浮舟
泉鏡花




浪花江なにわえ片葉かたはあしの結ぼれかかり──よいやさ。」

 と蹌踉よろりとして、

「これわいな。……いや、どっこいしょ。」

 脱いで提げたる道中笠、一寸ちょっと左手に持換えて、紺の風呂敷、桐油包とうゆづつみ、振分けの荷を両方、蝙蝠こうもりの憑物めかいて、振落しそうに掛けた肩を、自棄やけに前に突いて最一もひと蹌踉よろける。

「……解けてほぐれて逢う事もか。何をやがる。……此方こっちい加減にとろけそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」

 さっと沈めた浪の音。磯馴松そなれまつ一樹ひとき一本ひともと、薄い枝に、濃い梢に、一ツずつ、みどり淡紅色ときいろ、絵のような、旅館、別荘の窓灯を掛連ね、松露しょうろが恋に身を焦す、紅提灯ちらほらと、家と家との間を透く、白砂に影を落して、日暮の打水うちみずのまだ乾かぬ茶屋の葭簀よしず青薄あおすすきおんなの姿もほのめいて、穂に出て招く風情あり。二見ふたみの浦づたい。

 真夏の夜の暗闇やみである。この四五日、引続く暑さと云うは、日中ひなか硝子ビイドロを焼くが如く、かっと晴れて照着てりつける、が、夕凪ゆうなぎとともにどんよりと、水も空も疲れたように、ぐったりと雲がだらけて、煤色すすいろの飴の如く粘々ねばねば掻曇かきくもって、日が暮れると墨を流し、海の波は漆をうねらす。これでいて今夜も降るまい。癖にって、一雫ひとしずくの風をいざなう潮のもないのであった。

 男は草鞋穿わらじばき脚絆きゃはん両脚もろずね、しゃんとして、あたかも一本の杭の如く、松を仰いで、立停たちどまって、……まなじりを返して波をた。

「ああ、唄じゃねえが、一雨ひとあめしいぜ……」

 俄然がぜんとして額を叩いて、

「慌てまい。六ちゃん、いや、ちゃんと云う柄じゃねえ。六公ろくこうろくでなし、六印ろくじるし月六斎つきろくさいでいやあがら。はははは。」

 肩を刻んで苦笑いして、またふらふらと砂を踏み、

「野宿に雨は禁物でえ。」

 その時つまずく。……

「これわいな! 慌てまいとはこの事だ。はあ、松の根ッ子か。この、何でもせい。」

 岸辺の茶屋の、それならぬ、渚の松の舫船もやいぶね。──六蔵は投遣なげやりに振った笠を手許てもとに引いて、屈腰かがみごしに前を透かすと、つい目の前に船首みよしが見える。

 船は、かいもなくもなしに、浜松の幹に繋いで、一棟、三階立は淡路屋と云う宏壮な大旅館、一軒は当国松坂の富豪、池川の別荘、清洒せいしゃなる二階造、二見の浦の海に面した裏木戸のりょうあわい、表通りへ抜路ぬけみちの浜口に、波打際に引上げてあった。

 夫女巌めおといわへ行くものの、通りがかりの街道から、この模様をながめたら、それも名所の数には洩れまい。ふなばたぼらは飛ばないでも、へさきに蒼い潮の鱗。船は波に、海に浮べたかと思われる。……があいを流した池のような浦の波は、風の時も、渚に近いこの船底を洗いはせぬ。たわむれにともづなのもやいを解いて、木馬のかわりにぐらぐらと動かしても、縦横に揺れこそすれ、洲走すばしりに砂をすべって、水にさらわれるようなうれいはない。

 気の軽い、のん気な船は、くだんの別荘の、世に隔てを置かぬ、ただ夕顔の杖ばかり、四ツ目に結った竹垣の一重を隔てた。濡縁越ぬれえんごしの座敷から聞え来る三味線の節の小唄の、二葉ふたは三葉みは、松の葉に軽く支えられて、流れもあえず、絹のような砂の上に漂っているのである。



「この何でもせい。……住吉の岸辺の茶屋に、よいやさ。」

 と風体ふう、恰好、役雑やくざなものに名まで似た、因果小僧とも言いそうな這奴しゃつ六蔵は、そのふなばたに腰を掛けた、が、舌打して、

「ちょッ面倒だ。宿銭とまりびたでおさだまり、それ、」

 と笠を、すぽりと落し、次手ついでに振分の荷を取って、笠の中へ投げ込んで、

「いや、お泊りならばァ泊らんせ、お風呂もどんどん湧いている、障子もこの頃はりかえて、畳もこの頃かえてある。──嘘を吐きゃあがれ。」

 空手からてを組んで、四辺あたりを見たが、がッくりと首を振って、

「待てよ……青天井が黒光りだ。いなびかりちっと気がえがね、二見ヶ浦は千畳敷、浜のいさごは金銀……だろう、そうだろそうだろうであろ。成程どんどん湧いていら、伊良子いらこヶ崎までたっぷりだ。ああ、しかし暑いぜ。」

 腕まくりを肩までして、

「よく皆、かわらの下の、壁のなかへえってやがる。」

 瓦の下、壁の裡、別荘でも旅館でも、階下したも二階もこの温気うんきに、夕凪のうしおを避け、南うけに座を移して、伊勢三郎いせのさぶろう物見松ものみのまつに、月もあらば盗むべく、神路山かみじやま朝熊嶽あさまがたけ、五十鈴川、宮川の風にこがれているらしい。ものの気勢けはいも人声も、街道むきにぎやかに、裏手には湯殿の電燈の小暗おぐらきさえ、あかりは海に遠かった。

