突貫
島崎藤村



 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………わたしは今、ある試みを思ひ立つて居る。もしの仕事が思ふやうに捗取はかどつたら、いづれそれを持つて山を下りようと思ふ。けれども斯のことはだ誰にも言はずにある。

 今日けふまで私ははなはだ都合のいことを考へて居た。自分の目的は目的として置いて、衣食の道は別にするやうな方針を取つて来た。それが自分の目的に一番かなつたことだと信じて来た。しかし私は斯の考への間違つて居ることを悟つた。私の教員生活も久しいものだ。斯様こんな風にしてずる〳〵に暮して行く月日には全く果しが無い。私は今日こんにちまでの中途半端な生活を根からくつがへして、遠からず新規なものを始めたいと思ふ。私は他人に依つて衣食する腰掛の人間でなくて、みづから額に汗する労働者でなければ成らない。

 東京の友人が戦地へ赴く前によこした別離わかれの手紙は私の心に強い刺戟を与へた。私も一度は従軍記者として出掛けたいといふ希望を起したが、斯ういふ田舎に居てその機会をとらへることは、所詮しよせん不可能だとあきらめた。私には私の気質にかなつたことが有る。私は今度の戦争の中で、自分の思ひ立つた仕事を急がなければ成らない。


 私の写実的傾向が産み出した最初の産物は先づ発売禁止に成つた。こゝの分署の巡査が町々の書店を廻つてあの雑誌を押収して行つた。その時の光景ありさまは忘れることが出来ない。しかし、それらの打撃も、私が斯の狭い噂好きな地方で風俗壊乱の人として見られたといふことも、言はゞ一時的のものに過ぎなかつた。唯、私は人の知らないことで、いまだに心を苦めて居ることが有る。あの雑誌が発売禁止に成ると間もなく、ある日、桜井さくらゐ先生の奥さんが私に向つて、「──貴方あなたは私共のうちのことを御書きに成つたさうぢや有りませんか。」と言つた時は、私はぎよツとした。私は先生のせんの奥さんの若い生活のある一部のさまを拝借したことを白状する前に、あの作物さくぶつがいかに先生夫婦の心をきずつけたかといふことを思つて見た。

何卒どうぞ、私の書いたものをよく読んで見て下さい。」左様さう言つて置いて奥さんの前を引退ひきさがつた。あの心地こゝろもちは今だに続いて居る。私は幾分なりとも物の精髄に触れようとして、妙に自分を肩身の狭いものとした。

 同じ傾向から殆んど双生児ふたごのやうにして産み出した作物のうちに、私はある線路番人のことを写した。毎日主人の子供をおぶつて鉄道の踏切のところを通る下婢かひのことを書いた。錯々せつせと水を担いで遠い井戸から主人のうちへ通ふ娘のことを書いた。その娘が線路番人に腕力でぢ伏せられて──しまひには娘の方から番人と夫婦に成りたいといふことを親のもとへ言ひ込んで来て、到頭土地にもられずに主人の家を飛出したといふ話を書いた。私は唯ありふれたことを書いた。娘から見れば、番人の方は阿爺おやぢと言つてもい程の年配だ。私はその通り書いた。私は無いものを有るやうに見せる手品師では無い。現に番人がその話を自慢に吹聴ふいちやうしたといふではないか。それを聞いた時は工夫の群まで笑つたといふではないか。斯の真昼中まつぴるま、私達の鼻の先で行はれたことを写して、どうしてそれでう自分の気が咎めるだらう。

 それからしばらくの間、私は成るべくあの鉄道の踏切のところを通らないやうにして居た。塾へ行くにも、小諸の城門の方へ取らないで、別の踏切を通ることにして居た。たまに大手の湯などでの番人に逢つて、先方さきから田舎風に挨拶された時は、私は名のつけやうの無い恐怖を覚えた。最早もうあの話を読んだ人も忘れる頃だ。今日は塾へ出ようとして、青葉にうもれた石垣の間を通つて、久し振で城門前の踏切へ出た。並行したレールは初夏の日を受けてぎすましたやうに光つて居た。不図ふと、その線路のそばで、饅頭笠まんぢゆうがさを冠つて居る例の番人に逢つた。私はからだすくめずに其番小屋の側を通れなかつた。

