ其上喜八が命乞いのちごひ首尾しゆびすまし申べし其間そのあひだ必ず〳〵御兩人とも短見はやまり給ふなと異見いけんをなし妻にも能々よく〳〵云付いひつけおき長屋の者を頼みて平兵衞は早々さう〳〵調度したくをなし下總しもふさの古河へぞおもむきける


第三回


 偖も家主平兵衞は古河をさして道をいそぎ程なく穀物屋吉右衞門方へたづいたそれがしは江戸麻布原町家主平兵衞と申者なるが此方こなた御子息ごしそく吉之助殿の事に付て少々せう〳〵御相談ごさうだん申度儀之あり故意々々わざ〳〵參りたり吉右衞門殿御在宿ございしゆくかと申いれけるに番頭其事を主人につげしかば奧より吉右衞門立ち出來りたがひに一禮をはりて平兵衞を奧へともなひけるに平兵衞かたちあらた拙者せつしや店子たなこの喜八と申者元は其許樣の方につとめしとの事なるが此度このたび不慮ふりよ災難さいなんにて火附盜賊におちい召捕めしとられたり其原そのもとの起りは御子息ごしそく吉之助殿故なり其譯そのわけは斯樣々々の事なりと淺草あさくさにて吉之助にあひしより喜八方へ引取り勘當かんだうわびをせんと妻を奉公にいだし夫より不圖ふと出來心にて質屋しちや夜盜よたうに入りし事あらはれ既に御仕置おしおきにも極まる由夫故御慈悲願おじひねがひをせんと存ずる處に又吉原より女郎初瀬留吉之助殿をした逃亡かけおちして來りし處喜八が右の一件に付兩人共生ては居られぬ其原そのもとの起りは吉之助殿初瀬留が故なりとてすでくびれんとするを漸々やう〳〵なだすかおき何卒なにとぞ喜八が罪を助けたく態々わざ〳〵是迄參りたりとつぶさに話しければ吉右衞門夫婦は大いに驚き偖々夫は御深切ごしんせつかたじけなしせがれ勘當かんだう致せしも當分の見懲みこらしと存ぜしなり五八とやらは幇間たいこなどに似合にあはぬ深切なる者又初瀬留事もまことをし心底しんてい其樣な女ならば傾城けいせいにてもくるしからず身請みうけ致し夫婦に致さんと存ずるが何卒なにとぞ御世話下されまじきやと母の頼みなれば吉右衞門も平兵衞にむかひ何卒此上は貴殿きでんへ御任せ申間宜敷御取計おとりはからひ下され候樣にと申にぞ家主平兵衞夫は何よりやすき事吉之助殿ならびに初瀬留の事は我等あづかおきまゝ案事あんじ給ふに及ばず兎角目前に喜八が難儀なんぎすくたくぞんずるなり因ては我等とともに江戸へ出府しゆつぷあるべしと申にぞ吉右衞門も委細ゐさい承知なし金子は何程なにほど入りても苦しからず何分なにぶんよろしく頼み申と夫より吉右衞門平兵衞の兩人は駕籠かごにて晝夜ちうやを急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を指出さしいだせしえんあればとて吉右衞門は屋敷へいたり喜八の一件を歎願たんぐわんせしに最早もはや罪科ざいくわきはま御所刑おしおきづけへ老中方の判もすわりたり今少し早くば致方もあるべきに今更是非なしとの事なれば吉右衞門平兵衞共に途方とはう寥々すご〳〵と歸りしが吉右衞門は如何程いかほど金子入用にても何卒喜八を助けんとて種々いろ〳〵と平兵衞に相談するをりから思ひも寄らず喜八が妻のお梅主家しうかのがれ歸りけるが此主人は先達さきだつて喜八をとらへ出したる盜賊改め奧田主膳殿組與力笠原粂之進にてすなはち此家へお梅奉公致しけるが此粂之進獨身どくしんゆゑ此お梅の縹緻きりやうよき戀慕れんぼ種々いろ〳〵口説くどくと雖も此お梅貞節ていせつの女なれば決してしたがはざるにより彌々いよ〳〵粂之進思ひをまし種々いろ〳〵に手をかへいひよるゆゑをつと喜八と申者あるうちは御心に從ひては女の道たち申さずと一すんのがれに云拔いひぬけけるを或時粂之進ちやくま持來もちきたる其手をらへ是程までに其方を執心しふしんし種々口説くどけどもをつとある故從ひ難しと申が夫なくんば我が心に從ふやと云ふにお梅は差俯向さしうつむきしまゝ答へをなさざれば其方をつと有ると思ふかやをつとはやなきなり因て我にしたがふべしと云ひければお梅は不審いぶかり何故なにゆゑをつとなしと云ひ給ふととふに粂之進は微笑ほゝゑみ其方が夫喜八は火附盜賊をなし町奉行所へ送られたれば近々きん〳〵御所刑おしおきなるべし其妻の其方なれば同罪どうざいなれども我其方をふかかくし是までつゝがなくおきしはまつたく我が恩なり因て我に從ひ申すべし所詮しよせん喜八が命はたすからぬなりと云ひければお梅は大いに驚きしが是は粂之進我を手に入れんが爲のいつはりならんと思ひ夫は何故火附盜賊をば致せしやと云ふに粂之進は喜八が火附盜賊におちいりし始末しまつも殘らず話しければお梅はハツとばかりにむねふさがりしばことばもなかりしが偖々なさけなしと思ひ粂之進にむかひ何卒私しに御暇下さるべしをつとと共に御所刑おしおきなり申べし科人とがにんの女房を御免成おゆるしなされて御役目のさはりなるべしと申けるを粂之進かうべふり我其方に心をかくればこそ沙汰さたなしに致しおきたり其恩を思はゞ我方わがかたに居よいとまは出すまじと無體むたい引寄ひきよせるをお梅は突退つきのけみゝにも入れずもし御暇下おいとまくだされずは逃亡かけおちしても宿やどへ參らんと云へば粂之進大いにいきどほり斯程迄かほどまでに心をつくしたる甲斐かひもなくつらかりし事思ひ知らせんしたがへばよししたがはすはかくとほりと刀をぬいて胸先に押當おしあつれどもお梅はをつとの事のみ心にかゝ勿々なか〳〵おそるゝ容子ようすもなくころさば殺し給へ決して隨ふまじとのゝしゆゑ粂之進は刀をぬきは拔たれどももとより殺す心なければをさかたこまり居るを中間ちうげん七助と云ふ者先刻せんこくより此樣子を見てこゝろ可笑をかしく走り出で主人をとゞ先々まづ〳〵御待下おんまちくださるべし只今彼方にて承まはりしが御立腹ごりつぷく御道理ごもつともなり然しながら女を手に入れんと思召おぼしめさだますにしくなし是は私しに御任せ有るべしお梅にとくと申きかせ御心に隨ふ樣得心とくしん致させ申べし先々御刀おんかたな御納おんをさめ下されよと云ふをさいはひに粂之進は刀を納め彌々いよ〳〵其方そのはう取持呉とりもちくれんとならば任する程に能々よく〳〵仕課しおほせ手に入れよ是は當座の褒美はうびなりと金三兩投出なげいだせしかば七助有難しと押戴おしいたゞくを又不承知なれば其金を取返とりかへすぞ然樣さやう心得こゝろえよと云ふ處へ御廻おまはり御出と觸來ふれきたるにぞ則ち粂之進も支度したくをして廻り場へ出行いでゆきけりあとには七助お梅にむか所詮しよせん其方そなたも旦那はいやなるべしわれ取持とりもちせん事も骨折損ほねをりぞん出來ぬ時はかへつて首尾しゆびわろし然らば其方には少しも早く此處を逃亡かけおち致されよ我も辯解いひわけなければ是より宿へ歸るべし三十六けい走るにしかじ我が宿やど牛込うしごめ改代町かいたいまち芋屋いもや六兵衞と云者いふものなり用事有らば云越いひこし給へと兩人云合いひあはせ早々に支度したくして七助は牛込お梅は平兵衞方へ迯歸にげかへりしなりされば委細のわけを物語るにぞ平兵衞は聞終きゝをはり是は喜八を助くる手段しゆだんも出來たりと云へば吉右衞門それは何故ぞと云ふ平兵衞はひざすゝめ喜八がとがなき次第を女房に呑込のみこま斯樣かやう〳〵訴状そじやうしたゝめ喜八を助け申さん何事も我に任せ給へとやがてお梅に駈込訴訟かけこみそしようの仕樣ををしへ願書を認め是を以て奉行所ぶぎやうしよの門を入り右の方の訴へ所へ行き斯々かう〳〵致すべしれど主人を相手取あひてどる公事くじなれば白地あからさまには訴へ難したゞなにとなく樣子ありいとまくれ候樣に御願ひ申すとばかり認め是をお梅にもたせ平兵衞同道にて奉行所の屋敷やしき近邊きんぺんまで附添行つきそひゆきの門より這入はいれと教へて立歸りしかばお梅は素足すあしに成りて奉行所の門より訴訟所うつたへじよへ行き御願ひ申上ますと云ふに役人是をきゝ町役人を以て願へと雖も聞入きゝいれさけびける故やが門外もんそとへ送り出すにぞお梅は腰掛こしかけにて暫時しばし休息きうそくし又々訴訟所へどつさりすわり以前の如く申故又々送り出され最早もはや夜に入り門もしまりければ是非なく腰掛こしかけに夜を明し居るに其夜平兵衞ひそか辨當べんだうを持來りて與へ明日御奉行樣御登城掛を待ち受け御駕籠おかごに付て願ふべし御駕籠のうちより何事ぞとたづねらるゝときをつと難儀なんぎ御救おんすくひの御慈悲を願ひあげますと云ふべし御奉行樣おぶぎやうさま今は登城前とじやうまへなり後迄のちまで腰掛にひかへよと有らば其時またこゝへ來りて休息きうそくせよ晝時分ひるじぶん呼込よびこみある時駕籠の訴へのをんな罷出まかりいでよと有らば御門へ入り左の方より白洲しらすたまりへ行てひかをり御呼出およびだしにて御白洲へいで此訴状を出すべし御奉行樣のそばに居る目安方めやすかたの御役人是を讀上よみあ此書付このかきつけは何者が認めたるやと御尋おたづねの時われかきたりと云ひてはわるし因て昨日御門へ這入はひりかねて御門前を胡亂々々うろ〳〵いたし候處へ御武家樣おぶけさま御通り掛り成れ候て其方は駈込訴訟かけこみそしようかと御聞成おきゝなされ候間然樣さやうなれども如何して宜敷よろしきやと承まはり候へば斯樣々々かやう〳〵致せと御教へなされ其上訴状は持來もちきたりしかと御尋おんたづねゆゑ之なくと申ければしからば認めつかはすべしとてしるして下され候と申べしそれさへ云へばあとは此方の物むかふが大岡樣なれば何事もさつあるべしと教へ平兵衞は我が家に歸りけるにお梅はよろこびつゝ夜のあくるをも待詫まちわび居たるにしばらくして夜も明放あけはな辰刻過頃いつゝすぎごろ大岡殿登城の樣子にて供廻ともまはり嚴重げんぢうに立出られしかば平兵衞のをしへの如くお梅は駕籠訴かごそに及びしに腰掛に控へよと申つけられやがて呼び込に相成あひなり白洲しらすに於て訴状のおもむき御尋ね有りしかば是又教へられしとほりたて目安方めやすかた之を讀上る時大岡殿お梅にむかはれ其方主人へいとまを願へどもいださず其上そのうへ度々たび〳〵不義ふぎかけしををつとあるなれば隨はざるにより刄を以ておどすゆゑ願ふと有共あれどもいま此處このところへ粂之進を呼出よびだし此事をとはんに然樣の事覺えなし又不義仕掛たる事も候はずといふときは互ひに水掛論みづかけろんにて證據なければ主人を相手あひて公事くじをなすのみならず奉公人の方より主人へ無理暇むりいとまふ事不屆なり此儀は其方は何んぞ證據ありやととはるればお梅はつゝしんでこたふる樣其儀は牛込改代町十郎兵衞たな六兵衞方の同居七助と申者證據人に御座候と申立るにより然からば其七助を呼出よびいだすべしと差紙さしがみに付町役人七助を召連めしつれ罷出まかりいでければ大岡殿何歟なにかおぼさるゝ事ありて此日は吟味ぎんみもなくおつ呼出よびいだすまで七助梅は家主へあづけると申付られけり


第四回


 こゝまた田子たこの伊兵衞は質屋しちや火付盜賊ひつけたうぞく召捕めしとら近々きん〳〵引廻ひきまはしにでるよしうはさきゝさては我八十りやうつかはしたる喜八とやらんとられたるや又外に有事あることなるかと不審ふしんに思ひよくけば其人そのひとは全く彼の八に相違さうゐなく火付盜賊におちいり近々きん〳〵火罪ひあぶりとの事なりしかば田子たこ伊兵衞いへゑ思ふはとがなき者を無實むじつに殺させん事不便ふびんなりとて我と名乘なのり奉行所ぶぎやうしよいで火付ひつけ十三ヶしよ人殺ひとごろしにん夜盜かずれず其中そのうち麻布あさぶ原町はらまち質屋しちや這入はい金子きんす八十りやう代物しろもの二十五しなぬすみよし白状はくじやうに及びしかば大岡殿おほをかどの八をらうより呼出よびいだ兩人りやうにん對決たいけつの時大岡殿八にむかはれ其方質屋しちや火附盜賊ひつけたうぞくなりと申せども其科そのとが人外より出たり此者このものすなはち其盜賊伊兵衞なりとて自訴じそおよびしと申されければ八は彼の伊兵衞いへゑを見ておどろきたるていなりしが其盜賊はまつたわたくしなりの者は御助おんたすけ下さるべしと申けるをきゝ伊兵衞は八にむかひ汝は我が先達さきだつて寸志すんしむくはんとて命をすてて我をたすけんといふ心底しんていうれしけれども無益むえきの事なり我は其外そのほかにもとがおほければとてものがれぬなるにより尋常じんじやうとがかうむらんと申にぞ喜八は差俯向さしうつむいことばなし大岡殿暫時兩人りやうにんことばきゝはなはかんじられ伊兵衞事いへゑこと八十兩八につかはした相違さうゐなきやしからばおつ詮議せんぎすべし今日こんにちまづさがれとて兩人りやうにんともらうさげられしが其後そののちほどすぎ兩人りやうにんならびに彼の笠原粂之進かさはらくめのしんも呼出され其外家主いへぬし平兵衞へいべゑうめ白洲しらす罷出まかりいでるに大岡殿おほをかどの粂之進くめのしんむかはれ此梅といふをんな其方に奉公ほうこういたせしたづねらるゝに粂之進くめのしん然樣さやうにて候とこたふるを大岡殿をつと難儀なんぎとあつていとまねがふに何故いとまを出されずやとあれ粂之進くめのしんすなはいとまつかはして候と云をおうめ否々いへ〳〵いとまは一かう出し申さず候と申に家主平兵衞も進みいで先達さきだつ梅事うめことわたくしへ御預おあづけのあひだ委細ゐさいうけたまはり候ところ粂之進殿くめのしんどのいとまつかはされず候につきよんどころなく御願ひ申あげむねうめ申聞候といふにぞ大岡殿粂之進くめのしんむかはれ斯樣かやう難儀なんぎいたす者を止置とめおき候事心得こゝろえずと申されしかば粂之進くめのしん冷笑あざわらすべ奉公人ほうこうにん主人にいとまねがふには人代ひとかはりを以てねがふべきはずなりそれ然樣さやうの事もなく夫故それゆゑいとまは出し申さずと云放いひはなしければ大岡殿それは何を云るゝや只今たゞいまいとまつかはしたりと申せしくちの下より人代ひとかはりなき中はいださずとは前後ぜんごそろはぬ申でう殊更ことさら夫の難儀なんぎある人代ひとかはりを出すひまの有べきや其方はなさけなき爲方しかたなり是には何か樣子やうすあらんといはれしかば粂之進くめのしん心中しんちういきどほり小身せうしんなりともそれがしも上の御扶持ごふち頂戴ちやうだいことに人の理非りひたゞす役目なり奉行ぶぎやうには依怙贔屓えこひいきありてそれがしばかり片落かたおとしに爲給したまふならんと言せもはて大岡殿おほをかどの發打はつた白眼にらま依怙贔屓えこひいきとは慮外りよぐわい千萬なり此梅をかゝゆとき請人うけにんは何者がいたしたるやとある粂之進くめのしん夫はすなはをつと八に候と云大岡殿かさねて其喜そのき八は火付盜賊に相違さうゐなしとてそれがし方へ添状そへじやうを以て此程このほどおくられたる其許そのもと何故なにゆゑ科人とがにんの妻をやくをもつとむる身分みぶんとして其儘そのまゝ召仕めしつかおきたるぞや假令たとへ當人たうにんより申出ずとも其方そのはうよりいとまを出すべきはずなり此故に何か樣子やうすあらんと申せしなりさだめ不義ふぎを申かけたるならんと申されしかば粂之進くめのしんグツとさしつかへしがナニ不義ふぎなど申かけたるおぼかつて之なしと云に大岡殿おほをかどの牛込改代町かいたいまちもの呼出せと申されしかばはつこたへて彼の中間ちうげんすけ白洲しらす連來つれきたるを粂之進くめのしんは見てハツと思へどもわざと何氣なくの者は拙者せつしや方にて取迯とりにげいたし候者と云乍いひながら七すけむかさては其方うめ密通みつつういた金子きんすうば迯亡かけおちさせつるかにつくやつ今茲に於て何事なにごとをかいふことばを出さばせぬぞといからしけるを大岡殿おほをかどの粂之進くめのしんむかはれかれ拙者せつしやたづね仔細しさいあつて呼出せしなりけつしてかまふまじ如何いかに七すけ有樣に申せと云れければ七すけは夫見ろといふ面色にて粂之進くめのしんを見ながら如何いかわたくし事下部しもべいたし候へども取迯とりにげなどつかまつりしおぼ御座ござなく是まで多く粂之進くめのしん方へ女中の奉公ほうこう人來り候へども一ヶ月とはつとめずいつれも早々さう〳〵に暇をさがり候ゆゑ不審ふしんぞんじ候ところ此度このたびも又梅事いとまねがひ候あひだ容子ようすうかゞひしに不義ふぎを申かけられ承知しようちせぬとて刄物三昧はものざんまいいたしゝにつきせつわたくし中へ入て取鎭とりしづめ候へば金三兩呉られ候て取持とりもちやう申付られ候へども梅事は貞節ていせつをんなゆゑとてもかなはぬ事とぞんじ私しは申わけなきにより宿やど迯歸にげかへり候とつぶさに申たつ廉々かど〳〵粂之進くめのしん面目めんもくあをくなりあかくなりしが差俯向さしうつむきひかるを大岡殿おほをかどの粂之進くめのしん白眼にらまれ其方只今たゞいま公邊かみ祿ろく頂戴ちやうだいし御役をつとめ人の理非りひをもたゞす身の上と云ながらまことの火付盜賊は是なる伊兵衞を差置さしおきとがなき喜八をとらとく吟味ぎんみもなくおくじやうそへて此方へおくられ拙者迄せつしやまで落度おちどをさせ重々ぢう〳〵不調法ぶてうはふ斯樣かやう不埓ふらちにて御役がつとまるべきや不屆ふとゞ至極しごくなり揚屋あがりやいり申付るとりしかば同心とびかゝり粂之進くめのしん肩衣かたぎぬはねたちまちなはをぞかけたりけるかくて七すけとおうめは家主へあづ粂之進くめのしん揚屋あがりやいり喜八伊兵衞いへゑらうもどされけりさて翌日よくじつ大岡殿登城とじやうありて月番の御老中ごらうぢう松平右近將監殿まつだひらうこんしやうげんどの御逢おあひねがはれ何卒なにとぞわたく御役御免下ごめんくださるべしといはれしかば何故退役たいやくねがはるゝやと申さるゝに大岡殿此度このたび煙草屋たばこや喜八裁許さいきよちがとがなき者を科人とがにんおとすでに上へ言上に及び各々おの〳〵さま御判ごはんすわり候ところ外より盜賊出しかばまつた越前守ゑちぜんのかみ越度をちどに付御役御免ごめんねがひ奉つる此段このだん宜敷よろしく御披露ごひろう下さるべしと申のべられしかば右近將監殿うこんしやうげんどのおほいにおどろかれ先々まづ〳〵輕擧給はやまりたまふなとく同列どうれつとも談じあひ言上に及んとて御老中方ごらうぢうがた評議ひやうぎの上言上ごんじやうに及ばれしかば將軍しやうぐん吉宗公よしむねこうもつてのほかおどろかせたますぐに大岡殿を御前へめされ汝必ず輕擧はやまる事なかいまだ其者刑罰けいばつに行はざれば再應さいおう取調とりしらべ此後とて出精しゆつせい相勤あひつとむべしと上意有しかば大岡殿御仁ごじん惠の御沙汰さたかしこまりたてまつると感涙かんるゐを流され御前を退出たいしゆつせられけり時に享保きやうほ十年八月廿四日双方さうはう呼出しの面々めん〳〵笠原粂之進かさはらくめのしん煙草屋喜八家主平兵衞へいべゑ田子たごの伊兵衞中間ちうげん七助等なり大岡殿大音たいおんにて粂之進くめのしん刑法けいはふ役をもつとめ候身分にて盜賊たうぞく人違ひとちがつみなき喜八をとがおとしいれる而已のみならず其妻に不義ふぎを申し掛しだん不屆ふとゞきの至なりよつて二百五十ぺう召上めしあげられおも刑罪けいざいにもしよせらるべき處格別かくべつ御慈悲おじひを以打首うちくびつぎに七助事主人をあざむき私しに宿やどへ下り候は不埓ふらちなりしかりと雖も御公儀おかみいつはらざるゆゑ過料金くわれうきん三兩つぎに盜賊伊兵衞重罪ぢうざいなれども神妙しんめう名乘なのり出其上喜八をたすけ候だん奇特きどくに付御慈悲おんじひを以て多くのつみゆるし伊豆大島へ遠島ゑんたうつぎに煙草屋喜八はかまひなしつまかまひなし家主いへぬし平兵衞此度のはたらき町人には奇特きどくに付ほめおくみぎの通申わたされ双方さうはうけん落着らくちやくせりさて穀物屋こくものや吉右衞門は女郎初瀬留はせとめを八百兩にて請出うけいだよめとなし吉之助きちのすけ勘當かんだうをも免し目出度めでたく夫婦ふうふとして喜八夫婦には横山町よこやまちやう角屋敷かどやしき穀物店こくものみせに三百兩つけあたへ家主平兵衞へいべゑへはみぎ横山町よこやまちやう地面ぢめん間口まぐちけん奧行おくゆき十八けん怙劵こけん種々いろ〳〵音物いんもつそへせがれ夫婦ふうふならびに喜八が是まであつ世話せわなりれいとしてつかはしまた吉原よしはら男藝者をとこげいしや五八は心實しんじつなる者故吉右衞門きちゑもんよろこびの餘りせがれいのちの親なりとがう禮金れいきん三百兩をおくまた初瀬留はせとめよりも衣類いるゐ其外目録もくろくにして委細ゐさいの文をそへ種々いろ〳〵禮物れいものおくりけるゆゑ五八はにはか分限ぶげんとなり何れも其家々そのいへ〳〵繁昌はんじやうなせし事實に心實しんじつほど大切たいせつなるものはなしと皆々感じけるとなん


煙草屋喜八一件 

村井長庵一件

村井長庵むらゐちやうあん一件いつけん


第一回


 積善せきぜんの家には餘慶よけいあり積惡せきあくの家には餘殃よあうありとむべなるかな此篇このへんのする所の村井長庵の如きおもて醫術いじゆつわざとし内は佞邪奸惡ねいじやかんあくほしいまゝにしておのれ榮利えいりつくさんとほつす然れども天網てんまういかで此惡漢わるものを通さん其とがめをかうぶるに及んでは僞りてのがるゝみちなくかざつておほべきの理なくされば大岡越前守殿の裁許さいきよあづかりし者其善惡そのぜんあく邪正じやせいわかたざるなしじつ賢奉行けんぶぎやうとやいつつべし仰々そも〳〵村井長庵といふは麹町かうぢまち三丁目に町醫まちいと成つて世をおく舍弟おとゝ十兵衞をしばふだつじにて殺害せつがいし同人の娘を賣りし身の代金しろきん五十兩を奪ひとり其妻そのつまを三次と云る同氣どうきあひもとむる惡漢わるものゆだね淺草の中田圃なかたんぼにて殺害させ其上伊勢屋五兵衞の養子やうし千太郎に小夜衣さよぎぬに身請する人ありといつはりて五十兩の金をかたとり種々しゆ〴〵惡計あくけいはたらきし其根元こんげんたづぬるに國は三しう藤川ふぢかは近在きんざい岩井村いはゐむらの百姓にさく十と云者あり夫婦のなかに子供兩人有てあにを作藏舍弟おとゝを十兵衞と云しが兄作藏は性質うまれつきよからぬ者にて村方にても種々しゆ〴〵樣々さま〴〵の惡事をはたらきし故親の作十も持餘もてあまつひ勘當かんだうに及びしが弟十兵衞は兄とちが正路しやうろの者にて隣村迄りんそんまで評判ひやうばんきにつき是を家督かとくとし近村よりおやすといふよめもら親子おやこ夫婦のなかもよくいとむつまじくかせぎけり斯てあに作藏は勘當の身と成しを後悔こうくわいをもせず江戸へ出で少しの知己しるべ便たよりて奉公の口を尋ねるうちさいはひ小川町にて其頃評判の御殿醫てんい武田長生院方たけだちやうせいゐんかたに人の入用ありときゝ口入くちいれの者に頼みてに住込ける此長生院と申は老年としばえいひことに名醫のきこえあれば大流行おほはやりにて毎日々々公私こうしの使ひ引も切らず藥取の者其外門前にいちをなし節句前毎せつくまへごと藥禮やくれい目録もくろく其他の進物しんもつなどあめふる如く成れば作藏は是を見て世の中に能物よきもの醫者いしやなり何程の療治れうぢ出來できずとも流行出せばかくの如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて所々しよ〳〵方々はう〴〵彷徨さまようばかりにて未だ何の仕出しいだしたる事もなくこれぞと云身過みすぎの思ひ付もなきをりなれば此上は何卒なにとぞして我も醫師いしやとなり長棒ながぼう駕籠かごにて往來なし一身の出世しゆつせはからんものと思ひこみけるは殊勝しゆしようなれども一心に醫學を學び其じゆつを以て立身りつしん出世を望むに有ねば元より切磋琢磨せつさたくまの功をつみ修行しゆぎやうせんなどとは更に思はず大切たいせつ人命じんめいを預る醫業いげふなるに只金銀をむさぼることのみを思ひ假令たとへ藥違くすりちがひにて人を殺したりとてさじさへ持ば解死人げしにんには取れずかゝ家業かげふは又となし只醫者らしく見せかけるのと詞遣ことばつかひさへ腹に這入はひれば別に修行しゆぎやういるものぞと藥種やくしゆの名などちとづつおぼえ醫者にならんと思ひこみ奸才邪知かんさいじやち曲者くせものにて後年おのれ罪惡ざいあくあらはれし時申ちんじて人に塗付ぬりつけ天下未曾有みそう名奉行めいぶぎやうをもあざむおほせんとする程の大膽不敵だいたんふてきなれば間もなく見樣見眞似みやうみまねにて風藥かぜぐすりの葛根湯位は易々やす〳〵調合てうがふする樣に成ける程に武田長生院も下男げなんにもめづらしきやつなれどさて心のゆるせぬ勤め振と流石さすがに老醫常々親戚しんせきの者へ語られしとぞ作藏のわづか三年ごしの奉公中にの道を少しくおぼえ殊に遊ぶひまなければ給金其他病家びやうか代脈だいみやくともなどに行し時もらひたる金を少しくたまりたるより武田にいとまもらすぐ天窓あたまそり坊主ばうずとなり麹町三丁目の裏店うらだなを借て世帶せたいをもち醫師渡世とせいを初めしにうんの一たびむかひし所にや元來もとより藪醫者やぶいしやと云ふ程も醫術は知ぬ作藏が名字みやうじを村井ととなへ自ら名を長庵と改めてあさからばんまであては無れどいそがぶり歩行あるき廻りければ相應に病家びやうかも出來たるにぞ長庵今は己れ名醫めいいにでも成し心にて辯舌べんぜつ奸計かんけいを以て富家ふうかより金を引出し終に表店おもてだなへ出てなりに暮し一度は流行りうかうしけれども元よりおのれに覺えなきわざなれば終には此處の内儀ないぎが藥違ひにて殺されたの彼所の息子むすこ見立違みたてちがひにて苦しみしにをしたの又かれ無學文盲むがくもんまうの何も知らぬ山師醫者の元締もとじめなりなど湯屋ゆやの二かい髮結床かみゆひどこなどにて長庵の惡評あくひやうきく夏蠅うるさきばかりなれば果はいのちの入ぬのか又はしにたく思ふ人は長庵のくすりめ命が大事と思はば村井が門も通るなと雜言ざふごんにもふらしける程に追々おひ〳〵全治ぜんぢ病人迄びやうにんまでも皆轉藥てんやくをなしたれ一人みやくを取する者も無なりしにぞ長庵今は朝暮あさゆふけぶり立兼たちかねるより所々しよ〳〵方々はう〴〵手の屆く丈かり盡して返すことをせざれば酒屋米屋薪屋まきやを始め何商賣なにしやうばいをするものも長庵のたくの前はしのんで通る樣になりければひつかけ上手じやうずの長庵も百ぱうじゆつなす事なくこまり果てぞ居たりける爰に又長庵が故郷こきやう岩井村にてはおやの作十も病死びやうしおとゝ十兵衞の代と成けるが或時近邊きんぺんより出火して家屋かをくをはじめ家財雜具迄かざいざふぐまでのこすくなに燒失ひ其のみならず引續ひきつゞきて水旱すゐかんなんかゝり難儀のかさなりて年々ふえ年貢ねんぐ未進みしんに當年こそは是非ともに未進の皆納かいなふなすべしと村役人むらやくにんよりうながされ素より篤實とくじつぺんの者なれば十兵衞夫婦はひざ摺寄すりよせ如何なる前世ぜんせ宿業しゆくごふにや追々續く災難さいなんにて斯迄かくまで困窮こんきうの身となりしぞかゝる事のなからん爲鋤鍬すきくはらういとはず朝はしらむを待て起ききりみの山稼やまかせぎ人はもどれど黄昏たそがれすぎ月のなき星影ほしかげを見ねば戻らぬ樣にかせはたまいあらさずに骨體ほねみくだいてはたらきても火災くわさいの難に水旱すゐかんの難儀が終始しじう付てまは追々おひ〳〵かさ年貢ねんぐ未進みしん今年ことしは何でもをさむべしと村役人衆むらやくにんしうより度々の催促さいそく其處そこ色々いろ〳〵工面くめんも仕たが外に仕方の有ざれば所詮しよせん我内わがうちには居られぬなり此上は我四五年のあひだ何國いづくへなりとも身をひそめ奉公なりともしてかせがなば又兎も角も成べしと思ひ定めし事なれば和女そなたあとに殘り居て二人の娘をたのむぞよかくいは邪見じやけんと思はんが我さへ居ねば年貢の未進も何とか村役人衆むらやくにんしゆ仕法しはふつけよきやうにしてくれられんと男泣をとこなきに泣ながら氣のどくさうに言けるにぞ女房にようばうのおやすうらめしげにをつと十兵衞の顏を見つゝ餘りの事になみだこぼさずたゞ俯向うつむいて居たりける茲に十兵衞夫婦がなかに二人の娘ありあねをおふみといひいもとをおとみと云るが姉妹はらから共に心操こゝろばえやさしく何處となくひんよき生質うまれつきなれば如何なる貴人きにんの娘といふともはづかしからずかゝる在所には珍しき者にて殊に兩人ふたりとも親思おやおもひの孝行かうかう者なればいまちゝ十兵衞が年貢ねんぐの金に差詰さしつまり身をかくさんと云るをきゝ共に涙にくれたりしがやがてお文は父母ふたおやの前にたり兩手をつきたゞ今お兩方樣ふたかたさまのおはなしを承まはり候に父樣は何方いづかたへかお身をかくされ給ふよし然樣さやうにては跡々あと〳〵仕樣しやうも御座なく母樣はゝさま御一人にておこまり成るゝは申迄もなく元はわらは姉妹はらから二人を斯樣に御育下おそだてくだされ候よりお物入ものいり多く夫ゆゑ御難儀にも相成し事なればかずならねども私しを浮川竹うきかはたけとやらへおしづめ下されいさゝかにてもお金にかへらるゝ物ならば此身は何樣いかやう艱難かんなんを致し候も更々さら〳〵いとひ申さねば何卒此身を遊女いうぢよに御賣成うりなされ其お金にて御年貢ねんぐをさめ方をなさるべしといと忠實まめやかに申けるにぞ父母ふたおや其切そのせつなる心に感じ眼を屡叩しばたゝ然程迄さほどまで我が身を捨ても親をすくはんとは我が子ながらも見上たりかたじけなしとお文の脊中せなかさすりながら其こゝろざしはうれしけれど如何いかに年貢の金に差閊さしつかへたりとて其方達そのはうたち浮川竹うきかはたけしづめんとは思ひもよらずと十兵衞は妻お安の泣居なきゐるをはげまし餘り苦心くしんをするとよき工夫くふうの付ぬ物なりと自在鍵じざいかぎより鑵子やくわんを外し素湯さゆを呑やゝあつて十兵衞はひざ立直たてなほかくも我さへ居ずばつまや子に然まで難儀はかゝるまじ思ひ定めし事成ば何樣あつても己は居られぬ留守るす其方達そちたちまもつてくれといふ袖袂そでたもと取縋とりすがり此身を賣てとかき口説くどき親子の恩愛おんあいかう暫時しばしはても無りけり漸々やう〳〵にしてつまお安はおつなみだ押拭おしぬぐ夫程迄それほどまでに親を思ひ傾城遊女けいせいいうぢよと成とても今の難儀をすくはんとの其孝心が天につうじ神やほとけ冥助めいじよにて賣代うりしろなしたるあかつきには如何なる貴人きじん有福いうふくの人に愛され請出され却つて結構けつこうの身ともなり結句けつく我手にそだちしより末の幸福しあはせ見る樣になるまじき者にも非ずよく覺悟かくごをしたりしと空頼そらだのみに心をなぐさめ終に娘お文が孝心を立る事に兩親ふたおやとも得心なせばお文はよろこび一まづ安堵あんどはしたものゝ元より堅氣かたぎぺんの十兵衞なれば子をうるすべなど知らざる上にみやこは知らず在方ざいかたでは身の賣買うりかひ法度はつとにて誰にたのまん樣もなく當惑たうわくなして居たりしが十兵衞はたひざうちあに作藏は當時たうじ江戸麹町三丁目にて村井長庵といひ立派りつぱなる醫者いしやに成て居るとの由ゆゑ出府しゆつぷして兄の長庵に委細ゐさいはなたのまんものと委敷くはしく手紙てがみしたゝめて長庵方へおくりける其文面ぶんめんいは

以手紙てがみをもつて申上候貴兄きけい彌々いよ〳〵安全あんぜん醫業いげふ被成なされ目出度めでたくぞんじ奉つり候然れば此方このはう八年まへ近邊きんぺんよりの出火しゆつくわにて家財道具を燒失ひ其上旱損かんそん昨年は水難すゐなんにて段々だん〳〵年貢未進に相成候處當年は是非ぜひ皆納かいなふ致し候樣村役人衆より嚴敷きびしき沙汰さたに候得共種々しゆ〴〵打續ての災難さいなんゆゑ當惑致し居候處娘文事孝心により身を賣其金子にて年貢ねんぐ不足ふそく皆納かいなふいたし候樣申呉候間甚はだ以て不便ふびんの至りには候へ共ほかに致し方も無之これなくよんどころなくふみうり申度存じ候之に依て近日召連めしつれ出府致し候間いづれへ成共御世話被下度せわくだされたく此段御相談さうだん申上奉つり候なほ委細ゐさい拜顏はいがん之上申上べく早々さう〳〵以上

八月二日
三州藤川在岩井村  十兵衞
江戸麹町三丁目村井長庵樣

是は長庵近來ちかごろ再び無頼ぶらいの行ひになりし事を知ざればなりさて又長庵は追々おのれが心がらにて困窮こんきうに及び何哉なにかによき仕事しごとあれかしと思ひ居ける所故是を見るより先々まづ〳〵かねつるに取付たりとひそかに悦び直に返事へんじしたゝつかはしける其ぶんに曰く

さる二日書状しよじやう到來たうらいいたし委細ゐさい拜見はいけん致し候偖々さて〳〵其方にても段々不如意ふによいとのおもぶ蔭乍かげなが案事あんじ申候みぎに付御申こし娘儀むすめぎ出府しゆつぷ致されべく候吉原町にも病家も有これあり候間よろしき先を見立みたて奉公ほうこう差遣さしつかはし可申いづれ出府の上御相談に及ぶべく候委細は筆紙ひつしつくし難く早々さう〳〵以上

八月九日
村井長庵
三州藤川在岩井村  十兵衞殿

ありける返事へんじとゞきければ十兵衞夫婦はなげきの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへゆくうへは娘が難儀にも相成まじと心に悦びすぐむすめ文に其由を語りて支度したくをさせ同道どうだうして江戸表へ出んと其身も支度したくに及びける母はかね覺悟かくごとは言ながらしきりに泪にかきくれて娘の文を近くまね今更いまさら云迄もなけれどあしき病を請ぬ樣に心を付て奉公せよ一日も早くよきお客に請出され斯々云所へ片付かたづきしと云越いひこして悦ばせよ呉々くれ〴〵機嫌きげんよく奉公し傍輩達はうばいたち仲能なかようして苛酷いぢめられぬ樣にせよはしたなき事をして田舍者ゐなかものと笑はれなと心の有たけかき口説くどきまた夫十兵衞に打向ひ隨分ずゐぶん道中だうちうを用心して濕氣しつけに當り給はぬ樣娘の事は呉々もよきやうにはからひ給へと懇切ねんごろに言なぐさめ互ひに名殘なごりをしめどもかくてあるべきにあらざれば既にたもとわかちしが跡には女房といもととの二人夫とあねの後ろかげを我が門口かどぐちへ立出て伸上のびあがり〳〵見送みおくるを此方こなたも同じ思ひにて十兵衞お文の兩人もつまと妹を見返みかへり〳〵やゝかげさへもみえざればうしがみをや引れけん一あし行ば二足ももどる心地の氣をはげまし三河の岩井をあとになし江戸をさしてぞ急ぎゆくに人間の一生は敢果はかなき事草葉くさばおけつゆよりもなほもろしとかや如何に貧苦ひんくせめられても親子諸共もろともくるしまば又よき事も有べきに別れ〳〵にならや子の手柏てがしは引連ひきつれ誘引さそへばさそふ秋風にすゑ散行ちりゆく我が身ぞと知ぬ旅路たびぢあはれなる


第二回


 然程さるほどに村井長庵はかく金儲かねまうけのつるに有付たりと心に悦び十兵衞の出府しゆつぷを一日千しうの思ひにてまつほどに此方は十兵衞娘文をつれて岩井村を出立し道中だうちうにても心をつけ足をいためな草臥くたびれなと種々いろ〳〵なぐさめつゝ日を漸々やう〳〵江戸につき麹町三丁目なる長庵がたくに到りければ長庵は大に悦び偖々さて〳〵よく出府には及ばれたり久敷ひさしく便たよりもせざりし故田舍ゐなかの樣子も如何いかゞ有し事と思ひ出さぬ日とてはなく豫々容子ようすたづねたく思ひしかども何をいふにも人のいのちあづか渡世とせい寸暇すんかなければ中々田舍ゐなかへ尋ね行事などは思ひもよらず心にかゝる計りにて今迄疎遠そゑん打過うちすごしたり夫に付ても此間の手紙に細々こま〴〵と言越たるには追々おひ〳〵不時ふじの災難や水難旱損かんそんの打續きて思はぬ入費ものいりの有しゆゑ親のゆづりの身上も都合つがふしくなりし由じつに當時の世の中は田舍も江戸もつまがちしか呉々くれ〴〵返事へんじ言遣いひつかはしたる通り親は泣寄なきよりとさへ申せと惡敷樣あしきやうには計らはぬこといと懇切ねんごろに申ければ十兵衞親子は大いによろこび何分宜しくお頼み申すといへば長庵は打點うちうなづき今夜は我がうちも同じ事なれば安心して休息きうそくせよ併し草臥くたびれて居るならん洗足せんそくの湯をわかしてつかはすはずなれど夫よりは近所ゆゑ湯に入てるがよいお文も父と共にゆくべしと辯舌べんぜつ利口りこうを以て口車くちぐるまに乘せ金のつると思ふめひのお文は如何なる容貌しろものかとお文が仰向あふむくかほを見て其嬋妍あでやかさにほく〳〵悦び在郷ざいがうそだちの娘なれば漸々やう〳〵宿場しゆくば飯盛めしもりか吉原ならば小格子こがうしわづか二十か三十の金を得るのがせきの山と陰踏かげぶみをして置たるが少しばかり手をいれれば日向ひなたくさにほひはぬけやう此奴こいつうんが向て來たと草鞋わらぢとかせてかどへ立出あれに見ゆるが洗湯せんたうなれば親子で緩々ゆる〳〵這入はひつて來なと心切しんせつめかして長庵が深くも計る待遇もてなしぶりだまさるゝとは夢にも知ず斯迄かくまでに長庵が心のやさしく成しのはうれしき事と十兵衞は娘お文にも安心させいそ〳〵として出行いでゆきしがしばらくしてよりもどめづらしくは候はねど遠路ゑんろを持て來し國土産くにみやげと心もあつ紙袋かみぶくろ蕎麥粉そばこ饂飩粉うどんこ取揃とりそろへ長庵の前へ差出せば然もうれしげに禮をのべの中にあつらおきさけさかな居間ゐまならべサア寛々ゆる〳〵と久しぶりにて何は無とも一こんくまんと弟十兵衞を饗應もてなしけり十兵衞は長庵に向ひ御馳走中ごちそうちう申上るも如何なれどかねて手紙にて申上たる次第につき娘文を同道せり何卒御忙敷おいそがしくも御都合なされ娘をよき所へ早々さう〳〵御世話下されとなみだふきつゝはなしかくれば長庵はわざと目をぬぐひ涙に聲をくもらせてひんの病は是非もなし世の成行なりゆき斷念あきらめよ我とてはたくはへ金は有ざれども融通ゆうづうさへ成事なら用立ようだつ遣度やりたしと手紙を見たる其時より懇意こんいの者へ頼んで置たが何分にも急場の事故かし呉人くれて一寸ちよつとなく殊に此程は何や斯や不時ふじの物入續きがちにて夫にかねての心願にて人のいやがる貧家ひんかの病人療治れうぢ勿論もちろん施藥せやくをなし中にはかせぎ人がわづらひてくふや喰ずの極貧者ごくひんものには持合せの金を何程いくらか與へ慈善じぜんの道を好むのも掛替かけがへの無き兩親に不幸を成し罪滅つみほろぼしと自分の身には榮耀ええうは止め人にほどこす事而已のみす故受取金も多けれども夫故こまる我が身上しんしやう現在げんざいおとゝが外成ぬ年貢の金に差支へ手風てかぜいとうてそだてし娘を苦界へ沈める急場の難儀をたすける事も出來できぬとは兄といはるゝ甲斐もなくくやし涙がこぼるゝと手をこまぬけば弟の十兵衞は眞實しんじつぞと思へばいとゞ氣のどくさに兄樣あにさんまでに御心配下されますな御心切を忘れはせぬ然乍さりながら娘も覺悟の上なれば兎も角もいづれへ成とて好方よきかたへ奉公させて下されと只管ひたすらたのめば長庵は然ば是非なし明日あしたにも吉原の病家へ見舞みまひがてらゆく程によき口を尋ね見ん先今晩こんばんやすまれよと兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度をし麹町を立出吉原さしていそぎけり爰に吉原江戸町二丁目の丁字屋ちやうじや半藏と云る遊女屋いうぢよやは其頃での繁昌はんじやうの家にて貴賤きせん客人まろうどひききらされば此丁字屋方へ賣込うりこまんと傳手つてをもとめて懸合かけあひに及びけるに幸ひ此丁字屋にても追々子供こども年明ねんあけ近寄ちかよりければ何卒どうぞしてよき子供をかゝへんと思ふ折柄をりから故其娘を今日にも見たきとの事なれば長庵は急ぎ宅へ歸りおとゝ十兵衞にもお文にも此由を云きかすぐおのれが隣家の女房を頼み賣物うりものには花をかざれとやら何分宜敷御頼み申すと髮形かみかたちから化粧迄けしやうまで其頃の風俗につくり立損料そんれう着物ぎものを借請衣裳附いしやうつけまで長庵が拔目ぬけめなく差圖をなしお文をつれて丁字屋へ出かけしが先兩三日は目見めみえに差置さしおく樣にとの事なれば其まゝに差置て長庵は歸りける丁字屋にてはお文が容子ようすたれあつ田舍娘ゐなかむすめと見る者なく傍輩はうばい娼妓しやうぎはづるばかりなれば流石さすがに長庵が骨折ほねをりあらはれし所にて在所に在し其時とは親の十兵衞さへも見違みちがへる程なれば主人半藏方にても十分氣にいりお文へ何故に身をうるやと容子を尋ねけるに親十兵衞が云々しか〴〵にて年貢のお金に差支さしつかよんどころなく身をうる時宜しぎなれば何卒おかゝへ下されたく如何樣いかやうつらかなしひ事成とも御主人大事御客樣きやくさま大切たいせつに勤めますと云其言葉に田舍訛ゐなかなまり有けれど容貌きりやうのよさに主人あるじもはずみ少し高くは思へどもつひに年一ぱい廿七年のなつ四月までの證文しようもんにて五十兩にかはんとの挨拶に十兵衞は大いに悦び五十兩の金の有ならば年貢の未進は殘らずをさめ所々の買懸かひがかり其外の借錢しやくせんまで殘らず一時にかたつけ其上にてかせぎなば娘を請出す時節じせつも有なんはなくとも其内娘がよき客ありて身請をさるる事もや有んとお文にも言聞せすぐに證文を取極めはん人へ禮金三兩當人の身附みづき金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれさて十兵衞兄長庵に打向ひ段々だん〳〵の御世話せわにてお文こと思ひのほかよき所へ住込有難く存じますついては多分たぶんの御禮も致すはずなれども何を申すも此始末なれば是はまことに心ばかりの御挨拶御受納下じゆなふくだされと金子三兩を紙に包みてさし出しければ長庵は押戻おしもど否々いや〳〵それは思ひも寄ぬ事なりかねて我が言たる通り工面くめんさへ出來る事なれば何であの孝行かうかうな娘の身を浮川竹うきかはたけに沈むる周旋せわを我しやう他人がましき事をせないさゝか有ても調法なは金なり心がすまずば其金にていもとお富へ何なりと江戸土産みやげなどかうて行れよ然すれば我が請たも同樣かならず〳〵心配しんぱいしやるなと手にだも取ず押戻おしもど肉身にくしんわけたる舍弟おとゝ十兵衞をあくまであざむく長庵が佞辯ねいべん奸智かんち極惡ごくあくたとふるに物なしと後にぞ思ひ知られけり十兵衞はあに長庵がたくみのありとは少しも知らず然樣さやうならば頂戴いたゞきますとおのれが出たる三兩を再び胴卷どうまきの金と一しよ仕舞込しまひこむを長庵は横目よこめでジロリとなが空嘯そらうそふけば十兵衞は何れ歸村きそんを致せし上御禮の仕樣もありぬべしとちかしき中にも禮義れいぎを知る弟が心ぞしほらしき


第三回


 さても弟十兵衞は長庵に向ひさぞかし在所ざいしよにても妻や娘の私しが歸るを待兼て居る成らん因て明あさは是非とも出立致し度と言けるに長庵否々いや〳〵此通り雨もふつて居ることゆえ明日あしたは一日見合せて明後日あさつて出立しゆつたつなすべしととゞめけれ共十兵衞は是を聞ず否々いや〳〵兄樣あにさまふればとて一日二日のたびではなし天氣てんきよきを見て立ても道にて大雨おほあめに逢まじき者にも非ずと在所ざいしよを案じる一すじに十兵衞が一日も早くつまや子に安心させんと思ひつめしきりに翌朝あしたは出立せんとて何といひても止まらねば然らばあすは出立して在所の者に少しも早く安心させるもかるべし然樣さう決心けつしんをした上はさぞかし氣勞きづかれもあらう程に今宵こよひは早くやすむがよいおれも今夜は早寢はやねにせんと云ば十兵衞は然樣さやうならお先へふせります御免成ごめんなされと挨拶し臥戸ふしどへこそは入にけれ跡に長庵工夫くふうこらし彼の五十兩の金をとらんには刺殺さしころして物にせんか縊殺しめころしてくれんかと立たり居たりして見ても流石さすがに自分の居宅きよたくにて荒仕事あらしごとはたらかば後の始末しまつ面倒めんだうならんいつ翌日あしたくらきにたゝせんさうじや〳〵とうち點頭うなづきひとゑみつゝ取出すかさ日外いつぞや同町に住居すまひする藤崎ふぢさきだう十郎が忘れて行しを幸ひなりとかくおきふけるを待内に愈々いよ〳〵雨は小止こやみなくはや耳先へひゞくのは市ヶ谷八まん丑時やつかね時刻じこくはよしと長庵はむつくと起て弟の十兵衞を搖起ゆりおこし是十兵衞最早もはや今のは寅刻なゝつかねことに此鐘は何時も少しおそき故夜の明るに間も有まい眼をさまして支度せよ鐵瓶てつびんの湯もぬるんで有と聞て十兵衞は起上りかほあらはず支度をなし幸ひ雨も小降こぶりになりぬ翌日は天氣になりなんとこゝろせかるゝ十兵衞は死出しで旅路たびぢと知ぬ身の兄長庵に禮をのべ用意ようい雨具あまぐ甲掛かふかけ脚絆きやはん旅拵たびごしらへもそこ〳〵に暇乞いとまごひしてかどへ立出菅笠すげがささへも阿彌陀あみだかぶるはあとよりおはるゝ無常むじやう吹降ふきぶり桐油とうゆすそへ提灯のけすまじとなれもせぬ江戸の夜道は野山より結句けつくさびしく思はれて進まぬ足をふみしめ〳〵黒白あやめわかしんやみ辿たどりながらも思ふ樣まづしき中にも手風てかぜも當ず是迄そだてし娘お文を浮川竹に身をしづつらつとめをさせるのは親の本意と思はねど身に替難かへがた年貢ねんぐ金子かねゆゑ子にすくはるゝのも因果いんぐわなり娘のつとめは如何ならんさぞ故郷こきやうの事を思ひ出うきつもりてもしや又わづらひもせば何とせん思へばまづしくうまれ來て何にも知ぬ我が子に迄あかぬ別れをさするかやとをとこなみだ足元あしもと踉々しどろ蹌々もどろに定めかね子故に迷ふやみの夜に麹町をば後になし歸ると聞しとらもんも歸らぬ旅にゆくそらの西の久保より赤羽あかばねの川は三としらかべ有馬ありま長家も打過て六堂ならねどふだつじ脇目わきめふらず急ぎしか此程高輪たかなわよりの出火にて愛宕下通りあたらし橋邊まで一圓に燒原やけはらとなり四邊あたり曠々くわう〳〵として物凄ものすごく雨は次第に降募ふりつのり目先も知ぬしんやみ漸々やう〳〵にして歩行あゆみける折しもひゞかねあけ六ツならんとこゝろうれしくかぞへて見ればはなくしてしば切通きりどほしの七ツなればさては兄の長庵殿が我が出立を急ぎしゆゑ少しも早くと思ふねんより八ツを七ツと聞違きゝちがへて我をおこくれしならんまだか〳〵に夜は明まじさて蝋燭らふそくなくならばこまつたものと立止り灯影ほかげに中を差覗さしのぞきしと〳〵とまた歩行出あゆみだす折柄をりからばた〳〵駈來かけく足音あしおとに夫と見る間も有ばこそ聲をばかけ拔打ぬきうち振向ふりむくかさ眞向まつかうよりほゝはづれを切下きりさげられあつと玉ぎる一聲と共に落せし提灯のぱつ燃立もえたつあかりに見れば兄なる長庵が坊主天窓ばうずあたま頬冠ほゝかぶ浴衣ゆかたしりひつからげ顏をそむけて其場にたゝずみ持たる脇差わきざし取直し再度ふたゝびかうよと飛蒐とびかゝるをヱヽと驚く十兵衞がヤアお前は兄の長庵殿何故あつて此のわし切殺きりころすとはサヽては娘を賣つた此の金が初手しよてからほしさに深切しんせつおもてかざつて我を欺むき八ツを七ツの鐘なりと進めて出立させて置殺して取とはなにごとぞうらめしや長庵どのとひよろ〳〵立を蹴轉けころばし愚圖々々ぐづ〳〵云はずとだまつてくたばれこの世のいとまとらせてやらんと又切付れば七てん八倒ばつたうくうつかんで十兵衞が其の儘息はたえにけり長庵刀の血をぬぐひてさやに納め懷中くわいちう胴卷どうまきを取だし四十二兩はふくかみおとゝの身には死神しにがみおのれがどうにしつかりくゝり雨もやまぬにからかさをと一思案しあんして其場へ捨置すておき是が後日の狂言きやうげんかうして置ば大丈夫と彼藤崎道十郎がわすれて行し傘を死骸しがいわき投捨なげすてあと白浪しらなみと我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山をうしろにし海を前にして遠く房總ばうそうの山々をのぞみ南は羽田はねだみさき海上かいじやう突出つきいだし北は芝浦しばうらより淺草の堂塔迄だうたふまではるかに見渡し凡そ妓樓あそびやあるにして此絶景ぜつけいしめしは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客いうきやくしたがつて多く彼の吉原にもをさ〳〵おとらず殊更ことさら此地は海にのぞみてあかつきの他所ほかよりも早けれど客人まろうど後朝きぬ〴〵をかこち昨夜ゆうべ四日市よつかいちへんなる三人の若い者此處こゝ妓樓あそびやそれ遊興あがりて夜をふか宿いねるに間もなく夜はしらみたりと若い者に起され今朝けさしもぶつ〳〵とつぶやきながら妓樓あそびやを立出みちすがら昨夜ゆうべの相方は斯々かく〳〵なりなどと雜談ざふだんを云つゝ一本のかさに三人が小雨こさめしのぎながら品川を後にして高輪たかなわよりふだつじの方へ差掛さしかゝりける處に夜の引明なれば未だ往來わうらい人影ひとかげもなく向ふを見るに三ツまたつじ此方こなたに人のて居る樣子ゆゑ何心なく通りけるには其も如何に一人の旅客たびびとあけそめ切倒きりたふされて居たりしかば三人共に大いに驚きながらも一人は死人の向ふを通りぬけあとをも見ずに迯行にげゆきしが殘りし二人は顏見合せこはい者見たしのたとへの如く何樣どんな人やらよくんと思へば何分おそろしく小一町手前てまへたゝずみしがつれの男は聲をかけいつその事田町とほりを歸らんと言ば一人の男申樣何にもせよ此趣このよし自身番じしんばんへ知らせてやら早々さう〳〵人や出來らん其時一しよに見ながら通らん是は如何にといひければ如何にも夫は面白おもしろしと二人はすぐ番屋ばんやに至り大聲揚て告けるは御町内に人殺あり早くいつて見らるべしとの知らせに自身番の宿直とまりの人は大いに驚き定番ぢやうばんの者を四方へ走らせてかくと告るに町内の行事ぎやうじ其外家主中いへぬしちう名主なぬし書役しよやくに至る迄たちまちに寄集よりつどひしかば知らせし兩人も一しよに行て死骸を怕々こは〴〵ながら後よりのぞき見て各々方おの〳〵がた御苦勞成ごくらうなりと云つゝ兩人は通り過んとする處を町役人等押止おしとゞめて御二人とも御知らせ下されたる上からは御かゝり合はのがれぬなり先々御檢使ごけんしの御出まで御待候へとありければ兩人は大きに打驚き何も私し共がなしたる事には候はず全く通りがかりて見付しゆゑ御知せ申せし迄なり其者が掛り合とは甚だ迷惑めいわくと云をもさらに聞き入ず否々和主達おまへたちが殺したりと云には非ず御知らせ有しは少しの災難さいなん手續てつゞきなればやむを得ず夫ともたつて止まるをいなとならばなはを打ても差止さしとめおかねば町法が立ざるなりとはげしき言葉に彌々いよ〳〵恐れ昨夜ゆうべは昨夜女郎にふられ今朝は今朝とて此災難斯までうんわるくなる者か夫に付てもきち野郎やらうは昨夜も一人持囃もてはやされ今朝も先へ拔て歸り仕合者しあはせものよとつぶやき〳〵自身番屋へ上りこみ檢使けんし出張でばるまつうちも若や如何なるお調しらべに成もやせんかと兩人共やすき心は無りけり


第四回


 去程さるほどふだつじの自身番より月番の町奉行中山出雲守殿へ右の次第をうつたへに及びければ檢使の役人兩人非番ひばんの町奉行より一人出張しゆつちやうに相成立合の上死骸をとくと改められし處歳の頃四十三四百しやうていの男にて身の内にきず三ヶ處頭上づじやうよりほゝへ掛て切付しきず一ヶ所よりはら突通つきとほせし疵二ヶ所其わきからかさ一ぽんすてこれ有其からかさ澤瀉おもだかに岩と云字の印し付是あり懷中には鼻紙入はながみいれ藥包くすりつゝみ一ツほかに手紙一通あり其上書うはがきは「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの上書うはがきにて中の文言もんごんは「去二日出の書状到着たうちやく委細拜見致し候扨々其方にても屡々不如意ふによいとの趣き蔭乍かげなが案事あんじ申候右に付御申こしの娘出府しゆつぷ致されべく候吉原町にも病家びやうかも有之候間宜しき處を見立奉公に差遣さしつかはし可申候いづれ出府の上相談可申候委細は筆紙につくし難し早々さう〳〵以上

 八月九日 村井長庵 藤川在岩井村十兵衞殿」みぎ文體ぶんてい也ければたゞちに麹町三丁目町醫師村井長庵呼出よびだしの差紙さしがみを札の辻の町役人へ渡されければ非番ひばんの家主即時そくじに麹町の名主の玄關へ持參なし順序じゆんじよを經て長庵の家主の手に渡すに何事やらんと驚きつゝ家主は長庵方へ到りけるかくあらんとかねて覺悟の長庵は鉢卷はちまきして藥土瓶くすりどびんなぞ取散とりちら大夜具おほやぐかぶりて打臥うちふしたり家主は枕元にすわりて長庵殿しばふだの辻の自身番より急の御差紙さしがみを以て村井長庵を召連めしつれ只今すぐまかいでよとの事なり見請みうければ鉢卷はちまきなどして如何いかゞなされしやすぐに出行るゝやと尋ねけるに長庵はおもに枕を持上偖々昨夜より大熱だいねつにて頭痛甚しく夜通し苦しみたりまことに〳〵病氣の時のかなしさは獨身者は藥一服いつぷくせんじて呉る人もなく實以てこまり候而て其札の辻よりの御差紙とは何等なんらの御用筋にやと空嘯そらうそぶいて申けるにぞ家主は氣の毒さうに扨々さて〳〵病中と云とんだ難儀なんぎの事なり又聞のはなしなればしかとは分らねども何か札の辻にて昨夜人殺しが有りしとか云ふこと其のられたる者の懷中くわいちう貴殿きでんの手紙が有りしよし檢使けんしの場へも呼出しに成るとの事といへば長庵はも驚きし樣子にてとこの上に起き上り其殺されし人は如何なる出立いでたちの人に候やときくに家主はさればなり四十三四の年頃にて百姓體の男の由とはなせば長庵は顏色がんしよくへ扨は弟十兵衞が金子をもつて早立せし故萬一もしもの事でも有りしかと立たり居たりする體は實心じつしんとこそみえにけれやゝあつて申けるは病中にて難儀には候へども捨置すておかれねばすぐおしてもまかり出んと支度したく早々そこ〳〵にして立出れば家主も夫は〳〵氣の毒千萬と心配しながら諸共に芝札の辻をさして急ぎゆくやがて檢使の前へ呼出よびいだされ長庵に一通り尋ねありて彼の十兵衞の死骸を見せられけるに長庵は一みるより死骸に取付扨は十兵衞にてありけるかかゝる事の有るべきとむしが知らせし物にやしきりに夜明よあけて出立致させたく我が止めしをも聞入きゝいれず出立なしたる夫故それゆゑに斯る憂目うきめを見る事ぞ病氣でさへなき物ならば此邊迄も見送みおくやらんに無念むねんの事を仕てけりと前後不覺ぜんごふかくに泣沈み正體しやうたいさらあらざれば其有樣を見る人は如何にも其身が仕なしたる事とは更に知らざりけり此時檢使の役人は彌々いよ〳〵其方が弟に相違無さうゐなき如何いかなるわけ有て大雨たいうの折から深更しんかう發足はつそく致せしやと尋ね有りければ長庵袖に涙をぬぐひ私し弟十兵衞事は三州藤川在岩井村の百姓にて豫々かね〴〵正直者しやうぢきものに候へ共不事の物いり打續き年貢の未進みしん多分たぶんに出來上納方に差支さしつかへ如何とも詮術せんすべなき儘文と申あね娘を吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身賣致し其身代金みのしろきんを所持致し今朝こんてう未明みめいに私し方を出立致し候を存知居ぞんぢをり候者の仕業しわざかと恐れながら存じられ候と身をふるはして申立てけるに其時檢使は彼場所に傘捨有りし傘をいだされ其方此傘に覺え有りやと見せらるれば長庵涙をはらひて倩々つく〴〵打詠うちながめ暫くあつて小膝をたゝき是こそ私し同町に住居すまひ致居候浪人藤崎道十郎と申者の所持しよぢかさに有之此からかさにて思ひ當りし事あり同人義昨日も私し方へ參りをり候是は當今たうこん同人事病氣にて拙者せつしやより藥をつかはし置候事故昨日もれいの藥取に參りしなり其節弟十兵衞朝未明あさまだきより出立致し候とて右の金子を取出し改めて懷中くわいちうへ入候事どもうらやましに見て歸り候間もしや彼の道十郎が困窮こんきうせまりて如何の了簡れうけんをも出しは致す間敷まじく候やとまことしやかに申立ければ役人ぢうも長庵が申たてにもと思はれ其道十郎を取にがさぬ樣手當てあてせよとて手先ならびに町役人へ内達ないたつにぞ及ばれける


第五回


 扨も檢使にはかゝり合の者一同召連めしつれて北の番所へ(幕府ばくふの頃は町奉行兩人有てみなみきたと二ヶ所に役宅やくたくあり)かへりしかば中山出雲守殿へ檢使の次第を言上いひあげ且夫々の口書を差出さしいだしけるに出雲守殿も長庵が佞辯ねいべんとして彌々いよ〳〵道十郎の仕業なりと疑がひ掛りすぐに麹町へ召捕方めしとりかた差向さしむけられ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに相成ければ長庵は仕濟しすましたりと内心に悦びすぐに十兵衞の死骸を引取ひきとりける爰に彼の浪人藤崎道十郎といへるはゆゑありて主家を退身たいしん流浪るらうの身と成りしが二君に仕へるは武士さむらひ廉恥はぢいる所成れ共座してくらへば山もむなし何れへか仕官しくわんつかんと思ひしに不幸にも永のわづらひに夫も成らず困苦こんくに困苦をかさねしも女房お光が忠實敷まめ〳〵しく賃裁縫ちんしごとやら洗濯等せんたくなどなしほそくも朝夕あさゆふけむりたてたゞをつとの病氣全快ぜんくわいさしめ給へと神佛へ祈念きねんかけまづしき中にも幼少えうせうなる道之助の養育やういくたのしみ居たりしに或日あるひ表裏おもてうら門口かどぐちより上意々々じやうい〳〵とのこゑきこゆるにぞ何事やらんと道十郎はまくらあげをりこそあれ召捕めしとりの役人どや〳〵と押込おしこみ御用なり尋常じんじやうなはに掛れと勢猛いきまきのゝしるにぞ道十郎は驚きてすわなほし拙者に於ては御召捕に相成べきいはれ無し其は人違ひとちがひにては候はずやといはせも果ず役人共言譯いひわけあら白洲しらすにて申べしと病痿やみほいけたる道十郎を高手小手にいましめて妻子さいしなくをもかまはゞこそ四方をきびし取圍とりかこみ北の番所へ引出しが頓て中山出雲守殿の御白洲へなさけなくも引出しけりされば出雲守殿一通り調しらべにかけられしに道十郎は思ひもよらぬ事成れば大いに驚怖おどろき何者なにもの訴人そにんせしやしらざれども右樣みぎやうけつして覺え是無これなく候と申に出雲守然らば此傘このかさは其方覺え無きやとの尋ねなれば道十郎是は私しの所持のかさに御座候と云ふに出雲守殿され如何いかゞしてか此傘が右人殺ひとごろしの場所にすてありしなり其方惡事をはたらき其場所に取落し置たるに相違さうゐあるまじ尋常に白状せよことに長庵が申立に其方事前日長庵方へ藥取くすりとりに參り合せ十兵衞が娘を吉原町へうり其金を持て歸りし時の容子ようすみとめ其方惡意あくいはつせしもの成らんと云へり然もあるべし如何樣に申ちんずる共すでに證據と成るべきからかさあれば申わけ立難たちがたしと申さるゝに道十郎は如何にも迷惑めいわくは驚き入たる仰せかな長庵事何と申上候か存申さず候得ども私し事は先月せんげつ中より永々なが〳〵の病氣にて臥居ふしをり中々長庵方などへ參り候事是無く勿論先月中一兩度も近所の事故藥取に參り候が其時の事にて有りしがあめはれ候故不思つひかさを長庵の玄關さき失念しつねん致して歸り候により其後兩三度も取りにつかはし候得ども之無きおもむきにて返してくれざる故其儘に致し置候ひしが其節の傘に相違さうゐ無御座候然るに長庵右樣みぎやうの儀を申立る事何分にも其意を得ざるまゝ何卒なにとぞ長庵と對決たいけつの御調べひとへに願ひ奉つり候と申あげければ然らば此傘は其方長庵方にわすおきしと申か長庵は其方が十兵衞の金子を持て歸る事をぞんをり旁々かた〴〵あやしき段申立る何れ長庵と突合つきあはなほ吟味ぎんみとくべし併しながら其方所持のからかさ其場所に捨在すてありし上は其方こそ疑ひなきに非ず依て吟味中入牢じゆらう申付るなりと終に道十郎は入牢の身とこそは成にけれ翌日村井長庵呼出しにて段々だん〳〵取調とりしらべ有りしに長庵は前に申上し通り傘を私しの宅へわすれ置き候などとは道十郎が僞言いつはり決して右樣の事是なく候右は長庵につみ塗付ぬりつくべしとのたくみにて申上候事やと存じ奉つり候とわざ驚怖おどろきたる容子ようすに申立双方さうはう眞僞しんぎ判然わからざるより道十郎と突合つきあはせ吟味に相成し處佞奸邪智ねいかんじやちの長庵が辯舌べんぜつ云昏いひくるめられ道十郎も種々しゆ〴〵言開いひひらくと雖も申口相分らず長庵は只町役人へ預けにてさがり道十郎は病中の處猶又歸牢きらうに相成心氣しんきつかれ心程言葉のまはらざるより自然しぜん對決たいけつも屆かず吟味詰にも相成ずして居たりしうち寶永七年九月廿七日あはれむべし道十郎牢内らうないにて死去に及びけるは不運ふうんと云ふも餘りあり妻お光は此由を聞て狂氣きやうきの如くかなしみしかども又詮方せんかたも非ざれば無念ながらも甲斐かひなき日をぞ送りける其長庵は心の内の悦び大方ならずなほ種々さま〴〵と辯舌を以て申立て終に死人に口無くちなしたとへの通り彼札の辻の人殺しは道十郎に事きはまり殘骸は取捨に相成家財かざいは妻子に下し置れ店請たなうけ人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は泣々なく〳〵引取れ長庵は何の御とがめもなく落着らくちやくせしかばこゝに於て三州藤川在岩井村へは此由を長庵より知らせやりしに十兵衞の妻おやす妹娘いもとむすめお富は地摺ちすり足摺あしずりしてなげけども詮方せんかたなく終に兩人ながら出府して長庵方へ引取れけり其内に長庵は又一ツの惡計あくけいを考へ出し妹娘のお富も幸ひ十二さうそろひし容貌きりやうなればだまして是をも金にせんと己れが惡事仲間の早乘はやのりの三次と云ふ者を語合かたらひ又近所の後家ごけにて惡婆あくばのお定と云ふ女をも手なづけ置きやがて母の御安にはお富をよき屋敷やしき方へ御奉公に差上るなりといひすゝ彼惡婆かのあくばのお定を三次が出入の御屋敷の老女と爲し御取替とりかへ金などと僞りてわづかの金子をお安に與へ妹娘のお富を連出つれだしけるがお富には姉と共に奉公せよと種々いろ〳〵いひなぐさだますかして終に吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身のしろ金三十兩にて賣代うりしろなし右の金子の内を三次へ五兩お定へ一兩つかはし殘りの金廿四兩を悉皆こと〴〵く己れが榮耀ええうに遣ひけりお安は旨々うま〳〵と長庵に欺かされ妹のお富迄も浮川竹うきかはたけながれの身と成りし事をつゆしらざれども其後更に二人の娘より一度の便たよりも無ければ案事あんじわづらひ或日長庵に向ひて申樣何卒姉娘のお文にも一度あはして下されと頼みければ流石さすがの長庵も當惑たうわく爲し挨拶あいさつこうはて口から出放題ではうだいの事をいひて慰めける内又々妹お富が參りたる御やしきは何と申ところにやお富にも何卒あはして下されと朝夕となくしきりにお安にせめらるれば長庵は愈々いよ〳〵こうはて妹お富が行きし所はかた御邸おやしきなれさう輕々敷かる〴〵しく逢難あひがたし其内都合を見てあはせんと一日のがれの挨拶もせんつまつて長庵がさじ加減かげんにさへ廻り兼姉のお文に逢せなば必ずお富が居る事故出て來るは必定ひつぢやう外の内へ賣ればよかりしに近來ちかごろになき失策しぞこなひを致したりと後悔こうくわいすれども詮方なく今はお安もそばはなれず二人の娘に逢してくれかみもおどろに振亂ふりみだし狂氣の如き形容ありさまに長庵ほとんどあぐみはて捨置すておくときは此女から古疵ふるきずおこらんも知れぬなりどくくはば皿とやら可愛さうだがお安めも殺して仕舞しまほかは無いが如何なる手段で殺してくれん内で殺さば始末しまつが惡し何でも娘兩人に逢してやる誘引出おびきだし人里遠き所にて拂放ぶつぱなすより思案は無し夫にしても自分でするはちつと小面倒こめんだうの仕事なり彼奴あいつを頼んで片付んとひとり思案の其折から入來る兩人は別人べつじんならず日頃入魂じゆこんの後家のお定に彼の早乘はやのりの三次成れば長庵忽地たちまちゑみふくみ何にもないが一ツ飮ふと戸棚とだなより取出す世帶せたいの貧乏徳利干上ひあがる財布のしま干物さしおさへつ三人が遠慮ゑんりよもなしに呑掛のみかけたりお安は娘に逢度さを引しぼる程苦勞くらう彌増いやまし今迄兄の長庵へ娘二人にあはしてとせまりて居たる折柄をりからなれば此酒盛に立交たちまじりて居るも物うく思ふ物から其場を外して二階に上れば折こそよしと長庵は二人が耳に口を寄せ何か祕々ひそ〳〵さゝやきければ二人はハツと驚きしが三次はしばし小首をかたむ茶碗ちやわんの酒をぐつと呑干のみほし先生皆迄のたまふな我々が身にかゝる事委細承知と早乘が答へに長庵力を得て惡婆のお定とかなへなり其巧そのたくみにぞ及びけり


第六回


 三人よれ文珠もんじゆさへ授けぬ奸智かんち智慧袋ちゑぶくろはたいたそこやぶれかぶれ爲術せんすべつき荒仕事あらしごと娘にあはすと悦ばせて誘引おびき出すは斯々と忽ちきまる惡計にさしさゝれつ飮みながらとは云ふものゝまくは餘り感心かんしんせぬ事成れば姉御あねごと己とくじにせんと紙縷こよりひねつて差出せばお定は引て莞爾につこりわら矢張やつぱり兄貴あにきが當り鬮と云はれて三次は天窓あたまかきさらば三次が引請ひきうけんと其夜は戻りて二三日すぎ眞面目まじめに成て尋ね來れば長庵はお安を打招うちまねきお富を奉公に世話を下されしは此お人なればお頼み申てお富にあうて來るがよいと聞てお安は今が今迄かくあんじ暮して居た事ゆゑ忽ちゑみふくみつゝ三次のそばへさし寄て今より何卒御一所におつれなされて下されと云へば三次は默禮もくれい然程迄さほどまでにも逢度あひたくば今夜すぐにも同道せんと聞てお安は飛立とびたつおもひそれは〳〵有難し先樣でさへ夜分やぶんにても能事よいことなれば私しは一刻ちつとはや逢度あひたいと悦ぶ風情ふぜいに長庵は仕濟したりと心の目算もくさんやがて三次に打向ひ御苦勞くらうながら世話せわついで今晩こんばんあはせて下されと云へば三次は苦笑にがわらひ如何にも承知と挨拶あいさつするうち殺さるゝとはゆめにも知らずお安は急ぎおび引締ひきしめサアとうながことばと共に三次はわざと親切らしくお安を連て立ち出しは既に時刻じこくを計りし事故黄昏たそがれ近き折なれば僅かの内に日は暮切くれきり宵闇よひやみなれば辻番にて三次は用意の提灯ちやうちんあかりをつけて先へ立コレお安殿何も案じる事はないお富さんも御屋敷へ行てから度々たび〳〵母樣はゝさまへお案事あんじなさらぬ樣宜しく云て下されとお言傳ことづても有りました特には先の御屋敷でも御意にかなつて益々ます〳〵全盛ぜんせいと云はんとせしが口をおさへ少し辛抱しんばうして居らるゝと屹度きつと出世しゆつせも出來まする其御邸と申のは至つて風儀ふうぎよいとの事傍輩衆はうばいしうも大勢有て御奇麗きれいずきの方々ゆゑ毎日朝から化粧つくろひが御奉公安心なる物なりと口から出次第でしだい喋舌立しやべりたてるを誠と思ふ田舍堅氣ゐなかかたぎお安はたゞ莞爾々々にこ〳〵と打悦びお前樣には色々と御世話に相成娘もさぞや悦んでがな居ませう又今晩は夜道よみちをもおいとひ無くて態々わざ〳〵と娘のつとめ先までも御連れ下さる御心切御れいの申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふをきゝ三次はかぶりをりながら何の御禮に及びませうぞそれ其處そこ水溜みづたまり此處には石がころげ有りと飽迄あくまでお安に安心させ何處どこ連行つれゆきばらさんかと心の内に目算しつゝ麹町をもとくすぎて初夜のかねをもかぞへつゝたくみも深き御堀端ほりばたぞと猶豫ためらふ一番町たやすく人は殺せぬ物と田安たやす御門も何時いつか過ぎ心もくらうしふちを右にのぞみて星明ほしあかり九段坂をも下り來て飯田町なる堀留ほりどめより過るも早き小川町をがはまち水道橋すゐだうばしを渡りこえ水戸みと樣前を左りになし壹岐殿坂いきどのざかを打上り本郷通りを横に見てゆけども先の目的めあてなき目盲めくら長屋ながやをたどりすぎ人の心にとげぞ有る殼枳寺からたちでら切道きりどほし切るゝ身とは知らずともやがて命は仲町と三次は四邊あたり見廻すにしのばずと云ふ名は有りといけはたこそ窟竟くつきやうの所と思へどまだ夜もあさければ人の往來ゆききたえざる故山下通り打過て漸々やう〳〵思ひ金杉と心の坂本さかもとどほこし大恩寺だいおんじまへへ曲り込ば此處は名におふ中田圃なかたんぼ右も左りも畔道あぜみちにて人跡じんせきさへも途絶とだえたる向ふは曲輪くるわうらかい眼隱めかくし板の透間すきまよりほのかに見ゆる家毎やごとあかしお安は不審いぶかり三次に向ひ爰は何と申所にやまたあのにぎやかのは何所なりととはれて三次は振返ふりかへあれあれがお江戸の吉原さお文さんは那内あのうちに居られるのだしてお富さんの居るお屋敷もたんとははなれて居らぬ故二人に今夜はあはせてあげんといはれてお安は草臥くたびれとみわすれて莞爾々々にこ〳〵と今殺さるゝ其人を力と頼みて夜道をも子故のやみにたどりつゝ三次が後に引添ひきそひ歸らぬ旅路へ赴むくと虫が知らすか畔傳あぜづたひつたはる因果の耳元みゝもと近く淺草寺の鐘の音も無常むじやうを告る後夜ごやの聲かねて覺悟の早乘三次長脇差ながわきざし小脇こわきかくしぶら提燈をお安に渡し是から道もひろければ先へ立てと入替り最お屋敷もつひ其處そこだと二足三足すごす折柄聞ゆる曲輪くるわ絲竹いとたけ彼の芳兵衞の長吉殺し野中のなかの井戸にあらねども此處は名に反圃中たんぼなか三次はすそを引からげ堪忍かんにんしろとうしろからあびせ掛たるこほりやいば肩先かたさきふかく切込れアツとたまきる聲の下ヤア情けなや三次どの何でわらはを殺すぞや妾は何のとが有て娘にあはすと連出し此樣こんさびしい所へ來てだまし殺しは何故ぞアヽうらめしや三次殿四邊あたりに人はなき事か何卒どうぞたすけて下されときられしかたを兩手でおさにげんとするを引捕ひつとらへ三次は其邊そこら見廻みまはしつゝおれは元よりうらみもなけりや殺す心はなけれ共頼まれたのがたがひの不運かうなる上は觀念くわんねんろと又も一太刀切倒きりたふされ立んとしてもたゝれずばツたり其處へ打倒れ流るゝ血汐ちしほを押へしまゝ七轉八倒のた打廻るに流石の三次もこゝろよわりヱヽ氣の毒な不便だが殺さにや成らぬ事が有る是と云ふのもお前の因果長庵と云ふ惡者を兄に持たが不仕合ふしあはせ必ずわしを恨まれな無慈悲むじひなことと思へども頼まれてする荒手業あらしごと呉々くれ〴〵わしが爲るではなし長庵殿のはからひなりと云にお安はこゑふるはし扨は兄さん長庵殿がお前を頼んで殺すのか聞えぬぞへ長庵殿私を殺すわけあらば娘にあはした上なれば十兵衞殿への土産みやげも有るにお前もお前頼まるゝ事にも差別しなあるものを罪もうらみもなきわしを殺す心の其方そなさんもなさないぞや恨めしやと勃然むつくと立てば三次は驚きヤア〳〵姉御あねご此私このわしを決して恨んでたもるまい此場にのぞんで左右どうかう言譯いひわけするも大人氣おとなげなし永き苦しみさせるのも猶々不便が彌増いやませばと再度ふたゝび大刀だんびら振上ふりあげていざ〳〵覺悟と切付るやいばの下に鰭伏ひれふして兩手を合せ幾度いくたびか助てたべと歎くにぞ三次もこゝろおくれてかおににさへ涙とやら不便の者やと思ひしゆゑ彼の長庵が惡事の段々だん〳〵苦痛くつうなしゐるお安に聞せ夫故お前を殺す時機じき因果いんぐわづくだが斷念あきらめて成佛じやうぶつしやれお安殿と又切付れば手を合せどうでも私を殺すのか二人の娘にあふまではしにともないぞや〳〵と刄にすがるをひく機會はずみに兩手のゆび破羅々々ばら〳〵と落て流るゝ血雫ちしづくあぜの千草の韓紅からくれなゐ折から見ゆる人影に刄を逆手さかてに取直し胸のあたりへ押當てつかとほれと刺貫さしつらぬき止めの一刀引拔ば爰に命は消果きえはてに世に不運の者も有者哉夫十兵衞は兄長庵の爲に命を落し娘兩人は苦界へしづみ夫のみ成らで其身まで此世のえにし淺草なる此中田圃なかたんぼの露と共にきえて行身のあはれさはたとふるものぞなかりける


第七回


 斯て早乘三次はお安の死骸を田圃のみぞへ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵のかどをほと〳〵たゝけば待まうけたる長庵は忽ち立て戸を引明上首尾成じやうしゆびなりと聞て悦び酒の用意もして有りと廣蓋代ひろぶたがはりの夜食膳やしよくぜんへ何やら肴を并べたて大きに骨が折れたで有らう最早もはや是にてお互ひに心に掛る雲もなしのみたはむるゝ有樣は大膽不敵の振舞ふるまひなりひと盛成さかんなるときは天に勝の道理にて暫時しばらくの内は長庵も安樂に世を送りけるが彼の十兵衞の娘お富お文はそろひも揃ひし容貌きりやうにて殊に姉のお文は小町こまち西施せいしはぢらうばかりの嬋妍あでやかもの加之そのうへ田舍ゐなかそだちには似氣にげもなく絲竹いとたけの道は更なり讀書よみかきつたなからずいとやさしき性質成れば傍輩はうばい女郎もいたはりて何から何まで深切しんせつを盡くして呉ける故わづか曲輪くるわの風も何時か見習みなら樓主あるじの悦び大方成らず依て丁字屋の板頭おしよく名前なまへ丁山ちやうざんとこそ名付たれそも突出つきだしの初めより通ひくるわ遊客いうかくは云ふも更なり仲の町の茶屋々々迄もほめものとせし位なれば日成らずして其の頃屈指ゆびをりの全盛と成りし事まつた孝行かうかうとくにして神佛も其赤心そのまごころ守護まもり給ふ物成らんと又妹お富も長庵にあざむかれて此丁字屋へうられ來しかば姉妹はらから手と手を取換とりかはし如何成れば姉妹二人斯る苦界に沈みしぞ父樣とゝさまには私の身の代金しろきんの爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町におはするとの事成れどなどかあひには來給はぬぞ手紙をあげても片便かただより若しや生別いきわかれにも成らんかと夫のみ心にかゝれりと袖に涙の玉霰たまあられ案事あんじくらすぞ道理だうりなり偖妹のお富は名を小夜衣さよぎぬと改めしか是も突出つきだし其日より評判もつともよかりければ日夜の客絶間たえまなく全盛ぜんせい一方ならざりけり茲に神田三河町にしち兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて有徳うとくなる者の養子に千太郎と云ふ若者あり實家じつかは富澤町の古着ふるぎ渡世甲州屋吉兵衞と云ふ者なりしか此千太郎或時仲間なかま參會崩さんくわいくづれよりおほ一座にて晝遊びに此丁字屋へ登樓あがりお富の小夜衣を偶娼あひかたにせしが惚合やみづきにて二度が三度と深くなり互ひに思ひ思はれてわりなき中とは成りにけり偖此伊勢屋五兵衞と云ふはためしなき吝嗇りんしよく者にて不斷ふだん口癖くちぐせにて我程仕合者しあはせものは有るまじ世の中に子を持程のそんはなし夫故我は妻をも持ず世繼よつぎには人がほねをつ養育やういくした子をもらへば持參金ぢさんきんも何程かつくなり縱令たとへ放蕩はうたうを仕たればとて無した金は持參金より引去ひきさり離縁りえんさへすれば跡腹あとばらやまずに濟ぞかし我も追々おひ〳〵取年にて近頃大きに弱りし故養子を一人もらたくのぞみと云ふは他ならず何事も拔目ぬけめなく實家の立派なる持參金の澤山たくさんある養子なりなどと云ひ又奉公人が風邪かぜでも引てると人と入物いれものは有次第なり米がいらなくてよいなどと戲談おどけにも云ふ程の吝嗇りんしよくれば養子の周旋せわをする者もなけれど誰しも欲の世の中なれば身上の太きにめで言込者いひこむものも又多かり然共持參金の不足よりいつも相談とゝのはず爰に出入の者の内に古着渡世ふるぎとせいの者有りしが彼が周旋せわにて富澤町に甲州屋吉兵衞と云ふ古着渡世の者の次男じなんに千太郎と呼て當年二十歳になり器量きりやうと云ひ算筆さんぴつと云ひ殊に古着渡世なれば質屋にもちなみ有て申分なき若者成れば御當家の御養子やうしにせられては如何にやと相談さうだん有りけるに五兵衞は彼の持參金のなきより縁談えんだんことわりければ當家に幼年えうねんの頃より奉公して番頭と迄出世しゆつせをなし忠義無類むるゐ世間せけんにて伊勢屋の白鼠しろねずみと云ひはやし誰知らぬ者も無き評判の久八は日頃より主人の吝嗇りんしよくなるを心に悲しみ居けるが御儉約けんやくなさるゝは結構けつこうの事なれ共御相續の御養子は御家を御つがせ成さる大事の御方なり其大切なる御養子持參金を御望み有るは大きな御了簡違れうけんちがひと申ものなりと思ひ切て忠義一の心より主人五兵衞を種々しゆ〴〵樣々さま〴〵と申いさめ當家御相續の御養子に候へば持參金の儀は御止りありてたゞ其人をこそ御えらみあるが然るべしと道理をつくして諫言かんげんに及びければ流石さすが強慾がうよくの五兵衞も初めて道理もつともと思ひ終に持參金のねんたちたる樣子なれば久八は此はづさず話しなば必ず縁談えんだんとゝのはんと彼の富澤町なる甲州屋吉兵衞の次男千太郎の身持みもちとくさぐりしに何所いづれとうてもよき若者なりと賛成ほめざる者の無かりしかば其趣きを取敢とりあへず五兵衞に話しけるに忽ち縁談えんだんとゝのひたれば久八の悦喜よろこび一方成ず然共されども物入をいとひの聟入むこいり祝言しうげん表向おもてむきにせず客分きやくぶんもらうけたるがもとより吝嗇の五兵衞なれば養父子の情愛じやうあひ至てうすく髮も丁稚小僧同樣に一ヶ月六十四文にて留置とめおき洗湯せんたうへは容易に出さず内へ一日おいて立る程なれば一事が萬事にても辛抱しんばうが出來兼る故千太郎は如何はせんと思案の體を久八はとくさつし何事も心切しんせつを盡し内々にて小遣錢こづかひぜに迄も與へかげになり日向ひなたになり心配してくれけるゆゑ久八が忠々まめ〳〵敷心にめでて千太郎は奉公に來し心にて辛抱しんばうをして居たりけり然るに正徳しやうとく三年癸巳みづのとみの三月四日例年の事とて兩替りやうがへならびに質古着しちふるぎ渡世の仲間の參會さんくわいあり皆々みな〳〵兩國の萬八樓へ集まりけるが伊勢屋五兵衞も仲間内なかまうちとて月行事つきぎやうじより其の趣きの回状くわいじやうのありし折節をりふし五兵衞は店に手のぬけられぬ帳合有りとてせがれ千太郎をよび我等が名代に萬八へ行き仲間の者にも知己ちかづきに成るべしと云ふに千太郎はかしこまり候とやがて支度に掛りしに持參の衣類は商人あきうどには立派過ると養父の差圖さしづいつもの松坂縞まつざかじまの布子に御納戸木綿おなんどもめん羽織はおり何所どこから見ても大家の養子とは受取兼る樣子なり其時養父五兵衞は千太郎に云ひける樣今日の馳走ちそうは總て割合わりあひ勘定かんぢやうなれば遠慮ゑんりよには及ばぬなり殘して歸るはそんゆゑ是へ包んで持歸もちかへれと古びたる油紙あぶらがみ重箱ぢうばこ風呂敷ふろしきに包んで渡し今日は別段の事なれば金の入事の有るも知れねば用意に持參せよと澁々しぶ〳〵金一分を千太郎に渡し參會がすみ次第人にはかまはず先へ歸つて來れよと宛然さながら丁稚小僧でつちこぞう宿入やどいりに出すが如き仕成しなしにて名代につかはしけるに彼の仲間の若者は萬八のくづれより向島むかうじまの花見と云ひなしそのじつ花街よしはらの櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢五の養子をもれ行かんと誘引さそひければ千太郎はうや〳〵しく兩手をつきよんどころなき用事もあれば勝手が間敷は候得共今日は御免ごめん有れと云ひければ大勢は酒機嫌さかきげんにて聞入ず殊に五兵衞の吝嗇りんしよく平生へいぜいにくみける故わざと千太郎を歸さず是非お附合つきあひなされよと無理に引留ひきとめまだ日も高ければ夕刻ゆふこく迄には寛々ゆる〳〵としても歸らるゝなり決して御迷惑ごめいわくは掛ませぬといやがる千太郎のひきそでひき萬八の棧橋さんばし繋合もあひたる家根船へ漸々やう〳〵にして乘込のりこませり是ぞ千太郎と久八が大難だいなんもとゐとこそは成りにけれ


第八回


 されば彼伊勢屋千太郎は養子の身なれば仲間一同へほどよくわけを爲し逃歸にげかへらんとなせども養父五兵衞が平生仲間交際つきあひさらになさずたぐひ無き吝嗇りんしよく者なれば養子千太郎を連行つれゆきて伊勢五の親爺おやぢに氣をもませ呉んと一同にて仕組しくみしことゆゑ千太郎の云ふ事を少しも聞入きゝいれず御養父がもしわからぬ叱言こごとを言れなば仲間一同にて引受ひきうけ貴樣おまへ御迷惑ごめいわくかけまじ一年にたゞ一度の參會故夫をはづし給ふとは卑怯ひけふなりと手引袖引萬八樓の棧橋さんばしより家根船に乘込のりこませしが折節揚汐あげしほといひ南風なれば忽ち吾妻橋をも打越え眞乳まつちしづんでこずゑ乘込のりこむ彼端唄かのはうたうたはれたる山谷堀より一同船を上り十間の白扇子しらあふぎうららかなる春の日をかざ片身替かたみがはりの夕時雨ゆふしぐれぬれにし昔の相傘あひがさを思ひ出せし者も有るべし土手八町もうち越して五十けんより大門口に來て見れば折しもなかの町のさくらいまさかりと咲亂さきみだれ晝と雖も花明はなあかりまばゆきまでの別世界べつせかい兩側りやうがはの引手茶屋も水道尻すゐだうじりまで花染はなぞめ暖簾のれん提灯ちやうちん軒を揃へて掛列かけつらね萬客の出入袖を摺合すりあひ茶屋々々の二階には糸竹の調べつゞみ太皷たいこたえる事なく幇間たいこ對羽織つゐばおり色増君いろますきみの全盛をあらはし其繁榮はんえい目を驚せし浮生ふせいは夢の如く白駒はくくひまあるを忘る蓬莱ほうらい仙境せんきやうも斯るにぎはひはよも非じと云ふべき景況ありさまなれば萬八樓よりそれたる一同は大門内おほもんうち山口巴やまぐちともゑと云引手茶屋へをどこめば是は皆々樣御そろひで能うこそおいであられしぞ先々二階へいらつしやいと家内の者共喋々てふ〳〵しき世事の中にも親切しんせつらしく其所そこ其所こゝよと妓樓まがきかぞへ丁字屋ならば娼妓おひらん澤山たくさんあるゆゑよからんと山口巴の案内にて江戸町二丁目丁字屋方へ一同どや〳〵登樓おしあがり千太郎には頃日このあひだたばかりなる小夜衣が丁度ちやうど似合にあひの相方と見立みたてられしが互ひのえにし如何につき合なればとてまだ日もくれぬきぬ〳〵に心殘せど一座の手前其の日はどつと陽氣やうきに騷ぎ手輕てがるあそんで立出つゝ別れ〳〵に歸りけり偖も小夜衣は今日けふはからずも千太郎の相方に出しより何となく其人のしたはるゝまゝ如何にもして彼の客人まろうどを今一度なりとも呼度思ひ其夜は外のきやくへも染々しみ〴〵つとめざる程なれば其心の此方こなたにもつうじけん千太郎も小夜衣の事をにくからず思ひうつわすれ難しと雖も養父の手前一日二日は耐へしが何分なにぶん物事手に付ず實家じつかへ參るといつはりて我が家を立出小夜衣がもといたりしに夫と見るより小夜衣はとんいで直樣すぐさま我が部屋へやともなひ何くれとなくつとめをはなれし待遇もてなしに互ひの心を打明つゝかはるまいぞや變らじとすゑの約束までなせしかば千太郎は養家やうかを大事と思ふ心も何時しか忘れて小夜衣の顏を見ぬ夜は千しうおもひにて種々しゆ〴〵樣々さま〴〵と事にかこつけ晝夜のわかちもなく通ひける實に若き者のおぼれ安きは此道にして如何なる才子さいしも忽ち身をほろぼし家産かさんを破ることに世間見ずの千太郎と又相手は遊女とは云へまだ生娘きむすめも同樣なる小夜衣のことなれば後先あとさきかんがへも無く千太郎を招き田舍ゐなかありては見る事も成らぬかゝる御人と連理れんりちぎりをむすぶ嬉しさは身を捨てこそ有なれと思ふも果敢はかなき小女氣むすめぎなり彼の一しやう苦勞くらうは他人によりさうの玉手千人まくらし一てんくちびる萬客になめらるゝと云ふつらつとめの其中の心の底を打明て語るお方は唯一人と小夜衣がまことつくせば千太郎は彌々いよ〳〵夢中むちうになり契情けいせい遊女にとがはなく通ふ客人にとが有りとは我が事なりねがはく明鏡かゞみとなつて君がおもかげをうつし願は輕羅うすものと成て君が細腰こしにまつはりたしなどと凝塊こりかたまり養父五兵衞が病氣にて見世へいでぬを幸ひに若い者等をだましては日毎ひごと夜毎に通ひつめ邂逅たまさかうちねるには外を商ふ物賣ものうりの聲も花街くるわ商人あきんど丁稚でつち寢言ねごと禿かふろと聞え犬の遠吼とほぼえ按摩針あんまはりの聲迄もすべ廓中くるわの事を思ひ出す程にして何もかうして居られぬと又飛出しては夜泊り日泊り家には尻の据らねば終に病中びやうちうながら養父五兵衞の耳にすぐに離縁といきどほるを番頭久八は大いに驚き主人五兵衞へ段々だん〳〵詫言わびごとに及び千太郎には厚く異見いけんを加へ彼方あち此方こち執成とりなしければ五兵衞も漸々やう〳〵いかりを治め此後を急度きつとつゝしむならばと一トまづ勘辨かんべんにぞ及びけるよつて久八よりなほ又千太郎に堅く異見をなし呉々くれ〴〵つゝしみ給へとてかげなり日向ひなたになり忠義をつくしければ千太郎もはなはだ後悔に及びしばらく吉原通ひをとゞまりしと雖も小夜衣の事を思ひきりしに非ず只々たゞ〳〵便たよりをせざるのみにて我此家の相續をなさば是非ともかれ早々さう〳〵身請みうけなし手活ていけの花とながめんものをと心にちかひて表面うはべは辛抱したりし故久八は悦びいさ猶々なほ〳〵心を用ひ大切たいせつにぞ勤務つとめける


第九回


 時に彼町醫師かのまちいし村井長庵は既に十兵衞を殺害せつがいし奪ひ取たる五十兩又いもとお富をも賣代うりしろしてかすめ取たる金までも悉皆こと〴〵つかすて今は早一文なしのもと形相すがたと成りければ又候奸智かんちめぐらし段々だん〳〵きけば丁山小夜衣の兩人共に追々おひ〳〵全盛ぜんせいに成て朝夕あしたゆふべに通ひ來る客も絶間たえまなく吉原にても今は一二と呼るゝとのうはさをきゝ此兩人のもとに立越て小遣ひ取つて呉んものと或日丁山小夜衣のもとに到り殺して仕舞た母のお安が病氣にて寢て居るゆゑと白々敷しら〴〵しくも入用の次第しだいはなし如何にも差迫さしせまりたる體に見せければ兩人とも流石さすが伯父をぢのことゆゑ兩親ふたおやとも此叔父をぢ殺害ころされしとは夢にも知らず特に母が病氣ときゝ姉妹はらから二人にて心一ぱい出來できほど合力がふりよくに及びければ強慾がうよく非道ひだうの長庵は能き事に思ひ毎日々々の樣に無心に行ける程にはては丁山小夜衣も持餘もてあましてことわりを云ひければをりふれては無理なる難題なんだいをも云掛いひかけなどしてほとんこまり入りしとかや又有時あるとき長庵來りて毎時いつもの通り種々いろ〳〵無心を申しけれども丁山も餘り度々たび〳〵のことなれば然々さう〳〵工面くめんも出來ず併し母樣が御病氣ならば主人へ願ひ兩人で引取ひきとり何の樣にも看病かんびやう致さんうぞさうして給はれといはれて長庵驚愕びつくりせしがお安も追々おひ〳〵快方よきかたなれば近き内に連て來て兩人にあはして遣りませう金が出來ずば夫でよしとはいひしかど又小夜衣にむかひ少しにてもと言ければ小夜衣も同じ返事へんじをなしけるにいやさ其方そなた仕合しあはせ者よききやくが有るといふうはさとくより知て居る尾張屋の客はどうした此の頃は御出がないかして半四郎近江あふみから御出の人はと口から出任でまかせに引手茶屋の名前をならてる内にアノ山口巴から來る若旦那かへと小夜衣は空然うつかり長庵の口にのせられさればなりその三河町の若旦那はとんいたちみちを切たとやら云ふ樣に少共ちつとも御出の有らぬのは何した事かと思ふ故御茶屋へび〳〵ふみを出しまてども一度の返事へんじもなし何處どこうして居なさるやらとてもあはれぬ者ならばいつそ死んだがましならめと打しほれしがかほふりあげ伯父樣どうぞ三河町とやらへいつて樣子を尋ねて下されとたのめば長庵小首こくびかたぶすぐにも樣子をさぐつて見樣が必ず短氣たんきな事などしまひ先の返事は翌日あすする程に少し成りとも小遣ひをといはれて小夜衣は千太郎が樣子を聞度きゝたく思ひしより金子すこし渡しければ長庵は夫よりすぐに三河町をさして立歸りやがて近所の湯屋ゆやの二階へ上りて夫となく樣子を聞糺きゝたゞし夫より近邊きんぺん割烹店れうりやへ上りひそかに千太郎を呼び出し初めて面會めんくわいに及び段々だん〳〵の挨拶も終りければ彼小夜衣よりの言傳ことづておちもなく物語りをすにぞ千太郎は小夜衣の伯父をぢと云ふに心ゆるみ私し儀不圖ふとした事より貴殿のめひ小夜衣に馴染なじみかさね夫婦の語らひ迄約せし上は貴殿とても一方ならぬ御中なりとことばはしに長庵が曲輪くるわの樣子つぶさにはなし又此程は絶て遠ざかられし故小夜衣は明暮あけくれ思ひわづらひて歎息かこちうらみし事などを口から出任でまかせ永々と物語り何卒御宅の御首尾しゆび御繕おつくろひ有て能程よきほどに御尋ねつかはされなば私し迄も忝けなしと云ひつゝ小夜衣よりあづかりたる文を差出しけるにぞ千太郎はとるおそしと押披おしひらき一くだよんでは笑をふくみ二下り讀では莞爾々々にこ〳〵彷彿さもうれなる面持おももちの樣子をとくと見留て長庵は心に點頭うなづきつゝやがて返書を請取千太郎よりも小遣こづかひとて金百ぴきもらひ請其儘我が家へもどり翌日返書は小夜衣へとゞけしが此機について何か一仕事しごとありさうな物と心の内に又もや奸智をめぐらして急度きつと一ツの謀略はかりごとを思ひ付き一兩日過て又々彼三河町にいたり千太郎に面會めんくわいし扨若旦那折入て御相談が御座りますゆゑ態々わざ〳〵用を差繰さしくりて參りしは外の事にても御座りませぬ彼花街かのくるわの小夜衣が事木場きばの客人よりだら〳〵急に身受の相談さうだん然る處小夜衣は如何いかにもして若旦那の御側へ參りたくそれのみを樂しみに苦界をつとめ居たるに思はぬ人に思はれてやぶからぼうの身受の相だん其所そこで彼めも途方とはうくれ此相談を止にして若旦那の方へやつくれ泣付なきつか愚老ぐらうも不便と存ずればどうがなしてたくは思へども何を云ふにも金銀づく外へ根引ねびきをさるゝ時はとてもいきては居られぬと小夜衣が一の心それや是やを心配の餘りまた御部屋住おへやずみの若旦那へ御咄し申すも如何いかゞとは存じたなれども急場きふばの事にて十方とはうに暮參りましてうにか御工風ごくふうは御座りますまいかとまことしやかにのぶるにぞ世間知らずの千太郎聞くより大いに仰天ぎやうてんし心の内は狂氣きやうきのごとく溜息ためいきつきつゝ居たりしが如何なしたらよからんとに付て長庵はさればにて候外々よりの身受と有れば二百兩や三百兩の金にては勿々なか〳〵むづかしく候へ共親の病氣と申つかはしいつはりて身請に及ぶ時はわづか元の賣金うりきん五十兩にて相談になり申すなり何卒なにとぞ若旦那の御工風くふうにて其五十兩の金さへ御座れば拙者が萬端取計とりはからひ身受をなしてそれがしが宅へこつそりさし置きなば何時貴君が御出でも名代床みやうだいどこの不都合なく御とまり成るも御勝手次第幾日いくか居續ゐつゞけし給ひても誰に遠慮ゑんりよも内證も入らずさうなる時は小夜衣がいのちの親とも存じます何卒なにとぞ五十兩の御工風くふうをと聞て千太郎は夢中むちうになり小夜衣を何時いつかは女房にもたんと思ひ居たる處なれば外の客に身受されんこといかにも口惜しく思ひける故長庵に打向ひ成程云はるゝ通り五十兩の金子はわたくし工風くふうましやうとは言ふものゝ五十兩の大金如何いかゞしてこしらへんうして調達てうだつせん者と兎角當惑たうわくしながらもまた小夜衣を受け出し長庵方に差置さしおいて折々通ひたのしまば此上もなき安心成りと思ふも若氣わかげ無分別むふんべつまよふ心の置所おきどころつゆの命と氣も付かず不圖ふと惡心あくしんや發しけんひそかにたなの有金の内を幾干いくらつかみ出し身受の金にせんものと急度きつと思案しあんを定めつゝ再度ふたゝび長庵に打向ひ云はるゝ通り相違さうゐなくは如何にもして五十兩調達てうだつせん宜しく御たのみ申しますと聞て長庵大いに悦びいさゝか相違は仕つらずしからば何頃いつごろ受取うけとりに參るべきやと申にぞ千太郎は明後日あさつて來り給ひねと約束かためて別れをつげ其日は我が家へ立戻り覺悟かくごの如く用意なしやがて約束の日になりしかば長庵の來るのをまちて彼五十兩を渡しけるに長庵は是を懷中くわいちうして彌々いよ〳〵明後日迄には小夜衣を身受なし愚老ぐらうたくつれかへれば四五日内に御いでれとて金子をあづかりしと云ふ一札迄さつまでわたき其儘別れて歸りける心の内に長庵は仕濟しすましたりと大いに悦び彼五十兩の其金はおのれが榮耀ええう酒肴ざけさかな遊女狂いうぢよぐるひにつかひける然るに伊勢屋千太郎はかゝる事とは夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たかあすは來るかと指屈算ゆびをりかぞへ日のくるるのを樂しみに漸々やう〳〵と四五日を送りしがひそか支度したく調とゝのへて見世を拔出ぬけいだし麹町三丁目へ到り其所そこか此所かと尋ぬるうちに門札かどふだに村井と表名へうめいの有りければ心嬉こゝろうれしく爰が長庵のたくにて小夜衣はさぞ待詫まちわびつらんと玄關形げんくわんかたちの履脱くつぬぎへ立入て案内を乞ふに内にては大聲おほごゑあげどうれと云て立出る長庵を見るよりはやく千太郎是は〳〵伯父樣をぢさま此間このあひだは御出下され段々だん〳〵の御世話忝けなし偖御約束の通り今日參上さんじやう致せしと云ふに長庵いと不審いぶかしげに小首こくびかたぶけ是は〳〵何方いづかたより御越にや何處の御方樣にて候ひしか御病人なるや又御見舞みまひに上りますのでござるかと思ひも寄らぬ挨拶に千太郎は長庵がたはむれにやと思ひけれどもなほ叮嚀ていねいによもやお見忘れはなさるまじ私しは伊勢屋五兵衞の養子せがれ千太郎にて候なり段々と小夜衣がとこに付いてはお骨折ほねをりなにとも有難くぞんじ奉つる夫れ付き今日は參上致し候小夜衣も參り居候や御あはせ下されたしと云ひければ長庵彌々いよ〳〵驚怖おどろきたる面色おももちにて不思議の仰せを承まはり候者かな小夜衣とは何のことにて候や夫はまつたく門違かどちがひにて有るべし然樣のことは夢にも覺え候はず何か御心得ちがひ成るべし拙者せつしやは町醫村井長庵と申す者にて候と聞より然ればたはむれにてもなきかと千太郎は大いに驚怖おどろき先日私し近邊きんぺんの料理茶屋の二階にて御目に懸り眼前がんぜんに貴殿へお渡し申したる五十兩の金子を以て貴殿きでんめひ小夜衣を身請して御當家へおくとのお約束ゆゑ金子きんすをばお渡し申せしに何故なにゆゑ然樣のことを仰せられ候やと申に長庵大いにいかけしからぬことをひとかな失禮しつれいながら貴殿は未だ御若年ごじやくねんで有りながら御見請申せば餘程よほど逆上ぎやくじやう今の間に御療治なければ行末ゆくすゑ御案事おあんじ申なりと取ても付ぬ挨拶あいさつに千太郎は身をふるはしアノ白々しら〴〵しいといふとき長庵は顏色がんしよくかへて五十兩には何事ぞや拙者はさらおぼえなき大金を拙者に渡したなどとは途方とはうなき事を云はるゝ人哉ひとかなおそろしや又五十兩と有れば容易よういならざる大金なり夫には何ぞ證據にても有りさうな物といへば其時千太郎如何にも御自分がしたゝめられし受取うけとり證文しようもんこれられよと云ひつゝ一さつ懷中くわいちうより取出し長庵が前へ摺寄すりよりひらきて見ればは如何に文字もんじきえ跡形あとかた無くたゞなさけなき白紙しらかみなり是は長庵が惡計にて跡の證據に成らざるやう最初さいしよよりたくんで置きたる大惡だいあく無道ぶだうおそろしかりける事共なり

ひやうに曰く證文の文字の消失きえうせしは長庵が計略により烏賊いかすみにて認めしゆゑならんか古今に其例そのためし有りとかや


第十回


 古語こごに曰く君子はあざむくべししゆべからずとはむべなるかなすべ奸佞かんねいの者に欺かるゝはおのれが心の正直しやうぢきより欺かさるゝものなりじつに其人にしてなす而已のみ其のあざむく者は論ずべからず其さい不才ふさいに依るにあらざるか爰に伊勢屋五兵衞の養子千太郎は父の病中を幸ひにみせの有金の内五十兩養父やうふかすめ彼小夜衣を根引ねびきかこひ置て自儘に我が家内にもせん者と思ひ居たる心より村井長庵の惡計あくけいかゝ夫而已それのみならず金と引替に長庵より受取置たる證文を開いて見れば不思議にも文字もんじえてたゞの白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は暫時しばしあきはて茫然ばうぜんとして居たりしが我と我が心をはげまし餘りといへば長庵殿眼前がんぜん此程料理屋の二階にて貴殿あなたたのみに任せ手渡し爲したる五十兩を覺え無とは何故ぞ受取證書が白紙に成て居るのも不審ふしんの一ツと云ば長庵は大いに笑ひ戲氣たはけと云も程こそあれおぼちがひも事による證據の書附有などと其の白紙しらかみが何になるさうして見ればお若いが正氣しやうきでは御座るまい診察しんさつして藥を進ぜん外々ほか〳〵の儀と事變り金子の事故驚怖おどろいたりあたらきもつぶす所と空嘯そらうそぶひてたばこをくゆらし白々敷しら〴〵しくも千太郎を世間知らずの息子むすこと見かすまづ寛々ゆる〳〵と氣を落付思ひ定めて歸らるべしヤヨ氣のどくなる病氣ぞと長庵更に取合とりあはねば千太郎は其儘にもどるにも戻られず進退しんたい爰ぞと覺悟をきはなほ長庵に打向ひ是はけしからぬ御言葉哉ことばかな假令證文は白紙に變りし共最初さいしよ小夜衣が使ひに參られ我を喚出よびいだし三四度御自分樣じぶんさま引合ひきあひたる家も有り殊に御自分の云はるゝには小夜衣は我がめひなれば行末ゆくすゑ共にねんごろに私にたのむと小夜衣が文を持參成れし成ずや夫等の事がらよもお忘れも仕給ふまじ夫より後も參られてめひの小夜衣が木場きばの客へにはかに受出さるゝことに成夫に付親許おやもと身受にすれば元金もときん五十兩にて苦界を出らるゝ故其五十兩の金子を何とかして才覺さいかくなし呉よ其金さへ有ば木場の客を出しぬいて小夜衣を身受なし貴宅へ置とのお話し故貴殿のいはるゝ其意にまかせ五十兩の金とても勿々なか〳〵に出來兼たれど延引えんいんして居る時は外へ身受に成との事故道ならぬ事とは知りながら養父やうふの金を引出ひきいだし命がけにて其金を約束通り貴殿きでんに渡し今日は寛々ゆる〳〵小夜衣にあうて行んと來りしに仁術じんじゆつ家業かげふの身を以て現在げんざいめひの小夜衣をも知ぬ抔とは何故なりや然すれば我を店者たなものと最初よりして見侮みあなどの小夜衣をばとなし我を欺き五十兩の金をばかたり取たくみと云を打聞うちきゝ長庵は兩眼をくわつとむき出し目眦まなじり逆立さかだて形相かたちを改め這は聞にくき今の一言此長庵をかたりなどとは何事ぞや我等は仁術じんじゆつもととする醫業なり最初さいしよよりして欺いて五十兩の金をかたり取たとは不埓ふらちの一言今一ごんきいて見よ其分には置まじと煙管きせる追取おつとり身構みがまへなし威猛高ゐたけだかのゝしるにぞ彌々いよ〳〵驚怖おどろく千太郎くやし涙にかきくれまう是迄と大聲あげ長庵殿そりや聞えぬぞへ今更に然樣にばかり言るゝからは矢張やつぱりかたりに相違なしと半分はんぶんいはせず長庵は汝若年者故に何事も勘辨かんべんして言はして置ば付上り跡形あとかたも無き惡口雜言あくこうざふごんまう此上は聞捨きゝすてならぬ眼に物見せてくれんずと千太郎が襟髮えりがみをぐさとつかんでたゝみ引据ひきすゑ打やらたゝくやら煙管きせるを取て續けさまうでに任せて打ける程に髮は散々おとろに亂れ面體めんていにも聊か疵を受けぬれば千太郎は最早百年目と思ひきり口惜くちをしや汝ぢ其金をかたり取しに相違無し言譯いひわけなさに此打擲ちやうちやくかたりめ〳〵奸賊かんぞくめと大音じやうのゝしれば長庵増々ます〳〵いかりを發し其金の五十兩とは何所から出したる金なるぞ夫程迄にかくと云事ならば其方が養父の宅へ引摺ひきずりゆきて金の出所たゞして呉ん已に屹度きつと穿鑿せんさくに及びし上にて黒白くろしろわかちを付んと一たうこしたばさみ此青壯年あをにさいいざ行やれとのゝしりつゝ泣臥なきふし居たる千太郎を引立々々ひきたて〳〵行んとすれば此方こなたむねくぎ打思ひ眼前がんぜん養父のあづかり金をばぬすみ出したる五十兩たくへ行れて彼是かれこれと其の事露顯ろけんに及びなば第一養父はかねての氣性きしやう如何成さわぎに成やら知れずと思へば是も我が身の難儀なんぎ屹度きつと思案を胸に定めまづまちたまへ長庵殿最早もはや委細は分つたり然ば外には言分いひぶんなし勘辨なして下されと千太郎はくやしくも兩手をついわびければ長庵呵々かゝ冷笑あざわらひ夫みられよ最初さいしよより某しが言通り其方がかたりをばかへつて我等に塗付ぬりつけんと當途あてどもなきこと言散し若年ながらも不屆至極ふとゞきしごくかさねて口をつゝしみ給へ若き時より氣を付て惡き了簡れうけん出さるゝな親々達おや〳〵たちに氣をもま不幸ふかうの上に大不幸だいふかう異見いけんらしくも言散しサア何處いづこへなり勝手に行とおもての方へ突出つきいだ泣倒なきたふれたる千太郎を尻目しりめかけ打笑ひまだ行ぬかと大音にしかつけられ口惜くちをしながら詮方なく凄然々々すご〳〵我が家へ立戻たちもどりぬ跡に長庵はうきとり玄關げんくわん敷臺しきだい掃出はきだしながら如何に相手が青年にさいでも日がない故とぼけるにも餘程ほねをれたはへしかし五十兩の仕業しごとだからアノ位なる狂言きやうげんはせにや成舞なるまひと長庵はひとり微笑みつゝ居たりけり


第十一回


 さて千太郎は何所どこを何うか我が家へ歸りくやし涙にかきくれながら二階の小座敷こざしきそつ這入はひり心中に思ふやう如何にしても口惜きは長庵なり眼前がんぜん渡して其金を知らぬといふさへおそろしきにおのれが惡事を覆はんため此我をよくの樣にふんだりけつたり思へば〳〵殘念ざんねん至極是と言のも我が身をあやまり不幸の天ばつむくい來て我と苦しむ自業自得じごふじとくは然ながら此儘に知らぬかほには過されず今にもたな勘定かんぢやうせば眼前がんぜん知れる五十兩つぐのひ方は實家じつかへ赴き何とか兄にはなしなば何うにかならんと思へども彼の小夜衣の事につきだまして取れた金などとは何の顏さげて人にいはれん然れば其時ぬるより外に方便てだても無き身なればおそかれ早かれ死ぬ此身とても死ぬなら今日只今長庵方へ押掛ゆきいのちかれに取るゝ共時宜じぎよらば長庵めを恨みの一たうあびかけ我も其場でいさぎよく自殺をなしうらみをはらさんオヽさうじや〳〵と覺悟を極めかねて其の身がたしなみの脇差わきざしそつと取出して四邊あたりを見廻し拔放ぬきはな元末もとすゑ倩々つく〴〵ながめ是ぞ此身のえてつゆ白刄しらはと成けるが義理ぎりある養父やうふ忠々敷まめ〳〵しきの久八を始めとして富澤町の實父じつぷにも兄にも先立さきだつ不幸ふかうの罪おゆるなされて下されよ是皆前世の定業と斷念あきらめられて逆樣さかさまながら只一ぺんの御回向を願ふと云ふもしのなきことに他人に有ながら當家へ養子やうしに來た日よりあつ深切しんせつくして呉し支配人なる久八へ鳥渡成ちよつとなりとも書置かきおきせんとありあふすゞり引寄ひきよせて涙ながらに摺流すりながすみさへうすにしぞとふで命毛いのちげみじかくも漸々やう〳〵したゝをはりつゝふうじるのりよりのりみち心ながら締直しめなほす帶の博多はかたの一本獨鈷どつこ眞言しんごん成ねど祕密ひみつの爲細腕ほそうで成ども我一心長庵如き何の其いはをもとほくはゆみ張裂はりさくむね押鎭おししづめ打果さでや置べきかとすそみじかに支度したくを爲し既に一刀たばさんて出行でかけんとする其の折柄をりから後ろのふすまおし開き立出たるは別人成ず彼の番頭ばんとうの久八なれば千太郎は大いにおどろかき置手早くうしろへかく素知そしらぬふりして居る側へ久八はひざ摺寄すりよせ是申し若旦那わかだんな暫時しばらくまち下さるべし如何にも御無念は御道理然共こゝせく時ならずさきより私し失禮しつれいながら主人の御容子ようす唯事たゞごとならずと心配しんぱいなしてふすまの彼方に殘らず始終しじうを承まはり何にも知ぬ私しさへくやしくぞんずる程なればさぞ御無念ごむねんにも思し召んが他所から出來た事ではなし矢張やつぱりお身からもとめた事故人をお恨みなさるゝな此久八めが申すこと今一通り御聞下され此間より度々たび〳〵に御異見いけん申上たる通りねがふ事では御座りませんが今にも萬一ひよつと大旦那がお目出度めでたくなられたなら其時こそは此大このだいまいの御身上しんしやう悉皆若旦那の物となる假令たとへ然樣さやうに成すともわづかの事にはを掛ずわるゆめだと斷念あきらめて御辛抱しんばうを成されなば大旦那にも安心あんしん致され家督かとくを御ゆずり有れんと思ひめぐらすことも有ば何は扨置さておき御家督を御讓り受の有やうに御辛抱こそ肝要かんえうなれ然樣さへ成ば何事も御心任せに成事と心身しんみかけたる久八が親兄弟おやきやうだいも及ばぬ異見に千太郎はたゞ茫然ばうぜんとして居たりしかば久八はなほことばを改ためて若旦那只今は何をおしたゝめ成れしやと四邊あたりを見れば一通の書置かきおきあり是書置は何事ぞとふう押切おしきつよみ下し這はそも狂氣きやうきなされしか養家やうか實家じつか親御達おやごたち其おなげきは如何成ん夫を不孝とはおぼさずやとたゆまぬ異見に千太郎も今は思ひをとゞまりて嗚呼あゝあやまてり〳〵更に心を入替いれかへて義理有親の御安心あそばす樣に是からは屹度きつと辛抱しんばうする程に其方そち安心あんしんして呉と天窓あたまを下げてわびるにぞ久八は其手をとり勿體もつたい無い何事ぞや失禮しつれいなるもかへりみず御意見なせしおしかりもなきのみ成ずすみやかに御志ざしを御改め下さらんとは有難ありがたく夫にて安心仕つりぬとよろこび云ば千太郎はなほこまぬきてたりしがとは云物いふものの五十兩容易よういの金に有ぬ故如何どうしてあなつぐなはん實家へ何とか方便はうべんいふて時借なりとせんものか外に手段しゆだんさらに無しとむねに思へども久八にも夫のみは云出しかねて居たりしを久八はやくもさとり得て又改めて申すやう其長庵とかにかたられし五十兩の金子きんすあな其外是迄これまでつかはれし金の仕埋しうめは私しが御引受ひきうけ申ます必ず〳〵御心配遊しんぱいあそばされなと何事も忠義ちうぎおもてあらはれたる久八が意見に千太郎は伏拜ふしおがかへす〴〵もかたじけなし此恩必ず忘却わすれはせじと主從しうじう兩人ふたり寄擧よりこぞしばし涙にしづみけり


第十二回


 武家ぶけに在ては國家の柱石ちうせき商家しやうかで申さば白鼠しろねずみなる番頭久八は頃日このごろ千太郎の容子ようす不審いぶかししと心意こゝろを付て居たりし折から顏色かほいろつねならいきせきと立戻たちもど突然いきなり二階の小座敷へ這入はひりし容子ようす啻事たゞごと成らずと久八が裏階子うらばしごより忍び上りふすまかげたゝずみてうかゞひ居るとは夢にも知らず千太郎はうでこまぬき長庵に欺かれて五十兩かたり取れし殘念さよと覺悟を極めし獨言を委細ゐさいに聞て其場へ立出樣々さま〴〵いさかせし末畢竟ひつきやう花街くるわの小夜衣とか云娼妓おいらんも長庵とは伯父をぢめひとかの中成なれば一ツあなむじなならん然すれば勿々油斷ゆだんなら旁々かた〴〵以て小夜衣が事は判然さつぱり思ひきり再度ふたゝびくるわゆかれぬ樣此久八が願ひなりとなほ眞實しんじつ委曲こま〴〵との意見いけんを聞て千太郎は漸々心落こゝろおち居つゝ久八の言通り金子の工夫は又有べし何にもせよ今度の事にて小夜衣に愛想あいそもこそも盡果つきはてたり他人に心ゆるすなとはよくいひたる者かな後悔こうくわいおもてあらはれければ久八は打喜びわざはひが却つて僥倖さいはひなり斷念あきらめ給へとて長庵の方へは其後何の懸合かけあひもせざりし程に長庵は五十兩の金をかたとくと彌々喜悦よろこび居たりける然るに養父五兵衞はれい吝嗇者りんしよくものなれば病中にもたなの事而已のみ心配して居たりしが此程このほど追々おひ〳〵快氣くわいきしたがたな惣勘定そうかんぢやうをなさんとの事に久八千太郎は人知らぬ胸をいためけるが早くも年月推移おしうつりて正徳四年と成ければ當春たうはる是非ぜひ店卸たなおろしを爲んとてやが諸帳面類しよちやうめんるゐ悉皆こと〴〵く調べ段々惣勘定と立けるにたなの有金五十兩不足しければ猶又勘定立直たてなほ種々いろ〳〵取調べしかども同く帳合ちやうあひ立難たちがたく如何に穿鑿せんさくなすと雖も番頭久八が引負ひきおひとは流石さすが吝嗇りんしよくなる五兵衞も心付ず只々たゞ〳〵不審に思ひ外々ほか〳〵の番頭若者に至る迄うたがひをかけ平日ふだん百か二百の端足はしたぜにさへ勘定かんぢやうあはざれば狂氣きやうきの如くに騷ぎ立る五兵衞なれば五十兩の事故鬼神おにがみの如くいきどほり居たる所へ番頭久八進み出て私し儀幼少えうせうの時よりの御恩澤おんたくを只今となりあだにてはうじ候は何とも申譯なき事ながら此程計らずも遊びすごし五十兩の不足金はまつたく私し儀引負ひきおひ仕つりし故何卒なにとぞ慈悲じひの御沙汰ひとへに願ひ上ますと彼の千太郎があざむかれし五十兩を既に我が身に引請んとするを暫時しばしと引留千太郎進みより否々いへ〳〵久八にては御座らぬと言んとするを押留おしとゞ尻目しりめかけて夫となく知らする忠義の赤心まごころを水のあわにさせるも本意なし如何はせんと千太郎が胡亂々々うろ〳〵すを久八は我が身の後ろへ引廻ひきまはし私しが引負ひきおひに相違なくの者の仕業しわざでは御座りませぬと聞より五兵衞大いに怒りおのれ久八め今迄伊勢五の白鼠しろねずみ忠義者ちうぎものよと世間せけんでも評判うけし身ならずや此五兵衞迄然樣さやうに思ひしは大いなる見違みちがひなり扨も〳〵五十兩と言ふ大金をつかすてしとは何ごとぞや十兩からは大金たいきんなるぞ夫を何ぞやつかこみらぬ顏して主人の大膽者だいたんものめと有合ありあふ十露盤そろばんおつ取て久八を散々さん〴〵打擲ちやうちやくすを側に見て居る千太郎は我が骨節ほねぶしを打るゝ思ひいつ有體ありてい打明てと思ふ樣子を久八は頻りに後へ引止め五兵衞に向ひ何とも御わびの致し樣も御座なく御打擲ちやうちやく扨置さておき討殺うちころなされる共少しも御うらみは申ません御十分になされよと兩手をつかへかしらをさげ詫入る處を猶も又めつた打ちに打ちたゝやが蹴飛けとば蹴返けかへして直に請人石町甚藏店の六右衞門をよびやりけるに六右衞門は何事やらんと打驚怖おどろきすぐに其使ひとともに來て見ればあにはからん久八が主人に折檻せつかんうける有樣に暫時しばしあきれて言葉もなし五兵衞は皺枯聲しわかれごゑをふり立て如何に請人六右衞門此久八の盜賊たうぞくめが五十兩と言大金をおのれおごりに遣ひ捨て引負ひきおひなしたる上からはすぐに當人久八を引取ゆき五十兩の金子をつぐなひたる上本金をも殘らずをさめよと言渡されて仰天ぎやうてんなし本金とは何事ぞ如何に不埓ふらちが有ればとて廿餘年の勤功きんこうにて既に支配もまかされたる此久八を丁稚でつち小僧か何ぞの樣に打擲ちやうちやくさるゝのみならずと思へど久八を一先内へ連歸つれかへとく容子ようすを正した上又詫言わびごとの仕樣も有んと言度事いひたきことをじつとこらへ六右衞門は主人五兵衞に打向ひさて段々の御立腹りつぷくわびの致し方も之無く候ついては五十兩の引負金ひきおひきん何分なにぶんすぐにはつぐのひ難く暫時御猶豫下いうよくだされたし且又御給金の儀はなかば頂戴仕ちやうだいつかまつり半分なかばは御預け置候故日わり御勘定の程御願ひ申上候當人身分の儀は直樣すぐさま引取一札をも差上さしあげ申すべく又當人久八に御用のせつは何時にても同道申べくと事を分て申せどもいさゝ聞入きゝいる景況けしきも無く五兵衞はかへつていきどほり然樣な勝手は相成ず直に勘定してゆかれよといかりけるを猶種々さま〴〵詫言わびごとなし漸々にして追々に償ふ事をゆるされしかば直樣すぐさま引取の一さつ指出さしいだし久八を連歸りけるは無慈悲むじひなりける有樣なり久八は子供こどもの時より主人を大切と我が身の苦患くげんいとはずつとめ一人としてほめざる者も無者なきものるに伊勢五のたな引負ひきおひして請人方へ引渡されしは何かわけの有事成んと云も有ば久八は白鼠しろねずみどころ溷鼠とぶねずみで有たなどと後指をさす者も有しとかや六右衞門は久八をつれ歸りて百日の説法せつぱふ一ツとはおのれが事なり此六右衞門は人の世話も多くたがかゝる事をいはれし事なし五十兩と云大金を何につかつたこんな馬鹿ばかとは知らずしておのれが事を人樣に辛抱人しんばうにんほめたのが今となりては面目めんぼくない二階へなりときくされつらみるのも忌々いま〳〵しいと口では言ど心では何か容子ようすの有事やと手をこまぬいて居たりけり翌日伊勢屋の養子千太郎は我が爲に久八が昨日きのふ始末しまつと夜の目もあはず少しも早く六右衞門にあうて實をあかさんと首尾しゆびせしかたくを出でて本石町なる六右衞門の宅へいたり久八に逢度あひたき由を云ひ入ければ夫と見るより六右衞門はとんいで偖々さて〳〵若旦那能くこそ御出なされしぞ千太郎をおくへ通し久八に引合せければ千太郎は男泣になきながら段々だん〳〵の禮をのべ何と云べき詞もなく我身にかはりて惡事を引受ひきうけアノ一てつなる親父殿どのに罪なき足下そなた打擲たゝかれ廿餘年の奉公を贅事むだにしていとまを引され夫を堪へし昨日きのふの始末さぞさぞ六右衞門殿には不審いぶかしく思はれけん久八は私の爲には命のおやいふべき樣なる恩人おんじんなり是非足下おまへの身の立樣にする程にしばしの内勘辨かんべんして何ぞこらへて下されと久八が前に鰭伏ひれふせば久八は涙を流し何事も是皆前世の因縁いんえんづくと斷念あきらめをれば必ず御心配は下さるまじ併しながら時節じせつ來りて若旦那の御家督かとくと成れなば其時には此久八を御呼戻よびもどし下されたしそれのみ願ひ上まする夫についても呉々くれ〴〵も御辛抱こそ肝要かんえうなれと猶もたゆまぬ忠義の久八六右衞門も一伍一什いちぶしじふを聞居たりしか久八に向ひ其方が五十兩の大金をあそすごしてつかすてしとは合點がてんゆかねど其方が打叩うちたゝかれても一言の言譯いひわけさへもせざりしゆゑ如何成いかなる天魔てんまみいりしかと今が今迄思ひ居たるに全く若旦那の引負を其身に引受ひきうけての事成か能もかくは計らひしぞ其方ならでは出來ぬ事と六右衞門は感心かんしんなし千太郎に打向うちむかひ初めて承まはりし今度の始末如來樣家來けらいなり主人となりし上からは忠義の爲には些いの奉公決して御心配しんぱいに及びませぬ假令たとへの樣なる難儀なんぎ苦勞くらうを致せばとて御主人樣の御爲なら少しもいとひは致しませぬと久八と云六右衞門と云そろひも揃ひし忠義な男義をとこぎ千太郎は猶々あなへも入たき思ひ六右衞門に打向ひ兩手を合せて伏しをがみ氣のどく共何共申分の仕樣しやうも無しと言を六右衞門是はしたりと其手を取只此上は御心得ちがひのなき樣に久八が申通り呉々くれ〴〵辛抱しんばうなされましと申時千太郎はかねて用意をしたりけん懷中くわいちうより書付かきつけ一通取出し扨此書付は久八殿が拙者せつしや引負ひきおひ引受ひきうけて呉られし後日の證據しようこに渡しおくひながら兩人の前にさし置きける其文は

入置いれおき申一さつ之事

一金五十兩也

右は我等われら養父の金子引負致し候所其もと自分に引負金と申立引受ひきうけくれ夫が爲養父五兵衞より其許いとまに相成候段生々世々しやう〴〵せゝ高恩かうおん以來とも忘却仕ばうきやくつかまつる間敷候依之これによつて我代わがよに相成り候節は急度呼戻し此度の大恩を報ずべく候爲後日一札仍而如件ごにちのためいつさつよつてくだんのごとし

正徳四年四月
千太郎 判

久八 殿

斯の如くしたゝめたる一通なれば六右衞門は押戴おしいたゞき若旦那の御心遣ひ有り難く存じ上ます然らば此一通は私し方慥かに御あづかり申さんとて久八へ渡しける時に千太郎又々懷中くわいちうより金子一とつゝみ取出し追々おひ〳〵見繼みつぎも致す心なれども是は當座のしのぎの爲實父の方より借受かりうけし金子なり之を遣ひ居て下されよと出すを久八はおし返したつ辭退じたいをなしけれども千太郎は種々さま〴〵に言ひなし漸々やう〳〵金子を差置さしおきつゝ我が家へこそは歸りけれ


第十三回


 さてまた六右衞門は久八にむかひ如何にも貴殿きさま心底しんていには勿々なか〳〵引負ひきおひなど致す樣なる者では無と思ひしにあにはからんや昨日きのふ始末しまつと思ひのほかうつかはりし今日の時宜じぎ異見いけんをせしも面目めんぼくなし決して心配致すに及ばず伊勢屋の引負金も一工夫くふうしてすましもせん其方そなたは此若旦那樣よりの御心添こゝろぞへの金子にて何成なんなりとも商賣を初める樣にと六右衞門が始終を思ひし深切に久八も大に喜悦よろこび何商なにあきなひを初めたらよろしからうと工夫をなせども元より大家の支配人の果なれば小商こあきなひの道を知ず右左とかく損毛そんもう多く夫而已のみならず久八は生れ付ての慈悲じひ心深くまづしき者を見る時は不便心が彌増いやまほどこすことのすきなる故まうけの無も道理ことわりなり依て六右衞門も心配なしいつそ我弟が渡世とせい先買さきがひとなりはぢを忍びて紙屑買かみくづかひには成ぬかと聞て久八しばらく考へ却つて夫こそ面白おもしろからんと紙屑買にぞなりにけり榮枯盛衰えいこせいすゐひとへに天なり命なり昨日迄は兎も角も大店の番頭支配人とも言はれし身が千種木綿ちくさもめん股引もゝひきねぎ枯葉かれはのごとくにて木綿布子ぬのこ紋皮もんぱ頭巾づきん見る影も無き形相なりふりは商賣向の身拵みごしら天秤棒てんびんぼうに紙屑かご鐵砲笊てつぱうざるを横にのせ日がな一日買ひ歩行あるきもどれば夜をかけえりわけて千住品川問屋先賣代なしていさゝかの利益を得ては幽々かす〳〵に其日々々をおくりけり然ども是をにもせずかせたまれば少しでも伊勢五のあなを埋めて行心の正直律儀りちぎ者昔しも今も町家にはためし少なき忠義なり是皆村井長庵が惡業あくげふの爲所にして西も東も知らぬ若者の千太郎をあざむき多くの人に難儀を掛ること人面にんめん獸心じうしん曲者くせものなり長庵が惡事をかぞへるに第一札の辻にて弟十兵衞を殺害せつがいし罪を浪人らうにん藤崎道十郎に負せ二ツにはお富を賣り三ツにはお安を三次にたの中反圃なかたんぼにて殺させ今又伊勢屋千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取久八をもかくくるしめる事是皆露顯ろけんの小口となりかの道十郎の後家お光がはからずうつたへ出る樣に成けるは天命てんめいの然らしめたる所なり


第十四回


 天のせるわざはひは猶去可し自からせる禍ひはさく可からずとは雖も爰に寶永はうえい七年九月廿一日北の町奉行中山出雲守殿いづものかみどのの掛りにて奸賊かんぞく村井長庵が惡計に陷入おちいり遂にはむじつ横難わうなんに罹り入牢じゆらうし果は牢死らうしに及びぬる彼道十郎はもと吉良家きらけ藩士はんしなる岩瀬舍人いはせとねりとて御近習へ出仕し天晴武文も心懸有し者なりしが不圖した事の譯柄わけがらにて今は浪人となりを藤崎道十郎と更めて居たりしが妻お光は當年三歳に成しせがれの道之助をふところにして店請人赤坂傳馬町治郎兵衞店に小切商こぎれあきなひをなす清右衞門方へ御ひき渡しと成けるにぞ返す〴〵もをつと道十郎がしばふだの辻に於て十兵衞を殺害に及びしなどとはゆめにも知らぬ無實むじつの難にて入牢なし其事故の分明あきらかわからぬ内に情無なさけなくも牢死に及びける故遂に死人に口なしとて悉皆こと〴〵く長庵の佞辯ねいべんにより種々いろ〳〵言廻いひまはされをつと道十郎の罪科ざいくわとは定まりし事無念骨髓こつずゐとほり女ながらも再度ふたゝびねがひをあげをつと惡名あくみやうすゝぎ度とは思へども清右衞門は段々だん〳〵意見をなし兎に角に假令たとへ再度さいど御調べを願ふとも是と云證據しようこも有ねば公儀おかみに於ても詮方せんかたなし先々夫迄の天命なりとあきらめ道十郎殿の紀念かたみに殘せし道之助を一日も早く成長せいちやうさせて藤崎の家を再興さいこうせらるゝが佛へたいし何よりの追善つゐぜんなりと言諭いひさとされてくやし涙に暮ながら唯此上はせがれ道之助が一日も早く成長なしふだつじにて十兵衞とやらを殺害なしたる本人を尋ね出してをつと道十郎殿の惡名をすゝがせん者をと夫より心を定め赤坂あかさか傳馬町でんまちやうへと引取られ同町にておもてながらもいとせま孫店まごだな借受かりうけ爰に雨露うろしのぎつゝ親子が涙のかわく間もなくわづかの本資もとで水菓子みづぐわしや一本菓子などならおき小商こあきなひの其のひまにはそゝぎ洗濯せんたく賃仕事ちんしごとこほあぶらあかりを掻立かきたてつゝ漸々やう〳〵にして取續き女心の一トすぢ神佛かみほとけをぞ頼みける然るに光陰くわういん懸河けんかの流るゝ如く早八ヶ年をおくりしにをつと忌日きにちもいつしか八年跡のそらとぞ過行すぎゆきける道之助今年ことし十歳に成けるに親は無とも子はそだつとやら母の手一ツにそだあげたる子ながらもうまれ付ての發明者はつめいものこと幼稚いとけなき心にも母が心盡こゝろづくしの程をやさつしけん孝心かうしんおこたなく夏秋なつあき枝豆えだまめ賣歩行うりあるき或ひは母が手業てわざたすけと成又は使ひにやとはれて其賃錢ちんせんもらうけあさゆふなの孝行かうかうは見る人聞人感じける然るに有日あるひ道之助は例日いつもの通り枝豆えだまめかたかけ門口かどぐちへ出る所へ獨りのをとこ木綿もめん羽織はおり千種ちくさ股引もゝひき風呂ふろしきづつみを脊負せおひし人立止りて思はずもみせならべし水菓子のあたひを聞ながら其所そこに居たりし道之助を熟々つく〴〵見ていと不審氣いぶかしげにお前はもしや藤崎道十郎殿の御子息しそくの道之助殿では御座らぬかといふこゑ聞て後家のお光は心うれしく夫の名を言ふ其人はゆかなつかし何人ぞやと出合頭であひがしらかほ打詠うちながめ見れば此方こなたの彼男はお前こそは道十郎殿の御内儀ないぎお光殿にて有しよなめづらしき所にてたえて久しき面會めんくわいなり拙者せつしや事は瀬戸物屋せとものや忠兵衞と言れてお光はかほうちまもり扨は忠兵衞殿にて在せしかと往昔馴染むかしなじみの何とやらなつかしきまゝことばを改め斯樣に穢苦むさくるしき住居すまひなれども此方こちらへ御通り下されと最丁寧なる挨拶あいさつに瀬戸物屋の忠兵衞は莞爾にこ〳〵として立入けり此瀬戸物屋忠兵衞と云ふは至つて女ずきにて殊にお光は後家なりと思ふ者から見れば貧苦ひんく容子ようす故一はだぬいで世話をなし恩をせ置思ひを遂んと心の中に目算もくさんなし忽ちおこ煩惱ぼんなういぬよりもなほ眼尻めじりを下げお光殿にも可愛かあいさうにわかい身そらで後家になられ年増盛としまざかりををしい物と戯氣おどけながら御子息道之助殿をよくも女の手一ツにて斯樣かやうに御育養そだて有れしぞしかし其後は御亭主ていしゆも定めてお出來なされたであらうに今日はいづれへかお出かけにやと言へばお光はかたちあらためそはけしからぬ忠兵衞殿のおほせかな御冗談ごじようだんでも御座りませうがをつと道十郎が牢死の後にせめて紀念かたみの此子をば成長せいちやうさせ一日も早く夫の惡名をすゝたく夫而已それのみたのしみにくらし居と云ふを打消うちけし忠兵衞はいやさうでは有ますまいかくほどあらはるゝと申如く尚々なほ〳〵あやしき事にこそさりながら今迄まつた後家暮ごけくらしにて居られしならば少しは何かの御相談相手ごさうだんあひて昔馴染むかしなじみ甲斐かひだけ失禮しつれい乍らお世話も致し御不自由の事も有なれば御遠慮ゑんりよなしに言れよとなさけ仕掛しかけの忠兵衞がもつた病にすわり込彼方とはなせしがしばらく有て懷中より金子一分取出し道之助にたの近邊きんぺんにてさけさかな買求かひもと酒宴しゆえんをこそは初めけれ


第十五回


 扨又お光は忠兵衞が酒の相手をなすを五月蠅うるさくおも種々いろ〳〵ことわりても忠兵衞は耳にも入れず追々おひ〳〵ゑひまはるにしたがひお光に向ひみだりがましきたはぶれ事を云出しければお光は大いに驚怖おどろきて是は〳〵忠兵衞樣をつと道十郎不慮ふりよのことにて死去しきよ致してより八ヶ年の其間そのあひだせがれの脊だけのびるのをたゞたのしみに此世を送り人に後指うしろゆびさゝれぬ私し勿々なか〳〵以て然樣さやう成事なること思ひよらずおゆるし成されて下されと云まぎらすを忠兵衞はなほ種々さま〴〵よりつゝやがて言葉をやはらげて言ひ出しけるは然云さういふ御前の心底しんていやぶらするのも氣の毒千萬私しも今迄けつして他言たごんは致す間敷まじとは思ひしがお前が私の言葉を一寸ちよつとなりともきかるゝなら私もお前に云事ありお前の連合つれあひ道十郎殿あん事柄ことがらなられしは全く誰もる者なし實はあのをり十兵衞をころした奴は外にある夫を知て居らるゝかと聞よりお光は飛立とびたつおもひ其十兵衞を殺した人は別に有とは誰人たれびとにや其許樣そこもとさまが御存知ぞんじならば何卒なにとぞをしへて下されと言ば忠兵衞莞爾につこわら然樣さういはるゝならば教へもせんが然れども其處そこ肝要かんじんかな魚心うをごころ有ば水心とあじことばにお光はほゝ強面つれなくなさばかくさんときつと思案しあん仕直しなほして夫さへきかして下さらば如何なる事でも貴方あなた次第しだいと聞て忠兵衞夢中むちうになりお前のをつと道十郎殿にむじつなんきせたる奴はお前も知ての藪醫者やぶいしや長庵坊主ばうず相違さうゐ無しうばかりではわからぬがかぞへて見れば八年あと八月廿八日に寅刻なゝつおきして三日ゆゑいつもの通り平川の天神樣てんじんさまへ參詣に出掛でかけた處か早過はやすぎ往來ゆきゝの人はなしあめしきりにつよふりこまつたなれど信心しんじん參り少しもいとはず參詣なし裏門うらもんを出てもどる頃漸々東がしらみ出し雨も小降こぶりに成たる故浮羅々々ぶら〳〵戻るむかうよりしりつぺた迄引端打ひつはしをり古手拭ふるてぬぐひ頬冠ほゝかぶかさをも指ずにぬれしよぼたれ小脇差こわきざしをば後ろへ廻し薄氣味惡うすきみわる坊主奴ばうずめが來るのを見れば長庵故かさをもさゝず先生せんせいにはいづれへお出と迂濶うつかり言葉を掛たら彼方はおどろききふ病人の診察みまひもどりと答へし形容ようす不審いぶかしく殊に衣類いるゐ生血なまちのしたゝり懸つて有故其の血しほは如何のわけやと再度ふたゝび問へば長庵愈々驚怖おどろき周章あわて殺生せつしやうはせぬ者なりえきなきことを致したりかすみせきの坂下にてわるいぬめが吼付ほえつくゆゑ據所よんどころなく拔討ぬきうちに犬を斬しが其血がはね衣類いるゐ如斯こんなよごせしなりと云つゝ吐息といきつくさまどうあやしく思はれたり夫のみならず第一に病家びやうかへ行にかさをもさゝず濡萎ぬれしよぼたれてはだしとは其の意を得ずと思ひしに跡にてきけおとうとなる十兵衞とやら云者が札の辻にて人手にかゝり其あかつきに長庵は病氣なりとて十兵衞が出立するを見送みおくりも爲ざりし由檢使場けんしばでも御奉行樣のお前でも申立たる赴きゆゑはてなと思うて居るものゝ人の事にて兎や角と言爭いひあらそはんもえきなき事ことに私しの女房の云には滅多めつたにそんな事を口出しなさばかゝあひ然樣さうなる時は大變たいへんなれば決して口外こうぐわいなさるゝなと言ける故に今迄は人にも決して言ざりしがお前にばかりはなすなり夫ゆゑお前の御亭主ていしゆかたきと言ふは長庵に相違さうゐなしさなサア〳〵〳〵はなした上はお光さん私が事も聞て呉れとお光に突然いきなりつくを其手を取て突除つきのけつゝ見相けんさうかへて忠兵衞さん扨は其朝長庵が傘をもさゝず天神樣の裏門前うらもんまへにてあはれし時口きかれたは確乎たしか證據しようこ夫程證據の有事をなどて今日迄つゝまれしや情なき忠兵衞殿無念々々むねん〳〵齒噛はがみをなし忽まちまなこ血走ちばしりつゝ髮も逆立さかたつ形容ありさまにて斯る證人有上は此趣きを直樣すぐさまに御奉行樣へ駈込かけこんで彼の長庵を御調べ願ひ夫の惡名あくみやうすゝぐべし忠兵衞殿には何處迄も證據しようこと成て下されとすぐにも駈出かけだすお光が氣色此有樣に忠兵衞は如何いかゞなことをば言ひ出してひよなさわぎに成たりと酒も何處どこへかさめゆきいろ戀路こひぢ消果きえはててこはそも如何にとあきれ果十方に暮て居たりしが忠兵衞はにげもされねばこれまち給へお光殿御番所へ駈込かけこんでも外事ほかこと成ぬ大事の一でう人の命に關る事先々とく勘考かんがへてと言紛いひまぎらすをお光は聞ず兎にも角にも御奉行所へうつたへ出て御調しらべを願うた時は必ず證據しようこ人と成て給はれ忠兵衞殿とねんおせども忠兵衞は茫然ばうぜんとしてこたへもなく我が家へこそは立歸りぬお光はせがれ道之助にも其次第を言聞いひきかせ其儘すぐに支度して店請たなうけ人の清右衞門に相談せんと出行いでゆきける


第十六回


 口をまもる事ふくべの如くと又口はわざはひのかどしたは禍ひのと言る事金言きんげんなるかな瀬戸物屋忠兵衞はからず八ヶ年過去すぎさりたる事をお光が色情しきじやうにほだされ迂濶うかつ口走くちばしり掛り合に成て當惑に及びしも口の禍ひなりさりながら天に口なし人を以ていはしめ給ふ事長庵が多年の積惡せきあく露顯ろけん時節じせつにや有ぬべし然ばお光は忠兵衞が歸りしより早々さう〳〵支度したくを爲し直樣すぐさま店請人たなうけにんの清右衞門方へ到り云々しか〴〵譯柄わけがらなればすみやかに此趣きを訴へて夫の汚名をめいすゝたき由一心込て相談に及びければ清右衞門倩々つく〴〵きゝ心の内に一たん中山出雲守樣の御白洲しらすにて落着らくちやくに成し一件なれば假令たとへいさゝか證人の有ばとて容易よういに御取上にはなるまじふいきずもとめなば却つてお光の爲ならずと思案しあんきはめてお光に向ひ夫は道理もつともなる次第なれども一てうせきの事ならず假令證據しようこ人の有ればとて周章あわてねがふ事がらならず殊に北の御番所にて先年せんねん裁許濟さいきよずみに成し事故今更兎や角申立るとも入費倒にふひたふれにてむだ事に成も知れず云ば證文の出しおくれなり夫より最早もはやをつと道十郎殿の事は前世よりの因縁いんえん斷念あきらめられ紀念かたみの道之助殿の成長をたのしみにくらし給へと種々いろ〳〵なだめつすかしついさめると雖もお光は更に思ひ止るべき所存しよぞんなければ猶押かへして頼みけるに清右衞門一ゑん取用ひ呉ざれば詮術せんすべなさに凄々すご〳〵と我が屋へこそ立戻たちもどれど熟々つく〴〵思へばおもふ程無念悔しさ止難やみがたければ店請人たなうけにん清右衞門をさし置てお光は家主いへぬし長助方へ赴き貴君樣あなたさま折入をりいつ密々みつ〳〵御願ひ申度一大事の出來候まゝ態々わざ〳〵まゐりしなり併し乍ら人樣ひとさまの前にては申し上難きことなれば何卒なにとぞ内々にて御相談ごさうだんねがひ上度といふにより長助は如何にも承知なりとて早速さつそく自身じしんの家内に向ひ其方は何方いづかたなりとも少しのあひゆきてをれと云れて女房にようばうほゝふくらし女房が何で邪魔じやまなるお光殿もお光殿此晝日中ひるひなか馬鹿々々ばか〳〵しいと口にはいはねどつん〳〵するを長助夫と見て取つて其方が氣を揉事もむことに非ず早々何處いづこへか行きて居れとしかり付いざお光殿是へ御座れとおくの一間へ喚込よびこめば女房は彌々いよ〳〵つのはゆべき景色けしきにて密男まをとこは七兩二分密女まをんなに相場はないつぶやきながら格子戸かうしどをがたびしあけ出行いでゆきけり跡には長助お光兩人差向さしむかひなればお光は四方あたりを見廻してしづかに云けるに内々にて御願ひと申すは外のことには候はず私しをつと道十郎事八ヶ年以前いぜんむじつなんにて斯樣々々かやう〳〵と有し次第をつぶさに物語り彼忠兵衞を證據人とし私し駈込願かけこみねがひ致し度と涙をうかめて頼みける容子ようす貞心ていしんあらはれければ長助は感心なし今度忠兵衞がはからずお前方に過去すぎさりたる一けん口走くちばしりしはお光殿の貞心ていしんを天道樣が感應かんおうましまして忠兵衞にはせし者ならん如何にも此長助が一肌ひとはだぬいでお世話致さんさりながら一たん中山樣にて落着らくちやくの付し事をうつたへるわけゆゑいは裁許さいきよ破毀やぶりの願ひなれば一ト通りのはこびにては貫徹つらぬくむづからんされば長庵とやらが大雨おほあめふるかさをもさゝず曉方あけがたに平川天神の裏門通りにて行逢ゆきあひたりと云忠兵衞とかの方へおもむき證據人に必ず立と云處を突留つきとめ其上玄關げんくわん委細ゐさいを申し立もし取上てくれぬ時は駈込かけこみ願ひをすべし又幾度いくたび駈込かけこみ願ひをしても御取上に成ぬ時は月番の御老中へ駕訴かごそをすると覺悟を仕てかゝるべしと身に引受し長助がいと懇切ねんごろ言聞いひきかせければお光は飛立ばかりに喜び早々さう〳〵長助同道どうだうにて忠兵衞方へ赴きける僥倖さいはひなるかな例令たとへお光が女の身にて何樣に思ふとも外の家主ならんには勿々なか〳〵引請てくれ事柄ことがらには有らね共此長助と云家主は當時此ひろき大江戸にても三人と言るゝ指折ゆびをり公事好くじずきと名を取し男にて其頃の噂にもあさ起出おきいで神棚かみだなに向ひ先我が安泰あんたい家内かない安全あんぜん町内大變たいへんいのりしと云ふ程の心底故か御番所の腰掛こしかけにてくふ辨當べんたうは何がなくても別段べつだんうましと言しとかや何故に町内大變々々たいへん〳〵と言かと思ふに支配内に變がなければ家主は何にも面白くないと言位の人物にて麻布あざぶに三次郎しばに勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事ずき家主なり此長助にはのぞむ所の出入なりと直樣すぐさまお光が力となりしはお光か貞心ていしんつらぬく運と言も畢竟ひつきやう天より定りて人をせいするの時節じせつ到來たうらいしたりし者か此時彼瀬戸物屋忠兵衞はえき無事なきことを引出したりといろあをざめて我家へ歸來り女房のお富に向ひ突然いきなりと證據人にたてくれと道十郎の後家のお光に言れ何と云まぎらしてもとんと聞入れず漸々やう〳〵にげ歸りては來れ共お光が駈込かけこみ願ひにても及ぶ時は必ず我が名を申立べし如何してよからんやと大息おほいきついて言けるにぞ女房は聞て大いに驚怖おどろき長庵にあうた話しは容易よういならざる事故決して口外こうぐわいはなさるなと豫々かね〴〵おまへに言置しに何故然樣さやうなる一大事を云れし事哉ときいて忠兵衞は女房の手前ながらも面目なく後悔こうくわいかほにあらはるれば女房は益々こゑあららげ畢竟ひつきやうお光さんは後家なる故何か思ふ仔細が有て上り込み者ならんさも無くばひさぶりあうたお光さんに是迄はなさぬ一大事をはなさうわけがない屹度きつとお光さんの色香いろかに迷ひ私があれ程に言て置た事をも打忘れて自分じぶんから迷惑めいわくこしらへ私に相談も無い者だ夫と云も日頃から身のたしなみのわるい故とはややきかけし女房は可笑をかしくも又道理もつともなり


第十七回


 人のうれひをうれひ人のたのしみをたのしむと是は又一豪傑がうけつなりさても家主長助は道十郎後家のお光を同道にて忠兵衞のたくに到り私しは赤坂表町家主長助と申す者なりと初對面しよたいめんの挨拶もすみさて段々だん〳〵と此お光よりうけたまはりしに御自分ごじぶん事八ヶ年以前八月廿八日未明みめいに平川天神御參詣の折節をりふし麹町三丁目町醫師まちいし村井長庵におあひなされしとの事道十郎殿むじつの罪におちいりしも長庵は其あさ不快ふくわいにてふせり居り弟の見送みおくりにさへ出る事あたはざりしなどと申立し由なれ共右樣確固たしかなる證據人のあるうへからはお光殿年來の本意ほんいをも達し家主の身に取ても然樣さやうなることのしれし上は打捨うちすてては役儀もすまざること故夫々に手配てくばりなし御番所へ願ひ出るにより此時の證據人に相違さうゐ無く御立下たちくだされよとお光倶々とも〴〵退引のつぴきさせぬ理詰りづめだんじに忠兵衞は暫時しばしものをも言はざりしが漸々やう〳〵にして答るやう如何にも御噺おはなし申せし通り平川天神の裏門前うらもんまへにて其日のあかつき長庵にあひしに相違これ無ことに付其所は何處どこ迄も證據人に相立申べしさりながらふだつじの人殺しが長庵と言ふことの證據人には相立難あひたちがたしと言へば長助點頭うなづき夫は如何にも承知しようちいたしぬ只平川にて其朝まだき長庵にあひたると言ふことを發輝はつきと申立て給はらば夫にて宜しと家主長助は忠兵衞をしかと談じ其のおもむきの一札を取置さればお光殿立歸りて訴訟の支度したくに及ばんなれども忠兵衞殿には御迷惑ごめいわくなる事に候はんとあつく禮をのべ長助お光の兩人は是で此方こなた拔目ぬけめはないと小躍こをどりをして立戻り長助はたゞちに訴訟書をぞしたゝめけるすべて公事は訴状面によつ善惡ぜんあく邪正じやしやうを分つは勿論の事なれども其中にも成るとならざるとは大いにちがひあることなりたとへば町内に捨物すてものの有りし時拔身ぬきみ白刄しらはなりともさや脇差わきざし何處其處どこそこすてこれ有候としたゝめて訴へればおだやかに聞ゆるなりよつて此訟訴書の無事に御取上に成る樣にとて長助は種々しゆ〴〵に心を配り願書をぞしたゝめける其文に乍恐おそれながら書附かきつけを以て奉願上ねがひあげたてまつり候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候さんぬる寶永七年八月廿八日拂曉ふつげうしばふだつじに於て麹町三丁目町醫まちい村井長庵弟十兵衞國元くにもとへ出立仕候せつ人手ひとでかゝり相果候其場そのばに私しをつと道十郎所持印付しるしつきかさすて有之候より道十郎へ御疑念ごぎねん相掛あひかゝり候哉其節の御月番中山出雲守樣御奉行所へ夫道十郎儀病中びやうちう御召捕おめしとりに相成入牢じゆらうおほせ付けられ候處御吟味中牢死仕つり死骸の儀は御取捨とりすてに相成家財は私し母子おやこへ下し置れ候間其後私し儀は店請人たなうけにん清右衞門方へせがれ倶々とも〴〵引取り同人の世話にて當時の所へ借宅仕しやくたくつかまつり幼少の悴道之助兩人にて八ヶ年來住居ぢうきよまかあり年來夫道十郎事非業ひごふの死をなし候儀無念むねん止時やむときなく右人殺しの本人搜索たづね出し夫の惡名相雪あひそゝぎ申度心懸居がけをり候處私しもと住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者頃日このごろ不圖ふと私し方へまかこし種々しゆ〴〵話しの手續きより忠兵衞申きかくれ候には先年札の辻の人殺しは村井長庵こそあやしけれと口走くちばしり候まゝなほ實情じつじやうを承まはり候に右同日の未明みめいには長庵儀前日より病氣にて弟十兵衞の出立しゆつたつをも見送らざる旨御檢使場ごけんしばに於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ參詣さんけいし歸り同所裏門前に於て行逢ゆきあひ言葉ことばかはし候由尤も其節長庵が體裁ありさま甚だ以て如何敷いかゞしき趣きに有之候旨に御座候之に依て右忠兵衞證據人に相立あひたて此段御訴訟申上奉つり候何卒なにとぞ格別かくべつの御慈悲を以つて右忠兵衞儀御呼出よびいだし御糺しの上長庵召出めしいだされ御吟味成し下しおかれ夫道十郎の惡名相雪あひそゝぎ候樣ひとへに願上度之れによつ此段このだん奉歎願たんぐわんたてまつり候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月 南御奉行樣 右の通り訴状そじやうしたゝめ長助猶も倩々つく〴〵勘考かんがへけるに此事件は一旦中山樣御白洲しらすにて御裁許濟ごさいきよずみに成りし事なれば次第によると訴状を却下さげもどさるゝやも計り難く先年は北の御月番なりしかば此度は南の御番所へ出訴しゆつそせん然すれば御役所もちがひ殊には此頃勢州山田奉行から江戸町奉行へ御見出しに相成あひなりたる大岡越前守樣へ持出しなば御新役ごしんやくだけ御力の入られ樣も違はん又聞所きくところよれば大岡樣は往昔むかし青砥あをと左衞門にもまされる御奉行也との評判なれば屹度きつと御吟味も下さらんと家主長助もろともお光は南の役所へ駈込訴かつこみそに及びしかば越前守殿落手らくしゆ致され一通り糺問たづねの上追て沙汰に及ぶむね申わたされ其日は一同さがりけり


第十八回


 すきこそ物の上手じやうずなれとたとへの通り飽迄あくまで公事向くじむきに手なれし長助が思ひ通りの訴状御取上に成りしかばお光のよろこび一方ならず然るに三四日過て御呼出よびだしに相成越前守殿願ひ人お光清右衞門長助の三人へ申渡されけるは此訴訟のおもむきにては先年同役たる中山出雲守の係りにて裁許さいきよ相濟あひすみたる事件ことがらを再び申立る樣に聞ゆるなり然ば裁許さいきよを戻すと云ふ者にてかるからざる儀なり併しながら其始末しまつに依ては再び吟味爲まじき者にも非ず達て願ひ立ると有れば取上て一通り調べもいたしつかはさんが何れとも其覺悟かくごにて願ひ立べしと申されけるに願ひ人のお光はおそる〳〵かうべを上げ此事に付假令たとへ如何樣の儀仰せ付らるゝ共いさゝ相違さうゐの儀申上ざるにより御取調べの程ひとへに願ひ上奉つる尤も證據人忠兵衞を召出めしいだされ御尋ね下されなば委細に相分り候おもむき申立るに越前守殿然らば其忠兵衞に相尋あひたづぬる時は長庵が始末柄しまつがら相分あひわかる趣なれども先其方より一應申立べしとの事によりお光再度ふたゝびかうべを上八ヶ年以前夫道十郎儀芝札の辻に於て十兵衞と申者人手にかゝ相果あひはて候處其場に道十郎のしるし付にからかさ捨之有すてこれありしに付御疑ひ罹りしと雖も其傘は長庵方へ忘れ置たる品に相違さうゐなく候しかるに夫道十郎浪人のひんせまり十兵衞が四十兩餘の金子を持たる事を知る故あとを付來りて十兵衞を殺害せつがいなし其金を奪ひ取りしに相違なしと御檢使けんしへ長庵より申立たるに依て夫道十郎召捕めしとられ御吟味中牢死仕つりしなり長庵儀は其朝は前夜より不快ふくわいにて弟十兵衞の出立を見送りも致さゞる趣むき是又御檢使の場にて申上再應御調べの節も同じ樣に申立長庵へは御とがめもなく相濟あひすみたる所此間忠兵衞不圖ふと私し方へ參り申聞せ候には寶永七年八月廿八日未明あけがたに麹町平川天神の裏門うらもん前にて忠兵衞參詣さんけいの歸りがけ村井長庵を見請たるに其節は大雨おほあめり居候へ共長庵はかさをもさゝず濡ながら來りしに付何方いづかたへ參られ候哉と忠兵衞相尋ね候處かすみせきへんの病家へ參り候おもむ勿論もちろん其節そのせつ衣類いるゐ血汐ちしほ夥多敷おびたゞしくつきあり候に付き是又忠兵衞より如何致され候やと相尋ね候處大いに驚怖おどろき候樣子にて申けるにはアヽ殺生せつしやうは致さぬもの今犬めが餘り吼付ほえつきし故つひ拔討ぬきうち斬殺きりころしけるが其血汐の付たる者ならんと云ひて周章あわたゞしく其まゝに別れ候ひし由尤も病氣にて弟の見送みおくりもいたさぬ長庵が然樣さやう始末しまつ甚だ以てあやしく存じ候まゝ何卒なにとぞ忠兵衞へ御尋ねの上長庵を御調べの程ひとへに御願ひ申上ますと申立ければ越前守殿いなとよ願ひ人光其は容易ようゐならざる事件ことがらなれば胡亂うろんなる儀は取上には成らぬぞとく了簡れうけんして申立よ差添さしそへ店請たなうけ人清右衞門其方儀は八ヶ年以前右の事柄ことがら心得居るや又如何なるえんにて母子共ぼしとも世話致し居りしやと尋問たづねありしかば清右衞門つゝしんでおそながら道十郎は私し店受人致し候以前より別段べつだん入懇じゆこんに付店受たなうけ人に相成候所右不慮ふりよ出來しゆつたい仕つり餘儀よぎく其儘受人のよしみにて引取世話つかまつまかり在候八箇年以前御檢使ごけんしの場は存じ申さず候へ共其後右道十郎お召捕めしとりに相成御調しらべの度毎に私し儀も召出され委細心得罷り在候御調べ筋は右十兵衞事横死わうし致し候場所に道十郎所持のしるし付の傘有之候に付申わけ相立難く兩度りやうどほど長庵と突合つきあはせ御調べに相成候へ共道十郎は其前より久々不快ふくわい故申開きも心にまかせずつひに牢死に及び候に付彌々いよ〳〵長庵が辯舌べんぜつにて道十郎の罪科ざいくわに相定まり死骸は御取捨とりすて家財かざいは妻子へ下し置れ候むね其節そのせつおほせ渡され候と申立ければ越前守殿御聞有て成程其調べの儀は此越前守が取調べても其通そのとほりなり然るに忠兵衞と申者八箇年打過うちす只今たゞいまと成て右樣の儀申出ると言ふは何ぞ忠兵衞が右長庵に遺恨ゐこんにても是ある事にはあらざるか何ともあやしき證據人なり八箇年以前同役が調しらべのせつかみ然樣さやうの不吟味は是なきはずなりさりながら證據人と有る上は右忠兵衞を召出したる上にて追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶなりとあらまし御尋問たづね有りしまゝ家主長助へも其旨申渡され今日はまづ引取ひきとるべしと有りける故に皆々みな〳〵我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御呼出よびいだしに相成白洲しらすに於て越前守殿其人物を御覽あるに人のあくあげ意趣遺恨いしゆゐこんなどをふくみ又有りもせぬ事柄ことがらを申懸る樣成者に非ざる事を早くも見て取られ如何に忠兵衞其方八箇年以前寶永七年八月廿八日の明曉あかつき長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由其砌そのみぎりの始末しまつつゝまずちく一申立べしと云はれければ忠兵衞はハツとこたへしまゝあはぬばかりにて漸々やう〳〵に申立けるは願ひ人光より申上たる通り相違さうゐ御座なくとばかりなれば越前守殿おのれ忠兵衞右樣みぎやうの儀を承知して居ながら其節そのせつしかと申上べきの處只今たゞいままで打捨うちすておきし段不埓ふらちの至りなり追々おひ〳〵呼出し長庵と對決たいけつ申付るなりと一まづ歸宅きたくさせられたり偖て越前守殿此一件は容易よういならずと内々にて探索たんさく有りし所かくるゝよりあらはるゝはなしとの古語こごの如く彼の札の辻の人殺しはまつたく長庵の仕業しわざに相違なきこと世上の取沙汰とりさたもあるにより大岡殿は新役しんやく手際てぎはあらはさんと思はれ一度の吟味もなくすぐに麹町名主矢部與兵衞へ内通ないつう有つて村井長庵が在宿ざいしゆくとくと見屆させ置召捕方の與力同心をつかはされしかば捕方とりかたの者共長庵が宅の表裏おもてうらより一度に込入たる然るに長庵はことわざにいふくさい者の見知みしらずとやら斯かる事とはゆめにも知らず是は何事ぞと驚く機會とたんに上意々々とよばはるを長庵は身を退しさり人違ひにも候べし此長庵に於て御召捕めしとり相成あひなるおぼえ更になしと大膽だいたんにも言拔いひぬけんとするを捕方とりかたの人々聲をかけ覺えの有無うむは云ふに及ばず尋常じんじやうなはに掛れと大勢折重をりかさなりて取押へ遂に繩をぞ掛たりけるやがて引立られし長庵が心の内には驚怖おどろけども奸惡かんあくたけ曲者くせものなれば何の調べか知ねども我がした惡事はみな無證據むしようこ何樣なにやうに吟味筋が有るにもせよ此長庵が舌頭ぜつとうにて左りをたゞせば右へぬけ右を問はゞ左りへあやなし越前とやらめい奉行でも何のおそるゝ事やあらんと高手たかて小手こていましめの繩のよりさへ戻す氣で引れ行くこそ不敵ふてきなれ。


第十九回


 さて又大岡越前守殿役宅やくたくの白洲には召捕めしとり來りし村井長庵高手小手にいましめられ砂利じやりに居づくまる時に越前守殿出座しゆつざありて村井長庵とよばはるゝ時長庵ハツと答へければ越前守殿尋問たづねらるゝ樣其方儀さんぬる寶永七年八月廿八日の未明みめいに芝札の辻にて其方弟十兵衞横死わうしせつきたの役所へ差出したる口書の儀何としたゝめたるや覺えあらば申立べしとの事により長庵は驚きしが少しも其色を見せず空涙そらなみだを流して只今御尋ねに付思ひ出し候てもなげかはしきは私し事其前夜より病氣にて立起も自由ならずして當朝たうてう弟十兵衞出立しゆつたつの見送りも致さずひとり立せしゆゑ闇々やみ〳〵と人手に掛り相果候事殘念今に忘れ申さず候と泣々なくなく申立ければ越前守殿是をきかれ其節其方が病氣とあらば見送りの出來ぬは道理もつともなりしかしながら大金を所持しよぢせし者を夜更よふけ出立しゆつたつ致させたるは不審いぶかしき事なり何故夜明て後出立致させぬそと有りけるに長庵さればにて候私儀呉々くれ〴〵弟に夜が明て後出立しゆつたついたし候樣に申聞せ候へ共在所ざいしよに殘し置たる妻や娘に一こくも早く安堵あんどさせ度たびは朝こそ敢果取はかどれば最早もはや寅刻なゝつすぎたるゆゑ少し歩行あゆまば夜もあけなんと止むるを聞で出懸でかけしまゝ私しも病氣ながら起上おきあがり止る桐油とうゆそで振切ふりきり首途かどでなしつゝ賊難にかゝりたるは如何なる前世の宿業しゆくごふにやとあきらめ候より外に致し方無之これなきと申立ければ越前守殿假令たとへ弟十兵衞が何と申共一日や二日で歸村きそんの成るべき所にも非らざればしひても止むべきが兄たる者のじやうならずや其方が仕成しなし方甚だ以つて其意を得ずと申されければ長庵は病中びやうちうゆゑこゝろに任せず今更いまさら後悔こうくわい仕つり候併し先年中山出雲守樣の御裁許濟さいきよずみに相成候事と申す時越前守殿はつたと白眼にらまれ如何に長庵其方病中にて見送りさへ致し得ぬと申しながら何として其廿八日の未明みめいに平川天神の裏門通りをかさをもさゝず歩行ほかう致したるやと大聲たいせい尋問たづねられしかば流石さすがの長庵内心に驚怖おどろくと雖も然有さあらていにて這は思ひも寄らぬ御尋問を蒙る者かな然樣さやうの儀は更におぼなく御座候と何の氣色も無く申し立ければ大岡殿おぼえ無しと云はさぬぞと言はるゝをも待ず長庵其人殺しは浪人道十郎とさだまり御吟味濟ぎんみずみに相成たる儀を何故今更に疑ひを以て私しへ仰せきけらるゝやと申立るを越前守殿きかだまれ長庵其みぎりは確然しかとした證據人のなかりし故なり此度は其せつの證據人と對決申し付る間其時有無うむこたゆべしと申さるれども長庵は空嘯そらうそぶき一旦御吟味濟に相成たる事件ことがら再應さいおうの御調べなほしは何とやらん御奉行所の御裁許はふたあるやうに存じ奉つると公儀こうぎの裁判所をも恐れず傍若無人ばうじやくぶじん言立いひたてなれば越州殿ゑつしうどのにも不敵の奸賊かんぞくなりと目をつけられしかども一旦中山殿奉行所にて裁許さいきよの有りし事件ことがらなれば何と無く斟酌しんしやく有て暫時しばらくかんがへ居られしが又猶申さるゝは其折道十郎なる者吟味づめに相成りしわけには之なく牢死らうししたる故其儘に成りをりしなり存生ぞんしやうならば外に吟味の致し方も有りしならんしかるに只今の一言奉行所の不行屆ふゆきとゞきの樣に上の御政度せいど批判ひはんに及びし條彌々いよ〳〵以て不屆き至極なり右樣の儀を口走くちばし後悔こうくわいするなと云はるゝに長庵は猶もらずがほに御吟味の行屆ゆきとゞかざると申たる譯には御座無く全く御裁許さいきよ相濟あひすみたればこそ道十郎が死骸は取捨仰せ付けられ又た家財かざいは妻子へくだおかれしと申立る時越前守殿一そうこゑ張揚はりあげだまれ長庵夫等それらの儀をおのれに問に非ず道十郎は此儀ばかりにかゝはらずべつに仔細有て死骸は取捨申付られたるなり餘事よじの答へには及ばず其方其夜は病中にて他行たぎやう致したる覺えなしと言へども其證據有りや如何にと尋問たづねらるゝ長庵冷笑せゝらわらひ別に證據と申ては御座無候へ共町役人一同其あかつき私し打臥居うちふしをり候所へ參り候間皆能々よく〳〵存じ居候と云へば越前守殿夫は證據に成難なしがたよつて此度再應さいおう調しらべに及ぶなり奉行所には證據人有るぞよ夫にては其方に明白めいはくの申開きありやと申さるれば長庵私し病氣故弟十兵衞が夜中の出立を見送る事も出來ぬ身を以て如何いかん他行たぎやうなどの出來申べきや其へんとくと御賢察下けんさつくだされ度とまことしやかにちんずる形容ありさま越前守殿見られてわざおもてやはらげられ其方は強情がうじやう者なり追て證據人を呼び出し對決申付る其節閉口へいこう致すな依て吟味中入牢じゆらう申付るとあとの一聲高く申渡さるゝに兩人ふたりの同心立懸たちかゝり長庵を引立て傳馬町へと送られしは心地こゝちよくこそ見えたりけり嗚呼あゝてんなるかなめいなるかな村井長庵弟十兵衞を殺害せつがいせし寶永七年八月廿八日の事成るに八ヶ年の星霜せいさうし今日露顯ろけんに及ばんとする事衆怨しうゑんの歸する所にして就中なかんづく道十郎が無念むねん魂魄こんぱくとお光が貞心ていしんを神佛の助け給ふ所ならん恐るべしつゝしむべし。


第二十回


 さてよく日大岡殿には願ひ人長助光并びに證據しようこ人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞相手方あひてかた村井長庵とを呼出しになり越前守殿出座しゆつざありて一同呼上よびあげる時大岡殿忠兵衞へ向はれ其方事今日は長庵と對決たいけつつける間天神の裏門前にて同人にあふたる趣き發輝はつきと申立よと申渡され次に長庵其方の弟十兵衞出立のあさは病中にて有りしと申が平川天神裏門通りを其朝まだきに傘をも持ず歩行せし時其方に行逢ゆきあひし者あるよし然る上は其節病中との申立はいつはりならんと有りければ長庵不審ふしんさうなる面色おももちして決して他行は勿論もちろんかどへも出申さず候とまことしやかに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞たゞちに白洲へ呼込よびこみと相成長庵のかたはらに蹲踞うづくまる是を見て流石さすがの長庵すこしく顏色がんしよくかはりしかば越前守殿いとしづかにいざ長庵夫にる忠兵衞こそ彼の日のあかつきに其方にあひし趣きなりと云はれしに長庵は忠兵衞を尻目しりめかけ恐れながら申上候何者がかゝる事を言上ごんじやうに及び御疑ひをかうむり情け無くも仁術じんじゆつむねと仕つり平生へいぜい慈善じぜんを心懸候某を御召捕に相成し哉と存じ居候所扨は此忠兵衞が仕業しわざなるか夫にて漸々相分り申候此忠兵衞事私しへ對し遺恨ゐこんの儀御座候に付かくはからひ私しを亡者なきものにせんとのたくみに相違御座なく候と申立るに大岡殿して其方忠兵衞より請たる遺恨ゐこんと云ふは如何のわけなるぞと云はれければ長庵此儀はちと私しの口よりは申上難く候とて恥入はぢいりたる容體ようすに見えける故越前守殿兎も角も其方忠兵衞に遺恨を請し次第をつまびらかに申立よと有りしかば長庵然らば言上ごんじやう仕つり候じつは私し事忠兵衞のつまとみと久しく密通みつつう致し居候處煩腦ぼんなういぬおへども去らずつひに先月の半頃なかごろ忠兵衞に見顯みあらはされ面目も無き次第故私しも覺悟を致し斯成かくなるうへ重置かさねおかれ二ツにせらるゝとも致し方無く思ひきつて云ひけれど忠兵衞儀は妻に未練みれんの有る處より私しばかり殺すわけにも相成あひならず其場をも見遁しくれ候間此大恩は忘れまじと其以後は急度きつとつゝしみまかあり候然るに私しを生置いけおいては妻の事心元無く思ひてやいはゆる犬のくそにて敵きと申如くありもせぬ事を申上長庵を罪科ざいくわおといれおのれが女房をば其儘に致し置べき忠兵衞がたくみと心得候見顯みあらはされし其みぎり助けくれしは却つてあだにて情けなき了簡れうけんに候と涙を流して申立しかば越前守殿倩々つく〴〵きか扨々さて〳〵めずらしき事を聞者哉きくものかな其趣そのおもむきならば汝は立派な好男子也いゝをとこなり併しながら忠兵衞妻は餘程よほど好者ものずきなりとたはふれられしかば長庵眞顏まがほにていやさ世には相縁あひえん奇縁きえんと申事も御座候と申けるは如何にも不敵々々ふて〳〵しき曲者なり越前守殿如何に忠兵衞長庵の申立而已のみにては胡亂うろんなり先月中旬ちうじゆんころ其方がつま富儀とみぎ長庵と密通みつつうの場を其方露顯はせし事のありやと尋問たづねられしに忠兵衞は然樣さやうの儀は一切御座なく候恐れながら私し家内かないに限り右樣密通など仕つる者にては御座無く候と申立ける時大岡殿さらば其方が妻富を明日召連めしつれべく旨忠兵衞并に差添さしぞへの町役人へ申渡され白洲しらすは引けければ忠兵衞は心も空に立戻り云々しか〴〵なりと長庵が言掛いひかけし事をはなすにぞ女房お富はあきはて暫時しばし言葉ことばもなかりしが夫と云ふも皆お前がらちも無き事を云ひ出してこんなさわぎに成りしなり初めから私し呉々くれ〴〵口止くちどめをしておいたるを後家のお光にまよひし故口走りたることならんと立たり居たり狂氣きやうきの如く悋氣りんきまじりにさわぐにぞ忠兵衞は更にいきたる心地もなく成事なることやと夜の目もあはさずはや翌日にも成りければ止事やむことを得ず夫婦連立つれだち町役人に誘引いざなはれ奉行所さして出行いでゆきけりやがて白洲へ呼込よびこまれけるに長庵はの忠兵衞めがいらざる事をしやべりてかゝ時宜じぎに及ばせたれば今日こそは目に物見せんと覺悟をきはめて引居ひきすゑられたる其折柄をりから越前守殿一通り忠兵衞が妻のお富へ尋ねの有りしうへ相方さうはうの申立かた相違さうゐに依て對決申渡す長庵も毛頭もうとう他出たしゆつは致さぬとのおもむきなり忠兵衞に於ては胡亂なる儀申立ては相濟あひすまんぞ心をしづめて對決に及ぶべしと申渡されける依て三人はかほを見合せ居たりしが忠兵衞やがて長庵に向ひ長庵殿如何に貴殿きでんうらみ有などと云ふ事は思ひもよらされども八ヶ年以前八月廿八日のあかつかた平川天神へ私し朝參あさまゐりのもどがけ同所裏門前にて貴殿にあひし時衣類いるゐの血を見て貴殿に尋ねしかば犬をきりしと云れたる事のお覺え有らんと云ふ顏を長庵はつたとねめつけおのれ忠兵衞貴樣きさま餘程よほど愚痴ぐちなる奴かな如何に女房に未練みれんが有ればとて餘りににく仕方しかたなり此長庵がいきて居て心配なるとか又近所で安心あんしんならぬと思ふなら何所どこなりとも引越ひきこしなば仔細しさいは有るまじ勿論もちろんやけぼつくいには火のつきやすたとへも有れば不安心に思ふも道理もつともなり然し一たん勘辨かんべんした事を又別段に手をかへて此長庵をくらき所へまでいれたるは餘りの口惜くちをしき次第なり最初さいしよ斯の如きの了簡れうけんならなぜ男らしくせざるぞや貴樣に日外いつぞや申せし通りかさねて置て二ツになりと四ツに成と勝手かつてにすべき者をと云ひければ忠兵衞はかしらをあげ長庵殿には取逆上とりのぼせしか貴殿の云ふ事少しも分からず申せば長庵聞て譯らぬとは麁言そごんなり貴樣こそ取逆上とりのぼせしとみえたり密夫まをとこたりと我口より云て居る此長庵を殺さば殺せ覺悟なりと己れが舊惡きうあくあらはれ口を横道よこみち引摺込ひきずりこんふせがんと猶も奸智かんちめぐらしけるに忠兵衞の妻お富は長庵がいふ事を始終しじうもくして聞居たりしが眞赤まつかに成たる顏をげ若し長庵殿言事いふことにも程が有る近所きんじよには居らるれどもお前とは染々しみ〴〵もの言換いひかはした事も無いに私しと密通みつつうを仕て居るなどと根も葉も無事なきこと何程いくらいふても此方こつちが知らぬ事なればかまいは無けれど御かみ御前ごぜんをつとの手前私しは面目めんぼくないぞへと云へば長庵大聲おほごゑあげ此女め今と成て御上の前夫の手前のはゞかるもよく出來できつれにげくれろの一しよに殺して呉ろのと言た事を忘れたかとまことしやかにのゝしればお富はあきれて涙も出ず暫時しばしもくして居る容子ようすに大岡殿は長庵が言掛いひかけなりと思はるれどわざことばゆるめられ双方さうはう無證據のあらそひなれば猶吟味をとげんと申されるをきゝ忠兵衞はたまかね長庵事私し妻と密通みつつうを年來致し居候由いつの頃よりの事なるや又其都度々々つど〳〵の事合宿あひやど何處いづこなるや長庵へ御尋問たづねの程願ひあげますと申立ければ越前守殿微笑ほゝゑみながら如何にも道理もつともなるたづねなり如何いかに長庵何頃いつごろよりつうあひ幾日いくにちのひ何方いづかたにて出合しや有體ありていに申立よとあるにぞ長庵さればにて候一兩年以前より度々たび〳〵密通に及び候間日月の儀は失念しつねん致し候場所はいつも私宅にて出會候處忠兵衞に先月の中旬頃見付られ候と申ければお富は大いにいかりまだそんなありもせぬ事を云ふ人哉第一先月のころ子宮病まへのやまひにて醫者にかゝ勿々なか〳〵そんな事はとお富の答へを大岡殿打聞れ斯ては長庵其方のいつはりに相違なし子宮病まへのやまひと有ばよも奸通かんつうは致されまじ然る上は其方先月密會みつくわいをり忠兵衞に見顯はされしと言ひしは跡形あとかた無事なきことならんと言はれるを長庵ぬからず成程先月頃は病氣にて密通みつつう致さねどもたゞて居し處を見顯みあらはされしと云ひなほさんとするを越前守殿大音あげおのれ長庵初めは密通に及びし處を見付られたりと云ひ只今富が申立になづみてたゞ寢て居た處などと云ひまぎらせし段重々ぢう〳〵不屆至極なり假令此上如何樣にちんずる共決して申譯は相立ずと天眼通てんがんつうの一言に流石の長庵いやそれはと云たばかりで答へもなく差俯向さしうつむいて居たりしかば大岡殿長庵を見られ依て一事が萬事なり十兵衞を殺害せつがいせしも其方がわざ相違さうゐあるまじ然るを道十郎にむじつの罪を負せ公儀をいつはる段重々不埓ふらちの奴なり斯成かくなる上は有體に申立よとさとさるれども一言の答へもせざれば其日はみつ并に忠兵衞夫婦ふうふを下られ其後段々長庵を吟味の上願ひ人光并に店請人たなうけにん清右衞門をも呼出されからかさの一條其外種々取調べと相成り長庵の惡事顯然げんぜんなりと雖も當人は曾て知らざる旨申はり何分なにぶん白状はくじやうに及ばざれば是非無く拷問がうもんにかけ石を七枚迄だかせると雖も一言も云はざる故しばらく拷問を止めしうち追々長庵が惡事數ヶ條ほころびけるは天のゆるさざる所と云ふべきのみ


第二十一回


 こゝに彼長庵が惡事の手先てさきはたらき十兵衞の女房お安を吉原の中反圃なかたんぼにて殺害に及びし小手塚こてづかの三次舊名もとのな早乘はやのり小僧の三次其頃火附盜賊改め石原清右衞門殿へ召捕に成りしに舊惡きうあく追々露顯ろけんしとても助からずと覺悟を極め彼長庵にたのまれて先年淺草中反圃にて十兵衞の女房お安を殺害せつがいなしたる一條逐一白状に及びしかば町奉行所へ引渡に相成其年の舊記きうきを御調べ有りけるに「正徳三年十二月十八日 百姓ていの女の死骸しがい年三十七八歳位衣類いるゐ木綿もめん手織縞布子ておりじまぬのこ木綿じゆばん半纒はんてんを着し身の疵所きずしよより腹へかけ切疵きりきず一ヶ所脊より突貫つきとほしたる疵一ヶ所のど突込つきこみし疵一ヶ所兩手のゆび不殘のこらず切落きりおとしあり右之通り心當の者是有候はゞ月番松野壹岐守役所へ申出べく候事十二月」右は其節そのせつ見知りの人も之れなく御取片付かたづけと相なりしに三次の申立により十兵衞の妻お安なる事相分り彌々長庵の重罪相顯あひあらはれしかば越前守猶長庵を取調べられ三次が白状のおもむきを申聞らるゝに長庵心中に是はと仰天ぎやうてんなせしかども急度きつとはらこれとても更に知らずとの申立によりて又もや三次を呼出よびいだ突合つきあはせの上吟味有りけるに長庵三次に向ひ拙者せつしやは村井長庵と申町醫なり貴樣には何といふひとなるや見し事も無き御方なりと素知そしらぬ顏して云ひけるを三次聞て大いに笑ひ何と云はるゝや長庵らう牢屋らうやくるしみにて眼もくらみしや確乎しつかりし給へ小手塚の三次なりと云ひければ何ぞ牢内らうないの苦しみがつよければとて知己ちきの人をわすれんや更に貴樣は知らぬ人なりと再度ふたゝび云へば三次はあきはて嗚呼あゝよめたり長庵らうお安の一件をおれが白状せし故其惡事をかくさんが爲にとぼけらるゝか其所らは貴殿より此方が苦勞人くらうにん最早何も斯も御上へ知れて居る己が白状しねへとておたがひに助からぬ命なり意地いぢ不潔きたな愚圖々々ぐづ〳〵せずと奇麗きれいに白状して惡徒あくたうは又惡徒だけ男らしく云て仕舞と云へば長庵は彌々空嘯そらうそぶき三次とやらん何をいふおれには少しもわからぬ繰言くりごと然乍さりながら弟十兵衞の女房お安も拙者の方へ來て居たが思出せば七年あと不圖ふと家出いへでして歸らぬゆゑ如何なしたる事ならんと思ひ出た日を命日めいにちに佛事をいとなみ居たりしがさては貴樣が殺したるかと然も驚きたる樣子をなせば三次は最早やつきとなりとぼけなさんな長庵老屋敷へ出すとお安をあざむき妹娘を苦界くがいしづうかなき罪科つみとがを虫が知たかお安めが二人の娘にあはしてれと晝夜をわかたず口説立くどきたてあはして遣ればお富をもうつた惡事が露顯ろけんなし内から火事を出す都合つがふ可愛想かはいさうだがお安をば何處どこかへ連出つれだし人知ず殺してくれろと頼んだことをよもや今更いまさらわすれもしめへと云ふと長庵落付おちつきはらひ夫は其方そなたが殺した話し此長庵は知らぬ事御奉行樣宜敷御推察すゐさつ願ひますと申立れば越前守殿かねて目をつけられし如く是又長庵が惡事なりと思はるれ共本人の口より白状はくじやうさせんと猶もことばやはらげ三次が斯迄かくまで申てもおぼなきやと言はるれば長庵さればにて候此上骨身ほねみをひしがるゝともおぼ無事なきことは申上難く候と言ひつのるにぞ然ば猶後日の調べと再度さいどどうさげられ長庵三次の兩人は又も獄屋ごくやへ引れける


第二十二回


 こゝに又伊勢屋五兵衞の養子やうし千太郎はもとの番頭久八がなさけにておのれ引負ひきおひの金迄も久八が自分に引請ひきうけつひに是が爲に久八は年來ねんらいつと白鼠しろねずみと云れし功も水のあわとなし永のいとまと成し事其身をすて養子やうし千太郎の離縁りえんつなとめしは最初さいしよ其身が主人五兵衞を説勸ときすゝめて養子となせし千太郎なれば殊更忠義をつくせしゆゑ千太郎の代とも成るならば舊の支配人に召使めしつかはんとかたく約束なし千太郎より書面しよめん迄も久八へ渡し置千太郎も久八が忠義の異見いけん骨身ほねみ染渡しみわたり一旦迷ひし小夜衣も長庵のめひなれば五十兩のかたりも同腹どうふくにてなしたる事ならんと思ふ故愛想あいそもこそもつき果しかば其後はたえくるわへ足向もせず辛抱しんばうして居たりし程に見聞人毎ひとごとに久八の忠義により伊勢五の養子も人に成たりとほめければ久八もかげながらよろこびつゝおのれが今の姿すがたも打忘れてぞ居たりける然るに丁字屋の小夜衣は伯父をぢ長庵が惡計あくけいに罹りて戀しき人の憂目うきめに逢し事よりして愛想あいさうを盡されしとはつゆ程も知らざればほか増花ますはなの出來もやせしかもし御煩おわづらひでも成れはせぬかと山口巴の若い者や女中ぢよちうに樣子をたづねてもおたなすぐには參れねどお文は都度々々つと〴〵中宿迄なかやどまで御屆おとゞけ申て置ましたが其處そこへもたえて御出のないよしもつとも其後お變りなく御辛抱しんぼうとの事ゆゑにいづれお出で有ませうと取り留もなき挨拶に詮方せんかたつきて小夜衣はたゞ明暮あけくれ神頼かみたの神鬮みくじ辻占つじうら疊算たゝみざん夫さへしるしの有ざれば二かい廻しの吉六を一寸ちよつとと云て小蔭こかげまねき今日は何樣どうとも都合つがふなし是非若旦那へ此文を手渡しにして今夜にも必ず御出の有やうに其言傳そのことづて斯々かう〳〵幾干いくら小遣こづかにぎらせれば事になれたる吉六ゆゑ委細承知と請込うけこみつゝ三河町へといそゆき湯屋ゆやの二階で容子ようす索搜たづね密々こつそり呼出よびだし千太郎に小夜衣よりの言傳ことづてくはしく語りおいらんは明てもくれても若旦那の事のみ云れて此頃はないてばつかり居らるゝを何程なんぼ御店がお大事でもたえておあしむかぬとは餘まり氣強きづよき罪造り何樣どうかお都合なされし上一寸ちよつとなりともお顏をみせてと云を打けし千太郎は是さ吉六殿お前迄が馬鹿ばかにして此千太郎をだます氣かの小夜衣の狐阿魔きつねあまつら似合にあは薄情者はくじやうものお前は知らぬか知らねども彼奴あいつ伯父をぢの長庵とはらを合せて先々月せん〳〵げつおれから金を五十兩かたり取たは是々の始末しまつで己の命をもすですてんとせし程のさわぎをさせて置ながら又今となりあひたいとは如何にだますが商賣しやうばいでも餘りにおし強過つよすぎると取ても付ぬ挨拶に吉六暫時しばしあきれしが夫は長庵が一ぞん惡功わるだくみせし事ならん小夜衣さんにかぎつては其樣そんな御人じや御座りません早速さつそくかへつておいらんへ其御話しを致しませうと吉六息切いきせき立戻たちもどり一じふを小夜衣へ話せば小夜衣仰天ぎやうてんの伯父さんの惡巧わるだくみ大事の〳〵若旦那を愛想盡あいそづかしをさせるとは思へば〳〵うらめしと齒噛はがみをなせしが其まゝにウンとばかりに反返そりかへれば姉丁山もかけ來り漸々やう〳〵にして氣は付共前後正體なく伏居ふしゐるを丁山吉六ちからを付一度文を認めさせ又吉六を三河町へ急がしたてて遣ければ猶千太郎を呼出よびいだし小夜衣よりの言傳ことづてと有し樣子やうす物語ものがたり文もこゝにとさし出せど手にだにとらず千太郎はそで振拂ふりはらひ立歸るを暫時しばしと止め種々さま〴〵請勸ときすゝめしゆゑ澁々しぶ〳〵ふみ取上てふう押切おしきりよむしたがひ小夜衣は少しも知らぬ眞心まごころえ伯父長庵が惡事をなげき我身をかこかなしむさま如何いかにも不便ふびんと思ふよりたちまちくるふ心のこまやゝ引止ひきとめん樣もなく然樣さうなら今宵こよひはしりと彼の久八の異見いけんわすれ何れ返事はあうての上と言ば吉六しめたりと雀躍こをどりなして立歸りぬそれより千太郎はたな都合つがふ言拵いひこしらへ我が家を出ると小夜衣がもとへ其まゝいたりしかばたえて久しき逢瀬あふせかとほかの客をばみなことわり其宵ば部屋に差向さしむかひ伯父長庵が惡巧わるだくみ何と御わびの仕樣もなく私しまでさぞにくしと思すらん然はさりながらゆめにだも知らぬ此身の事なればたゞ堪忍かんにんをとなげかれてつひに心も打解うちとけつゝ再びまよふ千太郎忠義一圖の久八が異見いけんくぎゆるめし事嗚呼是非もなき次第なり。


第二十三回


 天命てんめい是耶ぜか非耶ひかいはるは伯夷傳はくいでん要文えうぶんなるべしこゝに忠義にこつたる彼の久八はから光陰つきひおくれども只千太郎の代に成て呼戻よびもどさるゝをたのしみに古主こしう容子ようすを聞居しが此頃人のうはさには伊勢五の養子千太郎は再度ふたゝび小夜衣のもとかよひ初めしと聞えしかば以てのほかおどろけども是は全く人の惡口わるくちならん千太郎樣にはよもや我が異見いけんわすれはしまじと打過うちすぎけるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと鐵砲笊てつぱうざるかたにかけて行過ゆきすぐ折柄をりから向ふより御納戸縮緬なんどちりめん頭巾づきんかぶ唐棧揃たうざんそろひの拵へにてたゝみつきの駒下駄こまげた穿はき身奇麗みぎれいなる若い者此方こなたをさして來掛きかゝるを近寄ちかよりればまがふ方なき千太郎成ければ是はと思ひし久八よりも千太郎は殊更ことさら驚怖おどろきしが頭巾づきんとり何喰なにくはぬ顏にて是は久八殿何所へゆかるゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八熟々つく〴〵打詠うちながなみだをはら〳〵と流しなさけなき御心哉おこゝろかな假令たとへなに云紛いひまぎらさるゝとも朝歸りは知れてある未だ御身持をなほし給はぬか今の我が身がつらいとて御異見いけん申では御座りませぬみな御身の爲なれば少しは以前の御難儀を思し召されて御辛抱しんばうを成さる事は出來ぬかや此後このご屹度きつとつゝしむとかたちかひの御言葉ことばをよもや忘れは成るまじとかき口説くどかれて千太郎は何と答へも面目めんぼくなくきえも入たき風情ありさまなりやゝあつて久八に向ひ段々の異見いけん我が骨身ほねみこたへ今更わびんも樣なし以後は心を入替いれかへ急度きつと辛抱しんばうする程にとなかぬばかりにわびければ久八も漸々やう〳〵おもてやはらげなほ種々いろ〳〵と異見に及び御歸りのおそく相成てはと別れて猶も後見送りしが千太郎ははからずも久八に行逢ゆきあひ面目めんぼくなきまゝ兩三日は辛抱しんばうなせしがほどすぎるにしたがひ又もや夜ごとに通ひ居たりしに其後朝歸りのみちすがら向ふより來るは又々久八なれば夫と見るより千太郎は土手下へ駈下かけお畔傳あせづたひにあとをも見ずににげさりけり斯ることの早兩三度に及びし故流石さすがの久八もいきどほり我が忠義のあだ成事なること如何いかにも〳〵口惜くちをしや今一度あうて異見せん者をと其後吉原土手のほとりへ毎朝早くより久八は出行いでゆき蘆簀茶屋よしずぢややかげひそみて待つとも知らず三四日すぎ飮馴のみなれぬ酒の二日ゑひおもひたひを押ながら二本づつみを急ぎ足に歸る姿すがたり過し久八は千太郎がうしろより若旦那お早うと云ふ聲聞て千太郎はにげんとするを久八がすかさずたもとに取すがり此程もあれほど御いさめ申せしにお通ひ成るは何事ぞ其後も度々御見かけ申せど此久八にかくまはり少しも御身の落付ぬは如何なる天魔てんま魅入みいりしやと涙を流し足摺あしずりしつゝ千太郎がむねづくしをしかとらへて異見やら又つぶやくやら我が正直しやうぢきなる心より狂氣きやうきの如く身をふるはしこなたへ御座つて篤くりと此久八が言事を御きゝなすつて下されとまだ朝まだきで人通りの無を幸ひ中反圃なかたんぼの地藏の影へ引摺ひきずりゆきなほ段々だん〳〵と異見をなすに千太郎も我が身ながらあまりとや思ひけん一言も言ず只々たゞ〳〵ゆるしたまへとばかりにて兎角とかくするうち久八が忠義一圖に手先迄凝固こりかたまりて千太郎が咽喉のど呼吸こきふを思はずもしめたるものか千太郎はアツと仰向のつけたふるゝにぞ久八大いに驚怖おどろき周章あわてこれ如何どうしてからんと田溝たみぞの水を手拭てぬぐひひたして口にふくますれど全く息の絶たる樣子に久八今は途方とはうくれてんあふぎ地にふしかなしみ歎き我が身程世に因果いんぐわなる者はなし主人の養子が引負ひきおひを身に引受てかくはぢも若旦那樣を眞人間まにんげんにして上たさにいとはゞこそなほ御異見を申氣の如何にこるとて此手先と我と我が手に喰付くひつきしが覺悟を極め此おもむきを御番所へ自らうつたおほやけの御はふどほりに御仕置を受るがせめての罪ほろぼし然樣じや〳〵とひとごとやがて千太郎の亡骸なきがらに打向ひあまりあなた樣の御身の上の御爲を思ひこみかく始末しまつに及びし事御わびは程なく黄泉あのよにて申上てと伏拜ふしをがみ夫より一さんに南の町奉行所へ駈込かけこみ私しは主殺しの大罪人だいざいにん御定法ごぢやうはふの御仕置しおき願奉つると申たてければ役人共は一時發狂人はつきやうにんと思ひしが容易よういならざるうつたへなればすぐに一通り調しらべ有てなはかけられ越前守殿の白洲しらす呼込よびこみと成しかば久八有し次第を逐一に申立し時既に其場所よりも横死わうし人のとゞけ出けるにより先久八は入牢じゆらう申付られ檢死けんしを其場所へつかはし取調べに相成けるに年頃廿二三歳身のうちに疵所きずしよ是なくのどくびりしていにて伊勢屋五兵衞の養子千太郎に相違なきおもむきは久八より申立にて知られし事なればすぐに三河町の伊勢屋五兵衞をよび出しに相成五兵衞より親里おやさと富澤とみざは町甲州屋吉兵衞方へ知らす夫より同道どうだうにて彼土手下かのどてした檢使けんしの場へまかり出吉兵衞二男にて五兵衞方へ養子やうしつかはせし千太郎なるむね口書こうしよになり右に付死骸しがいは五兵衞吉兵衞の兩人へ引渡しに成たりける元より久八がくびころしたるおもむ自訴じそせしかば翌日甲州屋吉兵衞伊勢屋五兵衞久八の伯父をぢ六右衞門一同等御呼出よびだしにて調べとこそは成りにけれ。


第二十四回


 然程さるほどに大岡殿にはよく直樣すぐさま吉原土手下どてしたの人殺し一でう調しらべとなり其人々には駈込訴人かけこみそにんこく町二丁目甚兵衞だな六右衞門方同居久八右久八伯父をぢ六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ昨日相尋あひたづねし通り其方そのはう舊主人もとしゆじん養子やうし千太郎を締殺しめころせしだんもつと重罪ぢうざいなり然ながら後悔こうくわい致し自訴じそに及びし段神妙しんめうたり其始末しまつは何故何樣の所業しよげふに及びしや仔細しさい有る事ならん眞直まつすぐに申立よと有ければ久八かうべたれ私し事はからずも千太郎を締殺しめころし候別段に仔細しさいと申は是無全くあやまつて殺せしに相違さうゐ御座なく候と申立るに大岡殿否々たゞあやまつて殺せしと云ふこと有まじ何成なんなりとも事がらつゝまず申立よ又六右衞門其方事何等の縁合えんあひを以て此久八をば世話致しをるかつ此度の義に付心當りも是有これあらば申立よと申されし時六右衞門つゝしんでかしらを上げ私事は生國三州藤川宿に御座候藤川近在きんざいまかあり候兄の久右衞門儀先年捨子すてごもらうけいつくしみ養育なし廿箇年以前私し方へ連參つれまゐ何方いづれへ成共奉公致させ呉候樣にとの事に付私し世話致しすなはち三河町伊勢屋五兵衞方へ奉公すみ致させ候處一事のあやまりも無奉公を大切に勤めし故主人の氣にかなひ店の支配しはいをも任せられ私し儀も安堵あんど致し居候に昨年不慮ふりよの儀にて永のいとまに相成廿餘年の勤功きんこうを水のあわとなし其上此度の大罪私しに於ても何故なにゆゑに右樣所業しよげふ致し候更々さら〳〵分明わかり申さず候と申立る依て一同へも段々だん〳〵手續てつゞき尋問たづねに相成翌日又々久八六右衞門兩人を呼出してなほ又調べの處六右衞門申立る樣昨日も申上候通り久八儀誤りにもせよ主人をがいし候など申儀は私しに於ても一圓合點がてん參り申さす候此度このたびの一條何分にも其意を得難えがたきことに候當時たうじいやし渡世とせいを致し居候ても正直しやうぢき一三まい出精しゆつせい致し居候と申上ければ越前守殿久八に申さるゝは其方事昨日も尋問たづぬる通り千太郎をがいしたるにはべつに仔細の有事ならん其仔細もあらば包まず有體ありていに申立よと有りければ六右衞門久八に向ひ御奉行樣のおほせなり其次第を包まず委細に申立よ千太郎殿の事に付ては取分とりわけかげなり日向ひなたに成て心をつくし又大旦那五兵衞殿へ廿年來律義りちぎに勤て主思ひの聞えも取たる其方成らずや何とて千太郎殿を締殺しめころしたるや我にも更に仔細がわからず一伍いちぶ一什しじふを御奉行樣へ申上よと六右衞門の言葉に久八涙を流し只今伯父をぢ六右衞門申上たる通り二十箇年以前五兵衞方へ奉公住仕つり居り候處よんどころなき譯合わけあひにて私し五十兩のつかひ込に相成終にながいとまを受候儀に御座候又千太郎儀を誤つて殺害せつがいせしも畢竟ひつきやうは其と云懸いひかけしが口ごもり何事も皆前世の約束と斷念あきらめ居候得ば一日も早く御仕置しおきを願ひ上候又伯父樣にも是迄の事と思し召下めしくだされよ兎角とかく不屆ふとゞき者と御憎おんにくしみも候はん殊に長々の世話に預りたる御恩をも報じ申さず未來みらい永々えい〳〵の不孝此上なく是ばかりが殘念ざんねんに候なり何卒此段御勘辨かんべん下されよとかうべ砂利じやりに摺付しばらく泣伏なきふし居たりける越前守殿いなこれには何か深き仔細ありと見て取られ押返おしかへして如何に久八其方事御所刑しおきの儀は願はずとものがるゝ事に非ずさりながら公儀こうぎに於ては事實ことがら分明ぶんみやうならざる上は假にも御所刑しおきには爲給はず其方唯今申たるには千太郎を締殺しめころしたるも必竟ひつきやうはと言しが五十兩の金子の事ならん其五十兩の引負金ひきおひきんと云は如何の譯にて何につかすてしや有體ありていに申立よとの事に至り久八は元より千太郎の引負金を我身に引請ひきうけたる事がらを今さら云出せば主人千太郎を締殺しめころしたる而已のみならず同人の惡名迄あくみやうまであらはすこと本意なしと思ひける故今迄はいさゝかも云ひ出さずつゝかくして居たりしが段々だん〳〵嚴重げんぢう尋問たづね公儀おかみいつはらんもおそれありと思ひ定めて漸々やう〳〵かほを上げ追々事をわけての御尋問に付此上は包まず申上るなりもと主人伊勢屋五兵衞事世つぎの男子これなく相應さうおうの養子もあらばと探索たづねるうち千太郎事を申込候者これ有しに五兵衞持參金ぢさんきんなくては不承知ふしようちなる由を承まはり私しより段々と五兵衞へ申進め終に千太郎を養子に致し候儀に御座候然るに千太郎若氣わかげあやまりにて新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に馴染なじみし處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也とあざむかれ五十兩かたり取れ候由其せつ千太郎の容子ようす怪敷あやしく見受候まゝ私し異見を爲し樣子を承まはり候へば云々しか〴〵なりと申に付千太郎の一時みせより持出もちいだせし五十兩を私し引負金ひきおひきんなして永のいとまになりし節千太郎へ呉々くれ〴〵異見を申以後急度きつとつゝしみ候筈に付私し儀もうれしく存じ五十兩の金子は今以て私しより少しづつ返濟へんさい致し居候然るに先日私し事千住の紙屑問屋かみくづくどひやへ參りし途中とちう吉原どてにて千太郎が朝歸りの體を見受候まゝ其のせつあつく異見仕つり必ず遊女通ひ相止候つもりの處兩三日すぎ又々土手にて見受候得ども私しの姿すがたを見るやいな直樣すぐさま横町にかくれ候事三度に及び候故餘り殘念に存じ其翌日より千太郎のもどり道に待受をり漸々やう〳〵面會めんくわい致し候間土手下より中反圃までむなぐらを取て連行つれゆきくやしいやらかなしいやらにて夢中むちうに成萬一もし手をゆるめなば迯出にげいださんとなす故我知らずつよおさへしにあやまりてのど呼吸こきふを止めしにや息のえたるにおどろきつゝ種々しゆ〴〵介抱かいはうなしけれ共蘇生よみがへ容子ようすなく暫時ざんじつめたくなり候まゝ當御奉行所へ御訴へ申上候儀に御座候と申立ければ慈仁じじん無類むるゐの大岡殿ゆゑたちまち久八の廉直れんちよくなるをさとられ然も有べし〳〵とて其日は白洲しらすとぢられけり。


第二十五回


 さても享保二年四月十八日越前守殿には今日村井長庵が罪科ざいくわ悉皆こと〴〵調しらべ上んとや思はれけん此度の一件にかゝり合の者どもを悉皆のこりなく呼出よびだされ村井長庵は兩度りやうど拷問がうもんにても白状はくじやうせざる事故身體しんたいつかはてかゝる惡人あくにんなりといへどてんさだまりて人をせいするの時節じせつ到來たうらいなし目もあてられぬ有樣にてなはつきの儘白洲しらす中央ちうあう引据ひきすゑられたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目家持いへもちしち兩替りやうがへ渡世とせい伊勢屋五兵衞富澤町の古着ふるぎ渡世とせい甲州屋吉兵衞新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七右半藏かゝ遊女いうぢよ文事丁山同人どうにん妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目瀬戸物せともの渡世とせい忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同御呼出およびだしと相成り右一件願ひ人赤坂傳馬町二丁目長助店道十郎後家みつせがれ道之助右光店請人たなうけにん同所清右衞門右家主長助すべかゝり合の者のこらずにて廿有餘人呼出しに相成さて大岡越前守殿千太郎父吉兵衞養父五兵衞兩人の名をよば其方共そのはうども千太郎の死骸しがい引取ひきとりせつ差出さしいだしたる口書くちがきの通り相違はこれ無やと尋問たづねらるゝに兩人如何にも仰せの通り相違御座なく候と申立ければ大岡殿又六右衞門其方久八の申立に付何ぞ證據しようこありやと云るゝ時六右衞門は千太郎より久八へわたし置たる一さつ目安方めやすかたへ差出しけるに越前守殿熟覽じゆくらん有て長庵に向はれ其方事豫々かね〴〵惡事の段々露顯ろけんに及びたり未だ三次にたのんでお安をころさせたる一條並びにふだつじに於て弟十兵衞をころしたる儀とも明白めいはくなるに何とて白状はくじやうに及ばざるやと申されるを聞て長庵は猶もおそれず勿々なか〳〵以て左樣の事どもさらおぼえ御座無候程に白状はくじやうなどとは思ひも寄ぬ事なりと大膽不敵だいたんふてきにも白状せざれば越前守殿は丁字屋ちやうじや半藏代人だいにん文七とよばれ其方尋問たづねる次第巨細こさいこたへ成るやと有に文七しづかに頭を上げ私し事半藏の家事を取扱とりあつかひ居候得ば遊女いうぢよに付候事は委細に辨へ居候と申にぞ大岡殿しからばかゝいう女文事丁山富事小夜衣の兩人は何人の周旋せわにて何れよりかゝへたるや請人等うけにんとう巨細こさいに申立よと尋問たづねらるゝに文七丁山事は三河國藤川ざい岩井村百姓十兵衞と申實親じつおやはんにて麹町三丁目醫師いし長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に相立あひたち召抱めしかゝへ候又妹小夜衣事は十兵衞死後しごなるゆゑに右長庵賣主うりぬしにて小手塚三次といふ者受人に御座候と申立ける時越前守殿如何に長庵姉は十兵衞に相頼あひたのまれ賣しならんいもとの小夜衣は誰に頼まれて賣渡うりわたせしや長庵答へて弟十兵衞横死わうしの後金子は紛失ふんじつ致し彌々身體しんたい立行難たちゆきがたく十兵衞の妻安に頼まれ賣渡しの節三次を受人に相頼み申候といさゝはゞかいろなく申立ければ越前守殿莞爾につこと笑はれりやこそ長庵なんぢの口より追々しりわるではないか有體ありていに申せよと如何なる惡人あくにんとても成たけ吟味の上にも吟味致さるゝこそ有り難けれ


第二十六回


 越前守殿には又丁山小夜衣にむかはれ此長庵は其方共の爲に伯父とは云ながら兩親のかたきなり遠慮ゑんりよに及ばす心得有事は有體ありていに申立よ猶も妹小夜衣にはべつに尋ぬる仔細しさい有其方が身の代金ははゝ存生ぞんしやうの内母の手にわたしたるやよも母安へは渡すまじ萬一もしつゝかくす時は汝等が身の爲に相成あひならぬぞと有ける時小夜衣は女ながらも心男々をゝしき生質さがなれば大岡殿のことばしたがひ私し苦界へしづみし事は父が人手に掛り其上姉の身の代金もうばはれしとの事を國元にて聞しより母には氣の違はぬばかりにて國元の家を仕廻しまひ私をつれて麹町の伯父の所へ來て居し中姉にあはしてやると此三次と云人と伯父が申のにだまされ丁字屋へつれられ行しまゝつひに身を賣られ是非なくつとをりしに其後母は不圖ふと家出せしまゝ行衞ゆくゑが知れぬと伯父が話せし程ゆゑ私の身の代金は母の手へは請取うけとり申まじと申立れば越前守殿然もらんコリヤ長庵小夜衣が申立はかくの通りなるすれば小夜衣が身賣みうりの事を後家ごけ安より其方へ頼むべき所謂いはれなきにより金子は勿論もちろん安に渡すわけなし全く小夜衣が申立る通り其方と三次と申合せ姉にあはしてるといつはりて連出し身をしづめしうへ身の代金の三十兩は兩人にてつかすてたるに相違さうゐ有まじ夫故にこそ三次に頼み後のうれひを除かん爲又お安をも連出して中田圃に於て殺害に及ばせし成らん右は既に三次が申立にてしかと相分り居る處なり如何に三次其方事追々申立たる通り相違なきやとの糺問たづねに三次首を上げ此程申上ました通り十兵衞の後家お安へは妹娘は或屋敷あるやしきへ奉公にあげたといつはり私しと長庵兩人ふたりで丁字屋へ三十兩に賣代うりしろなし其内私しは長庵よりわづかに五兩もらひ候處お安も其後妹娘の行先ゆくさきへんだと思ふたやら兩人の娘にあはしてれ〳〵と長庵に晝夜ちうやわかたずせまるより逢せて遣ればばけの皮があらはるゝにより娘に逢すとお安をあざむき人なき所へ連出し殺してくれろと長庵に頼まれたるが因果いんぐわづく中反圃にて殺した始末しまつ思ひ出してもぞつとする是等の話しをなす事も兩人の娘へ懺悔也ざんげなりと今の前に見る如く云々しか〴〵是々これ〳〵斯樣ぞとお安が苦痛の死をなしたる其有樣を申立長庵に向ひ此通りだ未練みれんらしくとぼけずと立派りつぱ白状はくじやうしねへかと三次がはなしを聞よりも思はず知らず聲をあげわつとばかりに泣沈なきしづむ母の横死わうしの有樣がに見る樣に思はれて姉妹はらから二人が心のうちあはれと言も餘りあり又長庵は是を聞是三次何を云夫は幾度いくたび云てもおのれが殺した話し夫を又此長庵に白状せよと言て仕舞しまへのとは何事ぞ某しに於ては何もいふことはない如何樣人間の命を取ほど有て不屆ふとゞきの奴なり此長庵は人をたすくる仁術じんじゆつに此世を送る家業故をりふれては定業ぢやうごふにて病ひの爲に死す人を見てゐるさへも不便なるにまして非業ひごふの死を遂る有樣は嘸々さぞ〳〵おそろしき事ならん拙者せつしやのやうに氣のよわき者などは見たばかりでも氣を失なふぞ如何にも貴樣はきもふとき男なり是兩人の娘問ず語りの此三次は二人が母のかたきなるぞ能々よく〳〵御奉行樣へ御願ひ申敵をうつもらふがよい懇切ねんごろさうに申きけ居直ゐなほりて御奉行樣私よりも願ひ上ます妹の安は此三次めが殺せしと承まはる上からはすぐにも打果うちはたすべきやつなるに現在げんざい妹の敵と名乘なのるそばに居ながら手も出されぬ我が身は如何に口惜くちをしとがみをなすを熟々つく〴〵見られ越前守殿心中に何程なにほど佞奸ねいかん無類むるゐ曲者くせものにても斯迄かくまで強惡がうあくなるやつは他に有まじと歎息たんそくされしが其方は惡人に似合にあは未練みれん千萬なる奴なり安女は小手塚三次が殺したるにもせよその三次をばたれたのんでころさせたるやおのれ三次に頼んでころさせたれば己れが手を下して殺せしよりなほもつ不屆ふとゞきなり又最前三次と突合せの節三次をば知らぬ者なりと申せしが其後に至り三次は知己ちかづきの趣きに申立る等前後ぜんご不都合ふつがふなり且此程より追々おひ〳〵取調とりしらべる通り八ヶ年以前に弟十兵衞をしばふだつじに於て殺害せつがいに及びめひの文を賣たる金子を奪ひ取夫而已のみならず浪人道十郎へ右の罪科を悉皆こと〴〵塗付ぬりつけ終に公儀をあざむむじつおとしいれたる段證據人忠兵衞が申立の通りいさゝか相違なく聞ゆ然るに忠兵衞は恨み有者故右樣の事を申立候などと無體の儀を申かけ再度さいど忠兵衞夫婦に罪科ざいくわを負せんと致したれ共既に其方の申口相違致したるに付流石さすが申論まうしろんずる事能はずおそれ入たるには非ずや然る上からは一事が萬事を知るべし此上にも申あらそふに於てはなほ追々おひ〳〵嚴重げんぢう取調べに及ばねば相成ず重ね〴〵の憎しみを蒙り自身じしん種々しゆ〴〵の辛き目にあはんより事十分にあらはれたる上は惡徒は惡徒あくとだけの肝魂きもだまの有者なれば未練みれんと人に笑はれんよりも流石さすがに潔よき長庵と云るゝやうに白状致して仕舞へと段々理非を譯たる名言を飽まで欺く長庵は眞面まがほに成り是は新しき仰せ哉成程忠兵衞が妻富と密通を仕つりしと申上しは私し此度むじつ難題なんだいを申し掛られ餘りと申さば無念むねんさに私とても申掛致し候なり其外の儀は恐れ入べき箇條更々之なく何事も仰せのおもむきはぞんじ候はずと事もなげに陳じける時越前守殿コリヤ長庵然らば其方になほあたらしき事を尋問たづぬる箇條かでう有汝ぢ三河町二丁目の伊勢屋五兵衞養子千太郎をあざむき五十兩の金をかたり取たる段相違なきや此儀は證據人の久八の前にあり如何々々いかに〳〵糺問たゞしありしに長庵は仰天ぎやうてんせし顏色かほつきして是は〳〵又しても御奉行樣の御難題なんだいばかり私し曾て伊勢屋千太郎などと云名前も知らずましてや五十兩の金子をかたり取たなどとはぞんじも寄ぬ事にて候又久八とやらん何故に右樣の儀を申立たるや其意更々合點がてん參らす候嗚呼あゝ長庵がかさなる不運の時節成か斯迄人々ににくしみを受る事醫は人を助ける仁術じんじゆつ渡世とせいにて陰徳いんとく有ば陽報やうはうありとの古語も當に成ず口惜く候とひとごとを云を越前守殿おのれ此上は眼に物見せんと少しくいかりの色をあらはされしかば一同の者は顏を見合せ如何なる拷問がうもんに掛らるゝやと長庵をにくしみてぞ居たりけり