 六蔵ニヤニヤと独笑ひとりえみして、

「お寝間のおとぎもまけにしてと──姉さん、真個ほんとかい、洒落しゃれだぜ洒落だぜ洒落じゃねえ。らっしゃい、お一方ひとかた、お泊でございますよ。へい、お早いお着様つきさまで、難有ありがとう存じます。これ、御濯足おすすぎの水を早くよ。あいあい、とおいでなさる。白地の手拭てぬぐい、紅いたすきよ……やわらかな指で水と来りゃ、俺あたらいで金魚に化けるぜ。金魚うや、金魚う。」

 とい気な売声。

「はてな、紺がすりに、紺の脚絆、おかしな色の金魚だぜ。畜生め、なまずじゃねえか。ねる処は鮒だやつさ。鮒だ、鮒だ、鮒侍ふなざむれえだ。」

 と胸をゆすって、ぐっと反ったが、たちまち肩ぐるみ頭をすくめて、

「何を言やあがる。」

 で、あげあしを左の股、遣違やりちがいにまた右て。燈は遠し、手探りを、何の気もなく草鞋を解いて、びたりと揃えて、トンと船底へ突込つきこむと、殊勝な事には、手拭の畳んで持ったをスイと解き、足の埃をはたはたと払って、いしきかじを取って、ぐるりと船の胴の間にのめり込む。

「御案内あいあい……」

 と自分でわめき、

「奥の離座敷はなれざしきだよ、……船の間──とおいでなすった。ああ、見晴みはらし、と言いてえが、暗くッて薩張さっぱり分らねえ。」

 勝手な事をほざくうちに、船の中で胡坐あぐらに成った。が兎がかいを押さないばかり、狸が乗った形である。

「何、お風呂だえ、風呂はめだ。こう見えても余り水心のある方じゃねえ。はははは、湯に水心も可笑おかしいが、どんどん湧いてるは海だろう。──すぐに御膳だ。膳の上で一銚子よ。分ったか。脱落ぬかりもあるめえが、何ぞ一品ひとしな、別の肴を見繕ってよ、と仰せられる。」

 と仰せられ、

「ああ、いい酒だぜ、忠兵衛のおふくろかい、古い所で……妙燗みょうかん妙燗。」

 と二つばかり額を叩く。……暢気のんきさも傍若無人ぼうじゃくぶじんで、いずれ野宿の、ここに寝てしまうつもりでいよう。舫船を旅籠とより、名所を座敷にしたようなことをぬかす。が。わず一時ひとときばかり前、この町通り、両側の旅籠の前を、うろついて歩行あるいた折は、早や日も落ちて、脚にも背にも、放浪の陰のただよった、見るからみじめな様子であった。



 黄昏たそがれに、御泊おとまりを待つ宿引女やどひきおんなの、ひさしはずれの床几しょうぎに掛けて、島田、円髷まるまげ銀杏返いちょうがえしなでつけ髪の夕化粧、姿をななめに腰を掛けて、浅葱あさぎに、白に、紅に、ちらちら手絡てがらの色に通う、団扇うちわの絵を動かすさま、もの言う声もなまめかしく傾城町けいせいまちの風情がある。

 浦づたいなる掃いたような白い道は、両側に軒を並べた、家居いえいの中を、あの注連しめを張った岩に続く……、松の蒔絵まきえの貝の一筋道。

 氷店こおりみせ休茶屋やすみぢゃや、赤福売る店、一膳めし、就中なかんずくひよどりの鳴くように、けたたましく往来ゆききを呼ぶ、貝細工、寄木細工の小女どもも、昼から夜へ日脚ひあしの淀みに商売あきない逢魔おうまどき一時ひとしきりなりを鎮めると、出女の髪が黒く、白粉おしろいが白く成る。

 優い声で、

「もし、お泊りかな。」

「お泊りやすえ。」

 彼方あっちでも、お泊りやす、此方こっちでも、お泊りやす、と愛嬌声の口許は、松葉牡丹の紅である。

「泊るよ。」

 其処そこへ、突掛つッかけに 紺がすりの汗ばんだ道中どうちゅうを持ってくと、

「はい、お旅籠は上中下と三段にございますがな、最下等にいたしましても……」

 うして、こんな旅籠へ一宿出来よう、服装みなりを見ての口上に違いないから。

「何だ。無価ただ泊めようと云うのじゃねえのか。」

ほかを聞いておくんなはれ。」

指揮さしずは受けねえ。」と肩を揺って、のっさり通る。

「お泊りやす。」

「俺か。」とまたずっと寄る。

いいえ、違いまんの。」

ざまあ見ろ、へへん。」

 と、半分白い目で天を仰いで、拗ねたようにそのまま素通すどおり

 このあたりとて、道者宿、木賃泊りが無いではない。要するに、容子ようす婦人たぼが居て、ゆうべをほの白く道中を招く旅籠では、風体のかくの如き、君を客にはしないのである。

 石瓦いしがわら、古新聞、乃至ないし懐中ふところからっぽでも、一度目指した軒を潜って、座敷に足さえ踏掛ふんがくれば、銚子を倒し、椀を替え、比目魚ひらめだ、鯛だ、とぜいを言って、按摩あんままで取って、ぐっすり寝て、いざ出発の勘定に、五銭の白銅一個ひとつ持たないでも、彼はびくともるのではなかった。

 針が一本──魔法でない。

 このろくでなしの六蔵は、元来腕利きの仕立屋で、女房と世帯しょたいを持ち、弟子小僧も使った奴。酒で崩して、賭博ばくちを積み、いかさまの目ばかりった、おのの名の旅双六たびすごろく、花の東都あずま夜遁よにげして、神奈川宿のはずれから、早や旅銭なしの食いつめもの、旅から旅をうろつくこと既にして三年ごし

 右様みぎようの勘定書に対すれば、洗った面で、けろりとして、

「おう、仕立ものの用はねえか。羽織はおりでも、はかまでも。何にもなきゃ経帷子きょうかたびらを縫ってら。勘定は差引だ。」

 女郎屋の朝の居残りに遊女おんなどもの顔をあたって、虎口ここうのがれた床屋がある。──それから見れば、旅籠屋や、温泉宿で、上手な仕立は重宝ちょうほうで、六の名はしち同然、融通ゆうずうは利き過ぎる。