 斯様こんなことを話したら、人は笑ふだらう。実際私の始めたことは斯ういふ不思議な性質のものだ。

 塾へ行くと、毎日のやうに私は桜井先生と顔を合せた。あの発売禁止に成つた作物を出してから、どうも私は以前のやうな親しみをもつて先生に話し掛けることが出来ない。先生は相変らず自分の子のやうに私を見て居るし、私の方でも先生をお父さんのやうに思つて居る。それは以前に何のよしみもなくて雇はれて来た子安こやす君達とは違ふ。それで居ながら私達の間には妙に奥歯へ物の挟まつたやうなものが出来た。どうかすると私は人並すぐれてせいの高い先生の後姿を見て居るうちに、「君は実にしからん男だ」といふ先生の声を聞くやうな気がする。奥さんと違つて、先生は私に向つて何事も言はない。けれども私はそれを読むことが出来る。私の始めたことは旧師にまで背くやうな結果を持ち来した。その意味から言つても、誰か適当な教師を自分の代りに探して置いて、斯の住慣れた土地を去りたいと思ふ。


 私が今、どれほど僅かな生活費で自分の家を支へて居るかといふことを打ち明けたら、定めしをひなどは驚くだらう。私は今までよりはずつと少い報酬を受けて居るかはりに、受持の時間をも減して貰つて居る。それを自分の仕事につかつて居る。戦争以来、郡から塾への補助は絶えた。町からの支出される金も余程よほど削られた。私達は俸給の高に応じてそれ〴〵受ける分を少くした。今日こんにちの場合、殊に私達の学校の性質から言つても、斯の乏しさは忍ばなければ成らない。

 教員室へ来て見ると、長いテエブルの周囲まはりは戦争の話で持切つて居る。実際夢中に成つて居る世間の人の話を聞くと、私達の発狂しないのが不思議な位だ。塾の体操教師は、いづれ自分も遠からず召集を受けるであらうと言つて居た。

 教室の方へ降りようとして、私は二階にある窓の一つへ行つた。長く延びた庭のアカシヤの枝を通して混雑した停車場の光景が見える。日下部くさかべ君も私のそばへ来て、一所に窓の外を眺めて、

「此節は毎日のやうに兵士が通りますネ。」

 と言つた。斯の植物の教師の学者らしい静かな容子ようすを見るほど、私を安心させるものは無い。

 午後の講義を始める頃、停車場の方で起る物凄ものすごい叫び声は私達の教室へ響けて来た。朦々もう〳〵とした汽車の煙はさくを越して硝子窓ガラスまどの外までやつて来て、一時教室の内を薄暗くした。生徒も心を沈着おちつけて碌々ろく〳〵勉強することが出来ないといふ風だ。でも此節はいくらか慣れて、斯の混雑の中で、講義を続けることが出来る。

 塾から家の方へ帰つて行くと、馬場裏の町には近所の人達が細い流のところに集つて居て、そこでも戦争の噂が絶えない。本町ほんまちの方からは号外売が鈴を振鳴して息を切つて駈出して来る。あの鈴のは私の耳に着いてしまつた。


 塾を卒業した生徒の一人が私の家の門口へ別離わかれを告げに来た。近在の村の青年だ。紋附の羽織に脚絆掛きやはんがけ草鞋穿わらぢばきといふ服装なりでやつて来て、三月ばかりもしたら出征の兵士の仲間に加はるであらうといふ。私は落葉松からまつの垣の外へ出て、明日あす入営するといふ青年の後姿を見送つた。