第二十七回


 又越前守殿は久八の方を見られ如何に久八五十兩の金子を千太郎が是なる長庵にかたとられたる始末しまつ此所にて逐一に申立べしと有ければ久八は愼んでかしらを上げ私もと主人千太郎事先般せんぱんも申上たる通り若氣わかげの誤りより新吉原江戸町丁字屋半藏のかゝへ遊女小夜衣のかたへ通ひ詰候處右の長庵事は小夜衣と伯父めひの中に候由にて千太郎と知己ちかづきに相成其後千太郎方へ長庵參り申聞候には小夜衣事木場邊きばへんの客人に身受致さるゝにやう相成候得共小夜衣は千太郎の方へ何卒なにとぞ參り度由長庵へ呉々相談なせしと雖も金づくの事ゆゑ何共致し方御座無候間金子五十兩何卒なにとぞ才覺さいかく致しなば親元身受けに成して木場の客の方は相斷わり長庵宅へ小夜衣を受出し置其上夫婦になすべしと僞言ぎげんを千太郎は現在げんざいの伯父の申事故實情じつじやうと心得店の有金の内五十兩取出し長庵へ相渡し兩三日過て千太郎は長庵たくまゐり小夜衣の事を申せしに長庵儀右樣の金子預りし覺え無之ことあひしこともなきひとなりとて更に取合申さず餘りのことに千太郎段々と掛合に及び候處かへつて長庵大いに立腹りつぷくなし跡形あとかたも無事を言がけ候段不屆き者なりとて散々さん〴〵打擲ちやうちやくに及び候由右の始末よんどころなく千太郎は立歸りしかど如何にも殘念ざんねんに存じ居候より再度ふたゝび長庵方へまかり越長庵を刺殺さしころし其身も自害仕つらんと覺悟かくごをりから私し樣子を見受け候まゝ取敢す引止其事柄を段々承まはり種々異見仕つり候處まつたくは小夜衣に心をとられしよりかゝたくみにかゝりし事故已來いらい急度きつと小夜衣の事は思ひ切と千太郎申候に付長庵にかたとられし五十兩は其儘とられ切に致し其五十兩の金子は則ち私しの引負ひきおひ金に引受候儀に御座候事と委細ゐさいに申立ければ越前守殿小夜衣の方を見られ小夜衣其方事も久八が申立たる事どもおぼえ有やと尋問たづねらるゝに小夜衣は長庵が五十兩の金子千太郎よりかたり取し事は千太郎存生ぞんしやうせつ私し方へ參られし折柄委細に聞及びし故甚だくやしく思ひ居候と有體ありていに申立ける程に越前守殿點頭うなづかれ引合の者共悉皆こと〴〵く申立により長庵が惡事あくじ箇條かでう明白めいはく了解わかりたり因つては猶長庵に問ふ事ありすでに久八の申立る通りにて相違さうゐあるまじきに猶又小夜衣が申立の趣き彌々いよ〳〵以て相違有まじ此上にもちんいつはるやとひざすゝめて申されけり


第二十八回


 古語こごいふあり其以てする所を其由そのしたがふ所を其安んずる所を察す人いづくんぞかくさん哉人いづくんぞかくさん哉爰にいつはかざる者有り然れ共其者の眸瞳ひとみ動靜どうせいる時は必ず其眞僞しんぎあらはるゝとむべなる哉然れ共萬一もし庸人ようじんの奉行となりて強情がうじやう奸曲かんきよくの者を調べるに於てをや或るひは面體めんてい惡氣にくげに心は善良ぜんりやうるもあり或ひに面體めんてい柔和にうわにして胸中きようちう大膽不敵だいたんふてきなる者有所謂いはゆる外面如菩薩げめんによぼさつ内心ないしん如夜刄によやしやほとけも説給ひし如し然れば其面體めんてい柔和にして形容なりかたち柔和おとなしやかなる者の言事は自然と直なる樣に聞ゆれども其事は邪心じやしんふくたくめる奸賊かんぞくも有り面體見惡みにくき者の申立る事は言葉續きあららかにしていつはかざやうに聞え品に因ては裁許さいきよあやまりなしとも云難し然れば鎌倉七世の執權しつけん北條時宗を輔佐ほさして問注所もんちうしよの總裁職をつとめ美名を後世につたへし青砥あをと左衞門尉藤綱ふぢつな公事訴訟等くじそしようとうを聞るゝときは必ず眼を閉塞ふさぎて調べられしとこそ聞えたれ抑々そも〳〵越前守殿此長庵を一目見るより此奴こやつ容易よういならざる不敵の者なれば尋常じんじやう糺問たゞしにては事實じじつはくまじと思はれしによりかく氣長きながさとしながら糺問たゞされしなりしかりといへども長庵は何事も曾て存ぜずと而已のみ申立口をとぢて居ければ此上はことばを以て諭さん樣もなく拷問がうもんに及ぶより外はなしと思はれしなり然れどもなほしづかに長庵を見られ如何に長庵ふだつじ人殺ひとごろしのつみを道十郎におはせし事はすでに忠兵衞といふ證人あり又千太郎をあざむきて五十兩の金子をかたり取其上千太郎を罵り打擲ちやうちやくに及びし事は久八並びに其方めひ小夜衣が申立と符合ふがふしてあきらかなり又弟十兵衞の女房やすころさせし事は眼前がんぜんに汝が頼みし無宿むしゆく三次よりとく白状に及びしことなれば如何に其方さぎからすあらそふとものがるゝことはかなはずすみやかに白状せよとさとされければ大膽無類の長庵も最早もはやかなはじとや思ひけん見る中に髮髯かみひげ逆立さかだち兩眼りやうがんそゝ惡鬼羅刹あくきらせつの如きおもて振上ふりあげ一同の者をはた白眼にらみし其形容ありさまに居並び居たる面々めん〳〵何れも身の毛も彌立よだつばかりに思ひかゝる惡人なれば如何成事をや言出すらんと皆々みな〳〵手にあせにぎりてひかへたる其中にも彼丁山小夜衣の兩人はアツといひて砂利じやり鰭伏ひれふし戰慄ふるひわなゝき居たりけり長庵はをぎり〳〵と噛締かみしめ汝等一同確乎たしかに聞け汝等おのれらは揃ひも揃ひし鈍愚たはけなるに其の智慧ちゑたらざるを思はずよくも我が事を訴人そにんせし者成かな然ながら今日只今迄は假令たとへ骨々ほね〴〵斷割たちわらなまり熱湯ねつたうおろ水責みづぜめ火責ひぜめ海老責えびぜめに成とも白状なすまじと覺悟せしが御奉行樣の御明諭ごめいゆにより今ぞ我がせし惡事の段々だん〳〵不殘のこさず白状はくじやうせんと長庵が其決心は殊勝にも又憎體にくていなり


第二十九回


 さても越前守殿に於ては夫々それ〴〵確固たしかなる證據人しようこにんの有事をいはざる奸惡かんあく無類むるゐの大賊に似氣無にげなき卑怯ひけふ者成とおぼされしに長庵が今ぞ殘らず白状はくじやうなさんとの一言に流石さすが惡徒あくとは惡徒だけ了簡れうけんあらためし者かと言葉をやはらげられ白状するとは神妙しんめうの至りなりと申さるゝに長庵見開みひらき御奉行越前守殿にえきも無く御骨おほねをらすもおそれ入ば今こそ殘らず白状爲すなりつて此長庵が身は刑罰けいばつなるべけれども魂魄こんぱくは此土にとゞまり己れ等一同に思ひ知らするぞ其中にも忠兵衞は第一の大恩人だいおんじんなりよくも〳〵八ヶ年以前のことをことあたらしく今更に道十郎が後家に告口つげぐちなし此長庵がいのちちゞめさせたるは忝けないともうれしいともれい言盡いひつくされぬ故今はくゝられた身の自由じいうならねばいづ黄泉あのよからおのれも直に取殺し共に冥土めいどつれゆき禮を云から待てゐよ必ず忘るゝ事なかれと憤怒ふんぬ目眥まなじり逆立さかだつてはつたと白眼にらみ兩の手をひし〳〵とにぎりつめくひしばりし恐怖おそろしさに忠兵衞夫婦は白洲しらすをも打忘うちわすれアツと云樣立上りにげんとするを忽ちに警固けいごの者に引据ひきすゑられ悶絶もんぜつなさぬ計りなりやゝつて泣聲なきごゑ出し是申長庵殿御死おしになされし其後にて私したくれいなどに御出おいでなさるには及びませぬ私しとても御前おまへには何のうらみもなけれども八ヶ年の其むかし天神樣の裏門前であひたる事をはからずもお光殿より尋ねられ迂濶うつかり口がすべりしを是非ぜひ證人しようにんたつべしとお光殿をば同道なし其處そこらるゝ長助殿にだんじ付られ仕方しかたもなく斯樣かやうのことに成たるわけ何樣どうぞ勘辨して下されと兩手をあはせてなみだを流し詫入わびいるていこそ笑止せうしけれ長庵は忠兵衞を尻目しりめにかけだまれ忠兵衞いらざるなんぢ噪々おしやべりより我が舊疵ふるきず再發さいはつさせ科人とがにんの身と成し事思ひ知れやとひながら奉行ぶぎやうの方に打向ひわれるばかりの大音だいおんあげ是迄したる我が惡事を逐一ちくいちならべて御きかせ申さんさりながら自分でもわするゝ程の數々かず〳〵なればお忘れなき樣おきゝ下され此長庵は在所なる岩井村いはゐむらに在し頃博奕ばくちくづれの喧嘩けんくわより同村にすむ勘次郎を殺す氣もなく打殺し夫より村方を逐轉ちくてんして此大江戸へ出てより所々しよ〳〵方々はう〴〵小稼こかせぎは言はずと知れし小盜人こぬすびとぬすみし金や神農しんのう嘗殘なめのこしたる質種しちぐさ資本もとでに初めし醫者家業いしやかげふ傷寒論しやうかんろんよめねどもなりとて衣服いふくおどかし馬鹿にて付る藥までした三寸の匙加減さじかげんでやつて退のいたる御醫者樣もう成ては長棒ながぼうかごよりいのちをしまいがたばつた〳〵と何にもかもゆふべの夢の過たる惡事先第一は現在げんざいの弟を殺して此所こゝに居るめひのお文の身の代金しろきんうばひ取たる後腹あとばらは道十郎のからかさひろがる惡事をほねさへ折ず中山殿をあざむいて道十郎へたゝつけ又小夜衣を賣代うりしろ爲し身の代金は博奕ばくちと酒と女郎買ひにつかなくし其上に又小夜衣の手紙てがみたねに伊勢屋の養子やうし千太郎をうまくもあざむき五十兩と云大金をかたり取其外二十や三十のちひさな仕事しごとかずれず兎角とかく惡錢身に付ず忽ち元の木阿彌もくあみ貧乏陶びんばふとくりも干上ひあがる時弟の女房のお安めが娘にあはせろ〳〵と毎日々々まいにち〳〵せまるのも惡事をはたら邪魔じやまなるゆゑ子分の三次に申付殺させたるに相違さうゐなしあまり惡事の身代しんだい能過よすぎるゆゑに年月の過たる事は白状はくじやうするも面倒めんだうなりと申立ければ越前守殿呵々から〳〵と打わらはれおのれ長庵永々なが〳〵強情がうじやうに申陳じ居たりしが只今と成て能も自分の惡事に相違なしなどと白状せし者哉しかしながら先は神妙しんめうのことなりと言れつぎに久八に向はれ不便ふびんなるは其方なり如何程いかほど千太郎の惡敷あしくとも主人と名のつきし者を假令たとへあやまりにもせよ締殺しめころしたる上からは五逆ごぎやくの罪はのがるゝ道無し然れ共其方の身元は元來捨子すてごなる由最初さいしよよりの事どもとくと相尋ね度事なり依て伯父をぢ六右衞門に尋問たづねん其方日外いつぞや一寸ちよつと申上しが猶委細に久八が人と成の始末申立よと有ければ六右衞門つゝしんでかうべあげおほせの如く此久八は元三州藤川宿の町外れに捨置すておかれし身に御座候(これより久八の履歴ことがらは六右衞門が申立の讀續よみつゞきなれども人情にんじやう貫徹つらぬかざる所も有により讀本よみほん口調くてうかゆれば諸君みなさん怪給あやしみたまふなかれ)


第三十回


 抑々そも〳〵久八はさんぬ元祿げんろくころ京都きやうと丸山通りに安養寺あんやうじと云大寺有り其門前町に住て寺社じしや巨商等きよしやうとうへ出入を爲す割烹人れうりにん吉兵衞と云者いまだ獨身どくしんゆゑつますゝむる者の多かりしがやが良縁よきえん有てお久とよばる女をめとりけるが容貌きりやう人にすぐこと裁縫たちぬひよく讀書よみかきつたなからず料理人の女房になしおく勿體もつたい無きなどと見る人ごと言合いひあへる程成ば吉兵衞は一方成ず思ひ偕老同穴かいらうどうけつちぎあさからず暫時しばらく連添つれそふうち姙娠にんしんなし元祿二年四月廿八日たまの如くなる男子をまうけ夫婦の喜悦よろこび假令たとふるにもの無くてふよ花よといつくしみそだつうちに間も無つまのお久時の流行はやり風邪かぜひきたるが初めにて一兩日すぐうち發熱はつねつはなはだしく次第にやまおもりて更に醫藥いやくしるしも無く重症ぢうしやうおもむきしかば吉兵衞は易き心もなくことに病ひのためちゝは少しも出ず成りければ妻の看病みとりをしつゝなさあるいへ乳貰ちもらひにおもむ漸々やう〳〵にしてそだつれ共ちゝたらざれば泣しづむ子よりもなほかなしく思ひ最う此上は神佛しんぶつ加護かごあづかるより他事無しと吉兵衞は祇園ぎをん清水きよみづ其外靈場れいぢやう祈誓きせいかけ精神せいしんくだきて我が妻のやまひ平癒へいゆ成さしめ給へと祈りしかば定まりある命數めいすうにや日増ひましつかおとろへて今は頼み少なき有樣に吉兵衞は妻の枕邊まくらべひざさしよせ彼是かれこれと力をつけ言慰いひなぐさめつゝ何かべよくすりのみねといと信實まめやか看病みとりなせども今ははや臨終いまはの近く見えければ夫婦ふうふ親子の別れのかなしさ同じ涙にふししばおこる日もなき燒野やけの雉子きゞす孤子みなしごになる稚兒をさなごよりすてゆく親心おやごころおもまくらあげかねる妻のお久は熟々つく〴〵をつとの顏を打詠うちながめ物ごしさへも絶々たえ〴〵に此子を頼む此子をといふことが此世の餘波なごりなみだしめ枕邊まくらべは雨にみだれし糸萩いとはぎながれにしづむばかりなり然ば男乍をとこながらも吉兵衞は狂氣きやうきの如くなげきつゝかくまで妻のかほやせて昔にかはあはれさよとおつる涙を堰敢せきあへむなしき死骸にいだき付のう我が妻よ今一度此世にもどりて給はれや言事いふことあり臥轉ふしまろ如何いかなればこそ此如このごと果敢無はかなきにしに有りしやとさけべど答へさへなきゐる我子を抱上いだきあげ今日より後は如何にせん果報くわはうつたなき乳呑子ちのみごやと聲をはなつてかなしむを近所の人々聞知りて追々おひ〳〵あつまり入來りくやいひつゝ吉兵衞に力を付て一同に通夜迄もなし翌朝よくあさ泣々なく〳〵野邊のべおくりさへいとねんごろに取行なひ妻の紀念かたみ孤子みなしご漸々やう〳〵男の手一ツにそだてゝ月日を送りけり


第三十一回


 さても吉兵衞はもとよりとめる身ならねば乳母うばかゝゆべき金力ちからなく情け有家へ便たよこしかゞめて晝夜をわかたず少しづつもらなし又はちゝの粉や甘酒あまざけと一日々々を送るさま側眼わきめで見てさへ不便ふびんなるに子の可愛かあいさの一筋に小半年ほどすごせしが妻のお久が病中より更に家業も成ぬ上死後しご物入ものいり何ややに家財雜具を賣喰うりぐひなし迂濶々々うか〳〵活計くらして居たりしが吉兵衞倩々つく〴〵思ふ樣獨身成ば又元の出入の家々へ頼みても庖丁はうちやうさへ手にもつならば少しもこまらぬ我が身なれど此兒の有故家業かげふも出來ず此上居喰にする時は山をもむなしくなくなす道理だうり子供を何處どこへかたくちつとは金子を付ざればもらうて呉る人もなし又もらちゝに行度にも初めの程は機嫌能きげんよくのませて呉し家にても今日は用事で他行たぎやうせり今朝けさから風邪ふうじや心地こゝちにてちゝの出樣も少なく成うちの子にさへ飮足らねば御氣の毒だとことわりを言れて戻るそのつらさかくては終に親子共餓死がしより外に目的めあてなし如何成ばこそ斯迄にあはれの身とは成けるぞやおもまはせばまはす程妻のお久にわかれしが此身の不運ふうん不幸ふかうぞと思案に暮て居たりしが所詮斯樣の姿にて故郷こきやうはぢさらさんよりいつそ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は從弟いとこえんもある事故彼を便たよりて行ならば又よき手段しゆだんも有べきやと心の内に思ひを定め賣殘したる家財かざいを集め金にかへつゝ當歳の子をふところに住馴し京都の我が家を立出て心細くも東路あづまぢへ志ざしてぞ下りけり元よりなれぬ旅と云殊に男の懷ろに當歳の子を抱きての驛路うまやぢなれば其つらさは云も更なり漸々にして大津の宿を辿たどすぎ打出うちでの濱を打越て堅石部かたいしべや草津宿草枯時くさがれどきも今日とくれ明日あしたの空も定め無き老の身ならねど坂の下五十三次半ば迄ふところの兒に添乳そへぢを貰ひ當なき人の乳を當に行先々の氣配りに難儀なんぎ艱難辛苦かんなんしんくともいはん方なき事どもなり漸々にして三州岡崎迄はきたれどももとより手薄てうすの其上に旅の日數も重なれば手當の金子かねをも遣込つかひこみのこり少なに成ける程に心は彌猛やたけに思へどもなほ如何に共せんすべなく必竟ひつきやう斯る難澁なんじふに及ぶと云も兒の有故身の振方ふりかたも成ぬなり此上親子おやこ餓死うゑじにに成行事のかなしさよいつそ此子も妻諸共に死んでくれなば此樣に今の困苦こんくはせざりし者と泣々なく〳〵たのもらひ乳の足ぬがちなる養育やういくつなぐ我が子の玉のほそくも五たいやせながら蟲氣むしけも有ぬすこやかさえん有ればこそ親子と成何知らぬ兒に此憂苦いうくを見するも過世すぐせ因縁いんえんなるか不便の者をとかこちしが我から心を鬼になし道途だうとに迷ふ親の身をたすかる手便てだては此乳子ちごを捨るより外に思案なしと我が子の寢顏ねがほを打ながめ涙ながらに心を定め其處よ彼處かしこと思へ共つひに其日は捨兼て同じ宿なる棒端ぼうばな境屋さかひやと云旅籠屋はたごやに一宿なして明の朝此所の旅店やどやを立出て人の往來ゆきゝの無中にすてなんとおいつ其場所がらを見歩行みあるくをりから早藤川にさし掛り夜もやゝしらむ頃なれば宿外やどはづれなる或家の軒端のきばの下に寢たる子をそつとさし置たち出しが又立もどり熟眠うまひせし其顏熟々つく〴〵打ながめ偶々たま〳〵此世で親と子に成しえにしも斯ばかりうすちぎりぞ情なし然どなんぢを抱へては親子がつひゑ死に外にせんすべなきまゝに可愛いとし我が子を捨るぞや強面つれなきおやうらみなせぞたゞ此上は善人よきひとに拾ひ上られ成長せば其人樣を父母と思ひて孝行かうかうつくすべしと暫時しばし涙にくれたりしがかゝる姿を他の人に見咎みとがめられなば一大事と二足三足さりかけしが又振返りさしのぞ嗚呼あゝ我ながら未練みれんなりと心で心をはげましつゝ思ひ極めて立去けり


第三十二回


 夫いきとし生る物子を愛せざるはなし燒野やけの雉子きゞすよるつる皆子を思ふが故に其身のあやふきをもかへりみずいはんや萬物のれいたる人間界にんげんかいに於てをや然るに情け無くも吉兵衞は妻の死去せしより身代をば仕舞しまひ住馴すみなれ京都みやこあとになし孤子みなしごかゝへて遙々はる〴〵あづまそらおもむ途中とちう三州迄は來たれどもほとん困窮こんきうせまり餘儀なく我が子を藤川宿の町外れにすてたるは是非もなき次第なり嗚呼あゝ勿體もつたいなくも一てん萬乘ばんじよう皇帝おほぎみも世の中下樣しもざま人情にんじやうを知ろしめされ賜うて後水尾帝ごみづをてい御製ぎよせいに「あはれさよ夜半よは捨子すてごなきやむは母にそへゆめや見つらん」とは夜更よふけ外面そともの方に赤子あかご泣聲なくこゑの聞えしは捨子にやあらんと最とあはれに聞えたりしが兎角するうちに彼泣聲なきごゑの止たりしかば如何せしやらんと思ひぬるうち又もや泣出しけるほどさていましば泣止なきやみしはすてられし子の夢心ゆめごころに我が母に添乳そへぢせられし所をや見し成んと一入ひとしほあはれのいやませしと言つる心の御製なり又芭蕉翁ばせをおうにも「ましらさへ捨子すてご如何いかあきくれ」是や人情にんじやうの赴く處なるらんさて又藤川宿にては夜明てのち所の人々ひと〴〵此捨子を見付村役人に屆けなどする中一人の旅僧たびそうねずみころもあさ袈裟けさを身にまと水晶すゐしやう片手かたてもちあかざつゑを突て通りかゝりけるが此捨子を見てつゑを止めやがて立寄りつゝ彼小兒せうにそでひろこしなる矢立を取出してふできよらかにしたゝめられしは「なんぢ父にうとまれしに非らず母にうとまれしにあらず父母すてるに非ず自分の薄命はくめいなり元祿二年九月貧暦ひんれき」と書付て其まゝ行過ゆきすぎける兎角とかくする内に村方の役人其外大勢の人あつまりて地頭ぢとう代官所へ訴へ出ければ役人方見分けんぶんの上捨子の儀は村方へ養育申付られ小兒は村方預りと成たるに同村の百姓久左衞門と云者有しが妻出産しゆつさんのちも無く其子病死なしいと本意無く思ひける所乳のあるより村役人に頼まれて此の捨子をあづか養育やういくせしに追々馴染なじむにつれあいまさりしかばいつそ此子をもらひ受んと夫婦相談の上村役人に申入しにぞ早速さつそく其筋そのすぢへ屆けずみの上米三俵をそへて彼捨子を久左衞門へつかはしける依て名をも久八と附て夫婦の寵愛ちようあいあさからず養育しけるに一日々々と智慧ちゑつくしたが他所よその兒にまさりて利發りはつなるによりすゑ頼母敷たのもしき小兒せうになりといつくしみける中月立年暮て早くも七歳の春をむか手習てならひかよはせけるに讀書よみかきとも一を聞て十を知り兩親りやうしん言葉ことばそむく事無孝行をつくす故夫婦のよろこび一方ならず久八も手習てならひより歸れば何時も近所の子供と遊びけるがをりふれては少しのあらそひより友達ともだち子供等が久八の捨子々々と云ければ何とて我が事を捨子々々と云やらんと泣顏なきがほにて我が家へ歸へり久左衞門夫婦に向ひて友達衆ともだちしう喧嘩けんくわがてらに私しの事を捨子々々と毎度言罵いひのゝしるは何故にやと不審氣いぶかしげたづねられ久左衞門夫婦は顏見合せ暫時しばしもくして居たりしがなみだなが何故いかにも道理もつともなる尋ねなり今日まで云ざりしがじつは其方事七年前藤川宿の町外まちはづれにすてて有しなり其時其方のたもと書付かきつけて有しは是なりと彼のそう落書らくがきまで殘り無物語に及びければ久八は子供心に我が身の上を初めて知り棄子すてごと云るゝを深くはぢたりけん其後は手習を我が家にてなし遊びにも外へ出行いでゆくことなく柔和おとなしやかに母の手傳ひをして我が家の内に遊び居るを養父母も其の樣子を見て取しきりに其心根を不便に思ひ夫婦相談の上江戸表へ連行つれゆきて奉公にてもさするならば立派りつぱな人に成もやせんさいはひ弟六右衞門が江戸本石町二丁目に渡世して有ければ是へ往て頼み何れへ成とも奉公にいださんものをと忽ち心一けつ爲し久左衞門はやがて江戸へと久八を連て下り弟六右衞門にあひて事の仔細を委敷くはしく話し頼み置つゝ歸りけりよつて六右衞門所々しよ〳〵を聞合せけるに神田三河町二丁目にて彼質かのしち兩替渡世とせい伊勢屋五兵衞方にて子供をかゝへたきよしを聞込早々頼み入れ吉日をえらんで奉公にぞつかはしける

第三十三回


 しかるに此伊勢屋五兵衞と云は古今稀ここんまれなる吝嗇りんしよく人にて其しはき事譬ふるに物なく所謂いはゆるつめに火をともすとのたとへの如くなれば召使めしつかふ下女下男に至る迄一人として永くつとむる事なく一半季はんきにて出代る者多き中に久八而已のみ幼年えうねん成と雖も發明者にて殊には親に棄られたる其身の不幸を心にわすれず何事も主人五兵衞の心にかなふ樣に萬事に心をくばり曾て外々ほか〳〵の者とは事變り其辛抱は餘所目よそめにも見ゆる程なれば近所近邊の者に至るまで伊勢五の忠義ちうぎ々々〳〵と評判高く一年々々ととしかさなりて終に二十年を送りける故吝嗇りんしよく無類むるゐの五兵衞さへ萬端久八に任せ主人に代りて取扱とりあつかふ樣に成りけるに彌々いよ〳〵人々賞美しやうびして伊勢五の白鼠しろねずみと云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり因て右捨子の次第を具さに六右衞門より申立ければ大岡殿熟々つく〴〵と聞れ再び尋問たづねられんとせし時白洲のはしひかへし彼富澤町の古着ふるぎ渡世甲州屋吉兵衞は先刻せんこくより久八六右衞門兩人の申立をきくたびごとひざを進めて驚怖おどろきながら久八のかほをじろ〳〵と打詠うちながめ居たりしが今六右衞門がことばきれたるを見ておそれながら申上ますと正面へ進み出やがて越前守殿に向ひ久八事私し二男千太郎を締殺しめころせしと自訴じそ仕つりしと雖もまつたころしたるに非ず千太郎事一たい幼少えうせうの頃より持病に癲癇てんかん有之候故其場にて右の病ひ差發さしおこり候儀と存じられ候且つ又千太郎儀は久八の恩義を格別に受居しこと成れば勿々なか〳〵以て意趣いしゆ意恨いこんなど有べき樣御座なく候により私しに於て更々さら〳〵うらみとは存じ申さず候ついては格別の御慈悲じひを以て久八助命じよめい仰せ付られ下し置れ候樣ひとへに願ひ上奉つり候と頻りに繰返し〳〵願ひ立ける程に有合一同の者共昨日迄何とも言ざりし吉兵衞がにはかにさへぎつて助命を願ふ事いと不審いぶかしくぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山安養寺あんやうじ門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へくだみぎり藤川宿のはづれへ小兒を棄其後江戸表へ出て從弟いとこの甚兵衞を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町本覺院ほんがくゐんの住寺の贔屓ひいきあづかりたり此寺の和尚と云は彼の藤川宿にて先年棄子すてごそで落書らくがきなしたるそうなりしが或日吉兵衞へ行脚あんぎやせし頃の物語りより彼の藤川宿に於て棄子すてごそで落書らくがきなしたる事を話けるに吉兵衞心におどろき夫は何時頃いつごろの事なるやと尋問たづねければ和尚は指折算ゆびをりかぞへ元祿二年九月の事なりと聞より吉兵衞は涙をうかべ其子を棄たるは則ち私しなり其事情そのことがら云々しか〴〵斯樣々々かやう〳〵貧苦ひんくせま現在げんざい我が子を棄たりと我が身の罪をも打忘うちわすれて懺悔ざんげなすにより和尚も奇異きいことに思ひ夫より別して吉兵衞を贔屓ひいきになし富澤町古着渡世甲州屋とて身代しんだい可成かなりなる家へ入夫いりむこの世話致されたり其後吉兵衞夫婦の中に男子二人を儲け兄を吉之助と名付弟を千太郎と呼昨日きのふかはる身代となり我が身の安心なせしに付ても其むかし京都にて妻のお久の不仕合ふしあはせ又藤川の宿はづれへすてし我が子は其後如何になりしやなさけある人に拾はれそだちしかと種々しゆ〴〵手をつく探索たづねしかど更に樣子のしれざりしに今六右衞門の物語りにて久八こそは彼の時にすてたる我が子に相違さうゐなしと心の中に分明わかりゆゑしきりに不便ふびん彌増いやまして只管ひたすらいのちを助け度思ふ心の迫來せきくれば訴へ事もあとさきそろはぬ詞も道理だうりなり


第三十四回


 却説かくて甲州屋吉兵衞は廿有餘年いうよねんの其昔し東海道の藤川宿へ貧苦ひんくせまつてすてたる我が子に場所もあらうに白洲しらすにて再會さいくわいせんとは思ひきや夢かとばかりに思はれて後先も無く突然いきなり助命じよめいは願へど流石さすがにも久八ことは私しのせがれなりとも云出し兼さりとても又棄置すておくときは五逆の大罪遁るゝ道なし此身を棄ても歎願たんぐわんせねば第一しんだ母親の位牌ゐはいの前へも言譯なし久左衞門とか云人のなさけによりてかく迄に成人ひとゝなりたる者なるか親は無とも子はそだつとの諺言ことわざも今知られけるとは云物の是迄は苦勞くらう辛苦しんくを爲しつゞ現在げんざい弟の千太郎の事を思ひて紙屑かみくづかふと迄に零落おちぶれても眞の人に成んと思ひ赤心こゝろの誤よりもいきの根の止たを直樣すぐさまに自ら訴へ主殺しの御所刑しおき願ふ氣なげさよ我が子で有ぞ可愛かあいやといだきも仕度親心立派りつぱな男も三歳兒つごの樣に思はるゝのが子を思ふ人の習ひぞ無理ならじ吉兵衞はうれしいとかなしとにて前後そろはぬ助命願ひには越前守殿は何か此助命じよめいねがひにはふかわけの有ことやと英才深智の奉行にも事の仔細しさいの分り難く暫時しばらくかうべかたぶけ居らるゝ折柄をりからなほも吉兵衞はこゑふるはし只今も申上奉つりし通り二男千太郎儀は全く持病ぢびやう癲癇てんかんを發したることゝ心得候へば久八の仕業には決して御座なく候殊には現在げんざい千太郎の親たる私しよりかくねがひ上る上からはいさゝか以て久八を恨み申べき存念ぞんねん之なく候よしやなく候共千太郎が身持を直さん爲に異見いけんをなしあやまつて斯樣の時宜に立至りたる事なれば久八に害心がいしんなきはもとよりの儀に御座候依て私しより助命じよめい只管ひたすらねがひ上奉つり候と申立ければ越前守殿悉皆こと〴〵打聞うちきかれ如何に其方久八が助命の儀を願ふと雖も其は思ひも寄ず假令たとへ平生へいぜい何樣どのやうに忠義を盡せしことの有しにもせよ主人のせがれあやまつて締殺しめころしたるには相違なし然る上は容易よういならざる罪人つみんどなり嚴重げんぢうに申付るは天下の大法たいはふ公邊こうへんおきてなり餘の儀に付て慈悲の取計らひを願ふこと成ば兎も角も計らひ方有べけれ共主殺しゆごろしの大罪を差免さしゆるすとは相成ず然るを強て申立ること其方は町人の身故に公儀おかみの御定法を相わきまへぬ所なり得手えて勝手かつて而已のみ申立るなり如何樣汝が願ひに及べばとて天下の御定法には替難かへがたしと申さるゝを吉兵衞再々應さい〳〵おう押返おしかへ否々いへ〳〵久八ことは主人を殺し候と申譯にては決して御座無候と何時までも同じ事を繰返くりかへし〳〵何のはゞかる色も無く申立ければ居並びたる人々はなはだ氣のどくに思ひは物にくるひしか吉兵衞御奉行樣の御前にて主人の養子千太郎を締殺しめころしたりと自訴に及びし久八を主殺しには之無と云は何事ぞや此上如何なる御しかりをかうふりやせんと皆々みな〳〵やすき心も無き所に越前守殿には大いに不審いぶかられ是吉兵衞久八ことは千太郎を締殺しめころしたる趣きを當人たうにんの口より申立之有處に却つて其方一人さへぎつて主殺しには之無と申立ること其いはれ有やと言葉やはらかにたづねられければ吉兵衞は先年の始末今更申立るも恥の上の恥とは思へども久八がいのちには代難かへがたさりとて外に申立べきこともなく途方とはうくれて居たりけり


第三十五回


 さても吉兵衞は今ぞ大事と思ひきりつゝしんで又々申立る樣もとより久八と千太郎とは兄弟に御座候と顏をあからめて云ければ越前守殿是を聞れ吉兵衞其方は狂氣きやうきにても致したるや取留とりとめもなきこと而已のみやつかな然ながら千太郎は久八と兄弟なりとは如何の譯にて右樣の儀を申立るや一圓合點がてんの行ぬ事なり其仔細しさい有ば申すべしと云れしかば吉兵衞答ふる樣右の次第は事長々なが〳〵込入候儀にて全體ぜんたい私しは京都きやうとしも四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人の男子をまうけ候處間もなく妻久こと病死致し候に付病中の物入葬送さうそう雜費等ざつぴとうにて貧苦ひんくせまり何分小兒の養育も致し難く御當地に一人の從弟いとこ之有候間彼を便りて國元を出立しゆつたつ致し東海道を罷り下り候へども道中の事故小兒のちゝこまはて旅費りよひたくはへとてものこり少なになり漸々やう〳〵三州藤川宿迄で參りし折柄不便ふびんには候得共餓死がしせんよりはと存じ同宿の町外まちはづれへ棄兒すてごに仕つり候然るに只今六右衞門久八兩人よりの申立を承まはり久八は豫て探索たづねる我が子なることを知りおどろき入申候もつとも其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の和尚をしやう先年私し藤川宿へ棄兒すてごせしあとへ通り掛り棄兒を見て其そで落書らくがきいたし候由其儀は只今兩人の者より申上候通りなり然るを私し不思議にも本學院の住職ぢうしよくより右樣の次第をうけたまはり及び候に付其以來それいらい種々いろ〳〵手をかへしなかへ相尋あひたづね候へども更に行方相分り申さず猶又其後私し事は當時の家へ入夫仕にふふつかまつり兩人の子供も持即ち兄を吉之助弟を千太郎と名付候儀に御座候右の久八は藤川宿へ私しすてたる子に候其上本學院殿の落書らくがきかつまた年月日迄も符合ふがふ仕つる上はまがふ方無き私し惣領そうりやうせがれ相違さうゐ御座無く候夫故久八は千太郎の爲には兄に候間兄弟と申上候右久八の儀は今日只今始めて承知仕つり候實々じつ〳〵私しも驚き入候なりと申立ければ大岡殿威猛高ゐたけだかになられおのれ吉兵衞其方は不埓ふらち成ことを申立るやつかな汝ごときの者何事もわきまへざるとおぼえたりそも棄子すてごを致したりと有ては容易ようい成ざる罪人なり然るを何ぞや汝が罪をも思はず右樣申立るは畢竟ひつきやう久八へ千太郎より恩義おんぎを報じさせんとの存意にて右樣の儀を申立久八の助命を願ひしことゝおぼえりいつはりをかまへ公儀をあざむかんとする段不屆き至極なり久八は全く主殺しに相違無しと大いにしかれしは越前守殿の心の中如何思されてのことやらんと吉兵衞もおそれ入てぞひかへける


第三十六回


 仁智じんち明斷めいだんの大岡殿も久八が助命じよめいの儀を甲州屋吉兵衞にはかに願ひ出たるは如何なる事情ことがら有ての儀やと勘考かんかうせられし處今吉兵衞が長々なが〳〵しき申立を奇異きいのことに思はれしが再度ふたゝび熟考じゆくかうあるに久八が千太郎を縊殺しめころしたるは全く實意じついよりなせしあやまりにして自ら訴へ出御仕置しおきを願ふ所にてうらみもはれたれば一ト通りの歎願たんぐわんにてはとても助命覺束おぼつかなく思ひ六右衞門の申立たる棄子に事寄吉兵衞が差當りての作意さくいにてかゝることをや云ひ出たるものならんかと一時は思はれけれども又とく容子ようすを見らるゝに全くいつはりにもあらぬことをさとられこと慈善じぜんを第一に天下の爲下民の安全を心掛らるゝことなれば久八があやまつて縊殺しめころせしと云ひ無證據むしようこのことなるを自訴じそせしにて赤心せきしんあらはれたれば如何にもして助け遣はし度と心を勞せられし折からなればこれさいはひと越前守殿工夫有つて重ねて吉兵衞を見られ然らば汝がふ通り久八は全く主殺しとは治定ぢぢやう致すまじ又其方の棄子すてごにしてじつせがれと云ことは生前の儀なれば更に取上る處なし又千太郎儀五兵衞方へ參り居候とは申ながらいまだ養子やうしつかはしたると云には有まじ畢竟ひつきやう當人の樣子がらをも五兵衞方にて見屆け其上にて養子に取極めんと奉公人同樣につかはしおきたることならん然すれば久八が爲に千太郎ことは傍輩はうばいにして未だ主人とは申難し其傍輩はうばいの千太郎の身持を直さんとて誤まつて呼吸こきふを止たると有からは罪科ざいくわも大いに相違なり如何に五兵衞其方と千太郎が樣子がらを見屆ける迄は奉公人同樣どうやう召使めしつかひ置しに非ずやとの仰せに五兵衞はハツとばかりに平伏へいふくなし如何にも仰せの通りに御座候と答へ申けるに依て久八が主殺しゆごろしのかどは越前守殿の明斷めいだんに依てのがれるいとぐちにこそ成にける


第三十七回


 なほ又大岡殿五兵衞へ尋問たづねらるゝ樣千太郎儀は吉兵衞方より奉公につかはしおきたるを先達せんだつてより悴又は養子やうしなどと申立しは往々ゆく〳〵養子にも致す了簡れうけん故に右樣申立たる者ならんと有ければ五兵衞はすぐさまぬからぬかほにて仰せの通り千太郎ことは矢張やはり奉公人に召仕めしつかひ居候得共往々ゆく〳〵は養子に致し申べく所存に御座候事ゆゑ折々をり〳〵養子又は悴などと申上候段まことおそれ入奉つり候と越前守殿の云れし通りを申立けるこそをかしけれ扨さしも種々いろ〳〵樣々さま〴〵もつれし公事くじ成りしが今日の一度にて取調べすみに相成口書の一だんまでに及びけり嗚呼あゝ善惡ぜんあく應報おうはういちじるしきはあざなへるなはの如しと先哲せんてつ言葉ことばむべなるかな村井長庵は三州藤川在岩井村に生立おひたち幼年えうねんの頃より心底こゝろざまあしく成長するにしたが惡行あくぎやう増長ぞうちやうして友達の勘次郎と云者をいはれ無く撲殺うちころし村方を逐轉ちくてんして江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込すみこみ奉公中竊鼠々々こそ〳〵物をぬすため其後麹町へ醫業を開き一時僥倖さいはひを得ると雖もたちま病家びやうかも無なりしより惡漢者しれものあつめて博奕宿をなし在所ざいしよより遙々はる〴〵便たより來りし弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害し年貢ねんぐ未進みしんに血のなみだにて娘文を苦界くがいへ沈めし身の代金をうばひ取て其罪を浪人藤崎道十郎に巧言かうげんを以ておはせ又妹お富をだまして同じ丁字屋へ賣渡し身の代金をかすめとり其上に母のお安を三次にたのみて殺させ加之しかのみならず千太郎をあざむきて五十兩の大金をかたり取猶又同人を打擲ちやうちやくなし其數々の惡事一時に露顯ろけんして言破いひやぶることあたはず終に口書こうしよ爪印つめいんをなすに至る又伊勢屋五兵衞もと召使めしつかひ久八の如き忠義は町人にめづらしき者なれどあやまつて主殺しうころしの大罪だいざいを犯すに至れること恐るべき次第なりされどもてんまことてらし給ふにより大岡越前守殿の如きけん奉行の明斷めいだんに依てのがれ難き死刑一等を宥められ豆州づしう八丈島へ流罪ながされ存命ぞんめいせしも長庵の大罪に處せられけるも善惡ぜんあく應報おうはうの然らしむる所にしてあへめづらしからず

享保二年六月廿八日一同申口まをしくち調しらあげと相成同日長庵始め引合の者共白洲へ呼込よびこみになり越前守殿たからかに刑罰けいばつ申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳 其方儀そのはうぎ三州藤川在岩井村にまかり在候みぎり同村に於て百姓かん次郎を殺害せつがいに及び國元を脱走かけおちし當地へまかり出小川町へん武家奉公ぶけほうこうに身分をいつはりて住込すみこみ奉公中所々にて金銀きんぎん衣類等をぬすみ取右の金を資本もとでとして當時の住所へ借宅しやくたくなし醫業を表に種々の惡事をはたらき第一弟十兵衞國元に於て年貢ねんぐ未進みしん差迫さしせまり娘文を其方が世話を以て遊女に賣し身のしろ金四十二兩を持て歸國のせつ丑刻やつかね寅刻なゝついつはり出立させ置後より見えかくれにしのび行芝札の辻にて同人をだまし討になし其金をうばとりそれ而已成のみならず文妹富をあざむきて遊女に賣渡し同人の身の代金三十兩ををかすとり其後十兵衞後家ごけやすを己れが惡事露顯ろけんおほはん爲三次へ頼みて淺草中田圃なかたんぼにて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目家持いへもち五兵衞召使めしつかひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候而已成のみならず同人を打擲ちやうちやくに及びあまつさへ惡事の證人忠兵衞夫婦へ無實むじつ難題なんだいを申かけ邪舌じやぜつを以て罪科をおはせんとたくみ右の金子は殘らず酒喰しゆしよく遊興いうきよう遣捨つかひすてだん重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付町中引廻ひきまはしの上獄門」「武州小手塚村無宿一名早乘事三次三十七歳 其方所々しよ〳〵に於て小盜こぬすみ致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草中田圃なかたんぼに於て三州藤川在岩井村百姓十兵衞後家ごけやす殺害せつがい致し其外種々しゆ〴〵右長庵に加擔かたん致し惡事相働あひはたらき候段不屆至極しごくに付獄門ごくもん」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八二十九歳 其方儀元主人五兵衞召使めしつかひ千太郎身持みもち放埓はうらつに付其方兄分の好身よしみを以て千太郎が朝歸りの折柄をりから新吉原土手にて其方行逢ゆきあひ見るに忍びず異見いけんを爲すこと數度すどに及び千太郎面目めんぼくさににげんと爲すを其方取押とりおさへるはずみに咽喉のど呼吸こきふとゞ相果あひはてたる赴き畢竟ひつきやう傍輩はうばいの心實より爲したる事實と相聞え加ふるに千太郎實父じつぷ吉兵衞外一同よりも助命を願ひ出又其方ことすみやかに自訴じそに及びし段神妙しんめうに付死一等をゆるされ豆州づしう八丈島へ遠島ゑんたう申付る」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七 其方儀先年召かゝへ候文こと丁山儀は人主ひとぬし請人夫々相違之無候に付年季ねんきつとめ上し上は勝手かつて次第たるべし妹富こと小夜衣儀は同人伯父をぢ村井長庵と無宿むしゆく三次と申合せはゝやすあざむ賣代うりしろ成せし處しかと身元請人等相調べずかゝへ置候段行屆かざるに付過料くわれう三貫文申付る尤も小夜衣事はすぐに證文差許さしゆるし岩井村百姓十兵衞身寄みより太郎作へ引渡しつかはすべし」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱遊女ふみ事丁山 とみ事小夜衣 其方共主人へ右之通り申渡しおき候間心得こゝろえとして聞置きけおく」「三州藤川在岩井村百姓十兵衞亡身寄太郎作 其方身寄十兵衞二女富こと小夜衣さよぎぬ儀は新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏より此度其方へ引渡しつかはし候間世話せわ致しつかはすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候目安めやす取調とりしらべる處事實じじつ相違さうゐ無之これなくかつ永年えいねんをつと無實むじつ罪科ざいくわあひしをなげかはしく心得貞節ていせつを相守り悴道之助養育やういくに及びまかり在候段神妙しんめうの至りに候之に依て夫道十郎儀罪科ざいくわ悉皆こと〴〵差許さしゆるされ候追善つゐぜん供養くやう勝手かつて次第爲可なるべく且又御褒美はうびとして銀二枚取せ遣はす」「同人悴道之助 其方儀實父じつぷ道十郎事牢死らうしいたし候後母光の養育を請候より追々おひ〳〵成長に及び候處幼弱えうじやくの身に之ありながら日頃より母に孝養かうやうつくし罷り在其身は母の助けに相成べくと毎日晴雨せいういとはず未明みめいより起出て枝豆えだまめ其外時の物を自身じしん賣歩行うりあるき難澁なんじふをもいとはず孝行盡し候だん幼年えうねんには似合ざる孝心奇特きどく之事に候よつて御褒美はうびとして鳥目てうもく十貫文とらつかはす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共八ヶ年以前平川天神裏門うらもん前にて町醫師村井長庵こと雨中うちうかさもた立戻たちもどり候を見請候はゞ其せつ道十郎身分にもかゝはり候事故早速さつそくにも申立べくの處其儀無く打過うちすぎ候段不埓に付屹度申付べきの處此度證人に相立其方が申立によつ事實じじつ明白めいはく行屆ゆきとゞき候儀も有之に付格別の御憐愍れんみんを以て無構かまひなし」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に差置さしおき候醫師村井長庵儀は身分たしかならざる者に之あり候處ぞんぜずとは申ながら永年えいねん差置候段不屆に付しかり置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵衞店六右衞門 赤坂傳馬町二丁目長助店浪人藤崎道十郎後家みつ店受人清右衞門 右みつ家主長助 其方共一同取調べ候處別段不都合のすぢもこれなく候に付何れも構無かまへなし」右之通り一同相心得申べく旨申わたされ八ヶ年以前中山出雲守殿調しらべにて無實むじつ横死わうしとげし浪人藤崎道十郎が修羅しゆら亡執まうしふも此處にうかみ出て嬉く思ふなるべし果せるかな惡事のむくい速かにめぐり來りてさしも申いつはりたる村井長庵が奸謀かんぼう悉皆こと〴〵く調べ上に相成はじめ貞婦ていふみつ孝子かうしみち之助が善報の程は神佛しんぶつ應護おうごにもあづかりし物成んと其ころ風聞とりさたなせしとぞさて其翌年に至りて公儀こうぎに有難き大赦たいしやの行はれけるに御かみにも久八が忠義の程を御賞感しやうかんあらせられし事成ればすぐに此大赦たいしやうちへ加へられつひに御免にてとほき八丈島より歸國にこそは及びけれ依て六右衞門へ引渡ひきわたしに相成其後三河町伊勢屋五兵衞にも追々おひ〳〵取年とるとしにて養子やうし千太郎死去に及びたるより家をゆづるべき子もなく居たる所なるゆゑ甲州屋吉兵衞へ相談さうだんの上六右衞門方より吉兵衞方へ久八を引取ひきともと主人しゆじん五兵衞方へあらためて養子にぞつかはしける然ば昨日迄きのふまでに遠き八丈の島守しまもりとなりし身が今日は此大家たいかの養子となりし事實に忠義の餘慶よけい天よりさいはひをさづたまふ所ならん然るに久八は養父五兵衞につかふることむかしまさりて孝行をつくみせの者勝手元の下男に至る迄あはれみをかけ正直しやうぢき實義じつぎを以てつかひける故に一同こぞつて出精しゆつせいなし益々ます〳〵伊勢屋の暖簾のれんとみさかえければ其久八が赤心せきしんかんじて養父五兵衞もうまかはりし如く慈善じぜんの心をおこし昔しの行ひをはぢ己れは隱居して久八に家督かとくゆづりしとぞこゝに又丁山と小夜衣の兩人はほどなく曲輪くるわを出てたり姉の丁山二世と言替いひかはせし遠山とほやまかん十郎と云し人も病死なせしかば其跡をとぶら小夜衣さよぎぬは千太郎が横死わうしせしは我身よりおこりし事とわするゝひまのなくばかりなれば在所ざいしよ身寄みより太郎作へ引渡ひきわたされしゆゑ所々より嫁にもらはんと言込いひこむ者のかず有ども兩親の菩提ぼだいためあまに成らんと姉妹はらから兩人ふたり心を決し在所ざいしよの永正寺と云尼寺あまでらへ入みどり黒髮くろかみそり念佛ねんぶつまい生涯しやうがいおくりし事こそ殊勝しゆしようなれされば長庵をさし大膽無敵だいたんふてき惡賊あくぞくにして大岡殿勤役きんやく中四五の裁許さいきよなりと世に云つたふると雖も長庵が白状はくじやうときに至り證據人忠兵衞をうらむこと卑怯ひけふ未練みれん小賊せうぞくなり古語こごに人の知ることなきほつすればなすことなきしくなし人のきくことなきほつすれば言ことなきしくなしとむべなるかな嗚呼あゝ謹愼つゝしまずんば有べからず。


村井長庵一件

直助權兵衞一件

直助權兵衞なほすけごんべゑ一件いつけん


第一回


 こゝ播州ばんしう赤穗あかほ城主じやうしゆ淺野内匠頭殿あさのたくみのかみどの家臣かしん大石内藏助おほいしくらのすけはじ忠義ちうぎ面々めん〳〵元祿げんろく十五年十二月十四日吉良上野介殿きらかうずけのすけどのやしき討入うちいりきはまり同月十日に大石内藏助は小山田庄左衞門をやまだしやうざゑもんまね同志どうし人々ひと〴〵家内かない片付かたづけ支度致したくいたすに付て金銀の入用有べし太儀たいぎながら諸所へゆかれ金子を與へ給へとて二百五十兩相渡せしかば心得候と出行いでゆく引留ひきとめ其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は寸延すんのびと見えたり室内のはたらきには不便ふべんなればこれまゐらせんと則光のりみつの二尺五寸有しを與へければかたじけなしと押戴おしいたゞき是にて討入のせつおもふまゝに働き申さんと喜びて立出しが如何なる惡魔あくま魅入みいられしにや俄然にはか欲心よくしんきざして此十四日の夜討に入りなば討死するか又は切腹なすか二ツの外はいづべからずさいはひ此二百五十兩を路金ろぎんとして立退たちのかばやと思ひしがどくくらはゞ皿迄さらまでとはこゝのことなりと片岡堀部前原なんどを廻り大石殿より家々いへ〳〵片付かたづけ金使かねつかひに命ぜられたれども不足の時は各々より二十三十づつ借請かりうけやうにと申されたりと云て各々めい〳〵より請取うけとり其外そのほか衣類いるゐ夜具迄やぐまでも所々にて借入何處いづくともなく迯亡にげうせけりこれ福貴ふくきなりともひと百年の壽命は保ち難しかはらとなりてたもたんより玉となりてくだけよとはむべなる哉大石とともに死しなば美名は萬世に殘るべきを呼呵あゝ淺猿あさましきは人欲じんよくなり


第二回


 さても同志の人々は小山田庄左衞門が逐電ちくでんせしを聞て大いに怒り追掛て討止うちとめんと云しを大石制して其身に惡事有れば夜討の事をもら氣遣きづかひなしと止めしがかねて申合せし四十七人十四日の夜全く本望をとげ翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は雲霞うんかの如く忽ち四方に評判聞えけりこゝに庄左衞門がいもうと美麗びれいにして三味線みせんなどよくひくゆゑ品川の駿河屋何某のもとへ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は古稀こきに近くこしは二重に曲居まがりゐるを此駿河屋方へあづけ置しが十四日の夜討のことを聞き如何に本望遂ほんまうとげたるや子息せがれ庄左衞門は高名なしたるかと案事居あんじゐけるに浪士らうし泉岳寺へ引取しと聞き二本のつゑすがり大勢の見物を押分おしわけるに見物山の如くにて近寄事かなはず其中に討入の者の名前がき賣歩行うりあるくゆゑ買取かひとりて見るに寺坂吉右衞門迄名前有共あれども小山田と云は無しは記者の間違まちがひならんと又賣來るを買取かひとりるに同じく漏居もれゐければ十兵衞不審いぶかりながら立歸りしが其夜に至り子息せがれ庄左衞門逐電ちくでんせし事を始て聞知り切齒はがみを爲て怒り歎きしが夜中に書置かきおきしたゝはら掻切かききつうせたりけり是庄左衞門が非道の行ひによつて老體のちゝかく成行なりゆきしは庄左衞門が不義の手に掛りしも同じ事なりかくのち庄左衞門はしばら田舍ゐなか潜居かくれゐ外科げくわならおぼえ兩三年立て妻子を引連ひきつれ深川萬年町に賣家うりいへかひ中島なかじま立石りふせきと改名して醫業をいとなみとせしにことほか繁昌はんじやう致し下男下女を置き妻と娘一人を相手に暫時しばし無事に消光くらしけり


第三回


 こゝ立石りふせきが下男に直助と云ふ者有りもとは信州の生れにして老實まめ〳〵しく働きけるが下女に心をかけ種々に口説くどくと雖も直助は片田舍かたゐなかの生れにて此下女は江戸の出生しゆつしやう故直助が云ふ事を聞ず兎角とかく強面つれなく當りしを立石夫婦も知りをりふれては笑ひなどしけるを直助は面目なくかつ遺恨ゐこんに思ひ居たるに或夜立石夫婦は酒にゑひて前後も知らず寢入ねいりしを見濟みすまし其の夜丑滿うしみつ物凄ものさびしき折こそ能けれと直助は寢息ねいきうかゞそつ起出おきいで押入おしいれの中に有る箪笥たんす抽斗ひきだしを開け金をうばひ取らんとなせしかど錠前ぢやうまへ堅固けんごなれば急にあける事かなはず其中に十二歳なるむすめ不圖ふとさま母樣かゝさんれ直助がと云ふ聲聞き立石が枕邊まくらべにある刀を引拔ひきぬき無殘むざんにも娘を刺殺さしころせども猶立石は前後も知らず醉臥ゑひふしたるを直助は直樣すぐさまうへまたが咽喉のどもと突貫つきとほし一ゑぐりに殺してまた箪笥たんすの方へゆかんとせしに女房はそつと續いて來るを振返ふりかへり樣三刀四刀に切殺せり其中に下女はおもて迯出にげいで人殺々々ひとごろし〳〵よばはりながら金盥かなだらひたゝき立てしかば近隣の人々馳付はせつける樣子を見て金をうばすきもなく裏口うらぐちより驀直まつしぐら迯出にげいだ行衞ゆくゑも知れずなりにけり(時に正徳四年ふゆ十二月義士十三回忌くわいきの時に當り庄左衞門は下僕げぼくの爲に切殺されしはしかも大石より與へられし則光の刀なりと小山田が不義ふぎてんなんゆるし給はんや又直助は御尋ね者となり近き頃まで諸所の關所に直助が人相書にんさうがきりしを知る人に便たよりて見たることありにや因果はめぐる車の如く直助が身の上も思ひ知られたり)其後そのご直助は人相書を以て御尋ね者と成しところかう行衞ゆくゑれざりしに享保も四年となりし頃は最早もはや五六年も立しゆゑ氣遣きづかひなしとは思へどもかたあゐにてあざの如く入墨いれずみをなしひたひにもあごかたちゑがき前齒二枚打缺うちかきて名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に米搗こめつき住込すみこみたるを町方まちかた役人やくにん怪しみ早速召捕めしとり嚴敷きびしく拷問がうもんに及びしかど一向白状せざればさては直助にては非ざりしかと此段大岡殿へ申立しにぞ越前守殿ゑちぜんのかみどのも有るべしとて呼び出され如何に權兵衞其方はとがもなき者なるを役人捕違とりちがへて是迄吟味ぎんみに及びし事氣の毒の至りなり定めし身體もよわり手足もきくまじれば此儘に歸しては當分たうぶんさぞ難儀なんぎなるべし依て金五兩とらせ遣はすあひだ是にて能々療治をなし渡世を致せ主人三左衞門も權兵衞を介抱かいはうしてつかはせ誠に不便ふびんのことなりしいざ立てと申さるゝを聞き權兵衞はうれしさ何にたとへん方なく其金を持て白洲しらすを立ち五六けん行處ゆくところを大岡殿コリヤ直助と呼び掛けられしに天命てんめいのががたくハイと振向ふりむきしをそれしばれと云るゝを聞き南無三と潛戸くゞりど迯出にげいださんとなすを同心ばら〳〵と立懸り忽ちなはをぞ掛けたりける(これ其身そのみとがを白状せざる者へあまことばを掛け金迄かねまで與へられしゆゑさては我が惡事知ずしていのちたすかり金までもらひたりとうれし悦び何心なく立ち去んとせしときおもはずも直助と呼び掛けられかれに答へをさせられし秀才しうさい頓智とんち等閑なほざりの及ぶ處に非ず)之に依て又々吟味ぎんみに及ばれし處一たん荒膽あらぎもひしがれたれば如何に強膽がうたんの者なりとも勿々なか〳〵かくす事能はず立石が家内三人切殺せし事ども殘らず白状なしければ小塚原こづかはらに於てつひはりつけにこそおこなはれけれ


直助權兵衞一件

越後傳吉一件

越後傳吉ゑちごでんきち一件いつけん


第一回


 古人こじんいはく近きをはかればたらざるが如く遠きに渡れば乃ち餘り有りと爲す我國わがくに聽訟ちやうしようを云ふ者大概おほむね青砥藤綱あをとふぢつな大岡忠相おほをかたゞすけの兩氏が明斷を稱す茲に説出ときいだすは其大岡殿勤役中屈指の裁許にして頃は享保年間に越後の國高田の城下を距事さること七八里寶田村たからだむら工藤傳吉くどうでんきちと云ふ百姓あり祖父の代より田畑でんばた數多あまた持ち傳吉が父傳藏の代迄名主役をつとめ父傳藏に至り水損すゐそん打續うちつゞき其上災害さいがいならび至りて田畑殘りなく失ひせがれ傳吉十六歳のときおや傳藏は病死なし母一人殘り孝行かうかうを盡しけるに母も父が七回忌くわいきあたとし病死なしければ傳吉の愁傷しうしよう大方ならずかつ親類しんるゐは只當村たうむらをさ上臺憑司かみだいひようじ而已のみなれ共是は傳吉の不如意をきらひ出入をなさず又母は樽見村たるみむらの百姓源兵衞の娘にて妹一人あり此妹に家をつがせ自分は傳吉の家へ嫁入よめいりせしに父源兵衞病死の後は妹お早身持みもちよからずむこを三人迄取りけれ共皆離縁になり其後惡き者と欠落かけおちし母方のあと斷絶だんぜつせり此外には親類もあらざれば母は臨終りんじうの時傳吉に向ひ我が妹お早は其方の爲に實の叔母をばなれども先年せんねん村を欠落かけおちなし今は其の在家ありかを知らざれ共我が亡後なきあとめぐあはば其方力になりてくれよと遺言ゆゐごんして終りてより實にしんはなきよりとは斯如かくのごときならん夫後そのご傳吉は人にたのまれ江戸表へ飛脚ひきやくに來たり途中とちう鴻巣宿こうのすじゆくを通り掛るに道のかたはらに親子と見ゆるが休み居たり傳吉は何心なく彼女親を見るといとやつれたるかたちなれども先年家出せし叔母お早に似たりと思ひしゆゑに立戻たちもどり段々樣子を聞きたるに叔母お早に相違なく且つ先年家出せし後此娘お梅と云るをまうけ當時は此宿に足をめ人に雇はれうき年月を送る旨物語るに傳吉も母の遺言ゆゐごんなにくれと話しなどし此上は及ばずながらお力にもならんと云ふに親子おやこ地獄ちごくで佛に逢うたる如くに歡びけるが傳吉は飛脚ひきやくの事故一先たもとを別ち江戸へ來り用事をすませ立ち歸る時に又叔母をばのお早を尋ねしになほ段々だん〳〵難儀なんぎはなしをなす故見捨難く近所へあつれいを述べ直に越後へ連歸つれかへりぬ扨傳吉はまづしくらしの中にて叔母と從弟いとこ養育はごくむ事容易に非ず殊に實家さへぜつせし叔母に斯く孝行を盡す事人々譽合ほめあへり扨お梅も當年十八歳傳吉は廿六歳幸ひの縁と心中を聞合きゝあはせしに兩人共得心とくしんの樣子故夫婦と成したり斯て傳吉は村の評判ひやうばんよろしき故親類といひ捨置すておかれずと名主上臺憑司かみだいひようじも出入を始めせがれ昌次郎も時々に出這入ではひりなし居たり


第二回


 扨て又傳吉は倩々つら〳〵思ふに我が家世々村長成しが父の代よりいへおとろ田畑たはたも失ひあまつさへ從弟いとこ上臺憑司かみだいひようじ村長役むらをさやくうばはれ今では人々にまで見落さるゝ口惜くちをしさ是も世の有樣と思ひ十六七の時より何卒なにとぞ再び家をおこさんと志ざし牛馬にひとしき荒稼あらかせぎしてはげめども元より母は多病たびやうにて始終しじう名醫にも掛しかど終に養生やうじやうかなはずむなしく成しが其入費いりめ多分有る所へ又叔母をやしなひ妻をもちまづしき上にまづしくならん今の中に江戸に出て五六年もかせぎなば能き事も有べしと思ひ或日叔母女房に向ひ此事を直談ぢきだんに及びければ大いにおどろき是は思ひかけなき事を云るゝものかと我が身親子がうゑもせず今日迄くらしけるは皆此方のかげなり今更老たる叔母此梅諸共もろとも置去おきざりにせんとならば勿々なか〳〵とめはせじ夫ならば其樣そのやう白地あからさまに申給はれと云けるにぞ傳吉大いに迷惑めいわくし是は〳〵叔母や女房を置去おきざりにせん心なら最初さいしよより諸方を尋ね歩行あるきこうより態々わざ〳〵つれては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利をはかるに非ず五六年もくるしみなば元の田畑でんばた取戻とりもどすことも出來左すれば村長にも成る家柄いへがらゆゑ先祖せんぞへの孝養かうやうと思ひかねて心がけ置たる錢十貫文之をのこおかば當時の暮し方は澤山たくさんあらん來年は給金のなかばわけおくり申べしまつは久しき樣なれども只一すぢつとめ上早々立歸りて元の田地取戻し候はゞ先祖への面目めんぼく親への孝行是にます事なし能々よく〳〵聞分て給はれと申ければ叔母女房も得心とくしんしてにはかたび用意よういをなし父母のはか參詣さんけいし夫より村長上臺憑司かみだいひようじ方へ行き妻子のことをたのみ置き其日住馴すみなれたる寶田村を立ち出て東の空へぞ旅立たびだちけり時に享保三年九月十日の事なりあしまかせて行けるに十日の月さし出つゝくれ宿やどなき一人たびしきりに急ぎ歩行あるきし所にぴかりとひかる物あり足にて踏返ふみかへせしに女のくしなりければ何方の人がおとせしやらんと手にかざし見れば鼈甲べつかふいとふるびたるにても三ツ四ツかけたり是を拾ひ取り行くほどに一里づかほとりより申々御旅人樣是より先に人里なし此宿このやどへ御泊り成れと走り來るを見返れば年の頃十三四なる少女なり今日はつかれたり何所へ泊るも同じ事案内あんないたのむと家路いへぢさしいそぎけり


第三回


 かくて傳吉は小娘に誘引いざなはある家に入て見ればはしらまがりてたふのきかたぶき屋根おちていかにも貧家ひんかの有樣なれば傳吉は跡先あとさき見回し今更立ち出んも如何と見合ける中に小娘はたらひ温湯ぬるゆくんで持ち出で傳吉の足をあら行燈あんどうさげ先に立ち座敷へ伴ひ木枕きまくらを出しちと寢轉ねころび給へとて娘は勝手へ立ち行き半時ばかり出で來らず傳吉はかしらめぐら家内かないの樣子をうかゞひ見る程に元は相應さうおうの旅籠屋と見えて家の作りやう由緒ゆゐしよありげに見えけれども彼の小娘の外一人もなきは山樵やまかつ盜賊たうぞく棲巣すみかならんとしきりに怪しくなり逃道にげみちを見て置ばやとひそかに見回す折柄をりからかべの落たる那方にていとくるし氣なるせきなし苦聲うなるこゑの聞ゆるにぞかべあなよりさしのぞくに年の頃五十ばかりの男病耄やみほゝけて顏色かほいろあをざめ餘程長きわづらひにつかれたる樣子なり傳吉は此體を見てひそかもとの座へ立ち歸り彼は正しく此所のあるじさては娘の父ならん然れば山賊のかくにも非ずと安堵あんどして在る所へ彼娘の勝手よりぜんを持ち出で傳吉が前に差し置きさぞやお空腹ひもじう候はん私し一人にて煮炊にたき致し候ゆゑいそぐとすれども時移ときうつりお待ち兼て在りしならん緩々ゆる〳〵あがりておやすみなされませと言ふものごしに愛敬あいきやうふくみ至つてかしこく見えければ傳吉今更あはれに思ひはしを下に置き小娘に向ひかくひろき家に唯一人立ちはたらき給ふは昔しの餘波なごりいたましく思ふなり殊に病人の有る樣子に見受みうけしが其方そなたの父なるか母はいまさずや其方名は何んと申す今宵限こよひかぎりの宿ながら聞まほしと云ひければ娘はたちまなみだながし有難き今の御言葉身のかなしさをお話し申さん彼所かしこふしたるは父にて候ふ所其以前は可成なる旅籠屋はたごやなりしが私し五歳の時母は相果たり夫よりは家の活業なりわいおとろへ下女下男に暇を取せ其中にお早と申すを父が後妻こうさいとし私がため繼母まゝはゝなりしも家は段々衰へて父は四年以前より苟且かりそめの病ひにて打臥うちふしたるが家の事打任うちまかせたる彼のお早どのは夫の病氣を看護みとりもせず其上家財かざい着類きるゐ金子迄掻集かきあつめ家出なし三年の今日迄行衞ゆくゑ知ず母には實の娘一人ありけるが夫を同伴ともなひて此家を出しは我が家の次第にかたむく身代に見切を付て他へうつおんを仇なる畜生めと病の中に父の腹立はらだち此怒りをなだめんにもなくより外の事もなく心ぼそさにあとや先昔はおんうけたる者も今は見放みはな寄付よりつかず身近き親類なければ何語らんも病の親と私しと二人なれば今迄いままで御定宿の方々も遂にわきへ皆取られ只一人も客はなし其上去々年をととし山津浪やまつなみあれたる上に荒果あれはて宿やどかる人も猶猶なく親子の者の命のつな絶果たえはてる身の是非もなく宿のはづれに旅人を一人二人づつ無理にお宿を申ても此有樣に皆樣が門口よりしてにげゆかれ今日は貴方あなたをお止め申しいさゝか父が藥のしろになさんと存じて御無理にもお宿を願ひあげたる事ゆるし給へとて泣伏なきふしたる娘がてい見るも不便ふびんおぼえけり


第四回


 されば傳吉おせんが物語りを聞て歎息たんそくし扨々世の中に不幸ふかうの者我一人にあらずまだ肩揚かたあげの娘が孝行四年こしなる父の大病を今日迄看病かんびやうおろそかならねばいかで天道あはれまさらん今こそ斯あれ後々は必ず榮華えいぐわの身とならんと我が叔母女房のうはさとは夢にも知らずいたりける此ぞ傳吉が叔母お早が事にして此はお早親子もふかかくしける故傳吉は知らざりしさて何かなとかんがへしが先に拾ひし鼈甲べつかふくしこそ好けれと取り出し是は我等が山間やまあひにて圖らず拾ひし品なるゆゑ之を賣代うりしろなすならば少しばかりの錢にはならん父御のくちかなひし物を調とゝのへてなりまゐらせよとくだんくしあたへしかば娘は之を押戴おしいたゞ行燈あんどう指翳さしかざし一目見るより打ち驚き之はさきつ頃私しが道におとせし品にして母の紀念かたみくしなれば家財道具は聊かの物も殘さず賣盡し身にまとふべき衣類いるゐさへ今はつゞれもあらざれども此品計りは我が母のおんを忘れぬ心にて生涯しやうがいかしらに頂かんと思ふが故に賣殘しぬ然るを先日おとして後を種々いろ〳〵さがし求めて居しなり偖々嬉しき事哉と幾度となく押戴おしいたゞ喜悦よろこぶさま熟々つく〴〵見て感心なし今の話しには母御の紀念かたみの此櫛と云はるゝからは片時も忘れ給はぬ孝心かうしんを天道樣もあはれまれ必ず御惠みなるならん能々父子てゝごを大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再びたづまゐらせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋銀五郎我が身はせんよばれつゝ所に久しき家柄いへがらなれどもかく成果なりはてしと嘆息の外なかりけり


第五回


 傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目信濃屋しなのやげん右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み彼方あなた此方こなたと見物なし江戸第一の靈場れいぢやう淺草の觀音へ參詣さんけいし能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口をさがしけるに吉原のくるわ第一の妓樓ぢようろやにて京町の三浦屋に米搗こめつきの口有り一ヶ年給金三兩にて住込すみこみ日毎ひごとに米をつくを以て身の勤めとはなしにける然るに物がたき傳吉は鄭聲ていせい音曲おんぎよく洞房どうばう花燭くわしよくたのしみをうらやまずあしたよりくるるまで只管ひたすら米をつきつぶにてもむだにせず其勤め方信切しんせつなりければ主人益々悦び多くの米も一向に搗減つきへりなく取扱ひ夫より其年の給金きふきんを請取るに半分はつかはし叔母女房の衣食のたしになし殘る所は主人へ預け儉約けんやくを第一として勤め居たり


第六回


 然程さるほど光陰くわういんの如く傳吉は四五年勤めしが四季の給金臨時ふじもらひもの等ちりつもり山となりて百廿兩程になりし故宿願しゆくぐわんすでに成就したりとしきりに古郷が懷敷なつかしく主人の機嫌を伺ひ越後へ歸り度旨を願ひけるに今三浦屋の白鼠と云はれし者をいとまをやるは主人もをしく思ひけれ共是非ぜひに及ばず首尾能くいとまつかはしければ傳吉大いによろこかねて年頃主人へ預けし金百廿兩餘を請取うけとりやが古郷こきやうへ急ぎけるかくて山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏をまとひし雲助二人一里づかの邊より諸共に出て前後より傳吉を引挾ひつはさみ親方骨柳こりが重さうに見えるか今日は朝からびた一文にもならず少々揚取あげとらせて給はれと骨柳こりに手を掛るを傳吉其手をはらひ中仙道をあしけ年中往來する我等小揚取こあげとらせることはない串戯じようだんなと力身りきんで見てもびく共せず二人の雲助嘲笑あざわらひイヤ強い旅人じや雲助は旅人にかたかさねば世渡りがならず酒手さかてほしさに手を出して親にも打れぬ胸板むないたをれるばかりにかれては今日から駄賃だちんを取る事出來ずと云ふをかたはらより一人が往手の道に立ちふさがいやなら否で宜事いゝことなりつかれるとがは少しもなし何でも荷物をかつがせてもらはにや成らぬとゆすり半分喧嘩けんくわ仕懸しかけに傳吉は何とか此場をのがれなんとせども惡者承知せず彼是ふうち其骨柳こり渡せと手を掛るに傳吉今は一生懸命右をはらへば左より又た一人が腕首うでくびしつかと取てうごかせずかうはてたる折柄此處に來たる旅人あり此有樣を見るよりも馳掛はせかゝり一人の雲助を取て引擔ひきかつ斗筋打もんどりうた投付なげつけるに今一人も張倒はりたふ蹴返けかへながら發打はつたと白眼にらみ汝等二人は晝日中追落しする不屆者直樣すぐさま捕へ宿場へ連れ立ち御法通りにして呉ん首は入らぬか蠢蟲うじむしめと罵りければ惡徒共此勢に恐れけん尻込しりごみして只眞平御免まつぴらごめんわびるにぞ夫なら今日はゆるして呉んと言捨いひすてて是は我等が連れなり率々いざ〳〵御一所にと目配めくばせすれば傳吉も夫とさとりて骨柳を取り打ち連れ立ちて行きながら彼の旅人に打ち對ひ小腰こごしかゞめ偖々惡者に付られ難儀千萬の處貴君の御救ひにて何事なくまことに御禮は言葉に盡しがたしと慇懃いんぎんに禮をべつゝこの旅人を見るに一くせあるべき顏形かほかたちなれば如何にもして此者と立ち別れんと漸々やう〳〵野尻宿迄來り近江屋與惣次よそうじと言ふ旅籠屋へとまりける


第七回


 扨旅籠屋にて年頃としごろ十七八ばかり田舍に稀なる女ありと心をとめてみれば何か見覺みおぼえ有る樣にて彼の女も傳吉を見て不審いぶかし顏色かほいろなりけるがつれの男は湯に入らんと湯殿の方へいたりし折節彼の女を傳吉は引留ひきとめてお前は何處かで見た樣なれど思ひ出されずと言ば女は傳吉を倩々つら〳〵見て私も見たお方の樣に思ひしが若しや五年前柏原の森田屋へとまり給ひし傳吉樣にては御座なきやといふに此方ははたと手を打ち森田屋の娘子むすめごお專どのにて在しよなお前が此所に御座るとはゆめいさゝかも知らざりし我等も江戸へおもむきて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡きやつに付られ少しも油斷ゆだんならざるまゝ早忽々々そこ〳〵に通り拔しがいつごろ此所へ來られしやと問懸とひかけられお專は忽ちなみだふくみ父は貴方のお泊りありし其年のくれ死亡みまかり遂に我家を賣代うりしろなし此旅籠屋は少しの縁由ゆかりも有りけるまゝ下女に雇はれ候ふなり先頃貴方あなたの御めぐみに預るのみか取り分て下し給ひし一品はとみたる人の千金にまして忘れぬ御恩なり今夜にせまる貴方の御難儀大概たいがい御察し申たり今夜は私が何なりとお救ひ申し參らせん御安堵あれと請合うけあひながらも過さりし親の病苦びやうくや身の憂事うきことを思ひ出してやいととしく涙にくれて居たりけり傳吉もまことなる言葉ことばいさゝ安堵あんどなしたれば猶も物語らんとする所へ彼連かのつれの者の足音せしゆえ空寢入そらねいりして居る程にお專も立て出で行けり偖傳吉は金を藁苞わらづとよりそろ〳〵と出しこししつかとゆひつけ之までかぜを引たりと僞り一ト夜も湯には入らざるのみか夜もろく〳〵に目眠まどろまず心を配り在りけるが今夜はのお專に委細くはしく相談せんと思ふ故少し風もこゝろよく候へば湯に入りて來らんと湯殿ゆどのの方へ立ち出でければお專はとく縁側えんがはへ立ち出でかたへの座敷ざしきへ連れ行て貴方が湯に入り給はんと申さるゝ故荷物にもつ番に御ぜんを出し且又はなしの内に立せ間敷まじく其爲そのため朋輩ほうばいを頼み置きたりおはなしあらば心靜かに咄し給へといと發明はつめいなる働に傳吉は其頓智とんちを感心なし事急ぐなればつまんで咄さんが某し江戸表に奉公なし年頃としごろ給金其外とも溜置ためおきし金百五十兩程に成たり依て此度古郷へ立ち歸り家をおこなき親達おやたちいさゝ孝養かうやうそなへんと出立なす折柄をりから輕井澤かるゐざはへんより彼の曲者くせものと連れに成り道中みちすがら彼の振舞ふるまひに心をつけるに唯者たゞものならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者度々たび〳〵手を出さんとすれ共我も油斷ゆだんなく往來の人に交る故其難はのがれたれども今宵こよひ一夜が絶體絶命ぜつたいぜつめい明日は古郷へ五里ばかりの處なり今夜をすごせば明日は安堵あんどいたすべし何卒今宵の大難を救ひ給へと申しければお專は暫時しばし思案の體にてよしや今宵はしのぐ共明日道にて如何成る目にあひ給はんも知れがたし兎角に其金子御身が所持しよぢなし給ひては災ならん私にあづけ給へと言ふに傳吉もかねてより親孝行は知りしうへ且又發明女はつめいぢよゆゑ懷中より金子を出して渡せばしかと懷中して則ち頭にさせくしを出し是はお前樣も知る通り我が爲に千金にもかへがたき母の紀念かたみにして片時もはなさず祕藏ひざうの品此櫛このくしを證據にお渡し申さん鼈甲べつかふの古びたる上にの三枚かけよき證據しようこなれば此度御歸國なし給ひて假令たとへお前がお出なく共此くしさへ持せてつかはされなば他人にてもお金をお渡し申すべしたしかなる證據故能々此櫛を大切に失ひ給ふなとくしを傳吉にわたしお身金子なく共彼の惡者と明日一所に道連みちづれにならんこと危し今夜の八ツのかね相圖あひづに立ち給へとて間道ををしへて一人立せける彼金子をお專があづかり金のこと故主人にも深くつゝみて置きけるとぞ


第八回


 偖て傳吉は脇道わきみちより其の日の八ツ時分に寶田村へ立ち歸り無事に歸國きこくのよしを名主方へ屆け置き我が家へこそは歸りける叔母女房は門口かどぐちへ出迎ひ偖々五年ぶりにて無事に歸り給ひしことのうれしさよ當年たうねんは歸るとの手紙てがみ成れ共今時分とは思ひよらずさだめてくれにも成んと存じ居りしに早く歸られて安心なしぬと言ふうちに村中つれ立ち大勢來りける故叔母も女房も夫々へ挨拶あいさつして居るに名主の憑司ひようじも來り悦びをのぶほどに傳吉も是迄の艱難を物語り偖五時頃皆々いとまを告て立ち歸る後に叔母は不思議ふしぎさうに傳吉に向ひ先刻せんこくより尋ねやうと存じけるが五六年も奉公なしかへられるに風呂敷包ふろしきづつみみ一つも持ぬとはなん云譯いひわけだと尋ねければ傳吉は道中にありし始末を物語り彼のおせんより預りしくしを出し此だに出しなばたれにても金子はわたれるはずなれば明日は早々參て受取り來らんと思ふ故此くしは百五十兩の代の品大切なりと申しければ叔母をばは大いによろこ偖々さて〳〵夫はあやふひことことに百五十の大金は能々心掛ざればためることは成り難し如何にも斯る大金をため辛苦しんくの程察し入る呉々もよろこばしきことにこそして其のくしは百五十兩のかたなれば佛前へそなへて御先祖其外父御てゝごにも悦ばせ給へと叔母女房ともくちそろへて申すにぞ傳吉も佛前へそなへ夫より夜食やしよくすみて傳吉は今こそ我家へ立ち歸りしゆゑこゝろ落付おちつ草臥くたびれ出しにやこくり〳〵と居眠ゐねぶりけるを叔母は見るより傳吉どのもさぞつかれしならんお梅やとこしきまゐらせよと云ひければお梅は夫のとこ打敷うちしき臥戸ふしどに伴ひけるに傳吉も安堵あんどせしにや枕に着くと其の儘にねぶりけるが翌日の巳刻よつ時分漸々起出おきいでかほを清め佛前へ向ひ回向ゑかうし前夜のくし仕舞しまはんとさがせど更に見えざるに叔母に向ひ前夜のくしは如何成れしやと問ふに叔母もお梅も口をそろへ一向知らずと申すにぞ傳吉は仰天ぎやうてんして所々しよ〳〵方々はう〴〵と尋ねけるに何分見當らず之れによりて家内大いにさわぎたち猶も殘るくまなく尋ねしに如何にも知れざるゆゑ傳吉も今は詮方せんかたなく能々よく〳〵思案しあんめぐらすにお專はいたつて正直しやうぢきにしてことに發明の女成ればはくし無きもあづかり物をあづからぬとは申すまじ是より野尻宿へ到り右のわけはなし金子を受取んと野尻宿へ赴きお專に逢て扨々申分なきことを致したり前夜ぜんやかへりてくしをば百五十兩のかたなりと佛前へ備へ置きけるが今朝けさ見れば更になきゆゑ家内中穿鑿せんさくを致すと雖も何分見當らず夫に付き只今參りたりくしの代に何程なにほどにても取て金子をわたし給はれと申しければお專は傳吉の顏を熟々つく〴〵ながさて御前樣は盜賊たうぞくに能々見込れ給ひしものと見えたり今朝程けさほどお前樣よりお頼みのよしにてお隣家りんかなる彌太八とか云る御人がくしを御持參有しに間違まちがひも有まじと思ひ右品引換ひきかへに金子御渡し申したりとくしして見せければ傳吉は再び仰天ぎやうてんなしたりしが心をしづめ夫は年の頃はいくつ位に候や我が村中に彌太八といふ者なければ我頼みしおぼえなしさつする所前日の惡者の仲間をたのんでよこしたるならん五年のあひだ千辛萬苦せんしんばんくしてためたる金子もよく〳〵我に授らぬ金なり斷念あきらめるより外無しと力を落して茫然ばうぜんとして居たりけるお專は如何にも氣の毒に思ひ種々いろ〳〵かんがへしに之は全く過日の惡物わるものわざに非ず同村中の人らんかく申さば何となく人をそしる樣なれども私しもかゝり合ひの事なれば心に思ふ所を申して見んかならずお心にかけ給ふなまことに七人の子はなすとも女にこゝろゆるすなとのたとへもありておまへ樣のお留主に女房さんの心變こゝろがはりし事もあらんか能々家内に心を用ひ見られよされども先何事もなきていに歸り斯樣々々かやう〳〵にし給へと謀計はかりごとをしへ傳吉をば歸しける


第九回


 扨て傳吉は其夜そのよ亥刻よつすぎに我が家へ歸りければ女房叔母ともに出で立ち今御歸りなされしや金子は如何にとたづぬるに傳吉さればお專殿は留守にて分らず歸りを待んと存ぜしが又々金子不用心ぶようじんゆゑ明後日參りて受取り來らん先は五ヶ年留守のうち村中の世話せわに成りことに百五十兩と云ふ大金をためて來りし事なれば村中を明日あすよんで馳走をなさんと思ふなり其用意致すべしと事もなげに申しける女房叔母も其支度を致し村中へ人をまはし呼びけるにぞ巳刻時分より五六十人一座にて馳走ちそうをなし一通り盃盞さかづきも廻りければ傳吉はそつと其場をたち表の方へ出れば垣根かきねきはに野尻宿のお專頭巾づきん眉深まぶかかぶり立ち居たり傳吉はひそかに宅へ伴ひしのばせて座中をうかゞはせたるに此中には其人なしと云ふ故傳吉は又々女房叔母を呼び五ヶ年のうち村中にきつい御世話に相成しは實に有難き仕合しあはせなり別て上臺憑司ひようじ親子にあつき御世話に相成しよし然るに昌次郎いまだみえず御迎おむかひにと申す處へ入り來たり直に傳吉の傍らに着座ちやくざし馳走にぞあづかりける傳吉一同へ向ひ私しも江戸表にてよろしき家へ奉公に有り付き金子少々貯はへたれば古郷こきやうそらもなつかしく罷り歸り候皆々樣へ右の御禮旁々かた〴〵麁酒そしゆまゐらするなり何も御座らぬつかみ料理澤山おあがりくだされよと亭主の愛想あいさうに人々は大いに悦び盃盞さかづき屡々しば〳〵巡るうち時分を計り傳吉は小用に行く體して叔母女房を立せざる樣になしそつと立ち出でお專に向ひ如何に盜賊どろばうは此中に居たりしやと聞きければお專打ち笑ひ實に盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは虚言ならず今しも後より入り來られ上より八番目に居りたる年若にて色白く太織ふとおり紋付もんつき羽織はおりにて棧留さんとめの着物を着たる人こそ間違ひなく彌太八と名乘てまゐりし人なりと云ふを聞て傳吉は吃驚びつくりなし彼は名主殿の子息昌次郎といふ者なり間違まちがひ有ては大變たいへんと云ふにお專はけつして〳〵間違ふ氣遣ひなし若し又あの人兎に角とあらそはゞ私が出て白状はくじやうさせん外に又たしかなる證據しようこの品もあり然して江戸表にて金百五十兩ためし事道中難儀なんぎして私に預けし事迄知りし者は外にあるべき樣なし御前樣は彼所へゆきて是迄の事を話し金子を彌太八と申す人にうばはれし事を殘らず物語られ其上にて斯樣々々かやう〳〵なしたまへとしめし合せ元の座敷へいで行きけり


第十回


 却説かくて傳吉は酒宴しゆえんの席へ出で扨々折角せつかく御招ぎ申しても何も進ずる物もなししかし今日の座興ざきよう歸國きこくなす道中の物語を皆々さま御退屈たいくつながら御聞下されと申しければいづれも夫は一段の事然るべしと聞き居たり傳吉はせきを進みて私し江戸に在りし時は全盛ぜんせい土地柄とちがら故主人のひかりにて百五十兩の金子に有り附き古郷へ歸りもと田畑たはた受戻うけもどし家を起しなば過行し兩親りやうしんへ聊さか孝行のはしにもならんかと悦び勇んでくる道すがら惡者わるものに付かれ是非なく野尻宿の旅籠はたごやの下女に彼大金はあづけて歸り其盜賊の難はのがれたれ共又々一ツのうれひをまして件の金子を昨日騙取かたりとられたり其仔細そのしさいをおはなし申せば斯樣々々云々しか〴〵なりと證據しようこくしの事迄一伍一什を委しくかたりければ皆々仰天ぎやうてんなし夫は又何物がくしを以て行しやときようを失ひければ憑司を始め叔母女房も大いにおどろきたるていにてまゆせ夫は何共合點がてんの行ぬ事と言ひけるを憑司せきすゝみ其は旅籠屋の下女がたくみならん貴樣の方にくしはなしとはかりたるに先には鼈甲べつかふの櫛の幾個いくらもあらんにより指替さしかへ似寄によりの品を出して貴樣をあざむき歸せしなるべし其女を引捕ひつとら嚴重きびしく吟味ぎんみする成れば早速に相分らんにくやつ仕業しわざかな若しもいつはる時は領主へ訴へ吟味ぎんみを願ふならば忽ちに相分らんと申しけるに傳吉さて其の盜人は此座中に在りと申しければ皆々夫はと云つてたがひにかほを見合せ居たりしがマアたれならんと申すに傳吉されば私しとなりすむ彌太八と云ふ者のよし申し僞り金子をかたり取りたるはと云ひながら昌次郎のかほを見ればぎよつとせしが素知そしらぬ體にかほそむける故傳吉は最早もはや耐難こらへがたく之れにある昌次郎殿に相違なしたしかなる證據しようこもある上はあらそはず金子を返し候へ萬一爭ひ給はゞ公邊おかみへ訴へ黒白くろしろを分ねば相成ずと言ければ忽ち昌次郎は眞赤まつかに成て座を直し此は存じもよらぬことをうけたまはるものかな我等にむか盜賊呼どろぼうよばはり其分には相濟ず不屆ふとゞきなる申し分也と威猛高ゐたけだかになつて申しけるにぞそばよりおや憑司も張肱はりひぢなしコリヤ悴よ傳吉に泥棒呼どろぼうよばはりを致され萬一申開き相立ざる時は人手はかりぬ我自らに手討に爲すぞ惡名あくみやうを付られては最早男は立ず急度きつと相糺あひたゞして汚名をめいそゝげよと親も聲を掛るゆゑそれより双方さうはう爭ひ立ち既に喧嘩けんくわにも成んと人々は手にあせにぎりもて餘しける處へ奧の方よりお專はすぐと立ち出で座につきて皆々へ挨拶あいさつするに一座の人々不審ふしんはれず是は何方の女中ぞやとお專がかほ打守うちまもるに叔母女房も之を見て打驚うちおどろきて居たる時におせん穩當しとやかに昌次郎に向ひ昨日一寸ちよつと御目にかゝり金子百五十兩御渡し申せし彌太八樣もう私しかまゐりし上はあらそひ給ふもえきなきこと早々金子を出し給へ此上なほも爭ひ給はゞ外に致し方これ有りと申しけるに昌次郎はなほ空嘯そらうそふき我等は然樣さやうおぼえもなくことにお前は何處の人か終にあうたることもなしコリヤ傳吉と申し合せ我等へ遺趣ゐしゆてもあるかして罪を塗付ぬりつけんとするならんイヤ不屆ふとゞきなる女めと眼付ねめつけるにお專は少しもさわがず彌々爭ひ給はゞ外に見せるものありと懷中くわいちうより一通の文を取り出し是は一昨日お前樣の歸りしあとおちてありししなゆゑ何心なくひろひしが不斗ふと此場の役に立つ傳吉殿讀給よみたまへと差出すを傳吉取上とりあげ讀下よみくだすに

一筆しめし〓(まいらせそうろう)偖傳吉事江戸より今宵こよひ立ち歸り申候まゝ此上は夜々のちぎりも相成ずと存じ候へば勿々なか〳〵つかの間もしのび難く思ひは彌増いやまし(まいらせそうろう)夫に付き傳吉こと江戸に於てためたる金百五十兩此度こたび持歸もちかへり候途中盜賊に付かれ候ゆゑ野尻のじり宿の近江屋與惣次よそうじと申す宿屋の下女お專へ右の金を預け置き受取候節は此櫛さへ持參ぢさん致し候へばたれにても引替ひきかへに金子相渡す由承まはり候まゝ右のくし御手元おてもとへ差上候明朝早々に野尻宿へ御出で下され金子きんす御受取被成候へば私し事はいづれ近々の中に當所を立ち退のき候て何國のはてにても永く夫婦と相成申したくと夫のみ此世の願ひといのり居り〓(まいらせそうろう)どうぞ〳〵御目おめもじのうへ山々やま〳〵御ものがたり申し上ぐべく候

あら〳〵めて度〓(かしく)
うめゟ
昌次郎殿へ

と有りけるに座中の人々彌々いよ〳〵驚き偖は其方が野尻宿の近江屋のお專殿せんどのなるかして又持參の此文はとあきれ果てたるばかりなりおせんなほも座をすゝみ何と此文はおぼえが有りませう彌太八とやらの歸りしあとに此文が落てありしは天命ならん然し左右とかくに爭ひ給はゞ此文を以て御上へうつたへ御吟味を願ひませう夫とも只今百五十兩出し給ふか如何にぞやとつめて申しければ昌次郎も一ごんこたへもなく赤面せきめん閉口へいこうしたりしは心地こゝちよくこそ見えにけれ父上臺憑司こらかねて立ち上り昌次郎の襟髮えりがみつかたゝみすり付け打据うちすゆるにお早は娘お梅がたぶさつかんで引倒し怒の聲をふるはしつゝ茲な恩知ず者め傳吉どのが留守中何時なんどきの間にやら不義ふぎいたづら傳吉殿に此伯母がなに面目めんぼくのあるべきや思へばにくき女めと人目つくらうにせ打擲ちやうちやくも是れ又見捨て置れねば又人々は取押とりおさへ彼是れ騷動さうどう大方ならず時に憑司は其座の人々四五人に何かはなして打ち連れ立ち自分の宅へもどりしが間もなく入り來りて傳吉殿此人々と立ち合ひにてせがれ部屋へやあらたむると此の通り百五十兩胴卷どうまきまゝ仕舞しまうて有り是にて候やと差出すに傳吉はとくと見て成程私しの胴卷どうまきなりと云ひつゝ中を改め一錢の紛失ふんじつなしと云ふにぞ然らば受取給へ何分にも親類しんるゐのことなれば此儀は内分にすまし呉れよと憑司は一かうあやまり入りせがれは只今勘當かんだうすべしとわびける故其座の年寄組合など種々扱ひ金子の歸りし上は先々穩便をんびんに濟し給へと申しければ傳吉はしば言葉ことばはなかりしが皆々樣の御あつかひにて金子は無事にもどりしゆゑ私しも内分にてすまし申すべくと直にすゞりを引寄て三行半をかきて之は女房梅が離縁状りえんじやうなり姦夫の實否じつぴたゞさずして離縁なすは百五十兩の金皆々樣の御骨折ほねをりにて我が手にもどりしよろこびなれば申し分もこれなきことなりおはやどの現在げんざい叔母に候あひだ私しが養育やういく申べし夫共お梅の方へ參りたくは夫程の手當てあてを差上申べしと云ば伯母お早も默然もくねんとして居たりしが此上にも傳吉殿にやしなはれ申も氣の毒なり梅方へ參り度と申ければ其儀なら私しがためたる金子百五十兩の中を半分はんぶん分て伯母御が一生の養育料やういくれうにと分ちあたへければ其座の人々大いに感心かんしんなし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御膝元ひざもとの江戸でもまれたゆゑちがうた者なり是にて相濟あひすむ上からは名主殿も御子息の勘當を御ゆるしなされ又お梅殿傳吉殿那程あれほどさばけて申さるゝ故嫁御に致されしかるべしと皆々取なせば憑司は一同へ打向うちむか此度このたびの一條は何と申樣もなきせがれ不埓ふらち我は何樣御扱かひありとて勘辨かんべんなすべき譯ならねど村中の口添くちぞへに餘り愛相なき事故にまげ差赦さしゆるせしにより人々は大によろこび傳吉に昌次郎お梅をばわびさせ其夜の中に事をすませ叔母も名主方へぞ參りける是は傳吉が留守中るすちうおはや憑司は不義ふぎなしお梅は昌次郎と密通みつつうに及びて居たるを村中にても薄々うす〳〵知て居る者あれば幸ひと引取り親子共に夫婦となりける又おせんも我身わがみあかりもたち傳吉へ金ももどりし上は人々にいとまを告げ野尻のじりへ立ち歸りぬ


第十一回


 扨世話好者せわずきの多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを野尻のじり宿の與惣次方へおくり行き前夜の始末しまつを話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に艱難辛苦かんなんしんくしてためし金の半分をつかはし其場をすませし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに感心かんしんなし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに奇麗きれいに向ふへつかは温順おとなしき心底なりと傳吉がとく譽稱ほめたゝへて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の女房にようばう眞棒しんぼうなり傳吉殿も今江戸より戻り大略たいりやく元の身代に成らんとなす折柄をりから女房が無ては萬事不都合ふつがふならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御つかはしあらば實に幸ひならん此度の事はお專殿せんどのはたらきにて不思議に金子手にもどことに發明なる性なれば何と與惣次殿我々かく申もいはば傳吉殿にうしうま乘替のりかへさせ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其もとむね一ツ何卒兩人夫婦にさせてはくれまいかと無造作むざうさたのめば與惣次よそうじ承知なしお專を養女やうぢよもらひ受け傳吉にそはせることに取極め翌日は吉日なればとて上臺じやうだい憑司其他の人を打招うちまねき與惣次を舅入しうといり一所にして首尾能く婚姻なしける


第十二回


 さて祝儀しうぎみて與惣次と傳吉お專而已のみなればお專傳吉に打向うちむかひお早どのは私しが養母やうぼにてお梅どのは私しのあねなりかねておはなし申せし如く私十二歳の時に病氣のちゝすて家財かざいのこらずかきさらひお梅どのをつれ欠落かけおちなせしかば私にあうてははづかしく夫ゆゑ參らぬと見えたり然乍さりながら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉吃驚びつくりなし其方がはなせしは我が叔母にて有けるや餘所よそのことぞと聞てさへにくしと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと驚入おどろきいるぞ道理なりおせん又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿とわけあらん依てお前をたふし我が子を夫婦となせし上自分も共にたのしまんとくしぬすませ金をかたり取らせしならんと云ふに與惣次打點頭うちうなづき成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせはりある魚はなぎさに寄る骨肉こつにくなりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が野尻のじりへ退きて暫時ざんじ身の安泰あんたいを心掛られよと諫めければ傳吉は是を道理もつともと歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ引移ひきうつり商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに面伏おもぶせなるゆゑ是幸ひと早速承知しようちなしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に野尻のじりへ引移りしかば與惣次よそうじも老人故家内の世話は傳吉夫婦にまかせけるに傳吉は正直實義の男なればづれも深切しんせつに取扱ひことにお專は發明ゆゑ與惣次も安堵あんどなしこゝに二三年をおくりける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が村中むらぢうに居ざるを喜悦よろこびおごり増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金をこしらへ其上村の持山もちやまを村人に相談もせず金三十兩餘にうり横領わうりやうのありければ百姓共は堪忍かんにん成難なりがたしと高田の役所へ訴へければ役人吟味ぎんみのうへ憑司事重々不屆の儀に付村役召放めしはなされ其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨嚴敷きびしく仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて惣寄合そうよりあひ商議だんがふせしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主やく仰せ付られ下さるやうに願はんと評議ひやうぎ一決なし其段願ひ出しに付榊原さかきばら家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければこゝに於て傳吉は寶田村たからだむらの名主になりむかしに歸る古卿のにしき家を求て造作なし夫婦の中もむつましく樂き光陰をおくりけり偖又夫に引替上臺憑司は己があしきに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故にかゝる禍ひに逢たりと理もわかず傳吉に村役むらやくを取られしとて深くうらみ高田の役人へ手をまはし此うらみはらさんと種々工夫をめぐらしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に賄賂まいないを遣ひ傳吉のことを惡樣あしざまに言なしける傳吉は元正直律義の生れ故へつらふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人ども傳吉は行屆ぬ者と思ひしよりつひに憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に落度おちどもなく別にとがむべき筋もなければ其まゝになし置を憑司は何にしても先役せんやくに立歸らんと色々賄賂まいないつかひけれども是ばかりはきふのことにも埓明らちあかず親子商議しけれども金は容易ようい調とゝのひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意をいた日暮ひぐれに寶田村を立出猿島さるしま河原まで來りしが手元のくらければ松明をともさんとて火打道具を見るに火打いしわすれたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立のあと火打ひうちのこつて有る故急ぎ忘れしと見えたりとゞくれんと親の上臺は後よりたづさへはせたりしが昌次郎とは往違ゆきちがひに成たり偖又はなしかはつて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助わかき女を脊負せおほて渡り來りて河原にどつさりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を兄樣あにさまとぬかしをれ只た三年の苦みだかうおれに見付つたが百年目いやでもおうでも賣ずにや置ぬとおどす言葉もあらぐれに女は涙の顏をあげ何卒なにとぞゆるしてたべわたしは源次郎といふをつとのある身金子が入なら夫より必ずお前にまゐらせん何卒我家へ回してと泣々なく〳〵わびるを一向聞ず彼の雲助くもすけは眼をむきだし是程に言ても聞分きゝわけ強情がうじやう阿魔あまめ然らば此所で打殺し川へ投込なげこむ覺悟かくごをしろと手頃てごろの木のえだ追取て散々さん〴〵に打けるをお梅は片邊に見居たりしが迯出にげいださんとする所を雲助くもすけ眼早めばやく見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しをきたるやつにがしはせぬと飛掛とびかゝつて捕るたもと振拂ふりはらひお梅は聲立人殺し人殺しぞと呼所よぶところへ昌次郎のあとうて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑをきゝ其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽとゝさん何卒どうぞたすけて下されと聞くより上臺は馳寄はせよるに雲助は是を見て邪魔じやまだてなすなとぼう振上ふりあげうつて掛るを引外し脇差わきざしぬい切懸きりかゝるに彼の雲助は逃ながら女をたてに受ると見えしが無慘むざんや女は一聲きやつとさけびしまゝに切下げれば虚空こくうつかんでのたうつひまに雲助又もぼう追取おつとり上臺がひざを横さまにはらへば俯伏うつふしに倒るゝ所を雲助は乘掛のりかゝりつゝ打のめしたるをりからに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が肩先かたさきふかく切付ればウンとたふれるを上臺は漸々やう〳〵起上おきあがり一息ほつとつき親子三人はかほを見合せ互ひに無事ぶじよろこびつゝやがて四傍を見廻せば片邊かたへに女のたふれ居てあけそみ息も絶たる樣子やうすなりとて憑司ははたと手を打是と云も元は傳吉からおきたこと然らば此死骸しがいへ昌次郎お梅が着類きるゐせ此所へ殘し置き我また別によき工夫くふうありとてかの曲者並びに女のくびつて川へ流し二人の着類きるゐを着せ替て昌次郎夫婦は甲州路かふしうぢより江戸へおもむかせたり


第十三回


 さてまた憑司は其夜昌次郎を立せやり草履ざうりに血の付たるをもちて傳吉宅へしのこみには飛石とびいしへ血を付置き夫より高田の役所へ夜通よどほしに往てうつた捕方とりかたを願ひける偖又傳吉方にてはかゝることの有りとはゆめにも知らざれども所謂いはゆる物の前兆ぜんてうならんとお專が見たるゆめしければをつと傳吉に此事をかたり其吉凶きつきよう猿島川さるしまがはの向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上をうらなもらへ給はれとお專がすゝむるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の侍士さむらひひ能々見れば先年新吉原の三浦やにつとめし頃同家の空蝉うつせみもと毎度まいど通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり立止たちどまるを先方にも貴樣きさまは傳吉ならずやと云ふに久々ひさ〴〵にて御目にかゝりたり何の御用にてとたづねければ源次郎は大いに急込せきこみたる樣子にて然ば貴樣が三浦やのいとまを取し後空蝉うつせみ受出うけいだし名も千代とあらためて我妻となしけるが實親じつおやは越後に在るとのこと故彼れが實家じつかたづねんと此地へ來り今朝こんてう馬丁うまかたの惡漢が我が妻ちよを勾引かどはかし何れへか引込みしが跡より追懸おひかけたづぬれ共一方行方ゆきがたしれ所々しよ〳〵方々はう〴〵尋ね居れりと物語ものがたりけるに傳吉聞て偖てにくやつの仕業かな偖々御困りならん何れにか御商議さうだん申上げん程に私し方へお出あれ然共されども只今は急ぎの用事して猿島川さるしまがはまで罷越まかりこせば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに苦勞くらうの折柄右と左りへわかれける斯て傳吉は畑村はたむらの占ひ者の宅へ急ぎ行き夢物語ゆめものがたりして吉凶きつきようを委細尋ねければ占ひ者暫時勘考かんかうせしが是は大凶だいきようなり其故は斯く〳〵と傳吉か身に後大難のあることを判斷はんだんなして此上信心しんじん肝要かんえうなりと申しけるにお專も大いに心配しんぱいなし然らば明日より鹽斷しほだちなり斷食だんじきなりして信心を致しお前の身に凶事きようじなきやうに致さんと夫婦は來方こしかた行末ゆくすゑを思ひ續けて夜はおそく打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見ておまへすそに血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉はおどろきながら打返うちかへして見れば裾裏すそうら所々に血の付て居る故是は不思議ふしぎなる事かな昨夜河原にて物につまづきけるを偖は人にてもきられて居たるやと見ればには飛石とびいしにも草履ざうりにて血を踏付ふみつけたる跡ありけるによつて草履を返し見れば血の付て居ざるにそさて不思議ふしぎなることなりとて血をあらおとさんと夫婦水をくみきて庭石にはいしを洗はんと爲所するところへ上臺憑司が案内あんないにて關田の捕方とりかた内へつか〳〵と入くるに傳吉夫婦は何事やらんとおどろくを後眼しりめかけ憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人上意じやういこゑ諸共もろともいましめける傳吉大いに驚き私し身にとりをかせる罪はけつしてなしと言ひけれども捕方とりかたは耳にもかけず申し分あらば奉行所ぶぎやうしよに於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は狂氣きやうきの如く是は何故の御捕方とあと背掛おひかけて往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲ををしまずなげきしが偖ては前夜の夢は此前兆ぜんてうにて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人をこしらへての惡巧わるだくみか如何せんとひとり氣をもむ折柄をりからに近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は召捕めしとられしと種々評議ひやうぎおよびやがてて女房おせんをつれ組頭百姓代共打揃うちそろひ高田の役所へ罷り出御慈悲じひを願ひけれ共一向取上にならず傳吉は入牢じゆらう申付られ女房おせんは村役人へあづつかはす旨申渡されける


第十四回


 とき享保きやうほ十年九月七日越後高田の城主じやうしゆ榊原家さかきばらけ郡奉行こほりぶぎやう伊藤いとうはん右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へそろひければ繩付なはつきのまゝ傳吉を引据ひきすゑ訴訟人そしようにん上臺憑司かみだいひようじをも呼出し伊藤はいかめしく白洲しらすを見廻し如何に傳吉汝猿島さるしま河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる仔細しさいなるや有體ありていに申せと云ひければ傳吉漸々やう〳〵かうべをあげおそれながら私し愚成ぐなりと雖も村役を相勤あひつと御法度ごはふどわきまればいかでか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し親類しんるゐに御座候へば何故意恨等いこんなどふくみ申さんやと云ふをだまれ汝人を殺さぬ者か衣類いるゐすそを付け其の上我が入口の飛石へ血のあとのこすべき此段は憑司がうつたへの通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやとなじれば傳吉は私し昨夜さくや畑村はたむらより日暮ひぐれて歸る時河原にてものつまづ不審ふしんに存じ候が定めて酒によひし人のて居ることゝ存じとがめられては面倒めんだうわきよつて通りぬけしがしんやみゆゑ死人とは一かう存じ申さず今朝衣類いるゐならびに庭の敷石しきいし等へ血のつきりしを見出しおどろき申候れば昨夜つまづきしはまつたく殺害せつがいされし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はんおそれながら此儀御賢慮ごけんりよねがひ奉つるといふをもまたず小野寺源兵衞席を進みこゑあらくいかに傳吉おのれ邪辯じやべんを以て役人をあざむく段不屆ふとゞき千萬なり其の申分甚だくらく且又すその血而已に有らず庭のとび石に足痕あしあとあるは既に捕手の役人より申立し如く其血を夫婦ふうふにてあらおとさんと成しゝをり捕手の者まかこし召捕めしとりしと申ぞこれ天命てんめいのがれざる所なり之にても未だちんずるやと威猛高ゐたけだかになつて申けるに傳吉は恐れながらすそならびに敷石しきいしに血のつきたるを以て證據とあそばされ候事一おう御道理ごもつともには候へども私し家内の脇差わきざし出刀庖丁でばばうちやうの類刄物はもの御取寄おとりよせ御吟味下され候へば御うたがひとけ申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は從弟いとこなり又つまうめは私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居りかくの如くつながる親類ゆゑ假令たとへたんうらみあり共親身の者いかでか殺さるべきやと義理ぎり分明に辯解いひとくを川崎金右衞門聲をあげだまれ傳吉もの〳〵しく言葉をかざり刄物の吟味を申立るが夫を汝にならはんや其意趣そのいしゆある事を言聞さん憑司事先年村持の山をきりたるとがに依て村役を退けたり其跡役あとやくは上の思召にて汝を村長に致したる處御意をふるふ故村中の者先代憑司が時の取計とりはからひをしたひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の意趣いしゆぞんじ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に馴染なじみの出來しまゝ無體むたい離縁りえんを致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中むつまじきをねたみ昌次郎が柏原かしはばらへ行てくれて歸るを待伏まちぶせ河原にて切殺きりころし猶知れざるやうにと首をつてかくすなど言語に絶えし惡業あくごふなりコリヤくびは何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふをそばから憑司はうなづきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども近頃ちかごろは一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝にかぎり用事もこれなきに私し方へ參り悴夫婦せがれふうふ柏原かしはばらへ行事を承知しようちいたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子をうかゞひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ思掛おもひがけなきことを申さるゝものかな我あの朝は斯樣々々かやう〳〵の用事にてと云はんとすれば伊藤は打消うちけしだまれ傳吉汝何程いつはりでも淨玻璃じやうはりかゞみに掛て見るが如くおのれが罪は知れてあり然らば拷問がうもんかけて云はして見せんとしもとを以て百ばかつゞけ打に打せければあはれむべし傳吉は身のかはやぶにくさけて血は流れて身心しんしん惱亂なうらんし終に悶絶もんぜつしたるゆゑ今日のせめは是迄にて入牢じゆらうとなり之より日々にせめられけるが數度の拷問がうもんに肉落て最早こしも立ずわづかに息のかよふのみにて今は命のをはらんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやうかゝ無體むたいの拷問はひとへに上臺憑司が役人とはらを合せてなすと見えたり假令幾度辯解まをしわけする共證據なければとてものがれ難し長く苦痛くつうせんよりは身に覺えなき罪におちて死を早くなし苦痛をのがれんものと覺悟かくごをぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程いつはりても惡事は最早知れてあり其夜暗闇くらやみにて昌次郎とあらそひしを聞居きゝゐたる者あつて御領主へとくに申上たれば此上ちんずるとも無益むえきなりと申しければ傳吉は熟々つく〴〵と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪におちいる我が身にまつはる災厄まがつみとは言ひながら我朝わがてう神國しんこくなるに神も非禮ひれいを請給ふか正實のかしらかみやどると世のことわざいつはりかやあゝなさけなきことどもなりと神をうらみ佛をかこしきりに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに急立せきたて一言の答へなきは愈々いよ〳〵僞りなるべし白状せぬからはほねつても言はせて見せんと大音だいおんのゝしり又もや拷問がうもんかけんとす然るに傳吉は最早もはや覺悟の事なればつかれたる聲をしてしばらく拷問は御用捨にあづかりたし實は私し昌次郎にうらみあるにより彼等が歸り道に待伏まちぶせし猿島河原にて二人の者を切殺し首をおとして川へ投入なげいれたるに相違これなく候御定法通ごぢやうほふどほ御所刑おしおき仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て爪印つめいんをさせよ又おつて呼出さんとらうへ送りけり又同年九月廿一日同白洲しらすへ呼出しに相成上臺憑司ならびにお早も罷出まかりいでらうよりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共うつたへの趣きにより傳吉を段々吟味ぎんみ致せし所彌々いよ〳〵兩人を殺したるおもむき白状に及びたり依て罪のおつて仰付らるすなはち傳吉が口書の趣き承まはれと讀聞よみきかせければ憑司は誠に御役所の御仁惠じんゑを以て悴と嫁の敵を取候事なげきの中の喜びにして是ひとへに御上の御威光ごゐくわう有難ありがたき仕合せに存じ奉ると申し述けるていまことしやかに見えしかば傳吉は覺悟かくごのことゆゑたゞくびを下て嘆息たんそくの外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專はをつと入牢じゆらうなしたる日より種々に心をいため如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせてかく相談さうだんせんと思ひ直に野尻の與惣次方へゆかんと支度したくをなしたる處へ養父やうふ與惣次いき繼敢つぎあへ馳來はせきたればお專は打悦うちよろこ挨拶あいさつの先にたつのは涙にて左右ことばいでざれば與惣次はお專に向ひ其なげきは道理もつともなり昨日聞きたる傳吉の災難さいなんすぐまゐらうと氣はせくといふとも何もる年に心の如く身はうごかず漸々やう〳〵かけ出し參りたり仔細しさいは何じやとたづぬるにおせんは涙のかほを上げわけと申すは云々しか〴〵ならん彼のゆめの事より衣類并ににはの石に血のあとがあつた夫が證據しようこ入牢じゆらうせし事迄おちもなくはなし女心の十方にくれ如何致してよからんか今日貴公あなたのお宅へ出向き御相談さうだんねがはんと支度をなして居しと語る間も聲をあげなげかなしむ有樣に與惣次はまゆひそめて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺したやつは外に有るべししかし憑司が村長を傳吉にうばはれたりと思ひ違ひいきどほりをふくみ居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉におはせしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の手當てあてして高田に到り夫々それ〴〵役向やくむきへ金を遣ひ傳吉がとがならざるをとりなしもらひ又お專か村方の組合も出て與惣次共々とも〴〵種々しゆ〴〵命乞いのちごひ嘆願たんぐわんにおよびけれども何分其事かなはず其中に七日八日隙取ひまどりければ早傳吉はつみおちて昌次郎夫婦を殺せし由すでに白状に及び最早もはや罪の次第もさだまりし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力をおとたがひになげかなしめ共今は詮方せんかたなく種々に心をいためたり


第十五回


 人のうれひを憂ひ人のたのしみを樂むは豪傑がうけつ好義かうぎの情なり然ば與惣次は如何にもして此無實むじつの罪をき命を助せんと種々しゆ〴〵心をいたむる折柄をりから將軍家しやうぐんけ御名代ごみやうだいとして禁裏きんりの御用にて當時御老中ごらうぢう酒井さかゐ讃岐守さぬきのかみ殿中仙道すぢを上り道中諸願を取上領主りやうしゆ役人などの非義非道なることは取調とりしらぶるとのことにて明後日は追分邊おひわけへんお泊りとのうはさきゝ與惣次は大いに喜び然ば御途中とちう待受まちうけて直に願はゞ萬一傳吉が助かることもあらんかかつはお專が氣をも取直とりなほさせんと其のことをお專にはなし早々御駕籠かごすぐに願はんといふにお專はいた打喜悦うちよろこび天へも登る心にてそんなら是より些少ちつともはやくとすぐに與惣次と同道なし中仙道の追分おひわけへ出て聞けば明日は當驛たうえき晝御膳ひるごぜんなりと言ふゆゑ與惣次お專は漸々やう〳〵むね落付おちつけねがひ書をしたゝめ翌日をおそしと待請まちうけける時に享保十年十月十六日酒井さかゐ讃岐守殿先供さきともとほり掛らんとする處へ六十ばかりの男と廿三四さいの女の如何にもやつれたる状かみみだし打しほれし有樣ありさまにて竹にさしたる訴訟そしようを以て待居たり酒井樣の先供さきども之を見て汝等何者にてねがひの筋はなになるやと云ふ兩人は大地だいぢに手をつきおそる〳〵私し共は越後國高田領たかたりやうの百しやうにて是なる女のをつと無實むじつの罪に落入おちいり遠からず死罪しざいに決し候へ共未だ存命にて入牢じゆらう仕つり居り候何卒御殿樣おんとのさまの御慈悲じひを以つて誠の御吟味ぎんみおほせ付られ御助け下さるやうねがひ上げ奉りますとのぶれば武士一人のこりて夫は不便ふびんの事なり今に此所御通行つうかう相成時怖れずと委細に申上よと云ひければ兩人はよろこびて今やおそしと待居まちゐる處へ宿役人大勢おほぜい領主々々りやうしゆ〳〵の役人先をはらひ讃岐守殿とほられける時に殿との乘輿のりもの來掛る時先刻せんこくのこりし武士手をつき榊原遠江守百姓愁訴しうそ願ひ奉つると高聲に披露ひろうなすにぞおせんは足許も定らぬまでによろこび漸々訴状そじやうを以て願ひますと差出するに駕籠脇かごわきさむらひ請取駕籠の中に差出さしいだせば酒井侯中よりの女の樣子を倩々つく〴〵見らるゝに如何にも痩衰やせおとろうれひに沈みし有樣なれば駕籠をしばし立よと止められ其の女是へと呼るゝ故おせんは乘輿のりものの側へ參り土に手をつきかしらを下るに讃岐守殿委細ゐさい尋問有りしかばお專一々申上る時又うしろ控居ひかへゐるは何者ぢやと有るにおせん彼は私ちゝ與惣次と申者の由申上げしに讃岐守さぬきのかみ殿近習太田幸藏かうざうを呼ばれ其方は後に止り此者どもを今晩こんばんやど連參つれまゐれと申されければ幸藏はおせん與惣次に向ひ願の趣きお取上に相成あひなりたれば今宵おとまり御本陣迄ごほんぢんまでまかり出よとおき乘輿のりものを追つて走り行くにぞアラ有難ありがたうれしやと飛立とびたつばかりに打喜悦うちよろこび泊りの宿へといそぎ行きしにお專與惣次を一番に呼入よびいれられ酒井侯には公用人澤田源之進井上喜右衞門兩人に委細ゐさい相尋問あひたづねべき旨仰付られしかばお專與惣次をたゞしける時お專面をあげ傳吉が家の貧窮ひんきうなげき江戸表へ奉公に出でたることより憑司がせがれ昌次郎に金子騙取かたりとられしこと其他そのたありし始末しまつ委細申ければ公用人はとくと聞き終り如何にもうつたへの趣き道理の樣には聞ゆれ共片口かたぐちにては定め難し何れ主人へも申上べき間旅宿はたごやへ下り明朝まかり出よとお專與惣次は宿やどへ下られける右の條々でう〳〵酒井侯公用人より一々申述ける酒井侯暫く工夫有りて當節領主の役人やくにん非義ひぎ取捌とりさばき是有由豫て聞及びあればと申されてねがひの趣き取上と成り翌日よくじつ馬廻の武士岸角之丞御下知書をもつて榊原殿へたつせよと早打はやうち直使つかひを立られ榊原家の老臣らうしん伊奈兵右衞門へ御用状ごようじやうをぞ渡しける御用状ようじやうおもむ

此度このたび上京に付信州小田井をだゐ宿旅宿の處其領分高田村名主傳吉と申者此度無實のつみにて死罪しざい相決あひけつし既に日限り定り候由右傳吉妻專と申者愁訴しうそ有之近年御領奉行代官に依怙えこ取計とりはからひ有て非義成儀ひぎなるぎ多き由上聞じやうぶんに達し此度道中だうちう愁訴しうそあらば取上申べき樣嚴命げんめいかうふりしに依て右の訴へ御取上に相成再應さいおうの吟味仰せ付られ傳吉儀御用有之に付私しの仕置しおき相成ず則ち當月晦日迄みそかまでに罪人傳吉ならびに相手方上臺憑司夫婦かみだいひようじふうふ其外せん養父野尻宿百姓與惣次よそうじ江戸表差出大岡越前守役所迄追々召連めしつれ可申候且此度かゝり役人やくにん郡奉行伊藤伴右衞門吟味ぎんみ方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人讃岐守さぬきのかみより相達あひたつし候之に依て此むね貴殿迄きでんまで急度きつと御意得候以上

十月十七日
酒井讃岐守内  勅使河原角兵衞
榊原遠江守殿内  伊奈兵衞門殿

然るに傳吉は昨夜より牢内らうない切繩きりなはを入れて彌々明日死罪しざいと申事故一ねん唱名しやうみやうしてかね覺悟かくご致しける所ろ折節をりふし牢役人らうやくにん來り傳吉に向ひ偖々さて〳〵其方は仕合者なりすでに死罪にけつし明日くびきらるゝ所其方がつまは酒井樣のお駕籠かごに付ねがひたるゆゑ再御吟味さいごぎんみとなり明日江戸表へお差出さしいだしに相成と申ことなりといひければ傳吉はゆめに夢みし心地にて誠に神佛未だ我れを見捨みすて給はざるやと樣子をうかゞひいたりける時に酒井樣より其のあさ宿次しゆくじ刻限こくげんの急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ御用状到達たうたつなし則ち上聞じやうぶんたつせられける尤も遠國は皆寺社奉行じしやぶぎやう勘定奉行かんぢやうぶぎやうの掛りの所此度このたびは讃岐守より言上ごんじやうの趣きは餘程よほど入組いりくみ事柄ことがらなりと申上られければ將軍家にも再吟味さいぎんみと有れば越前守が宜しからんと大岡殿へ人撰にんせんにて仰付られけるこゝに於て榊原殿より傳吉を軍鷄駕籠とうまるかごに入れて役人大勢守護しゆごなし并傳吉つましうと與惣次及び榊原殿郡奉行伊藤はん右衞門公用方下吟味川崎金右衞門小野寺源兵衞訴訟人憑司夫婦皆々江戸表へ出立致させ榊原さかきばらより役人百人ばかり附添つきそひ享保きやうほ十午年十月廿二日江戸着に相成其段そのだん屆出とゞけいでしかば傳吉は直取ぢきとり大岡請取られ入牢申付られ郡奉行其外は江戸表屋敷又は町方等へ下宿げしゆく致しけり偖又享保十年十月廿九日願人ねがひにん憑司夫婦を南町奉行所へ召出されし時越前守ゑちぜんのかみ殿出席有て訴訟人そしようにん越後高田領百姓憑司お早とは其方なるかならび差添さしそへの者喜兵衞甚右衞門何れも罷出まかりいでしやとおほせに一同罷出まかりいづる趣きねがひあぐれば右願書ねがひしよ讀上よみあぐ

恐以願書申上おそれながらぐわんしよをもつてまをしあげたてまつりそろ

越後國頸城郡くびきごほり寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類にも有之候に付先年傳吉江戸表へ奉公かせぎにて罷り出叔母と妻とも國元へ差置さしおき候ゆゑ手前配下はいかの儀と申殊に親類にも有之候間留守中母子の者取續とりつゞき候樣世話いたし置し所傳吉國元くにもとへ立歸り候ては右のおんを忘れ彼是難澁なんじふ申懸まをしかけいたし且又道中にて野尻宿與惣次召仕めしつかへの下女專と申者と密通みつつう致し叔母女房留守中貞節ていせつを相守候者を彼是惡名を付離縁りえんに及び候段重々不屆の至りに御座候其節彼に異見いけん差加へ候得共かへつて私し并昌次郎と傳吉妻と不義なと有之候樣に申掛離縁に及び候に今母子の身寄處みよるところなくすでに道路に餓死がし仕つり候仕合に御座候間見るにしのびず無據よんどころなく手前方へ引取百姓共取扱とりあつかひにて是非なくよめに仕つり候處之を遺恨ゐこんに思ひ音信不通ふつうに仕つり其上に昌次郎夫婦をかねねらひ候と相見え柏原と申す所へ夫婦ふうふ罷越まかりこし候跡より付行日ぐれをはかり兩人を共に殺害せつがいし立退候へども天命てんめいのがれ難し庭の飛石とびいしに血のあとこれあり且傳吉衣類のすそにも血の付居候に付此儀相顯あひあらはれ召捕れ右の段領主りやうしゆの役人方へ吟味ぎんみ願ひ候處傳吉隱すこと能はず切害せつがい致し候始末白状に及び候然るに今般こんぱん召出めしいだされ御吟味を蒙り候上は何卒御明察めいさつを以御吟味被下置子供二人の解死人げしにんに被仰付被下置候へば有難ありがたき仕合に存じ奉つり候偏に御威光ゐくわうを以此段御吟味ごぎんみ願上候以上

享保十年十月
榊原遠江守領分百姓寶田村 願人 はや
南御番所奉行所樣

讀上よみあぐるに越前守殿憑司ひようじを見られ此願書の趣きにては嘸々さぞ〳〵無念むねんに思ふなるべし不便の次第しだいなり妻早其方の一人の娘をころされさぞ愁傷しうしやうならん併し屹度きつと傳吉が殺せし共言難いひがたからんして猿島河原より寶田村へ道程みちのりは何程あるやと申さるゝにお早は憑司がこたへを待たず四十町許是ありと申立れば越前守殿又其日子供は何時頃いつごろ宅を出何方へまかこせしぞとたづねらるゝに憑司頭を上げ柏原かしはばらと申す所へ用有つて早朝さうてうより罷り出しなりと申立れば越前守殿疵所きずしよは如何なりしやと申さるゝに憑司娘は肩先かたさきより切付られ疵は數ヶ所ござりましてくびかくせしや更に見えずと云ふに越前守殿首がなくて我が子と云ふこと如何にして知れしぞとおほせければ憑司ヘイ着物きもので分りますでござりますと云ふに成程なるほど我子ならば着物きもの見覺みおぼえあるは道理もつともなり偖々さて〳〵不便ふびんの事哉近々呼出よびいだす間罷り立てと仰せられけり


第十六回


時に享保きやうほ十年十一月五日牢内らうないより傳吉公事宿よりは妻せん與惣次よそうじ等奉行所へ呼出され大岡殿出座しゆつざ有て傳吉を御らんある處に惣身そうしん痩衰やせおとろへ如何にも嚴重きびしき拷問がうもんに掛しと見えてはなはつかれたる樣だいなり其歳は三十五六歳物柔和ものやはらかなる體なり妻專は之も痩衰やせおとろへたる有樣にて其ていあはれに見えにけり明智の大岡殿故其とらるゝ處や有けんことばしづかに傳吉汝は如何なる意趣いしゆにて親屬しんぞくなる昌次郎を殺害せつがいせしや憑司ひようじ夫婦の者より願ひ書のおもむき只今たゞいま讀聞よみきかせる間うけたまはれとありければ目安方めやすかた與力よりき其願書をよみ上るに越前守殿又傳吉に向はれ憑司が願ひ書のおもむおぼえあるやと云るれば傳吉は漸々やう〳〵おもてを上げおそれながら申上ます其儀は私し一向におぼえ御座りません然るに高田の役所に於て數度すど拷問がうもん骨々ほね〴〵くだけ苦痛に堪兼たへかね是非なく無實むじつの罪に陷入おちいりし所又々再應さいおうの御吟味まことに有難仕合せに存じ奉ります訴訟人そしようにん憑司ひようじ現在げんざい私しの伯父ゆゑ如何成前世の業因ごふいんかと存じ斷念あきらめ無實むじつつみふくせしと申立ければ越前守殿是をきかなんぢは然樣に申せ共全く覺えなきものが罪に服するの理有べきや又憑司とても跡形あとかたもなきことは申まじされば其方が申事はまこととは受取難し能々よく〳〵明白に申立よと仰らるゝに傳吉は迷惑めいわくなる面色おももちにて再應さいおう御尋問ごじんもんなれども私しはけつして昌次郎夫婦を殺したるおぼえなく且何の意趣いしゆふくむ事も御座なくことに五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩をたくは國元くにもとへ歸りし處私し江戸へ出しあとにて妻梅と憑司悴昌次郎と密通みつつうを致しをり私しが持歸もちかへりし金子百五十兩を其翌日よくじつあづけ置し所よりあざむき取しにより其節之なる二度目のつませんはからひにて憑司方より金子は私しへ差戻さしもどくれし故直樣先妻梅は離縁りえんの上昌次郎へ遣し其後同村の者共取扱ひにて昌次郎と表向夫婦に致ました梅の母早事は私し實の叔母なればながやしなひ置べき心得の所叔母早儀は憑司方へしひて參り度旨申により其意そのいに任せ其せつ百五十兩の半分を分てつかはせし程のことゆゑ私し心底御賢察けんさつ下されたく萬一右等の儀を遺恨ゐこんに思ふ程ならば五ヶ年の間た千辛萬苦せんしんばんくしてたくはへたる金子をいかに叔母成ばとて分てはつかはしませぬ是意旨いしふくまぬ證據なりと申せば越前守其金子は何程なにほどにて又江戸表はいづれへ奉公なし金子をためたるやと尋問たづねらるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩たくはへし由云ければ大岡殿五ヶ年奉公の内國元くにもと伯母をばつまとは如何せしぞと云るゝに傳吉給金きふきんの内半分は國元へつかはし半分は主人にあづけ置し處首尾能しゆびよく相勤しとて褒美はうびに主人より十兩もらひ又遊女共より餞別せんべつとして十兩餘りもらひ都合百五十兩餘に相成かへり其内七十五兩伯母につかはしたりと云立ければ大岡殿其伯母と云は當時たうじ憑司が妻早の事なるやと云れ暫時しばしかんがへられしが成ほど其方が申立の如くならば如何いかにも人をがいする程の遺恨ゐこんは有まじ然なからすそに血をひく而已のみ飛石とびいしに迄の付居たるはいかなることぞととはるゝに傳吉こたへて其夜畑村はたむらへ參り河原にて物につまづきしが眞暗まつくらにて何かわかりませぬゆゑ早々立歸り翌朝よくてうすそに血がつき居たるを見出し其上何者か飛石とびいし草履ざうりにて血のあと迄付置しか不思議ふしぎに存じ私しのはき草履ざうりあらため見たれども血の氣は更に之なく如何して飛石とびいしに血が付しかと女房せんと諸共もろともあらひりし處へ憑司が案内にて直樣すぐさま召捕れし上種々拷問がうもんに懸り申分致せ共御聞入相成ず夫故それゆゑよんどころなく死る覺悟かくご致し罪にふくしたる旨申すにぞ大岡殿コリヤ其方は其せんと申す女と密通みつつう致し居るにより先妻せんさいを追出せしときく然樣さやうなるか傳吉いな全く然樣の事はござりません先達て道中にて私し難儀なんぎありし節此專が金子をあづかくれくしを形によこしましてと野尻宿のじりじゆくにての事柄ことがらより彌太八といつはりし者に金子をかたり取れしこと專がすゝめにより又村中の者を呼び酒宴をもよほし梅が不義昌次郎がかたりの始末相顯あひあらはれ是に因て梅を離縁りえん致し夫より同村の懇意こんいの者が中だちにてせんを後妻にむかへたること迄委細ゐさいに申立此儀は寶田村より差副さしそへに來たる者共へ御たづね下さるれば相分りますと申ければ大岡殿如何樣に其方が申處まをすところ聞處きゝどころあり猶追々吟味ぎんみに及ぶとて其日は一同下られたり其後外々の者一通り吟味ぎんみ有し所領主家來の者奸曲かんきよく取計とりはからひも聞ゆるにより評定所へ差出しに相成たり


第十七回


 同年十一月十日評定所ひやうぢやうしよへ御呼出しに付訴訟人そしようにん相手共腰掛迄こしかけまで相詰あひつめ居し處老中若年寄り及び三奉行を始め立合の役人中今日は天下てんか御評定ごひやうぢやう日にて諸國より訴訟人夥多おびたゞしく出張なし居けるに程なく榊原さかきばら遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一けん這入はひりませいと呼び込むこゑもろともに訴訟人憑司おはや相手方あひてかた傳吉其の外引合共白洲へ出るに傳吉は繩目なはめまゝにて跑踞かしこまる同人妻せん與惣次もつゝしん平伏へいふくなし何れも遠國片田舍の者始めて天下の決斷所けつだんしよへ召出されあをめの大砂利おほじやり敷詰しきつめ雨覆あめおひを高々とかけ嚴重げんぢうなる白洲しらすてい左右には夫々の役人居ならびしめしつゝ靜まり返て見えけるに各々戰慄ふるへの止らぬまでにおそれ入てぞいたりける今日榊原家の郡奉行伊藤半右衞門同人手代川崎金右衞門小野寺源兵衞及び附副つきそひ留守居るすゐ等召出されければ此人々は板縁にひかへたりしばらくありて老中方を始め若年寄わかどしより三奉行並に立合の役人席につかるゝや大岡殿中央にすゝまれ大目附兩脇りやうわきに附て立合るゝ時大岡殿には榊原家家來伊藤半右衞門とよばれ其方の吟味ぎんみにて傳吉は罪に伏したる由然樣なるかとありければ伊藤いとうはん右衞門つゝしんで彼段々と吟味ぎんみ仕つり候處其罪明白めいはくに伏し候段相違さうゐ御座なく然るを同人妻せん何樣成儀申上奉りしやふたたび御手數おんてかず相掛候段不屆ふとゞき者なりと申けるに越前守殿成程なるほど其方の申所道理もつともの樣には聞えしが其方も榊原の家來けらいにて某が役儀にもじゆんする事故決斷けつだん如才じよさいはあるまじきも人命の重きはかね承知しようちで有らう罪のうたがはしきは之を問ずこううたがはしきは之をあげよと衣裳いしやうに血を引飛石にの付たるにて殺したるは傳吉ならんとうたがはれ拷問がうもん嚴敷きびしき堪兼たへかねて罪に伏せしと傳吉並に專より申立しが此儀このぎ如何いかなるやと云るれば伊藤いとうおもてを上げおそれながら段々だん〳〵吟味ぎんみ仕つりし所意旨いし之あり候て殺したりと當人たうにん白状仕つり既に爪印迄相濟あひすみたる上からは彼が罪は明白めいはくなりと申せしかば越前守殿イヤ夫は拷問がうもんくるしみにへ兼ね是非なくも罪にふくせしと云又昌次郎梅の兩人をころし血がはしりてかゝらはすそ而已のみならず或はえり又はそでなどへもかゝるべきに何ぞすそばかりに引べきや此儀このぎ合點がてんゆかずシテ其猿島川さるしまかはより寶田村迄道程みちのり何程有やと聞るゝに伊藤卅町程の道程みちのりなりとこたふれば大岡殿かく道程みちのりの有所にて人をがい草履ざうりうらに血が付きしとて三十町ほど歩行あるきかへらば必ず地をふみ付て仕舞しまふべきなり空中くうちう飛行ひかうなさばいざしらず我が庭の飛石に草履ざうりかたが血にて明々あり〳〵殘るの所謂いはれなしこれしんうたがふべき一ツなり然すれば傳吉に意旨いしふくみし者猿島川へんにて男女のがいされたるを見留みとめ之幸これさいはひと傳吉の罪におとさんとはかりたるも知るべからず殊に其夜は傳吉も同じ河原をかへりしをしる其者草履ざうりに血をて飛石におしたるものならんか右二ヶ條のおもむ而已のみにても心付べきはずなりこれ調しらべし人のあやまりにして勿々なか〳〵罪は斷しがたし且又其夜傳吉が參りしうらなひ者を呼で傳吉の歸りし刻限こくげんを尋ねしや又傳吉が脇差わきざし其他刄物はもの等をもあらためしやどうぢやと云るゝに伊藤は今更一言の申上樣もなくおそれ入候と申すにぞ越前守殿之は麁忽そこつ千萬なりしからば一方がうつたへばかりを聞て拷問がうもんに掛るは裁判さいばんの法にあらず假令憑司如何樣いかやうに申とも心得有べき筈なり榊原家にても公事決斷けつだんあづかる者は器量きりやうなくて有べきや斯樣かやうなる事わきまへぬ其方にても有可ざるに事のに及べるはまことうたがはしきことどもなり是其方に疑ひのかゝ糺問きうもんせざるを得ざるなりと仰られければ半右衞門忽ちいろ蒼然あをざめ恐れ入て答へなし時に越前守殿コリヤ憑司只今きく通りにてすそに血のひき飛石とびいしの血ばかりでは其血ともけつがたし其方おぼえあらう明白あからさまに云立ろと云はれしかば憑司は心中ぎよつとしてしづかに頭を持上もたげたり


第十八回


 大岡殿に向ひいな昌次郎夫婦をころせし者傳吉の外には御座ござなく其故は昌次郎女房にようばうは元傳吉が妻にて傳吉はたゞ今の妻專と密通みつつう仕つり母諸共梅は離別りべつせられ道路だうろ餓死がし仕るべき有樣なるを私し親戚しんせきのことゆゑ二人を引取世話せわいたし其後昌次郎がつまに仕つりしが傳吉これをかへつてねたみ其上村長役を傳吉へ申付られ候ゆゑ名主なぬし權威けんゐを以て段々押領あふりやう我意等がいとう振舞ふるまひ候故村中私しへ村長を相勤あひつとめ呉れる樣内談ないだん仕つりしを何方にてかうけたまはり猶々ねた彌増いやまし猿島川さるしまがはに待伏居り兩人を殺し私しに氣をおとさせ向後かうご村中より相頼み候共村長役勤めかねる樣仕つりしに相違さうゐこれなく此段何卒御賢察ごけんさつねがひ奉つると申立れば越前守殿傳吉を見られ只今憑司が申所まをすところにては其はう人殺ひとごろしに相違さうゐなく又無體むたいに叔母と女房にようばうを追出したる由なるが如何いかにやと尋問じんもんさるゝに傳吉は憑司をうらめし氣に見遣みやり之は先にも申し上し通り私いかでか人をころしうべき又た先妻梅儀を離縁りえん致せしは昌次郎と不義ふぎあらはれし故離縁状りえんじやうやりし又叔母儀も彼よりのぞみて憑司方へ相越あひこしたるは村中總寄合そうよりあひの席の事にて相違は御座なく此儀は總代そうだい差副さしそへの者へおたづね下さらば相分る儀と存じ奉つりますと云に越前守どの其方昌次郎梅兩人不義致せしと云は何かたしかなる證據ありや傳吉此儀は委敷くはしく妻せんへおたづね下さるべしと云に大岡殿はコリヤせん其わけを存て居るやと云へば私し事いまだ傳吉妻と相成あひならざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと江戸えどより國元へ歸り候とて與惣次方へとまりしに途中とちうよりぞくに付られ難儀の由私しを見かけすくくれ候樣申候此時始めてかほを見候へば五ヶ年以前私し實家じつか柏原宿の森田屋方へ泊りし旅人たびびとにてと夫より其せつのことどもくはしく申立後父銀五郎病死びやうし致せしより其所を仕舞しまひ養父與惣次方へ少しの縁合えんあひを以て居りしに傳吉にめぐり逢ひ同人よりあづかりし金を昌次郎にかたられしこと右金子を取戻せし節昌次郎おむめの不義相顯あひあらはれ村中寄合しせきにて傳吉よりお梅に離縁りえん状を渡したる事迄夫の大事とおもふ故云々しか〴〵斯樣々々かやう〳〵なりとことおちもなく申上ければ大岡殿心中しんちうにお專が才智さいちかんじられしがわざとおせんに向はれ其方は其前より傳吉と密通みつつうせしと憑司より申立まをしたてしが此儀如何なるやととひければおせん少しはかほあからめイヱ〳〵五ヶねん前私し在所ざいしよ柏原の宿へ一夜とまりたれども其節そのせつ父銀五郎病中にて私しは十二さい一夜の旅宿はたごいかで然樣さやうを致しませうぞ夫より五ヶ年すぎまして與惣次方にて出會であひましたは是れ只一夜ことに傳吉の身にふか心配しんぱいありて右樣なるみだらの事の出來やうわけ御座ござりませんと申上けるに大岡殿然ば何で夫婦ふうふなりしぞと云るればお專ハイ之はおうめどのをさりました跡で村中よりすゝめられ主人の與惣次も得心とくしんの上其の意にまかせ傳吉方へ參りしなり此儀は與惣次よそうじはじめ村中のもの共にたづね下さらば相別あひわかりますとのこたへに大岡殿ヤヨ與惣次今專がまうせしとほりなるやと御たづねに與惣次又すゝみ出其儀少しも相違これなく其節そのせつ寶田村百姓與次右衞門喜兵衞すけ右衞門八兵衞四人にてせん所望しよまうに付遣せし事にてすなはち其喜兵衞助右衞門は此度差添にまかり居りますゆゑ尋下たづねくださらば相分るべしといふにぞ喜兵衞助右衞門へたづねられし處二人ともすこしも相違これなきむね申立まをしたてけるに大岡殿しからば傳吉は密通みつつうならず委細相分りぬ又盜難たうなんと申は如何なるわけぞ百五十兩と申せば大金なり譯なき女にあづける事是又不審ふしんなりとたづねらるゝに傳吉はなほまたこたへて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候がをさなくしてちゝ銀五郎の病氣介抱かいはうの體如何にも孝行かうかうの者と見屆是ぞまことある女とぞんぜしにより私し江戸より古郷こきやうへ歸りがけみちにて惡漢わるものに金子を見込れ甚だあやふく心得只今言上せし通り其こゝろざしも知りしゆゑくしと取替に金子を預け其夜の盜難たうなんのがれたる儀に御座りますと云立ければ大岡殿大聲を張揚はりあげコリヤ憑司只今傳吉夫婦が言立る所は如何にも明白めいはくなり然すれば其方そのはうは公儀をいつは罪人ざいにんこゝ不屆ふとゞき者めと白眼にらめらるゝに憑司はハツとかうべを下げ今更一言の云譯いひわけもなければお早はこらへず進み出でイエ〳〵彼等は不義に相違さうゐなしと言へば大岡殿だまれ其方にはとはぬぞそれよりまづ其方たれ媒妁なかうどにて憑司の妻となりしぞと云れしかばおはやはグツとつまりヘイたれ媒妁なかうどはございませぬが子供等が夫婦ふうふに成ました故憑司と私しも夫婦ふうふに成ましたとのこたへに白洲の一どうフツとき出せしが大岡殿わらひをこら白痴たはけ者め其方が樣子を見るに傳吉が留守るす不義ふぎ猥婬いたづらを致し居しなるべし傳吉が叔母をばと云は父方が身元を委細くはしく申せと言ければ傳吉はこゝに於て是非ぜひなく申立る叔母儀は私の母のいもとにて家の相續さうぞくいたせし所むこを三人まで追出おひだし淺治郎と申男の病死びやうし後又善九郎と申者と欠落かけおちし行衞知れざりしを先年私し江戸へ飛脚ひきやくに赴きし時こう宿じゆくより連歸り其後私し儀は梅と夫婦ふうふに成叔母を養ひ置しと申立んとせしが是迄これまでつかれ息切いききれ強く云兼るに付此後はせん其方より申上げ呉よと言ければ其時おせんは首を上お早が身の素性すじやうより實家じつか森田屋銀五郎の方にて不實ふじつはたらきし事まで殘りなく申立るに越前守殿點頭うなづかれコレ早すれば汝が不儀の樣子森田屋銀五郎に大恩だいおんうけながら其主人宅を取逃とりにげ欠落かけおちをしたる段重々ぢう〳〵不屆ふとゞき至極のやつなり入牢申付るしばれと有ければ同心共立懸たちかゝり高手小手にいましめたりける夫より憑司が村長を退きしことを尋問たづねられしかば憑司はぐつ〳〵こたふるやう私し少し間違まちがひにて村の持山もちやまきりしゆゑ退役いたし其跡にて傳吉儀役人中へ色々つひに村長と相成しが傳吉段々我儘わがまゝ押領あふりやう等の筋之有るやにて又私しへ村長を相頼あひたのみたしと村中の者私しへ内談ないだん仕つりましたと申上るに越前守傳吉に向はれ其方役人に賄賂まいないつかひ村長に成又押領あふりやうとは何を押領せしと尋問たづねらるゝ傳吉只今憑司が申上しはみないつはりにて彼事かのことは村の杉の木をおのれ了簡れうけんにて賣拂うりはらひたるにぞ村方一同立腹りつぷくなし村中よりの願ひに依て退役たいやくを仰付られました其頃そのころわたくしは渡世の爲野尻の與惣次方に一兩年も住居ぢうきよいたし居し所村方一同のねがひとて役人衆やくにんしうより古郷へ召返めしかへされ名主役仰せ付られしが其節も辭退仕じたいつかまつり憑司儀をとりなし申せど何分村方にて聞濟きゝずみくれ申さず是とても差添さしそへの者へおたづね下さらば相分り申べくと申立けるに大岡殿また勘右衞門喜兵衞を見られ傳吉は其頃そのころ一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中總體そうたいねがひにて村長に成しと云が然樣なるや尚又なほまた傳吉近頃押領あふりやうあるよしにて元の村長憑司にたのまんと致せしや申立よといはれければ兩人は成程傳吉は其せつ野尻宿與惣次方に居りしを村中のねがひにて村長に成しなり傳吉が押領あふりやうせしと云かどは如何成を致せしや此喜兵衞は一かううけたまはり及び申さずもしや勘右衞門はうけたまはりしやと云時勘右衞門は喜兵衞がぞんぜぬ事を我等われら承まはるはずなしと申に大岡殿其方共は村方にて何役をつとむるやとたづねられ喜兵衞は組頭くみかしら勘右衞門は百姓總代そうだいの趣き申立つる越前守殿汝等なんぢら知らざれば今憑司の申立はいつはりと相見える傳吉は廿年來行衞ゆくゑ知れざる叔母を連歸つれかへ飢渇きかつを救ひ從弟梅をつまとして其上五ヶ年の奉公に金子をため實體じつていなる行ひにかんじ村中の者地頭ぢとうに願ひ村長にしたるにまた〳〵憑司へ歸役きやくを願ふことはよもあるまじ然らば憑司はうたがひなきにあらじ依て手錠てぢやう申付ると有ければ憑司は戰々わな〳〵ふるひ出し何か云んとする所だまれと一せいしかられて蹲踞うづくまりしぞ笑止せうしなる又大岡殿は榊原家の留守居るすゐへ向はれ此度の一條吟味懸ぎんみがかり三人の役人は其方へ屹度きつと預けおつて呼出すべしと言渡いひわたされたり


第十九回


 再び傳吉ならびにお專與惣次よそうじ評定所ひやうぢやうしよへ呼出され大岡こう如何に傳吉其方は何故くらき夜に提灯ちやうちんをもつけずして猿島さるしま河原をとほりしやと尋問じんもんせらるゝに傳吉先日申上げ奉つりし如く前夜專事せんことあしき夢を見し由にて心にかゝる旨申に付吉凶きつきようとはんと存じ夕七つ時分に宿やどを出しに途中とちうにて先年懇意こんいになりし細川家の藩士はんし井戸ゐと源次郎げんじらうに出會しゆゑ如何なる用向ようむきにて此地へ來られしやととひしに妻をつれ信州しんしう湯治たうぢに參りしが右妻儀は五歳の時人に勾引かどわかされ江戸へまゐりしにはだの守りぶくろに生國は越後高田領のよし書付かきつけ有しゆゑおや對面たいめん致させんとて來りし所途中とちうにて妻を馬丁うまかたうばはれ一向に知れざる由うけたまはり氣のどくに存じ彼是と談話だんわ仕つりし中にひまとりおそく參り日くれにならざるうちかへる心故提燈ちやうちんの用意も仕らず歸りは夜に入亥刻頃ゐのこくごろにも相成りしと言ければ大岡殿其方は細川ほそかはの家來と何れにて心やすくなりしや傳吉私し先年新吉原三浦屋みうらやにて心やすく相成りました右源次郎殿げんじらうどのつまは三浦やの遊女空蝉うつせみ同人が根引ねびきいたし妻となりしゆゑに存じ居ますと言にぞ其のものつまを失ひしと申せし後其源次郎にあひしやと云るれば傳吉其中私し高田御役所へ召捕めしとられし故源次郎にはあひ申さずと云時かたはらより與惣次よそうじ進み出其源次郎と言人其後猿島川さるしまかはより三里ばかり川下にて女のくびを見付則ち自分の妻のくび成とてことの外なげき近所の寺院へはうむりし趣き私し國元に在し中に專らうはさを致しました然共七八里ほどわきにてしかとぞんじ申さずとのことに大岡殿其葬そのはうむりし寺と村の名は知り居るやとはるゝに與惣次よそうじ其は存じ申さずと云爰に大岡殿其手續てつゞき大概たいがい洞察みぬかれし樣子にて扨てはあやしき事なりその女をころし又昌次郎梅等が着物きものを着せ置傳吉に難儀なんぎを掛罪におとさんとはかりしやも知難し首をかくす程なれば着類きものをも剥取はぎとるべきに夫をのこし置しは不審ふしんなり追々吟味ぎんみに及ぶと言るゝ時下役の者そばより立ませいと聲をかくるに各々其日は下りけりかさねて大岡殿細川越中守の留守居るすゐを經て井戸源次郎を呼出し其來歴らいれき或は遭難さうなん始末等しまつとう逐一尋られたるに傳吉與惣次の口と符合ふがふなしければ尚たづねられたるに源次郎夫は其處そこより上の方三里ほどへだてし所に男女の死體ありとの風聞其邊そのへん夫婦ふうふの者の由其ころうはさ仕つりしなり大岡殿其方は其のへんにて傳吉と云へる者にあひしと申が傳吉方へたづねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて知己ちかづきの者故其邊そのへんにてあひたれども愚妻ぐさいを失ひし折柄をりからゆゑそこ〳〵に打すぎ其後寶田村を相尋あひたづね候所何成いかなる罪にや傳吉領主へ召捕めしとられし由其後あひ申さず候と云に大岡殿シテ傳吉は何云どういふえんにて存じ居るや源次郎然れば新吉原三浦屋にて其節そのせつ若い者を致してりしなりと言立ければ大岡殿又新吉原三浦屋四郎左衞門をよば其方そのはうが内に先年越後國高田領寶田村傳吉と云者いふものを若い者にかゝへたる事ありやと尋問たづねらるゝに成程四ヶ年程以前迄傳吉と言者をかゝへ置しことありと云ふに大岡殿其傳吉は其方召抱めしかゝへ中平常の行状ぎやうじやう委敷くはしく云上よとあるに此者はじめの程は米搗こめつきに召抱へし所至つて正路しやうろ忠實ちうじつの者故二階のきやく取扱とりあつかひを申付此役をくるわにてわかい者と云私し宅に五ヶ年の間相勤あひつとめます中少しも後暗あとくらきこともなく實に正直しやうぢき正路しやうろの者なりと言ければ大岡殿は其傳吉事奉公ほうこう中給金其外にて百五十兩程たくはへ其元そのもとへ預け歸國の節持返もちかへりしと申が然樣成や四郎左衞門如何にも五ヶ年の内にわたくしへ百廿兩あづけ置歸國のせつ其金を渡し又出精しゆつせい致せしゆゑ私し手元より褒美はうび十兩つかはし其外遊女共より餞別はなむけもらひ等にて成程百五十兩になりましたで御座りませうと云に又大岡殿尋問たづねらるゝ樣先年其の宅の遊女空蝉うつせみ年明後ねんあけご井戸源次郎と云者妻に致たる由其事ありしや又同人をかゝへし時の手續てつゞきを申べしと有しかば四郎左衞門成程なるほど夫は手前かゝへ遊女うつせみと申者年明後井戸源次郎樣と申御宅へ縁付えんづきしに相違さうゐ御座なくかゝへたるせつは其者の二親は相果あひはてましたるとの事にて揚屋あげや町善右衞門養女やうぢよの由善右衞門よりねんぱい廿五歳までを六歳の時に廿五兩に買取かひとりしに相違これなきむね申立しかば源次郎四郎左衞門の兩人へおつて呼出す事有んと云渡いひわたされ其日は白洲しらすとぢられけり是に於て大岡殿かねて目をつけられし通り傳吉は何れにも正路しやうろの者右の河原にてころされたる女は空せみ又一人の男は彼を勾引かどはかしたるやつならんが二ツのくびを川へながしたるに女の首のみやなぎえだとまりたるは則ちえんも引ものか左右とかくあやしき所なり必定ひつぢやう此公事は願人共の不筋ふすぢならんと流石さすが明智めいち眼力がんりき洞察みぬかれしこそ畏こけれ


第二十回


 同月二十三日亦々また〳〵評定所ひやうぢやうしよに呼び出さる大岡殿端近はしぢかく席を進まれ大目附御目附立合にて留役衆吟味ぎんみ書を改めて差出さるゝに大岡殿やがて白洲を見られ願人憑司同人妻早相手傳吉同人妻專舅與惣次村役の者喜兵衞勘右衞門榊原家來半右衞門同じく吟味役ぎんみやく小野寺源兵衞川崎金右衞門留守居清水十郎左衞門と一々姓名せいめいを呼はれ憑司にむかはれ其方が段々願ひのおもむ確固たしかなる證據しようこもなし然らば急度きつと傳吉が所行しわざとも相分らず麁忽そこつの訴へに及びしは不屆に思はる人命おもしとする所只々着類ばかり似たりとて兩人の子供こどもなりと申すと言ども世には染色そめいろ模樣もやうなど同樣なる着類せし者往々あることなり但し死體したい實固じつこなる目當ありしやと云るゝに憑司は御道理ごもつとものお尋に候悴儀は幼年の内に少々からだ彫物ほりもの致し候のみならず喧嘩けんくわを致し子供同士かま肩先かたさききづを附られ候悴が今にのこり居候が何よりの證據しようこに御座りますと云に越前守樣成程なるほど確固たしかなる證據ありして其彫物ほりものは何なる物ぞ憑司ヘイうでに力と申す字を大くほつて居ました又大岡殿梅が死體の證據しようこは何じや憑司之はしかとした證據はぞんじませぬと云ふにぞ越前守殿早我は娘の事目的めあてありやと仰さるれはお早ハイ現在げんざいの一人娘何見違へませう姿すがた着類きものと云ひ聊か相違さうゐ御座りませんと云へば大岡殿コリヤ早其方が娘のからだきずはないかお早一向に御座りませぬと答るに實固しかとさうかと期をおされ大岡殿喜兵衞勘右衞門と呼ばれ其方ども其時の事を申立よとたづねらるれば兩人かしこまり領主の役人ども檢視けんし相濟あひすみ取片付仰付られしまでのを申立けるに大岡殿其方とも死骸しがい檢視あらためせつさだめて立合たるなるべし其の死骸しがいに今憑司が申た通り彫物疵ほりものきずありしやと尋ねらるゝ兩人ヘイ力と云ふ字が彫付ほりつけて有しと云立るに女の方は如何じや此方にもき込し事あればいつはりを言上ごんじやうなせば其方どもゝ入牢申付るぞと仰されければ兩人は少しふるへながら女の死體は何事も御座りませんが片々の二のうでに小さく源次郎命と彫付ほりつけてありまた片々には影物かげものに灸をすゑたる跡ありと云立れば大岡殿お早にむかはれ其方が娘は元賣女ばいぢよでも致したか源次郎と云名は先夫のでもなしまた昌次郎でもなしいづれのひとじやぞんじたるやと云はるゝにそばより憑司は然樣のは存じ申さず候へどもかねて嫁梅のうでにも何か彫たる趣き承まはりし事もありナフお早其彫物ほりものの事に付ては何とか申せし事ありしがナヽと夫と知らする心のなぞを越前守殿聞だまれ憑司汝は何を申すぞ早ははう吟味ぎんみなすに爰な出過者ですぎものめ今早が口より梅が體にきずなどは御ざらぬと申立たるになんぢ夫を無理むりに申させても取上には相成あひならぬぞ其源次郎と申はナ細川の家來けらいにて井戸源次郎と云者新吉原の三浦屋四郎左衞門かゝへの遊女いうぢようつせみを年明後ねんあけごつまとなし越後に實親じつおやありとたづね行しに同國猿島河原にて人手ひとでかゝり其くびをば川下にて見附みつけたりと申す然すれば其方どもか奸計かんけいにて右の死骸しがいむすめせがれ着物きるゐを着せ傳吉をつみおとさんと計りし事かゞみかけて寫が如し重々不屆の次第明白めいはくに申立ろと大音だいおんに云るゝを憑司はおそれず傳吉が申するのみを御取上げあるは片手打の御捌おさばきといひはてぬにだまれ憑司おのれ極惡ごくあく罪人つみんどとして公儀こうぎ裁判さいばん片手打かたてうちとは何事ぞ其方が悴昌次郎は傳吉が留守中るすちう不義致し居しだん重々ぢう〳〵不屆なるを傳吉は其れを知りながら夫となしに梅をすみやかに離縁りえんに及び其上叔母へ金子迄をつかはしたるを阿容々々おめ〳〵と二人ながら引取親子たがひに妻と致し其上にも厭足あきたらず傳吉をはかり罪におこなはんとなしたるでう人畜じんちくとは其方共がことなり然るに奉行所の裁判さいばんを片手打依怙贔屓えこひいきなどと申條不屆者め吟味中憑司は入牢申付る其外双方の者共なほ追々おひ〳〵吟味に及ぶと云はれし時直樣すぐさま白洲しらすとぢられたり重ねて同月廿五日新吉原三浦屋并に善右衞門を町奉行所へ呼出よびいだされ又井戸源次郎もまかり出しに越前守出座有て四郎左衞門其方かゝへうつせみと申遊女は善右衞門より買取かひとりしとなコリヤ善右衞門其方は空せみと申女を四郎左衞門にうりしやと其方がじつの娘か何じやいつはりを申と入牢の上拷問がうもん申付るぞと云れしに善右衞門はあをくなりハイかれは私しが實の娘にてはござりません伯父をぢむすめなれども兩親相果五歳より引取ひきとり養育やういく仕つりしと申立る故夫より伯父の名前を始め住所ぢうしよまで調しらべられしに追々口籠くちごもり終に答へ出來ざれば越前守殿おほせには其方は胡亂うろんなる事を申者かな伯父夫婦は相果あひはてあとも知れざる由家主いへぬししかおぼえずこれうたがひの一つ又うつせみが實の親なる者越後と申事なり只今たゞいま汝に引合ひきあはする者ありと井戸源次郎を呼出よびいだされ縁側えんがはに控へるを源次郎其方は四郎左衞門抱への遊女いうぢよ空せみを引取しときあの善右衞門方よりもらうけしやとたづねらるゝに源次郎成程善右衞門方よりもらうけたりと云にぞ越前殿三浦屋を呼れ其方そのはうかゝへ遊女いうぢようつせみを井戸源次郎がもらうけしとき此善右衞門が源次郎へわれうつせみのおやなりと申したは相違さうゐきやコリヤ源次郎も先達さきだつて申立たる通り今一おう申立よとあるに付き源次郎は更に手續てつゞきつげければ越前守殿是を聞善右衞門汝が賣渡うりわたしたるうつせみは五歳の時勾引かどはかされ江戸へ來りしと有り夫をなんぢは伯父の娘也といつはりを申立てしも今聞とほりなり眞直まつすぐに申立よ此上つゝかくすに於ては急度きつと申付るぞと聞て善右衞門ヘイ明白めいはくに申上ます私しは然樣さやうなる者を勾引かどはかしはいたしませんが彼は友達の松五郎と云が連來つれきたりまして我姪わがめひなりと段々だん〳〵たのみまする故據ろなく三浦屋は私し名前にして賣込うりこみたる趣きを申にぞ越前殿其松五郎は何方いづこにありしやとのおたづねに右松五郎は先達さきだつ惡漢わるもの八五郎と申者召捕めしとられし時より何處へか逃去にげさり其後行方分らざるよし申立ければ越前守殿其八五郎とは先達さきだつて八丈島へ流罪るざい申付たるどろ八が事ならん其せつ泥八が申口にて相尋あひたづねし松五郎なる者行衞ゆくゑ知れず勿論もちろん其節ならば其方を急度きつと入牢申付る儀なれども最早もはや年も經し儀故右の松五郎は其方へたづね申付る來る十日迄に尋ね出し召連出よ其方は家主町内組合へあづけ申付ると云渡されけり


第二十一回


 くて同年ごく月二日評定所へ又々前々のとほ役人やくにん衆相揃はれ右一件のもの總殘そうのこらず御呼び出し追々おひ〳〵白洲しらすに呼込に相成役人衆やくにんしう列座れつざいたされ時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司とよばれ其方儀是迄段々吟味に及びし所猿島河原きられ人は其方せがれ嫁等の趣き申立ると雖も必ず昌次郎梅とは定め難く其わけは同じ衣裳いしやうを着たる者一がうの内には往々あるべしことに女の死骸しがいは井戸源次郎妻うつせみが亡骸なきがらと思はる然すれば男の方もしやう次郎にはあるべからずほかころしたる者有るを不屆の調べに及び傳吉を無實むじつの死に至らしめんとなせしでう不埓ふらちの至なり自然後にて昌次郎夫婦がこの世に存命ながらへらば其方は如何致すぞと申されければ憑司は彌々いよ〳〵我がたくみのあらはれしかとは思へども猶ぬからぬおもてにておそれながら御奉行樣の仰には御座れども着類きるゐおび繻袢じゆばんに至るまで悴に相違御座りませぬと言張を大岡殿きかれまだ其樣に強情がうじやうを云居るがすでに其日は柏崎かしはざきへ昌次郎夫婦して參り夕刻彼所を立歸りしと云にあらずや然らば我が妻をすてていまだ一面識めんしきならぬ他の女と道連みちづれになり人の爲にころさるゝ者が有べきやシテ梅は如何いかゞせしぞ汝公儀の役人をいつは重惡者ぢうあくものめとしかられしにぞ憑司は今更大息おほいきつき頭をたれ一言ももの云ず依て越前守は四郎左衞門善右衞門并に井戸ゐど源次郎へ一々聲をかけられコリや憑司夫に居は四郎左衞門善右衞門井戸ゐど源次郎成ぞ此源次郎が四郎左衞門抱の遊女うつせみと云女を買馴染かひなじみ其空せみは五歳の時人に勾引かどはかされ揚屋町善右衞門口入にて神田かんだ小柳町松五郎が姪成めひなりとて三浦屋へ賣込しが年季明ねんきあけにて源次郎の妻に致し其主人へねがひ湯治たうぢひまもらひ信州より越後へじつおやたづねに參る途中馬丁べつたう勾引かどはかされ源次郎諸方をたづねし處猿島河原にて妻がくびを見付たる由コリヤげん次郎其妻の名は何とか申せしや源次郎私しさい幼名をさなゝは上臺千代と守り袋に書付かきつけ之あり千代平常申にはたしか越後邊のうまれのよし明暮あけくれ實の親をしたひ居りし故私主人へいとまもらひ信州へ參り越後の方を尋ね候處不慮ふりよの災なんに逢ひ終には猿島河の下にて首を見付みつけたるは先達て申上候と言にぞ越前ゑちぜん守殿何源次郎其方つまは右の二のうでに源次郎命と彫物ほりものをしてをりしならんと云れしかば然樣さやうなりと言にぞ越前守源次郎其節そのせつ川上に男女なんによ死體したいありし由女の方は其方が妻の千代に相違なし又左りのうで彫物ほりものあとある男はさつする所勾引かどはかせし馬丁ならん又彼等を殺せしは憑司昌次郎兩人のなか仕業しわざなる故に首を切て知れざる樣に昌次郎夫婦ふうふの着類を着置きせおき傳吉を罪におとさんとたくみしならん源次郎其方が女房のあだは是なる憑司等と思はる憑司是にても猶云分あるか斯の如く明白めいはくに相分る上は眞直まつすぐに申立よ僞ると拷問がうもんに掛骨を挫ぐ共いはするが何じや〳〵と仰らるゝに憑司是は御無體ごむたいおほせなり然樣なるおぼえは御座らぬと言張いひはるにぞ大岡殿は是より一同調しらべんとて榊原さかきばらの家來伊東半右衞門にむかはれ只今聞通り彌々いよ〳〵猿島川原の男女の死骸しがい推量すゐりやうたがはず源次郎妻と馬丁の者と相見える其方が公事くじ決斷けつだんは甚だ粗忽そこつなり言分有りやと云ふ又與惣次其方は高田へ參りて役人をたのみ傳吉が助命ねがひしがかなはず然ながら種々いろ〳〵取繕とりつくろひ牢屋まで飯を送りしと先達て申立しが其節そのせつ役人へ何をつかはし頼み入たるや此義このぎ明白めいはく言上いひたてよと云るゝ故與惣次は奉行へ金十兩その下役人へ十兩おくりし段を言立いひたてしかば大岡殿作右衞門へたづねありしにはじめはかくちんじしがとてもつゝがたしと存ぜしや寒中見舞かんちうみまひとして金子をもらひ請し旨を申に何かさかなの類ひならば格別かくべつ金子を受るは賄賂まいないあた不屆ふとゞ至極しごくなり下役兩人も受しならんとあればきん二兩づつもらひし旨言立るに大岡殿下役は奉行を見習みなら所業しよげふ不正ふせいなり且賄賂によつてつみの有樣を私しなすは此上もなき不屆者ふとゞきもの伊東半右衞門は揚屋あげや入申付下役二人は留守居へあづつかは急度きつといましめ置と言渡され傳吉は出牢の上手當てあてして宿預け言付さげられけり又ごく月十日傳吉お專與惣次喜兵衞きへゑかん右衞門等を奉行所へ呼出され昌次郎夫婦ふうふの者古郷を出でて何所なにどころしのび居んと内々探索たんさくのため昌次郎梅二人の年齡ねんれいより風俗を大岡殿ちく問糺とひたゞされしに就き一同は昌次郎梅が風俗ふうぞく委敷くはしく申立且昌次郎の鼻の下にくろ黒子ほくろありと云ければ越前守殿二人ども多分存命ぞんめいにてあらん其方に手懸てがかりはなきやとのことなれども一同さらに手懸りなきむねを申又傳吉より先日御吟味ごぎんみの節思ひあたりしは源次郎つま千代事に付て段々だん〳〵御吟味うかゞひしに上臺憑司がむすめに候はん此は私幼少えうせうころ高田城下の祭禮さいれいを見に參り其節憑司の娘千代は人に勾引かどはかさ行衞ゆくゑ知ずとのこと憑司も探索たんさくせしが分らざるゆゑ捨置すておきたるに先頃御吟味のせつ苗字めうじは上臺名は千代と申よし彼に相違さうゐなし尤も五ヶねんの間三浦屋にて一しよ相勤あひつとめ居れ共同人とはゆめにも存ぜず彼は江戸出生とばかりぞんじをりましたかさねて此義をも御吟味下さるやうねがひ上奉つると言に大岡殿横手よこてうたれ扨々積惡のむくふ所はおそろしき物かな我が子と知ず憑司が殺し猿島河原へすてたるは己がじつむすめの首なりしとはハテあらそはれぬものなり重ねて吟味致さんおつて呼出すまかり立と傳吉を始め一どう下られけり其後そのご大岡殿は何れ昌次郎夫婦ふうふの者外へは參るまじ江戸おもてならんと定廻りの與力同心へ急々たづね申べしと内命ないめい有りしとぞ


第二十二回


 先頃越後國猿島さるしま河原よりあとくらましたる昌次郎夫婦の者はおや憑司とはかりてころせし男女の死體したい己等おのれら着物きものきせそれより信州の山路やまぢにかゝりしのび〳〵に江戸へ來りて奉公口ほうこうぐちたづねけれ共相應の口もなくたくはへの路用をつかひ切詮方せんかたなく或人の世話せわにて本郷三丁目に裏店うらだなかりおのれは庄兵衞と改名しお梅はとよと改ため庄兵衞日雇ひやとひとなりほそけむりを立つゝ二三ヶ月くらしけれ共天道惡事を憎み給ふゆゑどうさいはひのあるべきやさてまた庄兵衞しやうべゑ傘谷からかさだに桂山道宅かつらやまだうたくと云醫師ありて毎日雇れ居たり此醫者隨分小金をもつたる樣子を見うけうばひ取んとこゝ惡念あくねんおこし或日庄兵衞は不圖ふと道宅家へ參りしは夜の亥刻過なれども同人は留守るすにて近所の長家はみな戸をたて有道宅のうちは庄兵衞勝手おぼえし事故四邊あたりに人のなきを幸ひと水口みづぐちの半戸を開て這入金子三十兩着類きるゐ品々をうばひ取り知ぬ顏して居たりけるさて道宅は家へかへりて見れば勝手かつて明放あけはなしありて三十兩の金子と着類三品紛失ふんじつなしたるゆゑ大きにおどろき諸方を見るに路次ろじの方水口より這入し樣子やうすなり其中に家主いへぬしも來り大騷おほさわぎとなりしが早々さう〳〵翌日此段大岡殿御番所へうつたへ出るに早速よび出され段々尋問じんもんとなり其日あやしき者來らずやと申さるゝに私し留守故くはしくは存じ仕らず候へども隣家りんかの者のうはさには日頃雇ひ候庄兵衞と云者參りし樣に存じ候趣きしかしながら人のはなししと云しかと見屆候義にはこれなくと云ければ大岡殿又々道澤だうたく尋問たづねらるゝは其日雇に參る庄兵衞と云者いふものは何所にをるものなりやといはれしかば本郷三丁目徳兵衞だな住居ぢうきよなし日々雇ひ候者なれども心底しんていかくと存じ申さず越後邊の出生しゆつしやうの者と申立しにより大岡殿以後手懸てがゝりともならんかと樣子やうすを見せにつかはされしに役人は家主いへぬし徳兵衞を案内に庄兵衞が家を調べんといたり見しに此節女房は傷寒しやうかんにて打臥とこに着しまゝ立居も出來できぬ體なり斯る所へ家主の案内にて役人やくにん入り來り家搜やさがしをなすよし女房は屏風を立廻たてまはし床にかゝありしが後の方に骨柳こり一ツ有しを夫を改めんとなすをつまは此品は不正ふせいものならずと手を出す役人共はらひ退て中を改むるに金子二十兩有て着類きるゐは見えず是は賣代うりしろなせしやと女房を見れば貧家に似合にあはず下に絹物きぬものを着込居るゆゑぬがせて見れば男小袖こそでなり是はと役人共も思ひすぐさま手配をなしてしやう兵衞を召捕奉行所へ引き立に成り入牢仰付られ其後そのご段々と御吟味になりしが女房とよは病後夫が召捕めしとられしよりハツと逆上なしくるまはりしかば長家中皆々みな〳〵番もすれともやゝもすれば駈出かけいでてあらぬことどものゝしり廻るにぞ是非なく家主とく兵衞并に組合くみあひより願ひ出けるに先達さきだつて御召捕に相成あひなり候庄兵衞の妻とよ亂心らんしん仕つり町内にて種々と介抱かいはうかつ養生仕つり候へども晝夜ちうや安心相成ず難儀なんぎ至極に付何卒御奉行樣にて入牢仰付られ候へば町内ちやうない一同有難仕合なりと申ける是れは毎度まいど亂心らんしん之者有り家業ならざる中は養生らうとて入牢仰付らるゝ故則ち願書取上となり翌日よくじつ本郷三丁目徳兵衞組合くみあひ名主付添へ白洲へ罷り出控居るを大岡殿見らるゝに痩衰やせおとろへ眼中ばしりしていじつ亂心らんしんの樣子なれども傳吉始めより申立し梅の人相にんさうに似たるゆゑ如何にも言葉ことばやはらげられ物靜ものしづかに庄兵衞妻其方が名は何と云ぞ又國は何れ成やととはれしかばとよはげら〳〵わらひ出し御奉行さまわたしの名は御存ごぞんじないか私の夫は越後國寶田村の昌次郎しやうじらう私は梅と申して上臺の若夫婦わかふうふなり夫を知ぬとは扨々さて〳〵可笑や〳〵と笑ひ狂ふにぞ越前守殿も有べし當人たうにんは如何にも亂心らんしんていゆゑ入牢申付ると云渡いひわたされけり其後又奉行所へ梅を呼出よびいだされ亂心らんしんながら其方生國しやうこくは越後高田ざい寶田村にて父は憑司母は早をつとは昌次郎なる由云立しが相違さうゐなきかと尚再三尋問たづねられし上豫て入牢申付られたる庄兵衞をよび出されしに女房が亂心らんしんなし奉行所へ召連うつたへとなししをすこしも知らねば如何なるすぢのお尋かと心に不審く引出されしが其時大岡殿庄兵衞を見られ其方は何時なんどき改名かいめいせしぞ其方の名をばなんと申せしとたゞされしかば庄兵衞心中しんちうに驚け共元來不敵ふてき曲者くせもの故色にも見せず私は四ヶ年あとに仔細あつて改名かいめいいたし其以前は吉之介と申し候と云に大岡殿しからば其方つま名は其以前梅と申せしなるべし夫婦の者改名は四ヶ年あとにてはなく二三ヶ月前に改名かいめいしたるならんシテまた其方が生國しやうこくは榊原遠江守領分越後高田在寶田村ならん其なんぢの妻梅が申上しぞとおほせらるゝを聞てしやう兵衞は默然もくぜんとして居たりしが又大岡殿仰らるゝ樣其方なんなんいく日何故古郷を立て江戸えどへ來りしぞしやう兵衞ヘイ二三年あと身代しんだい零落れいらくに付き稼ぎの爲めまかり出しと云ふを大岡殿いな二三年ではるまじ二三ヶ月跡ならんそれとも強情がうじやうを云ならば二三年以前に出て何所いづこ住居すまひいたせしぞと尋問たづねられしかば庄兵衞は何處迄も云張いひはる了見れうけんにてハイ國者の所にりしと云にその所は何所にて名は何と云やと尋問たづねられしに淺草へんなりしが其の淺草は駒形こまがたにて名は兵右衞門と申すとかシテ其の兵右衞門は只だいま以つて其の所ろに住居いたすやと問つめられしに庄兵衞ヘイ其者そのもの當時は身上を仕舞しまひ國元へ歸り候と申立るに大岡殿はすここゑ張上はりあげられコリヤ庄兵衞其方は種々しゆ〴〵の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司がせがれ昌次郎三箇月以前猿島さるしま河原がはらに於て親憑司とはかり人を殺して汝夫婦の着類を着置きせおき其處を立退き今は改名かいめいして庄兵衞と名乘其元の名はしやう次郎つまとよ事元の名はうめと云者ならん天命にて其方がさい亂心らんしんなし我が手にあり加之しかのみならず親憑司早くも先達せんだつて牢舍申附たり同村名主傳吉をつみおとし入んと計りくらき夜に昌次郎と兩人ふたりにて男女をころし悴娘の着類をきせ兩人の首をきつて川へ流せしおもむき最早兩人より白状はくじやうに及びしを己れ此上にもいつはらんとならば水火の責にかけいはするどうじやとおほせに流石さすがの庄兵衞もおどろいろ蒼然あをざめ戰々わな〳〵ふるひ出だし一言の答へもなし大岡殿何じや己れつみふくせしやと云るゝ時庄兵衞はなほのがるゝだけのがれんと思ひ私しまつたく然樣さやうなる覺えは之なしと申により大岡殿かく兩人は罪にふくしたれ共此上にもあらそはゞ是非なく拷問がうもん申し附るとこれより庄兵衞の昌次郎は拷問がうもんかゝり種々せめられつひに人殺しの一條より國を立退たちのき江戸へ來り本郷に少しの知己しるべある故是に落附候所天命てんめいにて召捕られし段申立しかば則ち石帶刀たてわきより爪印を取て奉行所へ差出しにおよびけりよつて享保きやうほ十一年正月二十三日右一けんにつき又々評定所へ前々の通り夫々の役人列座れつざある願人憑司并に郡奉行伊藤いとう半右衞門等はらうより引出されかつ又川崎金左衞門及小野寺源兵衞相手方傳吉及與惣次村役差添人尚又引合の細川家ほそかはけ家來けらい井戸源次郎三浦屋四郎左衞門善右衞門皆々みな〳〵白洲へまかり出ければ目安役與力一々名前なまへを呼立る時大岡殿せきを進まれ是迄段々吟味をとげし通り最早其方つみに伏したるやと云れしかば憑司は左右さうおそれぬていにて私し悴を殺されいかでか罪にふくし申さんやと申すに大岡殿其方如何にあらそふとも河原の死骸しがいは馬丁とうつせみの兩人にして昌次郎夫婦は存命ぞんめいいたし居るぞ然るに傳吉をつみおとさんとたく訴訟うつたへしは重々不屆きなるやつかなと云はるゝを憑司なほ押返おしかへし恐れ乍ら其死骸が馬丁ならびに空せみと申遊女いうぢよなりと云確固たしかなる證據しようこも御座らずといふに越前守殿馬丁にはたしかの證據も非ざれ共女はうでに源次郎命と彫物ほりものありし故是なる源次郎の申口にて委細ゐさい相譯あひわかりしなり又一人はうつせみを勾引かどはかたる馬丁に相違あるまじ汝いかいつはるとも天命いかでか惡をたすけんや早く白状はくじやう致すべしと一々證據しようこを示されければ流石さすがの憑司もつゝむに由なく實は傳吉に村長をうばはれしと存じれを亡者なきものとなし我また後役あとやくにならんと惡心あくしん増長ぞうちやうせし所役人へ遣はす賄賂わいろの金子に困り悴夫婦を江戸へかせぎに出し給金にて地頭役人をこしらへ先役に立歸たちかへらんと存じ此ことを村中へ知らせず日暮ひぐれて立出させし所に猿島さるしま河原迄いた火打ひうち道具を失念しつねん致したるを心付昌次郎はとり立戻たちもどる時私しは又たくにて心付子供等があと追駈おひかけ昌次郎と途中にて行違ひと成り梅一人河原にまち居たる所雲助風俗ふうぞくの者女を勾引かどはかし來り打叩くをかたはらにて梅は驚き迯出にげいだす所を又其者梅をもとらへんとて爭ふ所へ私は駈付かけつけ夫と見るより切付しにあやまつて彼の女を切殺し又悴は雲助を打果うちはたせしかば如何ならんと相談さうだん致し傳吉をつみおとさんと二人かくびを切り川へ流し着類をへ其上傳吉が庭の飛石とびいしに血のあと附置つけおきしに我が手にかけしは現在げんざい娘千代にてありしか彼が事は行衞ゆくゑ知れずしかるに彼は親をしたひ夫へ願ひ態々わざ〳〵尋ね來りしを不便の事をしてけりと強情がうじやう我慢がまんを言張し憑司夫婦も恩愛おんあいに心のおにつのをれて是までたくみし惡事の段々殘らず白状なりたりけり依て大岡殿は外々の者共ものどもへも右の趣きを言渡いひわたされ別けて善右衞門には惡者わるもの松五郎欠落かけおち中未だ行衞分らざる由につきなほたづね申べきむね嚴重げんぢうに仰付られしかば憑司はたゞ恐れ入てぞ居たりけるかくの如く追々調べ相すみしに付一同口書こうしよ爪印つめいん仰付られ享保十二年二月二日一同呼出しに相成れいの如く役人しう列席れつせき大岡殿夫々とがの次第申渡されたり

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓   憑司

其方村長むらをさ役をもつとめながら傳吉留守中同人叔母早と密通みつつうに及び早を我が家へ引取妻と致し其後村長役を召放めしはなされ傳吉へ後役あとやく申付られしをねたく思ひ加之猿島河原に於て現在げんざい娘千代事うつせみを切害し其罪を傳吉へおはせん事を榊原遠江守郡奉行伊藤半右衞門ほか下役二人の者共と相謀あひはかり傳吉か無實の汚名をめいを申立彼を亡ひしのち己れあとに再勤せんとたくみしでう不屆至極ふとゞきしごくに付死罪の上越後國猿島河原に於て獄門ごくもん申付る

右同斷            同人妻   はや

其方儀平常つね〴〵身持みもちよろしからず數度すどをつともち不貞ふていの行ひありしのみならず森田屋銀五郎方の大恩をわすれ病人を捨置欠落かけおち致し其上我かをひ傳吉より七十五兩の大金をつかはしたる信義しんぎわすれ憑司と密通みつつう致し傳吉をはかり殺さんと致し候でう不屆至極ふとゞきしごくに付八丈島へ流罪申付る

憑司悴昌次郎事              庄兵衞

其方儀傳吉先妻梅と奸通かんつうに及びしのみならず傳吉あづけ置候金子をかたとり加之そのうへ猿島河原に於て名も知れざる馬丁まご切害せつがいし自分と梅との衣類着替きせかへ置其罪を傳吉へおはせん事をおや倶々とも〴〵相謀り候でう重々ぢう〳〵不屆至極に付死罪の上猿島河原に於て獄門ごくもん申付る

昌次郎事庄兵衞妻梅事            とよ

其方義夫傳吉の留守中るすちう昌次郎と奸通かんつう致しあまつさへ傳吉歸國きこくせつ密夫みつぷ昌次郎に大金をかたりとら旁々かた〴〵以て不埓ふらちに付三宅島みやけじま遠島ゑんたう申付る

榊原遠江守家來              伊藤半右衞門

其方儀おも役儀やくぎつとめながら賄賂まいないとりよこしまさばきをなし不吟味ふぎんみの上傳吉を無體に拷問がうもんに掛無實の罪におとし役儀をうしなでう不屆に付繩附なはつきまゝ主人遠江守へ下さるあひだ家法かはふに行ひ候やう留守居へ申渡す

右同斷                  川崎金右衞門

其方儀奉行ぶぎやうの申付とは言ながら賄賂まいないを取役儀を失ひ無體むたい威權ゐけんろう良民りやうみんを無實の罪に陷し入候條不屆に付繩附なはつきまゝ主人へ下さる家法かはふに行ひ候樣留守居へ申渡す

右同斷                  小野寺源兵衞

みぎどう文言もんごん

新吉原奉公人口宿             善右衞門

其方儀松五郎たづねの所未だ行衞ゆくゑ相知れざる趣きうつせみ事千代存命ぞんめいも是れ有らば入牢の上屹度きつと被仰付之處當人たうにんうつせみ相果候上は一等をげんじられ江戸構えどかまへ申付る

細川越中守家來              井戸源次郎

其方儀不正ふせいの儀もこれなくかまひなし

新吉原町一丁目              三浦屋 四郎左衞門

右同文言

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主   傳吉

其方儀不正の無之これなく而已のみならずが家の衰頽すゐたい再興さいこうせんことを年來心掛たくはへたる金子ををしむ事なく叔母早へ分與わけあたへたるはじんなり義なり憑司ひやうじしやう次郎とまじはりをたちを退ひたるは智なり又梅を離縁りえんして昌次郎へつかは見返みかへらざるはしんなり罪なくして牢屋につながれ薄命はくめい覺悟かくごして怨言ゑんげんなきはれいなり薄命はくめいたんじて死を定めしはゆうなり五常ごじやうの道にかなふ事かくの如く之に依て其徳行とくかうしやうして傳吉は領主より相當さうたう恩賞おんしやうあるべきむね別段べつだん遠江守へ仰せ付らるゝ間此旨留守居へ相心得あひこゝろえよと申渡す

傳吉妻   せん

其方儀貞實ていじつ信義しんぎ烈女れつぢよ民間みんかんにはまれなる者なり汝が貞心ていしん天もかんずる所にしてかくをつとが無實の罪明白に成事感賞かんしやうたへたりとて厚く御褒詞はうし有之

信濃國水内郡野尻宿            與惣次

其方せんが親と成り傳吉が無實むじつの罪を助けんとざいをしまず眞實しんじつの心より專を助け萬事に心添こゝろそへ致しつかはし候段奇特きどくおぼめさるゝ旨御賞詞ごしやうし有之

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞
同               百姓總代 勘右衞門

其方共是迄これまで傳吉の證人に相立あひたち御吟味ごぎんみの節申口へつらひなく正直に申上候段譽置ほめおく

斯の如く賞罰しやうばつ夫々仰せ付られ其日のちやうはてにける之より傳吉夫婦は晴天白日せいてんはくじつの身となりしのみか領主りやうしゆより帶刀たいたうを許され代々村長役たるべき旨仰付おほせつけられしかばよろこび物にたとへん方なく三浦屋の主人并びに井戸源次郎を始め其事に立障たちさはりし人々にあつく禮を述べ與惣次村役人同道どうだうなし目出度越後寶田村故郷こきやうへ立歸りしかば同村の人々は死せし者の蘇生そせいせし思ひをなし傳吉夫婦此度無實の罪は速にえ故郷へ歸りし祝也いはひなりとて村中の者をあつ饗應もてなしたり又郡奉行伊藤伴右衞門は討首うちくび川崎金右衞門小野寺源兵衞の二人は帶刀たいたう取上領内かまひの由夫々領主へ申付られけりかくて翌年一週忌しうきあたる頃は上臺憑司昌次郎うつせみ伊藤伴右衞門とかの馬丁等まごとうと惡人たりとも刀下たうかおにとなりしを深くあはれみ此人々の爲にそうを多くまねき同村の寺にて大法會ほふゑ執行とりおこなひ村中へは施行せぎやうをなし夫れより後傳吉は倍々ます〳〵其身をつゝしみ村人をあはれみければ一村こぞつて其徳を稱し領主よりも屡々しば〳〵賞詞しやうしかうふりける又野尻宿のじりじゆくの與惣次の實家は縁類えんるゐの者を以て養子となし其の身は傳吉方へ引取れ一生安樂あんらくすごしお專も其後子供幾多まうけければ傳吉が取計とりはからひにて實家森田やの家名かめい相續さうぞくなさしめ銀五郎と名乘今に繁昌はんじやうなしけるぞお早親子は年立て後上の大赦たいしやに逢ひ島より歸りしが傳吉之れもあはれみ厚く世話なせしに惡人あくにんのお早親子も傳吉がとくかんじ先非を悔悟くわいごすること少なからず終にあまとなり兩人共同村にて人々の菩提ぼたいとむらひ終しとかやこゝ不思議ふしぎなるは先年罪科に所せられたる上臺昌次郎が未だ梅と姦通かんつうせざる以前村中にふかちぎりし娘有りし所遂に姙娠にんしんなしたる儘親元へも掛合かけあひ出生しゆつしやうの子は男女にかゝはらず昌次郎方へ引取約束やくそくなりしが娘は程なく男子をうみたるも産後敢果なく成けるにぞ其親は娘の遺物かたみと生れし幼兒を昌次郎方へつかはさず養育やういくなしたるが此者商賣しやうばいの都合により江戸へ出其後たえ音信おとづれもなさざりしにさすが古郷こきやうのなつかしくや有りけんはからず此度越後寶田村へ立戻たちもどり住居をなせしにより此を傳吉は聞及び幸ひ上臺のいへ斷絶だんぜつなげく折柄故其男子に傳吉より憑司ひようじが田地の外に若干じやくかんの地をつかはし上臺の家を相續さうぞくなさしめける眞に傳吉が行ひは孝道かうだうと信義との徳にて無實の罪に落入おちいりたるも死をのがれ一生をさかゆる事天のめぐみとは云乍いひながら一ツには大岡越前守殿の明智めいち英斷えいだんるものなりともつぱ當時たうじ人々ひと〴〵うはさをなせしとぞ


越後傳吉一件

傾城瀬川一件

傾城瀬川けいせいせがは一件いつけん


第一回


 こゝ江戸えど新吉原町しんよしはらまち松葉屋半左衞門まつばやはんざゑもんかゝへ遊女いうぢよ瀬川せがはをつとかたきうちしより大岡殿の裁許さいきよとなり父の讐迄あだまでうち孝貞かうていの名をあらは而已のみ遊女いうぢよかゞみたゝへられそれため花街くるわ繁昌はんじやうせし由來をたづぬるにもと大和國やまとのくに南都なんと春日かすが社家しやけ大森隼人おほもりはいとの次男にて右膳うぜん云者いふものありしが是を家督かとくにせんとおもひ父の隼人は右膳に行儀ぎやうぎ作法さはふならはせんと京都へのぼ堂上方だうじやうかた宮仕みやづかへさせしに同家の女中ぢよちうお竹と云ふに密通みつつうなし末々すゑ〴〵約束迄やくそくまでして居たりしを朋友ほういうの中にも其女に心をかけ色々と云寄いひよりしが早晩いつしか大森右膳おほもりうぜんと深き中になり居ると云ふ事をきゝはなはねたましく思ひ其事柄そのことがらを主人へつげければ不義ふぎいへ法度はつとなりとて兩人共いとまとなりしかば右膳は女を親許おやもとよりもらうけ古郷こきやうの奈良へ連戻つれもどりしに父は大いに立腹りつぷくなし勘當せしかばやむず右の女と夫婦ふうふになり小細工こざいくなどしてくらせしに生質せいしつ器用きようにて學問も出來其上醫道いだう心懸こゝろがけも有りしゆゑ森通仙もりつうせんと改名し外科げくわもつぱらとしてかたはら賣藥をひさぎ不自由もなく世を送りし中女子一人をまうけ名をおたかとよびて夫婦の寵愛ちようあいかぎりなく讀書よみかき勿論もちろん絲竹いとたけの道より茶湯ちやのゆ活花等いけばなとうに至るまで師をえらみて習はせしに取分とりわけ書を好み童女どうぢよまれなる能書のうしよなりと人々も稱譽もてはやしけり此お高一たい容貌みめかたち美麗うるはしくして十五六歳になりし頃はたぐひなき艷女たをやめなりと見る人毎ひとごとに心をぞまよしけるうち近隣きんりんの社人玉井大學たまゐだいがくの若黨に源八と云者いふものありしが常々つね〴〵通仙つうせんの見世へ來てははなしなどして出入りしに此者このものいたつ好色かうしよくなれば娘お高を見初みそめ兩親の見ぬ時などは折々をり〳〵とらへ又は目顏めがほにて知らせけるに兩親は只一人の娘なればあしき蟲でもついてはならずと心をくばり母は娘のそばはなれぬやうにする故何分なにぶん云寄いひよる便たよりなく源八は種々しゆ〴〵心をつくしけるが或時あるとき下男の與八と云者いふものに酒を振舞ふるまひ小遣こづかひなど與へて喜ばせ聲をひそめつゝ其方そなたの主人の娘お高殿に我等われら豫々かね〴〵こゝろかくる所お高殿も氣のある容體ようすなれども御母殿おふくろどの猿眼さるまなこをして居る故はなし出來難できがたければ貴樣に此文をわたあひだ能々よく〳〵人目ひとめを忍びお高どのへ渡しいろよき返事へんじもらくれよ此事首尾よく行かばれいは何程もなさんといふに與八は大いによろこびお高殿も最早もはや十六なれば男にの有るは知れた事こと貴樣おまへの男ぶりなれば出來る事は此與八が請合也うけあひなりと文をあづかり歸りしが或日兩親の居ぬひまかんがへ右の文をわたしければお高は容體かたちを改め其方そなたは主人の娘にこひ執持とりもち爲事なすこと不埓ふらち千萬なりかさねて斯樣なる事をなさばためになるまいぞと嚴敷きびしくはづかしめて文をかへしけるに與八はあんに相違し大いにこまはてしが其儘そのまゝにも爲難なしがたければ早速さつそくに源八の方へいたり日頃は物柔ものやはらかなる娘故わけもなく出來樣できやうと存ぜしが大きな間違まちがひにて斯々の次第まことに御氣の毒千萬といひながら文を返しけるに源八は一かうはらをもたゝ否々いや〳〵まだ初戀はつごひのお高殿一度や二度では勿々なか〳〵成就じやうじゆすまじ氣永きながに頼むとて又々與八へさけさかななど振舞ふるまひ手拭てぬぐひ雪駄等せつたとうに至るまで心付或時は蕎麥そばなどくはせて頼みしかば與八は又々文をお高へわたし種々しゆ〴〵源八が戀慕こひしたふ樣子を物語りければお高は大にいかり文を投付なげつけ一言も云はずすぐに母へ右の事をはなせしにぞ父も此事をきゝ然樣さやうの者はいとまつかはすにしくはなしと與八へはながの暇を遣はし其後源八があそびに來りし時皆々折目高をりめだか待遇もてなしける故源八は手持てもち無沙汰ぶさた悄々すご〳〵と立歸り是は彼の文の事を兩親の知りし故なりとふか遺恨ゐこんおもひけり


第二回


 それひとの性は善なりと雖ども習慣ならひに因て惡となるといひまた衆生しゆうじやうは皆惡人なれど信心しんじんの徳に因て惡趣あくしゆはな成佛じやうぶつ得度とくどなすともいふ何樣なにさま善惡ぜんあく相半あひなかばすべし偖も源八は彼の與八に暇のいでたるは我故なり今は云寄いひよる手蔓てづるもなく成りしかば通仙夫婦の者に遺恨ゐこんはらさばやと思ひてひそか鹿しかを一疋殺し通仙がおもて建掛たてかけて置きしを夜中の事故一人も知者しるものなかりけり(南都にては春日かすが明神みやうじんあいし給ふとて古へより鹿殺しかころしとがおもしと云ふ)翌朝よくてう所の人々見付けて立騷たちさわぐ聲を聞き通仙の家内かない起出おきいでて見るに鹿のたふれて居る故早々さう〳〵町役人へ屆け奈良奉行へ檢視けんしを願ひ出でけるに通仙を呼出よびいだされ吟味ありしかどもとより知らざる趣き明白めいはく也然れども外に心當こゝろあたりの者やある種々しゆ〴〵尋問たづねらるゝと雖も一かう心當りもなしと申に奉行所に於ても其身が殺して己が家の前におくはずは無ければ通仙にあらぬ事は知れながら本人ほんにんいでざるゆゑ所拂ところばらひとなりしかば通仙は是非ぜひなく京都へ引越ひきこし苗字めうじ山脇やまわきと改ため以前の如く外科げくわを業とすれども南都とちがひ新規しんきの場所故何事も思はしからず漸々にほそけふりを立居たるに或日家内の者愛宕あたごへ參りける留宅るす盜人ぬすびと押入おしいり賣殘うりのこりし少しの道具を奪取うばひとられ彌々難澁なんじふせまり又々大坂へ立越たちこえしが左右とかく困窮こんきうに困窮をかさね終に通仙は病死し跡には母と娘のみ益々ます〳〵貧窮ひんきうに迫りしが當頃そのころ鯛屋大和たひややまと云者いふもの狂歌きやうかに名高く俳名はいみやう貞柳ていりうと云ひしが此者通仙と入魂じゆこんなりし故妻子の難儀を見兼ねて世話をなしける處あまさきの藩中に小野田幸之進をのだかうのしんと云人有りしが勘定頭かんぢやうがしらつとめ主用にて常々大坂へいで金談等きんだんとうも取扱ひし故貞柳も懇意こんいになり山脇が母子の樣子をはなし御家中内に相應さうおうの口も有らば御世話下されよ娘の年は十八にして容顏きりやう沈魚ちんぎよ落鴈らくがん羞月しうげつ閉花へいくわともいひつべき美人なりと申ければ幸之進も獨身どくしん者故大きにこのもしく思ひ我等最早もはや四十歳に近けれどもさきにて構ひなくば母子ともに引取妻に致さんと云ふを夫は重疊ちようでふ何分にも御頼み申とて引合ひきあはせしに大いに幸之進が心にかなひ母子共引取て大坂に差置さしおき不自由なき樣に金銀を送り半年ばかり世話せしにはや主人の供にて江戸へくだるに付き母子にも路金ろぎん并びに手形てがたを渡しあとより下り來るべしと申置きし故やがて支度を調とゝのへ東海道を下りかねて約束なれば深川の下屋敷へ到着たうちやくいたしけるに小野田は三年以前に先妻は相果あひはて子供もなく住居も下邸しもやしきの事なれば手廣てひろき暮しに付母娘共大きに安堵あんどして幸之進を大切に待遇もてなしけり夫より又半年程經過たち主用にて又々大坂へのぼり尼ヶ崎へも立寄たちよるべき事有りて金四百五十兩をあづかいそぎの旅なれば駕籠かごより乘掛のりかけが宜しと供人もわづか引連ひきつれてぞ登りける


第三回


 偖も小野田幸之進は主命によつて江戸屋敷を出立なし大坂へとおもむ途中とちう箱根も打越うちこえて江尻へとまり急ぎの旅なれば翌曉よくげう寅刻頃なゝつごろに出立しけるが江尻宿をはなれて十町ばかり野合のあひへ掛る處へ向ふより二人の旅人とほかゝり幸之進が馬のわきを行違ふ時拔手ぬくても見せず右の片足をばつさり切落きりおとしければ幸之進はアツトさま馬より落る處をおこしもたてず突殺す故馬士まご仰天ぎやうてんなしにげんと爲すを一人の旅人飛蒐とびかゝつて是をも切殺すに供の男は周章狼狽あわてふためきあとをも見ずして迯歸にげかへりける故やがて盜賊は荷繩になはとき明荷あけにの中に在りし金四百五十兩并びに幸之進が胴卷どうまきの中にありし二十兩餘りの金と大小だいせう衣類迄いるゐまで奪取うばひとり行衞も知れず迯去にげさりける依て彼の供人は江尻宿へ引返ひきかへし宿役人へことわおき死骸しがいを改め飛脚ひきやくを以て江戸表へ注進ちうしんなしなほまた其身も立歸りてくはしく申立てければ大守たいしゆよりは公儀へ御屆けの上死骸は引取られしが大守は大いにいかられ武士たる者一太刀もあはせず殺されて用金をうばひ取られし事他聞たぶんも宜しからず當家の恥辱ちじよくなりとて改易かいえき申付られ尤も憐愍れんみんを以て家財は家内へ與へられたれば通仙が後家ごけお竹并びに娘お高はやしき追拂おひはらはれ富澤町に若松屋金七と云者いふもの幸之進と入魂じゆこん故此者の方へ引移ひきうつり世話になりけるが如何なる過去くわこの因縁にや漸々小野田が方へ縁付安堵あんどせしに間もなく又もや思ひの外の災難さいなんにて再び流浪るらうの身となり親子涙のかわひまなき所に廿日ばかりたつうち近所きんじよより出火と云程いふほどこそあれ大火となり若松屋金七も類燒るゐせうしければ是までの如くは勿々なか〳〵世話にも成難なりがたく如何はせんと思ひし折柄をりから竹本君太夫と云ふ淨瑠璃語じやうるりかたり金七が上方かみがたに在りし頃よりの知己ちかづきにて火事見舞に來りしを幸ひ小野田が後家の身の上をたのみければ君太夫も大坂者ゆゑ一しほ思ひり夫はさぞ御難儀なるべし片田舍かたゐなかなれども當分御凌おしのぎに淺草今戸の町へ御越おこしあれとて荷物を運送はこば引移ひきうつらせけるに日數ひかずたつしたがひお高は熟々つく〴〵思ふ樣幸之進殿盜賊の手にかゝはて給ひしはさぞ御無念ごむねんおはすらん殊更ことさら武士に有るまじき事と諸人しよにんわらはれ給ふ事如何にも口惜くちをしき次第なり我も女には生れたれどもかたき討取うちとり幸之進殿に手向たむけまゐらせたし一ツには行末ゆくすゑながき浪人の身の上母公の養育にもさしつかへるは眼前がんぜんなり且敵をさぐるに女の身なれば多くの人に交際まじはるには遊女に如事しくことなし彼のせつ幸之進殿所持しよぢせられし大小印形に勿論もちろん衣類紙入胴卷どうまきは妾がぬひたれば覺えあり是を證據に神佛へちかひを掛け尋ね出し敵をうたで置くべきやと一心をこめて君太夫にむか其許樣そのもとさまには常々吉原へ入込いりこみ給へば私しの身を遊女になさ代金しろきんにて母の身の上を御世話下され度何分なにぶん宜樣よきやうに御取計ひ給はれと頼みければ君太夫感心かんしんは爲すものゝ又あはれをもよほまことに驚き入たる御志操おこゝろざしなれども夫よりは貴孃あなた御縹緻ごきりやうなれば御縁の口は何程も有るべし我等かねたのみおきたればまづまち給へと云ふにいな縁付も氣兼きがねが否なれば氣樂きらくに遊女奉公を勤度つとめたししひて望むによりもとより吉原は心安き所故松葉屋半左衞門方へ相談さうだんしけるに縹緻きりやうと云ひげいと云ひ殊に歳頃も彼の望む處なればねんぱい二十八までのつもりにて目見しけるに大いに心にかなひ身代金百五十兩と取極とりきめ君太夫が請人うけにんにて母の爪印つめいん相濟あひすみ新吉原松葉屋半左衞門方へぞいたりける


第四回


 然程さるほどに新吉原松葉屋にては彼のお高をかゝへ樣子をみるに書は廣澤くわうたくまなこと生田流いくたりう揷花いけばなは遠州流茶事より歌俳諧はいかいに至るまで是を知らずと云ふ事なくこと容貌ようばう美麗うるはしく眼に千金の色をふく物事ものごと柔和やはらかにして名にし負ふ大和詞なればひとあいありて朋輩ほうばいの中もむつましく怜悧れいりゆゑわづかの中に廓言葉さとことばそと八文字の踏樣迄ふみやうまでも覺えしかば松葉屋の喜悦よろこび大方ならず近き中に突出つきだしにせんとて名をえらみしに初代の瀬川は大傳馬町の或大盡あるだいじん根引ねびきせられ其後名をつぐほどの者なければ暫くたえたれども是迄瀬川にならぶ全盛なし今度このたびかゝへしお高は元の瀬川にすぐれるともおとるまじとて瀬川と名を付け新造禿迄かぶろまでえらび突出しの仕着しきせより茶屋々々の暖簾のれんに至る迄も花々敷吉原中大評判おほひやうばんゆゑ突出つきだしの日より晝夜ちうやきやくたえる間なく如何なる老人みにくき男にても麁末そまつに扱はざれば人々皆さきあらそひ入り來る故實に松葉屋の大黒柱だいこくばしら金箱かねばこもてはやされ全盛ぜんせいならぶ方なく時めきけるうちはや其年も暮て享保七年四月中旬なかば上方かみがたの客仲の町の桐屋きりやと云ふ茶屋より松葉屋へあがりけるに三人連にて歴々れき〳〵と見え歌浦うたうら八重咲やへざき幾世いくよとて何も晝三ちうさん名題なだい遊女をあげ廿日程の中に十四五日續けて來りしにいつも二日づつは居續けに遊びしが或時遣手やりて若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して當分たうぶん上方かみがたへは歸らぬつもり上方より御當地は勿々なか〳〵面白おもしろく來年にならば古郷は親類にあづけ江戸住居えどずまひに致さんと思ふなり夫に附て在所へ金五百兩程とりつかはしたりいまこゝには少しなれども四百兩有れば五六日御亭主へ預けたし其仔細そのしさいは我々江の島鎌倉へ參る間道中だうちう邪魔じやまになる故預けて行きたし頼み入と申ければ若い者遣手やりて詞をそろへ御茶屋へ御預けなさるゝは格別かくべつ此方にては御預かり申まじと云ひけるには大いに道理だうりなり茶屋へもはなし其の上にて預け申さん御亭主へ相談さうだんして給はれと申故松葉屋にても如何樣いかさま上方の大盡なるべしと茶屋をよび右の話をなしたるに上方の衆は關東者とちがねんいれ候へば物をかたくする心ならんとて松葉屋桐屋共に立出たちいで對面たいめんに及びしかば大金をいだし五六日預かり給はれといひしに桐屋の亭主其御金は御宿おやどへ御預けなされては如何に候やと云ふに彼の客然れば宿は懇意こんいの者ゆゑ金銀をつかふ事を異見いけん致せば預ける事かなひ難し其譯そのわけは金を遣ひなくしたりといつはり又々五百兩程在所ざいしよへ取りに遣はしたれば此金は見せ難しとの口上こうじやうゆゑ松葉屋桐屋は金を遣はせるが商賣しやうばひに付き然樣さやうに候はゞ御預り申さんと云ふを客はねんため御兩所より一札を申うけ我々も念の爲預けたる證文を入れ申さんとすゞり取寄とりよせ一札を記載したゝめ三人の名の下へ印をすゑて預りの一札と引換ひきかへになしもとより急がぬ旅なれど日和ひよりを見定め出立致さん夫迄は遊び暮すべしとてなほにぎしくぞ居續ける其日はゆふ申刻なゝつ時分じぶんにて瀬川がひるの客も歸り何か用の有りとて内證ないしようへ行きしに右の一札を女房に讀聞よみきかせ居たるを何心なくちらりと見るに見知りたる書體しよていと云ひ夫幸之進が印形にたる故主人よりりて熟々よく〳〵見るに田原源八小笠原佐七後藤平四郎と云ふ名前にてをつと印形いんぎやうは平四郎と云ふ名の下におして有り偖は此者こそ本夫をつとを殺したる者なるべけれと思ひ此人は何屋なにやより送られし客人なるやと聞けば女房こたへて夫は桐屋からの客人なり金を四百兩預けられしがいづれも歴々れき〳〵の人ならんと云ふをそこ〳〵にきゝなし我が部屋へやいた身拵みごしらへして新造禿を引連兵庫屋へゆく中桐屋へ立寄たちより歌浦さんの御客は上方の衆かととへば女房とんいで御前樣の御言葉おものごしよく御出おいでなさると云ふを聞き三人ながら上方かみがたばかりか江戸の衆も一座かととふに御三人とも大津おほつとか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷をかくして大津と僞りしならんと思ひもしや知つた御方なるか三人のこしの物を見せてと云ふに女房は何の氣もつかず出して見せれば平四郎と云ふ者の脇差わきざしまがふ方なきをつと幸之進が差料さしれうなり印形と云ひ脇差わきざしと云ひ敵は平四郎にきはまつたりと思ひ其平さんとやらの女郎衆はととへ八重咲樣やへざきさまと云ふを聞きあらぬていに其所を立出兵庫屋迄行きしが急病と僞り先松葉屋へ立歸りて心靜こゝろしづか身拵みごしらへなしそつと歌浦が座敷をうかゞふに彼の三人は有頂天うちやうてんに成りて遊び戯ふれ居しが其中の一人はかねて知りたる源八なり是は歌浦が客と聞きもとより心立こゝろだてあしき源八にて兩親のうき苦勞くらうし給ふもかれゆゑとは思へども敵にも有らぬ者を殺してはすまず印形と脇差わきざしが證據なれば平四郎こそ幸之進が敵なりと思ひ定めて座敷のひけるを待居まちゐたり


第五回


 はや其夜もすで亥刻よつどき過皆々とこへ入たる樣子やうすにて座敷々々ざしき〳〵しんと成ければ瀬川せがは用意ようい短刀たんたうかくもち八重咲やへざきの座敷へゆき八重咲やへざきさん〳〵とよぶ八重咲やへざきは何のつかずアイとこたへて廊下らうかへ出るをなにか用をたのみ外へ遣置やりおき急立せきたつこゝろしづめて覗見のぞきみるにへい四郎は夜具やぐもたれて鼻唄はなうたうたひ居るにぞよく御出おいでなんしたと屏風びやうぶの中にいりぬしに御聞申事がある布團ふとんの上へあがりけれどもなんの氣もつかところをつとかたきおぼえたかといひさま彼の懷劍くわいけん胴腹どうばら突込つきこみしかばへい四郎はアツトこゑたて仰向のつけたふれ七てんたうなすゆゑ隣の座敷ざしきは源八歌浦うたうらなれば此聲このこゑおどろ馳來はせきたるをおのれもにがさぬぞとげん八へ突掛つきかゝるに源八はおもひも寄ぬことなればおどろ周章あわてみぎの手をいだして刄物はもの挈取もぎとらんとせし處を切先きつさきふかく二のうで突貫つきとほされヤアと躊躇たちろくすかさず咽喉のどもと突貫つきとほさんとしけれども手先てさきくるひてほゝより口まで斬付きりつけたり源八もだえながら顏を見ればおたかなりしにぞ南無なむ三と蹴倒けたふして其所そこ飛出とびいだつれ七とともあとをも見ずして迯行にげゆきけり然ば松葉屋まつばやの二かい天地てんちくつがへるばかりのさわぎになりあるじ半左衞門はんざゑもんを始として皆々みな〳〵かいかけ來り見るにへい四郎はあけそみ苦痛くつう有樣ありさまにのた打廻うちまはかたはらに瀬川せがは懷劔くわいけん逆手さかてもちまゝうしなひてたふたりしかば是は何事なにごとならんと氣付きつけあたへて樣子やうすきく敵討かたきうちなりと申ゆゑ半左衞門はんざゑもんおほいに驚き早々さう〳〵町役人ちやうやくにんまねき相談に及ぶうち若松屋わかまつやきん竹本君太夫たけもときみたいふならびに瀬川の母も駈來かけきた皆々みな〳〵樣子やうすを聞て天晴あつぱれ手柄てがらなりとよろこびしがつれの二人をにがしたること口惜くちをしと云に半左衞門はんざゑもん否々いや〳〵事故わけもなくころさばつれの二人が一のがるゝはずなし何か身におぼればこそ姿すがたかくせしとえたりといふうちはやも明渡りしかば早速さつそく町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿ゑちぜんのかみどのうつたへ出けるに檢使けんしの者來りてきずあらた手負ておひの者に樣子やうすを聞共一かう言舌ごんぜつわかかね宿やども知れざれば其儘そのまゝ手當てあてをさせおき瀬川せがは口書くちがきを取て檢使けんしは立歸りみぎおもむき申立しに大岡殿おほをかどのにげたる手負ておひ深手ふかで淺手あさてかとたづねらるれば二のうでふかかほきずすこしならんと瀬川申候といふを聞れ偖々さて〳〵をんなには落付おちつきたるこたへなり市中廻しちうまはりの者に下知げぢなしきず證據しようこ召捕めしとり候へと申わたされそれより瀬川せがは并に母おたけ請人うけにん君太夫きみたいふ松葉屋まつばや桐屋きりや以下いか呼出され瀬川の本夫をつとと云は何者なにものなるやと尋問たづねらるゝに瀬川はつゝしんでかうべあげもとあまさき藩中はんちう小野田幸之進をのだかうのしんと申者にて主用しゆよう有之これあり上方へのぼり候とき江尻宿えじりじゆくにて盜賊たうぞくの爲に切害せつがいあひ主人の金四百五十りやうならびに其身用意よういきん二十りやう衣類いるゐ大小までうばひ取られ家も斷絶仕だんぜつつかまつりしのみか盜賊たうぞくの爲に殺害せつがいいたされしは武士の恥辱ちじよくとて一家中幸之進かうのしんうはさ以てのほかよろしからず如何いかにも口惜くちをしぞんじ候まゝ神佛へちかひかけやうやく敵をうちて候と申立しかば大岡殿不審ふしんに思はれ其方敵の面體めんていかね見覺みおぼえ居たるや覺束おぼつかなしと有しに瀬川せがは其事そのことは上方のきやく三人半左衞門へ金四百兩あづけ候とて證文しようもん取替とりかはせしに後藤ごとうへい四郎と申名の下におしたる印形いんぎやうは幸之進の實印に相違さうゐなく然れどもそればかりにてさだがたしとぞんじ茶屋ちややまゐこしの物をあらため見候に本夫をつと脇差わきざし所持しよぢ致し居に付彌々いよ〳〵敵に相違さうゐなしとぞんじ討果うちはたして候とこたへるを大岡殿おほをかどのかれ何樣道理もつともなる申分なり然ど今一人に斬付きりつけたりとあるは是も敵なりやとたづねらるゝに瀬川せがはいな其者はげん八と申て同郷どうがうの者にてわたくしへ不義ふぎを申掛候而已のみならずわたくし親どもへもはなは迷惑めいわくを掛一たい志操こゝろざしよろしからぬ者に付同惡とぞんじこと仇討あだうちせつさまたげ致し候故是非ぜひなくきずを付候と申ければして又其方敵討かたきうちいたさん爲に遊女奉公ほうこうつとめしや外にいは有歟あるかとはるゝに瀬川せがは其儀は御覽ごらんの通りの老母らうぼ一人有之これあり君太夫きみたいふとても永々なが〴〵世話せわ相成あひなり居も心苦しく又金七と申者も火難くわなんあひどくに候故相談さうだんの上遊女奉公仕ほうこうつかまつり其金を以て母の養育やういくに當候と少しもとゞこほりなく申立るてい如何にも誠心せいしんに見えければ大岡殿おほをかどの大いに感じられ其方事女にはまれなる志操こゝろざしなり追々おひ〳〵取調とりしらつかはさんとて一けん相濟迄あひすむまで瀬川は主人しゆじんあづけ申つけられ皆々下られけり夫より大岡殿おほをかどの源八七が人相にんさう疵等きずとうを證據に役人に申付られ江戸えど近在迄きんざいまで探索たんさくあると雖も一かう行方ゆくへしれざりけり


第六回


 大岡殿或時あるとき役人をよば瀬川せがはけんの盜賊共數日になれども更に行方ゆくへ知れずよつて其方共名主なぬしかゝり江戸中の外療醫ぐわいれうい吟味ぎんみして見よ似寄によりの者あるべきぞと指揮さしづありしに付八方へ分れて名主なぬしへ掛り外療醫者を呼出し取調とりしらありしに一かう右體の怪我人けがにん見當らざるよしを申により又外々の名主へ掛り尋けるに下谷したや廣小路ひろこうぢ道達だうたつとて表へは賣藥ばいやく見世みせを出しおき外療醫ぐわいれういをなす者の申口に當月廿二日の夜丑滿頃うしみつごろさふらひ體の者二人をこぢ明て入來り一人は拔身ぬきみもち一人は私しをとらへて此きず療治れうぢいたせ然もなくば切殺きりころすと申候につきよんどころ無療治れうぢ致し膏藥かうやくつかはし候處本復ほんぷく次第しだいに禮すると云て行方も知れず出行候と申ければ役人やくにん住所は何處とも云ざりしかと問ふに道達だうたつ夜中に押込おしこみほどの者共に候へば一かうや所は申さずとこたふるにぞ大概おほかた其者ならんと思へども手きずは何方なりやとたづねるにほゝよりくちまで一ヶ所二のうで四寸ばかり突疵つききず之あり兩處りやうしよともにぬひ候と申ければ夫にて分明わかりたりとて其段そのだんたてしかば大岡殿どの暫時ざんじかんがへられ非人小屋ひにんごや又は大寺のえんの下其ほか常々つね〴〵人のすま明堂あきだうなどに心を付よと申わたされしに付役人は八方にまなこくばり諸所をたづねしに一かうれざりしが原田平左衞門と云市中しちう廻の同心どうしん或夜亥刻よつどきすぎ根津ねづの方よりかへかけいけはた來懸きかゝりしに誰やらん堀をこえかきを乘越て上野の山内へ入者いるものありしかば大いにあやし田村權右衞門たむらごんゑもんへ申斷り内密ひそかに清水門より入りて見廻けるに夫ぞと思ふこともなけれど中堂のえんの下何となく怪し氣に思はるゝゆゑ傍邊かたはらへ身をひそめてうかゞひ居たりしにやゝ夜の子刻こゝのつころとも覺しき頃散々ちら〳〵と火のひかりえたりしが忽ちきえし故彌々いよ〳〵心をしづめてうかゞひたればたばこの火にやありけん折々をり〳〵えてはきえるにぞ是は曲者にうたがひなしとすぐに供の者を使につかはし奉行所に通じければ直樣すぐさま捕方の者駈來かけきたりしがいまだは明ざるにつき四方へ手配てくばりをなし山同心をも借集かりあつめて取卷せ夜明方に原田平左衞門はらだへいざゑもんはじめ踏込ふみこみるに夜具やぐあたゝかにて二人ねむり居る故是程のさわぎを知らざるは餘程よほど寢惚ねばうなるか腰が拔たるかと同心上意じやういと聲かけ飛掛とびかゝつて捕るに驚き漸々やう〳〵目をさましけるを矢庭やにはに二人とも生捕いけどり引立ひきたてしは心地よくこそ見えたりけりよつて二人とも入牢申付られしが吉原にあり手負ておひの平四郎は四日相果あひはてし故檢視けんしつかは死骸しがいは小塚原へすてべきむね申渡されけれ共内々松葉屋まつばやよりはうふりけるとかや


第七回


 然程に上野中堂に於て召捕めしとられたる曲者二人を引出ひきいだし調べられしに瀬川せがはが申立し人相并に疵所等迄きずしよとうまで相違なき故大岡殿どの曲者にむかはれ其方ども上野うへの中堂のえんの下に隱住かくれすむ事何故なるや有體ありていに申立よと有に兩人共一言の返答へんたふも出來がたき有樣にて俯伏うつぶしるを重ねて其方共夜中廣小路ひろこうぢ醫師いしや道達だうたつ方へ押込刄物を以ておど療治れうぢいたさせ上野にかくれ住は身にくらき處有故ならずや白状はくじやうせず共此科このとがよつて首はなきものと心得よよつては南都なんと以來の舊惡きうあくのこらず白状致せもなき時は嚴敷きびしく拷問がうもん申付る苦痛くつういたすは死する身にそんなるべしと申さるゝにげん八佐七の兩人かうべを上我々は上方者にて御當地ごたうちに知人もなくやむ事を得ず御山内に住居仕すまひつかまつり候と申立るを大岡殿どの呵々から〳〵と笑はれ白痴たはけめ知人なしとて宿屋もあり汝等なんぢらが罪は明白にれて居るぞ江尻えじりに於て小野田幸之進をのだかうのしんを殺し四百五十兩の金其外金銀衣類大小を奪ひ取たる事松葉屋まつばやの二かいにて平四郎手負ておひながら白状はくじやうに及びことに源八は本人なりと申たりサア未練みれんらしくかくすなと申されしかば兩人共一言のこたへもなく居たりしかば大岡殿どのことばやはらげられ能々よく〳〵うけたまはれ只今たゞいまも申通り其方共の大罪はれて有共白状せぬ中は御仕置おしおき申付ざる事法令なりよつ只今たゞいまより拷問がうもん申付る夫よりいさぎよく白状して最後さいごきよくせよかりにも帶刀たいたうせし者は夫丈に名をきよく致せと云れけるに源八は覺悟かくごをせし樣子やうすにておほせの如く我々白状致すべし先第一は南都なんとに於て大森通仙おほもりつうせん娘お高に戀慕れんぼいたし戀のかなはぬ意趣いしゆに鹿を殺し通仙つうせんの家の前へおきしにより通仙は奈良なら追拂おひはらはれ京都に住居すまひの時留守宅るすたくへ忍び入衣類をうばひ取大津おほつ立越たちこえ賭博をうち佐七平四郎と兄弟分になり上方かみがたより東海道とうかいだうかせぎ折々をり〳〵は江戸へも立出候處あまさき家中の侍士さふらひ金用にて出立と馬士まごの咄を耳にはさみ神奈川より付て參り江尻えじりに於て其侍士さふらひを切殺し金銀きんぎん諸品しよしなうばひ取候と申立ければいさぎよき白状神妙しんめうなり又幸之進かうのしんを殺せしはたれにて馬士まごを殺たるは誰なるやとたづねられしに幸之進を殺たるはわたくしにて馬士を殺し候は平四郎なりと申故シテ松葉屋へ金を預けんとせしは如何なる故ぞと有に源八其儀そのぎは私し共を確實たしかに見せ置松葉屋の案内あんない大方見定みさだめ候間同家の金銀奪取うばひとらん爲故と金子をあづけ候と一々白状に及びしかば是にて落着致し五月九日吉原町引合の者并にあまヶ崎の城主松平縫頭殿まつだひらぬひのかみどの留守居等るすゐとう殘らず呼出され大岡殿どの右留守居にむかはれ先年江尻宿えじりじゆくに於て松平縫殿頭家來小野田幸之進おのだかうのしんと申者盜賊に切害せつがいせられ金銀をうばひ取れたる由今度其盜賊たうぞく取押へし處みぎ殘金有之と雖も其せつどゞけ出之なきに付公儀こうぎへ御取上に相成間其段心得られよと申渡され留守居は恐入かしこまり奉つると云て立歸る次に瀬川せがはと呼れ其方夫にてうけたまはれとて源八佐七南都なんと以來いらいの事共今一おう申立よと云れし時兩人委細ゐさい白状なせしかば各々おの〳〵大いに驚きかんじける時に瀬川はつゝしんでひざすゝめ扨は源八こそ親夫の敵にて有しを討止さりし事口惜く候と申立るを大岡殿どの否々いや〳〵源八を殺せば事故こと明白にわからず源八存命ぞんめい故に委細ゐさい分りしなりことに少々にてもきずを付たれば敵を討しも同前知れがたき惡人共我手に入しは公儀こうぎへの御奉公ごほうこう親のあだのみならず本夫の敵まで討たるは忠孝貞とそろひし烈婦れつぷと云べし吉原町はじまりしより以降このかた斯る遊女有べからずと賞美しやうびありしかば瀬川は云もさらなり抱へ主松葉屋までも面目をほどこし其外聞居たる公事訴訟人迄くじそしようにんまでかんぜぬ者ぞ無りけるさてまた源八は打首うちくびの上獄門ごくもん佐七は遠島ゑんたう申渡されしとぞ