 もっとも仕事を稼ぎためて、小遣こづかいのたしにするほどなら、女房を棄てて流浪なんかしない筈。

 からっけつの尻端折しりっぱしょりかさ一蓋いちがいたッきりすずめと云うも恥かしい阿房鳥あほうどり黒扮装くろいでたちで、二見ヶ浦にねぐらを捜して、

「お泊りだ、お一人さん──旅籠はびたでおきまり、そりゃ。」と指二本、出女でおんな目前めさきへぬいと出す。

 誰が対手あいてに成るものか、黙って動かす団扇の手は、浦風を軒に誘って、背後うしろから……塩花しおばな塩花。



 六は門並かどなみ六七軒。

 風体と面構つらがまえで、その指二本突出して、二両を二百に値切っても、怒って喧嘩はしないけれど、たれも取合うものはなし。

 いざ、と成れば、法もかく、手心は心得たが、さて指当さしあたって、腹は空く、汗は流れる、咽喉のどは乾く、氷屋へ入る仕覚しがくも無かった。

 すねた顔色つらつき、ふてた図体ずうたい、そして、身軽な旅人の笠捌かささばきで、出女の中を伸歩行のしあるく、白徒しれものの不敵らしさ。梁山泊りょうざんぱく割符わりふでも襟に縫込んでいそうだったが、晩の旅籠にさしかかったうえ疲労つかれは、……六よ、怒るなよ……実際余所目よそめには、ひょろついて、途方に暮れたらしく可哀あわれに見えた。

 この後を、道の小半町こはんちょう、嬉しそうに、おかしそうに、ながめ視め、片頬笑みをしながらいて歩行あるいたのは、糊のきいた白地の浴衣ゆかたに、絞りの兵児へこ帯無雑作にぐるりと捲いた、耳許みみもとの青澄んで見えるまで、頭髪かみのけの艶のいい、鼻筋の通った、色の浅黒い、三十四五の、すっきりとした男で。何処どこにも白粉の影は見えず、下宿屋の二階から放出ほうりだした書生らしいが、京阪地かみがたにも東京にも人の知った、巽辰吉たつみたつきちと云う名題なだい俳優やくしゃ

 で、六が砂まぶれの脚絆をすじりもじって、別荘の門を通ったのと、一足違いに、彼は庭下駄で、小石を綺麗に敷詰めた、間々あいあいに、濃いと薄いと、すぐって緋色なのが、やや曇って咲く、松葉牡丹まつばぼたんの花を拾って、その別荘の表の木戸を街道へぶらりと出た。

 巽は時に、酔ざましの薬を買いに出たのであった。

 客筋と云うのではない、松坂の富豪池川とは、近い血筋ほどに別懇べっこんな親類交際づきあい。東に西に興行の都度つど、日取の都合が付きさえすれば、伊勢路に廻って遊ぶのが習いで、けて夏は、三日なり二日なり此処に来ない事はないのであった。

 今度も、別荘の主人が一所いっしょで、新道の芸妓お美津みつ、踊りの上手なかるたなど、取巻とりまき大勢と、他に土地の友だちが二三人で、昨日から夜昼なし。

 向う側の官営煙草、兼ねたり薬屋へ、ずっと入って巽が、

「御免よ。」

「はい、お出でなさいまし。」

 側対かわむかいの淡路屋の軒前のきさきに、客待きゃくまちうけの円髷に突掛つッかかって、六でなしの六蔵が、(おい、泊るぜえ)を遣らかす処。──考えても──あがばなには萌黄と赤と上草履をずらりと揃えて、廊下の奥の大広間には洋琴ピアノを備えつけた館と思え──彼奴きゃつが風体。

 傍見わきみをしながら、

宝丹ほうたんはありますかい。」

一寸ちゃと、ござりまへんで。」

「無い。」

左様さいで、ござりません。仁丹がうござりますやろ。」と夕間暮ゆうまぐれ薬箪笥くすりだんすに手を掛ける、とカチカチと鳴るかんとともに、額の抜上った首を振りつつおおきな眼鏡越にじろりとる。

「宝丹が欲しいんだがね。」

えらい、お生憎様あいにくさまで。」

「お邪魔を。」

「何うだ、あんねえ、これだけじゃ。」

 六はまた指二本。

 この、笠ぐるみ振分けをまくの一方へ、ふどしも見える高端折たかばしょり、脚絆ばかりの切草鞋で、片腕を揮ったり、挙げたり、鼻の下を擦ったり、べかこと赤い目を剥いたり、勝手に軒をひやかして、ふらふらと街道をして行くのが、如何にも舞台馴れた演種しぐさに見えて、巽はうかうか独笑ひとりえみしてそのあとに続いたのである。



 やがて一町ひとまち出はずれて、小松原に、紫陽花あじさいの海の見える処であった。

「君、君。」

 何と思ったか、巽がその六でなしを呼んだのである。

「ええ、手前で、へい。」と云うと、ぎっくり腰を折って、膝の処へ一文字いちもんじに、つん、と伏せた笠の上、額を着けそうにして一ツおじぎをした工合が、丁寧と言えば丁寧だが、何とも人を食った形に見える。

 辰吉は片頬笑かたほほえみして、

「突然で失礼ですがね、何処どこ此処どこここと云ってるよりか、私のとこへ泊っちゃ何うです。」

「へい、貴方あなたへ。」と、俯向うつむけていた地薄な角刈かくがりの頭をもたげて、はぐらかす気か、汗ばんだか、手の甲で目を擦って、ぎろりと巽の顔を見た。

「何うです、泊りませんか……ッたってね、私も実は、余所よその別荘に食客いそうろうと云うわけだが、大腹たいふくな主人でね、戸締りもしないうちなんだから、一晩、君一人ぐらい、私が引受けて何うにもしますよ。」