 隣の小母さんの家と私の家の間に竹の木戸が出来てから、よく小母さんは裏づたひに柿の樹の下から桑畠を廻つておしまのところへ話しに来る。小母さんの立話を聞けば、川上かはかみといふ辺鄙へんぴな村の方で、ある若い百姓が結婚したばかりに出征することゝ成つた。お嫁さんは野辺山のべやまはらまで夫を見送りにいて来て、泣いて別離わかれを惜んだ。若い二人は人目も恥ぢずに手を取つて泣いた。それを見て人々は笑つた。南佐久みなみさくの奥の方の話だ。小母さんはいそがしい手間で、門口に張物をして居るお島に田舎らしい話をして聞かせた。た土壁づたひにいそ〳〵と隣の勝手口の方へ戻つて行つた。

 しばらく私の裏の野菜畠の手入もしない。塾のおとさんが時々見廻りに来て呉れるのに任せである。自分のくはは入口の庭の隅に立て掛けたまゝだ。畠も荒れた。しかし私は今、それをかへりみいとまが無い。


 暗いすゝけた部屋の天井の下に、私は眠りがたいやうな心地で一夜を送つて、長いこと床の上に洋燈ランプの火を見つめたが、今朝に成つて眼が覚めて見ると、夜明けがたの夢が未だ私の頭脳あたま内部なかに働いて居る。水車小屋を隔てゝ相生町の通の方には、ザワ〳〵ザワ〳〵人の通る足音を聞く。お島が屋外そとから子供を抱いて戻つて来て今日は斯の町からも召集されて行く人のあることを私に告げた。

 停車場の方ではめづらしく喇叭らつぱの音が起つた。私は静かな北向の障子にむかつて、紙を展げて見た。私が写さうと思つて居る千曲川の川上から川下までのことが一息に私の胸に浮んで来た。私は小諸の町裏にある田圃側たんぼわきに身を置いて居るやうな気がする。そこで、青麦の穂のれる音や、サクを切る百姓の鍬の音や、傾斜の石の間に落ちるぬるんだ水の音や、その細い谷川の水に混つて砂の流れる音までも聞くやうな気がする。百姓が居る。働き疲れて草の上にあふむきに倒れて居る。若い細君らしい人が居る。畠の中で肥つた胸のあたりをあらはして、子供に乳を吸はして居る。草をしよつて通る年をとつた女もある……

 私は又、遠い烏帽子えぼしだけふもとにある牧場に身を置いて居るやうな気もする。牧夫が居る。牛の群が見える。私のそばには一緒に根津村ねづむらから出掛けて行つた画家のいづみ君が居る。赤く咲いた山躑躅やまつゝじの花は私の眼にある……

 すさまじい叫び声が起つた。私はそれを停車場の方で聞くのか、自分の頭脳あたま内部なかで聞くのか解らないやうな気がして来た。


 夏休も近づいた。私は自分の仕事のためにいろ〳〵心配しなければ成らないことがある。多分函館の阿爺おやぢに話したら、私の願ひは聞いて貰へるだらう。けれども手紙でも駄目だ。その相談のためには、どうしても自分で出掛けなければ成らない。

 津軽海峡を越さう。それより外に私は現在の沈滞した生活を突き破る方法が無い。


 いよ〳〵函館へ向けて小諸をつ。斯の旅の危険であるか奈何どうかは、東京まで行つて見た模様でなければ解らない。かく、小諸を発つことにする。


 東京へ着いた。カアキイ色の軍服は初めて私の眼に映つた。神田の宿へ来て見ると、戦争の芝居の噂などがされて居る。大陸の方で砲火を交へて居る最中に、それがたゞちに芝居に仕組まれて舞台にのぼるといふことは、妙に私の旅情をそゝつた。