第八回


 此時大岡殿どの松葉屋半左衞門はんざゑもんと呼れ其方ぞんぜぬ事とは申ながら盜人の金をあづかりしは不屆ふとゞきなり又瀬川事遊女奉公ほうこう御免ごめん仰付おほせつけらるゝ同瀬川の身の代金しろきん只今たゞいまより後の所存しよぞんたるべし尚又存寄有ぞんじよりあるやと尋らるゝに半左衞門つゝしんで首を上敵討つかまつり候程の孝心なる瀬川せがは何とてつとめをさせおき候はんや殊更渠等白状のおもむきにては私し方へ押入おしいり盜み致す所存しよぞんの由盜難たうなんを遁れ候も全く瀬川のはたらきに候へば然のみそんも之なく且又私しかゝへの遊女敵討つかまつりしと申事外聞もよろしく旁々かた〴〵以て一向に申分御座なく候と申により神妙しんめうなりと有て盜賊よりあづかりし金四百兩は取上の上富澤とみざは町金七淨瑠璃語じやうるりかたりきみ太夫へ渡され其方共瀬川せがは親子の者を世話せわ致し候段奇特きどくなり瀬川事討がたき讐を討其手筋てすぢにて科人相知れ其身の本望ほんまう公邊かみへの御奉公神妙しんめうに思召幸之進かうのしん取れ候金子きんすの中四百兩相殘あひのこり候に付瀬川へ下さるゝ間はゝ諸共流浪るらう致さぬ樣取計らひつかはせと申渡され皆々みな〳〵有難ありがたき旨之を申喜悦よろこびいさみて下りけり依て瀬川せがはが評判江戸中鳴渡なりわたり諸方よりもらはんと云者數多あまたあれ共當人たうにんは是を承引うけひかず今迄の難澁なんじふとても世に云苦勞性くらうしやうなるべし遁世して父と夫のあととふらふこそ誠の安樂あんらく成んとて幡隨院ばんずゐゐんの弟子となり剃髮ていはつ染衣ぜんいに状を變名を自貞じていと改め淺草あさくさ今戸にいほりを結び再法庵さいほふあんと號し母諸共におこなひ濟し安く浮世をすごせしとかやいほりの壁に種々いろ〳〵和歌わかありけるが其中に

いけみづに夜な〳〵かげうつれども水もにごらず月もけがさず

其次三代の瀬川も名高き遊女いうぢよ成しが丁字屋ちやうじや雛鶴ひなづるとは常々心安かりしに身請せられし時の文に

うけたまはり候へば此廓このさとの火宅を今日しも御放おはなれ候てすゞしき方へ御根引おねびきはな珍敷めづらしき新枕にひまくら御羨敷おうらやましきは物かはことに殿にはそもじ樣はつち陰陽いんやうを起しやうやうにして一しやうやしなふを云おもてにん養育やういく萬人にかしづかれ給ふと御頼母おたのもしくも愛度めでたく鳥渡ちよつとうらなまゐらせ候あなかしこ

松瀬 より
丁雛樣 御もとへ

其後寛政の頃三代目の瀬川は或大諸侯あるだいしよこうの留守居に身請みうけせられしが其人主人のかねつかすご閉門へいもん申付けられしに瀬川せがはは隙を見て遁亡かけおちしければ彼の留守居るすゐは瀬川故になんを受しに瀬川はわれすてて遁しこそ遺恨ゐこんなれと自殺してせしとぞ又瀬川は年頃云交いひかはせし男と連副つれそひしに何時となく神氣しんきくるひ左右の小鬢こびんに角の如きこぶ出來し故人々彼の留守居るすゐ執念しふねんにてや有んと云しが何時いつしか人の見ぬ間に井戸ゐどへ身をなげ空敷むなしくなりたりけりあんずるに鬼女の如き面體めんていになりしをはぢて死にけるかたゞし亂心にや一人はすゑに名を上一人はすゑに名をけがせりと世に風聞さたせしとなん


傾城瀬川一件

畔倉重四郎一件

畔倉重四郎あぜくらぢうしらう一件いつけん


第一回


 じんは以て下にあつけんは以てもちゐるにたるくわしてゆるめずくわんしてよくだんずとされば徳川八代將軍吉宗公の御治世ぢせい享保年中大岡越前守忠相殿たゞすけどの勤役きんやく數多あまた裁許さいきよ之ありしうち畔倉あぜくら重四郎ぢうしらう事蹟じせきたづぬるに武州埼玉郡さいたまごほり幸手宿さつてじゆく豪富がうふの聞え高き穀物こくもつ問屋とんやにて穀屋こくや平兵衞と言者あり家内三十餘人のくらしなるが此平兵衞は正直しやうぢき律儀りちぎ生質うまれつきにて情深なさけぶかき者なれば人をあはれたすくることの多きゆゑ人みな其徳そのとくしたうやまひける然るに夫婦の中に二人の子供こどもありて長男ちやうなんは平吉とて二十一歳いもとをおなみと呼て十八歳なるが此お浪は容貌かほかたちしうすぐれて美麗うつくしき上氣象こゝろだて優美やさしければ兩親ふたおや愛情いつくしみも一方ならず所々しよ〴〵方々はう〴〵より縁談えんだんを申入るゝ者多かりしが今度このたび同宿どうしゆく杉戸屋すぎとやとみ右衞門が媒人なかうどにて關宿せきやどざい坂戸村さかとむらの名主是も分限ぶんげんの聞えある柏木庄左衞門かしはぎしやうざゑもんせがれ庄之助に配偶めあはせんとてすで約束やくそくとゝの双方さうはう結納ゆひなふをも取交とりかはせしかば兩親ふたおやよろこび大方ならず此上は吉日をえらみ一日も早く婚姻こんいんをさせんといそぎしが庄左衞門方に當時少々の差合の出來できしにより當暮たうくれにと相談さうだんきまもつぱら其支度にぞ及びけるこゝに又有馬玄蕃頭殿げんばのかみどのの浪人畔倉重左衞門と言者あり其悴を重四郎とよび今年ことし二十五歳にて美男びなんいひこと手跡しゆせきよく其上劔術早業はやわざの名を得し者なるが父重左衞門より引續ひきつゞき手跡の指南しなんをして在ける故彼の穀屋平兵衞の悴平吉も此重四郎にしたがもつぱ筆道ひつだうを學びしかば平兵衞はじめ家内の者迄重四郎を先生々々といと叮嚀ていねい待遇もてなしうやまひ居たり或時みせ若者等わかものら打寄うちより彼の先生には劔術けんじゆつ早業はやわざたつし給ふと承まはり候が我々も親方の用事ある時は金子きんすもつ野道のみち山路やまみちは云も更なり都合つがふよりてはあさほしいたゞくれには月をふん旅行りよかうなす事往々まゝあるにより先生をたのみ劔術をまなびなば道中するにも心強くかつ賊難ぞくなんふせぐ一端共成事なれば此趣きを旦那だんなへ願ひ見んとて一同より平兵衞へかくかたりしに平兵衞も道理もつともと思ひ夫は隨分ずゐぶんよき事なればかく其方達そなたたち隨意ずゐいに致すべしとゆるされしにより若者等わかものらは大に悦び早速さつそく重四郎の方へ到り此趣きを只管ひたすらたのみしに重四郎もいなみ難く承知せしかば此より畔倉を師匠ししやうとして主用のひまには劔道けんだうをぞまなびける是に因て重四郎も毎度穀屋こくやへ出入致しける處に主平兵衞は殊の外圍碁ゐごこのみて相應に打けるゆゑ折々をり〳〵は重四郎をの相手となせしを以て重四郎は猶も繁々しげ〳〵出入なし居しが偶然ふと娘お浪の容貌みめかたちうつくしきを見初みそめしより戀慕れんぼじやう止難やみがたく獨りむねこがせしがいつそ我が思ひのたけを云送らんと艷書ふみに認め懷中しつゝ好機よきをりもあらばお浪に渡さんものと來るたびごとうかゞひ居けれ共其ひまのあらざればむなしく光陰つきひ打過うちすぎうち或時重四郎又入り來りけるに平兵衞は相手ほしやと思ふ折柄をりからなれば重四郎殿よくこそ御入來ごじゆらいありしぞ率々いざ〳〵一石參らんと碁盤ごばん引寄ひきよせ重四郎を相手あひてかこ茶菓子ちやぐわしなどを出して饗應もてなしけれども心こゝあらざれば見れども見えずの道理だうりにて重四郎はお浪にのみ心をうばはれ居たりしゆえうついしにはとまらず初めのもろまけけるに平兵衞は大に悦びて手水てうずたちしを重四郎はこれさひはひと娘の部屋へやのぞき見れば折節をりふしお浪はたゞひと裁縫ぬひものをなし居たるにぞやがくだんのふみを取出しお浪のそでそついれ何喰なにくはかほをして元の座になほり早々歸らんとせし所へ平兵衞來り今一せきと望みけるにより又々一石うちをは挨拶あいさつもそこ〳〵にいとまを告て立歸り今日こそ我が思ひのたけをつうぜしからは如何なる返事へんじをなすやらんと一時千しうの思ひにて待居まちゐたり却つてとく娘お浪は重四郎がそでへ入しはなにやらんと出し見ればあにはからんお浪樣參る御存じよりと認めたる艷書ふみなりしかば大いに驚き少間しばし茫然ばうぜんとして在けるがやゝあつて心を定め乳母うばに相談せんものとひそかに乳母を呼て彼の艷書ふみふうの儘に見せければ乳母は大いに打驚き是は此儘に捨置難すておきがたし旦那樣へ御見せ申さんとて立んとるをお浪は引止ひきとめ否々いや〳〵あの重四郎樣は兄樣のお師匠ししやうなれば此事父上の耳に入る時は元來もとより物固ものがたき父上ゆゑもし手荒てあらきことのありもせば兄樣に對し云ひわけなし又重四郎樣へもどくなり外に思案をしてたもれと言れて乳母うばにもと思ひしばし工夫にくれたり折柄をりから媒人なかうどの富右衞門來りしによりこれさいはひと乳母は彼の艷書を出して富右衞門に見せければ元來篤實とくじつの富右衞門なれば以ての外に驚き是は等閑なほざりに致し難しと言つゝ此事を主人平兵衞にはなしけるに平兵衞は是をきゝ烈火れつくわの如くいきどほりにつくき重四郎が擧動ふるまひかな娘と不義せしなどと沙汰ある時は家にきずを附るの道理だうりなり此上は重四郎を寄附よせつけぬ事こそ肝要かんえうなれと早速番頭を始め皆々へ重四郎は斯樣々々のわけあるゆゑ足をとほくする樣此後は店へ來る共あまり心安く致すべからずと申し付て後來のちをぞいましめ置たりける扨又重四郎は一兩日すぎて色よき返事を聞んものと穀屋こくやへ來りれいの如く店へ上りて種々いろ〳〵はなしなどなしけれ共小僧を始め一かうかまひつけず茶も一ぱい出さずして何か不興氣ふきようげの樣子なれば重四郎は手持てもちあしく平吉殿は如何いかゞされしやとおくとほらんとするを番頭ばんとう押止おしとゞめ今日は主人も平吉も留守るすなりと常にかはりし顏色にて重四郎を眦裂ねめつける體を見て重四郎はおくへも行れねば其儘そのまゝそこ〳〵我が家へ立歸り獨り倩々つく〴〵かんがふるに毎度いつに變りし今日の樣子且番頭が我を眦裂ねめつけし事合點行ず扨は彼の文を父平兵衞に見せしにや其等それらの事より我が足を遠避とほざけんとの事ならん其儀ならば我もまた仕方しかたありとて其夜穀平こくへい方の門邊に到り内の樣子をうかゞひ子僧にても出て來りなば仔細しさいを聞かんと身を忍びて居たる所へ丁稚でつち音吉が使ひに出しを見て重四郎は心に悦び是を呼掛よびかけいづれへ參るや其方に少し尋ねたきだんあり先々此方こなたへ來るべしと酒屋へ連行酒肴などを出させて振舞ふるまひつゝ重四郎申けるは某し先刻其方そなたの店へ到りしに番頭の挨拶振あいさつぶり何共合點がてんゆかざるのみか我を奧へ通さぬは如何なるわけなるや知つてならばはなすべしと尋ねければ流石さすが丁稚でつちのことゆゑさけさかなつられ其事柄はくはしき譯を知ね共先生よりお浪さんへ艷書ふみおくられしとやらにて富右衞門殿より大旦那へ見せしゆゑ大旦那より斯々かく〳〵申付られしに依てよんどころなくおかまひ申さず夫に付お浪さんも富右衞門殿の世話にて早々坂戸村さかとむら縁付えんづかるゝはずなりと落もなく咄し此事必ず私が申せしと沙汰し給ふなと云捨いひすてて歸りしかばあとに重四郎はホツと溜息ためいきつきさてはお浪め富右衞門に艷書ふみを見せたりしかなさけなき仕方なり富右衞門も猶以て遺恨ゐこんなれ店の者共まで今日の始末しまつ思へば〳〵忌々いま〳〵いつ蹈込ふみこんで打放し此恨みをはらさんと立上りしがいや荒立あらだてては事の破れ何にもせよお浪を引さらひ女房にすれば男は立つたゞにつくきは富右衞門なりよきをりもあらば此遺恨このうらみを晴さんとて其夜は其儘我が家に歸りしが其後明暮あけくれ心懸てぞ居たりける然るに同宿に三五郎と云者あり此三五郎は侠氣をとこぎある者にて生得しやうとく博奕ばくちを好み平生賭事かけごとのみを業としけるが或時博奕場ばくちばよりもどり食事をしながら女房に向ひ今朝土手際どてぎはなる庚申堂かうしんだうの前へ來たら土橋の所で此煙草入たばこいれを拾ひしゆゑ中を見たら富右衞門殿へ平兵衞と云手紙が這入はひつてありすれば穀平こくへい殿より富右衞門殿へ送つた手紙が有からは落しぬしは富右衞門殿ならん其邊そこら仕舞しまつたら富右衞門殿の方へ返して來よと云にぞ女房は早々にぜん片付かたづけそんなら一寸ちよつといつて參りましやうと云所へ重四郎は三五郎に何かはなしありとて來りしが此咄しを聞てなんだ富右衞門殿の煙草入たばこいれを拾つたドレ〳〵見せねへと取上見れば富右衞門の方へ平兵衞より送りし手紙なるゆゑ重四郎たちま惡心あくしんおこし三五郎に向ひなんと此煙草入を我等二分に買ふべしといふに三五郎打笑うちわらもし々先生あたらしい時でさへ四五百文位ゐおいこんで七ツすぎ代物しろものだ二百がものもあるまいに夫を二分にかはんとは合點のゆかことなりと云ふを重四郎成程なるほどわからぬ筈よ此品は少しおれが入用が有て遺恨うらみはらやつに目にもの見せんとの思案しあんなり友達ともだち好誼よしみに賣てくれそれ即金そくきんだとて二分取り出してさしおけば三五郎は打笑ひ夫程に入用ならもつて行れよ金は入らぬといふをば重四郎そんならかうようと彼の二分を女房にわたすこしだが單物ひとへものでもかはれよと無理むりふところへ入れ此事は決して沙汰さたなしにたのむなりと言捨いひすてて立歸りしが途中には穀平の丁稚でつち音吉に行合けるに重四郎聲をかけコレサ音吉殿どん大分だいぶいそがしさうだが何所へ行のだと尋ぬれば音吉は振返ふりかへり今日は大旦那が關宿せきやどの庄右衞門樣の方へ米の代金を取に參られますゆゑ是からともをして行ますと云ば重四郎夫では今夜は大かたとまりであらうと云に音吉いや明日あす仲間なかま寄合よりあひが有からおそくとも是非今夜は御歸りで御座りますといひながらいそがしさうに走りゆくあと見送みおくりて重四郎は大いに悦び獨り心に點頭うなづきうまい〳〵今夜利根川堤とねがはづつみ待伏まちぶせして穀平が歸りをばつさりやらかし此烟草入を死骸しがいそば捨置すておき人殺しを富右衞門に塗付ぬりつけ日來ひごろうらみをはらさんとゑみふくんで居たりけり


第二回


 然程さるほどに穀屋平兵衞は穀物の代金を受取んとて一人ともつれ關宿領せきやどりやう坂戸村さかとむらなる庄右衞門の方へ到りけるに庄右衞門は久々ひさ〴〵御來臨おいでなりと種々いろ〳〵馳走ちそうして饗應もてなすにぞ平兵衞も思はず時刻をうつせし中穀物の代金百兩受取歸らんとなすをあるじ庄右衞門之をとゞ最早もはや夕暮ゆふぐれなれば今宵こよひは御とまり有て明朝早く歸らるべし殊に大金をもつての夜道よみちなれば無用心ぶようじんなり必ず〳〵御とまりあれとすゝむるを平兵衞はかうべふりかたじけなけれども明日は餘儀よぎなきことのあるゆゑに是非共今宵こよひかへらずば大いに都合あしかりなんかく御暇おいとま申さんと立上れば庄右衞門もやむを得ず然らば途中の御用心こそ專要せんえうなれど心付るを平兵衞は承知しようちせりといとまつげて立出れば早日は山のかたぶきやゝくれなんとするに道を急ぎて辿たどるうち最早もはや全くくれすぎ足元あしもとさへも分難わけがたければかねて用意の提灯ちやうちんを取出し火をともいて丁稚音吉に持せ足を早めて歩行あゆめども夏の夜のふけやすく早五時過いつゝすぎとも成し頃名に聞えたる坂東太郎の川波かはなみ音高く岸邊きしべそよあしかや人丈ひとたけよりも高々と生茂おひしげいとながつゝみ便たよりに一筋道すぢみち權現堂ごんげんだうの村中へ來懸きかゝをりしもさつと吹來る川風に提灯ちやうちんきえて眞のやみとなりしかば平兵衞は南無さんあかりがきえては一あしも歩行れぬとてこしをさぐり用意の火打を取出し漸々やう〳〵蝋燭らふそくともしければさあ〳〵音吉注意きをつけて又風に火を取れぬやう急げ〳〵と急立せきたつれば音吉は見返りつゝ旦那樣近道ちかみちに致しませうかと問に平兵衞如何樣小篠堤をざさつゝみ近道ちかみちを行ふと音吉を先に立せ平兵衞は微醉酒ほろゑひさけ醒果さめはてて心ばかりはいそげ共夜道の捗行はかゆかぬを足に任せて小篠堤に來掛る頃は早北斗ほくと劔先けんさきするどく光りゴンとつき出す子刻こゝのつかねひゞきも身にしみいと物凄ものすごく聞えけり折柄をりからつゝみかげなる竹藪たけやぶの中よりおもてつゝみ身には黒裝束くろしやうぞくまとひし一人の曲者くせものあらはいでものをも云ず拔打ぬきうち提灯ちやうちんバツサリ切落きりおとせば音吉はきやツと一聲立たるまゝ土手どてよりどうまろおち狼藉者らうぜきものよとよばはりながら雲をかすみ駈出かけいだすに平兵衞も是はと驚きにげんとなしたるうしろより大袈裟おほげさに切付ればあつと叫びて倒るゝを起しも立ずとゞめの一刀を刺貫さしつらぬ懷中くわいちうへ手を差入れ彼穀代金百兩を仕合よしとうばひ取り何國いづくともなく逃失にげうせけり斯て穀屋にては音吉の知せに悴平吉を始め家内中驚きさわぎ平吉は親重代おやぢうだいの脇差追取おつとり音吉を案内として駈出かけいだすを後に續て番頭手代共各々提灯ちやうちん得物えもの引提ひきさげ我先にとはせ出すにぞ親類縁者其外日來ひごろ懇意こんいの人々は此知せを聞て何れも驚き集り來るゆゑ幸手宿さつてじゆく騷動さうどう大方ならず我も〳〵と提灯ちやうちんたづさ駈着かけつけたり是より先平吉は一散に其所へ來て見れば無殘や父平兵衞は肩先かたさきよりひばらへ掛て八寸程切下られ咽元のどもとには止めの一刀をさしつらぬき見るに見られぬ形状ありさまなれば平吉はどうとばかりにたふふし死骸しがいに取付狂氣きやうきの如く天に叫び地にまろ悲歎ひたんくれて居たりしがやゝありて氣を取直し涙をぬぐ倩々つく〴〵と父のおもてを打まもりさぞ御無念におはすらんおのれ敵め其儘にして置べきやと四邊あたりを見れども人影ひとかげければ懷中いかにと改め見るに金も見えず彼是する折柄をりから人々も駈着かけつけ此有樣を見るよりも皆々愁傷しうしやう大方ならずれど如何とも詮方せんかたなきにより早々此趣きを村役人へとゞけしかば幸手宿さつてじゆく權現堂兩村の役人とも立合評議ひやうぎなす中夜は程なく明放あけはなれしにぞ早々此段を郡代衆ぐんだいしう出張しゆつちやうの役所へ訴へ出けるに伊奈いな半左衞門殿の手代横田五左衞門深見吉五郎檢使けんし立合の上改め相濟あひすみ一先權現堂村の名主仙右衞門方へ引取ひきとつての調べと相成り横田は平吉にむかひ其方は平兵衞のせがれなるかととふ平吉はつ平伏へいふくしける時横田は又其方の親平兵衞儀日頃何か他に意趣遺恨いしゆゐこんを受し覺えはなきやと尋ね有に平吉はかしらあげ親父儀おやぢぎは是迄喧嘩けんくわ口論こうろんなど致せしことも之無く日頃人の爲のみ仕つり村方にてもほめられ候程の儀故勿々なか〳〵意趣遺恨いしゆゐこんなど受ることはいさゝかも御座無く候と申立れば横田如何にもこそあるべしして金子きんす紛失ふんじつの由なれば定めて盜賊たうぞく所業しよげふに相違有まじ因て死骸しがいの儀は勝手次第に引取べしと有り又せがれ平吉支配人五兵衞村役人差添江戸表へまかり出べき由申渡しおき役人は引取けり却説さても穀屋にては燈火ともしびきえたる如く平兵衞の妻并娘お浪の愁傷しうしやう大方ならずと雖も詮方せんかたなければあつ野邊のべの送りをいとなみけり扨平吉支配人五兵衞村役人同道にて江戸小傳馬町旅人宿幸手屋さつてや八方へ到着たうちやくし早速此段郡代屋敷へ屆け出けるに直樣すぐさま差紙さしがみに付き幸手屋茂八附添つきそひ郡代の白洲しらすへ出でければ正面には伊奈半左衞門殿左方には手附手代威儀ゐぎ嚴重げんぢうに控へたり此時伊奈殿しづかに武州幸手宿さつてじゆく穀屋平兵衞の悴平吉同人方支配人五兵衞と呼れ去月廿七日の夜小篠堤をざさづつみ權現堂に於て平兵衞儀殺害にひ懷中の金子をうばひ取れし趣き尤も盜賊の所爲しよゐならば老人の事故金子を奪ひ取とも殺害せつがい迄には及ぶまじいづれ平兵衞に面體めんていを知れし者と見ゆ殺害致したる上全く金子きんす出來心できごころにてぬすみ取し者ならん然れば豫々意趣いしゆ有者の所行しわざと思ふなり然樣さやうなる心當りも有ば包まず申立よと有に平吉はおそる〳〵かしらあげ親共儀は平生へいぜい慈悲じひを第一と心懸村方困窮こんきうの人の爲には心を盡し先年洪水こうずゐせつさるまたつゝみきれし時も夫々に救ひ米并に金銀等きんぎんとう差出さしいだせし程の儀故村中の者一同よくふくし居候間勿々なか〳〵遺恨ゐこんなど受べきおぼえ無御座候と申立るに半左衞門殿否々いや〳〵に非ず假令たとへ陰徳いんとくほどこ慈悲じひ善根ぜんこんを第一として人のがいならぬ氣にても金子の遣取やりとり致し商賣あきなひ手廣てびろき事なれば如何なる所に遺恨ゐこん有間敷あるまじき者にも非ず又其外にもなんぞ手掛りは無きと云るゝに平吉ヘイ其手掛てがかりと申てはべつに御座らねども爰に少々せう〳〵心當り是とても右樣の儀を致す人物には之なく日頃より親類しんるゐ同樣どうやうに致し親共も相談さうだん相手あひてに仕つり家内も相應さうおうくらし居りますゆゑ是を疑ふ樣も御座なく候と申立るに伊奈殿否々いな〳〵すこしにても心當り有れば申立よて其者は宿内の者か他村かとありける時恐れながら申上ますと支配人しはいにんの五兵衞縁先えんさきちか這出はひいで只今たゞいま平吉が申立し通り右心當りの儀はうたがはるゝものゝ先も歴々れき〳〵の身代に候ゆゑ何とも申上兼ると云ければ伊奈殿何々なに〳〵わるく致すと歴々れき〳〵でも油斷ゆだんは成ぬ而て何者なるか包まず申立よとあるに五兵衞其儀は私しより申上んとて平吉に會釋ゑしやくなしさて主人平兵衞儀權現堂小篠堤にて横死わうしせつ死骸しがい近傍かたはら紙煙草入かみたばこいれおちて有しを後の手懸てがかりにもと存じ拾ひとり能々よく〳〵あらため見る處同宿にて同商賣を仕つる杉戸屋富右衞門と申者所持しよぢの品にして又其煙草入たばこいれの下には主人平兵衞より送りたる手紙が之あり候とて其節そのせつの樣子をくはしく申立しに伊奈殿は夫は屹度きつとしたる證據しようこなり此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに奧州あうしう福島ふくしま仕立じたて紙煙草入かみたばこいれにして其中に手紙一通あり其文そのぶん

鳥渡ちよつと申上候昨日は御馳走ちそうあづかかたじけなく奉存候然者しからば先日御相談致し候穀物こくもつの儀江戸表へ相廻あひまはし申候明後日は關宿せきやど庄右衞門殿方へ穀代金こくだいきん勘定かんぢやうに參り申候粕壁かすかべの代金八十兩也大豆だいづ爲替かはせに仕つり候只今たゞいま御受取可被下候まづは右の段申上度如此かくのごとく御座候以上

六月廿五日
穀屋平兵衞
杉戸屋富右衞門樣

半左衞門殿これを見られて此手紙このてがみは平兵衞の手跡しゆせき相違無さうゐなきまた斯樣かやうよき手掛りが有ながら何故なにゆゑ先に檢使のせつ差出さぬぞこれはなはだ不都合の次第しだいなりと尋らるゝに五兵衞はおくせずばにて候わか主人平吉儀は若年者ゆゑ血氣けつきつよく且又家内手代共の中には血氣の若者も大勢たいぜい之あり候により此手紙を出す時は富右衞門をかたきと心得仇討かたきうちよばはりなどいたさば容易ならざる事に成行なりゆき申べく一ツには右富右衞門と申者は主人も平常つね〴〵より格別かくべつ懇意こんいに仕つり居極々手堅き人に候へば勿々なか〳〵今度このたびの儀など爲出しいだすべき人物に御座なくと存じひそかに私しが取隱とりかくし置たりと云にぞ伊奈殿如何樣夫も道理もつともわけ聞屆きゝとゞけたり追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶと申され其日は平吉はじめ五兵衞其外とも一同下られけり是より伊奈殿には手代てだい杉山すぎやま五郎兵衞三右衞門の兩人に幸手宿さつてじゆくの杉戸屋富右衞門を召捕めしとりきたるべしと申渡されたり


第三回


 天に不思議の風雲ふううん有り人に不時のわざはひありとはむべなるかなこゝに杉戸屋富右衞門は去六月廿六日ひる立にして商用の爲め栃木とちぎ町より藤田古河邊こがへんへ到り暫く逗留とうりうなし七月四日晝前に我が家へ歸りければ女房おみねは出迎ひ先御無事にと打喜うちよろこして又旦那には村中の大變を御途中とちうにてお聞ありしやと云に富右衞門否々いな〳〵何事も聞ざりしがそりや又何云どういふわけなりやと尋るにお峰は申樣貴方あなたが御立なされた其翌日の事なるが穀平の旦那が關宿せきやどの庄右衞門殿の方へゆかれた歸りがけ權現堂の土手にて殺されしとかたるを聞て富右衞門やゝ何々なに〳〵平兵衞殿がと大におどろき夫は大變たいへんな事て殺したやつは知しかと問ばお峰風聞うはさには大方盜賊どろぼう所行しわざならんとの事夫れに付ては若旦那は朔日ついたちより江戸の御郡代ぐんだい屋敷へ御いでなさいまだに御歸りなさらぬが相手が早くしれればよいと云に富右衞門何さ天命てんめいなれば今にぢきしれるであらまづわらぢぬがぬうち穀屋へ行てやうか扨々はらへつたお峰や一寸一杯喰込かつこんで行うとこしを掛け居處ゐるところへ當宿の村役人段右衞門と岡引をかひき吉藏案内あんないにて八州まはりの役人どや〳〵と押來おしきた上意々々じやうい〳〵と聲をかけ飛懸とびかゝつて富右衞門を押伏おしふせ忽ち高手小手にくゝし上れば富右衞門はたましひ天外にとび茫然ばうぜんとしてあきれしが是はそも何科なにとが有て此繩目なはめ私し身に取ていさゝかも御召捕めしとりになるべきおぼえ無しと云せも果ず役人は富右衞門を白睨にらみ付おぼえ無しとは白々しら〴〵しきいつはりなり去月廿七日小篠堤權現堂の藪蔭やぶかげに於て穀屋平兵衞を切殺きりころし金百兩をうばひし段注進ちうしんの者有て召捕なり申わけあらば役所に於て一々申すべしといふに富右衞門は彌々いよ〳〵仰天ぎやうてんし其は何共合點がてんの行ざることなり私しは元來ぐわんらい殺生せつしやうさへもきらひで虫一つころした事もきに人殺しなどとは思ひもよらず殊に平生兄弟同樣にいたす所の平兵衞を何の遺恨ゐこんで殺しませう是は全く人違ひとちがひにて候と云に女房お峰も役人に取縋とりすがをつと富右衞門は勿々なか〳〵人殺しなど仕つる者には御座なく是は必定かならず人違ひ何卒どうぞゆるし成れて下さりませとなみだと共に手を合せわびるを役人耳にも入ず白睨にらみ付てぞ引立ける富右衞門は女房おみねに向ひ此もとより我が身におぼえなきことなれば御郡代樣ぐんだいさまの御前にて申譯は致すなり必ず心配しんぱいすることなかれと云ども流石さすが女氣をんなぎのお峰は又も取縋とりすがり涙と共に泣詫なきわびるを役人共は突退々々つきのけ〳〵富右衞門を引立つゝ問屋場へと連れ來り宿駕籠しゆくかごのせて江戸馬喰町四丁目の郡代ぐんだい屋敷やしきへ引れしは無殘むざんなることどもなり


第四回


 かくて杉戸屋富右衞門は繩目なはめまゝにて郡代屋敷の白洲しらす引居ひきすゑられ伊奈半左衞門殿は吟味ぎんみに及ばれんと其席そのせきへ立出られまづ何成奴いかなるやつならんと見らるゝ所に面體めんてい柔和にうわにして篤實とくじつらしく見る成れども人は面體にらずと思ひコリヤ幸手宿杉戸屋富右衞門其方そのはう年は何歳なんさい成るやと尋問たづねられるに富右衞門は當年たうねん五十三歳なりとこたふ伊奈殿其方は先月廿七日の夜關宿せきやど街道かいだう權現堂小篠堤に於て同宿穀屋平兵衞を殺害せつがいに及び加之そのうへ金子をうばひ取りたるならん有體ありていに申立よと云れけるにぞ富右衞門はかうべあげ私し儀日頃より右平兵衞とは兄弟同樣に仕つる者に候へば然樣さやうの儀は毛頭もうとうおぼえ御座なくことに其節は私し事他出たしゆついたし八九日外に逗留とうりう仕つりをり歸宅きたく致せしをり其事柄を家内の者より初めて承まはり實に驚き入しゆゑ早速くやみに參らんと存じ旅行りよかうまゝ草鞋わらぢとか空腹くうふくに付食事を致し居り候所へ御捕方とりかたの人々參られ御召捕に相なりし次第にて勿々なか〳〵人を殺し金子をぬすみ取候などと申ゆめにも存じ申さず何卒なにとぞ慈悲じひの段偏へに願はしく存じ奉つると申立れば半左衞門殿聲をはりあげだまれ富右衞門おのれ其節他出とあるからはなほ以てあやしきなりシテ他出とはいづれへまかこしたるぞとあるに富右衞門私しは先月二十六日出立しゆつたつ致し古河こがの在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河こがの御城下に商用しやうよう御座るゆゑ逗留とうりう仕つり二十七日には栃木とちぎ町の油屋徳右衞門方へ晝の八ツ時より泊りに着居つきをりしにより全く以て右體みぎていの儀は覺え御座なく候と申立ければ伊奈殿大音だいおんこれ富右衞門今汝ぢが何樣どのやうに申譯をしても此方にはしかとした證據があるぞ是其方所持しよぢ煙草入たばこいれが其場に落して有しなり夫を見よと投出なげいだされしに富右衞門は是をて成程此品は私しの煙草入に相違御座なく候へども是は去月すゑ隣村りんそんへ用事有てあさの内まゐりし途中にて落せしにより其節心づき四五町引返して相尋あひたづねしと雖も一かう見當り申さずしかし餘ほど持古もちふるし候品と申別段用向の書付も入置ませぬゆゑ其まゝに打捨置候處如何いかゞ仕つりてか其邊そのへんにと言せもはてず半左衞門殿コリヤ其煙草入の中には平兵衞より其方へつかはしたる手紙が有之しなりすれば定めて待伏まちぶせをして殺したに相違さうゐあるまじきぞと申さるゝに富右衞門おそれながら煙草入は私しの品にて又手紙も平兵衞より私し方へ參り候手紙に相違さうゐ御座なく候しかしながら私し儀はかねて平兵衞方へ出入仕つり候て金子きんす勿論もちろん内外ないぐわいの世話にも相成候中故平兵衞が娘を關宿せきやどへ縁談の媒人なかうど迄も仕つり候程のことにて兄弟の如くまじはり候中に付何とてかれを殺害など仕つるべきや此儀何分御賢察けんさつ下され御慈悲じひの程をひとへに願ひ上奉つると申立れども伊奈殿はかうべふら否々いや〳〵其方が申す所一ツとして申譯は相成ず欲情よくじやうかゝりては實の親子しんし兄弟の中成とも心得ちがひの者往々まゝある事なれば彌々いよ〳〵ちんずるに於ては拷問がうもん申付るぞ其方がくびに掛し百兩入の財布さいふは則ち平兵衞を殺しぬすみ取たるに相違は有まじ夫にてもなほ知らぬと申すかと白眼にらめらるれども富右衞門は實におぼえなきことなるにぞ此百兩の金子は古河こがの穀屋儀左衞門方より請取うけとり候に相違は御座りませんと少しもおくせず申立るを半左衞門は大いににくく思ひ否々いな〳〵其口上は幾度いくたび申すも同じ事なり決して申譯には相成ずなほ追々呼出すべしと云るゝ時手代の者立ませいと聲をかけ其日は入牢とぞ相なりける其後松坂町郡代の牢屋敷らうやしきに於て無殘むざん成かな富右衞門は日々ひゞ手強てづよき拷問に掛り今は五たい悉々こと〴〵よわはて物ものんどくだすこと能はず一命既に朝夕てうせきせまるに付富右衞門倩々つく〴〵來方こしかたを思ひ行末ゆくすゑを案じけるに今迄一點の罪ををかせし事もなきに斯る無實むじつの罪をうけやいばかゝ非業ひごふ最期さいごげ五體を野外やぐわいさら雨露あめつゆうたれて鳶烏とびからす餌食ゑじきと成こと我が恥よりは先祖せんぞ恥辱ちじよくなりかへす〴〵も口惜くちをしき次第かな女房おみねさぞかなしなげくらんと五ざうしぼる血の涙に前後正體無りけるやゝ有て心を取直とりなほし我が身ながらも未練みれん繰言くりごとてもかくても助かり難き我が一命此上は又々嚴敷きびしき責苦せめくこらへんよりはいつそのこと平兵衞を殺せしといつはり白状して此世の責苦せめくのがれん者とこゝに心を定めしはいとあはれの次第なり然ば翌日の調しらべに右樣白状致せしにより役人はすみやかに口書こうしよしたゝめ富右衞門に讀聞よみきか

一私し穀屋平兵衞と別懇べつこんに仕つり候處關宿せきやどざい坂戸村名主庄右衞門方より穀代金請取歸り候ぜん以て手紙にて承知仕つり候ゆゑ六月廿七日の夜權現堂小篠堤に待受まちうけ殺害せつがいいたし金百兩ぬすみ取候に相違さうゐ無御座候依之此段奉申上候以上

武州幸手宿
七月廿五日
富右衞門

此時役人は富右衞門に向ひなんたしかに承知したか彌々いよ〳〵白状の趣きに相違さうゐなくば口書こうしよ爪印つめいん致せと右の口書を富右衞門の前へ差付さしつくるに富右衞門是を見て殘念ざんねん至極しごくに思ひ心中煮返にえかへるが如き涙をはら〳〵とながし齒を喰締くひしめながら爪印つめいん相濟あひすみけるに依て伊奈半左衞門殿より口書こうしよそへ委細ゐさいを書取にして手代富田善右衞門をもつて月番南町奉行大岡越前守殿へ引渡し相濟ける之に依て大岡殿も一通り吟味の上口書こうしよ并びに書取の通り符合ふがふなすに於ては月番老中しゆうかゞひの上附札つけふだにて御仕置仰せ付らるゝの手續てつゞきなる故今富右衞門が命は風前ふうぜん燈火ともしびの如し再調さいしらべに引出さるゝ其有樣數日の拷問につかはて總身そうしん痩衰やせおとろ鬢髭びんひげ蓬々ぼう〳〵とし淺黄木綿あさぎもめん浴衣ゆかたにて青繩あをなはくゝられ小手をゆるして砂利じやりの上に引居ひきすえられしてい此世の人とは見えざりけり白洲しらすの正面には大岡越前守殿着座ちやくざ有左の方には御目附土屋つちや六郎兵衞殿縁側えんがはには目安方めやすがた與力よりき下には同心に至る迄威儀ゐぎ嚴重げんぢうひかへたり此時大岡殿は武州幸手宿富右衞門とよばれ其方歳は何歳いくつなるぞと尋問とはれしかば富右衞門ハツと平伏し少し顏を上當年五十三歳に相成候と云たるてい顏色がんしよくことほか痩衰やせおとろにくおちほねあらはれこゑ皺枯しわがれて高くあげず何樣數日手強てづよき拷問に掛りし樣子なり大岡殿此體このてい熟々つく〴〵見られしが其方日頃懇意こんいに致し恩義おんぎにも相成し同宿成る穀屋平兵衞が坂戸村名主庄左衞門より金子きんす百兩受取し事をぞんじ居て權現堂村小篠堤にて殺害せつがいに及び金子百兩うばひ取しおもむき明白に白状はくじやう致せしにより口書こうしよきま爪印つめいんずみの上伊奈半左衞門より引渡ひきわたしと相成たり依て一通り糺問たづぬるみぎ口書爪印致せしからは相違無さうゐなきどうぢや明白に申立よといはるゝに富右衞門ははら〳〵となみだおとしながら漸々やう〳〵に申立る樣は私しこと全く以て平兵衞を殺し金子など取候おぼえは毛頭もうとう御座なく候へども是まで段々嚴敷きびしき拷問がうもんくるしさに堪難たへがたく御覽の通りの老體らうたいゆゑ其苦しみを早くまぬかれたくいつ未來みらいへ參りなば此苦しみも有まじと存じ斷念あきらめて罪を身に引請ひきうけ白状はくじやう仕つり候なり其實は人を殺し金子を奪ひ取候儀等は毛頭もうとう是なく何卒御賢察下けんさつくだし置れ候樣偏へに願ひ上奉つるとなみだながら申立ければ大岡殿聞し召れ汝ぢ右樣申立ると雖も半左衞門方よりの明細書めいさいしよおもむきにては其方の煙草入が平兵衞の死骸しがいそばに落て有しのみならず加之そのうへ平兵衞より其方へあてたる手紙が中に入有し趣き是等はどうぢやと申されければ富右衞門其煙草入は去月下旬用向ありて隣村りんそんへ參りて途中に於て取落とりおとせしに相違さうゐなく其上私し儀は六月二十六日出立しゆつたつ仕つり古河のざい藤田村儀左衞門方へ一ぱく致し二十七日は栃木とちぎ町油屋徳右衞門の方にまかあり私し在所より十二里餘の場所なる故小篠堤にて平兵衞を殺害せつがい仕つりし儀は一かうおぼえも無是候と申けるに大岡殿しからば半左衞門方にて他村たむら宿々しゆく〴〵の泊り吟味ぎんみは致したで有うと有し時富右衞門おそれながら其儀は一向御取上とりあげなく只々煙草入をほかへ落したとはいつはり其みぎり殺害の場へ落としたに相違あるまじとばかり御吟味ぎんみつよさに是非なく身に覺えは御座らねども其罪を引受白状致し候と申立しかば大岡殿とくと富右衞門の相恰さうがうを見られし所如何樣にも篤實とくじつおもてあらはれ勿々なか〳〵人を殺し盜賊たうぞくをする者にあらずしかいましひて吟味する時は裁許さいきよを破り殊に郡代の不詮議ふせんぎと相成事なりさりとて人一人たり共無實むじつそこなふは大事なれば先々まづ〳〵よく實否じつぴ突止つきとめのちかくも取はからはんと富右衞門は其まゝ入牢申渡されける是より大岡殿組下くみしたの同心へ申付られ在方ざいかたの樣子をさぐられけるに幸手宿其外そのほかの評判には權現堂の人殺しは富右衞門にては有まじとの風聞ふうぶんゆゑ六月廿六日より七月四日迄七日のあひだ富右衞門がとまりし所を詮鑿せんさく有に左の通り

幸手宿さつてじゆく富右衞門商用しやうように付六月廿七日晝八ツ時ごろ私し方へ參り一宿しゆくつかまつり候處商用掛合かけあひ不相分あひわからずなほ又廿八日も逗留とうりう仕つり候廿七日より晝夜ちうや他出たしゆつ不仕私し方に逗留とうりう仕居り廿九日巳刻過よつどきすぎ出立しゆつたつ致し候此段相違さうゐ無御座候依て御受書うけしよ如斯御座候以上

下野國栃木中町
八月五日
油屋徳右衞門
同所  町役人
中村五兵衞
同所  問人
杉村幸右衞門

池田大八樣

馬込藤十郎樣

泊所とまりどころおぼがき

杉戸屋すぎとやとみ右衞門儀六月廿六日あさ卯刻むつどき幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へとまり廿七日朝卯刻すぎ出立致し下野しもつけ都賀郡つがごほり栃木とちぎ中町なかまち油屋徳右衞門方へとまり廿八日同所に逗留とうりう廿九日ひる巳刻よつどき過栃木中町を立下總國古河町穀屋儀左衞門方に逗留いたし七月四日朝五ツ時出立右の通り泊り〳〵探索たんさく仕つり候處相違無之さうゐこれなく別紙べつし廿七日泊りの場所栃木中町徳右衞門を上町かみまち名主方へ呼寄よびよせなほちく一吟味仕つり書付を取役人共印形いんぎやう取置申候且又古河穀屋儀左衞門方より穀代こくだい金百兩富右衞門へ相渡あひわたし候おもむき是又呼上吟味ぎんみ仕つり書付請取うけとり申候右のとまり所相違さうゐも無御座候以上

八月八日
馬込藤十郎
池田大八

右の通り出役しゆつやくの者取調とりしらべし上書付二通大岡越前守殿へ差出しけるによつて越州殿にはさてこそ推量すゐりやうたがはず外に惡賊あくぞく有ことと是よりもつぱら其本人を種々いろ〳〵詮議せんぎされけるとなん


第五回


 扨も杉戸屋富右衞門に一人のせがれあり幼少のせつ疱瘡はうさうにて兩眼をうしなひしかば兩親も大に心を痛め種々治療ちれうに手をつくせ共更に其しるしも無く依て田舍座頭ゐなかざとうにせんも不便なりと種々に心配を爲居たる所に其頃江戸長谷川はせがは町に城重と言座頭ざとうもと幸手出生の者なりしが偶然ふと此事を聞故郷の者なれば幸ひ我が養子やうしもらはんとて其趣きを相談するに富右衞門も早速さつそく承知しようちなしけるゆゑ此子を養子に貰ひけて城富とぞ名らせけるが城富じやうとみの十四歳の時に養父の城重病死びやうし致せし故養母やうぼを大切に孝養して相應さうおうくらしける是よりさき此城富十二歳の春より按摩あんまわざとして居たりしが或時住吉すみよし町を通りたる時不圖ふと竹本政太夫方へ呼込よびこまれ療治をなし居けるうち五六人義太夫をならひに來りしに元より城富も好のみちゆゑ我を忘れて聞ながら長く療治れうぢをせしが縁と成て其後毎夜まいよ呼込ではもませけるにいと上手なれば政太夫も至極しごくに歡び療治をさせける處城富は稽古けいこを聞感にたへて居る樣子を政太夫は見てコレ按摩殿あんまどの貴樣きさま淨瑠璃じやうるりが好か何所どこぞで稽古でも仕たるかと尋ねけるに城富はハイ樣で御座りますがいまだ一かう稽古は致しません親掛おやがかりの身の上ゆゑ漸々やう〳〵はりと按摩を稽古けいこいたすばかりで淨瑠璃じやうるりは習ひ度は思ひましても手がとゞきませぬと云にぞ政太夫成程なるほどしかし夫程好ならば何んと稽古けいこをする氣はないかと言へば城富夫は有がたう存じますじつに私しはことの外すきで御座りますれど只今申上る通り親掛りでをりますれば稽古のだいが思ふ樣には出來ませぬ只々たゞ〳〵ならひたいとぞんじまして御弟子樣方の御稽古けいこを少し聞ても聞取り學問がくもんとやら外の御たくちがうて此方樣の事成れば一口聞ても多きに稽古けいこに成りますと言ふゆゑ扨々さて〳〵不便ふびんの事なり然程に執心しふしんらば私が教へてやりませう貴樣の事だから金はけつして取らぬが其替そのかはりに稽古代けいこだいと思うて按摩あんまを安くしてたのみますと言ふに城富ハイ夫は何寄なにより以て有がたう存じます何卒どうぞお願ひ申ますと是より口移くちうつしに道行の稽古けいこより始めて段々とならひ込んで生涯しやうがいの一藝にせんものをとの一心と云其上拍子ひやうしの間もよくことに古今の音なれば太夫も始めは戲談じようだんの樣に教へしが今は乘氣のりきが來て此奴こやつは物に成さうだと心を入て教へける故天晴舊來ふるき弟子でし追拔おひぬけて上達しければ政太夫も大いにかんじ是より三味線をもならはせんとて相三味線の鶴澤つるざはとも次郎へはなして此事をたのみけるに友次郎も早速さつそく承知しようちなし其後は三味線を一しほに入れて教へけるに勿々なか〳〵一通り成らぬ上手じやうずと成しかば稽古けいこわづか四年の中成れども生質たる藝なりと友次郎も大いにかんじけるとなん斯て城富は當年たうねん十七歳と成り所々の出入は養父やうふ城重の時よりふえ其上に三味線みせん淨瑠璃じやうるりにて所々方々へまねかれ今は家内も安樂あんらくに暮し養母やうぼも實子の如く不便を加へ亦城富も孝行をつくし居たり時に享保きやうほ八年に至り實父富右衞門の災難さいなんのことどもを實母じつぼのお峯が來り委細ゐさいに物語りしければ城富は是を聞き大いにおどろき甚だかなしみつゝ涙を流し只一心に神佛をいのりける所に享保八年十月十一日彌々いよ〳〵所刑しおきの由幸手宿村役人を以て穀屋平吉へ申わたされ富右衞門妻へも此段申聞られしかば此事を城富は聞よりたちつ居つ心配しんぱい其儘そのまゝ長谷川町の家をし杖を便りに數寄屋橋内の大岡越前守殿の表門際おもてもんぎわへ來たり杖を突立つきたたゝずむ故門番は立出汝ぢは道にまよひし成ん何方へ行のぢやと言ふに城富は涙にむせかへりながらハイ〳〵南御番みなみごばん所は何れで御座りますととへば門番の者南御番所は此所こゝなるが何用有て來りしぞなにか願ひたき事でも有かと聞れ城富はハイ然樣さやうで御座ります御奉行樣へきふに御願ひが御座りましてまゐつた者で御座ります何卒どうぞ御取次をねがひますと云にぞ門番の者ねがたきあらば其町内の役人を同道して來り願ふべしと言ふに城富ハイ是はまこと差掛さしかゝりまして早急の儀なれば町役人をたのむ間もおそなはります何卒どうぞ御取次を願ひ上ますとて少しもうごかざれば門番の者もやむを得ず此事を訴訟所うつたへじよとゞけ門内へ入置て町所家主の名前等を聞けれども一かうに言ず只何卒どうぞ御奉行樣へ御目にかゝり其上にて委細ゐさい申上ますとばかりにて盲人まうじん根生こんじやう勿々なか〳〵うごかざれば役人もあまして此段を申のべけるに大岡殿是を聞れくるしからず早々白洲しらすまはすべしとの事により城富を白洲しらすへ呼入ければ大岡殿見られて汝ぢは如何なる願ひ有るかわれは大岡越前守なるぞ其方の名は何と申又住居ぢうきよは何處成ぞ申立よと云れしかば城富は喜びたるていにて私し儀は城富と申者長谷川町はせがはちやう地主ぢぬし嘉兵衞かへゑが地面にをり候と申けるに大岡殿して又其方は如何成ることの願ひ有て奉行所へ盲人まうじんの身にて駈込訴かけこみそに及びしや城富ヘイ御意ぎよいに御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者のせがれなるが十二歳のときより江戸長谷川町城重方へ養子やうしまゐりし者なりとこたふるに大岡殿しからば其方は幸手宿富右衞門がせがれるか當時養父城重といふ者達者たつしや成るや城富ヘイ養父儀やうふぎは三四年以前に病死びやうし仕つりました大岡殿しからば其方は富右衞門が一けんに付願ひ出しか城富御意ぎよいに御座ります段々樣子やうすうけたまはりし所實父富右衞門儀は今日御仕置しおきに相成るとのこと故其かなしさは何にたとへん樣もなく又實母儀もさぞなげき申さんと思へばあるあられぬ悲しさの餘り押して御願ひに出たることにて私しは御覽の如くの見えぬ者なれば生きて甲斐なきこと故何卒なにとぞ實父じつぷ富右衞門が名代に私しを如何樣いかやうの重き御仕置にても爲下され富右衞門儀は御ゆるしを偏へに願ひ上奉つるとなみだと共に願ふにぞ大岡殿にも孝心かうしんの段憫然ふびんの至りなりと思されけれども今さらやむを得ざれば汝ぢが申所は道理もつともたりと雖も親の罪を子におはすると言ふ事にはならず又罪も罪の次第にましてや其方は他人の養子やうしと成りしならずや夫を差置さしおき實父富右衞門のかはりに御仕置に致すことは相成あひなら公儀かみには然樣さやうの御規定は無事なきことなるぞと申さるゝに城富は至極しごく道理もつともの御儀なれども親の罪科ざいくわに代りし事古來より大分だいぶん御座る樣に承まはり及びますれば何卒なにとぞ御慈悲ごじひを持て父富右衞門儀を御助おたすけ下されて私しめを名代に御仕置おしおき願ひ上奉つると只管ひたすら申立て止ざれば大岡殿成程なるほど一通りは道理もつともの願ひ聞屆けてもつかはさんがしかしながら爰を能承まはれ今其方が申儀は實父じつぷ富右衞門には孝行かうかうの樣成れ共養母へたい實母じつぼへ對しても孝行には非ずして却て不孝ふかうと云者なり其方そのはうが名代に立と言たりとて親富右衞門がオイそれと承知もすまじ殊に天下の御定法ごぢやうはふとして然樣に自由なることは出來るものに非ずしひて是を願へば強訴がうそつみとなり親富右衞門の外に其方が罪はのがれぬぞこゝを能々聞き譯よとを以てさとされければ城富は段々との御利解ごりかい有難き仕合しあはせに存じ奉つるさりながらおして願へば不孝ふかうなりとの御意は不才ふさいの私しにはわかりません親の爲にするは孝道かうだうかと存じますと親富右衞門をたすたき一心に理も非もなく只々一生懸命に申立けるにぞ越州殿ゑつしうどのには何樣なにさま愍然びんぜんとは思はるれども故意わざと聲をはげまされて成程親の爲に一命をすつるは孝道かうだうに相違無けれ共能承まはれ其方は一たん城重方へ養子となり針治しんぢ導引だういんの指南を受し上手足をのばして貰ひし恩義おんぎは城重のかげあらうな然れば師匠ししやうなり義理有る養父なり實父よりは猶更大切たいせつに致さねば相成まじ然るを其方今實父富右衞門の名代みやうだいとなり御仕置になりて相果たらば何樣いかさま富右衞門へ孝行かうかうは立にもせよ養母の養育は誰がするぞ義理有る養母をすつるは不孝ふかう此上無しよも富右衞門夫婦の者共も是をよろこびは致すまじよつて不孝と成ぞこゝの所を能々よく〳〵わきまへて只此上は富右衞門の亡跡なきあととむらひ佛事供養くやうおこたりなく致すが孝行かうかうなりと申さるゝを聞より城富はハツとばかりに白洲しらす泣倒なきたふれ嗚呼實父へ孝を立んとすれば養母やうぼへ不孝となり養母へかうつくさんと思へば實父は御仕置となり是りやどうしたらよからうぞと大聲おほごゑあげ號出なきいだしければ越前守殿は彌々いよ〳〵憫然ふびんと思はれしが是や〳〵其方其樣そのやうなげき實父にかはらんと申せども最早もはや富右衞門はお所刑しおきに相成しぞされば其富右衞門が蘇生いきかへると云ふは無れども其方の孝心かうしん天へ通じ其惠そのめぐみにて實父富右衞門がまた蘇生そせいなす間じきものにあらず因て其方は此後このご能々よく〳〵實母へ孝行をつくすべしとあつさとされし上早速其所の地主嘉兵衞と其家主いへぬしを呼寄られ城富を引渡ひきわたしとなり隨分ずゐぶん心付けつかはすべき由申付けられけり


第六回


 さて鍼醫はりいの城富は我が願ひかなはず地主嘉兵衞に引渡ひきわたされしかば止を得ず嘉兵衞にともなはれ我が家へ立歸り悲歎ひたんくれて居たりしがやゝありて思ふ樣父の死は是非もなきこと共なりせめては父の亡骸なきがらはうむりて修羅しゆら妄執まうしふはらし申さんとて千住小塚原こづかはらの御仕置場へ到り非人ひにんの小屋へ立寄たちよりちと御頼み申度ことありてまゐりたり昨日御仕置になりたる武州幸手宿富右衞門のくび何卒なにとぞ私しに下さりますやう御頼おたのみ申上ますと云へば非人共是を聞て其儀そのぎ勿々なか〳〵あひならず假令御仕置者なりとも首又は死骸などゆゑく渡してやる事は成ぬなり夫共御奉行所よりの御差圖ならばしらぬことどうして〳〵出來ぬことなり早く歸られよと取合とりあう氣色けしきもあらざれば城富は力もぬけつゑすがりて茫然ばうぜんと涙にむせび居たりける是を見て非人共は耳語さゝやきあひ何と彼の座頭ざとうは幸手の富右衞門とやらの由縁ゆかりの人と見えるがどうだ少しでも酒代さかてもらつてくびやらうではないかと相談なしモシ〳〵御座頭おざとうさん高くは云れねへが首をごく内證ないしようでお前にあげませうと云ふを城富聞より大いに喜悦よろこび夫は〳〵まことに有がたう御座ると云ば非人共して酒手は何程位どのくらゐおいて行のだへ全體ぜんたいやつてはならぬことだが己輩おらたち寸志こゝろざしで内證であげるだから其ことをよく思ひなせへと云を城富聞てハイ酒代は何程いくらでも上ますからくびは何卒私しへ下さりませと申に非人ひにん共夫ならば大負おほまけにして金二分もおかつしやい城富ハイ夫は御安いこと若し〳〵然樣ならば何卒富右衞門のくびを御渡しなされて下されましと金子きんす二分を渡しけるに非人共は受取千人ための方へゆくれ〳〵傳助や彼の富右衞門とやらのくびを知てるかと聞て馬鹿ばかを云ねへ今日は三人昨日五人とどれどうだか分る者か何でもいゝは金さへ取ば仔細なしだ生首なまくび一ツ渡してやらうと云はわきから一人の非人が夫でもおやくびだと云から向うにも見知みしりあらほかの首では承知しまいと云ば一人の非人さればさ何だと云て相手あひては座頭のばうだから見分みわけが有物か首さへやれいゝ然樣さうして直に下屋敷へ葬むるで有らうからいゝはさと云に皆々みな〳〵成程々々と云ながら首一ツ持出もちいだしてサア〳〵御座頭さんと渡しければ城富これは〳〵有難ありがたう御座りますと押戴おしいたゞきわつとばかりに泣出なきいだせしが變り果たる此有樣さぞや御無念で御座りませうさりながら前世ぜんせ因縁いんえん思召おぼしめし假令私の眼が見えねばとて長いうちには人間の一ねん眞事まことの人殺しを搜索さがし出して修羅しゆら靈魂みたまなぐさめん南無阿彌陀佛〳〵とくびいだきしめしばらく涙にれ居たり夫より回向院ゑかうゐんの下屋敷を聞しに直にそばなる故尋ねゆきて金子二分取出し葬り呉よと頼みけるに回向院の庵主あんしゆ承知して奇特きどくなることなりと是を葬り香華かうげ手向たむけ經文きやうもんを讀て供養致しければ城富は燒香せうかうをして立出漸々やう〳〵其夜の子刻過ねのこくすぎ長谷川町の我が家へ歸り養母并に實母のおみねも此節在所より來り逗留とうりうして居ける故右の樣子をはなせしにぞ兩人も涙を流してかなしみけるがうれひの中にも城富の孝心かうしんを感じ悦び夜と共に物語りしてやすみける城富もひるつかれによく寢入ねいりし夢の中に身のたけ六尺ばかりの大のをとこ兩眼りやうがん大きくかみひげ蓬々ぼう〴〵と亂れいとあやし氣なる有樣にて悠々のさ〳〵枕邊まくらべへ來る故夢心に城富は吃驚びつくりしける處に彼の男城富に向ひて若し〳〵御座頭おざとう樣何の由縁ゆかりもない私しを今日は御葬り下され御回向ゑかうあづかりしことの有難く御かげにて未來みらいを助かりますによりはゞかりながら是より其報恩はうおんに御前樣の蔭身かげみに添て何卒御立身出世りつしんしゆつせを成るゝ樣私が永く守り上る程に然樣思召し下さるべし返々かへす〴〵うれしやかたじけなしと云かと思へばコレ城富や〳〵と兩人の母におこされにけるにぞ城富はやうやくにさまし然すれば今のは夢にてありしやと大汗おほあせぬぐひながらやが委細ゐさいの譯を物語り扨も不思議ふしぎや今日のことをかくゆめに見ると云はこれまさしくちゝ富右衞門殿がゆめの中に御座られたのであらうと涙とともはなし合けるが此後富右衞門の女房にようばうは一七日すぎて幸手宿へ立歸り親類しんるゐ中を呼集めて後々の相談さうだん彼是かれこれとして其年もはや何時しかくれに及びたり


第七回


 明れば享保九年正月三日竹本政太夫たけもとまさだいふの方にては例年の通り淨瑠璃じやうるりかたそめなりとて門弟もんてい中打集まり一しほ賑々にぎ〳〵しくひと出入でいりも多かりける其頃西の丸の老中安藤對馬守殿あんどうつしまのかみどのの家來に味岡あぢをか勇右衞門と云ふひとありしが政太夫を贔屓ひいきになし今日も忍びにて語りそめきかんと參られけるが此人より土産として金千ぴき三味線彈さみせんひきの友次郎へも金五百ぴき又政太夫の女房にようばうへは縞縮緬しまちりめん一疋をおくられ今日の第一番客なりさてゆふ申刻なゝつ頃よりして立代たちかはり入代り語りそめをなす淨瑠璃じやうるり數々かず〳〵門弟は今日をはれと見臺に向ひて大汗おほあせなが素人連中しろうとれんぢうにも上手じやうずの人々は我も〳〵とこゑ自慢じまんもあれば又ふし自慢じまんもあり最もにぎはふ其が中に今宵城富は國姓爺合戰こくせんやかつせんしぎはまぐりだんを語りけるに生得しやうとく美音びおんの事なれば座中ざちうなりを鎭めて聽居きゝゐたりしがいまかたをはりし時一同にどつほめる聲家内やうちひゞきて聞えけり此折しも第一の客なる彼の味岡勇右衞門は如何いかゞ致しけんウンと云て持病ぢびやう癪氣しやくき差込さしこまれ齒をかみしめしかば上を下へとの大騷ぎとなりさいはひ城富は鍼治しんぢめうを得たる故直樣すぐさま療治れうぢを致させしに胸先むねさきより小腹せうふくの邊りへ一二しんうついなや立所に全快致しけり勇右衞門は持病ぢびやうゆゑ寒暖かんだんに付ておこる時は急にをさまらぬ症なるに城富の鍼治しんぢにて早速快氣こゝろよくなりける故大いに喜び紙につゝみて金二百疋をさし出し城富に遣はして此後折々我が屋敷やしきへも參るべしとてあつれいのべければ是よりして味岡あぢをかの方へも出入をなせしが鍼術しんじゆつに於ては大いにめうを得しとて彼方此方かなたこなた重寶ちようはうがられ其後味岡の手引てびきにて所々方々と出入もふえたりしが味岡は大岡殿と内縁ないえんあれば或日味岡勇右衞門は大岡殿へ出でし所越前守殿顏色かほいろよろしからず持病の癪氣しやくきの由申されければ勇右衞門しからばそれには誠に奇妙なる鍼醫師はりいし是あり私し儀も至つて癪持しやくもちにて難儀仕つりし處不圖ふとかれ鍼治しんぢにて全快いたし其後暫時しばらくおこり申さず實に上手なる由申述ける故越前守殿此由このよしきかれ夫は近頃ちかごろかたじけなし早速に呼寄よびよせ療治すべし其者は何所に居やと尋ねらるゝに勇右衞門其者儀そのものぎは長谷川町にまかあり名は城富と申して至つてはり功者こうしやに候と申けるにぞ越前守殿早々用人の山本新左衞門やまもとしんざゑもんめされ城富を呼寄せ療治れうぢ致させたきよし申されければ新左衞門はかしこまりて次へ下り早々手紙てがみを認めて中間ちうげんに持せ遣しける斯くて使ひの者は長谷川町なる城富のたくゆき状箱じやうばこを差出し南町奉行所の大岡越前守方よりきたりし由を申入けるにぞ城富は大いにおどろ養母やうぼに見せ何事ならんか家主いへぬしへも屆けんと思ひつれども今日は留守るすの由ゆゑ如何はせんとまづ養母やうぼ状箱じやうばこひらかせ見れば手紙一通有り養母も不審いぶかしとは思へ共城富の名宛なあてゆゑひらき見ても宜しかるべしとふう押開おしひらきて見るに

以手紙申入候未だ不得御意ぎよいをえず候得共其許之そのもとの鍼術しんじゆつ聞及きゝおよび候に付申入候此度旦那儀だんなぎ癪氣しやくきにて甚だ難儀被致いたされ候に付療治請られたく候間乍御苦勞ごくらうながら今日中に御出被下度もつと拙者宅迄せつしやたくまで御入來に預り度候餘者よはせつ萬端ばんたん可申述候以上

大岡越前守内
二月八日
山本新左衞門
城富殿

 右の通りしたゝめて有りければ城富も老母らうぼ先々まづ〳〵安心あんしんなりとて委細畏まり奉つり候と返事へんじを養母に認めもらひて使の者を返しける


第八回


 さても城富は手引てびきの者を連て其日晝過ひるすぎに大岡殿のやしきへ參り山本新左衞門のたくへ參上の由申入ければ新左衞門同道しておくまかり出しに大岡殿はナニ城富かちかう〳〵はやく來りしよとのことに城富は平伏へいふくしてはからず御召に預り有り難き仕合なりさりながら御前樣には如何遊いかゞあそばされ候やと申ければ越前殿され癪氣しやくきにて四花の邊より小腹せうふくへかけきり〳〵と差込さしこんで食事も進まず兎角にふさいでならぬが其方のうはさを味岡勇右衞門のはなししに依て承知致し呼に遣したり太儀たいぎながら療治れうぢたのむと云るゝにぞ城富不調法ぶてうはふの私し御召に預りまして有難く候と云つゝそば摺寄すりより療治れうぢに掛りしにもとより鍼術に妙を得しことゆゑ癪氣しやくきも速かにをさまりければ大岡殿には悦ばれ成程めうよい心持こゝろもちに成しと申されるに城富は先々御休息きうそくあそばされよと申て自分もやすみ居たりけるに大岡殿は寢返ねがへりて此方を見られコレ城富幸手さつて實母じつぼ息才そくさいで居かとの尋ねに城富はハツとかうべを下げ有難き仕合せ何も替りましたる儀も御座りませんとこたふれば大岡殿其方が親父おや富右衞門は扨て〳〵不便ふびんなることぢやが汝ぢが孝行かうかうでは富右衞門もやが蘇生そせいするであらうぞと申されしに城富は不思議ふしぎのことを云るゝとは思へども一かう其意を得ざれば夫は有難ありがたう御座りますが今ははや相果あひはてました親父が再び生ますと申す道理が御座いませうかと云つゝ涙を泣然ほろりおとせしにぞ大岡殿されば死したる者の蘇生そせいする所以はなけれ共是城富其方そちは彼の生田源内いくたげんないの物語りと云ふ草紙が有が聞たことはないか城富一向に承まはりしことは御座りませぬ大岡殿其生田源内いくたげんないと云ふ者は無實むじつの罪を受て攝州せつしう大坂にて御仕置に行はれしが此源内の娘にとよと云ふ大孝行の者が有てちゝ源内が入牢せし中讃州さんしう金毘羅權現こんぴらごんげんちかひをたて我が一命をかみさゝげて父の無實の罪にかはらんことを一しん不亂ふらんいのりしに今日ははや源内の罪きはまり御仕置と聞し故娘の豐は其日ちゝの引れゆきし御仕置場へ行て見るに終にあだつゆ消果きえはてしゆゑ泣々なく〳〵も其所を立去り我が家へ歸りかみいのりしこともむだとも成しとて夫より只管ひたすら菩提ぼだいとふらはんと思ひはなを供へ香をたいて只々一途に後生を願うてゐる所に其夜丑刻やつどき頃と思ふ折しも表の戸をとん〳〵とたゝく故是は何者なるやとかどの戸を明て見るに今迄もしたかなしみ居たる父源内立歸りければ娘の豐は夢現ゆめうつつかと思ひながらも大いに悦びことの仔細しさいを尋ぬるに源内は先内に入り我御仕置場にて首を切れしときハツとおもひしばかりにて其後そののちは何も知ずやがて氣が付て其あたりを見廻しけるに首はおちず何事も無健全まめ息災そくさいなり依て我が家へ立歸りしぞと物語ものがたりしかば娘はうれしく是全く金毘羅樣こんぴらさまの御利益りやくならんと早々うが手水てうずにて身をきよめて金毘羅の掛物を取出し伏拜ふしをがみけるに金毘羅のこんの一字は切放れて血汐ちしほしたゝり有ければ親子の者は一同にハツとひれふし有難ありがたし〳〵とて感涙かんるゐを流しけるが其中に罪人の本人が出て源内は長壽をたもちしと云事あり是等は即ち理外りぐわいの物語りにて天地てんちの間に不思議の有しことはあげかぞへ難し切れて助かる道理は無しと雖も世界の不思議神佛しんぶつの利益は無にも非ずさすれば其方の父富右衞門も蘇生そせいいたすじき者でも無い隨分ずゐぶん神佛をたのみ奉つりて信心しんじんを致すべしとの物語り有りければ城富は有難うぞんじ奉つりますと正直者しやうぢきもの故に萬一大岡殿の申さるゝ通り親が蘇生そせいでもすることかと思うて心の中にたのしみ神佛を信心して養母やうぼを大切に致しくらしける是よりは猶はりの療治も日々に繁昌はんじやうして諸家へもよばれ大岡殿へも時々療治に上りけるに其度々々に越前守殿にもちからそへて下され有難きことばを掛られけるとぞ此元は皆全く師の竹本政太夫のおかげなりとて猶更なほさら是をも大切にして兩人のはゝへ孝行をつくしけるこそ殊勝しゆしようなれ


第九回


 却てとく畔倉重四郎は小篠堤をざさづつみにて穀屋平兵衞を殺害せつがいし百兩の金子を奪ひ取り其上富右衞門に罪を負せ事落着らくちやくして富右衞門は御仕置しおきおこなはれけるにぞ我が奸計かんけい好機まんまと行しをよろこび三五郎へも百兩の中三十兩をわけて遣はし何喰なにくはぬ顏をして居たりけるこゝまた慈恩寺村にて大博奕おほばくち土場どばが出來鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞と云ふ名稱なうて博奕打ばくちうちが來りて大いに卻含はづみ金兵衞は五百兩ばかりかちし折柄自分の村方に急用きふよう出來せしによりいそ歸村きそんせよと飛脚の來りける故仲間なかまかくつげ振舞ふるまひなどをなしつゝ急ぎの用なればとて一どういとまを告て子分なる水戸浪人らうにん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人にあと取片付とりかたづけさせ自分はいそぎのことゆゑ一足先へ出立してあとよりおひつくべしと申聞け日の暮頃慈恩寺村じおんじむらを立出けるが時しも享保きやうほ八年七月十六日にて盂蘭盆うらぼんのことなれば村々にては酒宴さかもりを催せしもあり又男女なんによ打交うちまじりてをどるもありいとにぎはしけれども金兵衞はいそぎの用なればかへつて之を面倒に思ひつゝ足にまかせて歩行あゆみける此金兵衞の行裝こしらへ辨慶縞べんけいじまの越後縮の帷子かたびら銀拵ぎんごしらへの大脇差し落し差に差て菅笠すげがさふか打冠うちかぶり鷲の宮迄來りけるこゝに畔倉重四郎は此頃つゞく不仕合に勝負しようぶの資本薄ければ忽然たちまち惡心あくしんはつし鴻の巣の金兵衞が大いにかつ在所ざいしよへ立歸るを幸ひきやつを殺し彼者かれが勝し五百兩の金を奪ひ取んと心がけさきへ廻つてわしの宮の杉林すぎばやしに身をかくし金兵衞の來るを今やおそしと待懸たり金兵衞はかゝるべしとはゆめにも知ず慈恩寺村じおんじむらにて打勝し五百兩を懷中くわいちう小歌こうたうたひながら悠々いう〳〵大宮村おほみやむらへと行けるをりから畔倉は少し遣過やりすごしつゝうかゞよつて後より大袈裟掛おほげさがけに切付れば流石さすがの金兵衞も手練てなみの一刀にたまり得ずアツと一こゑさけびしまゝ二ツに成てはてたりけり重四郎は呵々から〳〵と打笑ひ仕てやつたりと云ながら刀ののりを金兵衞の帷子かたびらにて押拭おしぬぐ胴卷どうまきの五百兩を何の手も無く奪ひ取り懷中せんとするをりからあとより人聲ひとごゑがする故に重四郎は振返ふりかへり彼は定めし子分こぶん奴等やつら何も恐るゝにはあらねども水戸浪人奴みとらうにんめちと手強てごはやつ見付られては面倒也めんだうなり早々此場を立去んとて雲を霞と駈出しける扨又金兵衞の子分八田掃部かもん練馬ねりま藤兵衞三加尻みかじり茂助の三人はあとを片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ來懸きかゝりしが死骸しがいつまづき是は何者なるやと能々見るに親分おやぶん金兵衞の死骸なれば藤兵衞は大いに驚き先生々々こゝに親分がきられてときくより掃部も駈寄かけよつて能見れば正敷金兵衞の死骸なり南無なむさん何者の仕業しわざならんと三人は切齒はがみをなしていきどほれ共如何とも詮方せんかたなければやがて懷中を改めみるに是は如何に五百兩のかねは無くさて盜賊たうぞく所業しわざならんと近傍あたりを見れば扇子一本おちてあり藤兵衞手に取あげ能々よく〳〵見るに鐵扇てつせんにて親骨に杉田すぎた三五郎と彫付ほりつけ有りし故掃部大いにいかり然らば是は幸手さつての三五郎が所業しわざちがひし今西の方へ駈出かけだしてゆく人影ひとかげを見しがたしかに三五郎奴成らんと三人ひとしく此方の土手どてかけよりて見れば二三町へだてて西の村をさし迯行にげゆく者あり掃部は彌々彼奴あいつに相違無し是々これ〳〵藤兵衞飛脚ひきやくを立てうちへ此ことを知らせてれ己はすぐに茂助と共に三五郎を討取んと云ふに藤兵衞きゝて先生私しも一所にゆかんと申を否々いや〳〵夫では親分の死骸を無宿むしゆくにされては成らぬ是非々々手前てまへは此場の始末しまつをして呉れろと云棄いひすて追駈おつかけく此掃部と云ふ者はもとより武邊ぶへんの達者殊に早足なれば一目散に追行おひゆく所に重四郎は一里餘りも退のひたりしがうしろより駈來かけくる人音ひとおと有り定めて子分の奴等が來る成らんと深江村ふかえむらの入口に千手院せんじゆゐんと云ふ小寺有り住持ぢうぢは六十餘歳の老僧にて佛前に於て讀經つとめをして居るゆゑ重四郎は是幸ひと聲を掛けモシ〳〵和尚樣をしやうさま私しは只今災難さいなんあうて追人の懸る者何卒御慈悲じひを以て御隱匿かくまひ下さるべしと頼みければ老僧は是を聞て扨々夫はさぞ難儀なんぎなるべし出家のことなれば何かしてすくうて遣はすべし此天井てんじやうの上に不動明王ふどうみやうわう觀請くわんじやうして在りれ〳〵見るべし彼の天井のすみの所なりと其所へ這入はひるには爰の本堂より位牌壇ゐはいだんの後の方から這入がよいそして踏掛る所がある夫から又天井に切拔きりぬいあなが有るから其所より這入はひるべしと最と深切しんせつに教へけり重四郎は追詰られし事故心中如何はせんと思ふ所にかくの如く住持ぢうぢなさけ深く教へてくれける故大いに悦び拜々有難う御座りますといひつゝ彼の位牌壇よりかべに有る足溜あしだまりへ足を踏掛ふみかけ漸々としてつひに天井へ昇り其跡をいたにて元の如く差塞さしふさぎ先是では氣遣きづかひ無しと大いに安堵あんどなし息をこらして隱れ居たり斯る惡人なれども未だ命數めいすうつきざる所にや僧のなさけに依て危き命を助かりし事ぞ不思議ふしぎなる


第十回


 扨も八田掃部は騫直まつしぐら追懸おつかけ來りしが三五郎めはたしかに此寺に迯込にげこんだるに相違無しと御寺へ駈入眼をくばりながら住持に向ひ若し〳〵御寺樣てらさま只今人を殺して立退たちのきし者が此寺へ駈込かけこみしを慥に見屆たり何所に居り候やおし下さる可しとたづねければ住持はきゝは以ての外のことながら然樣さやうな者は參らず定めて門違かどちがひに候はんと云ひつゝ見向みむきもせず般若心經はんにやしんきやうよんで居けるに否々いや〳〵是へ追込しを見屆て參つたりれども御出家の儀なれば人をかくまうは道理もつともの事なるが私し共の爲には親分の仇敵あだがたきなれば何卒どうぞ出して御渡し下さるべしと押返おしかへして申けれども住持はかしらを左右にふり否々いや〳〵此方へは參り申さず來らぬ者を匿藏かくまうべき筋もなしとさらに取合ねば掃部は焦立いらだちそれがし慥に見屆たることなれば斯は申なり夫にても參らぬとならば我等が念晴ねんばらしに此御寺を家搜索やさがし致さんが此儀は御承知なりやと云ひければ和尚をしやう微笑ほゝゑみ夫は御勝手次第に家搜やさがしでも何でも致されよと一かう平氣へいきなり掃部然らばとて本堂を始め位牌堂ゐはいだうより其下の戸棚迄とだなまでがらり〳〵と明放あけはなして見るに中にはふるびたる提灯ちやうちん香奠かうでんの臺など有り夫よりして臺所だいどころ部屋々々へや〳〵座敷の廻り次の間ちやの間納戸なんど雪隱せついんは申に及ばず床下迄も殘る隈無くまなく尋ぬる處へ茂助もいきを切て駈付かけつけ來り兩人にて又々彼方此方かなたこなたと尋ね廻り地内の鎭守稻荷堂或ひは薪部屋まきべや物置等ものおきとうのこらずさがしけれ共かげだに見えざれば掃部は不審いぶかりもう此上は和尚をとらへて詮議すべしと又々本堂へ立歸りコリヤ和尚をしやうかくしたるに相違あるまじサア早く出せたゞし又何れへ落したるや明白めいはくに云へばし云はぬに於ては此方にも了簡れうけんが有るぞと詰寄つめよせけれども住持はなほじやくとして只今申せし通り少しも知らぬことなり然るをまだうたがひ有らば勝手かつてに致さるべしと申ければ掃部は大いにいかつてコレ坊主我等はたしかなる所を見屆て申すなり彌々いよ〳〵いはぬに於てはかうすると首筋くびすぢつかんで引摺出し力にまかせて板縁いたえん摺付々々すりつけ〳〵サア何だ坊主め白状しろ何處どこかくせしぞ但しは落したかと茂助ももろともに聲をあららげて打すゑると雖も知らぬとばかりゆゑ掃部は茂助になはを取てきたれと言に茂助は臺所より荒繩あらなは持來もちきたりければ和尚を高手たかて小手こてしばはり釣上つりあたきゞを以て散々さん〴〵打てば和尚は眼を開きコリヤ〳〵假令たとへかくしたりとて出家の境界きやうがい今更其をあかすべきや然而まして一向知らぬこと此身體は素よりかりの世なり殺さば殺せ勝手にしろと云を兩人は聞イヤハヤ此奴こいつ硬情しぶとき坊主めと云樣力に任せて一打あばらを打けるにウンと言て其まゝ悶絶もんぜつなせしかば茂助は驚き先生せんせい苛酷ひどいことをされたり夫では爰には居ぬにちがひも有めへかたき幸手さつての三五郎と知れてゐるからは先々親分の死骸を葬り相手に油斷をさせ置て不意ふいに幸手へ押掛おしかけ三五郎を討取うちとる工夫くふう幾等いくらも有うと言ふに掃部も成程敵は知て居上ならばマア急事せくこともねへが彼が兄弟分の重四郎と云ふやつは少し手強てごはひ奴なり然し侠氣たてひきも有奴だから親分の敵をうつ云聞いひきかせ何か助太刀をして呉ろと頼んで見樣みやう若し承知すれば此方の味方いやと言ふならばまづ重四郎を先へ殺してやらうと二人相談をなしやがて此寺を立出けり其時畔倉重四郎は彼等が相談せし樣子を天井に潜伏かくれちく一聞屆け時分はよしと天井を飛降とびおり和尚を見につるし上られたまゝしたる體ゆゑ重四郎も流石さすが氣の毒に思ひハヽア僧主は僧主だけ正直な者然し打殺うちころさるゝ迄云ぬと言ふは武士にもました丈夫な精神たましひ天晴々々あつぱれ〳〵感心した然し彼の掃部めは三五郎が殺したと心得しは鐵扇てつせんを三五郎からかりて來て死人のそばおとした故彼等が三五郎と思ひしなり是で好々よし〳〵ひとり言を云つゝ臺所へ到りアヽはらへつた何ぞないかと其所そこらをさがし何か戸棚より取出して飯櫃めしびつ引寄ひきよせ十分に食終くひをはり夫より悠然いう〳〵と幸手宿へ立歸り此由を三五郎にはなし密かにしめし合せ彼等の子分が金兵衞のかたきねらひ來る時は斯樣々々かやう〳〵手配てくばりを成して用心堅固けんごに居たりけり


第十一回


 時に文月ふみづき廿八日の入相頃いりあひごろ金兵衞の子分八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞等三人打連立うちつれだつて畔倉重四郎がたくへ入來り先生は御宅かと聲をかくれば重四郎はイヤ來たなとは思へども何喰なにくはぬ顏にて是は〳〵めづらしく御揃ひでよくこそ御入來かたじけなしと挨拶あいさつなすにやがて掃部は聲をひそめ早速ながら先生へ折入をりいつて御頼み申度事あつて參上致したりと云ば重四郎はまた何事かは知らねどもあらたまりし其御詞日來ひごろよりの懇意と申し貴殿も武士我等も武士のはしくれ見掛て御頼みとあらば否とは申さぬシテ何事で御座ると問に掃部イヤ外の事でも御座らぬが我々の親分おやぶん鎌倉屋金兵衞事桶川宿をけがはじゆくわしの宮に於て殺され其上に五百兩と云ふ金子かねとられしと云もをはらぬに重四郎成程なるほど金兵衞親方が殺されたと云うはさは聞たれ共人の云事ゆゑ實正じつしやうとも思はざりしが夫なら彌々いよ〳〵人手ひとでかゝられしかしてかたきは知しかと聞に掃部されば其事に付貴殿へ助太刀すけだちを御頼み申たく何分御加勢かせい下さるべしといふにぞ重四郎然らば我等を男一ぴき見込みこんで御頼みと有ことなれば何のいなとは申まじ而々さて〳〵其敵そのかたきいふは何者なるやと申せば掃部はまだあやぶみイヤ其事なりさきの相手によつては御差合さしあひも御座らうとぞんずるゆゑ確乎しかとした御詞を承知致さぬうちと敵の名前は申されぬ善惡共ぜんあくとも御承知下されたる言御挨拶あいさつの上御話申べしといふに重四郎成程御道理もつともの儀武士たる者は義を見てざるはゆうきなりと云詞をたうと拙者それがしを見込で御頼みとあれば假令たとへ親兄弟おやきやうだいたりとも義に依ては急度きつと助太刀すけだち致すべしと言へば掃部は聞て偖々さて〳〵頼母たのもしき御心底しんていかんじ入たり然樣さやう御座らば何を隱し申べきや其敵といふは貴殿の兄弟同樣になさるゝ三五郎なりと聞重四郎驚きしていにてして其三五郎を敵と申さるゝは何ぞたしかな證據有ての儀で御座るかととふに掃部さればとよ日外いつぞや慈恩寺村へ金兵衞が出し所在所よりきふに歸るべしとの使つかひが來り其時我々はあとのこり何や取片付とりかたづけ親分は先へもどりし其ばん鷲の宮にて切殺されたる其跡へ我等三人參り合せて見る處に死骸しがい近傍かたはらに落て有しは是なり此鐵扇てつせんを取上て見れば牡丹ぼたんの繪にうらには詩をかいて有り又此通り親骨おやぼねに杉田三五郎と記してあれば全く敵は三五郎に相違無さうゐなし是によつて先生に助太刀を御頼み申て討取度存ぜし所なり何卒御頼み申と云へば重四郎如何さま然樣さやうのことに御座れば全く三五郎の所爲しわざならん併しながら是迄別懇べつこんに致せし三五郎なれ共一旦頼まれし上からはあとへは引ぬ重四郎如何にも承知致したりと申に掃部は打喜うちよろこかくあらんと見込で我々が御頼み申せし上からは早急さつそくながら是より直樣すぐさま三五郎の宅へ御同道下さるべしと立上るを重四郎まづしばらくと押止おしとゞめ必ず早まり給ふな親分のかたきは三五郎と知たる上其は宜敷よろしき時刻じこくを計つて討洩うちもらさぬ樣に致すが肝要かんえうなり殊に今宵こよひ三五郎は宅にをらさすれば仕懸しかけゆくとも其詮無そのせんなしと云ふにぞ掃部是を聞て然らばいづれへ參りしや其行先ゆくさきを御存じなるか重四郎され今晩こんばん元栗橋もとくりばし燒場隱亡やきばをんばう彌十の處に於て長半が出來ると云によりゆふ申刻頃なゝつごろから行べしと拙者それがしをもさそひしか共少し外に用事も有し故三五郎ばかり先へつかはし置たり然れば是得難えがた時節じせつなりと云ふに三人の者是を聞て大によろこび何卒よき手段しゆだんを以て三五郎を討取うちとるやうひとへに御頼み申なりと重四郎の意にしたがひければさらば是より案内致すべし彼隱亡かのをんばう彌十が方へ到りて三五郎を呼出よびだし置て其時拙者せつしやも助太刀致し首尾能しゆびよくかたきを討せ申べしと重四郎は眞實まことしやかに言ければ掃部を始め茂助藤兵衞等しきりと打悦び何分なにぶん宜敷よろしく御頼み申なりとて是より皆々みな〳〵食事しよくじなど致し十分其支度に掛りけるさて又三五郎はかねて重四郎よりの談話はなしもあれば金兵衞が子分等扇子あふぎを證據となしかたきねらふは必定なりと思ひ日頃より用心堅固けんごにして身を戒愼つゝしみ居たりしが此日重四郎に用事ようじあつ隣家となり來掛きかゝりし所重四郎がたくにて囂々がや〳〵と人聲なすゆゑ何事やらんとひそかに身をひそめ内の樣子をうかゞひけるに金兵衞が子分共三五郎を敵とねらひて元栗橋へ出掛る相談なりしかば三五郎さては重四郎が彼三人の奴等やつらを引出し利根川通とねがはどほりにて殺す了簡れうけんなりとさとり獨り點頭うなづきつゝ好々よし〳〵さきまはりて助太刀をしてやらんとしり引縛ひつから強刀物だんびらものを落しざしになし頬冠ほゝかぶり深く顏をかく利根川堤とねがはづつみさしいそぎけり


第十二回


 然程さるほどに畔倉重四郎は鎌倉屋金兵衞の子分こぶん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人をともなひ我がを出て元栗橋もとくりばしへと急ぎ行く程なく來掛きかゝる利根川堤早瀬はやせなみ水柵しがらみに打寄せ蛇籠じやかごを洗ふ水音みづおと滔々たう〳〵として其の夜はことに一てんにはかに掻曇かきくも宛然さながらすみながすに似てつぶての如きあめはばら〳〵と降來る折柄をりから三更さんかうつぐ遠寺ゑんじかねガウ〳〵とひゞき渡りいと凄然ものすごく思はるればさしも強氣がうきの者共も小氣味こきみ惡々わる〳〵足にまかせて歩行あゆむうちあをき火の光り見えければあれこそ燒場やきば火影ひかげならんと掃部は先に立て行程にはや隱亡小屋をんばうごや近接ちかづく折柄をりから道の此方こなたなる小笹をざさかぶりし石塔せきたふかげより一刀ひらりと引拔稻妻いなづまの如く掃部が向うずねをずんと切落きりおとせば掃部はたまらず尻居しりゐどうたふれつゝヤア殘念ざんねんうらめしやだまし討とは卑怯ひけふ未練みれん是重四郎殿何者か我があしを切りたるぞはやとらへ給はれと云ふ間あらせず重四郎は心得たりと一たうひらりと拔より早く練馬ねりま藤兵衞を後背うしろよりばつさり袈裟掛けさがけに切放しければ是を見るより三加尻茂助は飛退とびすさおのれ重四郎助太刀の案内あんないするといつはりて此所へ我々を引出しだまうち卑怯至極ひけふしごくなり其儀ならばと一刀引拔討て掛るを重四郎心得たりと身をかはし二うちうち打合うちあひしがすきを見合せ一せいさけんで肩先より乳の下まで一刀に切放せば茂助はウンとばかりに其儘そのまゝしゝたる處へ以前の曲者くせもの石塔せきたふかげよりあらはれ出るを掃部はたふれながら下よりよこはらふにさしつたりと飛違とびちがひ掃部の利腕きゝうで切落きりおとし二の太刀を脾腹ひばら突込つゝこみぐつと一ゑぐりゑぐりし時重四郎は荼比所だびしよ火影ひかげかほ見逢みあはせヤア三五郎か重四郎殿好機しつくり參つて重疊々々ちようでふ〳〵扨此樣子は先刻さつき用事ようじあつて貴殿の宅へ參りし所何か人聲がする故樣子有んとうかゞへば金兵衞が子分共こぶんども我をかたきねらうたんとて先生と同道どうだうなし元栗橋もとくりばしゆかんとの相談さうだん最中さいちうは全く其奴等そいつら三人を土手迄どてまで引出しばらして仕舞ふ計略けいりやくならんと悟りし故助太刀せんと先へまはり此處にて待伏したればこそ此始末このしまつかたるを聞て重四郎成程々々なるほど〳〵好氣味よいきみなり然し此まゝかうしても置れまいと兩人つぶやき居る折から此物音に驚きて隱亡をんばう彌十ひげ蓬々ぼう〳〵かみ振亂ふりみだし手には鴈投火箸がんどうひばしを以て出で來れば重四郎は見て其所へるのは彌十か是は重四郎樣と云ふ時手招てまねぎして畔倉こゑひそめコレ彌十今手に掛けし此奴等はみな宿無やどなしなれど此死骸このしがいが有ては兎角後が面倒めんだうなり何と此奴こいつ等を引導いんだうを渡してくれろと云ふに彌十聞て日來ひごろ懇意こんいまかせ承知はしましたが燒代やきだいどうしてと言を重四郎知れたこと夫三兩と投出せば彌十は其かね請取うけとりつゝ大いによろこればすつぽりやきませうと申にぞ兩人は夫なら彌十頼んだぞ彌十御案事ごあんじなされますなと三人の死骸しがいあつめて火屋へいれかけければ重四郎は三五郎を同道どうだうして立歸り此ほどうばひ取し金子の中百兩を三五郎に分配わけ遣殘やりのこりの四百兩を懷中くわいちうなし是迄の所に居るは心惡こゝろわるし一先上方へ立越たちこえて何處へか身を落付おちつけんと思ひ近處きんじよ近傍きんばうへは古郷なる筑後ちくご久留米くるめへ赴くといひなしてぞ立出ける


第十三回


 さても重四郎は幸手さつてを立出で一先江戸表へ來りて處々しよ〳〵見物けんぶつなさんと十五六日も逗留とうりうして上野淺草吉原兩國芝増上寺其外そのほか處々を見歩行みあるき或日又本町通りを彼方此方かなたこなたと見物して來かゝる處に髮結床かみゆひどこの前にて往來の人が立噺たちばなしをなし居たるを何ごころなく聞に一人の男コレ彌兵衞さん然樣ならば今日は御立で御座るかと云ば彌兵衞ハイ此度このたびは私しが立番たちばんで御座い升最早もはや今夜子刻こゝのつには出立なれど丑刻頃やつごろには成ませうと言にをとこそれは〳〵御苦勞若々もし〳〵彌兵衞さん此節は道中で油斷ゆだんなさるゝな跡月あとげつも遠州屋と山田屋の飛脚ひきやくきられたと申すこと御如才ごじよさいは有まじけれど隨分ずゐぶん御用心が肝要かんえうで御座ると心付れば彌兵衞ハイ有難ありがたう御座い升私しどもなどはまこと御方便ごはうべんと只今迄は何事にも出會であひませんと申を彼の男それ結構けつこうなこと隨分ずゐぶん御達者で御歸りなされましハイ然樣さやうならばとわかゆくを重四郎は振返ふりかへり見れば胸當むねあてをして股引もゝひき脚絆きやはんこしには三度がさを附大莨袋おほたばこいれげたるは如何にも金飛脚と見えけるゆゑあとより見えかくれに附け行て見屆みとゞけたるに瀬戸物町十七屋孫兵衞と云ふ飛脚屋ひきやくや這入はひりけるが今日が立日たちびにて店先みせさきに手代共居双ゐならび帳面など認めし此方こなたには大勢の若い者荷拵にごしらへを成し馬は外につないで有る樣子なり重四郎是を見て此者が金飛脚かねひきやくにて今夜子刻過こゝのつすぎ丑刻頃やつごろには立つと云ふはなしなればあけ寅刻過なゝつごろには鈴ヶ森へ懸るは必定なりどくくらはゞ皿迄さらまでと云ば今宵彼を殺害ころしして金を奪ひ取り行掛ゆきがけ駄賃だちんにしてくれんと獨り笑壺ゑつぼ入相いりあひかねもろともに江戸を立出たちいで品川宿の相摸屋へ上りのめうたへとざんざめきしが一寸ちよつとこに入り子刻こゝのつかね相圖あひづに相摸屋を立ち出で半醉機嫌ほろゑひきげん鮫洲濱さめずはま繩手道なはてみち辿たどり〳〵て鈴ヶ森に來り並木なみきかげに身を忍ばせ彼の飛脚のくるとしおそしと待居たり然るにあけ寅刻頃なゝつごろとも思ふ頃はるかに聞ゆる驛路えきろすゞ馬士唄まごうたこゑ高々たか〴〵と來掛る挑灯てうちんすかし見れば彼の十七屋となやのの飛脚に相違なしよつて重四郎は得たりとしりひつからげて待つほどに定飛脚ぢやうひきやくかきたりし小田原挑灯を荷物にもつ小口こぐち縊付くゝりつけ三度がさかぶりて馬にのりつゝ是々馬士まごどの今夜は何だかさびしい樣だ何日いつも寅刻頃なゝつごろには徐々そろ〳〵人の往來ゆきゝも有のに鮫洲から爰迄こゝまで來中くるうちに一人も逢ぬ扨々さて〳〵さびしいことだぜ馬士まごアイサ此節は人通りが少無すくなくなつて否はや一かう不景氣ふけいきなことさ品川歸りも通らねえ隨分ずゐぶん氣を附て道中をなされましとはなしながらに行所を此所こなた松陰まつかげより忽然ぬつと出たる畔倉重四郎ものをも云ずうまうへなる飛脚の片足かたあしをばつさりと切付きりつけたり飛脚はアツと馬よりころげ落るを二のかたなにてもなく切殺きりころしけるにぞ馬士まごは大きに驚き仰天ぎやうてんして人殺し〳〵といひながら一目散に迯出にげいだすを重四郎おののがしては後日のさまたげと飛掛とびかゝつて後背うしろよりまつ二ツに切下きりさげれば馬士まごどうたふるゝ處をとゞめの一刀を刺貫さしとほもろい奴だと重四郎は彼の荷物にもつ斷落きりおとしてうちより四五百兩の金子を奪ひ取つゝ其儘そのまゝ此所を悠然いう〳〵と立去りやが旅支度たびじたくをして相摸路より甲州へいたり是より所々方々と遊歴いうれきなし種々いろ〳〵樣々さま〴〵たのしみ居たりけるさても翌日所のもの共此ていを見出し大いに驚きて飛脚ひきやく馬士まごの殺されたるおもぶきを早々鈴ヶ森の村役人むらやくにんへ屆けければ村役人は其段訴へ出で早速さつそく檢使の役人出張ありて改め等相濟あひすみ飛脚の死骸しがいは十七屋孫兵衞方へ引渡ひきわたしと相成けるとぞ其のむか延文えんぶん康安かうあんの頃伊勢の國司こくし長野ながのの城主仁木右京大夫義長につきうきやうだいふよしながおのれが擅横ほしいまゝに太神宮の御神領迄ごしんりやうまで押領あふりやうしければ神主等大いに怒りて此段を訴へ其上なほも義長をうらみて神罰をかうむらせんものをと思ひ居たり然るに義長は我がまゝ増長ぞうちやう五十鈴川いすゝがは椻止せきとめて魚類を取り又は神路山かみぢやま分入わけいりたかはな遊興いうきようは日頃に十ばい仕たりける是に依て神主かんぬし共五百餘人集會あつまりさかきの枝に四手を切かけて種々と義長の惡逆あくぎやくを申立て彼を蹴殺けころし給ふべしと呪咀しゆそしけるに七日目の明方あけがた十歳ばかりの童子わらべかみ乘遷のりうつり給ひこゑあららげ我が本覺ほんがく眞如しんによの都を出で和光わくわう同塵どうぢんあとを垂しより已來このかた本尊ほんそん現化げんげの秋の月はてらさずと云所も無く眷屬けんぞく結縁けちえんの春のはなかをらずと云ふ袖も方便はうべんかどには罪有る者をばつがた抑々そも〳〵義長の品行おこなひ汝等なんぢら天に訴へ祈り呪咀じゆそすること道理もつともなれども彼が三世の其以前そのいぜんは義長こと法師にて五部の大藏經を書寫かきうつし此國を治めたり善根ぜんこん今生こんじやうむくい來て當國を知行することを得る因てしばらく其罪をゆるし置者なりと御詫宣たくせん有けるとかやされば此畔倉重四郎も則ち是等の道理だうりに有んか前世の因縁いんねんも有しことなるかしかしながら是もたゞしばしうち斯る大惡不道も天のゆるしを蒙りて其身そのみ安泰あんたいなれ共何ぞ其罪のむくはざらんや後々のち〳〵を見て恐るべし〳〵


第十四回


 扨も畔倉重四郎は十七屋となつやの飛脚を殺して大金をうばひ取り夫より所々を遊歴なし東海道とうかいだう藤澤ふぢさは宿の松屋文右衞門と云ふ旅籠屋はたごやへ來り二三日逗留とうりうしけるが退屈たいくつの由にて或日藝妓二三人に松屋の若者又は近所の者共ものどもなどを多く引連ひきつれて江の島へ參詣さんけいし其歸りに島の茶屋にて酒宴しゆえんを始めけるが又隣座敷となりざしきに是も江の島へ參詣さんけいと見えて藝妓二三人を引連ひきつれ陽氣やうきに酒をのみたるに重四郎が同道どうだうしたる者皆々心安こゝろやすていにて彼是聲など懸合ふゆゑ樣子やうすを聞ば藤澤第一番の旅籠屋はたごやにて大津屋の後家ごけゆうと云者なりとのことに重四郎は彼お勇を能々よく〳〵みれとし三十歳みそじを二ツ三ツこえ中脊ちうぜい中肉ちうにくにしていろしろ眼鼻立めはなだちそろひし美人ながら髮の毛の少しうすきは商賣上しやうばいあがりの者とども本甲ほんかふ櫛笄くしかうがひさしぎんかんざしに付たる珊瑚珠等さんごじゆとういづれも金目の物なり衣類は藍微塵あゐみぢん結城ゆふきを二枚かさ唐繻子たうじゆす丸帶まるおびをしどけなくむす白縮緬しろちりめん長繻袢ながじゆばんを着せし姿すがた天晴あつぱれ富豪ふうか後家ごけと見えければ重四郎亦々また〳〵惡心あくしんを生じ幸い後家と有からは何卒どうぞれて暫時しばらく足休あしやすめに致したしと思ひ夫より言葉を掛けやがて一座と成て酒宴さかもりうち後家に心有りなる面白可笑おもしろをかし盃盞さかづきことに後家のお勇も如才じよさいなき人物しろものゆゑ重四郎が樣子を熟々つく〴〵見るに年はまだ三十歳をこえぬと見えせいたか面體めんてい柔和にうわにて眉毛まゆげ鼻筋はなすぢ通りて齒並はならそろいやみなき天晴の美男にして婦人ふじんすく風俗ふうぞくなり衣類は黒七子くろなゝこの小袖にたちばな紋所もんどころつけ同じ羽折はをり持物等もちものとうに至る迄風雅ふうがでもなく意氣いきでも無くどうやら金の有さうな浪人らうにんとおゆうは大いに重四郎に惚込ほれこみしが翌日は上の宮へ參詣さんけいなし額堂がくだうにて重四郎はお勇とたゞ兩人差向さしむかひの折柄をりからお勇は煙草たばこ吸付すひつけ差出しながらモシ重さん此程このほど不圖ふとした御縁で御心安く成ましたところ明日はわたくしも宿やどもどりますが御前さんは是から何邊いづれへ御こしなされますと云ば重四郎笑ひながらされ何所いづくの誰や我を待らんとか申せばいづれへ落つくかば我ながらも知ぬ浮世定うきよさだめなき浪人の風にまかせて居る身體からだで御座ると云を聞きお勇否々いや〳〵夫は眞實ほんたうとも存じませんが若御ことばのやうならかへつて御うらやましく存じます女の身にては見たき處が有ても見られもせずさりながら御前樣まへさまには最早もはや三十に近き御年頃としごろに見上ますが御住居をお定め成れたならはゞかりながら宜敷よろしく御座りませうと云に重四郎さればで御座る世間せけんを渡り歩行あるく倦果あきはてたれども差當り未だ有縁うえんの地もないと見えてかく歩行あるきます何卒どうぞ五十か七十の敷金しききんでも致して何樣どのやうな所でも身をかたたう思ひますからよき入夫にふふの口でも有ましたなら御世話を御頼み申ますと云にぞお勇はいやもうまへさんの樣な御人柄と云ことに金の五六十兩御持參と有ば世間にほしがる所は降程ふるほど御座りますしかし定めて器量きりやうの御望み小野をの小町こまち衣通姫そとほりひめの樣な手いらずの娘をおもちなさらうと云思召おぼしめし成んと云ければ重四郎は否々いや〳〵その樣におなぶり成るゝな我等如き浪人らうにん者誰がむこに取ませう何樣どのやうな所でも先でいれてさへくれれば夫にいとひは御座らぬと云にお勇然樣さやうならば女はどうでもよいと仰しやいますか夫成ば只今一けん御座ります其家は間口まぐち十三間奧行おくゆき二十五間田地は十石三御年貢ごねんぐをさめてそのあとが八十四五へう程も取入ます大凡おほよそ家邸いへやしき五百兩諸道具が三百兩餘りかゝへの遊女が十四五人是を捨賣すてうりにしても六七百兩ぐらゐ都合つがふ千五百兩餘の身代で御座りますときいて重四郎夫は大層たいそうなこと勿々なか〳〵然樣さやうな處では先が不承知でと半分云はずお勇は否々いや〳〵えんと云者は然樣さう致した者では御座りません然し御内儀おかみさんにならんと云ふ人がとしを取ても卅二歳少々ちと婆々ばゝすぎますけれども其代りしうと厄介やくかいも子供もなくうちは其女獨りにて若御内儀おかみさんに成ならば其こそ〳〵貞女ていぢよ御亭主ごていしゆを大切に致して至極しごく宜敷よろしう御ざいますと申ければ重四郎それあまりと申せば能過よすぎます私し風情ふぜいと云にお勇否々いへ〳〵然樣さやうでは御座りません御承知なれば御世話おせわ致しませう先でも金子の望みはなけれ共たびの御方はしりかるいによつ其故そこ先方むかう氣遣きづかひに思ひますから金子を掛て振舞ふるまひでも致すやうにたく夫に付金の五六十兩も持參で御出成いでなさるならすみやかに御相談が出來ますと云ひながら目顏めがほで夫れと知らするてい故意わざと重四郎は氣の付ぬふりにて夫は願つても無い僥倖さいはひさういふ口なら金の百兩ぐらゐどうともして才覺さいかく致しますなんと御世話を御頼み申すと云にぞお勇は彌々いよ〳〵にのり然樣さうならば先方むかうはなしてウンと云時は御變替へんがへなりません其所そこを御承知で御座りますかとねんおせば重四郎何が扨武士に二ごんは御座りませんと云ふにぞお勇はそれきゝてオヽうれしや申し重四郎樣と云ながらと身をよせ其縁談そのえんだんの大津屋段右衞門の後家ごけにて縁女えんぢよはおはづかしながらと口籠くちごもり顏を赤らめしが思ひ切てわたくしで御座ります然樣さやう聞成きゝなされたらさぞいやで御座りませうと云つゝ邪視ながしめに見やりたる其艷色うつくしさにナニ夫が眞實ほんたうならどうして〳〵此重四郎が身に取ては實に本望ほんまうなりと云ふとき人來りければ二人は素知そしらぬていにて左右さいうわかれ其のち藤澤へ歸りてよりなほお勇と相談さうだんうへ小松屋文右衞門は幸いに縁家えんかなれば親分に頼んでも定めていやとは云ふまじと爰に於て内談ないだんきまりければ重四郎は小松屋文右衞門を親分にして後家ごけお勇の方へ入夫にふふ這入はひり名を大津屋段右衞門と改めてまづしばらくは落付けり


第十五回


 かくて又幸手宿さつてじゆくなる杉田三五郎は重四郎と共に金兵衞の子分こぶん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を利根川邊とねがはべりにて殺し重四郎が幸手宿を立退たちのき金兵衞より奪ひ取りし金のうち百兩を分前わけまへもらひしが惡金あくきん身に付ずとのことわざの如く其金はみな博奕ばくちに取られて仕舞しまひ今は寢酒ねざけだにも呑事のむことならず此頃はなほ打續うちつゞ不仕合ふしあはせにて一錢の資本もとでにも差支さしつかへしかば胸に手を置て考へしが忽ちに一けいを思ひ付ひとり心のうち喜悦よろこびつゝ彼の畔倉重四郎は今藤澤宿にて大津屋おほつやと云ふ旅籠屋はたごや入夫にふふなり改名して段右衞門と申す由をきゝし事あればまづ彼の方へゆきて金を無心むしんする時は舊惡きうあくを知たる我ゆゑ退引のつぴきならず四五十兩位の金をかすちがひ無しと目的みこみをつけ夫より藤澤宿をさして立ち出でたり然るに重四郎の段右衞門はしばらくの足休あしやすめと思ひのほか見世みせ繁昌はんじやう大分おほかたならず何不足も無き身分と成しかば一生涯しやうがいにて我は終らんと其後は惡事もなさず暮しけるが或日おもての方より來りて旦那は御家にかと問者とふものあるを聞て段右衞門は是をみる幸手宿さつてじゆくの三五郎なりしかば是はめづらしやまづ此方こなたへとて奧の座敷へ通し女房お勇にも我等が浪人らうにん致し居し頃種々いろ〳〵世話に成し人なりといつはさけ肴等さかなとう前揃とりそろへて三五郎をあつ饗應もてなしける然るに三五郎は家の樣子を能々よく〳〵見るに殊のほか大掛おほがかりなりしかば心中大に悦び段右衞門に向かひて我等此節は不仕合ふしあはせにて諸事に運惡うんわる資本もとでまでまけうしなひたり因て此藤澤宿迄故意わざ〳〵無心むしんに來しなり又我等が仕合しあはせよく返濟へんさいすべきあひだ暫時しばらくうち金子五十兩貸給かしたまはれと申ければ段右衞門も大事を知たる三五郎のことゆゑいやともいはれず早速さつそく五十兩の金子を取出して返濟へんさいには及ばずと渡し先々まづ〳〵ゆるりと滯留たうりう致されよ我等も此家の入夫に這入はひりしより以來このかた堅氣かたぎなりしが其前幸手を立退て江戸に滯留中たうりうちう鈴が森にて十七屋となつやの金飛脚を殺し金子五百兩うばひ取しが惡事の仕納しをさめなりと咄しければ三五郎聞てまゆをひそめ夫は博奕打ばくちうちや盜賊を殺してとるかねは同じ罪でも罪はかるし唯の者を殺したるはまこと大罪だいざいなり因て始終は其身かたなくずに懸らん貴殿おまへ堅氣かたぎ商人あきうどなられし上は此後必ず惡事を給ふことなかれと云ながら金を受取歸りしが是を無心の始めとして其後度々來りては無心を云掛いひかける故段右衞門も今はあきはててぞ居たりける


第十六回


 扨も幸手宿の三五郎は藤澤宿の大津屋方へ度々たび〳〵金の無心に來りし故に此節このせつは段右衞門も厭倦果あぐみはてて居たりしが又或時三五郎來り我等われら此節このせつ不仕合ふしあはせ打續うちつゞことほかこまるにより金子三十兩かしくれよと頼みけるに段右衞門も當惑たうわくの體にて我此家へ入夫に參りてやうやく一年ばかりなれば勿々なか〳〵然樣さやうに金子を自由には取扱とりあつかひ難く殊に只今たゞいま手元てもとには一兩の金も是無しと云と雖も三五郎は遙々はる〴〵是迄これまで來りしゆゑ何卒くれよと申に段右衞門我等われらいまべつ金儲かねまうけも無れば是非もなしとことわるを三五郎は否々いや〳〵何にしても此度は是非共ぜひともかしくれよ翌日あすにも仕合しあはせよければ返すべしとて何分承知せざれば段右衞門も心中に思ふやう彼奴かやつが身に惡事のあるを付込つけこみ度々無心に來れどもかさぬ時はこと面倒めんだうに成べしと思案しあんして三五郎に向ひまでにいはるゝなればわれ今より品川迄用事あつてゆくあひだ先方せんぱうにて才覺さいかく致し遣すべしとやが身拵みごしらへをなしおぼえの一刀差込で三五郎諸共もろともに我が家を出けるが川崎手前にて日のくれるやうにはか道々みち〳〵たはぶごとなど言て手間てまどり名にしあふ鈴ヶ森に差掛りし頃はやゝいつゝぎにもなりければ重四郎は前後を見返りしに人影もなく丁度ちやうど往來も途絶とだえしかばその邊にて殺さんと思へども此奴きやつ勿々なか〳〵の曲者なれば容易たやすくうしなひ難しれども幸ひ今宵はやみにてくらさはくらしいかにも遣過やりすごしてと思ひ故意わざと腰をかゞめて歩行あるきながら三五郎に向ひ我等近頃𬏣癪せんしやくにて折々難澁なんじふ致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ入夫にふふまゐつてより金がたまりし故にこしひえるのんなんど戯談たはぶれつゝ先へ行を十分に遣過やりすごうしろの方より物をも云ず切掛しに三五郎も豪氣さるものなれば飛退とびのきさまに拔合せ汝れ重四郎めなんぢや惡事を知たる我なればだまして殺さんとは卑怯ひけふ未練みれんの仕方なり其儀ならば是より直に公儀こうぎに訴へ穀屋平兵衞を殺して金子百兩を奪取うばひと夫而已それのみならず慈恩寺村じおんじむらにて鎌倉屋金兵衞をも殺害せつがいして金を取たることまで逐一ちくいち訴へ呉ん邪魔じやませずと其所そこひらいて通しをれとのゝしるを段右衞門はいかおのいかして置ば我が身の仇なり覺悟をせよと切付るを三五郎は心得たりと受流うけながし暫時が程は戰ひしが如何で重四郎に敵するを得んや追々おひ〳〵太刀筋たちすぢみだ四度路しどろになる所を終に眞向まつかうより梨子割なしわりに割付られ其儘動とたふれ二言と云ず死たりけり此時近傍かたはらの非人小屋に乞食こつじきむしろかぶり寢て居たるが兩人の爭ふ聲を聞て恐れをなし莚を首にまとすきよりそつと戰ひをのぞき居たりしが終に一人の切殺さるゝを見て其まゝむしろかぶふるひ〳〵居たりける段右衞門は此體を見しも一かうにことゝも悠然いう〳〵として我が家へ歸りけるがさて此所の非人共かくと村名主方へ達しければ村役人立合にて檢使けんしを願ひいで改め見るに何者なにものの殺したると云ふ事一かうに知ず非人共を呼出よびいだして委細ゐさいを尋ねし所三五郎が戰ひながらに申たる事又段右衞門が云たる事迄逐一ちくいち申立しかば其趣きを一打書いちよがきにして大岡殿の奉行所ぶぎやうしよへ差出しければ大岡殿は殺されたる者の懷中くわいちうの紙入を取寄て其中そのうちを改められけるに死人しにんの宿所は幸手宿と云ふ事しれければ早速さつそく其所へ人を遣はし尋ねられける所三五郎としれしにより三五郎の女房を呼出よびいだしに相成しかば村役人ども并に三五郎妻おふみもろともに江戸表大岡殿御役宅やくたくまかり出しむねとゞけしによりやがて越前守殿の白洲へ呼入よびいれられ三五郎つまお文を見られて其方をつと三五郎は何所いづれまゐると申して何日頃宅を出しやと尋問たづねらるゝにお文は恐る〳〵かうべを上げ夫三五郎儀一昨日藤澤の大津屋段右衞門かたへ參り候とて宅を立出たちいで候と申立るに大岡殿は彼の非人が申立たる口書を讀聞よみきかせられければ女房おふみは大いに驚き然らば夫三五郎を殺せしは大津屋段右衞門に相違御座なく候と申立るゆゑ大岡殿は何を證據しようこに大津屋段右衞門と申立るや不審ふしん至極しごくなりとありければお文は恐れながら申あげますみぎ藤澤宿大津屋段右衞門と申者は前名まへな畔倉重四郎と名乘筑前ちくぜんの浪人にて私しの村方へ先年中せんねんちうより參りて幸手宿に住居いたしをつと三五郎とは博奕かけごと仲間なかまにて日來ひごろ心安くわたくし方へも日々にち〳〵立入たちいりり候所心立宜しからぬ者にて先頃同宿の穀屋平兵衞と申す者を殺害致して金子きんす百兩を奪取うばひとり其後又慈恩寺村にて博奕かけごと御座候節こう宿じゆくの鎌倉屋金兵衞と申す者を殺して金子五百兩をうばひ取り候をわたくしのをつと三五郎よくぞんをり候事故其わけを以て大津屋方へ無心むしんに參り候所より段右衞門も又をつと三五郎はかれ舊惡きうあくを存じ候故後日に露顯あらはれん事を恐れ殺し候儀と思はれ候されば甚だにつく仕方しかたなりと重四郎の段右衞門が惡事を委細くはしく申立ければ大岡殿とく聞請きゝうけられ早速に組下くみしたの同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へまかこしみぎ段右衞門を召捕めしとり來るべしと遣はされたり


第十七回


 扨又重四郎の大津屋段右衞門はすゞもりにて三五郎を殺害せつがいして最早もはやわざはひの根をのぞきしと大きに悦び藤澤宿なる我が家へ歸り何喰なにくはぬ顏にて居たりける所に役人やくにん中は重四郎を召捕めしとらんと藤澤宿の村役人むらやくにんを案内させ常宿内の捕吏をかびき三次并びに子分十四五人を引連て大津屋方の表裏の口より上意々々と呼はりて込入こみいるいな双方さうはうより組付たり段右衞門は惡事あくじ露顯ろけんと思ふものから心得たりと筋斗もんどり打せて投つくれども捕方とりかたの者は大勢にて取圍み殊に不意を踏込ふみこみし故に終には折重をりかさなりて段右衞門を高手たかて小手こていましめ家内の者は宿役人に預けられ段右衞門は江戸表大岡殿の白洲しらすへぞ引れける斯くて大岡殿は重四郎の段右衞門を引出ひきいださせ大津屋段右衞門事前名ぜんみやう畔倉重四郎とよばれ其方は當月たうげつ二日のすゞもりにて幸手宿の三五郎と申す者を殺害せつがいせし趣きつゝまず白状致せと申されければ段右衞門おもてたゞし私し儀三五郎と申す者を殺害いたしたるおぼえ一かうに御座なく候と申立ければ大岡殿否々いな〳〵覺えの無とは云せぬぞ公儀おかみに於て證據しようこのなきことをたゞさるべきやと申さるゝに段右衞門假令たとへ如何樣いかやうの證據御座候共其儀は一向に覺え無之これなく候と云張いひはるにぞ然らば汝ぢ其三五郎と申者知人しるびとにては無やと有に段右衞門其者そのものは私し儀以前幸手宿に住居のみぎ知己人しりびとには御座れ共別にうらみもなき事ゆゑ殺すべきいはれ更に御座なく候と申立るにより大岡殿かさねて其三五郎つまふみと申者を呼出して相尋あひたづねし所其方儀先達せんだつて同宿なる穀屋平兵衞と申者を權現堂ごんげんだう村小篠堤に於て殺害に及び金子百兩を奪取うばひとり其後にまた慈恩寺村にて博奕ばくち之有處にこう宿じゆくの鎌倉屋金兵衞と申者をばわしの宮にて殺害に及び金子五百兩をうばひ取しおもむきなり尋常じんじやうに白状致すべしと有ければ段右衞門は少しも恐るゝ景色けしきなく是は重々かさね〴〵思ひもよらぬことを御糺問たづねに成るものかな私し儀穀屋平兵衞を殺せしとの仰せなれども右平兵衞儀は豫々かね〴〵世話にもあひなりをりしことゆゑ私し儀おんをこそ報い申べきに何の遺恨いこんありて切害せつがい致さんや又鎌倉屋金兵衞とやらを切害致したる儀是以て一かう覺え御座なく候何卒私し儀つみ無きの次第しだい賢察けんさつねがひ奉つり候と申立るに越前守殿いや其儀はなほ追々おひ〳〵吟味に及ぶ汝ぢ鈴ヶ森にて三五郎を殺せしみぎり非人共見屆たるを彼是かれこれちんずる條不屆きなり吟味中入牢申付るとつひに其日は夫成それなり牢内らうないへ下られ其後越前守殿三五郎の妻を呼出よびいだされ其方先達せんだつて申すには段右衞門儀幸手宿の穀屋平兵衞こう宿じゆくの鎌倉屋金兵衞を殺害せつがいせしおもむき申立しに依て段右衞門を召捕めしとり相糺あひたゞす所一向に存ぜざる由申せり確乎しかと段右衞門が仕業しわざ相違無さうゐなきやとなほまた糺問たゞし有ければ其儀少も相違御座なくねがはくはわたくし事段右衞門に對面おほせ付けられくださる樣にと願ひければ大岡殿其趣きなれば段右衞門儀其方そのはうと近日對決たいけつ申付けんまづ今日けふは引取べしと申渡されけり


第十八回


 去程さるほどに大岡殿れいの如く出座しゆつざ有て段右衞門を見られ其方儀そのはうぎ今日三五郎つまふみと對決申付るに依り有ていに申立よ又三五郎妻文儀も同樣どうやう相心得先達せんだつて申立し通り幸手宿穀屋平兵衞鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞及び飛脚ひきやく彌兵衞を殺せしは段右衞門もとの名は重四郎が仕業しわざに相違無や愈々いよ〳〵相違なきに於ては其段そのだんを段右衞門に申きけよと有ければお文ははつ平伏へいふくなしやがて段右衞門に向ひ貴殿おまへをつと三五郎とは兄弟きやうだい同樣どうやうにして何事によらず善惡共に相談相手なれば其方そなたの惡事もかくしてやりなにかにつけ夫は心配して居る程のことなるに如何いかなる遺恨ゐこんが有て無情なさけなくも夫を殺せしやあまりと言へば恩知らずにつく仕方しかたなりサア尋常じんじやう白状はくじやうされよと云ひければ段右衞門輾々から〳〵打笑うちわらなんぢ女の分際ぶんざいとして何をしるべきや三五郎を殺したなどとは無法むはふ云掛いひかけ然樣の覺えは更になし實に汝ぢは見下果みさげはてたる奴なり公儀おかみの前をもはゞからず有事無事ないこと饒舌しやべり立おのがことを種々と申上げたな全體ぜんたいおのれは何と心得居るや汝等夫婦は貧窮ひんきうせまりて困苦こんくするを愍然ふびんに思ひ是迄此段右衞門が樣々さま〴〵見繼みついやつた其恩義を忘れし爰な恩知ずの大膽者だいたんものとはおのれがことなり然るをおれが人殺しなどとは能も〳〵云をつたな是迄恩を掛しが却つて仇と成たかと云をお文は打消うちけしオヤマア夫は何程なんぼ口が在と云ても左樣さう自由ちやうはうなことをいはれたものかソレ貴殿おまへが幸手の町へ來たときは尾羽をは打枯うちからした素浪人すらうにんくふくはずの身を可愛相かあいさうだと云て穀平では始終しじう世話を成れおや同前どうぜんに大恩をうけた其平兵衞さんさへ殺す程の大惡人兄弟ぶんぐらゐわたしの夫を殺しかねる者かと云ば段右衞門何穀平を殺したと馬鹿ばかを云へ彼の穀平を殺せし者は杉戸屋すぎとや富右衞門とて既に御仕置に成たりしかるにおのれ今さら何をぬかとぼけをるか此女このあまめとしかり付るをお文コレ段右衞門マア強情がうじやう宜加減いゝかげんにおをつと三五郎が庚申堂かうしんだうの畑際でひろつて來た烟草入たばこいれ其中に穀平から杉戸屋の富右衞門さんの所へやつた手紙が這入はひつて居から杉戸屋の烟草入だといふ事が知れ然も其時わたしすぐに持て行うとする所へ貴殿おまへが來て其烟草入を金二分に賣てくれろと小聲こごゑで相談し貴殿が仕組しくんだ所業だはね最早もうをつとを殺されたからはかくさず云が其仕事しごとは權現堂の土手どてで穀屋平兵衞を殺し金迄取て其翌日わたしの方へ來てお前は狼狽うろたへまはり幸手宿を立退たちのかうと云ふを夫三五郎が止めて烟草入を證據しようこに富右衞門にかぶせる上は立退たちのくに及ばぬ急に立去たちさらば却つて疑惑うたがひかゝると云れてお前は氣が付身躰みこしすゑたでは無か其時に三十兩と云ふ金を配分はいぶんして侠客をとこづくで呑込のみこんで居てやつたのに金を何で貴殿おまへみついだなどとは不埓ふとい云樣いひやうだと泣聲なきごゑを出して云ひつのるを段右衞門聲高にやかましい女め如何樣どんなにべら〳〵喋舌しやべるとも然樣そんなことは夢にも覺えはねえおのれはまアおそろしい阿魔あまだ女に似合にあは誣言事こしらひごと扨は三五郎のかたきと思ひ違へての惡口あくこうならん七人の子をなすとも女に心をゆるすなとは此ことなりと空嘯そらうそぶいて居たりけるお文は切齒はがみをなしヱヽ忌々いま〳〵しい段右衞門未々まだ〳〵其後も慈恩寺村にていゝ張半ちやうはんが出來たと云つてをつと三五郎を誘引さそひに來たれども夫は用向ようむきもあればゆかれぬとことわりしに其時貴殿おまへ扇子あふぎを落して來たからかしくれろと云ふ故てつあふぎかしつた其日鴻の巣の金兵衞が金五百兩かちしを見ておのれは先へ廻り金兵衞が歸りを待伏まちぶせして切害せつがいし死骸のそばかしやつた扇子を落しておき鐵扇てつせんに杉田三五郎と名前が彫刻付ほりつけて有しゆゑ夫に嫌疑うたがひかゝるを三五郎も承知して暫時しばらくうち金兵衞を殺したになつて居たが是は鐵扇てつせんだいだと百兩の金をおのれが配分はいぶんたのを今さら忘れもしまいと一々其せつ手續てつゞきを云立るに段右衞門ヱヽ夏蠅うるさい女め種々いろ〳〵なことをこしらへておれ無實むじつの罪におとさんと仕居しをる然し是は汝ればかりでは有まいたれ腰押こしおしの者が有らう扨々恐敷おそろしき阿魔あまめと云せも果ずお文は彌々いよ〳〵やつきとなり未々まだ〳〵其上に藤澤の大津屋へ入夫にゆくまへのこと鈴ヶ森にて十七屋となつやの三度飛脚を殺して金を盜み取しことを三五郎へはなした時に三五郎が異見をして博奕打や盜人の金をとり又は殺したり共同じ罪でも罪科つみは輕い素人たゞのひとを殺すことは古今の強惡がうあくなり始終は白刄しらはさびと成べし必定々々かならず〳〵此後は屹度きつと止られよと云たることも三五郎から聞たるぞ今では汝れも大造たいそう身代くらしに成たに付昔しのえんで三五郎も一年越の不仕合ふしあはせ故度々無心には行しが都合つがふ惣計しめて金八十三兩かしたに相違は無しサア〳〵此方こつちからして盜人ぬすびと上前うはまへを取たと迄ちく白状仕はくじやうしたならばおのれも早く申上て仕舞しまうがイヽアノこゝ大盜人おほぬすびとめと砂利じやりたゝいて舊惡きうあくかぞたつれど段右衞門は落付おちつきはらい否々いや〳〵博奕ばくちうちても人を殺し金をぬすんだ覺えはないぞと云をおふみ是サ何ぼわたしが女でも然樣さう前等まへたちに云ひこめられては是まで人に姉公々々あねご〳〵と立られた面にすまない人を殺し金を取たに相違ないから其通り申上よと云ふのだ男らしくもないとたけり立我を忘れて云ひつのりけるを段右衞門はなほ冷笑せゝわらひイヤ〳〵此阿魔あま幾何いくらめん大王鬼だいわうきに成ても此身に覺えの無事は然樣さうだなどゝは云れぬ者よフヽンとはなであしらうを聞いてお文は益々ます〳〵いかりコレサ〳〵段右衞門それなら愈々いよ〳〵なんぢは穀平を殺さぬと云張いひはるかハテ知たことよ身に覺えのなきことは何處迄どこまでも此の段右衞門は覺えなしサといふにお文は夫なら是程たしか證據しようこが有てもしらぬと云か段右衞門アヽ騷々さう〴〵しい女ごときが口で云ふ事は證據しようこに成者かおのれは取逆上のぼせ亂心らんしんして居るなたゞしねつ上言うはごと未練みれんいつはりを言掛いひかけるぞと聞よりお文はワツと泣出しつかみ掛らん有樣なれば大岡殿大音聲だいおんじやう默止だまれ爾等なんぢらは此所を何處と心得るしかも天下の決斷處けつだんしよなるぞコレ〳〵段右衞門其方は文を女と輕侮あなどり申し伏んとすれども假令たとへ婦人をんななりともちく一申立己れが罪迄も明白に白状はくじやうするをなんぢは只今知ぬ〳〵と而已のみ強情に言張んとするは不屆至極なり如何程なんぢはちんずるとも大方知たる罪なるぞ眞直まつすぐに白状致せと申されけるを段右衞門是は聞えぬ仰せなり御奉行樣ぶぎやうさまには女の方を贔屓ひいきなさるゝかと言しかば越前守殿大いにいかられナニ婦人ふじんを贔屓するとは不屆の一言天地てんち自然しぜん淨玻璃じやうはりかゞみたて邪正じやしやうたゞごふはかりを以て分厘ふんりんたがはず善惡を裁斷する天下の役人をくらまさんとなす強情者がうじやうもの古今ここんまれなるこゝな大惡人め穀屋平兵衞を殺せしに相違さうゐ有まじサア申立よと問詰とひつめられしかども段右衞門あらぬていにて平兵衞を殺しかねを取し盜賊ぬすびと先達さきだつて穀屋方より願ひに依て杉戸屋富右衞門がすで御仕置おしおきに成しと承知うけたまはる然らば又候ほかに平兵衞を殺した者出る時は御奉行を始め御役人の落度おちどならんかして覺えも無き拙者をしひられ無實むじつの罪におちる時は富右衞門は何故に罪のたゞしからざるを御仕置しおきに成れしやと空嘯そらうそぶいて申けるこそ大膽不敵だいたんふてきの曲者なり時に大岡殿呵々から〳〵と笑はれなんしたながくも申者かな然らば一應申附すべし穀平を殺したるは富右衞門にて裁斷さいだんすみたりと雖も富右衞門は無罪むざいなりなんぢは大罪人なり若いま富右衞門が存命ぞんめいならば爾ぢは科人とがにんと成やと有しかば段右衞門冷笑せゝらわらひ一旦御仕置に成し富右衞門が只今此處へ出候はゞ其時は急度きつと白状はくじやう致すべしと言ければ大岡殿さらばとて與力に申付られ豫てやしなおきし富右衞門を只今是へ呼出すべしと有しに與力よりきかしこまり候と其儘そのまゝ立て行ければ此場に居合ゐあはせし者共は互ひに顏を見合みあはせしゝける富右衞門が再度ふたたび爰へ出べき樣もなし扨々さて〳〵御奉行樣は奇妙きめうなことを仰せられると皆々不思議に思ひて居たりける然る所へ與力よりき同心どうしん付添つきそひ杉戸屋富右衞門を白洲しらす召連めしつれいでしかは大岡殿大音聲に如何に段右衞門うけたまはれ先年富右衞門所持しよぢ煙草入たばこいれを以て穀屋平兵衞を殺し其場に落しおきしをたねとして富右衞門に罪を塗付ぬりつけしに相違あるまじ其節そのせつ富右衞門を段々吟味せしに全く平兵衞を殺さざる由其上に彼の富右衞門其日は宿所しゆくしよに居ず全く人殺ひとごろしは別にあることゝ思ひしゆゑ其時は外の科人とがにんの首を以てさらし既に今年迄三ヶ年のあひだ富右衞門を隱し置たりなんぢ是を知ずやと仰せ有ければ流石さすが不敵ふてきの段右衞門もたゞ茫然ばうぜんとして暫時しばらく物をも言ず俯向うつむきて居たりしが何思ひけんぬつくと顏をあげ今迄いままでつゝみ隱せし我が惡行あくぎやう成程穀屋平兵衞を殺害し金子百兩を奪ひ取りしは拙者わたくしに相違これなくしかしながら其鎌倉屋金兵衞を殺せし覺えは決して御座無く候と猶々強情に申居たりける


第十九回


 螻蟻ろうぎの一念は天へもつうずとの俚諺りげんむべなるかな大岡殿此度このたび幸手宿三五郎つまふみの申立をきかれ武州こう鎌倉屋金兵衞方へ差紙さしがみつかはされし處せがれ忠助は稍々やう〳〵今年こんねん十一歳なるゆゑ伯父をぢ長兵衞は名代みやうだいとして江戸へおもむかんと調度したくなし金兵衞方に幼少より召使めしつかひし直八と云者萬事ばんじ怜悧かしこくなるに付き之れを召連めしつれ鴻の巣を立出たちいで江戸馬喰町熊谷屋利八方へとまこみしが日永ひながの頃なれば退屈たいくつなりとて直八は兩國淺草又は上野うへの山下邊やましたへんなど見物なし廣小路ひろこうぢへ出で五條の天神まへへ來りし所に天道干てんだうぼし道具屋だうぐやに二尺五寸程の脇差わきざしありしが何やら見覺えのある品ゆゑ直八は立止たちとゞまり此脇差を手に取上とりあげ能々よく〳〵見ば鞘は黒塗くろぬりこじりぎんつばは丸く瓢箪へうたんすかしありかしらつのふち赤銅しやくどうにてつるの高彫目貫は龍の純金なりしかば直八は心に合點うなづきモシ〳〵道具屋さん此脇差わきざし何程いくらで御座りますハイそれは無名なれども關物せきものと見えます直價ねだんの所は一兩三分に致しませうとふを聞直八それ高價たかいわしは百姓のことだから身にはすこしかまひは無い見てくれさへよければいゝほんの御祝儀しうぎざしもうちつと負て下さい道具屋否々いへ〳〵此品はかた代物しろものなれば夫よりは少しもひけやせんと是より暫時しばし直段ねだん押引おしひきをなし漸く金一兩一分ときまり直八は道具屋に向ひは付たが金子の持合もちあはせは少々せう〳〵不足ふそくだがやうやして是を手付として置て行ませうと金一取出し翌日あすあさのこりの金を持て私が取にしかし事によるこられぬ時は御まへの内へ直樣すぐさま取にやるから一寸請取をかいくださいと云ふにぞ道具屋は書付かきつけしたゝ判迄はんまでおして出しければ直八手に取揚とりあげよみけるに

脇差わきざし               壹こし

みぎだい金壹兩壹分也

内金うちきん壹分請取

たゞこしらつき貳尺四寸無名物むめいものふち赤銅しやくどうつるほりかしらつの目貫りよう純金むくつば瓢箪へうたんすかぼりさや黒塗くろぬりこじりぎん

下谷町貳丁目
六月十七日
道具屋治助

書認かきしたゝめ有ける故夫なら翌日あすまたこれもたせて取に上ますが田舍者ゐなかもの兎角とかく迷路まごつきやすき故下谷と云てもわからぬことが有つて間取ひまどるから大屋さんの名をかいくだされましと言に道具屋ハイ〳〵家主いへぬしひろ次郎と申ますと肩書かたがきにして渡しければ直八是で宜と其儘馬喰ばくろ町の旅宿りよしゆくへ歸りて長兵衞ならび村名主むらなぬし源左衞門に向ひ下谷山下やましたにて見當みあたりし脇差わきざしの事を話し是は親方の小刀わきざしなり先年ゆく方知ずとなりし三人のうち練馬藤兵衞へしかと私が手からかしつかはした代物しろもの故行先をよく吟味したら三人の死生ししやうの程も知れ親方のかたきの手筋もわかりさうな者だときゝて長兵衞それすてて置れぬことなりと源左衞門并に熊谷屋くまがひやの亭主へも相談さうだんなし早速其筋そのすぢ訴訟うつたへべしとて願書ぐわんしよを認め右道具屋の請取をへ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心原田はらだ大右衞門下谷の自身番じしんばんへ出張し家主いへぬしひろ次郎を呼寄られ其方たなに道具屋治助と申者是有これあるる由直樣召連めしつれ來るべしと申渡せしかば廣次郎かしこまり候とて直に治助を同道して來りしに原田治助に向ひ汝ぢは道具渡世とせいをなす治助なるか御意ぎよいに御座りますと答るにコレ此請取に覺えあるかと尋ねければ治助は是を見て此請取は昨日さくじつ廣小路ひろこうぢの店にてあきなひを致し手付てつけを請取し時さし出したるなりと云にしかと夫に相違なきやと申せば然樣さやうに御座りますと云時原田シテ其脇差わきざしは何所からかつた其賣口は知て居樣ゐやうなと云れ治助は甚だ氣味わるく思ひながら其品そのしなは稻荷町の十兵衞と申者の宿やどに於てきよ月のいち買取かひとりたり然し其節は二十品ばかりの買物かひものにて賣主はたれやらしかとは申立かねれども右十兵衞の帳面ちやうめんに記して御座りますと申せば原田然ば其十兵衞を呼出よびいだすべし尤も跡月あとげつよりの賣上うりあげ帳を持參ぢさんせよと家主へ達しけるにより家主仁兵衞早速さつそく十兵衞へ此由を云聞いひきかせければ十兵衞は又間違まちがひの品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速呼出よびいだし原田は十兵衞に向ひ去月中きよげつぢうなんぢが宿にて此治助が脇差をかつたと申が然樣さやうに相違無やと尋ぬるに十兵衞脇差を見てヘイ然樣さやうでは御座れども大勢たいぜいの事故別段べつだんかはりし品は覺も御座りますが斯樣かやうな品は其日の買取人が參りましてすぐに引取ます故しかと見覺は御座りませんと申にさら賣帳うりちやうあらうといはれ十兵衞は帳面を出し治助どん去月の幾日頃いくかごろだの治助中市と思ひました桃林寺たうりんじ門前の佐印さじるしか三間町の虎公とらこういづれ此兩人の中だと思はれますといへば十兵衞成程々々なるほど〳〵かうつと十日は治助どんは燒物やきもの香爐かうろ新渡しんとさらが五枚松竹梅三幅對ふくつゐ掛物かけもの火入ひいれ一個ひとつ八寸菊蒔繪きくまきゑ重箱ぢうばこ無銘むめいこしらへ付脇差二尺五寸瓢箪へうたんすかしのつば目貫めぬきりようの丸は頭つのふちは鶴のほりと聞より治助大によろこ宜々よい〳〵それだぞ賣人はたれだ〳〵十兵衞まちなせへよ三間町の虎松とらまつに相違は無いとて原田はらだの前にいでの脇差は淺草三間町の虎松と申す者より買入しに相違さうゐ御座りませぬといへば原田しからば御用はない引取ひきとれと申渡すに十兵衞は有難ありがたしと家主諸共もろとも引取ひきとりける斯て原田大右衞門コレかう藏此治助をつれさきへ東町の自身番へいつて淺草三間町の虎松をよんおけおれは坂本へ鳥渡ちよつとまはつてゆくからと申付て立出れば手先てさき幸藏かうざうは脇差を風呂敷ふろしきつゝみ治助を同道して東町の自身番じしんばんへ來り虎松とらまつを呼寄けるに家主いへぬし之助差添さしそへまかいで原田の來るを待居まちゐたり暫時しばらく有て原田大右衞門は自身番じしんばんへ來りければ家主巳之助這出はいいでて私し儀は三間町の家主巳之助と申者なるがなにか御用のすぢ之有これある由に付虎松を召連めしつれ候と申に原田は是を聞其方が虎松なるか此脇差このわきざしを去月十一日稻荷町の十兵衞かたに於てこの治助にうりたるかとのたづねに虎松然樣さやうなりと答ふれば原田此品このしな何所どこから買出かひだしたか其買先を申立よととはれ虎松是は面倒めんだうの品と思ひながら此脇差このわきざし去年きよねん十一月田舍ゐなか買出かひだしに參つたるせつ杉戸宿の林藏りんざうと申者のより買取かひとりたるに相違さうゐなしと申立れば愈々いよ〳〵然樣さやうならばもはや御用は相濟だ引取ひきとるべしとのことゆゑ治助はホツト溜息ためいきつき家主廣次郎同道どうだうにて我が家にこそはかへりけれさてそれより原田は虎松に向ひ其方明日杉戸へ案内あんないを致せよつて今日は家主いへぬし巳之助其方そのはうへ虎松をあづけるぞとのこる處無く差圖さしづあつて原田大右衞門歸宅致しけるよつ公儀おかみ御詮議ごせんぎ行屆ゆきとゞきしものなりと人々感心したりけり


第二十回


 去程さるほど同心どうしん原田大右衞門松野文之助まつのぶんのすけの兩人いづれも旅裝束たびしやうぞくにて淺草三間町の自身番へ來りければ虎松も豫々かね〴〵申付られしこと故支度したくをして相待居あひまちをりしに付直樣すぐさま案内あんないとして六月廿日に淺草寺あさくさでら明卯刻あけむつかねと共に立出たちいで炎天えんてんをもいとはず急ぎ武州ぶしう埼玉郡さいたまごほり杉戸宿名主太郎左衞門方へちやく早速さつそくに道具屋渡世林藏を呼出せし所他行たぎやうおもぶきにて女房にようばうを同道せしと云に原田はアヽ女房では分るまいが折角せつかく來たものならまづこれへ呼寄せとて林藏の妻を呼出し今日林藏は何所どこへ參りしぞととはれしかば女房何事か出來しゆつたいしたかと驚き今日は商賣用しやうばいようにて栗橋くりはしまで參りました故申刻過なゝつすぎには大方おほかたもどりませうしかし御役人樣へ申上ますわたくしの良人をつとは當年六十に相成りますが近所きんじよでもほとけ林藏と申て何も惡事は是迄これまですこしも致しましたことは御座りませんが些少さゝいなことは御免成ごめんなされて下さりませと申ければ原田いやなにも林藏に惡事があると云ではないこれさへすれば分ることゆゑ格別かくべつあんじるに及ばずと云に女房ハイそれ有難ありがたぞんじますしか日頃ひごろからわたしが異見いけんを致すはこゝのこと林藏はよいとしことほかずき夫故大方然樣さやうな一けんでも御座りませうが主有者ぬしあるものに手を出すの密夫まをとこなどは致ませんが只々たゞ〳〵ぜにもちさへ致すと女郎買ぢよらうかひにばかり行きます是が誠にたまきずと申のでこまりきりますとしきりにわけもなきことを申立るにぞ原田はじめ一同笑ひに堪兼たへかねもう宜々よい〳〵林藏がもどり次第に早々さう〳〵しらせろコリヤ家主いへぬし嘉右衞門林藏が歸りしならば早速さつそく同道どうだうせよと申付られ引取所ひきとるところへ林藏は立戻たちもどりし故に家主いへぬし嘉右衞門は林藏にかくと申きけければ林藏は何事なにごとやらんと怖々こは〴〵ながら其所そこへ出れば町方まちかた役人村役人二人共附添つきそひ手先てさきの者は立働たちはたらき一どう居並ゐならんで居る故只きもひやしてふるひ居たり此とき原田は三間町の虎松に向ひ其脇差わきざしの林藏より買取かひとりしに相違なきやと有に虎松ハイおほせの通りみぎ林藏の手よりかひ取しに相違御座りません原田これや林藏いま虎松が申す通り相違なきして其脇差は何方どこからかひ取た眞直まつすぐに申立よいつはると汝ぢがために成ぬぞとおどされ林藏はおそる〳〵手に取上て能々よく〳〵視畢みをはり成程此脇差はたしかに見覺えましたしなこれは幸手宿の者より否々いや〳〵粕壁かすかべいちかひましたと云に原田始め役人共は何か取留ぬ申口たり林藏しかと申せ胡亂うろんなことを申と直樣すぐさましばるぞと有けるにぞ元來ぐわんらい臆病者おくびやうもののことゆゑ林藏はがた〳〵ふるの根もあはず居たりしかば家主嘉右衞門はそばより是々林藏確乎しかとした御答おこたへを申上よ大事だいじな儀ぢやぞと申に林藏なにいたしましてうそを申立ませうアノ夫々それ〳〵是は去年の春の事とて栗橋くりはし燒場やきばのアノ隱亡をんばうの名はたしか彌十とか申者よりぜに一貫二百五十文に買受かひうけましたに相違は御座りませんと申たてるにぞ原田は是をきゝコリヤ林藏愈々いよ〳〵然樣さやうに相違ないもし間違まちがうてはすまぬぞとかたく申わたされ林藏ハイ〳〵決して間違ひは申上ませんと云ゆゑ役人共しかれば其方早々さう〳〵栗橋へ案内あんない致せと直樣すぐさま申刻過頃なゝつすぎごろより出立しゆつたつなし三間町の虎松は是より御ようずみなりと申渡し役人は林藏をさきに立せて栗橋宿じゆくの名主だい右衞門方へいた無常院むじやうゐんなる隱亡をんばうの彌十を呼び出せしに彌十は庭のむしろうへ襦袢じゆばん一枚にてひかへ居たりしを役人共コリヤ彌十なんぢは是なる林藏へ脇差わきざしうりたることがあるその脇差は爾ぢのしなか又は何國どこからもつて來たか明白めいはくに申立よと云れ彌十はすこ口籠くちごもりしがイヱ此脇差は私しの家に持傳もちつたへし重代ぢうだいの品なりと云に役人コレ彌十なんぢが重代の品などは不屆き至極しごくなり夫しばれと下知げぢしければ手先てさきの者立懸たちかゝ忽然たちまち高手たかて小手こてしばり上るに彌十はおそれしていにて何を隱しませう其品そのしな葬禮さうれいの時のをさめ物なれども然樣さやう申上なば御うたがひがかゝらうかと存じ重代ぢうだいの品と申上しかどじつ死人しにんをさめ物なりと申ければ役人扨々さて〳〵なんぢは不屆き者なり此脇差は中仙道なかせんだう鴻の巣の鎌倉屋金兵衞と云者の所持しよぢの品にて其子分なる練馬ねりまとう兵衞と云者に貸遣かしつかはしたる脇差なり然る所其みぎ藤兵衞ほか二人の行衞ゆくゑは今に於て相知あひしれず然る所いま藤兵衞がさして居たる脇差の有からは其方が掃部かもん茂助藤兵衞三人の在家ありかを存じてをるに相違は有舞あるまひサア眞直まつすぐ白状はくじやうせよと意外いぐわいいでられ彌十は南無三ばう仕舞しまつたりと思へども然有さあらていにて否々いや〳〵全く脇差はをさめ物に相違御座りませぬと云ば役人は左右とかくなんぢは不都合ふつがふなる事を申ぞ脇差を葬禮さうれいの納め物となすならば寺へこそをさめるはずなれ何ぞ燒場やきばへ納めると云はふあらんやサア尋常じんじやうに白状致せ不屆者めそれせめよと言葉の下より手先てさきの者共しもとあげて左右より彌十のもゝを肉のやぶる程に打たゝきければ彌十は是に堪兼たへかねアツとさけんで泣出しアヽ御ゆるくだされよ何事もみなつゝまず申上ます〳〵と詫けるに然らば白状すべしとせめとゞめ猶強情にちんずれば餘計よけいいたいめをするぞて藤兵衞が所持しよぢの脇差を如何の譯で汝ぢが手にいりたるぞサア〳〵其譯そのわけ白状すべしと問詰とひつめられて彌十は苦痛くつう堪兼たへかねとても免れぬ處と覺悟をなし然樣さやうならば申あげます此脇差このわきざしは一昨々年の七月廿八日の夜の事成しが死人しにんに火を掛内に這入はひりふしみ居し折柄をりから燒場の外面おもての方に大喧嘩おほげんくわが始りし樣子故何事かと存じそつと出てうかゞひしにくらき夜なれば一かうわからず暫時しばらく樣子を見合居し處幸手宿の畔倉あぜくら重四郎と三五郎と申者の聲ゆゑ徐々そろ〳〵立寄たちよりしに相手の者三人はみな切殺され是は浪人らうにんの八田掃部とならびに練馬藤兵衞三加尻茂助と申せし者共なり其時重四郎の申には何卒なにとぞ此死人を火葬くわさうに爲て呉ろとしきりに頼みしかども私しは後々のち〳〵の事を恐敷おそろしくと申して斷りしに重四郎は承知せず貴樣きさまに難儀をかけぬ樣に取計とりはからひ方も有から是非々々頼むと申を兎角とかく後難こうなんおそろしさに否だと申て立去たちさらんと致せし時この大事を見られた上はいかして置れぬ言ことをきかずばいのちを呉ろと既に切殺さんと致すゆゑ私しも詮方せんかたく後の難儀はわきまへながら其場のなんには換難く存じよんどころなく申にまかせ三人共火葬くわさうに致し骨は殘らず川中へすて仕舞しまひしと白状に及びければ役人其とき汝ぢは必定ひつぢやう金子をもらひし成んと申に彌十ヘイ一人まへ一兩づつ貰ひ是非なくやいつかはしましたと悉敷くはしくたてけるにぞ原田は進みいでしてこの脇差は爾ぢが取たのか彌十ヘイをさもの同樣どうやうに存じましてと言を原田は白眼付にらめつけこゝ横着わうちやくものめ定めし汝は脇差ばかりではあるまじ外々の品もぬすみ取てうつたであらうと問詰ければほかに二本の脇差はさわぎのうちゆゑ火中へ入て御座りしを氣がつかず燒て仕舞ましたら何時いつ眞赤まつかに成まして役には立ず一本の方は洗箒さゝらの樣に成て致し方なければ川へすてましたと申立けるに原田は點頭うなづき然らば愈々いよ〳〵相違無かとありければ彌十少しもいつはりは御座りませぬと申すにより道具屋林藏は御用濟ようずみたり勝手に引取ひきとるべし太儀たいぎなりと申渡され家主いへぬし嘉右衞門は林藏同道どうだうにて歸りける夫より隱亡をんばう彌十は高手たかて小手こていましめられしまゝ宿籠しゆくかごのせ江戸表をさして送らせける其後種々しゆ〴〵樣々さま〴〵吟味有けるに先の申たてと相違も無きこと故これより大惡の本人ほんにんたる重四郎の段右衞門と愈々いよ〳〵突合つきあはせ吟味とこそはきはまりけれ


第廿一回


 時に享保きやうほ十一年七月五日重四郎の段右衞門一けんの者共を悉皆こと〴〵白洲しらすへ呼出しやがて大岡殿彌十に向はれいかに彌十汝ぢは元栗橋もとくりはしにて重四郎三五郎の兩人が掃部茂助藤兵衞の三人を殺せし時手傳てつだひて共々とも〴〵殺したで有うなと故意わざと疑ひのことばまうけられしかば彌十はおもてたゞ否々いや〳〵私し儀は其節喧嘩けんくわの聲をきゝ付見には出ましたがこはさは怖し遠方とほくうかゞつて居しのみにて漸く少ししづまりし時三五郎重四郎兩人の聲が致すゆゑそば立寄たちより夫よりみぎ死骸はよんどころなく頼まれて火葬くわそうに致しましたれど勿々なか〳〵以て手傳てつだひなどは決して致しませんもつとも其節の手續てつゞき斯々かく〳〵云々しか〴〵なりと委細くはしく申立ければ大岡殿段右衞門を見遣みやりコレ段右衞門なんぢは三五郎と申あはせ元栗橋にて掃部茂助藤兵衞を殺せしは我が推量すゐりやうに相違無し然れば鎌倉屋金兵衞を殺したるも汝ならん眞直まつすぐに白状せよともうされければ段右衞門は漸々やう〳〵まなこひらき此間ぢうより申上し通り穀屋平兵衞を殺し又鈴ヶ森にて三五郎を殺し候はまつたく私しに相違なけれども金兵衞を殺したるおぼえは毛頭もうとう之なしと飽迄あくまでも言はるにぞ大岡殿ことばしづかにこれ段右衞門能くうけたまはれなんぢはよく〳〵まよつた奴と見える假令たとへ一人たりとも人殺しのとがきはまうへ獄門ごくもんさらさるゝは知てあるにいまなほ強情がうじやうに申つのるとも一めいたすかる譯は無ぞサア〳〵尋常じんじやうに白状せと言れそれとも彌十なんぢが申立たるとはいつはりなるかと申さるゝに彌十は段右衞門に向ひ是々これ〳〵重四郎ではない段右衞門殿そんな譯のわからぬ強情がうじやうよしにしろ今奉行ぶぎやう樣のおつしやる通りだ幾等いくら其方そなたかくして白状ねばとていのちつながる事は金輪こんりんざいありねへそれ迚も三五郎と申合したかは知ねヱが今となつては未練みれんな男だまことくるしみをしみの人間にんげんだなア掃部や藤兵衞茂助の二人を殺した時其方そつち利根川とねがはへ死骸を打込うちこまふといつたら三五郎が言には川へ流しては後日ごにち面倒めんだうだ幸ひ此彌十に頼んで火葬くわさうもらへば死骸しがいも殘さず三人の影もかたちも無なるゆゑ金兵衞を殺したこともかへつて彼等三人にうたがひがかゝる道理だと三五郎の計略けいりやくにてすでに火葬を頼んだ其時にもしもとおれは不承知しようちを言たらおのれが懷中ふところから金を三兩出て博奕友達ばくちともだちよしみだと言てひらに頼む故おれ詮方無せんかたなやいて仕舞てほねは利根川へ流したに相違は無いぜこれサ段右衞門今此彌十に顏をあはしては百年めといふ者サアなにも彼も決然きつぱりと男らしく言て仕舞しまへいふにぞ段右衞門コレ汝ぢは跡方あとかたないこしらへ事を言かけ我につみおはせんとる此乞食こじきめと大音だいおん白眼付にらみつくると彌十大いにいかりてなんだ乞食だと知たことだ隱亡をんばうは人間と非人ひにんとのあひだは是も渡世とせいさりながら此彌十は酒ものみ長半ちやうはんも人並には打こと喧嘩けんくわもするが今迄いままで人にきずとても付たことも無しぜに三文でもぬすんだ覺えは無そよくきけおのれはな幸手さつての穀屋平兵衞を殺して金百兩をうばり其上にて關宿せきやどの藤五郎の博奕場ばくちばで四人と言者を切て又さかひの町でも鷹助たかすけに手疵をおはせしこと寶珠屋はうじゆや大坂屋のことからしてオヽそれ〳〵其前のことだ栗橋の土手どて眞田商人さなだあきんどを殺した事も皆々みな〳〵汝ぢだと疑つてゐるぞ此盜人野郎ぬすびとやらう乞食こじきに近い此彌十よりは遙かおとりし人非人にんぴにんめサア言わけが有なら返答へんたふろと大聲おほごゑに言こめけるに流石さすが不敵ふてきの段右衞門も更に無言むごんとなり此時に至つて大いに赤面せきめんたる有樣なれども未だ白状はざりけり


第廿二回


 此時このとき越前守殿高聲かうしやうにコレ段右衞門左右とかくおのれがつみかくさぎからす言黒いひくろめんとするは扨々不屆き者なりと白眼付にらみつけられ夫より同心どうしんに豫て申つけおきたる品川宿の馬士まご只今たゞいま是へいだすべしと言れけば同心はかしこまり候と立て行けるが頓て身には半纒はんてん眞向まむきよりほゝへ掛て切下きりさげられし疵痕きずあとありせいひくひげ蓬々ぼう〳〵として如何にもみすぼらしなる者を連出つれいだせしかば大岡殿コレ品川宿の馬士まご其方は去年きよねん十七屋の飛脚をのせ鈴ヶ森に於て切られし所なんぢは運好うんよくいのちたすかりしが其時の盜人ぬすびとは爰に居る段右衞門と言者いふものならん能々よく〳〵顏を見よ其節そのせつの盜人であらうがなと申さるゝに馬士まごはヘイ御意に御座りますいま夜明前よあけまへとは申ながら挑灯ちやうちんも御座りました故隨分ずゐぶんたしかに見覺えてをります成程此者に相違は御座りませんときくより流石さすがの段右衞門も愕然ぎよつて大いに驚きヤア然らば其時の馬士まごめで有たか扨々さて〳〵うんつよき奴かな頭から梨割なしわりにして其上に後日のためと思ひとゞめ迄さしたるに助かると言はなんぢは餘程高運かううんな者なりとあきれ果てぞ居たりける時に越前守殿如何いかに段右衞門金飛脚かなひきやくの彌兵衞ならびに馬士爲八を殺したに相違は有舞あるまひなと問詰とひつめられしかば段右衞門はハツと首を御意ぎよいの通り鈴ヶ森に於て三度飛脚の彌兵衞を殺し金子をうばひ取しに聊か相違なしと申立しにぞ大岡殿は馬士まごに向はれ其方は最早もはや用事の相濟あひすみたり引取れといはれしかば其儘馬士まごは白洲を立てゆくあとに越州殿呵々から〳〵と笑はれコレ段右衞門汝ぢは是迄これまで強情がうじやうに申はつて一向白状に及ばぬ故むかきずある馬士を尋ね出しかれに申付て汝ぢをはかり白状させしなり其せつ馬士まごなにとしていのちたすかるべきや然るを我が計略けいりやくおちいりしもこれ天命てんめいなり今さら包みかくさずとも尋常じんじやうに惡事を殘らず白状はくじやうすべしとするどく問糺とひたゞされしかば段右衞門は此時このときはじめてハツトいつ歎息たんそくなしまこと天命てんめいは恐ろしきものなり然ば白状つかまつらんと居なほり扨も權現堂ごんげんだうつゝみに於て穀屋平兵衞を殺し金子百兩奪ひとりわしの宮に於て鎌倉屋金兵衞を手にかけて金五百兩を盜みとりなほまた三五郎と申合せもと栗橋に於て三人の者を殺害せつがいせしより鈴ヶ森にて十七屋の飛脚ひきやくを殺し金子きんす五百兩奪取うばひとり其後藤澤宿の大津屋と申旅籠屋はたごやへ入夫と相成あひなりし處三五郎度々どゝ無心むしんに來りしがわが惡事を皆こと〴〵りたる三五郎なる故後日ごにち妨害さまたげと存じあざむきて鈴ヶ森まで連出つれいだし終に三五郎をも殺害せつがいせしに少しも相違御座なく候と殘らず申立ければ大岡殿きか神妙々々しんめう〳〵と言れし時段右衞門は大岡殿に向ひ恐れながらかゝる明奉行の御糺問きうもんかうむり御吟味あきらかなる而已のみならず御仁慈じんじの程まことに以て恐れ入奉つる何さま世間のうはさに相違も之無き賢明けんめいの御奉行なり其御裁許ごさいきよあづかること此身の本望ほんまうと申すべしかへす〴〵も私しの惡行今更後悔仕つり候然る上は三五郎女房にようばうふみ元栗橋の隱亡をんばう彌十等私しへかゝり合の者共の儀は私し故に罪科ざいくわも蒙り候ことゝ存じ奉つるに付わたくし身分は何樣いかやうの御成敗せいばいを仰せ付らるゝとも自業自得じごふじとくの儀に候へばいさゝかもうらむる所なし係り合の者共は何卒なにとぞ慈悲じひの御成敗せいばいねがはしく存じ奉つり候とて己れが舊惡を悉皆こと〴〵く白状に及びしかばそれより口書こうしよしたゝめ重四郎の段右衞門の爪印つめいんおさおつて沙汰に及ぶと申渡され一同それ〴〵さげられけり


第廿三回


 然程さるほどに大岡越前守殿には段右衞門前名ぜんみやう畔倉重四郎一けんに付享保きやうほ十一年十二月みぎかゝり合の者共一どう白洲しらすよび出され夫々それ〴〵に其罪科ざいくわを申渡されける

相摸國高座郡藤澤宿
大津屋段右衞門事
前名  畔倉重四郎

其方儀そのはうぎ權現堂小篠堤に於て幸手宿穀屋平兵衞を殺害せつがい金子きんす百兩奪ひとり其後そのご中仙道鷲の宮にてこう宿じゆく鎌倉屋金兵衞を殺し金子五百兩ぬすみ取し上剩さへ三五郎と申合せ右金兵衞の子ぶん掃部茂助藤兵衞等三人の者をも元栗橋もとくりはし燒場前やきばまへにて切殺し死骸しがい隱亡をんばう彌十に頼み火葬くわさうに致し其後鈴ヶ森にて十七屋の三度飛脚ひきやくを殺し金子きんす五百兩うばひ取其のちなほ同所どうしよにて三五郎をも殺害せつがひ致し候段重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付町中まちぢう引廻ひきまはしのうへ千住小塚原に於て獄門ごくもんおこなふ

武藏國埼玉郡元栗橋宿
隱亡  彌十

其方儀平生へいぜい身持みもちよろしからず博奕ばくえき喧嘩けんくわこのみ其後重四郎ならびに三五郎より頼まれ候とはいへども掃部茂助藤兵衞三人の死骸を燒棄やきすて其上みぎほね利根川とねがはへ流し候段重々ぢう〳〵不屆の所格別かくべつの御仁惠じんゑを以て遠島ゑんたう申付る

同國同郡幸手宿
三五郎妻  ふみ

其方をつと三五郎儀平生へいぜい身持みもちよろしからず重四郎と申合せ金兵衞の子分三人を元栗橋燒場前に於て殺害せつがいし右死骸を隱亡をんばう彌十に頼み燒棄やきすてさせ候段不屆に付存命ぞんめい致しをり候はゞおもき御仕置しおきにもおほせ付らるべきところ鈴ヶ森に於て殺害せつがい致されしにより其つみとはず右は重四郎の仕業しわざ相分あひわかり重四郎儀は町中まちぢう引廻ひきまはしのうへ獄門ごくもんおほせ付られ候上は有難く存すべし

相摸國高座郡藤澤宿旅人宿渡世
小松屋文右衞門

其方儀そのはうぎ重四郎を同宿大津屋ゆう方へ入夫致させ候せつ身元みもとをもたゞさず世話致し候段不行屆ふゆきとゞきに付過料くわれうとしてぜに三貫文申付る

長谷川町家主嘉兵衞店針醫師
盲人  城富

其方儀平生へいぜい養母やうぼに孝行を盡し其上に先年實父じつふ富右衞門御所刑しおきに相成候せつ自分身代みがはりの儀願ひいで候段是又實父へ孝心の至りに思召おぼしめされ候之に依て御褒美はうびとして白銀はくぎん三枚取せつかはす有難ありがたく存ず可し

武藏國埼玉郡幸手宿穀物渡世
杉戸屋富右衞門

其方儀永々なが〳〵入牢じゆらうおほせ付られまか在處あるところ此度右一件本人ほんにん相分り御死刑しおきおほせ付られ候に付出牢しゆつらう仰せ付らる有難く存ずべし

右のとほり重四郎一件落着らくちやくと成しはまことに天道正直のみちてらし給ふ所なり然れども其人そのひと其罪無して杉戸屋富右衞門は如何いかなる其身の業報ごふはうにや煙草入たばこいれを落せしよりはからずも無實むじつの罪に陷入おちいりたん入牢仰せ付られけるがかみ聖賢せいけんきみましませば下に忠良ちうりやうの臣あつてよく國家を補翼ほよくす故に今かく明白めいはく善惡ぜんあく邪正じやしやうをたゞされしかば富右衞門の女房にようばうみね其子城富は申に及ばず親族しんぞくに至る迄みな大岡殿の仁智じんちを感じ喜悦きえつなゝめならずことさらに實子城富は見えぬなみだながし先頃大岡殿の申されしに父富右衞門は蘇生そせいせまじきものにもあらずとは此事なりと喜悦よろこぶこと限り無く只々たゞ〳〵ひとへにめい御奉行大岡樣の御仁慈じんじなりと奉行所の方に向ひ伏拜ふしをがみ〳〵感涙かんるゐとゞめあへざりしも道理だうりなりさてこゝに亦穀屋平兵衞のせがれ平吉は段々だん〳〵吟味ぎんみの末杉戸屋富右衞門は全く無實むじつの罪なること明白にあらはれ其節の盜賊たうぞくは畔倉重四郎なる由を聞及びしかば大いにおどろき扨々我等が不明ふめいゆゑに罪無き杉戸屋富右衞門殿を永々なが〳〵入牢じゆらう致させくるしめしこと何とも申譯なきあやまり成りと思ひ平吉は早速さつそく杉戸屋富右衞門方へ到つて種々くさ〴〵樣々さま〴〵に是迄の始末しまつ詫言わびごとなし是はいさゝかながら出牢しゆつらうよろこ旁々かた〴〵土産みやげなりとて懷中くわいちうより紙に包み目録もくろくとして金子百兩を差出しければ富右衞門これを見て扨々さて〳〵まことに以て御芳志はうしの段有難き仕合なり然れども此度の災難さいなんかく成行なりゆく宿世しゆくせ業因ごふいんなれば誰をうらみ彼を恨みんとは存じ申さず煙草たばこ入を落せしことが我があやまりなりかゝる大金を御めぐみ下さるべきいはれ無しとたつ辭退じたいに及ぶゆゑ平吉は何卒して我々が誤りを詫言わびごとなすしるしに渡し度と思ひ是非々々是は御受納じゆなふ成さるべし又此上何成共相應さうおうの儀も候はゞ御相談さうだん下されよ私し力にかなふ儀なれば如何樣にも御助勢じよせい申たしと言つゝ無理遣むりやりに差置て早々歸宅致しければ富右衞門は此金をもつて又々穀平方へいたり御芳志はうしの段かたじけなしさりながら斯る大金を申うけべきわけさらに無しとて種々いろ〳〵ことわりけるを平吉夫にては手前の心にすまず平に御受納下されよとて受取ざれば是非無ぜひなく富右衞門も右の百兩をもらひ受夫より我が旦那寺だんなでらいたりて是ををさめ惡人ながらも不便ふびんなりとて畔倉重四郎を始め彼三五郎鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞其ほか野州やしう浪人八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞などの菩提ぼだいとぶらひ又元栗橋の隱亡をんばう彌十などの安穩あんをんに歸島致す樣祈祷きたうを頼み其のち先祖せんぞ菩提ぼだいの爲とて旦那寺だんなでらに於て大施餓鬼おほせがきを取行ひ杉戸屋富右衞門世話人がしらなり修行しゆぎやう致しけりさて富右衞門は隱居いんきよなし家督かとく親類しんるゐより相應さうおうなる者を呼入て杉戸屋の家名をつがせ其身はたゞ明暮あけくれ念佛ねんぶつの門に入て名號みやうがうとなふるほか他事たじなかりしとぞ依て追々おひ〳〵佛果ぶつくわを得富右衞門は長命ちやうめいにてつひに年齡八十一歳に至りねむるが如く大往生だいわうじやうを遂げしとぞ


畔倉重四郎一件

小間物屋彦兵衞一件

小間物屋彦兵衞こまものやひこべゑ一件いつけん


第一回


 いつはりなきなりせばいかばかり人のことうれしからまじとは朗詠集らうえいしふ文詞ぶんしにもいでてよく人情にかなひたる歌なれども左右とかく人世の欲情は免かれがたくしていつはかざる事のなきにもあらずされば元祿の頃大坂おほさか天滿橋てんまばしの邊に與市と云者あり未だ若年にしておもてには侠客風俗をとこだてふうを好むと雖も其質そのさが狡猾わるかしこ毎々つね〴〵新町を始め惡所場をさわがし諸處に於て強請ねだりかたりなどせしが或時喧嘩けんくわにて人をあやめ遂に召捕れしうへ久敷ひさしく入牢じゆらうして居たれども相手方いのちつゝがなく御慈悲を願ひけるゆゑ遠島ゑんたうにも成べきを三ヶの津構つかまひにて事落着に及びたり元來ぐわんらい船乘ふなのりの事なれば夫よりさかひゆき船頭となりしが左右とかく博奕かけごとを好み身持惡きゆゑ人にきらはれつゝ三十歳ばかりに成しころ船中にて不圖ふと人の荷物にもつを奪ひ取しより面白く思ひ追々かうつむしたがひ同類を集め四國西國邊迄も海賊かいぞくかせぎ十餘年を消光おくりけるが其働そのはたらき飛鳥の如く船より船へ飛移とびうつり目にも見えざるほどゆゑ艘飛そうとびの與市と渾名あだなを取しなり或時腕首うでくび大疵おほきずうけ其後働く事かなはず彼是する中四十歳餘りにもなりしかば元祿の頃大坂を追拂おひはらはれてより十五六年も過たるゆゑ最早氣遣ひも有まじと思ひ勘兵衞かんべゑと名をかへ東堀ひがしぼり住居すまひをなし表向は船乘内證は博奕を渡世として子分も出來できしにより妻を向へしにかれ連子つれこの太七と云ふを實子の如くに不便ふびんを加へ月日を送り居たりけり其頃大坂堂島に彦兵衞ひこべゑと云者小間物こまものを渡世となし夫婦さし向ひにて金持かねもちと云にはあらねども不自由もなくくらしけるがの勘兵衞のをひ彌七と云者を人の世話にて先頃さきごろ若い者に召抱めしかゝ荷擔にかつぎにも連れ使ひにも出せしに至極實體につとむる故或時新町の出入先よりあつらへの金銀物をもたせ使ひにやりしに夫切それきり一向歸り來らず依て心配なし使ひ先を聞合すれども此方へは來らずとの事故すれば取迯とりにげ相違さうゐなし出入場へ申わけすまずとて早速宿に掛合しに勘兵衞大きに驚き扨々不屆ふとゞきなるやつ四五日御待下さらばたづね出し御返し申さんと申に我等が品にあらず出入先でいりさきあつらへ物故一入ひとしほ難儀なんぎ致すに付早速に御頼み申と云置いひおき彦兵衞は新町へも右の段を申入れ八方を尋ぬるに彌七の行方ゆくへさらに知れず神鬮判斷みくじはんだんなどゝ心配する中新町よりは度々たび〳〵催促さいそくあづかり殊のほか難儀なんぎなすにより又々また〳〵東堀ひがしぼりゆき勘兵衞へ懸合處かけあふところいまだ一かう手掛てがかりも無き由を申せしかば彦兵衞は彌々いよ〳〵こまはて當人が出ぬ時は新町へ立替たてかへねばならず依ては氣の毒ながらみぎ代物しろものだけしな才覺さいかくあるべしと申を勘兵衞聞入ず勿々なか〳〵急には金子の調達てうだつ出來兼るあひだまづ旦那の方にて御才覺下さるべし彌七引負ひきおひは追々御勘定申さんと云を彦兵衞は又餘り勝手過かつてすぎはなしなり其爲そのため貴樣請人に非ずや殊に此節我等も金子不手廻ふてまはりにて問屋とひや勘定かんぢやうとゞこほり不自由なせば一兩日のうちに勘定致さるべしもなき時は向うより出入にされては迷惑めいわく致すにより貴樣を相手に御願ひ申さぬ時はあつらぬしへ相濟ずこゝを能々勘辨かんべんし給へと段々事をわけ云聞いひきけけれども勘兵衞は承知せず三十兩といふかねはとても出來でき難きゆゑ縱令たとへ公邊沙汰こうへんざたに成さるゝ共御日延おひのべを願ふより外に分別ふんべつなしあつらぬしへの云譯いひわけ公邊沙汰こうへんざたになさるべし如何にもうけ申さんとの挨拶なれば是非ぜひなく勘兵衞を家主へあづあつらぬしの方へも此段を申して日をのばすぐに西の御番所稻葉淡路守殿へ願書ねがひしよ差出さしいだしたり


第二回


 これよつて享保三年五月十八日双方共さうはうとも呼出よびいだされ淡路守殿彦兵衞に向はれ其方儀彌七は何時いつ召抱めしかゝへたるやと尋ねらるゝに彦兵衞つゝしんで去年きよねん師走しはすに召抱候と申をよく勘辨かんべん致せ未だ氣心も知れぬ者に金高きんだかの品を取扱ひさせる事は些少ちと無念ぶねんなるべし此以後は隨分ずゐぶんこゝろつけよと申渡されコリヤ勘兵衞其品は彦兵衞出入場でいりばよりあつらへなれば早速さつそく辨償わきまへねばならず奉公人彌七行方ゆくへ知れる迄は右の品々しな〴〵彦兵衞に聞合せのこらず辨償わきまへつかはせと申さるゝに勘兵衞私し儀も所々しよ〳〵相尋あひたづねしかども行方ゆくへれず右品々とても高金なれば勿々なか〳〵調達てうだつ出來難し依ては彌七行方相知るゝ迄彦兵衞不肖ふせう仕つる樣仰付おほせつけられ下さるべしと申立るを稻葉殿よくきけ證文しようもんとほり其方そのはうをひとある上は當人たうにんいでしとて其品なき時は辨償わきまへずばなるまじことに彦兵衞が所持の代呂物しろものに非ず出入場より預りし品なれば少しも猶豫いうよ成難なりがたし三日の中に右の品辨償わきまへもし調達出來ぬとあれば申付方が有るぞと嚴敷きびしく申渡され右彦兵衞きくとほり勘兵衞へ申渡せし上は右の品請取うけとれと云はれ兩人并に町役人共下られける斯樣に嚴敷申渡されしは何故なにゆゑと云ふに勘兵衞は大兵だいひやうにして色黒くまなこ大きくひたひより口へ掛て大疵おほきずあと一ヶ所又小鬢こびんはづれより目尻に疵痕きずあと二ヶ所有り至つて惡相あくさうなれば奉公人の欠落かけおち合點がてんゆかずと思はれ斯は申されしなり夫より勘兵衞は早速さつそく彦兵衞方へゆき勿々なか〳〵三日の中に三十兩の品は出來申さず何卒なにとぞ右の品其許そのもとにて御求め下され借用の一札をいれ利足りそく何程なにほどにても出し申さんと云へば彦兵衞も氣の毒に思ひ我等も問屋の方ふさが不都合ふつがふなれども此譯このわけを話しなば得心とくしんも致す可きかなれども其品は今十五兩と廿兩見せねば出來難きゆゑ貴殿十五兩才覺さいかくし給へ夫にてあつらへ主の方は片付かたづけべしと云ふに勘兵衞此節このせつは三兩とても出來難しとて請付うけつけねば彦兵衞も餘りの事に思ひ夫にては是非に及ばず御公儀次第と挨拶にぞ及びける茲に勘兵衞の妻お貞はもと男勝をとこまさりの女なりしが先の本夫をつとに別れしより勘兵衞に六年程連添つれそひ居て此度の一件をきゝ家内中の衣類いるゐ質入しちいれし又は諸處ヘ無心もなし其上に博奕ばくち堂敷だうしきを取らば十兩は出來申さん夫を彦兵衞へ渡して頼み給へ御番所へ度々たび〳〵いでもし舊惡きうあくが知れなば爲に成るまじと云へども運命うんめいつきたる勘兵衞故其事は少しも氣遣ひなしどうして〳〵身代が大切大金をいだしてなるものかといふうちに早三日立て呼出の日と成り双方さうはう罷出まかりいでしに勘兵衞其方は何故金子調達致さぬぞ今日中に彦兵衞へ渡せと有りし時おほせごと樣々さま〴〵才覺さいかく仕つれども急にとゝのひ候はず何卒日延ひのべの儀を願ひ奉つると云ふを稻葉殿以ての外しかられ其方船持ふねもちと彦兵衞が口上に有り船を賣りても差出すべきに不屆なりと申さるれば勘兵衞私し病氣に付き不自由ふじいうにて船乘ふなのりも出來難く其故べつして難澁なんじふ仕つり候間兎角とかく出來兼ね恐入候と申を汝出來ぬと言て彦兵衞は如何どうして其品を持主へかへすべきや此上このうへ入牢じゆらうなつても出さぬ所存しよぞんかと申さるゝに勘兵衞恐れ入り御慈悲おじひを願ひ奉つると平伏へいふくして居るゆゑ淡路守殿如何に彦兵衞其方へ申こんだる事でも有るかと尋ねられしかば彦兵衞這出はいいで勘兵衞儀不如意ふによいつき金子出來兼當分の内問屋より右の品借受かりうけおつ返濟へんさい致さんと申し候に付私し儀問屋に借金しやくきんも是ありせめて當金の十五兩もつかはさねば出來難きむねことわり候と申立るを聞かれ夫は奇特きどくなる申ぶん夫さへ得心とくしんせぬは合點がてんゆかぬ奴なり手錠てぢやう申付明日より三日の内に三十兩調達致せと猶々なほ〳〵嚴敷申渡されけり是ひとへに淡路守殿勘兵衞を怪敷あやしく思はれし故なりとぞ其頃そのころ海賊かいぞく二人召捕れ詮議せんぎありしに是等は八艘飛さうとび與市よいちと云ふ者の子分にて海賊となりし由申ける故其與市は何方いづかた住居すまひ致すやとたゞされしに海賊共七八年以前泉州せんしうさかひ又は安藝あき宮島みやじま阿州あしう尼子あまこうら相住あひすみ海中にて西國大名の荷物船へ飛乘とびのり賊をはたらき候が向うに手利てきゝ侍士さぶらひあり疵をうけ夫より働き不自由に相成候とて海賊をやめし故今は何方いづかた住居すまひ仕つるやぞんじ申さずとこたへにより其與市の疵は如何樣の大疵にて働き不自由になりたるぞといはるれば海賊共ひたひより口へかけ一ヶ所小鬢先こびんさきより目尻迄めじりまで二ヶ所左のうでよりひぢを切られ右の小指一本之なく候と云を聞かれ與市は何方いづかたの生れ又年は何歳位いくつぐらゐの男なるや彼の者共かんがへて歳は四十六もと大坂生れと承まはり候と申故夫にてよし早速さつそく勘兵衞を召捕めしとれと同心を東堀ひがしぼりむけられける勘兵衞はかゝる事のありとは知らず明日御番所へいでいまだ金は出來ぬといはば入牢となるに疑ひなしと思ひ彦兵衞方へ掛合かけあひ十兩渡す對談たいだんに致せし所にはか捕方とりかた踏込ふみこんで勘兵衞を本繩ほんなはかけ奉行所へ連行つれゆかるゝゆゑ當人は云ふに及ばず家内の者大いに驚き此度の一件に付て召捕るゝはずなしとあやしみ居たるに勘兵衞はやがて白洲へ引出ひきいだされ彼の海賊共と押竝おしならべての吟味ぎんみつき双方さうはうかほを見合せて驚きし樣子を稻葉殿には見てとられ如何に海賊共與市は手にいりたり此者に相違さうゐあるまじと云はれし時ことばそろへ與市にちがひなき由申ければ淡路守殿如何に勘兵衞其方儀かね怪敷あやしきかどこれあるにより取調とりしらべに及びし處海賊の與市に違ひなし眞直まつすぐに舊惡を申立よとありしに勘兵衞是は南無三と思ひしがかくせるだけ隱さんと私し事與市とひたるおぼえ之なし元來もとより勘兵衞と申候とちんずるを稻葉殿イヤなんぢかくすとも茲に居る海賊共は汝が手下てした同類どうるゐなりと申し汝先年船中にてはたらきし時手疵をおひ右の小指こゆびなきはたしかなる證據なり與市白状致せと申さるゝに勘兵衞は空嘯そらうそぶき如何樣に御尋ねあるとも私し與市と申たる儀御座なく候と白状なさねばなほ海賊共にたづねらるゝに與市に相違之なくと申にぞ淡路守殿勘兵衞にむかはれ其方面體めんていの疵は何人なにびときられたるや有體に申せとにらみ付らるゝに勘兵衞も命のきはなれば何分白状なさず因て先入牢申付られ劇敷はげしく拷問がうもんに及びしかば終に舊惡きうあく悉皆こと〴〵く白状しける故右海賊共と一處に引廻ひきまはしうへ獄門ごくもんに行はれたりされば勘兵衞の妻は今更いまさら詮方せんかたなく漸々やう〳〵くびもらひ念頃ねんごろとふらひしとかや


第三回


 因て勘兵衞の妻お貞は倩々つく〴〵考ふるに彼の彌七が取迯とりにげの事より出入となりてをつと勘兵衞殿御仕置しおきとなられしなり彌七が事さへなければ舊惡きうあく露顯ろけんもなすまじきものを如何にも口惜くちをし事哉ことかな此上は彌七を見當り次第しだい討取うちとつて夫に手向たむけんと思ひせがれ太七をよび勘兵衞殿は其方のためじつの親には有ねども六ヶ年のあひだ世話せわになりたれば親に違ひなし彌七を見付次第討取うちとつて佛へ手向たむけずば人と云はぬぞと申渡すに太七は此時十八歳になれども餘り義心ぎしんすくなうまれなれば一向其心なし然れども母のめいそむき難く委細ゐさい承知せしといひて夫より種々さま〴〵に心を付て諸方を尋ね常々つね〴〵新町へも入込いりこみ居たりしに彌七は勘兵衞が御仕置おしおきとなりたる事をきゝ最早もはやおそるゝ者なしと四五日以前に大坂へ立戻たちもどり久々にて一ばんあそばんと其年七月十五日の夜新町の茶屋へ這入所はひりしところを太七は見付早々立歸つて母に斯とはなすに母は大いによろこび勘兵衞が脇差わきざしを太七にさゝせ其身は出刄庖丁でばばうちやうかくし夜半頃新町橋にいたり待受まちうけたり彌七は斯る事とはゆめにも知ず其夜は大いにざんざめき翌朝よくてう夜明方よあけがたに新町の茶屋を立出橋へ掛る處を母親お貞はかくと見るよりそれきれそれおさへよといふに太七はふるへ居て役に立ざれば母親はと進みよりとほちがひに太七がたいしたる脇差を引拔ひきぬき彌七の眉間みけんより眼へかけて切付たれば彌七はヤレ人殺し〳〵とてにげんとするをたゝみかけて右の腕を切落きりおとすにどうたふるゝ處を太七はふるへながら取て押へる中町内より人々立出樣子をきゝ母子諸共おやこもろとも先番屋へ引上ひきあげ勘兵衞が後家の家主をよび段々だん〳〵掛合かけあひの上屆に及びしかば檢使けんし出張しゆつちやうにて勘兵衞後家ごけならびに太七が口書くちがきを取直に稻葉淡路守殿吟味に及ばれし處後家はつゝしんでをつと勘兵衞舊惡の事は私し共一向ぞんじ申さず六年以前夫婦と相成あひなりし以來さら惡事あくじも之なく人の世話せわも致し信心しんじんを第一と心掛こゝろがけ私くし共に目を掛いたはくれ候間惡人とはすこしも心得ず又彌七儀は私しには少し身寄みよりの者故勘兵衞儀奉公の受人うけにんと相成候處かれ取迯とりにげよりことおこりて終に御仕置に相成候得ば御公儀樣ごこうぎさまには御道理ごもつともの御仕置にも有べきが私しどもの身には彌七は本夫をつとかたきゆゑ討取うちとり候に違ひなく如何樣の御仕置に仰付おほせつけられ候とも御恨おうらみとは存じ奉つらずと思ひんで申をきかれ淡路守殿大いにかんじられ彌七事金高の品を持迯もちにげ致し主人彦兵衞に難儀なんぎかけ夫が爲勘兵衞事番所へ出たる故舊惡きうあく露顯ろけんして御仕置と相成事畢竟ひつきやう彌七より事おこりたれば同人儀は召捕めしとり次第仕置にも行ふ者なる故其方共へとがめ申付るに及ばず偖々さて〳〵女には珍敷者めづらしきものなりと大いに賞美しやうび致されける是より後お貞は女伊達をんなだてとなり大の男の中へ立交たちまじりて口をきくに物事能分別し太七を船乘ふなのりにして船を補理こしらへ名を勘兵衞とあらためさせ其頃そのころ名高なだかき女にありしとかや


第四回


 偖又堂島だうじまの小間物屋彦兵衞は彌七の請人うけにん勘兵衞事御仕置になりしかば大いに驚きしが是非なく三十兩の品を辨償わきまへ出入先はすませしかども此一件より勘兵衞の舊惡きうあくあらはれし事はなは不便ふびんに思ひ居たるに彌七も又殺されしときゝ何となく世間もせまき心になり其上そのうへ借金しやくきんも多く面白おもしろからねば一先江戸へくだり何をしてなりとも金のつるに取付かんと工夫くふうをなし女房にも相談さうだんの上仕合しあはせよくば其方共のむかひに來るべしと云含いひふくめ留守の入用にと金二十兩を渡し十二歳と九歳の男子を女房にあづなほ又江戸表より一年に五六兩づつは送る約束やくそくにて其身は三十兩懷中くわいちうし享保三年のふゆあづまそらへ下りたり彦兵衞が女房は至つて縫物ぬひものめうを得たる故諸處より頼まれ相應さうおう縫錢ぬひせんをもとり其上彦兵衞より請取うけとりし金もあれば不自由なく消光くらすつけ本夫をつと開運かいうんをぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の知己ちかづき便たよりて橋本町一丁目の裏店うらだなかり元來ぐわんらいおぼえたる小間物をあきなひ未だ東西も知らぬ土地なれども櫛笄簪くしかうがひ脊負せおひ歩行あるくに名におふ大都會なれば日本一のまづしき人もあればまたならびなき金滿家かねもちもありて大名も棒手振ぼうてぶり押並おしならんで歩行あるくかまはぬ繁昌はんじやうの地故出入場はなけれども少しづつの錢儲ぜにまうけあるにより己一人身といひ元來ぐわんらい大坂生れの事なれば儉約けんやくして消光くらすうち段々得意場も出來はじめ廿兩ばかりの代呂物しろものも四年目には五六十兩の代呂物しろものを仕込大坂へ年に十五六兩も送りて手許てもとに十廿の金も有る故彌々いよ〳〵面白くかせぎしが今年ことしは代呂物も百兩程仕込しこみ金も百兩位はある樣に成しかば大坂へかへらんと思ひしに昨日今日とくらうちはや五年の月日をおくりける或日兩國邊よりかへ途中とちうにはか夕立ゆふだち降來ふりきたはたゝがみ夥多敷おびたゞしく鳴渡なりわたれども雨具あまぐなければ馬喰町の馬場のわき出格子でがうしの有る家を幸ひに軒下のきした立停たちどまり我がたくも早二三町なれども歸ることかなはあめぬれて居るを格子の中より六十餘の人品じんぴんよき老女らうぢよこゑかけ其許そのもとひさしの下に居るともれ給ふべし此方へいりて雨をしのがれよと念頃ねんごろに申せしかば彦兵衞大いによろこさらば仰せにしたが暫時しばし雨舍あまやどりを願はんと家へ這入はひれ下婢をなごちや煙草盆たばこぼんなどを持出て挨拶あいさつなしかうらいなるに女ばかりにてさみし折柄をりからゆゑはれるまではなし給へと取卷とりまきしかば彦兵衞は元來辯舌べんぜつよく上方かみがたの名所又は女郎屋の體等さまとう面白おもしろはなすにより老女もきように入り其許そのもとには何方に住宅すまひ致され候やと尋ねけるに私しは御近處橋本町願人ぐわんにん坊主ばうずとなり罷在まかりありて小間物商賣あきなひ致し候と云ふを聞て幸ひぎんの松葉のちひさ耳掻みゝかきほししと有る故直段ねだんも安くうり彼是かれこれする中に雨もやみしかば暇乞いとまごひしてかへりけり


第五回


 偖小間物屋彦兵衞は翌日よくじつ手土産てみやげもち馬喰町馬場のわきなる彼の女隱居いんきよもとゆき昨日きのふ雨舍あまやどりの禮をひてすぐ商賣あきなひに出しが是より心安くなりよひの内などはなしゆき近處きんじよへ出入場の世話をして貰ひけるが或時貴君あなたの御本宅は何方いづかたに候やときけば老女私は馬喰町二丁目米屋市郎左衞門と云ふ旅籠屋はたごや隱居いんきよなれどもをひが居る所は家内も大勢おほぜいことに客の有る時は百人も押込おしこむゆゑ逆上のぼせあがりて血の道もおこす程のさわなれば私ばかり物靜ものしづか消光度くらしたくと別宅致せしなりとのはなしきゝ御本宅へも御出入を仰付おほせつけられ下さるべしと申故米屋へも出入となり其上そのうへきふに出物などにて金子に差支さしつかへる節其は二三十兩又は五十兩と時借ときがりも致し尤も其都度々々そのつど〳〵すみやかに返濟へんさいなす故隱居も彦兵衞がかたき事を知て何時にても用達ようだてて呉るのみならず諸處ヘ引付ひきつけ出入場も多く出來るに付明暮あけくれ立入たちいり隱居いんきよの用事とあれば渡世とせいやすみても致し居たり或時雨天うてんにて彦兵衞はあきなひをやすみ隱居のかたへ遊びに參りしに難波戰記なんばせんきほんあるを彦兵衞元來本好故ほんずきゆゑ取上とりあげ見れば鴫野今福しぎのいまふくの合戰なり是は古郷こきやうのことに付土地の方角はうがくくはしければ面白くおぼえ口の内にて讀居よみゐたるを見て隱居少しよんきかせられよと申しければ心得たりと聲をあげよむ辯舌べんぜつよくつかへると云ふ事なく佐竹家の侍士さむらひ大將澁江内膳しぶえないぜん梅津うめづ半右衞門外村とのむら十太夫等先陣に進み一のさく二の柵を打破うちやぶり井上五郎左衞門飯田左馬助等いひださまのすけとう討取うちとりなほ三の柵片原町なる大學だいがく持場迄もちばまで此勢このいきほひにくづれんとする處へ本城より加勢かせいとして木村長門守重成きむらながとのかみしげなり後藤ごとう又兵衞基次もとつぐ秀頼公のおほせに隨ひ繰出くりいだしたりとよみて彦兵衞莞爾につこわらひながら是よりは佐竹樣大負おほまけと成て御家老衆ごからうしう討死うちじに致され佐竹左中將義宣公よしのぶこうも危い處へ佐竹六郎殿駈付かけつけて討死致されたればこそ佐竹樣危き命をたすかり給ひしとはなしければ隱居は今迄面白く聞居きゝゐたりしが彦兵衞がはなしを耳にもいれず勝手へたつて何やらん外の用事をして居るゆゑ彦兵衞もほんやめ煙草たばこのんで色々咄を仕掛るに隱居は兎角とかく不機嫌ふきげんゆゑ手持不沙汰てもちぶさたに其日は立歸たちかへりしが彦兵衞は如才じよさいなき男なれば偖佐竹樣のかつた所をよろこまけた所をいやがるは何かいはれ有るべしと思ひ翌日よくじつは馬喰町の米屋へ立寄たちより小間物を取廣とりひろげ少しのあきなひをながら市郎左衞門の女房にむかひ御隱居樣には御年は寄給よりたまへど御人柄おひとがらすぐれ常の御方とは見え申さず如何なる御由緒ごゆゐしよに候やとたづねしに女房笑ひながら此方こちらに居給へば御不自由はなけれど佐竹樣の御年寄おとしよりを廿年つとめられ只今以て三人扶持ふちづつ參る故しづか消光くらすのが望みなりとて馬喰町馬場に隱居して居給ふと委細ゐさいはなしけるを聞て彦兵衞大いに後悔こうくわいなし道理だうりこそ佐竹家の敗軍はいぐん心にかなはず仕方こそ有るべしと夫より本屋を尋ね天安記てんあんきいへる書物を借出かりいだし隱居の方へ行て咄をするに一向機嫌のなほらぬ樣子なれば彦兵衞も金庫かねぐらをなくしてはならずと種々いろ〳〵に機嫌をとり面白おもしろい本を御覽ごらんに入申さんとぞんじて持參致したり少しよみ申べし御聞なされよと佐竹殿小田山よりおとかけ天安てんあんこもりたる小田の城を一時に攻落せめおとしたる佐竹家の武功ぶこうを辯にまかせ讀上ると隱居は大いに機嫌直りかねて小田天安を討亡うちほろぼし給ふと云事は聞たれども本を見たる事なきによくこそ珍敷めづらしき事をきかせられしと打悦び詞のやはらぐを見て大坂鴫野しぎのの合戰は上杉樣負軍まけいくさになる處を佐竹樣御歳六十になり給ひながら薙刀なぎなたを以て向ふ敵にわたあひ八九人薙伏なぎふせられしかば諸軍此勢ひに乘て追討おひうちしたる故木村も後藤も遂にかなはず柵の中へ迯込にげこみしが共大坂の者には夫にては面白からぬに付木村が十分にかちし樣にかきたると思はれ候と辯をふるひて云直いひなほしければ年は取ても女の事故ことほか機嫌能きげんよく緩々ゆる〳〵彦兵衞に馳走なし前々の通り懇意こんいに出入をさせたりける或時彦兵衞隱居の方へ來り淺草觀音地内の小間物屋に品物しなもの有る故仲間内の直踏ねぶみには十五兩から九十兩まで付上つけあげたれども能々よく〳〵見るに百兩に買ても二十兩位は利の有る代物しろものなれば私し百兩と入札にふさついたし落札おちふだになりたる故十兩手附てつけつかはおきし處明日九十兩持參致し代物しろもの請取うけとりすぐに賣ても十四五兩はまうけ徐々そろ〳〵賣ば三十兩は屹度きつと利の有る品何卒九十兩御貸下さるべし直に御入用に候はゞ糶拂せりはらひにして指上さしあげ申べし少々せう〳〵手間取てまどりても苦しからずば代物を御預け申て段々御勘定ごかんぢやう致さんと申に隱居は是をきゝ偖々こまつ事哉ことかな先月なれば早速用立申さんに當月は霜月しもつきゆゑ何分なにぶん貸難かしがたく氣の毒なりと申を夫は何故なりやと尋るに然ればかね御門跡樣ごもんぜきさまへ百兩あげたいと思ひ御屋敷より頂戴ちやうだい御目録おもくろく又は入ぬ物を賣拂うりはらひ漸々やう〳〵百兩とゝのへし故此御講おかううちに上る願ひ是を見給へと百兩包を箪笥たんす抽斗ひきだしより取出して見せけるを彦兵衞大いにかんじ偖々御信心なる事尋常なみ〳〵の者には勿々なか〳〵出來難き御事なるをよくこそ心掛給ひしといた賞美しやうびなし外々にて才覺致候はんと申ければ隱居は暫く考へ脊負葛籠せおひつゞら一ツ取出し中より猩々緋しやう〴〵ひとらかは古渡こわたりのにしき金襴きんらんたん掛茶入かけちやいれ又は秋廣あきひろの短刀五本骨ほんぼねあふぎの三處拵ところごしらへの香箱かうばこ名香めいかう品々しな〴〵其外金銀の小道具を見せ是を質に入れたれば小百兩はかしさうなものなりといひければ彦兵衞大いによろこび當分御入用なくば御貸下さるべし用辨次第早速御返し申さんと日暮過ひくれすぎに右の品々を借請かりうけ我家へ立歸り家主八右衞門に頼み右の品を質物しちもつに入れ五十兩借請かりうけ其身も二十兩程はたくはへたれば少しの事は如何樣にもなるべしあけなば小間物を引請ひきうけまうけせんと樂み夜の明るを待居まちゐたり扨又米屋の見世にては田舍ゐなかより大勢客がとまこみ手がまはらぬ故隱居所の下女をかりはたらかせしが其の夜はおそなりしかば翌朝かへしけるにはや辰刻頃いつゝごろなるに隱居所の裏口うらぐちしまり居て未だ起ざる樣子なれば大いにあやし何時いつも早く目をさまし給ふに合點がてんゆかずと無理にこぢあけ這入はひり見ればは如何に隱居は無慚むざんにも夜具の中に突殺つきころされあけそみて死したればアツとばかりに打驚きあきれ果てぞ居たりける


第六回


 かゝりし程に下女は慌狼狽あわてふためき近所きんじよの人々に聞どもたれる者もなく早速さつそく米屋こめやへも知らせければ市郎左衞門は云に及ばず我も〳〵と駈付かけつけあけそみたる死骸を見て皆々みな〳〵茫然ばうぜんとして言葉もなかりしが市郎左衞門なみだを拂ひ何ぞ紛失ふんじつの物はなきやと吟味ぎんみに及ぶところ豫々かね〴〵大切にせし脊負葛籠せおひつゞらの無は盜まれたりと覺えしと云時夫は昨日夕方に彦兵衞殿參られ御隱居樣ごいんきよさまに願ひお金の代りに四五日拜借はいしやくしてゆかれしと下女がことばは又如何の譯成わけなりと問ば昨日彦兵衞殿金子の無心を申せし時百兩包を出して見せられ此お講中かうぢう門跡樣もんぜきさまへ納るゆゑ貸事かすことかなひ難し其代りに是をかさんとてお葛籠つゞらを貸給ひしが其お金は如何やと申故箪笥たんすの引出を明て見るに其金そのかねなければさて盜賊たうぞくわざに違なし然れ共其金の在所あるところを知る人はなき筈なり夫ともたれ金子きんすを見たらしき者はなきやと聞に下女はかんがへ夫も彦兵衞殿より外に見た者は無と申ゆゑさては下女の留守を知てうばひ取たるにうたがひなし左右とかく此儘このまゝには指置難しとて早々さう〳〵其段うつたへ出檢使を願ひしかば程なく檢使けんし役人やくにん入來いりきたりて疵所きずしよを改め家内の口書くちがきをとり何ぞ心當りはなきやとたづねの時右彦兵衞が事を委細ゐさいに申立しにぞこれまた町所ちやうところ書記かきしるし南町奉行所へ立歸り大岡殿へ申立ければ早速さつそく召捕めしとるべき旨申渡されしにより同心二人すぐに橋本町へ立越たちこえところ彦兵衞は他行たぎやういたし淺草へ罷越まかりこしたる由ゆゑ途中に待受しを知らず彦兵衞は金のつるに有り付たりとよろこび勇み望みの荷物を請取うけとりこれあゝしてかうしてと心によろこび我がを指て立歸たちかへり淺草御門迄來懸る處を上意とこゑかけたちまち召捕れしかば彦兵衞ハツと驚きしが偖は買付たる小間物は盜物ぬすみものなりしかと思ひ馬喰町の番屋ばんやへ上られ早々橋本町へ申遣しければ家主いへぬしはじめ長屋の者共駈付彼是の世話をなし又は下帶したおび鼻紙等迄はなかみとうまで心付こゝろづけを丈夫に持給もちたまへ大方物の間違ならんによりやがて清き身體になるべしと力を付などするうち彦兵衞は奉行所へこそ引れけれ


第七回


 さても小間物屋彦兵衞は其身そのみつみなくして享保きやうほ八年霜月しもつき十八日入牢じゆらうとなりしが同廿一日馬喰町市郎左衞門并に下女留隱居所いんきよじよ隣家りんかの者町役人等迄呼出有りて大岡殿市郎左衞門と呼上よびあげられ其方伯母をばは何歳に相成やとたづねらるゝに市郎左衞門平伏へいふくして六十五歳に相成候と申立ければ夫程それほどの老人と云殊に女の身なるに何故なにゆゑにん指置さしおきしやとあるに市郎左衞門其儀は同居仕つるやうに申候へ共私し店の儀は大勢おほぜいとまきやく入込いりこみさわしききらひ向島か根岸邊へ隱居いんきよ致度いたしたきよしのぞみ候へども漸々やう〳〵すゝめ近所へ差置下女一人付置候ところ其日そのひ野州邊やしうへんより男女の旅人五六十人着し其外そのほかとまきやく大勢おほぜいこれあり凡百人ばかりゆゑ勿々なか〳〵まはり兼るに付隱居所の下女を借て手傳てつだはせしにふけまゝ其夜そのよは下女事私し方へ泊り翌朝よくてうきやく給仕きふじなどを仕舞て立歸り候處右の騷動さうどうゆゑ大いに驚き候由を申立しかば大岡殿下女げぢよとめに向はれ只今市郎左衞門が申たてどほりなりや又彦兵衞が隱居いんきよを殺し金子をうばひ取し者とは如何いかゞして知りたるやと問れしにぞ留はおそる〳〵顏をあげ彦兵衞事常々隱居所へ立入り金銀を隱居いんきよより借請かりうけし事も御座りし處去る十七日右彦兵衞參り小間物こまものはらひを買候に百りやうほど入用にふようゆゑ九十兩ばかり一兩日りやうじつ借度かりたきよしを申せしに隱居は暫時しばらくかんがへ正直なる彦兵衞なれば用立度は思へどもかねて心願にて御門跡樣ごもんぜきさまへ百兩上度あげたく漸々やう〳〵調とゝのへ此おかうの中に指上るに付今は出來難き由をことわ箪笥たんす抽斗ひきだしより右の百兩を出して見せしに彦兵衞も隱居いんきよの信心をほめ外々ほか〳〵にて才覺さいかくいたさんと申とき隱居いんきよ脊負葛籠せおひつゞらを取出し是を質に置れなば五六十兩はかし申べしと云し時夫はかたじけなしと持て歸り候面體めんていことほか怪敷あやしくぞんじ候と申ければ大岡殿市郎左衞門は如何いかゞぞんずるやと尋られしに市郎左衞門其儀は日頃彦兵衞柔和にうわなる男には候へどももと大坂おほさかうまれゆゑ關東者と違ひ心根こゝろね怖敷おそろしく十が九ツ彦兵衞にちがひ之なしと申立るを能々よく〳〵勘考かんがへ質物しつもつを貸て遣す程の懇意こんいなるをまさかに忍びこみ殺害せつがいは致すまじと思はるれど夫共彦兵衞に相違さうゐなきやと念を押るゝに市郎左衞門は一途に彦兵衞と思ひこみへん段々だん〳〵内吟味仕ないぎんみつかまつりしに右百兩は隱居儀いんきよぎひそかたくはへ置しを十七日朝のうち封金ふうきんこしらへ候へば外に見たる人は決して御座なく彦兵衞にばかり見せたる事に付何分なにぶんあやしく彦兵衞儀を御吟味遊ごぎんみあそばされ伯母をばかたき御取下おんとりくだされ候樣にと申ければ大岡殿も道理もつともに思はれ其後彦兵衞を呼出よびいだされし上其方そのはうつねに立入て懇意こんいに致し金銀迄きんぎんまで借受かりうける程の隱居いんきよ何故なにゆゑ殺害せつがいに及びあまつさへ百兩の金を奪ひ取りしぞ不屆至極ふとゞきしごくなり眞直まつすぐに申せと問糺とひたゞされしかば彦兵衞は意外の事に思ひ私し日頃ひごろおんうけ候隱居を何とて手に掛け申べきや其儀そのぎは一かうおぼえ之なくと申に大岡殿然共されども隱居いんきよたくはへたる百兩の金を見たる事有やたゞし知らぬかと申されければ其百兩は存じ居候私し淺草あさくさに於て小間物の拂ひ入札仕にふさつゝかまつり私し札に落候故十兩手附をつかはし外に廿兩持合もちあはせ有れども七十兩たり申さず候間五六日の處七八十兩借用申度と隱居いんきよへ申込候處當金百兩有れども門跡樣もんぜきさまへ納るゆゑ用立難ようだちがたしと是非なく相斷あひことわり候に付外にて手段せんと暇乞いとまごひいたせし時質物をかしくれあひだ隱居いんきよ志操こゝろざしを感じいり背負せおひ葛籠つゞらを預り家主を相頼み五十兩の質物に入れ外にて金三十兩借請かりうけ淺草あさくさへ參り荷を引取ひきとりかへり候途中にて召捕れ其節そのせつの隱居人手に懸りし事も承まはり重ね〴〵大いに驚き申候と言立るを大岡殿怪敷あやしくおもはれ右百兩は十七日のあさ包金つゝみきんこしらへ夕方其方に見せ隱居いんきよの道にて宵から寢たと有れば外に右の金を知る者なし依ては人殺ひとごろし盜賊たうぞくだん有體ありていに白状致せと嚴敷きびしく申されけれども決して右體の惡事あくじいたしたる事なしと申きるゆゑ是非なく拷問がうもんかけ日夜にちや牢問らうとひきびしければ苦痛くつう堪兼たへかねいつそ無實むじつの罪を引受此苦みを免れんと覺悟かくごをなし如何にも隱居いんきよを殺し百兩奪ひ取候に相違之なくと白状はくじやうに及び口書こうしよ爪印つめいんをなせしにより終に死罪の上獄門ごくもんとぞ成にける(此彦兵衞牢内らうないに居てわづら暫時ざんじの中に面體めんてい腫脹上はれあがり忽ち相容變りて元のかたちは少しもなかりしとぞ)


第八回


 かへつて説淺草福井町に駕籠舁かごかきを渡世として一人は權三といひ一人は助十とよび二人同長屋に居てまづしきくらしなれども正直ものといはれ妻子をもよくやう育しけるが米屋市郎左衞門が伯母をばの殺されたる霜月しもつき十七日の夜麻布邊へきやく乘行のせゆきおほいにおそくなりて丑刻やつどきごろ福井町の我が家へ歸り來るに誰やらん天水桶てんすゐをけにて物をあらふ樣子なれどもくらき夜なれば確とも知れずさむさはさむし足早に路次口へ來て戸をたゝくに家主勘兵衞は口小言くちこごとたら〳〵立出たちいで今夜こんやは常よりも遲かりしぞ以後はちと早く歸る樣に致されよと睨付ねめつけて木戸を開ける故兩人は渡世とせいの事なれば那のやうに云ずとも宜さうなものと思ひながらも商賣柄しやうばいがらなれば御不肖ごふせうあれ以來御世話になるも御氣おきどくつきかぎ御借おかりおき家内かないの者に開閉あけたてをさせ申さんと云所へ相長屋あひながやの勘太郎立歸り路次の開しを幸ひに直と入るを見て家主勘兵衞は莞爾々々にこ〳〵と笑ひかけ勘太郎殿何所へ行れしやなどと何の咎もなく機嫌能きげんよくはなしながらうちに入るを見て權三助十の兩人の大いにはらたて此方こちら貧乏びんばふしても明白手堅しらきちやうめん駕籠舁かごかき勘太郎は商賣なし年中ねんちう博奕ばくちかたりなどを渡世に暮せど大屋へ鼻藥はなぐすりやるゆゑなにをしても小言を言ず此町内にて評判の根生惡こんじやうわるの家主勘兵衞め退役たいやくでもせよかしとつぶやきながら家に入今宵こよひは幸ひ旦那をのせて六百文ヅツに有付たりと一ぱいさけたのしみに快よく打臥うちふしけるが早夜も明し故助十は權三をおこし今朝はさむければ早く起て朝湯あさゆゆきあたゝまらんと呼覺す聲を聞權三も反起はねおき打連立うちつれだちて表へいで昨夜ゆうべにて何か洗し樣子なるが夜中といひ合點がてんゆかずと見れば天水桶てんすゐをけそばは血にそみなかの水も淡紅もゝいろになりて居る故不思議に思ひ我々が歸ると勘太郎もすぐつゞい這入はひりしがたしかに勘太郎なるべし喧嘩の戻りかたゞし追落おひおとしでもしたか生得しやうとく惡黨あくたうなれば夜稼よかせぎをなすも知れずとうはさしながら錢湯せんたうへ行しに朝湯も冬は込合こみあひ淨瑠璃じやうるり念佛ねんぶつ漫遊唄そゝりうたなかに一段へ足を踏掛ふみかけながら昨夜ゆうべ馬喰町に人殺の沙汰有しが聞かれしやと尋るに一人の男其事は今朝けさ見舞みまひに參りしが米屋の女隱居をんないんきよが殺され百兩盜まれたり此事追付御檢視の御出なるべしと云傍より又一人の男夫は何時頃の事なるやととふれば子刻こゝのつ時分じぶんに隱居小用に起たるを隣の女房が見たと云ば其後そののちの事ならんとのうはさを聞權三助十は目を見合せ心に合點うなづきつゝ程なく我家へ歸り昨夜ゆうべはなしは勘太郎にきはまつたり是から錢の遣ひ方に氣を付ろと兩人は人にも語らず心を付居たりしに十日ばかり立と博奕ばくちに廿兩かちたりとて家の造作を始しが押入おしいれ勝手元迄かつてもとまで總槻そうけやきになし總銅壺そうどうこ光輝ひかりかゞやかせしかば偖こそ彼奴きやつに違ひなしと思ふうち小間物屋彦兵衞と云者いふもの隱居いんきよを殺し金百兩奪ひ取りしとて御所刑おしおきに成しとの噂を聞權三助十の兩人は怪敷あやしく思ひ橋本町八右衞門たなにも駕籠屋かごや仲間なかまる故彦兵衞が樣子を聞に平常つね〴〵正直しやうぢきにて匇々なか〳〵人殺ひとごろしなどなす者に非ず全く拷問がうもんつよく苦きまゝに白状なし獄門ごくもんに成たりと云ふ評判ひやうばんにて大屋殿も三貫文の過料くわれうとられし由併し大屋殿は惡くない人故地主を呼れ退役たいやくには及ばぬと仰渡おほせわたされ一件相濟たれども彦兵衞は愍然かあいさうな事をなしたりとはなすを權三助十はきゝ彌々いよ〳〵勘太郎を怪く思ふ中勘太郎は家主いへぬしはじめ長家中へも少しづつの金を貸與かしあたへし故皆々勘太郎を尊敬そんきやうすれども權三助十ばかりはかれに一向物をも言ず居たりけり


第九回


 茲に又彦兵衞の妻子は大坂に殘り居ても江戸表より折々三兩五兩づつの金をおくあきなむきも追々都合よきむね便たより有に付やがて金銀をたくはへ歸り來らんとたのしみ待居たる折柄をりから店請たなうけの方より今度彦兵衞の一件を委細くはしくらせ來りしかば妻子は大いになげかなしみしが如何にも其知らせを不審いぶかるひとの心は旦夕あしたゆふべに變るものとは云ども彦兵衞殿は平常つね〴〵あま正直過しやうぢきすぎて人と物言など致されし事もなきお人なれば盜みは勿論もちろんひとを殺す樣なる事のあるべき筈なし何共なにとも合點がてんの行ぬ儀なりと云を子息彦三郎は漸く十五歳なれども發明はつめいにして孝心かうしんふかき故母の言葉を倩々つく〴〵きゝおつる涙を押へ是迄これまで父樣とゝさまの歸り給ふを待居たる甲斐かひもなくつみる人となつて御仕置おしおきと聞ふる時は此大坂中に評判ひやうばんを受るも口惜くちをしと父樣はとてもうかまれまじきにより私しこと早々さう〳〵江戸えどへ參り實否をうけたまはり自然此書中の如くに候へばほねを拾ひ御跡おんあととぶらひ申さんと云を傍邊かたはらより弟彦四郎是も漸く十二歳なるが進出すゝみいでわたしも參り兄と一所に委細ゐさい聞糺きゝたゞし母樣の御心をなぐさめんと申せば母は兄弟の孝心かうしんを喜び父樣が世にいまして此事を聞給きゝたまはゞさぞよろこび給ふべししばなみだくれけるが否々年も行ぬ其方們そなたたち先々まづ〳〵見合みあはせくれと云を兄弟は聞ず敵討かたきうちに出ると云にも非ず父樣の樣子をきくためまゐるに何の怖敷事おそろしきことの有らんやと強て申故母も止めかね夫程それほどに思はゞ兄は支度したく次第しだい江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心をなぐさめよと有に是非共兄樣と一所に出立しゆつたつせんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は母人はゝびといとゞさびしく思され猶も苦勞くらう増給ましたまはんにより其方は母樣のそばに止りてなぐさまゐらせよと漸々やう〳〵なだすかし正月廿一日いまだ幼弱えうじやくの身を以て親と思ふの孝心かうしんいさぎよく母に暇乞いとまごひなし五兩の金を路用にと懷中して其夜は十三淀川よどがはの船に打乘うちのり一日も早くと江戸へぞくだりける


第十回


 然程さるほどに彦三郎はならはたびなれども孝心かうしんふかきを天もあはれみ給ふにや風雨のうれひなく十日餘りもたち川崎宿かはさきじゆくへ着て御所刑場おしおきば是より何程なにほどあるやとたづねしに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場おしおきばなり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者はすゞもりまた東北とうほくの國の生れなれば淺草あさくさ小塚原こつかはらに於て御仕置に行はるゝと云由を聞すれば我父は大坂おほさかうまれなれば鈴ヶ森にて獄門ごくもんに掛られたることうたがひなしと夫より六郷の渡場わたしばこえ故意わざ途中とちう手間取てまどり大森おほもりの邊りに來りし頃ははやこくなれば御所刑場おしおきばあたりは往來わうらいの者も有まじとおも徐々そろ〳〵來懸きかゝりしに更と云殊に右の方は安房あは上總かづさ浦々うら〳〵まで渺々べう〳〵たる海原うなばらにして岸邊を洗ふ波音なみおとたかく左りは草木くさき生茂おひしげりし鈴ヶ森の御仕置場にして物凄ものすごき事云ふばかりなし然れども孝行かうかうの一心より何卒なにとぞちゝの骨をさがし求め故郷こきやうへ持歸りて母に見せんと御所刑場おしおきばの中へ分入わけいり那方あなた此方こなたを見廻すにやみの夜なれども星明ほしあかりにすかせば白き骨の多くありて何れが父のほねともれず暫時しばし躊躇ためらひたりしが骨肉こつにくの者の骨にはしみると聞し事あれば我がしぼり掛て見んとゆびかみしぼり掛け〳〵てこゝろみしに何れも血は流れて骨に入ずかゝる所へ挑灯ちやうちんひかりえしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と早々さう〳〵木立こだちなかへ身をぞひそめける