「へええ、御串戯ごじょうだんを。」と道の前後をみまわして、苦笑いをしつつ、一寸ちょっと頭を掻いたは、さては、我が挙動ふるまいを、と思ったろう。

「串戯なもんですか。」

 其処が水菓子屋の店前で──巽は、別に他に見当らなかったので、──居合す小僧に振向いて、う一軒薬屋はないか、と聞いて、心得て出て、更めて言った。

真個ほんとうだよ、君。」

 と笑いながら、……もう向うむいて行きかける六蔵をまた呼んで、

「……今君が通って来た、あの、旭館と淡路屋と云うおおきな旅館の間にある、別荘に居るんだからね。」

「何とも難有ありがて思召おぼしめしで、へい。」

 と、も一度笠を出してつらを伏せて、

「いずれまた……」

「ではさようなら。」

「御機嫌よろしゅう。」

 二見ヶ浦を西、東。

 思いも掛けない親船に、六はゆすぶった身体を鎮めて、足腰をしゃんく。

「兄さん、兄さん。」

「親方。」

 と若い女が諸声で、やや色染めた紅提灯、松原の茶店から、夕顔別当、白い顔、絞の浴衣が、飜然ひらりと出て、六でなしを左右から。

「親方。」

「兄さん。」

「ええ、おらが事か。兄さん、とけつかったな。聞馴ききなれねえ口を利きやあがる。幾干いくらで泊める。こう、旅籠は幾干だ。」

いいえ、宿屋じゃありません。まあ、お掛けなさいな。」

「よう一寸。」

「何にも持たねえ、茶代が無えぜ。」

「何んですよ、そんな事は。」

「はてな、聞馴れねえ口を利きやあがる。」

「その代りね、今、親方、其処で口を利いたでしょう。」

「一寸、あの方は何と云って。矢張やっぱ普通ただの人間とおんなじ口の利き方をなさる事? 一寸さあ……」

 と衣紋えもんを抜く。

 六蔵めぬ面の眉をしかめ、

「何だ、人間の口の利方ききかただ?……ほい、じゃ、ありゃ此処等ここらの稲荷様か。」

「まあ!」

「何だい?」

「あら、名題の方じゃありませんか、巽さんと云う俳優やくしゃだわよ。」

「畜生め、此奴等こいつら、道理で騒ぐぜ。むむ、素顔にゃはじめてだ。」

 と、遠くを行く辰吉のすらりとした、後姿に伸上る。

「可いわねえ。」と、可厭いや目色めつき

「黙ってろ。俺もこう見えて江戸児えどっこだ。巽の仮声こわいろうめえんだ。……」

「あら、嬉しい。ひい!」と泣声を放ったり。

「馳走をしねえ、聞かしてら。二見中のあわびと鯛を背負しょって来や。熱燗熱燗。」と大手をふった。

 これじゃやがて、鼻唄も出そうである。



「もしもし、貴方。」

 となまめかしい声。

 溝端みぞばた片陰かたかげに、封袋ふうたいを切って晃乎きらりとする、薬のすずひねくって、伏目に辰吉のたたずんだ容子ようすは、片頬かたほ微笑ほほえみさえ見える。四辺あたりに人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無あどけないものである。

 水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返ひっかえして別荘の前をまた通らねばらなかった。それからみちを折曲って、草生くさはえの空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場ステエション方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋わらやのある。その中に、ひさしに唐辛子、軒にだいだいの皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいたなかに、字も絵も解らぬ大衝立おおついたてを置いた。

 宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労つかれさえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。

 右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。

「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」

 ふと、片側の一軒立いっけんだち、平屋の白い格子の裡に、薄彩色のすそをぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。

 黒髪は水が垂りそう、櫛巻のふッさりとした、瓜核顔うりざねがおの鼻筋が通って、眉の恍惚うっとりした、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子くろじゅすの帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪をあざむく、下緊したじめの浅葱に挟んで、──玉のしのぶ茶室かこいった。──緋の袱紗ふくさ、と見えたのは鹿子絞かのこしぼり撥袋ばちぶくろ

 片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。

 薬の錫を持ったなり、浴衣の胸にを当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、

「恐入りますな。」

「さあ何うぞ。」

 と云って莞爾にっこりした。が、撥を挙げてえくぼを隠すと、向うむきに格子を離れ、ほっそりした襟の白さ、撫肩なでがたなまめかしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。

 すぐに、上框あがりがまちへすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖つまさきがほんのりと、常夏とこなつ淡く人を誘う。

 巽はなおかまわず格子を開けた。

「じゃあ御免なさいよ。」

 と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳つるさわみやとしとあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の葭戸越よしどごし背姿うしろすがたに、うっすりと鉄瓶の湯気をかけて、一処ひとところ浦の波が月に霞んだようであった。

「恐入ります。」

 おんなは声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。

「拝借します。」

 と巽は其処の上框へ。

 二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、しなうような膝をいて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子しゅすの帯がキクと鳴る、心の通う音である。

温湯ぬるまゆにいたしましたよ、水が悪うございますから。」

「……御深切ごしんせつに。」

 取った湯呑は定紋着じょうもんつき、蔦を染めたが、黄昏に、薄りとあおずむと、宮歳の白魚しらおの指に、撥袋の緋が残る。

「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、まぶたさっと色を染めた、二十三四がえんなるかな



「私、何うしたらいでしょう。きまりが悪うござんすわ。」

 とおんなは軽く呼吸いきを継いで、三味線みすじの糸を弾くが如く、指を柱に刻みながら、

「私、お知己ちかづきでもないお方をお呼び申して、極りが悪いものですから、何ですか、ひとりで慌てしまって、御茶台にも気が付きません。……そんな自分の湯呑でなんか。……失礼な、……まあ、何うしたらうございましょうね。」