 青森から先の航海が絶えて居るや否やは東京の旅舎やどやでも解らない。兄も久し振で逢ひに来て、気を着けて行けと言つて呉れた。定期船は出るらしい。今度の旅には初めて函館を見て、親戚の人達に逢ふといふ楽みがある。私は行けるところまで行つて見る。


 青森へ着いた。信州の方へ度々手紙をよこした未知の若い友は、その人の友達と二人で旅舎やどやに私を待つて居て呉れた。

 青い深い海が斯の旅舎やどやの二階から見える。「ごめ」が窓の外に飛んで居る。港内に碇泊する帆船の帆柱が見える。時刻さへ来れば、私は函館行の定期船に乗込むことが出来る。


 到頭函館へ来た。

 海上も先づ無事。今度の旅には私に取つて忘れることの出来ないものが沢山ある。長らく山の上に引籠ひきこもつてばかり居た私は、こゝへ来て、広濶ひろ〴〵とした海国の人の気象に触れた。そればかりでなく、わざ〳〵こゝまでやつて来た旅の目的をも果すことが出来た。「自分で書いたものを出版するといふのも一種の実業だ、要るといふ時に電報を一つ打つてよこせ、金は直ぐ送らう。」函館の阿爺おやぢはいかにも堅い商人らしい調子で私の望みをれて呉れた。

 末広町すゑひろちやうには阿爺おやぢの家の懇意な陶器屋せとものやがある。そこの旦那に誘はれで養育院を見に行つた。私は貧しい子供を前に置いて、小さなお伽話とぎばなしを一つした。丁度その話をして聞かせて居る最中に、尋常たゞならぬ屋外そとの様子で、敵の艦隊が津軽海峡を通過ぎたことを知つた。私は三日ばかり早く函館へ着いて好かつた。


 帰りに乗つた駿河丸するがまるは敵艦に追掛けられたといふ船だ。あやふいところをのがれたことを同じ船の上で笑話わらひばなしのやうにするのを聞いて来て、私は小諸の家の方へ引返してから其話をお島にして聞かせた。

 私が真実ほんたうに小諸を去らうと思ひ立つて居ることは塾の同僚に知れて来た。そのうちでも「高瀬たかせ君、高瀬君」と言つて頼りにして呉れる広岡ひろをか学士の年をとつた顔を眺め、さも力を落して居るらしい先生の容子ようすを見ると、このまゝ塾を置いてみんなを振捨てゝ行かれないやうな気がする。私が斯の寂しい田舎へ入り込んで来てから、あの老学士と懇意にするやうに成つたのは、たゞ先生が正直で、生徒思ひで、学者らしい性質の人だといふのみでは無い。私は斯の浅間の裾の地方に桜井先生や故正木まさき大尉のやうな隠れた人物を置いて考へるよりも、泉君のやうな画家や子安君のやうな少壮な学者を置いて考へるよりも、一番広岡先生のやうな服装なりにもふりにもかまはない、何もかも外部そとへ露出して居るやうな、貧乏してそれで猶自ら棄てずに居るやうな人を置いて考へたい。

 私は田舎へ物を考へに来たけれども、斯ういふ地方に居て考へれば考へるほど、沈黙するより他に仕方が無いといふことを知つた。私は広岡先生のやうな心の置けない人と一緒に地酒でも汲んで、先生の身上話でも聞かずには居られなかつたのだ。

「高瀬君も行つてしまふかナア。」

 斯う先生に言はれると、私も返す言葉が無い。先生は私の為にも考へて居て呉れられる筈だ。周囲の事情にばかりさう心を奪はれて居る時では無い。

 黄ばんだ秋の末の日が最早もはや私の眼にある。何となくそこいらが黄ばんで見える。土まで黄色く見える。激しい霜の為に焼けたゞれたやうに成つた土は寒い日影の方に震へて居るやうに見える。