第十一回


 斯て彦三郎は木蔭こかげかくれ居る處に夜駕籠よかごもどりと見えて一人は挑灯ちやうちんを持一人は駕籠かごかつぎ小便を爲ながら何と助十去年きよねん此所このところ獄門ごくもんに懸つた小間物屋彦兵衞那れは大きな間違まちがひ隱居を殺したは勘太郎にちがひないと思つては居れど彦兵衞の親類しんるゐでも有るならば格別かくべつ滅多めつたな人にははなしも出來ず可愛かあいさうに彦兵衞はうかみもらず冥途めいどまよつて居るならんと彦三郎が此所に居るとも知らずうはさして行過ゆきすぎるをとくと聞彦三郎は大いによろここれひとへに神佛の引合ひきあはせに依て斯る噂を聞者なるべしと思ひそつと木蔭より立出たちいで此人々このひと〳〵ついゆきたづぬる者ならば明白に分るべしと後よりはなしを聞ながら行に行共々々ゆけども〳〵果しなくまことに始て江戸へ來る事なれば何と云處なるかまちの名も知れざれども其夜そのよ丑刻やつ時分じぶんに或町内の路次をひらき二人ながら内に入るを見濟みすまし直に入てはうたがひも有るならん明朝參つて樣子を尋問たづねん一人の名を助十と聞ば知れるにちがひなしと其夜は河岸にいし材木ざいもく積置つみおきし處へゆき寄凭よりかゝりて少しまどろまんとするに知らぬ江戸といひ此所こゝは如何なる處やらんもしとがめられなば何と答んと心を苦しめ夜の明るを待事まつことしうすぐるが如くやうやく東のかたしらみ人も通る故やれうれしやと立出たちいで往來ゆききの人に茲は何と申所なるやとたづねければ淺草御門なりと答るゆゑそれより東のかたひろ往來わうらいへ出て又町の名をきくに兩國也と云によりくう腹なれば食事をなし辰刻いつゝ時分じぶんになり彼の駕籠舁かごかきの入し路次のある町へ到り所の名をきくに福井町なりと云にぞ豫て見置みおきたる權三助十が長屋ながやへ入り一通長屋を見廻みまはすに四ツ手駕籠でかごを前に置たる家あるゆゑこれにて聞ば知れるならんと小腰こごしかゞめ助十樣と申は此方こなたに候やとたづねければ女房にようばう立出たちいでなんの御用に候や駕籠かご御入用おんいりようにもあらば助十と申は此方の相棒あひぼうゆゑ仰聞おほせきけられよと申にぞ然樣さやうならば昨夜さくや駕籠かご御出おいでなされしは助十樣しよに候かと聞に如何にも毎夜まいよしよ駕籠かごかつ渡世とせいいたすなり何ぞ御用ならば上り給へと申をさいはひに草鞋わらぢぬいあがるに未だて居たる權三をおこし右の事をはなせば早速さつそく起出おきいでかほあらひ見るに十四五の若衆わかしう旅裝束たびしやうぞくなれば駕籠かご相談さうだんと心得て挨拶あいさつをなすにぞ彦三郎差つけながら内々にて御尋おたづね度事たきことつて參上さんじやう仕つりしなり助十樣の御名はうけたまはり候へども貴君あなたの御名は未だうけたまはり申さず何と申され候やと問ば私は助十が棒組ぼうぐみ權三と申者御用も御座らば仰聞おほせきけられよと申に若年ながら彦三郎は發明故見れば見苦敷みぐるしく如何いかにも貧窮ひんきうの樣子なれば金子きんす一分を取出とりいだし始て參上仕さんじやうつかまつり内々御聞申度事御座るに付是にてさけさかな御買下おかひくださるべし輕少すこしながら御土産おみやげなりと申故權三も一向に樣子やうす了解わからねば辭退じたいするを得心とくしんせずすこしなれども御請納下おうけいれくだされねば申がたしとたつ差出さしいだす故然ば仰に隨はんと受納うけをさめ扨御用のすぢはとたづねしに彦三郎かいにて内々ない〳〵御聞おきゝたくひとの耳へ入れては宜からずと申に付子供といひあやしながら助十をよびかいへ上り三人ひざ突合つきあはせしに彦三郎はこゑひそめ御家内樣御聞下されても相成あひなり申さずとずつかべきはへ寄り私は大坂おほさか堂島だうじまの彦三郎と申者なるが昨夜さくや御當地ごたうち到着たうちやくいたまだ宿やども取らず夜の明るをまち早速さつそく參上さんじやう仕つる其譯は舊冬きうたう御仕置おしおきに相成し彦兵衞がこと御存ごぞんぢに候はゞ委細ゐさい御話下おはなしくだされよと申に兩人は思ひも寄ぬたづねゆゑ私し共一向に其彦兵衞殿ひこべゑどのと申御人は御知己おちかづきにもあらねば存じ申さずと答しかば彦三郎なみだながかく突然いきなり御尋問おたづね申せば御不審ごふしん御道理ごもつともなれど私しは彦兵衞がせがれにて當年たうねん十五歳に相成一人のはゝ御座ござところ彦兵衞御仕置おしおきに成しと聞て打驚うちおどろもとより正直なる父彦兵衞人を殺しぬすみなどする者に非ず何か謂れの有さうな事と明暮あけくれかなしなげき一かう食事しよくじも致さぬゆゑ我等われらはゝいさめ江戸えどへ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六がうの渡しをこえよひすゞ森迄もりまでまゐりしがせめて父彦兵衞のほねなりとも拾はんと存じたづねたれども更に知れ申さず然る處へ各々方おの〳〵がたとほり掛り給ひ彦兵衞がうはさいたされしゆゑ不思議ふしぎに思ひすぐに鈴ヶ森を出て御後おあとつけて是迄は參りしなれども夜中やちういひ御知己おちかづきにも有らねば河岸かしにある材木ざいもくたきゞなどのかげにて夜をあか兩國りやうごくいたりて食事をなしよき時分じぶんと存じ只今たゞいま參上さんじやう仕つりしなり昨夜鈴ヶ森にて助十と御呼およびなされたるゆゑそれ心當こゝろあてに助十樣と御尋おたづね申せしと始終はじめをはりを物語りけるに兩人は思はず涙を流し偖々さて〳〵いまだ年も行ぬ身を以て百餘里のみちくだ親公おやごほねを拾はんとは如何にも孝心かうしんだん感入かんじいりたり殊に鈴ヶ森のさみしき所へ夜中能も一人にて入給ひし者哉さりながら死骸しがいもらふには非人小屋ひにんごやへ手を入れねば勿々なか〳〵がたしと申にいなそれよりは親彦兵衞が人を殺たるには非ず外に在との御話しゆゑとても死たる彦兵衞が事は是非に及ばずせめて外に本人があらば科人とがにんを出し父彦兵衞が惡名あくめいすゝぎ申度其本人を知らせ給れとかれ志操こゝろざしつぶさに申ければ權三は一たい涙脆なみだもろき男なるが助十にむかひ何と此御若衆このおわかいしゆが鈴ヶ森に居たる時に我々われ〳〵通掛とほりかゝるも不思議ふしぎまたすゞもりにて小便をする時彦兵衞殿のはなしをしたもこれ神佛かみほとけ御引合おんひきあはせにて其孝心そのかうしんあはれみ給ふ故ならんこゝは一番二人が力をつくしてはたらかにやならぬ其方そなたなんと思ふと問けるに助十ももとより正直者しやうぢきものにて勘太とはだいの不和なればいふにや及ぶ力をつくしてしんぜんと申にぞ彦三郎は大によろこびしが江戸不案内の事故如何してよろしからんか何分にもたのむとあれば助十はかんがへ彦兵衞殿の居られた家主いへぬし八右衞門殿は此邊このへんにての口利くちきゝゆゑ是へ行て相談さうだんあるべしと云を彦三郎御長屋中に怪敷あやしきひとあるとの事なれば此御家主へ相談は如何いかゞに候はんとたづぬるに權三打笑うちわらひ爰の家主いへぬしは店子の中に依怙贔屓えこひいきおほく下の者をしかる事は持前なれども表へ出ては口のきける大屋に非ずことに寄たら當人へもらしてにがすも知れざれば彦兵衞殿の家主八右衞門殿をたづね能々よく〳〵相談さうだんなし給へとすゝめるに付彦三郎は御深切ごしんせつ御詞おことばかたじけなしと打悦うちよろこ内外うちそと事共ことども諜合しめしあはせ橋本町へぞ急ぎける


第十二回


 偖彦三郎は橋本町一丁目家主八右衞門とたづねしに早速さつそくれければ八右衞門の家に行き對面たいめん致せしに八右衞門は彦兵衞のせがれ彦三郎ときゝむねふさがしばし言葉も出ざりしが漸々にかうべを上げ能こそ尋ね參られたり彦兵衞殿は不慮ふりよの事にて相果あひはてられ嘸々さぞ〳〵力落ちからおとなるべしと云に彦三郎は涙を流し父事御仕置になりしは是非におよばさりながら其人殺盜賊は彦兵衞に之なく外にあるにより此段御公儀へ訴へ父が汚名をめいすゝぎ申度何卒御執計おとりはからひを願度依て推參致せりとの言葉の端々はし〴〵いまだ十五歳の若年者じやくねんものには怪敷あやしく思へども又名奉行大岡樣の御吟味に間違まちがひのあるべき樣なし由無事よしなきことを訴へ其許迄そのもとまで御咎おとがめかうぶるは笑止せうし千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町にすむ權三助十と云ふ駕籠舁かごかき二人證人なりと申せば八右衞門くびかたぶ其許そのもと何時いつ江戸へ參られしやととふに彦三郎は今朝こんてう福井町へちやくすぐに承まはりたゞし只今爰許こゝもとへ參りしと申ゆゑ彌々いよ〳〵合點行ず段々樣子を聞くに昨夜の事柄ことがらより權三助十が話しとう委細ゐさい物語ものがたりしかば八右衞門は彦三郎の孝心を大にかんじ早速權三助十を呼になほわけきくに去年十一月十七日の夜中に歸るをり天水桶てんすゐをけにて血刀をあらひ居る者あるに付能々よく〳〵見るに同長屋の勘太郎と申者なれば怪敷あやしくおもひながら空知そしらふりに罷在し所右の勘太郎きふに二三十兩掛て造作ざうさくを致し道具をかひ妻子の身形みなりも立派になり二十兩勝た三十兩勝たと博奕ばくちに勝たはなしをする樣子何分合點がてんゆかず常にはまけた事ばかり云ひて勝た事をいはざるに全く金の出處をうたがはれぬ樣に勝し事を吹聽ふいちやうするに疑ひなし其上長屋中へ錢金ぜにかね用立家主へも金をかすゆゑ勘太郎を二なき者の樣におもひ我々如き後生ごしやう大事だいじと渡世する者は貧乏びんばふを嫌ひ一向に構ひ付ず睾丸きんたまも釣方とやら私し共でも得心せぬ故長屋の泥工さくわん棟梁とうりやうは年頃といひ人も尊敬そんきやうする者なれば此者を以て勘太郎は店立たなだてを致されよ往々は家主の爲にもなるまじと申入たれば大にいかかへつて我々を追立おひたてんとなすゆゑ泥工さくわん棟梁とうりやう家主に異見して相濟あひすみし程の事もあれば馬喰町の隱居殺したるは勘太郎にちがひなしと申を八右衞門きゝてなる程勘太郎とやらんうたがしきものなれども屹度きつと隱居を殺したりとも定難さだめがたし併し御吟味を願はゞ何か惡事有る者ならんが各々おの〳〵證人にならるゝとも此事を以て訴訟うつたへにはなり難し何か工夫くふうありさうな事としばらく考へしが我等一ツの手段あり彦兵衞せがれ彦三郎と申者私し方へ參り正直しやうぢき無類むるゐの彦兵衞勿々なか〳〵ぬすみなど爲者なすものに非ず何故辯解いひわけをして助けくれざるや夫にて家主がつとまるかと惡口致すにより我々御慈悲願おじひねがひを致したれども公儀にて御吟味の上御所刑おしおきに行はれたる事ゆゑ我々がちからおよばずと申せしかば何分聞入きゝいれず私し共を切殺きりころし親に手向たむけん是則ち敵討なりと立騷たちさわぎ候に付皆々打寄異見仕つれども聞入申さずよんどころなく召連めしつれて御訴へ申上ると彦三郎を連て皆々南御番所へ罷出申べし其時御尋おたづねらば彦三郎殿委細ゐさい事故ことがらを申上られよ其上各々おの〳〵がた御差紙おさしがみを以て召呼れ御吟味有るならば必定夫にて彼の勘太郎なるや彦兵衞殿なるや明白めいはくに分るべしと申故三人も八右衞門が才智さいちを感じ夫より長家の者二三人へはなし彦三郎をぐる〳〵まき縛上しばりあげ名主へも屆置とゞけおき召連訴へにぞ及びける(誠に感ずべきは人智じんち又恐るべきも人智なり正雪しやうせつをさまりし天下を押領あふりやうせんとたくむ智慧ちゑの深き事はかるべからずと雖も英智の贋物にせものにして悉皆こと〴〵邪智じやち奸智かんちと云ふべし大石内藏助は其身放蕩はうたうと見せて君のあだを討ちしは忠士の智嚢ちなうを振ひ功名を萬世に殘せし正智なり夫程にはあらねども八右衞門が才智さいち感ぜずんばあるべからず其謂そのいはれは訴へに及ぶには先彦三郎は宿やどを取家主を頼み名主の玄關へかゝ勿々なか〳〵手間取てらちあくまじ殊に十五歳の彦三郎江戸不案内ふあんないいひ公邊こうへんにはなれず又證人の權三助十共明白に口のきける者に非ず品によると皆々入牢にもなり有て罪におちいる事もあるべしと思慮しりよし因て斯く計ふ時は彦三郎無法にもせよおや孝心かうしんにして僅か十五歳の者が大坂より遙々はる〴〵來りてさわともにくむべき事に非ずまた駕籠舁かごかき二人勘太郎事を申立たりとも夜中やちう血刀を天水桶に洗ひしは何か謂れあり彦兵衞一件に關係くわんけいなくとも兩人申上る言葉も御咎おとがめあるまじ又勘太郎彌々馬喰町の人殺なれば彦三郎が念願ねんぐわん成就じやうじゆする故前後を考へたる事にして八右衞門が分別ふんべつ等閑なほざりの及ぶ處に非ずといふべし)


第十三回


 却説かくて八右衞門は彦三郎へ申含置ふくめおきたる通り名主の玄關にて強情がうじやうはる故是非無召連訴へと相成則ち口上書こうじやうがきを差出せり

乍恐おそれながら以書付かきつけをもつて奉願上ねがひあげたてまつり

一橋本町一丁目家主八右衞門申上奉つり候さるふゆ御所刑おしおきに相成候彦兵衞せがれ彦三郎と申者父彦兵衞無罪むざいにして御所刑に相成候事私し申上方よろしからざる故也因ては父の敵に候へば討果うちはたし彦兵衞に手向たむけ度由申候に付公儀の御成敗ごせいばいは我々力に及ばずと申聞候へ共一かう得心とくしん仕つらず殊に若年と申大坂より一人罷下まかりくだり候儀亂心らんしんの樣に相見え旅宿承まはり候處必至ひつし覺悟かくごに御座候間宿も取申さず直樣すぐさま私し方へ參り候由にて惡口あくこう仕り候に付諸人異見を差加さしくはへ候へども物狂敷ものぐるはしきていにて引渡候處も之なく候間よんどころなく當人たうにん召連めしつれ御訴へ申上奉つり候何卒御慈悲を以て彦三郎へ御利解りかい仰聞おほせつけられ大坂表へ罷歸まかりかへり候樣御取計ひひとへに願ひ上奉つり候以上

橋本町一丁目家主
八右衞門

これあるより早速彦三郎を呼出されしに細引ほそびきにてしばりまゝ白洲へ引据ひきすゑたり時に越前守殿此體このていを見られ是は何か仔細しさいありはやくも察せられしかばしづかに詞をはつし如何に彦三郎其方が父彦兵衞事去冬人を殺し金子を盜取ぬすみとりとがに因て御所刑おしおきと相成し事八右衞門のぞんじたる事に非ず若年の事なれば父の敵と思ふも道理だうりなれども今更いまさら是非ぜひに及ばず早々大坂へ立歸るべしと申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ指折算ゆびをりかぞへて歸るを待居りし中に御所刑となりしかば母は明暮あけくれなげき悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下りほねひろ持歸もちかへらんと母をいさめ此度江戸表へ參りし途中とちう鈴が森と承まはりしまゝ何卒父の骨を拾ひ得て持歸らんと存じ夜に入て種々しゆ〴〵たづねさがせ共いづれが父の骨なるや相知れ申さず然る處其夜亥刻時よつどきすぎにも候はん二人の駕籠舁通掛り去年此所にて彦兵衞御仕置になりしがの人殺しは彦兵衞にあらず惡人はほかあるよしはなしながら行過ゆきすぎ候故後を付て參りし所淺草福井町とやら申町迄いたり其所の路次ろじへ入候は最早もはや丑刻頃やつどきごろとも覺敷おぼしく候に付其夜は外にて夜をあかし翌朝右の駕籠屋へ參り段々相尋あひたづね委細ゐさい事故ことがらを承まはりしに馬喰町人殺は別人べつじんなる由全く彦兵衞の所業しよげふに非ず然るを家主八右衞門熟々よく〳〵たゞしも仕つらず御所刑と致候段殘念ざんねんぞんじ小腕こうでながらも敵討を仕つる所存なりと申立ければ大岡殿は其方若年ゆゑに心得違こゝろえちがひなり然ど其人殺は外にあると申たるは福井町にて何と申者なるぞ名前を申せといはれければ福井町勘兵衞たな權三助十と申者委細ゐさい存罷在候間此者より御聞取下おんきゝとりくだされ候樣にとねがひけるにぞ偖々其方そのはう孝行者かうかうものなり吟味中八右衞門へあづけると申渡されしかば其日は彦三郎をともなひ橋本町へぞ歸りける


第十四回


 大岡殿より差紙さしがみを以て勘兵衞たな權三助十の兩人尋ねの儀有之これあるつき召連めしつれ罷出まかりいづべきむねたつされければ家主勘兵衞は兩人をよび貴樣達は何ぞわるい客人をのせて物でも取たかたゞし客人の錢金ぜにかねかたりでも爲せしか御奉行所へ明日召連罷り出る樣にと御差紙さしがみ到來たうらいし誠に我等迷惑めいわく至極しごくなり然れば夜駕籠よかごなど舁者かくものを店へはおかれぬと申をきゝ權三は大にはらたちいやしき渡世は致せども然樣な惡事は少しもなさず善か惡かは明日出て聞給きゝたまへと平氣の挨拶なれば勘兵衞是非ぜひなく受書うけがきを差出し翌日同道にて南奉行所へぞ出でたりける權三助十の兩人は彦三郎が八右衞門方へ御預おあづけきゝかねての都合と覺悟をなし白洲しらすへ罷出けるに大岡殿出座有て如何に其方共先達せんだつて御仕置に仰付られたる彦兵衞せがれ彦三郎と申者は何方いづかたに於て面會めんくわい致したるやと尋ねられしかば兩人ハツと平伏へいふくなし私しども先夜大森まで客をのせ亥刻過頃よつどきすぎごろ鈴ヶ森迄歸り來り候處不圖ふと彦兵衞の事を思出おもひだし去年此所で御所刑に成りし彦兵衞は正直者しやうぢきものゆゑ勿々なか〳〵人殺ひとごろし夜盜よたう等は致すまじ此盜人は外にあらんと申事を誰もきくひとあるまじと存じうはさ仕つりし處御所刑場おしおきばかげに右彦三郎が居て其事を聞きたるにより私しどものあとに付て參り住居すまひ見置みおき翌朝よくてう尋ね來りて彦兵衞悴なる由を申きけ鈴ヶ森にて私し共の話を承りしにより父彦兵衞のほかに人殺有らばをしへてくれる樣にと涙を流して頼むにつき何故人もおそるゝ鈴ヶ森に夜中居たるやと尋ね候へばちゝほねひろひ念頃ねんごろとぶらたくぞんじたづね候と申ゆゑ數多あまたの骨の中にていかでか是が親の骨と分かるべきやと申候に彦三郎しぼり骨へかける時は他人たにんの骨へは染込しみこむ事なく父の骨なれば染込候ゆゑゆび噛切かみきりを掛て見候とて噛切かみきりたる指を見せしにつき私しどもゝ其孝心を感じて思はず落涙らくるゐ仕り如何にも彦兵衞には有之これあるまじ外に人殺ありと申たるに相違さうゐ御座なく候と申ければ大岡殿聞給ひさらば馬喰町米屋市郎左衞門伯母をばころし金をとりたる者外に有るやと尋問たづねらるゝに兩人ヘイ其人殺しと申は私ども同長屋に罷在る勘太郎と申者ならんとぞんじむね申立けるを家主勘兵衞恐れながら進出すゝみいで其勘太郎は實體じつていにして渡世向とせいむき出精しゆつせい仕つる者につき勿々なか〳〵右體みぎてい非道ひだうの働きを致す者に候はずと云ふゆゑ大岡殿權三助十とよばいまきく通り家主は實體者じつていものなりと云ふが何ぞ證據有るやとたゞさるゝに兩人其儀は去年十一月十七日麻布迄客を乘行のせゆき丑刻過やつどきすぎに歸り候處町内の天水桶にて刄物はものあらふ者あり其形容そのかたち勘太郎に髣髴よくにたりとは存じながら私しども見屆けるにも及ばざる事ゆゑ路次を家主に開いてもらひ内へいりし時勘太郎もつゞいあとより這入はひりしに付偖は刄物を洗ひしは勘太郎に相違なしと存じ其夜はいね翌朝よくてう天水桶を見て候へば淡紅色もゝいろになり桶にも血の付き有る故勘太郎は何方いづかたにて人をきりしやと存ずる處昨夜さくや馬喰町米屋の女隱居ゐんきよを殺し金百兩盜みたる者ある由噂仕つるにより扨は勘太郎が仕業しわざなるかたゞし外に喧嘩けんくわでも致したるかと思ふに中裁なかなほりの沙汰もなく博奕打ばくちうちの喧嘩なれば是非沙汰のあるはずなるに一向何のはなしもないは彌々いよ〳〵以て女隱居を殺害したるに違ひなしと思ひしうち家の造作家内の身形みなりも立派になり皆々不思議ふしぎに存じたる所博奕に廿兩勝た三十兩勝たと吹聽ふいちやう致せども是は盜賊の名をかくす心と存ぜしなりと委細申立るに此時大岡殿與力をよばれ何やらん申渡され又家主勘兵衞と呼出よびいださるゝに勘兵衞は二人をにらみながら進み出づればコレ勘兵衞右勘太郎の商賣しやうばいは何を致すと尋ねられしに勘兵衞ハツといひきり暫時しばら返答へんたふ出來ざりしがやうや季節ときの物を商ひ候由申ければ權三助十否々いへ〳〵いひながら傍邊かたはらより進み出で勘太郎渡世と申ては外に之なく年中ねんぢう博奕のみ致居候間あや敷存じ店中たなうちに差置ては家主の爲になるまじくと思ひ泥工さくわん棟梁とうりやう權九郎と申者を以て勘太郎店立たなだて申入候へば勘兵衞もつての外にいかり却て私し共に店立申付候程の事にて何故か勘太郎を贔屓ひいき仕つり候と申せしかばこゝに於て大岡殿大聲に其方家主をもつとめながら右體みぎていの者は訴へ出べきにいつはりを以て申立る條勘太郎同意どういと思はれる因て手錠ぢやう申付ると勘兵衞に手錠を掛られおつて呼出すとて皆々白洲を下られけりされば勘兵衞は兩人をうらみけるを權三助十は冷笑あざわらひ其許は商賣出精爲者には店立を申付博奕をうち夜盜よたうなどする者を大切に致さるゝ上は覺悟の前なりと今迄惡樣あしざまに取扱はれたる意趣いしゆばらしの心にて存分に云散いひちらしてぞ立歸りける勘兵衞は早々勘太郎へ右のはなしをせんと長屋へ行きて見るにはや勘太郎は召捕めしとられたりと聞きてあきれ果てたるばかりなり


第十五回


 偖も福井町勘兵衞たな勘太郎召捕めしとられ入牢申付られしが其後大岡殿呼出よびいだしの上去年霜月しもつき十七日の夜中馬喰町馬場のかたはらに住居罷在る米屋市郎左衞門隱居いんきよの老女を殺し金百兩うばひ取りたる事明白めいはくなればちんずるとものがれ難し眞直まつすぐに白状せよと有りければ一向然樣の儀おぼえ之なく候と申を然らば汝は何を渡世致すやととはるゝに勘太郎ぬからぬかほにて其季節そのときどきの物をあきなひ仕つり候と申立るを大岡殿季節の商賣と云ふは何をうりて渡世に致候やと申されしかば夏はうり西瓜すゐくわもゝるゐあき梨子なしかきの類など商賣仕つると申せども自然おのづから言語ごんごにごるゆゑイヤ其方家内を檢査處しらべるところ賣歩行うりあるく荷物にもつ一ツもなくして家内にはめくり札さい數多あまたありしなり此返答はどうぢやと問詰とひつめられしに勘太郎一言の返答も出來兼ねたり越前守殿コレ勘太郎汝は惡黨あくたうと云ふ事とくに知れて有るぞ又々吟味せば舊惡有るべし苦痛くつうせぬうち白状致せと申さるれども人殺夜盜の覺えなしといふゆゑ入牢じゆらうさせおき嚴敷きびしく拷問がうもんに及びしかど白状せぬにより妻子を呼出よびいだされ勘太郎如何致して去年十一月より家内造作諸道具等を立派に致し内々金子をたくはへしや眞直まつすぐに申せとたゞさるゝに女房はふるへ出し私し女の事故一向存じ申さずと云ふ時大岡殿其儀勘太郎申には去年十一月十七日の夜に馬喰町米屋の女隱居いんきよを殺し金を盜みしと白状致したりこと其譯そのわけは其方へはなし内々博奕にかつつもり云觸いひふらしたる由其方隱す共勘太郎白状なれば最早もはやのがれずたつて隱せば汝も女ながらあやしやつゆゑ入牢の上拷問申付けるぞとおどされしかば面色めんしよく蒼然あをざめ私しは馬喰町にて人を殺したる事は存ぜねども去年霜月しもつき十七日博奕よりおそく歸りし時如何なる故か面色かほいろからず衣類に血が付居つきをりし故樣子を尋ね候に途中とちうにて喧嘩を致し切付きりつけたれば其者迯行にげゆきしが跡におとせし物あるにより拾上ひろひあげて見れば百兩の金をかみつゝみ水引を掛け上書に奉納と書記かきしるし有りし事を承まはり候と申立ければ夫にてよしと女房は其儘そのまゝ歸されたり偖大岡殿智略ちりやくを以て勘太郎が妻を問糺とひたゞされしに委細申立たる故勘太郎がなせわざと知れ拷問嚴敷詮議あれども何分白状なさず因てなほまた大岡殿白洲へ呼出され其方は一通りならぬ惡黨あくたうなれ共斯程かほどせめあふて白状致さぬは又大丈夫なりさりながら汝が妻の詞に百兩の金かみつゝみ奉納ほうなふかき水引にてむすび有しと申立て有る上は白状せずとも差免さしゆるすと云ふ事なし日々苦痛するは却て未練みれんと云ふ者なり妻子もともに仕置に行ふべきなれども今白状いたさば慈悲じひを以て妻子は助遣たすけつかはさん夫とも強情がうじやうを申らば見る前にて妻子もともに入牢申付る惡黨は未練をのこさぬ者なり此越前がにらんだまなこちがひはないぞと申されければ勘太郎も所詮しよせん助かり難しと斷念あきらめ然らば白状仕つらんとて居直ゐなほり米屋の隱居とは存ぜざれども夜中やちう忍込しのびこみ切害の上金百兩うばとりたるに相違之なくと白状に及びければ神妙しんめうなりと申され其金百兩有りし事如何して知りたるやとたゞされしに勘太郎其日小間物屋彦兵衞金子無心を致して居る樣子を格子かうしそとにて承まはりしが黄昏頃たそがれごろゆゑそつのぞきし所百兩包を取出し御門跡へ納める金なりと云ひ又箪笥たんすの引出へいれたる處を見ると欲心よくしんきざし年寄たる女一人おそるべきにあらずと思ひ其夜忍入しのびいりて殺害なし金子奪ひ取り候と其手續きを一々白状に及びしかば茲に於て口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ又々牢内へ送られける因て彦三郎はじめ呼出されしに馬喰町米屋市郎左衞門は程經ほどへたる事ゆゑ大にあやしみながら請書うけがきをだし又福井町勘兵衞并に助十權三皆々廿五日南奉行所へ罷出腰掛こしかけ相詰あひつめ呼込よびこみまちけるに大岡殿午後ひるご未刻過やつどきすぎ退出たいしゆつありて直樣すぐさま橋本町八右衞門一件と呼聲よびこゑれ各々白洲へぞ出にける


第十六回


 偖享保九年二月二十五日橋本町八右衞門一件一同呼出につき皆々白洲へ居竝ゐならぶ時馬喰町市郎左衞門と呼上よびあげられ昨冬霜月十七日の夜其方伯母儀をばぎ切害せつがいの上金百兩盜まれし段訴へいで右盜賊は小間物屋彦兵衞なりと申故我等利解りかいを下し勘辨かんべん致す樣に申渡たれど彦兵衞に相違なし伯母をばの敵なりとてしきりに吟味を相願ふ故彦兵衞を糺明きうめいに及びし處白状により御所刑に申付られたる事存じの通りなり然るに彦兵衞せがれ彦三郎と申者今度大坂より來り彦兵衞事右等みぎら惡事あくじ致す者に非ずと願出るに付段々再吟味に及ぶ處彦三郎が孝心かうしんの致す處其方伯母を殺したる者手にいりたり只今其者白状の趣き夫にて承まはれと申渡され又勘太郎にむかはれ其方米屋の女隱居いんきよを殺し金百兩奪ひ取たる手續てつゞき委曲くはしく申せと云はれしかば勘太郎其儀は私し事夕方ゆふがた馬喰町馬場のわきを通り候をり出格子でがうしの中にて金談きんだんの聲致すにより何事やらんと承まはりしに彦兵衞事無心むしんの處折惡をりあしく百兩は御門跡に奉納の願ひにて御講中おかうぢうに差上るつもりこれ見給みたまへとて彼女隱居は紙に包みし金子を出して見せたる故羨敷うらやましく思ひ我今百兩有らば安樂なるべし役に立ぬ寺への奉納と存じ何方いづかたへ仕舞置やとひそかのぞきしに重箪笥かさねだんすの引出へ入れたるを能々よく〳〵見置みおき其夜そのよ丑刻頃やつどきごろ忍び込み右の金を取らんとする時女隱居目をさまし何者と聲を立る故是非なく殺し候と申に大岡殿何と市郎左衞門只今きくとほり本人は勘太郎と云ふ者にて彦兵衞には非ずうたがひの心よりさへぎつて申立罪なき者の命を取し事不埓千萬ふらちせんばん云解いひわけ有るやと申されしかば市郎左衞門は今更いまさら惘果あきれはて何共申譯之なく大いに後悔こうくわいなし恐れ入り奉つると平伏してぞ居たりける又彦三郎と呼れ其方若年にして孝心かうしんふかき段天に通じ父の惡名をすゝぐ事感ずるに餘りあり又橋本町家主八右衞門并に駕籠舁かごかき權三助十其方共彦三郎が孝心を感じ證人となりて惡黨あくたうを訴へにおよびし事かろき身分には特の心底なり只今聞通きくとほり人殺夜盜は勘太郎に相違之なし然樣心得よと云はれしかば彦三郎は云ふに及ばず八右衞門權三助十等みな有難ありがたき仕合なりと喜びけり時に大岡殿福井町家主勘兵衞と呼上よびあげられ其方家主の身を以て然程さほどの惡黨を存ぜず差置きあまつさへ格別かくべつ懇意こんいに致す事如何の心得なるや恐入たるかとしかられしかば勘兵衞一言もなく平蜘ひらくもの如くになり居たり此時權三助十おそれながらと進み出で此儀市郎左衞門何樣どのように願上候とも罪もなき者を御仕置に仰付られ候事明白めいはくの御沙汰とも存ぜず然ども市郎左衞門申立より彦兵衞御所刑おしおきあらば下より申上候儀は何事も御取上に相成候やうかゞひ奉つると申出しに彦三郎涙を流し父彦兵衞罪なき事明白に相分り有難く存じ奉つるにより此上の御慈悲おじひに父彦兵衞が死骸しがいくだおかれ候樣に願ひ奉つると申そばより又八右衞門も進出すゝみいで彦三郎儀罪なき父を殺し候うらみなりとて私しを敵と申候儀だう理に存候すれば天下の御奉行樣にも罪なき者を御仕置おしおきに仰付られしは同樣ならんか併したつとき御方故其儘そのまゝに相濟候事や私しどもが然樣さやうみちかけたる事あらば重き御咎おとがめかうぶるべし願くは彦兵衞を御返下おかへしくだされ候樣に願ひ奉つると申ければ大岡殿無言むごんにて居られし故權三助十は大岡殿を一番言込いひこめ閉口へいこうさせんと思ひ天下に於て御器量ごきりやう第一と云ふ御奉行樣にも弘法こうぼふも筆の過失あやまちさだめ惡口あくこうと思召すならんが罪なく死したる彦兵衞が身は如何遊ばさるゝやと口々に申故大岡殿皆々默止だまれおほせられしを權三助十默止だまりますまい此一件彦三郎申分相立候樣に御慈悲おじひを願ひ奉つると云ふに八右衞門彦三郎も進出すゝみいでごん三助十諸共もろともかまびすしくこそ申けれ


第十七回


 扨も越前守殿には暫時しばらくもくして居られしがやがて一同控へ居よといはれコリヤ彦三郎其方共に彼是かれこれ云込いひこめられ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ褒美はうびつかはす夫にて皆々不肖ふせう致せと白洲の外に控へ居たる一人の男を呼出よびいだされしに久しく日の目を見ざりしと見え顏色かほいろあしけれ共よく肥太こえふとりたりイザ此者を遣すぞ皆々對面たいめんせよと申されしかば各々おの〳〵不思議に思ひ其人を見ればは如何に去冬御仕置になりし彦兵衞なり彦兵衞は彦三郎を見るやいなや白洲をもかへりみず涙を流し汝は彦三郎なるかと手をとりよろこすがりしかば皆一同に惘果あきれはてたるばかりなり時に大岡殿申さるゝは此彦兵衞儀白状は致せしかど其口振くちぶりと云ひ人體じんていと申しうたがしく思ひ外に罪有る者牢死せしを身代みがはり獄門ごくもんになし彦兵衞は助命じよめいさせ置たり然るに果して勘太郎と云ふ本人出しは我もよろこぶぞこれひとへに彦三郎が孝心に因る處一ツは八右衞門が取計とりはからひ權三助十の正直しやうぢきより起る處又某に對して惡口せしは惡口に似て惡口に非ず其方どもが如き者町方まちかたに有るは我も悦びの一ツなり彦兵衞は渡し遣はす又々追て呼出すとてさげられしかば皆々悦びいさむ事かぎりなく大岡殿の深慮しんりよを感伏したりけり此外に出會いであはせし公事くじ訴訟人迄も涙も流し感ぜぬ者はなかりしとぞ扨又大岡殿は市郎左衞門にむかはれ罪をあがなふには首代くびだいと云ふ事あり先達せんだつて其方伯母より借たる雜物ざふもつは富松町質屋六兵衞方にて五十兩借請かりうけ其金を以て小間物荷を買調かひとゝのへたる故其小間物は一たん取上物とりあげものと成しが今度彦兵衞へ下さるゝなり然上しかるうへは右五十兩并に利息りそくを六兵衞方へ遣はさねば相成るまじ彦兵衞事病氣と云ひ大坂へ立歸る路金ろぎんにも差閊さしつかへるならんにより右五十兩の金は其方より六兵衞方へ勘定かんぢやう致して遣はせもし難澁なんじふ申に於ては此方に存寄ぞんじよりありと申渡されしかば委細ゐさいかしこまり奉つると返答に及びたり又質屋六兵衞其方儀は彦兵衞があづけ置たる質物しちもつたん盜物ぬすみものとなり取上し所今明白に相分り不正の品に之なき上は右五十兩元利共ぐわんりとも彦兵衞より勘定致すべきはずなれども只今承まはる通り故米屋市郎左衞門より受取と申渡されけりかくて又勘太郎儀は獄門同人妻子は追放つゐはう家財かざい取上となり家主勘兵衞は役柄不相應殊に惡黨の勘太郎より金を借請かりうけ正直しやうぢき成者なるものを追立候儀勘太郎同類にひとしおもくも仰付られべく處格別の御慈悲を以て家財取上追放申付られ家主家財勘太郎家財とも權三助十へ下さるゝ間双方さうはうあはせしかるべく住居すまひ致せと申渡され又勘太郎有金ありがね六十兩は彦三郎并に權三助十へ廿兩宛下し置れ權三は勘兵衞跡役あとやくとなり町の事なれば當分たうぶん心添こゝろぞへを八右衞門に申付る又名主儀は日頃ひごろ行屆ゆきとゞかざる故家主の善惡もわきまへざる段不束ふつゝかなり以來屹度きつと心付こゝろつけ候樣致すべき旨申渡され一件落着とぞなりける是先に一旦彦兵衞獄門ごくもんと成りしは大岡殿申されし通り獄中にて病死の者の首をきり彦兵衞重罪なればとてかほの皮をむきて獄門にかけられしかば皆々彦兵衞は全く御所刑に成りし事と心得居たるを此度このたびかく明白めいはくに善惡をたゞされし故世の人彦兵衞は無實むじつの罪に死なざりし事を知り後世こうせい皮剥かはむき獄門ごくもんとて裁許さいきよ名譽めいよのこされたり


小間物屋彦兵衞一件

後藤半四郎一件

後藤半四郎ごとうはんしらう一件いつけん


第一回


 じんは以てしもあつけんは以てもちゐるにたるくわにしてゆるめずくわんにしてよくだんずとまことなるかな徳川八代將軍吉宗公の御代名譽の官吏やくにん多しと雖も就中なかんづく大岡越前守忠相たゞすけ殿は享保二年より元文元年まで二十年のあひだ市尹まちぶぎやう勤役中きんやくちう裁許の件々其明斷を稱する事世の人の知る所にして天一坊越後傳吉村井長庵又は小間物屋彦兵衞の皮剥かはむき獄門ごくもん煙草屋喜八其他種々樣々の裁斷さばき有しが茲に説出ときいだ後藤半四郎ごとうはんしらうと云者はもと土民の子なれども生質うまれつき正直しやうぢきにして能五常を守りしかも天然の大力ありと雖も是を平常つねに顯さず仁義を專らになし強きをくぢき弱きを助け金銀ををしまず人の難儀なんぎを救ふ此故に大岡殿の吹擧すゐきよに預りて將軍家の御旗本おはたもととなり領地五百石を賜り其子孫徳川氏の末まで連綿れんめん繁昌はんじやうせり或人の歌に

ひとおほき人のなかにも人ぞなき人になせ人人になれ人

と詠じし心にかなひしは實に此半四郎のこと成べし茲に其素性そのすじやうを尋るにもと讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門と云者二人のせがれもてり兄を半作とよび弟を半四郎と云此兄の半作は至つて穩當をんたう生質おひたちなれば是所謂惣領そうりやうの甚六とか云が如し然れども惣領のじん々々〳〵と世間にては馬鹿者ばかものの樣に云ども勿々なか〳〵にあらず既に諸侯にては御嫡子と稱し町人ならば家の跡取あととりまたざい家農家などにては遺跡ゐせき樣といふ惣領そうりやう遺跡ゐせきいふ道理もつともなりこれ説明ときあかせば惣領そうりやううまるゝは格別かくべつ果報くわはうある事なれば貴賤きせんかぎらず惣領そうりやう其家そのいへ相續人さうぞくにんなりよつ自然しぜんとくそなへてうましに相違さうゐなくすで右大將頼朝公うだいしやうよりともこうにも源家げんけ御惣領ごそうりやうなりしが一たん清盛公きよもりこうためせばめられてひるヶ小島へ流罪るざいと成せられたれども終には石橋山に義兵をあげられし處其軍利なくして伏木ふしきの穴にかくれ給ひしを梶原が二心より危き御身を助り夫より御運を開かれ其後自身に戰場せんぢやうへ向はれし事なく木曽義仲公きそよしなかこう追討つゐたうきざみは御舍弟範頼義經兩公達きんだちに命ぜられ宇治瀬田の二道より進で一戰に木曽氏を討亡うちほろぼし續いて兩御舍弟を大將となし一ノ谷の戰ひに平家の十萬騎を討平うちたひらなほまたすゝんで屋島やしまだんうらの戰ひに平家を悉皆こと〴〵く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は鎌倉かまくらながら日本草創さうさう武家の天下として武將の元祖とあふがれ給ふ事是頼朝公は惣領の甚六なれども自然しぜんと大徳のそなはられし事斯の如くなり又其御舍弟の兩人は現在其功をあらはされしかば人々大いに是をたゝ兎角とかく利口りこう發明はつめいの樣に思はるゝなり則ち義經卿近くは眞田幸村さなだゆきむら又平家にても知盛卿など皆其類にして漢の高祖の所謂いはゆる獵師れふし獵犬れふけんの功に違ひ有が如し然りと雖も百姓半左衞門のせがれ半作より弟半四郎の方は生れつきはたらきもあり又大力無双なれども温順をんじゆんにして兄弟共至つて親に孝行を盡し兄弟はらからなかむつましく兄は弟を思ひ弟は兄を尊敬うやまひ日々にち〳〵農業のうげふ耕作かうさく油斷ゆだんなくせいを出しひまある時は山に入てたきゞこり或ひは日雇ひよう走り使ひ等に雇はれ兩人とも晝夜を分たずかせぎて親半左衞門を大切に養育やういくなし殊に半四郎は至て正直律儀なる者故近所隣村の者ども半四郎々々とて何事によらたのみ使ひて贔屓ひいきせしが人にはなくて七癖なゝくせと言如く半四郎事ごく酒好さけずきにていにしへの酒呑童子しゆてんどうじも三舍をさける程の大酒なりされども喧嘩口論は勿論何程に酩酊めいていなすとも夢中に成てたふれ或ひは家業を怠惰おこたりしと云事なく只酒を飮をたのしみとしてかせぎ兄を助ける故人々心隔こゝろおきなく半四郎を用ひしとぞ右半四郎の親類に佐次さじ右衞門と云者あり是は相應の百姓にて田地百五十石を所持なし居たりしが或時あるとき此佐次右衞門伊豫國いよのくに松山まつやまの親類へ金子かね五十兩送るべき事ありしに大金の事故飛脚ひきやくを雇ふより年若としわかなれ共半四郎の方がたしかならんとて右五十兩の金に手紙を添てわたせしかば半四郎は是を請取て懷中くわいちうし急用なればたゞち旅支度たびじたくして出立しゆつたつせんとするを見て親半右衞門兄半作ともに是を氣遣きづかひ如何に急用なればとて大金をもちながら夜道をゆくは不用心なりはや今日も申刻なゝつさがりゆえあすの朝早く出立して參るべしと種々にとゞめけれ共半四郎は殊に大力と云氣象きしやうすぐれたれば一向承知せず必らず御案事あるな萬一もし途中とちうにて追剥おひはぎなど出逢であふ事あらば打倒して仕舞ふ分なり少しもかまはず出行いでゆきたり元より足も達者にて一日に四十里づつ歩行あるくめづらしき若者なれば程なく松の尾といふ宿迄しゆくまで來懸きかゝりしに最早とく日は暮て戌刻頃いつゝごろとも思ひしゆゑ夜道をするに空腹なる時は途中にてこまるならんとある杉酒屋へ入て酒を五合熱燗あつかんあつらへ何ぞさかなはなきやと問に最早みな賣切うりきれかつを鹽辛しほからばかりなりと答へけるをは何よりの品なりとて五合の酒を鹽辛にて忽ち飮干のみほし又五合つけてくだされと云に亭主はきもつぶまだとしゆかぬ若者なれどおそろしき酒飮もあるものと思ひお前さん其樣に飮れますかときゝければ半四郎は微笑ほゝゑみナニ一升や二升は朝飯前にやりますと云に亭主はあきはて又五合出せしに是をもたゞちのみて飯をくひ勘定をするをりから表の方より雲助ども五六人どや〳〵と這入はひり來りもう仕舞れしかモシ面倒めんだうながら一ぱい飮ませて下せいと云つゝはちにありし鹽漬しほづけ唐辛子たうがらしさかなに何れも五郎八茶碗ぢやわんにて冷酒ひやざけをぐびり〳〵と飮居たりしが今半四郎が胴卷どうまきより錢を出し酒飯のだいを勘定する處をじろりと見るに胴卷には彼のたのまれたる金子五十兩へびかへるのみし樣に成て有ければ雲助共眼配めくばせをしながら片隅かたすみへより何か密々ひそ〳〵はなあひついと半四郎のそばへより是もし息子むすこさん御前は是から何處へ行つしやると云に半四郎は何心なくわたしは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ胴卷どうまき仕舞しまひ居るに雲助共それなら夜道は物騷ぶつさうゆゑ駕籠かごに乘て御呉おくんなせへ夫に今見れば率爾ぶしつけながら胴卷には大分御金を持て御出なさる樣子是から先は松原で寂寞さびしい道だ見ればまだ御年も行ぬ御若衆御一人にては不用心どう駕籠かごに乘て御出なせへと云に半四郎は大にこまり夫は〳〵御前方御深切にさう云てくださるゝが私しはどうも駕籠がきらひなりれども生質うまれつき仕合に足が達者で日に廿里三十里はらく歩行あるきますから先駕籠はよしに仕ませうと草鞋わらぢひも締直しめなほし支度をして行んとする故彼方かなたに居る雲助共は大聲おほごゑあげヤイ〳〵よくそんな事でいける者か何でも乘てもらへ〳〵今時生若なまわかい者が大金を持て夜通しに松山迄ゆくと云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人の金を盜出ぬすみだしたにちがひはあるめへもしたつて乘ずば酒代さかてもらへ〳〵そんな奴に此街道をたゞとほられてつまるものかオイ若衆酒代をもらひやしやうといふをりしも又表より雲助共三四人どや〳〵と入來りて大勢徒黨とたうしてゆすり懸しが中にも酒機嫌の者は面倒めんだうなりたゝき倒せ打偃うちのめして胴卷の金を取れとさわぎ立オヽさうだ違ひねへどうで主人の金をせしめたのだ何處どこからもしりくる氣遣はねへしめろ〳〵と一同に飛懸らんずる樣子やうすゆゑ半四郎は心の中にさては此奴等我は年端としはゆかぬ若者とあなどおつな處へ氣を廻し酒代をゆすりに懸りしは不屆千萬とは思へ共故意わざと言葉をやはらげもし〳〵御前方はマアとんだ事をいはつしやる我はそんな不屆な者ではなく丸龜在まるがめざい高野村かうやむらの百姓半左衞門がせがれ半四郎と云者親類から頼まれたる飛脚ひきやくにて松山の親類へゆくに相違なく急用故に夜道をするが怪い者には決してござらぬと云に雲助共はさら聞入きゝいれずそんなら酒代さかだいを置てゆけ只通してなるものかと半四郎一人を取卷とりまきける故半四郎も今は是非なく覺悟かくごきはなほ内懷うちふところにて胴卷をしつかと結び帶をも手早く〆直しめなほし三十六計逃るにしかじとすきを見合せひよいと身ををどらせて奴等がまたくゞぬけ表の方へ駈出すにヤレ逃すなと追駈おつかくるを表に待たる仲間の雲助共おつと兄イさううまゆくものかと捕へしを半四郎は振拂ひゆかんとすれば雲助共は追取卷おつとりまきどつこいにがして成ものか此小童このこわつぱめどうするか見ろいのちをしくば酒代さかてを置て行とふところへ手を入れければもう勘忍かんにんはならずと半四郎は其腕を取てさかさ捻上ねぢりあげ向うの方へ突飛すに大力のはずみなれば蜻蛉とんぼ返りを打て四五間先へ倒れたり是を見て雲助共は少し後逡あとずさりをなせしがイヤ恐しいやつ平氣なつらをして居をるそれ惣蒐そうがかりにて叩き倒せと手に〳〵息杖いきづえを振り上打てかゝるに半四郎も酒屋の軒下のきしたにありし縁臺えんだいを押取觀念しろと云ながら片端かたはしよりばらり〳〵と打拂ひければ瞬間またゝくひまに八九人の雲助共殘らずたゝき倒され這々はう〳〵ていにて散々に逃行ける故半四郎は其儘打捨うちすてあしを早めて此所を立去りつゝやれ〳〵危き目にあふものかな何さま親父殿や兄貴あにきは夜道は浮雲あぶなき故朝立にせよと言れしは今こそ思ひ當りたれと後悔こうくわいなして急ぎけり


第二回


 偖又雲助共は再び一所に集合あつまり己れはすねを拂はれわれは腰を打れたりと皆々疵所きずしよさすり又は手拭てぬぐひなどさいて卷くもあり是では渡世が六ヶ敷と詢言々々つぶやき〳〵八九人の雲助共怪我をせぬ者なかりしかば如何にも殘念なり此意趣晴を仕度したけれ共彼奴は勿々なか〳〵一通りの奴にあらず怖しい手利てきゝゆゑ五人や十人ではとてかなひ難し仲間の者を大勢談合かたらひ早々追駈三里の松原にて待伏まちぶせなし彼奴を打殺し胴卷の金を取て頭割あたまわりにせんとて彼是二十人ばかり呼集め何でも奴は恐い早足はやあしだと云ひおつたからもう餘程よほどゆきし時分なれ共未々まだ〳〵三里の松原までは懸る氣遣ひなし本海道を追駈おひかけるより裏道うらみち駈拔かけぬけんとて皆々駈出しやがて三里の松原に出で大勢の雲助共今や來ると彼方此方かなたこなたひそみ手ぐすね引て待伏たり半四郎はかみならぬ身の夢にも知ずたどり〳〵て道芝みちしばつゆ踏分ふみわけつゝ程なくも三里の松原へ差懸るに木の間の月は晃々くわう〳〵とさしのぼり最早夜の亥刻よつ時分共思ふ頃やゝ原中はらなかまで來りしに最前より待設けたる雲助共松のかげより前後左右に破落々々ばら〳〵あらはれ出でヤイ〳〵小童子こわつぱまて先刻さつき松の尾の酒屋ではようも〳〵我等を打倒し居ツたな其意趣晴そのいしゆばらしにおのれたゝき殺して金も衣類も剥取はぎとるなり覺悟をれと詰寄するに流石の半四郎も仰天し南無なむばうかく大勢に見込れては我がいのちはとてもなきものなり好々よし〳〵かなはぬ迄もいかで手込になされんや命の限り腕かぎりたゝき散してらんものとかたはらの松の木をたてに取サアい汝等片端よりひねり殺して呉んずと身構たれども手振てぶらにて何の得物えもののなきを付込惡者共は聲々に人の來ぬ間に打殺せと先に進みし一人が振揚ふりあげかゝる息杖いきづゑを飛違へさまもぎ取て手早く腋腹ひばらつきければウンと計りに倒れたり續て懸るを引外ひつぱづし空を打せて踉蹌よろめく所をと飛込で襟元えりもとつかみ遙か向へ投退なげのければ其餘の者共追取卷ソレ打殺せと云まゝに十五六人四方より滅多めつたやたらに打懸るに半四郎は只一生懸命奪ひ取たる息杖いきづゑにて多勢を相手に薙立々々なぎたて〳〵四角八面に打合折柄半四郎が持たるつゑは忽ち中より折れたりけりよつたまらじと逃出にげいだせば雲助共はソレ逃すなと一同に追駈來るを半四郎はのがるゝだけは逃延にげのびんと一驂走さんばしりに二三町いきをもつかず逃たりしが惡者共は何所迄もと猶も間近まぢかく逐來おひきたる故に半四郎は如何にもして逃行んとするをり幸ひ脇道わきみちの有しかば身をひるがへして逃込を惡者共は七八人裏手うらてへ廻り立はさみ前後より追迫るにぞ半四郎は彌々いよ〳〵絶體絶命ぜつたいぜつめいはたふちなるはんの木をヤツと聲かけ根限ねこぎになしサア來れと身構へたり之を見るより雲助ども十七八人破落々々ばら〳〵と追取卷て打蒐うちかゝるを事共なさず半四郎は力に任せて打合うちあへども死生知らずの雲助ども十七八人むらがり立此方は助る味方もなく只一人の事なれば大力無双の身なれども先刻せんこくよりの打合に今は勢根せいこん盡果つきはてたれば傍邊かたへあぜ踏外ふみはづよろめく所を雲助共夫れ〳〵しめたぞ今一いきたゝき殺して剥取はぎとれと折重なつて打倒すに半四郎も最早もはやかなはずと一生懸命の聲をあげ人殺し〳〵助て呉れ〳〵と呼はれ共やゝ夜もふけし原中なれば人影とては更になく松吹風の音のみゆゑ雲助共は増々ます〳〵手取足取引倒し已にかうよと見えたる折柄一人の武士さふらひ此松原を通り懸り其樣子をうかゞふに一人の若者を大勢にて追取卷くんほぐれつ戰ふ有樣善か惡かは分らね共若者のはたら凡人ぼんじんならず天晴の手練かなと感じながらに見て居たるに今大勢おほぜいの雲助にたゝふせられ已に一命も危く見ゆるゆゑかの武士は立上り何はともあれ惜き若者見殺しにするもなさけなしいざたすけて呉んときたえ上たるてつ禪杖ぜんぢやうを追取松のかげよりをどり出でこゝな欲心衆生の惡漢わるもの共命が惜くば逃去べしコレ若衆氣をたしかに持れよ我等助けてまゐらせんと聲を懸けるに雲助共は振返りヤアこゝな入らざる入道めおのれともに成佛させんと打て蒐るを武士はひらりと體を引外ひつぱづらば目に物見せんずぞ彼禪杖にて片端よりばらり〳〵と討倒せば雲助共は大に驚きは恐ろしき入道かないのちあつての物種ものだねなり逃ろ〳〵と聲をかけあとをも見ずに逃出すを猶武士は鐵杖てつぢやうにてあたるを幸ひ打据うちすゑたり因て雲助共はかしらを打れいため或は向うずねなぎられて皆々半死半生になり散々にこそ逃去けれ武士は是を見て呵々から〳〵と打笑ひ扨も能氣味哉よききみかな惡漢共わるものども逃失にげうせたりと云つゝ半四郎のそばに立寄是々氣をたしかに持れよと抱起だきおこして懷中の氣付を與へ清水をむすびて口にそゝぎなどしてあつ介抱かいはうなしけるに半四郎は未だ口はきかざれども眼を開き追々にいきも入たる樣子を見て先々まづ〳〵強き怪我けがもなかりしやして其許そのもとは何國の者ぞ又如何成る用事有て夜中只一人此原中を通り懸りしやとふに半四郎は漸々に氣を落付おちつけ是は〳〵何方樣かは存ぜね共危き命を御助け下されし事まことに有難く此御恩生々世々忘れ申まじ私しは讃州さんしう丸龜在まるがめざい高野村かうやむらの百姓半左衞門の次男半四郎と申者に候が親類しんるゐよりたのまれし急用にて伊豫いよの松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食のをりから雲助ども理不盡に酒代をゆすりかけ候ゆゑよんどころなく大勢を打散して逃參にげまゐりし所に早くも惡漢わるもの共大勢徒黨とたうして此の如く危き目に出遭であひなり夫と申も實は親類より金子五十兩を預り居候故此金を目懸惡漢共に付込れし所僥倖さいはひ貴公樣あなたさま御庇蔭おかげを以て一命を無難に助かり候事呉々有難く候と涙を流してかたりければ旅の武士は始終しじう樣子やうすきゝ不屆ふとゞきなる奴輩やつばらなり其許そのもと若年にして今の働き勿々なか〳〵凡人ぼんじんの業とは思はれず天晴農民のせがれにはめづらしき者なり某しは豐後府内の浪人にて後藤ごとう五左衞門秀盛入道ひでもりにふだういひ無刀流の劔術を心懸け諸國武者修行なす者なれば決して氣遣きづかひにするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より其許そのもとを松山迄送りつかはすべし又其許に折り入てはなたき事も有により徐々そろ〳〵歩行あゆまれよと申に元來正直なる半四郎ゆゑ少しも是を疑はずまことに御深切の段有難く存じ奉つる然らば仰に隨ひ申べしと立上り夜のふけしをもいとひなく是より兩人打連れ立ち松山さしてたどりけりに後藤秀盛の仁勇天晴あつぱれの武士と謂つべし扨又五左衞門は道すがら種々の物語りをなし半四郎の樣子をためし見るに應答うけこたへの言葉遣ひ温順をんじゆんにて自然其中に勇氣をふくみ又父兄を大切になす孝悌かうていそなはり殊に力量早業は目前に見し事ゆゑ心の中に思ふやうすべ藝道げいだうを習ひておぼゆるを人と云習はずして其業に妙を得るを神と云されば今此若者百姓にて耕作かうさくわざとし居ながら自然劔法のめうを得たる手練あり先刻大勢を相手に討合うちあふ有樣ありさま勿々なか〳〵凡人ならず加ふるに大力無双むさうにして正直正路に見え父兄おやあに孝悌かうていを盡す樣子これ天晴あつぱれの若者なり此者をもらひ受て我養子となし無刀流の劔法を傳授でんじゆせばとらつばさそゆるが如く古今無双の名人と成べし我が流儀りうぎを後世に殘すは是に増たる事あらじ幸ひ兄は親の家督かとくつぐと申せば此者を是非とももらひ受て老の樂みにせんと思案をきはめ道々半四郎に此趣きをはなしけるに半四郎は大いに悦び誠に有難きおぼし召なり命の親なる貴公樣あなたさまの事なれば何としていなむべき樣は御座なく候あひだ親元さへ承知仕つらば私しは何れとも思し召次第隨ひ奉つらんと申けるゆゑ後藤ごとういたく悦び我等未だ一人も子と云者なきを天もあはれみ斯る孝子をさづけ給ふならんと心の中にて天地を拜し半四郎とともやがて伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を親類しんるゐへ渡し夫より又後藤と同道して讃州さんしうへぞ立歸りける


第三回


 然るに半四郎は後藤秀盛ごとうひでもりと同道して讃州さんしう高野村かうやむらへ立歸り我家に到りてちゝ半左衞門へ途中とちう次第しだいを落もなく物語りければ半左衞門はかつおどろかつよろこ早速さつそく秀盛ひでもりしやうじ我子を助けられし恩人おんじんなりとあつく禮を述て種々饗應もてなしけるに後藤もつゝがなき歡びを云て暫時しばらくさけ宴交くみかはせしがやがて半四郎を養子にもらたきよし物語りしに半左衞門も大いに悦び迅速すみやかに承知なしければ此に於て萬事のはな調とゝのひ五左衞門はたゞちに半四郎をもらうけ我養子となしたりけり是に因て後藤秀盛は丸龜の城下へ無刀流劔術むたうりうけんじゆつの道場を出せしが此道場日々に繁昌はんじやうして殊の外弟子も多く何一ツ不自由ふじいうなくくらしけるにつき後藤は我目矩わがめがねを以てもらうけし半四郎ゆゑ己れが實子の如くにあいし半四郎もまたよく孝養かうやうを盡しけるが其中無刀流の劔術を一しほ心を盡して教授けうじゆなすに元より神妙しんめうを得たる半四郎なれば上達する事一を聞き十を知るの才智さいちにして忽ち其奧儀をも極め古今無双ここんむさうの達人となりし所に早くも八ヶ年の星霜せいさうを送りけるうち今は門弟中も大先生より小先生の教へ方が宜等よきなどとて皆小先生々々々と半四郎を尊敬そんきやうなすの餘り大先生はもう老込おいこまとても小先生には及ぶまじと云を却つて父の五左衞門は我が奧儀あうぎ傳授でんじゆしたる甲斐かひありと悦ぶ事限りなく爰に於て丸龜まるがめの道場は養子半四郎にまかせんと五左衞門は我名の一字をゆづつて後藤半四郎秀國ひでくに名乘なのら門弟中もんていぢうへも右のおもむきを吹聽ふいちやうなし五左衞門は是よりなほ流名りうめいを國々へひろめんとて又々諸國武者修行むしやしゆぎやうこゝろざし旅立たびだちせんと云に半四郎は是をとゞめ最早御老年の御事此上の御修行にもおよぶまじければ是までの如く當所たうしよおはして以後は月雪花つきゆきはなながめともとなし老を養ひ給ふべし私し當時たうじかくの如く劔道指南仕つり候樣に相成諸人の尊敬そんきやうを受る事皆御父上の御高恩ごかうおんなればせめて此上の御恩報じには朝夕あさゆふ御側おそばに在て御介抱ごかいはう申上たし聊かも御不自由はさせ申間敷まじく何卒御止まり下さるゝ樣にと只管ひたすらいさめけれども父秀盛は更に聞入ず成程其方が申すこゝろざしはかたじけなけれども未だ〳〵我等とても全く老朽おいくちたるといふ身にもあらず諸國を見物ながら我が流儀りうぎをも弘めんと思ふなり然りと雖もそれがし萬一病氣の時は何國いづくをるとも早速飛脚を以て知する間其節は迅速すみやかに來りてくれよ是のみ我等がたのみなりと申ければ半四郎は是をきゝ如何さま此儀をしひて止むる時はもはや老朽おいくちたりと云にかへつて不孝になるべしと思ひ夫は仰せまでもなく何時いつにても御用の節は早速さつそくに參り候はん其儀は少しも御氣遣おきづかひあるべからずと申ければ五左衞門も安心なししから近日きんじつ出立におよばんと是よりたびの用意に及びあとの道場は半四郎にまかおき門弟中へも夫々に別れをつげ後藤五左衞門秀盛入道は此時五十五歳にてまづくわん八州をこゝろざし再び武者修行にぞ立出たちいでける扨又後に殘りし後藤半四郎秀國ひでくには丸龜の道場をあづかなほ追々おひ〳〵に門弟ふえければ殊の外に繁昌はんじやうなし居たるに此程半四郎の實父半左衞門は不計ふとかぜ心地こゝちにてわづらひ付しかば種々醫療いれうに手をつくしけれども終に養生やうじやうかなはず相果あひはてけり因てあに半作は勿論半四郎ももとより孝心深き者ゆゑ其愁傷そのしうしやう大方ならずと雖もかくて有べきにあらざれば泣々なく〳〵野邊のべの送りをなし七日々々の追善つゐぜん供養くやういと念頃ねんごろとむらひ兄弟にぞこもりける然るに半四郎はかねての孝心ゆゑ親の亡後なきあとは兄の半作を親の如くに尊敬うやまひかりにも其意にそむく事なく五節句其外何事によらず自分が門弟中より申受たる金子有時は兄半作へつかはして田地でんぢ田畑でんばた買求かひもとめさせ兄半作の身代を助け孝順なる事誠にまれなる深切にして自分は一向に姿態なりふりにもかまはずきれば着たなり又門弟中より申うけたる金なども何程あるやら勘定もせず少しも欲心よくしんのなき人なれば門弟ちうの中重立おもだちたる者が夫是それこれ取始末とりしまつをなしまかなひの世話を致し居るくらゐの事にて一向世帶にはかまはぬ人なり又酒は元より大酒故日毎ひごとに一二升づつ飮ぬ日とてはなく然れども今は何一ツ不自由ふじいうなくくらし居けるが兎角とかくひと世話好せわずきにて丸龜の城下は勿論近隣きんりんの村々まで困窮こんきうの者へは米錢を惜まず施し病人へは醫師いしを頼んでくすりのませなどして貧民を救ふ事を常の樂みとなしければ丸龜まるがめ近在きんざいにては後藤半四郎を神佛しんぶつよりも有難く思ひ皆々が生神々々いきがみ〳〵と云ひて尊敬なしたりけり扨又後藤五左衞門秀盛入道は讃州さんしう丸龜を出立なし夫より東國を廻り諸所にて無刀流の名譽めいよあらはし上州大間々おほまゝ迄到りしが此所に道場を開き多くの門弟も出來て繁昌はんじやうなし居たりしが兩三年をすぎ秀盛入道は不斗ふとわづらひ付し處大傷寒たいしやうかんとなり殊の外大病ゆゑ門弟中大いに心配なし種々治療ちれうに手をつくしたれ共更にしるしなく今は一めい旦夕たんせきせまり頼みのつなも切果たる體なれば五左衞門おもまくらあげ漸々やう〳〵と言葉みじかに手紙をしたゝめ丸龜なる養子半四郎方へ急ぎ飛脚を遣はしたりさてまた半四郎は養父の安否あんぴ案事あんじ居たるに不圖ふと上州大間々おほまゝよりの飛脚到來せしかば何事やらん急ぎ書状しよじやう披見ひけんするに養父秀盛の直筆ぢきひつにて我等此度の病氣殊の外大切と有ける故大いに驚きまづ返事へんじつかはさんと早速參上致すべきむね相認あひしたゝめて飛脚を歸し半四郎は豫て約定やくぢやうの通り駈着かけつけんと取物も取敢ず旅の調度をとゝの直樣すぐさま出立に及ばんとしければ門弟中はきもつぶし先生には何を急遽あわたゞしく旅の用意を成れて何方いづかたへ御出成れ候やと問けるに半四郎ははや草鞋わらぢはきながら然は各々方も御存知の通り養父やうふ秀盛ひでもりは當時上州大間々に罷在まかりあり候處此程大病にて一めい旦夕たんせきせまり候由の飛脚到來せし故今より關東へまかり下るなりと有しかば門弟中聞て夫は御道理ごもつともなれども先生餘り御性急ごせいきふかと存じ候て又後々の儀は如何なされ候やと申すに半四郎されば其事なり後の道場は其許方そのもとかたに任せ置により能樣に計らひ給はるべし何れにも師父の大病と聞ては片時へんじ安閑あんかんとして居る場合にあらざればかく高弟衆かうていしう代稽古だいげいこをして間を合せられよ某し儀格別日數の懸る事もあるまじ何分頼み置と云つゝ直樣すぐさま出立なしたりけり元より早足はやあしの半四郎ゆゑ晝夜ちうやとなく道を急ぎたれ共名におふ四國の丸龜より上州大間々迄の道程みちのり百九十餘里の所なれば如何に急ぐとも道中に隙取ひまどりしかば其中に養父五左衞門は病死なし最早もはや門弟中もんていちうの世話にてとぶらひも出せしあとへ半四郎着しける故師父の死目しにめあはざるを如何にも殘念に思ひ足摺あしずりしてなげかなしみけれども今さら詮術せんすべなければ養父の所持したる品々を賣拂うりはらひ諸入用の勘定等をなし又門弟のうち世話になりたる者へは夫々に紀念分かたみわけつかはし殘りの金子ははうむりし寺へ祠堂金しだうきんに寄進なし其外跡々の事共殘る方なく取片付とりかたづけ暇乞いとまごひして出立に及ばんとするに門弟中一同に名殘なごりをし暫時しばらく當所に足を止められ劔道けんだう御指南ごしなん下され候樣にとしひて申けるゆゑ半四郎もよんどころなく然らば四十九日の立迄は滯留たいりうせんとて此所に止まり養父の門弟に稽古けいこを致しつかはしけるに門人は大によろこび大先生よりはかへつて教へ方もよく業前わざまへも一段上ならんなどと評し彌々いよ〳〵はげみけれども半四郎は喪中もちうの事故餘り多勢の入來るをいと加之そのうへ田舍ゐなか物固ものがたくして四十九日立ざる中は大精進だいしやうじんにて魚類ぎよるゐを食する事能はずされども半四郎は元來大酒にして又さかなは魚類を好むゆゑ精進しやうじんには甚だこまはて自然力も拔る樣に思ひしかば或日門弟中に向ひ扨々是迄は不思議ふしぎえんにて御世話に相成千萬かたじけなく猶又各々方の引止めに因て滯留たいりう致したなれ共某し國元にも道場だうぢやうこれある事なれば何時迄いつまでも長く逗留たうりうも相成難く且歸國がけ江戸表も見物致したく存ずれば名殘なごりつきねども最早御暇申さんと云に門人共も甚だ名殘なごりをしめども今は止むる言葉もなく然らば御心任おこゝろまかせになされよと各自おの〳〵餞別せんべつなどおくりければ遂に別れを告て出立なし江戸表へぞ到りける


第四回


 さてまたこゝ武州ぶしう熊谷堤くまがいづつみはづれに寶珠花屋はうじゆばなや八五郎と云居酒屋あり亭主八五郎は此邊の口利くちきゝにて喧嘩けんくわ或ひは出入等之ある時はいつあつかひに這入はひりては其騷動そのさうどうしづめけるにかれが云事は皆是を用ひるゆゑ人々にも立られ至つて侠氣をとこぎ有者あるものなり此八五郎が女房は去年病死して跡には女子一人有けれ共最早三歳にもなりければちゝも入らずすこしづつ食事をあたへてやしなひけるゆゑ近所の者後妻をすゝめけれども夫は面倒めんだうなりとて只一人子のそだつをたのしみに小女こをんな一人若者二人遣ひて居酒屋ゐざかや渡世とせいをなし居たり然るに其年十月中旬頃なかばごろ年の頃二十四五歳色白にして鼻筋通はなすぢとほりし男と又元服は致し居れども未だ十八九共云べきいと美麗あでやかなる器量の女をつれたる浪人體らうにんていの者夫婦づれとも言べき樣子にて男の衣類は黒羽二重の紋付もんつきに下には縞縮緬しまちりめんの小袖を着し紺博多こんはかたの帶をしめ大小なども相應なるを帶して更紗さらさの風呂敷包み二つ眞田さなだひもにて中をくゝり是を肩に引掛ひきかけ若き女は上に浴衣ゆかたおほひたれども下には博多縮緬はかたちりめんの小袖を二枚着し小柳こやなぎ縫模樣ぬひもやうある帶をしめ兩褄りやうづま取揚とりあげ蹴出けだしあらはし肉刺まめにても蹈出ふみだせしと見えて竹のつゑつきながら足を引摩々々ひきずり〳〵來るは如何にもたびなれぬ樣子なりしが夫婦づれの者此寶珠花屋このはうじゆばなや八五郎の見世にこしを打懸やれ〳〵草臥くたびれたりと云ていきつぎやすむ故亭主八五郎は茶などはこばせて挨拶あいさつなしけるに若き夫婦は御世話ながらお酒を]一がふ御膳ごぜんを二人前出し下されと云ければ亭主は承知なし御肴おさかなは何んぞ見つくろひましよと云つゝ煮染にしめに飯と酒を添て持來りければ是は御世話と云ながら夫婦はやがて一合の酒をのみめしくひをはりて身支度をしながら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六里餘なりこたふるに又夫婦の者最早もはや何時なるやと云ければやがてもう七ツさがりならんと申をきゝ夫婦の者すれば今より江戸まではとてゆかれまじせめこうとやら迄も行れべきやと云に亭主は兩人の樣子を見て失禮ぶしつけながら足弱あしよわの御女中を御連おつれなされて是から四里八町は餘程よほど夜に入ります殊に此熊谷くまがい土手どては四里八町と申ても餘程丁數がのび五里の餘は必ず御座り升夫に惡ひ土手にて機々をり〳〵旅人が切られたりあるひは追剥おひはぎ出會であひひどいめに逢事ありてまこと物騷ぶつさうゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ御宿おとまりあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝおぼめしも有べけれどもまづ〳〵御用心なさるゝが大丈夫と深切しんせつはなし居るをりから近來ちかごろ此邊を立廻る駕籠舁かごかき惡漢共わるものども門邊かどべを通りかゝりしが兩人の樣子を見て此所へ這入はひり來りしかば八五郎はわるやつが來りしとは思へどもあだをさるゝもいやさに默止もだしれば駕籠舁かごかき共は夫婦に向ひもし旦那もどり駕籠ゆゑ御安直おやすく參りやす何卒どうぞのりなされといひけるに浪人夫婦は是をきゝ今より鴻の巣迄行くには刻限こくげんおそしと申事なれば此宿にとまる積り殊に是からの四里八町は餘程のびて居るとの事ゆゑ夜にもかゝるし其上又大いに物騷ぶつさうだとかいふ事なれば先々見合せに致さうと云けるを駕籠舁どもは大いにわらひコレ旦那だんなどうした事をいひなさる此道中は初めてと見えるゆゑ夫リヤア大方おほかた此宿の者が御客をつるつもりの話しを御聞なされたのだらう四里八町どころ此堤このどてわづか二里半しかありません今から急いでゆかば必らずあかりのつく時分にはこう宿じゆくへ參りやす我等わつちどもはほんの酒代さかてだけにて何にもかまはず二里半三百文でゆきませう其代り少しもたてずに急ぐから何卒どうぞ御乘おのりなすつて下せい三百文ならあと彼是かれこれ酒代さかてなどは御誣頼おねだり申しは致しやせんと駕籠舁かごかきどもは口から出任でまかせにあざむすゝめ四里八町の道を二里半なりと云に浪人夫婦の者道中は始めてといひ江戸表へ急ぐ身なれば終に甘々うま〳〵あざむかれ夫なら急いで頼みますと云つゝ此家を立出てつれの女を駕籠にのせ男はうしろ附添つきそひ乍らつゝみをさして急ぎけり


第五回


 さてまた寶珠花屋はうじゆばなや八五郎は浪人夫婦の後を見送りアヽ今の若夫婦はわる駕籠舁共かごかきども引罹ひきかゝりとんだ目にあふならん我等があれほど氣を付てるに若い人達ひとたちと云ふものは仕方がない後先の勘辨かんべんもなくこまりしものなりと申けるに下男の彌助やすけも氣の毒面どくがほやうさ惡い奴に引罹ひきかゝりましたが夫ならとて知らせるわけには參らず實に氣の毒な事で御座ると申を八五郎は聞て然共々々さうとも〳〵奴等きやつら邪魔じやまをして見ろ後で何樣どのやう意恨いこんかへされるも知れずこんの惡ひ日にはまたどんな惡ひ奴が來るか計られねば早く見世を仕廻しまつて休むがいゝといふに下男彌助何さま然樣さやう致さんと早々に見世をかたつけいま戸をたてんとする處へ見上みあぐる如き大兵の武士てつ禪杖ぜんぢやうを引さげつか〳〵と這入はひり來り是々若いもの酒を一升かんをしてうしてどうさかなを出し呉よと云ながら縁臺えんだいにどつかとこし打掛うちかけやれ〳〵日のみじかひ事だ十月の中の十日に心なしの者をつかふなとはよくいひしものだコレ〳〵若い者大急ぎだ早く酒と肴を出し呉よと云に下男げなん彌助やすけは此體を見て大いに驚きハツと思ひながらなほもよく〳〵見るに身の彌立よだつばかりに恐ろしきなが大小を帶し月代さかやきもりのごとくにはえいろ赤黒あかくろまなこするどく晃々きら〴〵と光りし顏色にて殊に衣類は羊羹色ようかんいろなる黒のもん付の小袖にふるき小倉のおびをしめ長刀形なぎなたなりになりたる草鞋わらぢ穿はきながらすねにてしり端折はしよりまた傍邊かたはらつゑを見ればてつがねにて四尺ばかりも有んかと思はれしかにぎふとなる禪杖なり因て下男彌助は戰々ぶる〳〵ふるへながら心のうちには是は何でも盜賊のかしらに相違なしたしかに今の駕籠舁かごかきどもの仲間ならん飛だ奴が這入はひりこんだと思ひ怖々こは〴〵ながらこしかゞめ折角の御入來なれども眞實まことに御氣のどく千萬生憎あやにく只今たゞいまさかなは賣切しゆゑ見世をまはんと存じし處なれば最早御肴は少しも御ざらぬと申に武士さぶらひしからば酒ばかりにてよろしといひければ彌助いへ其酒も賣切たりと云ばヤレ〳〵夫は是非もなし大方おほかためしあるべきにより出してくれよと云へば彌助はかうべふりナニ〳〵めしみな賣切うりきれたいたのは少しも御座らぬといひつゝ武士の方をじろ〳〵ながめ居るゆゑ武士さふらひ眞實まこと當惑たうわくなし然らばいつその事此家にとまるべし見れば障子しやうじ御泊おとま宿やどしるしあり夫にはや申刻なゝつすぎにもなるべし餘り草臥くたびれたればとまりて行んにより飯もゆるりとたいてもらうべし酒も取寄てもらはんとまるとすれば仔細しさいなしと草鞋わらぢ徐々そろ〳〵ぬぎかけ座敷へ上らんとするに下男の彌助心のうち彌々いよ〳〵迷惑めいわくに思ひきやつに何とか云て何れにもとまらぬやう追出して仕廻しまはんともじ〳〵手をもみながら今晩こんばんは何分御泊おとめ申こと出來難く其譯は今夜村の寄合にて後刻ごこくは大勢集まり候間御氣のどくながら御宿おやど御斷おことわり申上ると云けるに武士は樣子やうすとくと見て大いに立腹なし貴さまは亭主ていしゆか若いものかコレさきほどより能々見るに那流あのながしのをけに魚もあるにおのれはよくうそを申なはてさてわかりしなり某しの體裁ありさまを見て盜賊か又は食倒くひたふしなるべしと思ひて何を聞ても無い〳〵と計り云は奇怪なり大方おほかたさけもあるに相違あるまじと云つゝ武士さふらひはづか〳〵と立寄たちよつ酒樽さかだる呑口のみくちますあてがひヤツと一トねぢり捻りければ酒はどく〳〵出しゆゑおのれこれほど澤山酒もあるものをたゞ無々ない〳〵とばかり云ひをつておのれ今にあやまるか辛目からきめ見せて呉んと云ながら一升ます波々なみ〳〵と一ぱいつぎ酒代さかだい幾干いくらでも勘定するぞよく見てをれと冷酒ひやざけますすみより一いきにのみほしもうぱいといひつゝ又々呑口のみくちをねぢり一升桝へ再びなみ〳〵とつぎ是をも一いきに飮終りてコレ若いもの狼藉らうぜき飮逃のみにげなどは致さぬぞ某がしが身形みなりの惡きゆゑ大方其所そこあたりの狡猾あぶれものか盜賊とでも見込だであらう代錢は殘らずはらひ遣はすぞコレ路用ろようの金は此通り澤山所持して居ると懷中くわいちう胴卷どうまきを取出し夫見よ酒も肴も幾許いくらでも出せ喰倒しをするやうな卑劣ひれつの武士と思ふかこゝ盲目めくらめと云ながら百兩餘りもあらんと思はるゝ胴卷どうまき投出なげいだしたるに彌助は再び驚き彌々いよ〳〵きやつ盜賊に相違なしれは何でも何所ぞの家尻やじりを切て盜みし金ならんあん身形みなりをして大金を持て居るは愈々いよ〳〵推量すゐりやうの通りならんこんな奴にあきなひをなさばまたかゝり合に成て難儀をするかも知れぬ何れにもことわるより外はなしと彌助は思案を極め成ほど御客おきやくさまの云るゝ通り實は酒も肴も御座れ共是は今申通り今晩こんばんむら寄合よりあひ使つかふ仕込のさかな夫ゆゑ御斷り申せしなり此上は何卒なにとぞ御免ごめん下さるべしと詫入わびいるを武士は一向聞入ずおのれ又僞りを申ぞと云ながら榮螺さゞえのごときこぶし振上ふりあげとびかゝつて彌助を打倒さんとするにぞ彌助は大に驚ろき逃出さんとして入口いりぐち障子しやうじ衝中つきあただうと倒れしかば此物音に驚き亭主八五郎はおくよりはせいで來り先々御客さま御勘辨ごかんべん下されよ實はかれが申通り今晩村の寄合御座候につき魚は餘分よぶんに仕入置しにより私し是に居てうかゞひ候はゞ御好通おこのみどほり早速御酒も肴もさし上げ申べけれども何を云にも下男彌助めは近來ちかごろ奉公に參りし者ゆゑ其邊の差略さりやくは勿論御客樣の見分も一向に出來申さず夫が爲御氣にさはる事を申上しならんが其段はひとへに私しに御免じ下され御勘辨ごかんべんを願ひ奉つる因ては何なりとも有合の御肴おさかなをさし上候はんと只管ひたすら詫入わびいりければ武士は忽ち顏色をやはらげ是は〳〵御亭主の挨拶あいさつ却つていたいるそうじて其方そなたの如く理を分て云るれば某し元より事をこのまざるによりしひてと申譯もなしと云ふに亭主は大いによろこびて早々さう〳〵彌助やすけをよび我等より御客おきやくさまへ御詫おわびも申上たるに早速御勘辨下されたり然れども是にこり以來いらいよく〳〵氣を付よ其方そなたは餘り正直過しやうぢきすぎるゆゑなり早々御酒のかんを付なまづ燒乾やきからしを煮付につけにして上よと申付るに彌助は諾々はい〳〵と云ながら酒のかんを付肴をこしらへて出しければ武士は大いに機嫌きげんなほいと愉快氣こゝろよげに酒を飮ながら偖々さて〳〵御亭主店先をさわがせ氣のどく千萬それがしはもとより生れ付て容體なりふりに一かうかまはぬゆゑ是までも兎角とかく人に見下られ殊に見らるゝ如く大いなる木太刀きだちを二本さして歩行あるきけれどもそれを武者修行と思ふ者一人もなく却て長脇ながわきざしの親方かたゞし追いはぎ盜賊などの惡漢わるものやつ姿すがたと見違へ甚だ迷惑めいわく致す事ありと云ひければ亭主は聞て否々いへ〳〵失禮しつれいながら人は見かけに寄ぬものにて韓信かんしんとか申人も元は洗濯婆々せんたくばゝの所に食客ゐさふらふに成り居りしとか又人のまたくゞりしとか申程にいやしく見えしよしすれば貴公樣あなたさまなどは御なりは見惡ふいらせられても泥中でいちう蓮華はちすとやらで御人品は自然おのづからかはらと玉程に違ふを見分みわけざれば目鼻めはなのある人とは申さずと云ふに武士は大いに笑ひそれは餘り譽過ほめすぎるなりと云つゝ最早もはや酒もやがて三升ばかりのみたる故ほろ〳〵機嫌きげんになりコレ亭主貴樣は田舍ゐなか似合にあは漢土からの事など引事ひきごとにして云は感心々々かんしん〳〵はなせる男だイヤ面白し〳〵と暫時しばしきようにぞ入りたりける


第六回


 さてまた亭主八五郎は彼武士に向ひ失禮しつれいながら御客樣の御國は讃州邊さんしうへんと存じ候がいづれの御方に御座候やと云ければ半四郎は不審ふしんに思ひ貴樣は如何いかゞして某しの生國を知りたるやととふに八五郎は微笑ほゝゑみ先刻よりうかゞふに御言葉遣ひは讃州のおん言葉ものごしに候あひだもしやと存じお尋ね申上しなりと申せしかば武士は甚だ感じつゝ御亭主ごていしゆ貴樣は記憶きおくといひ心懸こゝろがけといひ天晴の男なり察しの通り某しは讃州丸龜に住居して無刀流劔術の指南しなんを致し後藤半四郎秀國と申ものなりと云に八五郎は是を聞て大いに驚き扨は御客樣が後藤先生にておはせしか御縁ごえんと云ものは眞實まことに不思議なものなり知ぬ事とは申ながら先刻せんこくより大いに失禮仕しつれいつかまつりしだん眞平まつぴら御免ごめん下さるべし只今たゞいま上州大間々に御道場を御出し成れたる後藤秀盛先生が毎度まいど貴方樣あなたさま御噂おうはさを成れ拙者は未熟みじゆくなれどもせがれの半四郎は古今の達人なりと御噺おはなし有しが其半四郎先生に今日御目おめかゝらんとはゆめさら存ぜざりしなり又其御身形おんみなりは如何なされし事やとひければ半四郎きゝて今も云通り某しは生質うまれつき容體なりふりには一向頓着とんぢやくせず人は容體みめより只心なり何國へ行にも此通り少しもかまはず只々蕩樂だうらくは酒を飮ばかり外にはたのしみと云者なして又々亭主には某しが師父しふを如何して存じ居らるゝやと申に亭主はなほひざを進めされば秀盛先生はこの近邊きんぺんにも御弟子これ有よしにて時々御指南に御出おいでなされて滯留たうりうせつ毎度まいど私方わたくしがたにて御宿おやどを申上夫ゆゑ大先生の御咄おはなしに貴方樣の御噂おうはさうかゞひしなりしかしながら當冬に相成ては未だ一度も御出なく此秋中迄このあきぢうまでは毎月かゝさず御出ありしが如何いかゞなされしにやと申ければ半四郎は始終しじうきゝは不思議のえんなり某し此度此所を通行なすは大間々おほまゝなる我が師父大病のおもむき國元へ飛脚到來せしゆゑ丸龜まるがめより急いで上州大間々まで參りし處に何と云ても二百里ちかくの道程みちのりゆゑ死目の間に合ず遙々はる〴〵遠路ゑんろを來りし甲斐かひもなく甚だ殘念に存するのみ既に師父の葬送さうそうは門弟中あつく世話致し呉し由ゆゑ道場の跡片付あとかたづけなどすまして漸々やう〳〵今日けふ此所までもどりしなりと此程の事故ことがらを涙ながらに物語りしかば八五郎は大いに驚き夫は嘸々さぞ〳〵御愁傷ごしうしやうの御事と御察し申上る道理だうりこそ當冬たうふゆは御出之なきと存ぜしなり然らば未だ當所の御門弟中ごもんていちうは知らざる事ならんによりわたくしより早速さつそくつぎ御墓參おはかまゐりも致させんと云けるに半四郎は亭主ていしゆあつこゝろざしをかんじ何分宜しく頼むなりと申せしとき又八五郎は半四郎に向ひ先生先程さきほどは一たん申上たれども其實今晩こんばんむら寄合よりあひと申せしは僞りに候あひだ今宵こよひ寛々ゆる〳〵とまり下さるゝ樣にと申ければ半四郎は莞爾につこと笑ひ夫はさいはひもはや時刻じこくおそくなりしうへ某しも大いに飮過たるにより御亭主の言葉に隨ひ今夜は世話せわに成べしらば今一升かんを頼むと言に八五郎はまことめづらしき大酒なりと思ひ先々まづ〳〵御寛おゆるりと上られよと言つゝコレ〳〵と彌助を呼び先生樣にもう一升おかんをつけて上よシテまた徐々そろ〳〵御膳ごぜんのお支度をと云ければ彌助はかしこまり候と又一升をさし出し夫より四邊あたり立働たちはたらひまかたはらに立掛ありし鐵の延棒のべぼう故意わざと足にて蹴倒けたふし見るに少しもうごかず因て彌助は目方を引見んと思ひこれ不調法仕ぶてうはふつかまつりましたと云ながら持て座敷ざしきへ上んとするに少しも持上もちあがらずウン〳〵と云て力瘤ちからこぶを出し居るにぞ八五郎は此所へ出來り我等われらが上んと云ながら引立ひきたてんとすれ共同人にもうごかねば八五郎は大いにきもつぶし是は滅法界めつぱふかいに重き御品なり先生此御杖このおつゑ何程いかほど貫目おもみ候やら私し共には勿々なか〳〵持上らずと云ければ後藤は打笑ひいな多寡たくわの知たる鐵の延棒のべほう某しがつゑの代りについ歩行あるくしな目方は十二三貫目も有べし途中にて惡漢わるものなどに出會いであひし時には切よりも此棒にて打偃うちのめすが宜しと云つゝ片手にて是を取ひう〳〵と風を切て振廻す有樣ありさま宛然さながら麻殼をがらあつかふが如くなるにぞ八五郎は是を見て彌々いよ〳〵きもつぶし先生の大力實に天下てんか無双ぶさうならんと見て居たるに後藤はコレ彌助先刻さつきの代りに鳥渡ちよつと一本こゝろみようかと振上ふりあげければ彌助は大いに仰天ぎやうてんなし御免なされと云より早くおく目懸めがけ迯行にげゆきけり


第七回


 されば寶珠花屋八五郎は半四郎にむかさても〳〵先生は凄然すさまじき御力量哉加之そのうへ劔術は殊さら御熟練ごじゆくれんうかゞひ及び候が今少し貴方あなたが御早く御出あらばかりしにをしき事なりと申ければ半四郎は聞て某し今少し早く參らばよきにと云るゝは如何いかなるわけなるやととふに八五郎され御咄おはなし申べし先刻越後者のよしわかき夫婦連の侍士さふらひ私し見世に御休みなされしが逃亡者かけおちものとも見えず身形みなりも可なり立派なれども一向に旅馴たびなれぬ樣子にてイヤモウ意氣地いくぢもなく殊に女は足をいためしとてつゑすがりて參りし處惡い駕籠舁かごかきどもに付込れ當底たう〳〵あざむかれ乘て參りたるが今頃いまごろは此熊谷土手の中程なかほどにて路金も女も定めしとられ給ひしならんアヽ思ひ出しても可愛かあいさうな事をいたせしなり既に其御侍士そのおさふらひこうまでも行んと云るゝによりわたくしが右の駕籠屋かごやの來らざるうち此熊谷土手は名代の物騷ぶつさうなる所にてことに四里八丁もある場所ゆゑ必らず夜にいるに付今夜は當宿たうしゆくとまりてあすあさ早立はやだちになされよと御止め申居たる處へ駕籠舁かごかきめが這入はひり來り終にすゝめ込て引懸ひきかけゆきしなり其時貴方あなた樣が御出成れたなら惡漢わるものの五人や十人は忽ちに打散したすけて遣はされしならんに呉々くれ〴〵をしきことをしてけりとはなせしかば後藤は樣子をきゝ夫は又何故に惡漢わるものと知りながら教へてはやらざりしぞ聞が如きにてはまこといたはしき事なりと云に八五郎いな道中の雲介くもすけ駕籠舁かごかきなどと申ものは今日はに居ると思へばあすは大坂へ參り又は東海道へかせぎ歩行あるき少しも居所ゐどころの極らぬ奴輩やつばらゆゑもし奴等きやつらが仕事の邪魔じやまをする時は後日に如何なるあだをさるゝも計り難く夫故に道中筋だうちうすぢは何れの茶屋小屋にても看々みす〳〵惡漢わるもの引懸ひつかゝりて難儀する旅人があらうとも滅多めつたな事は申されずと云ければ半四郎なるほど夫は道理もつともなり何にしても可愛かあいさうなことゆゑどうか救ひて遣度やりたいものと兩手をくみしが可々よし〳〵某しは元來天地のあひだ差構さしかまへのなき身分主人もつではなし母親は兄半作が世話せわををするし全く獨立どくりつの天下浪人又義を見てせざるはゆうなしと云る事あり某し今より駈着かけつけ其者どもを助けてやらん是より道程みちのり何程なにほどあるやと問ひければ八五郎然樣さやうさ四里八町と申せども多分たぶん中頃なかごろで爲す仕事ならん一筋道すぢみちゆゑ御出おいでなされば間違ひなけれ共餘程時刻もおくれたれば贅足むだあしならんといふに半四郎は最早もはや立上たちあが假令たとへ贅足むだあしになればとて元々なり某し一ト走りに追着おひつきたすけてやらん大方おほかた渠等かれら怪我けがもあらんにより本道ほんだう外科げくわ兩人の醫師を頼み置かれよまた燒酎せうちう鷄卵たまご白木綿等しろもめんとうの用意を頼むなり其入用は某しが出すべしとて後藤は路金を胴卷どうまきまゝ亭主に預けおき悉皆こと〴〵く用意を申し付て強刀がうたうたいし鐵の延棒のべぼう引提ひつさげ熊谷堤をさし逸驂いつさんにこそ馳行はせゆきけり


第八回


 偖又彼の駕籠舁かごかき惡漢わるものどもは浪人夫婦を甘々うま〳〵と僞り乘て寶珠花屋はうじゆはなやを立出しが程なく熊谷堤くまがやどての中程なる地藏堂の前に來り駕籠を撞乎どつかおろしオイ棒組々々ぼうぐみ〳〵マア寛然ゆるりと一ぷくやらかさうやれ〳〵世話しないことをしたと云ひながら煙草たばこ入より摺火燧すりひうちを取出してかち〳〵と火をつけ煙草たばこのみながらもうこゝまで連て來れば此方こつちのものだまづをんな捨賣すてうりにしても年一ぱい五六十兩が物はある路用ろようも十兩や十五兩はあるに相違なし其外そのほか衣類いるゐ大小迄だいせうまでうばひとらば何でも小百兩の仕事だひさぶりで甘い酒がのめる悦べ〳〵といふこゑを浪人夫婦は聞て大いに驚き然すれば渠等かれらかねて聞たる護摩ごまはひとか云へる惡漢わるものならん是は如何せんと當惑たうわくの折から一人の駕籠舁は彼浪人かのらうにんに向ひオイ御侍士おさふらひ先刻さつき熊谷の茶屋から四里八丁の丁場ちやうばを二里半だと云てのせて來たがじつは僞りよ此駕籠のなかしろ物と路用大小等が見込みこみで此所まで汗水あせみづに成て乘せて來たのだ何ときもつぶれたかヤイ此女は勿論もちろん金と大小衣類まで尋常じんじやうに渡せば命は助けてやる萬一もしいなと云へば命もともに貰ふ分の事サア素直すなほに路用を出せといふに又一人も同じく侍士さふらひに向ひおう然樣さうだ殘らず渡したとてそんはあるまいコウ侍士さふらひ大方おほかた此女は餘所よそ箱入娘はこいりむすめそゝのかし云合せて親の金をぬすみ出して連てにげたに相違なし元はたゞとつて來たものだ不殘みんな渡しても損にはならねへサア〳〵渡せ〳〵とたちかゝる故此方こなたは侍士一人なれども女房を駕籠かごより出し手早くうしろかくしてたてになり嗚呼あゝ殘念ざんねんなるかな斯る惡人とも知らず己れ等如きにあざむかれ此所まで來しこと口惜くやしけれとは云ふものゝかたな手前てまへ假令たとへいのちすてるともおのれがまゝにすべきや覺悟をせよと言ひながら腰の一刀引拔ひきぬきつゝ身構みがまへなせばわるものどもは打笑ひ何の小癪こしやくあをさい息杖いきづゑとりのべ打てかゝるを此方はさわがず切拂ひ又打込を飛違とびちがへ未だ生若なまわかき腕ながら一しやう懸命けんめい切捲きりまくれば流石に武士のはたらきには敵し難くや駕籠舁ども是はかなはじと逃出にげいだすを何國迄いづくまでもと追行おひゆくうちかね相圖あひづやなしたりけん地藏堂のとびらを開き七八人の惡漢わるものども破落々々ばら〳〵其所へ馳出かけいだし女を逃すな擔引ひつかつげと追取卷に女房も今は何とも絶體絶命ぜつたいぜつめい如何に此身が女なりとて非道ひだう手込てごみになるべきやと用意の懷劔くわいけん拔放ぬきはなち彼方此方を掻潜かひくゞり死もの狂ひに突廻つきまはれば惡者どもは是を見てヤア小賢こざかしき女の働きたゝたふせとひしめくを頭立かしらだちたる大男はあわたゞし押止おしとゞめコレ〳〵其女を叩き倒して成者なるものか大事の玉にきずがつくとそツと生捕いけどれと氣をつけられて惡漢どもよし〳〵合點がつてん承知の濱と遂ひに懷劔を捻取もぎとりつゝ手どり足どり旋々くる〳〵まき強情しぶとひ婀魔あまめと引摺ひきずりねぢつけ駕籠へ入れんとするを女はこゝぞ一生懸命ヤレ人殺し〳〵助け給へと泣叫なきさけべは侍士是に心付ヤレ南無三法何時いつに同類めらがうしろへ廻り我が女房を捕へしやとぶ如くに馳戻はせもどむらがる中へ切入ど彼方は名におふあれくれども手に〳〵息杖棒いきづゑぼうちぎり打合ふ折から又四五人どてかげよりあらはいで疊んで仕舞へとのゝしり前後左右を追取卷打込棒は雨よりしげく多勢を相手に侍士は死忿しふんを顯はし切り結ぶ心は彌猛やたけはやれども終に刀を打落され逡巡處たぢろくところ惡漢わるものども寄てたかつて侍士を忽ち其所へ打倒うちたふめつなぐりに打据うちすゑたり斯る所へ半四郎は彼早足かのはやあしも一そうはげしく堤の彼方へ來懸きかゝりて遙か向うを見渡すに夜中の事ゆゑ夫なりと目當めあては知ねど女の聲ヤヨ人殺し〳〵助け給へと叫ぶにぞさてこそ惡漢御參んなれと猶一さん馳着はせつきて用意の延棒のべぼうを追取直してをどりこみて女房をおさへたる惡漢どもを後ろよりヤツと云ひさま打たふせば瞬間またゝくまに二三人ウンとも云はずいきたえたり是を此場の始めとして當るを幸ひ片端かたはしより破落離々々々ばらり〳〵薙倒なぎたふす勢ひに惡漢どもは大いに驚き是は抑如何そもいか仁王にわう化身けしん摩利支天まりしてんかあら恐ろしの強力や逃ろ〳〵と云ひながら命からがら逃失にげうせけりまた打倒うちたふされし五七人は頭をわらすねをられ或は腰骨こしぼね腋腹骨あばらぼね皆打折れて即死せしもあり適々たま〳〵未だしなざるも然も哀れ氣にうめさま心地こゝちよくこそ見えたりけれ後藤は是をかへりみてヤレ〳〵たはいもなき弱虫よわむしめら只一打にて逃散にげちつたりシテまだ死切しにきら奴輩やつばらを斯して置は殺生なりさりとて生返いきかへらせなば又々旅人へ惡さをなす者共なればとゞめをさして呉んと鐵の棒のさきのどあたりへ押當おしあて一寸々々ちよい〳〵よしで物を突く如く手輕てがるに止めを刺し去より後藤は夫婦の者に向ひヤレ〳〵危き事でありしが最早もはや我等が馳着はせつけたる上は心安く思はるべしされど御浪人には強き怪我けがもなかりしやと云に夫婦の者は大いによろこいづれの御方かは存ぜねどもはからず我々が危難きなんを御助け下され有難く御禮言葉ことばに盡し難し少々は打疵うちきずを受たれども然までの怪我にも是なしと云ながら女房は後藤を熟々よく〳〵るに月代さかやき蓬々ぼう〳〵はえまなこするどき六尺有餘の大男なれば又々仰天なし一旦命を助けられしはうれしく思ひしが是また同じく勾引かどはかし盜人どろばうにてあるべし如何してよからんやと薄氣味惡うすきみわる胡亂々々うろ〳〵するを見て半四郎は是をさつし是々御浪人我等は此樣に見苦しき身形みなりゆゑ定めて不審いぶかしき者とおぼされんが必ず御心配なさるに及ばず某は讃州さんしう丸龜まるがめに住居なす後藤半四郎秀國ひでくにとて劔道けんだう指南しなんを致す者なるが此度用事あつて上州じやうしう大間々おほまゝへんへ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ立寄たちよりし處亭主の物語に貴殿御夫婦惡漢わるものどもの爲に欺かれ定めし御難儀ごなんぎなされんと申事を聞及び武士は相見互あひみたがひ我等も浪人の危難を餘所よそに聞流すは本意ほんいならず思ひ餘程よほど刻限こくげんのびたりと申せしかど假令たとへ無陀むだになるとも屆くだけは御助力じよりよく致さんとはせ着しに幸ひ間に合ておすくひ申たるは我等の本望ほんまう先々まづ〳〵安堵あんど致されよと申ければ夫婦は漸々安心してホツと溜息ためいきつき我々夫婦は越後高田の浪人新藤市之丞しんどういちのじようと申者なり誠に有難き御厚情ごこうせいを以て斯樣に我々兩人をお救ひ下されし事千萬かたじけなく存じ奉つると初めて喜びのいろおもてあらはれ兩人土に手をつきて厚く禮を申のべければ後藤は否々いや〳〵其樣に禮を云ふには及ばず夫よりはまづ貴殿の疵所きずしよ手當てあて致されよと申に後藤は某の疵はわづかばかりなりと云ふを否々少しにても疵は大切たいせつなり自然しぜん等閑なほざり波傷風はしやうふうにもならば容易ならず先兎も角も先刻の茶屋迄御同道ごどうだう申ての事なりサア遠慮ゑんりよに及ばず此駕籠このかごのられよと今惡漢どもの置去おきざりにせし駕籠を引寄ひきよせ浪人を乘せたれどもかつのなきゆえ後藤はひざうちこれはしたり氣の付ざりしがこんな事なら惡漢の二三人を殘しておけよかつたに皆殺せしは是非もなしドレ參らうと半四郎一人にて引擔ひきかつぎサア〳〵御女中さきたゝれよと云つゝ行んとせしが半四郎は大小とてつ禪杖ぜんぢやう邪魔じやまに成たればもし御女中憚りながら此大小とつゑもつて下されと女に渡すに赤銅造しやくどうづくりの強刀と鐵の延棒のべぼうなれば大體たいていの男にても容易に持事かなはぬ程ゆゑ女房はもつどころか大小ばかりにもこまり果て然りとていなとも云はれず持には持れず如何してよからんと身を悶えて居るゆゑ後藤は可笑をかしく思ひ是はしたり成程なるほど御前さんには持れぬはずどれ此方こつちへと引取ひきとつて駕籠の棒へ下緒さげをにてくゝりつけコレ御女中お前も一所いつしよに乘り給へ然すればかへつて道もはかどらんと云ふに女は否々いへ〳〵どう致して勿々なか〳〵勿體もつたいなしと辭退じたいなしければナニ遠慮なさるな夜中の事ゆゑ外に誰も見る者なしサア〳〵乘り給へと手を取て夫婦二人を無理むりに一つ駕籠にのせ是でよしとて半四郎はむか鉢卷はちまき片肌かたはだぎ何の苦もなく引擔ひつかつぎすた〳〵道をかけながら酒屋をさして急ぎけり


第九回


 扨寶珠花屋八五郎は後藤の出行しのち早々さう〳〵下男の彌助にいひつけまづ燒酎せうちう鷄卵たまご白木綿等しろもめんとう買調かひとゝのへ夫より外科げくわへ怪我人ある趣き申つかはし招きけるに醫師いしは幸ひ在宿ざいしゆくなればとて彌助に藥籠やくろうを持せて先へ差越さしこし程なく寳珠花屋へ入來いりきたりしかば亭主は早速さつそく出迎いでむかへて座敷へしやうじしに醫師は四邊あたりを見廻し御病人はいづれに居らるゝやといひければ亭主八五郎然ればなり其病人と申は多分たぶん今晩こんばん旅人りよじんに怪我のあるはずゆゑ急度きつと今に參るならんといふに醫師は大いに不審いぶかり然樣か夫は餘り手廻てまはすぎたりシテ其怪我人のあらんと云事は如何のわけなりやと申ければ八五郎は浪人夫婦の事より後藤半四郎がたすけ馳着はせつけし始末等委細ゐさいに物語りなどして居たりしが亭主は何にしても餘り手間取てまどれるにより其邊そこらまで樣子を見せにやらんと宿駕籠しゆくかごを頼みて其用意に及びし所へ後藤半四郎はむか鉢卷はちまき片肌脱かたはだぬぎになり駕籠一ちやうへ夫婦二人を乘せ一人にて引擔ひつかつぎ寶珠花屋のかど駈着かけつけ是々亭主今歸りたりとおもてたゝきければ八五郎は飛でいで先生せんせい樣子やうすは如何やと云ながら門の戸引明ひきあければ後藤はあせ押拭おしぬぐ如何いかゞどころか誠に危き事なり亭主貴樣の云し通り今一トあしおそいと間に合ぬ處なりしが丁度ちやうどをよく駈着かけつけて惡者共を叩き殺し二人とも救ひてたと夫婦の者を駕籠よりおろしければ亭主は是を見てヤレ〳〵夫は御手柄々々おてがら〳〵先生の事ゆゑ定めし斯あらんと存じ仰付おほせつけられとほり醫師もまねおき燒酎せうちう白木綿しろもめん玉子たまごとも調とゝのひ置候なりと云つゝ半四郎倶々とも〴〵新藤夫婦を奧へともなひ醫師にみせ市之丞の疵口をぬはせ療治を頼みおき半四郎は又亭主へもよく手當てあてを申つけ一ト間に入て休息きうそくしやれ〳〵草臥くたびれたり拙者せつしやは酒をのむべしと又々さけさかな取寄とりよせ酒食しゆしよくをなして其夜は臥床ふしどへ入にけり偖新藤夫婦は思ひよらざる危難を救はれ萬事の事まであつく世話になりければ悦ぶ事かぎりなく是も其夜は打臥うちふしけるが偖翌日より後藤半四郎は自分の金を出しくすり其外そのほか手厚てあつく世話を致させて先新藤夫婦の身元を尋ねしにこの夫婦の者浪人せしは其頃越後高田の城主じやうしゆ松平越後守殿まつだひらゑちごのかみどの藩中はんちうにしてたか二百石をりやう側役そばやくつとめし者なるが女房は同藩の娘にてお梅といつて是も奧を勤居つとめゐたりしに若氣わかげあやまちとて不義密通ふぎみつつうに及びし事薄々うす〳〵かみへも聞え御家法ごかはふに依て兩人の一命をも召さるべきのところ同藩にて五百石をりやう物頭役ものがしらやくを勤むる大橋文右衞門と云者いふもの平日へいじつ懇意こんいに致し仁心じんしんも深き人ゆゑ其事を不便に思ひ太守たいしゆより御沙汰のなきうちにとひそかに新藤を招き金子二十兩をあたへ早々御家を立退たちのき江戸表へ出て奉公をなりとも致し始終しじう夫婦になつてくらされよと懇切ねんごろなる大橋のなさけに預り兩人が命を助かり江戸表へ參らんと故郷を立出たちいでしなりと始終の事とも物語り然るにしうおやのおばつにや途中とちうに於て惡漢どもに欺かれ既に一命もうしなはんとせし程の危難にあひたるを又はからずも貴方あなたの御助けに預かりし事まことに有難く存じ奉つる此御恩このごおん生々しやう〴〵世々せゝ忘却ばうきやく仕まつらず候と夫婦諸共もろともに涙を流して申しけり


第十回


 扨も後藤半四郎は夫婦ふうふが長物語ものがたりを聞て成程若き者はありうちの事何も是を生涯しやうがいはぢとなす程の事でもなし古き俚諺ことわざ後難こうなんは山にあらず川にあらず人間反覆のうちありいふいつ何時なんどき如何なる難儀憂目うきめ出會であふも計られず然れど又々また〳〵うんひらく事もあるものなり何でも心も正直しやうぢきにして大橋殿の恩を忘れぬ樣に致されよ江戸表へ出たなら御夫婦ごふうふとも辛抱しんばうしてかせぎ大橋殿におんかへし給ふべし拙者も是より江戸見物致さんと思ふなれば江戸迄は御同道ごどうだう申べし先々まづ〳〵心置こゝろおきなく寛々ゆる〳〵養生やうじやうなすが專一なりとて眞實しんじつに申を聞夫婦は増々ます〳〵よろこ心靜こゝろしづかに逗留とうりういたしけるうち早くも十日程立疵口もやゝ平癒へいゆして身體も大丈夫になりければ最早江戸表へ出立せんと申に亭主八五郎は是を聞きまづ寛々ゆる〳〵と御逗留遊ばさるべししかし貴方あなたがたには江戸表不案内ふあんないと申事なれば爰によきさいはひあり私し兄江戸馬喰町二丁目に武藏屋むさしや長兵衞と申て當時たうじ旅宿りよしゆくを致して居るにより是へ先御落着ありて寛々ゆる〳〵江戸見物を遊ばされ候はゞ然るべく私し兄の儀を申もいかゞに候へどもなにごとによらずこれかうだといふ時は是までも隨分ずゐぶん他人さまの御世話を申氣象きしやうに候あひだ失禮しつれいながら御相談ごさうだん相手あひてにもなる侠氣をとこぎのものに御座候是へ私より手紙てがみそへて差上申べしと云ければ後藤始め大いに悦び夫は何よりの幸ひ何分頼むと有りけるに八五郎は後藤ごとうならびに夫婦の者の素性すじやうくはしく書状にしたゝめ是をわたしければ兩人は悦び旅宿代はたごだい勿論もちろん醫師いし藥禮等やくれいとうに至る迄殘らず半四郎より勘定致し翌朝よくてうは朝早く起出て支度を調とゝの夫々それ〴〵あつ暇乞いとまごひに及び後藤半四郎は新藤夫婦を同道どうだうなし熊谷を出立して此程は此堤このどてにて危ふかりしなどと道すがらかたあひつゝ江戸表馬喰町へ來り武藏屋むさしや長兵衞方に落着おちつき寶珠花屋よりの添書を出しければ亭主長兵衞も弟八五郎よりの手紙も是ある事ゆゑ早速さつそくに出來りて夫々に挨拶あいさつに及び御緩ごゆるり御逗留遊ごとうりうあそばさるべしとて奧座敷を一貸切かしきりあつ待遇もてなしける故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者をつれては向島兩國淺草吉原或は芝神明しばしんめい愛宕あたご又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して歩行あるき氣隨きずゐ氣儘きまゝ日々にち〳〵さけ而已のみ多くのみ凡そ十四五日も逗留せしが後藤は萬事心を付新藤夫婦をも折々誘引せしかど市之丞夫婦はもとより僅のたくはへにてくにいで途中にても圖らず長逗留なし醫藥其他共後藤の世話になりしとはいふものゝ追々にかねつかへらしければ此上江戸見物などにつかすてる貯へなきゆゑたゞれいのみ云て一度も同道せし事なく日々宿屋にばかり居て誠に退屈勝たいくつがちなれば夫婦はひたひあはせ何時まで斯して居るとも段々だん〳〵路用ろようつきる而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも何所どこへ頼んでよろしきや勝手もわからずいつその事に何ぞ小商ひにてもはじめて見樣みやうかと明暮あけくれ身の有付ありつきを考へとつ追つ相談なし居たるに或日此家このや手代てだいきたり決して御催促をまをすわけには是なく候へども最早もはや暫時しばらくの御逗留ゆゑ御旅籠おはたご餘程よほどたまりしにより少々にても御拂ひ下さるべきや又は後藤樣の御歸りを御待おまち申さんかと後藤始め三人の旅籠代はたごだい二十日分十九くわん五百文金となして三兩と二百五十文に相成候といひつゝ書付かきつけを差出しけるに夫婦はかほを見合せ暫時しばらくこたへもなかりしかば手代は樣子を見てとりいづれ又後藤樣の御歸りの上願ひに出んと云て立去たちさりしに夫婦はホツと溜息ためいきつき今も今とて相談の折から此家の旅籠の書付かきつけを見るにつけてもかく空々うか〳〵他人ひと厄介やくかいになりて居るは如何にも心苦しく然りとて是を拂ふ心なしとはいふものゝせめては此家の旅籠だけも後藤に聞せず拂ひたしとなほ種々さま〴〵に相談なせしに妻のお梅は是までにもくしかんざしなどは追々に賣盡うりつくし今は着替きがへ一つ有而已あるのみなれども此上は其着替そのきがへにても賣代うりしろなし旅籠の代にあてんと申故市之丞も詮方せんかたなく然らば我等の着替羽織とも未だ之有これあるにより夫をも共に賣代うりしろなし此家のかりを返さんとお梅に右の三品を取出させやがて先の手代をまねき彼三品を前におきまことはづかしき次第なれども道中以來種々の物入にて今は路用ろようつかきり當惑たうわくの折からなれば此衣類を賣代うりしろなし此方の勘定を致しくれられよとひけるに手代は甚だ氣の毒顏にいや然樣さやうの御事なれば後藤樣の御歸りの上御相談成さうだんなされて然るべし此御勘定とても只今たゞいまいたゞかねばならぬと申譯にも御座なく今日は見世みせ帳合日ちやうあひびゆゑ先刻せんこくおう伺ひ候までなりと申を夫婦は否々いな〳〵是までも後藤氏には一方ならず世話になりたればせめては此方の旅籠だけも我々われ〳〵相拂あひはらひ申度平に取計らひを頼むと云にぞ手代も當惑たうわくなし如何はせんと考がへ居たるに後ろのふすま押開おしひらき御免なされと此家の亭主あるじ長兵衞は入來いりきたり只今彼方かなたにて御樣子を伺ひまこと御志操おこゝろざしを感じ候なりさりながらお三人のお旅籠を御一人御留守中おるすちうに戴き候も心よからず殊には當時御差支おさしつかへの御樣子旁々かた〴〵決して今日頂戴ちやうだい致すに及ばず候間此御品このおしなかく御納め下さるべしと申に市之丞夫婦は亭主のなさけある言葉をきくつけ猶さら氣の毒に思ひ此上御世話に相成あひなるは兎も角も此衣類は當時不用の品ゆゑ何卒なにとぞ御賣拂おうりはらひ御勘定下されよと互にあらそひ居る折から半四郎は立歸たちかへりしが今兩人の言葉をきゝながら入來いりきたりコレ〳〵新藤氏其儀は拙者に御任おまかせあれと云て亭主長兵衞にむかひ偖此所に御座る新藤氏夫婦の事は概略あらまし貴樣の弟より手紙にて承知もあるべきがこれわかき者の有うちじつは越後高田の浪人にて同藩の娘をつれ逃來にげきたりし譯ゆゑあへにくむ程のこともなし夫に旅馴たびなれぬゆゑ熊谷土手にて惡漢わるものだまされ既に妻をもさらはれんとする所に八五郎のはなしにより某駈着かけつけて惡漢を追散おつちらしたれば夫がえんとなり御當地までも同道どうだう致したるなり何にしても便たよすくなき夫婦の者どうか貴樣の世話を以て取續とりつゞきの出來できるやう頼み申度尤も丸々まる〳〵貴樣の厄介やくかいかけるといふわけには非ず是はいさゝかなれども何ぞ商賣でも初めさせて下されよと後藤は用意よういの金子を二十兩取出とりいだ資本もとでほどにはなけれども宜しくたのむと長兵衞に渡しければ長兵衞はもとより侠氣をとこぎの者ゆゑいや先生貴方がお連なされたお方なり殊に八五郎よりもたのみ書状しよじやう參りし事ゆゑ金子などはいり申さず私しがよきやうに御世話仕つるべきにより決して御心遣ひなされまじ假令たとへ宿やどには一錢なくとも私しが何れとも工夫くふう致すべし先々まづ〳〵此金子は御始末下されよとて其事由そのことがら心快こゝろよく請合うけあひけるにぞ半四郎は大いに悦び夫は千萬忝けなし夫にてまづ安心あんしん致したりしかしながら此金は兎も角も貴樣があづかおいくだされよと金子二十兩をかへして渡しあつく夫婦の身の上をぞ頼みけるこれ陰徳いんとくあれば陽報やうはうありとのたとへの如く此事このこと後年こうねんに至つて大岡殿の見出しにあづかる一たんとはなりぬされば新藤夫婦は是を見聞みきゝして大いに悦びしとは雖も是までも萬事後藤の世話になりしことゆゑせめ旅籠代はたごだいだけは衣類を賣て拂はんといふに夫をもとめられ猶亦二十兩の資本金もとできんまで長兵衞に預けし後藤の深切しんせつ何と禮を云べき詞もなく名利みやうりの程もおそろしと兩人涙にくれて居たりしに武藏屋長兵衞は委細ゐさい引受ひきうけて世話をなさんといふ彌々いよ〳〵打喜び我々夫婦の命を御助け下されるのみならず往々ゆく〳〵落付おちつきまで御世話下さるとは誠に冥加みやうが至極しごく有難き仕合なりと繰返々々くりかへし〳〵夫婦の者は伏拜ふしをがうれし涙にくれたりけり是より半四郎は國元へ出立の用意よういに及び日々ひゞ土産みやげなど調へしが彌々いよ〳〵明日は出立せんとわかれをつぐるに長兵衞夫婦の者名殘なごりをしみ幸ひ大師河原へ參詣さんけいながら川崎宿迄送り申さんと己も支度したくをなし翌朝後藤は此家このやを立出るに新藤夫婦もわかれををしみ影見えぬまで見送々々みおくり〳〵後藤の方を伏拜ふしをがむこそ道理なれ又長兵衞夫婦は川崎宿まで送らんと同道なしけるに後藤も其志操のあつきをかん何時迄いつまで名殘なごりつきねどもまた跡々あと〳〵を御頼み申せし新藤夫婦の事もあれば此度このたび大師迄だいしまでにて別れ申べけれかさねて金比羅こんぴら參詣さんけいの事もあらば丸龜城下なる拙者せつしやたくへ必らず立寄たちよられよ又某事も此後こののち江戸表へいづるならば貴樣の家を定宿ぢやうやどとなし年中たがひに往來ゆきき爲度者したきものなりと道々話しながら川崎宿なる萬屋へいたり同所にて酒飯しゆはんすまやがて別れをつげ夫より長兵衞夫婦は大師へ參詣さんけいしてぞもどりける


第十一回


 偖又後藤半四郎は是より東海道とうかいだうゆくに今宵はまづ藤澤ふじさはどまりと心懸こゝろがけ鶴見畷つるみなはてなど打眺うちながめながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎のあとになり先になり來りしがほどの先なる燒持坂やきもちざかの邊りより彼町人體の男は聲をかけもし旦那樣は失敬しつれいながら何方迄いづかたまで御上おのぼり遊ばさるゝやといふを半四郎は聞て某は四國の丸龜までもどる者なりと答るに彼男私しは江州がうしうにて候が江戸表へあきなひに參り只今歸り道也是からまた尾州びしう名古屋へいたり夫より京大坂へ仕入しいれに登り候つもりに付幸ひ御供同樣に御召連下おめしつれくださるべし一人の道中と云者いふものは道にあきるものゆゑ御咄相手おはなしあひてに御同道仕つり度と然も馴々なれ〳〵しく申すにぞ後藤は否々いな〳〵某はまた道連みちづれの有は大いにきらひなり殊に貴樣は江州者だと云ふが近江あふみ盜人どろぼう伊勢乞食こじきと云事があり勿々なか〳〵江州の者は油斷ゆだんはならずとことわるに彼男それは旦那樣貴方の御聞違おきゝちがひなり近江殿御に伊勢子正直と申ので御座りますナニ近江者が泥坊どろぼうと限りますものかといひければ半四郎は否々いや〳〵夫はかくもなんだか氣味がわるし某は一人の方が氣儘きまゝなりとてすた〳〵早足はやあしに急ぎ行くを彼男も同じく早足になり追駈おひかけながら若旦那樣どうぞ御一所に御願ひ申ます貴方樣は見上みあげた所武者修行を遊ばさるゝ御方と存じます御大小なんどは餘程よほどながきもので御立派おりつぱなり私し儀實は仕入の金を所持しよぢ致し居り候へば何時いつの道中にても登りくだりが心遣こゝろづかひでなりません道中は金子の十兩から持つて居るとわるものが目を付て油斷ゆだんがならず何卒なにとぞ御迷惑ごめいわくながら御同道下さらば丁度旦那樣の御供の樣にて惡漢わるものつく氣遣きづかひなく心丈夫に存じますといふに後藤は見向みむきもせず夫は貴樣の勝手次第かつてしだいにといひはなし一向構はず行中ゆくうちにはや戸塚の棒鼻ぼうはなへ入りたるに或料理屋の勝手かつてかつを佳蘇魚まぐろひらめの數々の魚見えければ後藤は一杯やらんと此家このやに入てさけさかなあつらへなどするうち彼男もつゞいて入來り是も酒を言付いひつけしに程なく双方さうはうへ酒肴を持來もちきたりしかば後藤は手酌てしやくにて飮居たるに彼町人も大酒飮おほざけのみと見え大なる茶碗ちやわんにて引懸々々ひきかけ〳〵飮居るていに後藤は聲をかけコレ〳〵町人其方は大分だいぶんさけが飮る樣子なりといふに彼男は此方こなたに向ひイヤモウ酒は大好物だいかうぶつで御座りますと云ひければ半四郎夫は話せる〳〵其の酒飮はそれがし大好だいすきなり酒は一人で飮ではうまくなし一ぱいあひをせぬかと申に彼町人は得たりかしこしと夫は有難し直樣すぐさま御間おあひ仕つらんと是より後藤のそばよりさしさゝれ飮合のみあひいが其好む所にへきすとの如く後藤半四郎は自分が酒好さけずきゆゑつひに此男と合口となりて忽ち互ひに打解うちとけつゝ四方八方よもやまの物語りをなすうちやゝ酒の醉もまはりしかば後藤は近江あふみ盜賊どろぼうの一件もはたわすれて仕舞至極酒の相手には面白く思ひ終に是より道連みちづれとなし飮合たる勘定も拙者がはらいや私しが拂ひますと爭ふ位の中になり其後の勘定は面倒めんだうなしに一日代りとめければ半四郎は大いによろこ道々みち〳〵の咄し相手となし先今夜は藤澤へとまらんとて程なく宿屋へつきたりけり然るに彼道連みちづれに成し男はもと上總かづさ無宿むしゆくにて近頃東海道を往返わうへんし旅人の懷中ふところねら護摩ごまはひの頭なり因て半四郎が所持の金に目をかけ樣々さま〴〵にして終に道連となりしかば此夜このよ何卒なにとぞして半四郎の胴卷どうまきを奪はんと付狙つけねらへども後藤に油斷ゆだんなきゆゑ終に其閑そのひまなく翌日あすとなりしかば又同道して次の夜は箱根はこねこし三島宿の長崎屋嘉右衞門といふ旅籠屋へつきけるに宿の女ども立出たちいで是は〳〵御客樣只今おすましの御湯をあげます御草鞋おわらぢは其處へと彼是爲る中に彼男は姉樣ねへさん又御世話に成ますとも心安きていいふきゝあるじの嘉右衞門出來りて兩人ふたり挨拶あいさつなし如何さま折々をり〳〵見た事のある男なりと思ひしかば是々これ〳〵女中共御連樣おつれさまがある御草鞋おわらじを始末なし御荷物おにもつを持て御座敷へ御案内せよと指圖さしづつれて兩人を座敷へ通し御湯おゆわいをりますと云ゆゑすぐさま後藤は彼男ととも風呂ふろいりながら酒肴をあつらへおきやがて風呂も仕舞て出來りしに女子どもは酒肴を持出もちいでければ兩人は打寛うちくつろぎて酒宴しゆえんに時刻をうつしけり


第十二回


 偖又半四郎はときうつるに隨ひてゑひは十分にはつおのづから高聲かうせいになり彼町人體の男に向ひ貴樣の樣なる者は道連みちづれになると茶屋なとへ引づりこみ此樣に打解うちとけて酒を呑合のみあひ百年も交際つきあひし如くなして相手の油斷ゆだん見澄みすまし荷物又は懷中の金子等をうばとる護摩灰ごまのはひとかいふ盜人が道中筋には有と申すが貴樣も其樣なたぐひならんと正鵠ほしをさゝれて彼町人心の内に南無三寶彼奴きやつめ我等を護摩灰ごまのはひさとりしかと思ひ故意わざと言葉をやはらげ旦那はおつな事を御尋ね成る其の護摩灰と申は私しにて候御油斷ごゆだんなさるな何樣どのやう貴方あなたが御用心をなされても御所持の荷物なり金子なり共うばとらんと思へばすぐに取て御目に懸ますと然も戯談じようだんらしく己が商賣を明白あからさまに云てわらひながら平氣へいきに酒を呑で居るゆゑ後藤も心の中に此奴こやつ勿々なか〳〵の惡漢なりと思ひければ彌々いよ〳〵酒興しゆきようさまにもてなし懷中より百兩餘りも有ける胴卷を取出し是見られよ此通このとほり金子もあるが某兎角とかくして其の護摩灰とやら云ふ奴に出會て見度思ひしが貴樣輩きさまたちの樣なものに此金を取れまいと云つゝ故意わざと見せびらかししか盜人どろぼうひまはあれども守人まもりてひまはなしとか云なりと大口おほぐちあいて打笑ひ其胴卷そのどうまきを其所へ投出し置増々ます〳〵ゑひに乘ずる體なれば彼町人の曲者くせもの假令たとへ武者修行むしやしゆぎやうにもせよはづさず充分に酒を強付しひつけ醉潰ゑひつぶれたる時にうばはゞ造作ざうさもなしと心にたくみ頻りに後藤の機嫌きげんを取強付々々しひつけ〳〵酒をすゝむるにやゝ三四升ほども飮しかば半四郎は機嫌なゝめならずうたひを謠ひ手拍子てびやうしうつて騷ぎ立るにとなり座敷のとまり客は兎角に騷がしくしてねむる事もならず甚だ迷惑めいわくなし能加減いゝかげんしづまれよとふすま一重ひとへへだて聞えよがしに詢言つぶやきければ半四郎は聞つけて大いに立腹りつぷくの體にてもてなししづかにしろとは不屆千萬某がぜににて某酒を呑にいらざる口をきく奴等やつらなり無刀流の達人たつじん後藤半四郎秀國が相手なるぞいざ出來いできた片端かたはしよりひねり殺して呉れんと大音聲によばはるにぞつれの町人はおのれが仕事の邪魔じやまになりてはならずと思ひしかば若々もし〳〵旦那樣だんなさまだれも何とも申は致しません貴方に對して過言くわごん申者の有べきやと種々さま〴〵なだすかしサア〳〵をつもりに致しませう最早もはやおつつけ子刻こゝのつなりいざ御休み成れましと女子共に四邊あたり片付かたづけさせければ後藤は何の蛆蟲うじむし同前どうぜん奴輩やつばら某を知らざるやとのゝしりながら胴卷どうまきを取て故意わざと腹に周環ぐる〳〵まきたるまゝ臥床ふしどいりまくらに付やいなや前後も知らぬ高鼾たかいびきに町人も半四郎のそばやすみしかば家内の女子どもは酒肴の道具だうぐさげ行燈あんどうへ油を注足つぎたし御緩おゆるりと御休みなされましと捨言葉すてことばを跡に殘して出行いでゆきけり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に深々しん〳〵更渡ふけわたり聞ゆるものはいびきの聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の寢息ねいきを考へ居たりしが大概おほよそ丑刻やつ時分じぶんとも思ふ頃そつと起上り寢床ねどこにて甲懸かふがけ脚絆きやはん迄も穿はきいざと云へば逃出にげだすばかりの支度をなし夫より後藤がたるそばさしより宵の酒宴さかもりの時見て置きたる胴卷の金をぬすみ取んと彼曲者かのくせものは半四郎が寢たる夜着よぎわきより徐々そろ〳〵と腹のあたりへ手を差入さしいれければ後藤は目をさましはてきやつめが來りしぞと狸寢入たぬきねいりをしてひそかにそばの夜具を見ればつれの男見えぬ故扨こそ奴つに相違なし今に取押とりおさへれんと空鼾そらいびきをかきよく寢入ねいりし體に持成もてなせば曲者は仕濟したりと彼胴卷をほどきてそろり〳〵と引出すゆゑ半四郎は少しからだを上て引せけるに曲者はこゝぞと思ひ滑々ずる〳〵と引出す處を半四郎は寢返ねがへりをする體にて曲者のくび股間またぐらはさみ足をからみて締付しめつけけるに大力だいりき無雙ぶさうの後藤にしめ付られて曲者はものを云事もかなはずたゞしろくろくなし鼻にて息をするのみなり時に半四郎は大音だいおんあげ盜人どろばう這入はひりしぞや家内の者共起給おきたまへ〳〵とよばはるにぞ夫れと云つゝ亭主は勿論もちろん飯焚めしたき下男迄一同に騷ぎたち盜人は何處いづくへ這入しと六尺棒或ひは麺棒めんぼう又ははゝき摺子木すりこぎなど得物をひつさげ來り此處よ彼處と立騷ぐ此の騷動に宿合とまりあはせし旅人の座敷々々部屋々々迄一同に飛起とびおき刎起はねおき手に〳〵荷物を改ため廻り家内の騷動大方ならず半四郎は寢ながら大聲にていづれも客人方何ぞ取られし物はなきやと云に一同未々まだ〳〵改め中ゆゑしかと分らずなどと云所へ亭主男共は半四郎が座敷へ走來はせきた若々もし〳〵御客樣盜人が這入はひりしよしゆゑこゝ彼處かしこと改め見れども一かうに這入し樣子はなし其盜人は何所どこをり候やと云ければ半四郎は寢たるまゝにて微笑ほゝゑみながら此處だ〳〵拙者の股間またぐらに居と申ければ大勢一同に御客樣御虚談ごじようだんばかりと笑ひ出せしかばいや虚談じようだんではなし全く拙者が股間に引挾ひつぱさんで居る然れ共拙者がつれは見えぬ故先此奴こやつを改めくれよと云れて亭主若い者一同立懸たちかゝり半四郎の夜着よぎまくり見れば甲懸かふがけ脚絆きやはんまで穿はき旅支度たびじたくをなし居けるゆゑ能々よく〳〵是を見て大いに驚き此盜人は御客樣貴方の御連なりといふに半四郎も能々よく〳〵顏を見て成程某のつれなりきやつ護摩灰ごまのはひならんによりたゞし呉れんと思ひし處とう〳〵今宵引捕ひつとらへたり一たい此奴こやつ某が連にはあらねども一昨日をとゝひ戸塚とつかざかひの燒持坂より連に成りたいとてつけきたりし者なるが生國しやうこくは近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へまはり其後京大坂へ仕入しいれのぼるにより供をさせて呉れよと云ども某は承知せず近江あふみ泥坊どろばう伊勢いせ乞食こじきといふ事あれば江州の者に油斷ゆだんはならず連はきらひなりと申せしかどたつて供を致し度し申に付據處よんどころなく同道致せしわけ拙者も些少いさゝか油斷をせぬ故に果してばけかはあらはしいま捕押とりおさへたるはよき氣味なりと咄すを聞て家内の者共然樣さやうの御連にてありしか何にしても不屆なやつひきずり出してたゝきのめせと立騷たちさわぐを後藤はとゞ否々いや〳〵打擲ちやうちやくなしてもし打處が惡く殺しもなさば死人に口無却つて面倒めんだうなり先々拙者の連こそ幸ひ某しにまかすべし面白き計らひあり命をば助けてやるがよし誰樣どなたも客人方に盜まれし品はなきやといふにとなり座敷の客は寢惚眼ねぼけまなこにてキヨロ〳〵しながら拙者は大事の者が見えぬなり早々さう〳〵詮議せんぎなされて下されよと云ゆゑ大事な者とは何なりやとひけるに客人ちと申兼たるが御寶おたから紛失ふんじつ致し然も昨日きのふかひたてなりと云ば皆々成程犢鼻褌ふんどしでござるか夫はすまぬ事熟々よく〳〵御改おあらためなされよと申にいくらさがしても一向御座らぬと云時いふとき宿やどの亭主は若々もし〳〵貴公あなたすその下から何かひもが見えます夫ではなきやといはれて夫はと云ながら客人は内懷中うちぶところへ手を入もじ〳〵致せしがやが越中犢鼻褌ゑつちうふんどしを取出し見て是なり〳〵と申ければ一同どつとわらひつゝ今夜はとなり座敷にて大聲をあげ馬鹿な騷ぎをするゆゑ宵にはすこしもねふられず又夜中にも此騷ぎヤレ〳〵とんだ目にあひしと云ながら皆々客人は我が寢所ねどころへぞ入にける因て家内の者は大勢おほぜいにて盜人を庭へ引出しなぶりものにしてやらんと騷ぎ立を後藤は先々まづ〳〵またれよ某存じよりあれば決して手荒てあらき事はならずと申付未だ夜明までには間もあるべし今一寢入ねいりするにより太儀ながら貴樣達は此奴こやつの番を頼むなりとて半四郎は盜人を高手たかて小手こてしばりあげ傍らなるはしらくゝ着置つけおきヤレ〳〵大騷ぎをしたりと云ながら其身は臥寢ふしどいりたりけり


第十三回


 さて其夜も白々ほの〴〵と明渡りけるに大勢の客人共は皆々一同に起出おきいでうが手水てうづつかうゆゑ後藤半四郎も同じく起出おきいでうが手水てうづをなせしに客人たち昨晩さくばんとんだ事で貴方あなたさぞかし御ねむかりしならん道中にて知ぬつれ油斷ゆだんは成ませぬと云に半四郎いな皆樣もさぞかし迷惑偖々不屆のやつもある者でござるとはなしの折から下女はぜんを持來り後藤の方へは一人前をすゑるゆゑ後藤は是を見てモシ〳〵女中飯は二人前出して下され夫にさけを一升そへくれられよと云に下女は承知なして勝手かつてゆきしが程なく酒を持來りぜんを二人前半四郎の方へすゑければ後藤ははしらしばつけ置たる盜人のなはときコレ汝爰へ來てしやくをせよと茶碗ちやわんを出しければ彼曲者かのくせものはヘイ〳〵と云ながら怖々こは〳〵酒をつぐに後藤は大安坐おほあぐらをかいて酒を飮ながら何だびく〳〵するな何故なぜ其樣そんなふるへるぞコレ酒がこぼれるぞ落着おちついつぐがよい汝も酒がすきだ一ぱいあひをせよサア〳〵其茶碗ちやわんがいゝ夫で二三ばいのむべしと酒をついでやり後で飯もくふがよい今に拙者が手前を料理れうりしてやるぞコレ〳〵遠慮ゑんりよなく澤山食せよと云て笑ひ居るに彼曲者は如何なる目にあふ事かといきたる心地はさらなく何卒なにとぞ旦那樣いのちばかりは御助け下されとも合ぬばかりにわびければ半四郎彌々いよ〳〵可笑をかしくよし〳〵まづ食事をせよと云に曲者は半四郎の心中しんちうはかられざれば有難しと口には云て食事をすれどもかうのどへは通らずふるうちに半四郎も食事を仕舞しまひたゝきて女をよび昨夕ゆふべからの旅籠はたごさけさかな代共だいとも勘定をといふに女子は御酒代御旅籠おはたごとも二貫七百文なりと書付を出すを半四郎は受取て彼曲者かのくせものに向ひ貴樣は懷中ふところ財布さいふに金があるべしこゝへ二分出せ其替りは命は助けてやらうと云を聞き曲者はもうやゝ横着氣わうちやくきを出し金子などはすこしも御座なくと云ければナニなき事の有べきやもしつゝかくさば命を助けぬぞ汝が懷中に持て居るを某し見屆みとゞけたりサア出せ〳〵と詰寄つめよるに曲者は是非なく財布さいふより金子二分取出し然樣さやうならばと差出せしかばソレ見よ持てながら少しもなきなぞとまだ僞るは不屆至極ふとゞきしごくなりと云ながらにぎこぶしにて横樣よこさま擲倒はりたふさんとする故盜人は大いに恐れアヽ眞平まつぴら御免下ごめんくださるべしと平蜘ひらくもの如くになつて詫入わびいるにぞ半四郎は二分の金を受とり是で勘定をとつくれそれ二分渡すぞと云に女は受取ゆきすぐつりを持來りしかば半四郎イヤ釣はいらぬ夜中にさわがした茶代ちやだい取置とりおくべしといひすて夫より盜人に向ひ汝よく聞け此程より彼是と二兩ばかりは遣ひしならんが何商賣なにしやうばいにてもまう而已のみあるものでなし時々見込違みこみちがひにてそんもすることありれば今度から能々人の目利めきゝをして見損じのなき樣に商賣に身をいれよ馬鹿な奴だと笑ひけるに曲者くせものたゞ平謝ひらあやまりにあやまり居るゆゑ又半四郎はかれを見て汝は命をとるべき奴なれども今日の處は慈悲を以てたすけてつかはすにより有難く思へと云聞いひきかせ居たるに此家の者ども出來り先生さうは仰せらるれども後日のいましめなれば少し私どもにも御任せあれ斯して呉んと手に〳〵毛を一本づつ引拔ひきぬき半分禿頭頂はげあたまにしてぢく〳〵と血の出る處へ太筆ふとふですみくろ〴〵と含ませぐる〳〵と塗廻ぬりまはし夫より鹽水をそゝぎ懸て強くこすこみければ盜人はヒツ〳〵と聲をあげくるしむ事大方ならず後藤は夫で好々よし〳〵もうゆるしてやれと聲をかけサア汝かうしるしを付て遣はすにより以來心を改め眞實まことの人間になるべし萬一又々惡心あくしんきざしたなれば其時其小鬢こびん入墨いれずみ水鏡みづかゞみうつし今日の事を思ひ出して心を改ためよと云て此家の下男に追放おひはなすべしと渡すに下男どもは面白おもしろ半分手取足取引摺ひきずりゆき宿はづれにて突放つきはなしければ盜人はいのち辛々から〴〵這々はう〳〵ていにて逃去たりさて又半四郎は夫より宿屋を立出ながの旅中も滯溜とゞこほりなく讃州丸龜へ歸りてもとの如く無刀流劔道の指南しなんをぞ爲して居たりけり


第十四回


 さてまた江戸馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞夫婦は後藤半四郎を送り大師河原だいしがはら參詣さんけいして歸りしがかねて後藤より頼まれし越後浪人新藤市之丞の世話せわをして何になりとも有付ありつかせんと思へども新藤夫婦とも此程病氣つき永々なが〳〵わづらひしが六十日程立て漸々やう〳〵快氣こゝろよくなりしかば新藤に向ひ偖御前樣方は何迄いつまで只々たゞ〳〵安閑あんかんとしてはられまじ殊に此程の御病氣にてあづかりの金も多分御遣ひ成れしかばまづ何道どのみちなりと世帶しよたいもち何か家業を始め給ふが肝要かんえうなり江戸表に誰ぞ知己しるべか又御國者くにものはなきやと申に夫婦の者は是をきゝ段々厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一かう不案内ふあんないにて知人しるひととても更に是なしと云ければ長兵衞はくびかたむけ夫ではまづ私しが此事御世話を申なれば御武家の事ゆゑ浪人職らうにんしよくで劔術の道場を出すと云者か但し手習師匠てならひししやうでもなされては如何と云に市之丞は赤面せきめんの體にてまこと御恥おはづかしき事なるが劔術は甚だ未熟みじゆく竹刀しなへを持ばふるへいでやりも同樣手跡しゆせきに於ては惡筆の上なしゆゑとんと其方は不得手ふえてなりと申に長兵衞は若々其樣に御卑下ごひげなされては御相談が出來ぬと云をいやさ決して卑下致すわけに之なく實に長兵衞樣其方はとても及ばぬ事故どういつその事町人に成度なりたしと申ければ長兵衞は腑甲斐ふがひなき事に思へども夫なら先私しが申通りになされて御覽じませ夫には資本金もとできんの入ぬやうに紙屑買かみくづかひよろしからんといへいづれにもよきに頼むとの事に付終に紙屑買かみくづかひと相談をきはめて名も新藤市之丞にては不似合ふにあひなれば長兵衞は自身の名の頭字をやつて長八と改めさせおのれは親分になり同町の家主いへぬし治兵衞のたなかり引越ひきこさせ其外萬事長屋の振合迄ふりあひまで巨細こまかに教へつゝまづ世帶を持せ萬端長兵衞が世話にて紙屑買仲間かみくづかひなかまに入り又橘町の立場へも長八を同道してゆき敷金しききんいれ御膳籠ごせんかご鐵砲笊籠てつぱうざる量等はかりら借受かりうけいくら目あつて何程といふ事をもおぼえさせまた金者かなもの相針あひばりはいくらにあかゞねつぶしにして何程といふ相場をきゝ一々手覺ておぼえに書留かきとめさせて歸りしが夫より長八夫婦は店住たなすまひとなり翌日よりかごかつぎ紙屑かみくづを買に出けれ共元來越後浪人二百石取の新藤市之丞なればくづはござい〳〵とよぶ事能はず何所までも無言にて緩々ゆる〳〵かご背負せおひ歩行事あるくことゆゑくづは少しも買得ず只侍士を見ては我身の上を思ひだし花は櫻木さくらぎ人は武士とは實に道理ことわりなり武士程立派なる者はなし夫に引替ひきかへ心からとは云ながら二百石の侍士さむらひ紙屑買かみくづかひとなり果たること餘りと云ば情なし是と云ふ思案しあんの外より出來たる事主親をあとなしたるばちならんと獨り心にくよ〳〵思ひながらゆくに又向ふより侍士の來るを見てはなみだながし人にかほを見らるゝもはづかしく思ひて歩行あるくゆゑ肝心かんじん渡世とせいの紙屑を少しも買ず慢々ぶら〳〵と下谷邊までまはりし處長者町へ來りし時は終に日もくれしにより道にまよつて馬喰町へかへ方角はうがくを失ひ種々いろ〳〵聞ても一向に道は知ず途方とはうくれしゆゑ長八は番屋を頼み日雇ひようを二百文出して馬喰町まで案内あんないつれてぞ歸りけるまた親分長兵衞は長八が今日は商賣の出初なれども少しは屑を買得かひえたかと案事あんじらるれば樣子を聞んと長八のうちゆき最早もはや長八殿は歸られしやと云に女房にようばううめなになかもとをして居たりしが振返ふりかへりオヤ何誰どなたかと存じたら長兵衞さん先々まづ〳〵此方こちら御上おあがくだされよとて此程中のれいを厚く申のべ澁茶しぶちやながらくみて出しければ長兵衞はコレ〳〵御構おかまひなさるな時に今日は出初ではじめなるが長八樣はおかへりかと云に女房にようばう宿やどではかへりませんと云へば長兵衞夫は大そうおそい事だ如何して居らるゝやとうはさをりから長八はかへり來りしが親分おやぶん長兵衞の來て居るとはゆめにも知らずオイおうめいまかへりたりヤレ〳〵今日けふは初めてとは云ながらおそろしい目にあつた下谷の長者町とか云ふ所へゆきて道にまよひ終に二百文出て案内あんないを頼んで來た夫故それゆゑ此樣こんなおそくなり其上空腹ひだるくもありモウ〳〵わきの下から冷汗ひやあせが出るはやく飯をくはせくれよと云ながら内へ這入はひり長兵衞を見てるさうにコレハと云しのみにて辭宜じぎをなせば長兵衞は苦笑にがわらひをながら長八に向ひ紙屑買かみくづかひの道にまよひて二百文出し案内を頼みて來ると云者が江戸えどひろしと雖もあるべきや餘り馬鹿々々敷事しきことなり御前も無筆にては豈夫よもあるまじ町内々々には町名札があれば其の町名を見ながら歸りてもよしそれもあれ今日は初商ひゆゑ紙屑かみくづは何程かはれたるやと申に長八は暫時しばらく無言なりしがいやも面目なし實に初めてのせゐか少しもくづは買へず一日慢々ぶら〳〵歩行あるき草臥設くたびれまうけなりといひければ流石さすがの長兵衞もあきはて物をも云ず面を見詰みつめて居たりしが今日は仕方なし明日あすからはせいを出してかふやうに致されよ左右とかく其樣な事にては江戸えど住居すまひは出來難し先々御やすみなされと云捨いひすて我家わがやへこそはかへりけれ


第十五回


 さてまた紙屑や長八は親分長兵衞がかへりしあとにて食事をしたゝめ大いにつかれしとてなどに這入はひりやすみしが程なく夜もあけ翌日になりければ今日こそは紙屑を買習かひならはんと思ひてまづ淺草御門あさくさごもんいで藏前通くらまへどほりを行に往來もしげく何分の惡ければまづ觀音へ參詣さんけいなし矢大臣門やだいじんもんより淺草あさくさ田圃たんぼいでし所前後に人も見えざればくづはござい〳〵とちひさなこゑ呼習よびならひしがまだ人に見らるゝ樣なれども長八は思ひ切て田圃たんぼの中程へ行き全く人の居ざるを見濟みすま大音だいおんあげくづはございませんか屑はございませんか〳〵と無闇むやみ呼習よびならつて居たりし處に近所の子供等是を見付てヤア〳〵皆々みな〳〵はやきてなアレ紙くづ買がきつねばかされて田圃のなかで屑はござい〳〵と呼で一ツ所をゆきたりたりしてるがいし投付なげつけやらうと云に子供等は追々おひ〳〵馳集はせあつまり是は可笑をかしい〳〵と手に〳〵石を取て投付々々なげつけ〳〵アレ〳〵くづやがきつねばかされた間拔まぬけヤイ腐脱ふぬけヤイと惡口しながら猶も石を破落々々ばら〳〵と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも人氣にんきわるい所なりと思ひ早々そこ〳〵に田町のかた逃出にげいだし此日もくづをばずしてかへりけるが長八は親分おやぶんの長兵衞へゆき右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いにわらそれは人氣のわるいのではなし御前おまへ田圃中たんぼなか歩行あるきしゆゑ子供のことなれば狐にばかされたと思ひ石を投付なげつけしは先に少しも無理はなく至極しごくもつともなり又御前おまへも以前は二百石取の侍士なればいま如何いかにくづ買に成果なりはてたればとてかほはづかしく大道をよび歩行あるくことの出來ざるはあへて無理とも思はれずよつこれからは裏々うら〳〵まはまづ知己なじみこしらへるが肝心かんじんなりそれつき彼川柳點かのせんりうてんに「日々にち〳〵時計とけいになるや小商人こあきんど」といふのありと申に長八は一かうわからそれなんと云心に候やと云ば是は川柳點と云て物事のあなさがしとも申すべき句なり其心は何商賣なにしやうばいにても買つけの得意場とくいばこしらへるには毎日々々時をたがへず其所をまはれば今何やが來たからもう何時成んと家々にて其商人をあてにするやうになりすれば商ひもかならずふえるものゆゑ御前おまへも町内は申に及ばず裏々うら〳〵を順に廻り今日はよき天氣てんきとか又はわるい風とか御寒おさむいとか御暑おあついとか云てまだくづはたまりませんかと一けんづつ聞て歩行あるくが宜しからん其の中には心安くなり人にもかほを知られる樣になる斯の如くして馴染なじみが出來るとくづを買求かひもとめらるゝなりさうさへすると先々で何時いつものくづ屋さんがきたから最早申刻なゝつどきならん夕膳ゆふぜんの支度を仕やうと云ふ樣に成ば得意とくいも多くなるにより毎日々々時を違えずまはるが肝要かんえうなり今も云通り爰の處の川柳點にて「日々の時計とけいになるや小商人こあきんど」とぎんじられしと云ば長八は感心して成程よく會得わかりしとて長兵衞のはなしの通り翌日あすの朝も刻限こくげんきめて籠を背負せおひすぐ隣裏となりうらより呼初め一軒づつに今日は結構けつこうな御天氣にて御家内樣御揃ひ遊され御壯健さうけんだん珍重ちんちように存候偖私しは馬喰町二丁目家主治兵衞店紙屑買長八と申者なり以來いらい御見知おみしりおかれまして御心安く願ひあげますまだ紙屑かみくづたまりませんかとなが口上こうじやうにて叮嚀ていねいに云て歩行あるくゆゑ裏々うら〳〵の内儀達は大いに笑ひけれども長八は少しもおくせぬ者にて又其隣へ行とれいの如く永口上を叮嚀ていねいに云ひ歩行しなり是長八は以前越後高田の藩中二百石取の新藤市之丞なればかくの如き永口上もかれが爲には却つて云ひ安き言葉なりそれより淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々まはりしかば後々のち〳〵馴染なじみも多く出來できたれあつて少しも笑ふ者なく屑屋樣くづやさん今日は紙屑が澤山あるゆゑ持て行ておくれといふやうになり叮嚀ていねい屑屋と方々にて贔屓ひいきにされ終には仲間なかまにても名をよぶものなく叮嚀屋と云へば長八の事となり段々心安き得意もふえ相應に屑も買出かひいだせしかば早晩いつしかむかしの身の上も忘れて追々錢のまうかるに隨ひおのづから商賣にはげみが付て長八は毎日々々相變らず裏々うら〳〵の長屋々々を廻りけるに或時神田紺屋町の裏長屋をまはりしが職人體しよくにんていの者五六人にて酒をのみる處へ例の通りていねいに口上をくづやで御座り升と云に職人は酒機嫌さけきげんにて屑屋さん下帶なげしかはねへか紙屑のかはりに鐵釘くぢらかはねへと云ければ長八はハイとは云ど何の事やら一かうわからざれば私しはくづばかりでござりますと云に御前おめえまだとう四郎江戸なれねへと見えると笑ひしかば然樣さやうで御座ります此間國から出て參りましたと云ふに成程なるほどさうであらう今度又屑が有たらやるべし大きに御苦勞ごくらうと云れ長八は何卒なにとぞ御贔屓ごひいき御願おねがひ申ますと其所を立去り夫より所々を回りて我家へ歸るや否や親分おやぶんの方へゆき親分に御聞申ことがあると云ゆゑ長兵衞は何事ならんと心配しんぱいして其譯そのわけを聞くに今日商賣の出先でさき神田紺屋町のうらにて職人衆が酒を飮て居ながら斯樣々々申されしが私にはすこしわからず何の事なるやととふに長兵衞は少し笑ひを含みて夫は職人衆しよくにんしう符號ふちやうにて其なげしと云は下帶したおびの事なりくぢらとは鐵釘かなくぎの事股引もゝひきをばたこと云ふ是れ皆職人衆の平常つねに云ふ符號詞ふちやうことばなりと能々わけを云ひ聞せければ長八は大いに悦こび成程それにてわかりしなりと是より紙屑は勿論もちろんおび腹掛はらかけ古鐵ふるかねるゐ何にても買込かひこみ賣買を精出せいだしけるゆゑ長八は段々と繁昌はんじやうして大いに工面くめんを直し少しづつ小金も出來てまづ不自由なき身分になりしかば親分長兵衞も世話せわをしたる甲斐ありとて大に悦びなほなにくれと心添をぞなしたりける偖又長八世帶を持し其翌年女子一人出生しければ夫婦ふうふの喜び云ばかりなく其名をおかうつけ兩人の中のかすがひと此娘お幸が成人するを明暮あけくれたのしみくらしけるとぞ


第十六回


としみづながれとひとは」とはの大高源吾が門飾かどかざりの竹を賣歩行うりあるきとき晋子しんし其角きかくが贈りし述懷じゆつくわい名吟めいぎんなる事は世の人の知る所にしてに定めなきは人の身の上ぞかし偖も越後浪人新藤市之丞が心がらとは云ひながら今は紙屑かみくづ屋長八と名乘なのり裏店うらだな住居ずまひとなりしかど追々商賣に身を入るうち月日つきひ關守せきもりなくはや十八年の星霜せいさうを送りけるが娘お幸は今年ことし十七歳となり尋常なみ〳〵の者さへ山茶も出端でばなの年頃なるにまして生質うまれつき色白いろしろにして眼鼻めはなだちよく愛敬あいきやうある女子をなごなれば兩親りやうしんは手のうちたまの如くにいつくしみ手跡しゆせき縫針ぬひばりは勿論淨瑠璃三味線も心安き方へ頼みならはせ樂みくらして居ける處に一日あるひ長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと車坂くるまざかを通り懸りけるに山下の溷際どぶぎは深網笠ふかあみがさの浪人者ぼろ〳〵したる身形みなりにて上には丸に三ツ引の定紋ぢやうもんつきたる黒絽くろろほたるもるばかりの古き羽織を着しうたひをうたひながら御憐愍ごれんみんをと云て往來の者に手の内を乞居こひゐけるを長八は何心なくるに羽織の定紋と云ひなり恰好かつかう大恩受たる大橋文右衞門樣に髣髴よくにたるは扨も不思議なりと思ながら腰の早道はやみちより錢七八文出して手の内にやりければ浪人者是は〳〵有難う存じますと云し其物語そのものごしまで彌々いよ〳〵文右衞門にたるゆゑ長八は忽ち十八年の昔時むかしを思ひ出し萬一もしや其の人ならんかと能々よく〳〵かさの中を見んとするに浪人者は最早もはや日暮方ひぐれがたなれば徐々そろ〳〵仕舞しまひて歸る樣子ゆゑ長八はあとつきて行けるに下谷山崎町なる油屋といふ暖簾のれんかゝりうら這入はひりしかば長八も同じくつゞいて這入見るに九尺二間如何にも麁末そまつなる浪宅らうたくなるにぞ長八は内のていのぞきし處全く大橋文右衞門に相違なきゆゑ御免ごめんなされと云ひながら内に入しが互ひに顏を見合みあはせ驚愕びつくりなしヤア貴殿は新藤市之丞殿貴方は大橋文右衞門樣と云ふに女房にようばうも市之丞を見て是は〳〵市之丞樣どうしてマア我々が浪宅を御存じなるや先々まづ〳〵ちとこれへ御通り下されといふた所が御通りなさるゝ所もなき山崎町乞食長屋の汚穢むさくるしく御氣もじ樣やとひながらも簀子すのこの上にむしろをしき是へ御上りあれといふゆゑ長八は御構下おかまひくださるなと其所へあが四邊あたりを見るにかべの方は破れたる二まい屏風びやうぶを立回し此方にはくづれ懸りし一ツべつゝひすみ鑄懸いかけか眞黒にくすぶりたるなべ一ツをかけめししる兼帶けんたいの樣子なり其外行燈あんどん反古張ほごばりの文字も分らぬ迄に黒み赤貝あかゞひあぶらつぎ燈心とうしんは僅に一本を入れ又口の缺たる土瓶どびんは今戸燒の缺火鉢かけひばちの上へなゝめに乘て居る其體たらく目も當られぬ困窮こんきう零落れいらく向う三軒兩隣は丹波國の荒熊三井寺へ行かう〳〵といふ張子の釣鐘つりがね背負せおひて一文貰ひの辨慶或は一人角力すまふの關取からす聲色こわいろ何れも乞食渡世の仲間なかまにて是等の類皆々長屋づきあひなれども流石さすが大橋文右衞門は零落れいらくしても以前は越後家にて五百石取の物頭役なれば只今市之丞の長八に對面たいめんなすにきつと状を改め新藤氏にはよくこそ御尋おたづね下されたり誠に一別以來まづもつ御健勝ごけんしようの樣子大悦に存ずるとのべければ市之丞の長八も久々の對面ゆゑに夫々へ挨拶に及び扨大橋氏思ひ出せば早十八年の其昔そのむかし貴殿きでん御厚情ごこうじやうに依て我々夫婦が一命を助かりあまつさへ廿兩といふ金子を御惠下おめぐみくだされし御庇蔭おかげを以て今日まで存命仕つる事千萬有難く存じ奉つり候然るに彼のをり國元くにもと立退たちのき江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて惡漢わるものの爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に出逢いであひ候處丸龜の人後藤半四郎と云ふ人に救れ夫より身の落着方まで世話せわに相成當時は馬喰町にて紙屑買かみくづかひを渡世に致しどうか斯か寒暑さむさあつさのなき樣に暮してり殊に其後一人の娘をもうけ當年十七歳に成候是と申も皆貴殿の御厚恩ごこうおんなれば一度は御禮の書状も差上度さしあげたく心得候へども世間へ憚りあるゆゑそれかなはず只々明暮あけくれおもくらし居るにのみに御座候處先づは御揃おそろひ遊ばし御機嫌ごきげんよき御樣子大悦に存じ奉つるとは申ものゝ大橋氏には如何してこの御體ごていたらくに候や存ぜぬこととは申ながら是まで御尋ねも申上ざるだんさぞかし不實の奴とおぼめしも候はんがまづ仔細しさいを承はり度と申ければ文右衞門其仔細そのしさいと申は最早八ヶ年以前の事にて御家の騷動出來致し忠臣は退しりぞ佞奸邪智ねいかんじやちともが蔓延はびこるに付不肖ふせうながらも是をたゞ些少いさゝか忠義を盡さんと心懸しに却て小栗美作が爲にざんせられ終に永の暇を給はり其後未だ斯々かく〳〵して居るなりされども忠臣は二君に仕へずとの金言を守り一錢二錢の袖乞そでごひをしても他家へ仕官の所存更に是なく早晩いつしか天道某しが誠をてらし給ふ事あらば歸參仕つる時節もがなと夫のみ心かけ罷り在候なり斯樣に困窮こんきう零落れいらくの身の上御目に掛るも誠に面目なき次第に候と互ひにうき艱難かんなん物語ものがたりをなししばらく時をぞうつしける


第十七回


 却説さても紙屑屋長八は段々の仔細しさいを聞ていた歎息たんそくなしたりしが何れ又々近日御尋ね申さんと暇乞いとまごひして立歸り道々大橋の物語ものがたりを考へ嗚呼人間の盛衰せいすゐはかり難きものなりさしも越後家にて五百石取の物頭役をもつとめられし大橋文右衞門殿が今日けふは一文二文の袖乞そでごひを致しらるゝとは餘りなる零落おちぶれやうさても〳〵笑止せうし千萬なることなりどうかなして昔年の恩報じに當時の難儀を救ひ助けたきもの種々いろ〳〵に思案しながら我が家へ歸り來りしに女房おうめ立出たちいでてヤレ〳〵御歸りなされしか何時いつになくおそいにより大いに御案事あんじ申して居たなれど今度の狂言きやうげん刎幕はねまくがよいと云事故芝居のきりでものぞいて御出かと思ひましたと云に何サおうめ芝居しばゐどころ今日けふめづらしい御方に御目に掛り夫故それゆゑ大いにおそくなりしと申ければお梅夫は又何誰どなた御逢成おあひなされましたと問に長八は溜息ためいきつきマア聞てくれ今日は思ひのほか都合つがふよく午前ひるまへに商賣も捗取はかどつたから淺草の觀音樣へ參りそれより上野の大師さまへまはらうと車坂までゆきし所不思議にも國元の大橋文右衞門樣に御目にかゝ斯々かう〳〵いふ事よりあとつけつて見た處が山崎町の裏住居うらずまひそれは〳〵目も當られぬ始末御新造樣しんぞさまなども誠に見るかげもなきしがなひ體裁なりふり御目に懸るさへもいやもう誠に御氣の毒千萬ほんに〳〵御痛おいたはしき事也大恩受たる大橋文右衞門樣が彼樣あのやうに御難儀なさるを餘處目よそめには見て居られぬどうぞして那節あのせつくだされたる二十兩の金子を才覺さいかくしていまあげたなら何樣どのやうに御喜びならん何卒御恩報じに進度者あげたきものなれども親分の長兵衞さんにはこんなはなしも致されまじどうしたら金の才覺が出來るであらうと女房お梅に一始終しじうはなしければお梅は是をきゝ夫はマア御愛惜おいとしい事然樣さうおぼめすは成程御道理もつとも恩を受て恩を知ぬは人でなしとは云ものゝ力業ちからわざにもとゞかぬは金の才覺うか仕樣が有さうな者と夫婦はひざ突合つきあはせて種々いろ〳〵相談なせども何分思案に及ばぬゆゑいつそのこと天にも地にも掛代かけがへなき手の中の玉となしたる娘のお幸を不便なれ共遊女にうりて金の調達てうだつするより外の工夫くふうはなしと恩義にせまりし夫婦が相談茲に漸く調とゝのひしかば娘お幸を一まねき妻のお梅はなみだながら此度このたび斯樣々々かやう〳〵の譯にて是非ともなければならぬ金ゆゑ親のため長いあひだでも有まじければ何卒つとめの奉公をしてくれよと事を分て云ひ聞せければ元より利發のお幸と云ひ最早もはや年も十七歳花なら今四五分ひらそめしばかりの色娘いろむすめ殊には親孝心おやかうしんの者ゆゑ兩親の爲とならば此身は如何なる苦界くがいつとめなりともいとはじと早速承知なせしにぞさらば何分頼むぞさて彌々いよ〳〵娘の身をうることに決着はなしたれども長八は一向手懸てがけざる事故何所いづれへ頼んで娘をうるがよからんやと思ひしところ爰に淺草田町に利兵衞といふ紙屑問屋かみくづどんやありけるが此利兵衞は元長八の國者にて以前は出入の町人なりしかば至つて懇意こんいなる者ゆゑ長八は利兵衞の方へ行つて右の始末しまつを段々とはなして娘を賣て十八年以前なる傍輩はうばいの恩金を返さんと思ふよしくはしくはなしければ利兵衞も其の志ざしを深くかんさつそく承知なし即ち判人はんにんとなりて新藤の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎の方へ申こみ目見めみえを致させけるに容貌かほかたちも十人なみすぐれしかば大いに氣にいりだん〳〵懸合かけあひすゑねん一ぱい金五十兩と相談を取極とりきめて利兵衞は立戻たちもどり其段長八へ物語りしに夫婦は利兵衞のほねをりをねぎらひ厚く禮をぞのべたりけりさて翌日にもなりければ長八は娘お幸をともなひ判人利兵衞の方へ到り夫より同道して新吉原玉屋山三郎の方へゆき約定やくぢやうとほり金五十兩と引替ひきかへに娘おかうを渡し長八は立歸らんとするにかね覺悟かくごとは云ひながら今更いまさらわかれのかなしさはなにたとへんものもなく親子はむね張裂はりさくばかりくひしばりて居たりしがかくては果じと長八は心を鬼に取なほし奉公大事に身をつゝしめといひながら立上るにお幸も是を見送りて御兩親とも御無事にとたがひにあと言葉ことばなくわかるゝ親子が心のうち推量おしはかられてあはれなり因て世話人利兵衞も深切者しんせつものゆゑ世話料せわれう判代等はんだいとう一錢も取ず實意じつい周旋しうせんに及びけるとなり


第十八回


 かくて長八娘お幸を賣渡うりわたし吉原よりもどりて女房お梅に相談のうへ元金もときん二十兩に利をそへ直樣すぐさま下谷山崎町の大橋文右衞門の方へ持參ぢさんいたさんとは思へども利足を相當にそへては何を云ふにも十八年の間の事なれば此金をみなかへすとも利足ひきたらず殊に文右衞門は豫々かね〴〵手堅てがた氣象きしやうゆゑ利足と云ては請取うけとる間敷まじきにより全く禮の心で肴代さかなだいとでも名を付廿五兩も遣はさばしかるべしすれば殘りの廿五兩を以て資本もとでとなし是より表へいでて小切類にても賣夫婦してせいを出し金をたくはへたる上一年も早く娘の身受をなす工夫こそ專要せんえうなれ又親分の長兵衞殿へ此事は決してはなされず娘は屋敷へ當分奉公に出せしつもりにして置べしもし年季ねんきに入たなどと云事が知れてはそれこそあゝ云ふ氣象きしやうの親分ゆゑういふ事なら何故なぜおれに一應相談仕ないなどと必ずやかましいこと云に相違なし因てまづそれ何所どこまでも其積りと長八夫婦は種々いろ〳〵に心配なし是より直樣すぐさま廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へいたりけるに同じくあとより續て質屋しちやの小僧も此家に入來り私しはおもての油屋五兵衞方より參りましたが番頭の久兵衞が申きけますには衣類いるゐ大小だいせうしち一口ひとくち最早もはや月切つきぎれ相成あひなりながれに出しゆゑ先日一寸御斷り申上げましたが止ておけとの事ゆゑ今日けふ迄見合せ置たれども今になん御沙汰ごさたもなきにより最早流れ切に致しますそれともあげを成るなら止めおきますが餘り段々日延ひのべに成ばかりに付利上でもなければ然々さう〳〵止置とめおくわけには參りません今丁度流れ買が來てりますから賣拂うりはらはうと思ひますがどうなされますか一寸聞ていと申しました文右衞門樣どうなされますと小僧は足元から鳥のたつやう火急くわきふ催促さいそくに來りければ大橋は甚だ當惑たうわくていにて然樣さやうかなと暫時しばしかんがへしがいやかくあれは大切の大小なれば流しては成ぬ品なり是非共受出うけいだすにより今一兩日まつて下されといふに小僧はそれでも御前樣まへさま來る度に日延ひのべばかりの御口上今日も又一兩日と仰せでは使に來た私しがこまります其度にわからない使をするとてしかられ又御前の方ぢやいゝやうなことを云なさるし同じ事を度々の使はいやでござりますが今度こそ間違まちがはなければもう一度番頭さんに然樣さやう云てみませうと質屋の小僧は歸り行しかば是をそば聞居きゝゐたる紙屑屋長八は文右衞門が身の困窮こんきう察遣さつしやり成程一文二文の袖乞そでごひをする身の上なればありとあらゆる品物しなものは大小までもしちに入たるは道理もつともなり其日々々にさへ差支さしつかへる有樣ゆゑ如何に大切の品なり共いま勿々なか〳〵受出うけだす事も成まじ質屋しちやよりは流れの催促さいそくさぞかし難澁なんじふの事ならんと己れが身分にもくらべて考へしが長八はこゝぞと思ひて廿五兩の金子を出し扨大橋氏はなはだ失敬しつけいなる申し分には御座れ共此金子は十八ヶ年以前に御恩借ごおんしやくいたしたる金子延引えんいんながら返上仕つるにより何卒なにとぞ御受納下ごじゆなふくだされ候樣に願ひ奉つる誠にあのせつ貴殿の御厚情ゆゑに我々夫婦只今はどうか斯か致して居るも皆貴殿の御庇蔭おかげにて候然るに貴殿かく御零落ごれいらくなられたる有樣を見るに忍びずせめてもの事に斯樣なる時節にこそ御恩ごおんはうぜんと存じて持參致したれ因て此金子何卒なにとぞ御受取下さるべしと二十兩の金子をならべ外に金五兩は御利子と申には是なく御禮おんれいの心ばかり御菓子料おくわしれうにさし上度あげたくと出しければ文右衞門は是を見て忽まち氣色をかへ是は〳〵新藤氏思ひもよらぬことを仰せらるゝ者かな往古むかしは昔し今は今なり一旦貴殿にめぐみし金子を如何に某しかく零落れいらくして一錢二錢の袖乞そでごひをなせばとて今更受取り申べきいはれなし貴殿が昔の恩を思ひ出し給はば夫にてこゝろざしの程は知て居るなり夫に只今たゞいま質屋しちやよりながれ催促さいそくに來りしを聞れ斯樣の事をなさるゝ段一應御深切の御志ざしかたじけなく存ずるなれども貴殿も未だ有福いうふくの身になられしと云うでもなければ此金子に於ては決して受取申されず今でこそかく困難こんなんに及ぶものゝ以前は越後家において祿ろく五百石を領し物頭役ものがしらやく相勤あひつとめたる大橋文右衞門清長きよながいざ鎌倉かまくらと云ふ時のため武士の省愼たしなみ差替さしかへの大小具足ぐそくりやうぐらゐは所持致し居り候これ御覽ごらん候へと仕舞置しまひおきたる具足櫃ぐそくびつ并びに差替の大小をふる葛籠つゞらより取出して此通りと長八の前へ並べて見せければ長八はほとんど感心かんしんなし流石さすがは大橋氏御省愼おたしなみほど感心仕つり候然程さほど迄の御心がけあるとはゆめさら知ず失敬の儀を申上しは甚面目めんぼくなきことに御座候れども以前の御恩をはうぜんと我々夫婦相談のうへ調達てうだつ致して參りたる此金子ゆゑ何卒なにとぞ御請取下おんうけとりくだされ候樣是非々々願ひ奉つるモシ御新造樣ごしんぞさま然樣さやうなされて下さらば有難く存じますと云ふに妻は何とかひたきていなるを文右衞門は白眼にらみつけコリヤ新藤氏一たん貴殿きでんめぐみし此金子假令たとへ何樣に申され候とも今さら手前に於ては受取うけとる所存しよぞん決して之なし早々御持歸おもちかへり下されよ某し當時困窮こんきうに及ぶも是天命なれば何をかうれへんまたたれをかうらむる所もなし拙者せつしやは少々したゝめ物あれば御免ごめんあれ貴殿は緩々ゆる〳〵御咄おはなし成るべしと云ひつゝ其身はつくゑかゝりけり


第十九回


 さてまた文右衞門の女房は勝手かつてにて番茶ばんちやを入れ朶菓子だぐわしなどを取揃とりそろへて持出もちいでたるに長八は大橋が義氣ぎきの強きを彌々感じ心中に成程なるほどかくまで零落れいらくなしても武士の道を立通たてとほ指替さしかへの大小并びに具足迄省愼置たしなみおかるゝ程の氣質きしつにては勿々なか〳〵此金子を受取ざるも道理もつともなりしかしながら某しも一人のむすめうつて昔しの恩を返さんと致したるもみづあわとなり斯々かう〳〵いふわけなりと打明うちあけはなしも出來ずて見れば深切しんせつ甲斐がひもなしされまたかくいひ出しては今更持て返るは如何にも本意ほんいなくおいゆかんとすれば受取ずはてどうしてよからんやと茶をのみながら思案の折柄又々おもて質屋しちやよりさきの小僧が入來りてもし文右衞門樣先刻仰せられしことを番頭ばんとう久兵衞に申聞し處久兵衞の申には最早もはや月切つきぎれにはなる利上りあげもなき事なれば何時いつまでも御あづかり申事は出來兼できかねさいはいまながかひの道具屋が來合きあはせたれば賣拂うりはらひますにより然樣さやう御承知下さるゝ樣に申上ろとの事につき一寸ちよつと御斷り申ますと云置て小僧こぞうすぐに立歸らんとするゆゑ文右衞門は小僧を呼止よびとめイヤさういふことなら某し直樣すぐさまあとより參り番頭に面會の上相談もせんにより少々のうちまつくれられよと云ながら文右衞門は長八に向ひ某しほどなくかへり申さんあひだ暫時しばしうち御咄おはななされよと云捨て文右衞門は表の質屋しちやへと出でゆきけり跡に猶屑屋長八は種々いろ〳〵と考へしが所詮しよせん此金子を以て歸らんことは思ひもよら如何いかゞはせんと座中を見廻すに是幸ひかたはらに文右衞門の煙草盆たばこぼんありしかば其の中へ右の金子二十五兩を入置いれおき素知そしらかほして女房に暇乞いとまごひなし歸らんとするに女房は押止おしとゞめ市之丞樣最早もはやをつと文右衞門も程なく歸宅きたく致事なれば先々御待下されよと申けれども長八は以前世話せわあづかりし者の方に疱瘡人はうさうにん是あるゆゑ夫へ是非々々尋ねゆかざればならず何卒なにとぞ文右衞門樣御歸りあらば宜敷よろしくおほせ上られ下されよ又々近日御尋おたづね申上んと言置いひおき長八はそこ〳〵に暇乞いとまごひして我家に立歸りしに女房お梅は出迎いでむかへ御持參の金子きんすとゞこほりなく文右衞門殿どの請取うけとられしや如何いかにと云ふに長八かうべ否々いや〳〵物堅ものがたい文右衞門殿どうあつても金子をば受取らぬと言張いひはらまことに仕樣もなきをりから幸ひ斯々かう〳〵云事にてそといでられし留守中るすちうそつ煙草盆たばこぼんの中へ入れ置て歸りたり然れば日々にこまる文右衞門殿ゆゑ質屋しちやからは催促さいそく彼是かれこれにて右の金子を遣はるゝに相違なしすれば某しが志操こゝろざしとゞむすめ無陀奉公むだぼうこうにならぬと云ふ者なりはなしければ女房お梅も打喜び夫はよくこそ取計とりはからはれたりすれば如何に物堅ものがたき人にても手元にあるを遣はずには置れまじ先々夫にて少しはむねはれたりと長八夫婦は悦びつゝはなし時刻じこくうつしけり


第二十回


 さてまた大橋文右衞門はおもて質屋しちやゆき番頭ばんとう久兵衞にあひ種々いろ〳〵相談の上漸く一兩日止置事とめおくこと取極とりきめて歸り來りしに新藤市之丞の見えざれば女房おまさに向ひ市之丞は如何いかゞいたせしやと云ひければお政然れば新藤氏は良人あなたの御歸りまでと御止め申たなれども以前世話になられしうち疱瘡人はうさうにんが是ある由にて是非見舞みまひゆかねば成ぬによりいづれ又々近日御尋ね申さん宜敷よろしくあげくれよと云はれて御歸り成れしと云ふに文右衞門さうでありしか市之丞とをとこ義心ぎしんさかんにして誠に奇特きどくなる者なり昔し助けし恩を忘れず今我等かく困窮こんきう零落れいらくせしをさつし廿五兩の金子を工面くめんして持來りしは天晴頼母敷たのもしきこゝろざしとは云へ共さきに某し一たんめぐみし金子を今さら請取うけとつては我等が一分立ず是に依てかたことわりを申せしゆゑ早々さう〳〵かへりしと見えたりさぞかし本意ほいなく思ひしなるべしと云ひながら文右衞門煙草たばこのまんと煙草盆たばこぼん引寄ひきよせれば如何いかに市之丞が持來りし廿五兩の金子きんすつゝみまゝ火入ひいれわきに有ければ文右衞門は女房お政をび此金子は何如いかゞいたしたるやあれほどことわりたるを知りながら市之丞より受取うけとりおきしか大方をんなのいらざる猿智慧さるぢゑにて我が留守るすを幸ひにかく御預おんあづかり申さんなどと云て受取たるに相違あるまじエヽおのれは腑甲斐ふがひなき女かな武士の女房には似合にあは心底しんていかく零落れいらくしても大橋文右衞門なるぞ心まで困窮こんきうはせぬおのれまでさもしき根生こんじやうになりたるやと女房お政をしかりつけしにお政は驚きこれは〳〵餘りに御推量ごすゐりやうすぎたり良人あなた御氣象ごきしようを存じながらどうしに請取おき申すべき疑ひ給ふもしなにこそよれ實に私しは存ぜぬことなりさつするところ市之丞殿も折角せつかく持參ぢさんいたされたる金子ゆゑ良人あなたが御受取なきを本意ほいなく思ひ私しにも知らさぬやうに煙草盆たばこぼんの中に入置いれおきて歸られたるに相違あるまじとて言葉によどみなければ文右衞門も何樣なにさまと思ひしからば市之丞が此の中へ入て置たるに相違なからんなににしても此金子を受取ては某しが一ぶんたゝまた和女そなたは市之丞が住所ぢうしよを知てゐるかととひけるにお政は然樣さやうさ只馬喰町とのみ承まはりましたと申ければ文右衞門は宜々よし〳〵いづれにも此金子は返さねばならぬ馬喰町へゆき紙屑買かみくづかひの市之丞と聞ば知れぬ事はあるまじあけなば直樣すぐさま一走ひとはしりと文右衞門はあけるをまち起出おきいでて早々に支度をなし二十五兩の金子を財布さいふに入て市之丞が家を尋ねつゝ馬喰町へと急ぎき此邊に新藤市之丞と云ふ紙屑買かみくづかひはなきやと一丁目より二丁目三丁目四丁目まで悉皆こと〴〵く尋ねけれ共少しも知れずは知れぬはずの事なり以前は新藤市之丞にもせよ今は浪人らうにんして屑屋長八と改名かいめいしたる者なれば裏々うら〳〵は申に及ばず自身番じしんばんかゝりて尋ねけれ共一向知らざるよしを申自身番にて新藤市之丞などといふ六ヶむづかしきの人は紙屑買かみくづかひにはあるべからず大方おほかた浪人者らうにんもの間違まちがひなるべしと云ゆゑ文右衞門は當惑たうわくなせしかど是非共ぜひとも尋ねて金子を返さんと思ひければ猶裏々うら〳〵へも這入込はひりこみ此御近所に紙屑買かみくづかひを渡世にする新藤市之丞と申者のたくは御存じなきやととふに此町内には御用の屑買は御座らぬなどと云て大いにわらはれければ大橋もいま是非無ぜひなく尋厭倦たづねあぐみて下谷山崎町の我家へ歸りさても〳〵こまりし事也馬喰町へ行て表店おもてだないふに及ばず裏々まで四丁のあひだこまやかに尋ねさがしたれ共新藤と云ふ紙屑買かみくづかひ一向に知れずなにしても大切の預りもの萬一此金子に於て間違ひにても有なば猶々市之丞へたいして言譯いひわけなしいづれにも此上尋ねさがして返へさねばならずれどそれ迄も斯して置は心遣ひ殊にとなり近所は皆々不肖ふせうの渡世をする族而已やからのみ丹波の荒熊三井寺へゆかう〳〵と云張子の釣鐘つりがね或は鉢叩はちたゝき願人坊主などと云者許りなれば勿々なか〳〵油斷は少しも成ずもし此金子の有事を知りて付込れなば如何なる變事へんじの出來んも知れずいづれにも又々明日馬喰町へ行きて尋ね當り次第市之丞へ渡す迄ははなはだ以て心遣ひなりと云に女房も御道理ごもつともなり今日は終日ひねもす尋ねあぐまれさぞかし御勞おつかれならんにより貴郎あなたよひうち御臥おやすみありて夜陰よはよりは御心だけもねむり給はぬ樣いたし度と申に否々いな〳〵今宵こよひとてもやすむに及ばず兩人してばんをせんと云故然らば兩人の間におきたがひに心付あはんと夫婦して二十五兩の金子を中へおきかぜおとにも飛起るやうにして夜もすがらもやらず守り居けるが深々しん〳〵更行ふけゆくに從ひ文右衞門は過去來すぎこしかた我身の上を思ひ出しさても〳〵如何成事にて斯迄武運ぶうん盡果つきはてたるこの身かな以前は越後家にて五百石の祿ろく頂戴ちやうだいし物頭役をもつとめ大橋文右衞門とも云はれたる武士さふらひが人の金ゆゑ寢ず番を勤める事餘りと云へば口惜くちをしき次第ぞや是といふも小栗美作をぐりみまさか讒言ざんげんゆゑなり今更くやむ共詮方せんかたなけれど天道誠をてらし給はゞいつの世にか歸參する事もあらんとはいふものゝいま一錢二錢の袖乞そでごひをして其日々々をくらかねるも二君に仕へぬ我魂魄わがたましひ武士の本意と思へどもにあぢきなき浮世うきよかなと一人涙を流したるとはがたりの心の中思ひやられてあはれなり


第二十一回


 しかるに女房お政はをつと文右衞門がとはず語りをそばにて熟々つく〴〵聞居たりしがこらへ〳〵し溜涙ためなみだ夜半の時雨しぐれと諸共にワツとばかりに泣出せしかば文右衞門は是を見返みかへりコリヤお政何が其樣にかなしくてなきをるやと云ひければ女房お政は漸々やう〳〵に顏をあげ何ゆゑに泣とは餘りに心なき仰かな只今たゞいま良人あなたがお一人言ひとりごときくに付ても今の身のうへなさけない共しかないとも思へば〳〵口惜くちをしさぞ御無念に思召さん如何に物堅き御氣象ごきしやうとて日々の困窮こんきうの其中に二十五兩と云ふ此金の眼前がんぜんりながら御歸しなさるとの御志ざしは武士道の義理一おう御道理ごもつともなれ共市之丞殿が昔の恩義おんぎむくはんと故意々々わざ〳〵つかはされたる此金なれば假令よしや其儘そのまゝ御受取なされたとて何の不義理があるべきぞ殊に今日も今日とて表の質屋しちやよりは度々の催促さいそくもしや流れに出る時はわづか十二三兩の金子にて大切の大小だいせううしなはるゝも口惜くちをしく夫も金子なければ仕方もなし眼前がんぜん此所にあるかねを武士の意氣地いきぢひながら遣ふ事さへならぬとははてどうしたらよからんやと女房お政はくよ〳〵と女心の一すぢに昔しを忍び今の身の敢果はかなきさまかこちつゝ如何いかなる因果と泣沈なきしづむにぞ文右衞門はかたちたゞしコレお政其方は何とて其樣に未練みれんなることを申ぞ浪人しても此清長このきよながが妻ならずや夫に何とて以ての外聞苦きゝぐるしき世迷言よまひごと急度きつと省愼居たしなみをり申すべし是此金子は受納うけをさめたりとて何も仔細しさいなき事は汝が申さずとも承知なれ共ある時は先にも申如く一旦他人ひとめぐみたる金子を如何に零落れいらくなせばとて取戻せしと云れんことも無念むねんなり又是迄年來磨上みがきあげたる武士の魂魄たましひ何ぞ再びへんずる事あらんやかつしても盜泉たうせんの水をのまず熱しても惡木あくぼくかげやどらず君子は清貧せいひんを尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の袖乞そでごひしても心きよきがいさぎよし人間萬事塞翁が馬ぢやまたよきはるに花をながめる時節もあらん斷念あきらめよと夫婦互に力をあひうき物語ものがたりに時移りしにやがねぐらを放るゝ鳥の聲に夜は白々しら〴〵と明渡りければ女房お政は徐々そろ〳〵と勝手に立出たちいで麤朶そだをりくべてめしの支度にかゝり文右衞門はうがひなどして其所そこらを片付かたづけさてめしも仕舞ければ是より文右衞門は又々馬喰町へゆき市之丞を尋ねさがさんとする處へ表の質屋よりれいの小僧が來り一昨日御出おんいで遊ばし御對談ごたいだんの上今一兩日まちくれよとの御頼み承知したれども其後今日けふ迄も一向に御沙汰是なく候間今日中猶豫いたし明日は是非々々相流あひながし候により然樣さやう御承知下されよと門口より言放いひはなし小僧は急ぎて歸りけり


第二十二回


 偖質屋よりは今日中猶豫いうよ致し明日は是非とも質物しちもつ相流し候旨ことわりに來りければ文右衞門は途方とはうにくれ如何はせんと女房お政に相談さうだんなしけるにお政も太息といきつきの一口は大小ばかり賣拂ひても金五十兩程になるべし其外そのほか小袖こそで合羽かつぱの類まで彼是六十兩餘の金目かねめの品々を僅かに十二三兩位に預けしぎり流しては餘り口惜くちをしき事に候はずや因て考ふるに一まづ此金子にて請出うけいだし其上外方へ賣拂ひ候はゞ相應さうおうの代金手に入べし其時市之丞殿持參致されたる金子だけ返濟へんさい致す共おそからぬ事ゆゑ其中の融通ゆうづうつかはれたならば市之丞が折角のこゝろざしも通りまた貴郎あなたの御義心もつらぬくと申もの双方さうはうの御趣意も立て宜く候まゝ是非々々然樣さやうなされよと申ければ文右衞門は暫時しばらく考へしが成程是は其方そなたの申通り一時の融通ゆうづうに此金を借用したりとてかへしさへなせば我が一分も立又市之丞の志ざしもとほりて遣はすと云ものじつの大小を此儘このまゝ流して仕舞は餘り殘念ざんねんなりさらば先此金子にて請出し我が年來の懇意こんいなる稻葉丹後守樣の藩中へ持參してよき直段ねだんに賣拂はんと文右衞門は漸々やう〳〵承知なし市之丞が遺したる金子廿五兩の内を以て表の油屋あぶらや五兵衞の方へゆき番頭久兵衞にあひて流れの一件段々と延引えんいんに相成甚だ氣の毒千萬なり夫に付今日は右の品物を賣拂うりはらはんとのお使御道理ごもつともにて候然るに幸ひ昨晩さくばんほかより融通ゆうづう致したる金子是あるにより右の品々受出うけいだし候間御面倒ごめんだうながら御取出し元利共ぐわんりとも何程なにほどに相成候や勘定して下されと云ひければ番頭久兵衞は大いに驚き心のうちに思ふ樣此品々を今更受出されては心當こゝろあてちがうたり是と云も此質物はほか代呂物しろものと違ひ五ヶ月限りの約束やくそくにて凡六十兩程はかたく直段のある品を僅か金十二兩かしてあるゆゑ流れになりてうり拂へば金四十五兩はまうかるなり其四十五兩の金子は皆己が懷中ふところいれ帳面面ちやうめんづらは筆の先にてよきやうにごまかし置んとの胸算用むなさんよう夫と云も平生文右衞門は一文二文の袖乞そでごひをして居けるゆゑ大丈夫請出す氣遣きづかひなしとふみたればこそ嚴重きびしく催促さいそくをしたりしに今請出されては甚だ心當こゝろあて相違さうゐしたりと番頭久兵衞は小首をかたぶけしが又心中に考ふるやう此品物をのこらず受出すと云ば仕方なけれども勿々なか〳〵今十兩からの金子の出來るはずはなし大方おほかた大小だいせうばかうけると云ならん其處で拔差ぬきさしは出來ずとことわり流させ呉んと思ひければ久兵衞は文右衞門にむかひ質物を受出さんとの御事おんこと承知仕つり候へ共一品にても拔差ぬきさしは手前にて迷惑めいわくに候間殘らず御受なさるゝなら格別かくべつ其方そなたの勝手に大小ばかり請樣うけやうなどと仰られても其儀は出來申さずと云ければ文右衞門きゝて夫は御道理ごもつともの事なり今殘らず請出すあひだ元利ぐわんり何程なにほどか勘定して下されといふゆゑ番頭久兵衞は飽迄あくまで見込みこみちがひになりしかば心の中にては甚だ忌々いま〳〵しく思へ共詮方せんかたなく勘定致し見るに元利十三兩二分外に時貸ときがしが六百文右の通りと文右衞門が前に差出さしいだしければ文右衞門は是を見て是は〳〵御世話おせわひながら財布さいふうちよりぞろ〳〵と一分金にて十三兩二分取出しのこらず勘定して質物を受取うけとり我が家をさしてぞ歸りける


第二十三回


 偖文右衞門は我がに歸りて衣類大小を能々よく〳〵改め見るに品數しなかず相違さうゐなく幸ひ今日は雨天うてんにてもらひにも出られず直樣すぐさまこれより稻葉侯の御家中へ大小をうりに參らんといましちより受出して來たる衣服いふくならび省愼たしなみの大小をたいし立派なる出立いでたちに支度なして居たる處へ同じ長家に居る彼張子かのはりこ釣鐘つりがね背負せおひ歩行あるく辨慶がのそ〳〵と出きたりモシ〳〵文さん今日は雨降あめふりで御互に骨休ほねやすみ久しぶりなれば一くちのむべし夫に今さんまの生々なま〳〵としたるをかひあつたから是で一ぱいやりやせうまづ何は兎もあれ私しのたく御出おいでなせへと門口かどぐちからこゑかけければ文右衞門は是を聞て夫は忝けないが生憎あひにく今日は少々差掛さしかゝりたる用事のあるゆゑ何れ又此後のことに致すべしと申しけるに辨慶は打笑うちわらひコウ〳〵文さん其樣にかせぐには及ぶまじ今よりもらひに出るにはおそし是非々々來なせへとせはしなく云ひければ文右衞門いやわたしは今から稻葉丹後守樣の御屋敷まで參らねばならぬ用事があると云に辨慶はなほ門口かどぐち這入はひりながらオイ〳〵貴樣はいさましき根性こんじやうだな日々一文づつ貰ひ居ながら稻葉丹後守樣の御屋敷へまかいづるなどとあま口巾くちはゞツたきことを云ものかなと大いにわらひつゝ文右衞門の容體なりを見るに上には黒羽二重くろはぶたへ紋付もんつきしたには縞縮緬しまちりめんの小袖博多のおび唐棧たうざんはかま黒羅紗の長合羽を着し大小を凜々りゝしくたいして如何にも立派なる武士さぶらひ出立いでたちたりしかば是はと驚きさう云事いふことなら是非に及ばずと云直いひなほし早々此家を立出しが偖々さて〳〵不思議ふしぎなる事もあるものかな此山崎町へ來りて我等われらが仲間にいり袖乞そでごひに出る者が今日は斯の如く立派なる身形みなりにて然も稻葉樣へゆくと云は何分なにぶん合點がてんゆかず文右衞門はもと越後家の浪人と聞及きゝおよびしが苦しまぎれに切取り強盜がうたうをせしに相違なしと思ひければ夫より三井寺の辨慶は長屋中を觸歩行ふれあるきしに仲間なる丹波の荒熊あらくま又は皿廻さらまはからす聲色こわいろつかひなど皆々此浪宅へ來り樣子をのぞき見てなるほど〳〵辨慶の云通り文めが今日の身形みなりは何でも只事ではなしとうはさ區々まち〳〵なるに辨慶は少し鬱氣ふさぎし樣子にておら日來ひごろ仲間の事ゆゑ文右衞門とは心安くして度々たび〳〵酒も飮合のみあひしがんな身形みなりをして出るに直に探索方たんさくがたの御手にあふは必定なり萬一もししばられもする時は己もすぐ引合ひきあひを食ふも知ずこまりしことと咄しければ荒熊あらくまは聞て然共々々さうとも〳〵文右衞門めが召捕めしとられなば手前は第一番の引合にて同類どうるゐ同樣どうやうなりと云ければ辨慶は勃然むつとして其樣そんなに馬鹿にするなおらおいちやア憚りながら少しもうしくらい事など仕た事アネヘと彼是咄しあひ乞食こつじき仲間は些少ちとねたましき心より種々に氣をもみ居たりけり偖又彼油屋の番頭久兵衞は文右衞門が質物しちもつ受出うけいだして歸りしあと茫然ばうぜんと手をこまねぎて居たりしが彼浪人め一文貰もんもらひの身分にてわづか二三日の中に十三兩と云金子の出來樣はずなし融通ゆうづうせし金なりと云ともなんぞ袖乞に十兩からの金子をかすひとの有べきやはて不思議なる事もあるものだどうした譯の金なるやとやゝしばらく考へしがて見れば一文貰ひの苦紛くるしまぎれにきやつ切取きりとり強盜がうたうをなすか又は家尻やじりにても切しならんかれは元浪人者だと云から表向おもてむきは一文貰ひ内職ないしよくには押込おしこみ夜盜よたうをするに相違なし兎角とかく然樣さうなければ金の出來るはずはなし假令よしや然樣なくとも我が胸算むなさんの相違なればきやつを盜賊におとし未だ遣ひ殘りの金もあらばせしめてくれんと忽ちに惡意あくいおこし丁度此日質の流れを賣たる百兩と云金が見世にあるゆゑ是を取隱とりかくおき早々文右衞門の方へ行て金の出所でどころ聞糺きゝたゞもし出所しゆつしよ明らかなれば夫までの事萬一胡亂うろんの申口ならば見世にありし百兩の金を文右衞門がぬすとりしと云懸いひかゝりて同人が所持の金子を體能ていよくゆすり取んと工夫くふうにこそは及びけれ此油屋五兵衞方の番頭久兵衞と云ふは元上總無宿の破落者ならずものなりしが其後東海道筋にて護摩灰ごまのはひを働らき前書にあらはし置たる通り後藤半四郎の道連みちづれとなり三島宿の長崎屋と云ふ旅籠屋はたごやに於て半四郎が胴卷どうまきの金子を盜取ぬすみとらんとして引捕へられ片々の小鬢こびんの毛を拔取ぬきとられ眞黒に入墨いれずみをされていのち辛々から〴〵にげやつなり然れども少しは是にこりしと見え其後は惡き事もなさず中年にて奉公に住込すみこみ隨分身をつゝしみ居ければ主人五兵衞は此久兵衞が年頃といひ萬端ばんたん如才じよさいのなき者ゆゑ大いに心にかな好者よきもの置當おきあてしとて終に番頭となし見世の事は久兵衞一人にまかせしなり尤も五兵衞のせがれに五郎藏と云ふ者有けれ共是は人並ひとなみはづれし愚鈍おろかにして見世の事等一向にわからざれば此番頭久兵衞などには宜樣いゝやうに扱はれ主人か奉公人かの差別もなき位の事なりまた親父おやぢの五兵衞と云者は是迄商賣向には勿々なか〳〵如才じよさいなけれ共さけすき女も好にていゝ年をしながら此處彼處ここかしこかこひ者をなし其上屡々しば〳〵女郎買にもゆきうちの下女には手を付て懷妊くわいにんさせて金を取られいやはや女を好むことはにはとりにもたりと云程のことなれば近來ちかごろ家内かない不取締ふとりしまりは勿論なり故に何事によらず番頭久兵衞が一人にて宜樣よきやう掻廻かきまはして居ければ終に又昔しの惡心あくしん再發さいはつなし此度文右衞門がしちの一件とても己が氣儘きまゝに取計らはんとし又主人の金子百兩をぬすみ取て文右衞門へ塗付ぬりつけんとたくみ家内は誠に亂脈らんみやくにて主人はあれ共なきが如く此久兵衞一旦は改心かいしんかたちに見ゆれども茲に至つて又々本性ほんしやうあらはし大橋文右衞門に百兩の云懸いひかゝりをするといふ大惡不道だいあくぶだうの曲者なりされば根が惡心のある者は如何にしても善心には成難なりがたきものと見え往々わう〳〵召捕めしとらるゝ盜人ぬすびとども入牢じゆらうの上御裁許にあひ追放つゐはう又は入墨或は遠島と夫々に御咎おとがめを仰付らるゝにより迅速すみやか正路しやうろの人になるべきはずなれども又人間に出る時は以前いぜんに一そう惡事の効をつみつひには其身をうしなひ惡名を萬世に流すをれば惡は惡にほろぶる事誠に是非もなき次第しだいなりまた主人あるじ五兵衞は其人を知らずたゞ己のよくほしいまゝになせしゆゑ遂には家の滅亡めつばうを招くといふこれまた淺猿あさましき事にこそ


第二十四回


 偖又大橋文右衞門は支度したく調とゝのひしかば稻葉家の藩中へと出行しあとへ彼の油屋五兵衞の番頭久兵衞は入來り文右衞門さんは御家おうちにかと云ながらつぐと上りこむゆゑ女房お政は是を見てヤア油屋の番頭さん折惡をりあし宿やどでは留守なれどもまづ一ぷくあがりませまた今朝程けさほどは何かと御世話になりことに約束の月もきれて度々御催促ごさいそくをもうけ誠にお氣の毒と云を久兵衞ナニ夫は商賣の事ゆゑいとひませんがもし内儀おかみさん承まはるも餘り率爾ぶしつけながらよくきふに金子が出來ました尤も外より御融通ごゆうづうなされたとか仰せなれども金子かねと云ふものは勿々なか〳〵容易よういには調とゝのひ難きもの最早もはやすみし事ながらすでに流れ買に賣拂はんとする處なりしが彼金あのかね何處どこから御融通なされしにやちと申しにくき事なるが御立腹ごりつぷくなさるな内儀樣おかみさん一文もらひ袖乞そでごひをする身分にて昨日きのふまでも出來ざりし金が一夜のうちに十三兩餘りといふ大金の調ひしとは誠に不測ふしぎなり是によつて失禮ながら御問ひ申す事なりと云ければ女房お政はきいて夫は久兵衞さんおつな事を御尋ねなさる成程なるほど今此樣に零落れいらくして一文貰をする身なれば不審ふしんに思ひなさるも御道理ごもつともなれど此金子の出來しと云譯を委細くはしく御物語り申せばながき事なるが一寸摘んでおはなし致さん此金子と云は最早十八年以前の事にてもとわたくしの國許くにもと越後の高田に居たる頃同じ家中新藤市之丞と云者ありしが同役の娘と密通みつつうに及びし事薄々うす〳〵役人どものみゝに入御家の御法ごはふやぶりし者なれば捨置すておかれずとて既に兩人共一命にも關はる處ををつと文右衞門がなさけに依て兩人が命をたすけんと二十兩の金を與へて江戸表へ立退たちのかせたるに其後夫婦になりて取續とりつゞき今にてはまづ相應さうおうに暮して居ると申事其助けたる市之丞に此ほどめぐあひし處我々夫婦此樣に浪人して困窮こんきうに及ぶを見兼ての深切しんせつ先年の恩報おんがへしなりとて一昨日をとゝひ夕方ゆふがたに廿五兩と云金子を調達てうだつして持參致されし譯ゆゑ何も別に不審ふしんに思はるゝ事は是なしと金の出所を白地あからさまはなすを聞て番頭久兵衞成程世の中には義理ぎりかたい深切なる者もあれば有者あるものしかしながら夫が眞實ほんたうの人間なるべし其市之丞殿とか申方は當時たうじ何方に住居致され候やと申にお政は打案うちあんじ左樣さ私しも未だ江戸の樣子やうすは不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を渡世とせいになし居ると申されしなりと云ければ久兵衞は茲ぞ付込處つけこみどころなりと思ひすれば其市之丞殿の家主の名前なまへ又當時本人の名は何と申され候や紙屑買をするに苗字めうじつき新藤市之丞にても有まじと云にお政否家主いへぬしの名は承まはらず又當人の名も當時はかはり居るならんが此程中このほどちうあひし時には以前の名前新藤市之丞とばかり申をりしなりと云に久兵衞は彌々いよ〳〵しめたりと思ひ夫では内儀樣少し胡亂うろんなお咄しなり家主の名も知ず當人たうにんの名前も分らぬとは如何にも受取うけとられぬことて見れば兎にも角にも其金の出所があやしいと云つゝ充分じうぶん心の中にゑみふく道理だうりこそ一夜の内に金の工面くめんが出來たるなれ夫に付て御談おだんじ申す事があり昨日きのふあさ流れる品を賣た代金百兩包みのまゝ帳箱ちやうばこの上に差置さしおきつひ事にまぎれて仕舞のを忘れしが此方こちらの旦那が歸られたるあとにて心付こゝろづきるに其の金子何れへ紛失ふんじつせしにや一向分らず因て嚴重げんぢうに家内を詮議せんぎなしたれども何分知れず是はしらはずの事なりは文右衞門さんが不圖ふとした出來心夫も無理むりとは思はずかく貧窮ひんきう致さるゝゆゑ如何に手堅てがたき人にても心のこまの狂ふのは是有これありうちなりさりとて其儘すてても置れず迷惑めいわくなすは我等のみ因て其百兩の金子は早々さう〳〵御返おかへし下されよすれば人の耳にもいらず内々事をすまさん程にサア〳〵素直すなほに御返しあれとおもひよら言懸いひがかりに女房お政は大に驚きりやマア久兵衞さん途方とはうもない百兩の金子をば文右衞門がとりしなどとは跡形あとかたもなき云懸いひがか假令たとへ戲談じようだんにもせよ然樣の事を申されては聞捨きゝずてにならず夫には何か證據があつて申さるゝにやと見相けんさうを變て申に久兵衞は冷笑あざわら否々いや〳〵人は見かけに寄ぬもの其時其所そこ居合ゐあはせたは文右衞門殿ばかりゆゑ盜まれたるに相違さうゐなし盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは此事なりと云ひければお政は彌々いよ〳〵やつ氣となり私しを女とあなどりて當事あてこともなき言懸いひがかり成程一夜の中に金の出來たるを不思議ふしぎいはるれど夫は只今も申せし通り新藤市之丞がもつて來たる金なるに御前は何と思ひしにや無體むたいふも程があるとお政は無念むねん切齒はがみをなすに久兵衞はおちつきはらひオイ〳〵御内儀おかみさん其樣にたつあがりになるからは猶々あやしく思はれるマア能々よく〳〵しづめて御聞あれその市之丞とやらが家主の名も知れずことに當人の名前なまへ住居ぢうきよしらずとは是怪しき證據の第一なり廿五兩といふ大金を受取うけとりながら其人の名前住所をもきいおかぬと申さるゝはもと不正ふせい金子かねゆゑしか出所でどころいはれぬはず何でも百兩は此方こつちの旦那が盜み取たるに相違なし四の五のいはれずと只今返されよサア〳〵如何にとつめよるにぞお政は無念むねん口惜くちをしわつと計りに泣出し成程當人の名前住所をもきかずに置たるは手前の越度をちどなれどもをつとに於て其の樣なる不埓ふらちを致す者でなし浪人しても大橋文右衞門もとは越後家にて五百石の祿ろくりやう物頭役ものがしらやくをもつとめたる武士さふらひなり夫を何として不義不道ふぎふだうの盜み心をおこすべきといかりつ泣つあらさうに番頭久兵衞は左右とかく冷笑あざわらひナニサ其樣に子供だましの泣聲を出しても其手は勿々なか〳〵くはぬ夫よりは御前方も一文もらひの苦しまぎひんの盜みにこひの歌とやら文右衞門さんが不圖ふと出來心できごころにて盜まれしと言つた方が罪がかるい其所はわたしが心一つで取計らひ質を受たる十三兩の金子はまけてあげやうほどに跡の金を殘らず御返しなされ然すれば此事は是切これきりにして上るなり夫が一番上分別じやうふんべつなまじひにおしを強く云拔いひぬけやうとても然樣うまくはだまされず是が表向おもてむきになる時は文右衞門さんははなはだ御氣の毒だが御吟味中入牢じゆらうトヾのつまりは首がなし命あつての物種ものだねなればサア〳〵殘りの金子を渡されよどうだ〳〵と責付せめつけるを此方は増々ます〳〵聲ふるはせもう此上このうへは爭ふより今にをつとが歸りなば直樣すぐさま分る事柄なり金の出所は市之丞より受取たるに相違さうゐなしと終には互に大音だいおんあげ云爭いひあらそひて居たりけり

ひやうに曰く如何に久兵衞奸惡かんあくなりとも此方こなたには拔目ぬけめなければ惡謀あくぼうも行ふ事能はず然るを二度まで來りし市之丞が當時の住所ぢうしよ名前等も聞置ざりしは全く文右衞門の無念むねんなり然ば久兵衞其落度に付込みかく難題なんだいを申懸るのみか己が見世の百圓[は#「百圓は」はママ]密かに我がかこひ女の方へこかせし奸曲かんきよくに逢ひ文右衞門は終に身の難儀なんぎとなるは其人にして此過失このあやまちあるは時の不幸と云べき而已


第二十五回


 さてまた大橋文右衞門は久々にて稻葉丹後守殿藩中はんちうへ行一別以來の挨拶あいさつに及び扨拙者儀浪人らうにんの後斯樣々々の次第に因て困窮こんきうなし餘儀なくいへ重代ぢうだいの品も質入なせし處此度月切に相成既に流れんとの趣き度々たび〳〵催促さいそくを受ほとん當惑たうわくなすと雖も詮方せんかたなく年來祕藏ひざうせし差替の大小僅かの金にて他人手ひとでに渡んこと如何にも殘念ざんねんに存じ貴殿は豫々かね〴〵御懇望ごこんまうもありし品ゆゑ御買取を願はんと持參なしたりと申に彼方も大橋の困窮こんきうを察し迅速すみやかあがなくれしかば文右衞門は喜びて代金を受取我が家を指してかへり來りしに何やら路次ろじの中さわがしければ早々來り見るに油屋番頭久兵衞と我が女房にようばうが何か爭ひ居たるゆゑ文右衞門は兩人に向ひて何事のあらそひわけは知ね共互に大音だいおんあげ近所きんじよへ對し外聞ぐわいぶんわるし靜にわけはなすべしと云に女房にようばうお政はをつとの歸りしを見て是は好所よきところへ御歸りなり今久兵衞さんが來られて餘り無法むはふな事を言懸いひかけらるゝにより思はず大きな聲を出せしなり其譯そのわけ一昨日をとゝひ良人あなた質物しちもつの日延をして歸りし後にて心付し處油屋の見世にありし百兩の金が紛失ふんじつしたるに付良人をつとぬすみ取たるにちがひなし然なければ一文もらひの貧窮ひんきう浪人らうにんが十三兩三分と云しちをすら〳〵うけ出す筈がないと云るゝにより其しちを請し金は新藤市之丞と申人が昔し貸たる金を返すとて持て來た金なりと譯を申ても聞入きゝいれしちを受た丈の金はまけて遣るから殘りの金を返せ〳〵と無理むり無體むたいのことを申さるゝなりとなきながら仔細しさいを語りしかば文右衞門は是をとくと聞しが夫は不埓ふらち千萬の申懸なりと大いに立腹りつぷくし是より又久兵衞と文右衞門の言爭いひあらそひになりければ長屋ながや中の者追々おひ〳〵騷動さうどうを聞付けそれ事こそ出來たり我々われ〳〵が云ぬ事か一文貰もんもらひ素浪人すらうにんにはかに大造たいそう立派りつぱ身形みなりをして稻葉丹後守樣の屋敷へ行などと云しがはたしておもて質屋しちやにて百兩の金が紛失なくなりし由おそろしき盜人ぬすびともあるものかなて見れば是までも諸所しよしよ盜賊たうぞく這入はひりしに違ひなし此間もお内儀さんが浴衣ゆかたの古いのを二枚賣たいと云ひしがれもぬすみ物ならんなどと種々いろ〳〵うはさをなし兎も角も一ツ長屋に居れば我々まで引合ひきあひになるも知れず日來ひごろ一口ひとくちづつ呑合のみあひし者は今さら仕方なし皆々恐れ用心ようじんしてぞ居たりける偖文右衞門久兵衞の兩人は増々ます〳〵云募いひつの假令たとへ浪人らうにんしても大橋文右衞門ぞや他人の金などに目を懸んや某しが質物しちもつを受出せし金は愚妻ぐさいよりも申せし通り新藤市之丞と云者より受取たる金に相違さうゐなく其譯そのわけは斯樣々々と馬喰町中ばくろちやうぢうたづ歩行あるきたる事まで委しく申聞るといへども久兵衞は少しも聞入きゝいれず否其新藤市之丞と云は町所家主も知れず當人たうにんが今の名前さへ知れぬ位の事なる由是第一あやしき證據なり又不審ふしんなるは一夜の中に大金の出來るはずもなし何でも御前が質物流しちもつながれの云わけに來た時帳箱の上におきし百兩の金子が紛失ふんじつしたれば御前がぬすみしにちがひなししちを受たる十三兩三分は勘辨かんべんするによりのこりの金を只今かへされよと云ふに文右衞門扨々聞譯きゝわけのなき男かな然れば是非ぜひに及ばず是を見てうたがひをはらされよと云つゝかね省愼たしなおきたる具足櫃ぐそくびつならびに差替さしかへの大小までも取出し此通り國難まさかの時の用意も致し居る拙者なり他人の物をぬすむなどと云卑劣ひれつ武士さふらひにあらず是にても疑ひははれぬかと云ふに久兵衞は大口おほぐちあい打笑うちわらひイヤサ盜人ぬすびとたけ〴〵しいとは貴殿きさまの事なり此品々を省愼たしなみ置たるとはこれまたいつはりなるべし大方皆ぬすみ取たる物ならん茲な大盜人おほぬすびとめと樣々に惡口あくこうなしければ元より武道ぶだうみがく大橋文右衞門賊名ぞくみやうおはせられては最早もはや了簡れうけんならず今一度言て見よ己れ其座そのざは立せじとかたな追取おつとりひざ立直たてなほいかり目眥まなじ釣上つりあげ發打はつた白眼にらみ付けれ共久兵衞は少しも驚く氣色なくいな盜人ぬすびと相違さうゐなし百兩盜みし大盜賊おほどろばうと大聲あげなりわめけば爰に至りて文右衞門は耐忍こらへ兼一たうすらりと拔放ぬきはなし只一うち振上ふりあげるに久兵衞は大に驚きヤア人殺し〳〵とのゝしりながら表ての方へ一目驂もくさん逃出にげいだせば汝れ何條のがさんやと路次ろじはなれて追行おひゆく折柄をりから火附盜賊改ひつけたうぞくあらための組與力くみよりき笠原粂之進と云者手先兩人を引連ひきつれて今此所を通り掛りけるが文右衞門拔身ぬきみを振て久兵衞を追駈おひかけ行を見留夫捕縛めしとれと云ふより早く手先兩人づか〳〵とはしり上意と聲かけ文右衞門并びに久兵衞ともたちまち高手小手にいましめ兩人ながら自身番じしんばんへ引行けるに是を見るより近所の者ども馳集はせあつまり自身番の前は見物の人やまの如く夫が爲往來わうらいも止るばかりのさわぎにて皆々文右衞門にゆびさし彼が乞丐頭がうむね長屋に居たる浪人らうにん者此油屋と云質屋にて金を百兩ぬすみし大盜人おほどろばうもとは越後浪人にて劔術けんじゆつ達人たつじんたりとか云が今御召捕めしとりになる時捕方とりかたの者を七八人投付なげつけたれども漸々やう〳〵折重をりかさなりて捕押とりおさ自身番じしんばんへ上られたりんでも大盜人おほどろばうにて手下てしたが百人ばかりもありと云はなしなり然れども表向おもてむきは一文もらひの袖乞そでごひをして居たと云などとうそにも理を付てうはさしけるゆゑ彌々いよ〳〵人々あつまり來り自身番の前はきりを立る地もなき程なれば番人ばんにん鐵棒かなぼうを引出し皆々人を拂ひ退のけるに笠原粂之進は大橋文右衞門并びに油屋の番頭久兵衞の兩人を其所へ引据させ一通り吟味ぎんみに及びし處文右衞門は元より潔白けつぱく武士さぶらひゆゑいさゝかもつゝかくさず新藤市之丞より返濟へんさいしたる金子のわけ又久兵衞が百兩の云懸いひがかりをなし盜賊たうぞくの惡名をおはせんとしたるを殘念ざんねんに存じいかりの餘り打捨うちすてんと思ひつめたる事由迄ことがらまで委細ゐさいに申立たり又久兵衞は己れが惡巧わるだくみを押隱おしかく是非々々ぜひ〳〵百兩の云懸いひがかりを通して文右衞門を盜賊たうぞくに落し呉んとの了簡ゆゑ一文貰ひの身分みぶんにして俄然にはか金策きんさくの出來たるわけ又店にて百兩の金が紛失ふんじつしたるは斯樣々々とべんまかせて申立ければ其通り双方さうはう口書くちがきを取久兵衞は吟味ぎんみ中主人五兵衞へあづけられ文右衞門は直樣すぐさまかしら小出兵庫殿こいでひやうごどのへ差出しと相なり吟味中ぎんみちう入牢じゆらう申付られける又文右衞門が女房にようばうお政は家主へ預けとなり長屋の者共にてきびしく宅番たくばんを申付置やが與力よりき笠原かさはらは引取けり


第二十六回


 扨文右衞門女房お政は家主あづけとなりて宅番たくばんまで付し事なればすこしも身動みうごきならず只々たゞ〳〵夫文右衞門が此度の災難さいなんなげかなしむ事大方ならず明暮あけくれなみだしづみ何なれば天道てんだうまことてらし給はぬにや國にては惡人あくにん小栗美作をぐりみまさかが爲にざんせられ終に浪人らうにんしてかく零落れいらく困窮こんきうに及び其上にも此度斯る無實むじつの難にあふ事はよく〳〵武運ぶうん盡果つきはてたりしか夫に付てもうらめしきは新藤市之丞殿が當時の名前并びに町所等ちやうどころとうくはしく聞置ざりし事然れども彼方にても今は何と改名かいめいせし位の事は話しも有べきはずなるに夫等に氣の付ぬとは餘り迂濶うくわつなりしれ程までに馬喰町を尋ねさがされても知れぬには仕方なしあはれ今にも市之丞殿が來たりなば夫は災難さいなんのがれなんと女心のやるせなくてんに歎き地にかこち或ひは己をくやみ市之丞をうらみ種々樣々にかなしみつゝ何卒して夫文右衞門殿が身のあかりの立工夫を授け給へ何か無實の難をのがるゝ樣なさしめ給へと神佛を一しん不亂ふらんに念じ居たりしが不圖ふととなりの話しの耳の入女房お政は心付是は當時天下に名譽高き御奉行と評判ひやうばんある大岡越前守樣へ駈込かけこみ訴訟をして夫文右衞門が身のあかりの立樣に御慈悲ごじひを願ふより外はなし直樣駈出さんかと一に思ひつめたれども如何にも宅番たくばん嚴敷きびしくして一寸の間も門を出る事能はず然ども此お政は貞節と云流石さすがに元は五百石取の大橋文右衞門が妻なれば氣象きしやうに於ても男勝をとこまさりゆゑ何卒すきを見てにげ出し御奉行所へ駈込かけこまんと心懸こゝろがけてぞ居たりける又宅番に當りし長屋の者共代々かはる〴〵に來りてはひまに任せてうはさをなすに當座利合りあひおして全く文右衞門が盜人なりと思ひ居けるゆゑお政に向ひお前の亭主ていしゆと云者は恐ろしき大盜人おほぬすびと大方まだ〳〵油屋の百兩許りにてはあるまじ所々方々にてかせぎたる事もあらん今迄此方の仲間なかまには他人の物を掠取かすめとるなどと云者一人もなし家業は此上もなきいやしき一文もらひなれども心まで其樣に卑賤いやしくはならず餘りと云ば馬鹿々々しい是内儀かみさん私し共まで文右衞門樣の連累まきぞひくつた樣な者此通り宅番をして居ては家業に出る事もならず此方のあごて仕舞ぞや此罪このつみは皆お前の亭主へ懸て行よく〳〵のごふつくばりなりと己等が迷惑めいわくまぎれに種々はづかしめければ是を聞居るお政のつら殘念ざんねん辯解いひわけなすともまことにせず口惜涙くやしなみだむせ返る心の中ぞあはれなり然るに天の助けにや或夜あるよ戌刻いつゝどきとも思ふ頃下谷車坂くるまざかより出火して火事よ〳〵と立騷ぎければ宅番の者ども大いに驚き皆々我家へ歸り見るに早火の紛は破落々々ばら〳〵と來たり殊に風もはげしければ今にもやけて來るかと皆々周章狼狽あわてふためき手に〳〵荷物をはこび片付るゆゑ文右衞門が宅番する者一人もなし因てお政は是ぞ天の助けと大いによろこ此暇このひま逃出にげいだして御奉行大岡越前守樣の番所へ駈込訴訟かけこみそしようをなさんと手早てばやく支度にこそは及びけれ


第二十七回


 さてまたお政は手早く重代ぢうだい具足櫃ぐそくびつ脊負せおひ差替さしがへの大小を引抱ひつかゝへ用意の金子を懷中くわいちうなし甲斐々々かひ〴〵しき出立いでたちにて逃出さんとするところへ火事騷くわじさわぎの中なれ共家主吉兵衞きちべゑは大切の囚人めしうどの女房ゆゑ萬一取逃とりにがしもせば役儀やくぎかゝると駈着かけつけ來りいま逃出んとするお政を引捕ひきとらへ大事の御預り者いづれへ行るゝやととがむるにお政は南無三と思ひ無言にてそで振拂ふりはら駈出かけいだすをコレ〳〵やけてはぬぞ此騷このさわぎを幸ひににげやうとてにがしはせじと又引止るをお政も今は一生懸命邪魔じやまし給ふなと云ながら用意の九寸五分をきらりと引拔ひきぬき家主いへぬし目懸めがけきかゝるに吉兵衞は大いに驚きヤア人殺ひとごろし〳〵とあとをも見ずに逃出せばお政はこゝぞと混雜紛こんざつまぎれに込合こみあふひと押分々々おしわけ〳〵車坂下の四ツつじまで逃來りしが今此處は火先にて四方より落合おちあふ人々押合々々勿々なか〳〵通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御消防ふせぎは松平陸奧守殿(伊達家だてけ)にて太守も出馬有しかば持口々々を嚴重にかためられたり又仁王門のかた御加勢には松平安藝守殿(淺野家あさのけ)の同勢にて詰切つめきる其外町方まちかたに於ては近年大岡越前守の下知にて江戸中のとびの者をいろは四十八くみとなし町方火消まちかたひけしをば申付られたり是に依て此町火消ひけし共一同に押出して火掛りをなし又武家方にては十人火消をはじ諸侯方しよこうがた方角はうがく火消ひけし等夫々に持場々々へつめかけるゆゑ其混雜そのこんざついふばかりなし其上御使番火事場くわじば見廻みまはり并に火元見等東西へ乘違のりちが乘違のりちが駈通かけとほるゆゑ車坂下四ツ辻の邊は老人及び女子供等には勿々なか〳〵とほがたく只々人のなみうつのみなりかゝる處へ引續いて南町奉行大岡越前守殿出馬あり今此車坂下の四ツ辻をとほかゝられし處流石さすがに町奉行の威權ゐけんあれば町方の者先へたち往來わうらいあけよ〳〵と制しけるゆゑ人々動搖どよめき合て片寄かたよらんとする時彼の文右衞門が女房お政は具足櫃ぐそくびつ脊負せおひ差替さしがへの大小等を引抱ひきかゝへし事なれば女の力にては人を押分難おしわけがた其處そこ此處こゝもま踉蹌中どよめくうち思はず其處へばたりと倒れふし既に人にもふまれんとするを大岡殿馬上より是を見られをんなたすけよと聲をかけらるゝに先に進みし同心畏まり候と馳寄はせよつてお政を引起し怪我けがはなきやと問を見て大勢の人々成程なるほど天下の名奉行とほめるも道理もつとも此混雜このこんざつの中にても仁慈じんじ御差圖おさしづされば其下に使へる役人もかくの如しと感じあへり此の時お政は大岡殿と聞て悦ぶこと限りなく是は全く神佛かみほとけ御引合おひきあはせ成べし既に駈込訴訟かけこみそしようをせんと思ふ折から幸ひ此所にて行逢ゆきあふのみか今も今とて御助けくだされたる御慈悲深き御奉行樣御取上あるは必定也ひつぢやうなり是ぞをつとうんひらどき直樣すぐさまこゝにて願はんと心を決しつか〳〵と進みよりつゝ大岡殿の馬のくつわに取り付てをつとの身にとり一大事の御願ありと申にぞ前後をかためし家來を始め與力同心打驚うちおどろき是は慮外りよぐわいなり御出馬さき殊にくつわへ取り付とはそも氣違きちがひ亂心らんしんか女め其處そこはなしをれ不禮に及ばは切り捨るぞ大膽不敵も程こそあれ退しされ〳〵と大音にしかりながらにすがる手を引放さんとなしけれ共お政は一圖に我がをつとの無實の罪を辯解いひとかんと凝固こりかたまつたる念力ゆゑいつかなくつわを少しも放さずをつといのちかゝはる大事何卒御慈悲に御取上を願ひ奉るとこゑふるはせ引ども押ども動かねば同心大勢立掛り強情しぶときをんなさがらぬかと無體むたい引立ひきたてゆかんとするを大岡殿は此體このていを見られコレ〳〵手荒てあらき事をして怪我けがを致させまじかれをつとの一大事と申は何か仔細のある事ならんとかく願ひのすぢ取上て遣はすべし然れども今は此混雜こんざつゆゑのち趣意しゆいは聞んにより一まづ其者を上野町なる名主の方へ送り遣はせしてまたかく込合こみあふなかなれば其具足櫃大小等は其方ども持參せよと指揮さしづあるに同心はかしこまり候とて直樣すぐさま手早く具足櫃を脊負せおひ差替の大小九寸五分其外都合五本のかたな引抱ひきかゝへてお政を引連ひきつれ上野町の名主佐久間某方それがしかたまで送りゆき此者并びに具足櫃其外後刻ごこくまで預るべしと申渡し又々火事場へ引返しけり是則ち享保四年極月ごくげつ十三日の夜の事にて漸々やう〳〵火事もしづまりしかば上野の御固おんかためは勿論もちろん武家方ぶけがた人數にんず町火消等まちひけしらも夫々に引取けるにより大岡越前守殿には火事場より引揚ひきあげがけたゞちに上野町の名主佐久間某のかた立寄たちよられ文右衞門の女房お政を呼出し願ひの趣き一通りたゞしにぞ及ばれける


