正岡子規



○長い長い話をつづめていうと、昔天竺てんじく閼伽衛奴あかいぬ国という国があって、そこの王を和奴和奴王というた、この王もこの国の民も非常に犬を愛する風であったがその国に一人の男があって王の愛犬を殺すという騒ぎが起った、その罪でもってこの者は死刑に処せられたばかりでなく、次の世には粟散辺土ぞくさんへんどの日本という島の信州という寒い国の犬と生れ変った、ところが信州は山国でさかななどという者はないので、この犬は姨捨山うばすてやまへ往て、山に捨てられたのを喰うて生きて居るというような浅ましい境涯であった、しかるに八十八人目の姨を喰うてしもうた時ふと夕方の一番星の光を見て悟る所があって、犬の分際ぶんざいで人間を喰うというのは罪の深い事だと気が付いた、そこで直様すぐさま善光寺へけつけて、段々今までの罪を懺悔ざんげした上で、どうか人間に生れたいと願うた、七日七夜、椽の下でお通夜して、今日満願というその夜に、小い阿弥陀あみだ様が犬の枕上に立たれて、一念発起の功徳くどくに汝が願いかなえ得さすべし、信心おこたりなく勤めよ、如是畜生発菩提心、善哉善哉、と仰せられると見て夢はさめた、犬はこのおつげに力を得て、さらば諸国の霊場を巡礼して、一は、自分が喰い殺したる姨の菩提をとむらい、一は、人間に生れたいという未来の大願を成就じょうじゅしたい、と思うて、処々経めぐりながら終に四国へ渡った、ここには八十八個所の霊場のある処で、一個所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛とえながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際まぎわになって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で、あえぎ喘ぎ頭を挙げて見ると、目の前に鼻の欠けた地蔵様が立ってござるので、その地蔵様に向いて、未来は必ず人間界に行かれるよう六道の辻へ目じるしの札を立てて下さいませ、この願いが叶いましたら、人間になって後、きっと赤い唐縮緬とうちりめん涎掛よだれかけを上げます、というお願をかけた、すると地蔵様が、汝の願い聞き届ける、大願成就、とおっしゃった、大願成就と聞いて、犬は嬉しくてたまらんので、三度うなってくるくるとまわって死んでしもうた、やがて何処よりともなく八十八羽のからすが集まって来て犬の腹ともいわず顔ともいわず喰いに喰う事は実にすさましい有様であったので、通りかかりの旅僧がそれを気の毒に思うて犬のしかばねを埋めてやった、それを見て地蔵様がいわれるには、八十八羽の鴉は八十八人の姨の怨霊おんりょうである、それが復讐ふくしゅうに来たのであるから勝手に喰わせて置けば過去の罪が消えて未来のさわりがなくなるのであった、それを埋めてやったのは慈悲なようであってかえって慈悲でないのであるけれども、これも定業じょうごうの尽きぬ故なら仕方がない、これじゃ次の世に人間に生れても、病気と貧乏とで一生くるしめられるばかりで、到底ろくたまな人間になる事は出来まい、とおっしゃった、…………………というような、こんな犬があって、それが生れ変って僕になったのではあるまいか、その証拠には、足が全く立たんので、わずかに犬のように這い廻って居るのである。

〔『ホトトギス』第三巻第四号 明治33・1・10

底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店

   1985(昭和60)年318日第1刷発行

   2001(平成13)年117日第10刷発行

底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社

   1975(昭和50)年10月刊

初出:「ホトトギス 第三巻第四号」

   1900(明治33)年110

※底本では、表題の下に「子規」と記載されています。

入力:ゆうき

校正:noriko saito

2010年422日作成

2011年511日修正

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