 と襟を圧えて俯向うつむいて、撥袋を取って背後うしろに投げたが、留南奇とめぎの薫がさっとして、夕暮のしき花、散らすに惜しき風情あり。辰吉は湯呑を片手に、

「何うしまして、結構です。難有ありがとう。そしてお師匠さん。貴女の芸にあやかりましょう。」

「存じません。」

 と、また一刷毛瞼を染めつつ、

人様ひとさま御迷惑。蚊柱のように唸るんでございますもの、そんな湯呑には孑孑ぼうふらが居ると不可いけません。お打棄うっちゃりなさいましよ。唯今、別のを汲替とりかえて差上げますから。」と片手をついて立構たちがまえす。

 辰吉はおさえるように、

「ああ、しばらく。貴女あなたがそんな事をお言いなすっちゃ私は薬がめなく成ります。この図体ずうたいで、第一、宝丹を舐めようと云う柄じゃないんですもの。しゃちや鯨と掴合って、一角丸ウニコオルを棒で噛ろうと云うまどろすじゃありませんか。」

 おんなすずしい目で、口許に嬉しそうな笑を浮べ、流眄ながしめ一寸ちょっと見て、

「まあ、そうしてお商売は、貴方。」

「船頭でさあね。」

「一寸! 池川さんのお遊び道具の、あの釣船ばかりお漕ぎ遊ばす……」

 お師匠さんは御存じだ。

ざっと、人違いですよ。」とまなじりを伏せてぐっと呑んで、

申兼もうしかねましたが、もう一杯。ちょうど咽喉が渇いて困っていた、と云う処です。」

 艶なお師匠さんは、いそいそして、

「お出ばなにいたしましょうね。」

「薬をみました後ですから、お湯の方が結構です──何ですか、お稽古は日が暮れてからですか。ああ、いや、それで結構。」

 辰吉は錆のある粋なわらいで、

「ははは、と厚かましいようですな。」

沢山たんとおっしゃいまし。──いいえう片手間の、あの、些少ほんの真似事でございます。」

「お呼び申せば座敷へも……?」

可厭いやでございますねえ、貴方。」

 と片手おがみの指がしなって、

「そんな御義理を遊ばしちゃ、それじゃ私申訳がありません。それで無くってさえ、お通りがかりをお呼び申して、真個ほんとう不躾ぶしつけだ、と極りが悪うございましてね、赫々かっかっ逆上のぼせますほどなんですもの。」

 身を恥じるように言訳がましく、

「実は、あの、小婢こどもを買ものに出しまして、自分でお温習さらいでもしましょうか、と存じました処が、窓の貴方、しのぶの露の、大きな雫が落ちますように、螢が一つ、飛ぶのが見えたんでございますよ……」

「螢。」

 と巽は、声に応じて言返した。

「はあ、時節は過ぎましたのを、つい、珍しい。それとも一ツ星の光るお姿か知ら、とそう思って立ったんですが、うっかり私、撥なんか持って、螢だったら、それで叩きますつもりだったんでしょうかねえ。そんな了簡で、螢なんて、蜻蛉とんぼ蝙蝠こうもりで沢山でございます。」

 蜻蛉は寝たから御存じあるまい、軒前を飛ぶ蝙蝠が、べかこ、と赤い舌を出して、

「これは御挨拶だ。」

 と飜然ひらりる。



「それですから、ふっと、その格子を覗きました時は、貴方の御手おての御薬の錫をば、あの、螢をおつかまえなすった、と見ましたんですよ。」

 器は巽の手に光る。

 彼はたなそこに据えてじった。

「まあ、お塩梅が沢山たんと悪いんじゃありませんか、何しろお上りなすって、お休みなさいましたら何うでしょう。貴方、御気分は如何です。」と、摺寄って案じ顔。

 巽は眉の凜とした顔を上げて、

いいえ、気分は初めからしたる事も無いのです。宝丹は道楽に買った、と云って可いくらいなんですが。」

 爾時そのとき、袂へ突込つッこんで、

「今の、螢には、何だか少し今度は係合かかりあいがありそうですよ──然うですか、螢を慕ってお師匠さん、貴女格子際へ出なすったんだ。」

「貴方のお口から、そんな事、お人の悪い、慕って、と云う柄じゃありません。」

「まあまあ……ですがね、私が宝丹を買いに出たはじまりが、矢張り螢ゆえに、と云ったような訳なんですよ。ふっと、今思出したんです……」

「へええ。」と沈んだような声で言う、宮歳は襟を合せた。

「今度、当地こちらへ来ます時に、然うです。興津おきつ……東海道の興津に、夏場遊んでる友だちが居て、其処へ一日寄ったもんです。夜汽車が涼しいから、十一時過ぎでした、あの駅から上りに乗ったんですよ、右の船頭が。」

「……はあ、うございます。ほほほ。」とわらいが散らぬまで、そよそよ、と浅葱の団扇の風を送る。指環の真珠がつ涼しい。

「頂戴しますよ。」

 と出してあった薄お納戸の麻の座蒲団をここで敷いて、

「小さな革鞄一つぶら下げて、プラットホームから汽車の踏段を踏んで、客室の扉を開けようとすると、ほたりと。」

 巽は口許の片頬をおさえて言ったのである。

「虫が来て此処へ留ったんです、すっとしなの弱い稲妻か、と思いました。目前に光ったんですから吃驚びっくりして、邪険に引払うと、う汽車が動出す。

 妙にあとが冷つくのです、濡れてるようにね、擦って見ても何ともないので。

 忘れていると、時々冷い。何か、かぶれでもしやしないかしら、螢だと思ったものの、それとも出合頭であいがしらに、別の他の毒虫ででもありはしないかと、一度洗面台へ行って洗いましたよ。彼処あすこで顔を映して見ても別に何事もないのです、そのうちに紛れてしまう。それでも汽車で、うとうとと寝た時には、清水だの、川だの、大な湖だの、何でも水の夢ばかり切々きれぎれに見ましてね、繋ぎに目が覚める、と丁ど天龍川の上だったり、何処かの野原で、水が流れるように虫の鳴いてた事もありましたがね。最う別に思出しもしないで、つい先刻さっきまでそれ切りで済んでいました。