第二十八回


 扨大岡越前守殿には佐久間某しの玄關へお政を呼出よびいだされければお政は我が願ひ御取上おとりあげに相成事冥加みやうが至極しごく有難ありがたしと思ひ平伏へいふくして居たるに其方をつとが一大事の願ひと申せどまづ其方は何處いづくの者にて當時いづれに住居致すや有體ありていに申立よと云れければお政はつゝしんでかうべあげ私し事は越後高田の浪人大橋文右衞門と申者のつままさと申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ罷出まかりいで下谷山崎町吉兵衞たなに罷在し處浪人の身のうへなれば追々困窮こんきう零落仕れいらくつかまつり只今にては往來にたち一錢二錢の合力がふりよくうけ漸々やう〳〵其日々々をくらし居候と申のぶるに越前守殿又其方が願ひと申は如何いかなる事なるやとたづねられければお政其儀はをつと文右衞門事此程無實の罪にて火附盜賊あらため小出兵庫樣御手へ召捕めしとられ入牢相成し事がらに御座候と申に大岡殿て其方が申處にては殊のほか困窮こんきうの身の上に聞ゆれども此具足櫃このぐそくびつ又差替の大小等を見れば餘程よほど立派りつぱの品なるが斯程かほどの品を所持するははなはだ以て不審ふしんなり其道具は如何致して所持しよぢするやと申されしかばお政は平伏へいふくして恐れながら此道具と申はをつと文右衞門國元より持參致したる品々にて萬一舊主きうしゆ歸參仕きさんつかまつる事もありし時のため省愼たしなみおきし道具に御座候と申を越前守殿聞れ成程なるほどしからばまづなかを改め見んとて具足櫃ぐそくびつを近くはこばせふたを開かんとせられしに錠前ぢやうまへおろし有ければかぎはあるやと問るゝにお政はハツと心付其鍵そのかぎをつと文右衞門が所持致し候又入牢じゆらう仕つり候と申ければ大岡殿町役人へむかはれ此町内に錠前屋ぢやうまへやあるべし早々是へ呼出よびいだせと申されしかば家主いへぬし佐兵衞は畏まり奉つると直樣すぐさま馳出はせいだし町内の錠前屋吉五郎と云者のかどあわたゞしくたゝき起し急用あればこゝあけ給へといふに吉五郎はけながら急用とは如何いかなることにやと申しければ佐兵衞はいきをきりながらいま名主樣なぬしさま玄關げんくわんにて御奉行樣の御調おしらべがあるゆゑ貴樣をすぐつれて來たるべしとの仰せなりと云ふに吉五郎は是を聞て大いにきもつぶは又何事なるやとあきたり一たいこの吉五郎と云者はごく正直しやうぢきにて人のよきことつひに一度も人と物爭ものあらそひなどしたるためしなく町方住居の者にはまれなる故皆々近所にても佛吉々々ほとけきち〳〵渾名あだななす程の者なれば今御奉行樣がぢき御調おしらべと聞て暫時しばらく無言なりしが稍々やう〳〵ふるへ聲を出しそれは又何御用なるやと云に家主は大方貴樣の見覺えあるべし今夜などは火事場にてなにはたらきし事あらんと云ば吉五郎は猶々なほ〳〵驚き否々いへ〳〵私しに於て然樣さやうなる不埓ふらちを致せしおぼえ更に是なしと云に家主はコレサにて何を云ともやくには立ず覺えなければ早くたり御奉行樣の前にて辯解いひわけいたされよと家主は吉五郎をうながして名主の玄關へ同道なせしに正面しやうめんには大岡殿を始め與力同心列をたゞして嚴重に居並ゐならびければ吉五郎は彌々いよ〳〵いろ蒼然あをざめあはまでふるへながら家主のあと蹲踞ゐすくまるにぞ越前守殿是を見られ是へ〳〵と申さるゝに吉五郎は今にもくびを切られるかと思ひ何分なにぶんふるへて足も踏止ふみとまらぬを漸々やう〳〵大岡殿の前へ罷出まかりいで平伏へいふく何卒なにとぞ御慈悲おじひの御沙汰を願ひ奉つる私しは是まで人のものとてはちりぽんにてもぬすみしおぼえ御座なく日ごろ正直に致せしゆゑ私しの事を皆々佛吉ほとけきち渾名あだなを付るくらゐなれば少しも惡事あくじは仕つらず何卒いのちばかりは御助け下されよと泣聲なきごゑを出して申しければ大岡殿は微笑ほゝゑまれコレ〳〵其方は正直者しやうぢきもの云事いふことかねて某しも聞及んだりなになんぢに惡事有て調しらべるわけにてはなし安心せよ今此調しらべ者に付て其具足櫃をあけんと思へども合鑰あひかぎなし是に依て其方をよびつかはしたり必らず〳〵心配しんぱいするに及ばず早々あふべきかぎを持參して此錠前このぢやうまへあけよと申されしかば漸々やう〳〵吉五郎はホツと太息といきつきヤレ〳〵有難き仰せ畏まり奉つると蘇生よみがへりたる心地こゝちにて直樣すぐさま馳歸はせかへり多くのかぎを持參なし種々いろ〳〵あはせ見て具足櫃ぐそくびつ錠前ぢやうまへあけけるとなり此事錠前を破りてあけなば隨分容易にあくべきなれど假令たとへ奉行職の者なりとも他人ひとの所持品の錠前ぢやうまへ手込てごみに破る事はならず因て故意々々わざ〳〵鐵物屋かなものや呼出よびいだしてあけさせられたるなり是奉行職をもつとむる者の心得は萬事かくの如し此事我々のうへにある時は自然しぜん面倒めんだうなりとて他人ひとの物にても錠前ぢやうまへたゝあけよなど云事なしとも云難いひがたかりにも錠前ぢやうまへを破るは關所せきしよを破りしも同樣にて其罪至つておも注意こゝろづけずんばあるべからず


第二十九回


 閑話休題あだしことばさておき吉五郎は錠前ぢやうまへひらきて差出せしかば大岡殿自身に具足櫃のうちを改めらるゝになかには紺糸縅鐵小脾こんいとをどしてつこざね具足ぐそくりやう南蠻鐵桃形なんばんてつもゝなりかぶと其外籠手こて脛當すねあて佩楯はいだて沓等くつとうとも揃へて是ありまたそこかたなに疊紙たゝみの樣なるつゝみあり是を引出して見らるゝに至て重き者にしてかた封印ふういんあり其上書そのうはがきに慶長五年關ヶ原合戰軍用金ぐんようきん大橋文右衞門源清澄みなもとのきよずみ書付かきつけあり是に依て越前守殿一應お政へことわられしうへ封をひらいてみらるゝに小判にて金百兩あり大岡殿心中にはなはだ感じられ是は全く由緒ゆゐしよある武士なり兎角零落に及んでも萬一の時のためにと先祖せんぞの意を受て省愼置事たしなみおくこと天晴あつぱれの心懸なりと思はれ又其儘元の通りに仕舞てそれより大小二こし九寸五分まで能々よく〳〵改めらるゝにいづれも天晴れの作物わざものにして尋常の武士さぶらひの所持し難き程の道具なり因て越前守殿彌々いよ〳〵かんじられお政へ向ひ其方をつと文右衞門が無實の罪にて入牢じゆらう致せしとは如何なる事なるや一々申立よとありしにお政はこたへてわたくし夫婦八ヶ年浪人の身の上ゆゑ油屋五兵衞方へ衣類いるゐ大小等だいせうとう質物しちもつあづおきし處約束の月切つきぎれに相成質屋しちやよりは度々たび〳〵催促さいそくなれども其品々を請出す事もかなはず一日々々と申延置のべおきうち彼方かのかたにては流れ買に賣拂うりはらふと申事に御座候然るに十八ヶ年以前國許くにもとに在し時同家中の新藤市之丞と申者若氣わかげ過失あやまりにて同藩の娘と不義に及びしこと役人共の耳にいり主家しゆかの法に依て兩人とも一命をめされんとするををつと文右衞門不便ふびんに存じひそかに金子二十兩を與へて助けつかはしゝ處其市之丞夫婦の者當時馬喰町に住居のよし不圖ふと此間中このあひだぢう久々ひさ〴〵にて尋ね來り對面致し候に我々夫婦零落れいらくていを見て氣の毒と存ぜしにや此程二十五兩の金子を持參ぢさんし先年の恩報おんがへしなりとて差出し候得ども元來をつと文右衞門は田舍育ゐなかそだち頑固かたくなゆゑ一たんめぐみ遣はしたる金子を今更受取ては武士の一分が立ずと申て押返おしかへし候處其節そのせつ又々右の質屋より月切の品々彌々いよ〳〵ながかひへ賣拂ふよし申來りしに付き文右衞門事其掛合に質屋へ參りし留守中に市之丞は歸宅仕きたくつかまつり候其後をつと文右衞門質屋より歸り煙草盆たばこぼんうちを見候に先刻差戻せし廿五兩の金子是あり候ゆゑさては市之丞たつて渡さんと云しをわれ受取らざれば本意なく思ひひそかに此中へ入置て歸りしならんなんにしても此金を請取うけとりては我が以前の志ざしをにするなりとてよく早朝市之丞の方へ尋ね行き馬喰町を終日彼是かれこれさがしけれども今は其者の名前がかはり居るにや一向に在家ありか知れずよんどころなく持歸りて翌日よくじつ猶又尋ね行き是非々々市之丞に返さんと申をり折柄をりから又々質屋より嚴敷きびしき催促さいそくゆゑ然らばまづ其金子を以て質物を請出し賣拂ひてのちに市之丞へ返しても仔細なしと私し共兩人相談のうへ二十五兩のうち十三兩三分にて質物しちもつを請出し申候然るに油屋五兵衞方番頭久兵衞と申者私し方へ參り昨日まで一文なしの袖乞そでごひきふに大金の出來るはずなし文右衞門が彼のみせへ參りし時帳箱ちやうばこの上に置たる百兩の金子が紛失ふんじつしたるにより必らず文右衞門がぬすみ取りしに相違なし其金にて質物しちもつを受出せしならんなどと跡形あとかたもなき言懸いひがかりを申すゆゑしちを請出したるは市之丞より遣はしたる金子なりと其譯そのわけを申せしかども一かうに聞入ず終にをつとに向ひ盜賊たうぞくよばはりを致すゆゑをつとはらすゑかね既に久兵衞を切捨んと同人の逃出し候後を追懸おひかけし處に折惡敷をりあしく御加役方笠原粂之進殿に出會であひたゞちに召捕れ候に付をつとは右の段々一々辯解仕まをしわけつかまつり候へ共御聞入なく入牢と相成まことなげかはしく存じ奉つり候因て右申上候紙屑屋かみくづや新藤市之丞の在家ありかさへ相知候へば金子の出所でどころも分り文右衞門が百兩の盜賊にこれなき事も明白に相分り候間何卒御慈悲を以て此段明白に御糺問きうもん下し置れ候樣ひとへに願ひ上奉つると委細ゐさいのべければ越前守殿一々聞置きゝおきたりとの事にて一まづお政をさげられしが此事一應加役方へ掛合の上ならでは吟味ぎんみに取掛りがたき儀なれどもかれが申し立て如何いかにも不便ふびんなりと思はれしかば大岡殿の英斷えいだんを以て直樣すぐさま下谷山崎町の質屋渡世油屋五兵衞并びに番頭久兵衞とも呼出よびいだし置べき旨申付られしゆゑやがて町役人へ山崎町質屋五兵衞并びに同人召遣めしつかひ久兵衞等一同そろひしなら是へ呼出すべしと有ければ町役人畏こまり同道どうだうして罷出るに油屋五兵衞はかねて聞居たる文右衞門が百兩の一けんならんと思ひければ一かう平氣へいきにて其所そこへ出るを越前守殿見られ家持いへもち五兵衞其方は質屋渡世とあるが質物しちもつは何ヶ月限りに貸遣かしつかはすやと申されければ五兵衞は平伏へいふくなし御定法通り八ヶ月かぎりに預り置候と申に越前守殿然らば浪人大橋文右衞門が質物しちもつばかり五ヶ月限りながれにいだせし由是には何か仔細しさいの有ことなるや有體ありていに申立よと云れしかば五兵衞は大いに心組違ぐみちがひしゆゑグツト云て暫時しばしこたへもなかりしが其儀は私しはわきまへ申さずと云を大岡殿聞れ此儀其方そのはうわきまへずとは不都合ふつがふなり己れが渡世を知らぬはずはなしおろかなる事を申さずとも五ヶ月限りのわけ有體ありていに申立よとあるに五兵衞は彌々いよ〳〵當惑たうわくなし此儀は何卒番頭久兵衞へ御尋ね願ひ奉つりたく私しは老年らうねんに及び候まゝ見世みせ質物しちもつ取引の儀は同人へ萬事任せ置候間一かうわきまへ申さず候と云ければ大岡殿久兵衞にむかはれ其方は五兵衞の見世を萬事ばんじ引受ひきうけよし如何なるわけにて文右衞門の質物しちもつ而已のみ五ヶ月限りに貸遣かしつかはしたるや此儀申立てよと申さるゝに久兵衞は先刻より五兵衞へ尋問中たづねちうはらの中にて種々いろ〳〵考へ置し故文右衞門方より五ヶ月限りに受出うけいだすべき對談たいだんゆゑ其意に任せ約定仕つり候事に御座候も是なく候へば御定法通ごぢやうはふどほり八ヶ月の期限きげんに御座候と云ければ越前守殿微笑ほゝゑまれ然らば文右衞門は餘程物好ものずきと見えるしちおくほどの者が己れより月數をちゞめて約定なすとはハテ不審ふしんなり夫れはしばらおき其方儀文右衞門は百兩の金子を盜み取りたる盜賊なりと申せしよし此儀はたしかなる證據ありや如何いかにと有ければ久兵衞こゝぞと思ひ其儀は文右衞門こと質物しちもつながれの云譯いひわけに五兵衞の見世へ參りし節流れ品を賣拂ひ候代金を帳箱ちやうばこの上に置候處文右衞門歸りしあとにて右百兩の金子を仕舞しまはんと存ぜしに紛失ふんじつ致し種々いろ〳〵詮議中せんぎちう其翌朝そのよくてう文右衞門十三兩三分程の質物を受出し申候因て其樣子そのやうすを考へ候に一文貰もんもらひの身分と云殊にみぎ質物しちもつながれの議前日まで度々催促仕つり候ても出來申さず候金子が一夜のうち調達てうだつ出來しゆつたいはず是なく彼是不審ふしんに存じ候間百兩の金子は文右衞門ぬすみ取し事と推量すゐりやう仕まつり私しより内々ない〳〵詮議せんぎに及び十三兩三分は文右衞門に遣はし殘りの金子を返さば勘辨かんべんいたすべきむね申せし處文右衞門は新藤市之丞と申者より遣したる金子にて質物しちもつ受出うけいだし候なりとの云譯いひわけに候へども右市之丞と申者は當時紙屑買かみくづかひにて馬喰町邊に住居と計り申し居り其の町所家主名前すらしかと相知れざるよしを申候是全く不正の金子ゆゑ出所でどころさだかに云聞いひきけざる事にて手證てしようは見屆ず候へ共是等の儀共思ひあはすれば全く文右衞門百兩の盜賊に相違なしと存じ奉つり候依て右十三兩餘質物を受出うけいだし候分は勘辨かんべん致し遣はし殘金ざんきんだけを返し候樣にと申せしに却てかれは盜人の惡名を付しなどとことほか立腹りつぷくして私しを切殺さんと刀を拔放ぬきはなし追懸候節加役方の御手へ召捕れ申候何卒此段御糺明下ごきうめいくだし置れ文右衞門百兩の金子を返しくれる樣ひとへに願ひ上奉つり候と申立たり是に因て大岡殿はとくと聞居られしが久兵衞儀辯舌べんぜつたくみに申立る處は一應道理もつともの樣に聞ゆれども是と云ふたしかなる證據もなし殊に此久兵衞は片小鬢かたこびん入墨いれずみありて如何にも惡黨あくたうらしき者ゆゑきやつめが百兩ぬすんで文右衞門になすり付んずる巧みなりと流石さすが御名譽ごめいよたかき奉行衆ゆゑはやくもこゝつけられしなり


第三十回


 扨又越前守殿は久兵衞に向はれ只今たゞいま汝が云處一應道理もつともの樣に聞ゆれどもいはば無證據にして文右衞門がまことの盜賊とも定め難しかれ全く盜まぬ時は其方の云懸いひがかりと云ふ者にして無體の惡口に及びし上は文右衞門に切殺されぬがまづは仕合せ其節そのせつころされなば死損しにぞんなりしかし又盜みたる金と極めたるしるしにてもあるにや質物をうけに來た時十三兩三分の金はよく改めしなるべし何ぞ極印ごくいんにても有しやどうぢやと申さるゝに久兵衞イヤ何も極印は御座なく候へどもかれの身分にて一夜のうちに金の出來るはずは是なしと同じ事を申立るゆゑ越前守殿コリヤ久兵衞其金子は市之丞より持參ぢさんなりと申ではないか今にも市之丞の在家ありかさへ知れなば金子の出所でどころたしかに知れるぞ汝が云所は無證據なり證據なき事は公儀かみに於ては御取上にはならず殊に又汝が内々ない〳〵詮議せんぎをして文右衞門へ十三兩三分はまけやり殘金を返さば勘辨かんべんせんなどと自分了簡れうけんにて取計とりはからふは甚だ以て不審ふしんの至にして主人持しゆじんもちにはあるまじき不屆ふとゞきなり汝は探索方たんさくかた手先てさきでも致すかと申されしに久兵衞は甚だ恐れ如何致しまして然樣さやうな事は仕つらず私しは油屋あぶらや五兵衞が見世の番頭をつとをりますといへば越前守殿夫れは知れたこと又われは文右衞門が宅へ何時いつゆきたるやと尋ねらるゝに久兵衞私しは文右衞門が拔身ぬきみを以て追駈おひかけましたる時に參りしが其節加役方の笠原粂之進樣の御供おとも突當つきあたすぐに御召捕に相成候と申ければ越前守殿いや幾日頃いつかごろに文右衞門方へ言懸りに參りしぞと有に久兵衞はぬからぬかほにて恐れながら云懸りには參りませんと云しかば大岡殿默止だまれ久兵衞なんぢしかとせし證據もなき事を申は則ち云懸りならずやらば幾日いつかに文右衞門方へ參りしや其日限そのにちげんを申せと云るゝに久兵衞夫れは今月八日に御座候と申に越前守殿然らば其夜前そのやぜん紛失ふんじつしたる百兩と申す大金をなぜ早々訴へには出ぬ等閑なほざり置く事は甚だ怪しいぞ汝も嚴敷きびしく吟味ぎんみをせねばならぬやつなりづ主人五兵衞へ屹度きつと預け置けつゝしみ罷りあれコリヤ町役久兵衞は主人五兵衞へ屹度きつと預け置く能々其方共心付けよとありしかば家主吉兵衞畏まり奉つるとて直樣すぐさま五兵衞久兵衞の兩人を引連ひきつれさがりけり又文右衞門女房お政は家主吉兵衞へ預けとなり越前守殿は文右衞門が所持の具足櫃ぐそくびつ并に大小等奉行所へ止置とめおくと云渡され一同夫々に引取と相成たり因てお政は願ひのすぢ取上とりあげとなりしを悦ぶ事限なく猶又をつと文右衞門が災難さいなんを遁るゝ樣にと神佛をねんじ居たりけり扨又大岡越前守殿には直樣すぐさまよく十四日火附盜賊改め役小出兵庫殿へ掛合かけあひの上大橋文右衞門を町奉行の手へ引取ひきとられ翌々日よく〳〵じつ享保四年極月ごくげつ十六日初めて文右衞門の一件白洲しらすに於て取調とりしらべとなり越前守殿出座有て文右衞門をみらるゝにひさしく浪々なし殊に此程は牢舍らうしやせし事ゆゑはなはやつれ居ると雖も自然と人品じんぴんよく天晴の武士さぶらひなりしかば大岡殿しづかに言葉を發しられ越後高田浪人大橋文右衞門其方當時たうじ山崎町家主吉兵衞たな罷在まかりあり袖乞そでごひいたし居る由然程さほど零落れいらくの身分にて油屋五兵衞方へ入置いれおきたる質物受出しの節十三兩三分と申す金子にはか調達てうだつせし由右の金子は元より所持なるや又は外々より融通ゆうづう致したるや一夜の内に金子調達せしは其方業體げふてい似合にあは不審ふしんなりくはしく申立よと云るゝに文右衞門はつゝしんでかうべあげ右金子の譯は十八年以前國許くにもとに罷り在候節同家中に新藤市之丞と申者私し同役どうやくの娘と密通みつつうに及びしを重役共薄々うす〳〵聞込きゝこみ捨置すておかれずと既に兩人ながら一命にもかゝはるべき場合に立到り候に付き某し不便ふびんに存じ二十兩の金をめぐみ助けて遣はせし所江戸表へ罷り出でたるよし然るに其後そののち私し儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へまかいで下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に不圖ふと此程ぢう右市之丞尋ね參り久々にて面會仕つりたがひに身の上の物語ものがたりに及び候處私し夫婦零落れいらく困窮こんきう仕り候を市之丞義見兼みかね候や一兩日すぎ候と金子二十五兩持參致し先年の恩報おんほうじなりとて差出し候へども私し儀一たん市之丞にめぐみたる金子を今如何に困窮こんきうなせばとて請取候ては昔しの志ざしをもに致すによりかたく相斷り候て受取申さゞるを市之丞は本意ほいなく存じたるにや私し儀質物流れの掛合に參り候留守に煙草盆たばこぼんうちへ人知れず入れ置て歸りしを私し歸宅後きたくご見出し候間直樣すぐさま翌朝よくてう市之丞のたくを尋ね右の金子を返さんと馬喰町へいたりて段々だん〳〵うけたまはり候へども何分市之丞の住所相知れ申さずよんどころなく宿元やどもとへ歸り候然るに質屋よりは又々流れの催促さいそくゆゑかくも此金子を融通ゆうづういたし質物を請出し候後賣拂うりはらひ市之丞の金子をそろへて返さんと存じ右のうち十二兩三分をもつて質物を受出し候に相違御座なくしかるに油屋五兵衞番頭久兵衞と申者袖乞そでごひの身分にて一夜の中に大金の出來るはずはなしその節見世の帳箱の上におきたる流れ品を賣候百兩の金子紛失ふんじつ致せしに付右は私しぬすみ取候に相違なしと理不盡りふじんなる云懸いひかけ仕つり候ゆゑ私し儀市之丞より差越さしこしたる金子のわけを申聞ると雖も一向双合とりあはず却て盜賊の汚名をめいを付け種々に惡口申つのり候何分勘辨かんべんなりがたく久兵衞を切捨んと存じ候をり御加役方笠原久米之進殿に召捕れかく繩目なはめ恥辱ちじよくを蒙り候事口惜くちをしき次第に存じ奉つり候右新藤市之丞なるもの住所ぢうしよ相知あひしれ候へば私し虚言きよげんに之なきむね御分り相成べき儀に付何卒御威光ごゐくわうを以て同人住所御糺おたゞしの上御吟味成し下され候樣願ひ奉つりたく尤も私し儀市之丞が住所ぢうしよ名前等しかと承まはり置ざるは不念ぶねんの至り恐れ入り奉つり候呉々くれ〴〵も御慈悲を以て是等の儀を御糺明下ごきうめいくだし置れなば久兵衞申かけの段は明白に相分り候儀ゆゑ此段恐れながら御賢慮下ごけんりよくだし置れ候樣ひとへに願ひ上げ奉つり候と文右衞門は如何にも無念むねんさまおもてあらはれこぶしにぎ切齒くひしばりて一伍一什いちぶしじふくはしく申立しかば越前守殿は此趣きをとくと聞れしが今文右衞門が申す口と又女房お政の申す口と少しもたがはず符合ふがふせし而已のみならずかく困窮こんきうの中に具足一領差替の大小并に具足櫃のなかには關ヶ原の軍用金百兩其まゝたくはへ置し程の心懸なれば文右衞門盜賊に是なき事は明白めいはくなりれども百兩を盜みし當人のいでざる中は文右衞門の片口かたくちのみにてゆるわけには成り難く尤も百兩の紛失ふんじつは言掛りなしたる久兵衞こそあやしき者なれととくつけられけれども是とても未だしかとしたる證據なければ詮方せんかたなしよつて文右衞門に向はれ其方申立の儀はこの越前しかと聞置たり猶追々吟味に及ぶコリヤ文右衞門嘸々さぞ〳〵無念むねんなるべけれども大法に因て吟味ちう入牢じゆらう申付ると云渡され扨大岡殿には直樣すぐさま急の差紙にて翌十七日には横山町馬喰町兩國邊の紙屑買をのこらず呼出よびいだされければ紙屑買共は不測ふしぎに思ひ中には少しづつ内證物ないしようものなど買し心覺こゝろおぼえのある者は思ひすごしよりにはか逃亡かけおちをするもあり彌々當日に相成ければ名主町役人差添さしそひにて屑買くづかひ一同南町奉行所の腰掛こしかけ相揃あひそろやがよび込に隨ひ白洲しらす這入はひりかたはらを見るに浪人大橋文右衞門繩付なはつきまゝひかへ居る其外繩取役なはとりやく同心等嚴重に詰合つめあひけり又正面には大岡越前守殿出座有て砂利じやりあひだに屑屋一同平伏なし居るを見られコリヤ浪人文右衞門其方が申立し新藤市之丞と云者此中にるやと申さるゝに文右衞門かしらあげ夫れ是と見分しが又大岡殿へ向ひ此中には市之丞見當みあたり申さずと云ければ越前守殿らば一同さがるべしと有に屑屋の面々めん〳〵は何事やらんと思ひのほか迅速すみやかさげられければ一同ホツと溜息ためいきつきて引取けり因て文右衞門は歎息たんそくなし御威光ごゐくわうを以て屑屋一同御呼出し下置れ一々見分みわけ候へ共新藤市之丞の相知申さゞるは誠に是非ぜひなき次第にして能々武運ぶうん盡果つきはてたる身の仕合せなりと無念の涙に伏沈ふしゝづみ居たりしかば越前守殿も氣の毒に思はれなほまた追々おひ〳〵吟味ぎんみの致し方もあらん然樣さやう存ぜよとて又々傳馬町へぞさげられける扨も斯迄かくまでに市之丞を尋ねられしかども更に其人の知れざるは左右とかく文右衞門がうんつたなき處なるべし


第三十一回


 扨又彼の新藤市之丞當時紙屑屋長八は或日女房お梅に向ひ此程文右衞門の留守中るすちう廿五兩の金を煙草盆たばこぼんの中へ置ては來りしが今日あたりはつかはれしならんか武士の意氣地いきぢを立るとは云ものゝ餘り物堅ものがたき人かなと文右衞門がうはさをなし夫に付ても娘お幸はさぞかしつらつとめならんなどと密々ひそ〳〵はなしの折から親分の武藏屋長兵衞は長八殿どのうちにかと聲をかけながら入來りしに長八夫婦が巨燵こたつの中に差向さしむかひ何かむつまじき咄しの樣子ゆゑ長兵衞は見て是はしたり相惚あひぼれの夫婦はまた格別かくべつたのしみな物私は此年になつても隨分ずゐぶん浦山うらやましいと放氣おどけまじりに贅口むだぐちを云つゝ同くたつに這入はひりしに女房お梅は振返ふりかへりオヤ長兵衞樣能こそ御入下されしと少しあかくなりしが早々さう〳〵ながし元ヘ行甲斐々々しく酒肴の支度をして居るに長兵衞は長八に向ひ此頃このごろ此方こつちの娘がさつぱり見えぬが風にても引しかと問ければ長八は今のうはさを聞れしかと思へども何喰なにくはかほにて何も變ることは御座らねどお幸はよき世話人せわにんありて此間このあひだ備前樣びぜんさまの御屋敷へ見習奉公みならひぼうこうに出ましたと云に長兵衞は僥倖しあはせなり併ながら押詰おしつめてのかぞへ日に嘸々さぞ〳〵ものかゝりしならん我等も夫と知るならば何ぞいはうてやるものを知ざるを仕方もなし時に長八さん今度こんどよんどころなき事にて是非々々貴郎おまへを頼み度事あつてきたが頼まれて呉ねへかと云で長八夫は何の用かは知ね共萬端ばんたん御世話になる貴方あなたゆゑ私しで間に合事なら決して否とは云ません御遠慮ごゑんりよなく御咄おはなしなされと云ば長兵衞は喜びさう請合うけあつて呉れば拙者せつしやまことに頼みいゝ實は私しが兄に清兵衞と云者ありしが若き中は蕩樂者だうらくものにてはしにもぼうにもかゝらぬ人間なりしに先年上方かみかたへ行と云てうちを出たぎりかう便たよりもないゆゑ私しも兄弟きやうだいじやうにて今頃は何國いづくに何をして居けるやら行當り爲撥ばつたりしにはせぬかなどと案じて見たが其後三年ばかり立と不圖ふと讃岐さぬきの丸龜より書状しよじやうが屆いたゆゑ夫を見ると日頃あんくらせし兄清兵衞よりの手紙てがみつきなつかしくはあれども蕩樂者だうらくものゆゑどう善事ろくわけでは有まじとふうひらき見るに今ではごく辛抱人しんばうにんになりし由當時丸龜まるがめにて江戸屋清兵衞と云ては立派りつぱ旅籠屋はたごやになりてくらし居るといふおもむきの手紙也依て漸々やう〳〵私しは安心なし夫より此來このかたたがひに書状の音信たよりして居たりしと話す所へお梅はおかんが出來ましたから一ツ御あがりなされましと湯豆腐ゆとうふなべとくりを持來るに長兵衞是は先刻さつき口止くちどめが併しお氣の毒と笑ひながら豬口ちよくとりさけ辭儀じぎは仕ない者なりおかんよいうち波々なみ〳〵うけこれより長兵衞長八の兩人は酒をのみながら今も云通り兄も近來ちかごろにては丸龜中先一番の旅籠屋だとの評判ひやうばん其所そこで人間の運と云者は知れぬ者元はと云へば些細ささいな居酒屋にて亭主ていしゆが死んだのちは後家一人ゆゑ漸々やう〳〵すゝき洗濯せんたく人仕事ひとしごと片手間かたてまにして其日々々をくらし居たりしが如何なるえんか其後家ごけの處へ兄清兵衞がはひこみそれより辛抱しんばうして段々とかせぎ出し夫に又女房が勿々なか〳〵針仕事はりしごとよくこゝ彼處かしこにて頼まれ夫婦にてかせぎしかばたちまち三四年のあひだに金が出來て普請ふしんをなし旅籠屋はたごやとなり夫に又兄は元より小料理これうりすきにて隨分ずゐぶん庖丁はうちやうめうを得たれば江戸風えどふうに氣がきいて居るとか云れて評判ひやうばんよく少光陰わづかの中に仕出して段々だん〳〵普請ふしん建直たてなほし今にては勿々なか〳〵立派りつぱなる身上しんしやうになりしといふ金毘羅こんぴらへ行たる者が歸りてのはなしなり丸龜にて江戸屋清兵衞と云ば一番の旅宿はたごやだと云事なればよろこ旁々かた〴〵たづね度は思ひしか共五日や十日にては行事も出來ず只々たゞ〳〵かげながらよろこぶばかりなりし處此度兄清兵衞大病たいびやうにて九しやうと云事を申こしたれば是非々々存生ぞんしやうの中に面會めんくわい致し度今にては私しも親はなし親のなき後は兄は親同前なりと云ば是非あひゆくつもりなり併し是もはや押迫おしつまつてかぞへ日にはなるし彼是又暮の始末しまつにて旅立所たびだちどころではなけれ共兄弟きやうだいしやうの別れなれば何有てもあはねばならず夫に付長旅ながたびの事ゆゑ心の知れぬ者を供に連ては道中が心遣ひなれば貴樣何卒なにとぞ一所に行呉ゆきくれよと餘儀なく頼みけるに長八もいやとも云れぬ親分長兵衞の事なれば始終しじうを聞て長八は成程御道理ごもつともの事なり兄樣へ一生の別れと申せば假令たとへ元日ぐわんじつであらうが大晦日おほみそかで有うが是は行ねばならず直に今より御供おともを致さんと心能承知なしければ長兵衞は大いに悦喜よろこび夫では私しも大いに安堵あんどしたり夫なら斯仕樣御前が行てくれるとあとは女一人なれば世帶せたいつひえるからとてもの事に世帶を仕舞しまひむめさんは我等の方へ來て居るがいゝ然樣さうすればあと苦勞くらうもなし安心なりと萬事に拔目ぬけめなき長兵衞何樣公事宿商賣程有て行屆ゆきとゞく事勿々なか〳〵感心かんしんなるものなり扨是より翌日よくじつ早々長兵衞は家主へことわ世帶せたい片付かたづけ女房お梅を親分の長兵衞方へあづけ長兵衞長八の兩人はたびの用意を調へ讃州丸龜をさして急ぎ發足ほつそくなしたりけり是に因て大橋文右衞門の一件に付兩國邊の紙屑屋殘らず呼出よびいだされて文右衞門へ引合せありけれども證人になるべき肝心かんじんの新藤市之丞が居ざりしなり市之丞の長八が讃州丸龜へ發足ほつそくせしは十二月十四日の事にして紙屑屋一同呼出よびいだされしは同月十七日なれば僅に二三日の相違さうゐにて證人の出ざるゆゑ文右衞門一けん落着らくちやくに餘儀なく年を越て翌年享保きやうほ五年のはると相成けり


第三十二回


 扨又馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞は兄清兵衞が大病たいびやうとの手紙故子分の長八を供につれ道中だうちうを急ぎて大坂まで上り此所よりふねに乘しところをりよく海上もおだやかにて滯留とゞこほりなく讃州丸龜へ到着たうちやくし江戸屋清兵衞と尋ねしに直樣すぐさま知れければ行て見るにはなしよりも大層たいそうなるかまひにて間口八間に奧行廿間餘の旅籠屋にてはたらき女十二三人見世番料理番の下男七八人又勝手にはこもかぶりの酒樽さかだる七八本を並べ其前には大盤臺おほばんだい生魚なまうをやまの如く仕入板前いたまへ煮方にかた其外とも都て江戸風をもつぱらとなし料理屋旅籠屋兼帶けんたいなり因て間毎々々まごと〳〵にはとまきやくあり又一時の遊興いうきように來る客も多く殊の外繁昌はんじやうなる見世なれば長兵衞も心の中に是は聞しにまさる家のかゝりかなと思ひながら内へ入コリヤ長八荷物は此處へおろすべしヤレ〳〵草臥くたびれしと云つゝ上りばたに腰をかければ大勢の者立出御早う御着なされました御草鞋おわらぢときませう御洗足おせんそくをとたらひへ湯をくみて持出しおく御座敷おざしきが明て居ります彼處へ入せられまし御さけで御座りますか御ぜんをあげますかと云ながら茶を汲で出すに長兵衞は姉樣酒も御膳もゆるりと後にてよし早速ながら聞度事がある此方の兄の病氣びやうきは如何なり九死一生の大病たいびやうと云手紙が來りしが何な樣子なるか未だ存生ぞんしやうなりやとやぶからぼうに聞ゆゑ女共はきもつぶし御客樣は變な事をおほせられます此方の家には兄だの大病人たいびやうにんだのと云は御座りません男衆も大勢ありますが旦那樣に若衆ばかり皆達者で居ります夫は大方おほかた門違かどちがひで御座りませうと申に長兵衞否々いや〳〵門違かどちがひにてはなし此方こつちの家は江戸屋清兵衞と云ならんと云を女ども聞て此丸龜にて江戸屋清兵衞と申は此方ばかり夫ではちがひ御座りませんと云に長兵衞はたひざうちオヽ然樣さうだ餘り思ひ過しをして跡先に聞し故分らぬはず夫なら此方の旦那清兵衞と云は私しの兄なるが此節このせつ大病たいびやうわづらひ居ると云事いまだにはせぬか達者たつしやで居ますかへ九死一生の病人と聞かれ知らぬはずなりと云時長八傍邊かたはらよりモシ〳〵旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云ておくれと申せば女供は何事なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は不審ふしんに思つて馬喰町からの客人とは合點がてん行ずとかんがへ居るに又々あとからも女共が來り旦那樣へんな客人で御座ります奧座敷おくざしきが明て居ますから御通りなされ御酒にしますか御膳をあげますかと申たらナニ酒も御膳もあとにてよし兄は大病にて九死一生だと云手紙が來しが未だいきて居るかと御尋ねなされたが何だかさつぱりわけが分りませんと云を聞清兵衞漸々やう〳〵かんがへ付手を拍てオヽ然樣かわかつたりと云ながら店へ駈出かけいだしければ女共は彌々いよ〳〵わけが分らずたゞあきはててぞ居たりける是出しぬけの事ゆゑよもや弟長兵衞が年のくれ押迫おしつまつて來やうとは思はずもつとも是まで平常つね〴〵逢度あひたくおもふ一心より九死一生の大病なりと手紙にうそかきつかはしたる事ゆゑ早速さつそくには思ひ出さず暫時しばし考へしが漸々やう〳〵の事にて江戸より弟が來りしかと心付にはかに周章あわたゞしく出來り見るに年こそよりたり弟の長兵衞に相違さうゐなき故清兵衞は大いによろこび是は〳〵長兵衞能こそ來て呉しなり豈夫よもや今年の中に來てはくれまじと思ひ居たりしに能も〳〵遠路ゑんろの所を尋ねて呉しぞ先々草鞋わらんぢといて上るべし二人づれか御前樣大きに御苦勞なり先々御あがりなされ是々お初おくめ我等は何を胡亂々々うろ〳〵して居やる早く洗足せんそくの湯を以て來ぬか氣のきかぬ奴等やつらだナニ其所にある夫なら早く草鞋わらんぢとき何ぜ洗足せんそくをせぬのだと清兵衞はうれまぎれに女共をしかちらして彼の是のと世話せわをやき大勢おほぜいながら餘り目はしのきか奴等やつらだ兄と云ば某しが弟にちがひなし何故早く然樣さう云ないなどと無理むりばかり云中に長兵衞長八の兩人は足をあら仕廻しまう故清兵衞は先へ立サア〳〵遠慮ゑんりよなしに奧へ〳〵と兩人をともなひ行先久々にての對面たいめん互ひに堅固けんごにて目出たしと挨拶あいさつに及ぶ中早や商賣柄しやうばいがらとは云ながら女房も如才じよさいはなく酒と肴を取揃とりそろ自身じしんに持來たれば清兵衞は長兵衞に向ひ嘸々さぞ〳〵草臥くたひれしならん然樣さう何時までもかしこまり居ては究屈きうくつなりモシ〳〵御連おつれしゆ御遠慮ごゑんりよなさるなコレサたひらに〳〵と是より皆々くつろぎ兄弟久しぶりにての酒宴しゆえんとなり女房もそばにてしやくをしながら初對面しよたいめん挨拶あいさつをなしければ清兵衞は弟に向ひ長兵衞是は我等が女房なり以後心安こゝろやすく頼む又遇々たま〳〵來りしに兄嫁あによめなどと思ひ遠慮ゑんりよしては面白おもしろからずひらに心安くなし呉よもしともしゆ遠慮ゑんりよがあつてはわるい心安く御頼おたのみ申と兄弟中の水入みづいらずさしおさへつやゝしば酒宴しゆえんにこそは及びけれ


第三十三回


 扨又長兵衞は兄の清兵衞に向ひ先達さきだつての手紙の樣子やうすにては大病にて九死一生との事なれば大いに心配しんぱい致せしなれども節季せつき師走しはすの事ゆゑ勿々なか〳〵旅立たびたちなどは出來難でぎがたところなるが萬一の事にてもある時は死に目にもあはれずと思ひて取物とるもの取敢とりあへにはか旅立たびだち隨分ずゐぶんみちを急いで來た處に今樣子を見れば大丈夫だいぢやうぶにてわづらひし樣子は一かうえぬか那の手紙は如何なる譯でありしやと云ければ清兵衞は天窓あたまかき成程なるほど不審ふしん道理もつともの事實は我等が大病なりと手紙にかきやりしは虚言うそなりわけを聞てくれ尋常あたりまへの手紙にては手前も一けん主人あるじ容易よういに出て來る氣遣きづかひはないと思ひしゆゑ我等が謀計はかりごとにて九死一生なりと云てやれば如何に遠國ゑんごくにてもことに寄たら來るべしと思ひての事なりしがかくかほを合て見れば我等が謀計はかりごとあたりしなり今にては見らるゝ通り相應さうおう身上しんじやうも仕上たれば貴樣が今度遣ひし二人の路用金位ろようきんぐらゐは損をばかけよき江戸土産みやげつかはすにより緩々ゆる〳〵滯留たうりうして金毘羅樣こんぴらさまへも參りたり江戸にもなきめづらしき船遊山ふなゆさんでもして春になつてからゆるりと歸るがよし然すれば我等も都合して貴樣たちを送りながら江戸見物にゆかうと思ふゆゑひさぶりにて又貴樣の處の世話にならうかと兄弟きやうだいまことを明しあひ久々ひさ〴〵にての對面たいめんに餘念もなき物語ものがたりにぞ及びけるかゝりし程に長兵衞は先兄の無事なるをよろこび心の中には此位このくらゐなら節季せつき師走しはすの中を來らず共能にと思ひけるゆゑ兄さん御前は夫でよからうが私は道々も明暮あけくれお前の事のみあんじられて斯して態々わざ〳〵くるからはせめては死目しにめ逢度あひたしと思ひて何なにか苦勞くらうをしたか知ぬほんに一時に十年ばかり壽命じゆみやうちゞめたとうらみを云ば清兵衞否モウ其話は何かおれまけてくれ往昔むかしの樣に蕩樂だうらくをして貴樣の厄介やくかいに成にはましだらう實は此樣に仕上た身上を見せ度と思うての事なりと云に長兵衞は夫も然樣かとはなしの折柄をりから時に兄さん此丸龜に後藤半四郎と云劔術けんじゆつの先生在しが今にても居らるゝやと問ければ清兵衞聞て夫は當時此四國中にはかたならぶるものなき劔術けんじゆつの大先生なり其上見懸みかけに依ず慈悲じひふかい御人にて金銀に少しも目を懸ずもし貧窮者ひんきうものや病人のある時は醫者いしやに懸て下されたり金銀をほどこされたりめづらしき氣象きしやうの先生なれば近郷近在きんがうきんざいにては生神いきがみ先生々々せんせい〳〵と人々がうやまくらゐなり夫に又我等の處は格別かくべつ御贔屓ごひいきにて女房ははり仕事を能する故後家で居た時分には後藤先生のすゝ洗濯せんだくから衣類を殘らず仕立たれば何なにか御心安くなし今でも縮緬類ちりめんるゐは時々此方へ仕立に遣はさるゝがむかしと違ひて商賣しやうばいいそがしけれ共お馴染なじみゆゑまさかに今では出來ませんとも云れず其度に仕立てあげるなり夫に又先生はごく酒好さけずきにて毎日まいにちみせへ酒をのみに御出なさるがまことに氣さくな御人にて我等の所の酒を飮では外のみせのはのめないとて御たくあがる時には御弟子衆に五升三升づつ取に御つかはしなさる實に古今の酒好先生なりと兄弟きやうだいうはさなしたり

第三十四回


 扨又清兵衞は弟長兵衞に盃盞さかづきをさしながら貴樣は如何して後藤先生を知つて居るやと問に長兵衞然ばえんと云ふもの奇代きだいな者にて今度こんどともつれて來りし此人はもと越後ゑちご高田たかたの浪人にて若き時同家中の娘をつれて江戸へ逃來にげきたる時に在所ざいしよ熊谷宿くまがやしゆくの弟八五郎が見世に休み夫より駕籠屋かごや惡漢わるもの引罹ひつかゝすで路用ろようも女房も取れいのちさへあやふき處後藤先生が上州じやうしう大間々おほまゝなる師父しふの大病にて行れたる歸り道に是も八五郎が見世へ休まれて不圖ふとしたる事から八五郎は此衆このしう夫婦ふうふ惡漢わるもの引罹ひつかゝりたる事を物語りしに後藤先生は其若者そのわかもの不便ふびんなれば助けてつかはさんと云れて熊谷くまがや土手どて追駈おつかけゆき駕籠屋かごや惡漢わるもの共をたゝちら此衆このしう夫婦ふうふを御助けなされ八五郎が家へ連て來り疵所きずしよ養生やうじやうなし夫より八五郎も那通あのとほりの氣象者きしやうものゆゑ不便ふびんと思ひ手紙をそへて私が所へ此衆夫婦と後藤先生三人を送り越せし故後藤先生と相談さうだんして此長八をば私しが世話をして世帶せたいもたせ今では親分子分の間柄あひだがら今度たのんで供につれて來りしも此譯也わけなり又其節先生が廿兩と云う金を出して此衆夫婦を世話をしてくれよと御たのみゆゑ私もかく相談さうだんの上紙屑商賣を初めさせし處僥倖しあはせ繁昌はんじやうして今ではまづ不足ふそくもなくくらし居りて十七歳になる娘一人まうけたり概略あらかた後藤先生の眞實しんじつに御世話下されたるわけは右申通りゆゑ今度さいはひ私が供をしながら昔しを忘れず後藤先生へ御尋おたづね申てあつ御禮おんれいをも申上させんとおもひつれて來し譯なり此樣又機の好幸ひなる事もなし併し月日の立のは早き者にて今年にて十八年以前の事と委細くはしくはなしければ清兵衞扨は然樣なることにて御知り人になりしか成程なるほどえんと云者は不思議ふしぎなる者なりはなして見れば貴樣たちは親分子分私しは又後藤先生とはだい御懇意ごこんいなりと云つゝ不圖ふと四邊あたり見廻みまはつひはなしに身がいり大分だいぶんふけたり嘸々さぞ〳〵草臥くたびれしならん今夜は寛々ゆる〳〵と休むがよしと漸々盃盞さかづきをさめ女どもに云付て寢床ねどこしか各々おの〳〵臥所ふしどに入たりけるさて翌日よくじつにも成ければ武藏屋長兵衞并に長八は後藤先生へ尋ね行んと思ひ主人あるじの長兵衞へ何ぞ土産みやげをと相談さうだんしけるに長兵衞は遠方を來た事ゆゑ土産みやげもたぬとて矢張やはりさけがよしほかの物は何を上ても其樣におよろこびなされず酒さへ上ると夫は〳〵何よりのお悦びなり我も同道どうだうせんにより夫は我等が宜樣よきやうにするとて五升入の角樽つのだるへ酒を入熨斗のしを付一尺餘りのたひを二まい肴籠さかなかごに入てサア〳〵是では隨分ずゐぶんはづかしからずと支度したくをなし是より三人づれにて丸龜城下なる後藤半四郎の方へといたりけり又後藤方にては此日は丁度ちやうど稽古日けいこびにておほく門弟もんていあつま竹刀しなひおと懸聲かけごゑかまびしく今稽古けいこ眞最中まつさいちうなる所へ三人は玄關げんくわんかゝ案内あんないを乞ひければおくより竹具足たけぐそくつけいまめん小手こてを取たるばかりにてせい〳〵といききりながら一人の門弟もんてい取次とりつぎに出を見て長兵衞會釋ゑしやくなし私しは江戸表馬喰町の新藤市之丞と申者に候が久々にて後藤先生の御機嫌伺ごきげんうかゞひに參上仕りたり此段このだんよろし御取次下おんとりつぎくださるべしと云に門弟の者右の由を後藤へ申けれどもいま稽古けいこ眞最中まつさいちうにて取次の云事は少しもみゝに入ず稽古けいこ邪魔じやまなりとしかり付られ門弟はきもつぶして又々玄關げんくわん立出たちいでもし名前なまへちがひはせぬかと聞に長八いや相違さうゐ御座なく先年熊谷土手にて御世話にあづかりたる者にて候と云ば門弟は然樣かと云ながら稽古場けいこばへ行て見るに今後藤は稽古をやすいきを入て居けるゆゑ怖々こは〴〵前へ行先生只今の者に能々うけたまはりし處熊谷にて御世話になりたる者のよしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者大方おほかたふぢつぼねであらうがそれがしは是まで女に心安き者はなきはずなりと淨瑠璃じやうるり狂言きやうげん洒落しやれを云ゆゑ門弟には少しもわからず當惑たうわくして居るを後藤は是々其者の名前は何と申やと云に新藤市之丞と申せしと聞やいなや後藤扨とは云ながら稽古けいこ形體なりにて玄關げんくわんへ出來り是は〳〵めづらしや市之丞殿能こそまゐられたりしてまた長兵衞殿清兵衞殿も同道どうだうか何れもめづらしき人々先々此方へ〳〵と云ながら一間ひとまへ通しやれ〳〵久々ひさ〴〵なりとたがひに一べつ以來のじやうのべ夫々それ〴〵挨拶あいさつに及びしが此度兄の病氣の間違まちがひとも云はざれば金毘羅樣こんぴらさま參詣旁々さんけいかた〴〵昨夜さくや此清兵衞方へ到着仕たうちやくつかまつり取敢とりあへず御機嫌伺きげんうかがひながら先年の御れいに市之丞同道にて參上仕さんじやうつかまつりしと申ければ後藤はよろこびて清兵衞に向ひ貴樣の所の此客人達このきやくじんたちすこ仔細しさい有て昔し馴染なじみの者なり其仔細そのしさいあとにて寛々ゆる〳〵はなすべし時に長兵衞殿此清兵衞殿と云男は勿々なか〳〵如才じよさいなき者なり夫の又女房が縫針ぬひはりわざは大の上手じやうずにて某しも仕立物したてもの度々たび〳〵たのむなりと語るに清兵衞は傍邊かたはらよりすゝみ此長兵衞儀は私しがじつおとゝに候と申せしかばナニ長兵衞殿は貴樣の弟なりとや然樣さやうえんと云者は不思議なる者なり然すれば三人ながら親分子分兄弟の中別して遠慮ゑんりよはいらぬまづ打寛うちくつろぎてはなすべしと是より後藤は稽古けいこやすみ弟子中へことわりて歸しふたゝ座敷ざしきへ來りしに清兵衞は五升入の角樽つのだる鮮鯛せんたひをりそへて出し先生是は餘り御麤末おそまつなれども長兵衞長八兩人の御土産おんみやげなり御受納ごじゆなふ下さる樣御願ひ申上ると云ば後藤は此品々を見て是は〳〵手厚てあつ土産みやげ何よりの好物かうぶつしか澤山たくさんめぐまれ千萬かたじけなし清兵衞貴樣の店の酒を飮では外の酒は一かうのめなに結構々々けつこう〳〵と大いによろこ直樣すぐさまさかな調理こしらへさけひら酒宴しゆえんにこそは及びけれ


第三十五回


 扨長八は先年熊谷土手にてたすけられたる事より廿兩の金子を惠まれたる事まであつれいのべ其後夫婦とも暫時しばらく病氣なりしが漸々やう〳〵全快なしそれより長八と改名して紙屑買となりしに僥倖しあはせよく追々おひ〳〵繁昌はんじやうして先不自由もなくくらす中お幸といふ娘迄むすめまでまうけたる事など物語ものがたり是と云も皆先生の御庇蔭おんかげなりとあつれいを云に後藤もよろこそれは長兵衞の深切しんせつと貴樣のうんよきゆゑなりなどと種々樣々のはなしにうつりしが其日はいとまつげて江戸屋へかへり頓て其年もくれ正月にもなり家々の年禮もすみしかば半四郎は幸ひよき道連みちづれなれば當春たうはるは江戸表へいでて無刀流劔術の道場をひらかんと思ひ立當地の道場をば高弟にゆづり長兵衞長八兩人十四五日逗留の中に半四郎は支度を調とゝのへ長兵衞長八を連れて江戸屋清兵衞にわかれをつぐるに清兵衞も萬端世話をなし土産物みやげものは先達て便船にたのみ置路用金等迄長兵衞につかはたがひに暇乞いとまごひに及びて讃州を出立なし三人は道中とゞこほりなく江戸馬喰町なる武藏屋の見世へ到着しければ家内は一同に出迎いでむかへ道中つゝがなく歸りしをよろこぶ事限りなし其中にも日々に待居まちゐたりしは長八が女房お梅にて歸るやいなや長八を一ト間に呼び去年極月中旬町御奉行所より此邊の紙屑問屋并に屑買を一同に御呼出およびいだしにて御尋おたづねありしが段々其樣子を聞しに山崎町に居る浪人者が百兩の金をぬすみ其金にて質物しちもつ受出うけいだしたる事露顯して召捕めしとられ其盜賊の引合なりと申事にて如何にも樣子やうすが氣にかゝり萬一文右衞門樣の御身の上にかゝはる事ではある間じきやと思へども御前さんも長兵衞樣も留守るすの事なりほかはなあふひともなしまことに女の身のかなしさは只々蔭ながら文右衞門樣を御案じ申ばかり兎角私は氣懸きがかりなりと女房のはなしを聞て長八は眉に皺を寄成程夫は氣に懸るは道理なり己も屑買はすれどもナニ不正の品を買ものか併し何にしても變な事と小首をかたむけしがいな是は質物を受出うけいだしたるに付露顯したると云ば分りしなり夫は彼の廿五兩の金よりの事ならん其節質屋より質物がながれるとて度々嚴敷催促なりしが右の金にて其品を受出うけいだせしゆゑうたがひのかゝりしも知れず是と云も袖乞そでごひの身分にて云ば不相應なる大金の事ゆゑ疑ひのかゝるまじとも云難し何にしても文右衞門樣が盜賊などなさる氣遣きづかひなけれど己もきゝてはすておかれず何分氣にかゝるにより明日は早々山崎町へ行て文右衞門樣を御尋おたづね申さんと夫婦相談に及びたり扨翌日にもなりければ長八夫婦は早朝さうてうより兩人して山崎町乞丐頭長屋がうむねながやなる大橋文右衞門方へと志ざしてぞ出行ける


第三十六回


「我がかげの我をおひけりふゆつき」と人之をうたがふ時はやなぎかゝ紙鳶たこ幽靈いうれいかとおもひ石地藏いしぢざう追剥おひはぎかとおどろくがごとし然ば大橋文右衞門の女房お政はをつとの身の上を種々に案じたるに豈計らんや紙屑屋長八夫婦御免なされと云ひながら入來いりきたるを見るとひとしく挨拶あいさつもせざる中に長八に獅齒付しがみつき胸元むねもととつ捻居々々ねぢすゑ〳〵こゝな市之丞殿の恩知らず御前の置て行たる金ゆゑ夫文右衞門は盜賊のうたがかゝりて召捕めしとられ入牢となりし無實の災難夫になんぞや去暮中御奉行所へ紙屑買を一同御呼出になり御尋おたづねありし時は一向に其場へ面出かほだしもせず夫ゆゑ今にをつとあかりも立ず不實と云ふもあまりあり御前の在家ありかさへ知れなば文右衞門の身分は直樣すぐさまあかりが立御免のあるに相違さうゐなしうらめしきは市之丞殿と女心をんなごころの一圖にせま口惜紛くやしまぎれに市之丞へ喰付呉んとするゆゑにお梅はあきれて茫然たりしがマア〳〵御新造樣其所を御放し下されようらみは御道理ごもつともなれどもそれには種々いろ〳〵わけがあり先々御氣をしづめて一とほり御聞下され度と長八諸共もろともなだむると雖どもお政は更に聞入ず否々私し共に何かうらみのあつてしたる業ならん私しのをつと召捕めしとら入牢じゆらうとなり此寒氣に若や牢死したなら私しは如何せん恩を仇でかへすとは御前方夫婦の事サア〳〵只今直に夫文右衞門が身のあかりを立出牢させて下されとなきうらみかき口説を市之丞夫婦は一々御道理ごもつともには御座れども何卒御新造樣私し共の申事を一通り御聞なされて下さりませ貴方あなたやうおつしやつたばかりではわけわかりませず私共の申事を御聞成れた其上にて不實のかども御座るなら如何樣共思召次第に成されましと種々樣々になだすかしければお政は漸々やう〳〵に手をはなすにぞ長八はえりかき合せ其譯と云は舊冬此方こなたまゐりし後親分の長兵衞にたのまれ十四日の日に出立しゆつたつして讃州丸龜へまゐり昨晩江戸表へ歸りし處女房お梅が去暮中紙屑屋仲間一同御番所へ御呼び出になりし始末しまつはなせしゆゑなににしても文右衞門樣の御身のうへあんじらるゝによりいそぎ只今御尋おたづね申せしわけまた大恩だいおんうけたる文右衞門樣になに意恨いこんあつて御難儀ごなんぎになる事を仕出しいだしませうまつたく舊冬御呼出およびいだしの節は丸龜へまゐりし留守るすの事又貴方あなたおいて參りたる廿五兩の金は私し共夫婦相談さうだんの上一人の娘を吉原よしはら身賣みうりせし金子にてたしかなりそれと申も十八ヶ年以前の御恩がへしとぞんじていたしたる其金故にかへつて文右衞門樣のあだとなりしはまこと御氣毒おきのどくともなにとも申樣も御座なくことに又肝腎の町所名前をも申置ず夫是それこれにて無實の御難儀をかけしこと誠に面目次第も御座なく候との物語ものがたりを聞て女房お政は大いにおどろき扨は然樣な事にてありしかと今さらうらみを云しが面目なく而て又其一人娘を吉原へつとめ奉公にやられたとは扨も〳〵いたはしき事如何にむかしの恩あればとて夫程までに御夫婦が御心盡こゝろづくしをなされしものを勝手の事而已云並べ無恥はすはな者と思されんはかへす〴〵もはづかしやとかほあからめて詫入わびいるにぞ長八夫婦はナニ〳〵其樣におほせられては却て私し共も面目なし何は兎もあれ然樣云事いふことなら直樣是より家主を同道なし御奉行所へうつたでて文右衞門樣の證人となり早々御差免しに相成樣御ねがひ申候はんかならず〳〵御心強こゝろつよく思し召下めしくだされよと長八夫婦は暇乞いとまごひしていそぎ馬喰町へと歸りけりこゝに又後藤半四郎は旅籠屋長兵衞方に滯留して居けるが今日長八夫婦の者見えぬゆゑ長兵衞を呼長八は何れへゆきたるやと問に長八は何か急用きふようありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎然樣さう親類しんるゐにても有て行たるやと云に否何か外の用達に參りし樣子なるが山崎町と云處は乞丐頭長屋がうむねながやばかりあつて浪人者や物貰ものもらひの住居する所なりと云ば半四郎それでは長八は二人して一もんもらひにでも出掛でかけしか歸り〳〵よくかせぐ男なりと大いにわらたる所へ長八夫婦は歸り來りしかば後藤は是を見て長八貴樣きさまいづれへ行しやどうもらひはありしかと云ば否先生御戯談所では御座りませんじつ大變たいへんが出來ましたといふを聞長兵衞夫は何が大變たいへんだと云に長八まことに大變なり親分に御相談申さねばならずそれつけても是まで親分にはかくし御咄おはなし申さざりしが私し共夫婦はかねて御存じの通り國元くにもと逃亡かけおちなし江戸へきたりしももとはと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人のなさけにて兩人がいのちたすかりことに廿兩といふ金迄かねまでめぐまれ路用として江戸へ來りしわけなるが道中にても先生の御恩になり又親分のあつき御世話にて今日までも無難にくらるも是皆樣の大恩だいおんなりしかるに去年の極月初旬はじめ淺草あさくさの觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂をとほかゝりしに深編笠ふかあみがさかぶりて黒絽くろろ羽織はおりのぼろ〳〵したるを如何にも見寥みすぼらしき容體なりをしてうたひをうたひながら御憐愍々々ごれんみん〳〵と云つゝ往來にたつて袖乞をする者あり其者の羽織はおりの紋がまるに三つ引ゆゑはてな羽織はおりの紋と言葉遣ことばづかひと云大橋文右衞門によくるがもしや浪人でもして零落されたることかと思ひて有合ありあひぜにを七八もんやりしに有難うとふ其聲音迄文右衞門に寸分ちがはずあまり不思議に思ひしかば立止たちとゞまつてかさうちを見樣と思ふ中其浪人は日暮ひぐれなれば仕舞しまひて歸る樣子やうすなれどもむしの知らせしか文右衞門にちがひなしとこゝろへ夫よりあとつけ見屆みとゞけしに山崎町の乞丐頭がうむね長屋ながや這入はひりしかば其所をたづねて見るにはたして大橋氏なるゆゑ私しもハツと思ひて何の言葉ことばも出ざりしが漸々やう〳〵の事にて段々だん〳〵樣子やうすを聞に八ヶ年以前主家の騷動にて浪人なし斯樣々々かやう〳〵とのはなしに付私しはきもつぶれるのみか如何にもどくに存じヤレ〳〵國元では五百石取の物頭役ものがしらやく大橋文右衞門と云れた人が今一もんもらひの袖乞とはなさけなしともあはれとも餘りの事の困窮こんきう零落れいらくと思へば〳〵思ふほど何分なにぶん其儘そのまゝ見ては居られぬにより直樣宿へ歸り女房お梅に相談さうだんの上昔しの恩報おんはうじにむすめかう吉原よしはら玉屋山たまやさん三郎方へ五十兩に身賣みうりして其内廿五兩を文右衞門のたく持參ぢさんなしむかしの恩報おんはうじなりと差出さしいだせしところ物堅ものがたき文右衞門なれば何と云ても請取うけとられず私しも仕方なき故かんがへ居たる中文右衞門は留守るすになりたるをさいはひ何も云ずに右廿五兩を煙草盆たばこぼんの中へ入れおきかへりたりしかるに其金にて文右衞門が質物しちもの請出うけいだせし處一文もらひの浪人者が一夜の中に金の出來るはずはなし殊に文右衞門が流れの云譯いひわけに來たる時に帳箱の上におきたる百兩の金子紛失ふんじつしたる故何でも文右衞門がぬすみとりたるにちがひなしと質屋しちやの番頭久兵衞と云者が云懸いひかゝりて彼是とあらそひとなりしに文右衞門は盜人ぬすびと惡名あくみやうを付られたるを殘念ざんねんに思ひ切てすてんと逃出にげいだす久兵衞を追懸おひかけをり火附盜賊改ひつけたうぞくあらため役小出兵庫樣の御組下笠原粂之進とか云ふ人に召捕めしとら入牢じゆらうとなりしを文右衞門の女房が大岡樣へ御直訴訟ごぢきそしようをなし夫が爲舊冬きうたうへんの紙屑屋を御奉行所へ御呼出しになり文右衞門へ引會ひきあはされしところ其節そのせつ折惡をりあしく私しが御當地に居合せざれば文右衞門が金子の出所しゆつしよあきらかならず因つて今に入牢じゆらうなし居る由實に親分大變が出來たるなりと云ば私しの親切しんせつかへつあだとなりおんある人に難儀なんぎかけし樣なるもの然れば私しもかうしては居られぬゆゑ是よりすぐに御奉行所へ駈込訴かけこみそを致し其金の證人に成うと思ふにより何卒どうぞ親分おやぶん願書ぐわんしよしたゝめて下されと一じふの物語りを長兵衞は聞て成程なるほど夫は大變な事貴樣のつかはしたる金よりうたがひをうけ無實むじつなんおちしと聞ては如何にも見て居られぬは道理もつともなり願書ぐわんしよは元より商賣柄しやうばいがらしたゝめるのに手間隙てまひまは入らず然ば長八ナゼ貴樣はむすめを賣しや可愛かあいさうに只一人娘のお幸を身賣みうりせず共廿五兩の金子は何れ共出來やうに此長兵衞と云親分が付て居るぞ然程さほどの事なら我等に相談さうだんするがよし私しも馬喰町での武藏屋長兵衞旅籠屋仲間にて人にも知られし男なり長兵衞の子分が一人娘をうつたなどと云れては此長兵衞が面目めんぼくなし如何にもすてては置れぬことなら最初さいしよより斯樣かやう々々の譯也わけなりはなしもあれば假令たとへ手元てもとに金はなくても廿五兩位の金は何れとも融通ゆうづうは出來る者を我等にはなしもなく大事の娘を賣などとは長八貴樣にも似合にあは心底しんていなり先達さきだつて云し時は屋敷やしき奉公ほうこうつかはしたりとよくも人をあざむきしなど申に長八はひたひなでいや然樣さやう云るゝと實に面目めんぼく次第もなし併し年中御世話にばかりなり其上節季せつき師走しはす押迫おしつめての金の才覺さいかくあまり心なしに御話おはなしも出來ぬゆゑよんどころなく淺草田町の利兵衞と云國者を頼んで江戸町の玉屋山三郎方へうりわけまことに申わけ御座らぬと申せば長兵衞よし〳〵お幸は不便ふびんなれ共今更いまさら詮方せんかたなし其中には受出す樣に仕やう先夫はあとの事差當さしあたつて文右衞門樣の一けん片時かたときすてては置れず早々さう〳〵願書をしたためんと用意よういにこそはかゝりけり


第三十七回


 扨又長兵衞は願書をしたためんとするに先よりかたはらにさけ呑居のみゐたりし後藤半四郎は長八が話しを聞夫は何にしてもどくなる事なり併し其金を返せし處は實に頼母敷たのもしき心底しんていなるが今のはなしの樣子やうすにては其大橋氏へ百兩の金が紛失ふんじつしたと言懸いひがかりし油屋の番頭こそ不屆ふとゞきなるやつなれ浪人しても帶刀たいたうする身が盜賊たうぞく惡名あくみやうを付られては其分に差置さしおかれずと云は道理もつともなり番頭久兵衞とかいふやつこそあやしき曲者くせもの其者そのもの嚴敷きびしく吟味ぎんみせば文右衞門殿のあかりは立に相違なし是長八貴樣案内あんないをしやれ某し是より直樣油屋へ踏込ふみこんで久兵衞とか云ふ奴を引捕ひつとらへて聞糺きゝたゞくれんとおびしめなほして立上りたり後藤は元來ぐわんらい仁心じんしんふか正直しやうじき正路しやうろの人なれば斯の如き事を聞時はしきりににくく思はれ他人ひとの事にても何分なにぶんすて置れぬ性質せいしつなり是犬はやうにして正直なるけものゆゑねこたぬき其外そのほか魔性ましやう陰獸いんじうを見る時は忽地たちまち噛殺かみころすが如しおのれせいはんして陰惡いんあくたくむものは陽正やうせいの者是を見分けんぶんするにしのびざる所なり故に此半四郎も己正直なる心より番頭久兵衞がよこしまなるを聞て立腹りつぷくし殊に又今酒をのんだる一ぱい機嫌きげんゆゑ猶々なほ〳〵いきどほりはげしくたゞちに油屋の見世へ踏込ふみこんで番頭久兵衞を引捕ひきとらへ目に物見せてくれんずとのゝしるこゑを聞一ト間のふすまさつ押開おしひら御免成ごめんなされと長兵衞の弟なる中仙道熊谷宿の寶珠花屋はうじゆはなや八五郎此所へ入來たり是は〳〵後藤先生新藤市之丞樣まことに久々の御目どほり先々御機嫌きげんよく恐悦きようえつに存じ奉つる道理だうりこそ先程さきほどより一ト間の内にて御はなしのこゑうけたまはるに扨もよくたるおこゑなりと存ぜし處果たして後藤先生なりと云ば一同も是はとおどろき長兵衞は八五郎に向ひ貴樣は何時頃いつごろ出府しゆつぷしたるや己は昨日歸つたばかりゆゑうちの御きやくも知らざりしと云に八五郎いや私は此間中より來て居るが兄貴あにきは四國へ行て未だ歸らずと云しまこと思案しあんに餘りし事が出來て心配しんぱいなりと云をかたはらより後藤はコリヤ八五郎殿まことに久しぶりなり貴樣の世話に成しもやゝ十七八年にもなるべし思へば一と昔し半の餘なるが貴樣の娘は無事ぶじ成人せいじんせしなるべし最早もはや年頃としごろゆゑむこにてももらひしかかはる事もなきやと尋ねられ八五郎はいなたづね下され有難ありがたく其娘の事にて今度こんど出府しゆつぷ致せしなり長兵衞殿先一通り聞て下され兄貴あにきも知らるゝ通り去年きよねんあき中山崎町に居る國者の山田屋佐兵衞が仲人なかうどにて先は質屋渡世土藏もあり地面ぢめんもち相應さうおうの身上との事ゆゑ相談さうだんなし油屋五兵衞の息子むすこ五郎藏と云者へお秀を百兩の持參金にて支度したくそれ相應さうおうにしてよめやつた所が其聟殿そのむこどの餘程よほど拔作ぬけさくにて仕方なしと雖ども折角えんあつて行たる者なれば先々まづ〳〵いますこ辛抱しんばうせよと云聞いひきけたる處其舅と云者は大の女好をんなずきにてよめ寢所ねどころへ來ては口説くどきたてるよしまことあきはてたる事なり夫にまだ大變なる事あり其店の番頭久兵衞と云者はおそろしい惡黨あくたうにて是も主人のよめの處へ毎夜々々這掛はいかける由右のわけなれば人にはなしも出來ず兎角とかくむすめ居耐ゐたゝまれぬゆゑ此間中駈出かけいだし來りしなり因て離縁りえんにするつもりにて媒酌なかだち段々だん〳〵掛合かけあひし處親亭主を見捨みすてて出行たる女なれば持參金ぢさんきん道具だうぐ勿論もちろん離縁状りえんじやうまで出す事はならぬと云張いひはりまことこまはてたるゆゑまゝすてても置れず故意々々わざ〳〵出府しゆつぷして自身じしん掛合處かけあふところむこ大馬鹿おほばかなりしうとの五兵衞は何日行ても一寸ともあはず唯店の久兵衞と云者ばかり一人彼是云て何れにもらちあかず尤も向うが何樣に惡敷あしきとも親亭主を見捨みすてたと云かどがあるゆゑ道具だうぐ衣類いるゐは云までもなく百兩の持參金ぢさんきんはとても返す氣遣きづかひなしと思ふゆゑそれそんをしてもかまはぬが何分なにぶん離縁状りえんじやうを出さぬにははなはこまはてたり何にしても番頭久兵衞と云やつつらにく言葉ことばにものべられず兄さん何か仕方はあるまいかと云ふを傍邊かたはらに聞居たりし後藤は彌々いよ〳〵立腹りつぷくし夫は如何にも油屋の奴輩やつばら不屆ふとゞきなり何にしても其久兵衞といふやつ惡者わるものに相違なし主從しゆじうしてよめ不義ふぎ仕懸しかけるとは大膽不敵だいたんふてきなり其上離縁状りえんじやうを出さぬなどとは彌々捨置すておかれず此一件は貴樣たち承知しようちしても此の後藤半四郎が承知しようちならぬ是よりすぐに某し自身じしんに行て百兩の持參ぢさん衣類いるゐ諸道具しよだうぐ離縁状りえんじやうまでも殘らず取てつかはすべし又向うにて種々いろ〳〵云て其品々を出さぬに於ては主從とも引摺出ひきずりだし奉行所へ召連めしつれ訴訟そしようして一言もいはせぬ樣にせねばならぬコリヤ長兵衞久五郎貴樣たち案内あんないを頼むサア〳〵山崎町へ行油屋へ押込おしこんで遣らんと云故長兵衞と久五郎の兩人ははなは心配しんぱいなし先生せんせい貴公あなた御氣象ごきしやうでは御立腹ごりつぷくなさるゝも御道理ごもつともなれど先々よく咄合はなしあふて大ぎやうにならぬ樣に懸合かけあふが宜しく何れにも明日の事に致すつもりなればかく御鎭おしづまり下されよと漸々になだめけり


第三十八回


 されば後藤半四郎は明日こそ是非々々それがし同道すべし待構まちかまへたりさて又長八は何にしても大橋文右衞門樣の御事を跡廻あとまはしにはならぬと云を長兵衞久五郎の兩人今其事をうつたへなば第一貴樣きさま始め我々われ〳〵まで其一件に身體からだしばられて仕廻しまうによりまづ離縁状りえんじやうとり此一件を片付て後に大橋樣の一件にかゝらんと相談さうだんを極めかく明日仲人なかうど佐兵衞をつれて山崎町へゆき懸合かけあふ事にせんと申すに後藤も是非々々同道すべしと云ふゆゑ長兵衞八五郎は甚だ心配なしもし先生を同行して行時ゆくときは餘り強氣がうぎなる事をして大騷動おほさうどう仕出しいださねばよいがと思ふゆゑ今一おうわたくどもかぎりにて掛合かけあひ夫にてもらちあかざる節は先生に願はんと申に後藤はなに貴樣きさまたち其樣に心配する事はなし某しとてもまんざら如才じよさいの事はせずまづ斯樣かやうにすべし拙者せつしやが八五郎殿の弟分おとゝぶんになり親類なりと云つて行ば仔細しさいなし貴樣達は先へ行て一通り懸合かけあはれよ某しは其中おもて待居まちゐ彌々いよ〳〵貴樣達の掛合らちが明ずば其時に油屋へ踏込ふみこんで掛合遣さん其つもりにしては如何と云ば皆々みな〳〵承知しようちなしたりけり扨翌日よくじつに相成ければ後藤半四郎は長兵衞八五郎同道にて山崎町へゆきまづ仲人なかうどの山田屋佐兵衞方へ立より今日は是非々々娘が離縁状りえんじやうもらはねばならず夫に付我等兄弟共へはなせし所が持參金ぢさんきん衣類道具等までも損をして離縁状計り取とは餘り馬鹿氣ばかげた事とて不承知ふしようちを申餘り無法の挨拶あいさつなりと云に付今日其弟を同道して參りしなり御苦勞ながら御出下されよと云に仲人なかうど佐兵衞は是をきゝモシ八五郎さん御前に弟はなきはずなるが其弟と申さるゝは今迄何地いづれ御在おいでなされしやと問ければ八五郎はぬからず御前さんの御存じなきも道理もつともなり幼少えうせうの時さとに遣して其儘そのまゝ縁切えんきりになし置しが今にては段々だん〳〵出世しゆつせして四國の丸龜に於て劔術の師匠ししやうをなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の對面たいめんにて何やかやはなしたるわけなり夫に付今日同道して來たりしと云ふに佐兵衞は然樣さやうなるか道理こそ私しは知らぬ筈なりと是より半四郎長兵衞長八仲人佐兵衞を同道して油屋へ掛合かけあひいたり半四郎をば門口にまたおき長兵衞八五郎佐兵衞の三人は油屋の見世へ上り込に此日油屋五兵衞親子は大橋文右衞門の一件にて奉行所へ呼出よびいだしになりて見世みせには番頭久兵衞只一人帳場にひかへ居たりしかば三人の者はまづ一通りの挨拶あいさつに及び扨久兵衞殿此間中より度々たび〳〵御懸合おかけあひ申せし通り娘事先は御縁ごえんのなきわけなれどうか今日こそは離縁状りえんじやうつかはされて下されはや斯樣かやうになりて當人の氣の進まぬものを無理に押付て元のさやをさめるといふわけにはまゐらず私しどもの方にても彼是かれこれと申日に御懸合のすぢもあると云ものゝ其所そこを申て見ればふたもなきわけ勘辨かんべんしていはずに居るが花なりどうか離縁状を出して下されと云に番頭久兵衞は空眠そらねぶりをして居たりしがいな其事そのことは前々より申通りおや亭主ていしゆを見捨て逃出したる嫁に離縁状はやられぬと主人も申きけられことに今日は兩旦那りやうだんなとも留守るすではあるし假令よしやまたうちに御出なされて御はなし申た所がおやをつとに暇を呉た女へすぐ素直すなほに離縁状を御出しなさいとははたからも云れぬなり若旦那にも存じ寄りありといはれし故にもかくにも離縁状は出されぬから何れとも御前方の存分ぞんぶんになさるがよいこゑあららかに云放いひはなしたり


第三十九回


 扨又長兵衞は八五郎が掛合かけあひを聞き番頭さんには一おう御道理ごもつともの樣なれ共決しておや亭主ていしゆ見捨みすてたと云譯いひわけにてはなくよめの方にもよく〳〵居耐納ゐたたまれぬわけある故也八五郎の娘ばかり惡きとも云難いひがたく夫を彼是かれこれあらたてをすればしうと五兵衞殿は勿論もちろん御前までへも恥辱ちじよくあたふる譯なれば私し共の方にて云ぬ中が花なり御前とても此見世このみせ支配人しはいにん同樣に御出なされば御前の取計らひ一つにて何れともなることと思はれる私しどもゝ同じ御咄おはなしばかりを何時迄も致すは迷惑めいわくなり殊に又私しの末の弟がツケしくふゆゑ何か最初さいしよより申通り持參金ぢさんきんの百兩衣類道具代等は兎も角も離縁状りえんじやうばかりを遣はされて下されすれば御前の方は十分ならんと申に久兵衞コレ馬鹿ばかな事を云なさるな御前親類書しんるゐがきにも八五郎殿のほかに弟はなき筈なりよし分つたり是は定めて出入師とか公事師くじしとか云ふ者をつれて來りしならん面白おもしろし〳〵何でも連てるがよし此久兵衞が相手なり親夫に暇をくれた女に離縁状は勿論もちろん持參金ぢさんきんなどは少しも返す事成ずいざ公事師くじしにても何でも連て來るべし此方よりこそ願ひ出べきと思ふ處なり此久兵衞が相手になれば奉行所へ出樣が公方樣くばうさまの御前であらうが立派りつぱ言開いひひらきて見せるサア〳〵いづれとも勝手にせられよと大聲にのゝしりければ佐兵衞八五郎の兩人は心中に此處こゝへ後藤先生を呼込よびこんでは必らず騷動さうどうにならんと思ひ腹の立のをこらへ〳〵て久兵衞をなだめ離縁状を取んとすれ共彼勿々なか〳〵聞入きゝいれず猶々つのりて不法を云ゆゑよんどころなく後藤半四郎を呼に此方の後藤は先刻せんこくより表に立て懸合かけあひの樣子を聞居きゝゐたりしが元より氣象きしやう濶達くわつたつの人故ぢり〳〵氣をいらち今に見よとうでさすつてまつ處に八五郎が呼込や否や油屋の見世へをどあがりたり其體そのてい赤銅造しやくどうづくりの強刀がうたうを帶し段織だんおり小倉の大縞おほじまなる馬乘袴うまのりばかま穿うがち鐵骨の扇を持て腕捲うでまくりなしたる勢ひ仁王の如き有樣ゆゑ番頭久八アツと云ておく逃入にげいらんとするを半四郎は腕さしのばして久兵衞の首筋くびすぢ引掴ひつつかみ忽ち其所へ捻伏ねぢふせ玄翁げんおうの如きこぶしを振上ふりあげ久兵衞が面體を二ツ三ツ打叩く故久兵衞は大いに恐れ何卒御免下され御侍士樣おさぶらひさまどうぞ命ばかりは御助け下さりましと只管ひたすら詫入わびいるを後藤は猫の仕置をするやうに鼻づらをたゝみ摺付すりつけ々々己れが此店の久兵衞とかいふやつおのれ番頭の身を以て大膽不敵だいたんふてきにも亭主が馬鹿なりとて主人のよめへ不義を仕掛しかけ人外者にんぐわいものめと又々鼻づらをこするゆゑ御免々々と泣叫なきわめくを是よくけ汝は主人五兵衞とやらと兩人してよめのお秀へ不義を仕掛るは主從共そろひも揃ひし畜生ちくしやうどもよつて嫁のお秀も居耐ゐたゝまれず終に逃出にげいだせしなり夫になんぞや親亭主を見捨て駈出かけいだしたる女故離縁状を出されぬの持參金道具迄も渡されぬなどとは極惡不道ごくあくぶだうの申分只今持參金の百兩衣類諸道具へ離縁状をそへて出せもし出さぬに於てはおのかうしてくれんと又々こぶしを振上ければ久兵衞は兩手を上げアヽ何卒どうぞ御勘辨ごかんべん下されよおほせの通り持參金も離縁状も殘らず差上申べし何卒なにとぞ御助け下さる樣ひとへに願ひ奉つると涙を流してあやまるにぞ後藤は漸々やう〳〵勘辨して遣はさんと云ながら引起しよく〳〵顏を見たりしがはておのれは何處どこでか見た樣な奴オヽ夫々それ〳〵片小鬢かたこびん入墨いれずみにて思ひ出したり汝は〳〵不屆なる奴と白眼にらみ付られ久兵衞は再びおどろき何とぞ御武家樣御慈悲ごじひを願ひ奉つると何か樣子有氣に疊へ天窻あたま摺付すりつけ々々詫入わびいりつゝ持參金の儀は此節店の都合も御座れば二三日御待下さるべし荷物并びに離縁状の處は兩主人歸り次第しだいきけ今晩こんばんにも直に御宿所まで持參仕り候はんにより呉々くれ〴〵も是までの不都合ふつがふ御勘辨ごかんべん下さる樣ひとへに〳〵願ひ上奉つるとふるへながら平蜘ひらくもの如くになりて申ゆゑ後藤はやゝ言葉をやはらげ然らば屹度きつと間違まちがひなく馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ持參せよもし違約ゐやくに及ばは直樣すぐさま汝を引連ひきつれ訴訟そしようするぞ急度きつと間違へなと申先是にて概略あらましきまりしなりいざ皆々歸るべしと後藤は立上るに三人もともに出立しが仲人なかうど佐兵衞へ別れを告げ馬喰町ばくろちやうさして歸りける


第四十回


 さて道々長兵衞八五郎は後藤に向ひ彼の久兵衞と云ふ奴は先生を見ると大いにきもつぶせし樣子にて無闇むやみに手を合せて御慈悲々々おじひ〳〵あやまりたる可笑をかしさよ尤も先生の勢がすさまじいゆゑ誰も先生の顏を見ると恐るれども別して彼奴きやつは色蒼然あをざめふるへ出せしが何でも先生を知つて居る樣子何れわけのあることならんと云ふ半四郎はきゝて夫は其筈そのはずなり某し先年國へ歸る時東海道戸塚とつか燒餠坂やきもちざかより彼奴きやつ道連みちづれになりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者の寢息ねいきを考へ胴卷どうまきの金を取んとしたる騙子ごまのはひなり其時彼奴きやつ引捕ひきとらへしに宿屋の者ども寄集り片小鬢かたこびんの毛を引拔て入墨いれずみをなしたるなり因て某し彼奴をいましめ以後惡心出しなら其の入墨を水鏡みづかゞみうつし見て心を改めよと云て逃し遣はしたる奴なれば拙者せつしやが顏を見るやいなきもつぶしたるはずめぐり〳〵て今日又拙者に再會するとは因果な奴なりと久兵衞が舊惡きうあくはなししかば長兵衞八五郎は始終しじうを聞て扨々然樣さやうなるか如何さまかれ小鬢こびんに半分眞黒まつくろに入墨をしてありしがとん不屆ふとゞきなる奴先生が御出下されしゆゑ早速さつそくらちあきしなり彼奴先年の舊惡きうあくを云れてはたまらぬ故夕方までには屹度きつと離縁状を持て來るに相違さうゐなし先には大きにあんじ先生が正直しやうぢきの心より又如何なる騷動さうだうが出來樣かと思ひしに斯して見ると先生を御連おつれ申ただけもつけの幸ひあんじるよりうむが安いとは此事なるべしと道々みち〳〵はなながら馬喰町ばくろちやうへぞかへりける是より長兵衞長八は相談さうだんして大橋文右衞門の一件を證人しようにんになりて訴へ出んと願書をしたゝめ掛るに後藤半四郎も是を聞き長兵衞殿拙者せつしやの名前も書入られよすれば引合ひきあひゆゑ御呼出しになるに違ひなし其節奉行所にて久兵衞が舊惡きうあくを申立吟味詰ぎんみつめを願はゞ百兩の盜人ぬすびとも大方番頭久兵衞の仕業に相違さうゐ有まじ又貴樣は公事宿くじやどの商賣柄拙者せつしやが事は兄弟とか親類とか云て名前を書加へられよと申に長兵衞かしこまり候と其處そこ馬喰町ばくろちやうにて八十二間組けんぐみの公事宿だけあれば筆をふるつて願書をしたため直に翌朝よくてう南町奉行大岡越前守殿へ訴訟うつたへいでしかば越前守殿には願書を取上になりおつ沙汰さたに及ぶとの事にて其日は下られけり扨又山崎町なる油屋五兵衞の番頭久兵衞は今日はからずも寶珠花屋はうじゆばなや八五郎の娘おひで離縁状りえんじやうの一件に付後藤半四郎に再會さいくわいして大いに驚きしと雖も先々離縁状を馬喰町へ持行後藤先生に慈悲じひを願ひて以前の惡事を云はれぬ樣にたのまんと思ひ若旦那わかだんな五郎藏が奉行所より歸るを今や〳〵と待居まちゐたり此番頭久兵衞は大膽不敵だいたんふてきなる奴なれども今後藤に舊惡を云るゝ時は己油屋の店に居る事ならず因て早々離縁状りえんじやうを出して此一件は掛り合をまぬかれ而して文右衞門へ言懸いひがかりし百兩は何所までも申張てかれかぶおのれは其儘そのまゝぬく〳〵と油屋に居る了簡れうけんなり然れば半四郎長兵衞長八の三人が大橋文右衞門の爲に證人しようにんとなりて奉行所へ訴へ出し事は神ならぬ身のゆめにも知らず是天罰てんばつの然らしむる所にして久兵衞が極惡ごくあく露顯ろけんの小口とこそはなりにけれ扨も享保きやうほ五年三月五日油屋五兵衞并びに同人家内は奉公人ほうこうにんに到るまで一人ものこらず呼出しと相成しかば家主五人組一同差添さしぞへ奉行所へ罷出まかりいづるに程なく白洲しらす呼込よびこみになり願人相手方とも居並ゐならびし時に大岡殿出座しゆつざ有て吟味ぎんみにこそは及ばれたり此大岡殿は吟味ぎんみせつ何時いつも目をねぶりて居られたりと昔し足利家の御世みよ名奉行めいぶぎやうと世にたゝへたる青砥あをと左衞門尉藤綱も訴訟うつたへきく時は必らず目を眠りて居られしとぞ夫は又何故と云に假令たとへいかなる名奉行にても元來凡人ぼんにんの身なれば其人の顏色を見て愛惡あいをの心生ずるは是人情なり然すれば知らず〳〵依顧贔屓えこひいき沙汰さたにも成ゆくにより心に親疎しんそのなきやうにとねむりて訴訟を聽れたりとぞ何さま容貌かほかたいうにやさしく見えると雖も心に惡をたくむ者あり又顏色おどろにして恐ろしなる者も心はまことに竹をわりたる如き善人あり或ひは言葉を巧みに人を罪に落とすもあり又おのれ十分の理を持ながら訥辯とつべんの爲に言伏られて無實むじつつみおつるもあり其善惡そのぜんあくたゞされるは表眼へうがんを眠り心眼しんがんを以て是を見る時は其邪正じやせい自然に感ずると云ふ


第四十一回


 さて大橋文右衞門一件かゝあひ山崎町質渡世しちとせい家持いへもち五兵衞并びに同人家内の者奉公人に至るまで一同呼出よびだしになりし處此の番頭久兵衞のみ名前なまへこれなきにつき彼一人は留守るすをして家に殘りしなり是は大岡殿深き思慮しりよあるが故に久兵衞一人は故意わざと差紙に名前をのせず外の奉公人を呼出よびいだして久兵衞が平日身持みもちの樣子を聞糺きゝたゞさんとの事なる由ときに越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞せがれ五郎藏其方とし何歳なんさいになるやまたさいはあるかと尋ねらるゝに五郎藏はひよくりと天窓あたまあげじろ〳〵四邊あたりを見廻しながら私しの年はたしか廿二歳ばかりにてつまは御座りましたが私しをきら此間このあひだ御出おでやりましたと自他じたも分らぬ事を一向はぢ景色けしきもなく云ければ越前守殿は微笑ほゝゑまれ是は餘程拔作ぬけさくなりと思はれし故其儘そのまゝにして若い者重助へ向はれ其方年は何歳なんさいになるや何頃いつごろより五兵衞方に奉公致しるか有體ありていに申立よと云れしに重助はハツと答えて私し儀當年廿二歳にて幼少えうせうの時より五兵衞方へ參り最早もはや十年程相勤めまかり在候と申を大岡殿聞れ大分其方は神妙者しんめうものと見える昨年より當年へかけ傍輩はうばいうちいとまを取てさがりしと云ふ者か又は不首尾ふしゆびにてひまやりしとか何か五兵衞方をいでし者はなきやどうぢやと有に重助ヘイ當六月中まで七年ばかりつとめし傍輩はうばいに藤助と申す者御座りしが眼病がんびやうにてさがりしもの其外にはました者は一向御座りませんと申しければ越前守殿なるほど其の藤助は今以て歸參は致さぬかいま眼病がんびやうわづらるやどうぢやとあるに重助御意ぎよいの通り今以て眼病にてなやみ居りますと申せば大岡殿其藤助が家内かないの樣子はどうぢや兩親はあるか又渡世は何をして居るや存じ居らば一々申立てよと云はるゝに重助ハイ兩親りやうしんはなきとのこと藤助のいもとが一人御座り年は十九歳ばかりにて未だ亭主ていしゆも是なきよしなりと申しければ大岡殿其者は人の世話にでもなりて居る樣子かと申さるゝに重助はこまりし面色おももちにて其樣そのやうは一向存じませぬと云ば大岡殿汝は傍輩のことゆゑ病氣見舞みまひゆきしならん夫れとも見舞には行ぬかどうぢや少しにても僞るに於ては其方の爲にならぬぞコリヤ主人五兵衞並に悴の五郎藏などは見舞みまひゆきたで有うどうぢやと云るゝに重助いや私し共も主人も參りし事は一度も御座なくしかし番頭久兵衞は折々をり〳〵見舞みまひに參り候と申せしかば大岡殿左樣さやうかと申され此事を手帳てちやう留置とめおかれたり又若い者の喜七に向はれ其方生國しやうこく何國いづくにて年は何歳なるやと尋ねらるゝに喜七私し生國は下總國行徳ぎやうとくにて年は十九歳也と答へ夫れより越前守殿は松三郎金藏下男彌助に至る迄いづれも生國歳等としとうきか好々よし〳〵さがれ〳〵と申されければ皆々白洲しらすいで腰掛こしかけさがりたり此時漸々やう〳〵十歳ばかりになる小僧の三吉と云ふ者有りけるが主人五兵衞始め此所こゝいでし人々吟味のすみ次第しだい一人づつ段々とさがりて今は主人の悴五郎藏とおのれのみ只二人白洲に殘されければ心細こゝろぼそくやありけんめそ〳〵と涙を流して泣居なきゐるに大岡殿三吉を見らるゝに如何いかにも物賢ものかしこく利口りこうさうなる小僧ゆゑ此者をだまし能々よく〳〵聞糺きゝたゞさば百兩の盜賊も知れるに相違なしと最初さいしよより目をつけられしかば斯の如くあとへ廻されしなりればまづ再び馬鹿子息ばかむすこ五郎藏をたゞさんと思はれ越前守殿コリヤ五郎藏其方のさいは何故なんぢいへいでしや又當人は親類中より參りし者かと申さるゝに五郎藏いや親類から參つたのでは御ざりませんが一しよるのがきらひで御出おいでやりましたもらつたから親類で有りましたが出て行けば他人でござりますどうぞ御奉行樣私しの内儀おかみさん御歸おかへし下さる樣偏へに御願ひ申ますと眞面目まじめで云ふゆゑ居並ゐならびし役人共一同笑ひに耐兼たへかね眞赤まつかに成て居るにぞ越前守殿もわらはれながら好々よし〳〵御威光ごゐくわうを以て近々に取戻とりもどして遣はさんして又其方は家内にてこはいものは誰なるやと尋ねられければ五郎藏ハイ私しの怕者こはいものは番頭の久兵衞でござります毎度私しをおそろしくしかつけたりこはい白眼にらめますから久兵衞ほど怕者こはいものは御座りません夫れに引替ひきかへ若い者重助は誠に好者よきものにて若旦那々々々と云て大事にしてくれますと申すに越前守殿夫れにて分つたりさがれ〳〵と申されしかば私しの御内儀おかみさんは呉々くれ〴〵御歸おかへくださいましと言つゝ白洲を立て下りけりあとには彼の十歳ばかりなる三吉小僧のみ彌々いよ〳〵一人殘され其上そのうへはやくれて白洲へはあかりがつき四邊あたり森々しん〳〵としてなにとやら物凄ものすごく成しかば三吉は聲をあげ泣出なきいだすゆゑ越前守殿は言葉ことばしづかにコリヤ〳〵三吉最少もつと前へ出よ何も怕事こはいことはなしなくな〳〵サア〳〵好物いゝものを遣はさうと饅頭まんぢうを紙にのせて與へられ是をたべよ〳〵手前は一番利口者オヽかしこい奴だサア遠慮ゑんりよせずにたべよ〳〵と申さるゝに其處そこは子供ゆゑ菓子くわしを見ると直樣すぐさま莞爾々々にこ〳〵しながら押頂おしいたゞきて懷中ふところ仕舞しまゆゑ大岡殿コレ〳〵小僧其處そこたべよと言はれしかば三吉ヘイ有難う御座いますがうちもつゆき番頭さんに見せてからたべないとしかられますと申すに大岡殿オヽ然樣さうか手前は利口者りこうものだサア夫れなら今一ツ遣はさうと此度は自身に縁側えんがはまで持出もちいでられ手渡しにしてすぐたべよ〳〵と申されしに三吉は彌々いよ〳〵莞爾々々にこ〳〵として饅頭まんぢう喰居くひゐるに越前守殿どうだ三吉其方の年は幾歳いくつになると聞れけるに三吉は早少し馴染なじみつきさまにてハイ私は當年十歳になりますと答へければオヽ十歳になるかよくこたへが分る至極しごく温和おとなしい奴ぢやいま尋ねる事を一々申立よ素直すぐさまに云ばうちへ歸してまたうそを云ば家へも歸さず宿入やどいりにもやらぬぞよ三吉其方は番頭久兵衞のともをして車坂の藤助の家へ行たであらう公儀おかみではよく御存じなるぞと申さるゝに三吉は成程時々とき〴〵久兵衞樣の供をして參りましたアヽ御奉行樣には能知て御出でなさいます私しはうちに居るよりともをしてゆくはう餘程よつぽどよう御座いますアノ久兵衞さんが何時いつもと違つて藤助さんの所へゆくときには莞爾々々にこ〳〵して饅頭まんぢうだの羊羹やうかんだの又錢だのと種々いろ〳〵な物をくれますし其上ともの時ばかりは久兵衞さんが少しもしかりません家に居ると毎日々々しかられてばかり居りますと云ひければ越前守殿も莞爾々々にこ〳〵されながら然樣さやうよく其方ははなしが分るそれから番頭の供をして藤助の處へゆくと番頭は何をして居ると尋ねらるゝに小僧こぞうアノ藤助さんのはうゆくと久兵衞さんはすぐに二かいあがりおたみさんと云ふ美麗うつくしいねえさんと何だかはなしをしておいでなされます其時は何時いつでも久兵衞さんが私しに山下へ行て源水でも輕業かるわざでも見ていと言て錢を五十文か百文づつくれますから私しは山下へゆき遊んで來ては又供をしてうちへ歸りますと云ひしかば大岡殿成程さうして又其眼病がんびやうさがつて居る藤助は何をして居るととはるゝに小僧ヘイ藤助さんは下の火鉢ひばちそばに居て色々な面白いはなしをしたりうまい物などをくれますと云ば越前守殿然樣さうか其藤助のうちは車坂の通りにて右より左へゆくいゝところだらうなと申されしに小僧然樣さうさアノ大井戸より左の方へ行くと水菓子屋みづぐわしやうらでございますと云ふを大岡殿然樣さようよ〳〵其大井戸のさきで有るだらうなど申さるゝに小僧オヤ御奉行樣には能く御存じで御出おいでなされますと驚くを大岡殿ムヽ三吉其方は利口者なればうちへ歸つても今云し事を決してたれにもはなすまいぞもしはなすと又々呼び出して今度は歸さぬぞよと有るに小僧は平伏へいふくなし決して申しは致しませんと答へければ大岡殿それよしサア歸れ〳〵と申さるゝを聞き小僧三吉はほついきをつきて白洲より出で來り夫れより腰掛こしかけへ行きけるに皆々打より三吉手前一人あとに殘つてさぞこはかつたらう何を御奉行樣が御聞き成れたと問ひければ三吉は内心にこゝだと思ひたゞ何歳いくつになるのうち何所どこだの父や母は有るかのと御聞なされたるばかりなりと云ふゆゑ皆々然樣さやうであつたかとかくすとは心も付ずサア〳〵ほど夜もふけたれば急ぐべしと一同そろひて山崎町の油屋へぞ歸りける


第四十二回


 扨又番頭久兵衞は今日文右衞門の一件にて五兵衞始め一どう呼出よびいだされしゆゑ流石さすが惡黨あくたう如何いかゞ成行なりゆくやとひそかに心配なし居たる折柄はからず後藤半四郎入り來り退引のつぴきさせずお秀の離縁状はとられる事になりしかば若旦那五郎藏歸り來らば早々離縁状をしたゝめさせ馬喰町なる半四郎の方へ持行もちゆかんと思ひ居たるに漸々やう〳〵夜に入りて一同歸り來りしゆゑ久兵衞はすねきずもつなればかくわるをりには御奉行所にても何か面倒めんだうなることありしならんと思ひ離縁状の一件はあとになし直樣すぐさま家主吉兵衞方へ行き今日けふ御番所にて御尋ねの一件は如何いかゞなる儀にやと聞くに吉兵衞はうちの者に聞けば直樣すぐさま分る事を故意々々わざ〳〵此所まで聞に來る事もないと思へば私しは差添さしそひなれば皆々のあとたるゆゑ何の御尋ねやら一向に聞取れずと云ければ久兵衞は是非なく立歸たちかへみせの重助喜助松五郎金次等に聞けるに皆々只油屋へ何時頃いつごろ奉公に來てとしいくつだと云ふ御尋ねばかりにて外には何も仔細しさいなしと云ふを彼の馬鹿息子ばかむすこ五郎藏は莞爾にこ〳〵と笑ひながらおれうれしい事がある女房お秀を取返して下さると仰せられ誠にやさしき御奉行樣なりと一人ひとり悦び居たりけり又小僧の三吉は白洲へ一人取殘とりのこされなきしと云て皆々に笑はれたるゆゑうちへ歸るやいなみせすみちひさく成て居るゆゑ番頭久兵衞は三吉を呼び手前一人ひとりあとに殘されたと云ふが御奉行樣が何を御聞なされたかはなしてきかせよと云共いへども大岡殿よりかね口止くちどめありしかばさらに物を云ず默止もくしるにぞ久兵衞は急込じれこみヤイ三吉何を申しあげたるや己れ云はざるに於てはかうするぞとほう爪捻つめりしり爪捻つめり種々いろ〳〵にして責問せめとへども一向に云はざるゆゑ久兵衞扨は此小僧めが車坂のお民の一件を申しあげたるに相違なしとさつしければ此上このうへおしても聞ず夫よりはまづ五郎藏にはなして離縁状を認めさせ早々もつゆかねば後藤が又々踏込ふみこんで來たると云しかば是は差當さしあたつての難儀と思ひ若旦那々々と二かいへ連れ行きさてほかの事にてもなく今日御前おまへさんのお留守にお秀さんの伯父をぢなりとて後藤半四郎と云ふ浪人者が來り斯樣々々かやう〳〵の掛合になり是非離縁状を出せとの事なるがもしやらずに置けば大變な騷動さうどう成行なりゆくゆゑ早々去状さりじやう御書おかきなされと申すに五郎藏は甚だ不承知なるかほにて返詞へんじもせざれば久兵衞は種々いろ〳〵説勸ときすゝむると雖も五郎藏は却てはらを立て今日御奉行樣がお秀を取戻とりもどして遣はすと仰せられた故離縁状は何樣どうしてもかゝずと云ふに番頭久兵衞は甚だこまはていや然樣さやうなる事を云はれたとて離縁状をやらずに置けば今にも後藤半四郎が來るにちがひなしすれば家内中みなごろしにすると云て歸られたり劔術遣けんじゆつつかひの浪人なれば勿々なか〳〵切りかねは致すまじ又お秀ばかり女にてはなし私しがほかうつくしい女をよめもらひてあげます程に是非とも去状を御出しなされとおどしつすかしつ漸々やう〳〵の事にて離縁状を認めさせ是を以て早々馬喰町なる武藏屋長兵衞の方へ到り後藤半四郎に對面たいめんして去状を渡し持參金の百兩並びに道具類は何卒兩三日の間御待ちくださるべしすれば相違なく御渡し申さんと半四郎へ呉々くれ〴〵約束やくそくして立ち歸りしが久兵衞は道々心に考ふる樣今日三吉めが車坂の一件を御奉行所へ申しあげたる樣子ゆゑも角も惡事のあらはくちになりたりれば所詮しよせんかうしてはられず何でも足元のあかるいうち高飛たかとびをするより外に思案はなしと忽然たちまちもとの惡心をおこし其夜家内は寢鎭ねしづまりやゝ丑刻半なゝつはんとも思ふころ不圖ふと起出おきいかねて勝手は知りしゆゑ拔足ぬきあしさし足して奧へ忍び行き佛壇ぶつだんの下より三百五十兩の大金を盜みいだし是をば胴卷どうまきに入れてしつか懷中くわいちうにてしばり夫れより又土藏へ忍び入り質物しちものの中にていづれも金目なる小袖類を盜みとり風呂敷ふろしきに包みて背負せおひ傍邊かたへに在りし鮫鞘さめざやの脇差を腰にぶつこみ猶又拔足差足ぬきあしさしあしをして裏口より忍び出で草鞋わらんぢはき逃去にげさらんとする時馬鹿息子の五郎藏が小便におき戸惑とまどひなしつゝ暗紛くらまぎれに久兵衞へ突當つきあたりしかば久兵衞は驚きながらすかし見てモシ若旦那御靜おしづかに成れましと云ば五郎藏も大いに驚きヤア貴樣は久兵衞か草鞋わらんぢはいて今より何所へゆくのだと聞れて久兵衞は南無三寶なむさんばうとがめられしか最早もはやかくなる上は是非に及ばずどくくらはゞさらまでと腰なる一刀拔くより早くこゑたてさせじと五郎藏が口の中へ突貫つきとほし二ツ三ツゑぐりしかば五郎藏は七轉八倒なすのみにて其儘そのまゝいき絶果たえはてたりやがて久兵衞は一刀をさやに納め周章狼狽あわてふためき五郎藏の死骸しがい庇間合ひあはひ捨置すておき早足はやあし逃出にげいだし手拭ひにて深く頬冠ほゝかむりをなしきもふとくも坂本通りを逃行くをりから向うより町方の定廻り同心手先三人をつれ吉原より返りと見えて此方こなたへ來るゆゑ久兵衞は仕舞しまつたりと思ひながら早足はやあし軒下のきしたへ廻り天水桶てんすゐをけかげへ隱れんとする處をソレ怪しき曲者くせもの召捕めしとれと聲の下より手先の者三人破落々々ばら〳〵と立懸り上意々々と云ながら取ておさへ忽ちなはをぞかけたりける因て久兵衞は逃損にげそんじたりと思ひながらものがるゝだけは云拔いひぬけんと何卒御免おゆるし下されよ私しは決して怪しき者に候はずひとへ御勘辨ごかんべんを願ひますと云ば手先のものなんだぐず〳〵云ふ事たアネヘ貴樣は怪しい奴に相違さうゐない夜中無提灯むぢやうちんにて其樣そんな大包みを背負せおひ形容なりにも似合にあは鮫鞘さめざや脇差わきざしをさし是は大方其處そこらで盜み來りしならん殊に草鞋わらんぢはき是れどうしても泥棒どろぼうと云ふ看板かんばんを掛て居る樣なものだサア此方へ來いと直樣坂本の自身番へ引上しに出役岡村七兵衞馬籠まごめくら十郎の兩人ひかへ居る前へ久兵衞を引きすゑまづ雜物ざふもつを改るに質物と見えみな質札しちふだの付たるまゝにて大風呂敷に一包みあるゆゑヤイおのれいづれの者ぞ尋常に申立よと有りしかば久兵衞は俯向うつむきたりしがかしらあげ私しは山崎町油屋五兵衞方の番頭をつとめ久兵衞と申す者にて何も決してあやしき者には御座なく候と申すに馬籠まごめ岡村の兩人此包みは如何致したる品なるやと尋ねければ久兵衞はぬからぬかほにてヘイ是は下質したしちさげに參る品で御座りますと云ふに兩人ナニ下質へさげゆくかとコレ宜加減いゝかげんうそいへ夜中草鞋懸わらんぢがけにて下質したじちさげゆくやつがある者かこゝ不屆者ふとゞきもの有體ありていに白状せよ眞直まつすぐに申立なば公儀おかみにも御慈悲が有ぞと云つゝ久兵衞の脇差わきざしを改めるに鮫鞘さめざやにて縁頭ふちかしら其外立派なるこしのものなれば中身なかみみん拔放ぬきはなしければ鍔元つばもとより切先きつさきまで生々なま〳〵しき血汐ちしほの付ゐるにぞコレヤおのれは大膽不敵なる奴かな是が何より證據なり何處どこで人を殺し夜盜よたうをして來りしぞ尋常に云て仕舞へどうわれいのち無者なきものいくら隱してものがれるわけにはゆかないぞコリヤ町役人油屋五兵衞を呼出すべしと云ければかしこまり候と町役人走り行き油屋のおもてたゝきけれども今日は奉行所へ一同罷出まかりいでつかれにもよくこみ居て何分起出おきいでぬゆゑ裏口に廻り見るに如何さま久兵衞が逃出したる所らしく戸など明放あけはなしありしかばうちへ入て家内の者を起し此方こなたの番頭久兵衞がいま自身番へあげられたるに付五兵衞殿を起してくれよと云ふに夫はと云て家内皆々さわぎ立て五兵衞を起しければ五兵衞も驚きなににしても大變なりとかんがる中町役人共はわかしう若衆内々に怪我人けがにんはなきか改め見よと云ふに一人の若い者若旦那の五郎藏樣が御見えなされぬが何所どこ御出おいでなされしやと申すに一同何樣なにさまこれは不思議と云ふを聞き主人の五兵衞は出來いできたりナニせがれがみえぬと夫れは何所どこへ行たかと家内中をさがども一向にかげも見えずなほくまなくさがもとむるうち裏口うらぐち庇間合ひあはひに五郎藏が倒れて居たりと大聲おほごゑあげて呼はるゆゑ夫れと云て手燭てしよくてらゆきて見るに口中をゑぐられあけみて居りしかば是は大變々々といふこゑに親父の五兵衞も駈付かけつけて五郎藏が殺されたりとは夫れは如何いかゞせし事ぞと死骸を見てヤヽ是はと尻餠しりもちつきおきる事もならずかなしむにぞ家内中上を下へと騷動しける所へ坂本の自身番よりは矢の使つかひにて御役人が御待兼おまちかねなり五兵衞殿を早く連てきたられよとのことなれども五兵衞はせがれを殺され心顛倒てんだうしてたゞ其處そこ胡亂うろつき居けるゆゑ町役人はしかつけ自身番じしんばんへといそぎけり


第四十三回


 却説さても油屋五兵衞は町役人にともなはれ坂本の自身番へいたりしに豫々かね〴〵心をゆるして召仕めしつかひし番頭久兵衞は高手小手にいましめられ居たるゆゑ五兵衞は久兵衞を見るやいなおのれは〳〵人面獸心にんめんじうしんなる奴かな五年以來このかた目を懸て遣はしたる恩を忘れよくもせがれ五郎藏を突殺つきころし金銀質物を盜み出せしよな悴のかたき思ひ知れやと云ながらも飛懸とびかゝりて押伏おしふせんとするゆゑ役人は聲をかけコリヤ〳〵五兵衞ひかれ此方にて召捕めしとりたる罪人を手込てごめにせんとは不屆なり愼んで此方の調べをうけよとしかつけるに五兵衞はハツと心付是はまことに恐れ入り奉つる彼奴かやつに悴を殺されたる無念の餘り御役人樣の御前をもわす不禮ぶれい仕つり候段眞平御免下まつぴらごめんくださるべしと云ば役人聞ては不便の儀なりして又其手續きは如何なる事ぞと尋ぬるに五兵衞かれは私し方へ五ヶ年以前より奉公に參り至極しごく實體じつていに勤めをりますゆゑ年頃も相應に付き番頭に取立とりたてみせの事どもまかせ置候處今宵悴五郎藏を殺害仕つり金子三百五十兩をぬすとりなほまた奧藏おくぐらへ忍び入り質物品々並びに脇差わきざしこし持出もちいだし候やに存じられ候へどもいましかと取調べ行屆き申さず候と云ひければ其段久兵衞をたゞすに同人も今更いまさらちんずる事能はず今宵こよひの事共白状なしけるにぞ一々口書くちがきを取り翌朝町奉行大岡越前守殿役宅へおくりに相成たり是に因て油屋五兵衞よりは右の始末を巨細こさいに認め五郎藏の死骸しがい檢使けんしを願ひ出でけるに早々役人來りて死骸しがいを改ため五兵衞始めの口書くちがきを取り大岡殿へ差出せしかば大岡殿此久兵衞は浪人らうにん文右衞門がかねかゝあひの者なればとて直樣すぐさま白洲へ呼出され調べにこそはかゝられけれれば久兵衞は繩付なはつきまゝ砂利じやりうへ蹲踞うづくまるに大岡殿是を見られ下谷山崎町家持いへもち五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は何國いづくにて年はなん歳なるやまた何頃いつごろより五兵衞方へ奉公ずみ致したるや有體に申立よと云はるゝに久兵衞私し生國は上總國かづさのくに東金とうがねにて五ヶ年以前より五兵衞方へ奉公ずみ致しをりとしは當年四十二歳に相成候と申しければ越前守殿て又其方如何成いかなる所存にて五兵衞の悴を殺害致したるやかつまた金子三百五十兩並びに質物品々脇差等迄わきざしとうまでぬすみ取りたるに相違なきやと有るに久兵衞は今更いまさら遁れぬ處と覺悟かくごきはめしかば仰せの通り不圖ふと出來心にて金子質物等をぬす逃出にげいださんとせしをり五兵衞悴五郎藏に見咎みとがめられ候間よんどころなく殺害致し立退たちのき申候此儀は全く出來心に付何卒御慈悲にいのちばかりは御助け願ひ奉つり候とも初心らしく申を越前守殿此奴こやつ勿々なか〳〵横道わうだうなりと思はれコリヤ久兵衞其方は去年極月中旬浪人文右衞門事五兵衞の店にて百兩の金をぬすみたりとの言懸りは是れも其方が仕業しわざなるべし有體に白状せよと申さるゝに久兵衞こゝろうちに今度の事は其節そのせつ五兵衞と突合つきあはせになり一旦白状したれば今さら爲術せんすべなけれども百兩の金は何所どこまでも文右衞門におはかれをもともに殺さんと思ひしかば恐れながら此度の儀は御尋ねの通りに相違さうゐ御座ござなく候へ共百兩の金は文右衞門がぬすみ取りしにちがひ御座なく候と申しければ越前守いななんぢ然樣さやう申せども文右衞門の人體にんてい盜賊たうぞくなどすべき者に非ず其は全く馬喰町なる紙屑屋長八より遣はしたる金子にて質物しちもつ受出うけいだしたりと申す此儀相違なく聞ゆるぞ眞直まつすぐに白状致せと有るに久兵衞ナニ其者は長八にては是なく新藤市之丞と申す紙屑買かみくづかひの由に御座候しかし同人の住所を尋ね候處知れざるよしを申し金子の出所不定に御座候あひだ百兩の金は文右衞門がぬすとりしに相違御座なく候と云張いひはりしかば越前守殿聲高こゑだかによく承まはれなんぢは何程べんたくみにちんいつはる共此方にはたしかなる證人あるぞ證據なきことはしひ問糺とひたゞさず如何程に強情がうじやうを申すともおのれが一命は助かる事でなし彌々いよ〳〵ちんいつはるに於ては證人を此處こゝへ呼び出すぞどうぢや夫れにても云はぬかと申さるゝを久兵衞はなほおそれず假令たとへたれいでましても存ぜぬ事は何時いつまでも存じませんと云ふに大岡殿コリヤ未だ其方は強情がうじやうを申か扨々さて〳〵大膽たいたんなる奴かなしからば證人を呼出よびいだし引合せんとて下役へ差圖さしづあれば武藏屋長兵衞紙屑屋長八の兩人白洲へ呼び込みになり其所そこへ罷り出るを越前守殿見られ馬喰町二丁目武藏屋長兵衞ならびに前名新藤市之丞當時たうじ紙屑屋長八その共儀どもぎ此程うつたへの趣きいま一應其所そこにて申し立よ且又さんぬる十二月中越後高田浪人大橋文右衞門へ尋ねの儀に付紙屑問屋かみくづとんやならびに屑買等一同呼出したるせつ其方江戸内に住居致しをりしや又旅行留守中にてもありたりや其仔細しさいつゝまず申し立よと申さるゝに長八つゝしんで答る樣私し儀は元越後高田の藩中に候處今より十八ヶ年以前若氣わかげあやまちにて同役の娘と不義に及び主家の法に依て一命をもさるべきの處物頭役大橋文右衛門のなさけにて助けられ廿兩の金子をめぐくれ候を路用にいたし江戸表へまかいで候節中仙道熊谷堤に於て惡漢わるもの出逢いであひ私し共夫婦一命も危きをりから讃州丸龜の浪人後藤半四郎と申す者にすくはれ猶又右半四郎より金子廿兩をめぐくれ候て江戸表馬喰町まで同道いたし其後是にひかへ居り候長兵衛の世話せわに相成紙屑渡世かみくづとせいを致し罷り在候處さんぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣さんけい途中とちう上野車坂下にて大橋文右衛門にめぐり逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね候處文右衛門は八ヶ年以前國表くにおもて越後家ゑちごけ浪人らうにんいたし當時は山崎町に住居すまひ悉皆こと〴〵困窮こんきう零落れいらくに及び往來に立て袖乞を致し漸々やう〳〵其日々々を送り候と申す事故私し儀甚だ氣のどくに存じ十八ヶ年以前の恩義おんぎはうぜんと思ひ一人の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方へ身の代金しろきん五十兩にて年季ねんきつとめに遣はし右五十兩の中二十五兩を大橋の方へ持參仕り候處文右衛門儀武士ぶし意氣地いきぢを立て一たんめぐみ遣はしたる金子を今受取ては一分立ずと申して何分請取うけとり申さず是に依て私し儀も折角せつかくむすめまで賣たる金を請取られざる事まことに本意なく存じ文右衛門が油屋五兵衛と申す質屋へ質物流れの懸合かけあひ出行いでゆき候留守中ひそかに煙草盆の中へ入れ置て罷り歸り候處是にひかへ居る長兵衛が兄の大病にて讃州丸龜へ參るにつき同道致しくれよと申すによりさいはひ先年大恩だいおんうけし後藤半四郎へも謝禮しやれい旁々かた〴〵尋ねたくと存じ十二月十四日長兵衞私し兩人御當地を出立致し讃州丸龜へ罷越まかりこし候事に候へば舊冬きうとう屑屋くづや一同御呼出しの節は御當地に罷り在り申さず漸々やう〳〵一昨日江戸表へ立歸り私し妻より舊冬きうたう屑屋くづや一同御呼出しの樣子を承まはり候につき文右衛門の安否あんぴを尋ね候處御召捕めしとりに相成候由ゆゑ大いに驚き取敢とりあへ今般こんぱん御訴へ申上奉つり候儀に御座候みぎゆゑ文右衞門質物を受出せしは全く私しより相贈あひおくり候金子に相違之なく勿々なか〳〵文右衛門儀盜賊など仕つり候者に候はず何卒なにとぞ御慈悲ごじひを以て同人儀出牢仰せ付られ下しおかれ候樣偏へに願ひ上奉つり候と一一什しじふを殘らず申し立しかば越前守殿長八が眞實しんじつを甚だかんじられかつは文右衛門夫婦の申すくちと少も相違せざるゆゑもあるべしと思ひそれよりまた久兵衛に向はれ其方も今申す通り前名新藤市之丞當時屑屋くづや長八が申立たる通り文右衛門が質物しちもつを受出せし金子は長八よりおくり遣はしたるに相違なしと申すすれば其方百兩の金子を盜み取り罪を文右衛門におはせんとせしに相違あるまじコリヤ久兵衛よく承まはれ文右衛門が家内を吟味ぎんみせしに殘金十一兩りたり是を思へば文右衛門盜賊たうぞくでなき事は明白めいはくなり斯程かほどに證據ある上は汝何程陳ずる共せんなき事ぞいたき思ひをせぬ中に白状せよサアどうぢや云ぬかおのれ如何に強情なり共云せずには置ぬ不屆ふとゞきなる奴哉と白眼にらまるれ共久兵衞は少しも恐るゝ面色けしきなく假令たとへ文右衛門儀百兩の盜賊に御座なく候共私しは其金一向に存じ申さずと云ひ居たるにぞ流石さすがの大岡殿も扨々強面しぶときやつなりとあきれられしが好々よし〳〵あらば白状するに及ばずわれに逢せる者有り驚くなとて直樣すぐさま車坂下六兵衛たな藤助並びに妹お民を呼出しとなる是は久兵衛がかこひ置し女なれば此二人の者出なば如何に強惡がうあくなる久兵衞にても最早もはやちんずる事能うまじと思はれたり然れ共久兵衛は兎角とかくおのれいのちはなき者と思ひしゆゑ百兩の一件は是非々々文右衛門に負被おつかぶとも抱込だきこんで殺す了簡れうけんなりる程に藤助並びに妹お民の二人は家主六兵衛差添にて罷りいで白洲へ平伏なすにぞ久兵衛是はと思ひしが此者兄弟出しうへ露顯ろけんするに相違なしと心の中に思案をきはめ猶も工夫くふうをなし居たり


第四十四回


 さても番頭久兵衛は種々事を左右によせ百兩の盜賊は大橋文右衛門に相違さうゐなきむね申し立ると雖も大岡殿は心眼しんがんを以て善惡を見拔みぬかれ追々證人等も引合せらるゝことになりしかば流石さすが強惡がうあくの久兵衞もたくみし事ども彌々露顯と觀念くわんねんなし居たりされば越前守殿の裁許は實に天眼通を得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門といふ名譽めいよ酒店さかやありかれ中興ちうこうの出來分限にて元は關口せきぐち水道すゐだう町の豐島屋と云ふ酒屋の丁稚でつちなりしが永々の年季ねんきを實體に勤め上しかば豐島屋の暖簾のれんもらひ此鎌倉河岸へ居酒屋の店を出せし處當時常盤ときは橋外通り御堀浚おほりざら御普請ごふしん最中さいちうつきかれが考へにて豆腐とうふ大田樂おほでんがくこしらへ是を居酒とともに安價やすくうりけるゆゑ日々大勢の人夫此豐島屋へ居酒をのみ田樂でんがくくらひに來りしにかれ如才じよさいなき者なれば我身代に取付とりつくは此時なりと思ひ愛想あいさうよく酒もまけつぎければ其の繁昌はんじやう大方ならず日毎に三十貫文餘りの利潤りじゆんを得て忽ちに大身代となりて酒店をもひらしかど昔しを忘れぬ爲とて居酒の店は其儘そのまゝに商賣なし今以て繁昌致しけり此の者素より日蓮宗を信仰しんかうなし己の菩提所ぼだいしよ牛込うしごめの宗伯寺なりしが終に一大檀那だいだんなとなり寄進の品も多く又雜司ざふし鬼子母神きしぼじん金杉かなすぎ毘沙門天びしやもんてん池上いけがみ祖師堂そしだうなどの寶前はうぜん龍越りうこしと云ふ大形の香爐かうろを供へいづれも豐島屋十右衛門と云ふ奉納ほうなふめいあり是れ亦今以て存すと云ふ或日此豐島屋の店へ往來者大勢入り込みれいの如く居酒を飮居たりしが其中に年の頃六十餘と見ゆる老人らうじん獨酌どくしやくにて一二合飮て其後代錢は拂ひたれども酒のゑひまはりしにやしきりに睡眠ねむり居たるが不圖ふとさま蹌踉ひよろ〳〵しながら一二丁程行し頃彼の老人血眼ちまなこになりて豐島屋の店へ立歸り最前わが腰掛こしかけたる邊を胡亂々々うろ〳〵と何やら尋ねる樣子なりしがそばなる者にむかひ私しは最前此所にて酒をのみ代錢は拂ひたれども心氣のつかれにて思はず暫時しばし居眠ゐねふ眼覺めざめて後此所を立ち出で途中にて心付懷中を見し處に大事の財布さいふを取落せり其の財布の中には命にも替難かへがたき金廿兩入置たれば若何方どなた御拾おひろひ成れし御方あらば何卒御渡し下されよとほろ〳〵涙をこぼしながら申しける故在合ありあふ人々きようさまし我々は財布の樣なる物は一向見掛けずと云けれ共尚ほも五月蠅うるさく其處斯處そこここと尋ね廻りける故みせの者共是を聞て此者は盜人かかたりならんと思ひけるにコレ爺殿おやぢどの貴殿おまへが二十兩と云ふ金を取落したるとや夫はゆめにても見しならん萬一もしまことに落したり共此所の店にては有まじ夫れは外をさがされよかうた處が二十兩は扨置さておき二兩の金も持るゝ樣な人物ひとがらならずと散々に罵りければ老人はかうべふりさう言るゝは道理もつともなれど其金子には仔細ありと云ふをも聞ず大勢の若い者此爺このおやぢめは我等が店へ難題なんだいを言掛るかたりなりとて一同立掛り打擲ちやうちやくして表へ突出つきいだしければ大聲揚て泣出なきいだし如何にも皆々疑はるゝは是非なけれど私しはゆすかたりをする樣な者にては決して之なしと種々いろ〳〵申し譯をなせ共皆々聞入れず早々立去べしと追遣おひやるにぞ老人は是非もなく〳〵なみだはらひすご〳〵立歸らんとなしける處に此豐島屋の向うを立場たてばとして日ごとに出て居たる駕籠舁かごかきあり今日も此處にて往來の客を進め居たりしが今老人の突出つきいだされしを見て餘りのいたはしさの儘彼の老人を小蔭こかげ指招さしまね其許おまへ先刻さつき豐島屋にて酒を飮歸りし跡に何かは知ず木綿もめんの財布らしき物落て有しを店の若い者ひろひ取り何處どこへか隱せしを我等彼所かしこにて能く見屆けたり其品は正しく其許そのもとの財布ならんれ共今の如く其許おまへを打擲致す程の次第なれば今と成ては勿々なか〳〵すぐ素直すなほには出すまじけれ共餘り其許おまへいたはしさに此事を内々知せ申すなりと云ければ老人は是を聞て力を扨々御親切かたじけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等女房三年越の大病にて打臥うちふしり惣領のせがれ風眼ふうがんにて種々いろ〳〵療治致せ共當春よりとう〳〵兩眼共つぶれ何共詮方なく我等は老年に及びしうへ重病人に掛りて商賣等も致さず益々困窮にせまり今日をしのぎ兼るより種々いろ〳〵工夫くふう致せ共外に手段もなきまゝ家内相談づくにて不憫ふびんながら一人の娘を吉原角町の海老屋えびやへ勤め奉公に賣渡し身の代金しろきん二十兩血の涙にて受取持歸る途中餘りのかなしさにむねふさがりしまゝせめてもの憂晴うきはらしと豐島屋へ立寄て一合飮しに心氣のつかれより我を忘れて暫時しばし睡眠ねむり不圖ふと目をさまし立歸りしに財布の見えねば南無三と取て返してさがせし處只今の次第ゆゑ此上は親子三人飢死うゑじにより外なしと覺悟致せしと涙を拭々ふき〳〵かたりければ駕籠舁かごかきは始終をきゝ彌々いよ〳〵氣の毒に思ひ此事に於ては我等證人と也申すべきにより急ぎ御奉行所へ願ひ出で申さるしと云にぞ七右衞門はいとうれし直樣すぐさま彼の駕籠舁かごかき久七を同道して南町奉行所へ訴へ出でたりけりされ訴訟所うつたへしよにて一通り尋ねのうへ白洲へ呼び入れられ大岡殿出座しゆつざあつて七右衞門并に駕籠舁かごかき久七の申すむねとくと聞れ其儘兩人とも留置とめおかれ急ぎ豐島屋十右衞門へ差紙にて早々罷出づべき旨たつしられければ豐島屋にては大いに驚き何事ならんと主人十右衞門は心も心ならず急ぎ御番所へ出る處に早速さつそく白洲へ呼び入れられ大岡殿は十右衞門を見られ今日けふ其方店先みせさきに金子の落し物はなかりしやと尋ねらるゝに十右衞門はかうべあげ私し儀今日他出仕つり只今歸宅の處へ御差紙に付留守中の儀は未だ承まはり申さず候間御尋ねの趣き罷り歸り店の者共をとく吟味ぎんみつかまつりしうへうけ申しあぐべしと申しければ大岡殿願ひ人七右衞門并に駕籠舁かごかき久七を呼ばれ七右衞門の落せしと云ふ金子は如何樣の財布へ入れおきしやととはるゝに七右衞門は斯樣々々かやう〳〵縞柄しまがらなりと其模樣そのもやう委細ゐさい申し立てける時越前守殿大聲にソレ其者共をしばれよと下知に隨ひ同心立ち掛りて七右衞門久七の兩人を高手小手にいましめたりかゝりし程に兩人の者共大いに驚き是は何故なにゆゑなげきければ越前守殿呵々から〳〵と笑はれ盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは汝等が事なり其金子は此間ぬすまれし者有てとくに此方へ訴へたり然るを知らずして訴へいでたる事是天罰てんばつなり依ては汝等其金をぬすみしに相違さうゐなしソレ引立ひきたてよと申さるゝにぞ同心直樣すぐさま引立ひきたて假牢かりらうへぞ入れたりける其時越前守殿十右衞門に向はれ今其方承まはる如く右の金はぬすみ物なり日々其方店へは大勢入り込むことゆゑ萬一落て有るまじき物にも非ず能々吟味致し今日中に申し出づべし捨置て若後日申し出るに於ては其罪そのつみおもく盜賊の同類どうるゐたるべし家内の者共屹度きつと穿鑿せんさくとげ早々いなやを訴へよと嚴敷きびしく申渡されしかば豐島屋大いにおそれ早々立歸り手代始め一同呼出よびいだし今日大岡樣斯々かく〳〵仰せ渡されたれば萬一右の金子を拾ひしものあらば隱さず申し出よと言渡しけるに若者のうちに一人發規はき返詞へんじをせざる者ありしがやゝあつて此者申すは先刻掃除を致し候處すみに財布樣のもの是有これありし故ひろひ置き候とて差し出せしかば改め見しに金二十兩入て有しに付十右衞門は早速奉行所へ持參ぢさんなし右の段申し立て財布を差出さしだしけるに越前守殿最初假牢かりらうへ入置れし兩人の願ひ人を繩付なはつきのまゝ再び白洲へ呼出され其方共訴へ出し財布はこれなるべしと渡され先に汝等へなはかけ盜人ぬすみ物と云し故夫なる豐島屋大に驚きさわぎ早速吟味行屆て其金を出したりも無ては押包おしつゝみ容易に出すまじと思ひしゆゑかくはからひしなり偖々さて〳〵汝等窮屈きうくつに有しならん早繩はやなは解免ときゆるし此金子を請取すべしと申渡されければ七右衞門久七の兩人は始めて其譯をさとまことに有難き仕合せなりと涙を流して喜びけり猶又大岡殿七右衞門をよばれ汝が證人駕籠舁かごかき久七は奇特きどくなる者ゆゑかれが親切にて其金汝が手へもどりしなり因ては二十兩の内十兩久七へ遣すべし其代りに汝が娘の勤め奉公の苦難くなんをば助けつかはさんコリヤ十兵衞とよばれし時十兵衞は始終の樣子を聞て大岡殿の頓智とんちしたまきまことに恐れ入て冷汗ひやあせを流し居たりしゆゑ急に答へもいでず平伏するを大岡殿見られ其方知らざる事とは申ながら其金子そのきんす押隱おしかくし置しは下人共の不屆にして其方平生の申付方行屆ゆきとゞかざる故なり因て下人共儀屹度きつと御仕置おしおきにも仰せ付けらるべきはずなれ共用捨致し遣す其代り七右衞門がむすめを早々其方請出すべし其上にて同人を其方そのはう屹度きつとあづくる間吉原勤め年季ねんきだけは汝が方へ差置べし若此娘の儀に付異變いへん之有これあらば早速此方へ訴へいでよと申渡されければ七右衞門は此事をきくより彌々いよ〳〵有難く思ひ聲をあげて悦び涙にくれたりけり又豐島屋十兵衞は有難き仕合せ委細畏まり奉つるとて立歸たちかへりしが此事番頭始めへ相談に及びし處右の女をあづか迷惑めいわく千萬の事なり生物いきものの事故如何なる異變いへんあらんもはかり難し然る時は又御咎おとがめの程も知ざれば請出せし上何分にも願ひ上て娘を親元へ引渡ひきわたすより外に了簡れうけんなしと評決して其段奉行所へ願ひ出でければ大岡殿聞屆られ親元へ相對に致すべきむね申渡されしにより其段豐島屋より親元へ掛合かけあひ猶又双方さうはうよりうかゞずみの上豐島屋より衣類其外殘る所なく支度して金子も幾干いくばくか相添七右衞門方へ娘を送りたりまこと孝心かうしん餘慶よけいむくい來て苦界くがいのが駕籠舁かごかきの實意を以て此事早速裁許さいきよに相成り其上大岡殿の當意即妙たういそくめう七右衞門娘の悦びたとふるにものなしと此頃此儀もつぱら評しけるとかや彼番頭久兵衞は己が盜みし金を大橋文右衞門へ言掛り此七右衞門は己がおとせし金を言掛りなりとて打擲をうけ事柄ことがら相反すと雖も各自おの〳〵邪正じやしやう洞察みぬかれし裁許天晴明斷と言つべし


第四十五回


 扨又大岡越前守殿には文右衞門一件段々だん〳〵吟味ぎんみすゑ下谷車坂町六兵衞たな藤助の兄弟を呼出よびいだされしかば久兵衞は彌々いよ〳〵絶體絶命ぜつたいぜつめい覺悟かくごするものゝ又何とか言拔いひぬけんと心に工夫くふうをなし居たり時に大岡殿藤助に向はれ其方は油屋五兵衞方へ何頃いつごろより奉公ずみ致し又何頃いつごろ眼病がんびやうにていとまとりしやと申さるゝに藤助私し儀は十六歳の時より五兵衞方へ參り七ヶねん相勤あひつとめ候處昨年春中はるぢうより眼病をわづらつとかねゆゑ七月中暇を取て宿やどへ下りをり候と云ければ越前守殿其方としは何歳にして兩親又は妻なども有りやと尋ねらるゝに藤助私し年は廿二歳兩親は先年せんねん死去仕しきよつかまつり妻も御座なく只今たゞいまいもとの世話になり漸々今日をくらし罷り在候と申すを越前守殿聞れ夫れは不審ふしんの事なり妹の手一ツにて今日を暮すと申せども渡世は何をして居るやたゞし又妹が人の世話せわにでもなりて居るかどうぢや其方主人方の番頭久兵衞は汝が處へ常々つね〴〵出入でいると申すが全く然樣さやう公儀かみにてはよく御存知なるぞ僞るに於ては其方の爲に相成ず明白に申立よと有りしに藤助はおほいに恐れ私し久々眼病にて甚だ難澁なんじふ仕つり今日をくらかね候ゆゑ妹の民こと番頭久兵衞の世話に相成あひなり右にて今日をすごし居り候と云ければ越前守殿成程もなくば女の手一ツにてくらしのたつはずはなしして又去年十二月中旬に久兵衞より何ぞ預りたる物はなきやととはるゝに藤助は少しかんが其儀そのぎ私しはしかわきまへ申さず妹民へ御尋ね願ひ上奉つると申せしかば越前守殿お民にむかはれ其方は久兵衞よりなにあづかりたる物はなきやどうぢやと尋ねらるゝにお民は先刻せんこくよりふるへ居たりしが漸々やう〳〵おもてあげ去年のくれ十三日に久兵衞さんより百兩の金子を私しへわたされて是れは手前てまへつかはすにより何にても買求かひもとめよとてもらひましたと申立ければ久兵衞かたはらにて是をきゝコリヤおたみ己れは跡形あとかたもなき事を云ふ女なり何時いつおれが手前に百兩などと云ふ大金をあづけしやコレ宜加減いゝかげんうそつけと恐ろしき眼色にて白眼にらみ付けるを大岡殿見られコレ〳〵久兵衞當所を何と心得居る虚實きよじつは此の方にて聞分きゝわけるぞこゝ横道者わうだうものめと大聲にしかられしかば大膽不敵の久兵衞も威光ゐくわうに恐れ一縮ひとちゞみと成てひかへ居るに大岡殿コリヤ民其方久兵衞よりもらひし百兩は如何致せしやと有りければお民は久兵衞のかたを見ながら右の金子にてくしかんざし又正月の小袖おびなど種々いろ〳〵こしらへ兄藤助にも着物きもの調とゝのへて遣はしましたが未だ餘程よほどのこりをりますと申すに越前守殿コリヤ久兵衞今其方もきくとほおのれ世話せわをしておく女がくれの十三日に百兩の金を貰ひて種々いろ〳〵品物しなものを求めたりと申すではないか其の百兩の金子は如何いかゞして所持しよぢせしや主人の金をぬすみ取り無證據なりとて文右衞門に塗付ぬりつけんとたくみしに相違あるまじ不屆至極ふとゞきしごくの奴なり汝は一年何程給金きふきんを取て居るや其金ぬすまざれば何方いづかたより出したる金子なるや明らかに白状せよ斯程かほどに證據のある事を何時いつまでちんじ居るぞ未練みれんな奴ぢやと申されしかば久兵衞はお民を發打はつたねめつけヤイこゝな恩知らずの畜生女ちくしやうをんなめ百兩のかねを此久兵衞より預けしおぼえはなし何時いつ預けしやよく了簡れうけんして見ろおれゆめにも知らぬ事をべら〳〵しやべりをるとも恐ろしき顏色にて睨付ねめつけければお民も今更一生懸命に泣聲なきごゑを出し久兵衞さん御前こそうそ御吐おつきなさる私しは御奉行樣より有體ありていに申せとの仰せ故つゝまず申上るのさ決して私しをうらんで下さるな御前は主殺しゆころしのうへ夜盜よたうをしたとか言ふ事とても命は助からぬから男らしく正直しやうぢきに白状して御仕舞おしまひなオイ久兵衞さん私しとても御前の恩は忘れはせぬが公儀おかみを僞るはおそろしいゆゑ正直に申上ます必らずうらんで下さるなと云ふに久兵衞最早もはや仕方しかたなしとは思へ共猶強情をはつて居るを大岡殿コリヤ久兵衞是れにてもおのれは白状せぬかと云るゝに久兵衞は左右とかくに伏せず一かうおぼえ御座りませぬと申ければ大岡殿聲高こゑだかに扨々おのれは強情なる奴かな然らばなほまた引合ひきあはする者あり彼の者是れへと申さるゝに同心ハツと答へて馬喰町二丁目八十二軒組武藏屋長兵衞方旅人後藤半四郎這入はひりませいと呼込よびこむに久兵衞は是をきいて大いに驚きいろ蒼然あをざめひかへ居たり時に後藤半四郎は今日けふ呼出よびだしに付先刻より呼込よびこみあるを今や〳〵と待兼まちかねたるゆゑ直樣浪人臺へ罷りいで一向容體なりふりにも構はず控へたりれば久兵衞は半四郎を見て彌々驚き眼をとぢかしらを下げて居けるに大岡殿如何に半四郎かれの證據を申立よと云れしかば後藤は久兵衞を見るやいなや忽ち怒り心頭しんとうはつしヤイ久兵衞おのれは大膽不敵の惡黨あくたうなり先年三島の一件を打忘れ益倍ます〳〵惡心増長して今度大橋文右衞門へ百兩の云懸いひかかりをせし事言語同斷ごんごどうだん曲者くせものなりおのれ是を盜み取て文右衞門におはせんとの惡巧わるだくみ又主人五兵衞が悴五郎藏のよめに不義を仕懸しかけしゆゑお秀は耐兼たへかね逃出にげいだしたるを却ておやをつと見捨みすていでし女には持參金道具類とも返す事はならずなどと汝一人の取計とりはからひにて引止置ひきとめおき渡さざるは皆横領せんのたくみならん爰な大惡人めと白眼にらつめしが大岡殿へ向ひ某し儀當年より十八ヶ年以前劔術の師なり養父なりの後藤五左衞門と申すもの諸國修行しよこくしゆぎやうに出し所上州大間々にて病死仕り候みぎり早速同地へ罷りこし師父の追善つゐぜんいとなみ其後罷り歸り候節中仙道熊谷土手にて越後浪人新藤市之丞と申す夫婦のもの惡漢わるもの取卷とりまかれ難儀致し候を見るに忍びず某がし惡黨あくたう追散おひちらし夫婦を救ひ夫より熊谷宿寶珠花屋八五郎と申す旅籠屋はたごやへ止宿致し市之丞きず養生致させ候處江戸表へ罷り出度いでたきよし申候に付右八五郎兄なる江戸馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ彼夫婦かのふうふの者を送りとゞけ猶少しの手當てあてを遣はし夫婦の身分を長兵衞にたのおき某しは國表丸龜へ立歸り候節東海道戸塚宿より江州商人と申す者道連みちづれに相成其夜三島宿の長崎屋と申す宿屋へ止宿仕つり候所夜中に至りてみぎつれの男某がしが寢息ねいきを考へ所持の金子を盜み取んとするにより引捕ひきとらへて金子は取り返し以來心を改めよとてよく〳〵異見いけん差加さしくはへ候節宿屋の者共馳來はせきたりてかれ片小鬢かたこびんの毛を拔取ぬきとり入墨いれずみを致せしに付猶又かれ惡心いでしなら水鏡みづかゞみなり共うつして改心せよと申しふくめ逃し遣はせし奴は即ち是なる久兵衞に御座候然るに某し此度このたび江戸表えどおもて見物けんぶつとして長兵衞方へ止宿仕まつり候處折節長兵衞弟熊谷宿寶珠花屋八五郎も出府致しをり面會仕めんくわいつかまつり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付えんづき候へども家内不熟ふじゆくかつは此久兵衞事嫁の秀へ不義を仕懸候趣きにて右秀儀里方さとかたへ逃歸り候に付よんどころなく離縁仕つらんと掛合に及び候處是なる久兵衞一人不當のみを申つのり持參金道具代は勿論親亭主にひまくれ候女に離縁状は出し申さゞる由を申して一かう取合とりあひ申さず依て秀親八五郎なげき候間不便に存じ某し油屋五兵衞方へ掛合かけあひに參り候にあにはからんや番頭久兵衞と申すは先年三島宿にて一たん取押とりおさへたる騙子ごまのはひなればかれも驚きし樣子にて大いに恐れ早速離縁状は差出さしいだし候へども右の通りもとよりの惡漢わるものゆゑ是まで如何樣の惡事をなせしやも計り難し此度浪人文右衞門の一件も久兵衞が仕業しわざ相違さうゐこれなきやに存じられ候間何卒御糺明きうめいうへ文右衞門出牢仰せ付られ候樣願ひ奉つるとこと明細めいさいに申立ければ越前守殿聞置たりとのことにて如何に久兵衞白状せぬかと申さるゝに久兵衞は差俯向さしうつむきまゝかう無言むごんなれば半四郎はこらかねヤイ久兵衞某し罷りいづる上は如何程ちんじてもやくには立ぬ有體に白状して仕舞しまひいはざるに於ては此半四郎が目に物見するぞと白眼にらみつくるに久兵衞はハツと平伏ひれふせしが最早此の上は是非なしと思案をきは漸々やう〳〵かうべあげて文右衞門に申しかけし百兩のきん實は己れが盜み取て藤助妹へ遣はしたる始末等殘らず白状に及びしかば是に於て久兵衞は口書こうしよ爪印つめいん申付られけり是即ち幕府ばくふ規則きそくにして假令たとへ如何樣に證據物等之有これあり其者の惡事あくじ判然はんぜんたりとも當人の口より白状に及ばぬ中は爪印つめいん申付られぬ事なりされ斯樣かやうねんを入て吟味をつめらるゝとかや


第四十六回


 然程さるほどに久兵衞は口書爪印となりけるゆゑ大橋文右衞門は出牢申付られしかば去年十二月より今年三月まで概略およそ四ヶ月のあひだ無實むじつの難にくるしみしも天日明かにして終に其濡衣そのぬれぎぬほしければ當人は申に及ばず女房お政の歡喜よろこび言ん方なく迅速すみやかに腰懸まで迎ひに來り是偏へに御奉行の明斷による所なりと白洲の方に向ひてしきりに伏拜ふしをがうれし涙にくれたりけり時に後藤半四郎は再び大岡殿に向ひ恐れながら某し御奉行樣へ願ひあげ奉つりたき儀御座候右は先刻申上し寶珠花屋八五郎娘秀離縁の儀に付油屋久兵衞方より持參金并びに道具類等だうぐるゐとう未だ返しくれ申さず候間何卒なにとぞ御威光ごゐくわうを以て右の金子道具共殘らず相渡しくれ候樣の御沙汰成下なしくだされたく此段偏に願ひ奉つると申ければ大岡殿點頭うなづかれて直樣すぐさま八五郎を呼出よびいだされ其方娘を五兵衞方へ縁付えんづけし處今度離縁りえんに及びたれども未だ持參金道具類を請取うけとらざるよし持參金のたかは何程なるや申し立べしと有に八五郎は何事なるやと思ひしにかゝる尋ねなれば意外に喜び娘が持參金は百兩に御座候と申立ければ大岡殿五兵衞をられ其方はよめひで離縁りえんに及びし處未だ持參金道具類とも返さざるよし不埓ふらちなり今日中に殘らず返すべし持參金を切金などには相成ぬぞ此段屹度きつと申渡すぞと嚴敷きびしく申付られたり因て五兵衞は爲術せんすべなく畏まり奉つるとて夫れより一同腰懸こしかけさがり五兵衞は八五郎に向ひ今仰せ渡されのは何卒持參金ばかりにて勘辨かんべん致しくれられよと申ければそばに聞居たりし後藤半四郎は進みより否々いや〳〵道具類とても決して勘辨相成ず彼是云て埓明らちあけずは貴樣がよめのお秀へ毎夜々々不義を仕懸し始末を申立て御吟味ごぎんみを願ふべしと云ふに五兵衞は甚だ赤面せきめんなし夫れは如何にも迷惑めいわく仕つるにより其處そこはどうかと申すを半四郎は否々いや〳〵そこふたいらぬ彼是云るゝなら御吟味を願ふ而已のみなりと云ければ五兵衞は殆んど爲方せんかたなくあらば取揃とりそろへて御返し申すべしと云ふに半四郎夫れは云ふまでもなし急度きつと返さば其儘そのまゝもし今日中に返さざるに於ては又候訴へんと嚴敷きびしく云ふゆゑ五兵衞は終に金百兩并びに諸道具とももどしけるとなり右相談のすみし頃大岡殿又々一どう呼込よびこまれコリヤ五兵衞其方が久兵衞にぬすまれたる三百五十兩は其儘そのまゝ汝へさげ遣はすしかし召仕ひ久兵衞を盜賊と知ず差置さしおき浪人文右衞門へ無實の賊名ぞくみやうおはせんと云懸りたる其罪甚だかるからず是に依て文右衞門へ詫金わびきん百兩遣はすべし尤も改めて猶申渡すで有う然樣さやう心得よと有るに是又五兵衞は是非なくはつと平伏して仰せ畏まり奉つると申すに大岡殿は後藤へ向はれ半四郎右の詫金わびきんは其方へ取立方とりたてかた申付る間五兵衞へ懸合かけあひに及び受取次第文右衞門へ相渡し申すべしと云れ夫れより又文右衞門を呼れ右詫金みぎわびきん百兩を其方請取うけとらば長八が娘の身請をなし親元へ歸すべし殘り金の儀は其方存じより次第しだいに致せと申されければ文右衞門は有難く畏まり奉つるむね申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞たな藤助とよばれ其方儀久兵衞よりあづかおきたる百兩の金子は殘り何程これあるやと尋ねらるゝに藤助おそれながら私し儀困窮こんきうの身分につき借錢等相拂ひ當時三十五兩殘り有り候と申を大岡殿聞れしからば其金三十五兩は公儀かみへ御取上になるぞれども藤助よく承はれ右の金子はもと不正の金ゆゑ不足の分まで殘らず御取上に相成るはずなれ共其方永々の眼病にて盲人まうじん同樣に付格別かくべつの御慈悲を以て殘金三十五兩だけ御取上に相成る間有難く存ずべしと申渡され此日は一どうさげられけり扨翌日七日の差紙にて一件關係かゝりあひの者一同呼出され落着とぞ相成けるこれ享保五年三月七日なり時に大岡越前守殿白洲しらすに出座有て申渡し左の通り

下谷山崎町
家持
五兵衞

其方儀盜賊たうぞくとはしらざるとも召使めしつかひ久兵衞へ家業向かげふむき打任うちまかせ候により浪人文右衞門へ難儀なんぎかけ候段重々不埓ふらちに付屹度きつととがめ申付べきの處格別かくべつ御憐愍ごれんみんを以て御沙汰これなき間文右衞門へ詫金わびきん百兩遣はすべし

下谷車坂町
六兵衞店
藤助

其方儀久兵衞を盜賊たうぞくと知らずと雖も不正の金子をあづか置事おくこと不屆に付屹度きつととがめ申付べきの處格別かくべつの御憐愍を以て過料錢七貫文申付る

藤助妹
たみ

其方儀兄藤助眼病中孝養かうやうを盡し候段奇特きどくおぼめさ御褒美ごはうびとして青差あをざし五貫文くだし置る有難く存ずべし

馬喰町二丁目
武藏屋長兵衞
同人方旅宿
浪人
後藤半四郎

其方共儀新藤市之丞外萬事世話せわ致し候段神妙しんめうおぼめされ御褒美として白銀十枚ヅツ下し置る有難く存ずべし

馬喰町二丁目
前名新藤市之丞
當時屑屋
長八

其方儀先年の恩義を忘れず文右衞門へ金子きんす返報へんぱう致し候志操こゝろざし神妙しんめうに思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし

新吉原江戸町一丁目
玉屋山三郎代
彦助
淺草田町
たな判人はんにん
利兵衞

其方共儀長八むすめ身受みうけ相談さうだんの儀は公儀かみに於ても孝心を御賞し有るにつき利欲りよくかゝはらず深切しんせつ懸合かけあひとげ遣はすべし

屑屋くづや
長八娘
かう

其方儀親孝行の段奇特きどくに思し召れ御褒美として白銀はくぎんまいくだおかる有難く存ずべし

元油屋五兵衞
召仕めしつかひ
久兵衞

其方儀主人の金子を盜みとりあまつさへ主人悴五郎藏を殺害致し候段重々不屆に付江戸中引廻しのうへ淺草に於てはりつけに申付る

みぎ相濟あひすみ屑屋長八は娘お幸のもどりしを喜びやがむことりて小切店に商賣替しやうばいがへをなし家内益々繁昌はんじやうしけるとぞ又大橋文右衞門は心懸こゝろがけ天晴あつぱれなる者につき目をかけつかはすべきの由奉行所より町役人へ内意も之有これありむね古主こしゆ松平越後守殿へ聞え早々歸參となり元知もとち五百石に復し物頭役申付られ忠義を盡しけるとなり其後此一件落着のおもむき越前守殿より將軍家へ言上のみぎり後藤半四郎のうはさを申上られしかば其者の武藝ぶげいこゝろみんとの上意にて半四郎を吹上ふきあげ召出めしいだされ御旗本十八人まで劔術試合を仰せ付けられ八代將軍吉宗公上覽じやうらん有し處後藤に敵する者一人もなく皆々打負うちまけければ將軍家ことの外御賞美有て新知二百石下し置れ御旗本に御取立おとりたて相成ければ半四郎のよろこたとふるにものなく是より後藤喜三郎秀國と改名して忠勤ちうきんはげいへ富榮とみさかえけるとなん


後藤半四郎一件

松田お花一件

松田まつだはな一件いつけん


第一回


 こゝ備前國びぜんのくに岡山御城主高三十一萬五千二百石松平伊豫守殿いよのかみどの藩中はんちう松田喜内まつだきないと云ふ者あり代々岡山に住居ぢうきよせしが當時の喜内は壯年さうねんなるに兩親をうしなひ未だ妻をもめとらず獨の妹お花と云るを家に養ひ置わづかに兄弟二人の家内にして祿高ろくだか五百石をを領し外に若黨わかたう二人下婢げぢよ一人中間小者共主從九人のくらしなり扨此喜内は學問を好み軍學武藝にも達し物がた生質せいしつなれば諸方より妻をすゝむる者あれども妹を他へ縁付えんづけざる中はむかへ難し殊に我等未だ三十にも足ざれば急ぐにも及ばずとて請引うけひかざるにぞ當時の若者には珍敷めづらしきなりと一家中ほめざる者は無りける又妹お花と云は當年十六歳にて容顏ようがん美麗びれいなるは我朝の小町唐土もろこし楊貴妃やうきひをも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方よりよめもらはんと云者いと多けれども兎角喜内が心にかなはずよき挨拶あいさつして打過ける茲に喜内の若黨わかたうに吾助と云者有しが此お花を深く思ひ初主人の妹とは知ながら折々可笑をかし想振そぶりなどして袖たもとひきけれども此吾助元來みにくき男にて勿々なか〳〵お花が相手になるべき器量きりやうならず殊に若黨なれば尚更請引うけひく樣もなければ只一人むねをぞこがしける然るは其頃同家中に高五百石を領す澤井佐太夫の次男に友次郎といふ者あり當年十九歳にて古今無双の美男なりしが早晩いつの程にかお花とわりなき中となり喜内が當番たうばんの留守の夜などにはひそかにお花がねやに忍び來り語らう事も稀に有しかば彼の若黨の吾助は此樣子を覺り口惜き事限りなく彌々いよ〳〵胸を苦しめて居たりけり斯て或夜の事喜内は當番にて留守成しかば例の如く友次郎はお花の部屋に忍び來りしを吾助はしか見濟みすまし此由を御殿へ行て旦那へ申上二人の不義ふぎあらは日來ひごろの無念を晴し呉れんと直樣すぐさま御殿へ走り行き只今急用きふよう有て參りたり早々喜内樣に御目にかゝりたしと云入けるにやがて喜内は何事成哉と立出るを吾助は待兼まちかねて聲をひそ御令妹おいもとごお花樣御事かねて澤井友次郎殿と不義成れし事私し存じ居候へどもたしかなる事を見ねば旦那樣の御耳おんみゝにも入難いれがたしとぞんぜし處今宵も御當番の御留守をうかゞひ友次郎殿事お花樣の御部屋おへやへ忍び來られたり此事たしかに見屆け候故御注進ちうしん申上候と云ければ喜内はさわぎたるていもなく吾助其方ともを致せと云ながら直樣すぐさま自宅に立歸りお花が部屋に這入はひればお花はハツト仰天ぎやうてんして友次郎を夜着よぎの中に手早くかくそばに有し友次郎が脇差わきざしを引拔て兄上御免おゆるし下されと云より早く咽喉のんどにグサと突立つきたてんと爲るを喜内は手早く押止おしとゞめ其方はかねて出家の望み有て相州鎌倉なる尼寺あまでらへ參り度心願しんぐわんの由夫故かねて我にいとまを呉よと申せしを今迄はゆるさゞりしが夫程迄に思ひつめし事なればとめたりとも止るまじ因て只今身のいとまつかはすべし其方出家しゆつけ致すからは此以後對面たいめんかなはぬぞさりながら女の身にて遠路の處身をまもる者なくては叶はずと云ながらの友次郎が脇指わきざしをお花に渡し此脇指を肌身はだみはなさず何事も相談して怪我けがなき樣に暮すべしと懷中くわいちうより二包ふたつゝみの金子と藥の入し印籠いんろうを取出し是はわづかながら兄よりの餞別せんべつなり二品を持て早々出立せよと云つゝ其儘そのまゝお花が部屋を立出ればお花は元より友次郎も夜着の中より喜内が後影うしろかげ伏拜ふしをがやがて兩人は支度をなし二包ふたつゝみの金と藥を押戴おしいたゞきて懷中にをさめ何方を當と定め無れど見咎みとがめられては一大事と鼠竊々々そこ〳〵に岡山を立退たちのきけりさて喜内は翌日になり私しの妹花と申者かね出家遁世しゆつけとんせいのぞみ有之により止事やむことを得ず昨夜身のいとまを遣はし候と太守へ屆け出ければ夫にて事故なくすみけるがすまぬは彼の若黨吾助胸にて二人の不義の樣子を現在に見屆ければ必定ひつぢやうがたき喜内の事故二人共に手討になすべし然れば是迄の無念むねんはれるなりと思ひて告たりしに案に相違の喜内が計ひ金迄もたおとしてやり其上喜内よりの申聞にはお花事はかねて出家の望み有により暇を遣せしなり夫を不義者などと申ふらせし段不埓ふらち千萬なりと大いにしかられしゆゑ吾助は喜内の心を知らねば片贔屓かたひいきなる仕方しかたと深く喜内をうらみつゝ此返報このへんぱうは今に思ひ知すべしと爰に於て喜内を殺し恨みを晴さんとの惡念あくねんきざしけるこそ恐ろしけれ斯て吾助はよきをりあれかしとひまうかゞひけるに喜内は何事も愼み深く其上武術に達しければなまじひに手出をなして仕損じては一大事と空敷むなしく半年餘りを過しけるが或時喜内は不圖ふと風邪ふうじやをかされてふしたるに追々熱氣強く十日餘りも床に着ければ其間若黨二人一夜代り〳〵に次の間へ打臥うちふし夜中の藥をせんじなどしけるが今宵は吾助の番に當りて例の如く次の間に寢て居たりしに喜内は熱氣ねつき少しうすらぎたるにや其夜は心快こゝろよげにすや〳〵と眠れる樣子なれば吾助は心に思ふ樣今喜内殿病につかねむりたるなれば假令たとへ寢首ねくびかくとも正體は有まじ豫ての怨みを晴すは此時なりと常に案内知たる事なればまづ納戸なんどいたり喜内が衣類と金子二百兩を取出し一包にして夫よりそつと雨戸一枚を外しおきくだんの包を飛石とびいしの上に置徐々そろ〳〵おりて庭口と門のとびらを開きにぐる道を補理こしらへおきて元の座敷へ歸り喜内が寢息ねいきを考ふるに喜内の運の盡にや有けん正體もなく能寢入り居るにぞ吾助は心によろこび用意の刀を拔放し喜内が寢たる上に打跨うちまたがものをも云ずつかとほれと咽喉のどもと刺貫さしとほせば喜内はアツと聲を立しが元來物に動ぜぬ人なれば心を鎭めて考ふるにのどに貫きし刀の刄右の方を向て有し故左りの方へ跳起はねおきて枕元に有し短刀を拔きおのれ曲者御參なれと切て掛れど病につかれし上痛手いたでをさへ負たれば忽ちくらみて手元の狂ひしゆゑ吾助が小鬢こびんを少し切しのみ尻居にどうと倒れたり吾助は切付られてハツとおどろにぐ機會はずみ行燈あんどう蹴返けかへして暗がりと成ければ此所ぞと滅多切めつたぎり斬散きりちらしける程に喜内は左の手を切れたり茲に於て喜内は是非なく聲を立て皆々出會々々であへ〳〵と云程こそあれ吾助は見咎みとがめられては一大事と豫て拵へ置たる迯道にげみちより彼の一包をたづさへて何處いづくともなく迯失にげうせけり其後へ若黨下部等は喜内が聲を聞付て走り集りしが行燈は消て闇がりなれば狼狽うろたへ廻り漸々やう〳〵ともし見るに是は如何に主人喜内は朱に染て俯臥うつふしに倒れ居るにぞ皆々仰天していだき起し呼生るに暫くして喜内は息を吹き返し有し樣子を委敷くはしく物語り重て若黨の忠八と云ふ者をそばちかく招き寄汝は我が方に幼少より勤めたましひをも見拔し故申殘すなり我吾助を一打に爲んと思ひしにくらみたればわづか小鬢こびん少しを斬剥きりそぎしのみ取り迯したる段殘念千萬なり我死なば右の由明白に太守へ訴へて家財殘らず相改め請取の役人中へ引渡すべし其節そのせつ見苦敷みぐるしき振舞ふるまひ無き樣皆々へ申付よ又具足櫃ぐそくびつの内にある貞宗の短刀と用金五百兩の内二百兩は汝預かりて何卒國々を廻りて妹お花につかはくれよ又百兩は右の路用として汝につかはすなり殘りの二百兩は汝を始め下人共一統に遣さんあひだ配當はいたうすべし此旨我遺言ゆゐごんなりと役人中へ申達し麁忽そこつなき樣に致すべしと云を忠八は涙とともに聞終り御意の旨委細ゐさいかしこまり奉つり候お花樣には屹度きつと御目に懸り此二品を御渡し申御遺言の旨趣おもむきも御傳へ申すべし然れどかたき吾助未だ遠くは參るまじ追止おひとめて恨みを報ぜんとかたな追取おつとり立上るを喜内は待てと呼止よびとめなんぢ追行おひゆくとも最早もはや時刻じこくも移りたれば其甲斐有るまじ汝其志操こゝろざしあらばお花に廻りあひし上わが無念を晴しくれよと云うを此世の名殘にて廿八歳を一期とし終に果敢なくなりければ最早もはやなげきてもせんなしと忠八は主人の遺言ゆゐごんの趣きを下人共に委細に告倶々とも〴〵に喜内が死骸を夜着の内にをさめ其由目附役迄めつけやくまで訴へ出ければ早速檢使入り來りて死骸をあらため忠八より遺言の趣きを委細くはしく聞て立歸りしのち種々いろ〳〵評議ありしに當時喜内に親類もなく子は猶更有ねば是非なく家斷絶に及びけり因て忠八は遺言ゆゐごんの通り家財殘らず太守へ差上貞宗の短刀たんたうと金五百兩のみを殘し置其中金二百兩は下女下男五人へ旦那の紀念かたみなれば何迄いつまでも御恩を忘れず御回向ごゑかう申せと云ひ聞せて配分はいぶんしければ皆々なみだながらに押戴おしいたゞ散々ちり〴〵にこそ出行けれ夫より先に忠八は喜内の死骸を寺院にはうむ石碑せきひを建て回向料ゑかうれうなどあつく寄附し萬事手落なくすませければ下人共を下たる跡にて明朝屋敷を引拂ひ候旨屆け出其翌朝よくてうくだんの二品を腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の松蔭まつかげより黒き頭巾づきんにておもてを隱せし一人の侍士さぶらひ四邊あたりを見廻し立出て忠八暫しと云こゑに驚き見返みかへれば彼の侍士が黒き頭巾をぬぐを能々見るに澤井友次郎の父佐太夫なりしにぞ忠八は再びおどろきて一れいなせば佐太夫も會釋ゑしやくして此方へと云て以前の松蔭まつかげ連行つれゆき扨も此度喜内殿の横死わうし嘸々さぞ〳〵愁傷しうしやうならん其方も知て居らんが友次郎の事に付ては大恩の有る喜内殿故それがしも早速參り御世話も致すべき筈なれども世の義理ぎりあれば思ひながら打過にせしが扨今朝其方が出立と聞及びて最前さいぜんより此所こゝ待居まちゐたりしなり友次郎事は勘當かんだう致せし者故某しより何も助言じよげんは致さねども喜内殿の大恩を思はゞお花殿に力をそへかたき吾助を討取べしと其許心付れしならば其由悴に告て給るべし又此金子はわづかながらお花殿へしんじ申度とて金二百兩の包を出し外に金五十兩是は其方が路用ろようの足に致すべしと二包の金子を渡せば忠八は其志操こゝろざしを感心し主人しゆじん末期まつごに及びお花殿へ紀念金かたみきんとして二百兩預かり居候へば是にて事足ぬには有まじけれど折角の御志操こゝろざし故私し御預り申屹度きつと御屆け申すべし又友次郎樣へも只今の御言葉ことばは私しの存じ寄も同樣に御座候へばはゞかりながら御助言ごじよごん申上候はんされども私し事は主人より路用として數多の金子をもらひ請て候へば御思召おぼしめしの程は重々ぢう〳〵有難く存ずれども此金子は返納へんなふ仕つりたしと云を佐太夫は押返おしかへし夫しきなるわづかの金子を彼是と云れてはかへつて痛み入なり平に受納うけをさめらるべしと種々さま〴〵に云ければ忠八今はがたく二包の金子を押戴おしいたゞさらば是にてお別れ申さんと云を佐太夫も止めかね呉々くれ〴〵首尾能しゆびよく本望ほんまうを遂目出度歸國有べし猶もお花殿の事頼み入と茲に佐太夫忠八の兩人は涙ながらに別れけり


第二回


 然程さるほどに忠八は岡山の城下はづれなる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき方も無れど先京大坂は繁華はんくわの地なればもしやお花樣御夫婦の彼處かしこに止まり給はんも圖り難し彼是と思はんよりはまづ大坂へのぼり夫より京都と段々だん〳〵尋ねんと吉備津浦きびつのうらより便船びんせんせしに日々追手風おひてかぜ打續き十日目にて大坂川口へ着船ちやくせんしければ夫より大坂に足を止め日毎に新町道頓堀だうとんぼり或は順慶じゆんけい町の夜見世など人立多き所に行てはお花夫婦并に吾助が所在ありかを尋ねさがせども是ぞと思ふ手掛りもなく斯て在事あること二百日餘りに成しかば最早もはや大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見のぼりの船に乘て翌朝伏見に着せしが此處も繁華はんくわの土地なればとて三日ほど逗留とうりうして尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へのぼらんと此處を立出三條の龜屋と云る旅籠屋はたごや宿やどりしに當所は大坂と違ひ名所古跡も多く名にし平安城へいあんじやうの地なれば賑しきこと大方なら祇園ぎをん清水きよみづを始として加茂北野金閣寺其外遊所いうしよはもとより人立しげき方へ行ては尋ぬれども此處にも更に手掛りなく彼是と半年ばかりも暮しけるうち或日あめつよふりて流石の忠八も此日は外へも出ず宿屋に一人徒然つれ〴〵に居たりしに此家の亭主出來いできたり偖も折惡敷をりあしき雨天にてお客樣には嘸かし御退屈ごたいくつならんと下婢げぢよよびにばなを入菓子など出して待遇もてなすにぞ忠八も折柄をりからよき咄相手はなしあひてと種々の物語をなしけるうち亭主申けるは一昨年のなつ祇園祭ぎをんまつりの時にて候ひしが私し方へ年頃としごろ廿歳ばかりの男と十六七の女中の御武家方ごぶけがたと見ゆる人とまつり見物に登られ二夜泊りて歸られしが其日の晝頃ひるごろ立戻られて大切の印籠いんろうを忘れたれば何とぞ吟味致しくれよといはれし故座敷々々を殘らず尋ぬれども一かうしれ申さず尤も祭の時分なれば客人多く私し方ばかりにて五十人相客あひやどなれど若や先へ立れし人が間違まちがひられ荷のなかへ入て行れしもはかり難し氣の毒ながら私し方には之なしと申せしに夫婦のしうは大に力を落されあの印籠は大恩ある人より紀念かたみ同樣どうやうに貰ひし品なれば失ひては濟難すみがたし然りながら忘れて立しが此方のあやまちなれば是非もなしと悄然しほ〳〵として立れたり扨其後二日ほどすぎて右の印籠を下女が座敷の袋戸棚ふくろとだなより見付出し候が然ればとて何處の何某なにがしいふ御人なるか聞ても置ねば御屆け申べき便たよりもなし併し言葉遣ひは中國筋の御人と見請たれば其後は中國ちうごく言葉の御客と見る時は若や斯樣かやうの人は御存じなきや御逢成る事も有らば其の節取落とりおとされし印籠は私し方に確におあづかり申置候へば此由を御通じくださるべしとお頼み申せしが今にしれず餘り雲をつかやうなる御頼み事なりとて呵々から〳〵と笑ふを忠八は倩々つら〳〵聞て何やら其樣子は友次郎御夫婦にて其上印籠を紀念かたみ同樣どうやうと云しも謂れあるすぢなりと思ひしかば忠八は膝を進め御亭主ごていしゆ只今の物語り拙者少し心當こゝろあたり有苦しからずば其印籠を鳥渡ちよつと拜見はいけんは成間敷哉と云に亭主は其は何よりやすき事なりとて下女をよびて其印籠を取寄とりよせ忠八に渡し此品にて候と云にぞ忠八手に取て一目見に黒地くろぢに金にて丸に三ツ引のもんちらし紛ふ方なき主人喜内が常に腰に提られし印籠なれば思ずなんだを落とせしがわざわらひまぎらし再び亭主にむかひ此印籠は拙者が心當りの人の所持品に相違なしりながらかく申せしばかりにては不審は晴まじ彼の夫婦の面體は斯樣々々かやう〳〵には有ざりしやと云うに亭主は手をうつて仰の通り少しも違はず何でも物ごとは話して見なばわからぬものなり貴君樣に此お話しをせずば大切の品を何時いつまでもあづかり居るか知れざりしに今日元の主へ返へすべき便たよりを得しは實に不思議ふしぎの幸ひなり然らば此印籠貴方樣へ御渡し申べし何卒先樣さきさまへ御屆け成れて下さるべしと悦びていひけるにぞ忠八も又大に悦びしからば此品は拙者たしかに預り參る可ししかしべつに證據もなく受取て參らんも心よからねば以前うしなひたる持主を同道致して御挨拶に參るまでの間だ金子三兩御預け申置べしと云を亭主は押とゞめ夫程迄にかたく仰せらるゝものを何故疑ひて金子などお預り申べきや其儀は御無用ごむようなりと云にぞ忠八は亭主が侠氣をとこぎに感じて懷中より金百疋取出し是は餘りに輕少けいせうなれども此印籠を探し出せしと云女中につかはし給へと渡しけれども亭主は手にだも取ず某し旅籠屋商賣をいたしれば御客樣の物品の紛失ふんじつするは某しが不調法なり然るにさがし出したればとて女中共へ斯樣かやうなる御心遣ひを蒙るいはれなしと一向に受をさめねば忠八は止事を得ず其意に隨ひ彼の印籠を請取うけとつかたちを改め是に就て尋ね申度事たきことあり右夫婦の者は此家を立て何國へ參り候や存て有ばをしへられよと云に亭主暫く考へて何國と申す先は存ねども出立しゆつたつの時大津へ出る道を問れし樣子たしかに覺えをり候へば若や江戸の方へでも御いでにては有間敷哉是も聢と定めては申されずと云を聞て忠八は大いによろこび然る上は今よりすぐに出立すべしと云を亭主は押止おしとゞめ此大雨に勿々なか〳〵御出立は相成るまじ其上最早もはや申刻なゝつどきすぎたれば大津迄出給はぬ内に日はくれ申すべし夫よりも今宵は此所に泊られてよく未明より立給ふが御便利成べしと申ければ忠八もにもと思ひ其夜の内に是迄これまでの宿賃を拂ひ外に茶代として二百疋を遣はしければ此たびは亭主もいなみ難く受納め酒肴など出して饗應もてなしけれども忠八はお花等が行方ゆくへを聞より少しもこゝろ落付おちつかず酒も宜程に濟し夜着引冠りて寢たれ共餘りのうれしさに其夜はまんじり共せず翌朝よくてう未だ暗き中に起出おきいで食事抔もそこ〳〵仕舞て大津の方へ立出けり


第三回


 是より先に友次郎お花の兩人は喜内がなさけにて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身をよせんと云方もなく然ばとて岡山近所きんじよにも住居も成難く兎角此邊にをらんよりは遠路ながら江戸へおもむかば諸侯も多き處ときゝ及べばよき主取りも成べしとお花にも此由を云聞せ旅裝たびよそほひは道々調へんとまづ二百兩の金を百兩はお花の胴に附させ殘りの百兩を自分に所持してならばぬ旅を陸路より漸々大坂迄つきければまづ此所にて暫く休足すべしとてある旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を見物けんぶつしければハヤ五月もすぎ六月の初旬となり炎暑強き頃なれば凉風の立迄たつまで當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り主取しゆどりせんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中は堪難たへがたき物ならんがさりとて此所に浮々と長逗留して路用を遣ひへらさば主取も給ふに萬事不都合ならん少しの暑さへ耐へ江戸に落付おちつきて安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立の用意よういすべしと宿へも其由を物語り享保二年六月五日のゆふふねに乘て翌六日の朝伏見へ着船したりける折柄をりから祇園祭ぎをんまつりなれば參詣として大坂より船にて京へのぼる者引も切ず其時友次郎はお花にむかひ其方も見聞みきく通り祇園祭の由にて此通りの見物なり此處よりはわづかに三里と云ば好機なれば祭りをも見たるついでに名所古跡こせきをも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花もよろこび見物いたし度といふにぞ友次郎はお花を連て人のあとに付行程に頓て京都九條通りへいでにて宿屋を尋けるに三條通りにありとをしゆるゆゑ即ち三條通りへ行き龜屋と云家にとまりしに祇園祭りとて見物人の相宿あひやど多く漸々八疊の間を二ツに仕切て其處へ落付未だ日も高ければ其日は東山ひがしやま邊を見物なし翌日は又祇園會の山鉾やまぼこなどを見て歸りには御所より北山の方を見物けんぶつする處友次郎は元よりお花も始めて都の地を踏事ふむことなれば見る物聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれども少しも早く江戸へ行んといふ心頻りなれば僅に二とまりて龜屋方を出立せしが斯る混雜のなかなれば友次郎は喜内に貰ひ受けたる印籠を取落し一里餘行て思出しあれは大切の品なれば紛失させては濟難すみがたし此處迄來りて取て返へすは太儀なれども印籠には代難かへがたしとて取て返し龜屋に至りみぎの由を云て尋ねけれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜大津おほつに泊り翌日は未明みめいより立て名にしおふ近江あふみ八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時よりあとに成り先に成て行しは町人體ちやうにんていの一人の旅人なり友次郎夫婦は何の氣も付ず瀬田せたの橋の手前なる茶店に腰打掛けて休みし時彼の旅人も其店へ這入はひり煙草などすひながら友次郎等に對ひ貴君方には何へ御越有哉と云掛られ友次郎は豫て道中には騙子ごまのはひと云もの有と聞及び居ければよわみを見せては成まじと思ひ我等は中國の者なるが主人の用事により夫婦づれにて江戸表へまゐるなりと云へば彼旅人は夫こそ誠に幸ひなり私し事は大坂天滿邊てんまへんの町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて罷越まかりこし候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩の御泊りより御同宿ごどうしゆく致し度と云れて友次郎は迷惑せしが然有さあらぬ體にて夫は幸ひの事なり相宿の儀は兎も角も先道連みちづれに成申さんとて是より彼の男と同道どうだうして行程に彼旅人は旅馴たびなれたる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく此處こゝに見ゆるが比良ひらの高嶺彼處が三井寺堅田かただ石山などと案内者の如くをしふるにぞ友次郎夫婦は我知われしらず面白き事に思ひ猶樣々に此處はなに彼處かしこは何と尋るに元より辯舌優れし者故夫々に答へ追々おひ〳〵京大坂の話遊女町芝居などの事迄尾に尾を付て物語りけるにぞ夫婦は旅のうさをも忘れ歩行あゆみもさして太儀たいぎに非ざれば流石は若き人心よき道連みちづれを得たりと打悦び互ひに笑ひつ笑はれつ何時か草津くさつ石部いしべも夢の間に打過て水口の驛に着し頃は夏の日なれどもはや申刻なゝつすぎ共思はれける八九里の道をはなしに浮たて歩行し事故お花は餘程草臥くたびれたる樣子なり友次郎とても久敷ひさしく京大坂に逗留し今日踏出ふみだしに大道を歩行たる事なれば今宵は早く共此宿にとまらんと云けるを彼の男は否々いや〳〵夏の旅は是から先が肝要かんえうなりお花樣とやらには駕籠をやとひて進らせん何分僅の道故先の宿迄やどまでゆき給へ晝中と違ひて夕方はまた格別歩行能あゆみよきものなりと勸められ餘儀よぎなく夫婦も水口を立出けり


第四回


 斯くて澤井友次郎は彼の町人のすゝめにより水口の宿外れよりお花を駕籠にのせ其身は町人と共に咄など爲乍しながら駕籠のあとに付てゆく程に一里餘りにして大野といへ建場たてばに來りしが友次郎は過つて草鞋のを切ければ履替はきかへんとしける中彼の町人は傍により最早もはや日も暮るに近ければ此建場は休まずに行べし草鞋を手早くはき追付おひつかれよと云捨いひすて駕籠を急がせ遣けるにぞ友次郎今直に履替れば暫くまち給へと云を耳にも掛ず彼の町人は聞えぬふりしていそぎ行ゆえ友次郎は心ならねば草鞋わらぢを履や否直にかけだし追付んと急迫あせれども駕籠はいづれに行しや見えず猶も追付んと足にまかせて急ぎけれども一向に影だに見えざれば餘りの不審いぶかしさに向ふより來る二三人の旅人に各々方は斯樣々々かやう〳〵の駕籠に行逢ゆきあひ給はずやと問けるに知ずと云も有しが其中の一人が其駕籠かごは今方たしか此後の松原から南の横道よこみちへ一人の男が付て急ぎ行しと云にぞ偖は彼の町人と見えしは惡者わるものにて有けるか欺かれしこそ殘念なれ未だとほくは行まじ退止おひとめてお花を取返とりかへさずして置べきやと宛然狂氣の如く以前の旅人がをしへたる横道よこみちを指て急ぐ程に何時の間にか日は全くに暮果くれはてたり然ども宵月の時分なれば少しもたゆまず何處迄もと追行ども更に駕籠の見えざるのみかとはんと思ふ人にもたえて逢ざれば若此儘尋ね得ずばお花は如何に成やらんと案事あんじる程猶胸安からず暫しも猶豫いうよならざれば足に任せて追程に何時いつしか廣き野中へ出みち幾筋いくすぢとなく有ければ何に行て能事よきことかと定め兼四方を眺めて立止まりしがはるかむかうにちら〳〵と燈の光り見るにぞ友次郎は大によろこび何は兎もあれ彼處は人里有處と思はるれば湯にても水にても一ツもらひていきを休め其上にて又尋ねんと燈火ともしびの見ゆる方を當に歩行あゆむ事大凡一里許と思ふ頃燈火のひかりは見えず成けるにぞ彌々いよ〳〵途方にくれ斯ては詮方なし然ばとてかうしては居られず何にしても此道このみちを行ば人里へ出ぬと云事は有まじと心をはげまして歩行まんとしけるに是まで何里なんりともなき道を走りたる事故大いに足を痛め歩行難きを引摺々々ひきずり〳〵又もや十四五町も歩行しと思ふ時漸々一けんの家有所へいでたりける友次郎は心嬉しく偖は最前さいぜん燈火ともしびひかり見えしは此家成りけるかと心に點頭うなづき立寄たちよつて見るにかどの戸を堅く閉てはやたる樣子也やうすなり然れども此所をおこして尋ねずばいづれにも尋ぬる方あるまじと思ひ門の戸をたゝきて呼起よびおこすに未だ内には寢ざるにや年寄たるをんなの聲にて應と言て門の戸をあけ友次郎の顏を見て何所より來給ふやと問れて友次郎は小腰をかゞめ夜ふけて御老人を駭かし申事何共氣の毒千萬なり某は旅の者にて先刻せんこく一人の惡漢に出合いであひつれの女を見失ひ夫を尋ねんが爲に所々方々と駈廻かけめぐりしが不案内といひことに夜中の事故道に踏迷ひ難儀なんぎ致す者なり何とも申兼たる事ながら湯にても水にても一わんいたゞき度と言ば主の老女は打合點うちうなづき夫は何とも御氣の毒千萬なり先此所へ上りて緩々ゆる〳〵と休み給へとて圍爐裏ゐろりに掛たる古藥鑵より湯茶をくんで差出す其待遇體そのもてなしぶりの念頃なるに友次郎も心落付おちつきしばらく息を休めて扨老女に打對ひ率爾そつじながら此處は何といふ所にて東海道の宿迄は道法みちのり何程是有やと尋ぬるに老女は答へて此處は大野の在にて街道かいだう迄は二里餘りも有ぬべし只今承まはれば御連おつれを見失ひ此所迄後を追駈て走りづめにて來給きさたまひしとなれさだめてお草臥の事ならん今よりいづれを尋ね給ふ共夜中にては知申まじ見ぐるしさを厭ひ給はずば今宵は此所にて夜を明し明なば早く此村の者をやとひ大勢にて尋ね給へと云れて友次郎はお花の事の心に係ればしばしも落付おちつくは無れども先刻よりの足のつかれに今は一歩も歩行べきやうなければ老女が言葉を幸ひに容を改め夜中やちう參り御世話になるばかりも氣の毒なるに一夜の宿は何共御頼み申兼れ共らるゝ通り足をいため居れば實は今より一足も歩行難し依て仰に任せ何のはしに成とも一夜を明し申たし必ず御世話は御無用と云にぞ老女は然ばとてたらひに水を汲て友次郎に足をすゝがせ圍爐裏に柴を折焚をりたきながらお旅人には定めて物欲ものほしく思はれんなれども此處等は街道へとほければ魚類は乾魚もかひ難し今朝炊たる麥飯に鹽漬の茄子なすあり是にて厭ひたまはずは飢をしのぎ給ふ迄にまゐらせんと膳を出すにぞ友次郎は大いに悦び是は〳〵かたじけなし然らば遠慮なく戴き申さんとてうゑたる腹へ五六椀を食し今は腹合はらあひも直り漸く人心地付しが荷物にもつは殘らずお花ののりたる駕籠に付しかば着物きものあせに成たれども着替る事さへ成ずされ共夫等を厭ふべき時ならねば飯をくひ仕舞しまひて老女に一禮をのべ圍爐裏によりて煙草をぞ呑居のみゐけるに老女は膳を片寄ながらはたと手をうち私しは隣村迄今宵の中に是非行ねば成ぬ用有しを事に取紛とりまぎれて打忘れたり折角の御客に留守をあづけるはお氣の毒ながら手間の入ることにあらねば暫時留守して給はるべし定めて勞れ給へし成らんに着せ進らせん夜の物もなし當所たうしよは殊にの多ければ爐に蚊遣りを仕掛て其の邊りに寢轉び草臥くたびれを休め給へ何卒暫時しばし頼み進らすと云つゝ立ち上りて門の戸引き閉め出て行きけり


第五回


 跡には友次郎只一人思ひまはせば廻す程お花の事が心にかゝねむらんと爲れども心さえ其上夜の更るに隨ひて漸次には多くなり右左より群付むれつくにぞ斯ては勿々なか〳〵眠られずと起上りて圍爐裏に柴を折くべ居る時しも此方の納戸なんど共覺しき所にて何者やらん夥多おびたゞしく身悶みもだえして苦しむ音の聞ゆるにぞ友次郎はきもつぶし何事成んと耳をすまし窺ふに聲は聞えねども足摺あしずりして苦しむ樣子の一しほ始めに彌増いやましければ何共合點がてん行ず心成ずもそつと立上り襖の透間より差覗さしのぞくに納戸の中には灯りもなく小さき火鉢に蚊遣かやり仕掛しかけ有しが燃落もえおちて薄暗き側に聢とは見えねども細引にて縛られたる一人の女居たり友次郎ははつと思ひ能々見るに此は如何におのれが尋ねさがすお花なりければ驚きながらも嬉しさ限りなく直樣すぐさま走り入て其體を見るに身は細引ほそびきにて縛られ口には猿轡をはめてあり友次郎は見も悼ましくまづしばりし繩を解捨ときすて猿轡さるぐつわをものくるにとく手遲しとお花は友次郎に抱付いだきつき流石さすがに餘處を兼しか聲をも立ず泣けるを友次郎はいさめ勵まし泣てのみ居ては事分らず樣子如何にと問掛とひかくればお花も屹度きつと心付涙を拂ひ妾が此處まで連られ來りしには種々樣子やうすあれども夫は道々御話し申さん夫れよりは先急ぎ此所をのがれねば二人とも如何なる憂目うきめに逢んも知れ難し少も早く落付おちつき給へと云ば友次郎は何か仔細しさいは分らねども然らばとて手ばや草鞋わらぢはかしむればお花も有合の草鞋を足に引掛ひつかけ二人手を取り裏口うらぐちより忍びいでしは出たれどもいかに行ば街道がいだうならんと思ひながらも一生懸命しやうけんめいの場所なれば足に任せて走る程に何程なにほど來りしかは知らざるうち夏の夜の明安く東雲しのゝめ近く成しと覺えて行先に驛路の鈴の人足にんそくの聲など遙に聞えければ友次郎もお花もはじめて蘇生よみがへりたる心地して扨は街道に近く成しぞと猶も道を急ぐ程にやが宿場しゆくば共思はるゝ所へ出し頃は夜は白々ほの〴〵明放あけはなれ往來の旅人も多く有ければ兩人は漸々やう〳〵心落付初めて勞れを覺えづ此邊にて一息ひといきつかんと茶見世に立寄て腰を掛ければ茶店の親父おやぢは茶をくみて出しながら二人の樣子を見て不審いぶかしさうに貴君方には夜前は水口へ御泊にて有しかと尋ねられ友次郎は包みがたく我々は昨日きのふ惡漢わるものに出逢夜通しに此所迄遁れ來し者なり此宿しゆくは何と申すやといへば親父おやぢは氣の毒さうに夫はさぞかし御難儀の事成ん此處は土山宿にて街道筋なれば最早もはや惡者わるものおひ來る憂ひなし緩りと御休み成るべしと深切しんせつの言葉に友次郎も頼母敷思ひ此所にて草鞋買調かひとゝのへてお花に履せ自分も履替などしてあつく一禮述立出しがお花は是迄に息をもつがず歩行續けし事なれば友次郎は夜前の始末しまつを話すべきひまなかりしが最早惡者の追ひ來るべき心づかひなしとてお花は友次郎に打向うちむかひ昨日大野とやら云建場たてばを出しより駕籠舁共頻りに急ぐ故妾も不審ふしんに思ひ貴君あなたの事を尋ぬれば駕籠舁共かごかきどもの云にはお連樣は跡より續いて來給ふなり早く行ねば日がくるると尚も急ぎける故妾も實にさる事と思ひ居し内日は暮て人一人もとほらぬ野原へ舁込だり貴方にはつゞいて來給ふかと度々とへども其後は駕籠舁共は聞ぬふりして一向に返事もせず斯て餘程の道を走りしと思ふ時あやしき一ツ家に駕籠を舁込しがあるじの老女一人居り其時彼の町人と思ひし男私しにむかひ最早此所迄來る上は如何にさけぶとも詮なし翌日は京の遊女町へ連ゆきて金にするつもりなれば其心得にて此姥樣このおばさんの處に今宵悠々と泊り居よと云れて偖は惡漢にたばかられしか殘念や口惜やとのがれんとすれども先づは四人の荒男あらをとこ勿々なか〳〵のがすべき樣無れども然ばとて阿容々々をめ〳〵として遊女などに賣るべきや心をはげまし隙を見合せ迯出にげいだせしが女の甲斐なさ終にまたとらへられたり因て彼等は云樣かうしておけば又々にげんも知れずとて有合細引にていましめらるゝ時に胴卷に入し百兩の金をさへ見附られ暗々とうばひ取れ納戸のはしらに縛り付られ彼の百兩の金は四人にて取分とりわけになし三人の男は其のまゝかへりたり然るに其跡へお前樣のおいで有し故彼の老女は私しの連なるを知り心能宿を貸し置ひそかに以前の三人に知らせお前樣を殺さんとて隣村となりむらまで行くと云て出行し其樣子は納戸の中にて殘らず聞てはをりながら猿轡をはめられたれば聲を立る事さへ成ず夫故それゆゑに那樣に物音をさせておらせ申せしに夫とさつしてお前樣納戸に入りて私しをたすけ下されし故危き所を遁れ候ひし然ながら面目めんぼくなきは百兩の金を取られしことと云ば友次郎は始終しじうを聞終りて彼百兩の金子を失ひたるは止事を得ず怪我けがのなかりしが幸ひなり實に浮雲あぶなき事成しと語りつ聞つ兩人は道を急ぎて辿りけり


第六回


 夫よりして友次郎夫婦ふうふ路次ろじ油斷ゆだんなく少しも早く江戸にいた如何いかにもして身の落付おちつきを定めんものと炎暑えんしよの強きをもいとはず夜を日についゆくほど早晩いつしか大井川をも打渡うちわたり箱根のたうげも難なく越え藤澤の宿しゆくとまりたる其夜友次郎はにはか熱氣ねつきつよく起りもだえ苦みけるにぞお花の驚き一方ならず土地ところの醫者を頼みて見せけるに是は大暑たいしよの時分に道中を給ひし故邪氣じやき冒込おひこみ其がにはかに發したるのにて先づ申さば霍亂くわくらんなりとて藥を置てもどりしにぞお花は早速さつそくせんじてのまするに其夜の明方頃になり友次郎は夥多敷おびたゞしくはきけるが夫より大いにねつさめすや〳〵とねむる樣子なるにぞお花は少しは安堵あんどせしに其翌日より友次郎の右の足に大きさ茶碗ちやわんふせたる程の腫物しゆもつ出來ていたむこと甚だしく自由には起居たちゐも成ざればお花は又もやおどろきて以前の醫者をよびて見するに此度は醫師もかうべを傾け是は何共名付なづけ難き腫物しゆもつなり何にもせよ口を明て毒を取らねば大事に成んも知れず大切なる腫物しゆもつなれば隨分ずゐぶんお大事に成るべしとて煎藥せんやく膏藥かうやくとを調合てうがふして置て行ければお花は彌々いよ〳〵むねやすからず醫者のをしへたる通り腫物に膏藥かうやくはり煎藥せんやくを勸めて看病かんびやう暫時しばし油斷ゆだん有ね共如何成事にや友次郎が腫物しゆもつは元の如くにて一かうくちあかいたみは少づつゆるむ樣なれども兎角に氣分きぶんよろしからずなやみ居けるぞいたましや友次郎も最早日付にしても江戸へつかるゝ處迄て居ながらなさけなき此病氣びやうきと心のみはやれども其甲斐かひなく妻のお花も夫の心を汲分くみわけては悲しくも又口惜くちをしきを一人心を取なほし夫の氣をおとさぬやう可笑をかしくもあらぬことにまで笑ひなぐさめ居たりしが兎角とかく藥の効驗しるしもなく夏もさり秋も過てはや其年もくれになりけれども一向にしるしも見えずかくて居ることすでに一年餘りに成ければ路用ろようたくはへとてもお花が所持しよぢせし百兩は惡漢わるものに奪ひ取れ友次郎がもちし百兩も岡山を立しより是迄に過半くわはんつかすてし上此處にて斯一年餘りの病氣に藥代やくだいは元より旅籠はたご其の外の物入りに大概たいがいつかひ失し今はたくはへものこり少なになりければかくては當所に長く逗留とうりうも成難し然ばとてをつとの病氣今少し快方こゝろよくならねば出立も成まじとお花は一人心をいためつゝ又四五ヶ月も滯留たいりうせし中終に路金ろきんのこりなくつかすて夫よりはくしうりかんざしをうりて其日の旅籠はたごとなせしが此さへ彼の惡漢わるもの出會であひし時夫婦の衣類いるゐつゝみし荷物にもつうばひ取れし事ゆゑ最早もはや賣物うりものもなく詮方せんかたなければむねくるしむるばかりなり然るに此旅籠屋はたごやの主人と云はもと江戸にて相應さうおうに暮せし町人ながら當所へうつり宿屋を始めし者にて侠氣をとこぎあるうまれ付なれば友次郎がながの病氣にお花が苦勞くらうする樣子を見てどくに思ひ種々いろ〳〵心をつけなぐさめしが此程はたくはへもとぼしく成りしと見え猶々なほ〳〵心勞しんらうするていの如何にも不便ふびんなりと思ひしにぞ或時友次郎が座敷ざしきれいの如く見舞みまひに來り御きやくには今日の御樣子は如何にと尋ぬれば折節をりふし友次郎はねむりにつきお花は枕元まくらもとくすりせんじてありしが夫と見るより言葉ことばあらため是は〳〵御深切ごしんせつ毎々いつも〳〵御尋おたづね今日は何よりも心よき樣子にてすや〳〵ねぶり居候と云を亭主はきゝて夫は〳〵先何より重疊ちようでふなり而て御食事しよくじなどは如何やと云ふにお花は食事も氣分きぶんき折には隨分ずゐぶんたべ候が氣分のふさぐときは無理むりにもたべられぬと申て溜息ためいきばかり吐居つきをり兎角とかく果敢々々敷はか〳〵しくしるしも見えず實にこまり入候とほろりとこぼす一しづくを見せじとまぶたをしばたゝきそれついては長々なが〳〵逗留とうりうあひだ種々いろ〳〵別段べつだんの御厄介やつかいになり何とも御氣の毒千萬と云ば亭主はよきはなしのしほと思ひ何時まで御逗留とうりうありしとて手前は夫が商賣しやうばいなれば少しも世話せわとは思ひませぬが御良人おつれあひは御大病なり其樣なことにはけつして御心遣ひなく何時まで緩々ゆる〳〵と御逗留とうりう成れまし然ながら斯樣申せば何とも失禮しつれい千萬せんばんなれども永々なが〳〵の御逗留とうりうと云ことには御良人おつれあひの御病氣にて御物入おんものいり莫大ばくだいならん縱令たとへ餘計よけい御貯おんたくはへ有とも斯して在れなば追々おひ〳〵のこり少なになり旅先たびさきは別て心細こゝろぼそくも思ふものなり金銀はわくものなれば今なくとも出來る時節じせつ有事あることゆゑもし其樣な事にて御心配しんぱいなさるは御無用なり縱令たとへ御貯おたくはへの路金ろぎんつきたりとも御病氣御全快ごぜんくわい迄は御心しづかに御逗留とうりう成るべし其間は何によらず御入用有ばおほせられよ又少々の金子なれば隨分ずゐぶん用立ようだて申べし必ず然樣な事に御遠慮ごゑんりよあるべからずと深切しんせつなる亭主の言葉にお花はなみだを流して打歡うちよろこび是迄種々いろ〳〵と厚く御世話にあづかりし上只今の其御言葉ことば此御おんいのちかへてもはうがたし實は御さつしの通りわづか路銀ろぎんつかつくし此程はくしかんざしをはらひしも最早もはや夫さへ殘りなくまこと當惑たうわく折柄をりからなるに御深切ごしんせつの御言葉にあまえ何とも鐵面皮あつかましき御願ひなれども今少しをつとの病氣のなほる迄御慈悲に滯留たいりうを御頼み申たく夫に付て又一ツの御願ひ有何の御役にも立まじけれど切てもの御恩ごおんはうじに私しを御女中しゆの中へ御加へ下され御客樣の御給仕にても御させなされて下さりませと云ば亭主は打案うちあんじ夫は入ぬ御心配ごしんぱいなり御武家に御そだち成れし御身が宿屋の女の手傳てつだひも成まじ然ながら手前に然樣な心は塵程ちりほども有ねどもたくはへなくて滯留たいりうするは氣の毒と御心遣こゝろづかひが有てはかへつあしければ御言葉ことばしたがひ御きやくが多く手の足ぬ時は御頼み申べしといはれてお花も少しは安堵あんどふしたる友次郎を搖起ゆりおこし此事を内々ない〳〵はなしければ友次郎もよろこびて何分共に願ひ候といはれて亭主も夫婦の者の其心根こゝろねさつ本意ほんいならぬ事にはあれつひ其意そのいにまかせけり


第七回


 夫よりしてお花は日夜にちや下婢をなごの中に立まじり勝手もとの事などはたらくにぞ亭主はいとゞ不便に思ひ家内の者に言つけてお花をいたはらせければ下婢をなご仲間なかまにてもお花を麁略そりやくにせず力の入事いることなどはさせざりけり然ともお花は身をにしてなり恩をはうぜんものと思へば如何なるいやしわざをも少しもいとはず客が來れば夜具の上下あげさげ風呂ふろれば脊中せなかあらひ或時は酒の給仕きふじなどにも出るにお花は容顏かほかたちうるはしければ是をしたひ多くの旅人の中には種々なるたはぶれ事を云掛る人など有て五月蠅うるさくも腹立敷だたしきをりも有ども何事も夫の爲且はなさけある亭主への恩報おんはうじと思へば氣を取直とりなほして宜程よきほどにあしらひつゝ月日を送りけるに或時旅人多くとまり合せし中に一人の若黨體わかたうていの武士あり風呂ふろに入たる樣子やうすなるにぞお花は例の如く老實まめ〳〵しく湯殿ゆどのへ到りお湯の加減かげんは如何や御脊中おせなかながし申さんと云へば彼の旅人は否湯も宜加減かげんなり決てかまふべからずと云ながら此方を見返みかへり不圖お花の顏を見て彼の旅人は驚きたる樣子にて小聲になり貴娘あなたはお花樣にては無きや如何のわけで此家にと云れてお花は薄暮うすぐらければ面貌おもざしは知れざれど我が名を呼は不審ふしんなりと彼の旅人の顏を能々よく〳〵見るに岡山におはせし時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければあまりの事に言葉も出ず女の細き心にてかゝいやし姿すがたに成しを絶て久敷あはざりし若黨に見らるゝ事のはづかしくも口惜くちをしく又嬉しさも取交とりまぜて先立涙を押拭ひ其方は忠八にて有けるかはづかしき此身の姿是には種々いろ〳〵はなしもあり聞度事もおほけれども此處では話しも成難し友次郎樣も此家に在るれば後にゆるりと語るべしと云に忠八は點頭うなづきて然らば友次郎樣に御目おめかゝりたる上何かの御話も仕つらん私しも仔細しさい有て御二人樣の御行方おんゆくへ那地あち此地こちたづね居しが此所で御目に懸らうとは夢にも存ぜずと云時勝手かつてにて御花さん〳〵とよぶこゑの聞ゆるにぞ然らば後にと云捨て御花はやがて立去けりかくて忠八は三年ごしたづわびたるお花にはからずも今宵こよひめぐり逢たることなれば一時にかねてののぞみ足ぬと湯もそこ〳〵にして上り夕飯ゆふはん仕舞しまひお花の知せを今や〳〵と待中に程なくお花は出來り此方へといふ案内あんないにつれ忠八はあとに付て行けるほどに友次郎が病にふしたる一間に到りしかば忠八は座敷ざしきに入り先友次郎が病氣の樣子を見て大に驚き其故そのゆゑを如何にと問に友次郎は漸々に枕をあげ誠に我々二人が不義ふぎ今更くやみて詮なく又其方に對面するも面目なき仕合せなり我れ此病氣をわづらはぬ先に不義ふぎ不孝ふかう天罰てんばつならんか此所まで來る道すがら種々の艱難かんなんあひ用の金をさへ失ひし其概略そのあらましを語らんに兩人が岡山をかやま立退たちのきしより陸路くがぢを大坂へのぼり廿日餘り休足きうそくせしがすこしも早く江戸へ到り身の落付おちつきを定めんと同所を出立せし其折柄をりから祇園祭ぎをんまつりありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到りあやまちて大切たる印籠いんろうを失ひ夫より江戸に下らんとして大津おほつ宿外しゆくはづれより惡漢に付れ終にお花をうばひ取れ斯樣々々かやう〳〵わけにて取返とりかへせしが其のせつ荷物にもつと路金百兩を奪はれたり然ながら我懷わがふところにつかひ殘りの金六十兩も有ければ是にて江戸へくだり取付んと思ひ夫より道を急ぎて當所たうしよ迄來りし所此病氣に取付とりつか假初かりそめの樣なれどもハヤ二年越しの長煩ながわづらひに貯はへ殘らずつかひ捨其上お花のくしかうがひ迄も賣盡うりつくし外に詮方せんかたも無りしに此家の主人がお花の苦勞する樣子を見ていたましく思ひ或日我がねむり居る時此座敷へ來りお花に對ひ縱令たとへたくはへの路金は盡たり共然樣な事に少しも心遣こゝろづかひなく病氣全快ぜんくわいある迄看病かんびやうしてゆるりと滯留たいりう致すべしと情ある言葉を頼みに貯へはなけれども不自由なくくらし居ればせめては少の手助てだすけでもして亭主の恩に報はんとお花が心付にて下婢の中に立交たちまじり賤き身と成下なりさがりし事是ひとへに天のにくしみ給ふ處と今更思ひ當りしと有し樣子を物語れば忠八はおどろたんじ此處に夫程御滯留ごたいりう有とも知らず所々方々尋ね廻りしこそ愚なれ併し今宵こよひ此家に泊らずば御目にもかゝらず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ潜然ほろりと目に涙を浮めけるにぞお花は怪みてそば摺寄すりより此方の事のみ云て御國許の樣子は如何にや其方が私共の行衞ゆくゑを尋ぬると云も不審いぶかしそれは置て兄君あにぎみ喜内樣にも澤井の父樣にも御機嫌きげんよきか物堅いお生れながらお兄樣は早三十にも成給へば御内方でも迎へ給ひしか樣子は如何にと問懸とひかくれば友次郎ももろともにたえて久敷古郷こきやうの樣子少しも早く聞度と云れて忠八兎や云ん角や云んとむねの中一人くるしめ居たりけり


第八回


 さても忠八はお花夫婦に問掛とひかけられ何とか云て宜からんと一人胸を苦めしが何時迄か包み隱さんと心を定め四邊あたり見廻みまはし聲をひそめてお兩人樣御尋おたづねなくとも申上ねば成ぬ大切の事あり其仔細と言は一昨年の事にて候ひしが私し同樣に御いへに御奉公致し居候吾助事何故かは存じ候はねども喜内樣の御病氣のせつ御看病ごかんびやうを致しながら人々の寢入りたる樣子をかんがへ喜内樣の御病氣つかれにて眠り給ひしを見澄みすまし一刀に御咽元のどもと指貫さしつらぬき候ひぬ然ども勇氣の喜内樣故さゝれながらも跳返はねかへし給ひ短刀にて唯一うちにと切掛きりかけ給ひしが御病中と云深手ふかでおはれし上なれば御くらみて吾助が小鬢こびんを少し斬れしのみ折柄をりから燈火ともしびきえければ吾助は是を幸ひと滅多切に切散きりちらやみまぎれて何國ともなく遁失にげうせたり其時始めて喜内樣には御聲をあげられしにぞ私し始め皆々ソレとつて馳付はせつき候ひしにおいたましや深何ヶ所もおひ給ひ御養生ごやうじやうかなふべくも候はず其時喜内樣には私しを近く召れ敵は吾助と見屆みとゞけながら打洩うちもらしぬる事殘念ざんねんなり汝は幼少より家に仕へて性根しやうねをも見拔みぬきたれば申し殘す一儀あり我死なば具足櫃ぐそくびつの内に貞宗さだむねの短刀と用金のたくはへ五百兩あり其内金二百兩と短刀たんたうはお花が行衞を尋ね出し紀念かたみなりとて渡しくれよ又百兩は汝が路用につかはし殘り二百兩は下人共へ配當はいたうすべし其外の品は一切手を付ず取調て御見分ごけんぶんの御役人へ御わたし申すべしと細々こま〴〵御遺言ごゆゐごん有て終にむなしく成給ひし然ば泣々おほせの如く取計ひ御石碑せきひをも建立こんりふして御後の取まかなひ萬事すませ後下人共へは御紀念かたみ金を分與へて暇を取せ私し事は翌朝よくてう岡山の城下を出立しゆつたつ致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣にはしなく御目にかゝ斯樣々々かやう〳〵おほせ有しと友次郎へ教訓けうくんの言葉とお花へおくる二百兩の金をあづかりし事又其身も路金ろぎんにとて五十兩の金をもらひしを辭退じたいすれども聞入なければ據ころなく受納めたることまで始終しじうの樣子を委敷くはしく物語ればお花は元より友次郎も夢かとばかり打驚き涙は落て瀧の如く中にもお花は心もみだるゝばかりに泣悲なきかなしみ暫時しばし正體しやうたいも非ざりしが何思ひけん友次郎が脇差わきざしぬくより早くすで自害じがいすべき有樣なるにぞ忠八はあわ押止おしとゞめ御花樣には如何いかなれば御生害ごしやうがいを成れんとは仕給したまふや兄君の御成行なりゆきを御聞成れ御心にても亂れ給ひしかといへばお花は涙をとゞめ是程の大變をきゝしなれば少しは心のみだれもせん此度吾助が兄君をがいせしはみな我身わがみより起りしことと思はるゝなり其のわけ日外いつぞやよりして吾助事我が身に度々たび〳〵不義を云かけしかども心に染まねば強面くも返事へんじなさざりしに不圖ふとした事よりはづかしながら友次郎樣と互に思ひ思はれて終に割なき中となりしを吾助はとくしりしとおぼしく是を口惜くちをしき事に思ひけんわらは一日友次郎樣を部屋へやしのばせたることを兄君に申上二人ともにこひ意恨いこん憂目うきめを見せて夫を腹慰はらいせせんと思ひし處兄上には我身と友次郎樣とをそれとなく其夜の中に落し給ひしかば夫より吾助はおろかにも兄君をうらかゝ大變たいへんを生ぜしなれば然は我が身の不義ふぎより大切なあに君をうしなひたるなり日外いつぞや部屋へやにて自害じがいせば此大變は起るまじきに死後しにおくれたるこそ口惜くちをしけれ今更死ぬともせんなけれどもせめては命をすてて成と兄君への申譯をせんものと又もややいば取直とりなほすを友次郎はいたみも忘れかなはぬ足にていざり出先やいば拏取もぎとりて其方が申處も道理だうりなり我とても其をりいさぎよく切腹せば斯る事にもなるまじきを命ををし落延おちのびしは今更後悔こうくわい至極しごくなり然しながら今其方そなたにせよ我にせよ假令たとへ生害しやうがいしたりとも何面目なにめんぼくあつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助をたづね出てくびとつ亡魂ばうこんまつらば少しは罪をあがなふに足るべきか心をしづめてとくと思案を致すべしと言れてお花も成程なるほどと思ひしが友次郎の言葉にしたがひければ忠八も安堵あんどして先喜内が紀念かたみつかはしたる貞宗さだむねの短刀と金二百兩并びに佐太夫がおはなへとておくりたる金二百兩を胴卷どうまきの中より取出し二人の前にならべ又彼の印籠いんろうを取出して日外いつぞやうしなひ給ひしと有りし印籠は是にては候はずやと言ば二人は大いにおどろき如何にして此品の其方の手に入しやと言に忠八は是にはながき御物語ものがたりあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の便船びんせんに乘り大坂へつき同所に半年餘も逗留とうりうし夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも半年餘はんとしあまりも居て友次郎樣夫婦の所在ありかを尋ねしかども一向に知ず然るに或日あめふりて外へも出られねばむなしく宿屋に在し所宿の亭主の物語ものがたりにて此印籠を得しのみならずお二人樣の御行方おんゆくへも大方知ければ其翌朝よくてう京都を立出江戸へと心指こゝろざしを日についいそぎしに不測ふしぎにも當宿にて御面會申せしなりと始終しじうの樣子を物語ものがたれば友次郎夫婦はなげきの中にも印籠の再び手に入しことを喜び且龜屋の亭主の侠氣をとこぎなるをかんじ其の夜はつもる物語に夜をふか翌日よくじつに成て此家の亭主をまね國許くにもとより是なる家來けらい參り合せて金子も手に入たれば御案事ごあんじ下さるまじ是よりは主從三人に成て御世話おせわますならんが今少し御厄介ごやつかいに成たしと言けるに亭主もいとゞよろこび夫は何より重疊ちようでふなり日外いつぞやより申通り御逗留ごとうりうの事は何時いつ迄にても仔細しさいなしとて此日は酒肴など出して忠八を饗應もてなしけるかくてお花は喜内にもらひたる印籠いんらうの中に何ぞ友次郎がくすりに成べき品は無かと一ツ〳〵に開て見るに其中に腫物しゆもつ一切の妙藥めうやくと記したる一包の藥有りければお花は大によろこび友次郎にも忠八にも是を見せこゝろみに用ひては如何いかゞやといへば友次郎は何にもせよ腫物しゆもつ一切の藥と有ば用ひるともさはりには成まじとてつゝみをひらきて見るに中に用ひ方まで委敷くはしくしるし有にぞ大いに便りを得て其藥をかみのべ腫物しゆもつの上に貼置はりおきけるに其亥刻頃よつごろより痛む事甚だしく曉方あけがたに成て自然しぜんつひうみの出る事夥多敷おびたゞしく暫時しばらく有ていたみわすれたる如くさりければ少しづつうごかし見るに是迄寢返ねがへりも自由に成ざりし足がひざを立てもいたむ事なき故友次郎は云に及ばずお花忠八もいたよろこかくては日ならず江戸へ下らるべしと猶おこたりなく看病かんびやうせしかば五日目には起居たちゐの成樣になり十日目ごろは座敷の中を歩行程に成ければ最早もはや大丈夫なり此處こゝよりとほ駕籠かごにせば日着ひづけに江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主をび明朝出立の事をはなし是迄長々なが〳〵あつ世話せわに成し事をお花とともに禮をのべ旅籠賃はたごちんの外に肴代さかなだいなどつかはし下婢共げぢよどもにも少しづつの心付して友次郎お花をば駕籠かごのせ忠八はあとに付て藤澤宿ふぢさはしゆくを立出けり


第九回


 話頭はなしかはりて爰に松田の若黨わかたう吾助は主人喜内を討果うちはたしてかねての鬱憤うつぷんを散じ衣類一包みと金子二百兩を盜み取やみに紛れて備前國岡山を立去しが豐前國ぶぜんのくに小倉こくらの城下に少しの知音ちいん有ければ此に便りて暫く身をかくし其後何れに成とも落付おちつきを定めんものと先づ小倉を心指て漸々辿たどり着其人を尋ねけるに是は四年あとに江戸表へ引越ひつこしたりと言にぞ吾助はたの木蔭こかげあめもる心地こゝちして尚も種々と聞合するに當時は江戸本郷邊に呉服物ごふくものの見世を出し當所より織物類おりものるゐを取のぼせる程の身代になりしと聞少しく落付おちつきしからば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船によわき生れ付なれ共くらゆゑ便船びんせんもと播州ばんしうむろの津にいたりけり當所は繁華はんくわみなとにて名に聞えたるむろ早咲町はやざきまちなど遊女町いうぢよまちのきつらねて在ければ吾助は例の好色かうしよく者と言ひ懷中には二百兩の金もあり先此處にてつかれを慰めうつを晴さんと五六日早咲はやさき逗留とうりうして居たりしが不圖心に思ふやう此處にて金銀をつかすてんよりは江戸へ行て身を落付おちつけのち心の儘に樂まんと夫より室を立て其夜は姫路ひめぢとまり三日にて大坂へ着せしかども江戸へくだる心しきりなれば暫しもとゞまらず東海道は人目しげければ若や岡山の人にあひもせば面倒めんだうなり木曾路きそぢより中仙道なかせんだうを行にく事なしと路次を急ぐほどに日ならずして板橋いたばしの宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にてきゝたる通り本郷二丁目にて呉服商賣ごふくしやうばいをする桝屋ますや久藏と云者と尋ねしに其頃新店なれども評判ひやうばんよきにや直に知ければ吾助は大いによろこまづ見世みせに行て樣子を見るに間口まぐちは六七間奧行おくゆきも十間餘土藏どざうは二戸前あり聞しにまし大層たいそうなるくらし成りければ獨心中に歡び是程の暮しならば我等一人ぐらゐどのやうにも世話してれるならんと小腰こごしかゞめて見世へ這入はひり我等は元備前岡山にて御懇意ごこんいに致したる者なり何卒なにとぞ御亭主ごていしゆに御目に懸りたしと云ければ店の者は奧へ到り主人久藏に斯と告いざ勝手口より御通り有べしと案内あんないするにぞ吾助は勝手口に到り此處にて草鞋わらぢなどを脱でおくへ通るに主人久藏も立出てまづたがひつゝがなきを祝し合さて久藏言出けるにさて貴殿きでんには備前岡山なる城下によき奉公口ほうこうぐち有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其後はえて音信いんしんも聞ず其中に我等は御當地へ引越ひきこしたれば猶以て御無沙汰ごぶさた打過うちすぎしに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事御存ごぞんじの通り岡山にて主取は致したれども高が若黨わかたう奉公なり何時までつとめたりともせんなしと奉公の中種々さま〴〵なる内職致しからうじて漸々やう〳〵五十兩の金子をためたれば何卒大坂か江戸へ出此金を資本もとでにして一かせぎ仕つりたくと思ひ一まづ小倉に行て貴殿きでんにも御相談致し其上いづれとも決し申さんと遙々はる〴〵小倉こくらおもむきしに貴殿は江戸へ御引移りの由うけたまはり然らば直樣江戸へ下り御目にかゝり萬事の御相談相手あひて御頼おたのみ申さんものと遠路ゑんろの處をも厭はず態々わざ〳〵御尋ね申たりと辯舌べんぜつに任せて言葉をたくみに言たりける


第十回


 抑々そも〳〵本郷二丁目なる桝屋久藏ますやきうざうと言る者はもと備前岡山在の百姓の子にして吾助とは元來ぐわんらい懇意こんい成しが此久藏十八九歳のころ豐前國小倉なる織殿おりどのへ奉公に行段々精勤せいきんして金をたくはへ後江戸へ轉居ひきうつりて今かゝ大層たいそうの暮しはすれども生得しやうとく律義りちぎの男にて少も惡氣わるきなく人の言事を何に寄ず眞實まことなりと思ふにぞ此度も吾助が言葉を眞實まことと思ひいさゝか疑ふ心なく奉公の中に五十兩金をたくはへたりとは若いにはめづらしき人なりと感ぜしかば吾助に向ひ遠路ゑんろのところ態々わざ〳〵御尋ね有て御身の落着おちつきを御頼みなされ度との趣き承知致したり然ながら我等も近頃ちかごろ御當地へ引移ひきうつり未だ昨今の事故いづれに御周旋おせわ致すべしと言懇意こんいの方もなきが幸ひ此節我等みせの者無人にて手廻り兼れば當時御身の落付のさだまる迄我等方に逗留とうりう有て店をも手傳てつだひ給はらば此方も大に仕合しあはせなりと言にぞ吾助は打歡びしからば仰の通り是より當分の内おやくには立まじきがお見世のお手傳てつだひ仕つらんと是より桝屋方に逗留とうりうして店の手傳ひなどけるに元より奸才かんさいに長し奴なれば手代の中に立まじり人の爲事なすことおのれ引取てする樣にはたらくゆゑ久藏は吾助の立振舞ふるまひを見て能人を得たりと歡びけるかくて吾助は桝屋方に居ること凡そ半年餘りなるがうまれ得ての好色かうしよく者なれば家内に召使めしつかふ下女に折々をり〳〵不義など仕掛しかけれども既に前章にもふ如く至てみにくき男ゆゑ誰あつて心にしたがはんといふ者なかりしに其頃此桝屋へ上總の在方より奉公ほうこうに來りしおかねといふ女今年十七歳なるがちやう百には餘程たらぬ生れ付にて下女仲間にても馬鹿々々ばか〳〵とて遊びものにされる者あり吾助は思ふやう此女ならば必定ひつぢやう我が言ことをきくべし當座のなぐさみものには是にてもなきにはましならんと或時お兼をとらへて樣々に口説くどきつひに無理往生わうじやうに本望を遂げるに此女おろか者なれば段々吾助にあざむかれ折々忍びあひける内何時いつしかはらに子をやどし月の重なるまゝに人目にも立程にりければ吾助も是には殆ど當惑たうわくして種々と思案し一の巧みを思ひ付たれば或夜おかねと忍びの物語りに我等如何なるえんりてか其の方とかく深き中なりと腹に子まで妊せし上は末長すゑながく夫婦に成べき所存しよぞんなり然ながら今は互に奉公ほうこうゆゑ自由じいうには成難し然れども追々月もかさなりては奉公ほうこうも成まじ因て一先宿へ下りおろすともうむともして又々奉公に出られよ尤も宿へ下るに只はさげられまじせめて二兩か三兩の金を持せて遣度やりたき者なれども知らるゝ如く我等は此家へ奉公はすれども給金きふきんを取身分にも有ねば一兩の工面くめんも成難き夫故に種々いろ〳〵工夫くふうせしに一ツの計略を思ひ付たり其わけと言は其方そなたも定めて知て居らん飯焚めしたきの宅兵衞は數年奉公して給金きふきん餘程よほど旦那がたに預け有る由然るに彼の宅兵衞は日頃ひごろより其方に心ある樣子やうすなれば厭惡いやで有うが如何いかにもして彼が心に隨ひ一度にても枕をかはくれさうさへすれば腹の子も宅兵衞が胤なりと云立るとも仔細しさいなし其の上にて彼より金をとり夫にて身輕みがるになる時は其方も我等も安心と云ふものなり若又不承知ならば我等も詮方せんかたなし其方とても金子もなく宿やどへ下りては宿の手前もあしからんなどと種々さま〴〵だますかしければ元來おろかなるお兼のことなれば甘々うま〳〵と吾助にあざむかれつひに其の言葉に隨ひ宅兵衞に言寄る便たよりをぞ待にける爰に飯焚めしたきの宅兵衞と云は桝屋ますや久藏が豐前ぶぜん小倉に居る時よりの飯焚にて生得しやうとく愚鈍ぐどんなる上最もしはく一文の錢も只はつかはず二文にして遣はんと思ふ程の男なれども至極しごくの女好にて年は五十をえたれども折々は夜鷹よたかなどを買ひ行て家を明る事もあり又は下女共にはやさしき事を言かけはぢをかく事も度々たび〳〵なれども其をはぢとも思はず近頃は彼お兼に思ひを掛け時々とき〴〵袖褄そでつまを引けるに一向に承知しようちもせざりしが或夜あるよ宅兵衞一人居る臺所だいどころへお兼は何か用有て來りしを宅兵衞よきをりと思ひ戯れりけるに思ふより易く心にしたがひければ宅兵衞は天へも昇る嬉さにて夫より二三度も忍び合し其の内お兼は懷妊くわいにんの樣子を物語るに宅兵衞は吃驚びつくりし何としてよからんと云ふをお兼は聞豫て吾助に入智慧ぢゑされし事なれば宅兵衞にむかひ今更斯なる上は何共なんとも詮方せんかたなし何れへ成とも連退つれのいて是非共女房にして給はるべしといはれて宅兵衞は五十をえて十六七の娘を如何いかに思ひても女房にはされずさて當惑たうわく千萬と思案しあんすれども元來愚鈍ぐどんなる生れ付故工夫も出ずこまり切していを見てお兼は今更斯なりては奉公も成難なりがたし若此儘このまゝきれる御心なら手當てあてをして給るし其金にて宿へ下り身輕に成たしと云にぞ宅兵衞は然爲さうするには何程の金が有ばよきやと問ば先少くとも五兩なければ宿へ下り身輕にはなられまじと云れて宅兵衞はこれには又當惑たうわくの樣子なればお兼は顏色かほいろを變て扨は私をなぐさみ者にして女房にもせず金も出さずお前はかまはぬ了簡れうけん成ん其心ならば私も此儘このまゝにはすまがたとても生ては居られねば此通り旦那樣だんなさまに申上お前の首へも繩を懸ねば此腹立はらだちは止難しと云れて宅兵衞は彌々いよ〳〵仰天ぎやうてん種々さま〴〵とお兼をなだすかし然らば金五兩わたす間夫にて身輕みがるになり必ず沙汰さたなき樣にすべしとて澁々しぶ〳〵五兩の金をやりけるこそおろかなりける事どもなれ