 今しがたです……

 池川さんの、二階で、」

 と顔を見合せた時、両方で思わず頷く様な瞳を通わす、ト圧えた手を膝にして巽はまた笑を含んで、

「……釣舟にしておきましょう、その舟のね、表二階の方へ餉台ちゃぶだいを繋いで、大勢で飲酒のみながら遊んでいたんですが、景色は何とも言えないけれど、暑いでしょう。この暑さと云ったら暑さが重石おもしに成って、人間を、ずんと上から圧付おしつけるようです。窓から見る松原の葭簀よしず茶屋と酸漿提灯ほおずきぢょうちんと、その影がちらちら砂にこぼれるような緋色の松葉牡丹ばかりが、却って目に涼しい。海が焼原に成って、仕方がない、それじゃ生命も続くまいから、おかの方の青い草木を水にしておけ、と天道てんとうの御情けで、融通をつけて下さる、と云った陽気ですからね。」

「まあ、随分、ほほほ、もう自棄やけでございますわね、こんなに暑くっちゃ。」

 その癖、見る目も涼しい黒髪。



ちっとでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのをじっと視ていて、その目で海を見ると、やっと何うやら水らしい色に成ります。

 でないと真赤ですぜ。日盛ひざかりなんざ火が波を打っているようでしょう。──さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮うしおの鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい──貴女が云った自棄やけですか──

 夕方、今しがた一時ひとしきりは、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」

 巽は目を離してゆびさしたが、宮歳の顔を見て、びた声して低く笑った。

「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ──。然うすると、海の色が朝からはじめて、さっと一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁まわりえんの総欄干へ、ひたひたとすだれを流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。

 ぞっと涼しく成ると、例の頬辺ほっぺたひやりとしました、螢の留った処です。──裏を透して、口のうちへ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」

 敷居にもたれかかり、団扇を落して聞いていたおんなは、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。

可厭いやな心持じゃなかったんです──それが、しかし確に、氷を一片ひときれ、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。においがします、水のような、あの、螢の。」

 月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。

「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外そとへ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。

 名所図絵にありそうな人通りを見ていると、う何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。

 今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、──私も、無理に附着くッつけたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」

 と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目ふしめに紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。

 呼吸いきを詰めて、

「貴方。」

「え。」

 余り更まったおんなの気に引入れられて驚いたていに沈んで云った。

 おんなは肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、

「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」

「何がですえ。」

「そりゃ、あの……何ですよ、きっと……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」

 柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立おもかげだって、

「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」

 と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上のびあがる。

 白い犬が門を駈けた。

 辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。



「貴方、その欄干にかかりました真蒼まっさおな波の中に、あの撫子とこなつの花が一束流れますような、薄い紅色の影の映ったのを、もしか、御覧なさりはしませんか。」

 ……と云う、瞳の色の美しさ、露を誘ってあかるいまで。その色に誘われて、おんなが棄てた撥袋の鏡台の端に掛ったのを見た。

 我にもあらずぼうと成って、

彼処あすこに見える……あれですか。」

いいえ、あんなものじゃありません。」とやや気組きぐんで言う。

「それでは?……」

いいえの色なんです。──あの時あのひと──は緋の長襦袢を着ていました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍ぬいとりして、ちらちらと黄金きんの露を置いた、薄いお太鼓をがっくりとゆるくして、うすものの裾を敷いて、乱次しどけなさったら無い風で、美しい足袋跣足たびはだしで、そのままスッと、あの別荘の縁を下りて、真直まっすぐに小石の裏庭を突切つッきると、葉のまばらな、花の大きなのが薄化粧して咲きました、」と言う……

 大輪の雪は、その褄を載せる翼であった。

「あの、夕顔の竹の木戸に、長い袂も触れないで、ほっそりと出たでしょう。……松の樹の下を通る時は、遠い路を行くようでした。舟のへりを伝わると、あれ、船首みよしに紅い扱帯しごきが懸る、ふらふらと蹌踉よろけたんです……酷く酔っていましたわね。

 立直った時、すっきりした横顔に、もつれながら、島田髷しまだも姿もすわりました。

 私はその時、隣家の淡路館の裏にあります、ぶらんこを掛けました、柱の処で見ていたんですよ、一昨年ですわね、──巽さん。」

 と、しかふるえを帯びた声で、更めて名を呼んで、

「貴方にこがれて亡く成りました、あの、──小雪さん──の事ですよ。」

 に、それは、小雪は伊勢の名妓であった。

 辰吉は、ハッと気を打って胸を退いた。片膝揚げつつかまち背後うしろへ、それが一浪乗って揺れた風情である。

 褄に曳いたも水浅葱、団扇の名の深草ならず、宮歳の姿も波に乗ってぞ語りける。

「不思議ですわね、あの時、海が迎いに来て、渚が、小雪さんに近く成ると、もう白足袋が隠れました。蹴出けだしの褄に、藍がかかって、見渡す限り渚が白く、海も空も、薄い萌黄でござんした。

 其処に唯一人、あのひとが立ったんです。こうがいがキラキラすると、脊の嫋娜すらりとした、裾の色のくれないを、潮が見る見る消して青くします。浪におされて、うすものは、その、あの蹴出しにしっとり離れて、取乱したようですが、ああした品の可い人ですから、須磨の浦、明石の浜に、緋の袴で居るようでした。」

 ──驚破すわ泳ぐ、とその時、池川の縁側では大勢が喝采した。──

「あれあれ渚を離れる、と浪の力に裾を取られて、羅のそのまんま、一度肩まで浸りましたね。と立つ時、遠浅の青畳、真中とも思うのに、錦の帯の結目がさっと落ちて、夢のような秋草に、濡れたぎんの、蒼い露が、雫のように散ったんです。

 まあ、顔が真蒼まっさお、と思うと、小雪さんはじっと沖を凝視みつめました、──其処に──貴方のおつむりと、真白な肩のあたりが視えましたよ。

 近所を漕いだ屋根舟の揺れた事!