第十一回


 偖もお兼は宅兵衞をあざむきて金五兩を取しかば竊に悦び吾助にあひて其由をしらするに吾助も大に悦びしが又一ツの計略を思ひ付お兼にむかひ扨々其方の智慧ちゑの程感心かんしんせり其はたらきにては女房にしても末頼母敷もしく思ふなり夫について爰に一ツの相談あり夫婦の中に隱しへだてをするに異な物なれば何事も包まず打あけて言べし豫々かね〴〵其方の宿は他人と聞たれば二兩持行もちゆくとも世話の仕樣にかはりは有まじ然れば五兩の金をみな持行もちゆきて宿へやるどぶすてるより無益むえきなり夫より五兩の中二兩を宿へ持行もちゆき身輕みがるに成る入用に遣はし殘りの三兩は我等あづかり居てやがて夫婦になる時おびにても又何にても其の方の好みの品をこしらへるたしにせば便利成べしと云れ生得しやうとくおろかなるお兼故是を眞實まことと思ひ終に吾助の言葉の如く二兩の金をもち宿やどへ下りたり然るに惡事千里のことわざの如く早晩いつしか吾助がお兼と言合せ飯炊めしたきの宅兵衞より金五兩をあざむとりしといふ事家内の者のみゝいり見世にても取々とり〴〵うはさありけるを吾助は聞て心に思ふやう此事もしも宅兵衞がきかば事むづかしかるべし夫のみならず見世の者にも顏を見らるゝ樣にて何となく居惡ゐにくく成たり最早もはや江戸の勝手かつてわかりたれば此處こゝに居ず共又外に宜處よきところ幾許いくらも有るべしと或時主人久藏にむかひ我等豫々かね〴〵日光につくわうの御宮を拜見はいけん仕りたき心願しんぐわんなりしに幸ひ此度よき道連みちづれの出來候へば參詣致したく候なり因て暫時しばしの間おいとまを願ひ度と言ければ久藏はいつはりとは心付ねば夫は何よりよき事なり我等もかねて心願なれば同道どうだう致し度ものなれども商賣しやうばいに暇なければ此度は殘念ざんねんながら同道も成難し其もとは我等方の奉公人と言にもあらねば勝手次第に參詣あるべしと餞別せんべつとして金子三兩つかはしけるに吾助は思ひしより首尾能しゆびよきよろこれいもそこ〳〵支度したくとゝの其日そのひ出立せしが日光と云は元來うそなれば夫より芝邊しばへんへ行て四五日かくし居たりける然るに其頃芝明神前に藤重ふぢしげと云る淨瑠璃語じやうるりかたりの女有しが容貌かほかたち衆人にすぐれ心やさしき者なる故弟子でしも多く日々ひゞ稽古けいこたゆる隙なく繁昌しける此所へ吾助は不圖ふと稽古せんものと這入込はひりこみたるが好色者かうしよくものくせなれば藤重ふぢしげ嬋娟あてやかなる姿にまよひ夫よりは稽古に事せ日夜入浸いりびたりに行きけるが流石さすがに云寄便よるたよりもなく空敷むなしく月日をすごしたり然共吾助は喜内をがいし奪ひ取し金も二百兩のうちおほくもつかはずかくし持しかば其の金のあるまかせて藤重ふぢしげこのむと云物を調とゝのへてやり其外劇場しばゐ見物花見遊山などにも同道して只管ひたすら氣に入るゝやうにぞ仕掛ける夫は偖置さておき爰に澤井友次郎夫婦ならびに若黨わかたう忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸につきまづ馬喰町の宿屋に足をとゞめ此處にてもなほ種々いろ〳〵に療治せしかば友次郎のやまひは全くこゝろよくなりければ夫よりは忠八と諸倶もろとも所々しよ〳〵方々はう〴〵めぐり敵の行方ゆくへを尋ねしかど未だ天運てんうんさだまらざるにや一向に手懸りさへもなくむなしく其年もくれて明れば享保五年となり春も中旬なかば過て彌生やよひの始となり日和ひより長閑のどかに打續き上野飛鳥山あすかやま或ひは隅田川すみだがはなどの櫻見物さくらけんぶつに人々の群集ぐんじゆしければ今ぞかたきを尋ぬるにさいはひの時節なりとて日毎ひごと群集ぐんじゆの中にまぎれ入て尋けるに似たりと思ふ人にもあはざれば最早もはや江戸には居るまじ是よりは何國いづくを尋ねんと主從三人ひたひを集めて相談さうだんすれども是ぞと云よき思案しあんも出ざればまづいま暫時しばし江戸を尋ね夫にても手係てがかりなくは其時何國にもゆくべしと是より又心をくばりて所々尋ね廻りしが頃は三月十五日梅若祭うめわかまつりとて貴賤きせん老若のわかちなく向島のにぎはひ大方ならず然るに此日は友次郎腹痛ふくつう故忠八一人向島へゆきて隅田川のつゝみを彼方此方と往來の人に心を止めて歩行あるきゆきけれども更に似た人もなく早日も西山せいざんかたむきしかばいざ旅宿りよしゆくかへらんとて三圍の下より渡し船にのり川中迄かはなかまで漕出こぎだしたる時向うより數人乘合のりあひし渡し船來り行違ゆきちがひさま其の船の中を見るに廿二三の女を同道どうだうしたる男は疑ひもなき敵とねらふ吾助にて有れば忠八はおのれ吾助とひながらすツくとあがる間に早瀬はやせなれば船ははやたんばかりへだたりし故其の船返せ戻せと呼はれ共大勢おほぜい乘合のりあひなれば船頭は耳にも入ず其うちに船は此方のきしつきけれとも忠八立たりしまゝ船よりあがらず又もや元の向島むかうじまの方へと乘渡り群集ぐんじゆの中を八方へくばりて吾助を尋ねまはりしかど何方へ行しやら混雜こんざつの中と云こと時刻じこく延引えんいんしたればつひに行方は知れざりけり忠八はのこり多き事かぎりなけれどもはや黄昏たそがれに及び詮方せんかたなければ一先旅宿へ歸り友次郎樣お花樣にも此事を物語り方便てだてを以て尋ねんものと其日はすご〳〵立歸たちかへりぬ


第十二回


 扨も忠八は馬喰町なる旅宿りよしゆくかへりてお花夫婦に打對うちむかひ今日向島の渡舟わたしにて斯々かく〳〵の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只行方を見定みさだめざりしは殘念ざんねんなれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも便たよりよしさりながら彼奴かやつ惡漢しれものなれば其方とおもてを合せしからは浮々うか〳〵江戸におち付ては居るまじ翌日あすくらきより起出おきいでて其の方は品川の方より段々だん〳〵に尋ぬべし我は千ぢゆ板橋いたばしなど出口々々を尋ね見んとて翌朝よくてう寅刻なゝつどきより起出おきいでて友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又桝屋ますや方にては吾助が日光につくわうへ行とて出しよりはや五六ヶ月になれどもかへり來ざればさては宅兵衞をあざむき金を取し事のあらはれんをおそれて逃亡かけおちせし者ならんとみせにて取々のうはさをなしければ此事早晩いつしか宅兵衞が耳に入始てあざむかれたる事を知り口惜くちをしかぎりなく如何にもして此恨このうらみを報じ度は思へども流石さすが打明うちあけて主人にも言難いひがた譯合わけあひなれば一人心をくるしめ居たりしが馬鹿ばかほどこはきものはなしとのことわざの通り宅兵衞は思ひつめてや或時主人にも告ずして大岡越前守殿の役宅やくたくへ右の仔細しさいを自身にうつたへ出ければ越前守殿一おう糺問きうもんの上桝屋ますや久藏を呼出よびいだされ吾助を召捕迄めしとるまで宅兵衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は隅田川すみだがはの花見に藤重ふぢしげ同道どうだうして到りしにはからず渡船わたしぶねにて忠八と面を合せしかば心のうちやすからずもしやお花夫婦も當地たうちに來りて我を兄のかたきと聞尋ね居んことはかがたし三十六計にぐるに如ずとか云ば一先いづれになり身をかくときすぎて又江戸へ來るが上策じやうさくならんとにはか旅立たびだち用意よういせしがさりとて是迄これまでに心をつくせし藤重ふぢしげを一夜なりとも手に入ずして別れんこと口惜し今宵こよひひそか忍行しのびゆきはなしをなし我が心にしたがはゞ直に同道して立退たちのくべしもし不承知ならば止事を得ず手足をしばりてなりとも思ひをはらすべしと其夜近所きんじよ合壁がつぺき寢靜ねしづまりたる頃藤重が家にしのび行て見るに是は如何に何程なにほどひらかんとしてもくぎにてそとよりつけて有ば少しもあかず内の樣子をうかゞふにあかりの氣も見えず能々よく〳〵見るに表の戸に貸店かしだないふ紙札かみふだ貼付はりつけある故是は門違かどちがひせしかと四邊あたり見廻みまはすに間違ひにもあらず吾助は何分不審ふしんはれねば直樣すぐさま家主方を起して藤重ふぢしげ何方いづかた引移ひきうつりしやと尋ぬるに家主は答へてさればなり藤重ふぢしげ久敷ひさしく我等たなに住居致せしがにはか田舍ゐなか伯母をばの方よりむかへ來りしとてよひの程に家を片付かたづけ我等に渡し出立致したりと云れて吾助は力を落し扨其の行先は何れ成と問ば家主は打案うちあんじてたしかには知らねども今宵こよひは千住どまりとか申したりと云を聞て直に家に歸りたび支度を成し千ぢゆさしいそぎけりことわざに云己人をあざむかんとすれば人又おのれあざむくと藤重は吾助に思はれ物をも多くもらひ花見遊山ゆさんなどにつれらるゝを甚だ心よくは思はねども商賣柄しやうばいがらなれば愛敬あいきやうを失ひては成ずと表面うはべにはうれしきていをなして同道せしが其折々無理むりなるこひを云掛られ夫さへ心にさはらぬ樣云拔いひぬけて居しに今日隅田川すみだがは渡船わたしぶねにて誰かは知ず行違ゆきちがひに面を見合せしよりにはかに吾助が顏色變り狼狽うろたへたるてい利發りはつの藤重なれば早くもあやしとすゐし其上今宵こよひ夜更よふけあそびに來るべしと約束されしも氣味きみわるければ家主に頼み其身は室町なる心安き者の方へしばらく行て居る程に留守るす當分たうぶん明家あきやの積りにして若吾助が尋ね來らば斯樣々々かやう〳〵に云こしらへて給るべしと頼み置けるにぞ右の如く家主より返答へんたふせしなり此藤重と云はさきしうとめへ孝を盡し大岡殿より御褒美ごはうびいゞたきし津國屋の嫁お菊にて其後人の世話せわによりもとならおぼえげいよければ斯るなりはひに世を送りしなり然ば狂言きやうげんとはゆめにも知ず吾助は足にまかせていそぐ程に芝神明前をば寅刻なゝつに立て千住大橋迄は未だくらき中に來れども春の夜の明やす掃部宿かもんじゆくかゝる時は早白々とけ渡りやゝ人面ひとがほも見ゆる頃思ひもよらうしろより吾助まてと聲を掛られ驚きながら見返る處を上意々々と呼はり捕方とりかたの者十人餘りばら〳〵と掛り折重をりかさなりて終になはをぞかけけるに吾助も喜内より劔術けんじゆつ柔術じうじゆつを學び得て覺えある惡漢しれものなれ共不意ふいと云多勢たぜいにて押伏おしふせられし事故汚面々々をめ〳〵召捕めしとられけり斯て又友次郎は其朝馬喰町の旅宿をあけ寅刻なゝつに立出て板橋の方へいたり吾助を尋ぬれども何の手係てがかりもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下あすかやました通りより段々千住の方へとおもむく途中にて五六人の男が歩行あるきながらのうはさ今朝こんてう千住にて召捕めしとられたる者有しが小鬢こびんに餘程のふる太刀疵たちきずの有程の者故何でも只者たゞものには有まじと云を聞て友次郎は小首こくびかたぶけ小びんきずとは少く心當りありとあとつき追々おひ〳〵うはさを聞ながら行に年の恰好かくかう面體めんていの樣子尋ねさがす吾助にまぎれ非ざればたゞち掃部宿かもんじゆくの自身番にかゝりて委細くはしく尋ぬるに斯樣々々の人にて名は吾助と云者とはなしけるにぞ友次郎は足摺あしずりして我板橋をあとにして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に召捕めしとられては詮方せんかたなし一先旅宿にかへりて分別を定むべしと悽々すご〳〵馬喰町へ戻りけり


第十三回


 扨も捕方とりかたの同心より吾助事千住にて召捕めしとりし段とゞけに及びければ大岡越前守殿には先吾助に入牢じゆらう申付られ一兩日すぎて引出され其外桝屋久藏ますやきうざう飯焚めしたき宅兵衞もと桝屋ますやの下女お兼など呼出され扨て吾助お兼の兩人にむかはれ汝等主家しうかにありながら密通みつつうせしのみならず懷妊くわいにんせしを人に塗付ぬりつけんとはかり吾助兼相談の上飯焚めしたき宅兵衞をあざむ不義ふぎ不貞ふてい振舞ふるまひをなし金子五兩かたり取たる段不屆至極ふとゞきしごくなり眞直まつすぐに白状せば御憐愍ごれんみんの御沙汰も有べしつゝかくさば屹度きつと拷問がうもん申付んと申されければお兼は更にいきたる心地こゝちせずわな〳〵ふるへて居けれども吾助はすこしも恐れたるていなくおほせには候へども私し事是なる兼と密通みつつう致せし事毛頭もうとう御座なく然ば宅兵衞より金子をかたり取しなどと申事ゆめにも覺えこれなく候さつする所是は定めて宅兵衞が兼と密通みつつう致し懷妊くわいにんさせ是非なく金子を兼に遣はし候所今更金子惜く相成其ゆゑもなきことを申立私し共より金子きんすをねだり取らんと云彼がたくみに候はんと申立れば越前守殿はお兼にむかはれ汝吾助と申合せ宅兵衞を欺きしは相違無さうゐなきや少しにてもいつはかざらば苦敷くるしき思ひを爲べしと言和ものやはらかに申されけるにお兼は漸々やう〳〵おもてあげふるひ聲して仰せの通り相違御座なく如何にも吾助殿と申合せ宅兵衞殿をあざむき金子五兩もらひ受候と申立るに越前守殿點頭うなづかれ如何に吾助兼は既に白状はくじやうに及びたり斯ても未だちんずるやと種々さま〴〵に事を分て詮議せんぎありければ終に右の段々だん〳〵白状致しける依てなほ沙汰さたに及ぶべしとて吾助兼の兩人は入牢じゆらう申付られ宅兵衞は元の如く主人久藏に預けられ其の日は白洲しらすとぢられけり然ば吾助白状はなすと雖も落着らくちやくに致されざるは越前守殿吾助が面體めんてい太刀疵たちきずと云何樣なにさまくせあるべき惡漢わるものと見られし故内心ないしんには今一應吟味致し舊惡きうあく有ば糺明きうめい有んと思はれしなりとぞ然るに其日馬喰町の宿屋同道にて大岡殿御役宅へ愁訴しうそ致せし者あり越前守殿取上とりあげられて早速さつそく吟味ぎんみあるにこれ別人べつじんならず備前岡山の藩中はんちう松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠八かうべを上私し主人喜内儀病氣にて平臥へいぐわまかり在候節私し同樣若黨わかたうつとめ居候吾助と申者夜中やちうひそかに主人喜内を刺殺さしころ出奔しゆつぽん致し候に付夫より右喜内妹花と申者と同人連合つれあひ澤井友次郎并びに私し三人にて吾助が行方ゆくへを尋ねうらみむくい申度とて三ヶ年の間苦辛くしんいとはず所々しよ〳〵尋ねめぐり候處漸々此程隅田川すみだがは渡船わたしぶねにておもてを合せしが不運にも取りにがせしによりその後なほ又手くばりして相尋あひたづね候折柄をりから此間千住に於て召捕めしとられ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事死罪しざいにても仰付られ候へば是迄の辛苦しんくみづあわとなり本望ほんまう遂得とげえ殘念ざんねん此上なく候に付おそれ多き儀に候へ共吾助事死罪しざい御免おほせ付られ候樣御慈悲じひの御沙汰願上奉まつり度と申立る時越前守殿倩々つら〳〵聞居られしが不圖ふとを開き呵々から〳〵と打笑はれ我今朝よりの吟味につかれしにや居眠ゐねぶり居て只今汝が申せしこと委敷くはしくは聞取り得ざりし然りながら此程召捕めしとらへたる吾助と云る者は今日白状に及びたるが死罪しざいに成べき程の罪にもあらず依て明後日みやうごにち未刻やつどき追放つゐはう申付る筈なり汝等が尋ぬる吾助とやらは必定ひつぢやうちがひならんうたがしくば明後日追放つゐはうの場所へいたり對面すべしかならず御府内にて麁相そさうなる儀いたすこと勿れとて下られけるに忠八は思はず眼中がんちうなみだうかめ大岡殿の仁心じんしんを悦びかんとぶが如くに馬喰町の旅宿りよしゆくもどれば友次郎お花は今日の首尾しゆび如何なりしと右左みぎひだりより問掛とひかけるに忠八は越前守殿の仁智じんち概略あらましを物語り然れば明後日はかねて本望ほんまう成就じやうじゆ仕つらんと云けるにお花は元來友次郎も雀踊こをどりして喜びこれひとへに大岡殿の仁心じんしんより出る處なりと南の方を向て夫婦諸共もろとも伏拜ふしをがみ夫れよりたくはへの金銀にて敵討かたきうち支度したくはれやかにこしらへ其日の來るを待詫まちわびけり然程に大岡越前守殿には一日おきて次の日此ほどの通り吾助お兼宅兵衞其外そのほか關係かゝりあひの者共を呼出し先吾助お兼の兩人に向はれ吾助事は兼に種々なる惡事を申ふくめ宅兵衞とつうじさせ金子五兩をあざむき取せ其中三兩を私欲しよくつかひ候だん不仁ふじん不義ふぎ仕方しかたなり因て三ヶのかまひの上中追放ちうつゐはう申付る又兼事かねことは同罪とは申ながら元來ぐわんらいおろかなる生得しやうとくと相見え淺果あさはかなる致し方故輕追放けいつゐはうの上江戸かまひ申付る次に宅兵衞事は吾助等がたくみは人外なれども其の巧みにおちいり兼と密通みつつうしたるは汝がおろかなる故なり然ば金子を取れたるは自業自得じごふじとくと言べし此以後心を改め女色にまよふ事なかれと有て其餘そのよかまひなしと申渡され此事落着らくぢやくなしたりけり斯て其日未刻頃やつどきごろ吾助お兼の兩人は追放つゐはうに成しかば何をあてに行べき方もなく品川宿を打過うちすぎける時吾助はお兼にむかかくなる上は最早もはやせんなし是よりは約束の通り其方そなたと夫婦になりいづれへ成共行て暮すべし其の中には又よき了簡れうけんも出んかと云ばお兼は成程なるほど夫婦倶々とも〴〵かせがばくらされぬ事は有まじ夫に付ても宿へ預置あづけおきたる那兒あのこにはちゝのませる者もなくさぞないて居るならん吾助殿能思案は候はずやとなみだながらに物語るを吾助は聞敢きゝあへず今更小兒の事など言たればとて詮方せんかたなしすてた氣に成て斷念あきらめよといかにも薄情はくじやうなる吾助の言葉にお兼はわすれんとすれども忘れられず心ならずも歩み行に此時後の方より日來ひごろうらみ思ひ知やとこゑかけたれやらん拔討ぬきうちにお兼がかたより乳のしたかけ切下きりさげければお兼は堪らずアツと云てたふれたり吾助は驚き何者の所爲しわざなるかと見返へれば是すなは別人べつじんならず彼の飯焚めしたきの宅兵衞なれば吾助は大いに怒りおのれ如何なれば掛る振舞ふるまひを爲ぞやといはせも敢ず宅兵衞はいかれる聲を張上はりあげて汝等が此程このほどの致し方如何にも心根しんこんてつ殘念ざんねんなる故訴へ出たる所大岡樣の御仁心ごじんしんにて汝等が命つゝがなきことを得たれば我が恨みはなほ晴難はれがたいで我がやいばうけて見よと眞向まつかう振翳ふりかざして切てかゝる此時吾助は身に寸鐵すんてつおびざれども惡漢しれものなればすこしも恐れずそばに落たる松の枯枝かれえだおつ取て右にうけひだりに流ししばし戰ひ居たりしが吾助は元來もとより劔術けんじゆつを心得たる男なれば宅兵衞がすきうかゞひ持たる太刀たちを打落しひるむ處をつゞけ打におもて目掛めがけて討ければ宅兵衞はまなこくらみて蹌踉よろめくを吾助は得たりと落たる刀を拾ひ取眞向まつかうより唐竹割からたけわり切下きりさげたれば何かは以てたまるべき宅兵衞は聲をも立ず死したりけり吾助は一いきついあたりを見廻し宅兵衞が懷中ふところ掻探かきさぐ持合もちあはせたる金子五兩二分を奪ひ取り仕合せ宜と獨笑ひとりゑみしてお兼が死骸しがい見遣みやりもせずすゞもりの方へとはしり行こそ不敵ふてきなれ


第十四回


 あくうらに有者はてんこればつあくほかあらはるゝ者は人是をちうすとかやさても吾助は宅兵衞を易々やす〳〵ころくわい中の金五兩二分と脇指わきざしうばひ取其上足手搦あしてがらみなるお兼さへ其處に命を落せしかば誠に勿化もつけの幸ひなりと悦びながら足を早めてはしる程にやがて鈴ヶ森へぞ指懸さしかゝりける斯る所に並木なみきの蔭より中形ちうがた縮緬ちりめんの小袖のすそたか端折はしをり黒繻子くろじゆすおびにてかたむす緋縮緬ひぢりめんたすきかけ貞宗さだむね短刀たんたうを右の手に持あらはれ出たる一人のをんな行先ゆくさき立塞たちふさがおのれ大惡だいあく無道ぶだうの吾助大恩有る主人と知りながら兄君あにぎみがいし岡山を立退のきし事定めて覺え有べし今爰にあひしは天のたまもの疾々とく〳〵勝負しようぶを致す可しと云時又此方の並木なみきかげより一人は小紋紬こもんつむぎの小袖一人は小紋木綿こもんもめん布子ぬのこ股引もゝひき脚絆きやはん甲斐々々かひ〳〵敷出立にて二腰ふたこしを横たへたるが兩人等くあらはれ出如何に吾助今はのがれんとするともみちなし早々さう〳〵うらみのやいばを受よと双方より詰寄るは是なんお花友次郎忠八等の三人なり其時吾助ははつおどろきしが元來強氣がうき曲者くせものなれば呵々から〳〵と打笑ひヤア小癪こしやくなり我を敵と云汝等こそ兄親の目を忍びたる不忠ふちう不義ふぎ曲者くせものなり又汝等が兄喜内は善惡ぜんあく邪正じやしやうわかちなくしたしきを愛しうときをにくまことに國をみだすの奸臣かんしんなる故我うち取て立退たちのきしを汝等は愚昧ぐまいなれば是をさとらず我をかたきと付ねらふ事ひとへ麁忽そこつの至りなり然ながらしひ勝負しようぶのぞむと成ばかたぱしより我手にかけ今のまよひを覺してくれんと彼の宅兵衞を殺して奪ひ取たる脇指わきざしを引拔て一討ひとうちとお花を目掛めがけうつかゝるをお花は心得たりと貞宗さだむね短刀たんたうを以て切結きりむすぶに女なれども喜内の妹ゆゑかねて手におぼえも有其上兄のかたきと思ひ一心こめ切立きりたてれば吾助もあなどがたくや思ひけん爰を專途せんどと戰ふ程に友次郎も忠八も手にあせにぎり目ばたきもひかへたりお花吾助の二人は右に拂へば左に支へ一上一下と祕術ひじゆつを盡して踏込々々ふみこみ〳〵たゝかふ程に吾助は名を得し曲者くせものなりお花は心たけく勇めども流石さすが女のかなしさはするどき吾助のやいば對戰あしらひかね思はず後退あとずさりなし小石にはたつまづたふるゝを吾助は得たりと太刀たち振上ふりあげたゞ一刀に討たんとするやお花は二ツと見えし時友次郎がえいと打たる小柄こづか手裏劍しゆりけんねらたがはず吾助が右のひぢに打込みければ忽ち白刄しらはを取り落すにぞお花は直くと立上り樣吾助が肩先かたさき五六寸胸板むないたかけ斫込きりこんだり然れども吾助はしにもの狂ひ手捕てどりにせんと大手をひろげ追つまくりつ飛掛るをお花は小太刀こだち打振々々うちふり〳〵右にくゞり左に拂ふを吾助は猶も追廻おひまはり進んでは退き退ひきては進み暫時しばし勝負は見ざりしに忠八は先刻せんこくよりこぶしにぎりてひかりしが今吾助が眼の前へ來りし時あしのばしかれが向ふずねすくひしかば流石さすがの吾助も不意を打れて眞逆まつさかさまに倒るゝをお花はすかさず駈寄かけよつて左のうで打落うちおとせば吾助はおきんと齒切はがみを爲す友次郎お花忠八諸共もろとも押重おしかさなり十分止めを刺貫さしとほし終に首をぞはねたりけりかゝりし程にところ村役人むらやくにん等は二ヶ所にての騷動さうどうを聞傳て追々に馳集り先友次郎等を取圍とりかこみ事の樣子を聞けるに友次郎はかたちあらた我々われ〳〵は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内のかたき吾助と云者をねらうたんと三年の間所々をたづまはり千しんし今日此處にて出會年來の本望を達したり然る上は如何樣にもところ作法さはふ通りに行はれよと少もわるびれず答ければ村役人共然らばしばらひかへ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も立合たちあひ一同評議ひやうぎの上當所の御代官だいくわんへ訴へければ早速さつそく役人中出張しゆつちやうあり敵討かたきうちてい見分けんぶんあり先友次郎等三人は御沙汰ごさた有迄あるまで名主方にひかへ居べしとて番人を嚴重げんぢうに付おきさて此由を備前岡山の城主じやうしゆ松平伊豫守殿まつだひらいよのかみどの江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方のもと家來けらいに相違なきに依引取申度との事なれば此趣このおもむき友次郎等へ申きけ近々きん〳〵伊豫守殿御邸おやしきへ引渡すべき間其用意そのようい有べしとの事故三人のよろこび大方ならず其日の來るを今や〳〵と待程に其後岡山侯よりむかへの人來り大名だいみやう小路こうぢの上屋敷へ三人を引取れたり折柄をりから太守たいしゆには岡山ざい城中なれば家老中からうちう對面有て此度このたび手柄てがら拔群ばつぐんなりと賞美しやうび有りてとほからず岡山表へ差下さしくだすべき旨申渡され夫より五日程すぎて又家老中より奉書ほうしよ到來たうらい致し明朝みやうてう江戸表發足ほつそく有べし尤も道中警固けいごの爲足輕あしがる十人を差添さしそへらるとの事なれば友次郎等は有難きむねうけをなし翌朝よくてう未明みめい發足ほつそくせしが三人の中お花友次郎は通駕籠かご忠八は願ひに因てお花の駕籠のそば付添つきそふ事をゆるされ其外十人の足輕あしがるは前後に立並たちならび若や道中にて非常ひじやうの事も有ばとてもつぱら用心をぞ爲たりけり斯て始の夜は藤澤宿にて泊り以前世話に成たる旅籠屋はたごや何某なにがしが家に行てあつれいのべけるに亭主も此程すゞもりにての敵討かたきうちの事此邊迄かくれなくあつぱ御本望ごほんまうを達せられしだん先々大悦なりとしゆくともに悦び其夜はさけさかななど出して種々に待遇もてなしけるにぞ友次郎等は以前にかはらぬあるじ侠氣をとこぎを感じあつ禮物れいもつおくりて夫より路次ろじいそぐ程に日成ずして岡山にちやくせしかば即日そくじつ太守たいしゆへ目見申付られ花事はなことは一旦出家の望み有由にて出國致せし處兄喜内が凶變きようへんを聞心をぞくあらため千辛萬苦しんばんくして首尾能しゆびよく兄の敵を討し段まことに女丈夫ぢやうふ共云べし又友次郎事も花を助け敵をうたせし段信義しんぎあつしやうするに餘り有依て父佐太夫に申さと勘當かんだうを免させ今より花と夫婦になり松田の家を相續さうぞく致すべしと有て又忠八も庭口にはぐちより召れ太守たいしゆへ目見をゆるされ其方いやしき若黨の身にて主人を助け大功たいこう有し段神妙しんべうなり依て今より十人扶持ふち下され足輕あしがる小頭こがしら申付るなりと家老中より三人へ執達しつたつに及びければお花友次郎は云に及ばず忠八まで君恩くんおんかたじけなきに感涙かんるゐ止め敢ず何れも重々ぢう〳〵有難ありがたき段御うけ申上て引退しりぞき夫より友次郎は改めて松田の養子となり養家やうか名跡めいせきついで松田喜内と改名かいめいしお花を妻となし舊領きうりやう五百石をたまはり又忠八は足輕あしがる小頭こがしらとなりて兩家共代々だい〳〵岡山に繁昌はんじやうせしとぞまことに君君たる時はしん臣たりと云古語こゞの如く岡山侯賢君けんくんまします故に喜内不幸ふかうにしてぼくの爲にうたるゝと雖も其いもとまた勇婦ゆうふ有て仇をうち家を起せり友次郎も始はお花が色香いろかまよ出國しゆつこくしたるあやまちは有どものちにお花が助太刀すけだちして美名びめい世上せじやうに上たる事是ひとへに岡山侯の賢良けんりやうなるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上にうはさせり


松田お花一件

嘉川主税一件

嘉川主税かがはちから一件いつけん


第一回


 人は只實心じつしんを旨とし苟且かりそめにもいつはあざむく事勿れと然るを言行相反し私欲をたくましうなす者必ず其の身をほろぼすこと古今珍しからずと雖も人世の欲情よくじやうだつするは難き事ならんか茲に當時嘉川平助高吉と云る御旗本おはたもとあり先祖は輕き御家人なれども柳澤出羽守殿大老職の頃同家へ謟諛へつらひ段々と立身なし有難くも五代將軍綱吉公の御治世ごぢせいの時つひに御旗本の列に入り高二千五百石まで加増ありて相應の役柄をつとめし家なり然るに平助は四十の歳をこすと雖も未だ一子なく家名の斷絶だんぜつせん事を歎き親類しんるゐどもと相談さうだんの上小十人組頭金松善四郎とて高七百石を領せし御旗本の二男主税之助ちからのすけと云へる者人品じんぴん歳頃としごろとも相應さうおうなるにより是を乞ひて嘉川の養子に貰ひし處に其後平助は藤五郎藤三郎と云へる二人の男子をまうけしかば主税之助をもらひしことをくゆれども一旦養子とせし上は是非なしとて其後家督かとくを主税之助にゆづりしが其砌そのみぎり平助は主税之助にむかひ我今度汝を養子とせしにより今度家督かとくゆづると雖も其方の跡式あとしきは我が實子たる藤五郎藤三郎の内器量きりやうを見立て讓りくれよ此事承知なれば兩人とも汝のせがれに致すべしと言けるに主税之助畏まり奉つる仰の如く兩人とも某し悴に仕つり嘉川の名跡みやうせきは必ず兄弟の内に繼せ候はん此樣決して御案事有べからずと立派に請合ければ平助は甚だよろこび我等死後には何分宜敷よろしくたのみ申とかたく申付置たり然るに幾程も無く平助は六十歳を一として病死びやうししけるにより主税之助は養父の頼の通り兄弟の内に家督かとくつがせんと我が子の如くいつくしみそだてしが其中に主税之助も實子を儲け名をすけ五郎と呼び寵愛ちようあいあさからず何時しか先代平助の遺言ゆゐごんわすれ己が實子佐五郎に家督かとくを讓らんと思ひ立ち夫に就ては藤五郎藤三郎兄弟を亡者なきものにせずんば此事行ひ難しと茲に惡心あくしんきざせしこそ嘉川家滅亡めつばうすべきもとゐと後に知られけるされば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず惡樣あしさまのゝしをりふれては三度の食をたちて與へざる事なども有しかば藤五郎は倩々つく〴〵おもふやう實子佐五郎出生以來養父母には我が兄弟をとんずること甚しければ兄弟の中へはとても家督かとくゆづるまじ家名かめい相續さうぞくの出來ぬものなれば身を我儘に暮んと心を決し晝夜酒色にふけりしが頃は享保きやうほ二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて駈込かけこみければ役人早々奉行へ申立けるに何等の趣意なるやとくたゞすべしとのことに付き役人は源右衞門に尋問たづねるに私し儀居酒商賣ゐざけしやうばい仕つり候に今朝一人の侍士さぶらひ入來いりきた亂心らんしんと相見え家内の者と彼是かれこれ口論こうろん致し諸道具を投散し其上刀を拔立騷ぎ候に付よんどころなく捕押とりおさへ置候間何卒御慈悲じひを以つて同人宿元やどもとへ御引渡し成下され候樣願ひ奉つり候と申により其段役人より奉行へ申立しかば越前守殿聞屆きゝとゞけられ早速さつそく召捕めしとり方申付られしにより同心兩人源右衞門に案内させ右酒屋に到りて彼のものにむか其方そのはう亂心らんしんと相見え居酒屋ゐざかやあらし家内をさわがす段不屆なり因て奉行所へ召連行めしつれゆくにより然樣さやう心得よと申し渡しければ彼の者大いに怒り我は嘉川主税之助かがはちからのすけが悴藤五郎なり町奉行所などへ相越あひこすべきものに非ずと云て種々さま〴〵惡口あくこうなしけれども役人は頓着とんちやくなく其儘引立連歸つれかへりて白洲しらす引据ひきすゑ置き大岡殿の前へいで樣子を相糺あひたゞし候處嘉川主税之助惣領そうりやう藤五郎と申者に候と御旗本はたもとの事故内々ない〳〵申立てければ越前守殿是を聞れ扨々不行跡ふぎやうせき千萬なり是を表向きの沙汰となす時はかれが父の家名にもかゝはるべしとて思案の上白洲へ出座有て藤五郎を見られ其方儀帶刀をも致す身分を以て不行跡ふぎやうせきに及ぶ事言語にえたる不屆なり汝は浪人か併し住所は何方なるや豈夫よもや住所は有まじ無宿むしゆくであろうなと尋ねらるゝに藤五郎は越前守殿の心を悟らず否々いな〳〵拙者儀はかく砂利じやりの上に於て御吟味を受べき身分に御座なく候と云へば大岡殿ナニおのれ砂利じやりの上處か名もなきものならんと有にいな拙者せつしやは嘉川主税之助せがれ藤五郎と申す者なりと云へば越前守殿オヽ然らず藤五郎の家來と申すか然ば亂心らんしんと見えるにより吟味ぎんみは追て致す先入牢じゆらう申付ると有て假牢かりらうに入置れ早速此段嘉川主税之助方へ申入らるゝ樣其許そのもと御子息ごしそく藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて酒興しゆきようの上亂暴らんばうに及候者有之に付此方へ召捕めしとり置候間用役の者一人早々御差越さしこしなさるべしとの事なれば嘉川の屋敷やしきにては大いに驚き是は概略おほかた藤五郎の事ならんが大岡殿の仁心じんしんにて藤五郎家來と申越れしと見えたりとて早速さつそく用人のばんすけ十郎と言者いふもの越前守殿役所へ罷出ければ越前守殿佐十郎を呼れ其方主人藤五郎召使めしつかひの者亂心らんしんと相見え豐島町居酒屋源右衞門と申者の方へ參り家内をさわがしたるに依て此方へ召捕めしとり置たり但し吟味致すべきなれども亂心にまぎれなき故今日引渡し遣す尤も由緒ゆゐしよも是有家來ならば隨分ずゐぶんねんを入て療治れうぢを差加へ病氣中は座敷牢ざしきらうへなりとも入置が宜からんと申されければ佐十郎ハツと平伏へいふくなし段々御懇情こんせいの御言葉有難くかしこまり奉つる主人も定めて忝けなく存候はん早速まかかへり御示の如く屹度きつと相守らせ申べく候と涙を流して打喜び夫より藤五郎を請取うけとり駕籠かごに乘せいそぎ屋敷へ連歸つれかへりて委細ゐさいを主税之助へ申述ければ主税之助は大いにいきどほり偖々さて〳〵不屆千萬の次第奉行所の差圖さしづなれば少しも猶豫いうよならずと早速座敷牢を補理しつらひ是へ閉籠とぢこめ置たりけり然らば大岡殿の心にては藤五郎は先代平助の實子なるにより一旦の不身持さへ改めなば往々ゆく〳〵家督かとくゆづる者ならんと思はれ何所迄どこまでも家來の體に取扱とりあつかはれしは實に特別とくべつ慈悲じひと云べきを却て主税之助は是をよき機會しほなりと藤五郎をはいして實子すけ五郎に家督かとくつがせんと思ひ公儀こうぎへは長男藤五郎は多病と申立己が實子佐五郎を惣領そうりやうに相立度旨願ひし處願の通り仰付られしゆゑ主税之助はかねての望みの如くなりしとて大いによろこびしと雖も先代よりの家來は左右とかく藤五郎兄弟を贔屓ひいきなすにより渠等かれらありては實子佐五郎の爲にならず此上は藤五郎兄弟をなきものとせんと惡心あくしん彌増いやましまづ藤五郎より方を付んとて一日にやうやく食事一度づつを與へ干殺ほしころさんとこそたくみけれされ無慚むざんなるかな藤五郎は其身不行跡ふぎやうせきとは云ながらわづか三でふ座敷牢ざしきらう押籠おしこめられ炎暑えんしよの甚はだしきをもしのぎかね些々さゝたる庇間ひあはひの風をまつとなりしあはれさはたとへものもなかりけり茲に腰元こしもとお島と言は其以前より藤五郎がひそかなさけをかけし女なれば此程の體裁ありさまいとほしく思ひ人目を忍びて朝夕の食事其外何くれとなく心をくばり居たりしに當家の用人ばんすけ十郎建部たてべがう右衞門山口そう右衞門の三人は先殿平助の代より勤めことに山口惣右衞門は藤五郎の傅役もりやくにて幼少えうせうより育てあげ己は當年七十五歳になり樂勤らくづとめを申付られし身なれば此程の有樣ありさまを見て深く心を痛め主人主税ちから之助へ種々藤五郎の詫言わびごとをなし出らう有べきやう申しければ主税之助大いに立腹りつぷくし又しても〳〵藤五郎の事を意見立いけんだてなすでう不屆なり重ねて藤五郎の事を申さばいとまを出さんと慘々さん〴〵しかりければ惣右衞門は是非なく我家へ歸りすけ十郎がう右衞門の兩人をまねき先年先殿平助樣の御遺言ゆゐごんもありしを當殿たうどのには左右とかく無理むり非道ひだうの取計ひなるにより此後御兄弟の御身の上如何樣の儀出來んも知れず御兩人を何分御頼み申と涙を流して内々相談致しければ此事を主税ちから之助に告る者ありて種々惣右衞門を讒言ざんげんなせしにぞ主税之助も始終しじう邪魔じやまと思ひ居たるゆえ是幸ひとて惣右衞門に永の暇を申渡しければ惣右衞門はかね覺悟かくごの事とは云ひ先代よりの勤功きんこうもあるをなさけなしとは思へども是非なく妻とせがれ引連ひきつれ嘉川のやしき立退たちのきけり然れども其の節同役のばん建部たてべの兩人へ返す〴〵も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋うらながや引越ひつこし浪々らう〳〵の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳せがれぢう五郎二十五歳親子三人かすかに其日をおくり居たり然るに嘉川主税之助かがはちからのすけは惣右衞門に永の暇を遣してより今は意見いけんする者なく益々ます〳〵惡事あくじ増長ぞうちやうなし藤五郎を彌々いよ〳〵干殺ほしころさんときびしく食止しよくどめをし其上弟藤三郎當年わづか五歳に成をにくみて種々折檻せつかんなしあまつさへ藤三郎の乳母お安と言女をも永のいとまを遣したり其わけは此乳母先代平助の時より奉公ほうこうに來り譜代ふだい同樣のきめにて藤三郎の乳母となせしかば藤三郎をいつくしむ事生の親にもまさりて彼是かれこれ執成とりなしけるを主税之助夫婦は甚く憎み我子の爲に邪魔じやまならんと終にとがなきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけりかく先代よりの家來に暇を出し新規しんきに抱へる者共には用人立花左仲たちばなさちう安間あんま平左衞門又中小姓には安井伊兵衞孕石はらみいし源兵衞其外徒士かち六人の者を近付ちかづけ主税之助は彌々いよ〳〵惡心増長ぞうちやうして藤五郎の命は此節に至りて實に風前の燈火ともしびよりもなほあやふけれども只腰元こしもとのお島一人ひそかに是をいたはり漸々と命を保ち居るのみなりれば新規しんきかゝへの用人安間平左衞門と言は當年四十歳餘りなれども心あくまでよこしまにして大膽不敵だいたんふてき曲者くせものなり此者金銀を多く所持しよぢなし嘉川家身代しんだい仕送しおくりをするにより主人も手を下げ萬事一人の計ひなればやしき内の者此平左衞門を恐れ誰一人ことばを返す者もなきゆゑ平左衞門は我儘わがまゝ増長ぞうちやうし其上ならず年に似げなく大の好色者にてお島の容貌かほかたちうつくしきに心をかけがなすきがなお島を口説くどきけれ共勿々なか〳〵承引せず却て平左衞門をはづかしめ惡口あくこうしける故平左衞門は其身の惡き事も思はずかれが惡口を大いに憤ほり心中にさては此女は藤五郎と言男のある故に我を強面つれなくなすならんと思ひ夫より種々いろ〳〵と藤五郎兄弟の事をにくみて主人主税之助の前へ出藤五郎殿を生置いけおく時は建部たてべばんの兩人の者は御先代よりの御家來故彼の御兄弟の事を思ひて渠等かれら兩人御支配向しはいむきへ如何の事を申出べきやも量難はかりがたし假令なきにもせよ藤五郎殿をぬすみ出さんと此程より渠等かれらが樣子をうかゞひ見るに其きざしなきにしも非ずと申ければ元より無智短才の主税之助故是を實と思ひ然らば此上は如何はせんと相談なすに平左衞門は得たりと聲をひそひそか毒殺どくさつせん事一の手なるべし先藤五郎殿さへ亡者なきものにする時はあとさはりなしと言へば主税之助大きによろこ好機よきをりのあれかしと見合せ居けるとなり


第二回


 されば嘉川主税之助は何卒なにとぞして藤五郎を害せんと思ひ新規しんきかゝへ入れ用役ようやく安間平左衞門と種々談合致しけるを腰元こしもとお島此事をひそかに知りける故大いに打驚き早々此由を内々にてばん建部たてべの兩人へ告知らせければ伴建部の兩人も甚だおどろき此儀一日も打捨置難うちすておきがたし御兄弟諸倶もろともに主税之助樣の計略にかゝり御命を失はるゝ時は嘉川の御家名斷絶だんぜつせん事必定ひつぢやうなり如何はせんと兩人ひそかひたひを合せて談ずると雖もよき分別ふんべつも出ざれば先々此儀山口そう右衞門に相談さうだんせんと夫よりばんすけ十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて對面たいめんの上右の一條を種々と談合だんがふしければ山口も毒殺のことを聞大いにおどろ其許そのもとの云るゝ如く此事少しも延し難し若打捨置うちすておく時は一大事ならんにより片時も早くお島と申合せ御兄弟諸共一先盜み出し其後支配へ屆け何卒してせん御主人の御血脉けつみやくたゝさぬ樣に致しなば我々われ〳〵が臣たる道も立により此上は急ぎ御二方を救ひ進らせん事專要せんえうなり此儀御兩所の力をひとへに御頼み申なりと言ければすけ十郎は合點うなづき何樣なにさま御尤も至極なれば早々郷右衞門お島ともに申合せ取計ふべけれども御兄弟を救ひ出せし上御二方を隱匿かくまひまゐらするは何方が宜しからんと申せば其儀は少しも心を勞されな年こそ寄たれ此惣右衞門御兄弟を隱し置やが愛度めでたき御家督にすゑたてまつらん必ず〳〵氣遣ひ仕給したまふまじと請合ければすけ十郎然らばかねて申通り勿々なか〳〵手延になり難ければ今明日の中是非とも御救ひ申べしどの道にも一と先爰許こゝもとへ御連申さんと堅く約束なしすけ十郎はいそぎ立歸りて此段建部郷右衞門にも話しければ建部も深く悦びつゝ夫よりひそかに右の由を腰元のお島にも話し置其節は必ず頼むと示合せて互によきをりを窺ひ居たりし處頃は享保三年十二月廿一日朝より大雪降りて其寒き事誠に堪難く何國も銀世界となり庭の木立は時ならぬ花を生ぜしかば主税之助は新參しんざん用役ようやく安間平左衞門立花左仲たちばなさちう其外氣にあひたる佞臣ねいしんどもを集め雪の寒を凌がんと晝より酒宴しゆえんもよふせしがのめうたへと調子づき追々亂酒らんしゆになり夜に入ると雖も猶更に各自おの〳〵謠ひ淨瑠璃じやうるりにだみ聲を張上はりあげ遂にはすてゝこをどりやかつぽれと醉に乘ぜし有樣は何時果べきとも見えざりけり然るに伴建部の兩人は先代よりの用役ゆゑ兎角とかくけぶたく思に付此酒宴しゆえんの席へ呼ざるを兩人は是ぞ屈竟くつきやうの幸ひ此をりにこそ我々が望みを達せんと竊に悦び猶彼是と心を配りしが今宵こよひは是非共過さじと女房にも此事を話し其方は御裏門うらもんに待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄立退たちのくべし藤五郎樣には我々御供を致し後より行んほどに必ず共に仕損しそんずまじと申含め置豫々かね〴〵相圖あひづの支度してお島が手引を相待けり然るに奧にては夜の更行ふけゆくに隨ひ酒宴の騷ぎも漸次やう〳〵うすらぎ最早座敷も引て皆々席を退き臥床ふしどに入ければ夜は深々しん〳〵降積ふりつもる雪に四邊あたりの䔥しめやかにていひきの聲のみ聞えるにぞばん建部たてべの兩人は今や〳〵と窺ふをりお島は藤三郎を抱上いだきあげ小用こよう連行つれゆくてい持成もてなし座敷々々を忍び出て漸々やう〳〵錠口ぢやうぐちへ來りければ待儲まちまうけたる兩人はそつと請取りお島は佐十郎の耳に口を寄せまづ藤三郎樣の御事を計ひ夫より御兩人ともに御庭の垣を越てお小座敷より忍入藤五郎樣の入せらるゝ處へ御出候へと申ければ佐十郎打點頭うちうなづき呉々くれ〴〵も頼むと言置いひおき兩人共に先藤三郎樣を連行つれゆかんと其處そこ立去たちのき出るに雪は彌々いよ〳〵降頻ふりしきり其寒き事絶え難く漸々と裏門口へ出れば豫て宵より伴建部兩人の妻女お松お花は夫と云い合わせて有る事なれば寒きを厭はず待居たりしが斯と見よりお松は立より藤三郎をはだ脊負せおひお花と供に三河町を指て急ぎけり又伴建部の兩人は腰元お島が働きにて難なく藤五郎の押込おしこめある組牢くみらうの處に到り見るに哀なる哉藤五郎は主税之助が惡心により日外いつぞやより日々食物をたゝれてあれば惣身そうしん痩衰やせおとろへ眼はくぼみ小鼻も落て此世の人とも見えざるゆゑ兩人の用人はなみだを流し是が嘉川家の若殿樣の有樣なるか扨々淺ましき御事なり少しも早く御連退つれのき申さんと兩人して組牢くみらうはしらを一本音のせぬ樣に漸々引拔ひきぬきがう右衞門は藤五郎を脊負せおひて夫より座敷々々を忍び出れどもし此期このごのぞみて出合者いであふものあらば最早一生懸命しやうけんめい討果うちはたさんと伴すけ十郎は前後左右に眼をくばりながら刀を拔持ぬきもちて郷右衞門の後に添藤五郎を守護しゆごなし漸々と忍び出以前の裏門の潜りを開て外へ出立ホツと一いきつきそれより兩人は惣右衞門の方へと走りたりさてまた三河町なる山口惣右衞門は此事をひるの中に伴建部の兩人より申こしたれども惣右衞門は此節病氣にて起居たちゐも自由ならざれば今宵こよひやしき内へゆきはたらく事能はず又悴重五郎は九月中より御代官だいくわんの供をして他國へ行し故是も今度の用に立ず斯打臥うちふし居て御兄弟樣ののがれ來らるゝを待事まつこと本意なさよと宵より頻に聞耳を立てゝ枕をもたげ我身の病苦は打忘うちわすれて幾度いくたびとなく家内のものを門へいだしては氣をいらち只々藤五郎兄弟を待詫まちわびてぞ居たりけり


第三回


 かくて其夜も追々おひ〳〵更渡ふけわたはや子刻こゝのつも過丑刻やつかねはるかに聞え軒端のきば誘引さそふ雪風の身に染々と冷るに何此眞夜中まよなかの大雪にばん建部たてべの計りし事ゆゑ首尾能しゆびよく御屋敷おやしきのがれ出給ふ共自然と途中にて凍えは爲給したまはぬかさぞや夜道は御難儀ならんと老の心のやるせなく女房にむかひコレお時やアヽ何も己は御二人樣の事が案事あんじられてならぬ今夜も彼是もう今に寅刻なゝつなれば今迄沙汰のないは萬一ひよつと渠等かれらが仕そんじはせまいかと此胸このむね落付おちつかぬ我年こそ寄れ此病氣でさへなきならば第一番に御邸おやしきより御二人樣を御つれ申さんにすけ十郎郷右衞門の兩人にのみほねをらかくのめ〳〵と我が宅に居ん事眞に云甲斐かひなしとはいひ何分病には勝難し偖々さて〳〵何か仕樣しやうは有まいか萬一此事を仕損しそんじなば御二人の御命にもかゝはるならんとおひつ氣をもむをりしもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは東叡山とうえいざん寅刻なゝつかねコリヤ斯うして居られぬと物にすがりて立上り蹌踉ひよろめくあしを踏しめつゝ二足三足はし近く出行機會とたん裏口に人の足音爲ければ惣右衞門は耳引立てあれお時何やらうらで聲がするコレさお時早く行や行て見て來やれ是さ〳〵と急立せきたてられ女房は早々に立出誰殿かと云に彼の者小聲にて然言さういうこゑはお時樣やれ〳〵うれしやと言をきゝかどの戸を明ればお松お花の兩人は藤三郎とともに雪まぶれに成しを打拂うちはらひて内に入お松は藤三郎をよりおろしければお時は是を見てやれ〳〵若樣わかさまか此のお寒いのによくまづ御出遊ばしたお松樣もお花樣もさぞかし御寒おさむいことで御座んせう先々早ふ此方へと案内あんないしけるに兩人は藤三郎をともなおく這入はひれば惣右衞門は待構まちかまへし事ゆゑ我を忘れて打喜うちよろこびやれ〳〵嬉しや南無金毘羅こんぴら大權現だいごんげん心願しんぐわん成就じやうじゆ有難やとなみだを流して伏拜ふしをがみテモマア此寒さに御機嫌ごきげんよくと藤三郎を撫摩なでさすりなどする中に伴佐十郎建部たてべ郷右衞門の兩人はお島が働きにてなんなく藤五郎をすくいだし是も同じく脊におひながら此處へいそぎしに男の足故程なく來りければ皆々大によろこあひ先是にて一安堵あんどと一同にふといきをホツとつき夫より皆々火鉢に寄て雪にぬれたるきぬなどほしながら郷右衞門云やうかく二方樣共首尾能ぬすみ出せしゆゑ明日は必定ひつぢやう御邸おやしきにて尋ねさがさん然すればかねて御邊が此處に住居せらるゝを知事しることなれば是非共こゝへ尋ね來るべきにより御兄弟樣此儘このまゝこゝには差置參らせ難し此儀如何せんと相談さうだんせしかば惣右衞門は點頭うなづき其儀はせん殿樣の御恩に成し御出入りの陸尺ろくしやく七右衞門は男氣の者にて須田町すだちやう一丁目に住居致せば此者を頼みてかれか方へ御二方共にひそかに忍ばせ申さんと某し豫てより思ひしか共此病氣にてかれの方へ行事能はず夫故未だ渠には申談ぜざれども貴殿きでんより御頼みあらば承知しようちいたさんと云に郷右衞門其儀は至極しごくしかるべきにより片時も早く某し是より須田町一丁目へ馳參はせまゐ陸尺ろくしやく七右衞門に折入をりいつて頼み申べしと立上るを皆々夫は何共此大雪にと云けれどもがう右衞門是迄これまでの處をさへ爲課しおほせし事なれば此上の駈歩行かけあるきに雪位はおろかなり殊に是より須田町まではわづかみちゆゑイデ片時へんじも早くいたらんと此處を立出七右衞門の方へぞいそぎけるほどもなく須田町一丁目へ來り七右衞門の門をたゝきて案内あんない申入ければ七右衞門の家内は夜中の事ゆゑ不審いぶかり何れのやしきよりの使にやいまだ夜のあけざるに來る事能々よく〳〵火急くわきうの用向ならんと思ひ尋ねければ郷右衞門はよんどころなき要用えうようにて罷越まかりこしたり七右衞門在宿ざいしゆくなれば面談めんだん申度と言入いひいれけるに七右衞門在宿に候と答へながら出迎でむかひ是は〳〵郷右衞門樣何御用にてかくはやく御出なされしやと申ければがう右衞門されば未だ夜の中より來りしは貴樣きさまが男氣を見掛みかけひそかたのみ度一條ありと云をきゝ七右衞門されば先此方こなたへと一間へとほしけるに郷右衞門聲をひそめ藤五郎兄弟の事を委細ゐさいに語りければ七右衞門夫は〳〵とばかりにてあきれ居たりしかば建部はひざすゝめ右の次第ゆゑ何卒御二人樣をしばしの内隱匿呉かくまひくれらるゝ樣ひとへたのみ申といひければ七右衞門は元來もとより男氣の者なるに付段々だん〳〵郷右衞門の物語りをきゝ主税之助が惡意をにく殊更ことさら先代の厚恩こうおんを受し者故委細を汲取くみとつて郷右衞門に向ひ扨々恐れ入たる御物語り御二方おふたかた樣の事は私しが身にかへても御引受おひきうけ申しあげ御世話仕つるべければ必ず〳〵御氣遣おきづかなされまじと世に頼母たのもしく引請ければ郷右衞門は大いに悦びしからば明方迄あけがたまでには御連おつれ申さんにより呉々くれ〴〵たのむなりと云ひ置て立歸りしに七右衞門もかく請合うけあひし上はとて己も郷右衞門のあとより大雪をもいとはず三河町なる山口惣右衞門の方へ到りなほも惣右衞門に對面たいめんして委細ゐさいおのれ心底しんていかたりければ惣右衞門始め一同七右衞門の氣質きしつかんじ惣右衞門は病氣ゆゑ萬事心に任せずとてひとへに郷右衞門をたのみける故七右衞門は委細呑込のみこみ然る上はすけ十郎樣郷右衞門樣とても此方こなたあられては宜しからず御兄弟樣の御供して手前の方へ御越おこしなさるべしとてばん建部たてべ夫婦の者もともに主從都合六人を早速我方へ連歸つれかへ何是なにこれとなく心切しんせつに世話をなしける事たの母しき男氣をとこぎなり


第四回


 かくよく廿二日のあさ嘉川家の人々藤三郎のみえざるを不審ふしんに思ひし所藤五郎を入れ置きしをりやぶれ其上伴建部等も居らざれば大いに驚きさわ邸内やしきうちの者共を殘らず呼出よびいだし吟味に及びけれ共皆々一かうに知らざるむね申ければ主税之助は憤怒いきどほり是れ必らず腰元こしもとお島の手引てびきにて藤五郎兄弟をすけ十郎郷右衞門の兩人に盜みいださせしに相違あるまじすれば先づ三河町二丁目の惣右衞門が方を尋ねるべしと有て早速孕石はらみいし源兵衞安井伊兵衞の兩人をび三河町なるみぎ惣右衞門の方へさぐりに遣はし置きなほまた安間平左衞門立花左仲の兩人を相手に種々と相談さうだんに及びけるに兩人もこれまさしく殿とのの御考への通り伴建部と申し合せお島の手引にうたがひなしとの事ゆゑ夫れよりお島を呼付よびつけ藤五郎兄弟は其方が手引てびきして佐十郎郷右衞門の兩人にぬすませしに相違有るまじ眞直まつすぐに申せと責掛せめかけ若し此事を言ざるに於ては仕樣しやうが有るぞとおどし付けれどもお島は努々ゆめ〳〵手引など致せしおぼこれなしと答ふるを聞き安間立花の兩人目をむき出しなんぢ何故なにゆゑに知れたる事をちんずるやあり樣に申すべしとしきりに責付せめつくると雖もお島は恐るゝ面色けしきもなく假令たとへ如何樣に仰せらるゝ共私しは更らに存じ申さず殊にばん建部たてべの御兩所は此御邸おやしきの案内は私しより能く存じ居らるれば何として私し風情ふぜいの手引を頼みにかゝ大膽だいたんなることを致され申さんや此所能々御推察下すゐさつくださるべしと申しければ主税之助はたゝみ蹴立けたて扨々くちかしこく云ひぬかす女めおのれより外に此手引このてびきをする者なしさるに因て汝を詮議せんぎするぞ有樣にぬかせばよし若し此上にも取隱とりかくさば憂目うきめを見せんと云へども知ぬとばかりゆゑ立花左仲は立掛たちがゝりお島を引立ひきたてには連行つれゆき衣類いるゐはぎゆきこほりし松の木にしばつけ割竹わりたけを以てサア有體に云々いへ〳〵きびし打擲うちたゝき種々手をかへせむると雖もお島は更にくつせず後にはまなことぢて一向に物を言はざれば主税之助は彌々いよ〳〵怒り此奴こやつ勿々なか〳〵澁太しぶとき女なり此上は槍玉やりだまあげて呉んずと云ひつゝ三間の大身の槍を追取さやはづして小脇こわき抱込かひこみお島にむかひサア汝言はぬかどうぢや言ぬと此槍が其の美しきからだに御見舞申すぞ是でも言はぬか〳〵と既につくべき勢ひゆゑ安間平左衞門は是を押止おしとゞ暫時しばし御待ち下されよと言ふ處へ安井孕石の兩人は立ち歸りければ主税之助は兩人をみるいなや樣子はうぢや行衞ゆくゑは知れたるかとの尋ねに兩人言葉をそろへ仰せに隨ひ三河町二丁目を種々いろ〳〵穿鑿せんさく仕つり候處居酒ゐざけ商賣の裏長屋うらながやにて漸々やう〳〵と尋ね當り彼の惣右衞門に仰せの趣きを申し聞かせ樣子をさぐり候へども藤五郎樣御兄弟の行衞ゆくゑは一向に存じ申さずと申し其上そのうへ惣右衞門は病氣にて臥居ふしをまたかれせがれ重五郎も他國へゆきしよしにて家内にはたゞ惣右衞門夫婦のみをり候まゝ種々いろ〳〵尋ね候へ共何分知らざる由ゆゑ夫れより近所合壁がつぺきにて承たまはり候と雖どもこれと申す取留とりとめたる儀は御座なく候とぞ申しける


第五回


 されば主税之助は大いに氣をいらかく今度の儀を惣右衞門の知らざる事の有るべきやと足摺あしずりして急遽あせるゆゑ立花左仲は進みいで只今兩人の申す如くにては勿々なか〳〵穿鑿せんさく行屆ゆきとゞくまじ此儀今一應私し三河町へ罷りこし一手段仕つりたしと云ければ主税之助は大いに悦び然らば其方なほ此上の穿鑿せんさく致すべしと云けるに夫れより左仲は直樣すぐさま三河町にと馳行はせゆきたりさて主税之助は又々お島のそばゆき汝先程より種々いろ〳〵と尋ぬれども一向に白状せず扨々にくき女めと言樣いひざま又も槍を追取て種々さま〴〵おどしけれどもお島は觀念くわんねんせしていにて眼をとぢぎり一言も發せず居るゆゑ平左衞門はかねてお島に心あるにより又々押止おしとゞ先々まづ〳〵御待ち成さるべし手引はかれが致せしにもせよぬすみ出せしは伴建部の兩人なれば此者どもの有家ありかさへ知るれば藤五郎殿御兄弟の行衞ゆくゑも知れ候はん其の上にて如何樣いかやうとも御存分に遊ばされておそからずと取りなす處へ立花左仲息急いきせきと歸り來れば如何に左仲手係てがかりなりとも知れたるかと尋ぬるに左仲答へてん候ふ私し三河町へ參り見候處彼等兩人申す如く惣右衞門は全くの病氣にて又せがれの重五郎も御代官のともをして他國へ行しに相違なし因てかれ隣家りんかの者を種々いろ〳〵すかし其夜の樣子を相探あひさぐり候處一人の者の申し候には夜前やぜん深更しんかうに及びて惣右衞門方へ人出入ひとでいりの有し樣子に相聞え候と申すゆゑ猶々なほ〳〵穿鑿せんさく致し候處其後陸尺ろくしやくの七右衞門が惣右衞門方へ來りて種々いろ〳〵の話しのていなりと申し候すれば彼の惣右衞門も自分の方におく時は忽ちに知れんことを思ひ御先代よりの御出入のえんを以て陸尺ろくしやくの七右衞門を頼みかくまおき候と相見え候然すれば藤五郎樣御兄弟は須田町一丁目なる陸尺の七右衞門の方にかくまひ置くにまぎれ御座なくさふらふとしたり顏にて言ひければ主税之助大いに喜び成ほど其方が穿鑿せんさくよくも行屆きたり扨々にく奴輩やつばらかな此儘捨置すておく時は事の破れなれば假令たとへ病氣なりとも直樣すぐさま惣右衞門めを引摺ひきずり來れ我れ自身吟味せんと敦圉いきまきあらく申しけるを安間平左衞門は是れをせいし惣右衞門こともとは御家來に候とも當時は御いとまの出でたる者ゆゑ是非はかくも彼の方へ連退つれのきかくまふと申す程のことなれば渠等かれら根深ねぶかたくみたると相見え候へば勿々なか〳〵以て容易の儀には參るまじれば何事も此方にて後手ごてならざる樣に表向おもてむき御吟味御請おうけなさるべしと申しければ主税之助は是を聞て大いにおどろもし此事表立おもてだて吟味をうける時は是非共今迄の惡事を彼等よりちく一申し立て露顯ろけんに及ばん我れ夫れを言解いひとかん道なし是れ自ら石をいだき深きふちに臨むの道理にして何れの道にも負公事まけくじなり何か外によき思案こそ有らまほしけれ此儀兩人にて我れを救ひくれよと申しけるに平左衞門も左仲も此體このていを見て苦々にが〳〵しく思ひ左樣に御心おこゝろよわくてはかなふまじ是れ迄の事共もかねて其御覺悟なくしては成るまじくと存ぜしに只今の御樣子にてはいさゝかも其御覺悟そのおかくごなくなされし事と相見えたりさりながら今更夫れを彼是かれこれと申すもせんなき事に候へば先々まづ〳〵御心をしづめ給へとくと御相談の手段も御座候ふべし古語こごにもとほおもんぱかりなきときは近きうれひありと申すはまさしく是なるべしされども三人よるとき文珠もんじゆ智慧ちゑ此平左衞門左仲御つき申しをるうちは御安心なされ能々御思案候べしと種々相談しけるうちやゝ半日餘りお島が雪の中にいましめられ身神しんしんともに冷凍ひえこゞ人心地ひとごこちもなきていを見て平左衞門は差圖さしづをなし藤五郎を押籠おしこめおきたるらうの中へ入れさせ番をつけてさしおきたり


第六回


 れば嘉川主税之助は我子の愛にまなこくらみ終に其家名を失ふに至る事これなんぢいでて汝に歸るの古言むべなるかな此度ばんすけ十郎建部郷右衞門の兩人藤五郎兄弟をすくし山口惣右衞門并びに陸尺ろくしやくの七右衞門と申し合せ兄弟の者をふかかくまはんとするゆゑ主税之助は詮方せんかたなく安間平左衞門立花左仲を相手に種々いろ〳〵と相談せしがいつそ此方このはうより支配しはい委細ゐさい屆書とゞけがきを差出し表向おもてむき吟味をかうべしと頓々やう〳〵に決定して立花左仲はやがて支配へ書面を持參ぢさんせんと爲時するとき安間平左衞門は左仲を呼止よびとめ御邊ごへん此書面の趣意を能々はらへ入れ置きもし宮崎内記儀直々ぢき〳〵御尋ねあらば其時こそ日頃の智辯ちべんふるひ宜しく申し爲し給ふべしと何か耳語さゝやきければ左仲は微笑ほゝゑみ此書面は貴殿の認められしことなれば我れ能々はらをさめて持參致し某し日頃の能辯のうべんを以て天晴上首尾じやうしゆび仕課しおほせ申すべしとて獨りほこがほに支度を調とゝのへ飯田町なる支配宮崎内記殿のやしきへと急ぎしかば程なく宮崎殿のやしきいたり同家の用人溝口みぞぐち三右衞門に面會めんくわいして右の段委細申し入れ御屆おんとゞけ書面は主税之助持參ぢさん致すべきの處病氣に付き拙者より差出し候むね申しのべければ三右衞門是を請取うけとり左仲をひかへさせ置て内記殿の前に出で嘉川主税之助用人立花左仲の口上を申しのべ屆書差し出しけるに内記殿は是れを披見ひけんせられし所其書面に曰く

書付かきつけもつて申上候

先達せんだつて御屆申上置候嫡子ちやくし藤五郎儀昨夜中座敷牢ざしきらうを破り弟藤三郎並びに家來けらいばんすけ十郎建部郷右衞門の者共とも行方ゆくへ相知れ申さず其上私し居間ゐま之有これあり候金子百兩紛失ふんじつ仕つり候是等の儀はみぎ家來共兩人の仕業しわざと存じられ候勿論もちろん同人共舊來きうらい思ひ掛の事も御座候處其事を果さず候に付亂心らんしんの藤五郎を誘引さそひ出し惡巧わるだくみ致すべく存念と推察すゐさつ仕つり候之に因て渠等かれら御召捕之上其すぢ御吟味下し置れ候やう仕つり度此段書付を以て御屆申上候

享保三年十二月廿三日
嘉川主税之助 印
宮崎内記殿

右の如くの屆書なれば宮崎殿まゆしわよせられ一通り自身じしんうけたまはらんにより其立花左仲とやらを是へ呼出よびいだすべしと申されけるに用役の溝口三右衞門は早速さつそく左仲を呼出しけるに内記殿見られ只今差出しの屆書の趣きとく披見ひけん致し候處此儀容易よういならざることなり尤も先達せんだつて差出せし屆け書に藤五郎儀病氣と申す事は是あれ共嫡子ちやくし并に弟藤三郎まで一夜の中に家出いへで致し行方ゆくへ相知れず加之そのうへ家來兩人も逃亡かけおちせしなどゝは何か其意を得ざる事共にて甚だ家事不取締ふとりしまりなることなり殊に其家來は家の重役と云ひ先代より召使めしつかひし者の趣きなれば旁々かた〴〵以て怪敷あやしきことに思はるゝ併し家來の儀は兎も角も子息の行方ゆくへ知れざることは一寸の打捨うちすて置れざる儀ゆゑ主税之助自分じぶん參向さんかう有られるやうに早々まかり歸りて急度きつと申聞べしと申渡され内記殿には主税之助不參ふさんの儀甚だ等閑なほざりなりと申さぬばかりの樣子にて少しいきどほりをふくまれければ左仲は其心を汲取くみとりて大いに恐れ入り仰せの趣きかしこまり奉つり候へども先刻せんこく私しより申上候通り誠に折惡をりわるく主人主税之助事病氣に候間よんどころなく家來を以て右の段申上奉つり候何卒なにとぞ格別かくべつの御慈悲を以て右書面の趣き御聞取成下され候はゞ此上もなき有難き仕合しあはせに存じ奉つり候と云へば内記殿しからば其方名代みやうだいに罷りいづる程の者なれば萬一答へが出來るかと申さるゝに左仲不肖ふせうながら主人の家事むきは支配をも仕つり候私しに御座候へば大概おほむねの所は御答への儀申上候はんと云に依て内記殿内心に此者の樣子を見らるゝ處一癖ひとくせあるべき奴と思はれしかばしばら思案しあんていに見えたりけり


第七回


 扨も内記殿は左仲が樣子佞辯ねいべん奸智かんち曲者くせものと見て取り大いにあやしまれけれ共まづ一ト通り事をたゞして見んと思はれ猶又左仲にむかひ其方儀家の支配を致し候故概略おほむね答へんとの事なるが然らば其方に尋ぬべし書面に是有これある所の建部たてべ郷右衞門ばんすけ十郎の兩人舊來きうらいの思ひ立ちとは如何なる譯なるぞ此儀心得居るかと申さるゝに左仲はこゝぞと思ひ其の事故ことがら嫡子ちやくし藤五郎亂心らんしん仕つり候に付先達せんだつて御屆申上候弟すけ五郎を以て家督かとくに仕つり候儀を右兩人の者共不得心ふとくしんにて藤五郎弟藤三郎を嫡子ちやくしに立てべきむね主人へ度々相勸あひすゝめ候得共藤三郎儀は未だ幼少えうせうと申し其上多病たびやううまれ付に御座候ゆゑ主人主税之助承知しようち仕つらず候を渠等かれら兩人野心やしん差挾さしはさみ候事と相見え候と邪辯じやべんふるつて申しければ内記殿は是を聞かれ其方の申す通りなれば其建部たてべ郷右衞門ばんすけ十郎の兩人は先代平助以來よりの家來と相見えたり當主主税之助は先代平助の實子じつし藤五郎兄弟の中を家督かとくを致すべき遺言ゆゐごんを受たる趣きなれば藤五郎をはいする以上は藤三郎を家督かとくになすべきは順當じゆんたうなるを世評せひやうの樣子にてはうやら主税之助が甚だ欲情よくじやうかゝ自身じしん實子の佐五郎を家督かとくに致せしとの事餘人はもあれ此内記が心には是れはなは如何いかゞのことに思はるゝなりれば渠等かれら兩人は先平助の代より舊來きうらいの家來共の事故藤五郎が病身びやうしんの時はおとゝの藤三郎に家督かとくつがせんと思ふは理の當然ゆゑ藤三郎を順養子じゆんやうしなさねば成ずいやサ是は只某しが話なり尤も夫には又種々しゆ〴〵込入こみいつたる仔細しさいも有べししかしながら建部郷右衞門ばんすけ十郎兩人の家來は先平助へ對しての義理あひも思ひ彼是かれこれにて弟藤三郎を家督かとくにせん事を主人主税之助へすゝめしならん然るを主税之助不得心とあらば右等の事に付主從しうじうなか不和ふわに罷り成しと相見たりと有しかば左仲も理の當然たうぜんゆゑ是非ぜひなく御意ぎよいの通りと申けるに又居間ゐまの金子百兩紛失ふんじつせし趣き是は郷右衞門すけ十郎兩人の其夜逐電ちくでんの事故彼の金子は渠等かれら兩人がぬすみ取し事と主税之助始め皆々うたがふと見えたりと申さるゝに御意ぎよいの如く此金子ばかりはまつた渠等かれら兩人の者が盜み取しにいさゝか相違御座なく候と申しければ内記殿コリヤ其方左樣さやう申すうへは其金子渠等かれらぬすみしと云ふ屹度きつとした證據有りや全く折惡敷をりあしく紛失ふんじつの事故渠等を疑ふものならん汝が今申すとほりにてたしかなる證據有て申すが如し然らば其證據よりうけたまはらんと申されければ流石さすが奸智かんちの左仲なれども一句も出ず居るをどうぢや證據有りやといはるゝに左仲恐れ入りましたと閉口へいこうなせしかば内記殿益々ます〳〵不審ふしんに思はれ其は折惡をりわるき事故疑ふも道理もつともなれど今汝が如く申す時は證據にても有るかと思はる兎角とかく紛失物ふんじつものなどは人を疑ひし後にて手前に有る事もあれば此儀は右兩人を召捕めしとりとくと吟味の上ならでは決定けつぢやう仕難しかたし其儀如何とあれば今汝が申す方此内記甚だ信用しんようせずとのことばの中にこしらへ事と正鵠ほしさゝれしにぞ左仲はグツと再度ふたゝび閉口へいこうの樣子ゆゑやゝあつて内記殿何はもあれ藤五郎兄弟の者の行方ゆくへ又家來兩人の在所ありかとも早々尋ぬべし此義かんがふるに渠等かれら兩人の者主人の子息しそく誘引出さそひだせし事餘の儀にあらず藤五郎病氣の上は藤三郎を家督かとくせんと其の事上向かみむきへ願ふ存念ぞんねんならん然樣さやうの儀ならばなんぞやかくせず共致し方如何程も有べきに忠義のこゝろざしは却つて主家のがいとならんしかしながら屆けの趣き聞置なり呉々くれ〴〵も右の者ども行方ゆくへは早々吟味致し若し市中しちうゐるを見あたらば屹度きつと其處に張番を付け置き此方と并に町奉行へ屆け出よ必ず權威けんゐほどこす事なく成丈なるたけ穩便をんびんにすべし萬一手荒てあらがましき事相聞えなば屹度きつと沙汰さたに及ぶぞ又此度の儀はかるき事にあらねば早速御用番の若年寄わかどしより衆に進達しんたつに及ふべし此旨主人へとくと申聞けよとてせきを立れしかば左仲は思ひのほかなる事ども故早々屋敷やしきかへりけり


第八回


 しかるに立花左仲は宮崎内記殿にて種々いろ〳〵尋ねられし事ども委細ゐさい主人へ申きけんと急ぎ立歸りて主税之助の前へいでければ主税之助は待草臥まちくたびれをりゆゑ直樣聲をかけ如何に左仲内記殿の方にてなんと云れしやどうぢや〳〵と急立せきたちて尋ぬるに左仲は未だ座にもつかさまゆゑ甚だ答へにこまりける主税之助は其次第を聞んとしきりに急ぎしかば左仲は太息といきつき今日私し宮崎樣の御屋敷へ罷りこし御屆書を差上げし處内記樣早速御逢おあひなされて御屆けがきの趣きちく一御尋問たづね有りける故其次第を申立候處まづ御聞濟おきゝずみの樣には候へども何か此方の御樣子ごやうすを内記樣御聞込おきゝこみありてあらかじめ御悟おさとりなされたるていに御座候其上ばん建部たてべの兩人が事は御前のなされ方宜しからざる故と仰せられまして此事はかるからざる儀故早速さつそく御用番へ進達しんたつ成るゝ間然樣さやう心得よとの仰せに候と申しければ主税之助は是れを聞き面色かほいろ青然あをざめ偖々夫れはこまり入しことなりとかうべたれよわりしていに安間平左衞門はそばに居たりしが冷笑あざわら否早いやはや御前の樣に御心弱くては表向おもてむき吟味ぎんみの時は甚だ覺束おぼつかなしすべて物事は根深ねぶかはかり決して面色かほいろに出さぬ樣なさねばならぬ事なり然るをかくの如き御樣子ごやうすにては對決たいけつなしに忽ち負公事まけくじと成り申すべし此上の處御心を大丈夫になし給ふべし後にはかく申す安間平左衞門ひかへてれば假令たとひ大山がくづれ來る共少しも御心勞に及ばずと力を付れども主税之助は兎角とかく安心せず否々いや〳〵う手輕く申せども内記殿の心中がどうも心配なれば公事の始末しまつを話して見よすけ十郎郷右衞門の兩人へ惣右衞門と云ふ古狸ふるだぬき後見こうけんをすれば是は容易の公事くじでなしの惣右衞門めはとしこそ老込おいこみたれど並々なみ〳〵の者に非ずかれこれ評定所へいづるならば此方が是迄の惡事を申立るは必定ひつぢやうなりすれば我等に吟味かゝらんにより其時は如何に返答へんたふしてよかるべきや是平左衞門よき分別ふんべつをしへよサア平左衞門どうぢや〳〵と急立せきたてければ平左衞門は微笑ほゝゑみながら夫のことは物のかずたらずと申を主税之助シテ其時はどう了簡れうけんなるや早く云てきかせと云へば平左衞門はせゝら笑ひさりとては御氣の小い事なりなに是式これしきの事御心らうに及ぶべきや先其時の事は臨機應變りんきおうへんと申事あり今こゝにて申事は更に役にたち申さず其相手あいての樣子先の出次第でしだいにてどうへんずるも量り難し此所にて申事は勿々なか〳〵其節の間にあふものに非ず假令よしやかんがへて今申た所が本の足袋屋の看板かんばんなり然ながら然程さほど御案事おあんじ有らるゝことならばまづ安堵あんどの爲すこし御心のやすむやうに申上げん先以てほかまでもなく渠等かれら兩人を金子の盜賊たうぞくと申立置たれば御吟味の節彼是申すとも右盜賊のつみのがれん爲に惣右衞門をかたらひ忠義ごかし藤五郎殿御兄弟を誘引出さそひだし候儀とぞんずる旨を仰立おほせたてられなば其事のみにて渠等かれらつみし候なり其上主と家來の事なれば此公事このくじに於ては御前に九分のつよみが之あるゆゑ事の次第しだいを仰せらるゝ時は是渠等が一ツの申ひらきに困り候事目前もくぜんにて候若又對決たいけつになり候とも藤五郎殿の不行跡ふぎやうせきは一たび町奉行まちぶぎやうの手にもかゝりたる程の仕合しあはせなれば疑ひは先へ掛る道理に候藤五郎殿もどういのちはなき男又藤三郎殿は有りても幼少えうせうなり兎角とかく邪魔じやまになるは惣右衞門郷右衞門すけ十郎の三人にてうちにも先郷右衞門すけ十郎の兩人をば討取うちとらば此度の公事は必定ひつぢやう勝利しようりならん右兩人を討取うちとり手段てだてを一こくはやくさるが捷徑ちかみちなりと申ければ主税之助は首をかたぶけ兩人を討取は公儀の方がすむまじと云へば平左衞門呵々から〳〵と打笑ひ扨々さて〳〵夫では何の謀計はかりごとも行ひ難しよく思召おぼしめしても御覽あるべし先渠等かれら盜賊たうぞくの事故召捕めしとらんと致せし所手向てむかひ仕つり候故よんどころなく討取候と申に何のわけの候べき萬一此事このこと手違てちがひに成し處が半知はんち思召おぼしめさば公事は勝なりと言を聞て主税之助は漸々やう〳〵打合點うちうなづき然らば切首きりくびの多兵衞其外新參しんざんの者共に此事内分で頼み置んと金銀を遣し郷右衞門すけ十郎を討取ば又々れい仕方しかたありと申付ければ元より惡者共わるものどもの事ゆゑ金銀にくれ喜び勇みて請合日夜にちや三河町より須田町邊を忍びて付覗つけねらひけりさてまた支配の宮崎内記殿は先日せんじつ嘉川家の一件に付家來の立花左仲持參ぢさんの屆書の趣を月番の若年寄衆わかとしよりしう進達しんたつ致されし處此儀容易ならずと有て早速さつそく年寄衆としよりしうの評議となりたり其頃そのころ天下の御政事にあづかる人々には老中間部まなべ越前守殿同井上ゐのうへ河内守殿同久世くぜ大和守殿同大久保おほくぼ長門守殿若年寄わかどしより石川近江守殿同黒田豐前守殿同土岐とき丹後守殿なり右の人々ひと〴〵立會たちあひ嘉川家一件種々いろ〳〵評議是ある所土岐丹後守殿進み出られ今度の一條主税之助儀先一おうよろしからぬやうに聞ゆれども又逐電ちくでんせし用人共も合點がてんゆかざる儀なり金子きんす盜取ぬすみとり候罪をのがれんが爲に主税之助が申通り計ひし事かも知れず是は町奉行まちぶぎやうに申付て彼の兩人の家來けらいを糺明に及ばせ其後そののち評定所にての吟味しかるべしと云れければ一同此儀このぎよろしからんと早速さつそく大岡越前守殿へ達し有ければ越前守殿思案しあんの上定廻ぢやうまはり同心へ申付られ藤五郎藤三郎並びにすけ十郎郷右衞門の行衞を吟味致すべき旨に付同心どうしん委細ゐさいかしこまり候とて夫よりまづ山口惣右衞門浪宅らうたく探索たんさくせんと三河町二丁目の家主方いへぬしかたへ罷越其方店子山口惣右衞門と云へるは嘉川主税之助の浪人らうにんにて裏屋うらや住居ぢうきよと聞御用是ある間只今自身番屋じしんばんやまで召連れ來るべしと申し渡しければ家主いへぬしかしこまり候と惣右衞門へ其段申達しけるに惣右衞門は豫て覺悟の事もあれば年は寄共よれども流石さすが武士ゆゑ何の恐氣おそれげもなく家主同道にて自身番へ出ければ定廻り同心は立出其もと嘉川主税之助方に勤仕きんし致しをりし事ありやと申ければ仰のとほり當夏中たうなつちう迄勤仕罷在り候と云ふに同心點頭うなづき今度嘉川家より公儀こうぎ御屆おとゞけに及ばれしは嫡子ちやくし藤五郎次男藤三郎並に家來ばんすけ十郎建部郷右衞門も去廿二日の逐電ちくでんの趣きなりよつて御老中方より町奉行へ吟味の儀仰せ付られしゆゑ今日其行方をたづね出さん爲御邊を是までまねき申たり以前の好みを以て若彼の者共をかくまおきも致しなば早速さつそく相渡し申すべし此儀取隱とりかくし候はゞ其許の爲になるまじといふを聞惣右衞門はかねかくあらんと心得し事ならば少も動ぜず心の中に未だすけ十郎郷右衞門よりうつたへ出ざる中公儀かみより尋ね出されし時は渠等かれら定めて手都合てつがふあしかりなんと思ひなにかくすべきにはあらね共先爰に知らざるていに申方よろしと思案しあんなし御問尋おたづねには候へ共其のけつして覺え御座なく候尤も以前の好も候へば某しを便たよりて參り候はゞかくまひもいたすべけれども未だ手前てまへへは參り申さず主税之助方よりは昨日さくじつ尋ね參り候間右のむねこたへて歸し候と申ければ同心然らばしか左樣さやう萬一もし後日にあらはれなば決して爲になるまじしかしながら參らざる儀なれば是非ぜひに及ばず先吟味中家主へ屹度きつと預申付る惣右衞門も左樣さやうあひ心得よ時に陸尺七右衞門の宅は何方ぢや惣右衞門御邊ごへんは知らざるやと思ひ掛なき尋ねに日頃ひごろ大丈夫だいぢやうふの惣右衞門なれどもハツと仰天ぎやうてんなし七右衞門のたくは須田町一丁目に候と答へしかば定廻り同心どうしんは事になれしゆゑ樣子やうすを見て取さては此上七右衞門を吟味ぎんみすれば相分あひわかるべしと心に合點がてんして夫より須田町一丁目なる七右衞門方へと急ぎ赴きたり


第九回


 古昔むかしそう文帝ぶんていころの中書學生に盧度世ろとせいと云者あり崔浩さいかうの事に坐し亡命にげ高陽かうやうの鄲羆の家に竄る官吏やくにんの子をとらへて之を掠治たゞす其子をいましめて曰君子は身を殺てじんを成故に汝死す共云べからず其子固く父の命をまもる官吏やくにんを以て其たいやき種々しゆ〴〵責問せめとふと雖もつひに言ずして死すと云夫と是とは變れども陸尺ろくしやく七右衞門は卑賤者いやしきもの似氣にげなく豪侠がうけふにしてこのむが故に山口惣右衞門始め三人の頼みに因て藤五郎兄弟並びに伴建部の夫婦ども上下じやうげ六人を我が家に連歸つれかへり何くれとなく厚く周旋せわをしてかくまおきしに嘉川家にては藤五郎兄弟并に家來けらい伴建部の兩人共逐電ちくでんなし加之そのうへ主税之助居間の金子百兩紛失ふんじつせしむねを其すぢへ屆出ければ町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿より藤五郎の兄弟始め家來の者共を穿鑿せんさくとして同心どうしん出張しゆつちやうなし山口惣右衞門は町方あづけに相成しよし其上三河町より直樣此方へ役人中參らるゝおもむきも惣右衞門より内々ない〳〵らせしけれども七右衞門は覺悟かくごの事故いさゝか驚く氣色もなく早速さつそくに伴建部の兩人へ此事をはななほ三人打寄うちより相談をなすにどうせ隱し立は成まじき間御呼出し次第罷出まかりいで吟味ぎんみうけんと思ひて相待あひまつ所に程なく定廻り同心自身番に來りて七右衞門を呼び出すに付七右衞門はすなはち自身番へ罷出し所役人やくにん申ける其の方儀此度このたび山口惣右衞門のたのみにつて嘉川藤五郎兄弟并に建部がう右衞門伴すけ十郎の人々をかくまおくでう三河町に浪宅致す山口惣右衞門の白状なりとあびせかけよりては如何の筋合すぢあひ之有これあり渠等かれらを匿ひ置ぞ眞直まつすぐに申立よと言ければ七右衞門少もくつする面色なく御意ぎよいの如く私し四人共匿ひ置候に相違さうゐ御座なく候もつとも此儀は私し事先嘉川平助樣御代ごだい格別かくべつ御厚恩ごこうおんに相成候間今度このたび御世話申候おそれながら一通り申上べし當代主税之助樣は誠におどろき入たる御方にて己が實子にまよひ平助樣御實子の御二方樣を非道ひだうになされ殊に藤五郎樣へは食物をとゞめて干殺ほしころさんと成され又藤三郎樣のいまだ御幼少者おちひさいもの朝夕あさゆふ打擲うちたゝき夫は〳〵苦々にが〳〵敷事に御座候かく申上るを御胡亂ごうろん思召おぼしめさば是まで嘉川樣の奧向に勤めし者に御尋ね下さるゝが論より證據しようこ相分あひわかり候夫れゆゑに平助樣御代の御用役ごようやくは山口樣も私し方に居らるゝ二人の衆も藤五郎樣御兄弟の御命があやふく存ずる故かくの次第に成行申せしなり私し儀は賤敷いやしき身分みぶんに候へども聊かたりともいつはりなど申者では御座なく又人樣の難儀なんぎを見ては居られぬが私しの持前もちまへゆゑ是非ぜひなく彼の人々をかくまひしに相違さうゐ御座なく候何れ双方さうはうたゞしの上は明白に相分り申べく殊に只今の御用人中は非道ひだうの者共にて殿へ惡智慧わるぢゑくはへ候由私しは數年の出入屋敷やしきの事故先一旦の難儀なんぎすくふ心に候へどもかく御尋ねの上はつゝまず申上るにより御役人樣方の御慈悲おじひを以て宜敷御取計ひ下されよと憚る所なく申ければ役人も只合點うなづきたりしがかく藤五郎はじめを渡すべしと申により七右衞門は則ち藤五郎藤三郎ならびすけ十郎がう右衞門を引連役人へ渡しければ同心人々を請取直樣立歸りて此段委細ゐさいに大岡殿へ申立けるに則ち越前守殿夫は苦々しき事なりとていそぎ御月番つきばんの老中方へ申上られしにより老中方のおほせには吟味中藤五郎藤三郎の兩人はまづせん平助の親類しんるゐ共へあづおきすけ十郎がう右衞門の兩人をとく取糺とりたゞせし上はかくも相分るべしと有しかば越前守殿承知仕つるとて退出たいしゆつ早速さつそくすけ十郎郷右衞門の兩人を呼出されたり


第十回


 偖も大岡殿は退出たいしゆつ早速さつそくすけ十郎がう右衞門の兩人をよび出し今度の趣意しゆいたづねられければ兩人謹んで平伏へいふくなし私し主人の先代平助儀當主たうしゆ主税之助ちからのすけ養子やうしまゐられ候後兩人の男子だんしまうけ候は則ち藤五郎藤三郎にて是を主税之助の子となし御家督かとくゆづりくれ候樣平助末期まつご遺言ゆゐごん仕つりしを其節は主税之助も屹度きつと請合うけあひ私ども兩人ならびそう右衞門等證人同樣其せきまかり在候所主税之助實子すけ五郎出生の後は先平助遺言ゆゐごんもどり我が子に家督かとくつがせんと種々しゆ〴〵惡謀あくぼうかまへ藤五郎を強面つれなくいたさるゝこと誠に朝夕目もあてられぬ次第故私し共三人の者種々いろ〳〵いさめ候へ共いさゝかも取用とりもちひ之なく非道の所置日々に増長ぞうちやう致すに付藤五郎も若氣わかげにて是を情なき事に思ひ或時は放蕩はうたう擧動ふるまひ等御座候故是又其儘に打捨難うちすてがたいさめつなだめつ致し候中不圖ふと藤五郎不行跡ふぎやうせきのこと御座りしを主税之助は幸ひに亂心と申たて座敷牢ざしきらう押込おしこめ我が實子じつしすけ五郎を嫡子ちやくし相立あひたて其上二男の藤三郎まで亡者なきものにせんと種々しゆ〴〵難題なんだいを申ては毎日まいにち打擲ちやうちやく致しもし是を意見立いけんだて致し候者是あれば早速さつそくいとまを出さるゝゆゑ其後は誰一人諫め申者御座なくあまつさへ新參しんざんの家來を愛し古參こさんの私し共は除者のけものの如くに致し家政かせいを亂し候に付山口惣右衞門はあまりに見兼ていさめ候をことの外いきどほり直樣すぐさま永のいとまを申付其後新參しんざんの家來を相手に藤五郎藤三郎共をがいせんとの密談みつだん致候を腰元の島と申者ひそかに聞知私し共へ告知つげしらせ候間よんどころなく兩人申合せ藤五郎兄弟をすくひ出し候事に御座候之に依て何卒なにとぞ主税之助を召出めしいだされ右等の儀御吟味ごぎんみの上嘉川の家名かめい相立あひたつ御慈悲おじひを以て御説諭せつゆし下され候樣願ひ奉つり度候と申立ければ大岡殿篤と是を聞れ其方の申たて相違も有間敷あるまじきなれど右口上の趣き書面しよめんに致し差出すべしと有しかばすけ十郎がう右衞門の兩人口書こうしよを認め差出す其文に曰く

一私しども兩人儀は先主せんしゆ嘉川平助以來いらいより勤仕きんし罷在まかりあり候處當主たうしゆ主税之助養子やうしに參られ候後平助儀藤五郎藤三郎の二まうけられ候につき主税之助やしなに仕つり成長せいちやうの後兩人の内へ家督かとくゆづくれ候樣平助病死以前いぜん主税之助へ遺言ゆゐごん仕つり其せつ私し共ならび當時たうじながの暇に相成し山口惣右衞門等其席にまかり承知しようち仕つり候儀に御座候處其後主税之助實子じつしすけ五郎出しやう以來いらい藤五郎兄弟きやうだいにく非道ひだう所置しよち御座候より藤五郎儀若氣わかげいたりにて不行跡ふぎやうせき御座候をさいはひに同人をはいし候は是非ぜひなき次第しだいに付弟藤三郎を嫡子ちやくしに致すべきむね私し共いさめ候を主税之助儀不承知にて同人實子じつしすけ五郎を嫡子ちやくしに立られ候然耳しかのみならず藤五郎ならびに藤三郎儀は先平助實子に付始終しじうすけ五郎ため相成あいなり申さずと存じられ候藤五郎は座敷らう押入おしいれ食物しよくもつを相とゞめ藤三郎儀は幼少えうせうに之有候を種々しゆ〴〵難題なんだい申付朝暮てうぼ折檻せつかん仕つりせめ殺さん覺悟と相見え候間私し共心配仕つり候處彌々いよ〳〵藤五郎兄弟をうしなひ候べき内談ないだん腰元こしもとしまと申者聞り是を私し共に知らせ候により嘉川家一大事と相心得あひこゝろえしまを案内に致し當十二月廿二日のおくへ忍び入り藤五郎ならびに藤三郎の兩人を一先ひとまづぬすみ出し候にまぎれ御座なく候然る處當主主税之助より其夜居間ゐまの金子百兩紛失の由申立候は其身の惡事を押隱おしかくし申べきため私し共へ御うたがひ相かゝり候樣にと心得かゝる儀を申かけ仕つり候かとぞんじられ候之に依て何卒明白めいはく之御吟味願ひ奉つりたく此段書取かきとりを以て申上げ奉つり候以上

もと嘉川主税之助家來けらい
享保三年十二月廿七日
建部たてべ 郷右衞門 印
ばん すけ十郎 印

右の如く書取かきとり差出さしいだし候に付大岡殿とくと一覽いたされ追々吟味に及ぶ兩人共吟味ちう揚屋入あがりやいり申付ると申渡され夫よりみぎ書面を老中方へ差出されしに付老中方始め若年寄わかとしより大目付御目付三奉行の評議となり嘉川主税之助は吟味當日迄閉門へいもん仰付おほせつけられたり尤も當年十二月もはや月末つきすゑこと歳暮せいぼかた〴〵來春の御用はじめまで嘉川家の一件は御さし置との事にて何方も歳暮せいぼ又は新年のことぶ賑々敷にぎ〳〵しく御用も多ければ其うちに正月も立て早二月となりしにぞ近日きんじつ嘉川家の一條も吟味に取りかゝらんとの事どもなり


第十一回


 時に嘉川主税之助は我が實子じつし愛欲あいよくまなこくらみて家のみだれは一向構はず彼安間平左衞門始め新參の家來を相手あひて只管ひたすら惡事を相談さうだんして居る中大岡殿はばんすけ十郎建部郷右衞門の兩人より委細の事故聞糺きゝたゞされ吟味の當日たうじつまで主税之助閉門へいもんおほせ付られしにつき主税之助を始め嘉川の家來どもは今度こんどの一件のもつれはお島の手引てびきに相違なしと其後も晝夜ちうやせめさいなみつひに打殺し死骸は何方へか捨置すておきらざるていになし居たるにお島の親里おやざと住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へうつたへ出ければ越前守殿早速さつそく白洲しらす呼出よびいだされ目安訴状を披き見るに

恐以書付願上

住吉すみよし町忠八店吉兵衞申上奉つり候私しむすめしまと申者三年以前より御旗本おんはたもと嘉川主税之助樣御屋敷へ腰元こしもと奉公に差出さしいだおき候處當人へ用事之あり昨年冬中より度々たび〳〵御屋敷へ罷出候へ共なに御取込おんとりこみの儀御座候由にて一向に御逢おんあはくださらず何共合點がてんゆかざる事と存じ居候中世間の風説ふうせつあしき儀を承はり候あひだなほまた御屋敷へ罷出當人へ達て對面致し度旨願ひ候處御用人安間平左衞門殿を以て仰聞おほせきけられ候には島儀しまぎさんぬる十二月廿二日の夜盜賊たうぞくを手引に及び候に付御手討に相成たりとて島持參ぢさん道具だうぐ而已のみ御下下おんさげくだされ候得共死骸しがいは御渡しくだされず因て甚だ打驚き愁傷しうしやう仕つり候處みぎ道具だうぐなかに娘島儀かねて覺悟致し候事と相見え遺書かきおき一通之あり候に付之を披見ひけん仕つり候に主人とは申ながら餘り御なさけなき致され方と存じ候あひだせめては御慈悲おじひを以て死骸だけも御くだされ候樣仕つりたく之に依て此段歎願奉り候以上

住吉町忠八店
享保四年二月
願人  吉兵衞 印
家主  忠八 印

右の如く讀上よみあげければ越前守殿大いにおどろかれさては嘉川家の一件彌々いよ〳〵主税之助の惡事に相違なしと思はれ吉兵衞に向ひ其島そのしまと申は其方の娘なれば死骸をさげもらひ度思は道理もつともなりさぞ其方が心には殘念ざんねんなる事にあらん是も所謂いはゆる過去くわこの約束ごとならんか然共餘り苛酷むごき仕方しかたゆゑ其方が胸中きようちうさつし入る尤も嘉川家の事に就て大分たいぶん入組たる筋あれば近々きん〳〵評定ひやうぢやうも是有るべしシテ又其方が願ひし時娘の死骸なんとして渡さばやと尋ねられしかば吉兵衞なみだむせびながら其儀は嘉川家の御用人ごようにん平左衞門殿の申さるゝには御手討てうちになりたる者ゆゑ此方にて取置とりおきたり然樣さやうぞんずべしとのことで御座りましたが其平左衞門と申人はおそろしい人で大層たいそう見識けんしきにて私しをにらみ付猶何とか申たならば又私しをも手討てうちに致しさうないきほひなりしと云ば大岡殿夫は何時頃いつごろ手討てうちに成し樣子なるやと有に吉兵衞ハイ何時頃いつごろで御座りますか日も申きけられず大概おほかた海川へでも死骸を打すてられしならん何時が命日やら一向分らず定めて娘はまようて居る事にやと思へばなみだかわひまも御座りませんと人目もはぢなきたるに越前守殿も甚だ氣のどくに思はれ扨々さて〳〵非道ひだうの致し方なり宜々よし〳〵程なく吟味を遂て遣はすシテ其遺書かきおき持參ぢさん致居るかと問るゝに御意ぎよいの如く持參ぢさん仕つりしと吉兵衞は懷中ふところより取出して指出さしいだしければ越前守殿是を見らるゝに手跡しゆせきも見事にして其文章も勿々なか〳〵よくわかりしかば則ち目安方へ渡され目安方高々たか〴〵讀上よみあげる其ぶん

のこまゐらせ候事  (裏書うらがき)正月廿五日夜封す

久々ひさ〴〵おんめもじも致し申さず御なつかしさのまゝいさゝかの人目を忍び書殘かきのこし參らせ候さてたう御屋敷の殿樣とのさま親子おやこの御なか兎角とかくしく去年夏中より藤五郎樣御事座敷牢ざしきらう住居すまひにて召上りものもろくろく進ぜられざる程の仕合しあはせ御最惜いとをしき事申ばかりも御座なく又御弟子おとゝこ藤三郎樣も殿樣奧樣の御にくしみ深くいまだ御幼少えうせうの御身を旦暮あけくれ御折檻おせつかん遊ばし日夜おんなみだかわく間もなく誠に〳〵御愍然いぢらしく存じ上參らせ候それに付御先代せんだいよりの御用人しうと御相談さうだん申上去る十二月廿二日の夜御二方樣を御すくひ出し申上候處其事私しへうたがかゝり夫は〳〵誠におそろしき責苦せめくを受候御事詞にも筆にもつくしがたく斯樣かやうの儀を御しらせ申上候も不孝とは存じ候へども始終しじうの所私しの命はとても御座なき事とぞんじ候へば最早此世にての御目おめもじは出來がたく先立不孝は御ゆるし下され度候尤も大殿樣は大惡人ながら御氣象きしやう甚だ甲斐なき御方に御座候處御用人安間平左衞門殿と申人は實に情なき者にて其の心の恐ろしき事おにともじやともたとがたき大惡人に御座候往昔むかしより惡逆あくぎやく非道ひだうの者のはなしもうけたまはり候へども此平左衞門殿程の大惡非道の人をいまだ承まはり申さず候此人近來ちかごろ御屋敷へ御召抱めしかゝへに相成てみな此者より殿との樣へ惡敷事を御勸め申上候まゝ元來もとより惡心あくしんの有せらるゝ殿樣ゆゑ一方ひとかたならず御意にいり日々惡事のみ相談あるにより私し事も遠からず平左衞門殿の手にかゝり候はんと思ひさだめ〓(まゐらせさうらふ)私し亡後なきあとは何の樣子も御存なく御歎おなげきも有らんかと存じ此事がらあら〳〵書殘かきのこし參らせ候なほくはしく申上度候へども少時間のひまを見合認め候まゝ別して筆も廻りかねよろしく御すゐもじ願上參らせ候かしく

しまより

御兩親樣ごりやうしんさま

斯の如くの遺書かきおきを越前守殿きかれ如何にもあはれの事に思はれしかば心中に扨は其島が殺されし死骸は思當おもひあたりし事も有とて考へ居られけり

○越前守殿どの寺社奉行より掛合かけあひ張面取寄とりよせらるゝ事

并二ヶ寺よりうつたへの事

然ば大岡殿はお島が遺書かきおきとくと聞かれて嘉川家の一件あらかじめ推量おしはかられ右島と申す女の殺されし事は正月廿五日すぎの事と思はるゝにより當二月二日寺社じしや奉行黒田豐前守ぶぜんのかみより兩奉行所へ掛合かけあひありしせつの帳面を持參せよとて取寄とりよせられ御覽あるに寺社奉行所へ千住燒場せんじゆやきば光明院くわうみやうゐんより訴への寫し左の通り

一昨夜亥刻よつどき前淺草阿部川町了源寺れうげんじ切手を持參致し所化僧しよけそう一人檀家三人差添さしそへ棺桶くわんをけおくり越候處掛あひ中右棺桶を置捨おきすてに致し候間相改ため候に女の死骸しがいにて變死へんしまぎれ御座なく候依て御檢使けんし願ひたてまつり候以上いじやう

千住せんじゆ
二月二日
光明院

寺社御奉行所樣

右檢使の書取かきとりうつし左の通り

年頃としごろ廿一二の女惣身そうしん打疵うちきずおほくしてころし候樣子に相見申候尤も衣類いるゐ紬縞小袖つむぎじまこそで二枚を着し黒純子くろどんすりう模樣もやう織出おりだしの丸おびしめ面部めんぶまゆひだりの方にふるきずあと相見あひみえ

淺草了源寺れうげんじよりうつたへのうつ

昨夜さくや當寺の切手を持參ぢさん致し所化僧しよけそう一人檀家三人差添さしそへ千住燒場光明院へ火葬くわさうの者送込候處其後所化僧檀家だんか棺桶くわんをけすて置逃去候由光明院くわうみやうゐんより掛合越候へども當寺に於て右樣の覺え御座なく候に付此段御屆おんとゞけ申上おき以上いじやう

淺草あさくさ阿部川町あべかはまち
二月二日
了源寺

寺社御奉行所樣

右の通り書留かきとめ之有るにき越前守殿吉兵衞に向はれ其方むすめ島は當年何歳なんさいに成やと問るゝに吉兵衞ヘイ同人どうにんは當年廿一歳に相成ますと申ければ越前守殿しからば同人左のまゆの方に古疵ふるきずあとはなかりしやと申さるゝをきゝ吉兵衞不しんに思ひ御の如く幼少えうせうの時不圖ふと怪我けがを致せしが其あとが今にのこり在しを娘が人さうかゝると人々が申せしとて平常つねに苦勞致しをりしが此度斯樣かやうの死をとげると云は云あてたることと思はれ一しほなげかはしく存じ候と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千ぢゆ燒場やきば光明院くわうみやうゐんに之ある間彼の處へゆき早々さう〳〵引取りはうむり得させよと有て右兩所よりうつたへ出し書付かきつけおもむきを委敷くはしく申聞られしにより吉兵衞は其始末しまつを聞より大いに驚き扨は娘島事は嘉川主税之助殿の手にかゝ非道ひだう最期さいごとげしに相違なし定めて彼の惡人の安間平左衞門めが仕業しわざより出し事ならん思へば〳〵うらめしきは主税之助殿主從しうじうなりと或はいかり或は歎き大聲上て泣居たるは如何にも氣のどくなる有樣なり夫より下役人は差圖さしづして吉兵衞をいたはり爰を下らせしが大岡殿は早々右の趣きを老中らうぢう方へ申立られ不日ふじつ評定所ひやうぢやうしよに於て吟味有べきとの事なり


第十二回


 善惡ぜんあく邪正じやしやう判然あらはるゝとき至れるかなころは享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞のねがひ出し一件ちく聞糺きゝたゞされ老中方へ申立られかゝり役人評議ひやうぎの上右關係の者共評定所へ呼び出され吟味あるべしと定まり尤も此度は最初さいしよより見込みこみの儀もこれあるに付當日の吟味は越前守へ仰せ付られしにより早速さつそく小普請こぶしん支配しはい宮崎内記殿へ明九日支配下しはいした嘉川主税之助并に同人家來安間平左衞門の兩人吟味すぢこれ有に付差出さしいださるべき旨剪紙きりがみを以て達せられければ宮崎内記殿委細ゐさい承知致したりと有て即刻そくこく此段嘉川主税之助并に親類しんるゐへ達せられし處翌九日親類山内三右衞門是は百俵五人扶持ふちかるき御家人にて先平助の伯父なり同人并に小普請こふしん組頭くみがしら附添つきそひ警固けいごなし駕籠へ乘せて罷出評定所腰掛こしかけ相控あひひかへ御下知げぢを待れけるに今日は月並つきなみの評定日なれば士農工商しのうこうしやう儒者じゆしや醫師いし或は順禮じゆんれい古手買ふるてかひ追々に罷り出控へ居ける中役人がた家々のぢやう紋付たる筥挑灯はこぢやうちんてら行列ぎやうれつたゞしく出仕有に程なく夜も明渡あけわたり役人方そろはれしかばやゝあつて嘉川主税之助一件の者共呼込よびこみになり武家の分は玄關にて大小を受取屏風圍びやうぶかこひの内へひかへさせおき平民の分は白洲しらすたまりへ控へたり時に案内に隨ひ各自おの〳〵吟味の席にまかり出れば白洲には雨障子しやうじを高く掛渡かけわたし御座敷むき的歴きらびやかなる事まことに目を驚かすばかりなり扨主税之助は入側いりがは右の方に着座ちやくざなし引續きて附添の小普請こぶしん組頭末座に親類石原文右衞門山内三右衞門縁側えんがはには家來けらい安間平左衞門罷出其有樣ありさまいと憎々にく〳〵しき面魂ひにて一くせあるべき者と言ねど面にあらはれつゝ吟味を今やと相待たりさて役人方の上席は老中井上河内守殿若年寄わかどしより大久保長門守殿石川近江守殿寺社じしや奉行黒田豐前守殿左の方には大目付おほめつけ有馬出羽守殿おん目付松浦與四郎殿其外評定所留役とめやく御徒士おかち目付めつけ小人こひと目付めつけに至るまで威儀ゐぎたゞして列座れつざあり此時大岡越前守殿掛り故直とせきを進まれければ目安方めやすかたこゑ高々たか〴〵と小普請組宮崎内記支配嘉川主税之助同人家來安間平左衞門と呼上よびあげる時各々一同に平伏へいふくやがて越前守殿目安めやす方に建部郷右衞門ばんすけ十郎兩人の口書をと申されければ目安方めやすかたこれを讀上たり因て大岡殿主税之助に向はれ只今たゞいま承まはる通り伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より申立たり此儀このぎ如何いかゞやとたづねられければ主税之助首を上其の義は渠等かれら兩人盜賊に相違御座無く候處己等おのれらつみのがれん爲然樣さやうを申立候事と存じられ甚だ不屆ふとゞきなる者共に御座候先渠等兩人拙等方せつしやかたに勤中も種々しゆ〴〵不埓ふらちすぢ有之候者共にて兎角とかく某しをかろんじ奇怪きくわい至極しごくに存じ居候と申をきかれ越前守殿コレ主税之助其許そのもとやうに取所もなき事を申されてはいさゝかも返答へんたふと云に非ず先渠等がつみある事はあるやうに申され又渠等より申立たる條々でう〳〵其許そのもと神速すみやかに申開かるべしと申けるにぞ主税之助は元來ぐわんらいおろかなるうへ其身そのみおこなひ甚だ非道ひだうの事のみゆゑ越前守殿のことば怕恐おぢおそれハツとさし支たる體を見て安間平左衞門は生得しやうとく大膽不敵だいたんふてき曲者くせものなれば主人の答を齒痒はがゆきことに思何とか口を利たき體に控居たり


第十三回


 再び越前守殿主税之助にむかはれ其許そのもと先代せんだい平助の養子やうしに相成しのち平助は藤五郎藤三郎の兩人をまうけしに付平助末期に藤五郎兄弟は家の血筋ちすぢ故其許の養子となし家督かとくゆづり呉候樣呉々遺言ありし時急度きつと承知しようち致しをりながら何故に藤五郎兄弟をはいし實子すけ五郎を嫡子ちやくしに致されしやと尋ねられければ主税之助夫等の儀はおほせに候へども藤五郎は其躬そのみ不行跡ふぎやうせきにして勿々なか〳〵異見いけんも聞入ず其上亂酒により一たび公儀かみの御苦勞にもかゝりし者に付押籠おしこめ相廢あひはいし候とこたへければ越前守殿其は一應聞えたれども何故に藤五郎の食物しよくもつとゞめられしや又藤三郎は幼少えうせうなるを非道ひだう折檻せつかん致さるゝこと我子すけ五郎の爲に行末ゆくすゑしかりなんと思ひ渠等かれら兄弟を殺さすとの心底しんていなるや然樣さやうの惡心をおこし我が子の爲と存ずる淺猿あさましき心偖々さて〳〵苦々にが〳〵しき所爲しわざなりかく淺果あさはかなる惡事何として其身ののぞみを遂ることなるべきや因て其許も能々よく〳〵我身をかへりみられよ古語こごにもちゝちゝたればたりちゝちゝたらざればたらずと云に非ずや然る故に此度このたびの如き家の騷動さうどう引出ひきいだすなり加之そのうへ御邊の居間ゐまの金子紛失ふんじつは伴佐十郎建部郷右衞門の兩人が盜取ぬすみとりしと云事確固たしかなる證據しようこありや是とても其身の惡事をかくさんが爲に跡方もなき空言そらごとを申たて渠等かれら兩人に惡名あくめいを付る其許の巧み甚だ以て言語ごんごたえたり此儀辯解ありやサア如何に返答致されよと高聲かうせいに申されたる有樣威權ゐげんするどければ主税之助はハツと言て生膽を取れし如く色蒼然あをざめつゝふるいだし一言の答へもならず其儘平伏へいふくなしけるを大岡殿見られ心に此奴は大惡なれ共取にたらざる愚人ぐにんなり然すれば是迄なしたる惡事は悉皆こと〴〵く安間平左衞門の勸し業と察せられしかば平右衞門にむかはれ主税之助家來けらい安間平左衞門とは其方の事かと申されたる其聲自然しぜんと骨身に答へしにや流石さすが不敵ふてきの平左衞門もハツと平伏なしたるさま甚だ恐れし樣子なり其時越前守殿いとしづかに尋ねらるゝ樣其方は嘉川の屋敷へ何時頃より奉公住致せしやと申さるゝに平左衞門三ヶ年以前奉公住仕つり候と申ければ大岡殿しからば先主せんしゆは何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉ことばは京なまり少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ先主せんしゆの名前は何と申すぞと云はるゝに平左衞門は堂上方だうじやうかたに奉公致し候と申しければ大岡殿堂上方だうじやうかた勤仕きんしせしと云ふか生國は何方にて武家ぶけか町人か百姓か有體ありていに申せと云はるゝに平左衞門ヘイ決していつはりは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り久々ひさ〴〵奉公仕つりをりしと申立ればナニ生國は相州となすれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門いな樣には之無私し親は農人のうにんに候が私し儀幼少えうせうより武道を好み候故當時たうじ武家の奉公致し候と言ければ越前守殿よくこそ有體に申たり尤も其方が言はずとも汝が素性すじやう大概おほかた知れたり此上は何事もつゝまず明白に申せもしいつはらば爲にならぬぞシテ農人のせがれなれども武邊ぶへんこのむと申が其方親類に武家は有かと申さるゝに平左衞門いや私し親類に武家は一人もなく候と申立れば越前守殿又主税之助にむかはれ其もと平左衞門を召かゝへるせつ親類がきは何と有しや親類は町人百姓のみなりしか夫は町人百姓のみにてもくるしからざれども其請人はなにと申すが致したるやとたづねられしに主税之助答へて其節の奉公請ほうこううけは手前出入の多兵衞たへゑと申者に御座候と云ければ越前守殿其多兵衞と申者商賣しやうばいは何を渡世とせいに致居るやと有に主税之助多兵衞は渡り徒士かちげふと仕つり候と言へば所は何處にて苗字めうじは何と申やととはるゝに住所は小柳こやなぎ町一丁目にて切首きりくび多兵衞ととなへ候と申を聞れ大岡殿ナニ苗字めうじは切首と申かと言れて主税之助ハツト赤面せきめんして是は甚だ惡敷あしき事を言たりと思ひ心中大いに當惑たうわくの景色にて否苗字めうじぞんじ申さずと云に大岡殿ナニ苗字は知らぬとやそれは又麁忽そこつ千萬シテ平左衞門は始何役に召抱めしかゝへられしやと申さるれば主税之助かれには用役を申付候と云ふを越前守殿否々いや〳〵然樣さやうにては有まじ大身小身とも其家の用役と申はおもい儀にて其上聞ば山口惣右衞門ばんすけ十郎建部がう右衞門などと申家付の家來けらいもありしおもぶきなるに何用有て多分たぶんの家來を召抱へしや先代平助は御役を勤むるころより右三人の用役にて事足ことたりたるを其もとの代に成て家來をふやせしは何か存じ寄にても有ての事なるや又山口惣右衞門は何故有てながいとま申付られしや當時かれ三河みかは町に浪宅をかまへ居ども町役人などの申には至て手堅てがたき者の由其上舊來きうらいの家來と言老功らうこうの者なれば萬事の取締りには至極しごくよろしからんに此儀は其もとの心得違ひをさまたげる故ならんと有しに主税之助其儀は平助以來の家來共種々しゆ〴〵不調法ぶてうはふも之あり又私し儀を輕蔑ないがしろに仕つる事法外にて誠に輕き者は致方之なく候間よんどころなく永のいとま申付候存寄ぞんじより新規しんきに家來を召抱へ候と云ば越前守殿否々いや〳〵かれ輕蔑ないがしろになすには有間じ是は正しき舊來きうらい家付の家來に付其もと我意がい異見いけんに及び兎角とかく邪魔じやまに成故ならん然樣さやう空言そらごとやめて有體に申されよ假令たとへ如何樣いかやうに包みかくすとも大がい此方へ知れてあれば今更ちんずるはせんなきことなり又平左衞門其方の奉公うけに立てもらひたる切首きりくびの多兵衞と申は如何いか樣成由緒ゆかりあつて請人に成しやと申さるゝに平左衞門は面倒めんだうな事を尋ねらるゝと思ひながらみぎ多兵衞が弟の願山ぐわんざんと申京都智恩院に所化しよけを勤めり候ころ私し儀は堂上方に勤仕きんしの事故右願山と度々たび〳〵出會仕つり至つて別懇に致せし其好身にて私し儀浪人後らうにんご江戸表へ出多兵衞方の世話せわに相成候と申ければ越前守殿其願山と申者は今以て智恩院ちおんゐんに居るや但し雲水うんすゐの身分なるやととはるゝに平左衞門かれも當時は雲水の身分と相成兄多兵衞の方に來りて同居どうきよ仕つり居り候と言しかば越前守殿はたと手をうたれ夫にて概略およそわかつたり先月せんげつ初旬はじめ了源寺の所化しよげいつはりたる坊主はまさしく其の願山で有うと何樣なにさま其方の別懇べつこんにする曲者ならん此儀はどうぢやと思ひがけなき事をたづねられければ平左衞門は夫はと吃驚仰天なせし樣子なりしが元來もとより大膽不敵だいたんふてきの曲者なれば莞爾くわんじと笑是は〳〵思ひがけなき御尋ね私し儀其儀そのぎは一向に存じ申さず候と然も知らぬていに申けるにぞ越前守殿此體を見られ扨々此奴こやつめは餘程ねんの入たる曲者なりとおもはれ否々汝如何樣にちんずるとも此方には屹度きつとしたる證據しようこあり其上だ〳〵其方に聞事あり腰元こしもと島の事は何ぢや是も其方が一かう知らぬと申さば主税之助にいはするぞすれば其方は卑怯ひけふ未練みれんと言れんにより惡黨あくたうは惡黨だけにいさぎよく白状はくじやうせよ假令此上如何程隱すとも主税之助始めの惡事をてんなんゆるすべきや然るに事を左右さいうに寄せ彼是陳ずるは天命てんめいを知らぬと云者なり主人主税之助は惡人ながら又愚直ぐちよくの處もあり其方は此期このごに及でもいまだ運のつきたるとは思ずや此越前守が見る處なんぢ勿々なか〳〵立派りつぱなる惡黨成れど一度帶刀たいたうもせし身なればサア武士ぶしらしく白状なし名をきよくせよと申されければ平左衞門は心中しんちうに偖々音に聞えし名奉行めいぶぎやうだけありて何事なにごと天眼通てんがんつうを得られし如き糺問きうもんアラ恐しき器量哉きりやうかなと暫時默止て居たりけり


第十四回


 斯て天眼通てんがんつうを得たる大岡殿が義理ぎり明白めいはくの吟味にさしも強惡きやうあくの平左衞門一言の答へもならず心中歎息たんそくして居たりしかば越前守殿もあるべしと思はれ乃至よしや其方此上富婁那ふるなべんを振つて何程申掠るとも島が一條に付てはたしかなる證據しようこあり本月朔日ついたち千住燒場へ島の死骸しがいを置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し書面しよめんもあり右等を只今こゝに於て讀聞よみきかすべし主税之助諸共能々よく〳〵きかれよと申さるゝ言葉ことばの下より目安方めやすかた役人書面を讀上げる

光明院檢使願書面本件ほんけん第十一回目に記載かきのせ有に付茲にのぞく依て其回と見合せ讀給へ

みぎ檢使けんし書取かきとりうつ

ぜん同斷どうだん

淺草了源寺よりのうつた書面しよめん

ぜん同斷どうだん

越前守殿コリヤ平左衞門何と斯樣かやうの屆書是有る上は其方儀そのはうぎ主税之助と申合しまがいして其死骸をかくさん爲淺草了源寺よりのおくりなりといつはりを構へ其手段てだてをせし所光明院にて差拒さしこばみし故彼處へ棺桶くわんをけを置捨に致たるに相違有まじ其上そのうへしまの親住吉町吉兵衞よりの歎願書たんぐわんしよも是ありそれも序に讀聞せよと云るゝに又々目安方めやすかたの者右の書付かきつけ讀上よみあげ

住吉町吉兵衞願書は本件ほんけん第十一回目に記載かきのせ之あるに付こゝのぞく因て其回と見合せ讀給へ

よつて平左衞門は増々ます〳〵心中に驚くと雖もなほも其の色を見せず默止もくして居たりしかば大岡殿少しこゑを張上られコリヤ平左衞門これまで主税之助が爲せし惡事あくじは皆汝がすゝめし處ならんしかし汝程の惡才あくさい有者が何故又島が死骸しがいの始末はかく淺果あさはかなる工夫をなして置捨おきすてに致したるやと申されければ平左衞門此ことをきゝしかる上はせめて我が身の罪だけものがれんと忽ち奸智かんちめぐらしおそれながらと首を上御意の如く誠に天命てんめい遁難のがれがたきものにして島が死骸取隱し方淺果あさはかなりとのおほせ此平左衞門に取何程かはづかしきことに御座候これに付ては種々申上度儀御座候へども其事つまびらかに申上るときは主人の惡事に御座候尤も斯成行し上は是非ぜひに及ばず罪はのこらず私しへ仰付おほせつけられ下され候へば有難く存じ奉つり候と言葉ことばたくみに申立ければ此時大岡殿彼奴きやつ此場のへんを見て又惡計あくけいを設けしよなと思はれけれども態と心付こゝろづかれざるていにて成程罪はのこらず其身に引受度と申事奇特きどくの申條なれども主税之助が科は最早のがるべき道なし依て主人しゆじんの儀なりとも今更いまさらつゝみ隱すは却て未練みれんの至りなり有體ありていに白状して罪にふくすべしと有に平左衞門心中しんちうにしめたりと思ひおほせの如く主人の惡事あくじを申上なば臣たるの道をうしなふのみならず我が身のつみのがれん爲の樣に思召おぼしめしの程恐入り候間差控さしひかへ候へども右樣御尋ねに付やむを得ず有體ありていに申上候はん私し儀三年以前たう主人しゆじんかゝへられ候節じつは中小姓を相勤候處夫より段々だん〳〵取立とりたてられ用人に相成候後先代せんだいよりの古老こらうたる山口惣右衞門にながいとまを申付られ候然れどもいまだ先代よりの用人ようにんすけ十郎郷右衞門と申者御座候を兩人りやうにん共に差置さしおき私しめに而已のみ用事申付られ餘り首尾しゆびの宜き故合點がてんゆかずと存じ居候處或夜あるよ主人儀私しをひそかまねかれ人々を拂つて申されけるは藤五郎藤三郎の兩人りやうにん如何いか樣にも致し無者なきものにして我が子すけ五郎に家督かとくゆづり度思ふにより力をそへくれる樣にとのたのみに付我が子のあいまよふは凡夫のつねとは申ながらさては斯る巧みの有故に私し儀を斯迄かくまでに取立し事やと存じ仰天ぎやうてんは仕つり候へども萬一荒立あらだてに成らんかと心をしづめ其後機を見合せ意見いけん致し候へども勿々なか〳〵以て用いひまじき樣子やうすに付兎に角事を永く延す中には又致し方も有べしと内外ないぐわい承知しようちの體にもてなし先主人の氣にかなふ樣に致しおき其中にはすけ十郎郷右衞門の兩人と内談ないだんの上猶又主人をいさめ申さんと存じ種々いろ〳〵心をくだき居しに渠等かれら兩人の者は却て私しを疑ひ夫よりして傍輩はうばい中も自然と宜からず成行なりゆき候へども兎角とかく渠等兩人へわたくしの本心を顯しまことを見せて篤と相談さうだんせんと思ふ中すけ十郎郷右衞門兩人は藤五郎藤三郎をぬすみ出し候ゆゑさては渠等兩人も主人の惡意あくいさつしけれるにや兄弟をぬすみ出しうへうつたへ出る存念ぞんねんと心付南無三寶是ははやりたることをなし公邊かみへ御苦勞をかけなば兄弟のいのちたすかる共嘉川の家は滅亡めつばうならんにより此上は最早是非もなし心にそまぬ事なれ共すけ十郎郷右衞門ら兩人をつみおと主家しゆかの滅亡をすくはんとよんどころなく愚案ぐあんを以て主人の居間ゐまの金百兩紛失ふんじつせしこと申立て候是は跡方あとかたなきいつはりに候へ共右樣申立るに於ては御上にてもすけ十郎郷右衞門の兩人にうたがひかゝらんにより藤五郎兄弟きやうだいを盜み出せしは己等が罪をのがれん爲忠臣ちうしんごかしに爲せし儀と申立一旦の主恩しゆおんむくい候心得に御座候ひし又島の事も然の通り主人の申付にまかせ殺して仕舞しまうやすけれどもかれは女に似氣にげなき忠節者ちうせつものゆゑせめて命ばかりも救ひ得させんと種々に主人をいさめ候て一先かれ當分たうぶん押込おしこめおきなほたすけ候半んと存ぜし中相役の立花左仲と申者竊に主人しゆじんと申合せ絞殺しめころし其儀に付右等の儀は全くあとにてうけたまはりたることゆゑ萬事の儀ども相違さうゐ仕つりて候と申たてけるを先刻せんこくより主税之助は聞居たりしがこらへ兼だまれ平左衞門今となりて然樣なる儀を口賢くちかしこくも申が此度このたびの事は皆其方のすゝめしに非ずや然すれば此惡事このあくじの元は其方なり夫を都合よきやうに申さばわれまた言事いふこと澤山たくさん有と申に平左衞門呵々から〳〵わらひ是は未練みれんの事を仰せらるゝ物かなといふをナニ未練みれんとは其方の事なりとあらそふ時大岡殿コリヤ兩人とも默止だまれと聲を掛られ平左衞門は此方吟味中ぎんみちうなり主税之助ひかへませいシテ平左衞門われおもひの外なる忠臣者ちうしんものぢや然すれば其方につみは有ども又其方をにくむべきに非ずなほ其後そのあとどうぢやと云るゝに平左衞門其御沙汰は恐入候何事も皆私し儀全く行屆ゆきとゞかざる故成ば何處迄どこまでも私し儀つみおちいり候と然も忠臣ちうしんらしく申ければ大岡殿これ平左衞門其方が惡事は最早もはや夫迄それまでなるか未々まだ〳〵申儀が澤山たくさん有んサアどうぢや今少申立ぬか其方が申し立てねば此方よりたづねることありと申されければ平左衞門は底氣味そこきみわるく答へも發規はきざりけり


第十五回


 斯て大岡殿は安間平左衞門を種々にたゞされける所さしも世にとゞろ明奉行めいぶぎやうの吟味故其言葉そのことば肺肝はいかん見透みすかす如くにて流石さすがの平左衞門も申掠る事能はずと雖も奸智かんちたけたる曲者くせものゆゑたちまち答への趣意を變じて其身のつみのがれんと胸中にたく佞辯ねいべんふるひけるを大岡殿はなほも心長く聞居られければ平左衞門は十分に奸智かんちたくましうし主税之助の惡事あくじを其の身に引請ひきうけ主人を救ふていに見せ掛兎角私しの不調法故此上このうへは私しを如何樣にも仰付おほせつけられ主人儀は何卒御仁惠ごじんけいの御沙汰願ひ奉つると申立けるに大岡殿呵々から〳〵わらはれコレ平左衞門其方の申處至つて忠臣ちうしんの樣にきこゆるなりしかしながら爰に少しせぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞のむすめしまころされぬ以前かね覺悟かくごせしと見えて渠が遺書あり其文言もんごんるに彼のしまは其方を大分だいぶこはがりし樣子なり此儀は何ぢやと申さるゝに平左衞門いやナニ別てこはがりしと申事はこれなき筈に候と云へば大岡殿それ讀聞よみきかせよと有る時目安方彼の遺書かきおき讀上よみあげ

遺書かきおき文言もんごん本件第十一回目に記載あり其回とあはせ讀給べし

越前守殿どうぢや平左衞門あれにても島をすくふ心なりしやと申されけるを平左衞門はすこしおくせず仰には候へどもわたくし儀主人の前をはゞかり表向は島を強面つれなくいたしたるゆゑ島は女心に私しを實に恐ろしき者と存ぜしとおもはれ候と申を大岡殿いや汝は種々に言掠いひかすむると雖もことば前後ぜんご皆符合せず其島は女にこそあれ汝も申通り天晴あつぱれ忠節者ちうせつものこと其利發そのりはつなる事は男も及ぶまじ然すれば其方が主人の手前を憚りて島を強面つれなくせし事をかれいかでさとらざるものあるべきやしかるを渠がおそるゝはこれまつたく其方が惡心あくしんある事疑ひなし何樣に奸智かんちの辯をふるふ共此越前守が眼力がんりきにて見拔みぬきたるに相違なし無益の舌のうごかさずともサア眞直まつすぐに白状せよと申さるゝに平左衞門コハなさけなき事を伺ひ候もの哉私し儀聊かも言葉ことばかざらず主人の惡事あくじを身に引請ひきうけん事を願ひし處却て右樣の御疑ひを蒙ることあまり殘念なりと云はせもはてず大岡殿大音だいおんに默止れ平左衞門汝未だも奸智かんちべんを以て公儀をあざむかんとするか其儀越前守はとくより承知なり加之しかのみならず問にまかせて主人しゆじんの惡事を申立る段まこと忠臣ちうしん奚ぞ斯る擧動ふるまひあるべきや茲な重々ぢう〳〵不屆者ふとゞきものそれ引下ひきおろせと下知の下よりたちまち平左衞門をえんより下へ引下し高手小手にいましめたり然ば大膽不敵だいたんふてきの平左衞門も大岡殿の烈敷はげしき言葉ことばに一句も出ず繩目なはめに及ぶぞ心地よしさてまた大岡殿は老中方らうぢうかたに向はれ主税之助并に家來けらい平左衞門儀只今たゞいま吟味仕つり候通り是迄の惡事相違御座なくによりまづ主税之助儀は他家たけへ御預け仰せ付られ追ては吟味ぎんみ然るべきやと申し述られければ老中方にも至極しごく道理もつともとの事にて大岡殿吟味の致されかた感心かんしんあり夫より役人やくにんへ評議中主税之助は御小人おこびと目付めつけ警固けいごに及びせきを下りて屏風びやうぶのうちへ入置いれおき平左衞門は入牢じゆらう申渡されしが主税之助儀は交代かうたい寄合よりあひ生駒大内藏へ御預けとさだまりたり此生駒家の先祖せんぞ讃州さんしう丸龜まるがめ城主じやうしゆにして高十八萬石をりやう豐臣家とよとみけの御代には老中の一人にして生駒雅樂頭と號し天晴あつぱれ武功ぶこう家柄いへがらなり其後徳川家にしたがひ四代目にして家中に騷動さうどうおこり既に家名斷絶だんぜつすべきの處親類藤堂和泉守殿歎願により羽州由利郡矢島において高八千石を賜り交代かうたい寄合に成され屋敷は下谷竹町にて拜領はいりやう致れたり斯樣かやうの家柄故此度主税之助を御預けなさるゝむね老中井上河内守殿より奉書ほうしよを以て達せられしかば生駒家に於て早速さつそく用意よういに及びお預かり者請取うけとりとして差出す家來左の如し

騎馬きば       一人            士分       五人

足輕あしがる       十人            乘物のりもの       一挺

これに因て生駒家々來より奉書ほうしよの請書一つう評定所へ差出さしいだ

御奉書ごほうしよ拜見はいけん仕つり候御預りの者有之候由別紙べつし御書付のとほり家來共けらいども評定所迄爲請取差出し申候恐惶謹言きようくわうきんげん

二月十九日
生駒大内藏

太田おほた備中守殿

井上ゐのうへ河内守殿

松平まつだひら右京太夫殿

本多ほんだ伊豫守殿

斯て生駒家の家來は評定所の門前もんぜんに控居て御下知をまちける時に御徒目付おかちめつけ青山三右衞門玄關に立出て生駒家より差出さしいだしの人數にんずそろひたるやとのたづねにハツとこたへて同家どうけ用人ようにん金子忠右衞門同留守居役加川新右衞門の兩人罷り出御達おんたつし通り人數相揃ひひかへ罷り在候とこたへければ青山三右衞門玄關番に差圖さしづなし然らばまづ各々方おの〳〵がたこれへ控有べしと案内あんないつれ評定所の座敷に暫時ざんじひかへ居たりけり


第十六回


 さても生駒家の用人ようにん留守居等は玄關脇げんくわんわきの座敷にひかへ居けるに暫時しばらく有て御徒目付青山三右衞門再び出立迎の乘物のりものしまりの儀御心得有べきやと云へば金子かねこ忠右衞門加川新右衞門の兩人御念ごねんの入たる御尋ねしまりの儀は錠前ぢやうまへに及ばざる旨御書付にまかせ錠は付申さず候へども警固けいごは人數別段覺悟かくご仕つり候とこた彼是かれこれする中夜に入り御徒目付御小人目付案内にて嘉川主税之助を玄關げんくわんに送り出せしかば生駒家の用人ようにん金子忠右衞門玄關につき今日嚴命げんめいに因て主人生駒大内藏おほくらへ貴君樣を御預け相成しに付御迎へとして用人金子忠右衞門留守居るすゐ加川新右衞門參向さんかう仕つり候と云へば主税之助は會釋ゑしやくして是は〳〵御大儀ごたいぎそれがしこそ嘉川主税之助なり以後いご何かと御世話に相成んよろしく御頼み申すと言ひながら則ち乘物のりもの乘移のりうつるに生駒家の人數にんず前後をかためて引取りけり夫より役人方一同退散たいさんに付大岡殿も評定所より歸宅きたくされ即刻定廻り同心どうしんよばれて小柳町一丁目に住居ぢうきよ致す切首多兵衞并に同居のおとゝ願山と申すそう召捕めしとるべしと有りければかしこまり候とて同心は早速さつそく其夜小柳町近邊に到り能々聞糺きゝたゞすに幸ひ此夜多兵衞願山共居宅きよたくに在て惡黨あくたう共をあつめ大博奕を始め居たり多兵衞は廣袖ひろそでの小袖を着し三ツ布團ぶとんの上に大安坐おほあぐらをかきて貸元かしもとをなし願山坊主ばうずは向鉢卷にて壺を振宵より大勢おほぜい車座くるまざ居並ゐならび互に勝負しようぶあらそひしが一座の中に目玉めだまの八と云ふ惡者は今宵こよひ大いに仕合せわるく一文なしにまけ詮方せんかたつきしかば貸元の多兵衞に向ひコレ親分資本たねかして呉れ餘り敗軍はいぐんせしと云へば多兵衞はなにが二貫や三貫の端錢はしたぜにまけたとて大敗軍もねへもんだ其樣な少量けちな事を聞みゝへ此馬鹿八めとのゝしるにぞ目玉の八は負腹まけばらにて心地宜らぬ折柄をりから故大いにいかりナニ馬鹿八だと此拔作め口の横にさけまゝに餘り大造を吐露ぬかすとんだ才六めだ錢を貸すかさぬはかくも汝の口から馬鹿八とは何のことだ今一言ひとことぬかしたら腮骨あごぼね蹴放けはなすぞ誰だと思ふ途方とはうもねへと云へば切首きりくびは眼をむき出し大音におのれいはせて置ば方圖はうづがないびんしやんとすると張倒はりたふすぞと敦圉いきまき切つてのゝしるをナンダ張倒すイヤ置て呉れ汝等に張倒されておたまこぼしか有るものかこゝ強曝がうさらしめと互に口から出放題ではうだいに惡口を吐散せしが多兵衞はつひこらかね直立つゝたちさま茲な馬鹿八めと既に飛掛とびかゝらんとるを目玉も同く立上り小癪こしやくおのれがいや汝がと打てかゝれば此方もまけ仲間喧嘩なかまげんくわのどツたばた燭臺しよくだいを踏倒すやら煙草盆を蹴飛すやら打つうたれつつかあひはては四邊もしんやみ上を下へとかへしけり斯るさわぎを見濟して捕手の役人聲々に上意々々と踏込ふみこむにぞ惡者わるもの共は是を聞コリヤたまらぬと一目驂もくさんやみを幸ひはう々に後をも見ずして逃去にげさりけり役人は外の者にかまひなくつひに多兵衞願山の兩人を捕押とりおさへ高手小手にいましめつゝ夫より家内をあらためて町内へあづけ兩人を引立歸り其夜は假牢かりらうに入置其段そのだん越前守殿へ申立しかば越前守殿には右翌日に至り先達せんだつ揚屋あがりや入置いれおかれたる郷右衞門すけ十郎の兩人を出され御吟味中嘉川平助親類しんるゐ山内三右衞門へ御あづけを申付られたり此三右衞門は小身せうしんの上至て貧窮ひんきうの處へおのれ夫婦ふうふとも都合四人の口故日々のまかなひに甚だ難儀なんぎ致しけるを須田町の七右衞門は聞及びれい侠氣をとこぎなれば早速さつそく三右衞門のかたへ來りてなにくれと見繼みつぎ深切しんせつ世話せわをなしけるゆゑ三右衞門ははなはだ七右衞門の氣性きしやうかんよろこびける


第十七回


 てんあきらかにして善惡ぜんあくの賞罰有りと然れば切首の多兵衞そう願山ぐわんざん諸共もろとも多年の積惡せきあくのがれ難く享保きやうほ四年二月十二日大岡殿の白洲しらすに引出さるゝに多兵衞は今年三十六歳おとゝ願山は三十二歳なり大岡殿まづ切首の多兵衞をよばれコリヤ多兵衞其方の異名いみやうを切首と申す由は何故に然樣さやうの名を付て置にやとたづねらるゝに多兵衞はかうべあげおそれながら私し儀御覽ごらんの如く此首筋このくびすぢから脊へ掛けて切込きりこまれし疵が御座るゆゑ人よん渾名あだなを切首と申候と云ければ大岡殿見られて成程なんぢ首筋くびすぢには大きなるきずが見える其疵は又どうして付られしぞかくさずに申せと云れければ多兵衞はナニかくしませう此疵は一昨年の夏中なつぢう供先ともさきにて喧嘩けんくわ御座候節陸尺の七右衞門と申者にきら此通このとほりの疵に相成しと申ければナニ供先の喧嘩けんくわで切れ夫故其疵に成たるとなそれ何時いつの事なるやと有に多兵衞それは享保きやうほ二年の夏五月端午たんご式日しきじつ私し出入屋敷やしき嘉川主税之助樣親類中へれい廻勤くわいきん致され候故私し徒士かちを仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會であひしまゝ互ひに徒士かちの者双方の名前を呼上行違ゆきちがひ候節嘉川家の供頭が御駕籠かご引外ひきはづ狼狽うろたへ廻るを見て太田樣の陸尺共が聲々こゑ〴〵に此土百姓の大馬鹿者おほばかものめ戸の明建あけたても知らぬか知らすばをしへて遣ふ稽古けいこに來いと散々さん〴〵に惡口致候ゆゑ嘉川樣の事に付此多兵衞めもこらかね進寄すゝみよりつひ一言ひとこと二言ふたこと々爭いひあらそひし中双方錆刀さびがたなを引き拔切合處に太田樣の方には中小姓こしやう徒士かちなどにも手利てきゝの者之あり其上陸尺ろくしやくの七右衞門はちからもありてよくはたらき候然るに嘉川樣の方には中小姓こしやう孕石はらみいし源兵衞安井やすゐ伊兵衞を始め私し并びに陸尺ろくしやく中間迄ちうげんまで必死ひつしになりて戰ひし故一時は太田樣の方引色ひきいろに相成候然るに太田樣の陸尺共ろくしやくども豫々かね〴〵此多兵衞に遺恨ゐこんあり其故はかの七右衞門と申者元嘉川家の陸尺がしらつとめ居たりしに今の主税之助樣のだいになりしころ陸尺の出入を取替られし時私し口入仕つりほかより入込ませの七右衞門は出入をやめられ申候此うらみ有るに因つて此日の喧嘩けんくわを幸ひに陸尺ろくしやくの七右衞門惡口雜言あくこうざふごんを申し其上太田樣の者共此多兵衞の働きにて引色になりたるを七右衞門大いにいきどほりらいの如くおめいてたちまち嘉川樣の者共を追返おひかへなかにも私しを目掛けて追來おひきたうしろより大袈裟げさに切り付申候是によりて嘉川家の者ども散々さん〴〵に逃退きやうやく喧嘩も鎭り屋敷へ歸りし後此事内濟ないさいにて相濟あひすみたり然れ共私し儀首筋よりけて大疵おほきずあるに付其時より異名を切首きりくびと人々申候と少しく自慢じまんがてらに長々なが〳〵と申ければ大岡殿成程其遺恨ゐこんもある故陸尺の七右衞門は今度このたびの一件に世話を致してると見ゆるづ夫はかくも多兵衞汝が世話で嘉川家へ奉公住ほうこうずみ致せし安間あんま平左衞門と申者は其方なんえんよつて請人になりしやと尋ねらるゝに多兵衞其の安間あんま平左衞門儀は私しのおとゝ願山の懇意にせしえんを以てかれ請人うけにんは仕り候と云へば大岡殿然らば其方おとゝの願山儀は以前京都智恩院ちおんゐん弟子でしなりしかと申さるゝに多兵衞いへ然樣さやうでも御座りませぬ然らばどうぢやヘイ弟願山儀は江戸おもててらにて出家しゆつけ致せしと申すを大岡殿ナニ江戸表の寺ぢや江戸表とばかりでは一かうわからず何と申寺なるや眞直まつすぐに申せと云れけり


第十八回


 さても大岡殿は多兵衞の異名いみやう切首きりくびいふわけたづねられし處多兵衞は少しくほこがほに喧嘩の次第まで委細くはしく申立しにより其物語そのものがたりのうち廉々かど〳〵此節の一件に思ひ當りしことなど有けるゆゑそれとなしに長々と多兵衞の申を聞居られしが其後そののちかれが弟願山の事におよび江戸表のてらは何方の徒弟とていなるやとたゞさるゝに至りて多兵衞はハツと心付おほいに狼狽うろたへ樣子やうすを越前守殿ははやくも見てられ何ぢや多兵衞云へぬか云へまい其寺は淺草阿部川町あべかはちやう了源寺れうげんじであらうコリヤ多兵衞先達て了源寺の所化しよけと爲り燒場やきば切手きつて持參ぢさんなし島の死骸しがいを千住の燒場光明院へ持込もちこみ棺桶くわんをけを其處へ置捨おきすてにして逃失にげうせし由又其時檀家といつはまゐりたる者も三人是有る趣き兩寺より訴へ出しなり其せつのことは其方も其一人ならん此事有體に白状はくじやうせよ萬一かくし立なさばきびしく申付方有ぞと大音だいおんいはれしかば多兵衞は大岡殿の威權ゐけんのまれわな〳〵ながら心中におもひけるは此事斯までさとられし上はとても言紛いひまぎらすこと叶はずいつそ有のまゝに申て仕舞はんと覺悟かくごきはめ其の儀全くは嘉川の殿樣に頼まれ私儀は施主せしゆに立ちて參りしに相違御座なく候と申を大岡殿聞れ成程なるほど汝は至極しごくあきらめのよきやつ能こそ眞直まつすぐに白状致せしぞシテ殘りの二人は何者なにものなるやヘイ是も矢張やつぱり嘉川樣の御家來ごけらい安井伊兵衞孕石源兵衞の兩人に候と言に大岡殿宜々よし〳〵うでらうダガ又其のれいとして主税之助より金子を何程なにほど取たイヤサ何程取て頼まれたと申事よと有ければ多兵衞は否々いや〳〵金子きんすは少しももらひませぬと云へば大岡殿馬鹿ばかな事を云へ金でももらはずに其樣そんな事を白痴たはけ有者あるものか取たなら取たと申せ何も其方がたのまれる程で金子を取たとてべつはぢにも成ぬ又其方の身分で其金を取ぬと申たとてべつほめる處もない今申通金子を取てたのまれしとて罪の處は同じ事だぞと申さるゝに多兵衞は彌々いよ〳〵閉口へいこうなし實に恐れ入ました金子をべつに取てたのまれたと申ではなく少々せう〳〵ばかりの酒代さかだいもらひしと云に夫は何程いくらだととはるればハイ一兩貰ひ候と申を大岡殿大いにわらはれコウ多兵衞それあまり安いものぢやたつた一兩ぐらゐたのまれたかしかし其の趣ぎに相違なきやとあるに多兵衞其儀はすこしも相違御座なく候と答れば大岡殿オヽよく是迄これまで白状致した此上の處決してちんずるな先是迄の處では其方の身分みぶんかまひないぞこゝ能々よく〳〵得心して以後たづぬせつは有樣に申立よ先引立ひきたていとの下知に隨ひ同心引立ひきたてて入替り願山ぐわんざんを白洲へ引据るに大岡殿かれを見られコリヤ了源寺れうげんじ所化しよけつとめたる願山とは汝かことかハテサア驚くな其方が白状せぬ前に汝のあに切首きりくびの多兵衞がのこらず白状して仕舞しまつたは何も今更いまさらかくすには及ばぬイヤおのれは勿々なか〳〵並々なみ〳〵やつではないコレ願山能承まはれ汝が兄の多兵衞はさつぱりとして小氣味こきみよいやつぢや其方もあにの通りすツぱりと白状せよ主税之助にたのまれ島の死骸しがい燒場やきばへ送りし時金子は何程取しぞかくさず申せと云はるゝに願山は大いに驚き扨々さて〳〵兄は腑甲斐ふがひなきやつとは思へども今更いまさらちんずる事も出來ざれば其儀は嘉川樣にたのまれしせつ金二兩もらひしと申ければ大岡殿笑はせられおのれも安い人間ぢやしかし兄より利發りはつ者兄の多兵衞は主税之助にたのまれて島の施主せしゆに立ながらたツた一兩もらつたと申其方は二兩もらつたと云ふが兄の施主役せしゆやくより汝は坊主ばうずだけ佛に付てはほねをれる了源寺の似せ切手をこしらへ又其外の氣配きくばりも坊主でなければ萬事行屆ゆきとゞかず其の上掛合かけあひも致す旁々かた〴〵以て汝は大役で有たナ先々まづ〳〵其儀は夫でし〳〵シテ願山ぐわんざん汝が世話を致せし安間平左衞門と云ふ者はう云ふえんで心安く成しや此儀このぎ有體ありていに申せととはるゝに願山は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都智恩院ちおんゐんに居りしころ度々れと出會であひゆゑ夫より懇意こんいになり其後私し儀御當地へ參るに付かれも又御當地へくだり私しをたのみまするにより世話せわを致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都にをりせつ何れに奉公ほうこう致したヘイ日野大納言樣ひのだいなごんさま勤居つとめをりましたナニ日野家に居つたと其方は智恩院ちおんゐんに居た故夫で渠が世話を致したか御意ぎよいに御座ります大岡殿イヤハヤそれは甚だ申口がくらいぞ其方智恩院に居つて度々たび〳〵出會であひたる者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へくだらばみな世話せわを致すかどうぢや京都に居る時平左衞門のみ出會であひて外の者には出會であはざりしか此儀は何ぢやと有に願山ぐわんざんおそれながら然樣さやうの儀には御座なく平左衞門事はにて別段べつだん懇意こんいに致せしゆゑかれの世話は仕つりしと云へば大岡殿これさ願山汝如何程いかほど申ても申口がくらし平左衞門其方そのはうにか由縁ゆかりにてもあるか又は餘儀なき事にてもありしか一かう左樣さやうなる儀もなく只々たゞ〳〵汝は京都にてかれと度々出會であひ別段べつだん懇意こんいに致したと申がほど別懇べつこんならば渠が生國なども定めて聞たで有らう渠が生國は何國ぢやヘイ生國しやうこくぞんじませぬハテサテさらに取處もないしかしながら渠には何ぞ恩義にても受しことあるやも是なき時は一向に申口は立まい何ぢや答へが出來できずば夫はおつての事平左衞門が日野家につとめしは何時頃いつごろの事なるやとあるに願山ヘイ四年以前に御座候と申ければ大岡殿オヽ四年以前は享保きやうほ元年何月までつとめて居つたぞ願山答へて四年以前の十二月の中旬頃迄なかばごろまでつとめて居りましたと存じます大岡殿然らば其の時の平左衞門が名は何と申たとたづねらるれば願山ぐわんざんしばらく考へ種々いろ〳〵の名もと云掛いひかけしがいへ矢張やはり安間平左衞門と申まして御座りますと云へば大岡殿コレ〳〵願山然うでは有るまいほかに名が有つたはずぢやとてものことにすツぱりと云て仕舞しまへかくしてもみなれてるサア眞直まつすぐに申せと云るゝに願山はなにかぐず〳〵云ひかねていを見られ大岡殿イヤハヤ意氣地いくぢのなき坊主ばうずとくより知れてある事をおのれかくしだてをする大馬鹿おほばかめコリヤ其大帳そのだいちやうを是へと申さるゝ時目安方ハツと差出さしいだすをとりて見らるれば享保元年の帳に

日野家ひのけ家來けらい逐電ちくでんの者
安田平馬
三十九歳
佐々木靱負
三十六歳

みぎ兩人の者る廿一日の夜逐電ちくでん仕つり候に付御斷り申上候

日野ひの大納言うち
享保元年十二月廿八日
雜掌ざつしやう

斯の如く帳面に書留かきとめ之有り右日野家家來けらい逐電ちくでんの始末は毎年八月十五日城州じやうしう男山石清水八幡宮放生會はうじやうゑに付參向さんかう公家衆くげしうあり抑々そも〳〵この正八幡宮は其昔時むかし 應神天皇を勸請し奉つり本朝ほんてう武家ぶけの祖神なり就中源家に於てはことほか御尊敬ごそんきやうあること御先祖ごせんぞ八幡太郎義家公此御神おんかみの御寶前に於て御元服あつて八幡太郎としよう奧羽あうう夷賊いぞく安倍貞任同宗任を征伐せいばつあられしも悉々こと〴〵く此八幡宮の神力しんりきに因所なればじつに有難き御神おんかみなり然ば末代まつだいに至る迄此御神を武門ぶもん氏神うぢがみあがめ奉つる事世の人の皆知る處なれば爰に贅言ぜいげんせず因て當時將軍家より社領しやりやう一萬石御寄進きしんありかゝる目出度御神なれば例年八月十五日御祭禮のせつ放生會はうじやうゑの御儀式ぎしきあり近國きんごく近在きんざいより其日參詣なす者數萬人及び八幡山崎淀一口其近邊は群集ぐんじゆ一方ならずよどの城主稻葉丹後守殿より毎年まいねん道普請みちぶしん等丈夫に申付られ當日は警固けいごの役人罷出て往來の非常をいましめらる然れば今年も參向さんかう公家衆くげしうは御三方にして例年の如く御先は花山院くわざんゐん中納言有信卿菊亭大納言定種卿勅使は日野大納言定立卿なり


第十九回


 かく參向さんかうの公家衆例年の通り八幡宮御寶前はうぜんに於て御神拜しんはいをはり御式路淀の城下に差掛られしが茲に木津川きづがは淀川よどがは桂川かつらがはと云ふ三所の大川あり是に大橋小橋孫橋といへる三橋を架渡かけわた領主りやうしゆ稻葉家の普請ふしんにて今日公卿方此橋を御通行あるにより同家より警固けいごの人數嚴重に御道筋おみちすぢを固めしが稻葉家の運や惡かりけん花山院殿と菊亭殿きくていどのの御二方は難なく通り給ひしが勅使大納言殿の御駕籠此孫橋へ差掛られし時けた中途ちうとより折れて橋板五枚ばかりと共に日野家の御先供さきども水中に落入や否や續いて大納言殿の陸尺も踏外ふみはづし忽ち御駕籠かごも水中へ落入既にしづまんとする有樣に周章狼狽あわてふためき陸尺共は足を踏直ふみなほして上らんと爲を見て稻葉家警固の者共大に驚き驚破すはや一大事の出來たりと大勢おほぜい馳來はせきたりて飛込々々とびこみ〳〵難なく御駕籠かごすくひ上たり尤も御駕籠半分程は水中に落入しと雖も稻葉家の役人共爰を專途せんとと身ををしまずはたらきしゆゑ大納言殿御怪我もなく御旅館りよくわんへ御ともして入奉つり御裝束おしやうぞくを召替られ御歸洛きらく有しはまことに危き御ことなり然らば御同勢中水中に落入し者凡廿人ばかりにして此日彼の所化しよけ願山ぐわんざんも日野家へやとはれ醫師の代を勤め大納言殿の御供にれつせしがうんよく水難すゐなんのがれたれ共外に水死の者五人あり御道具だうぐ荷物にもつの類も落入て以の外の大騷動なれば稻葉家より水練に勝れし者を數十人撰み水中を彼方此方と尋廻たづねまはり漸々やう〳〵に兩人の水骸しがいを始め御道具類を引揚けれども御大切の御太刀たちは一かうに知れず是は正しく水勢すゐせいはやき大河なれば川下へながれしならんとて川下の方をもなほ又人數を増してさがしけれ共更に御太刀の知れざりける此の御太刀はまつたく安田佐々木兩人の侍士が此騷ぎを幸ひに取隱とりかくし是を種として稻葉家より金子きんす欺罔ゆすり取んとたくみしことなり此時の落首らくしゆ

ちはやふる神代かみよかず淀川よどがは

     烏帽子ゑぼしながら水くゞるとは

されば今日の變事へんじに付稻葉家に於ては大いに心配しんぱい致され取敢とりあへず日野殿の御機嫌伺きげんうかゞひとして家老からうの中をつかはされんと城代稻葉勘解由かげゆを以て京都日野方へ參入致させ種々しゆ〴〵音物いんもつ山の如く贈られて今日の變事へんじわび入太守もふか心配しんぱい致さるるに付大納言樣御機嫌伺きげんうかゞひとして參上仕つり候と申述るに日野家の青侍士あをざむらひ安田平馬佐々木靱負ゆきへの兩人かねて申し合せ今度の儀をさいはひ稻葉家へ捻込ねぢこみ大金をかすめ取るべしと思ひしをりから故大いによろこび兩人は立出是は〳〵勘解由かげゆ殿にはよくこそ御入來只今の御口上のおもふいたみ入候主人儀は別段變る事も是なく併し此度の儀は 勅使ちよくしとして石清水いはしみづへ御參向の御道筋なれば豫々かね〴〵みちはし修繕等是有るべきの處右の始末しまつ勿々なか〳〵言語ごんごたえたる事急ぎ此趣き關東へ申達し江戸表の御差圖さしづに任せ申べき間然樣さやう心得られ此段丹後守殿へ申達さるべしと仰々ぎやう〳〵しく云ければ勘解由かげゆは甚だ當惑たうわくの體にて此儀江戸表へ伺ひ候存じ寄に候はゞ某しかく推參すゐさん仕つらず只々何分にも御兩人の御熟懇じゆくこんを以て波風なく御執計とりはからひ下され候樣頼み奉つり候と申ければ此樣子を見て安田佐々木兩人は仕濟しすましたりと心中に悦び彌々いよ〳〵圖に乘て大柄面おほへいづらをし此儀大納言殿には元より穩便をんびんを好まるゝと雖も御同行どうかうなされし御兩卿りやうきやう方の手前もある故餘儀よぎなく斯は御談じ申せしなりさりながら爰に一つお頼み申度儀御座候其事御承知に候はゞ拙者共何とか工夫くふう致し取り扱ひ申すべく其のわけ近來きんらい當家も勝手向かつてむきいたつ不手廻ふてまはりに付殊の外御難儀成れ見らるゝ如く御殿の普請ふしん打捨置うちすておき候次第ゆゑ此度の御謝物しやもつの御心得にて少々金子きんすを御家より御用立られては如何やる時は双方共無事にして宜からんと云を聞勘解由は打喜び金子にて相濟あひすむ事なれば何とか取計ひ申すべしシテ其の金高は何程なるやと申に安田佐々木の兩人は右金高はまづ水死すゐし二人の代り金二千兩御道具だうぐの中御太刀一ふりめい來國行らいくにゆき是は別て御大切の御品成ば此代金千兩外御道具代金三百兩都合三千三百兩右の如く借用致されたしと書付を出しければ勘解由はまゆしわよせ扨々さて〳〵是は餘り大金もし此事世間へ相知れ候時は双方さうはう共宜からず此儀は御用捨ようしやあづかり度と申けるを兩人は聞て大にいきどほり然らば勝手次第如何樣とも仕つる三千三百兩を大金と申さるゝが御主人丹後守殿御身上しんじやうくらべて見る時はまことに易きこと十萬石餘の大名少々の金子を出し兼て此方より申達なば家も領地りやうちぼうに振るべし大切の 勅使御參向のみぎり橋の手薄てうすにて水中へ落されしと有ては 天子へ刄向はむかふも同然逆罪ぎやくざいとがのがるべからず爰を存じて無事に扱はんと申を彼是御邊申さるゝからは詮方せんかたなく此趣き江戸表へ早々さう〳〵達し申さんと言放いひはなしければ勘解由大いに驚き先々御待ち下さるべし全く金子ををしむに非ず此上はかくおほせに任すべしと早速金子を取寄せ日野家へ用金と號して右の高三千三百兩進上しんじやう致し何分宜敷頼み上ると申しおきて勘解由は立歸り諸司しよし代松平丹波守殿へは此事をかるく屆に及びたり然れ共松平殿は内々ない〳〵承知致され日野家の致し方を甚だにくまれ又稻葉守も卑怯ひけふ未練みれんの事なりと申されけるとなり


第二十回


 さて城代じやうだい稻葉勘解由はしう家を大切に思ふが故是非ぜひなく三千三百兩の金子をさし出し此度の一件事故なくすませしかば先は稻葉守上下の者安堵あんどはなしたれども未だ淀川へしづみし太刀の出ざれば毎日人夫を出して淀川の上下を吟味に及けれど一向知れざれば因てしばらく其儘に打すぎたれ一人此事を安田佐々木兩人の惡巧わるたくみと知る者なく斯なやみしは是非もなし然るに安田佐々木の兩人は充分こと調とゝのひしと大いに喜び三千三百兩の金をひそかに分取わけとりにして毎日物見遊山に出かけしは是則ち三日極樂とも謂つべしもつとも安田は強慾がうよく曲者くせものゆゑ此金子を一向に遣ず佐々木のおごりを見て苦々にが〳〵しき事に思ひ御邊斯大金を遣ふ時はたちまち足が付諸司代より直に吟味と成んにより此金を資本として何ぞ吉事よきことに有付工夫をなし給へと異見しけれども佐々木は一向聞入ず湯水の如くに遣ひける故果たして松平丹波守殿此事を聞込きゝこまれ扨こそと早速さつそく吟味をせんとて日野家へ承まはるべき儀有之候間安田平馬へいま佐々木靱負ゆきへの兩人當役所へ差出さるべしと達しられしかば日野家に於ては何ごとならんと怪しまれしが安田佐々木の兩人はかねおぼえのあることなれば素知そしらぬ面は爲すものゝ心中に南無三ばうと思ひ其夜ひそかに兩人并びに願山とも申合せ跡を暗まし逐電して江戸表へぞ下りける是によつて日野家より右のむね所司しよし代へ屆られければ松平殿甚だ殘念に思はれ此段江戸表へ達し是より兩人の行方ゆくへ御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山のあに多兵衞をたのみ彼の金子を以て何方いづかたへか住込仕送しおくり用人に成んと心掛けしに幸ひ嘉川家にて仕送り用人を召かゝへたしとのことに付多兵衞を請人うけにんとして主税之助方へ住込しなりまことに此平左衞門は斯の如くの曲者ゆゑ大岡殿再度願山を吟味なさんと工夫有て日野家よりの屆を調べられし上又白洲しらすを見られコリヤ願山其平左衞門には外に名が有筈なり其頃はなんぢも同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢやこたへが出來ずば此方より云つてきかせん彼は日野家の雜掌ざつしやう安田平馬と云し者ならん四年以前逐電ちくでんせつ書上かきあげに三十九歳とあり歳頃も丁度ちやうど似合なり汝隱し立をすると其方にも罪が掛るぞ有體に白状致せと有ければ願山は仰天ぎやうてんして思ふ樣は斯までくはしく知らるゝ上はとてもかなはぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は惡巧わるだくみにより稻葉家の家老稻葉勘解由をあざむき金三千三百兩をかすめ取しことを始め其外の惡事等までのこらず申立ければ大岡殿能白状致したなほおつて吟味に及ぶと申さるゝに下役したやくの者立ませいとこゑかけやがて願山を退ぞかせけり


第二十一回


 ことわざに其事なんぢに出て爾にかへるとむべなる哉此言や所化しよけ願山の白状はくじやうに因て再度日野家の一件委さい吟味有るべしと大岡殿差圖さしづあつて平左衞門を呼び出されしに平左衞門は又何をかたづねらるゝやと白洲しらす蹲踞かしこまる時に大岡殿平左衞門を見られ汝先年日野家に於て雜掌役ざつしやうやくの節は安田平馬と名乘しかと尋ねられければ平左衞門吃驚びつくりなせしかどもあくまで大膽だいたん者ゆゑ此事何所までも押隱おしかくさんとおもひ私し儀は然樣さやうの名にては御座なく候と云へば大岡殿打笑うちわらはれイヤ平左衞門又してもかくし立を致すか汝は存じの外未練みれんやつぢや汝が懇意こんいにせしと云願山が其方并に靱負ゆきへの事まで殘らず白状はくじやうに及びたるぞ其方と靱負ゆきへ兩人にて勘解由をあざむき三千三百兩かすめ取し事眞直まつすぐに申立よと云はれしかばさては願山が白状せしか此上は是非ぜひもなしとて心を定め京都きやうと日野家に仕へしせつ惡事あくじ殘らず白状に及ければ大岡殿神妙しんめうなりシテ又其方は何故京都を逃亡かけおち致せしぞ及靱負ゆきへは其後如何いかゞなせしやとたづねらるゝに平左衞門其儀は只今たゞいま申上し通り稻葉殿よりおくられし金子を分取わけとりに致し靱負ゆきへは日々遊興いうきようつかひ候により所司代は不審ふしんにおもはれしにや日野家へ御訊尋たづねの儀有之に付我々兩人差出べきむね掛合かけあひ御座候間右の大金をかすめ取し事萬一露顯ろけんに及ぶ時は主人の家の難儀なんぎならんと存じ兩人申合はせ逐電ちくでん仕つり候と申立しにぞしからば又々吟味ぎんみに及ばんと先今日はさがれと有て此段早速さつそく老中らうぢう方へ申達されければ井上ゐのうへ河内守殿より稻葉侯城代稻葉勘解由へ聞糺きゝたゞすべき儀有之間勘解由を江戸表へ早々さう〳〵差下さしくだし大岡越前守役所へ差出さるべしとのたつしに稻葉家に於ては大いにおどろ急使はやうちを以て國元へ申遣はせしかば國元にても種々いろ〳〵評議に及び是は先達せんだつて大金を差出せし御咎ならん此度江戸表へまかり出る時は必ず切腹せつぷくにても致さずんば申わけ立難しとの事にて誰一人勘解由かげゆ附添つきそひ下向げかうせんと云者なく其座白けて見えにける豫て覺悟かくごの勘解由は進み出て各々おの〳〵は此度の儀を恐れらるゝにや主人の仰せ殊に御奉書ごほうしよの上は一こくも延引すべからず最初さいしよより某しは此儀に係り此度の御召おんめしも皆々勘解由の所業しわざなれば只今より我一人下向致さん各々は御國許くにもとを守られよと云ひ捨て我が方へ歸り妻子さいしにも此ことを物語ものがたり此度の一件申わけなくは我主家の爲自害致さんにより其時は汝等必ずなげくべからずと能々よく〳〵あとのこと共申置勘解由は發足ほつそくなし道中取いそぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨太守たいしゆへ申ければ丹後守たんごのかみ殿早速御召有つて日野家の一件御訊尋たづね申に勘解由は委細を申述此事すこしも御苦勞あそばられな私し宜敷申譯仕らんとて御前を退き到着の旨老中方へ御屆けに及びけるに大岡越前守殿役宅やくたくまかり出べき段御達に付勘解由は翌日未明みめいに南町奉行所へ出にける大岡殿出座しゆつざ有て其方事先達て 勅使ちよくし石清水いはしみづ八幡宮へ御參向のみぎり日野家歸路の災難に付種々しゆ〴〵取扱ひ其節金三千三百兩同家へおくりしと云ふ事相違なきやと訊尋たづねられしかば勘解由は平伏へいふくなし御尋ねの如く其節損じ候御道具おだうぐ代金だいきんと致し差出せし事相違御座なく候と申けるに大岡殿附添の留守居へ向はれ然らば今日はまづ退たい出致すべし追て呼出す間吟味中屹度きつとつゝしませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ急使はやうちにて申送られければ松平殿是を聞れてさてこそと思され急ぎ日野家へ使者を以て申入らるゝは此度江戸表より問合とひあはせの儀有之る間大納言殿御内雜掌ざつしやう一人早々江戸表へ下向有るべし尤も道中の儀滯りなく此方より申付差添さしそへ人一人同道致させ申べしとの口上なり日野家に於ては大きにおどろき是は先達て逃亡かけおちせし安田佐々木の事ならん然し何樣どのやうなる間違ひ有るも知れずと殊の外大納言殿御苦勞に御召おぼしめされ家老山住河内へ其段おほせられければ山住聞て君少しも尊慮そんりよを苦しめ給ふまじ私し關東へ下り申ひらき仕つらん此儀全く稻葉家の不覺ふかくと申ものなればやがて歸京仕つり吉左右きつさう申上奉つらんと申て山住は江戸表へ下向致しけるに所司代しよしだいよりは豫て此旨急使はやうちを以て老中方へ通達に及ばれしかば大岡殿へたつせられ到着たうちやくの翌日山住河内を奉行所へ呼出され越前守殿對面たいめん有に山住はつゝしんで平伏へいふくなし某儀それがしぎは日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付召呼めしよばれしは如何なる儀に候やと申ければ大岡殿れば此度の事餘の儀に非ず先年石清水いはしみづ八幡宮放生會はうじやうゑの節大納言殿參向致され其頃歸路に淀の孫橋まごばし落て大納言殿始め大勢おほぜいの人夫其外御道具類水中に流れ候とうけたまはる其みぎり日野家より稻葉丹後守方へ此事を種々しゆ〴〵に申入られ稻葉の使者より金子三千三百兩取れ候段其頃そのころ御内の安田平馬佐々木靱負ゆきへ兩人のはからひにて其實右兩人の者是を取候由なれども日野家において是を心得居られ候や其眞僞しんぎたゞさん爲御邊を召寄たりと申されければ山住は御尋ねの趣き成程然樣さやうの儀も御座候故兩人の者逐電ちくでん仕つり候儀と相見え候併し其節わたくし儀は病氣にて引籠ひきこもり一向存じ申さず渠等かれら兩人の私欲しよくにより稻葉家の使者を欺き大金を取し事は相違御座なく併し主人儀は一向存じ申さず候事ゆゑ全くあざむかれ候は使者の不覺ならんかいやしくも日野大納言は清華せいくわの一人何ぞ金銀をうばひ取事の候べき此儀は渠等かれらを御吟味下されよと申ければ大岡殿しか然樣さやうかと有に仰の通に候と申て山住は退出たいしゆつたりけり


第二十二回


 かくて大岡殿山住河内が申によりて早速稻葉勘解由を呼出され其方先達て差出せし金子きんす日野家にては一向知らざる由全く其方の不覺ふかくにして安田佐々木の兩人にあざむかれかすめ取るゝでう家老も勤むる身に似合にあはしからず立歸りなほ屹度きつとつゝしみ罷り在べしと以の外にしかられしかば勘解由はおどろき答べき言葉なく寥々すご〳〵と屋敷へ歸り此段主人へ申しければ丹後守殿大きに驚かれ扨々さて〳〵金子きんすをしむに足らずと雖も我思慮しりよなく青侍士あをざむらひ共に欺かれしなどと人口にかゝらんこと殘念ざんねんなり併し今更くゆるもえきなし兎に角愼み罷在公儀かみの御沙汰をまつべしと申付られしかば勘解由は我が家に歸り一こもりて居たりしがひと倩々つら〳〵考ふるに我大金をかすめ取られあまつさへ主人の名迄けがせし事何として人に面の向られべきや此上はせめて自害して申譯せんと覺悟をきはつひ切腹せつぷくせしこそあはれなれされば此由丹後守殿聞れていた周章しうしやうありしかどせんなければ早速老中方へとゞけられしに付其の段大岡殿へ達せられしかば大岡殿此上はとて平左衞門を嚴敷きびしく拷問がうもんに掛られし所つひつゝかくす事能はず是迄の惡事あくじ追々おひ〳〵白状にぞ及びける又平左衞門が宅を穿鑿せんさくなせしにつかのこりの金子六百兩出たり(是は勘解由よりあざむき取し金子八百兩ありしを立花左仲さちうは此騷動さうだうを聞とひとし安間あんまたくしのび入二百兩うばひ取りて逐電ちくでんせしかば嘉川かがは宅番たくばんの者より此段大岡殿へ屆け出しなり)然ば平左衞門の惡事あくじ彌々いよ〳〵明白めいはくなりと雖も彼の佐々木靱負ゆきへが行方をなほ吟味ぎんみ有べしと是を尋ねらるゝに平左衞門かれは先年日野家を逐電ちくでんせつ大津迄同道せしが夫より分れてかれは三井寺の方へ行私し儀は願山ぐわんざん諸共もろともに江戸へ下向致せしにより其後靱負ゆきへの行方さらに心得申さずと云ゆゑ然らば是非ぜひに及ばず併し其方生國しやうこく相州さうしうと申たれども是又いつはりならん眞直まつすぐに申せと有ければ平左衞門彌々いよ〳〵おどろかく見透みとほさるゝ上はとても叶はじと思ひ私し生國しやうこくじつ江州がうしう井伊家ゐいけはんにて山田藤馬とうまと申者のせがれに候處幼少えうせうころ兩親に別れ我まゝに身を持崩もちくづし十七歳の時浪人らうにん仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の素性すじやう白状はくじやうに及びけり


第二十三回


 こゝに又佐々木靱負は日野大納言殿に仕へ同勤どうきん安田平馬と申合せ稻葉家の老臣らうしん稻葉勘解由を十分にあざむき大金をかすめ取安田と兩人分取わけどりになし其金をもつて遊興いうきようなしける中平馬靱負の兩人相尋ねべきこれあるに付所司代しよしだい御役宅おやくたくへ差出すべく旨日野殿へ掛合かけあひありしかば南無なむばうと思ひ兩人申合其の夜の中に日野家を逐電ちくでんして願山ぐわんざん誘引さそひ大津まできたりしが不圖ふと心中に思ひけるは我々斯三人打連立てはかね諸司代しよしだいも目をつけしやうゆゑ江戸おもてへも注進ちうしんありしは必定なり然樣の所へ空然々々うか〳〵と行見付られなば一大事我は泉州せんしうさかひに少々知音しるべ有により彼方へ尋ね行身の落付を定めんと覺悟かくごなし我は三井寺を見物なしあとより追付んとて平馬へいま願山ぐわんざんたもとを分ちやが泉州せんしうさかひを心指して行けるに日の中は世間をはゞかるにより夜に入りて伏見ふしみより夜船よふね打乘うちのり翌朝よくてう大坂八軒屋けんやへ着茲にて緩々ゆる〳〵と休み日のくるるを待て夜食の支度したくして爰を立出泉州さかひに着し知音ちいんの方を尋ねけるに其知音と云は至つて貧敷まづしく日々人にやとはれかすかなるけふりも立兼ねるものなりしが先爰にかくれて逗留とうりうし能き傳手つてを以て片田舍へ引籠ひきこもり遣ひのこりし金にて何とか能思案しあんなすべしと思ひて彼是半月餘りもすごしけるに知音しるべの者は日々の暮しに指閊さしつか難儀なんぎ樣子やうすなるにぞ靱負ゆきへは氣の毒に思ひ或日懷中くわいちうより金五兩取り出し紙へひねりてあるじむか御邊ごへん今日の營み是ぞと申程の事もなく日々雇のかせぎを致さるゆゑ我れ永々逗留とうりうなす事甚だ氣の毒に思ふなり是は少しなれどもまづくらし方の足にも致されよと渡すに主は大いにおどろき是は思ひもよらぬ事をおほせらるゝものかな我等御覽ごらんの如く是ぞと申たつきもなき故其日の手當てあても甚だとぼしきを見兼みかね給ふは御道理ごもつともなれども我等事うまれ付無能むのうゆゑ是非なくかくくらし候まゝ日々まゐらする物も心に任せず右さへ御厭おいとひなくば假令たとへ此上何時迄居らるゝとも決して御氣遣ひに及ばずとて押返おしかへしければ靱負ゆきへかうべふり否々いや〳〵然に非ず此は此程手土産てみやげにても持參すべきなれども其代りに進ぜるなりと種々申て漸々やう〳〵受納うけをさめさせなほ靱負ゆきへは申樣我等未だ少々の資本しほんもあれば何ぞ一目論見もくろみ致し度思ふなり何と金貸渡世かねかしとせいは如何有らんと相談さうだんなせば主はおどろき御身何程の金を持給ふか知ねども當地の金貸渡世かねかしとせい大坂おほさかかけ極大身代ごくだいしんだいの者なりと云に靱負ゆきへいやの大身代の金貸渡世とは違ひ小體こていに致し手早く高利かうりかさんと思ふなりと申せば主は聞て夫は何共申がたし當時の人氣にては甚だあやふとくと考へ給へと云ふゆゑ靱負ゆきへは先々急ぐ事にも非ずと其日は夫なりにて主も雇の約束やくそくあれば出行ける扨靱負は後に倩々つく〴〵思案しあんして今渠と話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ勿々なか〳〵危し何れにも片田舍かたゐなか引込ひつこんで外は工夫せんと思ひしが兎角とかく心落付ず彼是と考へ居たる中主も歸り來りければ靱負は主にむかひ當地は斯土地がらも能事ゆゑ上手なる易者えきしやあらずやと云ひければ主は點頭うなづき當所には名高なだか易者えきしやにて白水翁はくすゐおうと申ありまことに名人なりと云ひければ靱負ゆきへは大きに悦び然らば今日は最早もはや夕陽せきやうに及びしゆゑ明日參るべしとて目録もくろくなど用意よういに及びけり抑々そも〳〵白水翁はくすゐおういふよく人の禍福くわふく吉凶きつきよう判斷はんだん成敗せいはいさすに其人の年れい月日時を聞てを立かんがへをほどこし云ふ事實にかみの如く世の人の知る處なり扨翌日にも成りければ靱負ゆきへは其身の吉凶きつきようを見ることゆゑ沐浴もくよくして身體しんたいきよめ彼の白水翁はくすゐおうの方へ到りて頼みければ白水翁靱負に對ひ年れい生れし月日等を聞を立てやゝ久敷ひさしく考へ居たりしが靱負に向ひ此は甚だうらなひ難し早く歸り給へと云ふに靱負ゆきへ如何にも心得ぬ面色おももちにて某しの卦は何故にうらながたきや察する所へうからざれば白地あらはに示し難きならんか然ども故意わざ〳〵まゐりしこと故何事なりとも忌憚いみはゞかりなくうらなひ下されよと云ひければ白水翁かしら左右さいうふり我元より言葉ことばかざらざるが故に其許のえきは申されずと云ふ靱負問て今も申如く假令如何なることなりとも苦しからず夫を聞ん爲斯來りしなり是非とも語り給へと云ひければ白水翁左程さほどに申さるゝことならば是非なきにより語り申さん先づ此よるときは其もとまさし給ふべしと申に靱負ゆきへ呵々から〳〵わらひ何人か世に生れて死せざるの道理だうりあらんや我幾年の後死するや白水翁はくすゐおう曰く今年死し給はん今年何月に死すべきや今年今月死し給ふべし今月幾日に死するや今年今月今日死し給ふべしと云にぞ靱負ゆきへは心中大いにいきどほりて再度ふたたび問ひけるは時刻じこくは何時なるや白水こたへて今夜三かうこくに死し給はん靱負は思はずことばあららげ今夜實に死しなば萬事夫限それかぎもし死せずんば明日貴殿きでんを只は差置難さしおきがたしと云に白水翁夫は道理もつともなり其許明日までつゝがなくんば來つて我首わがくびを取給へと申せば靱負はかれ言葉ことばつよきを聞て彌々いよ〳〵いきどほり白水をゆかより引下しこぶしを上てすでうたんとなす此時近邊きんぺんの者先刻よりの聲高こゑだかを聞付何ことやらんと來りしが此體このていを見て周章あわて捕押とりおさへ種々靱負をなだめける故靱負は心付我は今日かげの身なり殊に京都へ程近き所にてかくさわがしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人の中裁ちうさいを幸ひに早々立歸たちかへりしが靱負は主に對ひ白水翁の方へ參り斯樣々々かやう〳〵云々也しか〳〵なりと有し事共物語ものがたりしかば主は驚き白水翁が斯申時はと思ひながら靱負の樣子を見るに今夜こくに死する者がかくすこやかに有べき樣もなし如何なればおうが斯樣の事を云しかと不審ふしんするも道理ことわりぞかし然れば靱負は甚だ氣色きしよくそんじ居ける故主は昨日もらひし金子きんすにてさけさかな調とゝのへ來り左右とかくもの事はいはひ直さばきよきちへんずべしと申すゝめ兩人して酒宴しゆえんもよほせしが靱負ゆきへは元よりすきさけゆゑ主が氣轉きてんあつがんに氣を取直してこゝろよくさしさゝれつのみたりしが何時しか日さへ暮果くれはてて兩人共睡眠ねむりの氣ざしひぢまくらにとろ〳〵とまどろむともなしに寢入ねいりしが早三かうころ靱負は不圖ふと起上おきあがり其のまゝ爰を飛出とびいだしける故主は何事なるやと狼狽うろたへながら後より追馳おひかけ行しに其はやき事とぶが如く勿々なか〳〵追着おひつく事能はず待ね〳〵と呼止よびとむれど靱負は一向みゝにも入ず足に任せて馳行はせゆきしがやが海邊うみべに到りなみの上を馳行はせゆく陸地くがち歩行あゆむがごとくなれば主はきもしアレヨ〳〵と呼はりける其間に靱負ははるおきの方へ行し樣子なれども星明ほしあかりゆゑ今は定かに見え分ず主は漸々やう〳〵波打際なみうちぎははせ來りてすかし見れば早靱負が姿すがたかげもなく末白波あとしらなみとなり行しは不思議ふしぎと云ふも餘りありと暫時しばし呆然ばうぜん海原うなばらに立たりしが何時いつ迄斯て居るとも更に其甲斐かひなければ詮方せんかたつきて立歸りしが如何にも不思議ははれざりしとぞ


第二十四回


 偖又嘉川主税之助の用人安間平左衞門と共に惡事あくじくはゝりし立花左仲は主人主税之助并に同役平左衞門共に評定所ひやうぢやうしよへ呼出されしかば我身の事を倩々つら〳〵考ふるに我今此屋敷を出て何方へ仕官を望む共召抱めしかゝへらるべき樣なし然とて空然々々うか〳〵當屋敷に居る時はやがて平左衞門同樣に呼出さるべし尤も我せるつみを作りし事はなしと雖も主人并に平左衞門の惡事に掛りし事も有れば其罪申し開くべき道なし猶又お島の事も我主人と共に責惱せめなやませし事もあり全くころせしは平左衞門なれども彼是かれこれと惡にくみせし事なれば何れのみちにも申譯立難し如何はせんと種々いろ〳〵工夫くふうめぐらしけるに平左衞門が金子を所持しよぢなす事をかねて知りければ或夜安間が宅へ忍入箪笥たんすの錠をこぢあけ二百兩の金をぬすみ取其儘屋敷を忍び出夜にまぎれて千住の方へと行たりけり此左仲はもと下總しもふさ銚子在てうしざいの百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を所々しよ〳〵渡り侍士さぶらひを勤め夫より用人奉公ほうこうをなし流れ〳〵て嘉川家へいり込しに當時嘉川の評判ひやうばんあしき故おのづから知音ちいんの人もとほざかりしにより常陸ひたち筑波つくば山の近邊に少しの知音を便たより行んと千住へ出筑波をさして急ぎしが先江戸近邊きんぺんを夜の中に通り流石さすが晝中は人目をはゞかひそかに彼の盜み取し二百兩の金にて宿場しゆくば飯盛めしもり女を揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも漸々やう〳〵通り越小金こがねはらに差掛りけるに扨物淋ものさびしき原中ゆゑ先腰なる摺燧すりひうち取出とりいだし松の根にしり打掛うちかけ煙草くゆらす折柄あとより尾來つけきたりしと見えて一人の大の男腰に長刀なががたなをぶつ込み左仲のそばと來りて旅人は何れへ行るゝや日の中は能きなぐさみをなし夜を掛ての一人旅樣子あり氣な御人なり我等は夜道よみちが大いに勝手かつてなれば御同道申べし其火を爰へ貸給へと竹火繩たけびなはを左仲が煙管きせるもと差出さしいだすにぞ左仲は愕然ぎよつとなし思はずふるへ出せし體を見るより彼の者は莞爾につこと笑ひ左仲が側へ同じくこし打掛うちかけ旅人りよじんは何等のようにてかく夜道を致さるゝやと云ひけるに左仲は最初さいしよより一言も云はず居たりしが彼の者の容體ようだいを見て大いに恐れかれまぎれもなき盜賊なるべし我渠を見しより思はず恐怖おそれし事故我弱みを見てかく馴々敷なれ〳〵しくそばより種々いろ〳〵と申なるべしと思ひ内心には甚だ怖恐おそれしなれども爰ぞ我身の一大事一生懸命にひぢを張落付たるていにて我等は行先未だ決せず其譯はわれ召使めしつかひたる仲間ちうげんに貯への金子を一昨夜さくやうばはれ逐電ちくでん致せし故夫を捕へんとかく夜道も厭はず通るなり御邊ごへんは又何故なにゆゑ此處を今時分通らるゝやと申ければ彼者かのものは左仲が樣子は晝の中よりとくと見濟し又左仲が懷中くわいちう金子きんすのある事も知りたればかくあとより尾來つけきたりし故今左仲が申を聞て大いに笑ひ御身はぞくひ夫を捕へんため追行おひゆくと云給へど千住にて今朝より暮方迄くれがたまで女を相手に快樂たのしみ日の暮てより夜道をさるゝ事今の話に符合ふがふせずまことの事を云ひ給へとなじるに左仲は御邊ごへんは何人なれば先程より我等われら種々いろ〳〵嘲哢てうろうせらるゝぞと思はずも少し言葉ことばを荒く云ひければの者申しけるは我等が名を聞度きゝたしと云ふ事なら何よりやすし我は此街道このかいだうで強盜を働き道玄次郎だうげんじらうと云ふぞくの頭なり御身如何に我を欺きのがれんと思ふ共かく折込をれこんだら最早佛の仲間入尋常に其懷中の金を渡して行ばいのちと衣類は見遁みのがすのみならず三朱や一分の路用はくれやる又惡く情張じやうはると是非に及ばず此世の暇を取するばかり手短てみじかの話が先斯した處だ何れなりとも御望み次第どうだネ旅のしう其懷ろは御前が彼の飯盛の揚代あげだいはらふ時篤と見て置夫故跡をつけたのサ又此方こなさんも其金はどうやらものした樣だがものした物ならものするは私が商賣ぢやサアきり〳〵と渡さぬか命までを貰ふとは申さぬと云れて左仲は力身りきみけ齒の根も合ずくづ〳〵と是非なく懷中より金百兩のつゝみを取出し盜賊に渡せば是々夫ではまぬ惡ひ根性こんじやうかく直段ねだんの極つて居る者をサア淡泊さつぱりと男らしく渡して仕舞へと云れて又も殘りの金を殘らず取出し盜賊の前に差出せば次郎は莞爾につこと打笑ひ夫れで能い心持こゝろもちだらうドリヤ路用ははずんでくれようと額銀がくぎん一ツ投出なげだしサア是で何處へなりとゆきをれへ言捨道玄次郎は悠々いう〳〵と金を懷中くわいちうして何國ともなく立去けり左仲は跡に大汗おほあせき偖々危ふきめに逢しとつぶやきながら道玄次郎がなげ出したる一分の金をひろひ上げ是が路用か情なやとちり打拂うちはら常陸ひたちの方へと急ぎしが未だ夜も深ければ左仲は原中を辿たどり〳〵てゆく程に心細くぞ思ひけり(此道玄次郎と云は當時盜賊たうぞく張本ちやうほんにて手下の者百五六十人もあり諸所にて押込み夜盜を働きし曲者くせものなれども終に運盡て是も大岡越前守殿に召捕めしとられ刑罰に行はれしとなり)


第二十五回


 かくて立花左仲はあやふくも此所をのがれ漸々命は助りしと云ふものゝ盜み得し金はぞくの爲にうばはれ路用にせよとて投出せしわづか一分の金を拾ひ取心細くも夜の道を行所にはるか向ふに火の光りの見えければ不思議に思ひ此原は未だ人里ひとさとまでは程あるを彼處かしこに火の光り見ゆるは如何にも心得こゝろえずと思ひ段々だん〳〵ちかづきて樣子を見れば野火のびたきて居る者あり皆怪氣あやしげなる荒男ゆゑ左仲は又もや賊ならんと仰天ぎやうてんなしたれども今更立戻るべきやうもなく心ならずも彼の火のもとへ行しに彼者ども左仲を見付扨々さて〳〵暫くきやく待設まちまうけたりと云ひつゝ兩人ずつと立上り左仲を中に取圍とりかこみサア懷中の金を置てゆけもし彼是かれこれいふ時は是非に及ばず荒療治あられうぢだぞと兩人左仲が手を取に左仲は最早もはや生懸命しやうけんめいこしの一たうき放しきつて懸ればソリヤぬいたぞと兩方より手に〳〵きらめ山刀やまがたなうけつ流しつ切結きりむすぶ左仲は茲ぞ死物狂ひと働け共二人の賊は事ともせず斬立々々きりたて〳〵切捲きりまくれば終に左仲は斬立られかなはじとにげ行を一人の賊は後より小手こてのばして袈裟掛けさがけに左の肩先かたさき四五寸ばかりエイト云樣切下れば左仲はアツと反返そりかへるを今一人が眞向まつかうよりざツくり切たる一太刀ひとたちに二言と云はず死してけり二人は血刀押拭おしぬぐひ先久しりの山吹色やまぶきいろと懷中へ手を入れてヤアないはコリヤどうぢやと二人は不審ふしんはれやらず猶も懷中を掻探かきさぐ財布さいふを引出し振つて見て二人は吃驚びつくりヤアたツた一分の本尊樣ほんぞんさま淺草の觀音樣は一寸八分だたツた一とは情ないと何分不審ふしんはれやらず今朝見て置た此仕事どうした表裡へうり瓢箪へうたんぢやとあきれ果たるばかりなり(此二人の賊は道玄だうげん次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取よき代呂物しろものと付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道に此原を通る樣子故大いによろこび先へ廻りて網を張しをかしらの道玄次郎は渠等かれらより其知せもなき故一向知らず千住宿じゆくにて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付おひつき十分に仕事をせしなり又手下の兩人はさらに此事知らざれば今斯の如く左仲をころして金のなきにあきれたり然ば左仲は一度助かりしいのちつひに手下の者の手にかゝりて果しはこれてんにくしみならんか)かゝる處へ道玄次郎はのさ〳〵と來掛り此體このていを見て大いにわらひ二人の手下に打對うちむかひ役にも立ぬ無駄骨折むだぼねをりさてはたらうすい奴等と云はれて二人は大いにおそ無益むえきの殺生致せしと天窓あたまき〳〵閉口へいこうしたる其有樣ぞ見苦みぐるしき次郎はかさねて申樣此樣な仕事しごとを爲ぬ樣に以後は必ず注意きをつけろとしかり散して兩人の手下をつれて立去ぬ


第二十六回


 されば嘉川主税之助家來けらい安間平左衞門の兩人は多年たねん積惡せきあく一時にあらはれ又々此度再應さいおうの吟味に及ばれける處に安間平左衞門はとてものがれぬ處と覺悟かくごをなしたりし事なれば尋ねの廉々かど〳〵明白めいはくに白状に及びし故其次そのつぎに願山をよび出されて其方京都に有りしとき日野家に於ては何役なにやくを勤め罷在まかりありしぞと申さるゝに願山も最早もはや覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の醫師いしやとはれ折々供も勤めし所はからずも安田平馬佐々木靱負ゆきへの惡事にくみし京都を逐電ちくでんして平左衞門諸倶もろともに嘉川家へ入込み此度このたびの惡事にたづさはり島が死骸しがいを千住の光明院へ捨置すておき候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて其頃同寺旦那だんな中川佐太郎と申者をはうむり候節兄多兵衞と申合せこれを夜中に掘出ほりだし其の死骸の衣類いるゐ等をのこらず剥取はぎとり申候處此儀あらはれしに付早々逐電ちくでんいたし候と一々白状に及びければ即ち其おもむきを淺草阿部あべ川町了源寺へ申つかはされしかば了源寺にては大いにおどろき早速所化僧しよけそう一人罷出右のだん相違さうゐ之なきむね委細ゐさい申立又願山儀は常々つね〴〵身持よろしからず第一淫酒いんしゆの二ツにふけり其上博奕ばくちを仕つりあまつさへ和尚をしやうの居間へしのび入衣類金銀をぬすみ取逐電致し候者なりと申立ければ越前守殿此おもむきをきかれよし〳〵なほおつて呼出すことあるべしと申わたされ了源寺の所化しよけは下られけり其後そのご評定所へ嘉川一件の者どものこらず呼出よびいださる其の人々とほ

 嘉川主税之助同人家來安間あんま平左衞門切首きりくび多兵衞そう願山嘉川家々來孕石はらみいし源兵衞安井やすゐ伊兵衞嘉川藤五郎建部たてべがう右衞門ばんすけ十郎山口惣右衞門陸尺ろくしやく七右衞門右の者一同白洲しらすまかり出ければ老中らうぢう井上河内守殿若年寄わかどしより大久保長門守殿石川近江守殿寺社じしや奉行黒田豐前守殿大目付めつけ有馬出羽守殿御目付松浦四郎殿をはじ評定所ひやうぢやうしよ留役とめやく御勘定吟味ぎんみ役御徒士かち目付御小人目付其ほかの役人列座あり其時町奉行大岡越前守殿れいの如くせきすゝまれコリヤ主税之助其方儀嘉川平助養子やうしの身として先平助以來の家來けらい我意がいまかながいとま差遣さしつかはし藤五郎藤三郎の中を嫡子ちやくし相立あひたつべきの處に左はなくしておのれが實子じつしたるすけ五郎を以て嫡子ちやくしに立養父平助の遺言ゆゐごんやぶりしのみならず惡意あくいおこし藤五郎藤三郎をうしなはんとなしたるだん彌々いよ〳〵相違さうゐなきやと申されければ主税之助は恐入て惡事相違御座なく候と申けるに大岡殿又平左衞門にむかはれ其方そのはうことば似合にあは大膽不敵だいたんふてき曲者くせものなり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の老臣らうしん稻葉勘解由をあざむきて三千三百兩の金子きんすかすめ取り其後そのご切首きりくび多兵衞が世話を以て嘉川主税之助方へ隨身ずゐしんなし追々おひ〳〵申立たる如くの惡意あくい差挾さしはさみし段相違無かと申さるゝに平左衞門其事儀相違無御座候と申立れば又大岡殿には切首きりくび多兵衞ならびそう願山主税之助家來孕石源兵衞安井伊兵衞建部郷右衞門伴すけ十郎陸尺七右衞門皆々みな〳〵出て居るかとあるとき一同にまかり出候と申に越前守殿其方そのはう共一同是まで申立たるおもむき相違なきやと申さるゝに一同相違御座なく候と答に及びたり時に越前守殿しからば一どう口書こうしよ爪印つめいん申付るとあつて口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ今日こんにちは一同下るべし追て呼出すと申わたされければ其日そのひは一同に下りけりされ此度このたびの一けん大岡殿格別かくべつに力をつくされしは京都堂上方だうじやうがた御内みうち關係かゝはるの事がらなればなりされど四海にとゞろ明智めいち忠相たゞすけ殿ゆゑ始終しじうの所まで洞察みとほされて嚴敷きびしくたづねられければ大惡だいあく無道ぶだうの安間平左衞門も終に白状に及び口書も相濟あひすみとがめの次第を一々に取調しらべ進達しんたつに及ばれしかば右書面を老中方一覽あられし處明白めいはくなるさばき故將軍家へ伺の上伺ひのとほりたるべきむねの下ふだにて相下あひさげられけり是によつて嘉川一件の者ども落着らくちやくとこそ成にけれ

大岡殿吟味ぎんみにより安間平左衞門が惡事あくじ當人たうにんより追々おひ〳〵白状に及びしと雖もかれ並々なみ〳〵ならぬ曲者なればいまのこらずの白状にはあるべからずと思はれなほ種々いろ〳〵たゞされけれども其外そのほかの事は一かうに申立ずよつ何卒なにとぞ京都にてれと同勤したる佐々木靱負ゆきへ召捕めしとり吟味せんとて諸方へ手をまはされ詮議せんぎありしかどもさら其行衞そのゆくゑ知れざるに付きつては立花左仲にても召捕めしとらんとこれまた探索たんさくありし處かの左仲は小金こがねはらにて切殺きりころされしと云ふことの知れしかば左仲はせんなし呉々くれ〴〵も靱負をたづね出さんと又々諸國しよこくへ手をまはされけれ共靱負の在家ありか少しも知ず其中そのうち西國へ差出さしいだされたる探索たんさくの者より靱負は泉州せんしうさかひにて入水じゆすゐせしと云事を申立しかばある時はまづ是迄これまでにて平左衞門が罪の次第落着らくちやくに致すべしとて嘉川一けんの者共口書こうしよ申付られ落着の調しらべを老中方へ差出さしいだされしとなり

ひやういはく此嘉川家一でうは大岡殿大いに御心勞しんらうなされしは第一貳千五百石の御旗本をうしなはん事を格別かくべつに惜まれけれども主税之助は至て愚智ぐち短才たんさいに在ながら其心は大惡の生付うまれつきゆゑさらに取處もなくせめ半知はんぢも殘したまはる樣にと大岡殿肺肝はいかんくだかれけれども主税之助がなせる所爲しよゐ悉皆こと〴〵くよろしからざるに付甚だ口惜くちをしき事に思はれ又家來けらい山口惣右衞門ばんすけ十郎建部郷右衞門の三人の忠臣ちうしん志操こゝろざし深しと雖も主人主税之助が所爲しよゐ押潰おしつぶされ渠等三人の忠志ちうし程に見えず又陸尺七右衞門の深切しんせつも右の如し又いやしき女なれ共腰元こしもとお島が忠節天晴なる事男にもまさりしなり是等これらの忠節もみな主税之助一人の愚惡ぐあくの爲め空敷むなしく嘉川家斷絶だんぜつに及びし事是非なき次第なり


第二十七回


されば嘉川家一けん大岡殿追々おひ〳〵吟味詰の上一同口書相濟しかば彌々いよ〳〵享保四年三月廿二日一同呼出よびいだされ大岡殿申渡し左之通り

小普請組こぶしんぐみ
宮崎内記みやざきないき支配しはい
嘉川主税之助かがはちからのすけ

其方儀そのはうぎせん平助へいすけ養子やうしに相成候節約束をそむき藤五郎藤三郎の兩人をはいし我子すけ五郎に家督かとくを繼せんため種々しゆ〴〵惡事等あくじとうくはだて候段不屆ふとゞき思召おぼしめし改易かいえきの上八丈ヶ島へ遠島ゑんたう仰付おほせつけらる

同人どうにん家來けらい
安間あんま平左衞門

其方儀そのはうぎ先年京都日野家につとめちう種々しゆ〴〵惡事あくじに及び其上嘉川主税之助方に於て主人しゆじんの惡事を助け先代平助嫡子ちやくし藤五郎藤三郎に無禮ぶれい法外はふぐわいの儀を働き侍女こしもとしま絞殺しめころし候だん重々ぢう〳〵不屆ふとゞきつき獄門ごくもん申付る

淺草あさくさ阿部川町あべかはまち
了源寺れうげんじもと所化しよけ
願山ぐわんざん

其方儀そのはうぎ出家しゆつけとして淺草阿部川町了源寺にて盜賊たうぞくに及び其上京都日野家に於て惡人共に荷擔かたんなし又此度嘉川主税之助にたのまれ島が死骸を了源寺所化しよけいつは千住燒場せんぢうやきば光明院へ置捨に致候段重々ぢう〳〵不屆ふとゞきに付死罪申付る

嘉川主税之助かがはちからのすけ假抱かりかゝへ
徒士かち
多兵衞たへゑ

其方常々つね〴〵身持みもち不行跡ふぎやうせき而已のみ成ず今度主税之助申付によりしまの死骸を弟願山と馴合なれあひ光明院へ捨置すておきに致其上主税之助にたのまれ建部郷右衞門ばんすけ十郎の兩人を討殺うちころさんと存所々尾睨つけねらひ候段重々不屆に付三宅島やけじま遠島ゑんたう申付る

嘉川かがは主税之助家來
孕石はらみいし源兵衞
安井伊兵衞

其方共儀そのはうどもぎ主人申付とは云ひながら惡事あくじ荷擔かたんいたし候に依て江戸かまへ申付る

嘉川主税之助養子やうし總領そうりやう
嘉川かがは藤五郎

其方儀嘉川家嫡子ちやくしの身分を以て常々不行跡ふぎやうせきの由沙汰有之の處當時たうじ病氣びやうきにて存命もはかり難き由是によつて全快まで親類しんるゐへ御預仰付らる

嘉川主税之助もと家來けらい
建部たてべ郷右衞門
ばんすけ十郎
山口やまぐち惣右衞門

其方共儀忠節ちうせつの計ひとは申乍ら用役ようやく身分みぶんを以て家事不取締とりしまりいたし候段屹度叱り申付る

須田町すだちやう一丁目治兵衞店ぢへゑたな
七右衞門

其方儀先代せんだい嘉川平助におんも有之り候由にて藤五郎藤三郎建部たてべ郷右衞門ばんすけ十郎右四人かくまひ候だん深切しんせつ致方いたしかたに候得共えども身分不相應さうおうなる儀につき以後法外之なき樣心掛べし

もと平助二男じなん
嘉川かがは藤五郎

其方儀格別かくべつの思召を以て先知せんち八十俵下し置れ新規しんき召出めしいださる

これ新規しんき取立とりたてに相成わづかに家名存せしは大岡殿の仁智じんちに因る所なり


嘉川主税一件

小西屋一件

小西屋こにしや一件いつけん


第一回

 都會とくわいの土地は殊更ことさら繁昌はんじやうきそふ大江戸の中にも目貫めぬきは本町通り土一升に金一升といふにたがはぬ商家の櫛比しつぴ土庫ぬりこめたかく建連ね何れもおろかは有らざるなかに同町三丁目に數代すだいつゞく小西長左衞門といふ藥種屋やくしゆやあり間口凡そ二十間あまりにして小賣店こうりみせ問屋店とひやみせ二個ふたつに分ち袖藏そでぐらあり奧藏あり男女夥多あまたの召仕ありて何萬兩といふ身代しんだいなればなにくらからず送りゆく主個あるじ長左衞門は今茲ことし(享保二年)五十の坂を二つ三つ越えつまのおしづは是も又四十をいつこえたるがといふ者は長三郎とて今茲十九になる男子一にんさるに此長三郎はうまれ附ての美男にて女の如き者なればたれいふともなく本町業平なりひらまた小西屋の俳優息子やくしやむすこと評判殊にたかかるより夫婦は何卒なにとぞよきよめとつ樂隱居らくいんきよをば爲ん物と朝暮思ひ消光くらしけるが長三郎は若きに似氣にげなくうきたるこゝろすこしもあらで物見遊山は更にもはず戸外おもてへ出る事をきらひたゞ奧まりたる一室ひとまこもり書籍をひもと讀事よむことを此上もなき快樂たのしみと爲しつゝ月日を送りけるに惡きは惡きよきはまたよきとて之をにするは是また親のつねなれば長左衞門夫婦の者は長三郎の温順おとなしきかへつて年頃としごろに成し身にしてあの如くそとへも出ねば癆症らうしやうおこりやすらん一個ひとりほか掛替のなき者なるをやまひおこらば如何いかにせんと長年ながねんつとむ管伴ばんたうの忠兵衞をび事の由を話してをりも有しならば息子を戸外おもてへ伴ひ出し保養ほやうをさせて下されといへば忠兵衞心得て主個あるじの前を退出まかりいでけり其年もはや彌生の初旬木々きゞこずゑはな咲出さきいで徐々そよ〳〵と吹く春風も自然おのづからなる温暖さ然ども息子せがれ長三郎は例の如く籠りゐる障子しやうじを開て忠兵衞が若旦那樣相變あひかはらず今日も御本ごほんで御座りますかと進み這入はひるに此方は見返へりオヽたれかと思へば管伴ばんたう忠兵衞昨今さくこん水揚みづあげ荷物にもつありて店は大層たいそういそがしいと聞しに今頃何用にて「ヘイ水揚ものも御座りましたが夫も大略あらかた結了かたづいて少のひまを得ましたより參りしわけも外ならず時も彌生やよひの好時節上野隅田すみだの花も咲出さきいで何處も彼所もにぎはふゆゑ貧富ひんぷを問ず己が隨意まゝ割籠わりごを造り酒器さゝへを持ち花見に出で積鬱せきうつを散じる中に和君あなたのみはかう垂籠たれこめて御本をのみおよみで有ては身體からだどくまたお目の毒に成ますればすこし戸外おもてへお出なされ青い物でも御覽ごろうじたらお氣もはれやうお目にも能らうと夫で花見をおすゝめ申しに參りましたといひければ長三郎は片頬かたほみ今に初ぬ和郎そなた親切しんせつ主人思ひは有難けれどなまじ戸外へ出る時はかへつて身のどく目の毒なればたゞ馴染なじみし居間に居て好な書物をよみながら庭の青葉をながめてゐるが此身のくすりで有ぞかしと言を忠兵衞押返おしかへは若旦那のお言葉ともおぼえずおにはと雖も廣くもあらずましてや書物にこゝろいるれば第一お目の毒なれば戸外おもてへ出て爛漫たる櫻のさかり山水のながめもとより四方よもの人が花に遊行あくがれさけに醉ひ打戲るゝ景状ありさまを御覽にならばお目の藥と再度ふたゝび言はれて氣色けしきばみ忠兵衞夫等を目の藥となすか知ねどにあらず目には忌可いむべき物とうありとある醫者どのに聞たりしに中にも風にあたるをみ又白き物を見るをむ今や開花かいくわ時節じせつとて打續たる日和ひよりなれば上野隅田すみだも人もやいでさすれば彼所かしこは打ち水爲可なすべき者もあらざれば塵芥ほこりは立て風吹ばまなこに入て目の毒なり又櫻はあかき樣に見ゆれどもとれ白き物なれば散行ちりゆく樣を見やりつゝそらに知れぬゆきともいひ雪に見まがう云々しか〴〵と古歌にも多く讀出よみいでたれば其の白き物をこのんで見んこと則ち眼の毒なる可し又花のもと醉人すゐじん騷客さうかく所狹ところせまきまで雜沓ざつたうすれば喧嘩けんくわ口論間々まゝありて側杖打るゝ人もあり然るを浮加々々うか〳〵其所へ至り災難さいなんあふときは父母への不孝此上なし我は君子に非れどもあやふき事には近寄ちかよる可からず部屋へやのみ居て花のなき庭を眺て消光くらしなば書物しよもつを讀ため身にとくき戸外へ出ねば父母ちゝはゝも案じ給ふのうれひなし我は見ぬ世の人をともとしたのしみゐるこそ樂みなれといと物堅き長三郎が回答いらへにべなく言放いひはなすに忠兵衞今は詮方せんかたなく是ほど迄に勸めるに承引うけひく景状けしきあらざるは世に偏屈へんくつなる若旦那と霎時しばしあきれて居たりしが屹度きつとこゝろに思ひ附く事や有けんひざを進めモシ若旦那樣和君あなたは今人立多き花見の場所ばしよへ立寄もしも災難にあは無上こよなき親不幸おやふかうと仰あれど夫は夫れ其一を知て其二を知ざるいと淺慮あさはかな思し召和君あなた戸外おもてへもお出なさらずうちのみ居て書物ばかり讀で御座るが上もなき親不孝にて御座りませうと言はれて此方こなた面色めんしよくかへコレ忠兵衞和郎そなたは氣でもちがひしか學問もせず遊び歩行あるかば親不孝共もいふけれど吾儕わしは性來好でもありすゝめられても遊には「サヽ其所に一つのお話しあればこゝろしづめてお聞なされ和君あなたは此家の一粒種つぶだね何萬兩といふ身代しんだいを相續爲る御身ゆゑ學問にこり夜歩行よあるき一ツなさらざるもさうなくてはかなはねどとは言へ善惡二つながらおあんなさるは親御のつねましてや外にお子とてなき和君あなたが餘り温順おとなしすぎし病氣でも出はせぬかとお案じなされて玉くしげたに親樣おやさまが此忠兵衞をおよびなされて息子せがれをばせめて花見か芝居へなど遣てうつをばはらさせてとおほせが有て候へば先花見をばおすゝめ申せばにもかくにもかたよりし事のみ被仰おつしやりいでなくば御兩親樣が折角のお心盡しもに成て返つてかけ御心配ごしんぱい學問なさるが親不孝おやふかうと申すはこゝの次第なりと一什をあかすに打聞息子むすこうでこまねいて默然たりしが漸々やう〳〵にして首をあげ世に有難き御慈愛いつくしみを傳承りて勸たる和郎が言葉をもちひずして博識はくしきぶりたる我答へ今更いまさら思へば面目めんぼくなし花はともあれ父母のこゝろを休むる其の爲に明日は花見にゆくければ必ずあしくな思ひ給ひそと和郎そなたよりして言て呉て流石さすが孝子かうしとけ安く答へにければ忠兵衞もそれ拜承うけたまはり何より安心かくと申さば御兩親もさぞお喜びなさる可し夫では明日お辨當べんたうの支度も致せばおともには店の和吉をおつれなされ上野うへの成共なりとも隅田すみだ成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉も今年ことしは十四なれば貴君あなたのおともには恰好かくかううれしき餘り忠義の忠兵衞己れ一にん饒舌廻しやべりまはし其座を退しりぞおくへ至り偖斯々と夫婦にはなせば二人は息子せがれ孝心かうしんめ又忠兵衞をねぎらひて明日あすの支度にかくと心をらうすは世の中のすべての親のじやう成可し斯て其翌日に成しかばあさより辨當べんたうなど製造こしらへて之を重箱ぢうばこに入風呂敷ふろしきに包みて和吉に脊負せおはせて待間まつま程なく長三郎は身姿みなりを繕ひ部屋の中より立出たちいで來り兩親始め忠兵衞にも挨拶あいさつ成て和吉を引連ひきつれいではしたれどさわがしき所は素より好まねば王子わうじあたりへ立越てかへで若葉わかば若緑わかみどりながめんにも又上野より日暮ひぐらし里などへ掛る時はかれ醉人の多くして風雅ふうがを妨げ面白おもしろからねば音羽通を眞直まつすぐに護國寺はじ波切不動なみきりふどうへ參詣て田圃道を緩々ゆる〳〵王子へ行可しとて小川町へとかゝりけるに和吉は大きにのぞみを失ひ花見といへば上野か隅田すみだ又は日暮里飛鳥山人の出盛でさか面白おもしろき所へ行が本統ほんとうなるに如何常より偏屈へんくつなる若旦那とは言ながらとほき王子へ態々行夫もにぎはふ日暮里をばきらひて見榮みばえなき土地とちの音羽を通て行と云は世にめづらしい人も有と口には言ねど幼稚心こどもごころの腹の中にて思ひつゞけすゝまぬ足をひきずりながらあとに從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に腹痛ふくつうなし初めこらへ難なく成しかばかはやいらんと思へども場末ばすゑの土地とてかりんと思ふ茶屋さへあらぬにこうじたり


第二回


 此所等ここらあたりは場末ばずゑの土地とてかはやからんと思へども茶屋さへ無にこうじたる長三郎の容子ようすを見て和吉は側のうらへ入り其所此所そこここ見ればきたなげなる惣雪隱そうせついんありたれば斯とつぐるに喜びて其所へ這入はひりて用を足しいでつゝ手をばすゝがんと見れば雪隱せついんの角の柱に五合樽の片手かたてり引掛あれど中には水なし困じてそばに待ゐたる和吉に吩咐いひつけ井戸の水をくませんとなし其せつに此眞向まむかひの棟割長家むねわりながや建續たてつゞけたる其中にも一そうきたな荒果あれはていと小狹せうけふなる家の中に五十四五なる老人一個ひとり障子一枚押開おしひら端近はしちかふ出物の本を繰廣くりひろげ見てゐたりしが今長三郎が手をあらふ水のなきをばこうじゐる容子ようすを計らず庭越にはごしに見やりて此方こなたに打向ひ茲等邊こゝらあたりに見もかけ立派りつぱ姿なりさだめし通行の方である可きに水がなければおこまりならん此方へ這入て遠慮ゑんりよなく手をばおすゝぎなさるがよいと言れてよろこ會釋ゑしやくしてやれし垣根の切戸きりどけ廣くも非ぬ庭へ進むに老人背後うしろ見返みかへりておみつ水をかけあげなと言れてハイと答へなし勝手口かつてぐちより立出るは娘なる年齡としのころまだ十七か十八こうまつの常磐のいろふかき緑の髮は油氣あぶらけも拔れどぬけ天然てんねん美貌びばうは彌生の花にも増り又中秋なかあき新月にひづきにもおとらぬ程なる一個の佳人かじん身にはたへなる針目衣はりめぎぬを纒ひて其さまいやしげなれども昔し由緒よしある者なるかたち擧動ふるまひ艷麗しとやかにて縁側へ出擂盆すりばちの手水鉢より水をすくひ手にそゝぎしは縁のはし男は手をば洗ひながら見れば娘はたぐまれなる美女にて有れば是までは女を如夜叉によやしやと思ひ込しいと物堅ものがたき長三郎も流石さすが木竹きだけに非れば此時はじめ戀風こひかぜ襟元えりもとよりしてぞつみ娘も見たる其人は本町業平俳優息子なりひらやくしやむすこ綽名あだなの有は知らざれどたぐまれなる美男なれば是さへ茲に戀染こひそめて斯いふ男が又有らうかかういふ女が又有らうかとたがひ恍惚みとれ茫然ばうぜん霎時しばし言葉もあらざりしが稍々やう〳〵にして兩個ふたり心附こゝろづいてははづかはしさにはつと面に紅葉もみぢして長三郎は手を拭ひ主個あるじ親子に禮をのべ和吉を引連ひきつれ立出ながら跡へ心ののこりけるが見返り〳〵路次口ろじぐちへ出でゆく姿を娘もまた殘り惜氣をしげに見送りける斯くて長三郎は戸外おもてへ出ながら思ひつゞける娘がことあゝいふ女を妻とたらば男にうまれし甲斐かひあらんにわれも妻をばもつなればかへつて親に話せし上否々いや〳〵夫も自身じぶんの口から斯々なりとは言惡いひにくし如何はせんとおいつ思ひまはせば廻すほど我身ながらにもどかしく最早もはや花見に行可く氣もあらねば此方へ歸りかゝるに和吉は狼狽あわてて袖をひきモシ若旦那さういつては「イヤ吾儕わしは花見にはモウゆかぬ是から家へかへるなり」と言捨いひすて足を早めるに和吉は本意ほいなき面地おもゝちにて夫では花見はやめになつたかさうして見ば辨當を此音羽このおとはまで脊負しよつて來てまた脊負しよひかへす遠方御苦勞何の事はない辨當の供をして來た樣な物だとつぶやき〳〵本町へ歸る途中とちうも長三郎思ひなやみし娘がこと言はぬもつらし言も又恥しゝとは懷中ふところそだちの大家の息子むすこ世間せけん見ず胸に餘て立歸るもあまりはやしと思ふより如何したことと兩親が問ば先刻せんこく音羽まで參りましたが腹痛ふくつうにて何分なにぶん心地こゝちあしければ王子へ行ずに立歸りしと答へて欝々うつ〳〵部屋に入り夜具やぐ引擔ひきかつぎ打臥うちふししが目先に殘るは娘の姿すがたねむらんとするにねむられず忘れんとするにわすられずゆめうつゝの境を行く戀病こひやみなりとは露知つゆしらぬ兩親大きに氣をもみて相藥など與ふるうち其日の申刻なゝつさがころ淺草邊まで掛取かけとりに行たる忠兵衞歸り來てきけ斯々かう〳〵言わけと主個あるじが話すに打驚うちおどろきおいやと仰せ有たるを無理むりにおすゝめ申したは此忠兵衞ゆゑ夫がため御病氣ごびやうきおこらば大變たいへんなりとまづ取敢とりあへず長三郎の部屋へ至りて障子しやうじそとまで來りし時に中にてはおそはるゝやら寢言ねごとやらサアお出なさい有難うと判然はつきりいひしが其跡は何をいひしか譯もわからず忠兵衞不審ふしんに思ひながら障子をひらいて内に入るおと此方こなたは目をさませば忠兵衞ひざ摺寄すりよせて今日の事は旦那樣よりうかゞひまして折角せつかくのお花見にさへおいでがなしと聞て驚き御容子ごようすうかゞはんとて障子しやうじそとへ參りしをり寢言ねごとなるか夫かあらぬか如此これ〳〵和君あなたは仰せ有ましたがねつもあらぬに今の御言葉どうも合點がてんが參りませぬ然すれば病氣と仰被おつしやるうそにて途中とちうで何事か有しを胸に思うてゞ御座りませうが如何いかなることか此忠兵衞におはなしを如何どうぞなされて下されませとほしさゝれて長三郎はつと計にかほあからめ面目なげに見えけるが漸々にしてかうべを下げ和郎そなたを初め兩親にかたるもいとゞ面伏おもぶせと思ふばかりに言も出さず心地こゝろあししと打伏しがさうとはれてはつゝむに由なし實は今日音羽までゆきたる時に箇樣々々かやう〳〵かはやへ入んと七丁目の鹽煎餠屋しほせんべいやと炭團屋の裏へ這入て用をし出たるのち淨水てうづこまをりから斯々かく〳〵の娘を見染ぬ世に二個となき美人なればそゞろに戀しく思ひつゝ此美婦人このびふじんくらぶれば櫻もいかで物かはと花見をなす失果うせはてて立歸りしが氣もむすぼとこへ這入て忘れんと目睡まどろむゆめの其中に水をくれしを見たりしがさて寢言ねごとを言たるか面目なしと計りにて一一什しじふを語りけるをきゝ忠兵衞はあきはて吐息といきついてゐたりしが一個點頭此方に向ひ能くおよぐ者はおぼるゝとやら平常へいぜいよりして女ぎらひで學問にのみおこりなさるゝ和君あなたが計ず見染れば思ひの程も又つよは然ながら夫程まで御執心ごしふしんなる女兒をなごなら假令たとへ旦那樣御夫婦が何と仰が有らうとも此管伴このばんたうが引受て急度きつと和君の思ひをばかなへる樣に致しますれば必ずおあんじ成されますなと言ば長三郎は莞爾につこりわらひ忠兵衞何分なにぶん能き樣にといふより外に言葉なきを聞流しつゝ奧へ至り主個あるじ夫婦に今日の始末しまつ箇樣々々かやう〳〵と話しけるに夫婦ふうふの者もひざを打ち如何いかに懷中ふところそだちといへ何故なぜ云々これ〳〵とは言ずして思ひなやみおろかさよ今まで夜歩行よあるき一つせず親孝行な長三郎し氣に入し者あつて素生すじやうたゞしく心立のよき者あらばいやしき勤の藝者にもあれ娼妓にもあれ又は如何いかなる身分みぶんよき人の娘は言も更なりいやしき者の娘なりとも金にあかしてもらひ取りよめに爲んと思ひしに今日はからずもに入た女を見染て來たといふは此うへもなき大幸さいはひなれば御苦勞ながら管伴ばんたうどの明日あすにも先のうちへ行き身元正しき者ならば婚儀こんぎ言込いひこみ下されよとは言聞が如きていでは支度の程も覺束おぼつかなければ夫等は一しき此方で致してやつくるしくなき故此儀も心得給ひねと一個子ひとりこだけに子にあまき親は言葉ことば行屆ゆきとゞき落なく言れて忠兵衞が是も一つの安心と委細ゐさい承知しようちみせの方へ行しに頃は春の日もやゝ暮初くれそめて石町の入相いりあひかねひゞきけり斯て管伴ばんたう忠兵衞は此婚姻こんいんを言込は何より安き事ながらたゞ云々これ〳〵と言許りで向うの名さへもしらざる所へ突然いきなりゆきても話し難しえうこそあれとかんがへしが漸々やう〳〵思ひ附事ありて明日とく起出おきいで音羽の方へ至るについては案内者に和吉をつれて參りますと主個あるじに言てにはかの支度辨當べんたうつゝ吹筒すゐづつげ和吉を呼で今日は吾儕わしが花見に行なれば辨當を脊負しよひともをしてと言ば和吉はかうべふり何の用かと思ひましたら今日も亦花見のおとも吾儕わたし昨日きのふ若旦那につれられて行き懲々こり〳〵したれば何卒なにとぞ之は長松どんか留吉どんに代らせてと言をもきかずに打笑ひさうでもあらうが若旦那とはちがつて吾儕わしのはものくはぜにもやる故是非共ぜひともに「夫では和郎あなたはあの所とちがつて上野か向島「イヤ矢張やつぱり行先は王子にてしかも音羽へ出て行くつもり「ヲヤ〳〵夫では昨日きのふおなじだとふさ丁稚でつちに錢を取せ急がし立れば幼稚のならぜにを貰ひしうれしさに初の不平ふへい何處どこへやらあと引添ひきそひ出行きつ音羽の村へ差掛さしかゝり七丁目まで來りければたしか茲等こゝらと忠兵衞が歩行あるきながら四邊あたりを見たりぬ