 貴方は泳いでらしったんです。

 真裸の男まじりに、三四人、私の知った芸者たちも五六人、ばらばらと浜へ駈けて出る。中にはもやった船に乗って、両手を挙げて、呼んだ方もござんした、が、うその時は波の下で、小雪さんの髪が乱れる、と思う。海の空に、珠のかんざしの影かしら、晃々きらきら一ツ星が見えました。」


十一


「その裸体はだかなのは別荘の爺やさんでございましたってね。」

「さよう治平と云う風呂番です。」と言いながら、巽のおもてめんの如く瞳が据った。

 ともしなき御神燈は、暮迫る土間の上に、無紋の白張しらはり髣髴ほうふつする。

「爺さんが海へ飛込んで、鉛の水を掻くように、足掻あがいて、波を分けて追掛けましたわね。

 丁ど沖から一波立てて、貴方が泳返しておいでなさいます──

 あとで、貴方がお話しなすッたって……あの、承りましたには、仰向けに成って、浪の下の小雪さんが、……ぞ苦しかったでしょう、乳を透して絽の紅い、其処の水が桃色にうっすりとからんでいる、胸を細く、両手で軽く襟を取って、はだけそうにしていたのが、貴方がその傍にお寄りなさいました煽りに、すっと立って、髷に水をかぶっていて、貴方の胸へ前髪をぐっちょり、けました時、あの、うつくしい白足袋が、──丁ど咽喉のどの処へ潮を受けてお起ちなすった、──貴方の爪先へ、ぴたりと揃った、と申すじゃありませんか。」

 巽は框をすっくと立った!

「……吃驚びっくりなすって、貴方は、小雪さんの胸を敷いて、前へお流れなさいましたってね。」

「そして驚いて水を飲んだ、今も一斉いっときに飲むような気がします。」と云う顔も白澄むのである。

「其処を爺さんが抜切って、小雪さんを抱きました。ですけれども、うその時、あのひと呼吸いきは絶えていたのです──あの日は、小雪さんは、大変にお酒を飲んでいたんですってね、茶碗で飲んで、杯洗はいせんまであけたんだそうですね。深酒の上に、急に海へ入ったもんですから、血がとまってしまったんでしょう。

 そして、死体に成ってから、貴方のお胸に縋着すがりついたんじゃありませんか、海の中で、」

 と膝を寄せる、褄が流れて、おんなは巽の手を取った。

 指が触ると、掌に、おんなの姿はうなじの白い、翼の青い、怪しく美しい鳥が留ったような気がして、巽の腕は萎えたる如く、往来ゆきき端近はしぢかな処に居ながら、振払うことが出来なかった。……四辺あたりを見ると、次の間の長火鉢の傍なる腰窓の竹を透いて、其処が空地らしく幻の草が見えた。

「巽さん。」

「…………」

「あの、風呂番の爺さんは、そのまま小雪さんをおぶい返して、何しろ、水浸しなんですから、すぐにお座敷へは、とそう思ったんでしょう。一度、あの松にもやった、別荘の船の中へ抱下だきおろしましたわね。雫に浜も美しい……小雪さんの裾を長く曳いた姿が、頭髪かみから濡れてしおしおとふなべりに腰を掛けました。あの、白いとも、蒼いとも玉のように澄んだ顔。紅も散らない唇から、すぐに、ほっと息が出ようと、誰も皆思ったのが、一呼吸ひといきの間もなしにバッタリと胴の間へ、島田を崩して倒れたんです。

 お浴衣じゃありましたけれど、其処におみおび一所いっしょに。」

 とおんなは情に堪えないらしく、いま、巽の帯に、片頬をじっと。……一息して、

「貴方のお召ものが脱いで置いてありました。おんなの一念……うそれですもの。……螢はお迎いに行ったんですよ。欄干にかかりました二見ヶ浦の青い波は、沖から、逢いに来たんです。

 不便ふびんとお思いなさいまし。小雪さんは一言も何にも口へは出さないで、こがれじにをしたんです。

 素振そぶり気振けぶりが精一杯、心は通わしたでしょうのに、普通なみの人より、色も、恋も、百層倍、御存じの貴方でいて、ちっとも汲んでお遣んなさらない!──いいえ、小雪さんの心は、よく私が存じております。──

 俺は知らない、迷惑だ、ときっと貴方は、うおっしゃいましょうけれど、芸妓つとめしたって、ひとですもの、分けて、あんな、おとなしい、内気な小雪さんなんですもの、打ちつけに言出せますか。

 察しておいで遊ばしながら、──いつも御贔屓を受けていましたものですから、池川さんの、内証の御寵妓おきにいりででもあるようにお思いなすって、その義理で、……あれだけに焦れたものを、かなえてお遣んなさらない。……

 堅気はそうじゃあござんすまい、こうした稼業の果敢はかない事は、金子かねの力のある人には、きっと身を任せている、と思われます。

 御酒の上のまま事には、団扇と枕を寝かしておいて、釣手を一ツ貴方にまかして、二人で蚊帳も釣りましたものを。」……と言う。

 その蚊帳のような、海のような、青いものが、さらさらと肩にかかる、と思うと、いつか我身はまた框に掛けつつ、女の顔がふっと浮いて、空からじっと覗いたのである。


十二


「これが俳優やくしゃなの。」

「まあ。」

 しょろしょろ、浪がなぶるような、ひそひそと耳に囁く声。

 松原の茶店のおんなの、振舞酒に酔い痴れて、別荘裏なる舫船に鼻唄で踏反ふんぞって一寝入りぐッと遣った。が、こんな者に松の露は掛るまい、夜気にこそぐられたように、むずむずと目覚めた六蔵。胴の間に仰向けで、身うちが冷える。、野宿には心得あり。道中笠を取って下腹へあてがって、案山子かかし打倒ぶったおれた形でいたのが。──はじめは別荘の客、巽辰吉が、一夜の宿をしようと云った、情あることばを忘れず、心に留めて、六が此処に寝たのを知って、(船にとまいてくれるのじゃないか。)と思った。