第三回


 其時そのとき管伴ばんたうの忠兵衞は四邊あたりを見ればきゝしに違ず鹽煎餠屋しほせんべいや炭團屋たどんや路次ろじの有しに茲ぞと點頭うなづき和吉雪隱せついんへ這入ゆゑ一所によと言ながらうらへ這入れば和吉はまた今日けふも此裏の雪隱へ這入やうでは花の程も覺束おぼつかなしとぞ思ひける忠兵衞雪隱にて用を立出たちいで見れば水はなく向ふのいへに話しの老人らうじん障子をひらきて書をよみゐたるに是なる可しと庭口にはぐちより進み入つゝ小腰こごしかゞまことに申し兼たれどもおみづ少々せう〳〵下されませと言ば老人承引うけひきてお光や掛てあぐるやうと言葉のしたに立出る娘は水をそゝぎ掛け忠兵衞なれば恍惚みとれもせず其儘おくへ入たればよくは見ねども一寸ちよつとるさへ比ひまれなる美婦人と思へばうちの若旦那が見染みそめて思ひなやむ道理だうり要こそあれと主個あるじに向ひチト率爾そつじなるお願ひにて申し出すも出しにくきが吾儕わたくしは本町三丁目小西屋長左衞門こにしやちやうざゑもん方の管伴ばんたうにて忠兵衞と申す者なるが今日出番かた〴〵にて御覽ごらんの通り丁稚こぞうつれ王子へ花見にゆくつもりで辨當べんたうなぞも容易ようい致し參りましたれどはや草臥くたびれ殊にははらすきしより茲等こゝらで開いて一ぱいと思へど通に掛茶屋も有ねばじつこうじてをりしが只今たゞいま水をいたゞいたを御縁ごえんに致して願ひまするは此お縁側えんがは霎時しばしの中おかしなされて下さらば酒器さゝへひらきてはらつくろひぶら〳〵行ます積なるが如何いかゞなもので御座りませうと言ば主個あるじ片顏かたほに笑みなんの事かと思ひしがもとより安き其御無心ごむしん浪人者の疲世帶やせしよたいむさくろしきをおいとひなくば其所そこひえれば此方こなたにてと座敷の中へ花莚はなござしかせて二個ふたりせうずるに此方は喜び有難ありがたき旨をのべつゝ上へ登り風呂敷包ふろしきづつみ解開ときひらき辨當を出し吹筒すゐづつの酒を飮んとなしけるを主個の老人らうじん押禁おしとゞめ彌生と言ど未だ寒きに冷酒れいしゆ身體からだどくなればツイあたゝめて差上んと娘に吩咐いひつけ温めさせ料理は御持參ごぢさんなされたれば此方で馳走ちそう爲樣しやうもなし責て新漬しんづけ香物かうのものなりともと言へば娘は心得こゝろえて出して與ふる饗應振もてなしぶり此方は主個に酒盞さかづきすゝむる物から親子ともに下戸げこなればとて手にだもふれ詮方せんかたなければ一個ひとりにて傾けながら四方八方よもやまはなしの中に容子ようすを見れば昔し由縁よしある人なる可し親子の立擧動たちふるまひ尋常じんじやうならず親は篤實とくじつおもてあらはれ娘は孝行自然しぜんと知れまた容貌もすぐれたれば忠兵衞ほと〳〵感心かんしんなし主個あるじかたのうち向ひお見申せばお宅樣たくさまはお二個ぎりにてお孃樣ぢやうさま失禮しつれいながら美麗うつくしきお生れつきにて御座りますが定めしお婿樣むこさまをお取にてととはれて老人一滴ひとしづくホロリとなみだこぼしながら初てあつた此方衆に話すもいと面伏おもぶせながら不圖ふとした事から此樣に吾儕わしの家にて酒食しゆしよくするも何かの縁と思ふ故我身わがみはぢを包もせで話すをきいて下されかしもと吾儕それがしは有馬家にて祿ろく五百石を頂戴なし小姓頭をつとめたる大藤武左衞門と云者なるが夫婦ふうふなかに子と言は是なるおみつたゞ一人しかるに妻は七年前はやくせし以來このかたは何にも彼にも只二人さて我口わがくちより此樣な事を申すは自負じふたれど吾儕おのれ性來せいらい潔白けつぱくにて只正直を旨となしかりにもまがりし事はきらひ善は善惡は惡と一筋ひとすぢにいふ者なれば如何いかにせんみづきよければうをすまずのたとへもれず朋輩の讒言ざんげんに依り浪人なし此裏借家うらじやくやうつり住み近頃多病たびやうになりたれど心持のよき其日は此護國寺の門前へ賣卜ばいぼくに出わづかの錢を取つて親子が活計たつきとなすも今茲ことし丁度ちやうど三年越し他に樂みもあらざれど娘もいと孝行かうかうにして呉る故それのみが此上このうへもなき身のよろこび是も今茲ことしはモウ十七婿むことらねば成ざれど貧乏消光びんばふぐらしの浪人者のうちへは來る者あらじと思へば何處いづこへなりともよめに遣んと思ふにも似ず相應の縁邊えんぺんなければ其儘に背丈せたけのびたをかゝへてをるとさて心配な者でもありとかたる一什を打聞く忠兵衞わたりに船とて大いに喜び拜承うけたまはりたるお身の上一人娘を餘所よそほかへ御縁付といふ事ならばいと似附につかはしき縁談えんだんが御座りまするが如何いかゞであるかと申すはほかの事ならず吾儕家わたくしどもの若主人は十九になり箇樣々々かやう〳〵孃樣ぢやうさまとは年齡としごろから容貌の程も一つゐなれば此方へよめにお貰ひ申す譯には參りますまいかと問ば主個あるじかうべり本町通りの小西屋というては名高なだかき藥種問屋江戸指折ゆびをり豪商かねもちにてたれとて知ぬ者もなき大身代おほしんだいの嫁に成とは娘が出世しゆつせ此上なき喜びなれども此方こなたはまた見る影もなき浪人者らうにんもの釣合つりあはざるは不縁のもと決して是を相應さうおうせし縁邊なりとは言難ければ御深切しんせつの程有難ありがたけれど此義はおことわり申すべしと言れて望を失ひたる忠兵衞今は詮術せんすべなければ昨日きのふ息子せがれ長三郎が花見に出たる其折にはからこゝの雪隱に入り水をいたゞき手をあらをりに見染て箇樣々々かやう〳〵息子せがれが寢言兩親がことより自己おのれが來りたれどたゞ一向ひとむきにも言入かね實は斯々かく〳〵はからひて御懇意ごこんいになり此話しを言出したりといと事實じじつを明してのべたるに主個あるじはた横手よこてを打ち偖はさういふわけありしか夫にて思ひ合すればともをなされし丁稚でつちどの如何やら吾儕わしは見たやうな最前よりして考へ居りしが昨日來りし人で有しかそんなら水をあげし方が足下そくかの家の息子むすこなりしかとは知ねども容姿みなりもよく若きに似氣にげなく物柔ものやはらか折屈をりかゞみき人なればむすめもつは早くも目が附き何處いづこの息子か知ざれど美男びなんの上に温順おとなしやとおなじ事ならあゝいふ人に娘をやりたき物なりとさる大家とは知ざれば一個ひとりこゝろに思ひゐたるが息子殿には不束ふつゝかなる娘お光を夫程におぼめして給はるからは此方も今は推辭いなむすべなし吾儕おのれ承諾しようだく致したが女兒むすめは如何と振返ふりかへり問れてお光は先程より父ときやくとの物語ものがたり昨日見染めた其人は然る大商人おほあきうど息子むすこにてしがない消光くらしおはるゝゆゑつくろひもせず花香はなかもなき此身の姿すがたがお目にとまり夫程迄に戀慕うて下さるといふ有難さ勿體もつたいなやとばかりにてうれしさまじはづかしさにちりのみひねりてゐたるゆゑ今改めて父親ちゝおやに問れたりとて回答いらへも出來ず押默止おしだまつてゐる横顏よこがほを見やりて父は打笑ひませた樣でもまだ幼稚こども兎角とかく縁談の事などはづかしいのが先に立ゆゑ判然はつきり返事へんじも出來ぬ物だが一しやう連添つれそふ本夫をつとの事いやな者をば無理むりやりに行とは決して言はせねど昨日きのふ向ふは其方そなたをば見染た程の事といひ吾儕わたし息子むすこを能く見たれば和女そなたも定めし見たであらすれば見合みあひも濟だと言物ことに息子殿は戀病こひやみで早く安否あんぴが聞たいと管伴ばんたうどのも急がるれば其所そこ和女そなたとふなれば遠慮ゑんりよをせずに回答いらへなしねと言るゝ程猶彌増いやます未通女心おぼこごゝろ初戀はつこひしたふお方と縁のいとむすんでとけて末長く添るゝ事も父親が承知しようちとあればつひ斯々と言んとすれどかねしが斯てははてじと思ふよりハイ吾儕わたくし彼方あのかたなれば實に嬉しう御座りますと有か無かは聲出して思ひきつてぞ言たる儘發とおもて紅葉もみぢして座にも得堪えたへず勝手の方へにぐるが如く行たるは娘意むすめごころぞ然も有可し父は見やりて打笑ひおきゝの如く娘お光も承知した事なれば吉日をえら結納ゆひなふのお取交とりかはせも致さんと言れて忠兵衞むね撫下なでおろし夫拜承うけたまは安堵あんどしました實は云々これ〳〵若旦那に誓つて置し事なればし御承知しようちのない時は如何いかゞなさんとはらの中で一方ならず心配を致して居しがまづ重疊ちようでふ左樣さやう御座らば立歸りよろこばせし上又あらためて出まする事に仕つれば何分なにぶん宜敷よろしくお頼申すとよろこびをのべわかれを告取散とりちらせし辨當など始末しまつをなしてもとの如く風呂敷に押包せ丁稚でつち脊負せおはいさみすゝんで歸りけるが和吉は霎時しばらくかたへに在て二個ふたりが話しを熟々つく〴〵きゝ主個あるじの息子が昨日きのふこゝより歸りしわけも今日は又態々わざ〳〵こゝまで忠兵衞が來りてむさうちをもいとはず酒をのみたる事までも今はさつぱりわかりしが餘りはなしの出來すぎて花見は又も廢止やめになり再度ふたゝひとほき音羽より辨當箱べんたうばこ脊負しよひもどせしに幼稚意こどもごゝろ管伴ばんたうを恨むつみもなかりけり


第四回


 さて管伴ばんたう忠兵衞は歸ると其儘今日の始末しまつおちなく話したりけるに主個あるじ夫婦ふうふはほゝ容貌きりやうばかりか心操こゝろばえも又其素生すじやうすぐれたる女で有らば言分なし追て𫥇なかうどを立表向つかはすなれどぜんいそげ且は一子せがれにも安心をさせるがよきゆゑ箇樣々々かやう〳〵結納ゆひなふつくり明日遞與わたし變改へんがいなき樣致してと云れて忠兵衞こゝろ主個あるじが前を退まがると其まゝ長三郎が部屋へき先方がこと兩親りやうしんがこと萬事上首尾じやうしゆびなるよしをつげれば是さへ喜びて忽地たちまち心地は能く成けり忠兵衞たゞち結納ゆひなふそろへる中に其日は暮行くれゆ明日あすあさに品々を釣臺つりだい積登つみのぼせ我家の記章しるし染拔そめぬきたる大紋付の半纒はんてんを着せたるをとこ六個むたりかつがせ音羽へ至り路次口にまたせ置つゝ進入り昨日きのふれいのべたる上𫥇人なかうどを立て良辰よきひを撰び結納持參なす可き所ろ思ひたつ吉日きちにちと主人も申し候へば差附さしつけがましく候へど今日品々しな〴〵持參したれば何卒お受取うけとり下されと水引掛し目録書もくろくがきを出せば大藤受取て世に婚禮こんれいにはもちひると又いむき日と有といへどもいづれ附會ふくわいせつの多くて取可き所ろもさらになし然は云へ世俗せぞくに從はずば和郎そなたの方の如何いかゞにやと思ふ計りに良辰よきひえらみてと言はしたれど此方このはうにてはもとより日にはかまひなければ今日結納ゆひなふ幾久いくひさしく受納致すと目録書を押頂おしいたゞけば忠兵衞は路次ろじそとなる者を呼込よびこみ三荷の釣臺つりだいはこばせて油團を掲げ其中より取出とりいだしたる柳樽やなぎだる家内かない喜多留きたるしるしゝは妻をめとるの祝言にやあさ白髮しらがとかい附しは麻の如くにいとすぐとも白髮しらがまで消光くらすなる可し其のほかするめ壽留女するめとするなどみな古實こじつなる書振かきぶりの二樽五種とは言ながらいづれも立派りつぱしたてたれば只さへせまき此家は所せまきまでならべ立られすわひまさへ有らざりけり主個あるじは何やら娘お光に私語さゝやきしめせばお光は心得何程なにほどづつかの祝儀しうぎを包み與ふるほどに六個むたりの者は管伴ばんたうを經て禮を演べ早用なしと忠兵衞がいへるにいづれもから釣臺をかついで本町へと歸りける跡に忠兵衞懷中ふところより金子二百兩取出とりいだし此方ののぞみに縁談えんだんを無理に願ひし事なればお支度したく其他に和君の方へ御物入おんものいりを掛ましてはとおもふよりして此金は其所そこに記しゝ帶代おびだいに差上ますれば失敬ながら御受納ごじゆなふの上是を以てお支度したくほどこひねがふと言ば大藤景色けしきばみ甲斐なく消光くらす浪人ゆゑたくはへの程も覺束おぼつかなしと思うてかくは言るゝかはしらざるなれど武左衞門支度金をむすめをばよめに遣たと言れなばまことよめには非して金に其身をまかしける妾々めかけてかけも同樣にて末代まつだいまでも家名のけがれ娘持身は殊更に婿むこむかへるか嫁にやるなさねば成ぬはうまれし日より知てをりたる事なれば其入用いりようにとかねてより貯へ置たり金子ありて貧苦ひんくの中にも失はざれば今度の支度に事かゝ此事このことはしもお光はまだ知ねば共に是を見てうたがはらせと言ながらと立上り床の間に飾置かざりおきたる破果やれはて具足櫃ぐそくびつふたかい遣り除けそこさぐつて一包のかね取出とりいだ二個ふたりに示し爰に百兩あるからは必ず心配しんぱい無用なりと浪人しても流石は武士ものゝふ用意の金を貯へはに色も香もいとふかき山吹色とぞしられたり娘ははじめたる金今日まであかしもなし給はで貯へ置て下さるも此身の上をおぼめし親の慈悲じひこそ有難けれど又今更に有難涙忠兵衞こゝろ面目めんぼくなく御浪人なるお身の上を輕視かろしめかくと申すにあらねど主人が寸志すんしを其儘に申し述しが支度金とお見做みなしありては面目なくことにおたしなみの大金を拜見はいけん致し汗顏かんがんの外は之なく候へば此二包は持歸り主人にとくと申し聞候なればお立腹りつぷくをと云ば武左衞門おもて和柔やはらげいやとよ此儕おのれ心志こゝろざしの徹らばいかいかる可き然ども折角せつかく持參せし金を其まゝ持返もちかへらば和郎そなた幼稚こども使つかひひとしく主人に言譯あらざる可しついては一度受納じゆなふしたれど此方こなたは見らるゝ如くにて親子おやこほかに人もなければ結納持せて遣難し依て此まゝ此金は其婿殿むこどの上下料かみしもれうに送りたりとて返し給ひぬ然すれば和郎そなたの役目もたゝんと信あり義あり何から何まで拔目のあらざる言葉ことばかんじ忠兵衞はたゞ拜々はい〳〵と言受なして金を納め我家へ歸り夫婦ふうふの者に一伍一什を告ければ二人は流石さすが武士ぶしは武士いと見上みあげたる親子の者と思へばいよ〳〵たのもしく婚姻する日を急ぐ物から大家たいけの事ゆゑ出入でいりの者まで萬事行屆かする其爲に支度にかゝりて日を送りまだ當日さへさだめざりけりさても此方は裏店うらだな開闢かいびやく以來いらい見し事なき釣臺三荷の結納物をかつぎ入ける爲體ていたらくに長家の者は目をおどろかし何處いづこへ行やと思ひしに思ひ掛なき大藤の家へと擔入かきいれたりければ偖は娘のお光さんが何處どこぞへよめに行事かアノ結納の容子では先は大家の思はるゝが成程なるほど彼兒あのこ容貌きりやうが能く音羽小町と綽名あだなにさるゝ程にてあればうぢなくて玉の輿に乘る果報くわはう愛度めでたく其日消光くらしの賣卜者の娘が大家のよめに成なら親父殿まで浮び上り左團扇ひだりうちはに成で有らうと然ぬだに口やかましきは棟割長屋むねわりながや習慣ならひとて老婆もかゝも小娘もみな路次口に立集たちつどかしましと讀むじだらくの口唇くちびるかへ餞舌おちやつぴいねぐらもとむる小雀の群立騷むらだちさわぐ如くなり斯くとはいざや白髮交しらがまじりの髮を結びて手拭かぶたへ布子ぬのこすそ端折はしをり片手かたてふるびし岡持下げ足元輕く立歸る老婆らうばは長屋の糊賣のりうりお金營業仕舞て這入來はひりく姿すがたを見るより夥多おほぜい和女おまへとなりの事といひ常から親しくなさるゝゆゑ彼所あすこの事は御存じだらうが今日けふ是々と結納を賣卜者うらなひしやの家へ持込だか先は何處どこだか御存かへと問れて此方こなたは寢耳に水みなさん方も知ての通り吾儕わたくしは子もなく本夫ていしゆおく一箇ひとり者ゆゑ營業に出るとき家に錠をおろとなりたのみかへればまたヤレ火を呉れの湯を呉のともらひに行て一つ家も同じやうにはしてゐる故夫程立派な結納ゆひなふが來る程ならば吾儕わたくしにも何とかはなしが有りさうな物で有るのに無のは不思議ふしぎ吾儕が聞て上やうと先にすゝめ夥多おほぜいあとに從ひ雜路々々ぞろ〳〵と皆門口まで來りしがわかれておのが家々に思ひ〳〵にいりにけるお金はかどより聲をかけ這入ば長屋のうはさたがはず最美事なる品々が所狹まで並びゐたるに如何どうした者と裡問うちとへば武左衞門は昨日きのふより今日までの事委敷くはしく演べ箇樣々々かやう〳〵の事ありて急に今日結納の取交とりかはせをばしたれば婚姻こんいんの日は先方より言越いひこし參らば直にしても致せるやうに爲て置たく就ては娘が天窓あたまものおび衣類いるゐ箪笥たんす長持ながもち其外一しき新撰あたらしとゝのへんとは思へども是等に男はやくに立ず然とて親類しんるゐ縁者えんじやとても有らねば萬事ばんじを頼みたく今日は和女そなたの歸りをば實は二個ふたりで待てゐたりと言ばお金はまばらなるあらはして打笑ひ然いふ目出度お話と聞ては吾儕わたしも實にうれしく斯いふ事を申すのもチト失禮しつれいでは有りますが常におやさしいおみつさん吾儕わたしは自分の子の樣に思つてゐませば營業しやうばいを休んでなりと駈歩行かけあるき御用を達てあげますよ是といふのも親孝行おやかうかうかみほとけがお守りなすつて此上もない幸福さいはひが參つた事で御座りませうとお金も共に打喜うちよろこび是より後は營業を終了しまうとお光の方に至り萬事の相談さうだん買物かひものなんどに深切しんせつつくせば親子は喜び親類しんるゐがはりに當日はお金も其所のせきのぞみよろしくたのむと此者の衣類いるゐおびこしらへやりしにお金はいよ〳〵嬉しさ自慢じまんたらだら此事を長家はもとより四邊あたりへも吹聽ふいちやうなせば其邊へはつうはさの立行て或は之れをうらやむあり或は之をねたむもありて衆口しうこう喋々てふ〳〵當分たうぶんはお光の事のみ云あへるをみゝに入たる家主の庄兵衞にはかに安からず思うて一人心を定め此婚姻こんいんさまたげんとたくみ奸計かんけいに當りつひにお光が汚名をめいかうむ赤繩せきじようたえたる所より白刄しらはふるつてかん白洲しらす砂石しやせきつかむてふいと爽快さうくわいなる物語はまたくわいを次ぎ章を改め漸次々々に説分くべし


第五回


 つき明瞭あきらかならんとすれば浮雲ふうん之をおほひ花美麗うるはしからんとすれば風雨之をやぶ寸善すんぜん尺魔せきま俚言ことわざむべなる哉大藤武左衞門の女兒むすめお光は孝行のとくならず隣家となり老婆らうば婚姻こんいんの事如斯とふれ歩行あるくより思はぬ事の起りて喜ぶ幸ひも今ふりかは災禍わざはひもとを如何と尋るに此裏長家の家主を庄兵衞というて今茲ことし廿年はたち餘り二つに成り未だ定まるつまもなく母のおかつ二個消光ふたりぐらしなせども茲等は場末ばずゑにて果敢々々しき店子たなこもなければ僅かばかりの家主にては生計たつきの立ぬ所より庄兵衞は片手かたて業に貸本をもて營業と爲ぬ又同町に山田元益げんえきといふ醫師いしやあり是はれ庄兵衞が兄にて幼名をさなゝを庄太郎といひしが性來しやうらいからぬ品行おこなひありて賭博とばくを好みさけを飮み親に苦勞くらうを掛ることも度々あれば父はいか久離きうりを切て勘當かんだうせしにかれ方々はう〴〵彷徨さまよふうち少く醫師の道を覺え町内へ來て山田元益と表札へうさつ門戸もんこを張れどももとよりつたな庸醫よういなれば病家はいと稀々まれ〳〵にて生計くらしの立つほど有らざれば内實ないじつ賭博とばくを旨とすれば父のいかりはいよ〳〵強く勘當かんだうゆれん樣もあらねば其儘そのまゝにして過行しが去年父親は死去みまかりしに母は女氣をんなげの心よわき所へ持込もちこみ詫言わびごとせしかば故なくすんで今ははや往通ゆきかよひをなす中に成しに元益は兄といふを笠に打着うちきて庄兵衞に無理むりを言うこと度々なれど庄兵衞意に心能らず思うて言葉ことばあらそひせし後は久しく往通ゆきかよひもなさで居しが庄兵衞はとうより大藤の女兒むすめお光に戀慕れんぼなしつゝ忍び〳〵袖褄そでつまを引者ながら彼方は路傍ろばうの柳にひとし浮氣うはきの風の吹くまに〳〵なびく女に非れば打腹立うちはらだち言懲いひこらさんとは思へども家主なればとこらへて程よくまぎらはし其まゝにして過すに庄兵衞情慾じやうよくいよ〳〵つのりお光は我をきらふにあらねど未だ未邊女氣おぼこぎのうらはづかしく發揮はき問答へんじを爲さざるなる可し就ては氣永きなが口説くどく時は竟に意に從ふならんと思ふにもず其娘は今度本町の小西屋へ縁談えんだんきまり箇樣々々と糊賣のりうりお金が話したるを聞より此方の庄兵衞は今迄手活ていけの花とのみ思ひゐたりし女をば他へ取るゝ無益しさ如何はせんと取置とつおいむねくだき寢食しんしよくも忘るゝ計に考へしが不圖ふと思ひ附きお光をば手に入んこと外になし此婚姻こんいんさまたげせばかれ自然おのづから此方こなたなびかんあゝ然なりと思案せしが此方策はうさくこうはてついては惡き事に掛てはかしこき者は兄の元益是に相談なして見ばやと先元益が方へ至るに博奕ばくちまけこみたるか寢卷ねまき一枚奧の間にすゝぶりゐたるが夫と見てたれかと思へば弟の庄兵衞何と思つて出て來たか知ねど兄に無禮ぶれいを云ひ謝罪わびにも來ねば此方もまた今日まで出入もなかつたが一體何で來たのだととはれて此方は天窓あたまきツイ先頃はお互にむしの居所のわるい所から言葉たゝかたれども考へ見れば吾儕わしが惡いとかう謝罪あやまつた上からは主は素より舍兄あにのこと心持をば取直し何卒力に成て下せへと云ば元益點頭うなづきて然事がらさへわかつた事なら素より同胞きやうだい何を云ふ然し改まつて力に成てと言のは如何どういふ次第だかと問れて庄兵衞はお光が事一一什しじふを打明し斯いふわけゆゑ邪魔じやまを入れ其婚禮こんれい茶々風茶ちや〳〵ぷうちやたらば女は吾儕われの物ときはめてはゐるが手段にこまり其所で兄貴に相談に來たが趣向しゆかう無物なきものかと問はれて元益笑ひ出し世に自惚うぬぼれ瘡氣かさけのない者はないとぞ言にたがはずお光は未だ手に入ねば此婚禮こんれい破談はだんに成てもお主の方へ來るか來ねへか其所の所はわからぬが是を破つて自分の方へ引入やうとは流石さすがに弟感心したゆゑ力に成て其婚禮こんれい破談はだんにしやう。夫ぢやアやつて下さるか如何いかに吾儕われがことをかまて見せようが此姿すがたでは如何どうかう詮方しかたがねへ付ては身姿みなりこせへるだけ金をば五兩貸てくれ。ムヽ五兩と云ては吾儕おれの身では大金ながら後刻のちまでに急度きつと調達こしらへもつくるが然して金の入用と邪魔じやまの手段は如何いふわけか安心するため聞せてと云ば元益庄兵衞の耳のほとりへ口さし寄せ何事やらんやゝ霎時しばらく私語さゝやきしめすを聞中に此方は莞爾にこ〳〵笑ひ出し聞了つては横手をち成程々々奇々きゝ妙計めうけい必ず當るに相違なし夫なら直に金の算段さんだん急度きつと相違のない樣に直に調達致して來ようとつかと戸外おもてへ出たるは其日も已に暮合くれあひすぎなりも此家には妻子もなく一個住ひとりずみにて玄關番げんくわんばんを兼た飯焚めしたきの男一人在れど是さへも使に出たる後なれば同胞きやうだい如何なる密談みつだんせしや知者しるものたえて無りけり斯て後庄兵衞は翌朝よくあさ五兩の金を調達こしらへ兄元益に遞與わたせしに此方は心得其金もてしちに入たる黒紋附くろもんつきの小そで羽織ばおりを受出し近所の竹輿屋かごや吩咐いひつけて醫師陸尺ろくしやく。三人仕立したて切棒きりぼう竹輿かご路次口ろじぐちすゑさせ自己おのれは夫に乘り方々とこゑかけさせながら本町へこそ到りけれ竹輿舁かごかきかねて心得ゐれば同町三丁目の藥種やくしゆ店小西屋長左衞門の前におろし戸を引開ひきあけて直しける雪踏せつた鼻緒はなをいとふとき心を隱す元益が出てしづ〳〵進み入に店の者等は之を見ればとし三十路みそぢたらざれど人品じんぴん骨柄こつがらいやしからず黒羽二重くろはぶたへに丸の中に桔梗ききやうもんつきたる羽織はおりを着なし竹輿かご體裁ていさい陸尺ろくしやくの容子を見ても何某と稱るゝ御殿醫先生ならんと思へば一同うやまひまづ此方へと上座じやうざせうすに元益更に辭する色なくいと鷹揚おうやう挨拶あいさつして打ち通りつゝ座に附ば今日は管伴ばんたう忠兵衞が不在なるに依り帳場ちやうばにゐる主人長左衞門は立出て敬々うや〳〵しく挨拶あいさつなしおちやあげよと云ければ和吉わきちは番茶を茶碗ちやわんみイザと計りに進めけり發時そのとき主個あるじは此方に向ひ御用のすぢは如何なる品と問へば元益茶碗ちやわんをば先下に置き懷中くわいちうより一枚の紙取出し如何も少々の買物かひものにて氣の毒ながら此方の店は藥種やくしゆが能きゆゑ態々わざ〳〵遠方ゑんぱうよりして參りたれば此の十一を何れもみな一兩目りやうめづつ調合てうがふなし極細末ごくさいまつにしてもらひたいと出すは身姿みなりも能き事ゆゑ定めし高金の品のみならんと思うて開き讀下よみくだせば然に非ずして極安ごくやすき物のみなればあきれながら委細ゐさい承知しようちを仕つりぬ只今たゞいま藥研やげんに掛ますあひだ霎時しばらくお待ち下されと云つゝ夫を和吉に遞與わたし製造せいざう方へ廻させしは多少をろんぜぬ商個あきうどの是ぞ實に招牌かんばんなるさて細末さいまつの出來る間と元益に四方八方よもやまの話しを爲ながらも餘りに不審ふしんと思ふ故此方に向ひてひざを進めちと失禮しつれいな事では御座れど營業しやうばいゆゑに貴君樣に伺ひまするは外でもなき只今おほつけられし彼お藥の調合にて弊家共も代をかさね此營業を致しをれども箇樣な藥の合せ方初めて拜見はいけん致しますが一體是は何病にきゝますものかくるしからずばお教へなされて下されませと云ば元益打笑ひ成程是は貴主方が見ても一向解らぬも道理にこそあれ此藥はもと漢方家かんぱうか配劑はいざいならず愚老ぐらう先年長崎にて醫道いだう修業を爲しをり不圖ふと阿蘭陀おらんだの名醫より傳習でんじゆしたりし稀代きたい妙藥めうやくテレメンテーナと稱物いふものにて則ち癲癇てんかん良劑りやうざいなり然れども今のしなのみならず阿蘭陀おらんだ人より傳へられたる奇藥きやく二種ふたいろくはゆるゆゑ如何程おも癲癇てんかんなりともたゞ一二服を服用すれば忽地たちまち全快なさんことしも沸湯にえゆを注ぐに等き世にも怪有けうなる奇劑きざいなるは是迄夥多あまたの人に用ゐ屡々しば〳〵功驗こうけんを示せしより今度音羽おとは町の浪人らうにん大藤武左衞門の娘お光が矢張やはり癲癇てんかんうれひありとて愚老ぐらうの方へ療治れうぢをば頼に來しゆゑ診察しんさつするに數年の病のかうぜしなれば我妙藥わがめうやくの力にても到底つまり全快覺束おぼつかなければ一時は之をことわりしが父なる者の云るには今度むすめは江戸向の大家のよめのぞまれしがやまひ有ては相談も出來ねばふか押隱おしかく結納ゆひなふを取交し近日婚姻こんれい致す事に成しに依てはゆき早々さう〳〵やまひおこらば如何にせん故に根切ねきりにあらずともとたのまれたるより今日わざ〳〵此方へ參りし事なりとまづ大略あらましを語りけり


第六回


 其道を以てはかる時は君子と雖も計り得るにやすしとかや扨も山田元益げんえきはお光の婚姻こんれいさまたげるため此小西屋の店へ來り癲癇てんかんなるよし餘所ながらはなし出せば主個あるじを初め並ゐる店の者共等もかほ見合みあはせてゐたりけるにやつたりとこゝろなほ主個あるじに打向ひ今の女兒むすめの行先は大身代だいしんだいの由なれば此婚姻こんいん首尾しゆびよく成らば女兒むすめ計りが僥倖さいはひないでおやまでうかび上る事ゆゑ是非とも是をとげたし然どもかくしてやりたる病氣が一日二日の中に起らば折角せつかくなしゝ婚姻こんいん破談はだんになりてたからの山へ入ながらにして手をむなしもどるが如き事ある可し因て到底たうていなほらずとも藥の功驗きゝめで二月三月起らずにゐれば其後に假令たとへはつする事ありともはやそれまでには夫婦ふうふの中に人情にんじやうと云がおこり來れば癲癇てんかんありとて離縁りえんには成る氣遣きづかひも有まいからと云れて見れば其やうな物とも思ひ上治うはなほして致してやらねば其親子が折角せつかく得たる出世しゆつせの道のさまたげ爲やう思はるれば先の家へは氣の毒ながらさてかくまでには爲たりしと何氣なきていはなをり藥の細末さいまつ出來しとてもち來るより受取つ錢を拂ひて長居は惡しと會釋ゑしやくをなして元益は店を立出たちいで竹輿かごに乘り首尾しゆびよく行しと舌をき我家を差て歸りけりあと見送みおくつて長左衞門思ひ掛けざる醫師のはなしに只管ひたすらあきれて言葉も出ず茫然ばうぜんとして望みをりしがかげさへ見ずなりし頃やう〳〵われに歸りつゝ慌忙あわてゝおくに走り入り今の次第を斯々かう〳〵と話すに妻も且あきれ且は驚く計りにて夫婦ふうふかたみおもてを合せたゞ吐息といきのみつきゐたりぬかゝる所ろへ管伴ばんたうの忠兵衞外より歸り來り居間へ至るに長左衞門は待兼まちかねたりし風情ふぜいにてオヽ忠兵衞かおそかりし和郎そなたは此家に長の年月つとめて居て今にては管伴ばんたうとまで用ゐらるゝで有る故に大事の〳〵一個息子ひとりむすこへ取るよめ吾儕等わしら三個みたり皆目かいもく見ず和郎にまかした今度の一けんそれを何ぞやさぐりもせず何故あつて彼樣あのよう病持やまひもちをば引摺ひきずり込み結納ゆひなふまでも取交とりかはせしぞ息子せがれこゝろかなうたる者にてあらばとはいふたれど惡ひ病があつてもいと我々夫婦は決して云ぬに和郎そなたは左樣な女兒むすめとも知ずにえんを組せし無念ぶねんか又は知ども當座たうざのみければよいとの不實心で知て居ながら横着わうちやくきはめわけきかほしと腹の立まゝやぶからぼうにまくりたてつゝいひければ忠兵衞呆氣あつけとらるゝのみ少も合點がてん行ざれどもお光の事とは大方にすゐせばいよ〳〵わかかねなほ押返おしかへして問けるに主個あるじは今方店へ來し醫師がのべたるテレメンテーナの藥の事より大藤の女兒むすめかうと話したるが和郎は大事な主人のよめ途中とちうなんどで轉倒ひつくりかへ天窓あたまむさ草履ざうり草鞋わらぢのせられ恥を世の中へさらしてゐても大事ないかといかりの言葉ことばも無理ならず此方も是を婚姻こんいん邪魔じやまなす者の所爲しわざと知ねば彼奸計かのかんけい信實まこととなし貴妃きひ小町にも勝るとも劣はせじと思ふ程なる美人であれば其樣な病ももとより有るまじと思ふが故に近所きんじよ隣家となりの人にも更に平常の行跡ぎやうせきさへも聞事なくえんくみしは身の過失あやまりこの娘にして其病ありとは嗚呼あゝ人は見掛によらざる物かと嘆息たんそくなしてゐたりしが漸々やう〳〵にして此方こなたに向ひさる惡病のあると知らば假令たとへ若旦那わかだんながどの樣に戀慕こひしたひて居給ふとも決してお世話は致すまじきに全く知ずになせし事故不行屆ふゆきとゞきの其かどは平に御勘辨かんべん下さる可しさうして此上の御思案しあんは何の思案に及ぶ可きすぐ婚姻を變改へんがいしてと言はれて忠兵衞むねおほせ御道理ごもつともでは御座りますれど先から好みし縁談えんだんならず此方よりして若旦那が見染みそめて無理にもらひに行き此管伴ばんたうの目の黒い中に如何なる事ありとも離縁りえんはされぬと受合うけあひしを今更かうと申しては參り兼れば此事のみはといふ主個あるじ押返おしかへ假令たとへば無理にもらひしとて婚姻なしゝわけにもなく本の結納ゆひなふだけ取交とりかはした事にてあれば仔細有まじ夫をばしひいやいふ和郎そなたは病氣を知ての事か。全く以て是から先に行て呉るか。サア。サア夫はのつめ臺詞ぜりふ忠兵衞今は詮方せんかたなければ左樣御座らば此由を若旦那へ一おう話してと云ども主個あるじは更にきかず何の息子せがれに話すに及ばう如何いかに戀慕こひしたふ美人でも覆轉ひつくりかへつてあわを吹く者と知なば戀路こひぢさめ息子せがれ吾儕わし能樣よきやうに言ゆゑ和郎そなたは音羽町へ早くゆきねとせり立られ忠兵衞今は理の當然たうぜんせまられたれば一句も出ずちから投首なげくび腕組うでぐみして進まぬ足を進めつゝ音羽を差て行にける神ならぬ身の此方には災禍わざはひおこり來て無き名をおひしと露知つゆしらぬお光が嫁入よめいりの支度の好惡よしあし父親とも又お金とも相談して調とゝのへければ衣類いるゐ諸道具しよだうぐ今は殘らずそろひたるに大家の事故先方にては夥多あまたの支度ある事にて未だ調とゝのはぬか婚姻こんいんの日をば何日いつとて云うて來ぬかモウ今日あたりは來然きさうな物と親父おやぢいへ女兒むすめもまた戀しい人と二世のえんむすぶに附てうれしさの一日ひとひ千秋ちあきと思へども言はるゝ度にはづかしさの先立なれば果敢々々はか〴〵しき回答いらへもなくておもはゆげかゝる所ろへ門の戸開け這入はひり來るは小西屋の一番管伴ばんたう忠兵衞なれば夫と見るより父親てゝおやいとゑまに迎へ上げ忠兵衞どのか能く來ませし今日等は定めし婚姻の日限にちげんきめにお出が有らうと今も今とて娘と二個ふたりうはさを致してりし所ろマア〳〵此所へコレ娘何を迂濶うつかり致してをるお茶を上ぬか如何ぞやと待遇振もてなしぶりあつき程此方こなたはいよ〳〵こゝろ言出惡いひいでにく背後そびらにはあせするばかりに在りたるが斯てははてじと口を開き決してお構ひ下さるな今日はチト申上兼し次第が有て參りたり夫と申すは餘の事ならずお娘御樣むすめごさまとお約束を致しましたる吾儕わたくし方の主人の息子せがれ長三郎こと實は先日より病氣に附き種々いろ〳〵醫藥をえらぶ物から功驗しるしすこしもあらずして次第漸次しだいおもり行き昨今にては到底とても此世の人には非じと醫師も云ひ吾儕共わたくしどもも思ひますれば節角せつかくお娘御をむかへ申しても祝盃さかづきさへも致さぬうち後家ごけなすのが最惜いとほしければ此度の縁はなきものと思し絶念下あきらめくださるやと申して參れと長左衞門が吩咐いひつけに依て態々わざ〳〵參りましたるがまことにお氣の毒の次第にてといひたるまゝ戸外おもて飛出とびだあとをも見ずしてにげ行きけり此方の父女おやこは思ひも因ぬ管伴ばんたう忠兵衞が斷りにゆめかと計り驚きつ又はあきれてかほ見合みあは少時しばし言葉もあらざりしがお光はわつと聲立て其所へかつぱと打伏つ前後ぜんご正體しやうたいなきさけびぬ父もなみだに目をうるほせしが此方に向ひてコリヤ娘必ず泣な我も泣じ和女そなたそだて此年月よき婿むこ取んと思ふ所へ幸ひなるかなと今度の婚姻無上こよなき親娘おやこが悦びを思ひ附てもき母がいきをりなばさぞさぞ悦ぶならんと今日迄も樂しみ居たる甲斐もなく忽地たちまちことわるとの變改へんがい如何なる事に原因もとゐ候や知らねど一度約束して結納ゆひなふまでも取かはせしにかく言來る所を見れば幾許いくら大家の由緒ゆゐしよある家のといふても町人は町人だけで詮方せんかたなし必ず喃々くよ〳〵思ふなよとはげましながら父親も同じ袂をうるほはしぬ娘はやう〳〵顏をげ女と生れし甲斐かひなさは百年もゝとせの苦樂他人に在りと常から教を受まつれば本夫をつともた生涯しやうがいまかして朝暮あさゆふ仕へんと思ひし事も空頼そらだのみ仇しえにしに成ることゝ知ば年頃貧苦の中にも失ひ給はで吾儕わたしの爲に祕置ひめおかれたる用意金を盡して爲し支度さへ今浪費むだづかひに成りたるはくやしき限りに候へど夫も是非なきことながらモウ結納ゆひなふを取かはせし後にてあれば同衾ひとつねなさねど已に夫婦で有ると今故なく離縁されては吾女わたしは世間へ此顏が向られませねば如何なる越度をちど如何なる粗想そさうで離縁されしか其趣きを小西屋へ一度掛合吾儕わしら身體からだの明りの立やうに何卒どうぞなされて下されませとことわせめたるお光の述懷じゆつくわい無實むじつおちいり樂みし赤繩せきじようこゝに絶しと知ぬは憐れといふもおろかなりけり


第七回


 父はなみだを拂ひつゝ娘に向ひて又云やう其述懷じゆつくわいさる事ながらもし此先が武士なりせば今更になり箇樣かやうな事を面目めんぼくなくて云てもるまじよし又云て來たればとて此方こなた承引ひきうけ其明の立ざる中は使の者をいかで阿容々々をめ〳〵返す可き然るを先が町人にてもと町人といへる者は利にのみ走りて恥を思はず義理にはくらき者なるゆゑかゝる事さへ云出すならん然るを此方は人がましき者と思うて理窟りくついふ所謂いはゆる乞食かたひ棒打ぼううちにてすこしも役に立ざれば腹の立のは無理ならねど此は是までの事と斷念あきらめ必ず案じる事なかれととけさとせど娘氣の亂れ染ては麻糸あさいととくよしもなき其をりから隣の家の糊賣のりうりお金例の如く營業なりはひ終了しまうて今がた歸り來り我家へ入て荷をおろ重能ぢうのうがはりの石決明貝あはびがひたづさへ隣の家へ至り火をもらはんと行き見れば年が年中物爭ものあらそひ一つなしたる事もなき家には似氣にげなく親と子がさも不快氣ふくわいげなる面地おもゝちして然もなみだこぼしゐればお金は不審とまゆしわ平常へいぜいからして親子中のよいと云のは音羽中へひゞいて親に孝行な其お光さんが何した譯でと問ど親子は嘆息たんそくの外に回答いらへもあらざれば一所に置ては面倒めんだうというてお金は無理やりにお光を我家へ連行つれゆきつ何で喧嘩けんくわをなされたと問ばお光は面はゆに物あらそひせしわけならず二個ふたり泪をこぼしてゐたるは斯樣々々の次第なりと婚姻破談はだんに成し事をつゝまず告ればお金は驚きあれ程までに手を下てもらひに來りし小西屋で今更いまさらにはかに斷りに來のは何とも合點がてんゆかぬと云たるのみにて詮方せんかたなければお光を慰め家へ歸し吾儕おのれも大藤武左衞門に會つてくやみをいひにける物語二枝ふたつわか不題こゝにまた忠兵衞は主命なれば詮方なくいと云難いひがたき事の由を親子の者に云傳へ其所そこをばにげも出せしが追掛おひかけらる事もやとこゝろの恐れに眞暗まつくら散方さんばう跡をも見ずして我家へかへり向ふの始末斯々かう〳〵はなしてあせぬぐひけり夫婦は聞て先は安堵あんど此事一子せがれに云ん物と思へど未だ暇にとぼしく咄しもせねば和郎そなたまづ一子せがれとくと此よしをと云れていと迷惑めいわくながらいやとも云ねば部屋へ行き今朝こんてうみせへ一にん醫師いしやの來たりしことよりして親公おやごのいかりに詮方なく向ふをことわり歸へりしまで一伍一什いちぶしじふをはなしけるにきく長三郎は宛然さながら髮揷かざしの花をば散したる心地こゝちせられて茫然ばうぜんたりしが面色めんしよくへ膝をすゝめコレ管伴ばんたうどの忠兵衞どのそも〳〵大藤の女兒むすめおみつは父母の女房にするというて婚姻こんいんいひこみしことならずこの長三郎がかれ見染みそめ和郎そなたを以て結納ゆひなふまで取交したるなかなれば假令癲癇てんかんの病ありとも吾儕わしよいというならばそれまでにして父母ちゝはゝあへかういふすぢ有るまじ夫をして病有るものはといふわけならば一おうは我に話して縁組を變更へんがへす可きに然なくてその當人なる我耳わがみゝへはすこしも入ず和郎をもて變更さするは如何なることぞ父母も父母なり和郎も和郎あまりといへば餘りなる壓制業おしつけわざとや云けれ又一ぱうより云時はお光にかゝる病ありとも开は大道にて轉覆ひつくりかへあわふきたる所をば見たるに非で店へ來しいづれの者やら名も知ぬ醫師が云たることなれば是また證據と爲に足ず然るに夫を眞實まこととなし斷りたりしは麁忽そこつ千萬此方はげんに見たるといふ證據あらねば其醫師いしやの云しがそにて大藤のむすめに病の氣も有らぬをはやりて斷り後に至り斯と心の就く事あらばたゞ面目めんぼくなきのみならず本町の小西屋こそ大身代しんだいで有りながら事理のわかりし者なきや出所不定の醫師の言葉にまよひて病もなきむすめを病有とぞ思ひ詰め結納ゆひなふまでも取交せし其縁談えんだんを斷りしはいとわらふ可き事なりと世間の人の口の端にかゝりし時は我身と父母のはぢのみならず小西屋の暖簾のれんきずの附ことならずや故に縁談破談はだんの事は吾子わたしは決して承引うけひき難し然れども其實病あつて父母がお光をきらひ給ふと云事なれば長三郎は假令たとへこがれて死する迄も是非縁組とは云ざるなれば只今たゞいますぐ癲癇てんかんと云る證據を上て來て見せなば此のまゝゆるしもせんし然もなくは醫師の云ひし言葉はうそと思ふゆゑ父母にせまりて病にかゝはらずお光を如何でも女房に爲ねば成らぬと居丈高ゐだけだが辯舌べんぜつするど演立のべたてたるの當然に忠兵衞は一も出ず首をかんがへ見れば長三郎が云に違はずかのお光の病氣といふは何處の者やらわからぬ醫師が云しのみにて實際じつさい見たる譯ならねば今に成ては其病の有無とてもはかられずとすこしまよひのはれ來れば晴る程なほ面目なきははじめよりしてお光が上を能もさぐらぬ過失あやまりなりしと思ひ附ては中々に辯譯いひわけなけれどかうべを揚げお年若には給はで事理明瞭あきらかなる今のお言葉御尤にてかへす可きこととても候はず然ども今將いまは貴君あなた樣が旦那樣御夫婦におほせられてはお家のさわたゞなに事も忠兵衞が不行屆ふゆきとゞきおこりし事ゆゑ一度は斷り候えども如何樣とも爲し彼娘の病氣の有無を問合せ再回ふたゝび御縁ごえんむすばる樣致しますれば暫時く吾輩おのれにお預け下されませと思ひ入りてぞわびけるに長三郎は面をやはらげ夫ほどまでに云なりせば此回このたびは許しつかはす可ければ今日よりして五日の中にもし病氣有る物ならば有とぞ云るたしかな證據を取て其むね吾輩おのれに云ね又無時には縁談えんだん再回ふたゝびむすびて高砂たかさごうたへる樣に取計とりはからふ可し夫も五日の中に限りぬし日限を過す時は我も堪忍かんにん爲難しがたければ双親ふたおやに向ひ此事を詳細くはしく云て意中を聞ん和郎そなたも是を心得てと嚴重きびしく云れて忠兵衞は詮方せんかたなけれど言受し部屋を退しりぞ投首なげくびなし五日の中に善惡二つを身一つにして分る事のいとかたければ思案にくれるに最前さいぜんよりも部屋の外にて二個ふたり問答もんだふ立聞たちぎきせし和吉は密と忠兵衞のそばへ差寄りたもとを控へ人なき座敷へ引入て委細ゐさい彼所あれで聞ましたが思ひ設けぬ今度の一件吾儕わし最初さいしよに若旦那のお供をなして彼所へゆき夫から和君のお出の時もお供を致して最初さいしよからの事がらみなしつてゐるにあの娘御に限てはさういふ病の有る事とは思はれざれど有といひまた若旦那の被仰處おつしやるところも道理と思へど五日の中にどうしてそれさぐり給ふか吾儕わたしも共に案じられてと云ば忠兵衞點頭うなづきて年より怜悧さかしき和郎そなたの心配吾儕も切迫せつぱつまつた故まづ云るゝ通り五日をば承知をなして受合たれど何をあてにも雲をやみ。然いふ譯なら此事は秒時しばらく吾儕にお任せなさい彼近所へゆき夫とはなく病が有かあらざるかを聞定て來て參ますから成程是は大人おとなより幼稚こどもはうが遠慮がなくて聞には至極しごくよからうから何分頼と管伴ばんたうに云はれて心得打點頭うちうなづきませたる和吉は其儘に立出音羽へ至しが何處いづことはんと思案にくれまづ大藤が住居なる路次へ思はず入にけり


第八回


 怜悧りかうな樣でも幼稚なる和吉はうちを立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと其所等そこら迂路々々うろ〳〵爲しゝすゑ見れば大藤がとなりの家にて老婆一にんぜんに向ひ夜食やしよくと云へど未だ暮ぬ長日の頃の飯急めしいそぎ和吉は見やりて打點頭うちうなづき會釋ゑしやくをなして内へ這入ば小僧さんのりならばモウ無よイエ〳〵糊では有りませんがチト物がうけたまはりたくてと云はしたれどきまりわる暫時しばらく文字々々もじ〳〵もみながら四邊を見返みかへり聲をひそめ變な事をお聞申す樣ですがとなりのお家の大藤武左衞門樣の娘のお光さんは癲癇病てんかんびやうだといふ事です全く然で御座りますかと問ば此方は其むすめが婚姻破談はだんの事に就き胸の有也無也うやむや晴ざるをり今癲癇といはれては口惜くやしくもあれ忌々いま〳〵しければかつと怒つてはしすてと立上り飛掛とびかゝり和吉が首筋くびすぢとるより早く其所へ引附目をいからしコレ小僧和主てまへ何處どこの者かは知ねど大藤の娘お光さんに癲癇が有るるとは何の謔言たはごとあのお光さんは容貌きりやうく親孝心でやさしくて癲癇所ろか病氣は微塵みぢんいさゝかない人を癲癇病とは何の事一たい何處から聞て來たそし和主てまへは何處の者だサア云聞んと老婆の憤激ふんげき和吉はくるしいきさう被仰おつしやられては一言も御座りませねば申し升が何卒此手を放して下さいいきがはずんでたまりませぬと云ばお金は手をゆるさうして如何だと再度ふたゝびとはれ今はつゝみもならざれば自己おのれは本町小西屋の召仕めしつかひなることより婚姻とまできまりしが今朝こんてう箇樣々々かやう〳〵醫師いし來りて大藤の娘お光は云々かく〳〵と云たりしに主個あるじ長左衞門は大きに驚きすぐ管伴ばんたうの忠兵衞をもて此方へ斷りによこせしが子息長三郎は聞ていかり忠兵衞を説破せつぱして五日のあひだ癲癇てんかん有無うむ調しらべて來るやうにと云れて困り切たる景状ありさま見るに忍びず吾儕わたし負擔うけおひ爰迄聞に來りしと一什しじふのべ泪組なみだぐはなしを聞てお金の驚き息子が見染めて取ぬまでも二百兩といふ大金たいきん支度金したくきんにまでよこした小西屋今日に成り婚姻を變更へんがへするとは物の不思議と思つてゐたが此咄このはなしでやう〳〵もとわかつたり然ども醫師といふ奴が態々わざ〳〵彼所かしこへ行しうへあらぬことさへならべしはどうかんがへても合點がてんゆかずモシ小僧どん其醫師の年齡としごろ恰好かつかうその他に是ぞと云ふ目印はハイ登時そのとき吾儕わたしは家にゐたゆゑお茶も出たり話にも聞惚きゝほれよく〳〵見ましたが年の頃は二十七八まる顏にして色黒くはなひくくて眉毛まゆげまなこするどく其上に左の目尻めじり豆粒程まめつぶほどの大きな黒子ほくろが一つあり黒羽二重はぶたへ衣物きものにて紋は丸の中にたしか桔梗ききやうと言れてお金は横手をち其の人體にんていで考へれば醫師と云るは町内の元益坊主ばうずきはまつたりと云は面體めんていのみならずくろ羽二重に桔梗の紋は掛替かけがへのなき一丁渠奴きやつ小西屋のみせへ行き隣の女に惡名を付しは大方おほかた弟なる此家主の庄兵衞めに頼れてのわざなる可しかの庄兵衞は日頃ひごろよりお光さんには深く戀慕れんぼし度々口説くどけど云う事をきかぬ所より遺恨をふくみ元益坊主を頼込み此婚姻を邪魔じやまをしようと無き事いはせし物なる可し夫にて思ひ合すれば先刻營業あきなひの歸りみち元益坊主の裏手を通るとには障子しやうじ開放あけはなし庄兵衞と二人してならんで酒をのんでをりまづ首尾しゆびよく行て來たゆゑ必定ひつぢやう破談に成るだらうと咄してゐたは氣が付ねど常にはなかわる兄弟きやうだい今日のみ一つ座敷に在て酒汲交くみかはすは稀代きたいなことと思つてゐたが咄しの樣子と彼是かれこれかんがへ合すればいよ〳〵渠奴きやつに相違ない惡さも惡き二個ふたりの者如何してくりようとこぶしにぎり向ふをきつと見詰たる手先にさは箸箱はしばこをばつかみながらに忌々いま〳〵しいと怒りの餘り打氣うつきもなくかたへ茫然ぼんやりすわりゐて獨言をば聞ゐたる和吉の天窓あたま箸箱はしばこにて發矢はつしうてば打れて驚きお金は氣にてもちがひしかと思へばキヤつと云さまに其所を飛出し遁行にげゆきける此聲により糊賣のりうりお金はやう〳〵夫と心付き其の人にてもあらざるに怒りの餘り打たるは面目めんぼくなけれど聞捨きゝすてには成ぬは今の元益の一條すぐ此事をお光さんにと云よりお光は翌日あした仕掛しかけ米淅桶こめかしをけを手にさげて井戸端へとて行ん物とお金の前を通り掛ればお金は夫と見るよりもお光を呼入よびいれ今の次第和吉が來りし事よりして斷りたるは癲癇てんかんと云ふらしたる元益が所爲しわざよること是はまた家主庄兵衞が戀慕れんぼに出で云々かく〳〵なりし一一什しじふ委敷くはしくかたるを聞お光破談はだんの事の原因はやう〳〵わかりし物ながらいかりに堪ぬは家主が其奸計かんけい口惜くちをしき如何はせんと計りにて涙にくるる女氣の袖をしめらせゐたりしがやゝつて顏を揚げにはかの破談は如何した事と親子二個が一かたならず心配致して居し所ろ今拜諾うけたまはりしお話しにて吾儕わたしが無き名を負たりし次第はきつぱりわかりましたが今此事を親父さんに話しを致せば武士堅氣かたぎ無實の惡名あくみやうつけられてはと怒つてどんな間違にならうも知ねば明日あしたにても氣の落附おちついた其時に吾儕が徐々なんとかに云ますから何卒和君あなたからはお話なくハイ夫は承知しましたが餘りにく爲方しかたゆゑ明日に成たら親父に話して急度掛合にとあくまでこもる親切をしやしつゝお光は泣顏なきがほ隱し井戸端へ行き釣上つりあぐ竿さをを直なる身の上も白精しらげよねと事變り腹いと黒き其人が堀拔ほりぬき井戸のそこふか謀計たくみに掛り無實の汚名をめいを蒙りたるも最前さいぜんまですむにごるか分らざりしが今はわかれど濡衣ぬれぎぬほすよしもなき身の因果いんぐわと思ひ廻せば廻すほど又もなみだの種なるを思ひ返へしてゐるをりから後の方より背中せなかたゝきモシお光さんお光さんと云者のある誰ならんと振返ふりかへりつゝ打見やれば元益方にて祝酒いはひざけ汲交くみかはしゐて歸り來る庄兵衞なれば此方は發と怒りの餘に飛附てとはやこゝろ押鎭おししづめ誰かと思へば大家おほやさん大層たいそう御機嫌で御座りますねヘイヤ澤山たんともやらねど今其所そこ一寸ちよつと一杯やつたばかりさ夫はさうとお光さん今日新版しんぱんの本が出來できて未だ封切ふうきりもしないのが澤山あるが日がくれたらせめだけも見にお出そして今夜は母親おふくろは大師河原の親類へ泊りがけにと行て留守うちには吾儕わたし一人限ひとりぎりゆゑ必ずお出の色目づかひお光はうらみはらしたく思ふをりから云々とはれて大きにこゝろに喜び其うへならず母親も留守るすと云るはついでよしと早くも思案しあん莞爾につこりみ夫はさぞかし面白ふ御座りませうが甲夜よひのうちは親父おとつさんも起きてをり世間も何だか騷々さう〴〵しく本もよんでも身に成ませねば二更よつでも打て親父が寢てからそつと忍んでゆき御本ごほん拜見はいけん致しますから何卒どうぞ夫までお寢なさらずにお待なすつて下さいといひつゝ一寸ちよつと男の顏横目よこめで見たはお光の方に深き意の有とも知ず音羽小町と言るゝ程の美人びじんにてらされ庄兵衞五たい宛然さながらとろける如くいつもピンシヤンる娘が今日に限つて自分のはうから夜がふけたらば忍んで行うと言のは夢かうつゝかや是も矢張やつぱり小西屋が破談に成た故で有うあゝ悦ばし嬉しとて手のまひ足のふむ所も知ざるまでに打喜うちよろこび夫ではばんに待てゐるから急度きつとで有るよと念をおし莞爾にこ〳〵顏して我家へ這入はひりしあとにお光はまたこめ淅了とぎをはり我家の中に入し頃は護國寺のかね入相いりあひつげければ其所等そこら片付かたづけ行燈あんどうに火を照し附け明るけれどくらからぬ身を暗くされし無念に父の武左衞門心濟ねば鬱々うつ〳〵と今日も消光くらしてお光に向ひ面白からぬ事のみにて身體からだも惡く覺ゆるに床をばのべて少のあひだ足をたゝいくれぬかと言れてハイと答へながら押入あけて取出す蒲團は薄き物ながら恩いと厚き父親てゝおやに我身の上より苦勞を掛けだ此上にもおなげきを掛る不孝の勿體もつたいなさと口には言ねど心の中思ひつゞけて蒲團をしきイザとすゝむ箱枕はこまくらのみならぬ身の親父が横に成たる背後うしろへ廻り腰より足をさす行手ゆくてよわきかひなも今宵此仇このあだたふさんお光の精神是ぞ親子が一世の別れときはまる心は如何ならん想像おもひやるだにいたましけれ


第九回


 女兒むすめやさしき介抱にこゝろゆるみし武左衞門まくらつきてすや〳〵と眠りし容子にお光は長息といき夜具打掛てそつ退のきかたへに在し硯箱を出して墨を摺流すりながす音もはゞか卷紙まきがみへ思ふ事さへ云々しか〴〵かきつゞる身生命毛いのちげの筆より先へ切てゆく冥途めいどの旅と死出の空我身は今ぞ亡き者と覺悟をしても親と子がたゞ二人なる此住居然るを吾儕わがみが先立てば誰とて後で父樣とゝさまの御介抱をば申し上ん夫を思へば捨兼すてかねる生命を捨ねば惡名をすゝぐに難き薄命ふしあはせお目覺されし其後に此遺書かきおきを見給はゞ嘸驚きもなさる可く又お歎もなさる可しと思ひ廻せばまはすほど死で行身は悲歎かなしみもあらねど後へお殘りなさる其悲歎は如何ならん不孝はおゆるし下されと口には云ねど意の中おもひつゞけ打詫うちわぶる涙はむねにせぐり來てわつと計に泣出さんと爲しが父や目をさまさんと袖を噛〆かみしめこらゆるは泣よりつらき手のふるへ筆のはこびも自在ならねど漸々やう〳〵にして始終しじうの事を記し終りてかたふうじ枕元なる行燈あんどうの臺に乘置のせおきやゝしばし又もなんだに暮たりしが斯ては果じ我ながら未練みれんの泪と氣を取直とりなほし袖もてぬぐひ立上り母の紀念かたみ懷劍くわいけんを取出し拔て行燈あんどう火影ほかげきつと鍔元より切先きつさきかけて打返し見れども見れどもくもりなき流石さすが業物わざもの切味と見惚て莞爾と打笑うちわらさやに納めて懷中ふところへ忍ばせ父の寢顏ねがほを見て餘所よそながらなる辭別いとまごひ愁然しうぜんとして居たる折早くも二かうかね耳元みゝもとちかく聞ゆるにぞ時刻じこく來りと立上りおとせぬ樣に上草履うはざうりを足に穿うがつて我家をそつ拔出ぬけい家主いへぬしの庄兵衞方へ至り見れば此方こなたまちに待たることゆゑもやらず茶をわかし菓子をとゝのへすわり居てそれと見るよりお光さんかさだめし甲夜よひからお出で有らうと待草臥まちくたびれて居りたるにと云へばお光も莞爾にこやか吾儕わたしも早く來たいのは山々やま〳〵なれど父親おとつさんがお寢なさらぬので家が出られずたゞもんでゐた所ろ今方いまがたやすみなされたのでやう〳〵出てまゐりましたと云つゝ上りて火鉢ひばちそば身をひつたりと摺寄すりよせすわれば庄兵衞魂魄たましひも飛してうつゝぬかしながら見れば見るほどうつくしきお光はいとゞおもはゆげのかたち此方こなた心中こゝろときめきいはんとしては口籠くちごもる究りのわるきをかくさんと思へば立てはこうちよりあたらしきほん種々いろ〳〵取り出し之を御覽ごらん其所そこおけばお光は會釋ゑしやく行燈あんどう引寄ひきよせしきりに見るそばで茶を菓子くわしすゝめながら其の横顏よこがほをつく〴〵とながめてこゝろおもふやう自分じぶんの方からふくるを待ちおやを寢かしてやうなは今宵こよひとまらん積ならんいつまでかうしてゐたらばとてはてしなければ此方こなたよりいざなひ立ねば未通女をとめの事ゆゑ面伏おもぶせにもおもふしと一人ひとり承知しようち押入おしいれより夜具やぐ取出し其所へとこ敷延しきのべてお光に向ひ吾儕わたし御免ごめんかうむるゆゑ和女おまへ緩慢ゆつくり御覽ごらんなさいと言つゝとこの中に入しが何でうねむりに着る可きたゞ此方こなたのみうかゞゐるうち又告わたかねの音は子のこくなれどもお光はずいよ〳〵ほん見入みいるていに庄兵衞今はたまりかね夜具やぐうちより手をしお光の手を取りぐつと引ば此方は發とかほあからめしが振拂ふりはらひもせず讀さしたる本をば顏へ押當おしあてながら引るゝ儘に床の上へ倒れ掛りし姫柳ひめやなぎかぜに揉るゝ景状ありさまなり庄兵衞是は首尾よしと思ふ間もなく娘のお光夜具のえりをば庄兵衞の顏へすつぽり掛けながら口の所を左手ゆんでにて押へ附れば庄兵衞はいきつまりてくるしさに何をするぞといはせもせず右手に懷劍くわいけんぬくもなくつかをもとほれと脇腹わきばら愚刺ぐさと計りに差貫さしつらぬけば何ぞたまらん庄兵衞はあつと叫も口の中押へ附られ聲出ず苦き儘にもがきけるをお光は上へまたがりて思ひの儘にゑぐりければ七てんたうふるは虚空こくうつかんで息絶いきたへたりお光はほつと長息といき夜具やぐかい退のけてよく〳〵見れば全く息は絶果たえはてて四邊は血汐ちしほのからくれなゐ見るもいぶせき景状ありさまなり不題こゝに大藤おほふぢ左衞門は娘が出しをすこしも知ずふしてをりしが甲夜よりして枕に着たるゆゑなるか夜半の鐘に不斗ふとを覺し見ればかたへにお光のをらぬにさて雪隱せついんへでも行きたるかと思うてやほら寢返ねがへりなし煙草たばこのまんと枕元を見る行燈あんどうだいの上に書置かきおきの事と記したる一ぷうありて然も之れ娘お光の手跡しゆせきなれば一目見るより大きに驚き直に飛起とびおき封じ目を開くおそしと讀下す其の文體ぶんていは此度の小西屋の婚姻破談はだんの儀は家主庄兵衞の爲る業にては日頃より如此しか〴〵擧動ふるまひありしがを聞入ぬ所ろより兄元益と云へる者と語ひ今朝同人を小西屋へやりテレメンテーナの事を言せにはか破談はだんに成たる事是等は絶て知ざりしが最前さいぜん和吉と云る小僧がとなりのお金のもとへ來り聞に參し其をり箇樣々々かやう〳〵の事を話しお金は營業なりはひよりの歸り道二人が話しの容子ようすを聞き殘らず吾儕わたくしに話したるより其無念やる方なくかれを殺して身の汚名をめいすゝがん物と思ふより庄兵衞に會ひ云々と申すに因て僥倖さいはひなれば只今よりして彼方へおもむあだを殺して身の明を立んと思へど我私しのうらみを以て他人を殺さば罪科ざいくわのがるところもなければいき憂恥うきはぢさらさんより其の場を去ず自害じがいして相果て申せば先立さきだちまする不孝はお許し下されかしと今死る身を氣丈きぢやう女兒むすめ筆の前後少もみだれず一一什しじふを記しあるにぞ見る武左衞門一句毎くごとに或は驚き或はたんじ又悲しみ又は感じ暫時しばし言葉もいでざりしは女兒むすめの生命にかゝは大事だいじ猶豫いうよなすべき所に非ずと思へば寢衣ねまきまゝにして我家を立出で家主の門口へ行き戸を引開ひきあけ見ればお光はすでにはや庄兵衞をば刺留しとめつゝ今や自害じがいをなさんとする景樣ありさまなるに大きに慌忙あわてヤレまてしばしと大聲おほごゑあげんとなししが夜隱やいんのこともしも長家へ漏聞もれきこえ目を覺まされなば一大事と思へばそばへ立寄てやいばもつしつかとゞめ聲をひそめて云るやうむすめはやまる事なかれ委細ゐさいの事は書置かきおきにてちく諒知しようちなしたりし流石さすがは大藤武左衞門の娘だけあり無き名をおひ遺恨ゐこんはらす其爲にやいばを振つてあだたふす實に見上げたる和女そなた心底しんてい年まだ二十歳はたちに足らざる少女の爲可きわざにはあらざりける男まさり擧動ふるまひこそ親はづかしき天晴あつぱれ女然れども人を殺し置き自儘じまゝ生害しやうがいなすと云は天下の大法知ぬに武士ぶしたる者の爲こと成ず依て暫時しばらくとゞまあけるを待ち奉行所ぶぎやうしよへ名乘て出て相應さうおうなる處分しよぶんを受るが至當したうなれば先其やいばをさめずやとかゝをりにも老功なれば物に動ぜず理非りひ明白めいはくのべさとせし父が言葉ことばにお光はやう〳〵承知してやいばのり押拭おしぬぐさやをさめこしおぶれば父は再度ふたたび此方こなたに向ひ此家に長居する時は眞夜中まよなかなりとも如何なる人に知れて繩目なはめはぢを受んと言も計られねば早く立去り支度したくをしてと云にお光も心得て父諸共もろともに家をいでかどの戸立て我屋へ歸り武左衞門は此一件をいと委敷くはしくしたゝめたる訴状そじやう一通をつくりし上親子支度をなす中にはやあけ近く東の方の白み來るに時刻よしと音羽を立出奉行所へとしきりに足をいそがせしが知者しるものたえてあらざりけり夜明し後に長家の者は一同起出おきいで夫々のげふつけども家主の庄兵衞方は戸も明ず夫のみならず長家中では早起はやおきなりと評判する武左衞門の家も戸があかねば不思議に思ひて起して見んとお金をはじめ四五人が先家主の方へ至り雨戸をたゝきて呼物からいらへはなきゆゑ戸へ手を掛れば瓦羅利からりと開くにいよ〳〵不審ふしんと進み這入はひれは如何に主個あるじ庄兵衞は何者にか殺害せつがいされたる物と見え血汐ちしほそまりてとこの上にたふれゐるをば見て驚きかほ見合みあはする計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへもしやと一同が疑ふ餘り彼方あなたへ至り戸を引開れば是はまた家は裳脱もぬけのからころもつゝなれにし夜具やぐ蒲團ふとんも其まゝあれど主はゐず怪有けふなる事の景況ありさまに是さへ合點がてんゆかざりけり


第十回


 長屋の者の一同は捨置難すておきがたき二つの珍事ちんじなかにも家主庄兵衞が殺されたるは大變たいへんなりと其のあに山田元益の許へも斯と報知しらせるに元益驚きはせ來り家内を改め見たる所ろ何一つだに紛失ふんじつをなしたる物もあらざれば盜賊たうぞくの業ならず遺趣切ゐしゆぎりならんと思ふ所へ大師河原へ泊りに行し母のおかつは歸り來り夫と見るより死骸しがい取附とりつき前後不覺ふかくさけびしがさて有る可きにあらざれば此おもむきをうつたへ出檢視けんしうて其上に山田と計て死骸をば泣々なき〳〵寺へはうむりけり不題こゝにまた其頃の北町奉行は大岡越前守忠相たゞすけというて英敏えいびん活斷くわつだん他人ひとまさり善惡邪正じやせいを照すこと宛然さながら照魔鏡せうまきやうの如くなる實に稀代きだいの人なりしが此頃音羽七丁目の浪人大藤武左衞門父子奉行所へ駈込かけこんで娘お光こと云々しか〴〵個樣かやうの譯ありて家主庄兵衞を手に掛けたれば相當さうたう御處分ごしよぶん下されかしと委細ゐさい訴状そじやうしたゝめつゝ自首じしゆして出しに忠相ぬし捨置すておかれぬ事共なりと先親子をばめ置き音羽の方をばさぐらするに書面しよめんたがはず庄兵衞は何者にか殺されしとて檢視けんしを願ひ出たるのみかは其のあさよりして大藤親子は欠落かけおちなして行衞ゆくゑ知ねばもしや父子の業ならずやとうはさなすよしきこえければ又小西屋方をうかゞはするに茲は召仕めしつかひ丁稚でつち和吉糊賣のりうりお金のもとへ至り委細ゐさいきくより大きに驚きすぐ立歸りて管伴ばんたう如此しか〴〵の由はなしたりしに忠兵衞もまた驚嘆きやうたんし此事主個あるじ夫婦をはじ息子せがれ長三郎にもはなしたるに息子は然もこそあらんと思ひ夫婦はしきり麁忽そこつ再度ふたゝび婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へやりたりしが此時すでに家主は殺され父子おやこ行衞ゆくゑしれぬとて長家はかなへわくが如く混雜こんざつなせば詮方せんかたなく立返へりつゝ云々と三個みたりに告て諸共もろともにお光の安否あんぴを案じゐるよしたしかに知たる忠相ぬしひとりつく〴〵思ふ樣お光は奇才きさい容貌ようばうとも人にすぐれしのみならず武士の眞意しんいを能くわきま白刄しらはふるつて仇をたふすに其父もまた清廉せいれんにて是をかくさず名乘なのつて出る親子微妙者いみじきものなれば何卒なにとぞお光をたすけてやらんとは思へども天下の大法たいはふ人を殺さば殺さるゝ其條目はのがれ難し如何はせんと計りにて霎時しばし思案しあんくれたるがやう〳〵思ひつくことありてや一個ひとり點頭うなづき有司いうしに命じ庄兵衞の母おかつ。山田元益。糊賣のりうりお金。小西屋長左衞門。を呼出し初て白洲しらすを開きける此めい彼方此方へ通ずるに元益親子は庄兵衞のあだの御詮議せんぎなる可しと思へどもお金の呼出さるゝを不審いぶかしみつゝともなひ出また小西屋は何ごとやらんとおどろくよりして長左衞門病氣と稱して出もせず其代人は管伴ばんたう忠兵衞丁稚でつち和吉をともに連れ奉行所へ出腰掛こしかけへ和吉を待せ進みける斯て大岡忠相ぬしは一同白洲へ呼込たる後お光親子を繩附なはつきまゝにて其所へ引出せば此方は見やりて思ひ掛ずと驚くのほか言葉ことばなし登時そのとき忠相ぬし一同に向ひ山田元益母勝のうつたへに依て家主庄兵衞をころしたる曲者くせもの吟味ぎんみせし所ろ同長屋の浪人らうにん大藤武左衞門が娘お光の所爲しわざなるよし渠等かれら自ら名乘出たるに依て明なれば今日審判しんばんを開かんとす此旨このむね一同心得よと宣告のりしめさるゝに此方の者は思ひ依ざる人殺しもかねうたがひ居たりしに元益親子は進み出庄兵衞を殺害せつがいなしたるはお光なりとはゆめにも知ねど渠等かれら親子は其の朝より行衞ゆくゑ知ずに成しかばもしやと思ひ居たるにはやくも名乘て出るだんおどろき候外はなし就ては上のお慈悲を以て亡庄兵衞が草葉くさばかげの追善にさへなりますやう御はからひこそ願はしけれと申し上るに忠相たゞすけぬし承知しながら此方に向かひ小西屋長左衞門代忠兵衞其方々にては此お光をよめもらはんと言入いひいれすで結納ゆひなふまでも取交せしを如何なればにはか變更へんかうせしぞ此事逐一ちくいち申し上よと言れて忠兵衞おそる〳〵一たんかくとは約したれど箇樣々々の醫師いし來りて彼お光こそ癲癇病てんかんやみなりとテレメンテーナと言ふ藥のことをのべたる上に又言やう依て主人は大きに驚き其後の始末しまつ云々しか〴〵なりと申上れば忠相たゞすけぬし然もあらん然もある可しお光が訴へも夫に符合ふがふき名をおひ婚姻こんいん破談はだんに成しは庄兵衞が日頃よりして我戀わがこひかなはぬことを無念に思ひ兄元益を彼方へつかは癲癇てんかん病と言せしより事の茲には及べるなりと深くも遺恨ゐこんに思ひつゝさてこそ庄兵衞を殺害せつがいなしたるならめ如何元益其方弟の頼を受け小西屋へ行きし事あるかと問れて此方はかたちあらたはお奉行のお言葉とも覺えず不肖ふせうながら山田元益仁術にんじゆつとする醫道いだうをもて身の營業なりはひとなすものがいかで左樣な惡き事に荷擔かたん致してすむ可きかは此御賢察ごけんさつこひねがふと口には立派りつぱに言物からこゝろの中には密計みつけいの早くもあらはれ夫ゆゑに弟は最期さいごとげたるかとおどろくの外あらざりけり忠相ぬしは點頭うなづいて醫師の面目めんぼく然もある可しコレ金庄兵衞の爲に元益が小西屋へ至りしとは其方が言出しお光に語りし所ろより此騷動さうどうには及びしが夫には確な證據しようこがあるか。ハイ外に證據しようことても御座りませねど吾儕わたくし營業あきなひよりの歸りみち元益方の裏手うらてとほると箇樣々々の話しをば。イヤ夫計そればかりでは證據に成らぬ外にたしかなことはないか今日呼出よびだしゝ忠兵衞も其日は家に居らずして來りし醫師をば見ずといへり依て確な事にあらねば證據しようこなりとは申されぬとくと考へ申上げよと言れてお金は小首を傾け霎時しばし考へゐたりしが漸々やう〳〵にしてかうべを上げ外に證據しようこと申しまするは小西屋の小僧こぞう和吉わきちと申すが吾儕方わたくしかたへ參りしをり店へ來りてお光さんに癲癇てんかんがあると言たる醫師いしや年齡としごろ云々しか〴〵にて又面體めんてい箇樣々々かやう〳〵然も羽織はおりにはまるの中に桔梗ききやうもんついてゐたと申に因て日頃より見知る山田元益に面體めんてい恰好かつかうばかりでなく羽織はおりもんも相違なければ確に夫とお光さんに話しを致して候ひしが其醫師いしやこそは小西屋の小僧和吉が見知をれば御呼出に相成ば即座にわかり申す可しと云うに忠相ぬし此方に向かひ長左衞門代忠兵衞其の和吉といふ召仕は只今にても宅にをるか。ヘイ未だ召仕をりまして今日も同道致し只今お腰掛こしかけひかへをりまする。ムヽ夫は實によい手都合てつがふソレ呼込よびこめの聲のした忽地たちまち和吉は呼び入れらるゝに巍々ぎゝ堂々だう〳〵たる政府の白洲しらす一同居並ゐなら吟味ぎんみていに和吉は見るより幼稚意こどもごころに大きに恐れハツと計りに平伏せしがかたへを見ればさきつ頃店へ來りてお光のことを云々しか〴〵言たる醫師の居るにぞ又おどろきてヤア和主おまへはと一言いひしが御場所柄ばしよがらあとは言葉も出さざりけり此方の元益最前さいぜんたしかの證據のあらざれば仁術にんじゆつをもて業となす醫師ゆゑ惡き荷擔かたんはせずと奉行に向ひ立派りつぱに云ひくろめんとこそ計りしが今我面わがかほを見知たる和吉が出しにはつと計りおどろおそれて面色めんしよくつちの如くにふるひ出せば忠相たゞすけぬしをはじめとして並居る一同母親はゝおやのお勝もさては其の醫師は元益なりしかと計りにあきれてかほを見合せゐたりぬ忠相たゞすけぬしは呼び出せし和吉に言葉ことばはあらずして元益げんえきの方へ打向ひ其方最前さいぜんも申す通り仁術にんじゆつを以て業となせば小西屋方へ行たることは決してあるまじと思ふゆゑ和吉は茲へ呼び出したれど最早もはや吟味ぎんみを爲にも及ばじ依て小西屋へ參りし醫師いしは何れの者やらわからずとせんついて其方も醫師の事ゆゑ今越前ゑちぜんが問たきことありそも〳〵醫師は螢雪けいせつの學のまどに年をかさね人の生命いのちあづかる者ゆゑ天下の條目でうもく成敗せいはいの道も少は心得つらんが中にも重きばつといふは婚姻こんいんさまだげの罪科ざいくわなり之をばおもく爲時は死罪しざいの刑に處する可し又かるくなす其時は遠島とする制規せいきなるが其方之等を知たるかと時に取ては氣轉きてんの問條此方は聞も及ばざれど名高き奉行はこといつはりあらじとおもひしかば如何にもおほせの通りにて心得ゐるよし答へけり


第十一回


 登時そのとき大岡忠相ぬし再度ふたゝび元益に向ひて云やう其方親子おやこは庄兵衞の殺されたるより其のかたきうつくれよと願ひ出たるをり武左衞門親子おやこの者はまさしく庄兵衞を殺したりと訴へ出たらばかたきと言は武左衞門の娘光なる事云ずして明瞭あきらかなり因て光をば處刑しよけいせんとは思へども處刑爲難しがたき次第あり开は如何とたづぬるに只今も申す通り婚姻さまたげの罪科ざいくわは重くて死罪輕くて遠島ゑんたうなり然るに庄兵衞事自己おのれみつに戀慕れんぼして小西屋との婚姻をさまたげんと何國いづくの者やら相分あひわからざる醫師を遣し世に有りしとも覺えざるテレメンテーナといふ藥の事を吹聽ふいちやうし結納までも取かはせし婚姻を妨げ致す段その罪最も重ければ光の手にかゝりて相果あひはてずともかみに於て死罪に處し處刑場しおきばの土となす可きところ高運かううんにも光が手に掛りたれば捨札すてふだに惡名を殘し非人に左右さいうせらるゝ事なく席薦たゝみの上にて相はて先祖累代るゐだい香華院ぼだいしよに葬られ始終しじう廟食べうしよく快樂けらくを受るは之れ則ち光が賜物たまものにしてあだながらも仇ならずかへつておんとこそ思ふ可けれ依て元益親子は光をうらむ事をやめあつく庄兵衞があととむらふ可し元益は又其母勝こととしより相續人さうぞくにんの庄兵衞に死別しにわかれ然こそ便びんなく思ふ可ければ元益は醫業いげふはいしてさらに音羽町の町役人となり庄兵衞のあとを相續してはゝかつ孝養かうやうつくし大事にかけて遣す可し大藤武左衞門娘みつ事は婚姻こんいんさまたげを爲たる庄兵衞かみに於て死罪しざいにも行ふ可きの所ろ上へはお手數てかずかけずして十八年の少女には似氣にげなく武士の娘とは言ながら白刄しらはふるつて庄兵衞をうち即座そくざ自害じがいはてんと爲しは上のお手數てかずはぶくの御奉公ごほうこう天晴あつぱれなる擧動ふるまひなり父武左衞門は自儘じまゝなんとする娘を止めそれを引連事柄ことがら委細ゐさいのべ自首じしゆする段法度はつとを重じ上をうやまふ武士の面目めんぼくさもあるべし因て兩人は人殺しのつみさしゆるせば此旨有難ありがたく心得よ夫と指揮さしづに小役人は二人が繩目なはめゆるしけり忠相ぬし忠兵衞に打向ひ小西屋長左衞門代人忠兵衞其方事主人しゆじんの申し附とは言ながら出所しゆつしよ不定ふぢやう醫師いしの言葉をしん結納ゆひなふ取交とりかはし迄すみたる婚姻を破談はだんに致すこと不埓ふらち千萬なる事なれどかく事柄ことがらの相分り光に病のあらざる事判然はんぜん致す上は長左衞門夫婦ふうふ長三郎においても光をよめに致さん事仔細あるまじければ只今より親子の者を引取ひきとりき親類方へあづけき其所にて萬事支度を整へ吉日を撰んで婚姻を取結とりむすぶ可し光は天晴の者なれば此度は斯云かくいふ越前守冰人なかうどなりて取すれば早々婚姻を行ふ方よからん此事たゞに忠兵衞のみならず光親子の者も心得て能からうとおほせありしはお光親子は家主庄兵衞を手にかけたる者なれば解放ときはなせしとてすぐ音羽おとはかへさば如何なる災禍わざはひおこらんも計られず又かの親子しんしも家主をがいせし土地へは歸り難しとすゐして斯は言しなるべし忠相ぬし又も忠兵衞に打向うちむかひ此度は珍事ちんじ忽地たちまちにして斯善惡を分ちし事一は糊賣のりうりお金が親切しんせつ丁稚でつち和吉の忠義によれば和吉は此まゝ引連歸りて目を使つかふは勿論もちろんなる可く金はまたみつ親子おやこと共に親類しんるゐ方へ預け置き爾來じらいみつが召使いとして一生をやす消光おくらす可し是にて一件落着らくちやくしたりと述給ふ程に小役人は落着らくちやく一同立ませいと諸聲もろごゑあはして言にける實にくもりなき裁判さいばんは人を損せず理をせめ自然しぜんと知せる天下の大法たいはふはやき身とまで覺悟かくごせしおみつ親子は不測ふしぎに助り然のみならずこひしと言をとこもとえんづくやう再度ふたゝびむす赤繩せきじよう有難泪ありがたなみだ白洲しらすなるすなしめらす其よろこびお勝ははじめて庄兵衞のわるきを知て小西屋へ行しは兄の元益なれば是も如何なるたゝりや有んと元益と共にむねやすからず思ひゐたるに慈悲深じひぶかく山田が事は問給はで是を庄兵衞がかはりとなし養親やうしんたくし給ふに二個ふたりいきたる心地こゝちしてすなかしらうづむばかり又忠兵衞は忠相ぬしが活機くわつき明斷めいだんぼんならでいまあらためて婚姻こんいんむすび𫥇なかうどとまで成給はんと述給のべたまはるの有難さは是のみならず和吉お金も思ひがけなきお奉行のお聲掛りは一世のはれ巨萬きよまんの金をもらひしにも勝る嬉しさ喜ばしさ何れも怪我けがなき一同は打連うちつれ御門ごもんを出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を終了しまひて母の方へ同居なし醫業いげふ廢止はいして家主となり名も庄兵衞と改めて先非せんぴ後悔こうくわい一方ひとかたならず能く母親に仕へつゝ長屋の者をもあはれみしに其の家次第にゆたかになり他人の信用も得たりければ或者の世話に依て妻をむかへ之がはらに男女夥多あまたの子をうませいよいよさかえ行けるに母のお勝も大いに安堵あんどし常に念佛ねんぶつまい道場だうぢやうに遊びき庄兵衞が菩提ぼだいとむら慈悲じひ善根ぜんこんを事としたれば九十餘さい長壽ちやうじゆたも大往生だいわうじやう素懷そくわいとげたりと不題こゝにまた忠兵衞はおみつ親子お金和吉をともなひて奉行所を下り主人方の親類呉服町の何某屋へ至り今番所の歸りにて箇樣々々かやう〳〵の始末なれば是なる三個みたりを暫しがあひだあづかり呉よと言けるに爰の主個あるじも此話しは朧氣おぼろげながら聞ゐたればかく即座そくざ落着らくちやくせしを喜びすこし異議いぎはあらずして三にんを奧の座敷へ通しぬ扨忠兵衞は和吉を引連ひきつれ主人の方に立歸り主個あるじ夫婦長三郎の前にて今日けふ奉行所の容子ようすをばちく演説えんぜつしたる上三たり呉服ごふく町の親類方へあづけおきて歸りたるまで委細のことを述たるに親子はおみつが庄兵衞をころせしことをはじめしり容儀きりやうすぐれしのみならず又志操こゝろばえも人にすぐ流石さすがは武士のたねほどありて斯る擧動ふるまひしこと小西屋のよめと爲といふともはづかしからぬ女なりと長三郎は殊更ことさら戀慕こひしたふ心のまさりゆき夫婦は夫とも意附こゝろづか醫師いしやの言たる言葉を信とし縁談えんだんことわり此騷動さうどうに及びたるをば後悔こうくわいの外には更にあらざりけり然ども大藤親子の者糊賣のりうり老婆ばうもお金まで彼方に在ては捨置難すておきがたしと三個みたりが衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せてすこし家財かざいを爰にはこび小西屋には裏手の明地あきちへ更に武左衞門が隱居所いんきよじよいとな普請ふしん出來しゆつたいの其の上は爰より嫁入よめいりをさせんと計りぬ然るに大岡忠相ぬしは町奉行の身をもちて之が𫥇なかうどに立んと言しは元益等がうらみふくまんをば恐れての事ならんか町人の身として奉行を𫥇なかうどに立んこと世に勿體もつたいなき譯なればと親類一どう連署れんしよして此くだり辭退じたいし終りぬ兎角とかくするうち新築しんちくまつた出來しゆつたいせしかば親子お金を其所に移し黄道吉日くわうだうきちにちえらびて立派に婚姻こんいん取結とりむすぶに二個ふたりおもおもはれし中なれば其親みは一方ならす男女あまたの子をまうけしに中なる一にんは成長の後有馬家ありまけ召出めしいだされ家臣と成て大藤の家名を再興し武左衞門は一生を安樂あんらくに送りお金は終身しうしん不足ふそくなく此家につか管伴ばんたう忠兵衞は此度の一件に附き盡力じんりよく一方ひとかたならざれば褒美はうびとして宅持たくもちの通ひ管伴ばんたうとなり和吉も種々くさ〴〵褒美はうびありしが三年の後長左衞門夫婦は隱居し長三郎は主個あるじとなり和吉は元服げんぷくして二番管伴ばんたうとなり其家ます〳〵さかえたり

大岡忠相たゞすけぬしが勤役きんやく中のさばきにて人の耳目じもくを驚かせし事枚擧まいきよするにいとまあらざるほど多き物から中にも殊にすぐれたるは天一ばう裁判さいばんなり之は物の本にも作り又芝居しばゐにても脚色しくみ講談かうだん落語らくごは更にも言ず其他種々さま〴〵の物にも見え其の筋に大同小異だいどうせういありと雖も其主意とする所は微賤びせんの一僧侶そうりよ吉宗ぬしの落胤らくいんと稱し政府せいふせまる事急にして其證跡しようせきも明かなれば天下の有司いうし彼に魅入みいれられ既にお世繼よつぎあふがんと爲たりしを一人大岡越前守のみ夫が邪曲じやきよくうかゞしり身命しんめい投打なげうち既往きわう今來こんらいを尋ね遂に奸計かんけい看破みやぶつて處刑しよけいせしといふ有名いうめいの談話にてかゝる奸物を發顯みあらはすこと忠相ぬしの外能く凡庸よのつねの奉行の爲し得可きことにあらねば傳へて美談びだんとなす物から又聞く所ろに依ば彼天一坊なる者は實に吉宗ぬしの落胤らくいんに相違なく將軍未だ紀州に在るとき侍女じぢよまろゆめを結びて懷姙くわいにんなしゝ一子なるが民間みんかんに成長して後未見みけん父君ちゝぎみ將軍と成しかば證據ものたづさへて訴へ出たるなればよしお世繼よつぎとせざるまでも登用とりあげてもて生涯しやうがいを安く送らん事最々いと〳〵容易よういわざながら忠相ぬしつら〳〵かれを見るに貴介きかい公子こうし落胤らくいん似氣にげなく奸佞かんねい面に顯れ居ればこゝろゆるせぬ曲者くせものなりと夫が成立なりたちよりの事柄を探り看るに實に忠相ぬしが思ふに違はず腹黒はらくろにして品行ひんかう能らず天下の主個あるじと爲は更なり落胤らくいんとして所領しよりやうの少も宛行あておこなふて扶助ふじよする時は後に到りて徳川の爲に害をば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と吉宗よしむねぬしに言上ごんじやうせしに君又英敏えいびん明才めいさいにていよ〳〵政治せいぢ改良かいりやうして公方くばうの職を萬世ばんせい不朽ふきうに傳へんといふ素志そしなれば今大岡の言るを聞如何我たねなればとて然る曲者くせもの採用さいようし後にがいをばのこさんこと武將ぶしやうの所爲に有ざれば天下の爲に彼をしてしひ僞者にせもの言詰いひつめ宜敷よろしくけいに行ふ可し是を爲す者其方の外には決して有可からず能せよかしと内命ないめいありしに忠相ぬしも推辭いなむすべなく遂に天一をして僞者にせものとし二葉ふたばの中につみたるなりとの事實に然るかいなやを編者未だ識別しきべつすることあたざれどもしはたしてしんならしめば吉宗よしむねぬしが賢明けんめいなるは言計いふばかりもなくにせにせとして其のあくあばかんすきぞくめつするは之奉行職の本分ほんぶんなれば僞者にせものの天一坊を見顯みあらはすは然のみ大功とは稱するに足ねどしんの天一坊をにせとしてよく天下の爲に是をめつせしは智術ちじゆつ萬人に越え才學さいがく四海に並ぶ者なき忠相ぬしに有らざれば誰人たれびとか能く此機變このきへんを行なひ君をしていよ〳〵賢明けんめいならしめ民をしてます〳〵欣慕きんぼねんを起さしむるに至らん空前絶後くうぜんぜつごの名奉行なるがゆゑ後に年功に依て三千石より一萬石に加増かぞうし大名の中に加へられたり然ども町奉行にして大名ににんぜられたるも先例せんれいなく大名にして町奉行をつとめたるも先例せんれいなければ此時忠相ぬしは町奉行をやめられてさらに寺社奉行に任ぜられしなど未だためしなき美目びもくほどこ士庶ししよ人をして其徳をしたはせ今に至るまでも名奉行と言る時は只に忠相ぬし一にんとゞまるが如く思ひ大岡越前守の名は三歳の小兒といへども之をしりしきり明斷めいだんたゝへるこそ人傑じんけつさい稀世きせいの人といふ可し是等を今茲に喋々てふ〳〵する事殊に無益むえきべんたれど前にもすでのべたるが如く此小西屋の裁判は忠相ぬし最初さいしよさばきにして是より漸次しだいに其名をとゞろかし末世まつせ奉行のかゞみと成たる明斷めいだんちなみて忠相ぬしが履歴りれきとその勳功くんこう大略あらましとを豫て傳へきゝ異説いせつ天一ばうさへ書記かきしるして看客かんかくらんそなふるなれば看客此一回を熟讀じゆくどくして忠相ぬしが人と成りはらにをさめ而して後に前段の落着らくちやくの場を見たまはゞ宛然さながら越前守を目前にみるが如きの思ひある可し然れども編者がふでにぶき上緒數ちよすう毎回まいくわいかぎりあれば其情そのじやう充分じうぶんうつす事がたし恐らくはつのきつて牛をたふすの嘆なき能はず夫等は偏へに御海容みゆるしを乞ふのみ


小西屋一件

雲切仁左衞門一件

雲切仁左衞門くもぎりにざゑもん一件いつけん


第一回


 まさ秋霜しうさうとなるとも檻羊かんやうとなる勿れと此言や男子だんしたる者の本意ほんいと思ふはかへつて其方向をあやまるのもとにしてせいは善なる孩兒がいじも生立にしたがひ其質をへんじて大惡無道の賊となるあり然ば雲切仁左衞門なども其一にして今の世までも惡名を殘したる其物譚ものがたりを茲に説出すに頃は享保きやうほ年中甲州かふしう原澤村はらざはむらに佐野文右衞門ぶんゑもんいひ有徳うとくくらす百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に佐倉屋さくらや五郎右衞門ゑもんといふ穀物問屋へ一ぱくたのみたり此佐倉屋と云は文右衞門より毎米穀べいこくを送りける故平常つね〴〵心安き得意とくいに付早速さつそく奧へしやう種々いろ〳〵饗應きやうおうなしけるが此の家の娘におもせといふは今年ことし十六歳にして器量きりやうも十人並にすぐれし故文右衞門は年若にて未だ妻もなき身なれば不圖ふと此娘このむすめ執心しふしんなしひそかに文を送しにおもせも文右衞門が男ぶりいうやさしく甲府の中にも多く有まじき樣子やうすまよつひに人知ず返書へんしよを取りかはし二世のちかひを立たりけり然るにおもせの親五郎右衞門は此こときくより一度はいかりけれ共佐野文右衞門は有福いうふくくらしと言殊には人がらよき若者なれば人を以て掛合かけあひの上おもせを文右衞門の方へつかはせしにより思ひ思はれし中なれば兩人のよろこび大方ならずいと睦敷むつまじく暮しけるに程なく懷妊くわいにんして一人の男子をまうけ其名を文藏と呼て夫婦の寵愛ちようあいいふばかりなくてふよ花よとそだてけるにはや文藏も三歳になりしころ父の文右衞門不圖ふとかぜの心地にて打臥うちふしけるが次第に病氣差重さしおも種々いろ〳〵養生やうじやうを盡しけれ共其しるしなくつひに享保元年八月十八日歸らぬ旅におもむきけりよつて女房おもせは深くなげきしが今更せんなきことと村中の者共打よりて成田村なる九品寺くほんじ葬送さうそうなし一ぺんけふりとしてあと懇切ねんごろとふらひたり此おもせはいたつ貞節者ていせつものにて男まさりなりければ未だ年若としわかなれども家を立てゝ三歳なる文藏を守立もりたてて奉公人の取締とりしまり行屆ゆきとゞきしかば漸次々々しだい〳〵勝手かつてよくなりし故所々へ貸金とうもいたし番頭に忠兵衞と言者いふものを召抱へて益々内福ないふくにぞくらしける然るに享保十一年には最早もはや文藏二十四歳となりければよきよめをとらんと近所きんじよの心やすき者を頼みて種々いろ〳〵穿鑿せんさくせしが兎角ながみじかしにて相談さうだん調とゝのはざるうち文藏は忠兵衞を召連れ駿州すんしうへ米の拂ひ代金を受取に到りて駿すん府町の問屋とひやなる常陸ひたち屋佐兵衞と云者の方へ泊りし所佐兵衞がせがれに佐五郎といふものありて歳も同じ頃なれば心やすく致しけるに佐五郎思ふにはかく懇意こんいには致せども文藏事は餘りに手堅てがたく何時も金錢を大切に致し一かうに遣ふといふことなしわれ度々たび〳〵すゝむれ共大の堅固かたやにて一かう聞入きゝいれず然ども此の度は是非とも誘引さそひいださんと文藏に向ひ此處こゝの二丁町は天下御免の場所ゆゑ一度は見物けんぶつあれと無理にすゝむる故毎度のすゝ然々さう〳〵ことわるも氣の毒と思ひ或日あるひ夕暮ゆふぐれより兩人同道にて二丁町へ到り其處此處そこここと見物して行歩あるく中常盤屋と書し暖簾のれんの下りし格子かうしの中におときといふ女の居りしが文藏不圖ふと恍惚みとれさまたゝずみける佐五郎ははやくも見付みつけなにか文藏に私語さゝやき其家へ上りしがやみつきにて文藏はうつゝになり日夜にちやおときの方へかよつめける故番頭の忠兵衞は以ての外の事なりと思ひ段々だん〳〵異見いけんを加ゆると雖も勿々なか〳〵用ひる面色けしきもなく言ば言程猶々なほ〳〵つのりて多分の金子をつかすてるにより忠兵衞も持餘せし故國元くにもとへ歸りて母親へ右の段をはなしけるに母のおもせは眞赤まつかになり夫は以ての外の事をつとなき後は我等がそだてあげし文藏なれば母親のあまく育しと言れては世間の手前濟難すみがたく殊には又畜生同然の遊女などにまよひては先祖せんぞへ對しても申譯なしと大にいかりしを忠兵衞は先々まづ〳〵なだめ置夫より親類中へも内談ないだんをなし一まづ文藏を駿府すんぷより連れ歸り打寄て種々しゆ〴〵異見に及びしかど文藏は何時かな思ひきる樣子もなく假令たとへ不孝といはれ勘當受る共是非に及ばずと思ひ切て申ける故しからば忠兵衞も致し方なく然程さるほどに思ひ詰給つめたまふ上は暫時私しへ御まかせ有べし必ず思し召違めしちがひ有て短氣たんきの事など爲給ふなと種々にさとし置きて忠兵衞は御家ごけのおもせが機嫌を見合みあはせ文藏樣は只一人の御子と云那程までに御執心ごしふしんの事なれば彼女を請出うけいだし御よめになされて然べし欠替かけがへのなき御子の事萬一もし不了簡抔ふれうけんなどあらば何となされ候やこゝの所を貴方樣あなたさまとくと御考へ遊ばしまげて御聞入あるべしと詞を盡して申勸めしかば母おもせは女郎ぢよらう畜生ちくしやう同前と思へ共只一人の子といひ支配人しはひにんの忠兵衞が申勸る事故詮方なく然る上は是非ぜひに及ばず其女を受出申べし我等は隱居いんきよを致さんと泣々なく〳〵申けるを忠兵衞は是を聞御道理だうりやうなれ共先々まづ〳〵受出して御覽あるべしあながち女郎と申ても畜生同樣の者ばかりも是なしと段々母親を説諭ときさとして文藏にみぎの段はなしければ文藏は天へも上る心地こゝちしていとうれしく忠兵衞を神か佛の樣に伏拜ふしをがみ夫より文藏は忠兵衞を同道どうだうして駿府すんぷへ赴き彼常盤屋かのときわやゆきて身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて彌々いよ〳〵ときを身請と相談さうだん調とゝのひしかば忠兵衞は常盤屋の亭主に向ひ斯の如く身請をなす上は彼の女の身元は何れ成やうけたまはりたしと尋ねけるに亭主は是をきゝ何樣なにさま御道理の御尋ねなり彼女の身元は當國木綿島もめんじま村の生れにて甚太夫じんだいふと云者の娘なればさとへ渡りを付て御引取おんひきとり成るべしと申ゆゑそれより忠兵衞は早速さつそく甚太夫の方へ掛合かけあひしに父甚太夫も大いに喜び萬事すら〳〵と根引もすましかば文藏お時の兩人を駕籠かごのせ忠兵衞は附添つきそひ原澤村へと急ぎ立歸りしに母のおもせは如何いかなる者を連來やと日々にち〳〵案じ居ける所へ皆々歸り來りければ早速忠兵衞を招きて樣子を尋ねしに右のお時は木綿島村の甚太夫じんだいふといふ百姓にても家柄いへがらの者の娘なりしが年貢ねんぐ未進みしんに付據ころなく常磐屋へつとめ奉公に出して未だもなきにかれうんつよくして此方の旦那樣に受出され勤めの月日もなき故外の遊女とは大にちがひ人品ひとがらもよしと申に付少しは安心なし居たるに何樣文藏は申に及ばずしうとめにもよくつかへ奉公人迄行渡ゆきわたりの能ければ母のおもせは思ひの外歡びて近所の者へも私しのよめは夫婦中も睦敷むつまじくことに私しを大切になしくれ候事若き者にはめづらしくお前樣方も嫁を取るゝならば女郎がよろしきなどと今はかへつ自慢じまんなすほどなれば家内むつましく暮し居たりけり


第二回


 しかるに或日あるひ五十歳ばかりの男來りて忠兵衞にあひ私し事は木綿島村もめんしまむらの甚太夫殿より頼まれて來りし者なるがお時樣の父公ちゝご甚太夫殿此節にはかに大病とて打臥うちふし居られ候間此よしお時樣へ御咄し下さるべしと申ゆゑ忠兵衞は早速さつそくに此段をお時へ咄しければお時は是を聞て驚愕びつくりなし如何なる急病きふびやうにやと甚だ案じなげき夫文藏へ此事を語りしに文藏も驚き外ならぬ事故ことゆゑ手代忠兵衞へ如何せんと相談なせば忠兵衞は打案じ此度お時樣爰へ來りたまひ今すぐ親公おやごの病氣なりとて行給はゞ世間の聞えも惡し是は御夫婦連にて身延みのぶ參詣さんけいとて御出のかたよろしからんと申にぞ其段母へも咄しければ母は大の堅法華かたほつけの事なる故もつともの事なりとてゆるせしに付お時は大に喜び早々さう〳〵其用意をなし名主林右衞門へも頼みおきて近所へは身延みのぶ參詣さんけい披露ひろうし忠兵衞へ跡の事ども言含いひふくめ文藏お時は下男吉平が實ていなる者故是をとも召連めしつれて主從三人頃は享保十二年十月十日原澤村はらさはむらを出立なし夫より鰍澤かぢかさわの御關所せきしよへ掛るが路順みちじゆんなり都て甲州は二重ふたへの御關所あり土地は御代官ごだいくわんの支配ゆゑ御關所手形を願ふべきなれども日數ひかずも掛るにより御關所をば拔道ぬけみちを廻りて通らず切石きりいし下山しもやまと急ぎ來りしが猶身延へもゆか萬澤まんざはの御關所へかゝりしが是又手形なくては通行ならず依て此處をも廻り道をして行んと思へども土地不案内ふあんないの事ゆゑ茶屋へ寄り問合とひあはせて通らんと思ひ立寄しに此茶屋に先より三人連の男やすみ居たりしが今文藏の一むれ來りて御關所の拔道を通る樣子を聞何か三人私語合ひ此處を出立たちいでうかゞひ居たり此三人の中頭立かしらたちたる一人は甲州にて名高き惡漢わるもの韮崎にらさき出生しゆつしやうの雲切仁左衞門といふ者なり若年じやくねんころより心がうにして眞影流しんかげりう劔術けんじゆつを好み天晴あつぱれ遣人つかひてなりしが或時らいおちて四方眞暗となりしに仁左衞門は事ともせず拔打ぬきうちおほひ下りし雲の中を切けるに不思議ふしぎいたちの如き獸二ツになつておちけるゆゑ人々大いに驚き是より雲切仁左衞門と渾名あだなせり今一人は手下にて肥前の小猿こさるといふ者また一人は同く肥前長崎在方村ざいかたむらと云ふ所の出生しゆつしやうむかふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦は此茶屋にて拔道ぬけみちの樣子を聞駕籠かごを雇ひて打乘うちのり萬澤まんざはの廻り道へ來掛きかゝるを見て小猿は仁左衞門に向ひこれは必ずよきとりなれば五兩や十兩には有付ありつくべしと云をきゝそばより三吉は面白し〳〵彼奴きやつを威してとらんとかけ出すを仁左衞門は押とゞめ汝がうつは小細々々ちひさい〳〵今懷中の物を取のみにては面白からず後のたねにする工風くふうありまづ其方兩人は斯樣々々かやう〳〵に致せと言付萬澤の御關所を通りて先へ行拔今や來ると待居たり文藏夫婦の者は斯る事のありとはゆめにもしらず甚太夫が病氣の事を案じ急ぎて來懸りしに向ふ見ずの三吉肥前ひぜんの小猿兩人は目明めあか風俗ふうこしらへ其所へすぐと出立汝等女を連て天下の御關所せきしよを廻りみちせし事不屆ふとゞきなりととがめれば文藏夫婦は是を聞て仰天ぎやうてんなし兩手を地に突何卒御見のがし下されよと詫けれ共惡漢わるもの共は勿々なか〳〵聞入ず大切なる御關所何と存じ拔道ぬけみちを致せしやと申故兩人は途方とはうに暮てこたへも出來ざれば三吉小猿は汝等なんぢら役所へ來れとお時文藏並にともの吉平三人へ繩をかけければ三人はたゞゆめに夢見し心地にて引立ひきたてられつゝ行所に身のたけ六尺有餘の大男おほをとこ黒羽二重くろはぶたへ小袖こそでに黒八丈の羽織朱鞘しゆざや大小だいせう十手じつて取繩とりなはこしさげのさ〳〵と出來りしに小猿三吉はこしかゞめ是は〳〵御役人樣斯樣々々かやう〳〵の者を召捕めしとり候と申しければ彼役人打笑て夫は我等請取て一おう取調とりしらべんと云ながら文藏に向ひ其方は何國の者にて何用有て何方いづかたへ行にや眞直まつすぐに白状致せと申けるに文藏はがた〳〵ふるへながら私しは原澤村はらざはむら百姓文藏と申者に候が是なる妻の里木綿島村もめんじまむらの父が急病ゆゑ見舞みまひまかこし候間何卒御慈悲にて御通し下され候樣願ひ奉つるといひければ彼の侍士は點頭其は不便ふびんの事なり此まゝ引立ひきたてゆくときは御法通りはりつけなれば何卒助けてつかはたくしばし工風のていに見えしが汝等おや孝行のこゝろざしにめで我一了簡れうけんを以て見遁みのがし遣はさん併ながら手先の者共へ酒代さかだいにても遣はさねば相成らずと申をきゝ文藏は蘇生よみがへりたる心地にて大に喜びこれこそ地獄の沙汰もかね次第と目明めあかし方の兩人へ所持しよぢせし有金三十七兩を殘らず差し出だしければ彼の役人どもは其の金子きんすを請取り此の事決して口外こうぐわい致すまじと申渡し何國ともなく立去けりされば文藏夫婦は役人の後影を伏拜み實に有難き御慈悲じひなり然ながら我々身延山をいつはりし佛罰ぶつばつにて空恐しき目に逢しならん早々御わびをすべしと下なん吉平へ申付て原澤村へ立歸たちかへりさせ番頭ばんとう忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩ををさめて御わびをなし漸々やう〳〵日數をて駿州木綿島村もめんじまむらへ十月十五日に着たりける然るにじん太夫は平常へいぜい痰持たんもちにて急にせりつめけるが三四日の内に思ひの外全快ぜんくわいし先常體つねていなれば夫婦は早速さつそく對面なせしに甚太夫は兩人が遠方ゑんぱうの所を深切しんせつに尋ね來りし事を深く喜び彼是と饗應もてなすにぞ夫婦も安心し此度途中とちうにて少々入費ものいりも是ありしにより甚だ少しながらと金子二十兩を土産に贈りければ甚太夫は彌々いよ〳〵其の志ざしを感じ緩々ゆる〳〵逗留とうりうありて旅勞たびつかれを休められよと言に夫婦の者は一兩日逗留とうりうなし頓て暇乞いとまごひして木綿島村を出立し三人打つれ故郷こきやうへこそは歸りけれされば文藏夫婦は此度廻り道をなして金子をつかひし事必らず口外こうぐわいなすべからずと吉平へもかた口止くちどめして濟し居たりしがたれる者もなく其年もはや十二月となりて追々おひ〳〵年貢ねんぐの上なふ金を下作したさくよりあつめけるを文藏の代になりてはべつして毎年いつ都合つがふよく年々實入みいりふゑるに往々ゆく〳〵しうと甚太夫も此方こなたへ引取べしとしうとめも申により喜び居たりけりさてまた雲切仁左衞門は彼三十七兩の金を小猿向見むかふみずの兩人へ十兩宛分與わけあたへ己は十七兩の金を懷中ふところになし日々あそくらしけるが仁左衞門は兩人に向ひ此上某し大金を儲ける手段しゆだんを考へ置たり此事首尾能しゆびよく行時は此後盜賊たうぞくやめ其金を以てすゑ安樂あんらくに暮しなん若又惡事露顯する時は互ひに命を落す而已のみなり今一はたらきなすべしと申ければ兩人は異議いぎに及ばず然ば大金まうけに掛らんと其相談さうだんをなし居たり然るに其年の十二月五日原澤村の名主なぬし用右衞門の方へ木綿合羽もめんがつぱを着したる旅の侍士さふらひ一人入來り其方へ少々尋ね度仔細しさいありと申にぞ名主用右衞門は何事なるやと思ひ早速さつそく座敷へ通して茶烟草盆たばこぼんを出し挨拶あいさつに及びける處彼侍士さふらひ用右衞門に向ひ當村に文藏と申者はなきやと尋ぬるに用右衞門何さま文藏と申者當村にまかり在候と答へければ侍士は點頭其文藏が身の上に近頃何ぞ後暗うしろぐらき事はなきや其方より内たゞし致すべしと申けるに用右衞門は大に驚き文藏儀平常實體じつていにて慈悲じひふかき者ゆゑ然樣の事有べきはずなしと思へども先彼侍士を欵待もてなし置て早々文藏方へいたり只今我等方へ御侍士一人御入にて斯樣々々かやう〳〵の御尋ねあり貴樣に後暗き事の有べき樣なけれど一おう申聞ると申せしに文藏は内心ないしんぎよつとなせしかども素知そしらぬ體にて其は一向心當りもなしと申を用右衞門は押返おしかへとくかんがへられよと尋ねけれども文藏立腹りつぷくていに見えしかば用右衞門も何樣なにさまと思ひ立歸りて此旨このむねを侍士へ申のべけるに然らば此段申上べしと云て侍士は立歸たり因て名主用右衞門は不思議ふしぎの事に思ひひそかに心つうしてぞ居たりける


第三回


 さて又同く十月二十七日の暮方くれがた名主用右衞門方へ五六人の侍士來りしゆゑ用右衞門きもひやして出むかひける所さきに立し者此御このお侍士を案内せし我々われ〳〵は江戸南町奉行大岡越前守樣御組中田甚太夫殿の手先てさき岡引をかぴきなりと云ければ用右衞門は増々ます〳〵驚きけり(いま此處へ來りし役人體の者は雲切仁左衞門の手下てしたなる三吉小猿の兩人にて甲府邊かふふへんの者三四人をぜに五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり)時に小猿こざるの甚太夫は用右衞門を呼び當村たうむらの百姓文藏方へ案内致すべしと申故用右衞門は狼狽うろたへ廻りて組頭くみがしら百姓だい組合の者とう大勢呼集め是は先日のことならんと恐る〳〵案内致しけるに此文藏の宅は長屋門ながやもんにて土藏七戸前其外納屋等なやとう數多ありて番頭忠兵衞初め下男十人下女五人馬三疋の大福家だいふくかなりし處夜五ツ時ごろ御用ごよう提灯ちやうちんを先に立名主なぬし組頭くみがしら一同に案内して入來りしゆゑ文藏は何事なにごとならんと大いに驚きし中上意じやういこゑかけ主人夫婦を高手小手にいましめければ母は仰天ぎやうてんしながら如何の譯にて候や悴儀せがれぎは御召取めしとりに相成べきわるさを致す者にあらずと泣々なく〳〵詫言わびごとなしけるを小猿の甚太夫は母に向ひ文藏夫婦はさんぬる十月中萬澤の御關所をまはり道を致し候江戸町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿へ相聞え今日召捕めしとりに向ひたり其節ともに召連し下男なるおもむき是亦差出すべしとて吉平をも召捕ければ母のおもせは種々いろ〳〵と歎きけれ共小猿の甚太夫はかうべふり其方何樣に歎くとも江戸表よりの御差圖さしづなれば差免さしゆるがたししかし子の罪は親に懸らざれど母をば村役人へ急度きつと預けおき奉公人は番頭忠兵衞はじめ殘らず是又村役人へ預申付るなり居宅ゐたくの儀は村の百姓共申合せ晝夜番ちうやばんを致すべしと申渡し家内諸式しよしき米倉迄こめぐらまでのこらず改めの上中田甚太夫の封印ふういんを付其外帳面ちやうめん書留かきとめるに米千八百五俵むぎ五百三十俵並に箪笥たんす長持ながもちさを村役人立合たちあひにて改め相濟あひすみ其夜寅半刻なゝつはんどき事濟に相成山駕籠やまかごちやうを申付て是へ文藏夫婦に下男吉平をのせ明日みやうにち巳刻迄よつどきまでに當所の御代官だいくわんみのかさ之助殿御役宅やくたくへ召連て罷り出べしと急度きつと申渡し村役人共より預り書面しよめん請取うけとり小猿の中田甚太夫は我手の者共を召連立歸たちかへりけり因て彼是かれこれする内に夜も明離あけはなれければ名主用右衞門は文藏に向ひ今更いまさら申はせんなき事ながら此間御役人御出にて御ないたゞしの節に取扱とりあつかひなば又々如何樣にも内談ないだんの致し方も是あるべき所其節心付かざるこそ殘念ざんねんの事共なれ今と成ては是非ぜひに及ばずと申けるに母のおもせを始め皆々みな〳〵何といふべきことばもなくたゞなみだむせび歎きかなしむより外はなかりけり


第四回


 扨も文藏夫婦並に下男げなん吉平は翌朝よくてう大勢村の者を差添御代官簑笠之助殿御役宅へ召連めしつれまかり出昨夜御預の囚人めしうどを同道仕つり候と申立ければ御代官所にては不審に思ひ其儀一かう此方に於ておぼえなき事なりと申されける故名主なぬしよう右衞門は進いで昨夜大岡越前守樣御組の由中田甚太夫と申され候御仁が御召取めしとりなされ明朝みやうてう當御役所たうおやくしよへ差出し候樣にと仰せ付られ候に付則ち召連候と申せしかば御代官ごだいくわんの方にては是を聞れて扨々さて〳〵不審ふしんの事共なりと大岡の下役人共當地へ來り一應の斷りもなく支配所しはいしよ踏込ふみこみ候段何共合點がてん行ざる儀なり其上前以て内談もなく當役所へ三人の囚人を引渡し候儀旁々かた〴〵ず然れども囚人とあれば打捨置がたしとて此段甲府御城代八木丹波守やぎたんばのかみ殿酒井大和守殿へ申たつされける故評議の上先御勘定奉行かんぢやうぶぎやうへ差出し然るべしとの事に付それより江戸表御勘定奉行酒井壹岐守殿へ差出さしいだされければ酒井殿の方にても關所破せきしよやぶりとあるからは輕からぬ科人なり然れ共大岡殿の手先てさきにて召捕めしとりし者なるを此方にて裁許さいきよは成り難し兎に角大岡へ引渡候方ならんとの事にて越前守殿御役所へ引渡と相成たりよつて大岡殿村役人を召出めしいだされ一應糺されけるに十二月廿七日夜御組の中田甚太夫殿と申す御仁御出張にて文藏夫婦ぶんざうふうふ御召捕おんめしとり相成御代官へ引渡し候樣おほせ渡され米穀べいこく金銀諸道具しよだうぐ等迄とうまでのこらず封印の上御引取相成候間其通り御代官所へ召連めしつれうつたへ出候處一かう御存じこれなきとの事にてそれより御勘定奉行へ御引渡しあひなりなほまた當御役所へ相廻候と申立るをきかれ越前守殿直樣すぐさま中田甚太夫を呼出よびいだされ其方名前を僞りしは何か遺恨ゐこんにても有者の仕業しわざか又は盜賊のたくみならん何れにもとく吟味ぎんみ致すべしとありて文藏夫婦を呼出し越前守殿文藏を見られ其方儀さる十二月二十七日の夜當方の下役したやく名乘なのりし者に召捕れ候趣き其節の手續てつゞき明白に申立よと尋ねられければ文藏はなみだを流しながら其節は名主用右衞門案内にて私宅へ御役人樣御出成れ一言の御糺おたゞしもなく私し夫婦を御召捕おめしとり相成しは斯樣々々かやう〳〵なり私し母并に下人共は村役人へ御預け家内かないの番は村方百姓等ひやくしやうら仰付おほせつけられ諸色しよしき土藏どざうとも殘らず御役人樣御封印ごふういんにて其後御引取の所其節そのせつ明日巳刻よつどき簑笠之助樣御役所へ相送り候樣仰せ渡され候て御役人樣御立歸たちかへり相成候然るに簑笠之助樣御役にては一かう御存ごぞんじ是なきだんおほきけられ候と委細ゐさいに申上しかば大岡殿名主用右衞門へ對はれ此儀は何ぞ文藏へ意趣遺恨いしゆゐこんにても是ある者の心當こゝろあたりはなきやと申さるゝに用右衞門暫時しばらく考へ文藏儀は至て實體じつたいなる者ゆゑ意趣遺恨等いしゆゐこんとううくべき者に候はず然れども去年十二月五日何れより御出おいでなされ候や御侍士樣御一人私し方へ御越にて文藏に何ぞ不審なる儀はなきやと御尋ねゆゑ早速さつそく文藏へうけたまはり合せ候處一向なにも覺え是なく候と申候に付其段申上候に其御士儀何か御考へのていにて御歸り成され候然るに其の後二十七日の日斯樣々々の次第に候と申立ければ大岡殿又用右衞門へ尋ねらるゝやう其方の支配なれば文藏が家内かない樣子やうすよくしりつらん何ぢやと申されしに用右衞門おほせの如く私し支配に候へば文藏の樣子はよくぞんをりさきにも申上候通りかれは一たい實體じつていなる者にて平常へいぜい慈悲じひふかく又女房と申候は駿府すんぷ二丁町の遊女いうぢよなりしを請出し候が是又心懸よき女にて奉公人より小前こまへ百姓共迄も平常つね〴〵ほめ候て家内和合わがふいたし居候と申立ければ大岡殿然れども文藏夫婦の者近頃何方へゆきし事は是なきやと尋ねられしに用右衞門去年十月中に夫婦身延山みのぶさんへ參詣仕つり候儀御座ござると申立れば大岡殿其儀二十七日に召捕候節吟味は致さずや又萬澤の御關所近邊きんぺんには萬澤ぎつねと申居るが故殊によりて化される事も有なり其節途中に於て何ぞ怪敷あやしき事はなかりしやと尋ねらるゝをきゝ文藏は大いに驚き恐れながらと進み出御奉行樣の御眼力誠に恐れ入奉つり候其節萬澤のわきにて目明し二人に出會であひ私し共三人になはかけ候處へ御役人樣御出ゆゑ愈々いよ〳〵むづかしからんと思ひしをり地獄ぢごく沙汰さたかね次第とやらにて有金三十七兩を差出し御内分に成下され相濟あひすみ申候然るに十二月二十七日の夜御役人樣御出御座候處右は萬澤まんざはにて出會候目明の面體めんていよく似寄により候と申を大岡殿とくきかれしが早速さつそく同心山本彌太夫を呼出され文藏宅の樣子を改め來るべしと申付られしにより彌太夫は直樣すぐさま原澤村はらさはむら名主用右衞門同道にて甲州原澤村なる文藏の宅にいた番頭ばんとう忠兵衞を呼出して家内土藏の封印ふういん切解きりとき箪笥たんす長持ながもち等一々改むる時忠兵衞は文庫ぶんこ藏の長持ながもちを明此中に金千百八十兩入置いれおき候と申に右のかねえざれば大いに仰天し幾度となく探し求むれども少しの金と違ひ大金たいきんの事故まぎれべきやうもなく如何にも不思議のことなりとあきれ果たる趣を彌太夫は見て扨は奉行衆の鑑定かんてい通り盜賊の仕業しわざにて似役人をなせしならんと思ひ早速立歸りて右の趣き巨細こさいに申し立てければ大岡殿然らば文藏夫婦の者外に惡事もあらざるゆゑ助け遣さんと思はれけれども關所破せきしよやぶりと言てははりつけに成べき大法ゆゑ種々いろ〳〵に工夫ありて又々文藏夫婦を呼出され其方夫婦とも顏色ことの外惡し如何致せしやと申されければ文藏は恐る〳〵かうべを上私し共儀此間中より病氣に御座候と申立るに何樣なにさま不便ふびんのことなり此上病氣おもりては成ずと有て宿預けに申付られたり斯る囚人めしうど宿預やどあづけといふは誠に深き御慈悲おじひなりと見聞人毎に泪を流し大岡殿の仁心じんしんを感じけり又大岡殿には其中ににせ役人をせし盜賊たうぞくを吟味せんと所々探索たんさくを申付られけり扨又彼の雲切仁左衞門肥前の小猿こざる向ふ見ずの三吉の三人はにせ役人となりて原澤村の名主なぬし始めを首尾よく欺むき文藏方にて金千百八十兩ぬすみ取しかば仁左衞門は三吉小猿こざるに向ひ斯樣かやうに仕合よくゆき智嚢ちなう古の諸葛孔明しよかつこうめい我朝の楠正成まさしげも及ぶまじとは云ふものゝ是まで夜盜よたう追剥おひはぎ人殺し等の數擧て算へ難し此上盜賊をなさばつひには首をも失はんされば汝等に此金を三百兩づつつかはし殘り五百兩は我が物となし此盜賊を止め此金子をもつて各々おの〳〵金堅氣かねかたぎたつきを始め町人になり百姓になり了簡れうけん次第に有附べし併此以後は三人共に音信不通いんしんふつうになし假令たとへ途中などにて出會とも挨拶あいさつも致すまじと約束を定め分殘わけのこりの八十兩は當座たうざの祝ひにつかふべしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にてあそびけるがやがて彼八十兩をつか仕舞しまひしかば三人は約束の如く思ひ〳〵に別れけり夫より雲切仁左衞門は本郷六丁目へ住居ぢうきよして家名を甲州屋とよび米商賣こめしやうばいを始めけるが元よりぬけめなき者ゆゑ次第に繁昌はんじやうなし此所彼處の屋敷又は大町人などの舂入つきいれうけ合ければにはかに手くりよく金銀もふゆるにつき地面を求めて普請ふしんをなし今は男女五六人の暮しに成し處近所の者の世話にて女房をもち家内むつまじく繁昌はんじやう致しけり扨又肥前ひぜんの小猿は本町二丁目にてうり家をもとめ名を肥前屋小兵衞と改め糶呉服せりごふくを初めければこれまた所々しよ〳〵の屋敷に出入もふえ段々だん〳〵と勝手も能成よくなり凡夫ぼんぷさかんなるときは神もたゝらずといふことむべなるかな各自仕合能光陰つきひを送りたり然るに小兵衞は尾張町の呉服だな龜屋かめやの番頭仁兵衞といふ者に取入とりいり呉服物を二三百兩づつ預りて商賣しやうばいしける所に此仁兵衞頓死とんしして一向勘定合かんぢやうあひの分らざるを僥倖さいはひに肥前屋小兵衞は二百八十兩程の代物しろもの只取たゞとりになし是より増々仕合せよく相成けるに付間口まぐち三間半の店をひらき番頭手代小僧共五六人召仕めしつかひ何れも江戸者を抱へるゆゑ何事も商賣向にあかるく繁昌はんじやうなすに付て小兵衞は女房をもたんと思ひ是も工風くふうして御殿女中の下りを尋ね宿の妻として都合つがふよく日増ひましに内ふくと成たりけり夫に引替向ふ見ずの三吉は三百兩の金を配分されしかば其金を懷中して所々を徘徊はいくわいなしもつぱら賭博に身を入又大酒を呑己が有に任せて女郎藝者げいしやかひ金銀を土砂つちすなの如くつかひ捨る故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は漸々やう〳〵丸の内の本多家の大部屋おほべやころげ込めしを貰ひて喰居くひゐたりしが追々おひ〳〵寒さに向ふ時節なれど着物は古浴衣ふるゆかた一ツゆゑ如何共爲方なく不圖ふと大部屋を立出し頃は享保十六年十一月なりしが三吉は種々しゆ〴〵工夫して本所ほんじよ柳原まちつき屋の權兵衞といふ者あり此者はかね知人しりびとなる故是をたのみて欺かばやと思ひ常盤橋御門を出てふら〳〵本町二丁目へ來懸きかゝりし所に左側ひだりがはに肥前屋と書たる暖簾のれんかゝり居たりしかば是も肥前ひぜんの者ならん彼の小猿めもおなじ國なりしが今は如何いかゞ成しや我は元同國片村の名主の腹より出たる者なるが此體に成果たり併し此間迄は三百兩の金を持居たれども今は一文もなしなどとひとつぶやきながら通る所に肥前屋より小僧こぞうを一人供に連て出行いでゆく者の體小猿に髣似よくにたりしかば三吉はあとつけて能々是をうかゞひみるに小猿に相違なきゆゑ心中によろこびしに小兵衞もちらりと振り返り見てやつは三吉めなりと思ひ恐れしにぞ知ぬ顏にて早足はやあしに行過る所を三吉はなほ後より尾來るゆゑ小兵衞は彌々恐れ種々に逃廻にげまはると雖も三吉は尾慕つきしたひければ小兵衞は足にまかせて逃歩き夜に入て漸々歸り我が家の表口おもてぐちより入時後につきて三吉はと入來り御免なさいと言ながら店先みせさきに腰を掛私しは元御知己ちかづきの者なれば此家の旦那に御目にかゝり度と申に番頭手代はじろ〳〵顏を見ながら其の段主人へ申通じけるに小兵衞は殊のほかこまり入只今留守るすにて何方へ參り候や相知あひしれずと申べしと言付ければ手代は立出其むね申聞るを聞き三吉然らば御かへり相待あひまつべしと言て上りこみ一向うごかぬ故小兵衞も是非なく密と勝手かつての方より出ておもてへ廻り只今歸りしていにて三吉を見付是はめづらしやと表へ呼出し向ふ横町の鰻屋うなぎやあがりて物語りけるに三吉はひざを進め扨々さて〳〵面目なき仕合しあはせなれども誠に此體なれば何卒なにとぞ少々の合力を御頼み申と言懸いひかけられ小兵衞は是非なく懷中に在合し金六兩三分を殘らず出しつかはしければ三吉は大によろこび昔し馴染なじみとて御無心申せしに早速さつそく多分の金子御貸下され忝けなし是を元手もとでに一商賣に有附今の御恩をはうぜんと口から出次第申しけるを小兵衞は打聞此後は豫て申合せし通り必ず我等われら方へ參られ候事無用なりと申せしかば三吉は天窓あたまかきおほせの如く此後は決して立寄たちよるまじとかたく約束なし猶又綿入羽織わたいればおり一ツを貰ひ夫より本所柳原町なる舂屋權兵衞を尋けるに權兵衞は故郷こきやう引込ひきこみたる由土地ところの者申故三吉は力なく又々安宅あたけの方へ到りしに當時は所々に切店きりみせ有て引込ける故ぶらりと是へ上り大に酒をのみ一分ばかりも遣ひ其夜は遊びて翌朝立出朝飯あさめしを表にて喰居くひゐたりし時ふせぎ傳吉といふ者に出合互に昔しがたりをなし夫より此傳吉方に食客ゐさふらふとなり居けるが此傳吉は先年甲州へゆきける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と兄弟きやうだい同樣にせし者なり夫故それゆゑ今傳吉方にあそび居たるに傳吉は三吉が金を持て居る事を見し故是をはかりて博奕ばくちすゝめしかば固より好む事ゆゑ直樣すぐさま引懸ひつかゝもつぱら博奕をなして居たりけり


第五回


 斯て彼三吉は又々博奕ばくえき引懸ひきかゝり肥前屋小兵衞方にて貰ひしかの六兩は殘らずまけて仕舞元の通りの手振てぶりとなりけれ共綿入わたいれ羽織ばかりは殘り有事故種々思案しあんなし此上は如何共詮方せんかたなければ元へ立歸るより外なしと本町二丁目なる肥前屋ひぜんや小兵衞の方へ行御免下めんくだされと店へあがるゆゑ番頭大にこま折角せつかくの御出に候へども主人小兵衞儀は留守るすにて御目にかゝり候事相かなはずと斷りけるを三吉然らば御歸り迄御待申べしとて以前の如く居込ゐこむ樣子やうす故今日は遠方ゑんぱうへ參りしにより歸りの程もはかり難しと申ければ三吉は我等是非々々御目にかゝらねば相成がたき用事あり二日にても十日にても御歸宅を相待あひまち申べしと歸氣色はなかりしにぞ店の者はほとん當惑たうわくなし殊に小兵衞の女房は御殿下ごてんさがり故此體をのぞき見て甚だ驚き小兵衞へ早々さう〳〵歸し給へとせまりしかば小兵衞も難儀なんぎ千萬に思ひ番頭を以て主人小兵衞儀は仕入方にまゐり候間何日ごろまかり歸り申べくや程合も計りがたく候に付先々御歸りありて四五日もたち候はゞ又々御入おんいり下さるべしと云せければ三吉は是を聞てはらを立今こそ肥前屋の旦那などと横柄面わうへいづらをして居れども元はといへばおれと同樣に人をゆすり取又は追落おひおとしをしたる事もあり今己が斯の如くおちぶれたればとて其よしみを以て少々の見繼みつぎ位はなしてもよきはずなり若今己が御手にあふときは同罪なりと大聲を出すにぞ小兵衞ははなは迷惑めいわくなし此樣子やうすにてはとても素直すなほには歸るまじと夫より旅の支度したくをし又裏口よりひそか立出たちいで門の外より今歸りしと聲を懸ながら内へ入けるに人々旦那だんなの御歸りと言を聞三吉は最前さいぜんより待居し事なれば小兵衞にむかひ少々御咄し申度事ありといふに小兵衞は三吉をおくの間へ連行つれゆき女房へも引合ひきあはせ此人はもと國元にての久々馴染なれば今宵は奧座敷にてはなしを致すべしと兩人は一間に入て内談ないだんするに小兵衞は三吉にむかひ貴樣はよくつもりても見られよ一人二三百兩分取わけとりなし此の上は各自家業かげふに有附べし因ては以後音信いんしん不通と云事を仁左衞門始三人かたく言葉をかはして別かれしにあらずや然るに此間このあひだも六兩三分と言金子を譯なく合力がふりよくし間もなく其形にて又々まゐらるゝ事餘りなる仕方なりむかしとは違ひ今は眞面目まじめに日々の利潤りじゆんを以て其日を送る我等なれば最早此上は何共なんとも仕方しかたなしと云けるを三吉ひたひおさへ夫は道理の事ながら我等何程なにほどかせぎても不運にして斯の體と相成ども今一度商賣に取付度何卒なにとぞむかしの好みを以てすくひ給はれと申ければ小猿こさるは暫く考へしからば雲切仁左衞門方へもゆきて頼み見られよと言けるに三吉其事もおもはぬにはなけれ共當時たうじ仁左衞門は何所いづれに居るや一かう行方ゆくへを知ず若御存じあらば教へたまはれと申せしかば當時仁左衞門は本郷六丁目にて甲州屋仁左衞門といふ大富家なり是へ便て相談さうだんあらば又よきはなしも有べしもつとも我等は仁左衞門と申合せし以來出會は致さゞれども餘所よそながら樣子をうけたまはり居るなりとはなしけるに三吉は大によろこび然らば翌日あすにも直樣すぐさま本郷へ行んといふを小猿こざるきゝてとてものことに百兩ばかりも誣頼ねだり夫にて取付商賣をいたさるべし是までの如くにてはならぬゆゑとくみとめし事を致されよと言ければ三吉納得なつとくなし先以御教おんをしへ忝けなししかし如何いたして誣頼ねだり申べきやと聞に小猿夫は豫々かね〴〵出入は申すまじと堅く申合せし事なれ共斯樣々々のわけにて詮方せんかたなく參りたりと申されよと言含いひふくめしかば三吉は委細ゐさい承知しようちして立歸り翌日本郷六丁目へ尋ね行て表より甲州屋仁左衞門殿とは此方にて候やと申入ければ番頭は然樣に御座候と答ふるにらば御主人仁左衞門殿へ御目おんめかゝりたしおほせ入られ下さるべしと言入しかば仁左衞門何心なく立出たちいでるに以前の三吉なればわるやつが來りしと思へども詮方せんかたなく先一間へ連行其方は何故たづね來りしやと申に三吉は面目めんぼく無氣なげに私し事する事なす事手違ひになりて誠に難澁仕つり今は早行べき所もなくかねて兄弟分の小猿こざるにも借金百兩ばかりも出來此上如何ともいたし方なき折から此度大岡樣の御手に召捕めしとられし所小猿が工夫くふうにて岡引衆をたのみ旦那衆へ内々百兩おくりて見遁みのがしにして貰ふ筈なれども右の金子に差支さしつかへ候間何卒なにとぞ百兩御かし下さるべし其百兩の金子なくては岡引衆をかびきしう勿々なか〳〵承知いたされず御手にあひ候はゞ萬一拷問がうもんに懸りくるし紛れに古への原澤村の一件などを申し出すじきとも云難く然すれば御たがひの身にかゝはる事故何分なにぶんにも見遁して貰ふより外なし其手段しゆだんは金子なりと眞顏まがほに成て語りければ仁左衞門も其事そのことに至らば誠に身の大事なりと心に納め是非なく百兩工夫くふうして相渡しける故三吉は大によろここれまこといのちの親なりと押戴き其の金を懷中し立出けるが百兩といふかねを只取になせし故すぐに吉原町へゆきて拾兩ばかり遣ひおごちらし殘り九十兩を持てぶら〳〵淺草へいでける處遠乘馬とほのりうま十四五疋烈敷はげしく乘來のりきたりしかば三吉後へにげんとするをり其の馬一疋なゝめに駈出し往來わうらいの者を踏倒す故三吉は狼狽うろたへて漸々馳拔はせぬけ諏訪町へ來り酒屋へ這入て懷中を見るにいつ落せしや九十兩のかね見えざりければ三吉は駭驚仰天びつくりぎやうてんして立歸り猿眼さるまなこに成て能々尋ねけれ共人通ひとゞほり多き所ゆゑ一向に跡形あとかたもなし依て又々元の手ふりとなりければふたゝび本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を物語ものがたりて無心をいひけるに仁左衞門は大いに難澁なんじふに思ふと雖も詮方なく又々金子をつかはしけるが是をも又遣ひきりて本町の小猿の方へ無心むしんをいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打てちがひに無心を言懸いひかけいなと言ば以前の事を大聲にてならべる故仁左衞門もほとんど困り入けるが急度きつと工夫くふうをなし本町の肥前屋へ來り内々ない〳〵相談に及びけるは彼三吉事とても生置いけおきては我々が身のつまりなれば謀計はかりごとを以てかれを切て捨んと談合だんがふなし夫より三吉をだまし久々なれば三人同道して御殿山の花見にゆくべしと申しければ三吉大いによろこ直樣すぐさま行んと三人打連立うちつれだち頃は享保十七年三月十八日御殿山にて花見をなし酒の機嫌きげんいにしへの物語りなどして品川より藝者げいしやよび大酒盛となりて騷ぎ散す中はや暮相くれあひと成ければ仁左衞門はやがて身をおこし我等は今宵こよひよんどころなく用事あれば泊る事はならざれどもあつさり遊んで歸らんと夫より新宿しんじゆくの相摸屋へあがりしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出高輪たかなわへ來りし時仁左衞門大音だいおんあげコレ三吉汝は先年せんねん甲州にて金子配分はいぶんせし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ無體むたい難儀なんぎを懸る事度々たび〳〵に及ぶ如何に惡逆無道あくぎやくむだうものなり共恥を知ざるは人間にんげんにあらずといふ儘に引捕ひつとらへければ三吉は大に驚き逃出にげいださんとする所を肥前の小猿飛懸とびかゝりて拔打ぬきうちに右の腕を打落すに雲切仁左衞門は大脇差おほわきざしを引拔て三吉が眞向より殼竹割からたけわりに切割りければ三吉はうんともいはず二ツに成て死したりけり仁左衞門は小猿に向ひ先々まづ〳〵是にて安心あんしんせりとて彼死骸をうみ投込なげこみかへりしゆゑ此事知る者なかりしがもとより同氣相求あひもとむる者ども故是より折々は出會いであひけるに兩人とも三吉に金子を多くとられしかば勝手向かつてむき不如意ふによいになりしより今一度大稼おほかせぎをなし是限これかぎりにせんと兩人申合せて又々惡心あくしんおこしけること是非なけれ


第六回


 偖又其頃そのころ兩換町に島屋しまや治兵衞とて兩替屋ありけるが肥前屋ひぜんや小兵衞は此家へ度々たび〳〵兩換の事にて行店の者にも心安こゝろやすく成てとくと樣子を窺ふに概略勝手もわかりしかば是ぞよからんと思ひ仁左衞門へ島屋の事をかたりければ夫こそ屈竟くつきやうの事なりとて兩人相談さうだんうへ同く十七年十月二十八日の夜あめは車軸を流し四邊あたり眞闇まつくらなれば是ぞ幸ひなりと兩人は黒裝束くろしやうぞくに目ばかり頭巾づきんにて島屋の店へ忍び入金箱かねばこに手を掛出さんとするをり番頭太藏はを覺まし大音に盜人々々どろばう〳〵と聲を立るゆゑ仁左衞門小猿は逃出にげいでんとする所に大勢追來おひきたりしかばやむを得ず三人程切拂きりはらひて其場を逃去にげさり金はまんまと奪ひ取仕合しあはせよしと兩人五百兩宛配分はいぶんして悦び別れけり然ばかの兩替屋にては翌朝早速さつそく町奉行所へ訴へ出ければ大岡殿島屋の手代てだい呼出よびいだされ一通り尋ねらるゝにわかい者左吉重次郎千次郎の三人手負ておひの趣き又盜まれし千兩は一昨日蓮池はすいけ御藏より受取候金子にて殘らず私し方の極印ごくいんを打置候と見本の金を差出せし故大岡殿夫より江戸中兩換屋は申に及ばず諸商人しよあきんど共迄一同に此段このだん觸示ふれしめされけりさて又肥前屋小兵衞はぬすみし金の五百兩を配分はいぶんして大に歡びしが是ぞ天罰てんばつの歸する處にして右の町觸まちぶれの出し日は留守にて心得ず越後屋に反物たんものかり百三十兩あるを跡のためなれば先是をはらはんと思ひ越後屋へ右の小判こばんを持參し拂ひけるに越後屋にては甚だ心中しんちう不審ふしんに思ひけれ共是迄これまで間違もなき肥前屋小兵衞事故ことゆゑかれへ申も如何なりと此段このだんを奉行所へうつたへければ早速右の百三十兩を取上られて改めの上兩替町の島屋治兵衞を呼出され此金このかねを見よと渡さるゝに治兵衞は改め見て此金に相違さうゐ御座なく候と申立しかば直樣すぐさま本町二丁目の肥前屋小兵衞へ捕方を差向さしむけらるゝに捕方の面々肥前屋へ行向ゆきむかひ上意と聲を懸ける故家内の者共大に驚きけるを小兵衞今は是迄これまでなりと思ひ一尺八寸の刀を引拔ひきぬき捕手の者へと打懸るに左右さいうより立寄し二人飛違とびちがひ十手を以て請流しける中一人の同心うしろへ廻りて白刄しらはを打落し右の手を捻上ねぢあげつひに召捕て奉行所へ引立ひきたてければ大岡殿小兵衞を見られ其方事去る十月二十八日夜兩替町島屋治兵衞方へしのいり三人に手をおはせ金子千兩をぬすとりしならんと尋ねられけるに小兵衞は最早もはやのがれぬ所なり何日迄陳じ居て拷門がうもんかゝらんよりは速かに白状はくじやうし罪にせんと覺悟をなして其夜の事共ことども一々白状に及びたりさてまた本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が召捕めしとられし事を聞ける故南無三なむさんと思ひしが熟々つく〴〵工夫くふうをなすに所詮我此所をのがれたり共天罰てんばついかでまぬかるべきと屹度きつと覺悟を極め我思ふ仔細しさいありとて妻へ離縁状を渡し又番頭其外店の者一同へ金を與へていとまいだし夫より南町奉行大岡殿の役宅やくたくうつたへ出私し儀は元雲切仁左衞門と申是々これ〳〵の惡事ありと白状はくじやうに及びたり依て大岡殿かれが勇氣を深く感ぜられなんぢ惡人ながらも英雄えいゆうなり能こそ自身じしんに名乘出しと申されて其日は入牢じゆらうと相成けり其後そののち仁左衞門小猿の兩人を呼出よびいだされ其方共江戸へ出でざるうちは何方にまかありしぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に住居ぢうきよ仕り候と申立ければ大岡殿しからば汝等享保十一年十二月廿七日にせ役人と相成て原澤村の百姓文藏夫婦を召捕めしとりて金をぬすみ取候に相違さうゐは有まじと申されければ小猿は顏色がんしよくかはりて俯向居たるに仁左衞門は莞爾につこと笑ひ何樣世の人賢奉行けんぶぎやうたゝまゐらする程有て御明察の通り私共儀享保十一年十月萬澤の御關所せきしよ手前てまへやすみ居候處に原澤村の大盡夫婦にて廻道まはりみちせしを付込にせ役人と相成三吉小猿を目明めあかしとなし私儀は御役人のていにて夫婦を召捕めしとり金子三十七兩を出させ其場を見遁みのがし申候其後十二月初旬はじめ手下てしたの者を原澤村の名主方迄つかはし樣子やうす探置さぐりおき同月廿七日又候似役人と相成名主方へ罷越案内致され彼大盡かのだいじん夫婦を召捕家内は申すに及ばず土藏へ封印ふういん附置つけおき有金千百八十兩盜取ぬすみとり申候此時盜取し金を資本もとでに致し銘々めい〳〵家業に有付以後は盜賊たうぞく相止あひやめ申可と三人申合せ小猿三吉の兩人へ三百兩宛私は五百兩分取わけとり候て夫より御當地へいで小猿は呉服店私しは穀物見世こくもつみせを出し候處彼三吉儀は三百兩の金子をつかすて候ては私し共兩人を尋ね來り無心むしんを申事度々に及び甚だ難澁なんじふ仕つるにより小猿と申合せ餘儀よぎなく御殿山の花見と申し三吉をだまして連行つれゆき高輪にて切殺し死骸は海へ打捨申候然れども天罰てんばつにて三吉に兩人とも身代しんだいを荒され借金多く相成候に付今一度盜賊たうぞくを致し身代をなほし商賣を致し候はんと存じ小猿と申合せ十月二十八日の兩替町りやうがへちやう島屋しまや治兵衞方へ忍び入金千兩盜み取り五百兩宛配分はいぶん仕つり是をぬすみをさめと存じ候處其金は目印めじるし極印ごくいんありしとは夢にも存じ申さず小兵衞がつかひ候より事あらはれ斯の仕合しあはせに相成候段是ぞ天罰てんばつにて恐れ入奉り候と少しも未練みれんなく一々白状に及びける故大岡殿神妙しんめうなりと申され又小兵衞に向はれ只今仁左衞門が申に相違なきやと尋ねらるゝに小兵衞も是非ぜひなしと覺悟かくごをなしいさゝかも相違之なき旨申立しかば口書こうしよ爪印つめいん申付られ仁左衞門小猿の兩人は鈴が森にて獄門ごくもんの刑に行はれたりさてまた原澤村の百姓文藏夫婦を呼出よびいだされ其の方共身延山へ參詣の途中とちう關所を通るのは如何いかゞと存じ廻り道を致し候と申せども此儀甚だ不審ふしん千萬なり此萬澤村には昔より惡狐あくこありて是を萬澤ぎつねといふよしをわれ聞居たり然れば其方共萬澤の關所やぶりにては是なくまつたく萬澤狐にたばかされ萬澤の裏道を彷徨さまよひしならん依て其虚に乘じ汝等なんぢら盜賊たうどくに金子三十七兩うばはれしに相違なからん然すれば何ぞ關所破りといふにあらんや然れば汝等に罪なきにより御かまひなしと申し渡されしかば文藏夫婦はふも更なり名主組頭を始め附添つきそひの村役人共一とう夢かとばかり打喜うちよろこび大岡殿の仁心じんしんを感じけるとなり


雲切仁左衞門一件

津の國屋お菊一件

くにきく一件いつけん


第一回


 かね一ツうれぬ日はなし江戸の春とは幕府ばくふ盛世さかんなる大都會の樣をわづか十七文字につゞりたる古人の秀逸にして其町々の繁昌はことばを盡し難くわけて神田は土地柄とちがらとて人の心も廣小路ひろこうぢ横筋違いの僻みなきすぐなる橋の名の如く昌平しやうへいの御代なれやいらかならべし軒續き客足絶ぬ店先みせさきは津國屋松右衞門とて小間物を商ひ相應さうおう活計くらしをなし妻お八重とのなかに二人の子をまうけ長男を松吉とび既に嫁をも娶り妹をお粂と名付なづけ是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ縁付えんづけ樣子やうすも好とて夫婦倶々とも〴〵安心なし最早悴松吉に世を讓り氣樂きらく隱居いんきよをせんものと思ひ居たりしをりから不圖目違めちがひの品を買込かひこみみす〳〵損毛をなせしが始にて二三度打續うちつゞき商ひの手違てちがひより松右衞門は心をいたつひに病氣となりてたうとう床に着きければ家内の心配大方おほかたならず醫者よくすり種々しゆ〴〵に手を盡し看護みとりに怠り無りしかども松右衞門は定業ぢやうごふにや四十二歳を一期となし果敢はかなく此世をさりにける不仕合せもつゞけば續くものにて惣領そうりやうの松吉も風邪かぜの心地とて打臥しが是も程なく冥土よみぢの客となりしかば跡に殘りし母とよめの悲歎云うばかりなく涙に暮果くれはて暗夜あんや燈火ともしびを失ひたる如く只茫然ばうぜんとして居たりけり然ば段々と打ち續きたる冗費ものいりに今は家藏いへくらも云に及ばず假令家財雜具迄も賣拂うりはらへばとて勿々なか〳〵借金しやくきんの方に引足ず母子倶々種々に心をくだけども女の身と云殊に大金たいきんの事なれば如何とも詮方せんかたなく何分是は淺草なる娘の方へ相談なすにしくことなしとて早々娘を呼寄よびよせて相談しけるに此お粂は元來もとより生質うまれだてよからぬ者なれば唯手前勝手の事のみ言て一かう世話せわもなさゞれば母は大いに立腹りつぷくなし親の難儀なんぎ見返みかへらぬとは鳥獸におとりしやつ親でもなし子でもなし見下果たる人非人にんぴにん切齒はがみをなせども又外にべき樣も有ざれば家財雜具かざいざふぐを人手に渡し其身は嫁と諸共もろともに淺草諏訪町にて裏店を借請かりうけすゝぎ洗濯せんたく賃仕事ちんしごとをなし細き煙をたてけるが嫁のお菊は老實まめ〳〵しく立働き孝養かうやうおこたり無りしかば母のお八重も大に喜こびむつましくこそくらしけれ此お菊は未だ二十はたちを一ツ二ツこえとしなれば後家を立さするも愍然ふびんゆゑ聟養子を取か然なくば外に縁付えんづけなば一生の身のをさまりにも成べしとしうとめは勿論懇意の者共迄も色々いろ〳〵勸むると雖もお菊は一向承引うけがはず母樣始め皆樣の仰をそむくには有ねども今更むこを迎へなば亡夫なきをつとに言譯なく夫とても母樣はゝさまの御心休めに成事ならば更々さら〳〵いとひは致さねども今聟をとるときは其人に氣兼ありて母樣への孝行も自然しぜんおこたる道理なれば少しも望みに候はず又外々ほか〳〵縁付えんづくなどとは思ひもよらぬ事何卒此事ばかりは御免おゆるしをと一向承引うけひく氣色けしきもなければ姑女しうとめ始め人々も其孝貞を深く感じ再度勸むる言葉もなく其意にまかせて打過けり斯て光陰つきひたつ程に姑女お八重は是まで種々さま〴〵辛苦しんくせしつかれにや持病のしやく打臥うちふし漸次しだいに病氣差重りしにぞお菊は大いに心を痛め種々療養れうやうに手を盡し神佛かみほとけへも祈りしかど其しるしかつてなく後には半身はんしん叶はず腰も立ねば三度のしよくさへ人手をかりるほどなれどもお菊は少しも怠らず晝は終日ひねもす賃仕事ちんしごと或ひはすゝ洗濯せんたくをなし夜は終夜よもすがら糸繰いとくりなどして藥のしろより口に適ふ物等を調とゝのへ二年餘りの其間を只一日の如く看病かんびやうに手を盡せども全快の樣子やうすは見えず彼是する中に享保四年も早十二月の中旬なかばと成しに長々なが〳〵の病人にて入費ものいり等も多く勿々なか〳〵女の手一ツにては三度の食事しよくじさへ成難く諸方の借方かりかたは段々と言延したれ共最早もはや此暮にはせめて半金づつ成共拂はねば濟ずさればとて外に詮術せんすべもなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘おくめなれ共母が長々の病氣の中も漸々やう〳〵一度見舞みまひに來りしばかりにて其節も心配の樣子もなく劇場しばゐの咄などしてそは〳〵と戻りしきり其後は見舞の使つかひだに差越さしこさず如何に不人情成ばとて實母じつぼの病氣を案じぬとは人非人とも無義道むぎだうともたとへがたき者なりと心の内には思へ共いろにも出さず只一しんかせぎけれど燒石やけいしへ水のたとへの如くなればやせんかくやとひとり心を苦しめしがもし此事母樣の御みゝに入ては猶々病氣の障りと包む程なほ心苦しく思案にくれて居る中に早十二月も廿五日とせまりしかば今四五日の間に金子調達てうだつなさゞれば一夜明るより母樣に藥もまゐらせられずさりとて何程かんがへてもふつて來る金も有まじいつそ田原町へいたり是程迄に難儀の譯を打明うちあけて頼みなば假令たとへ日常ふだんかくきるに切れぬ親子の中豈夫よもや餘事よそごととは見過ごすまじ是も母への孝行なれば出來ぬ迄も一おう相談致すべしと心を決し母の機嫌をうかゞふに折節をりふし母は氣分きぶん宜げにすや〳〵と寢入たる樣子やうすなれば是さいはひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄とほき道にも有ねばは暮たれどもよひに一走りと行燈あんどうともせんじ上たる藥をば歸りてのませる樣にし置立出んとなせし時如何いかゞしけん風も無に今ともしたる行燈の不圖ふときえければ心よからぬ事とは思ひながらも又元の如く灯をともし門の戸をかたしめて立出たり折柄師走しはすの末なれば寒風かんぷうはだへつらぬく如きを追々の難儀に衣類は殘ず賣拂うりはらひ今は垢染あかじみたる袷に前垂帶まへだれおびをしめたるばかり勿々なか〳〵夜風はしのぎ難きを耐忍たへしのびて田原町に到りけるに見世には客有りて混雜こんざつの樣子なれば裏へ廻りて勝手口よりひそか差覗さしのぞくに今日は餅搗もちつきと見えてそなへを取もあれば熨斗のしを延もあり或はなますを打者も在て大勢の手傳ひ臺所だいどころ居並ゐならび大取込の樣子を見てお菊は太息をつき嗚呼あゝむかし神田に居る時は我が家がかくにぎはしかりしが世が世なればとてわづかの間に此樣に零落おちぶれるも前世よりの約束事成べし夫に付ても此の家に縁付えんづきしお粂殿是程の身代しんだいに在ながら一人の母さまの貧苦ひんく餘所よそに見るとは何云心の人なるぞ殊には自分の身勝手みがつてのみ云散いひちらすは鬼かじやか思へば〳〵なさけなやと愚痴の出るも道理なり偖裏口より入んと思ふにあかり萬燈まんどうの如く大勢なる他人の居る中へかく窶然みすぼらしき姿にて這入はひらん事此家の手前も有ば如何いかゞせんと少間しばしたゝずみ居たりしにかたへに寢て居し一疋の犬あやしく思ひてや齒を剥出し吠付ほえつくにぞお菊は驚き思はずも裏口の障子を引明ひきあけ駈込かけこまんとするに臺所に居たる男共見咎みとがめ誰だ〳〵と言ながら立出窶然みすぼらしき姿を見て乞食こつじきとや思ひけんコリヤ今頃に來たとて餘り物もなし貰ひ度ば翌日あす早くよと云れてお菊は忽然たちまちむねふさがり口惜なみだむせびながらも好序と思へば涙を隱し成程斯樣かやうな見苦敷姿なりをして參りし故乞食こじきとの御見違へサラ〳〵御無理ならねども私し事は津國屋のよめ菊と申者にて此御いへの御新造樣に少し御噺申度事有て參りたれば此よしつうじ下さるべしと云に彼の男はじろ〳〵と顏を見ながら奧へ入しがやがて立出折角せつかくの御出なれども今日は折惡をりあしく餅搗にて客も大勢あり一方成ぬ取込故御目に掛りて御はなしも成難く御どくながら御用もあらば明日にも御出あるべしと云にぞお菊は餘りの仕方しかたと腹は立共色にも見せずかさねて男に向ひ今宵は御取込にて御話も成ずと有ておして申も如何いかゞなれども御母樣の御身の上につききふに御話申さねば成ぬ事故鳥渡ちよつとなりとも御目に掛りたく存じますれば御邪魔じやまながら最一おう御取次下されよと頼みけるに彼男は點頭うなづきて奧へ入しのみ待ども〳〵何の返事へんじもなく彼是するうちはや淺草寺の初夜をつぐる鐘耳元に響き渡り寒風かんぷう肌膚はだへさすが如く一しほ待遠まちどほく思ふに就我家の事を氣遣きづかもし母樣が御目を覺され此身の居らぬを尋ねはし給はぬか然共折角せつかく是迄來りしを話もなさずに歸らん事餘りに殘惜のこりをしと猶も返事を待程に漸々やう〳〵にして十六七の下女立出此方こなたへ御通りなされと言にぞお菊は悦びあとついて通るに勝手のわきなる一間へいざなひ今に御新造樣お逢なるべしと云おき立去たちさりしが茶一ツ出さず小半時ばかり立て漸々やう〳〵此家の女房お粂立出て偖々さて〳〵めづらしやたまの御出に折惡をりあしく取込にて大に御待せ申せしと言ばお菊は莞爾につこと笑ひ否々いへ〳〵私しこそ御いそがしき中へ參り御ひまをおかゝせ申し御氣の毒なりと互に挨拶をはりてお菊は膝を進め早速ながら今宵態々わざ〳〵參りしこと餘の儀にあらず御前樣にも豫て御存じの通り母樣のながの御病氣假初かりそめながらも三年越なれば入費ものいり多きゆゑ私しの手一ツにては勿々引足ひきたらず御醫者樣の御禮も此春より未だ少しも致さねば此春にはせめて金子の一兩もあげねば來春からは母樣へ御藥もあげられぬわけことこめまき其外とも追々拂ひが滯ほり其催促さいそくをされる度一時のばしに致し居れども最早もはや此暮には是非半金もやらねばならず夫故種々いろ〳〵心配致せど何分私しのかせぎでは其日々々を暮す迄にも引足ひきたらず其中にも私しは三度の物を一度たべる樣に致てすこしにても母樣の御口に適物を調へてあげんと思へども夫さへ心の儘ならずされどもうなぎあげたらお力も付ふかと存夜業よなべに糸をくりし代にて鰻をかひに行かんとせしが能々よく〳〵思へばお夜食やしよくのお米もなければ詮方なく進度あげたき鰻も買うこと成ず是程せつなき譯なれば御相談は爰の處お前樣もお良人つれあひのお手前もあらんが唯今申通りの譯なれば御氣の毒なれども何卒金子三兩夫共御都合ごつがふわるくば二兩にてもよろしく母樣の御病氣の御全快迄御貸下さる樣御願ひ申上ますとをがみつ泣つ頼みいり此金子の出來し事を母樣へ早く御しらせ申せば何程か御喜悦よろこびならん何分にも此場を御救助すくひ下されと詞を盡して頼みけるをお粂は碌々ろく〳〵耳にも入ず適々たま〳〵の御無心と云殊には母のことなれば何樣どのやうにも都合して上度あげたきは山々なれども當暮たうくれは未だ掛先かけさきより少も拂ひが集まらず其外そのほか不都合だらけにてとんと金子は手廻り兼ればお氣の毒ながら御ことわり申ます勿々なか〳〵私し風情ふぜいの身にて人の合力がふりよくなど致す程の器量きりやうはなし外々ほか〳〵にて御都合成れよと取付端もなきへん答にお菊は餘りの事とあきはて少間しばし言葉も無りしがさりとて外々へ相談なすべき當も無ければ口惜さをこらへ成程當暮たうくれは御不都合との事なれば是非もなき次第なり斯樣申さば御聞取りによりて御腹も立れんがはゞかりながら此御身代しんだいにてわづか二兩か三兩の金子なれば御都合ごつがふの成ぬ事も有まじ又御前樣の爲にも掛替かけがへなき一人の母樣が御いのちにもかゝはる大事の時故今一應御思案ごしあんなされ何卒此場を御救助すくひ下さるべし然すれば何程か御孝行にも相成べし此場さへしのげばあとの處は私しの命に代ても母樣に御不自由はさせ申まじ何分にも茲の處を御願ひ申と涙を流して頼みけれども女房お粂ははな會釋あしらひあれも孝行是も孝行と其たびごとに金を貸ては私どものあご干上ひあがる元々神田に居られし時は不自由もなき身代しんだい成しを母樣始めお前方の仕樣の惡さに今の困窮然ば御自分の不始末ふしまつから不自由なさるる事なれば私共わたしどもしる事ではなし今私が構立かまひだてをして倶に貧乏びんばふする時はをつとに對して何と云譯が成べきぞ然はなく共お粂のさと貧窮ひんきうなりと云るゝ度の肩身かたみせまさ恥しさ御氣にさはるかは知ね共私し共は寢衣ねまきにも着られぬ樣な衣物きもの窶然みすぼらしき姿にてお前に致せ母にせよ私しの家へ來られては内外の手前も面目なし此以後共に格別かくべつの御用もなきに御出は御無用とあくまで惡口あくこう吐散はきちらはぢしむるを先刻よりお菊は無念こらへしが思はずワツと泣出しお前はな〳〵強欲がうよく非道ひだうの大惡人今眼前がんぜん母樣の御命に迄かゝは難儀なんぎそれを見返らぬのみならず罪科つみとがもなき母樣をさう惡樣あしさまに云なすとは何云どういふ貴妹おまへのお心やらシテ又今のおこたへでは假令たとへ此後母樣が死給しにたまふ共かまはぬとか私の爲には義理ある姑女しうとめ貴妹おまへの爲には實の母樣假令何でも人間のかはかぶりし者ならばそんな非道は云れぬはず貴妹の樣な恩知ずの人には此上頼みもすまじ此末共に親類とは思はぬなりと腹たちまぎれ思ふがまゝに云ちら挨拶あいさつもなく立歸るをお粂は顏をふくらしてアヽ其樣な貧乏神びんばふがみかどへ寄せるも不吉ふきちなり早く退出せ追出せとつぶやきながらそこ〳〵に奧の方へぞ入にける


第二回


 かくて津國屋の老母お八重は偶然ふと目をさま四邊あたりを見るによめお菊の見えざれば如何せしやと延上のびあがりて見廻せども勝手にも居ざる樣子やうすゆゑひとり倩々つく〴〵思ふ樣我長々の病氣にてこしも立ず身體自由ならぬ大病を斯る貧窮ひんきうの其中にお菊が手一ツにて今日としの翌日あすと暮せど追々おひ〳〵かさなる借金に切なき事も多からんに孝行深きよめなれば苦敷くるしき顏も見せねども最早もはや節季せつきに押し移ればさぞかし苦勞をる成ん此事病氣の中にも案事あんじられ少しなりとも手助けと思へど叶はぬ病の身我さへなくば何方へなりとも縁付えんづいて此苦勞はさせまじきものを可哀かあいや我故身形みなりかまはず此寒空このさむそらあはせ一ツ寒き樣子は見せねども此頃は苦勞の故か面痩おもやせも見えて一入ひとしほ不便に思ふなり今宵は何方いづかたへ行しにや最早初更しよや近きにもどねば晝は身なり窶然みすぼらしく金の才覺さいかくにも出歩行あるかれぬ故夜に入て才覺に出行しか女の夜道は不用心ぶようじんもし惡者わるもの出會であはぬか提灯ちやうちんは持ち行しか是と云も皆我が身のある故なり生甲斐いきがひもなき身を存命ながらへ孝行のよめに苦勞をさせんよりはいつそぬるぞましならん今宵の留守を幸ひに首をくゝつて死なんものと四邊あたりさぐり廻りけるに不圖ふと細帶ほそおびの手にさはれば是幸ひと手繰寄たぐりよせ枕元まくらもとなる柱の根へ夜着よぎ布團ふとん積重つみかさね其上へやつ這上はひあがくだんひも兩端りやうはしを柱の上へ縛付しばりつけ首に卷つゝ南無阿彌陀佛のこゑ諸倶もろとも夜着の上よりまろび落れば其途端はずみに首くゝれ終にぞ息はえたりけるかへつとくお菊は田原町にて金の相談せしに金をかさぬのみか種々さま〴〵の惡口雜言ざふごんを云れ腹立紛はらたちまぎれにのゝしり散し愛想盡あいそづかして立出しが外に便るべき先なければ如何はせんと思案しあんしながら歸る道にてにはか胸騷むなさわするゆゑ不圖ふと心付是迄遂に夜に入て家を明ける事なきに今日は鳥渡ちよつと宵の間にと思ひしが存じの外に手間取しゆゑ母樣は目をさまされしならんすれば我が歸りのおそきを案じ持病ぢびやうにてもおこしは爲給したまはぬかと思へば暫時しばし猶豫いうよならずと足を早めて我が家にかへり來て見るに是は如何に老母は首をくゝりて死居しにゐるにぞお菊は驚き周章あわてすがり付涙とともに呼叫よびさけべど最早とくに事切て手足も氷のごとく蘇生よみがへるべきの樣もなければお菊の愁傷しうしやう一方ならずワツとばかりに泣沈なきしづむ聲を聞付隣家りんかの人々何事やらんと追々おひ〳〵駈着かけつけ此體を見て大いにおどろうれひに沈みしお菊を助け起しかついたはり且慰め相談なし此由早速公儀こうぎへ訴へ出べきや又内分にすますべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ駈行かけゆき老母が變死へんしの樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて死骸しがいあらためし後お粂はお菊に向ひ母樣が變死の樣子やうす仔細ぞ有ん如何いかゞなりと問ばお菊は涙を押拭おしぬぐひ私し留守るすの中に此如く成行なりゆき給ひしと答へしをおくめ冷笑あざわらいや然樣さやうにては有まじ病氣につかれし母樣ゆゑ勿々なか〳〵自身にて首をくゝり給ふ程の氣力きりよくなきはずなりさつする處長々の病氣に看病かんびやう夏蠅うるさしと思ひお前がくびり殺したる成べしと思ひがけなき難題なんだい言懸いひかけられお菊は口惜くやしきこと限りなく屹度きつとひざを立直し是は思ひも依ぬ事をおほせらるゝものかな云掛いひかゝりされるも程がある勿體もつたいない母樣を何故に殺すべき長々なが〳〵の御病氣なれば我がいのちかへてでも御全快ぜんくわいあるやうにと神に祈り佛を念じ永の年月及ぶだけ看病みとりに心を盡せし事は私が口から申さずとも御長家中の人々も能御存じなり夫程辛苦なしながら何しに手にかけころしませうしかるに他の事とちがかく難題を云懸いひかけられては私しの一分立難し何を證據に私しの所業しわざなりと云るゝとや血眼ちまなこになりて言けるにぞおくめ良人ていしゆ押止おしとゞめ今此處にて爭ひしとてせん方なき事なり我等も了簡れうけんあれば出る處へ出て屹度きつとたゞすべしと言置いひおき家主相長屋の者へも我等所存しよぞんあれば今晩の始末委細ゐさいに御奉行へ訴へ出る間かみより御沙汰さたある迄はお菊を屹度お預け申すなりとて夫婦連立つれだち田原町へかへ即刻そくこく老母變死の始末より此儀はよめ菊と申者の仕業しわざ推察すゐさつ仕つり候間御吟味願ひ上奉つるとの趣きを訴訟にしたゝめ月番の町奉行大岡越前守御役所へ訴へ出たりけり是により諏訪すは町の家主長屋の者どもも内分ないぶんすませることもならねば一同相談を爲すにお菊が常々つね〴〵の孝心勿々なか〳〵母を殺すやうなる事は有間敷あるまじけれ共皮想うへから見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んもはかり難し先お菊に屹度きつとしたる番人を付置て此始末を早々訴へ申すべしとて月番の大岡越前守殿御役宅おやくたく書付かきつけを以て訴へにこそ及びけれ


第三回


 かくて其翌朝よくてう淺草諏訪町へ檢使けんしの役人出張相成老母の死骸しがいとくと吟味ありてお菊を始め同長屋の者の口書くちがきを取お菊を腰繩こしなはにて引連ひきつれられ即日そくじつの吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘らず召出され一同白洲へ呼込よびごみになりしかば一番にお菊は腰繩にて引出され砂利じやりうづくまる時越前守殿出座しゆつざあつて願人花房屋彌吉同人妻粂と呼れ其方共願ひ出たる通り菊事姑女しうとめ締殺しめころしたるに相違なきやと申さるれば彌吉はつゝしんでかうべを上仰の通り老母儀長々の病氣なる故此者看病かんびやう致さん事を五月蠅うるさく存じ人知れず締殺し候に相違之なく然るを自殺の樣に申立候共長病ちやうびやうつかれ候者自身に首はくゝる程の氣力あるべき樣も御座なく是第一の不審ふしんにて候私し妻事は昨夜書付かきつけにもしたゝめ上候通り右老母が實の娘に御座候へば何分にも御吟味ぎんみ願ひ奉つり候と申立けるを越前守殿聞れてお菊に向はれ如何に菊其方は何故にしうとめを締殺したるや眞直まつすぐに申立よとありけるにお菊はしとやかに申樣おそれながら申上奉つり候私事姑女しうとめを締殺し候覺え毛頭もうとう御座なく元私し事はいやしき者の娘にて津國屋がまだ神田に住居ぢうきよ致せし節同人店に居候中兩親も死にはて候ひしを不便に思ひ私しを引取嫁にいたしくれ候大恩は勿々なか〳〵私し一生の中に報じられ間敷まじくと存じ心の及ぶだけは孝行をつくし度心得に候處うんしくしうと暫時しばしの中に失ひ其上借財多く出來やむことを得ず家財殘らず分散ぶんさんいたししうとめと兩人にて淺草諏訪町に裏店うらだなを借受賃仕事或は洗濯など致しわづかに露命をつなぎ居候中又もや姑の三年越の長煩ながわづらひに入費ものいり莫大ばくだいにて困窮に困窮を重候へ共茲ぞ恩の報じどきと存じ夜の目も眠ず賃苧ちんををうみて看病おこたりなく致せし事は家主始同長屋の者をお尋ありても相知申すべく候かく難儀なんぎの暮を致し居候に付當暮たうくれには藥代其外諸方の買掛り都合六七兩にも相成申候事ゆゑ此せつ半金はんきんも遣はさず候はねば來春よりはしうとめに藥を飮せること成難く然りとて私しの働きにては夫だけの金子勿々なか〳〵調とゝのひ申さず途方に暮居り候然る處是に居る彌吉妻粂事は私し姑女しうとめの實の娘に御座候へども私し方不仕合せに相成姑女しうとめが三ねんごしわづらひ居候ところ其中漸々やう〳〵一度見舞に參りしのみにて其後使一度さし越候事御座なく候因て此度の難儀なんぎの次第申候とも相談は致しくれ間敷まじくとは存ぜしなれども現在げんざいはゝいのちにも係り候事故何とか又話も出來申すべきやと存じ昨夜よひの内姑女しうとめ事快よく眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右のわけを委細に話し金子三兩もしならずば二兩にても宜しく貸れる樣然うなき時は母に藥も飮されずと頼みし所取付とりつくもなき返答の上大いに私しをはづかしめ候然れども外に頼むべき方も御座なく候故口惜くちをしさをこらへ猶種々頼み入候へども一向取合とりあひも致さず候まゝ是非なく立歸りし所如何なる仔細しさいか姑事首をくゝり居候ゆゑ打驚き種々介抱かいはういたし呼生よびいかししかども其甲斐なく候故途方に暮居し處此物音を聞付て相長屋の人々集り來りじつ親子おやこの事なればとて早速さつそく田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉くめ同道にて參り死骸をあらたわたくしの仕業しわざ成と申かけ其由訴へ出し事にて何を證據に然樣の儀を申立候假令たとへ私し命を召れ候ともしうとめ締殺しめころせし覺え毫程つゆほども御座なく候何卒私しの心底しんてい御察し下され度願上候と仔細しさいつゝまず思ひ込で申立ければ越前守殿點頭うなづかれ諏訪町の家主其外長屋の者に向はれ只今たゞいま菊が申立し通りなるかと尋ねらるゝに家主いへぬしはじめ皆々恐る〳〵進み出只今菊が申上候通り常々かれが孝行なることは長屋一統感心致し居候然るをしうとめしめ殺候者かれなりと彌吉夫婦の者より願出候だん私ども一とう心得難く存じ候と申立れば越前守殿は彌吉夫婦を見られ昨夜菊事其方が家へ金子無心むしんに參りし哉とたづねらるゝにお粂はをつとの答へを待ずおほせの通り昨夜私し方へ金子用立くれ候樣申參り候へども當暮は種々いろ〳〵物入ものいりも多く其上懸先よりいまだすこしも拂ひを請取らずをつと彌吉も心配しんぱい致居候中ゆゑ假令私し身内の者なりとも金子きんすを貸くれと申すも餘り心なきことと存じことわり申候と云ひける時越前守殿其方は母の病中びやうちうに一度見舞に參りしと菊が申立しが夫に相違なきやと訊尋たづねられければお粂は少しことばよどみしが私し方甚だ無人ぶにんにて私し店に居申さず候ては用向差支へ候ゆゑ漸々やう〳〵一度見舞に參り候と申立るに越前守殿夫は何時頃いつごろの事なりと云るればお粂は指ををり暫時しばしかんがへ居しが去年の四月ごろと覺え候と申立る此時越前守殿は彌吉に向はれ彌吉其方は一度も見舞みまひに參らざりしやと尋ねらるれば彌吉は大に赤面せきめんなし私し事は日々出入場の用向繁多はんたにて存じながら不沙汰致し粂を名代に遣せしのみと申立けるに越前殿とのさらば菊が姑女しうとを締殺せしと申事まをすことは何ぞ證據にてもある哉と糺問たづねられしに彌吉夫婦は言葉をそろへ外に證據とては御座なく候へども三年ごしわづらひ居候者が自身に首をくゝる程の氣力は御座なく候はん其上菊事私し方にて金子調達てうたつ致さず候を遺恨ゐこんに存じて母を締殺しめころし候事と存じられ候へば能々よく〳〵菊を御吟味下され度願上奉つると申立るを越前守殿打聞れ扨々さて〳〵汝等は理も非も知らざるまことに無法者なる哉汝只今何と申せしぞ去年の四月只一度見舞みまひしのみと申したるにはあらずや然れば母の容體ようだい今頃は氣力衰へたるか増たるかは知らざる成べし然るを長病ちやうびやうゆゑ氣力きりよくおとろへ自身に首をくゝることは成ずなどと當推量あてすゐりやうを申立夫のみ成ず金子を貸ぬとそれを遺恨に存じしうとめを殺せしなどと申せども樣の儀が證據に相成べきか萬一それが爲菊が殺したるにもせよ母のいのちかゝはると申たるに金を貸ぬは汝等なんぢらが心得違ひより母を殺す譯に相當り汝が手にて殺せしも同然どうぜんなり我人を遣はして死骸を能々檢査あらためさせしに其の死せし體自身に首をしめたるに相違なし其上家主惣長家の者一同の申處皆菊をほめざるはなし今菊が申す處は皆理の當然たうぜんにして汝等が申條は甚だ不都合なり現在げんざい母の三年越にわづらふを假令何程商賣が閙敷せはしくとて一度見舞しほか使つかひにても容體をとはざるとは餘りと申せば不孝の至りと云べし彌吉はむこなるが粂は實の娘なり然れば母親はゝおやの困窮と言ひ病氣と聞ば菊より借用致し度由申入ずとも汝等なんぢら身代しんだいを半分分ぶんわけにしてなりと救助すくふべきが至當なりそれわづか二三兩の金をも貸ず只今に至り證據もなき事を公儀かみへ申立候だん不屆者めと白眼にらまれしかば彌吉夫婦は戰慄ふるへ出し恐れ入て居たりける


第四回


 其時越前守殿かさねて彌吉夫婦に向はれ汝等いまだ菊を疑ふ樣子ある故つぶさに申聞すべし我菊がしうとめの死骸を檢査あらためさするついで家探やさがしを致させしに夜具衣類迄姑女の着たるは格別かくべつ垢染あかじみも爲ず綿なども澤山に入てあり又菊が分はたゞ今夫に着て居る外は何一ツなきがされども破れたる骨柳こり一ツあり其中に反古ほご裏返うらかへしてとぢたる帳面一册ありひらき見るにしうとめが日々の容體大小便の度數迄委敷くはしく記載しるしてありしとてすなはち是へ差出せりよつて披き見るに其の深切に認め有事此一條を以ても菊が姑をころさゞる事分明なり斯ても菊が仕業しわざなりと疑ふと申されしかば彌吉も粂も恐れ入て今更いまさら面目なく聊かも疑念ぎねん是なき段申立たり依て越前守殿お菊が腰繩こしなはゆるし解せられ諏訪町の家主長屋ながやの者に向はれ汝等なんぢらも聞通り老母を殺せし事菊が仕業しわざに非ず自害に相違なし去ながら何故に斯る成行なりゆきに成しやらん汝等思ひあたることはなきかと尋問たづねらるゝに家主其外は言葉をそろへ何故と申儀しかと存じ候はねども常々つね〴〵老母らうぼが我々に申候には嫁が孝行かうかうに致してくれるはうれしけれども生甲斐なき我が身が居るゆゑ孝行なる嫁に苦勞くらうかけ老先おいさきの有者を此儘にくちさするは憫然あはれなり是を思へば早く死ぬるが増ならんなど申により皆々みな〳〵よつてはいさめ候ひしが若や是までの言葉の通り嫁に苦勞を爲ん事をいとひ自ら縊れ死したるにもや候はんと申立ければ越前守殿は我も然樣思ふなり然る上は老母の死骸しがいは其儘菊に下さるべし又今迄身ひんなる處姑女につかへ孝行をつくせし段かみにも定めて御滿足まんぞくに思召ならん依て御褒美はうびとして銀五枚取せつかはすと申渡され諏訪町家主組合長屋の者一同に下られ又彌吉粂事は現在げんざい母姑女の續き合に在ながら其身のしはきより困窮こんきう難儀なんぎの場所も見返らずあまつさへ老母自害致し候證據しようこをも見出さずお菊が仕業なりと申立公儀かみへ御苦勞を懸し段麁忽不義の致し方に付重き御とがめにも申付べきの處格別の御憐愍れんみんを以て重過料おもくくわれう申付ると有て此事はまづ双方さうはう落着らくちやくに及びけるがまことに越前守殿ならずば斯手早く黒白も判るまじと人々申合りしとぞ昔時むかし唐土もろこしかんの代に是とよく似たることあり趙氏てうしつま若き時夫をうしないまだも無りしが其後をつとを持ず姑につかへて孝行を盡くしけるに元より其いへまづしければあさをうみはたを織て朝夕姑女しうとめを養ふ事をつとの世に在し時よりもあつかりしかば姑女の思ひけるはよめいまだ年若くしてやもめとなり一人の子供もなきに久敷ひさしく我に事へて孝行成は嬉けれどもかくて年寄ば頼む方もなくならんこそ最惜いとをしけれ孝行なる嫁の志操こゝろざしを我故に何時いつ迄か苦しめて世に存命ながらへんよりはとてひそかに首をくゝりて死したりしに此姑に一人の娘ありて我が母を嫁の締殺しめころしたるならんと思ひ時の鎭臺ちんだいへ訴へ出けるに鎭臺不詮議ふせんぎにて孝行なる嫁を罪に行ひけるに天其不政をにくみ給ひしが其處三年の間あめふる事なく飢饉ききん成しにより其後鎭臺を代られたり後の鎭臺此事をあやしみて或博士あるはかせうらなはするに日外いつぞやつみなくして殺されたる嫁のたゝり成んと云ければ鎭臺には大に駭かれつかたてて是をまつり訴へたる娘を罪に行ひさきの鎭臺の官をはがれしかば天も漸々やう〳〵受納じゆなふ有てや是よりあめふり出して三日三晩小止こやみなく因て草木もみどりの色を生ぜしとかや趙氏が妻とお菊が孝心は和漢一つゐ美談びだんいつつべし


津の國屋お菊一件

水呑村九助一件

水呑村九助みづのみむらきうすけ一件いつけん


第一回


 それ聖代せいだいには麟鳳りんほう來儀らいぎ仁君じんくんの代には賢臣けんしんあつまるとうべなるかな我がてう徳川とくがは八代將軍有徳院殿いうとくゐんでんの御代に八賢士あり土屋相摸守つちやさがみのかみ松平右近將監まつだひらうこんしやうげん加納遠江守かなふとほたふみのかみ小笠原若狹守をがさはらわかさのかみ水野山城守みづのやましろのかみ堀田相摸守ほつたさがみのかみ大岡越前守おほをかゑちぜんのかみ神尾若狹守かんをわかさのかみ是なり然るに其有徳院殿の御代享保きやうほ二年大岡越前守町奉行ぶぎやうと成始めて工夫のさばきあり其原因を尋るに本多長門守領分りやうぶん遠州榛原はいばら郡水呑村千五百石の村名主むらなぬし九郎右衞門が實の弟に九郎兵衞と云者あり平生へいぜいよりこゝろたゞしからず其が菩提ぼだい所に眞言宗しんごんしう大石山不動院と云寺あり此住寺も又大の道樂だうらく者にて同氣相求るのことわざもれず九郎兵衞と平生つねに親しくなしけるが九郎兵衞は豫て袋井宿ふくろゐじゆく三笠屋みかさやじん右衞門がかゝへ遊女お芳を買馴染なじみたがひに惡からず思ひ居たりしうち或時不動院どうゐん馴合なれあひ彼のお芳を盜み出し寺へかくまひ置しが其後彌生やよひ節句せつくとなりて庭にてお芳に田樂をやかせ法印始九郎兵衞其外土地の破落戸ならずもの五六人集り酒をのみ皿小鉢さらこばちたゝき或はうたひ或はをどりなどして樂みけり却説さても袋井の甚右衞門は此程このほどお芳の逃亡かけおちなせしはてつきり九郎兵衞の所業ならん然すれば不動院などに匿れ居るも知れずと流石さすが商賣柄しやうばいがらだけはやくもかんを付村の探訪めあかし薩摩傳助さつまでんすけ赤貝あかがひ六藏の二人をつれのどかわきし體にて此寺へ這入り水をこひのまんとしながら樣子をうかゞひ居たるにお芳は味噌みそたらぬとて臺所へ來り老僕おとなに味噌を出させるを甚右衞門は見付けおのれはお芳にあらずやと言ひざま引捕ひきとらへ直に召しつれうつたへんと言ふを不動院が聞付て中へ立入りしかば然ば御ばうに御まかせ申すとて夫より懸合かけあひの上金三十五兩今宵中に才覺さいかくして渡すべしと約束やくそくを極め甚右衞門外兩人の者も其の夜は寺にとまりける此日は三月節句の事なれば村方むらかた所々じよ〳〵にて宵の中は田舍唄ゐなかうた又は三味線などひきて賑ひ名主九郎右衞門方へも組頭くみがしら佐治右衞門周藏しうざう忠内ちうない七左衞門等入來いりきたり座頭に儀太夫を語せ樂みながら酒宴しゆえんをなし夜九ツどきすぐる頃佐治右衞門忠内の兩人は暇乞いとまごひして歸り家内も寢靜ねしづまりて夜も八ツ時と思しきころ勝手かつての方より一人の盜賊たうぞくしのび入り年の取集め金五六十兩用箱ようばこに有けるを盜み出さんとするところ主人あるじ九郎右衞門は目をさましヤレ泥坊どろばうと聲を立しかば盜賊は吃驚びつくりなし用箪笥ようだんすかゝへて逃出にげいでんとするを九郎右衞門飛懸とびかゝのがさじものをと押へるを盜人ぬすびとはら突退つきのけつゝ互に組付英々えい〳〵もみ合聲に驚き家内の者ども馳來はせきたぼうなはよとよばはり〳〵漸々やう〳〵高手たかて小手こていましめたり然ども面體は眞黒まつくろすみぬりたるゆゑ何者とも見分らず此さわぎを聞し周藏しうざう七左衞門の兩人も馳來り勝手より手燭てしよくを取寄る此時村の小使あるき三五郎は臺所だいどころて居たりしが物音ものおとに驚き金盥かなだらひ叩立たゝきたてしかば一村二百軒の百姓そりやこそ名主殿へ盜賊が這入はひつたぞ駈付かけつけ打殺うちころせと銘々めい〳〵得物々々えもの〳〵たづさへて其處へ來りヤア盜人は面をすみにてぬりたるぞあらひて見よと聲々こゑ〴〵のゝしり盜人の面を水にて洗ひ落せば這は如何に弟九郎兵衞なりしかば座中ざちうの人々あきはてみな脱々ぬけ〳〵に歸りける組頭くみがしらの兩人はよんどころなく跡にのこりて兄九郎右衞門は相良さがら突出つきだすと云うを種々しゆ〴〵と取扱ひ漸々やう〳〵涙金なみだきんとして金五兩つかは勘當かんだうとこそなりにけれ是に因て袋井の者三人はお芳を引立ひきたてつれ歸る然ば九郎兵衞は仕損しそんぜしを忌々いま〳〵しく思ひ仁田村の八と云ふ獵人かりうどたく引越ひつこしる處へ手先のかう八と云ふ者此事を嗅付かぎつ郡代役所ぐんだいやくしよへ引行入牢させけるをあに九郎右衞門聞こみ流石さすが憫然あはれに思ひ内々ない〳〵取繕とりつくろひをなしけるに因つて領分構りやうぶんかまひとなり九郎兵衞は夫より駿河國府中ふちうに知る人あるにより遙々はる〴〵と尋ね行き此處に三ヶ月程居たれども兎角とかく人請惡く彌々いよ〳〵落付おちつき難きに付煮染にしめたる樣な單衣ひとへもの縫止ぬひとめのはせ返りし菅笠すげがさと錢はわづか百廿四文ばかりの身上にて不圖ふと立出たちいで江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠かごさかたうげまで到りしが頃は六月の大暑ゆゑえのきかげ立寄たちより清水しみづむすびて顏のあせを流し足を洗ひうがひなどしてあつさしのやすらひ居たり此處は景色もよく後ろは須走すはしり前は山中やまなかの湖水と打眺うちながめ居る彼方のさかより行衣ぎやういたすきかけ金剛杖こんがうづゑを突ながらすゞともに來る富士同者ありかれも此處に休み水をのみ足を投出し居るに九郎兵衞是を見て嗚呼御前おまへうらやましいわしは今此湖水こすゐに身を投やうか此帶で首をくゝらうかと思ひ居たりと云ふを富士同者イヤ若衆わかいしゆ夫は大きな了簡違れうけんちがひ誰しもわかい時は一日に迫詰せりつめ然樣さういふ氣にもなる者一體此方の國は何處で名は何とゝ聞かれ九郎兵衞は口から出任せ我が家にはきん茶釜ちやがまあるやう大層たいそうを云一萬兩程つかこみ親父おやぢから勘當かんだうを請たりと話すを同者まことと思ひ私は相摸領さがみりやう御殿場の者にて小前こまへの百姓條七と云者だが上田じやうでんが六石三斗中田が七枚半山が七ツあれ親子おやこ三人ぐらしゆゑ十日や廿日は麥飯むぎめしさへ承知しようちなれば貴殿あなた一人位は苦にはせぬ其中に何あきなひでもするか但しはまた奉公ほうこうにでも出るかよも死ぬにはましで有うからおれ在所ざいしよへ御座れと深切しんせつに云ければ九郎兵衞夫は千萬かたじけなしと追從たら〳〵連立つれたちつゝ御殿場へ來りて條七方の同居どうきよとなり半年はんねんばかりも厄介やくかいに成し中條七は馬を一ぴきかひおはせける故九郎兵衞も今は行處なければ條七の弟分になつて三年程かせぐ中こゝに條七女房おてつと云ふは三歳になるむすめお里もありながら何時しか九郎兵衞と怪敷あやしき中と成しにぞ或日九郎兵衞と云合せ土地ところ鎭守ちんじゆ白旗しらはた明神みやうじんもりにて白鳥はくてうを一羽取是を料理れうりしてがんいつはり食せけるに不思議や條七は五十日たつたゝぬにかみぬけ癩病らいびやうの如く顏色がんしよくも變り人交際つきあひも出來ぬやうに成ければおてつは仕濟したりと打よろこび條七に打むかひお前は入聟いりむこの身斯る業病ごふびやうになりては先祖せんぞすまず早く實家へ歸りくれよといとつれなくも言ければ條七も詮方せんかたなく前世ぜんせの業と斷念あきらめるより外なしと女房娘を九郎兵衞に頼みあとの事まで念頃ねんごろに話しける九郎兵衞故意と斷り云しか共女房の親類しんるゐ共打寄いや癩病らいびやうにては村へ置れぬ定法ぢやうはふなれば是非共跡を引受ひきうけられよと折入てたのみしにより九郎兵衞は漸々やう〳〵承知しようちして入夫となり六石三斗の田地でんち質入しちいれなし金十兩借請かりうけ條七にわたしければ條七は是非なく金毘羅參こんぴらまいりと云箱をくびかけ數年住馴すみなれ故郷こきやうあと立出たちいでけり然ば九郎兵衞は是より百姓になり消光處くらすところよからぬ事のみ多ければ村方にても持餘もてあまいづれあきれ果ては居けれども九郎兵衞は狡猾わるかしこき者故勿々なか〳〵越度をちどを見せず惡事あくじ腰押こしおし或ひは賭博かけごと宿やどなどして食客ゐさふらふの五六人はたえす追々田畑たはた賣拂うりはらひ水呑同樣の困窮こんきうとなり凡十四五年居る中女房にようばう死亡みまかり今では娘とたゞ兩人差向ひてに漸々其の日をおくりけり茲に又遠州ゑんしう呑村のみむら名主なぬし九郎右衞門は五ヶ年以前病死びやうしなし名主跡役あとやくは當村の惣左衞門と云者に申付られしかばせがれ九助は當年廿歳に成共なれども今はむかし引替ひきかへ困窮こんきうなし借金も多かりしゆゑ母は氣病がつひに大病となり今は此世のたのみも少く或日枕邊まくらべ近く九助を呼寄よびよせ父樣とゝさま死なれし以來種々不幸が打續うちつゞきかく貧窮ひんきうとなりしこと如何にも殘念なれば其方何卒なにとぞ辛抱しんばうして田畑でんぱたも元の如くに取もどし河口九郎右衞門が名跡みやうせきを建呉よ又おとゝ九郎兵衞は當時駿河國するがのくに御殿場に居る由今は心も直りしならんと思へば其方の爲には現在げんざい伯父をぢなる故一度は公父てゝご戒名かいみやうを屆け呉よと涙とともに九助が手を取り顏を倩々つく〴〵と打ながいき絶々たえ〴〵遺言ゆゐごんなすにぞ九助は迫來せきくる涙を呑込々々のみこみ〳〵何とて然樣に心よわき事を云るゝや何卒氣をはげまし少しも早く全快ぜんくわいなし給へとて種々にいたはりけれどもつひに介抱のしるしもなく母は正徳元年七月二十一日病死し菩提所ぼだいしよ不動院ふどうゐんはうむ月堂げつだう貞飾ていしよく信女しんによと云戒名にあはれを止めけり村方にては九助の孝心を感じ親類しんるゐ始め皆々打寄うちよりあつく世話をなし後懇切ねんごろにぞ弔ひける夫より後九助は獨身どくしんとなり艱難かんなんくらしける中にも亡父母ばうふぼ遺言ゆゐごん片時も忘れず朝夕の回向ゑかうおこたりなくつとめ一人工風をなしたり然るに此時江戸へ出訴しゆつその事組頭くみがしら出府致すべき處種々いろ〳〵取込とりこみのことあるにより飛脚ひきやくを村方より立ると云を九助は聞込何卒わたくしを飛脚にやつて下されと云ければ皆々みな〳〵承知しようちして申付しゆゑ幸ひ御殿場へ立寄たちより伯父をぢ九郎兵衞にも逢度あひたく思ひ支度したくをなし家内の事を能々よく〳〵頼み股引脚半草鞋にて御用と云繪府ゑふを首に掛沼津宿しゆくより足高山の裾通すそどほりを行ける後から旦那々々馬を取つせへ安價く乘せへもどりだから酒代さかてだと云を聞付け九助はもし馬士殿是から御殿場へは何位どのくらゐあらふ日一ぱいに行れ樣かアヽ御殿場迄は四里半だから少しくれますべい御殿場よりほかとまる樣な村も無から御殿場迄行つせい私は御殿場へもどる馬だ三百文にまけるから四里半のらつせへと云ふ九助もひとり旅では有是非御殿場へと思へば幸ひと相談さうだんきはめ馬に乘て馬士と話し行處に向ふより横に乘たる田舍ゐなか馬六七ひきはなを揃へて來るをくだんの馬士見付みつけて是御用だ繪符だ〳〵若いしうオイ〳〵と云ふに面々めん〳〵ばた〳〵と飛下とびおりる故九助は是サ馬士殿おろさず共いゝ憫然かあひさうな何さ惣體そうたいに根方の奴等やつらはずるいから時々とき〴〵に合せて置ねへと成やせん時に旦那いそぎなら箱根を御こしなされさうなものだに矢倉澤通やぐらざはとほりは何か御用でも御座りますか今宵は御殿場一番の富士屋へ御泊申ませう何程なんぼ田舍ゐなかでも御泊り成れて御覽じませ海道にも餘り御座ござりやせんと云に九助はノウ馬士殿私はたづねる人が有が此方に聞たら知れやうかたれで御座ります然れば元は御殿場の者ではない最早もはや十五六年以前いぜんに來て今では村の人に成たとのはなしイヤ御殿場も上下かみしもかけて二百軒餘有から名を聞ぬ中は知れやせん成程然樣で有う元は遠州ゑんしうの者在所に居る時は九郎兵衞と云たが今は何と云かと云顏をくだんの馬士は熟々つく〴〵見て手綱たづなを止め然いふ此方は遠州相良さがら水呑村みづのみむらから來なされたか如何にも我は水呑村の百姓なりハヽア胡瓜うりの種は盜とも人種は盜まれぬとハテ見れば見る程ちがひない十六年以前いぜんわかれた兄九郎右衞門がせがれの九助ぢやなお前は伯父をぢの九郎兵衞樣かとたがひ吃驚びつくり馬よりまろ落手おちてに手を取かはよろこなみだむせびけりしばらくして馬士まご云樣話はうちで出來るから日のくれぬ中うまのらつせへいや伯父をぢ樣と知ては勿體もつたいない馬鹿ばかを云へ御殿場迄ごてんばまで旦那殿だんなどの讓合ゆづりあう中何時か我家のおもてへ來りしが日は西山へ入て薄暗うすくらければ外より是お里遠州ゑんしうの兄が來たと云にお里はあいと云出る此家のかまへ昔は然るべき百姓とも云るれど今はかべおちほねあらはかや軒端のきばかたむきてはしらから蔦葛つたかづら糸瓜へちまの花のみだ住荒すみあらしたるしづが家に娘のお里は十七歳縹致きりやうは人にすぐれしかど容體なりふりもなく缺茶碗かけぢやわん澁茶しぶちやくんで差出すぼん手薄てうす貧家ひんか容體ありさま其の内に九助は草鞋わらぢひもときあしを洗ひて上にあがり先お里へも夫々それ〴〵挨拶あいさつして久々ひさ〴〵つもる話しをなす中にやがてお里が給仕きふじにて麥飯むぎめし食終くひをはりし後九助は金二兩土産みやげに出し九郎右衞門が遺言ゆゐごん并びに伯父をぢ樣の分米ぶんまい田地でんぢ十二石手を付ずに今以て村あづけに成て居ますと話すを九郎兵衞は聞て大いに悦び我等儀われらぎ段々だん〳〵不仕合ふしあはせ故今は古郷こきやう忘れ難く何か此上は娘お里を手前の女房になし親の名跡みやうせきを立て呉と潸々さめ〴〵なみだおとせしかば九助は母の遺言ゆゐごんもあり殊に亡後なきのち伯父をぢは親なりお前樣は村方の處を何なりと片付かたづけて置れよ私しは江戸の用事すみ次第引返ひきかへ古郷こきやう御同道ごどうだう致しませうと一宿しゆくして申合せ翌朝よくてう江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人はじめ親類へも委細ゐさい話せば皆々は厄病神やくびやうがみはらふ樣に心得居屋敷并に少のはたは親類へ引取九郎兵衞親子は九助が戻りを待居たり


第二回


 偖も九助は江戸の用向とゞこほりなく相辨あひべんじ歸りがけに又々御殿場てんば立寄たちより伯父九郎兵衞の親子を同道なし古郷こきやう水呑村へ立歸り夫より直に當時の名主なぬし惣左衞門方へ九郎兵衞同道にて參りければ惣左衞門は昔より九郎兵衞と相口あひくち早速さつそく領主りやうしゆ役場やくばへ申立歸村の儀を取計ひかねあづかりの田地十二石餘り九郎兵衞へ相渡し娘お里を九助が妻と致させて是よりたがひかせぎける然れども只今は親九郎右衞門がゆづりの田地はしちに入てあるゆゑ伯父の田地のみにて萬事足ぬ勝なる上九郎兵衞も徐々そろ〳〵地金ぢがねを出し九助を意地いぢ入聟いりむこ同樣にやかましく朝夕てうせき云ける故九助も何卒なき母が遺言ゆゐごんの如く田地を請けもどし度とかねて心がけ居たることなれば江戸へ出て一かせぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里にも得心とくしんさせ夫より九助は支度をなし江戸表にて奉公すべしと暇乞いとまごひして出立なしすで藤枝ふぢえだより岡部をかべを過て宇都谷たうげに到れば絶頂ぜつちやう庵室あんしつ地藏尊ぢざうそん境内けいだい西行さいぎやう袈裟掛けさかけ松あり其所のわきへ年の頃五十位と見ゆる旅そうのやつれたるが十歳許りの女の子を引立來り彼のそう剥出むきだし是サ此子はこはい事はない此伯父と一所に歩行々々あゆめ〳〵引摺ひきずり行を娘はアレ〳〵勘忍かんにんして下されませ母樣かゝさまが待て居ますと泣詫なきわびるを旅僧たびそう扨々さて〳〵やかましい強情者がうじやうものめと無理無體むりむたい引摺々々ひきずり〳〵行處へ九助は何なく行掛ゆきかゝりければ彼の娘は九助を見るより大いに悦び小杉こすぎの伯父樣此坊主ばうず勾引かどはかしますアレ〳〵伯父樣々々をぢさま〳〵と云れて九助は何ぢやと立止たちとゞまるを旅僧は是を見と等く是はたまらぬと其儘後をも見ずに逃行にげゆきけり斯て彼の娘は九助に向ひ御前樣の御かげにて助かりたり今の坊主は私しを無理無體むりむたいに引立て柴屋寺しばやでら畑屋はたやから茲迄連て來ましたゆゑ勾引かどはかしと存じ小杉の伯父樣と申ましたので御座いますと云ひけるにぞ九助は扨々さて〳〵子供に似合にあは利發者りはつもの家は何處どこぞと尋ぬるに阿部川宿あべがはじゆくてうといふ者の娘せつと申者なりと申せば九助は憐然あはれに思ひサア〳〵宅迄うちまで送つてらんと手を引つゝ阿部川宿のたくいたり見るに母は中氣ちうきにて手足かなはず一人の娘を相手あひて難儀なんぎの樣子なり娘お節は母に向ひ右の次第を委細くはしく話せば母は大いに驚きかつよろこび九助に逢てあつく禮をのべ今宵は此家に泊り給へとたつとゞめけるゆゑ其夜は其處へ泊りしに娘お節はこめをとぎ味噌みそいと忠實まめ〳〵しくはたらさま如何にも孝子と見えけるゆゑ九助も不便ふびんに思ひ勝手元迄かつてもとまで手傳てつだひて少しなが母公はゝごに何ぞまゐらせられよと錢一貫文くわんもんやりければ母子は有難なみだを流し幾度となく伏拜ふしをがみたり扨も翌朝九助は懇切ねんごろ暇乞いとまごひして此屋を立出道中だうちうを急ぎ日ならず江戸に着ければ知己しるべ周旋せわにて日本橋むろ町三丁目の番人にかゝへられつとめけるが元來正直しやうぢきの九助故町内の氣請きうけよく月に三貫文の外に草履ざうり草鞋わらんぢ其他荒物あめなど賣ける中駿河するが町越後屋三家の掃除さうぢを引請しにより彼是月に二兩位に成りしとぞ或夜まはりの節霜月しもつきすゑの事にて寒氣烈敷はげしく雪は霏々ちら〳〵と降出しゝ中を石町の鐘ととも子刻ねのこくの拍子木を打乍ら小路々々こうぢ〳〵を廻らんと桐山きりやまが見世の角迄かどまで來りし時足の爪先つまさきへ引掛る物ありしゆゑ何心なく取上見れば縮緬ちりめん財布さいふなりしかば町内を廻り仕舞しまひ取出しあらため見れば小判八十兩ありて外には書付かきつけもなきゆゑおどろきながら早々さう〳〵町役人へ屆けしに行事ぎやうじ打寄相談の上うつたへ出なほ町内へも札を出し公儀にても御詮議ごせんぎありし處更に請取うけとる人の出ることもなく一年ほどて後番人九助儀町役人共差添さしそへ町奉行所へまかり出べき旨差紙さしがみに付家主五人ぐみ名主同道にてまかり出けるは舊冬きうたう九助がひろひし金八十兩のこらず下し置れしにより九助始め町役人一同有難く頂戴ちやうだいして歸りことに九助はゆめかとばかり打悦うちよろこび居たりし處其夜子刻ねのこく頃廿四五の男番屋ばんやをホト〳〵たゝきて入來り御目にかゝるははじめてなれどわたくし事去年きよねんの冬金子をおとしたるは斯々かく〳〵なりと段々譯を咄し其節請取に罷出ませうとは存じたれども大金を粗末そまつに致したる儀に聞えもわるく其の上世間へパツと露顯ろけん致しては奉公ほうこうも出來ぬ故彼是と心をいためながら今日まで待合まちあはせて居ましたが今日うけたまはればお前樣へ公儀おかみより下され候由に付右の御談おはなしを申上たくと云ふ其わけは私し一人のはゝを持ますが當年たうねん七十三歳其上病氣びやうきにて久々難儀なんぎ致し居り只今にもにますれば見送みおくり方も出來かねます故御前樣へ折角せつかく下されしを御無心むしん申も如何なれど何卒どうぞ其金をとなみだを流して申にぞ九助は元來もとより正直者しやうぢきもの故我が身の上に引當ひきあてどくに思ひ直樣すぐさま八十兩の金を取出し扨々夫は御難儀ごなんぎ至極しごくことに御老母の病氣養生やうじやうの爲におとしたる金をほしいと云るゝおもむき御道理もつとも千萬しかし此金は去冬きよふゆ夜廻りのせつ我等拾ひ町内ちやうないより御訴へ申上置し所落主おとしぬしきゆゑ今日我等へ下されしなれば親公おやごの爲と有ばしんぜ申べし町所家主名前は何と云るゝときけば彼の者然ればなり町所名前などを申位なら去年紛失ふんじつの節訴へていたゞきますが私しは奉公の身の上なれば金は入らねどたゞ老母らうぼの病を治し度一心にて出ましたに名前を申さねば御渡し下されぬとなら是非ぜひもなしと涙にむせぶ有樣如何にも實情じつじやうに見えければ九助は感じ扨々御前は孝心あつき御人故のこらずわたして進ぜませうと財布さいふまゝ渡せしにぞ彼の者大いによろこび全く御かげにて老母の療治れうぢも出來ますと押戴おしいたゞき〳〵なほとほからず御禮おれいに上りますが少しも早く母へ見せ悦ばせ度存じますと叮嚀ていねいに禮を述てぞ歸りける依て九助は本意なく思へ共親孝行の爲とあれば更にをし共せずやがかどしまりをなさんとするに上り口の草鞋わらぢ草履ざうりなどの中に何やらふくさつゝみしものありて其にほ芬々ふん〳〵たり不審いぶかりながらひらきて見れば金の五六寸四方のはこの中に名香めいかうあり是はの人が落して行しならん今に心付ば取に來るべしと思しが待てども參らざれば其の夜はいね翌朝九助ちやのんで居る處へ二丁目の番人作兵衞といふ者來り四方よも山のはなしの中此にほひぎ不審に思ひながら歸ると程なく定廻ぢやうまはりの同心どうしん來りて行事を呼寄よびよせ名香めいかう紛失ふんじつにつき内々の御調しらべゆゑ藥屋くすりや共へ吟味致す樣申付るをきゝ番人作兵衞は勝手より這出はいいで旦那樣不思議ふしぎの事が御座ります三丁目の番の所にて云々と話せば同心は夫と九助を呼寄よびよせ吟味ぎんみなすに其の品は昨夜草鞋わらぢを買に來りし者が落して參りし故取置ましたと言にぞ早速さつそく取寄て見改めたるに内々御詮議せんぎの品に相違さうゐなく因て送りじやうしたゝめ九助を町奉行所へ送りたり時に享保二年九月廿一日大岡越前守殿町奉行始めての白洲しらすなれば別て與力よりき同心どうしんの役々威儀ゐぎ嚴重げんぢうに控へし所へ九助は怖々おづ〳〵罷出るに越前守殿之を見られ其方手元に之有し伽羅きやら一兩目餘入たる金の香箱かうばこは細川越中守方より訴へに及びし紛失ふんじつの品なり其方如何して所持しよぢ致せしや有ていに申せと云はれしかば九助はかうべを上私し小屋へ十九日の夜子刻こゝのつころ草鞋をかひに參りし者が歸りし後に右の品が御座りしゆゑ其者が落せしことと思ひ取にもどらばつかはさんと存じて差置さしおきましたと申立るに越前守殿否其方は町内の番人も致す身ゆゑ落し物と知らば町役人共へ話聞せ其の上にて町内へふだでも出すか又は公儀こうぎへ訴ふべきはずなるを何故其儘に差置たるぞと有ば九助ヘイおそれながら大方すぐに取りにまゐりませうかとぞんじまして其儘しばらく差置ましたと云に越前守殿否々いや〳〵其方は町役人の下をいたしながら申分がくらいぞ大方金でも取て人からあづかりたるならんと申さるれば九助は眞面まがほに成イヱ〳〵全く以て然樣な儀には御座りませぬと云にぞ大岡殿は町役人共へ九助が日頃町内の勤方つとめかたは如何やと尋問たづねられしに九助儀は極の正直者にて去年の十一月下旬げじゆん夜廻りの時金八十兩ひろひ其の節私し共へ申聞し上御訴へに及び置し處落主おとしぬし之無きに付一昨十九日右金子を九助へ下し置れましたと申立るに越前守殿ジツと九助が顏を見られしか暫時しばらくひかへよと申さるゝ時常盤橋ときはばし御門番松平近江守殿あふみのかみどの番頭ばんがしら夏目なつめ五郎右衞門より差出したる者兩人足輕小頭こがしら一人足輕あしがる六七人附そひ罷出しに其者共の風俗ふうぞく何れも棧留さんとめ綿入の上へ青梅のあはせ羽織を着年は廿四五歳にて差出しの書面は左の通り

此者このもの共儀今曉こんげう寅刻なゝつどき頃主人近江守持場もちば御橋の中程に於て口論こうろん箇間敷がましき儀申つのり居候故番所より聲掛こゑかけ追拂はんと致せし處一圓退去たいきよ仕つらず互いにつかみ合金八十兩を双方さうはう自分の物の由申爭ひ候段御場所柄ばしよがらをもかへりみず不屆きの次第故早速さつそく取押へ町名家主等相尋あひたづね候へ共何か取留とりとまらぬ申くちにて至極しごく怪敷あやしく存じ候間其儘差出候に付御吟味下さるべく候以上

松平まつだひら近江守家來けらい番頭ばんがしら
九月廿二日
夏目なつめ五郎右衞門
同人どうにん家來給人きふにんかね目付めつけ
荒川源助あらかはげんすけ
大岡越前守樣
御役所

みぎ讀終よみをはる時役人立出て兩人請取うけとり松平近江守殿家來は早々退けり時に越前守殿二人の者を見られ其方そのはう共身分は何なりやとたづねらるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しのかねを此者が自分じぶんの金なりと申て無理むりに取んと致せし故つひに大きなこゑを出し御見付にてしかられ候と申立るに今一人も進み出おそれながら申します私しは神田佐久間町一丁目番組ばんぐみ宿屋やどや上州屋軍助ぐんすけ方手代利三郎と申者私の金を此源次郎我が金だと申候と又々あらそはんと爲すゆゑ越前守殿兩人共だまれと聲をかけられ其方共此金子八十兩は如何樣のすぢあらそふぞとみでもとつたか又は拾つたのかと申さるゝに兩人はハイとばかりにて答へも爲ざればコリヤ何致どういたしたサア有體ありていに申立よと有ければ漸々やう〳〵利三はかうべを上夫は私しの親共よりゆづり金なりと云に越前守殿然すれば汝等は兄弟か兩人いへと云ば越前守殿ソレしばれとの聲につれ兩人を高手たかて小手にいましめ左右へ引すゑたり此時九助は其者の顏を見て吃驚びつくりなしコレ〳〵貴殿こなたゆゑに私は此とほり御番所へ送られ迷惑めいわく致せり貴殿が落して置た帛紗包ふくさつゝみ大方取に來るで有うと思ひ今日迄まつて居しにヤレ〳〵うれしやとなみだを流しながら正面しやうめんに向ひ右の帛紗ふくさ包をおとしたるは此者なりと申立るに大岡殿其者に向はれ汝は此帛紗包を室町むろまち三丁目番小屋の前にわすれ置たる由おのれぬすんだか但しは同類どうるゐの手から請取たかとたゞさるゝに盜賊は空嘯そらうそぶいて一向存じ申さず殊に那者あのものは見た事もなき人なりと云九助は大いに急立せきたち全くあの者が草鞋わらぢを買に參りしと申せしはいつはり今は何をかくしませう去年夜廻よまはりの節金八十兩拾ひたるを此程御番所よりいたゞきし其夜此者が參り斯々申て其金を持歸りし後に其帛紗包ふくさつゝみが落て有しと申に夫は此金かと財布さいふまゝ投出なげださるゝを九助は見て是で御座りますと申にぞ越前守殿點頭うなづかれ九助おのれあま正直しやうぢきすぎる此上我が金だと云者有ば公儀かみへ訴にて渡せけつし相對あひたいで渡すなハテサテ正直な奴も有ばあるもの御用相濟あひすんだぞ連歸つれかへれと有ければ町役人共九助を連て歸りけり


第三回


 斯て九助は五ヶ年の間辛抱しんばうをなし殊に今度このたび奉行所よりたまはりし金を合すれば百六七十兩の金子にも成しゆゑ古郷こきやうかへりかねての望みの如く先祖せんぞの跡を立んと出立の支度したくして伯父をぢ始めへの土産物みやげもの種々しゆ〴〵とゝのへ江戸錦繪淺草海苔館林たてばやし團扇うちは其外田舍ゐなか相應さうおうの品々を買求かひもと荷造にづくりをして町内の飛脚屋ひきやくや十七屋とをつやより先へまはし夫より名主なぬし家主町代ちやうだいは申に及ばず懇意こんいの先々へ暇乞いとまごひに參りしに何れも餞別せんべつをぞ呉れしかばやゝ二百兩近くの金を胴卷どうまきへ入古郷をさして旅立ちしが先阿部川あべかはへ立寄先年のおてうを尋ねけるに二三年以前相果あひはて娘お節は親類しんるゐへ引取れし由ゆゑ偖々さて〳〵變り果たる浮世かなとつぶやきながら鞠子まりこ宿しゆくこえ宇都谷たうげかゝりしにつた細道ほそみち時雨しぐれ來て心ほそくもうつゝにも夢にも人に逢ぬ辿たどり〳〵て岡部よりはや藤枝ふぢえだに來りし頃あとになり先になりあやなる者二三人付そひ來れば故譯わざ相良街道さがらかいだうへは這入はひらず既に瀬戸川迄來りし時日は西山せいざんしづみしかば惡漢わるもの共兩人前後あとさきより引はさみ御旅人酒代さかてを貰ひ度と云に九助は種々いろ〳〵と云譯をすれ共兩人の惡漢わるもの更に聞入ずと立寄て左右より手を引張ひつぱりし故今は是非なく盜賊々々どろばう〳〵人殺々々ひとごろし〳〵呼叫よびさけぶに向ふより正面しやうめんに島田講中とかきみづの丸の合じるしの小田原提灯ちやうちんさげ合羽かつぱの穴より鮫鞘さめざやの大脇差を顯はし水晶すゐしやう長總ながふさ珠數じゆずを首に懸し一の男來懸きかゝりしが此容子ようすを見るより物をも云ず忽ち一人の盜賊の腕首うでくびつかんで瀬戸川へ眞逆まつさかさまに投込ば生死しやうしは知れず成にけり後に殘りし惡漢ども我等が仕事の邪魔じやまるなと兩人ひとしくとび掛るを彼男は引捕ひつとらへ汝等は往來にあみを張旅人の懷中くわいちう胴亂どうらんに目を掛けて追剥おひはぎ強盜がうたうを爲んとするいのちらずめ己をたれとか思ふ東海道五十三次おとに聞えて隱れのない題目講だいもくかう講頭かうかしら水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け身延山みのぶさん會式ゑしきもどり罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の時宜しぎいのち暫時ざんじたすけ船七十五里の遠江灘とほたふみなだ天窓あたまの水先押まげて尻を十ぶんまくに早くみなとにげ込て命ばかりの掛り船ドリヤかぢとらふかヱイと二人を左右へ一度に投付れば惡漢共わるものども天窓あたまを抱へ雲をかすみと逃失けり藤八は後見送りおつなせりふの機會はずみからヤア逃るは〳〵時に御旅人怪我けがは無かと九助をいたはり介抱なし先々今宵は私がうちへ御泊り成いと夫より九助を同道して藤八は我が家へ來り門口かどぐちよりサア御客だ御湯を取れと亭主の聲に家内の者は立出たちいでてソリヤ旦那樣が御歸おかへりと云つゝ一どう出迎でむかうを藤八は是々途中から御客を連て來たと云うちに十六七の娘甲斐々々かひ〴〵しくたらひに湯を取てもち來り御洗ひ成れましと顏を見るより彼の娘はヤアお前は水呑村の九助樣と吃驚びつくりすれば九助も驚き然樣さう此方こなたは阿部川のお節殿と早々さう〳〵足を洗ふうち娘は藤八に向ひ旦那樣此お方は先年御恩ごおんを請た御人で御座りますと聞て藤八も驚きれば豫て話の九助殿人を助けたれば又たすけらるゝアヽ陰徳いんとくあれば陽報やうはうありとはテモ不思議と是より座敷にいたり互に一伍一什いちぶしじふの物語りをなし九助殿明日あすは私が送つて進度あげたいよんどころない用事が有る故參る事は出來ず去りながら又途中にて何樣どのやうな事が有まいものでもなし然る時は百日の説法せつぽふ一ツとやらなれば金子などは先私に預けて明後日頃あさつてごろ村方の親類衆でもつかはさるゝか又確乎たしかな使をおたてなされよ其時の證據しようこには幸ひ御延みのぶ貫主くわんしゆ樣に曼陀羅まんだらの裏書を願つて書て頂いた是は私がからだにもかへられぬ大切の品なれどお前に渡すサア金と引替に致さんと藤八が深切しんせつに九助も安堵あんどし百八十兩の金を預置あづけおき何角なにか懇切ねんごろに禮を延べ又家内へもいさゝか心付などして藤八方を翌日辰刻頃たつどきごろ出立古郷水呑村へぞ歸りける土産物みやげもの飛脚ひきやくにて先へ送りし事故伯父をぢ九郎兵衞女房お里も待居たる處なれば皆々出迎でむかひ悦びあふに九助は其足にて名主なぬし惣左衞門是は先年病死してせがれ惣内そうない當時名主役つとめ居るゆゑ同人方へ參り其外組頭くみがしら左治衞門周藏しうざう始め村中一同へ廻り歸村の旨申聞ける故先方よりも皆々大勢よろこびに來り中にも九郎兵衞は江戸の首尾しゆびを聞ゆゑ九助も段々始終の話より歸り掛けの道中にて斯樣々々かやう〳〵島田宿じゆくの水田屋がなさけ曼陀羅まんだらの話等を爲し明日は金を請取に參るとて十界の曼陀羅を佛壇ぶつだんへ上置其夜は九助も旅勞たびつかれゆゑ前後も知らず休みしが翌朝佛壇ぶつだんを見れば日蓮上人直筆ぢきひつ十界の曼陀羅見えざるにより家内は大騷おほさわぎとなりて直樣菩提所不動院ふどうゐんを招き卜筮うらなひを頼みけるに此は色情より事起りて盜人は家内にありをんな成べし後には公事くじ出入にも成ん隨分身をつゝしまれよと云て歸りしが此時土地ところの醫師高田玄伯げんぱく通り掛しをも呼込み又々占考うらなひを頼みけるにぜに六文を並べてうらなひ此盜賊は男で御座ると云ながら歸去かへりさりけるにぞ九助は種々と工夫し其儘四里廿一丁を一いきに飛が如く水田屋へ到り息を繼々つぎ〳〵紛失ふんじつの話をなしければ藤八は先此方こなたへと云まゝ九助は座敷へ通りけるに正面しやうめんに十界の曼陀羅をかざり左右に燈明とうみやう香花かうげを備へ有しかば是はと驚き問に藤八はればなり今朝御親類の周藏と云る人此曼陀羅まんだらと引替に金は持參致されしと聞てそれは老人で御座るかと云ふに藤八いや皆未わかい御人其外に喜平治きへいぢにも來られしと語るに九助夫は皆年齡としが違ひますと聞藤八ハヽア成程なるほど違ふ筈だ跡で此方にも少し胡亂うろんの儀思ひ當る事も御座ればわたくしが明日參つて吟味致さんにより村中の者を御まねぎあれと申故左樣なら御苦勞ながら斯樣々々かやう〳〵に致して招き置ん程に何分御頼たのみ申と約束して立歸り九助は伯父をぢに向ひ折惡敷をりあしく先方が留守るすにてわからざれども久々ひさ〴〵家内の者村中の世話になりし事ゆゑ名主組頭親類しんるゐを始め招いて濁酒にごりざけでものまたしと相談の上人を廻し支度をして待うち翌日に成しかば名主鵜川惣内うがはそうない後家お深組頭周藏佐治右衞門傳兵衞でんべゑ木祖きそ兵衞親類には千右衞門喜平治金助きんすけ大八丈右衞門兩となりの善右衞門まご四郎辰六かく右衞門其ほか多人數たにんず入來り九郎兵衞八右衞門きう七八内忠七六之助などは分家ぶんけ故皆々勝手働き先代が取立とりたてし百姓三五郎辰八等は水をくみ米をかしぎ村方大半呼寄よびよせての大饗應おほふるまひ故村の鎭守ちんじゆ諏訪すは大明神の神主かんぬし高原備前たかはらびぜん并びに醫師玄伯等げんぱくらを上座に居て料理の種々くさ〴〵興津鯛おきつだひ吸物すひものいわし相良布さがらめ奴茹ぬたの大鮃濱燒ひらめはまやきどぜう鼈煑すつぽんになどにて酒宴さかもりを始め一順ひとゝほり盃盞さかづきも廻りしかば九助はそつと座を立裏口へ出て待處に水田屋藤八ひそかに來りければ此方こなたの小座敷へ案内なし三五郎を相手あひて差置さしおき伯父九郎兵衞の前は道連みちづれの人が尋ねて參りしと申おきしに藤八はやがて酒宴の席をのぞき見れば二ツまげの後家のそばに居るともゑもんつきたる黒の羽織を着せし者と其そばに居る花色はないろ布子ぬのこしやくをして居る兩人なりと云にれは當時の名主惣内そうない今一人は名主の手代源藏げんざうと云者なり扨々にくき奴かな今に目に物見せて呉んと云つゝ何喰なにくはぬ顏色にて九助は座敷へ出今日皆々樣を御呼立よびたて申せども是と云きようもなく候へば只々御氣根きこんに御あがり下されよと云に周藏は取あへず此周藏佐治右衞門を始め神主樣御醫師樣親方おやかたの後家樣其外皆々みな〳〵十分にくだされたサア〳〵勝手の手傳衆てつだひしう大勢ぢや御亭主ていしゆも一ツ御あがり成れと猪口ちよくさせば傳兵衞も又すゝいで九助殿此傳兵衞も今は隱居いんきよしましたが先親方せんおやかた九郎右衞門殿の頃より懇意とは申ながら當年八十一歳で御座るいやばけも致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とはちがまし月にまし繁昌はんじやうで御座らう何とめづらしい事はないかなと云ふしほに九助はひざを進め別段べつだん何も珍らしき事も御座らぬが差當さしあた不思議ふしぎと申は私が江戸表にて千しん萬苦ばんくしてたくはへた金子が一昨夜紛失ふんじついたしました其譯は定めし皆々樣も御きゝなされたで御座らうが其金子は島田宿しまたじゆくの水田屋へ預け置右の代りに持て參りし證據しようこ日蓮樣にちれんさま直筆ぢきひつ曼陀羅まんだら一昨夜ちうに私が所で紛失ふんじつし誠に五年の辛苦は水のあわと成ましたと語るに一座の者共夫はどう詮議せんぎ爲樣しやうは無事哉と云ば九助はイヱ夫に就て御話が御座ります天道てんだうと云者はあらそはれぬもので正直しやうぢきかうべを照らし給ふ故其盜人が知ましたと云をきゝ惣内親子おやこはハツとかほを赤らめしを組頭くみがしらの佐治右衞門は氣もつかず進み出夫は他國の盜人ぬすびとか村内の者かにくき奴なり早々さう〳〵吟味さつしやれと張肱はりひぢを爲に九助はイエサ外々ほか〳〵でも御座りませんのと惣内のかほを見れば惣内かほそむけるを思ひ切て茲に御座る名主なぬし樣ハイ惣内殿シテ同類は手代てだい物書ものかきの源藏とかたるを聞より名主の後家ごけお深は急立せきたちナニ九助殿貴樣きさまは親類といひ念頃ねんごろなかわかでも惣内は村役も致す者滿座まんざの中での泥坊どろばうよばはり酒興しゆきようと云てはすみませぬと詰寄つめよせるを九助は微笑ほゝゑみ私は氣違ひでもなく酒亂でもなければ證據しようこない事は申しません曼陀羅まんだらぬすみ取り島田宿の中町水田屋藤八方へ參られて九助が親類周藏といつはられしは惣内殿喜平次とかたりしは源藏右兩人曼陀羅を證據に百八十兩をかたり取と云を源藏は嗚呼あゝ是此源藏を盜人とは大それた何を證據にと目にかどたつれば惣内ひざ立直たてなほし名主役の惣内を盜人などとは言語同斷ごんごどうだんなり九助品に依りすぢに因ては了簡れうけん成難なりがたしと聞皆々みな〳〵四方より九助を取まきたり


第四回


 是をしほに九郎兵衞は此方よりとんで出九助のもとゞりをつかみ取て捻伏ねぢふせ喰切くひしめこぶしかためて散々さん〴〵に叩きすゑおのれはふとやつ江戸へ出て金をため親父が質田しちた取返とりかへすの又は百八十兩たくはへたの貰つたのと虚言うそ八百を吹散ふきちらし其實一文なしで家へのたりこみ其上名主殿を始め源藏までを盜賊たうぞくよばはり組頭衆くみがしらしう年寄衆としよりしうへ此伯父をぢが何の面向かほむけが成ものか盜人ぬすびと猛々敷たけ〳〵しいとは汝が事なり兄九郎右衞門殿の位牌ゐはいへ對して此九郎兵衞が云わけたゝぬ汝が親九郎右衞門に成代なりかはり此伯父が勘當する出てうせろと猶も打擲ちやうちやくなす處へしばらく〳〵とこゑかけ一間よりつゝと出るやいなや九郎兵衞を取て突退つきのけ名主手代を左右へ押分おしわけ動乎どつかすわりし男を見れば下に結城紬ゆふきつむぎの小袖二ツ上は紺紬こんつむぎに二ツ井桁ゐげた紋所もんどころつきし小袖を着五本手縞の半合羽はんかつぱ羽折はをり鮫鞘さめざやの大脇差を手に持たり是別人ならず島田宿の旅籠屋水田屋藤八成ば別て惣内源藏の兩人は愕然ぎよつとしたる樣子にて俯向うつむき居るに藤八は一同へ向ひ茲な名主惣内殿并に手代の源藏兩人盜賊たうぞくと見たは違ひなしコレ名主手代のしう昨日きのふあさ此九助殿の親類周藏嘉平次といつて確な證據しようこ日蓮樣の曼陀羅まんだらを持參なし引かへにして百八十兩の金を能もかたり取れたなイヤサ東海道五十三つぎ品川から大津おほつまで名を賣て居る此水田屋藤八を能もだまかたつたなサア此上は相良さがらの役所へ拘引おびきつらの皮をむいらなければ此藤八の蟲が落付おちつかぬ未だ此上にも爭はゞ片端かたはしから覺悟をしろと大音だいおんのゝしられし惣内源藏の兩人は今更何とも言葉なく穴へもいりたき樣子なりされどもおふか九郎兵衞は双方さうはうより進出コレ此方は藤八殿とやら千五百石のたばねもする庄屋役を如何いか年若としわかなればとて盜賊よばはりは何事ぞ是にはたしかな證據でも有ての事か是サ組頭默言だまつて御座つてはすみますまいとたけり立れば組頭の周藏傳兵衞もあきれ居しが漸々進み出コレ藤八殿餘りおほきな聲をさつしやるな小聲こごゑでもわかります先當時の役頭やくがしらを盜賊よばはたしかな證據なくては云れぬ事段々だん〳〵きくに九助が親類と私等わしらが名をもかたられてはなほ以て迷惑めいわく至極しごくと云そばより嘉平次も然樣々々さやう〳〵我等は百姓だいも致す者こと組頭くみがしらと申て名をかた眞間まんまだまし御在ござつたりと云を藤八如何いかにも是を御覽じろと一通の書付をいだし其節證據の曼陀羅を取替行るゝ事故請取も糸瓜へちまも入ぬ譯なれど深切づくのあづかり物生若なまわかい衆の御出に付ねんの爲とらずともい請取までサア御覽じろと差出すを各々取上げひらき見るに

おぼえ

一金百八十兩也

右九助よりの預け金たしか請取うけとり申候ところ實正じつしやうなり後日のため請取證うけとりしようよつて如件

水呑村九助親類
十一月二日
周藏しうざう いん
喜平次きへいじ いん
水田屋みづたや藤八樣

周藏喜平次始め一同此請取を見て此手跡しゆせきは源藏なり周藏が印形いんぎやう名主なぬし惣内殿の印形喜平次のは源藏がはんこれは如何にと周藏はお深に對ひコレお深殿此通りだがまだわかとしをして周藏や喜平次が名をかたるとはハテ大盜賊おほどろばうと惣内をにらめば後家ごけお深はこらへず悴惣内を押伏せ打擲ちやうちやくなせば源藏は堪り兼逃出す所を九助が親より召使ひの三五郎飛で出突然いきなり襟髮えりがみつかんで捻倒ねぢたふしコリヤヽイ源藏汝はよくも〳〵己が旦那を馬鹿にしたなうぬは水呑村の水呑百姓なりしをせん旦那の御蔭にて一人前の百姓に取立られたる其恩儀おんぎを忘れ盜人ぬすびとに同意爲す爰な畜生ちくしやうめと云聲聞て勝手に働き居りし若い者又は九助が家附いへつきの親類小前のともがら十二三人襷懸たすきがけにて面々飛出し彌々いよ〳〵大騷ぎとなりし故藤八は兩手をげ是々皆なのしう先々まあ〳〵しづかにせられよ此れ處か未々まだ〳〵まけがある是を惣内殿貴方あなた覺えが有うなと投出なげいだ姫路ひめぢ革の三徳を見て惣内はヤア是はと云を藤八はオヽ吃驚びつくりするはず貴方きさまが歸つた其跡に落して置た此三徳中は六たう三略の卷ドリヤ〳〵讀で聞せやう皆のしうきもつぶさずにマア落付て聞給へダガ九郎兵衞殿此方こなたの娘も偖々枇杷葉湯びはえふたう誰にもかれにも大振舞情の深い人さんぢやして又庄屋の後家ごけ樣よ此方の息子むすこ物喰ものくひよし何を喰てもあたるめへサア聞なせへ〳〵

ふで申上參せ候扨々思ひ掛なく九しるし出拔だしぬけに歸國致し途方に暮參せ候豫々夫婦になり度いのり居候へども此の後は寛々ゆる〳〵御げんもじも心元こゝろもとなくぞんじ參せ候

藤八サア聞なせへ是が序開じよびらき是からが追々魂丹だと一調子張上て

此上は當處を立退たちのとりすまぬ山のおくとら野邊のべいとひなく御連添下され度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩たくはへたる金子島田宿じゆく中町の旅籠屋はたごやにて水田屋藤八と申方へ預け置割符の曼陀羅まんだら持歸り申候

藤八どうだ村のしうきもいもにもばけさうなもので御座らうサア〳〵茲が肝腎かんじん

其曼陀羅を持參致せば誰にても右の金子きんす引替ひきかへに渡し候由うけたまはり候まゝひそかに其曼陀羅を其方そなた樣へ御渡し申候間金子首尾能御請取下されたく金子さへ有ば何國いづくの浦にても心の儘と存候へば一時も早く立退度たちのきたく夫のみ祈り居參せ候猶委細の事は源藏殿より御聞下きゝくださるべく候何も心せかれ候へば先は荒々あら〳〵申上參せ候めでたくかしく
さ しるし より
惣樣そうさま

讀了よみをはり藤八サア是でも汝等うぬらは爭ふかと云れて九郎兵衞は今更面目なさに娘お里を引据此猥婬者めと人前つくら打擲ちやうちやく後家ごけのお深も猶惣内を打すゑる故一同見ても居られず組頭くみがしら周藏佐治右衞門傳兵衞木祖兵衞きそべゑ長百姓喜平次善右衞門神主かんぬし備前びぜん醫師いし玄伯等各自おの〳〵中に立入たちいりまづ双方さうはう共に預りて此日は皆々引取しがお里は組頭周藏へ預け其夜なほ又周藏方へ惣内始め寄合て心得違ひの趣きにあつかひを入れ百八十兩の金子を殘らずもどしければ九助はお里を是迄の縁と斷念あきらめ殊に伯父の娘なればきびしき事も成難しと千しんしてためたる金の中を五十兩分與わけあた離縁りえんなせしかば村中の者共も又中に立入双方さうはう和談わだんの上お里を惣内の女房とし續て伯父の九郎兵衞も惣内方へ介抱人かいはうにん這入はひりお深と夫婦になりて消光くらし居たり其後九助は親九郎右衞門が質に入置たる田地を請戻し譜代ふだい召使めしつかひ三五郎を鍬頭くはがしらとして元の如くに家を起しければ家付きの親類周藏喜平次を始感心かんしんなし獨身どくしんにては不自由ふじいうならんと島田宿しまだしゆくの水田屋へ到りて種々相談の上めひのお節をもらひ度由を云入ければ藤八も一どう深切しんせつを感じ喜びお節を己が養女やうぢよとして支度したくも立派に調へ水呑村九助方へぞ送りける茲に又惣内は九郎兵衞に惡智慧わるぢゑを加れ村中の山林さんりんうり或ひは質入しちいれなどにせし事あらはれければ村方小前一とう百五十軒集合しふがふして惣内が不埓ふらちすぢかぞたて那樣成あのやうなる名主は役に立ずと連判れんばんを以て組頭へ差出せしにより組頭くみがしら種々いろ〳〵なだめ扱ひけれども勿々なか〳〵一同承知しようちせざればやむを得ず領主りやうしゆ役場やくばへ申立て惣内は名主やくあげられたり扨又惣百姓連印れんいんを以て九助は親の跡故是非跡役仰付らるゝ樣にと本多長門守殿郡奉行へ願書ねがひしよを差出しければ願ひの通り川口九助へ名主申付られ村方の者喜び睦しく暮しけり


第五回


 茲に又駿府すんぷ加番衆かばんしゆ松平玄蕃頭殿の家來けらいに石川安五郎と云ふ若侍士わかざむらひありしが駿府二丁目の小松屋のかゝへ遊女白妙しろたへもとへ通ひ互ひに深くなるに付さとの金にはつまるの習ひ後には揚代金あげだいきんとゞこほり娼妓しやうぎ櫛笄くしかうがひ衣類いるゐまでもなくしての立引に毎晩まいばん通ひ居たりしが早晩いつしか二階を謝斷せかれしが煩惱ぼんなうの犬におはなほこりずまに忍び通ひけるうち或夜あるよわかい者共の目にかゝ引捕ひつとらへられ桶伏をけふせにぞせられける是は据風呂桶すゑふろをけふせ其上へ大いなる石をあげ鐵砲を引拔ひきぬき其穴よりわづかに食物を入るのみ其樣彼の軍鷄籠とうまるかごを伏たる如くなり古昔むかしくるわとな大門おほもん御免の場所には之ありしとなり然ば白妙しろたへは大いになげきしが或日饅頭まんぢう二ツを紙に包み禿かむろ躑躅つゝじそつまねき是ををけあなより入れさするに安五郎かたじけなしと何心なく饅頭まんぢうを二ツにわるに中にちひさくたゝみし紙ありければ不審ふしんに思ひひらき見るに

今宵こよひ子刻頃こゝのつどきごろくるわ立退たちのきつも委細ゐさいは大門番重五郎がなさけにてお前樣は柴屋町へ先へ御出なされお待合まちあはせ下さるべし何事も御げんもじの節と申のこし參らせ候かしく

したゝめてあるゆゑ安五郎は此兩三日桶伏をけふせ恥辱ちじよくあひ無念むねん至極しごくに思ひ晝夜ちうやもやらず居る處成ば文を見て扨は重五郎日頃ひごろ我につらく當りしはかへつなさけありし事かと龍門りうもんこひ天へのぼ無間地獄むげんぢごく苦痛くつうの中へ彌陀如來みだによらい御來迎ごらいかうありて助を得たる心地して大いに悦び今や時刻じこくと待居たりしが心のゆるみよりとろ〳〵と睡眠まどろむうちらいの落たる如き物音に夢はやぶれて四邊あたりを見ればはれ渡りたる北斗のひかり晃々ぴか〳〵として襟元えりもとへ落る木滴きしづくに心付見ればをけそばに打返して有しにぞ彌々いよ〳〵不審ふしんに思ひ彼方此方かなたこなたと見廻す中彼の重五郎は柳の小蔭こかげよりと立出小聲にてアヽもし安五郎樣私は白妙樣しろたへさまにはのがれぬ縁の有者此の處にての長談ながばなしは無益なり少しも早く鞠子まりこの奧の柴屋寺しばやでらへ御出成れて御待あれ委細ゐさいは白妙樣から御はなし有ん私しも後より花魁おいらんの供をして追着おひつきます早う〳〵と云ければ安五郎はオヽ何も云ぬ重五郎殿かたじけないと空をかすみのがれ出やがて阿部川を打越うちこえて柴屋寺へといそぎける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室あんしつにして今なほありと)既に其夜も子刻こゝのつ拍子木ひやうしぎ諸倶もろとも家々の軒行燈のきあんどんも早引てくるわの中も寂寞ひつそり往來ゆきゝの人もまれなれば時刻じこくも丁度吉野屋よしのや裏口うらぐちぬけ傾城けいせい白妙名に裏表うらうへ墨染すみぞめの衣をかりの隱れみの頭巾づきんの上に網代笠あじろがさふかくも忍ぶ大門口相圖あひづせきに重五郎其所へ御座るは花魁おいらんかと言れて白妙回顧ふりむきオヽ重さんか安さんはへ其安さんはもうとく鞠子まりこへ行て待てゞ在ば暫時ちつとも早くと打連立うちつれだち彌勒みろく町をとになし渡り求むる阿部川の此方の岸へつくふね飛乘とびの機會とたんうしろからヤレ待居まちをらう重五郎と追駈おつかけ來るは別人ならず江尻えじりの宿の落破戸ならずもの儀右衞門と云男なりいとも白妙が馴染客なじみきやくにて是迄多くの金銀を遣ひ手にも入ず白妙を今失ひては口惜くちをししと追駈おつかけ來り逃亡者かけおちものを渡せばよし萬一渡さずば汝れ迄刀のさびにして遣ると氷の如き一刀引拔ひきぬきつひに重五郎を切殺きりころし心せきたる其餘り煙草たばこ入を落せしを氣も付ずあとくらまして逃去にげさりけり其ひまに船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎にあひ今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふしと云にぞ安五郎も打驚き然らば早々落延おちのびんと白妙の手を取此所を立出て島田宿なる水田屋藤八方へ到り豫て侠氣をとこぎの事を聞及べば是迄の始末を語り當分我等兩人をかくまひ呉る樣にと只管ひたすらたのみけるに男をみがく藤八ゆゑ早速さつそく承知しようちはなしけれども當所は街道端かいだうはたにて人の目にも付易し幸ひ相良領さがらりやうの水呑村にて九助と云ふは我等が親類なれば同所へ行て居られよ其中には二丁町の方は片を付て進ぜますと受合九助への手紙てがみかいて渡せば二人はよろこあつく禮を述て直樣水呑村へと立出けり爰に水呑村の鵜川惣内は名主退役たいやくの後彌々いよ〳〵村中の氣請きうけあし加之そのうへ九助の金の一件より盜賊の惡名あくみやうきえず身代は日に増にかたむきけるが是に引かへ九助方は益々ます〳〵繁昌はんじやうなすを見るに付聞に付口惜さ限りなく何事かあれかしと窺ひ居たりし中金谷村に大法會だいほふゑありて續合つゞきあひの事故九助惣助九郎兵衞お里等も其席へ到りしに此時九助は混雜こんざつまぎれに紙入かみいれを忘れて小便せうべんに立しを惣内九郎兵衞はかほを見合せ點頭うなづきながらそつと其紙入そのかみいれを取かくし法事も濟し後何喰なにくはぬ顏にて其場を立さり途中へ出て彼の紙入を改め見るに金五兩二分と島田宿の水田屋藤八より九助へ送りし手紙あり是は何かの種に成んと九郎兵衞は懷中くわいちうなし五兩二分の金を得たれば久々ひさ〴〵にて一ぱいのまふと或料理屋あるれうりや立入たちいり九郎兵衞惣内夫婦三人車座くるまざになりさしおさへ數刻すうこく酌交くみかはせしがやゝ戌刻過いつゝすぎやうやく此家を立出九郎兵衞は殊の外の酒機嫌さけきげんにて踉々よろ〳〵蹌々ひよろ〳〵とし乍ら下伊呂村しもいろむらはづれへ來掛きかゝりし頃ははや亥刻よつに近くて宵闇よひやみなれば足元もくらくお里は大いに草臥くたびれしと河原の石にこしを掛るに九郎兵衞惣内も同く石にこしかけ火打道具ひうちだうぐを取出し煙草たばこくゆらせ居たりしが九郎兵衞は彌々いよ〳〵ゑひが廻りしきりにほく〳〵居眠ゐねふるつひに其所へ正體しやうたいもなく打臥うちふしたり依て惣内お里は夫に當惑たうわくなし何かゑひさめる藥はなきやと考へしに惣内は不圖ふと心付此宿外れに藥種屋有ば夜中ながらも呼起よびおこして早々藥を求め來らんお里は其うち九郎兵衞殿を介抱かいはうせよと言置て尻引からげ馳行はせゆきけりなきだに白晝ひるさへ人通りなき相良の裏道うらみち殊に夜中なれば人里遠く麥搗歌むぎつきうたとり宵鳴よひなき遙かに聞え前は名におふ大井川海道かいだう一の早瀬にて蛇籠じやかごを洗ふ波の音は狼みの遠吼とほぼえとも物凄ものすごくお里はしきりに氣をもめども九郎兵衞は前後も知らず高鼾たかいびき折から川の向よりザブ〳〵と水をわけ此方こなたへ來る者ある故お里は是をすかし見るに生憎あひにく曇りて黒白あやめも分ず怖々こは〳〵ながら蹲踞つぐみ居ればくだんの者は河原へあがより一人の女を下しコレ聞よ逃亡者かけおちものと昨日から付纒つきまとひつゝやう〳〵と此所へ引摺ひきずこむまでは大にほねを折せたぞサア是からはうぬが身を彌勒町みろくまちなる吉野屋へ拘引つれて行て渡さうかそれよりすぐに濱松へ賣てくれるが早道はやみちだイヤ〳〵歩行あるけと引立るに女は涙聲なみだごゑふるはせ私は其樣な者ではない二世までかけし夫の有身金がほしくば此へんに知る人あれば其家まで行たる上は幾干いくらでものぞみの通り上ます程に何卒ゆるして〳〵と詫るを何だやかましい贅言たはごと云ずと此おれを叔父だとぬかせばすむ事だとのゝしる聲の耳にいり九郎兵衞は不圖目をさまし猶も樣子を打聞うちきくわびる一人の女の聲扨は我今ねぶりし中惡物わるもの共がお里をとら勾引かどはかさんとなす事ぞと寢ぼけ眼に立上りおのれ曲者くせもののがさじと聲を知るべに打掛れば彼の曲者くせものは驚きながら見付られては後日のさまたげムヽと點頭うなづき傍邊かたへに落し松の小枝こえだを取より早くオヽ合點がつてんと受止つゝ強氣がうき無慚むざんに打合に年は寄ても我慢がまんの九郎兵衞茲に專途せんどと戰へども血氣けつきさかんの曲者に薙立なぎたてられて堪得たまりえず流石の九郎兵衞蹣々よろ〳〵よろめく處を滅多めつた打無念々々と跡退あとじさり既に斯よと見えける處へ惣内は息切いきせきと引返し來りあらそふ聲を聞やいなヤア叔父樣をぢさんか惣内か此奴はお里を追駈おつかけ盜賊たうぞくなるぞとよばはるに惣内心得脇差わきざしを拔より早く切付れば流石さすが不敵の曲者も二人が太刀先にかなひ難く河原の方へ逃行にげゆきしが以前の女の彷徨さまよひ居たるを其儘に引抱へ又かけ出せば九郎兵衞は遣らじと後よりとび掛れば忌々いま〳〵敷やと惡漢は女をどうと投出す機會はずみに切込九郎兵衞がやいばあつと一聲さけび女の體は二ツになり無慚むざんの最期に惣内はお里と心得心もそらおのれ女房のかたきめと追詰々々切むすび九郎兵衞諸共もろとも曲者をつひに其場へ切ふせたり斯て兩人はホツと一いきつく處へお里もやがかけ來り其所に御いでは父樣かといふ聲きいてオヽお里か能マア無事でと親子三人怪我けがのないのを悦び合中遠山影とほやまかげに差のぼる月の明りにすかし見て然すれば此等の者共はと男女の死骸に當惑たうわくする色を見てとり九郎兵衞は其方そのはう兩人ふたりかねてよりのぞみの如く江戸へゆき充分しつかり金をためるがよい己も其中後より行んと彼の兩人の着類を剥取はぎとり惣内お里へ着替きかへさせ跡の始末は斯々と耳に口よせさゝやきつゝ暫時ちつとはやく立去れと指揮に點頭うなづき夫婦の者は先刻さつきぬすみし九助の金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人のくびを切落し傍邊かたへに小高きをかの有しかば小松こまつの根をほりうづめ又死骸の傍邊へは彼盜し紙入かみいれを落し置是でよしとて翌朝領主りやうしゆの役場へ出惣内夫婦昨夜大井河原おほゐがはら下伊呂村にて切殺され罷在まかりある由人の知せにより早速さつそく馳付はせつけ見屆候處全く同人夫婦に相違無之其傍邊に九助の紙入おち之有これあるにより同人所わざと存じ候旨訴へに及びけりこゝに又九助の女房お節は今年ことし實母じつぼの七回忌くわいきにも當るに付上新田しんでん無量庵むりやうあん住職ぢうしよく大源だいげん和尚と申は善知識ぜんちしきにて人の尊敬そんきやうも大方ならずと承まはれば是へ布施ふせを上て回向ゑかうを願ひ度と夫九助へ頼みければ九助も其孝心を感じて今金谷村より歸りし草臥足くたびれあしをもいとはず再び白米五升と鳥目てうもく貫文くわんもんを自身に背負せおひゆき源和尚げんをしやうへ回向を頼みしかば和尚も其志操こゝろざしを感じ懇切ねんごろ供養くやうをなして後九助の額を熟々つく〴〵と見貴殿こなたは大なる厄難やくなんあり是はのがれ難きにより隨分ずゐぶんつゝしみを第一に致されよと申を聞て九助は大に驚き立歸たちかへりしが途中下伊呂村いろむらつゝみにて一人の武士に出あひたり武士は小腰こごしかゞもし斯樣々々かやう〳〵の女にあひ給はずやと問掛とひかけられ九助は一向見掛ぬ旨こたへれば彼者又水呑村に九助殿と申人が御座るかときくゆゑハイ其九助は私しで御座ると云に夫はさいはい某しは松平玄蕃守げんばのかみ家來石川安五郎と申者樣子有て今御たづね申處なりと懷中ふところより書簡てがみを出して渡し何れ妻を尋ね出して後其方へまゐらんにより其節はよきに頼むとやくしつゝ安五郎は又々後の方へ引返ひきかへしける九助は彼の手紙を見れば島田宿の藤八よりの名宛なあてなればひらき見るに安五郎白妙しろたへの兩人をかくまひくれよとの頼み故其儘懷中なし夜に入しかば急ぎ歸る河原にや何やらつまづきしが死骸しがいとも氣が付ず行過たり彼の安五郎は九助にわかれ妻の行方を尋る中彌生やよひの空も十九日子待ねまちの月のやゝ出ておぼろながらに差かゝるつゝみやなぎ戰々そよ〳〵吹亂ふきみだれしも物寂寞さびしく水音みづおとたかき大井川の此方のをかへ來かゝるに何やらん二ひきの犬があらそひ居しが安五郎を見るとひとしくくはへし物を取おとし何所ともなく逃行にげゆきけり安五郎は彼のしなを何やらんと立寄見れば女の生首に犬の齒形の殘りて居れば驚きながらなほよく〳〵見るに見違方まがうかたなき白妙しろたへが首故ヤヽ是はと吃驚びつくりなし首をだき上げ胡鷺々々うろ〳〵聲コリヤ白妙どういふ事で此有樣何者の所業ぞや何國にかげを隱すとも此あだを討ずに置べきやと血眼になりていかれども歎くに甲斐なき此場の時宜しぎあはれをとゞめける


第六回


 時に後ろの方に當り生者必滅しやうじやひつめつ會者定離ゑしやじやうり嗚呼あゝ皆是前世ぜんせ因縁いんえん果報くわはう南無阿彌陀佛と唱ふる聲に安五郎は振返ふりかへり見れば墨染すみぞめの衣に木綿もめん頭巾づきんかたまで掛け杖に縋りし一人の道人なりしにぞ安五郎はそばに立寄貴僧きそうは何所の御出家なるか知らねども是なるはそれがしの妻にて候が如何なる前世の因縁いんえんにや今日はからずも何者にか首を切られどうさへ見えぬ此形容かたち何卒なにとぞ御情に御とむらひ下され度と涙ながらに頼みければ出家は點頭うなづき其は心やすき事かな早々さう〳〵生死のまよひを離れて涅槃ねはんの道に引導すべければ是より我がいほりに參られよとて夫より上新田村の無量庵へ同伴どうはんなし懇切ねんごろに弔ひければ安五郎はあつく禮をのべ其身は故郷こきやうおもむく由申暇乞いとまごひして立出たり扨又郡奉行松本理左衞門方にては九郎兵衞の訴により九助を早々さう〳〵召捕めしとるべしと下やく手代黒崎又左衞門市田武助の兩人に申付て手先てさきの者を召つれ九郎兵衞の案内あんないにて九助方へ踏込ふみこみ來り上意とこゑかけ忽ち九助を高手小手にいましめければ九助はきもつぶし是は何事なりやと云けるを役人は發打はつたにらみ何事とは白々しら〴〵し其方昨夜大井河原下伊呂村の辨天堂べんてんだうの前にて先名主せんなぬし惣内夫婦を切殺きりころしたるだん九郎兵衞が注進ちうしんに因て明白めいはくなれば則ち召捕めしとるなりと云ければ九助は彌々いよ〳〵驚て此九助人などをころしましたるおぼえは決して御座なく是は定めし人ちがひならんと種々いろ〳〵言解いひときけるそばより女房お節も取縋とりすがり九助は勿々なか〳〵人殺ひとごろしなど致す者では御座りませぬ何卒御堪忍かんにんなされて下されと倶々とも〴〵泣詫なきわびる斯る處へ譜代ふだいの三五郎もはせ來り其所へ平伏ひれふし御役人樣九助儀は勿々なか〳〵人など殺す樣な者では御座りませぬと右左みぎひだりより取付わびるを役人は其方共の存じたる事に非ずと取て突退つきのけ九助を引立る故九助は是非なき事とあきらめお節三五郎の兩人に對ひ必ずともにさわぐに及ばず我が身に覺えなき事なれば御役人樣の前で申わけをなし今にもどると宥めるを下役したやく共は贅言たはごと云せず引立よと遠慮會釋ゑんりよゑしやくもあら〳〵しく足輕あしがるなはを取せ相良さがらの城下へ引立行き郡奉行役所の白洲しらすへ引出したり此時上座には松本まつもと理左衞門下役手代左右にならび理左衞門發打はつたにらみコリヤ九助おのれが伯父九郎兵衞の訴へに依ば其方儀昨夜下伊呂村に於て惣内夫婦を斬殺きりころし後日に知ざる樣くびを切落し取かくし置たる由有體ありていに白状せよと云ければ九助は首をあげ全く以て然樣のおぼえ御座なく元來もとより惣内夫婦に意趣もなければ殺す道理がと半分はんぶん云せず理左衞門は大聲に默止だまれ愚人たはけめ今朝檢使けんし吟味のせつ死骸しがい傍邊かたはらに汝が鼻紙入の落てありしのみならず其紙入の中には島田屋しまだやの藤八方より汝へおくりたる手紙もありことに汝の衣服のすそに血の付たるを女房に洗はせにはほして置たと有是等がたしかな證據しようこなり然れどもいまだ爭ふか不屆者ふとゞきものめと言れて九助は彌々いよ〳〵あきれ果私しの紙入は昨日金谷かなや法事ほふじの場所にて紛失ふんじつなし又衣類のすそへ血の付は金谷村の法事より歸りて後再び上新田村の無量庵むりやうあんへ相越し妻が實母じつぼ回向ゑかうを頼み夫より戻りの途中とちう大井村の河原にて宵闇の暗紛くらまぎれにつまづきしにて生醉なまゑひの寢て居し事と存じ其儘罷歸り今朝見ればすそは血だらけ故はじめて驚きまして御座ると云に理左衞門胡論うろんなる申條言解くらいぞ茲を何處と心得て然樣な前後揃ぬ儀を申す全く汝が殺したに相違有まいサア明白めいはくに申せ云ぬに於はひざひしぎ石をだかせても云するぞと威猛高ゐたけだかに叱り付けれども九助は決して僞りは申上ませぬと云を理左衞門はすこしも聞入ず追々吟味致さんが先今日は入牢じゆらう申付るとて此日は調もなかりける扨も九郎兵衞は早く九助を殺して己がとがを遁れんと思ひ田地でんぢ質入しちいれなし漸々やう〳〵金を拵へて郡奉行松本理左衞門を始め手代四人へ賄賂まいないつかはしけるに下役の黒崎くろざき又左衞門は異儀いぎなく承知なし又々願上の手續てつゞきを内々差圖さしづしければ九郎兵衞は渡りに舟と再び願書ぐわんじよを差出せしゆゑ翌日差紙にて九郎兵衞夫婦並に村役人付そへいでる處に九助もらうより繩付にて引出され又前日の如くきびしく責問せめとひけるに九助は夢さら覺えなき事故是は餘の者の仕業しわざに相違之なしと申立れ共理左衞門ナニ惣内夫婦に遺恨ゐこんはないと申せども遺恨ありしに違ひないソレ九郎兵衞が願書を讀聞よみきかせいとて是を讀むに

一水呑村せん名主惣内後見こうけん九郎兵衞并にさい深申上奉つり候當名主たうなぬし九助と申者は私共のをひに御座候處數年すねん困窮こんきうに付家内相談の上江戸表に奉公かせぎに罷出候みぎ留守中るすちうは私共并に九助妻里のみ取續とりつゞきも相成兼候故右惣内方より時々じゝ合力がふりよくうけやうやくに取續とりつゞき罷在候處五ヶ年目に九助歸村仕つり留守中るすちうさい里惣内と不義ふぎいたし候と申立惡名あくみやう相付あひつけ私し共親子を追出し候故私し儀惣内方後見こうけんも致しをり候間介抱かいはう人に相成娘儀むすめぎは惣内妻に致させ候然る處九助儀は江戸表より同道どうだう仕つり候哉又は途中とちうより連參つれまゐり候哉せつと申女を引入ひきいれ直樣すぐさま後妻こうさいに仕つり候全く此節を妻にいたすべく了簡れうけんにて私し共親子に惡名あくみやうつけ追出し候儀と存じ奉つり候其後右九助多分の金子にて質地取戻し其上そのうへあらたに田地でんぢ買請かひうけ當時名主役つかまつり候へ共私欲しよく押領あふりやう宜しからざる儀共多く有之に付惣内歸役きやく願ひも致させたく小前こまへの百姓共時々とき〴〵寄合も有之由之に依て其等それらの儀を無念に存じ當九助惣内夫婦金谷村かなやむらよりの歸を待受まちうけ切害せつがい致し首は切捨きりすて取隱とりかくし候へ共兩人とも衣類に覺え之ある而已のみならず悴共の事故手足てあし骸等からだとうにも覺え之あり相違なき儀に御座候加之そのうへみぎ死骸の傍邊に九助紙入かみいれおち有之これあり又紙入の中には島田宿藤八より九助へ送り候手紙も有之候事其節御檢使樣方御改め通りに御座候全く九助惣内夫婦を切害せつがいいたし候に相違無之儀と存じ奉つり候に付何卒なにとぞ御慈悲を以て兩人の解死人げしにん御吟味下ごぎんみくだおかれ候樣仕つり度依之此段願ひ上奉つり候以上

水呑村せん名主惣内後見
享保二年二月廿三日
願人ねがひにん    九郎兵衞
同人どうにんさい
ふか
親類しんるゐ肩書  善兵衞
仁右衞門
組頭くみがしら肩書  傳兵衞
木祖兵衞

サア何ぢやおのれ五ヶ年の間江戸へ奉公ほうこうに出し留守中るすちう家内の者惣内が扶持を受し恩をも思はず惣内に不義ふぎ汚名をめいを負せ己れがほかにて語合かたらひし女を妻に致さんが爲罪なき伯父の娘恩ある惣内そうないへ惡名を付先妻せんさい離縁りえんに及びし段不屆き至極と窘付きめつけるを九助は無念むねんの事に思ひ恐ながら全く以て遺恨などとは存も付ませぬ儀にてすでに惣内と不義ふぎある女房にくやつとは存候へ共現在伯父九郎兵衞が娘故義理をかんがへ不義せし者へ金迄かねまで付けかれが存念通り惣内方へ遣す程の儀に御座れば何しに恨を殘しませうぞ何分御慈悲ごじひ御吟味ごぎんみ願ひ奉つると申を理左衞門りざゑもん默言だまれしかり其方伯父九郎兵衞へ金子を遣し一旦いつたん奇麗きれいに里を離縁りえん致したなれ共惣内方へ再縁さいえんなせしを見て未練みれんを遺せしならん又金子等つかはしたも定めし扱人あつかひ差略さりやくで有う彼是を遺恨ゐこんに存じ惣内夫婦の者を殺し疑ひの心を晴ぬ爲に兩人の首を取隱とりかくせ奸計かんけいに相違はない恨はないなどと申がコリヤ云譯はくらくびは何處へ隱したサア眞直まつすぐに申せとにらめ付るに九助はイヘ決して覺えは御座りません此間このあひだも申上ます通り十九日に金谷村かなやむらへ參り又ゆふ申刻なゝつすぎより上新田村にいたりて夜に入まで彼方に居し故人を殺したる覺えは御座りませんよつ猶更なほさら兩人が首の有處存じ居る筈がと云んとするを理左衞門默止と止めコレ九助其方他行先たぎやうさきが怪しいこと願書ぐわんしよの趣きにては其方名主役なぬしやくに相成り私慾を構へ村方難儀に付村役人小前の者共相談の上退役たいやくを願ひ惣内に歸役きやく致さんと申内談ないだんを聞無念に存じ惣内夫婦を殺したに相違さうゐないぞと押付おしつけるに九助はふくせずイヘ〳〵然樣さやうな儀は毛頭もうとうおぼえ無之先惣内山林の竹木を隱しぎり仕つり其外小前へ勘定に押領あふりやうすぢが御座りまして退役たいやく仕つりし事はすでに御役所にても御調御座りました儀又私し儀は村役人むらやくにんそう百姓のすゝめにより餘儀よぎなく親共勤めましたる跡故名主役を相勤めます殊に惣内歸役きやく相談さうだんの儀などは一向承まはりし事も御座なく假令右體の儀御座ればとてそれを遺恨ゐこんに思べきはずもなく右體の儀は跡形あとかたもなきいつはり事と存ずると云語をつぎ組頭周藏進み出只今名主九助申上まする通り惣内そうない歸役きやくの相談などと申勿々なか〳〵思ひも付ぬ事其は九郎兵衞が僞はりにして九助はもとより正直者に御座れば何卒なにとぞ御慈悲を願ひ上ますと言を又默言と叱り付汝は何者なにものだととふにハイ組頭くみがしらで御座ります名は何と云うヘイ周藏と申しますと答ふるに理左衞門コリヤおのれにはたづねぬひかへて居れ不埓ふらちやつ白眼付にらみつけるをイエ九助の正直しやうぢきなる事は村中の譽者にて誰知らぬ人も御座りませぬと云を理左衞門又おのれ口をきく糺明きうめいを云付るぞとおどせば周藏は吃驚し老人の事故ふるへ居るを後より三五郎這出はいいでて只今組頭くみがしら周藏申上しに相違なく九助儀は一文一錢の勘定も粗末は御座なく小前こまへの者共へあはれみを掛けと云を理左衞門默止だまれおのれ又何ぢやと有れば三五郎はハイ私しは百姓代三五郎と申者で御座りますといふに理左衞門ナニ百姓代と申か控て居れと云ふをイヤ控ますまい九助が事は村役人むらやくにんへ御きゝなされませ隣村の名主共へ御尋ねなされても日來の行状ぎやうじやうは知れますと申を理左衞門大音だいおん默止だまれ三五郎と云をイヘ默止ますまいと云ば何役人へ對ひ不屆の一言牢へ打込うちこむぞとしかり付れば三五郎はハイ〳〵牢へでもをりでも勝手の處へ入度ば入さつしやい何ぼ御奉行でもよりほかには御座るまい依怙贔屓えこひいきなどを云つしやるなとひぢを張ば理左衞門大いに怒りヤイおのれ役人にむか再應さいおうの口こた不屆ふとゞきな奴ソレしばれと差圖さしづをなすに三五郎は理左衞門を睨み隨分ずゐぶんしばらつしやい私はやせてもかれても三石八斗八升の御田地でんぢもち水呑村の三五郎と云殿樣の御百姓で御座りますはゞかりながら然樣さやういふうしろぐらい片贔屓かたひいきな御さばきは見た事が御座らぬと云うにぞ理左衞門堪へ兼イヤかれしばれと云聲の下々した〳〵役人はつと立掛たちかゝるを周藏木祖兵衞種々と詫入わびいり漸々やう〳〵三五郎を外の腰掛こしかけへ出しゝかば跡は寂寞ひつそりとなり理左衞門大音だいおんあげコリヤ九助假令たとへみぎを左りに云ぬけんと爲る共二十日のあさ其方が衣類のすそ血汐ちしほひき其上おのれが紙入藤八よりの手紙が入てありしをおとして置たからには云譯いひわけは有まいぞと言ふに九助は其儀は此あひだより申上ます通り私し妻の母の法事ほふじ辯解いひわけせんとするを理左衞門はコレ又同じ事を幾度いくたび申たとて辯解いひわけにはならぬ全く惣内夫婦を殺したに相違なけれど勿々なか〳〵大體たいていのことでは白状はくじやうすまじ牢問らうどひ申付るぞとて此方を向コリヤ九郎兵衞夫婦氣遣るな子供等が解死人げしにんは取つて遣すぞ立て〳〵追て呼出すと申渡したり


第七回


 かゝりし程に九郎兵衞は理左衞門を始め下役人又々賄賂まいないつかひ奉行へ金十五兩下役人へ三兩づつ牢屋掛らうやがかりへ金二分づつをおくりしゆゑ九助は石をいだく事十三度其外種々樣々に品を替て責られし故今は一めいあやふきとの事を妻のお節はきゝ及び有るにもあられぬ思ひなれば村役人倶々とも〴〵お慈悲願ひに出けれども其度々たび〳〵役場にてしかりを請る而已のみすこしも取上らるゝ事などなく又差添さしそへの村役人共も其度毎たびごとに九助の仕業しわざに之なき趣きを申立れども證據しようこなき故取あげられず皆々歎息たんそくの外なかりしにひとり三五郎は譜代ふだい主筋しうすぢ故何分九助が無實むじつの災難をのがれさせたく思ひ此上は家老方へ御なげき申より外なしと豫々かね〴〵心掛居ける中或日あるひ本多家の長臣ちやうしん都築外記つゞきげき中村主計かずへ用人笠原かさはら常右衞門の三人が相良さがら用達ようたし町人織田おだ七兵衞が下淀川しもよどがは村の下屋敷しもやしきへ參られ終日しゆうじつ饗應きやうおうになる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助申時なりと大に悦び一つうの願書をしたゝめ天へものぼる心地にて梅ヶはしといふ處に待うけしに聞しにたがはず夜にいると右三人の供人ともびと定紋付ぢやうもんつき箱挑灯はこちやうちんを先に立みちを照して來りける故三五郎は土橋どばしの口に平伏しおそれながら願書御取上願ひ奉ると差出すを都築外記つゞきげきは願の筋有ば其支配の役人より向々むき〳〵の役人へ願ひ出よと差戻さしもどせど三五郎は猶さし出し其御役人方御取上げ御座らぬによりよんどころなく貴所あなたさまへ御願ひ申上ますとてうごかねば籤九度山どやま目付めつけ中村主計かずへはイヤ外記げき殿それは取上るに及びますまい打捨うちすてて歸られよと云を外記は否々いや〳〵一通り聞たる上相計らはんと屋敷へ連歸り委細ゐさいを聞たゞし三五郎が忠義を感心かんしんなし家來を付て理左衞門方へ遣はし此者儀は忠義者ゆゑ能々よく〳〵吟味を遂られよと申送りしかば松本まつもと理左衞門も餘儀よぎなくかしこまるおもむ返答へんたふに及びおき夫より三五郎を呼出し汝支配しはいの奉行を差越さしこし御家老外記げき殿へ直訴ぢきそに及び候段不屆至極ふとゞきしごくの奴なりと眼玉めだま剥出むきだしかり付ればヘイ如何樣に申上ましても御取あげ御座らず九助儀は無實むじつ災難さいなんに陷ります事見るに堪兼候と云を理左衞門大音上げ默止だまれ此方は善惡をたゞす奉行しよくなるぞ私しが事で濟ものか九助事は確乎なる證據有により數日すじつ吟味なす所なり如何に土民どみんなればとて理非りひわきまへぬ申條牢舍申付べき奴なれども彼老ぢうより忠義の者と申越されし故村役人へ屹度きつと預けおく此上直訴ぢきそにも及ぶ時は村役人共屹度きつと申付るとしからし歸しければ三五郎は殘念には思へども今更仕樣しやうもなく寥々すご〳〵と村役人にともなはれ我が家へこそは歸りけれさて又九助は晝夜ちうや嚴敷きびしく拷問がうもん牢問らうどひかゝ骨節ほねふしひしげるばかりに弱り果今はいき絶々たえ〴〵と成て頼みなき世の有樣に熟々つく〴〵思ひめぐらす樣如何なればかゝ無實むじつの罪にかゝりし事ぞ是も前世の業因ごふいんならんと斷念あきらめながらもあまりと云へばなさけなし是まつた伯父をぢ九郎兵衞が賄賂まいないを以て役人の手をかり無理無體むりむたいに我を殺さんとなす成ん然すれば何程苦痛くつうたへるともつひには命を失はずには置れまじ此上は一日も早く苦痛くつうのがるゝこそましならめさりながら如何なる因果の報いにや我幼少えうせうにて父におく艱難辛苦かんなんしんくの其中に又母をもうしなひしかど兩親の遺言ゆゐごんを大事に守り江戸にて五ヶ年の千しん萬苦ばんくも水のあわありたふくみつるあはくふが如く五體の膏血かうけつしぼたくはへたる金が今思へば我が身の讐敵あだがたきとは云ものゝ親のつとめ村長役むらをさやくを勤なば親々が未來みらいの悦びと思込しが却て怨みを受るもとゐとなり無實の大なんかうむりたるかなさけなきは九郎兵衞殿如何なる前世のかたき同士どうし現在げんざいを分し伯父をひの中で有ながら娘や婿むこかたきなりと後家のお深にくるめられ解死人げしにん願ひは何事ぞと姑くは人をもうらみ身をもくやみて泣沈なきしづみしが嗚呼あゝ我ながら未練みれんなり此上拷問がうもんつよければとても存命思ひも寄ず此苦みをうけんよりは惣内夫婦を殺したりと身に引受て白状なし娑婆しやば苦患くげんのがれんものと心を爰に決せしがるにても罪に陷りかばねを野原にさらさん事我が恥よりも先祖に對し面目なし嘸や跡にてお節をはじめ三五郎等がなげくで有んと越方こしかた行末ゆくすゑを思ひり又も泪にくれをり丑刻やつかね鐵棒かなぼうの音と諸共に松本理左衞門は下役したやく二人下男五六人召連自分じぶん獄屋ごくやに來り鍵番かぎばんに戸口を明けさせ九助を引立て拷問所へ引出し理左衞門は上座じやうざに直り是迄屡々しば〳〵拷問に及べども蒟蒻こんにやくのと云かすめ今に白状致さぬ故今日は此理左衞門が自身に拷問がうもんを見聞せん強情しぶといやつめと一調子てうし引上げコリヤ者共九助を拷問せよ一たい汝等なんぢら手弱てよわい故なり今日は我が見る前なれば責殺しても苦ふないヤイ九助覺悟を致せ湯責ゆぜめ責水責鐵砲てつぱう海老えび熊手くまで背割せわり木馬もくばしほから火のたま四十八の責に掛るぞヤイ〳〵責よ〳〵との聲諸とも獄卒ごくそつ共ハツと云樣無慘むざんなるかな九助を眞裸まつぱだかにして階子はしごの上に仰向あふむけに寢かし槌の枕をさせ荒繩あらなはにてくゝり付大がまくみ込みし大川の水を理左衞門屹度きつと見て夫々嚴敷きびしく水を喰はせろ用捨する奴は同罪なるぞときよろつくまなこと共に下知し既に水責に及んとする處に九助は豫て覺悟の事なれば是御役人樣先々拷問がうもんを暫く御待下されよと云に理左衞門はイヤ成ぬ此間より數日の責に白状せぬ強情者がうじやうもの是非ぜひ今日は骨をひしき肉をたゝきても言さにや置ぬ譫言たはごとぬかすな夫責よと下知なすを九助は猶もくるし氣に其責には及びませぬ只今白状致しますと云に理左衞門はナニ白状致すとか然ば眞直まつすぐに白状致せハイ今日迄種々いろ〳〵ちんじましたが我程御役人樣の御察の通り惣内夫婦を殺しましたに相違さうゐ御座りませぬ此上は如何樣いかやうに御仕置しおきうらみとは存ませぬと煮立涙と諸共に白状に及びしかば理左衞門は打笑ひ彌々いよ〳〵夫に相違は有まいな夫見よ疾から然樣申さば責られて痛いめはせぬのに何程なにほどいつはりても天の御ばつ人を殺して知れずに居るものかソレ役所へ引廻せとて役所へ引行ひきゆき早速さつそく下役人に口書をしたゝめさせ白洲に於て是を讀み上る

わたくし儀豫々かね〴〵遺恨ゐこん有之これあり候に付三月十九日の夜下伊呂しもいろ村大井川端にて惣内并に同人妻を切害仕り候にいさゝか相違無之これなく恐入おそれいりたてまつり候之に依て如何樣の御仕置に仰付られ候とも御領主樣ごりやうしゆさまへ對し御恨おんうらみは少も御座なく候以上

水呑村名主
享保二年四月廿四日
九助

理左衞門コリヤ九助サア爪印つめいん致せと書付を差出さしいだせば九助は是を見てワツとばかりに血の涙を流しながら爪印をなしたりけり因てり理左衞門は早速さつそく九郎兵衞夫婦を呼出し兩人に向ひ其方共願ひに因て九助を段々だん〳〵吟味致す處其方せがれ惣内夫婦を大井河原に於て殺害せつがい致したる段相違なき趣き白状はくじやうに及ぶ同日口書こうしよ爪印相濟あひすみたる上は近々きん〳〵所刑しおき仰付らるゝ惣内夫婦の解死げし人は取てつかはすぞ然樣に相心得よと然もたりがほに申ける九郎兵衞夫婦は有難き旨を申上九助を八打はつたにらみサア九助汝は〳〵にくき奴なり御役人樣の御かげくもらぬ鏡に移るがゆゑ神國の御罰にて今白状に及びたるが能氣味なりとのゝしるを女房お深も倶々とも〴〵にコレ九助よくも嫁のお里に惡名を付け其上に悴惣内夫婦の者を殺したる爰な大惡人あくにんめと泣聲に成て窘付きめつけれども九助はたゞとぢて物言ず居たりしは誠に覺悟を極しと見えいとゞあはれまさりける


第八回


 さても郡奉行松本理左衞門は夫々申渡し相濟あひすみはや退座たいざせんとなしける處に百姓三五郎申上ますと云ながら白洲しらす飛込とびこむゆゑ下役どもソレと取押とりおさへるを猶も聞入ず大音だいおんあげ今は何をかかくし申さん惣内夫婦を殺せしは全く私しなり何卒なにとぞ御所刑に仰付おほせつけられ下さるべしと云ば理左衞門は面色を變三五郎を白眼にらみ其方は先達せんだつて前後そろはぬ儀を家老中へ直訴ぢきそに及び甚だ不屆ふとゞき至極に付入牢申付べき奴なれ共古主こしゆ九助が事の願ひ忠義らしく聞ゆる故村役人に預け遣はしたり然るに又右體みぎていの儀を申出るだん不埓ふらちなり村役人共其奴を引立歸れ御取上は無ぞと叱り付るを三五郎は否々彼の人殺しは私しに相違なく夫を人違ひ成れては御役儀が立ますまいときめ付れば理左衞門は爰な強情者め其惣内夫婦を殺しましたは私しに相違さうゐないとすでに九助が白状に及び口書こうしよ爪印迄つめいんまで相濟たり夫を今更人殺は汝なりと名乘出る事狂氣きやうきでも致したか然なくば最初さいしよ九助入牢じゆらう中のせつ何故なぜ名乘て出ぬ此奴察する處人殺はおのれなりと忠義めかして名乘出るならば九助めは助る事も有うかなどとの奸計ならん早々村役人共引立よといふに三五郎は又否決して立ますまい私しも解死げし人に成事を好んで出しからにすぢの無事は申立ずもとより九助は慈悲深き生れ付故勿々人など殺すべき者に之なく全く拷問がうもんの嚴しきと私しをたすけ樣との兩條にて白状致せし事に相違さうゐなく既に九助が今日口書こうしよと聞えし故科なき者を殺すは如何にも不便ふびんに付止を得ず名乘出しなり因て下死人は此三五郎めにいさゝかも違ひ御座らぬと白洲に鰭伏ひれふし少しも動かねば役人は勿論もちろん村役人共持餘し叱りつなだめつ漸々に白洲を引立公事くじ人のたまりへ引出したり時に九助が女房お節は今日九助が白状はくじやうに依て口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ近々所刑になるとの事をきゝ狂氣きやうきの如くかなしみ歎きしがせめては夫の命乞をせんものと相談の爲島田宿の水田屋藤八がもとへ行んと駈出かけいだせし途中にてをりよく藤八に出會であひければお節は大いに悦び九助は斯々なりと咄すに藤八もさればなり私も其事にて出來りしと云つゝ兩人同道して直に役所へ來りしに白洲は引たれども外のたまりの中に九助は繩付なはつきまゝ居けるを見て藤八お節は走りよりとはんとすれどせまり來る涙に言葉もなかりけり

牢内らうないより出入の節とが人のそば親戚みよりよする事は法度はつとなれど江戸とちがひ村方の人足のみにて知りあひの百姓ども故知らぬ顏にて煙草たばこくゆらし居たりしとぞ

扨も九助は數日すじつ拷問がうもん苦痛くつう堪兼たへかね身に覺えなき人殺しの罪を白状に及ぶ程のことなれば總身そうしんにくおち頬骨ほゝぼね高く眼はくぼみ色蒼然あをざめ髯髭ひげ蓬々ぼう〳〵としたる體彼の俊寛僧都しゆんくわんそうづが鬼界ヶ島のおもかげもかくやとばかり思はれて藤八お節も目も眩み心も消え入る體なりしが漸々やう〳〵に涙をはらひて藤八に摺寄すりよりコレ九助殿變り果たる此姿見るに付ても日々の拷問がうもん苦痛くつうさぞかしと思ひやらるゝなり併ながら何云譯で人殺しと白状致されしやら如何にせめらるゝがくるしいとて殺しもせぬ者を殺したとは辛抱しんばう甲斐がひのなき事ぞ假令たとへほね舍利しやりになればとて知らぬ事は何處迄どこまでも知らぬとは何故云はれぬぞと云を九助は聞終たきの如く涙を流し是は〳〵藤八樣御心切しんせつなる其おことばもとより人は殺さねど日々夜々の拷問がうもんきびしく假令たとへ白状なさねばとてとても助かるいのちにあらずと斷念あきらめし故一時も早く此世の苦痛を遁んと覺悟をきはめし此九助みな是迄これまでの約束ごとコリヤお節是が一しやうの別れぞと聞てお節は殊さらに絶入たえいるばかりに泣伏を藤八はコレ〳〵お節どうした者だせめて九助が死なぬ中あはせて遣度やりたく漸々やう〳〵と是迄折角せつかくかけ付しに何にも言ずなき居ては切角せつかく逢し甲斐かひもなし云たき事の有ならばはやく云てと急立るにお節は漸々顏をあげをつとの姿を打まもり又も玉なす涙のあめ聲さへ出ずすがより私も一所に死にたしと身をふるはして歎くさま道理ことわりせめて哀れなり九助もまぶた屡瞬しばたゝき是お節其方そなたは此九助と夫婦に成たるは前世ぜんせよりの惡縁ならん我は天地の神祇しんぎ照覽せうらんあれ人など殺せし覺えは露聊つゆいさゝかもなきなれど是皆伯父九郎兵衞が惡巧わるたくみより無實の罪におちいる事と推量すゐりやうはなしながら證據しようこなき故辯解いひわけたゝず是と云も先立れし親々への孝行と思ばこそ不義淫奔いたづらせし先妻せんさいお里憎ひ奴とは思へども眼前伯父の手前もあり向ふよりこそ取る金を此方こつちからして金まで付離縁りえんなしたる其なさけは結句けつく此身のあだとなり役人しうの詞にも所詮しよせん存命ぞんめいかなはぬと云れしなれば此覺悟かくごされど其方は此事の御とがめはよも有まい程に御所刑濟ば田畑でんばた居屋敷ゐやしき家作かさく家財かざいは其方へ下さるゝで有うゆゑ殘らず其を賣代うりしろなし其金をもち藤八樣へ相談申て何方なりと再び縁をもとめよや其後自然しぜん我事を思ひ出せし日もあらば只一ぺん回向ゑかうをと云ばお節はうらめしげに九助のかほを打まもり夫は又きこえぬおほせぞや御前に別れて外々ほか〳〵縁付えんづくやうな私ぢやない氣のよわい事を云ず共コレ父樣とゝさま何卒どうぞ九助が命乞いのちごひをと云後より下役したやく立出コリヤ〳〵科人とがにんへ逢せて遣るは役人の慈悲じひくど〳〵と何時迄いつまで居るのだサア立々と聲をかけるに藤八は懷中より金二分を出し密とたもとへ入れ何分にも九助が事お慈悲の御取扱おとりあつかひを願ひ上ますと慇懃いんぎんに申ければ下役人點頭うなづきいや夫は案じるな囚人めしうどは大切に致さねばならぬことはかみからも再應さいおうふれの有儀なり併し今あはせた事は他へ云まいぞと徐々そろ〳〵九助を引立れば藤八お節は何分なにぶんにもと挨拶あいさつなし兩人は九助を見送るに九助も此方を振返ふりかへり互ひに見交みかはす顏と顏これ今生こんじやう暇乞いとまごひと三人が涙は玉霰たまあられ見送り見返り別れけり藤八は我と心をはげまして宜々よし〳〵お節是からは御家老邸からうやしき駈込かけこんで藤八が命をまといま一度御願申て此公事を引繰返ひつくりかへさで置べきや然樣さうぢや〳〵と立上るを私もともに命をまととお節もつゞいて立上り是非ともお願ひ申た上お聞入きゝいれのない時は御家老樣の御玄關げんくわんで其儘した喰切くひきりつゝ死して夫の身代みがはりにと云ば藤八打點頭うちうなづきオヽよく云た其くらゐ度胸どきようすゑねば裁許さいきよは破れぬサア〳〵來いと出立る機會に此所へ息せきと島田宿なる問屋場とひやばの五助といふかけ來り大汗おほあせたら〳〵コリヤ藤八殿々々々名主樣より至急用しきふようの御手紙早々御歸りなされましと聞て藤八何事なにごと状箱じやうばこ取上とりあげ開き見れば

急使きふしを以啓達けいたつせしめ候豫々かね〴〵道中御奉行樣御ふれ有之候將軍代替だいがはり御巡見使じゆんけんし松平縫殿頭まつだひらぬひのかみ梶川かぢかは庄右衞門樣御先觸さきぶれ參り來月らいげつ中旬頃ちうじゆんごろ止宿ししゆくの由に御座候尤も此度は先々の御巡見とは違ひ格別かくべつに御ねんも入公事訴訟くじそしよう其外奸曲かんきよく私欲しよくの節も御糺明きうめい有之に付所々より願ひ出候者も多く御手間取成れ候由故道端みちばた譜請ふしん宿割等やどわりとう申付候之に依て貴樣きさま早々さう〳〵歸宅きたく致さるべく候以上

四月廿四日
名主  儀右衞門
問屋  六郎右衞門

水田屋藤八殿

と讀上しが此藤八は旅籠屋はたごや肝煎と言宿人足の世話をもしける故是は又惡い處へ御巡見ごじゆんけんハテ急に歸らねばならずコレ五助や御巡見樣は山向やまむかうかハイ藝州の御飛脚おひきやくの噺には櫓澤やぐらざは通りが一昨日頃で有うと申ましたときいて藤八ハテ御巡見ごじゆんけん街道かいだう櫓澤やぐらさは竹の下スリヤ今頃は沼津吉原富士の根方邊と手を組で思案しあん容子成ようすなりしがはたと横手をうち是お節願うてもなき幸ひが出來たぞ嗚呼あゝ是が矢張やつぱり天道樣の御たすけぢやヤレ嬉しやかたじけなやサア己と一所に來やれと云どお節は合點がてんゆかずデモマア九助が切れる故御家老樣へとなかばもいはせずナニ願ひも糸瓜へちまも入ものかと云節お節は未だ解せずデモ爪印つめいんが濟だ上は捨て置たら夫のいのちそれ御駕籠おかご駈付かけつけてと藤八一人呑込でお節を急立せきたて連行つれゆくにぞお節は一向樣子が解らず父樣とゝさま何處へ行のだと不審の顏に藤八はハテ知れた事今度の御巡見じゆんけん使は上樣の御代替りの御名代云ばむかし最明寺さいみやうじ諸國の善惡ぜんあく聞糺きゝたゞす爲にと御座る御役人九助が事を御駕籠訴おかごそゆくか行ぬか天下の吟味かなはぬ迄も願つて見ん夫で行ねば是非もないをつと大事だいじと思ふなら己と一所に願ひ出よと聞てお節は飛立とびたつ思ひ夫なら父樣寸時ちつとも早ふ御駕籠訴とやら云事をイヤサ何も彼も己にまかせて一しよに來い細工さいく流々りう〳〵仕上しあげを見やれサア〳〵早く支度してと云にお節も一生懸命しやうけんめい村役人へあづけの身なれど跡は野となれ山坂を足に任せて走り行相良の城下を放れつゝ夫九助が命乞いのちごひと思ふ計りの力草ちからぐさ島田宿迄一息に來りし頃は夜も戌刻いつゝ水田屋へこそ着にけり


第九回


 かくて藤八はお節を同道どうだうして島田宿の我が家へ歸り宿場しゆくば用向ようむき萬事の儀は弟岡崎屋藤五郎へ頼みおき寄場よせばへ人を走らせ雲助がしら信濃しなのの幸八を呼寄よびよせ駕籠かごちやう人足三人づつ尤も通し駕籠なれば大丈夫だいぢやうぶな者をといふに幸八は委細ゐさい承知しようちなしシテ又親方何處迄どこまで御出ときくに藤八はさればサ先はしかと知れぬが大概おほかた箱根前後ぜんごぐらゐと思へばよしと云を聞て幸八は心得こゝろえ其夜の中に部屋へやからえらんで呉服屋の六團扇うちはの源入墨いれずみ七箱根傳助小僧の吉品川の松などいづれも當宿のうでこき六人からだへは赤合羽あかがつぱ羽折はをり各自向ふ鉢卷はちまきをなしこしはさみしは叺莨入かますたばこいれ手には竹の息杖いきづゑたづさ曉寅刻あけなゝつに皆門口へ來て親方御支度はよしかと大聲に云ば水田屋の家内かないは立出是は御苦勞々々々今旦那だんなは御出なさると云中藤八出來りしが先其打扮いでたち紺縞こんじまの上田のあはせ紺紬こんつむぎ盲縞めくらじまの羽織こひ納戸なんどの半合羽を着鮫鞘さめざやの大脇差わきざしを帶しさらしの手拭を首に捲付まきつけ門口へ出て何も太儀たいぎ今度は此の藤八が一世一代命をまとの願ひすぢ娘を連てゆかねばならぬ近くて沼津ぬまづ三島みしまとほくて小田原大磯おほいそなり夫迄は行まいが太儀たいぎながら手前たちせい出してくれ骨はぬすまぬと云に雲助共聞て口々に何親方の事だからかういふ時にでもほねをらずば何時恩を返すときが有うナアと云時下女があつがんの酒と茶碗を持出もちいだせば雲助どもは是は有難う御座りますと手ん〴〵に五六ぱいヅツひつかける所へ藤八ソレさかな銘々めい〳〵に金二分づつやるに雲助はイエ親方是は入やせんと辭退じたいなすを馬鹿を云なさかななくのまれるものか又骨折は別だぞと云中お節も出來たるに女房娘を始めとして皆々かどへ送り出風呂敷包ふろしきづつみは駕籠に付サア〳〵急いでやつくれと云に何れも合點がつてんと二ちやうの駕籠を舁上かきあげれば御機嫌能ごきげんようと一同に見送る中に女房は呉々くれ〴〵お節が頼み事首尾能しゆびよく成就じやうじゆなす樣にと云に藤八莞爾につこと笑ひ其處そこぬかりが有者かと夜明烏よあけがらすもろともにぐらを放れゆくそらは花の島田をうしろになしいそぐに瀬戸せと染領そめりやうきよき小川を打渡り心は正直しやうぢきぺんの實意ぞ深き洲崎村すさきむら五里の八幡やはたも駕籠の中祈誓きせいこめし櫻山めぐふもとに風かほる時は卯月うづきの末の空花の藤枝ふぢえだはや過て岡部に續く宇都うつの山つたの細道十團子とほだんご夢かうつゝにも人にもあはぬ宇都の谷と彼の能因のういんが昔を今にふりも變らぬ梅若葉鞠子まりこの宿を通り拔阿部川あべかはにこそ來りけれ藤八お節の兩人は傍邊かたへの茶屋へ駕籠をおろさせ暫時いこひながら藤八は茶屋の亭主に向ひ此度公方樣くばうさま御代替の御巡見樣ごじゆんけんさま御通りの由もう何處どこらまで御出成れたで有うと問に茶屋の亭主はハイ此間からのさわぎで御座りますが未だ此邊このへんへ御出は御座りませぬしかし昨日雲州うんしう御飛脚おひきやくはなしには箱根を一昨日とやら御こしなされまして富士の根方廻はりが二三日掛ると仰られましたから今日あたりは三島で御座りませうと云を聞と等く藤八は又々それいそげと聲をかけるに雲助ども合點がつてんと駕籠舁上かきあぐれば木枯こがらしもり那方あなたに此方なる賤機山しづはたやまを心指て行手は名に負駿河の府中午刻まひるも過て巴河ともえがはおとにぞ知るゝ濱續はまつゞき清水久能くのうは右の方は左にとりて富士見山しげる夏野の草薙くさなぎの宮を力に伏拜ふしをが江尻えじりの宿や興津川おきつがは薩陲峠さつたたうげは七ツ過手許てもとくらき倉澤のあひの建場を提灯つけ由井の宿なる夷子屋えびすやに其夜は駕籠を舁込かきこんだり斯て藤八宿屋のあるじ委細ゐさいの樣子を聞くに今宵は原の御泊なりと云に漸々やう〳〵心も落付おちつき夫より願書を認め是お節明日中には御巡見樣ごじゆんけんさま方へ御願ひ申上るにより必ず氣を大丈夫に持申上る事を能考へ置と云ばお節は彌々いよ〳〵打喜びまことに何から何まで厚い御世話有難う御座りますと言けるが終夜よもすがらも遣らず心せくまゝ一番どりなくや否や起出つゝ支度調へ藤八諸共もろともあけ寅刻比なゝつごろより宿屋を乘出し蒲原かんばら驛外しゆくはづれにて夜も明渡あけわた辨慶べんけい清水六代御前松並木も打越て岩淵いはぶちの渡りに來り暫時しばし休息なしやがて富士川の逆卷さかまく水も押渡り岩をもとほ念力ねんりきの岩手の村や四日市見上る方は富士の峯をつといのち取止とりとめ鶴芝つるしば龜芝青々とよはひぞ永く打續き麓の裾野すその末廣く天神山や馬場川口柴橋しばはし大宮木綿島もめんじま吉原じゆくも打過て日脚ひあしも永き畷道なはてみち未刻ひつじさがりに來懸たり斯る折から遙か彼方より露拂ひ右左に立下に〳〵笠をとれ馬の牽綱ひきつなつめよとせいし來れるは將軍家御朱印ごしゆいんいれの長持なり藤八は未だ御巡見使ごじゆんけんしの來らるゝとは思はぬ故傍邊かたへ馬士まごむか何方樣どなたさまの御通行ぢやと問に馬士は打笑ひ是を知られぬか御順見樣ぢやはやおろさツしやれと云を聞藤八は何御順見樣ごじゆんけんさまぢやヤレ嬉しやと駕籠からころげ落ぬばかりに下立おりたちコリアお節サア〳〵おれと一所に此方に居やれと道の傍邊かたはらに兩人跪居つくばひゐる中麻上下を着せししゆく役人ども先に立下に〳〵と往來の者を制しながら來るに程なく正使せいし御目付代御使番高二千石松平縫殿頭殿先箱さきばこ赤熊しやくま二本道具徒士かち小姓こしやう馬廻り持槍は片鎌の黒羅紗長柄ながえ簑箱みのばこ對箱つゐばこ草履取引馬鞍覆くらおひは黒羅紗丸につた紋所もんどころ引續いて公用人給人其外上下七八十人萬石以上の格式かくしきなり副使ふくしは御勘定梶川庄右衞門殿槍挾箱長柄其外引揃へ行列正しく通行あるに藤八は夫と見るよりかねて用意の訴状そじやうを青竹にはさみ往來の傍らに平伏なし大音上で願ひ上ますと青竹を差出せば松平縫殿頭ぬひのかみ殿駕籠を止めよと聲をかけらるれば駕籠脇かごわきの侍士石井彌兵衞右の訴状を受取り駕籠かごの中へ差出すを縫殿頭殿一通披見ひけん致され彌兵衞兩人を是へよべと申さるゝに彌兵衞はかしこまりコリヤ兩人共近ふ出よとの指揮さしづに隨ひ藤八お節ハツと進みて平伏す時に縫殿頭殿コレ彌兵衞其所そこにて樣子をきけと願書を渡されしかば彌兵衞は左の手に願書を持ちながら跪踞つまだち其方儀は願書のおもてある通り當國島田の藤八と申者か又夫なる女はと問に藤八ハツと答へ是は私が養女節と申者にて遠州榛原郡はいばらごほり相良領さがらりやう水呑村九助妻なりと申立れば縫殿頭殿是をきかれ其方共顏を上よと有しに兩人は恐る〳〵少しかほあぐる時駕籠のりものの中より熟々つく〴〵と見らるゝに(此時は所謂いはゆる誠心せいしん虚實きよじつ眞僞しんぎおもてあらはるゝを見分る緊要きんえうの場なりとぞ)兩人は氣をつめひかへながら願書御取上の有無うむは如何や又とがめにてもかうむる事と心配し居しにやがて縫殿頭殿彌兵衞を呼れ兩人が體を見るに僞らざる樣子自然しぜん面にあらはるゝにより願書の趣き一通り糺明たゞしつかはせといはれ駕籠をと有に徐々しづ〳〵乘籠のりもの舁出かきいだすにぞ彌兵衞は跡に殘り其方どもの訴状御取上げ是ある間今夜の御本陣ごほんぢんは吉原じゆくなるにより汝等同所に到り下宿して御沙汰を相待べしと申渡すを兩人ハツと鰭伏ひれふすとき彌兵衞は吉原驛の役人を呼あれなる兩人の者共今宵こよひ御吟味のすぢ有之に付其方共に屹度きつとあづくる間願人共を粗略そりやくに致すなと申渡し其まゝ駕籠に追尾おひつきけりされば藤八はヤヽ御取上下さると歟ハヽア有難や嬉しやと涙を流し頭を大地へ摺付々々すりつけ〳〵伏拜ふしをがめばお節も餘りの嬉しさにウンと後へ仰向反のけぞりまゝしばし正氣を失たり

俚諺ことわざとみを取て目を廻し身代に苦みし者漸々やう〳〵金のつる有付ありつきヤレ〳〵嬉しやと思ひ病氣付事あり是心のゆるみより出るとかや茲に畏くも 人皇百九代 後水尾ごみづのを天皇には至て和歌を好ませられ後々のち〳〵三十六歌仙かせんを御えらみ遊ばされし事あり此事の人の知る所なり時に元和げんな九年徳川二代將軍家御上洛じやうらくあられしかば京都の繁華はんくわ前代未聞ぜんだいみもんなり然るに其年の十月頃時の關白くわんぱく二條左大臣殿の諸大夫しよたいふにて取高とりだか七石二人扶持ふちなる河島伯耆守かはしまはうきのかみと云る人或日あるひ只一人祇園ぎをんの社へ參詣なし祇園豆腐どうふと云を賣る家に立寄しに一人の女早々さう〳〵ぜんを持出いざ御上り成れましと出す時その女

ゆきならばこずゑにとめてあすやんよるのあらしのおとばかりして

えいじける故流石さすが公家くげ侍士さふらひ感心しこし墨斗やたてを取出し今一度ぎんじ聞せよと云に女は恥らひし體にて口籠くちごもるを河島其方そちの名は何と云ぞと聞に女はヘイかぢと申ますと答しかば夫より河島立歸り二條殿へ右の歌を差上しに二條家御感ぎよかんの餘り其まゝ奏聞そうもんなし給へば賤敷いやしき女にもかゝ風流ふうりう有けるよと即座そくざに御うた所へつかはされ歌仙かせんくはへさせられ又北面ほくめん北小路きたこうぢ從五位下東大寺とうだいじ長吏ちやうり若狹守藤原保忠わかさのかみふぢはらやすたゞ 勅使ちよくしとして祇園へいたり 勅使なりと聲を掛ければ茶屋にては吃驚びつくりなし狼狽うろたへ廻るを 勅使は此家にかぢと申女る由此所へいだしませいと云るゝに彌々いよ〳〵仰天ぎやうてんしながら何事やらんと漸々やう〳〵連出しかば 勅使は其方は冥加みやうがかなひし者かな汝が詠歌えいか殿下でんかへ相聞え其上 當吟たうこんの 叡覽えいらんそなへられし所名歌めいかなりとて仙歌へ御くはへ遊ばされなほ又 叡感えいかんの餘り 御宸筆しんひつを下しおかる有難く頂戴ちやうだいせよとはこを出せばおかぢは押戴おしいたゞき拜見はいけんして涙を流し斯るいやししづ腰折こしをれも和歌のとくとて恐多おそれおほくも關白殿下くわんぱくでんかへ聽えしも有難さ云ん方なきに況てや十ぜんじようの君より御宸筆しんぴつとはと云つゝ前へがツくり平伏へいふく致すと思ひしに早晩いつしか死果しにはてたりしとぞ依て遺骸なきがら洛外らくぐわい壬生みぶ法輪寺ほふりんじはうむり今におかち女のはか同寺どうじにありて此和歌わかのこりけるとかや

然ばお節が目をまはせしとて大騷動おほさうどうとなり人々立騷たちさわぐにぞ縫殿頭ぬひのかみ殿是を聞れ女が心底しんていを感心有て印籠いんろうの中なる氣付を出し駕籠脇かごわきの者に渡され立歸りて是を與へよとありしにぞ駕籠脇かごわき侍士さふらひもどりて彼のくすりを與へしかば藤八は押戴おしいたゞ重々ぢう〳〵有難き仕合なりとて宿役人倶々とも〴〵介抱かいはうなせしに漸々やう〳〵氣の付ければしゆく役人同道にてすぐに吉原じゆく伊豆いづじん助方へいたり本陣の御沙汰を今やおそしと待居たり既に其暮近くれちかき頭一人足輕あしがる八ツ字蔦じつたと云字の目引めひきこん看板かんばんたる者を連て伊豆屋へ來り藤八お節同道どうだう致すべしと云渡せば兩人は驚破すはやと悦び宿役人同道して本陣の勝手かつて口へ廻り右の段を申こみけるにやゝあつて是へ通せと有ければ本陣の次の縁側えんがは先へ兩人を呼出す此時正面しやうめんには松平縫殿頭ぬひのかみ殿少し下りて右の座へ梶川かじかわ庄右衞門殿次には公用人こうようにん櫻井文右衞門田村治兵衞此方には川上さだ八石川彌兵衞浦野うらのもん兵衞縁側際えんがはぎはには足輕あしがる五六人非常ひじやういましめ廣庭ひろにはには吉原宿名主問屋本陣ほんぢん組頭宿役人並居たり公用人櫻井文右衞門兩人が願書ぐわんしよを以て入側いりかはに進み出島田宿藤八同人養女節とよぶ時用人ハツと平伏なすを見て其方共儀遠州水呑村名主九助と申者の身分に因て今日御駕籠訴かごそに及びし段御取上とりあげに相なりしは今度上樣御代替だいかはりに付御仁政じんせいの始め諸國へ御巡見使じゆんけんしを相立てらるゝは御りやう私領しりやうとも忠信孝義かうぎの者を見いだし且つは其所の役人自然しぜん私欲しよくすぢ等之れあり下々の者難澁なんじふ致す向もあらば夫々御糺明きうめい仰付おほせつけらるゝ御趣意しゆいなり依て上樣御目代もくだいとの仰を蒙り駿すんゑんの四ヶ國の巡見使じゆんけんしとして松平縫殿頭罷越まかりこせし處なり然ば其方共願ひの筋江戸表へ御差出に相成天下の御評定ひやうぢやうにも相成に付願書の趣き一通り御吟味ぎんみ有之により有難く存ずべしとの仰にけり扨是より一通り糺問たゞしの上藤八お節の兩人江戸表へ差立さしたてとなりたり


第十回


 それにんずるに其人をえらめば黜陟ちつちよくあきらかにして刑罰けいばつあたらざるなくまことに百姓をして鼓腹こふく歡呼くわんこせしむことわざに曰其人を知らんと欲すれば其の使つかふ者をよと故に八代將軍吉宗よしむね公は徳川氏中こうの君とたゝへ奉つる程の賢明けんめいましませば其下皆其にんかなはざるなく今般の巡見使松平縫殿頭ぬひのかみ殿も藤八お節が訴訟うつたへを一もくして其事いつはりならざるを知り即夜そくや旅館りよくわん呼寄よびよせ一通り糾問たゞしに取掛られたり然れば藤八お節の兩人は願ひのおもむき御取上とりあげに相成し事まことに有難き仕合しあはせなりとなみだを流し平伏してぞ居たりける時に縫殿頭ぬひのかみ殿公用人櫻井文左衞門藤八に向ひ夫なる節と申女は如何なる身分の者にて其方養女に致せしぞと申すに藤八つゝしんでおもてを上げかれは當阿部川驛あべかはじゆくの勘五郎と申百姓の娘にして右勘五郎さいてうと申者は私し妹に候へ共實はめひつゞきにまかりなり候然る處同人儀幼年えうねんの頃より不仕合ふしあはせの者にて五歳の時ちゝ勘五郎にわかれ母てうが手一ツでそだてし處九歳のはる又母てうしやうに相成候て幼少の身にて日々往來わうらいの人にわづかの物をあきなひ其餘力よりよくを以て母をやしなひ居候に付私し如何にも不便ふびんに存じ親子共引取べき旨種々しゆ〴〵申聞候へ共今更厄介やつかいに相成候は不本意ふほんいなりとて聞入申さず五ヶ年の長病ちやうびやうを只一日の如く甲斐々々かひ〴〵しく看護みとり仕つりし其孝行を土地ところの人も聞傳きゝつたへてほめ者にせられしが遂に其甲斐かひなく十四歳のみぎり右母病死びやうし仕つり他にたよるべき處もなきにより夫より節を私し方へ引取し事なりと申せば文左衞門ムヽ扨はめひの事故むすめに致して九助方へ縁付えんづけつかはしたかと申に藤八は仰の通りなれども夫には因縁いんえんの御はなしあり右節事母てう介抱かいはうの中十歳のとき勾引かどはかされ既に何國いづくへか連られべき處九助儀江戸表出府しゆつふの節其場所を通り合せ此難儀なんぎを救ひつかはし其夜節方へ一宿仕つり艱難かんなんていと孝心の程を感じ九助よりぜに一貫文つかはして翌朝よくてう九助は江戸表へ出立いたせし由其後節儀せつぎ私し方へ引取し處段々だん〳〵其節の事共を物語り今一度其人にあひれいを申たきよし日來ひごろ申居しに夫より五ヶ年を相たち私しは日蓮宗にちれんしう故十月會式ゑしきに甲州身延山みのぶさんへ參詣のもどり瀬戸川迄歸り來りし時盜賊たうぞく出會であひし旅人難儀なんぎてい故見兼まして其盜賊たうぞく追散おひちらし私し儀さいは旅籠屋はたごやの事に付右の旅人を連戻りとめをり是なる節は其旅人を見るより吃驚びつくり致し此が以前の恩人おんじん水呑村の九助なりと申により私しもほかならず思ひ段々だん〳〵うけたまはるに九助儀大金を持參ぢさん致し居る由故翌日よくじつ送り屆け度と存候處私し儀よんどころなき宿の用にて同道致しかねるに付無用心ぶようじんゆゑ金子は私しあづかかれへは日蓮上人の曼陀羅まんだらを渡し置右を證據しようこに持參致さば金子は引替ひきかへに渡すべき約束仕つり九助は歸宅きたく仕つりしなり其譯は私しの宿より九助村方迄は六里程の行程みちのりにて大井河原がはらつゞきゆゑ甚だ街道物騷ぶつさうに存じ昨日の如く途中とちう盜賊たうぞくにも付られなば如何いかゞ故村方へ立歸り親類共にても兩三人同道どうだうにて來らば大丈夫ぢやうぶと心得斯の通り取計ひしと申ければ文左衞門シテ其金は何程にて其とゞこほりなく九助に渡せしやと問に藤八は然ばにて候其金高は百八十兩にて其翌日九助が親類なりとて周藏しうざう喜平きへい次と申者兩人彼の曼陀羅まんだら持參ぢさん仕つりし故引替に渡し遣せし處其日の未刻頃やつどきごろに九助私し方へ參り昨日あづかり歸りし大切たいせつ曼陀羅まんだら紛失ふんじつ致し申譯なき仕合せなりとて如何にも當惑たうわくの體に申故其曼陀羅まんだらは先刻親類しんるゐの者持參致しあづかり金と引替ひきかへ手前へしかと請取まで取置とりおきし趣き申聞候と云を聞文左衞門は夫は親類と申て請取に參つたは僞者にせものだなと云に藤八は御意ぎよいに御座ります因て私し九助と計略はかりごと示合しめしあはせ九助歸國きこくいはひと申振舞ふるまひを致させ村中の者を呼寄よびよせ私しひそかに參りて見まするに周藏と名乘りしは村の名主源藏又喜平次と申せしは右名主の手代源藏と申者にてさてこゝに不思議な事は渠等かれら二人が戻りし後に三とくおちてありしが其中に九助のさいさとと申者九助が留守中るすちう名主惣内と密通みつつう致し曼陀羅まんだらぬすみて同人へ送り彼の金をかたり取其後村方を出奔しゆつぽん致す申合まをしあはせのふみありしにより私し是を以て九助の證人しようにんとなり右の金子を取返とりかへし候處九助妻と申者は九助の厄介やつかいになり居る伯父九郎兵衞の娘にて九助とは從弟續いとこつゞきに候と云ば文左衞門はハテサテ込入こみいりし儀ぢやなと言を藤八は又語を繼ぎ其上九助伯父九郎兵衞と申者も名主惣内母後家ごけ密通みつつう致し居り尋常なみ〳〵ならぬ中ゆゑ親類ない相談さうだんの上にて里へ金五十兩付て離縁りえんいたし其後惣内と夫婦に相なり伯父九郎兵衞も介抱かいはう人と名を付惣内母へ後家入夫にふふ這入はひりしなり又九助の親類共は私しめひ節を九助の妻に致し度段相談仕つるにより一方ならぬ深きえんと存じ私し養女に致し同人方へつかはせしなりと事細密こまかに申ければ文左衞門は委細ゐさい相別あひわかりたりとて夫よりお節に向ひ其方只今藤八が申通に相違無かと云にお節はハイ相違は御座りませぬと申時文左衞門シテ此度九助が難儀なんぎと云譯は人ごろし科人とがにんとて無實の罪に陷たる趣き願書ぐわんしよに見ゆるがなほ口上こうじやうを以て委敷くはしく申立よと有る藤八はひざを進め右惣内名主役勤中つとめちう押領あふりやう彼是かれこれ宜らざる儀之ある旨小前こまへ百姓一同より申立により名主退役たいやくと相なり猶村中相談の上九助儀を惣内跡役あとやくに御領主樣へ願ひ出九助儀名主役仰付られ相勤居候處當三月十九日夜下伊呂村大井河續きの河原に於て右惣内夫婦何者の爲に切害せつがいせられしか二人共に首は切て取かくどうばかり殘り居りしを伯父九郎兵衞惣内の母諸共はゝもろとも九助が仕業しわざなりと訴訟うつたへ出しに依て召捕めしとられ晝夜拷問がうもんつよきにより九助は是に堪難たへがたおのれとがならぬ事を身に引受無理むり白状はくじやうに及びしかば終に口書こうしよきはまつめ印も相濟あひすみ明日頃御所おきに相成由ゆゑかく火急くわきふに願ひ奉つると申立るを縫殿頭殿ぬひのかみどの先刻より熟々つく〴〵聞居られしが頓てひざを進められ夫は何か仔細しさいの有さうな事シテ然樣に拷問がうもんに掛るには何か證據しようこがなくてはならず何ぞのがれ難き證據にても有しやとたづねらるゝに藤八つゝしんで答ふる樣先月二十日は節が實母じつぼの七年祥當なるにより大井川の東上新田村と申處にたふと御僧ごそうが在る故何卒母の供養くやうを頼み度と夫九助に申せしに九助も姑の事に付金谷村より歸りし草臥足くたびれあしをもいとはず自身にゆふ申刻過なゝつすぎより右の寺へ參る其夜亥刻近よつどきちかき頃たくもどり來る途中しも伊呂村の河原にて死人につまづきたれども宵闇よひやみなれば物の文色いろわからず殊に夜陰やいんの事故氣のせくまゝ早々宿やどへ戻りて其夜は打臥うちふし翌朝かどの戸をあけ候節衣類のすそに血の付居しを妻せつが心付如何なる事ぞと申せしに九助も驚き昨夜河原かはらにてつまづきしが酒にゑひし人のたふ伏居ふしゐる事と思ひしに怪我人けがにんにてもありしかとかたり居し時九郎兵衞が案内にて領主りやうしゆ捕方とりかた入來り有無うむいはせず召捕入牢じゆらう申付られしに依り私ども大に驚き段々だん〳〵樣子をうけたまはり候へば九郎兵衞夫婦田地でんちを質にいれ金子を役人しうつかはしたと申事是は人のうはさなればしかとは申上兼れ共九郎兵衞夫婦の者はなはあやしく存じ候と事細密こまか長々なが〳〵と申立ければ縫殿頭殿ぬひのかみどのにはシテ其法事を頼に參りし寺の名はなにと申又其事がらを申立なば定めし其和尚をしやうをも呼出よびいだし九助が寺へ參りし刻限こくげん歸宅きたく時刻じこく等も取たゞしありしならんと申さるゝに藤八されば其儀を九助より度々申立ると雖役人衆一向いつかうあげも御座なく只白状はくじやう致せ〳〵とのみ日々拷問がうもん嚴敷きびしく何分苦痛くつうたへかね候に付餘儀なく身に覺もなき人ごろしの趣きを白状致せしと此所に居る節と私へ九助より申しましたと云時お節もかうべをあげたゞ今藤八が申上し通りゆゑ夫のいのちを何卒御助け下る樣にと申に縫殿頭殿コリヤ其方ども九助入牢中じゆらうちうどうしてあひはなしを聞きしぞよもや白洲で話したでも有まいと尋ねられしかば節はハツとふさがり只もぢ〳〵して居る故藤八は又進みいで右の一件は一昨日御慈悲おじひ願ひに節を召連れ領主役場の腰掛こしかけへ參りしとき九助は爪印つめいんすみに成とて腰掛のかこひの中に居し故實は下役人へ少の贈物おくりものを致し其人の心入にて腰掛こしかけの小かげで此世の暇乞いとまごひを致せとてあはせられ其せつ委細ゐさいうけたまはりし儀にて既に御所刑も獄門ごくもんとか申事なれば只今頃九助は何なりましたか何卒して助けつかはし度此段ひとへに願ひ奉つると如何にも火急くわきふ歎願たんぐわんに聞ゆれども未だ盡さゞる所あるにより縫殿頭殿はなほねんおされ其方最初さいしよ九助江戸奉公中に百八十兩と云大金をたくはへたと有が右は如何樣の儀で貯しぞと申さるゝに藤八其儀うけたまはりし處江戸駿河するが町の町内抱へ番人を相勤あひつと店先みせさきにて小商こあきなひ仕つり千しん萬苦致して貯へし由申聞しなりと云ふに松平殿なるほど町内の番人などと云は隨分ずゐぶん金の出來る者と聞込んだがわづか五年ばかりの中に百八十兩とは餘り大金たいきんの事ならずやと有にお節は其儀は九助が毎度話しますには金八十兩町内におとし物が御座りしとか其落主が知れませぬ故御奉行ぶぎやう樣へ訴へました處其後も落し人が出ませぬにより大岡樣とやら申御奉行樣より拾ひ主九助は正直者しやうぢきものとの御ほめの上右の金子きんす八十兩を其儘いたゞきしが其節も何か種々いろ〳〵と取込だ事が御座りしとか申事其後歸國の節越後屋ゑちごやとやらから金二十兩程貰ひ町内地主樣家主樣から十兩ヅツ貰ひ自分がたくはへし金も四五十兩餘にて其ほか町内の方々より餞別せんべつおくられ都合百五十兩程に成しとの事成と云に縫殿頭殿ぬひのかみどの如何樣藤八其とほりに相違無かと申されしかば藤八其儀は節が只今申上し通り毛頭もうとう相違は御座なく何卒御慈悲じひの吟味願ひ奉つると申時縫殿頭殿副使ふくし梶川かぢかは庄右衞門殿に向はれ御聞なされたとほり渠等かれらが願ひのおもむき相違なく聞こゆるによりとにかく領主の所置を差止置此段江戸表御老中方へ早々御用状ごようじやうにて申つかは公邊かみの御裁許さいきよに任せ候方よからんと存ずるが如何やと有るに梶川氏も同意の趣き申さるにより縫殿頭殿ぬひのかみどの又藤八お節に向れコレヤ藤八節兩人の者此度江戸表へ差送り天下の御吟味に成る間然樣相心得一まづ下宿へ下りひかへ居れと申し渡されければ兩人はハツと平伏しよろこび涙にくれたりける夫より松平殿まつだひらどのは給人竹中直八郎を呼出よびいだされて其方は江戸表へ兩人を同道どうだうなしやしき連參つれまゐ御用状ごようじやうを御月番の老中方へ差出し御下知次第掛の奉行へ兩人を引渡し候上ふたゝ旅行りよかう先へ來るべしと申付られ又給人牧野まきの小左衞門を呼出され其方は早追はやおひにて遠州相良さがらへ參り長門守ながとのかみ用人共へ此書状を相渡すべし是は水呑村百姓一件江戸表へ差立さしたてふたゝび吟味に相成事故此方より遣す書状いなは申さぬ筈なれども本人の爪印つめいんすみ候などと難澁なんじふ間敷まじきにも非ず其節は此儀をこばめば主人長門守爲にも相成あひなるまじき段屹度きつと申渡しかつみぎかゝりの諸役人迄のこらず迅速すみやかに出府致す樣に申渡すべし早々急げと云れしかばかしこまり候とて牧野小左衞門は吉原宿じゆく役人に早駕籠はやかごちやう申渡し其夜の子刻過こゝのつすぎに吉原宿を乘出のりいだ相良さがら城下じやうかへと急ぎけり


第十一回


 こゝに又水呑村の百姓三五郎は主人九助が無實の災難さいなんのがれさせんと種々工夫くふうをなしけれども領主の役人共勿々なか〳〵取上げなく却て當時村あづけの身となりしかばいとゞ殘念ざんねん至極に思ひ此上は神佛しんぶつ應護おうごに非ずんばのがれ難かるべしとて一七日の間荒行を始め晝夜ちうや共に六ツ時に水垢離みづこりを取て鎭守へ百度參りを致しける其七日の滿まんずる日の暮方くれがた山の上よりしてさつ吹下ふきおろす風に飄然と眼の前に吹落ふきおとす一枚のふだあり手に取て見るに立春りつしゆん大吉だいきち護摩祈祷ごまきたう守護しゆご可睡齋かすゐさいと記したれば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋かすゐさいと云ば東照宮とうせうぐうより御由緒ゆゐしよある寺にして當國の諸侯しよこうも御歸依寺也因ては可睡齋へ參り委曲くはしき事を話し實意を打明うちあけて御願ひ申なば命乞いのちごひの事かなはぬ儀は有まじ然なり〳〵と其儘駈出かけいだして見付驛なる可睡齋かすゐさいの臺所へ駈込かけこみ三五郎は手をつき何卒御住持樣ぢうぢさまに御目通りを願ひ度と云けるに役僧やくそうは其方は何者なるやととふに三五郎ハイ私しは相良領水呑村の百姓三五郎と申者御住持樣へぢきに御目通の上御願ひ申上度儀御座るにより參りしなり何卒なにとぞ執次下とりつぎくださるべしと申ければ役僧はおれに申てもわかるものを百姓の分際ぶんざいとして御ぢきに申上たしなどとは無禮なりと少しいかりをふくみて汝は當山を何と心得居る駿すんゑんさん三ヶ國の總祿所そうろくしよ八百ヶ寺の觸頭ふれがしら寺社奉行直支配の寺なるぞ其住職そのぢうしよく大和尚おほをしやう直談ぢきだん致などとは不屆至極なりと云に三五郎はいや夫は御前樣の仰なくとも承知で御座る寺社じしや奉行樣の御直支配は扨置さておき假令たとへ宮樣みやさま御門跡樣でも御願申上からは御あひ下されぬと云儀ははゞかりながら御座るまじ御釋迦樣しやかさま淨飯王じやうはんわうと云天子樣の御子なるが世を御すくひの爲なれば惡病人あくびやうにんは勿論五十二類の者迄にも御教化けうげ遊ばされしと承りしと云に役僧は益々ます〳〵いかり其方は高慢かうまんの儀を云やつかな釋迦しやかの時は釋迦の時今の時代ときよは又今の時代なりと申を三五郎は何分承知せず然樣なら御釋迦樣しやかさまの時は極樂ごくらくやり今の時代は地獄へ御引導いんだうなされますかはゞかりながら出家しゆつけの御身分は何と御心得こゝろえなされますぞと顏色かほいろかへて言ひければ役僧はおのれ不屆至極ふとゞきしごくな奴なりおのれは大方ゆすかたりに相違は有まいコリヤ男共此やつ追出おひいだそれたゝき出せといふ聲を聞より下男共は手に〳〵棒縢ばうちぎりたづさへて追立んとすれども三五郎は少しもさわがずたゝくなら勝手かつてたゝかつせい何を以て出家の口から私をゆすりだのかたりだのとは云つしやる昆虫むしけら迄も殺さぬを殺生戒せつしやうかいとは申さずや罪なき一人の百姓を打たゝかんとは出家に似氣にげなき成れ方お釋迦樣は親をころしうを殺す五ぎやく罪人ざいにんでも濟度さいどなさるゝに此御寺を見込て御願ひに參りし土民どみんの申事を御聞いれなき時は是非におよばねども兎に角和尚樣をしやうさまに御目に掛り一とほり願ひ上げかなはぬ時はかへる分の事私より決して手出は致さぬと云つゝ其所に居しこるにぞ弟子でし番僧ばんそう立騷たちさわぐを方丈はうぢやう聞かれ何事なるやとたづねらるゝに水呑村百姓三五郎と申者御逢を願ひ度と申いでしが百姓の分際ぶんざいにて御ぢきに御目通りは叶ひがたしと申せしかばかくの仕合なりと言に方丈はうぢやうは其者是へとほせと申さるゝゆゑ侍者じしやの坊主立出たちいでコレ各々方おの〳〵がたしづまられよコリヤ百姓和尚樣をしやうさまあひなさるゝに因て此方へ通るべしと言を聞て三五郎是は有難しと後について大方丈を通拔とほりぬけ鼓樓ころうの下をくゞりて和尚の座敷の縁側えんがはまかり出平伏なすに此時可睡齋かすゐさいは靜かにころもの袖をかき合せながら三五郎を見遣られ相良領さがらりやうの百姓三五郎とやら愚僧ぐそうへ如何なる用事あつて參りしぞと尋ねらるゝにぞ三五郎はハツと答へ最前さいぜんより無禮の儀ども申上しを御咎おとがめもなく却て御目見めみえ仰付おほせつけられし事冥加みやうが至極しごく有難き仕合しあはせなり方ぢやう樣へ御願ひと申すは別儀べつぎにあらず私し主人儀無實の罪におちいり近々御所置に相成あひなるに付何卒御ころもの袖を御かけなされて御たすけ下さる樣に願にまかり出しと云ければ可睡齋かすゐさいまゆひそめ夫は如何樣の儀なるやといはるゝに三五郎は九助が是までの事柄ことがら一伍一什いちぶしじふ物語り右に付私し儀主人しゆじんの身代り御仕置に相成樣願しかど夫さへ御取上とりあげなければ此上は何卒貴僧あなた樣の御慈悲御情おなさけで九助が一命御助おんたすけ成れて下さらばまことに有難う御座りますと申せば可睡齋すゐさいきゝてイヤ佛道ぶつだうは人を助くるが趣意しゆいなりとて王法わうはふ有りての佛法なれば國の政事せいじに口出しはならず又役人と雖も筋道すぢみちなくして人をがいすべきや其九助と云者假令たとへたび人を殺さず共是迄に何か惡事が有か但し前世ぜんせで人でも殺したる因果いんぐわむくいなるべし然すれば何もくやむには及ばず皆是因果の歴然れきぜんなり雜法轉輪ざつはふてんりんあきらめよと言るゝに三五郎は押返し然樣さやうでも御座らんが其處そこが御出家しゆつけの役くびの座へすわる者を何卒御救ひ成れて下されよと只管ひたすらに頼みけれども可睡齋はかうべふり汝よくきけよ佛法と言共今は末法なり釋迦しやかの時代とは事かは愚僧ぐそうが如き不徳ふとくにては勿々なか〳〵有罪の者を現世げんせにて救う事は成がたし因て國法を立て是を仕置しおきす然れば及ずながら未來みらいは救ひも遣さうが現世の罪人を救う事は協はずと申さるれば三五郎は猶もかうべえん摺付すりつけ其處が御衣役御圓頂役つむりやくなれば諸役人も一了簡りうけんかはり殊には御寺格じかくと申彼是助る儀も御座らんにより何卒命乞いのちごひ成下なしくださるゝ樣ひとへに願ひ奉つる此事御聞入下さらば假令たとへ私しのからだは如何樣に相なるとも聊かもくるしからず何卒主人の一命をと涙を流し手を合せ鰭伏々々ひれふし〳〵歎くてい忠義の心ていあらはれしかば可睡齋も感心なし善哉々々よきかな〳〵汝が志操こゝろざし感心致したりちからの及ぶだけは救ひ遣はさんと云しかば三五郎はハツとばかりに平伏なし有難なみだむせやがいとまを告て臺所だいどころへ下り所化しよけへもあつく禮をのべ居たる處へ奧の方より侍僧じそう出來いできたり明日は未明みめいの御供そろひにて相良まで御出あるにより陸尺ろくしやく仲間ちうげん支度したくすべしと申渡しけるを三五郎は聞て彌々いよ〳〵身に染々しみ〴〵と有難く思ひて立歸れり時に享保二年四月廿七日今日は九助の一件落着らくちやくなし死罪しざい獄門ごくもんと相定り家老中からうぢう諸役人町役所立會の上申渡す事故本多長門守家老本多外記既に支度に及びて玄關先げんくわんさき駕籠かごよせ巳刻よつの太鼓を相待處へつゐ先箱さきばこ天鵞絨びろうど袋入ふくろいりの立傘等を持ち緋網代ひあじろ乘物のりものにて可睡齋城門へ乘込のりこみ來るゆゑ門番人下座をなしながら可睡齋樣かすゐさいさまと呼上れば執次とりつぎの者は立出て書院へ案内す可睡齋は外記に對面して時候の挨拶あいさつをはり後に九助が命乞いのちごひの趣きを申入らるゝに外記はおほせの趣き委細承知仕つり候へども既に口書こうしよ爪印つめいんすみたる上は今更致方なく候間然樣に思召るべしと云を可睡齋押返し愚僧ぐそう態々わざ〳〵推參すゐさん致し右の趣き御聞濟きゝずみ是なきに於ては退院たいゐん致すべき存寄ぞんじよりに候と思ひ入て申されけるにぞ外記は殊のほか迷惑めいわくに思ひ然樣の思召ならばまげて一等罪をかろく致すは格別かくべつ二人迄の人殺しあればとても助命の儀は相成難あひなりがたいづれ共に是より出席致し今一應吟味の上罪を一段輕く申付る樣取り計はんと申に可睡齋もやむを得ず何分にも九助が助命に相成樣あひなるやう御取計ひをば頼入候なりとあつく申おか旅宿りよしゆくなる相良の功徳寺へ引取けり斯て程なく巳刻の太鼓もなりたる故外記は役所に出けるにはや同役どうやくの中村主計かずへ用人小笠原常右衞門柳生源藏大目附武林軍右衞門物頭ものがしらには里見圖右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助かち目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行緒方をがた求馬もとめ等出席ありて足輕あしがる共は白洲を固めたり


第十二回


 さて又白洲の縁側えんがはには町奉行下役郡方手代々官迄殘らず綺羅きらびやかに居並び今日は九助に切繩を掛て引すゑ九郎兵衞夫婦村役人周藏喜平次木祖兵衞三五郎下伊呂村名主藤兵衞組頭惣體そうたい引合人殘らず罷り出村役人よりさんぬる廿四日節儀せつぎ逐電ちくてんいたせし旨屆け出一同外記げきが出席を待けるに可睡齋との掛合かけあひに依て時刻じこく延引えんいんなし漸々只今出席にて傍邊かたはらの人々へ會釋ゑしやくして上席に直りしかば松本理左衞門は進み寄九助が爪印を差出すを外記は取上げ口書を熟々つく〴〵見て九助儀かくまで白状致し口書へ爪印までなすからは聊かも相違は有まじ然れ共爪印は逆手さかてなり手をぎやくに致し押たるは怪しむべし此儀吟味をとげられしかとあるに理左衞門はまゆしわよせおほせの通り逆手さかてなれども夫はかれ手勝手にて押たるも知れず左角とかく白状が證據にて爪印はまことおきてまでなれば其邊の尋は致し申さずと答ふるにぞ外記はかうべふり否々左樣の取計は有之まじ假令たとへ白状致すとも口書爪印なければ所刑しおきには致さぬはずなり然るを白状さへなせば爪印は何でもよいと申ては爪印をおさせるに及ず是は其身の中ほねはしにて證印しよういんす事なれば爪印は輕からぬ儀ゆゑ猶一通りたゞされ然るべく存ずる也とあるにぞ理左衞門は是非なく九助に向ひコリヤ九助其方儀此程爪印の節てのひらを上へ返して押たる者と相見え爪印がさかさに成て居るはコリヤ如何の譯なりやと云ければ九助はハツトばかりにて一言の返答へんたふもなく只落涙らくるゐしづ俯向うつむいて居たるにぞ理左衞門は迫込せきこんでコリヤ何ぢや御重役方よりの御不しんなるぞおのれ何心なく押たのかたゞしゆび痛所いたみしよにても有てぎやくに押たるやコリヤ何ぢや〳〵とせき立れど九助は一向無言にて只無念むねん顏色ぐわんしよくをなし切齒はがみを爲しながら涙を流し居たりける外記は仔細しさいぞ有んと上座より聲を掛け如何に九助不分明ふぶんみやうなる爪印の致方眞實に申すべしと有しかば九助はハツとかしらを上げて家老中の席を然もうらめに見上げしが外記の方に向ひ流石さすがは御當家の御重役程有てよくこそ御尋ね下されたり實の處は人を殺したる覺えは御座らねども責苦の嚴敷故に所詮しよせん實事を申上たりとも必ず御取上はなき事と心得いつそ一思ひにきられし方が増ならんと覺悟を極め無實の罪を引受て兩人の者を殺せしと白状はくじやうは致せしなれども此身にとりて覺えなきこと故至極殘念ざんねんに存じ爪印のせつおそれながら上をうらむ心より我を忘れて逆手さかておしまして御座ると申ければ理左衞門大いにいきどほり大のまなこむき出して九助を發打はつた睨付ねめつけコリヤ〳〵其方は只今御重役の一言にのさばり若や命も助るかと未練みれんにも今となりて諄言よまひごとを申條不屆至極ふとゞきしごくなりと大聲にてしかり付外記に向ひ只今御聞の通りなれば何も仔細しさいは御座候はずと云ふを外記は否々どうやら少し吟味が殘つたかと考ると言ふ時同役の中村主計かずへ進み出否外記殿此上御尋ねなさるゝに及ばず假令たとへ如何樣に拷問がうもんつよいと申たとて身に覺えのなき者ならば白状は致すまじ然るを今此方にて不審ふしん致す詞のに付て彼是かれこれ申は可謂いはゆる引れ者の小うたとやら取に足ずと申せしかば外記も暫時しばし默止もくし居たりしを理左衞門は得たりと九助に向ひ其方は言語道斷ごんごだうだんの惡人なり先日獄屋に於て白状致せしを今又然樣さやう空言そらごとを申上ばおのれまたほねくだき肉をひしほにしても云さすぞ少しくあまことばかくれば直樣事を兩端に申立るでう不屆至極なりと勃然やつきとなりて怒るにぞ九助は二言と返答へんたふもせず居たりしかば理左衞門は家老中へむか此期このごに及んで斯の如きの始末しまつ言語同斷の曲者くせものゆゑ彌々いよ〳〵今日御所刑しおきに行ひ然るべしと申時主計かずへ點頭うなづき如何いか御法ごはふの如く申渡て宜からんと云を聞理左衞門は開き直りて高らかに

其方儀そのはうぎせん名主惣内妻さとは先妻せんさいに有之候へども一旦離縁りえん致し候上は違論ゐろん之なき筈の處右體の儀を根に持惣内へ遺恨ゐこんふくみ去る二月十九日下伊呂村辨天堂べんてんだう前大井河原に於て右惣内さと兩人を殺害せつがい致し候段不屆至極に付水呑村下伊呂村引廻の上獄門ごくもん申付る

と申渡し又水呑村先名主惣内介抱人かいはうにん九郎兵衞并に同人妻村方役人及び下伊呂しもいろ村役人共と呼時一同ハツと答ふるにぞ理左衞門は何れもへ向ひ九助儀先名主惣内夫婦に遺恨是れあり殺害に及び候段一々白状はくじやうに及びしに不屆至極しごくに付引廻ひきまはしの上獄門ごくもん仰付らるゝなり左樣存ぜよ其外の者共は不埓ふらちすぢも之なきによりかまひなしと申渡せば皆々みな〳〵ハツと平伏なし一けん引合ひきあひの者共は退きけり此時家老外記げき不審ふしんすくなからず思へども證據も之なき事故しひてもろんがたく其せきを退き可睡齋かすゐさいの旅宿にいた對面たいめんの上天下の大法たいはふやぶり難き趣きを申述あと念頃ねんごろ法養ほふやうの事を頼みける然ば無殘むざんなるかな水呑村の九助はかね覺悟かくごとは言ながら我が罪ならぬ無實の災難さいなん今更うらんで甲斐かひなしと雨なす涙に面をひたし首うなたれて面目なげに目をとぢ口には稱名しようみやうとな未來みらいを頼み彌陀如來すくはせ給へと口の内今ぞ一期と看念かんねんなし水淺黄色みづあさぎいろあはせの上に切繩きりなはかけ馬の上にしばり付られ眞先には捨札紙幟かみのぼりを立與力同心警固けいごをなし非人ひにん乞食こつじき取込で相良さがらの町へ引出されしは屠所としよの歩行の未の上刻是を見んとて群集むれつどふ老若男女おしなべてあはれの者よ不便ふびんやと云ぬ者こそなかりけれかゝる所に向ふよりして早駕籠はやかごちやうワヤ〳〵と舁來かききたり人足どもは夫御早なり片寄々々かたよれ〳〵御用々々と聲を懸つゝ制しければ引廻ひきまはし者は道のかたはらへ寄居るを早の侍士さむらひ所刑しおき者と聞より駕籠かごすだれ撥退はねのけ見るに先に立たる捨札に水呑村九助と書付けありしかば領主りやうしゆ檢使けんし役人是へ〳〵と聲を掛しかば仕置掛りの者ども吃驚びつくりなし當日の檢使けんし與力村上權左衞門田中大七の兩人馬より下り立駕籠の前に來りて拙者せつしや共は本多長門守ほんだながとのかみ家來村上權左衞門田中大七と申者今日人殺し科人とがにん水呑村名主九助儀獄門ごくもんの仕置につき檢使けんし申付られ只今刑場けいぢやうのぞむ所に候然るに貴所樣きしよさまには如何の御方にて又何等の御用之あり拙者共を御呼留よびとめなされ候やと申に早打ちの侍士莞爾につこと笑ひ御道理ごもつともの御訊問たづね拙者儀は御代替りにつき將軍家の御目代巡見使じゆんけんし松平縫殿頭殿家來牧野小左衞門と申者此度御領内ごりやうない水呑村名主九助一件江戸表へ御差出の御用状持參ぢさん致したり當地重役衆ぢうやくしう御意ぎよいる間所刑しおき者は是より引返されよと申せば兩人の檢使けんし答る樣御巡見樣よりの御差圖さしづとあれば仔細しさいも有之間じく候え共拙者共役儀やくぎに候へば此處に控へ罷在まかりあり重役共の下知次第引取るべしよつ直樣すぐさま引返ひきかへし候儀は御差圖に隨ひ難しと申ければ小左衞門は是は御道理ごもつともなる儀某し早々重役衆に御たつし申べし沙汰の有までひかへあれと云すて駕籠をいそがせんとなす時兩人はしばしと聲掛今日は當所評定ひやうぢやう落着日らくちやくびに付役人共町役所に相詰あひつめ居るによりぢきに役所へ御出有てしかるべしと申にぞ小左衞門承知なし町役所へと急ぎ行やがて遠州榛原郡はへばらごほり相良さがらの城下根來ねごろ町役所へ横着よこづけ乘込のりこみたりされば詰合の役人共大いに驚き何事やらんと早速尋ぬるに諸國巡見使松平縫殿頭ぬひのかみ使者牧野小左衞門なりと云ながら駕籠より立出刀引提ひきさげ役所の上座へとほりければ諸役人下座へ引下り一同平伏へいふくす時に小左衞門重役衆と聲を掛るに家老本田外記中村主計かずへ進み出一通り挨拶あいさつをはる時兩人は何等の御用に候や伺ひ奉つらんと申ければ小左衞門はかたちを改め今度主人縫殿頭より使者の趣きは長門守殿御領分りやうぶん水呑村百姓名主九助一件に付用人共より各自方おの〳〵がたへの御用じやうまづ御披見ごひけん成れよと首に掛たる御用状を相渡せば外記げきは之を請取ふう押切て讀上るに

以剪紙きりがみをもつて得御意ぎよいえしかれ今般こんぱん主人縫殿頭儀台命たいめいを蒙り駿すんゑんのう四ヶ國巡見として罷越し駿州吉原宿とまりの節長門守殿御領分りやうぶん水呑村名主九助妻せつ并に駿州島田宿藤八と申者愁訴しうその趣き吟味に及び候所再應さいおう糺明きうめいの筋有之に付右の段江戸表御老中方へ縫殿頭より御屆けに及び右節藤八とも差立さしたて相成候間本人九助并に九郎兵衞夫婦下伊呂村々役人其外掛合かゝりあひの者一同勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門始め掛り役人殘らず江戸表へ早々差出し三番町松平縫殿頭屋敷迄相送あひおくらるべく旨申入候やう縫殿頭申付候之に依て此段御たつしに及び候以上

松平縫殿頭家來
四月廿六日
櫻井文左衞門
田村治太夫

本多長門守樣

御用人中

かくの如き文面に詰合の役人共は一同茫然ばうぜんたるばかりなりしがにはかに役所は大騷動さうどうとなりとが人九助は早々引き返させよと早馬にて乘着のりつけさせ又領主りやうしゆには在國故家老共より申達し巡見使へはかしこまり奉つるとの御請書を差出し郡奉行其外掛役々かゝりやく〳〵へは出立の儀申渡す等其混雜こんざつかなへわくが如くなり茲に又九助は引廻しの馬の上にくゝられ既に相良さがらの城下はづれまで引れ來り今刑場けいぢやうのぞまんとする時江戸の方より來りし早打はやうち侍士さむらひ引止ひきとめられ檢使の役人を始め暫時しばし其所に待居まちゐければ此は如何なる事やと思ひける中程もあらせず城下の方より汗馬かんばむちあて御巡見使よりの御差圖さしづなり九助を早々引戻ひきもどせと大音だいおんに呼はるをきゝ檢使の役人を始め警固けいごの人々驚破すはとて其儘城下へ引返せば九助は今死ぬる身と思ひ定めしににはかに引返せし事如何なる譯やと夢に夢見し心地してたゞ茫然ばうぜんたるばかりなり斯て四月廿八日囚人めしうど九助を還羅鷄籠とうまるかごに乘せ徒目附かちめつけ足輕あしがる目附等警固けいごなし其の外松本理左衞門黒崎又左衞門市田いちだ武助栗坂くりさか藤兵衞など吟味ぎんみ掛の役人いづれ駕籠かご打乘うちのり又九郎兵衞夫婦村役人共大勢付そひ本多家用人笠原かさはら常右衞門惣取締として江戸表へ出立なしたりけり


第十三回


 偖又松平縫殿頭殿の給人竹中直八郎は藤八お節が願書ぐわんしよ并びに御用状ようじやう等江戸表へ持參ぢさんし御用番の老中松平右近將監うこんしやうげん殿へ差出し御下知に依てお節藤八の兩人は町奉行大岡越前守殿へ引渡せり然ば越前守殿には藤八お節を一通り吟味の上小傳馬町三丁目竹屋權八方へ預けられ其後五月十二日に九助九郎兵衞を始め關係かゝりあひの者一同本多家より差送りに成しかば九助は入牢じゆらう九郎兵衞夫婦并に村役人共は馬喰町三丁目伊勢屋惣右衞門方へ下宿げしゆく申付られ下伊呂村役人はをさめ宿淺草平右衞門町坂本屋傳右衞門方へ下宿松本理左衞門始め掛役人は主人方へ預けに相成たり却てとく駿河するがの國府中彌勒みろく町二丁目なる小松屋にてはかゝ遊女いうぢよ白妙しろたへ家出いへでせしとて大に驚き手を廻して諸所方々を尋ねさがせしに行方ゆくへ知れざれば此は必定ひつぢやう桶伏をけふせにしたる石川安五郎が爲業しわざに相違有まじと人々言居ける所に大門おほもん番の重五郎が阿部あべ川の河原かはらにて何者にか切殺され死骸しがいは河原に有之との事なれば此はかれは番人の事ゆゑ白妙しろたへ追駈行おひかけゆきころされしものならんとて早速さつそく河原に行て見るに重五郎が死骸しがいかたはらに萌黄羅紗もえぎらしや煙草入たばこいれおちて居たる故中を改むるに巴屋ともゑや儀左衞門樣と云書状二三通外に買物樣かひものやう手控小帳てひかへこちやうあり依て小松屋より駿府町奉行桑山下野守殿へ訴へければ支配内しはいうちなるにより先江尻えじり宿の巴屋儀左衞門を差紙さしがみにて呼出し吟味ぎんみありし處儀左衞門心中に驚けどものがるだけ遁ばのがれんものと私し儀は十六日に彌勒みろく町へ參り其節吉野屋と申大門前の酒屋の表にて大神樂だいかぐら舞居まひをりしを暫時ざんじ見物致し候中煙草たばこ入をうばはれしと見えて御座らぬ故諸所尋ね中に候と申を桑山くはやま殿然樣では有まじ段々だん〳〵其方が樣子をたゞせしに小松屋のかゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへ執心しふしんして只今迄も度々安五郎とか申者と口論こうろんにも及びし趣き聞えたり然すれば汝大門番重五郎を殺す心は有まじけれどかれ安五郎白妙が逃亡たうばう追駈おつかけし節何か間違まちがひにて殺したに相違は有まじつゝまず申立よと問詰とひつめらるれども儀左衞門は白状はくじやうせず否々いや〳〵まつたく以て殺せし覺えは御座なく尤も白妙と申遊女は兩三度も呼て遊し事御座候へども私しは妻子さいしも有身に候へば人をころす迄にはまよひ申さず煙草入は全くぬすまれし品に相違御座なくと云ければくは山殿には打笑みコリヤ能思うても見よ其煙草入は實盜み取られしものならばわづか其場所ばしよより二十町内外の處に有べき筈なし其方が申處にては煙草入は安五郎重五郎兩人の中にてぬすみ取し樣に聞ゆるがしかと然樣かコリヤ汝が行状ぎやうじやうよく知たり日頃不正よろしからざる趣きなればうたがはしき廉々かど〳〵少からず吟味ぎんみ入牢じゆらう申付ると言渡されけり此儀左衞門の女房をおくめと云しがをつとが此の災難さいなん必竟ひつきやう安五郎が仕業しわざなれば渠等かれら在處ありところれる上は夫が無じつの難はのがれなんにより何卒なにとぞして安五郎を尋ねいだをつと災難さいなんを助けんには神佛しんぶつ加護かごに非ざれば爲難なしがたし幸ひ遠州秋葉三尺ばう應護おうごいのらん者と一に思ひこみしかば夫よりして秋葉山へ遙々はる〴〵と登しが本社は女人禁制によにんきんせいなるゆゑ上る事ならず因て玉垣たまがきの外にていのり居しに早晩いつしか夜に入ければいざや私が家へ戻らんとがけの道へ來かゝるに茶店ちやみせ仕舞しまひたるが在しにぞ是れ屈竟くつきやうなりとさゝの葉をまと手拭てぬぐひにてかしらをつゝみ此處に這入はひり通夜をなし一心にをつとが災難をのがれる樣になさしめ給へと立願りふぐわんをぞこめたりける此所は名におふ周智郡すちごほり大日山のつゞき秋葉山の絶頂ぜつちやうなれば大樹だいじゆ高木かうぼく生茂おひしげり晝さへくら木下闇このしたやみ夜は猶さらに月くら森々しん〳〵として更行ふけゆく樣に如何にも天魔てんま邪神じやしん棲巣すみかとも云べきみねには猿猴ましらの木傳ふ聲谷には流水滔々たう〳〵して木魂こだまひゞき遠寺ゑんじかねいとすごく遙に聞ば野路のぢおほかみほえて青嵐颯々さつ〳〵こずゑを鳴し稍丑滿頃とも思ふ頃あやしやはるふもとの方よりがさ〳〵わさ〳〵と小笹をさゝ茅原かやはら押分おしわけて來る氣態けはひなればお粂は屹度きつと氣をしづめておのれ今頃登山とざんなすからは強盜がうたうか但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよいぶかしと星明ほしあかりにすかし見れば旅人とおぼしく菅笠すげがさ眞白まつしろに光りたりこゝに又彼の石川安五郎は上新田村の無量庵むりやうあんを出立まづ豐浦とようら雲里うんりの方へ行んものと道を急ぎしに圖らずも踏迷ふみまよあへぎ〳〵漸々やう〳〵秋葉の寶前はうぜんに來りしが此時ははや夜中にてゴーン〳〵となりしは丑刻やつかねなれば最早もはや何へも行難しふもとへ下ればおほかみ多く又夜ふけに本坊をおこす共起はせまじ幸ひ此茶店にて夜を明さんとつぶやきつゝ茶店ちやみせに入てお粂が通夜つやしてをる共知らず上りこんだり扨もお粂は大膽不敵だいたんふてきの女なれば先方の心は知らざれ共くらさはくらいきこらへて居る中すで寅刻なゝつかねも聞え月はこずゑの間にあらはれ木の間〳〵も現々あり〳〵茶店さてんの中まで見えすくゆゑ安五郎は不圖ふと此方こなたを見返れば笹簑さゝみのたる者の居るにぞ是はと吃驚びつくりし然るにても斯る山中に人の居るこそいぶかしけれ但し妖怪えうくわい所爲しよゐなるかとうたがひつゝ聲を掛け夫なる者は何者ぞ旅人りよじんか又は山賊さんぞくたぐゐなるか狐狸こりなるかこたへをせよとかたはらへ摺寄すりよればお粂はとくより心得居し事ゆゑ一向おどろかずアイサ私しは盜賊たうぞく山賊さんぞくの類でなく又狐狸こりにても候はず大願だいぐわん有て當山へこもりし者なり本社拜殿はいでんは女人禁制きんせい故此茶屋ちややにて通夜つやを致し候因て貴所には何れの御方にて候哉と問返とひかへされ安五郎は又驚き扨々さて〳〵女子にはめづらしき者かな如何なる心願しんぐわんかは知らねども斯る深山しんざんこもらるゝ事かんじ入たり某しは信州へ秋葉越あきばごえして參らんと思へども一人たびゆゑとめてはなく斯る深山しんざん踏迷ふみまよひ漸々是まで參りし者なればかならず心をおき給ふな最早もはや夜明よあけにも間はあるまじ夫まではまづ暫時しばらく此所に休息きうそく致さん又其もとには定めて此近邊きんぺんの御人成んと聞にお粂も此人盜賊たうぞくなどにあらずと安心し打解うちとけさまにてそばへ寄私しは駿州江尻えじりの者なりと云ながらかほすかし見て吃驚びつくりなしヤア此方樣は石川安五郎樣と云に安五郎もかほすかし見て然樣云其方も何やら見た樣な御内儀ごないぎ其許はと云をお粂は聞私しは江尻宿の絹商人きぬあきうどにて巴屋ともゑや儀左衞門が女房粂と申者此方樣故に夫儀左衞門は無實むじつ災難さいなん大門番おほもんばんの重五郎をころしたとて今は入牢じゆらうくるしみ夫も誰故此方樣が小松屋のかゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへぬす逐電ちくでんし夫のみならず大門番の重五郎を殺しつみをつとなすられし殘念ざんねんさに何卒此方樣に出會であひをつとつみゆるされんと此秋葉あきは樣へ誓願せいぐわんこめたる一心とゞきて今にて出會しも嗚呼あゝかたじけなしと宮居みやゐの方を伏拜ふしをがむを見て安五郎はアヽ若コレ御内儀粗忽そそうな事を申されな小松屋の遊女白妙しらたへを連て立退たちのきしは此安五郎にちがひなけれど然ながら其節我は鞠子まりこ柴屋寺しばやでらへ先に參りて白妙しろたへの來るをまつて居し故其場の樣子は知らずあとにて白妙に聞くに彼の大門番の重五郎といふはもと白妙しらたへが親元遠州濱松はままつ天神町てんじんまち松下專庵せんあんと云醫師に召遣めしつかはれし古主筋こしゆすぢ故其夜の都合つがふをなして白妙をにがしたが又儀左衞門殿も一體いつたい白妙しろたへ馴染なじみの客にて是も其夜白妙を阿部河原あべがはらまで追駈おつかけ來られ重五郎と問答もんだふ中白妙はふね飛乘とびのり柴屋寺しばやでらまで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は船場ふなばにて横死わうしの由これまつたく儀左衞門殿が手にかけられしに相違さうゐなし然れば御内儀必ず我をうらみ給ふな是皆自業自得じごふじとくあきらめられよと申をお粂は聞もをはらずくわつ急込せきこみ是は卑怯ひけふなり安五郎殿白妙と逃亡かけおちせしのみか何が證據しようこで重五郎を家來筋といはるゝや死人しにんに口なし所詮しよせんこゝにてかく云とも理非りひわからずあけなば是非ぜひにも駿州すんしうまで同道なし善惡ぜんあくを分ておもらひ申さにやならぬと血眼ちまなこになりて申にぞ安五郎は當惑たうわくなし我等とても段々の不仕合ふしあはせ折角せつかく連退つれのいたる白妙には死別しにわかれ今は浮世うきよのぞみもなければ信州しんしう由縁ゆかりの者を頼み出家しゆつけ遁世とんせいとぐべしと存ずるなり何とていつはりを申べきと問答の中にはやあけがたちかくなりければ安五郎はいそ立去たちさらんとしけるをお粂はまづまたれよと引とめる故安五郎は面倒めんだうなりと突飛つきとばすを又も飛付とびつく女の一ねんとまらぬ遣らじとあらそひける中茶屋の撞乎どつかり踏拔ふみぬきのゝしり合ていどみける此物おと本坊ほんばうへ聞えしにや何事ならんとあさ看經かんきん僧侶達そうりよたち下男諸共十六七人手に〳〵ぼうたづさへて駈付かけつけ見れば是は如何に餘りし黒髮くろかみ振亂ふりみだせし廿四五歳の女と三十ぢか色白いろしろき男とくみつほぐれつ爭ひ居たしかば扨は此奴等こやつら色事いろごと喧嘩けんくわにてもなすかや併し見て居られぬとて漸々に双方さうはう引分ひきわけ委細ゐさいの樣子を聞て所の代官だいくわん首藤すどう源兵衞より公儀こうぎ御代官二また陣屋ぢんや大草おほくさ太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ差送さしおくりに相なり石川安五郎はあがり屋入申付られ其後同所町奉行桑山下野守くはやましもつけのかみ殿種々しゆ〴〵吟味ぎんみありしかど重五郎を殺せし覺えなく又白妙しろたへ身寄みよりの者の申立るにより白妙が親濱松はままつの松下專庵せんあん後家ごけを呼出し吟味ぎんみ有けれども事がらしかと分らず小松屋よりは安五郎多分たぶんわきへ賣たで有んとの訴へなり又儀左衞門の女房も訴へ出しに付無量庵柴屋寺むりやうあんしばやでらを呼出さねば分らずとて江戸おもてへ差出しに相成たり時に石川安五郎廿七歳江尻宿えじりじゆく商人あきうど巴屋儀ともゑやぎ左衞門三十一歳同人妻粂二十五小松屋小兵衞并彌勒みろく町々役人江尻宿々役人差添さしそへ江戸町奉行大岡越前守殿へ差送られしかば駿府すんぷ町奉行桑山殿くはやまどのよりの調書しらべがきを以て一通ひととほり吟味ぎんみこれあり安五郎は揚屋あがりやいり儀左衞門は入牢じゆらう同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺住持ぢうぢを差出す樣又遠州相良本多さがらほんだ長門守殿家來へ同領内上新田しんでん無量庵むりやうあんを差出すべき旨差紙を出されたり


第十四回


 享保きやうほ二丁酉年五月十八日南町奉行大岡越前守殿白洲へ一件の者一同呼出され一々呼込になりしが縁側えんがはには本多長門守殿留守居始め郡奉行代官等今度吟味掛りの者ども白洲右の方に九郎兵衞夫婦左の方には藤八お節少し引放ひきはなれて本繩ほんなは足枷あしほだに掛り九助平伏す時に大岡越前守殿本多長門守家來けらいと呼れ九郎兵衞が願書を是れへ差出せと申さるゝに本多家の留守居るすゐハツと答へて懷中くわいちうより取出し目安めやす方へ差出すを大岡殿の御覽に入目安方之を讀上る

一本多長門守領分遠州榛原郡はいばらごほり水呑村百姓九郎兵衞同人さいふか右兩人願ひ上奉つり候當村名主九助儀は私しどもをひに御座候に付私し娘里儀を九助と娶合めあはせおき候處右九助儀先年江戸表奉こうまかり出候に付里并びに私しども跡へ殘り居り九助留守中取續き方難澁なんじふ仕つり候を親類惣内そうない儀毎度世話致呉候然る處九助歸國仕つり候てより種々難題なんだい申掛自分旅行中島田宿藤八召使めしつかひせつと申者と密通みつつう仕つり貞節ていせつ留守るす相守あひまもり居候里に種々惡名あくみやうを付離縁りえん致すべく段申重々不埓ふらちに御座候間其節異見差加へ候へども却て私しを恨み遺恨ゐこんに思ふかせがれ惣内と里と不致居る旨申掛離別りべつ致候故私しども親子道路だうろ餓死がしも仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取ひきとり世話せわいたしくれ其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合めあはせ候然るに九助は是を遺恨ゐこんに存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙つけねらひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りをあとよりつけ來り夜にまぎれて兩人を切害せつがい仕つり立退のき候へども天命てんめいのがれ難く其場に九助懷中物くわいちうものおち有之これあり同人衣類のすそへもを引居候に付此御訴へ申上候により召捕られ御領主御役人樣御吟味ごぎんみの處九助儀包みおほせずつひ白状はくじやうに及び申候然る所今に又々召出され御吟味を蒙り候何卒なにとぞ御慈悲おんじひを以て惣内夫婦解死人に仰付られ下し置れ候はゞ有難ありがた仕合しあはせに存じ奉つり候以上

遠江國榛原郡水呑村百姓
享保二年五月
九郎兵衞(印)
同人妻  ふか(爪印)

大岡越前守殿おほをかゑちぜんのかみどの是をきかれコリヤ九郎兵衞云願書のおもむきにてはさぞかし無念むねんに有ん如何にも不便のことなり女房ふかも一人の子息しそくを殺され老行おいゆく夫婦の路頭ろとうまよふは後世の杖をうばは嬰兒えいじ乳房ちぶさを隱されたるやうなるべししかし此事屹度きつと九助が殺したると聞受難と申さるゝに兩人は憤然ふんぜんとなり否々いや〳〵相違御座りませんと云ふ大岡殿コリヤ九郎兵衞夫婦其方共がせがれや娘の殺されし所は何と云地所なるやと有に九郎兵衞はヘイ大井川おほゐがははし下伊呂村しもいろむら辨天堂べんてんだうの前なりと云ければ而てしも伊呂村辨天堂の前より水呑村迄は何程なるや又惣内夫婦は其日何用有て何時にたくいでしぞと尋問たづねらるゝに金谷村に法用はふよう有て晝前ひるぜん巳時頃よつどきごろより參りしと申しければ大岡殿には其節そのせつ九郎兵衞夫婦はたくに居しやと尋ねらるに私しども兩人も法用のせき同道どうだう仕つりたしと申せしかば然らば歸りのせつも同道ならんに悴夫婦の切害せつがいあひし時たゞ見ても居る間じ如何せしぞと問詰とひつめられ九郎兵衞はグツと差迫さしせまりしが然あらぬ面にてヘイ其節は私し共兩人は少々せう〳〵先へもどりしゆゑ悴夫婦の殺されし事は存じ申さず翌朝よくてうむらの者が知らせに驚き其場所へ到り見屆け候處兩人はすうしよきずにてくびは御座なくと申せば大岡殿ナニ首が紛失ふんじつ致し居りしや夫は又如何なる事ぞととはるゝを九郎兵衞是は後日ごにち詮議せんぎの時首さへ無れば知れまじとて九助取隱とりかくせしなりと云ば大岡殿シテ又首のなき者をせがれ夫婦と何して知りしぞと有に九郎兵衞夫は衣類恰好かつかうにて相分あひわかりしと申せば大岡殿ナニ衣類いるゐ恰好かつかうで分つたと申か成ほど我が子なれば衣類恰好の見覺みおぼえあるは道理もつともなり扨々さて〳〵不便ふびんな事を致した九助へ吟味をとげ死人を取て遣すぞと云るゝゆゑ九郎兵衞夫婦はしめたりと思ひ莞爾々々にこ〳〵がほに居たりけり大岡殿は九助に向はれ面を上いと云れ同人の面體めんていとくと見らるゝに年のころ三十歳ばかり顏色がんしよく痩衰やせおとろにくおちほねあらはれ何樣いかさま數日拷問がうもんに苦しみし體なり扨又女房お節を見らるゝにかれとても顏色がんしよくさら人間にんげんうるほひなくいろ蒼然あをざめて兩眼を泣脹なきはら櫛卷くしまきに髮を取りあげ如何にも痩衰やせおとろへたる其體そのてい千辛萬苦の容子ようす自然と面に顯はれたり正直しやうぢきかうべやどり給ふ天神地祇云ずかたら神明しんめい加護かごにや大岡殿夫婦のていいと憐然あはれに思されコリヤ九助其の方は如何なる意趣いしゆ有て親類縁者えんじやたる惣内夫婦を大井河原おほゐがはらに於て殺したるぞ願人九郎兵衞夫婦よりの願書前に讀聞よみきかせたれば承知しようちならん一々覺え有るか何ぢやと尋問たづねらるゝに九助ははら〳〵と涙を流しはからず公儀こうぎの御調しらべに相成し事冥加みやうが至極しごく有難く存じ奉つる然らば現在のまゝ申上候はんが私し儀何等の意趣も之なき惣内夫婦をころし申べき此儀何卒御推察すゐさつねがひ奉つると申しければ大岡殿倩々つく〴〵聞れ汝は然樣に覺え無事を何故なにゆゑに人殺しと白状はくじやうに及びあまつさへ爪印つめいんまで致したるぞと是に九助はうらめし氣に本多家の役人を見遣り御意の通り私し一向覺え御座なきおもむき委細に申上げ候へども御領主の役人衆やくにんしゆ御聞入是なく毎日々々の拷問がうもん嚴敷きびしく石を抱せ海老ゑびに掛らるゝ事既に十三度に及び皮肉ひにく切破きれやぶほねくだくるばかりの苦痛くつう堪兼たへがね是非なく無實の罪におちし所此度是なるさい節恐れ多くも松平縫殿頭樣へ御駕籠訴かごそ仕つりしより江戸おもてへ召出され再應さいおうの御吟味ぎんみあづかること有難仕合に私し風情ふぜいの女房が願を御取上げ相成し事一夫一婦の願ひをも捨給すてたまはぬ聖代せいだいかしこき御代とは申ながら土民の事に付天下の御役人樣へ御苦勞くらう掛奉つる事冥加みやうがほども恐しく此末の申わけたゝず此儘死罪に相成とも少も御うらみとは存奉つらずと申立ければ大岡殿コリヤ九助其方は然樣に申ても一かうあと方もなき儀を九郎兵衞とてもうつたへは爲まじきよじつを以て爲すと云ことありと云るゝに九助はつゝしみおそれながら私し儀は以前五ヶ年ほど江戸へまかり出奉公仕つり金百八十兩たくはへ國もともどりし處江戸稼ぎの留守中先妻里儀先名主せんなぬし惣右衞門悴惣内と不義ふぎ仕つりあまつさへ私しの金子を其翌日惣内に騙取かたりとらせしをあれ控居ひかへをる藤八がはからひにて金子はのこらず取もどし候間先妻里の不埓ふらちはあれども親類しんるゐ中故右金子の中を分手當も仕つり離別りべつ致せし所同村百姓共の世話せわにて不義の相手惣内方へ取持仕つり又伯父九郎兵衞儀もさいはひ惣内親惣左衞門は相果あひはて母親はゝおやふかばかりゆゑかれが方へ參り度と申にまかせ里に付て伯父をも遣はせしなりおそれながら私しが心底しんていかくの如く何卒御賢慮けんりよを願ひ奉つり候遺恨ゐこんに存ずる心底ならば不埓ふらちの先妻は申に及ばず伯父九郎兵衞へ千辛萬苦致してたくはへたる金を遣はす理の御座るべき是れ私しが遺恨ゐこんふくまぬ證據しようこに候と申せば大岡殿には五年に二百兩に近き大金たいきんを貯へたる稼は武家町人は何れへ奉公ほうこう致したるぞと有るに九助然れば御はづかしきことながら日本橋室町三丁目のといふ時大岡殿如何さま番人の九助なりしと云るれば九助は然樣に候とこたふるに大岡殿成程今はみいらの如くにからだくだかれ昔の形容なりかたちなきゆゑ心付ざりしが其みぎりは正直過て上の御厄介になりたるなんぢさら昔しの事を彼是と勘考かんかうするに今度の儀も篤實とくじつすぎ汝が身の難儀なんぎに成しかも量り難し水清ければうをすまず人明らかならばまじはり少なしとは汝が事ならん扨々憫然あはれ至極しごくしばらく默止もくして居られしかば白洲しらすしんしづまりたりやゝ有りて大岡殿再び九助に向はれ番人をつとめ中天よりさづかる金とは云ながら千しんせし金の中八十兩と申大金を不義の女房にようばう并に伯父九郎兵衞へ能く分て遣はせしぞ伯父をぢは母方か父方ちゝかたかと問はるゝに九助こたへて亡夫ばうふ九郎右衞門まで七代の間水呑村名主なぬしを仕つり九郎兵衞は九郎右衞門のおとゝなれ共一たい若年じやくねんよりといはんとせしが伯父の讒訴ざんそは如何とぞ心ろ付亡夫ばうふ勘當かんだうを受け十七年の間相摸さがみ國御殿場てんば村に居りしを私し親共死去のせつ戒名かいみやうとゞけ呉よとの遺言ゆゐごんも有之に付其後村方の飛脚ひきやくついでに九郎兵衞の在所を尋あひ同人御殿場にてやしなひし娘里諸共古郷こきやうへ引取候と申ければ大岡殿にはちゝなき後は伯父を父に代るの心得奇特きどくなことぞ而て又ふかは其の右に如何なる縁續えんつゞきなるやと言るゝに九助はヘイもとはゝ方の伯父よめなれども惣左衞門死去しきよせし後當時又九郎兵衞に連添つれそひれば伯母とは云候と申せば大岡殿成程なるほど汝が申口にては惣内をがいする程の意趣いしゆも有まじなれども汝の衣類いるゐすそを引又所持しよぢ鼻紙はながみ入が殺害せつがい人の傍邊かたはらおちて在しと申が此儀は如何なるぞとたゞさるゝに九助は其儀は同日私し儀も金谷村の法會ほふゑせきへ參り居り混雜こんざつみぎり鼻紙入を置忘おきわすれ小用に立し中紛失ふんじつ仕まつりしにより諸所相さがし候へども一向に見當り申さず餘儀よぎなく歸宅仕つりしところ其節私し妻の實母年回に付上新田村なる無量庵むりやうあん大源和尚だいげんをしやうへ供養を頼み度とつま申候により私しの爲にもしうとめの儀故草臥くたびれ足をもいとはずゆふ申刻過なゝつすぎより右の寺へ參り暫時物語等致し居存外ぞんぐわいおそなはり夜亥刻よつどきちかころ上伊呂村迄歸り來りし時河原にて何やらにつまづきたれども宵闇よひやみなれば物の文色あいもんは分らずたゞ人の樣子ゆゑさけゑひし者のふせり居し事と心得氣のせくまゝ能もたゞさず早々歸宅仕り其夜は直樣すぐさま打臥うちふし翌朝よくてうおき出門の戸を明候折衣類いるゐすその付居しを妻節が見付如何いたせしやと申され私しもおどろかんがへ然すれば昨夜河原にてつまづきしは生醉に之なく怪我人にても有しやかつ昨日金谷村法會ほふゑせきにて鼻紙入を失ひ種々相尋候へども見當みあたらずなど物語り居しをりから九郎兵衞が案内あんないにて御領主の役人入來り有無を云せず召捕めしとられ申候然れば右鼻紙入の紛失と云ひ其夜切害人の傍邊かたはらおとし之有し事ども如何にも不思議ふしぎと存候間其邊を御吟味下さるゝ樣御領主の役人衆やくにんしゆへ度々申立候へども更に御取上御座なく只々たゞ〳〵ごろしの儀を白状せよとのみ嚴しく仰聞られ其後種々さま〴〵拷問がうもんに掛る事二十五度の中石をいだ海老責えびぜめになる事十三度何程申わけ致し候ともすこしも御聞入なく候まゝいつそ此世の苦痛くつうのがれんと存じ身に覺えなき罪におち候と申ければ大岡殿には而て其方鼻紙入紛失ふんじつ詮議せんぎは之なきやと云はるゝに九助夫等の儀は一向御たゞしは御座なくと申せば越前守殿暫時しばらく考られコリヤ九助其方は當時の妻節とは豫々かね〳〵密通みつつう致し居しゆゑかれを入んが爲先妻へ無實の汚名をめいおはおひ出したるむね九郎兵衞よりの訴状面そじやうめんに見ゆるが此儀申わけありやと有に九助は全く以て右樣みぎやうの事は御座なくと委細の事故ことがらを申立んとする機後に控へし藤八おそれながら其儀は私しより申上んと進み出全く申樣のすぢには御座なく先以て是なる節と申女は私しあねの娘にて駿河するが國阿部川出生の者に候所姉むこはて幼少えうせうの身を以て母の長病を介抱かいはう致せし孝行大人おとなも及び難く然るに或時あるとき不圖ふと勾引かどはかされしを九助江戸へ出府のみぎり途中とちうにて渠が厄難やくなんを救ひ遣し其後五年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の旅中りよちう瀬戸川せとがはにて難儀のをり私し儀身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ盜賊たうぞく共を追散おひちらし私し方へ伴ひ立歸りしなり其ころは私し姉儀病死びやうし仕つりしにより節は私し方へ引取置候處九助とかほを見合せたがひに不思議の再會さいくわいを喜び候と言を聞れ大岡殿は扨々人を助れば助けらるゝ天のめぐみあらそはれぬものと申さるゝに藤八はおほせの如く九助儀大金を持て歸村の程覺束おぼつかなしと私し儀存じ右の金を預り歸村後兩三人つれにて請取うけとりに參り申べしと約束やくそくいたし私しより日蓮上人直筆ぢきひつ曼陀羅まんだらを九助に渡し右を證據に金子と取かへつかはし候筈の所翌日九助の親類しんるゐ周藏喜平次と申者の由にて曼陀羅を持參仕つりし故預りし金子をわたし遣せしに其日の夕暮ゆふぐれ九助あをくなりて馳來りしに付何事にやと相たづね候所曼陀羅紛失ふんじつの次第斯樣々々と片息かたいきになつて申聞候により私し工夫仕つりし所此儀他村の者の知べき程の間合まあひ之なく何れ村中の者ならんと心付候まゝ同人歸村のいはひと名付水呑村惣中を呼集め大振舞ふるまひ致すべく其節私しひそかに參り見候はゞ右曼陀羅を盜み取私し方へかたりに參り候者相知申べしと相談さうだん仕つり九助儀は直樣すぐさま水呑村へ立歸り歸國の振舞と申翌日村中を呼集め酒宴最中さいちう私し儀密に同人方へ參り勝手かつてよりうかゞひ見候處昨日九助親類しんるゐ周藏と名乘しは名主惣内平次と申せしは同人手代源藏と申者に付九助へ其だん申聞取押とりおさへて吟味仕りしに九助留守るす中同人つまさと事惣内と密通みつつうに及び居九助持歸もちかへり候曼陀羅をぬすみ取惣内へおくり遣はし惣内儀源藏と申合せ私し方へ參り金子かたり取しに相違さうゐ是なき旨相顯あひあらはれ候しかしながら村中の者共名主の事ゆゑ氣の毒に存じ中へ立入種々しゆ〴〵あつかひ里儀は何となく離縁りえんと云事に相成九助より申上し通り金子は惣内より取戻とりもどし候まゝ右の中ちを五十兩九郎兵衞里兩人の養育料やういくれうとしてつかはし候儀に御座候其後九助同村の周藏喜平次木兵衞等が取持とりもちにて私しめひ節儀を九助と配偶めあはせたき由申により私し養女に仕つり同人方へつかはせし儀に御座れば何も不義ふぎいたづら者のと私養女に難曲なんくせを付るに及ぬ事委細ゐさいは村役に御聞下されなば委細くはしく御分りに相成候と云にぞ大岡殿コリヤ周藏木祖兵衞百姓だい平次今藤八が申通りに相違さうゐなきやと有に三人の者共一同に毛頭もうとう相違之なくと申せしかば大岡殿しからば九助が申處一々理のある樣に相聞ゆなほおつて吟味に及ぶと申さるゝ時下役したやくの者一同立ませいと聲を掛其日は白洲をとぢられけり


第十五回


 かくて又享保きやうほ二年五月廿六日双方さうはう共明廿七日たつこく評定ひやうぢやう所へまかり出べき旨差紙さしがみあり依て願人相手方のこらず評定所腰掛こしかけ未明みめいより相つめる抑も評定所に於て吟味ぎんみのありしは寛永八年二月二日町奉行島田彈正忠殿だんじやうのちうどのたくへ老中方其外役々寄合よりあひ公事沙汰くじさたありしが始めにて其後酒井さかゐ雅樂頭うたのかみ酒井讃岐守さぬきのかみ殿并に老中方の屋敷やしきへ寄合れしに寛永十二年十一月十日御城内じやうないに評定所を定められ十二月二日より評定所に於て役々寄合あり夫より毎月二日十二日廿二日を定日とせられ元祿げんろく二巳年八月廿五日より必ず御目付めつけは立合事に相成しなりされば此日も老若方らうにやくがたを始として兩御目付三奉行諸有司しよいうし小役人にいたるまで皆其家々の定紋ぢやうもん付きたる箱提灯はこぢやうちんとぼし立行列正しく評定所へ出席せられ威儀ゐぎ嚴重げんぢうに列座さるゝ有樣實にや日本の政所まんどころくもらぬ鏡の天下の善惡邪正じやしやうを明らかに吐出はきだす流れるたつの口さて又諸國よりの訴訟そしよう人共士農工商しのうこうしやう出家しゆつけ沙門しやもん醫者いしや山伏やまぶしの諸民に至るまで皆々相詰罷在まかりあれば程なく本多長門守領分りやうぶん遠州榛原郡はいばらごほり水呑村九助一件這入はひりませいと呼込よびこみになり一同ハツと答へ願人相手方其外村役人共付そひ白洲へ繰込くりこむ九助は領主より引渡ひきわたしのまゝいまだ足枷あしほだを打れ繩目なはめ嚴敷きびしく栗石くりいしの上に蹲踞かしこまり其次に女房節しうと藤八ともつゝしんで平伏へいふくす又右の方には訴訟人九郎兵衞夫婦其外引合の者村役人等居並びしが何れも遠國邊鄙へんぴの者始めて天下の決斷所へ出ければ白洲の巍々堂々きらびやかなるに恐怖きようふなし自然しぜん戰慄ふるへ居たりける又た本多家の役人松本理左衞門始め吟味掛りの者一同留守居るすゐ付添つきそひ縁側えんがはまかり出左の方には目安方與力其上に留役衆とめやくしゆう白洲しらすの左右には十手捕繩とりなはを持同心跪踞ひざまづき居る時に警蹕けいひつの聲ともろともに月番の老中志州ししう鳥羽とばの城主高六萬石從四位侍從松平右近將監しやうげん乘包のりかね殿上座に着座ちやくざあり右の方三でふほど下り若年寄上州館林たてばやしの城主高五萬石從五位に朝散太夫てうさんのたいふ太田備中守源資晴すけはる殿引き續いて寺社奉行丹羽たんば國永井郡園部そのべの領主高二萬六千七百石從五位朝散太夫小出信濃守藤原英貞ふぢはらひでさだ殿大目付には上田周防すはうの義隣よしちか殿町奉行中山出雲守殿大岡越前守殿公事方勘定くじかたかんぢやう奉行駒木根こまぎね肥後ひごの守殿かけひ播磨はりまの守殿御目付杉浦貞右衞門殿浦井權九郎殿出座あり大岡殿正面端近はしちかく進み出られ右の方に中山殿其の右に大目付御目付立合たり其外勘定吟味役衆祐筆いうひつ衆勘定衆兩支配勘定に至るまで公事くじ立合の役々出席あり此時大岡越前守殿本多長門守家來松本理左衞門と呼れ其方儀は長門守郡方役人として此度九助一件吟味ぎんみいたし候おもむきの處其方詮議せんぎつよく因て九助事白状はくじやう致し罪に伏せしと有然樣さやう相違無さうゐなきやと尋問たづねらるゝに理左衞門かうべを上仰の如く九助儀吟味仕つりし處明白に白状致し罪に相伏あひふく口書こうしよ爪印つめいん迄仕つりとが次第しだい申し渡し相すみ候處九助妻節并に舅藤八何樣いかやうの儀を存付ぞんじつき候にや一旦罪に伏したる九助儀を今更公儀へ御苦勞を掛奉つり候儀恐れ入り奉つり候全く九助さいしうと藤八とも不埓ふらち至極しごく成者共なりと申ければ大岡殿成程其方が申如く一旦裁許さいきよすみたるをやぶらんと爲事おそれを頼みざる段不埓ふらちの至りなるが併し理左衞門天下の政事も大小名の家の政事せいじに二ツは是なく其方は長門守家にては此越前守同樣の役儀をも勤れば決斷には如才有まじそれひとの命の重き事は申さずとも承知ならん然ばよく〳〵吟味に念をいれ囚人めしうど九助が罪を訊糺とひたゞし罪にふくせざる中はこれを罪せずいはんや罪のうたがはしきは輕くしやうの疑しきは重くすと是賞を重んじ罪をかるくする事の理なり其方共が吟味ぎんみは定めて九助の衣類のすそそみたると鼻紙はながみ入の落てありしとを以て證據しようことなし人殺しは九助と牢問らうどひに及びしならん依て九助は呵責かしやく苦痛くつうたへ兼て其罪に陷入おとしいれしを其方は一途に人殺しは九助なりと心得しに相違さうゐ有まじと申さるゝを理左衞門はおのれが落度にならんをおそしひて云張んと思ひければ否々いへ〳〵おちなく吟味仕つりし所全く意趣いしゆ有て惣内夫婦を切害せつがいせし趣き白状仕つり其上爪印まで相濟候なりと云に大岡殿イヤサ其所が所謂いはゆるとらゑがきてならざればかへつるゐすと云が如く似て非なる者の間違ひ安き所なり因て篤と糺明きうめいせざれば無實に人を殺す事往々まゝあり是等は此上もなき天のにくむ處なり餘り嚴敷きびしく拷問がうもんに掛らるれば所詮しよせん斯る苦痛くつうせんよりはなどと罪なき者も覺悟に及ぶ事あり是を屈死と云其方是等の儀は申さずとも心得あるべきなれどもいまだ吟味に足ざる所ありと申されしかば理左衞門はいや私し取調とりしらべ候處にては血汐ちしほの一儀而已のみにても九助が人殺し明白なるに況んや其日他行仕つりしと翌朝九郎兵衞夫婦訴へ出其場所に鼻紙入はながみいれおちてありしかば何よりたしか證據しようこなりと申るを大岡殿押返おしかへされコリヤ理左衞門夫が其方役儀やくぎうときと申者九助がころしたる惣内夫婦が死骸しがいは數ヶ所のきずとあり然すれば右の血汐ちしほ九助がすそ而已のみならず外々へもかゝるべきに左はなくすそばかりへつきしも不審ふしんなり又九助が申立には其夜上新田村かみしんでんむらより歸り掛下伊呂村へ來懸りし途中とちうにてつまづき其の節何者かたふれ居りしに血汐を引たりとあり然ば九助出先無量庵むりやうあんをも呼出し九助が歸宅きたく刻限こくげんをも取調とりしらべ申べきはずなるに其儀是なきよし又死人しにんの傍邊に同人の鼻紙はながみ入が落てありし趣きなれども右の品は同日ひるの中九助儀金谷村かなやむらの法會の席にてうしなひし品なりと申然すれば同人にうらみある者是をぬすみ取人殺しのつみを九助におはせんと其場所へ落し置しもはかがたし依ては鼻紙入紛失ふんじつの事柄をも篤と取糺とりたゞすべきの處是以て一向其沙汰なく只々たゞすそひきたると落てありし鼻紙入とを以て人殺ひとごろしは九助なりと見とめきびしく拷問がうもんに掛し事甚だ其意を得ざる取計とりはからひなりとありしかば理左衞門其儀は九助何樣申立候ともかれすそ引居ひきをり而已のみか所持の品も落て在しからは全く九助が所業しわざ相違さうゐ之なく假令たとへ拷問がうもんに掛かり候とて身に覺えなき事は白状はくじやう仕つらざる筈なりさきより申上候通り口書書こうしよがき爪印つめいんまで相すみ候は全くかれが白状に因ての儀に候と何時いつにても同じ事を申立るにより越前守殿心の中には扨々強情がうじやうなる者とは思はれしかどなほことばやはらげられ然らば吟味のせつ刄物はものは何なる品にて切害せつがい致せしや又九助が家内の刄物等詮議せんぎいたし血の跡にても殘り居怪敷あやしく思ふ品にても是ありしや其邊の糺明きうめいとゞきしやと有しに理左衞門はグツと言しきり暫時しばし返答へんたふなければ大岡殿サテ此儀は何ぢやと再おう尋問たづねらるれども理左衞門は面色めんしよくあをくなりあかくなり額にたまあせながしうぢ〳〵として返答へんたふなさゞるより大岡殿少しこゑ張上はりあげられコリヤ理左衞門其方は先刻せんこくより某しが相尋問る事ども一向にこたへなきは糺明きうめい行屆ゆきとゞかざる儀と存ずる彌々いよ〳〵へんの取調しらべもなきは役柄に不似合の致方いたしかた不埓ふらち至極なり只九郎兵衞が申立のみを取上九助を召捕めしとり拷問がうもんに及びし事夫は本田家ほんだけ作法さはふなるや政事せいじは大小有とも法は天下の法なり人のみちは天下の道なり道と法とは私しにくらますべからず然るに其の方の如きが裁許さいきよ不穿鑿ふせんさくは云までもなく法外の裁斷さいだんと申すべし其の方も領主の公事くじ決斷けつだんを預かる者ならずや斯る無智むち短才たんさいともがらに此重き役儀を申し付るこそ重役も左程さほど目の無きものどもにもあるまじ殊に其の方が面體めんていかくまで愚鈍うつけ者とも見えず是程のわきまへなきこともあるべからず是には何か仔細しさいあらんとじり〳〵眞綿まわたで首をしめるが如き糺問きうもんに理左衞門ハツとばかりに溜息ためいきを吐き自然惣身戰慄ふるへ出しは見ぐるしかりし體裁ありさまなり大岡殿には又黒崎又左衞門市田武助の兩人に對はれ其の方どもは理左衞門が下役として九助の所刑方萬事申だんじたる趣き倶々とも〴〵不吟味なるぞと言るゝに又左衞門其の儀は私くし事毎度同役武助と申合せ種々異見いけんも仕まつり役儀と申ながら餘り手づよくばかり致しては實意じついの吟味に之なき段申聞ると雖も左右とかく立腹りつぷく仕まつり私し九助へ荷擔かたん致し贔屓ひいきの樣にも申され迷惑めいわくに付上役の儀ゆゑ餘儀よぎなく其まゝ申通りに仕つり候と申ければ大岡殿夫は矢張やはり其方共が不詮議ふせんぎなり左程に思はば何故なぜ重役ぢうやくに訴へぬぞ假令たとへかしらたり共趣意しゆいに違ふことありと知つゝ重役へも訴へぬは左右とかく心得違こゝろえちがひなりと云れしかば兩人一言もなく恐入おそれいつて平伏す因て大岡殿また九郎兵衞夫婦を見遣みやられ只今うけたまはる通り九助が裾に血の付て居るの鼻紙入が落てありしのとばかりでは甚はだ分明ぶんみやうならず然ばとく思慮しりよいたし事故明白に申立よと有りしにぞ九郎兵衞は神妙しんめうらしく徐々そろ〳〵かうべを上げおそれながらせがれ惣内夫婦を殺せし者九助より外には御座なく其わけと申は先悴惣内が女房里は九助よりも申上し通り同人の先さいに御座候處九助儀只今の妻節と密通みつつういたせ居し故私し共おや子を邪魔じやまいたつみなき者に罪を離縁りえん仕つりしにより私し共路頭ろとうまよひ候を村内の者共たつすゝめにまかせ里儀を惣内妻にいた候夫を九助儀今さら未練みれんにも遺恨ゐこんに存親類中も不通ふつうに相成加之そのうへ同人名主役申付られしより村長むらをさ權威けんゐふる私欲しよく押領あふりやう多く小前の者ども難儀なんぎ仕つるに付村中寄り合ひ又々惣内を歸役きやく致させんと内談ないだんいたせし儀を何時か九助承知うけたまはり其事をいきどほりねたみ居り候ゆゑ下伊呂村辨天堂べんてんだうまへ待伏まちぶせ致し惣内夫婦を殺したるに毛頭もうとう相違御座なく何卒明白の御吟味ひとへに願ひ奉つると矢張やはり同じ事を申立れば大岡殿是を聞れ心に思はれけるは老中方始め諸役人の前にて今一おう明白の吟味を聞せんと故意わざしづかにことばはつせられオヽ九郎兵衞よくこそ委細ゐさいに申たてたりコリヤ九助其方は只今九郎兵衞が申立によれ左右とかく伯父女房とも無體に追出したる樣なり此儀如何いかなるぞと問るゝに九助はつゝしんでこたふるやう其等それらの儀は先日御詮議の節も申上し通り先妻里儀は惣内と不義ふぎ仕つりし而已のみか藤八へ預け候金子をかたり取べきため曼陀羅まんだらを盜み惣内へおくり又翌日よくじつ酒宴しゆえんの席にて藤八に見顯みあらはされ候處惣百姓共取扱とりあつかひにて惡名あくみやうを付ず離縁いたし又當時の妻節義と私し密通など致し候事毛頭もうとう是なく妻にもらひ受候は斯々なり加之私し名主役申付られ候以來私欲しよく押領等あふりやうとうの儀仕つりしおぼいさゝかも御座なく候と巨細こさい手續てつゞき明かに申立猶御不審のかども候はゞ村役人へ御尋問下さらば事がら委細御分りにあひなるべしと申立しかば越前守殿其事故は先日も申立たる趣意しゆいなれども先妻せんさい里惣内と不義致せしと申はしかとしたる證據しようこにてもありしかとあるに九助其儀は藤八へ御たづね願ひたてまつると申に大岡殿如何いかに藤八其方委細の事を心得居かと申されければ藤八すゝみ出右の儀は先日申上し通り九助たくにて村中惣振舞そうふるまひの節惣内事がう情を申つのり居に付き其前日私方へかたりにまゐりし時おとしてゆきし里よりのふみを取出し何れもの前にて讀聞よみきかせ其文言もんごんは九助事江戸おもてより持歸もちかへり候金百八十兩島田宿しまだじゆく藤八へあづけ是あり曼陀羅と引替にわた約束やくそくゆゑ曼陀羅を盜取ぬすみとりおくつかはし候間右の金子を請取うけとり其後兩人にて逃亡かけおちいたさんとあるゆゑ一座の者共大いにおどろき惣内もつひに一言もなく閉口へいこういたし候と申ければ大岡殿シテ其文は其方今に所持しよぢいたして居るかと云はるゝに藤八いへ其後村中役人立會たちあひ相談さうだんの上里の離縁状にそへて惣内方へ遣したりと云に大岡殿然らば九郎兵衞が申立とは大いに相違さうゐいたし居なり此義節は如何心得居るやなほ委細ゐさい申立よと有しかばお節はおそる〳〵かうべを上私し先年駿河國するがのくに阿部川村に母と一所に居十一歳の節一人の出家しゆつけ勾引かどはかされ宇都うつ地藏堂ぢざうだうまで引行ひきゆかれし處幸ひ向ふよりまゐたび人のあるにより時に取ての作意さくいにて小杉こすぎ叔父をぢ樣とこゑを掛しにより彼のそうおどろき私しをはなしてにげ出せしかば其旅人に災難さいなんすくはれ阿部川の宿までおくくれし時はじめて九助と申事をうけたまはり彼是かれこれ日暮ひぐれ方に相成りしまゝ一れいの心にて一夜をとめ候ひし處かへつて私し親子おやこ難儀なんぎの體を見兼餘計よけいぜにめぐまれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國のせつ藤八方へ一ぱく致せし時私しも藤八方に居不思議に再會さいくわい仕つりしかど其節は途中とちうにて胡麻灰ごまのはひに出合九助難儀なんぎ致す趣意おもむきに付金子のことに心つかひ仕つり居り先年の禮さへ熟々しみ〴〵申候間合まあひ御座なく候まゝ不義など致し候事は努々ゆめ〳〵御座なく候と巨細ことこまやかに申立けるにぞ大岡殿なる程きぬせぬ明白なるこたへなりコリヤ藤八節を九助方へ遣せしは水呑村々役人共其方へ掛合てもらうけしと有が如何やと尋問らるゝに藤八ヘイ御意ぎよいの通り九助親類しんるゐ中周藏左次右衞門木祖きそ兵衞喜平次右衞門大八ぜん右衞門まご四郎八人の代として周藏喜平次の兩人媒妁なかうどとなり私しめひたつ所望しよまうに付遣せしに相違御座なく然も此度周藏喜平次木祖兵衞など罷出居により何卒御尋ねがたてまつり候と申ゆゑ大岡殿コリヤ水呑村々役人周藏木祖兵衞喜平次とよばるゝに何れも平伏なせば大岡殿はたゞ今藤八が申立る通り相違なきやと有に何れもおほせの通りなりと申ければ大岡殿然らば節と九助夫婦の儀は夫是それこれ義理ぎりにてつながれし天地和合わがふえんにて双方さうはうの申口により事分明なり九助其方島田宿とまりせつ盜賊たうぞくなんとは如何なるわけぞ又百八十兩と申ては大金なるに其方馴染なじみうすき藤八へ預けしは如何の手續なりしやなほ明白めいはくに申せと尋問らるに九助は先日も申上し通り百八十兩あまりの大金を江戸表より所持しよぢ仕つり歸國の節箱根はこね山向ふよりあやしき者兩三人後になり先になり付參りすで瀬戸川せとがはまで來かゝりし時は三人の者難題なんだいを申かけ甚だ難澁なんじふ仕つり一命にも及ばんとなすをり是なる藤八身延みのぶ參詣さんけいの歸り掛け幸ひ其處へ差掛さしかゝり私し難儀なんぎの體を見兼右の三人を片端かたはしよりたゝたふして私しをすくひ呉同道致し同人宅まで立歸りし處只今節より申上し通り阿部川村のてうと申者のむすめ節が居合をりあはせ藤八は同人叔父をぢなる由うけたまはり候處其翌日藤八申には水呑村まで送り度はぞんずれどもよんどころなき用事あるにより用心のため所持しよぢの金を藤八方へ預け置き歸村の上親類共にても兩三人同道にて請取に參るべし夫迄の證據しようこに此曼陀羅まんだらを渡し置ん此品は身延みのぶ山代だい貫主くわんしゆの極ある日蓮上人直筆ぢきひつの曼陀羅なり一時もはなされぬ大切の品なれ共金の引替ひきかへの爲あづけんと申かれ思操こゝろざし信實しんじつかんじ命にも替難かへがたき大金をあづけし事なりと申せしかば大岡殿人々の申立を篤と聞れ如何樣一々道理もつとも至極しごくに聞ゆるなり扨九郎兵衞ふかの兩人只今うけたまはるとほり其方共の申立とはみな相違さうゐ致し居るぞ汝等公儀をいつは訴訟うつたへ出る條不屆ふとどき至極しごくなりとにらまれけるに兩人ハツと云てふるへ出せしがお深は猶強情がうじやう假令たとへ渠等かれら何と申上候共九助と節の不義致せし事は相違御座なくと何かまだ云んとするを大岡殿默止だまれなんぢには問ぬぞ其方は先名主惣左衞門が後家にありながら誰か媒妁なかうどにて九郎兵衞のつまにや成しやと申さるゝにおふかはシヤア〳〵としていへたれ媒酌人なかうどは御座なくと云に大岡殿大音だいおんにて大白痴たはけめ天有ば地あり乾坤けんこん和合陰陽いんやう合體がつたいして夫婦となる一夫一婦と雖も私しに結婚けつこんなすべからずしかるを汝等が子供達夫婦になりたれば其親々も夫婦になつてくるしうないとおもふか汝等が容子ようすを見るに九助の留守中せがれ惣内儀里と不義ふぎを致せしは汝等兩人がかねて不義致しをる見習みならひしなるべし不埓ふらち至極しごくやつぢや九郎兵衞申開きありやと云れしかばグツと差支さしつかへ一言もなく尻込しりごみなすにより追々吟味に及ぶ下れと云るゝ時下役の者立ませいとこゑかけ一同白洲しらすを下られけりれば老中方初め諸役人も今日の吟味大岡殿の明察めいさつどほりならんとかんじられたり


第十六回


 其後そののち又々評定所の白洲をひらかれ以前の如く老中方はじめ諸役人出座ありし時縁側えんがはひかへたる遠州榛原はいばら郡上新田村禪宗ぜんしう無量庵むりやうあん大源和尚だいげんをしやうすゝみ出彼方あれに罷仕る九郎兵衞と申者と何卒愚僧ぐそう掛合かけあひを御免下されなば御吟味すぢも早く御分りに相成申べしと申たてけるに大岡殿其儀は何成なになりくるしからず差免さしゆるすとありしかば無量庵はすこし白洲の方に向ひコレ九郎兵衞定めて愚僧ぐそう見覺みおぼえあらんと云れて九郎兵衞は無量庵を下より見上げ何か吃驚びつくりせし樣子なりしかば無量庵は微笑ほゝゑみ是九郎兵衞愚僧ぐそうあひては一言の申譯は有まいと言に九郎兵衞は然あらぬていにて合點がてんゆか貴僧きそうが一言最前さいぜんより容子ようすきけば上新田村無量庵の庵主あんしゆとか申事もつとも水呑村より三里にちか隣村りんそんなれども此九郎兵衞もとより歸依きえなければ御ばうかほを見るは此御白洲がはじめてなり一言も有のないのと言るゝは如何なる事やと空嘯そらうそぶいてたりしかば無量庵は然樣で有う人間にんげんうまれておんを知らぬを畜生ちくしやうひとしと云己等如き恩もなさけも知らぬいぬおとりし者はわすれしやも知れず某しはもと相摸さがみの國御殿場ごてんば村の百姓條七がなれのはてなり抑其方は勘當かんだううけし身にて一宿しゆくとまる家さへなきを我富士詣ふじまうでの下向げかうみぎり駕籠坂かごさかたうげにて始めて出會であひなんぢしなんと云を不便ふびんに思ひ連戻つれもどり我が宿に差置六七年やしなおきし中其恩義をわすれ我が女房と密通みつつうなし此條七を追出し田地家屋敷やしき家財迄かざいまでうばひ取んと謀計はかり白鳥はくてうさぎなりといつはくはせ我を癩病らいびやうになし妻子親族にうとませたり故に餘儀なく我古郷を立去て原の白隱禪師はくいんぜんしの御弟子となり日毎に禪道ぜんだう教化けうげを得て忽ちひら悟道ごだう明門みやうもん無位むゐ眞人しんじん至極にしたる白鳥の毒氣殊更の坊より大源たいげんと法名をたまはり無量庵の主になほりたり然るに汝は計略けいりやく首尾能しゆびよくおこなひしと心得我が女房をつまとなし我が娘里を子とよびつひに我が家を押領あふりやうなせしが其後博奕かけごと身代しんだいを失ひ御殿場を立退しと聞えたりすれば惣内の妻の里は汝が娘にあらずして此坊主ばうずが娘なり夫に付て我感ずる處ありかの大井河原辨天堂べんてんだうの前にて相果あひはてし二人の死骸しがいは惣内里には有べからず定めし是には仔細しさいのあらんサア返答せよ何とするやと板縁いたえんたゝいつめければ九郎兵衞發と赤面せきめんしながらも汝こそ不屆者なれコリヤ條七汝は癩病らいびやうとなり妻子のすて處にこまりしを此九郎兵衞が引取世話をして遣せしをかたじけないとも言ず恩を仇なる其惡口然樣なる邪心じやしん者故惡病あくびやうをも引請しなり我が身の因果いんぐわかんぜぬ無得心むとくしん者と云ふ無量庵呵々から〳〵わらひ汝今愚僧をば見た事もなしと云しが扨々俗家に云ぬす猛々たけ〴〵しとは汝が事なり今更かゝる惡人にかはことばはなけれども釋迦しやかは又三界の森羅しんらしやう捨給すてたまはず汝の如き大惡人ぜん道にみちびき度思ふがゆゑ及ばずながら出家につらなる大源が申處を能々よく〳〵承まはれ此上は汝積惡せきあく懺悔ざんげなし本心に立歸れと睨付にらみつけられ九郎兵衞は一言もなく閉口へいこうせし樣子を大岡殿とくと見られコリヤ九郎兵衞今大源が申をきけば汝は重々ぢう〳〵強惡がうあく言語に絶たる者なり依て吟味中入牢申付るとの聲の下より同心ばら〳〵と立掛たちかゝ高手たかて小手こていましめたり又ふか儀も九郎兵衞と密通に及び萬事よろしからざる致方不屆至極なり依て手錠てぢやう宿預やどあづけ申付ると有て是又手がね腰繩こしなはに掛られけり夫より大岡殿九助に向はれ其方段々だん〳〵吟味をとぐる處一々明白めいはくに申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ闇夜あんやせつ提灯ちやうちんの用意もなく參りしとあり其刻限こくげんとくと申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回逮夜たいやに當り候間上新田村無量庵の住寺は生佛いきぼとけの樣に近郷きんがう近村にて申となふるにより何卒回向ゑかうを頼み度旨申聞候故私しは金谷村より歸りし草臥足くたびれあしなれ共其孝心かうしんめで無量庵大源和尚の庵へ參りし頃はゆふ申刻過なゝつどきすぎにして暫時物語いたせし間歸宅は其夜亥刻頃よつどきごろと申に大岡殿又無量庵に向はれ九助が參りし刻限こくげん歸宅きたくの刻限とも尋問たづねらるに九助同樣の答へなり時に九助は無量庵に向ひ其節那方あなたの仰せには厄難やくなんさうあるによりよくつゝしめとの事故どういたしたならのがるゝ事やと御聞おきゝ申たれば前世の因縁いんえんより此世に於て災難さいなんあふなれば遁るゝ事はなり難し然ども命にはつゝがないとのおほせなりしが今日まではまづ露命ろめいつないで居りしなりと云を聞れ大岡殿然らば汝無量庵よりすぐもどりしかとあるに九助仰の如く其夜戌刻過いつゝどきすぎ同所を立出一里ばかり參りし大井川の河原を打越下伊呂村のつゝみへ掛りし時は空もくも眞闇まつくらにて四邊あたりは見えねども急ぎて歸る途中思はず武士さぶらひ突當つきあたり段々樣子を承はりしにつれの女の行衞ゆくゑを尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の里水田屋藤八の手紙を持て私し方へたづねまいる處なりしとて右の手紙を見せられし故同道どうだう致さんと存ぜしにつれの女の在處ありかだ知れぬにより尋ね出し同伴どうはんの上まゐると申され右等みぎらの話にて甚だ手間取亥の刻近き頃たどり參りし處辨天堂の前にてつまづきたれども刻限こくげんは延引致し氣はせくにより死人共心付こゝろづかず其儘歸宅いたし翌朝相良へ御召捕めしとりに相成し事は此程申上し通りに候と申せば大岡殿シテ其武士さぶらひの連の女の在所ありかは知れたるかと問るゝに九助ヘイ其儀は只今申上し通り私し事は相良へ召捕めしとられしにより其後の儀は一向存じ申さず然ども藤八はぞんじをるやもはかり難しと申ければ大岡殿又藤八と呼れ其方安五郎とは如何樣のえんありて九助方へ手紙をそへて遣したるやと有に藤八は其安五郎殿が連立つれだち參られし白妙しろたへいふ女は私し遠縁とほえんの者濱松天神町なる醫師いしの娘に候間此縁を以て九助が方へ手紙をそへて送りし處其翌日安五郎が私し方へ參られ申聞らるゝには大井河原にて我が女房の首をひろひたる節をりく無量庵の大源和尚通り掛られしより回向ゑかうを頼みたるに憫然あはれに思はれ首をはうむくれられしと物語りを聞居し處へ又水呑村のむこ九助が大難を受たりとの知せに付吃驚びつくり致せし儘安五郎殿へは早々さう〳〵挨拶あいさつなし直樣水呑村へとぶが如くに參りし故あとの事は一向に心得申さずと云ふ然るに當時そのころ石川安五郎の一件駿府町奉行にて取調とりしらべられ彌々いよ〳〵大門番の重五郎は巴屋儀左衞門が殺せしとの事なれども白妙其外種々引合も多く是に因て江戸町奉行大岡殿へ引渡し相成しかば九助方引合ひきあひとして今日石川安五郎も呼出され白洲の縁側えんがはに控へ居たり然ば大岡殿石川安五郎とよばれ其方儀妻を同道致し遠州濱松へ罷越たる趣きに相違なきやと有に石川安五郎はハツト平伏へいふくなし仰の如く私し妻の實家は遠州濱松天神町松島專庵と申町醫師に候間同人方へ參る心得にて同道仕り候もつとも主人へは湯治仕つる旨屆け候て罷越たるに相違御座なくと申立たり

ちなみに云此石川安五郎は駿府御城番松平玄蕃頭げんばのかみ殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しによりかゝへ主小松屋の方にても亡逃かけおち屆を願ひ下になし安五郎の方へ身請せし事に取計ひし故今度安五郎は白妙しろたへを妻と申立しことなり看客かんかくあやしみ給ふ事なかれ

扨又大岡殿尋問たづねらるゝは其筋本道ほんだうゆかずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやといはるゝにれば私し妻儀は水田屋藤八親族の者に候へば同人方へ立寄り夫より同人むこの水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬をやと未刻やつどきすぎ同所を出立いた河袋かはぶくろと申處迄は私し儀馬に附添つきそひ參りたるが山王の宮脇にて小便を致し居る中見失ひ候に付後を追掛おひかけしに上新田村の土手に右の馬はくさひ居候が妻も馬士まご行衞ゆくゑ更に知れ申さず候間東西を尋ね廻り往來わうらいの人々に承はるに今此先へ馬士が女を引立て行たりと申により猶ほあと追駈おつかけ候中とくに日は暮方角はうがくわからず彷徨さまよひりしうちはからずも九助に出會段々の物語りに手間取てまどり追々夜も更行ふけゆくしたがひ月も出しかば夫を便りにさがし廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬のくはへて爭ひ居していゆゑ立寄たちよりしに犬は其品を置て一さんにげ行しまゝ右の品を取上見るに女の生首なまくびなりよつ月影つきかげすかして猶熟々つく〴〵改し處まがふ方なき妻白妙が首に候間何者の所業なるやと一時はむねも一ぱいに相成我を忘れて周章しうしやう仕つり居候をりから上新田村無量庵むりやうあんの住僧通り合はせ皆是前世の約束なりと御教化けうげありて右の首を無量庵に葬り呉られ候と云に大岡殿シテ其邊そのへんに男の首はなかりしやと申されければ安五郎否男の首は見當みあたり申さず候へ共其後大井川邊に男女首なき死骸是ある趣き承まはりし故同所へ罷越見候處女の方は妻の恰好かつかう似寄により候へども衣類相違仕つり居により不思議ふしぎに存じ候中右の死骸は水呑村元名主惣内夫婦のよしにて既に人殺し九助捕押とりおさへに相成候趣きに付外に妻の死骸は見當り申さず其儘に打過申候と答へしかば大岡殿始終しじうとくきか何樣なにさま仔細しさいぞあるべし偖々さて〳〵不便ふびんの至りなりて其方が妻の敵は一向知れぬかと有に安五郎されば其後一向に手掛りも御座なく候と答ふるゆゑなほ追々おひ〳〵吟味に及ぶとて一同白洲しらすさげられ老中方始め役々やく〳〵退出たいしゆつせられけり


第十七回


 こゝに又遠州水呑村の先名主せんなぬし惣内夫婦は九郎兵衞が計ひに任せて江戸表へ出府なし靈岸島れいがんじまへんに國者の居るを便りて參り此者の世話にて八町ぼり長澤ながさは町の裏店うらだなを借受惣内そうないは甚兵衞と改名かいめいし又里はおとよと改め少々せう〳〵小商こあきなひを始めしが素より爲馴しなれざる事にてかたいたあしつからし爲る事成す事損毛そんまうのみ多くはや此頃は必至ひつし差迫さしせまり今日にも難澁なんじふいたしける是ぞまことに天のにくしみを受し者なればお里のお豐は洗濯せんたくをし又惣内の甚兵衞は日傭ひよう駈歩行かけあるき手紙使てがみづかひつちこね草履ざうり取又は荷物にもつかつぎ何事に依ず追取稼おつとりかせぎを爲し漸々其日を送りしが或日番町邊ばんちやうへん屋敷やしき中間部屋ちうげんべや小博奕こばくちありて不圖ふと立入しに思ひの外利運りうんを得たりもとよりこのむ道なれば其後は彼方此方と博奕場ばくちばまは歩行あるきけるに斯る惡黨あくたううんの向事ありしにや三度に二度は必らずかちて少しく懷中ふところあたゝまりしかば彌々いよ〳〵能事よきことに思ひ追々大賭場おほとばへも立入博奕ばくちの仲間に入たりけり然るに六月すゑより七月へかけて四五度つゞけて打負うちまけしより又々大いに困窮こんきうなし一時勝たるせつこしらへし夫婦の衣類いるゐは申に及ばず家財かざい道具だうぐみな賣盡うりつくし今は必至ひつしの場合に至りければ何がなしてなほ資本もとでこしらへ大賭場とばはらんと思ひ日夜工夫くふうなし居たりしが茲に甚兵衞は先頃より日雇ひようなどにやとはれし南茅場みなみかやば町の木村道庵きむらだうあんと云醫師あり獨身どくしんなれども大の吝嗇りんしよく者ゆゑ小金を持て居るよしを甚兵衞聞出しければ彼が留守るすへ忍び入て物せんと茲に惡心あくしんを生じ旦暮あけくれ道庵だうあんたくの樣子をうかゞ或夜あるよ戌刻頃いつゝごろきたりて見れば表は錠前ぢやうまへおろしありしかば甚兵衞勝手はかねて覺え居れば今日こそ好機よきをりなれと裏口うらぐちまはり水口をおして見ればあんの如く掛錠かけがねけざる樣子故シテやつたりとついと入り居間ゐま箪笥たんす引明ひきあけて金三四十兩懷中ふところに入れ立上たちあがる處に横面よこつらひやりとさはる物あり何かとうたがひ見れば縮緬ちりめん單物ひとへもの浴衣ゆかた二三枚と倶に衣紋竹えもんだけに掛てありしにぞどくくはさら迄と是をも引外ひきはづして懷中へ捻込ねぢこみ四邊あたりうかゞひ人足の絶間たえまを考へ又元の水口より立出何喰なにくはかほにて我が家をさして立歸りたり道庵だうあんは此日病家びやうかにて手間てま漸々やう〳〵亥刻よつどき近き頃歸り來りあかりともして四邊あたりを見るに座敷を取ちらしあれば不審ふしんに思ひ其へんを改めしに金子四十三兩と縮緬ちりめん單物ひとへもの木綿もめんすぢの單物眞岡まをか中形ちうがた浴衣ゆかた三枚紛失ふんじつせり因て家主孫八へ委細ゐさいはなして訴へに及しによく日定廻りの同心どうしん孫八方へ出張にて道庵だうあんへ心當りの有無うむたづね有しかば道庵だうあんべつに心當りは御座なくと申に然らば日頃出入致す貧乏人びんばふにん又は心やすく致し朝夕てうせき小遣錢こづかひぜになどをかしつかはせし者はなきやと有に道庵は暫時しばしかんがへ別に是ぞと申者も御座なく候へども貧困人ひんこんにんは三四人迄出入致し申候其者の名前一人は先妻せんさいをひ源次郎と申只今本郷金助きんすけ町に罷り在當年四十五六歳に相なり家内困窮こんきうには候へども正直しやうぢき者にて金子貸遣かしつかはし候ても約束やくそくの時日には屹度きつと返濟へんさい致し殊に當時御小人目付を勤居つとめをる其外には傳八と申して私し方に二三年も奉公ほうこう致し是も篤實とくじつ者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一しき町に八百屋やほやを仕つり當時は妻をも持居もちをり候又小網こあみ町三丁目河内屋と申古着ふるぎ屋のうらに九郎兵衞と申藥種やくしゆ屋の若い者にて以前いぜんより出入を仕つり今に毎日まいにちの樣に參る者あれども是も至て正直者なりと云ば同心どうしんもうほか朝夕あさゆふ出入る者は無かと申ければ道庵なほ打案うちあんじ八丁堀長澤町に居る甚兵衞と申者もと遠州へんうまれの由其日稼の貧窮ひんきうにて折々をり〳〵日雇ひやとひにも致し召遣めしつかひし事御座れども此者も在所ざいしよに居し頃は名主役もつとめし由に承まはりしが成程日傭取ようとりには人がらも宜しく折に觸ては留守るす居をも頼みし事御座候へどいさゝかも曲りし心はなき樣に存られ是まで安心致し居其外別段べつだん内外心安く致す者も御座らぬと申立るに同心はシテ其甚兵衞とやらんは一人者か又女房にようばう持かとの尋問たづねに女房もちなりとこたへしかば道庵だうあんの申くちを一々書留かきとめて道庵を歸しなほ種々しゆ〴〵工風くふうの上先八丁堀長澤町の自身番屋じしんばんやゆき家主いへぬし源兵衞を呼出し店子たなこ甚兵衛の身元みもとたゞしけるにかれは當四月同人店へ引うつり夫婦とも三州者の由にて隨分ずゐぶん實體じつていらしく相見え候へ共女房は此節わづらひ居るとの事に付早速甚兵衞を自身番屋じしんばんやへ呼出し段々と吟味ぎんみに及ぶ中外一人の同心どうしんは甚兵衞の家内を取調とりしらぶるに道庵方にて紛失ふんしつせし單物一枚出たる故女房は家主へあづけ甚兵衞は直に召捕めしとりなほ懷中くわいちう其外所々改めし所胴卷どうまきに金十二兩餘あり又同人宅の床下ゆかしたに金二十八兩是あり都合四十兩の金出しにより其金を所持しよぢせし事故を糺されしに申口不分明ふぶんめい故町奉行所へ送りになり入牢申付られたり因て女房は大いにおどろき己病中なれども夫の罪のかるく濟やうにとて茅場町かやばちやう藥師やくし朝參あさまゐりを始めし所或日にはか雨に逢堂前にて晴間はれままちし中無量庵むりやうあん雨舍あまやどり駈込かけこみ不圖ふと種々しゆ〴〵の物語より親子の名乘なのりをなしお里は今さら夢のさめたる如く後悔こうくわいして惣内と姦通かんつうせし事の始より九助をつみおとし夫よりかげかくして江戸表へいでいま難澁なんじふをする迄の事どもをつぶさに語りければ大源和尚だいげんをしやうは大いに驚き此日はお里に分れ其後和尚は白洲しらすにてお里より聞たる委細ゐさいの事を申立しにより段々だん〳〵吟味ぎんみの上終に甚兵衞はつゝおほせず因て元惣内と申せし事より其外人殺し等の事まで明細めいさい白状はくじやうに及びしとぞ


第十八回


 享保二丁酉年ひのとゝりどし十月廿二日双方さうはうとう又々評定所ひやうぢやうしよへ呼出しに相成前規の通役人方出座にて公事くじ人名前一々呼立濟て大岡越前守殿九郎兵衞を見られ其方願書の趣き段々だん〳〵取調とりしらべし所たしかなる證據しようこもなし然らば屹度きつと人殺は九助とも定め難きを麁忽そこつの訴へに及び候段不屆ふとゞ至極しごくなり夫人の命のおもきことは云迄もなきを只衣類の血と鼻紙入の落て有しを以て證據しようことなし申立ると雖もくびもなき兩人の死骸しがいたしかなる證據とは申難し別に何ぞ確なる證據にてもありやと申さるゝにおふかは九郎兵衞がこたへをも待ず進み出御道理だうりの御尋問せがれ惣内は幼少えうせうの頃私しが毎度きうゑしによりて灸あとこれ有又子供同士の口論にかまきずを付られし痕も御座候へば縱令たとへくびはなくとも悴と申者はたしかと見とめしと申ければ大岡殿シテ其疵痕きずあとは何れに有やと尋問らるゝに左りのかたより脊へかけ四寸程もありと云へば大岡殿又さと死骸しがい證據しようこは何ぢやとあるにお深是はよめとは申ながら私しにはしかと知れませぬと答へしかば大岡殿は九郎兵衞に向はれコレ其方は永くやしなひしむすめ死骸しがいなれば見覺みおぼえが有ん何ぞ目的めあてはなきやと申さるゝに九郎兵衞答へてかれ現在げんざい一人の娘なれば何見違ふことの候べき姿すがたと申又衣類と云と申を大岡殿コレ九郎兵衞娘がからだ疵處きずしよ其外證據はなきやと云るゝに九郎兵衞は然樣で御座ると云ば大岡殿しかと左樣かとねんおさるゝに九郎兵衞仰の通りなりと答へしかば大岡殿コリヤ村役人周藏木祖兵衞惣内夫婦横死わうしの節檢使けんし立會たちあひの上にて其方共も改めたで有ん兩人の死骸しがい如何いかゞなりやと有に周藏木祖兵衞は首を上仰の通り御領主の役人檢使の節改めし處かたよりへかけきずが有之候へ共惣内は何時の間に斯る大きずこしらへしやと一同不審ふしんに存じたりと申せば大岡殿はて女の方は何ぢやいつはりを申な此方にも聞込し儀も有ぞ有體ありていに申立よと申さるゝに周藏木祖兵衞の兩人は其女のかばねあらためし處身肉に疵等きずとうは御座らねども只二の腕に安五郎二世と彫物ほりものが御座候と申を大岡殿聞れてナニ安五郎二世と有たかコリヤ九郎兵衞其方がむすめは以前賣女ばいぢよでも致したか安五郎二世と有は九助か惣内の幼名えうみやうにても有しかと申さるゝに九郎兵衞は以外いぐわいの事なれば答へに當惑たうわくなせしがいへ然樣なものでは御座らぬと申をお深は傍邊よりモシ九郎兵衞殿其彫物ほりものは此あひだソレちひさく有たと云れたではないかと九郎兵衞へで知らせる樣子なるを大岡殿は見て取れ大おん默止だまれ此出過者すぎものおのれ尋問たづねはせぬぞ只今九郎兵衞が申には里のからだきずは無いとあり又汝もよめではあれど知らぬと答へしには非ずや然るを今村役人共が申立るを聞て九郎兵衞に取拵とりこしらへごとを云はせんとする心底しんてい不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞかれ駿府すんぷ二丁目小松屋のかゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへと申を身請して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて罷越まかりこし途中とちう大井川のはたにて何者の所業しわざ共知れず殺され其くび下伊呂しもいろ村のをかにていぬがくはへあらそひ居たりしを見付しと安五郎申たり又今一人男のくびは同所を少しはなれしをか小松こまつの根がたを犬のほりし跡よりあらはれ出たるが其者は藤枝宿ふぢえだじゆく馬丁うまかた松五郎と申者の由是亦同村の者ども申立たり然すれば九郎兵衞親子おやこ奸計かんけいにて右の死骸しがいへ惣内夫婦の衣類いるゐおき兩人の首を取隱し九助を罪におとさんと謀計し事かゞみかげうつるが如し依ては惣内夫婦の者存命ぞんめいいたし居ならん重々ぢう〳〵不埓ふらち至極の奴輩やつばらなり汝等がたくみ此越前が白眼にらみし處決して相違あるまじ如何に〳〵と申さるれ共九郎兵衞は猶もおそれずは御奉行樣の仰共存せず現在我子供等の存命ぞんめい致し居る者を人手に掛し抔といまはしき儀を訴出る者の有べきことには九助が申上る事而已のみ御取上に相成只々私しを御しかりおそれながら御奉行樣の依怙贔屓えこひいきと申ものと云を大岡殿聞ナニ九郎兵衞依怙贔屓と申か能承はれ天下の裁斷さいだんするいさゝかたりとも私しのを以て依怙えこ沙汰さたをなすべきやすべて汝が申立は僞り飾ゆゑ本末不都合の事而已多くむこの惣内は九助が留守中に里と不義致しおのれは惣内母と密通みつつうに及び居しは畢竟ひつきやう子供等が不義を汝等が執持とりもち致せしも同前なりしかるに九助は其等の儀をいからずして速かに離別に及び父が遺言ゆゐごんおもんじ不埓ふらちの伯父女房等に大切たいせつの金子を配分はいぶんいたし遣たるを好事として義理ぎりも人情もなき惣内方へ入こみそれにてもなほ倦足あきたらず無罪の九助をとがおとし罪科に行はせんとたくみし段人面獸心とは汝がことなり今見よ確成たしかなる證據しようこを出し二言とははかせぬぞ又同じ衣類いるゐを着たるは一がう往々まゝある事加之そのうへ女が死骸も他人にて白妙しろたへに相違なし然らば惣内里では有まじサア有體ありていに白状致せ左右とかく強情を申をり只今にも惣内夫婦が出たならわれは何と申譯致んぞと申さるゝにお深は又進み出恐れながら女は別人べつじんかは存ぜねども悴儀は衣類いるゐのみたるのみに是なくおび脚絆きやはん迄相違御座らぬと左右強情に言張いひはるに大岡殿大聲に又しても入ざる差出さしで默止だまれ其日は九郎兵衞同道にて惣内夫婦金谷かなや村の法會ほふゑせきまゐり歸りも同道なりしに九郎兵衞は途中とちうより聊か先へ戻りしと申ではないかしかるに惣内はおのれの女房のかげかくし態々他の女をつれころされる程の間合もあるまじ夫をしひて申なら里は宅へもどりしかと有にお深いゝへかへりは致さぬと云にぞ大岡殿此頑愚たはけめ己が連出したる女房にようばう里を脇へ遣し又他の女を連て殺されたなどと然樣さやうに自由になると思ふか公儀こうぎいつはかすめんとする横道わうだう者めコリヤ安五郎いま一應白妙が事故を九郎兵衞始めへ申きかせよと有に安五郎ハツト答て其儀は先日せんじつよりも申上し通り故郷こきやうへ參る途中とちうつま白妙を馬士まごうばはれ其後首ばかりを下伊呂村のをかにてひろかみ新田村の無量庵へ頼みはうむりしとの手續きを委細に申述ければ大岡殿コリヤ九郎兵衞ふかあれきいたかて又安五郎其方が妻には二のうでに安五郎二世といれずみあると云が然樣さやうかとあるに安五郎はハツと云て赤面せきめんしければ大岡殿コレ安五郎其河原の男女の死骸はさつするところ馬士が其方の妻を勾引かどはかさんとするをり人違ひとちがひ等にて九郎兵衞か惣内の中にて兩人を殺し其始末にこまりし處より首を切て知れぬ樣になさんため衣類を着せかへ九助を罪におとさんと致せしものと思はる然すれば其方の女房のかたきは是に居る九郎兵衞なるぞと云るゝに九郎兵衞は思はずハツと云て顏色がんしよく變りたり大岡殿是にかまはれずコリヤ藤枝宿ふぢえだじゆく問屋とひや儀左衞門并に馬士まご權兵衞馬持八藏と呼れコレ八藏其方召使松五郎と申馬士の首は下伊呂村の岡にありて死骸は見えざる趣きを注進ちうしんせしが其後も見當らぬかと問るゝに八藏おほせとほり首のみ見當りしにより其後からだをも所々相探あひさがし候へ共一向に知れ申さず尤も下伊呂村しもいろむらの河原に男女の死骸これある趣きに付樣子やうすたづね候處夫は最寄もよりの百姓夫婦なりとか申ことゆゑ其外には心あたりも御座なくと申にぞ大岡殿然樣さうして其松五郎の出生は何國にて平常ふだんの行状は如何なる者なるぞと有に八藏されば其松五郎儀は信州伊奈郡の者とのみ申居しが道中馬士などはもとより本國もしかと相知申さず平常へいぜいは然まで惡人とも心得ざりし處追々おひ〳〵跡にて承まはるに一體勾引かどはかしなど致せし者との由なりと申ければ大岡殿コレ九郎兵衞八藏の申立を聞しやの通り女は安五郎が女房男は藤枝ふぢえだ宿の馬士松五郎に相違さうゐも有まじかくの如く明白めいはく相分あひわかりたる上は眞直まつすぐに申上よいつはりを云ば嚴敷きびしく拷問がうもんを申付るぞ骨をくだきても云せずに置べきや如何に〳〵と有に九郎兵衞は猶も強情おしつよく是はまことに以て御無體むたいなる仰かな私し申上る儀に聊かも僞りは御座なくと云張いひはるにぞ大岡殿いや僞りなしとは云さぬぞコレ〳〵本多長門守家來共只今承まはる通り大井河原の男女の死骸しがい推察すゐさつする所石川安五郎妻と今一人は其を勾引かどはかせし馬士まご松五郎に相違有まじ依ては其方共の決斷けつだん甚だくら依怙贔屓えこひいき沙汰さたに聞ゆるぞ此申譯があらば申聞よとあるに本多家の役人共追々吟味づめの樣子を聞今さら何ともちんずべき樣なく赤面せきめん閉口へいこうなし甚だ恐れ入候旨答へければ大岡殿には彌々いよ〳〵以て申わけなきやと申さるゝに三人口をそろへ何とも申譯御座なくと申にぞ越前守殿只今に相成申譯なしと申せども其奉行頭人たる者あやまち有ば則ち領主の罪領主の罪は則ち將軍家の罪なり民は國のもと無罪の民をばつする時は以てたるべし一夫いきどほりをふくめば三年雨降ずと云先哲せんてつの語あり百姓は國の寶人の命は千萬金にも換難かへがたし然るを正直しやうぢき篤實とくじつなる九助を無實の罪におとし入しは奉行の不明ふめいなり其不明なる者におもき役儀を申付たるは其領主の落度也おちどなり夫此度の一件は其方共必ず九郎兵衞より賄賂わいろを請しに相違有まじと正鵠ほしをさゝれて理左衞門はグツト言て暫く無言むごんなりしがいや然樣さやうの儀は御座なくとぐづ〳〵答ければ大岡殿假令たとへ其方ちんずるとも不吟味の罪はのがれぬぞ此上にも申かすめんとなさば餘儀なく拷問がうもんにも掛ねばならず然すれば武士の恥辱ちじよくは申に及ばず主人へ猶はぢを與る道理なりサア尋常に申立よと言るゝに理左衞門最早のがれぬ所と覺悟をなし實は九郎兵衞より時候じこう見舞としていさゝ到來たうらいせしと申ければ大岡殿其は何程もらひしと云に理左衞門金十五兩貰ひたりと申せば大岡殿ナニ金十五兩とやコレ理左衞門時候見舞とあらば魚鳥ぎよてうの類か他國の産物さんぶつならば格別かくべつ役柄やくがらをもかへりみず金子を受納じゆなふなせしは即ち賄賂也わいろなり下役黒崎又左衞門市田武助其方共も受納じゆなふ致せしならんと有に兩人は今上役の理左衞門が白状なせし上はかくすもえきなしと思ひ上役の申付に違背ゐはいも如何と存じ金三兩づつ受納せしと言ければ大岡殿假令上役の申付なりとて不正ふせいの金を受しは重々ぢう〳〵不屆ふとゞきなり三人共あがり屋入申付ると言れ又九郎兵衞の方を見られてコリヤ九郎兵衞只今其方へ見するものが有夫を見て驚くなソレ〳〵彼の兩人を引出せとの指揮さしづしたがひ同心は惣内を本繩ほんなはに掛引出せばあとより女房お里も手鎖てがねにて家主付添立出る九郎兵衞夫婦は是を見るよりもハツトおどろあきれたる體なるにぞ大岡殿は何と九郎兵衞夫婦の者此兩人は知らぬ者か當春大井川のはし下伊呂村に於て九助の爲に切害せつがいされしと汝等が訟訴うつたへ出たる惣内夫婦は今江戸本八丁堀長澤町と云所に罷在まかりあり又々不埓ふらちの儀有て召捕めしとり吟味なせしに委細ゐさい白状におよびたりさりながら相果あひはてたる惣内夫婦ふうふ此世に居べきはずなければ是は必定幽靈いうれいか又は狐狸こりの類か惣内に化たるかが目には見分らず汝等は親子の事故目利めきゝ屹度きつと知れるで有う幽靈か又化生けしやうか何ぢや汝等が目には何と見えるコレ九郎兵衞ふか頭を上てよく見留みとめよコリヤ惣内此程申立し如く大井川のはたにて人殺しをせし趣き今一おう申聞よと聞るゝに今さら面目なき體にて私し儀里と夫婦に相成しより段々だん〳〵村中の氣請きうけ惡敷あしくなり役儀は九助へ申付られ家もさびしく成行中にて母は日増しにおごり増長ぞうちやう追々おひ〳〵困窮こんきうせまりし折から九助が江戸表にて金子を蓄殖たくはえたる趣きを聞て羨敷うらやましく存じ私し夫婦も江戸へ出稼でかせたくは存じたれども外聞ぐわいぶんも惡く彼是延引えんいん致し居中金谷村に法會ほふゑありて九郎兵衞諸共もろとも里を連て罷越まかりこし歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒のゑひにて河原の石にもたれ熟睡じゆくすゐいたしさめぬゆゑ私し儀藥を買に參り漸々やう〳〵に戻り來りしに九郎兵衞は何者かを相手にたゝかひ居によりかくたすけんと存じ宵闇よひやみ暗紛くらまぎれに切付たるは女の聲ゆゑ偖は女房を切たるかと狼狽うろたへたる處に傍邊かたはらより男一人打て掛りしを兩人して追廻おひまはし漸々に討留うちとめ熟々よく〳〵見れば男も女も知らぬ者に付大いに驚きしを九郎兵衞は了簡れうけんありとて私し共の衣類とかれ等の衣類着替きかへさせ一時も早く立退たちのく樣にと申故あと氣遣敷きづかはしくは存ずれども九郎兵衞が申ことばまかせ其所より直樣すぐさま江戸表へ罷出改名とう致し居候なりと申立ければ大岡殿コレ九郎兵衞かれが申はいつはりか惣内が白状に相違有まじ左右とかく未練みれんに爭はずとも最早もはや有體ありていに白状致せと申さるゝに流石さすが奸惡かんあくの九郎兵衞も茲に至て初めて觀念くわんねんなし今は何をか包み申さん只今惣内が申上しに相違御座なくかれが藥を調とゝのへに參りし跡にて女の泣聲なきごゑ致すにより里が勾引かどはかされ候事と存じ惡者とたゝかひ居候中惣内立戻たちもどり來兩人にて其者を追掛おひかけ河原の方へ到り暗紛くらまぎれの出會頭であひがしらに切込たれば女のさけぶ聲に里を切しことやと驚きながら漸々やう〳〵くだんの男をも切害せつがい仕つり其うち月も出候に付熟々よく〳〵見候へば男女兩人とも存ぜぬ者ゆゑ一時當惑は致せしが今更致し方も無之ゆゑ茲に惡計あくけいを考へ出しかねねたましき九助に此人殺しのとがおはかれなき者にせんと存じ惣内夫婦の者の衣類を死人へ着替きせかへ惣内お里兩人が影をかくさせ其日法會ほふゑせきにて盜みおきたる九助の鼻紙入はながみいれを後の證據に死骸の傍邊かたはらに落し置又せがれ夫婦と申立る爲死人の首をきり小半道程傍なるをかの小松の根へかくうづおき扨惣内夫婦切害に逢たる旨領主の郡奉行へ訴へ出二十兩餘の賄賂まいないつかひ九助を殺さんと致せしは如何なる天魔てんま魑入みいりしやと今更後悔仕こうくわいつかまつるもせんなき事なればせめては罪障ざいしやう消滅せうめつため懺悔ざんげ仕つるなり因ては御殿場村の條七娘里儀の不義も何も引纏ひきまとめて惡事は此九郎兵衞なれば御はふどほりの御所刑しおきを願ひ奉つると委細ゐさい白状に及びしかば大岡殿神妙しんめうなりと有て又お深に向はれ只今たゞいま九郎兵衞が申通り相違なきやと尋問たづねらるゝに最早一ごん強情がうじやう言難いひがたく恐れ入たりと申にぞ大岡殿夫れ見よ天にまなこなしと雖も是を見天に耳なしと雖も是をきゝ正邪せいじや判然はんぜんたるは天道の照し給ふ處なり其罪成ぬ九助が無實は今日顯然げんぜんたる上からは出牢しゆつらうを申付村役人共へ預けつかはす其外松本理左衞門始め吟味方役人并に九郎兵衞ふか惣内里等は爪印つめいん申付ると有て何れも口書爪印とぞなりにける

第十九回


 時に享保きやうほ二年十二月廿五日一どう白洲しらすに於て申渡され左の通り

本多長門守ほんだながとのかみ家來けらい
松本まつもと左衞門

其方儀そのはうぎおもき役儀をも勤ながら百姓九郎兵衞より賄賂わいろの金銀をうけそれため不都合ふつがふの吟味に及びつみなき九助を一たん獄門ごくもんに申付候條重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付大小取上とりあげ主家しうか門前拂もんぜんばらひ申付る

本多長門守家來
黒崎くろざき又左衞門
市田武助いちだぶすけ

其方ども支配とは申ながら松本理左衞門申おもむきに相任あひまか賄賂わいろの金銀受納じゆなふ致せし而已のみならず不都合つがふの吟味に及び候條不屆至極に付主家しうか門前拂申付る

本多ほんだ長門守領分りやうぶん
遠州ゑんしう榛原郡はいばらごほり水呑村百姓
九郎兵衞
とり五十七歳

其方儀若年より不身持ふみもちに付兄九郎右衞門勘當かんだうを受け相摸國さがみのくに殿場てんば村百姓條七世話に相成居候中惡法あくはふを以て條七を難病に罹らせ同人つまてつ密通みつつうの上條七を追出し家屋敷いへやしき田畑たはた家財等かざいとう押領あふりやう致し條七娘里を押て自分養女に致しをひ九助が信實にて古郷へ連歸り候節九助へ里を娶合めあはせ家内かない不如意ふによいに付九助江戸表へ奉公に出候留守中娘さと村役人惣内と不義致し其身も惣内母ふか密通みつつうに及び九助より配分はいぶんの金子を取り里を惣内妻に致し其後下伊呂村にて石川安五郎つまならび馬士まご松五郎を切殺し惣内夫婦を密かに立退せ同人夫婦切害せつがいあひし趣きに訴へ出九助を罪におとさんと謀計はかり上をいつはりし始末しまつ公儀を恐れざる種々惡事重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付死罪の上獄門ごくもん申付る

本多長門守ほんだながとのかみ領分りやうぶん
遠州ゑんしう榛原郡はいばらごほり水呑村せん名主
當時たうじ八町ぼり長澤ながさは
げん兵衞だな惣内事
甚兵衞
とり二十七さい

其方儀村役中不正ふせいの儀多くことに九助妻里と密通みつつうに及び九助親類しんるゐいつはり水田屋藤八方より金子百八十兩餘かたり取り其後下伊呂村にて石川安五郎妻ならびに馬士まご松五郎の兩人を切害せつがいなし九郎兵衞と申合せ其所そこより出奔しゆつぽんいたし甚兵衞と改名かいめいの上長澤町源兵衞たな罷在まかりあり裏茅場町うらかやばちやう醫師いし木村道庵方へしのび入金子四十三兩其外そのほか衣類いるゐ品々ぬすみ取候始末しまつ重々ぢう〳〵不屆至極しごくに付引廻ひきまはしの上獄門ごくもん申付る

本多長門守領分
遠州ゑんしう榛原はいばら郡水呑村先名主
惣左衞門後家ごけ
ふか
酉四十六歳

其方儀せがれ惣内不屆の儀を押隱おしかくし九郎兵衞を後見こうけん人と名付我が家へ入れ密通みつつうに及びし而已ならず同人と申合九助へ無實むじつの申かけをなし亡なはんとせし段不屆至極に付村拂むらはらひ申付る

惣内そうないつま
さと
酉二十一歳

其方そのはう養父やうふ九郎兵衞申付とは云ながら夫九助が所持しよぢ曼陀羅まんだらぬすみ惣内へ相わたし藤八より金子をかたり取せ候段不屆至極に付遠島ゑんたうをもおほせ付らるべきの所實父じつぷ條七當時出家大源がねがひによりつみ一等をゆるさせられ輕構けいかまひ申付る

駿州すんしう江尻宿えじりじゆく百姓
儀左衞門
酉三十二歳

其方儀そのはうぎ石川安五郎小松屋遊女いうぢよ白妙しろたへ同道にて立退たちのき候節私しの趣意しゆいを以て追掛おひかけ彌勒みろく町番人重五郎と申者さゝへ候を切害せつがいに及び候段不埓ふらち至極しごくに付死罪申付る

同人妻
くめ
酉二十四歳

其方儀重五郎切害人せつがいにんは石川安五郎とのみ心得しひうつたへに及び候條心得違ひなり之に依て嚴敷きびしくしかり置く

松平玄蕃頭まつだひらげんばのかみ家來けらい
石川安五郎
酉二十六歳

其方儀吟味ぎんみ致し候處別段べつだん惡事あくじ無之とは申ながら不行屆の儀も有之候故主人方にて遠慮ゑんりよ申付る

駿州すんしう相良領さがらりやう水呑村名主
九助
酉二十七歳

其方儀吟味相遂あひとげ候所いさゝかも惡事是なく且亡父の遺言ゆゐごんまもり不埓の伯父を呼戻よびもどし養ひ候而已ならず其後大金をも分與わけあたへし所數月すげつ無實むじつの罪にて入らう致し居し段不便ふびん思召おぼしめされ且つ至孝の者に付苗字めうじ帶刀たいたう差許さしゆるす樣領主へ仰付らる之によつて村役の儀は前々之通り心得べし

九助妻
せつ
酉十九歳
駿州すんしう島田宿しまだじゆく
水田屋藤八

其方共儀むこ夫等をつとら災難さいなんを歎き艱難辛苦かんなんしんくの上公儀巡見使じゆんけんしうつたへ出申立明了あきらかなるにより善惡判然と相あらはれ九助の寃罪ゑんざいそゝぎし信義しんぎ貞操ていさうの段厚くほめ

遠州ゑんしう上新田村かみしんでんむら
無量庵むりやうあん住持ぢうぢ
大源
駿州すんしう鞠子宿まりこじゆく
柴屋しばや住持ぢうぢ
宗久

其方共儀不埓ふらちすぢも之なしかまひなし

其外双方さうはう付添つきそひの役人共みぎの通り申わたせしにより其むね心得こゝろえよと申渡されける實にや大岡殿の裁斷さいだん明鏡めいきやうに物をうつすが如く後世こうせい才量さいりやうたゝへるもむべなるかな


水呑村九助一件

底本:「大岡政談」帝國文庫、博文館

   1929(昭和4)年415日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※活字の回転、印刷のかすれは注記なしとしました。

※大見出し「解題」において、「衛」と「衞」、「本多源右衞門」と「本多源左衞門」、「煙草屋喜八」と「烟草屋喜八」の混在は、底本通りです。

※大見出し「解題」の誤植を疑った箇所を、「明治秘史疑獄難獄」一元社、1929(昭和4)年630日発行の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「大岡政談首卷」において、「公事訟訴くじそしよう」と「公事訴訟くじそしよう」、「諫鼓」と「諫皷」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、「懷妊」と「懷姙」、「遠州屋彌次六」と「遠藤彌次六」と「遠藤屋彌次六」、「駒木根肥後守」と「駒木根肥前守」、「野山市十郎」と「野々山市十郎」、「高間左膳」と「高間大膳」、「錢屋四郎左衞門」と「錢屋四郎右衞門」、「堀田相模守」と「堀田相摸守」、「所司代」と「諸司代」、「ひそか」と「ひそか」、「成るべし」と「成べし」、「たづね」と「たづね」、「ねがひ」と「ねがひ」、「むかし」と「むかし」、「掘出ほりだす」と「掘出ほりだしたり」と「掘出ほりだされし」と「掘出ほりいだし」、「大坂」と「大阪」、「欠」と「缺」、「とふらひ」と「とふらひ」、「それがし」と「それがし」、「はじめ」と「はじめ」、「四十七兩二分」と「四十七兩二歩」、「たがひに」と「たがひに」、「思召おぼしめし」と「思召おぼしめし」、「引籠ひきこもり」と「引籠ひきこもり」、「ほし」と「し」、「つつみ」と「つゝみ」、「手懸てがかり」と「手懸てがかり」、「立去たちさり」と「立去たちさり」、「うかゞへ」と「うかがへ」、「つかまつ」と「つかまつ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、「御短刀」に対するルビの「おたんたう」と「おんたんたう」、「種々」に対するルビの「しゆ〴〵」と「いろ〳〵」と「さま〴〵」、「老中」に対するルビの「らうちう」と「らうぢう」、「笈摺」に対するルビの「おひずる」と「おひずり」、「親父」に対するルビの「おや」と「ちち」と「おやぢ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、ご落胤誕生、澤の井死亡年の元号、干支の表記に「寛永二申年」と「寛永くわんえい三年」と「寶永二年いぬ」と「寶永二年」と「寶永三戌年いぬとし」と「寶永二年の」と「寛永二申年」と「寶永二酉年」と「寶永はうえい二酉年」と「寶永三酉年」と揺れが生じているのは、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、お三婆殺人事件発生の日付が「享保きやうほ丙申ひのえさるしも月十六日」と「享保きやうほ元申年十一月廿八日」揺れが生じているのは、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談 天一坊実記全」鶴聲社、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。ただし、底本と同じ表記の人名、地名は「大岡政談1〔全2巻〕」東洋文庫、平凡社、1984(昭和59)年710日初版第1刷発行の表記で確認して、あらためました。

※大見出し「白子屋阿熊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 白子屋阿熊之記」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「煙草屋喜八一件」において、「いたし」と「いたし」、「不屆ふとゞき」と「不屆ふとゞき」の混在は、底本通りです。

※大見出し「煙草屋喜八一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 煙草屋喜八之伝」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「村井長庵一件」において、「八ヶ年」と「八箇年」、「本覺院」と「本學院」、「武田長生院」と「竹田長生院」、「あづかる」と「あづかる」、「成るべし」と「成べし」、「献」と「獻」、「かなしみ」と「かなしみ」、「手續てつゞき」と「手續てつゞき」、「虫」と「蟲」、「戯」と「戲」、「絲竹」と「糸竹」、「いぶかしく」と「いぶかしく」、「ねがひ」と「ねがひ」、「訟訴書」と「訴訟書」、「不屆ふとゞき」と「不屆ふとゞき」、「むかし」と「むかし」、「お安」と「御安」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」において、「種々」に対するルビの「いろ〳〵」と「しゆ〴〵」と「さま〴〵」、「何卒」に対するルビの「どうぞ」と「なにとぞ」、「然樣」に対するルビの「さやう」「さう」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わし」、「大聲」に対するルビの「おほごゑ」と「たいせい」、「貴殿」に対するルビの「きでん」と「おまへ」と「あなた」と「きさま」、「仕業」に対するルビの「しわざ」と「しごと」、「都度々々」に対するルビの「つと〴〵」と「つど〳〵」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」において、道十郎牢死の「寶永七年九月廿一日」と「寶永七年九月廿七日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 村井長庵之記」鶴聲社、1884(明治17)年6月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「直助權兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「越後傳吉一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談」銀花堂、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「越後傳吉一件」において、「伊藤伴右衞門」と「伊藤半右衞門」と「伊東半右衞門」、「道澤」と「道宅」、「鴻の巣宿」と「鴻巣宿」、「森田や」と「森田屋」、「猿島河」と「猿島川」の混在は、底本通りです。

※大見出し「傾城瀬川一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「松屋文右衞門」と「小松屋文右衞門」、「十七屋」と「十七家」、「鈴ヶ森」と「鈴が森」の混在は、底本通りです。

※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「十七屋」に対するルビの「となや」と「となつや」と「とをつや」の混在は、底本通りです。

※大見出し「畔倉重四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「小間物屋彦兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録小間物屋彦兵衛之伝」荒川藤兵衛、1886(明治19)年2月出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「後藤半四郎一件」において、「わからず」と「わからず」、「天窻」と「天窓」、「それがし」と「それがし」の混在は、底本通りです。

※大見出し「後藤半四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「松田お花一件」において、「お兼」と「おかね」のの混在は、底本通りです。

※大見出し「松田お花一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「嘉川主税一件」において、「小金ヶ原」と「小金が原」の混在は、底本通りです。

※大見出し「嘉川主税一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「小西屋一件」において、「ばかり」と「ばかり」、「お光」と「おみつ」、「冰人」と「𫥇人」の混在は、底本通りです。

※大見出し「小西屋一件」において、「老婆」に対するルビの「ばうも」と「らうば」の混在は、底本通りです。

※大見出し「小西屋一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「雲霧仁左衛門一件」において、「おとき」と「お時」、「兩換町」と「兩替町」、「常盤屋」と「常磐屋」の混在は、底本通りです。また、仁左衛門らが文蔵夫婦から金を騙し取った日付が「享保十二年」と「享保十一年」と混在するのは底本どおりです。

※大見出し「雲霧仁左衛門一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「津の國屋お菊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「水呑村九助一件」において、「利三」と「利三郎」、「喜平治」と「喜平次」と「嘉平次」、「川口」と「河口」、「お梶」と「おかぢ」、「お里」と「おさと」、「お深」と「おふか」、「ハツと」と「ハツト」、「櫻井文右衞門」と「櫻井文左衞門」、「田村治兵衞」と「田村治太夫」、「巴屋儀左衞門」と「巴屋儀右衞門」、の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、「白妙」に対するルビの「しろたへ」と「しらたへ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、九助江戸滞在中の白洲が「享保二年九月廿一日」、その帰村後になる久助の惣内夫婦殺害容疑に関する願書日付「享保二年二月廿三日」、久助口書における「享保二年四月廿四日」、続く大岡越前守の白洲「享保二丁酉年五月十八日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、惣内夫婦殺害日時について「二月二十九日」と「三月二十九日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴声社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

入力:石塚一郎

校正:みきた

2019年426日作成

青空文庫作成ファイル:

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