 ふなばたへ、かたかたと何やら嵌込はめこむ……

 その嵌めるものは、漆塗の艶やかな欄干のようである、……はてな、ひそめく声は女である。──

 うまれながらにして大好物。寝た振でいて目を働かすと、舷に立かかって綺麗な貝の形が見える、大きな蛤。

 それが、その貝の口を細く開いた奥に、白銀しろがねの朧なる、たとえば真珠の光があって、その影が、かすか暗夜やみよに、ものの形を映出うつしだす。

「芸妓が化けたんだ、そんな姿でおどりでも踊っていたろう。」

 時に、そんなのが一個ひとつではない。左舷の処にも立っている。これも同じように、舷へ一方から欄干らしいものを嵌めた、かたり、と響く。

 外にもまだ居る……三四人、皆おなじ蛤の姿である。

祭礼まつりそろいかな、蛤提灯──こんなのに河豚も栄螺さざえもある、畑のものじゃ瓜もあら。……茄子なすびもあら。」

 但しその提灯を持っているものの形は分らぬ。が、蛤の姿である……と云うのが、衣服きもの、その袖、その帯と思う処がいずれも同じ蛤で、顔と見るのが蛤で、目鼻と思い、口と思うのが蛤で、そしてともしびが蛤である。

 襟か袖かであるらしく、且つやみの綾の、薄紫の影がむ。

 時にかたかたと響いて、二三人で捧げ持った気勢けはいがして、おんなの袖の香立蔽たちおおい、船に柱の用意があって、空を包んで、トンと据えたは、屋根船の屋根めいて、それも漆の塗のつや、星の如き唐草の蒔絵が散った。左舷右舷も青貝摺あおがいずり

 六蔵は雛壇で見て覚えのある車のようだ、とと思う。

 時に、蛤が口を開いた。いや、提灯が、真珠の灯を向けたのである、六の顔へ──そして女の声で言った。

「これが俳優やくしゃなの?」

「まあ。」

きたな俳優やくしゃだわね。」

 ──ままにしろ、此奴等こいつら──と心の裡で、六蔵は苦り切る。

「まだ、来ていやしまいと思ったのに、」

「そして、寝ているんだもの、じょうのない。」

「心中の対手あいての方が、さきへ来て寝ているなんて。」

「ねえ、」

 と応じて、呆れたように云った、と思うと、ざっと浪が鳴って、潮が退いたらしく寂寞ひっそりする。

 欄干も、屋根も、はっと消えて、蒔絵も星も真の暗闇やみ

 直ぐに、ひたひた、と跫音あしおとして、誰か舷へ来たらしい。

 透通るような声が、露に濡れて、もの優しい湿うるみを帯びつつ、

「……巽さん。」

 途端に、はっと衣のと、冷い黒髪のかおりがした。

「ああれ、違って……違っているよう。」


十三


 蛤の灯がほんのりと、また来て……

「お退きよ、退いておくれよ。」

「よう、お前。」

 と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥あにいでないぞよ。

「此処は、今夜用がある。」

「大事の処なんだから。」

「よう。」

「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」

「臭い事。」

「憎らしい、松葉でつッついて遣りましょう。」

 敏捷すばやい、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時ひとしきり、一時、雨の如く松葉がそそぐ。

「お、いた。」

「何うしたの。」と下から云う。

 松の上なが、きょうがった声をして、

「松葉が私をくすぐるわよ、おほほ、おほほ。」

「わはは。」と浜の松が、枝を揺ってどっと笑う。

「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、

姉等あねえら、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺あたりた。

 浅葱をかえす白浪や。

 燃ゆるが如き緋のもすそ、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、──恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。

 蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。

 凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵のおもてを視て、さしうつむいて、えり白く、羅の両袖を胸にひし掻合かきあわす、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。

 颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼まっさおに光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺すてっぺんに仰天した。

 這奴しゃつ横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、あまつさ櫓櫂ろかいもない。

「わああ、助けてくれ、助船たすけぶね。」

「何うしました、何うした。」

 人目を忍んで、暗夜やみよを宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然いきなり跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。

 菩提所の──巽は既に詣ではしたが──其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。

「小雪さんを私と思って。」……

 あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、めて、最愛いとしい、と云ってほしい、可哀相とだけも聞かし給え。

 御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。

「へい、仕立ものの御用はねえかね。」

 きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。

 宮歳の姿は、潮の香のただよう如く消えたのである。

 別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。

 内証ながら、山田の御師おし何某なにがしにひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処になまめかしく、意気である。

 言語道断、昨夜ゆうべ急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!

 て翌朝の事であった。

 電話で、新道のある茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、へんかわって世を去った。

 ──写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……──

 その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。

 簾に寄る白浪は、雪の降るよりお冷い。

 その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、ひと一所いっしょに、草のこみちを、幻の跡を尋ねた──確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が──その絵の螢が幽にった。

 松に舫った釣舟は、主人あるじなさけで、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱かるかや女郎花おみなえし桔梗ききょうの露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。

(『新小説』一九一六[大正五]年四月号)

底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房

   2009(平成21)年710日第1刷発行

初出:「新小説」

   1916(大正5)年4月号

※「一寸」に対するルビの「ちゃと」と「ちょっと」の混在は、底本通りです。

入力:門田裕志

校正:砂場清隆

2018年928日作成

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