 一頃ひところの熱狂に比べると、町もシーンとして来た、小諸停車場の前で吹く喇叭らつぱが町の空に響き渡つた。入営するものを寄せ集めの相図あひづだ。相生町あひおひちやうの坂の方からは、送別の旗を先に立て、近在の壮年わかものらしい連中がいづれも美しく飾つた馬に載せられて、村の人達に前後を護られながら、静々しづ〳〵と引かれて来た。停車場前の空地には、既に馬から下りて、見送りの人々に挨拶する壮年わかものもあつた。斯の混雑の中をくゞり抜けて、私は途中で一緒に成つた広岡学士と共に塾の体操教師を探した。いよ〳〵体操教師も召集に応じて出発することに成つた。

 塾の同僚は体操教師の周囲に集つた。

「私などは、へえ召集されたところで、御留守居役の方ですから──」

 斯う体操教師は言つて、力強く私の手を握つた。

小山こやまさん──」

 とせいの低い子安君は群集ひとごみの中を分けて来て、体操教師に別離の握手を求めた。

 私達は押出されるやうにして一緒にプラットフオムの方へ動いた。例の線路番人が立つて居る方角からは、矢張やはり入営する人達を乗せた汽車がやつて来て、停車場の前で停つた。窓々の硝子戸ガラスどを開けて呼びかはす声、別離を告げる声、無事を祈る声、帽子を振る音、旗を振る音、汽車がプラットフオムのそばを離れる頃にはすべてそれらのものが一緒に成つて、悲しい壮んな生命掛いのちがけの叫び声がそこにあるだけだつた……


 私の仕事も大分捗取はかどつた。私の眼前めのまへには油のやうに流れて行く千曲川の下流の水がある。みぞれ蕭々しと〳〵降つて居る。対岸の蘆、河の真中にある洲、水に近いやなぎなどは白い雪にうづもれて、何となく深い物の奥の知れない方から水勢みづせが押し寄せて来て居るやうに見える。高い岸の上の休茶屋には川船を待つ人達が居る。そこには私が小諸から連立つて行つた二人の娘が居る。紺色に染めた真綿を亀の甲のやうに背中にしよつて、手拭を頭に巻きつけて、私達に茶をすゝめて呉れる休茶屋の婆さんが居る。

 戸の外へも早や深い雪が来た。桑畠も、水車小屋の屋根も白く埋れた。そこいらは一面におほひ冠せられたやうに成つた。

 斯の降り積つた雪の中で、今夜は戦勝の祝ひがある。酸漿提灯ほゝづきぢやうちんけて小学校の広庭へ集らうとする町の人達が家の横を通る。

「あー俺の作つてやつたまづい歌をみんなで歌つてるやうだね。」

 と私はお島に言つて、南向の雨戸を開けて見た。暗い雪に包まれた相生町の通りの方には紅いがいくつも〳〵動いて見えた。

「万歳──万歳──」

 雪にこもつた叫び声を私は自分の部屋の方に坐りながら聞いた。

 机にむかつて、復た私は鉛筆の尖端さきを削り始めた。今度の長物語を書くには、私は本町ほんまち紙店かみやで幅広な方のけいの入つた洋紙を買つて来て、堅い鉛筆でそれに記しつけることにして居る。眼をつぶると、川船があらはれる。みぞれは雪に変りつゝある。それが川船の窓のところへ飛んで来たり、水の上へ落ちて消えたりして居る。一緒に船に乗つた娘は、一人は私の家の大屋さんの娘で、一人はその友達だ。立てば頭のつかへるほどな低い船室で、乗客は互に膝と膝を突合せて行つた。激しい水瀬みづせの石の間を乗つて行つた時は私達の身体からだをどつて、船はくつがへるかと思ふほどの騒ぎをした。左様さうかと思ふと、ゆるい流れのところへ出て、岸から垂下るやなぎの枯枝がバラ〳〵船の屋根へ触つたり、船頭がいで行くの音が水に響いて聞えたりした。あの船の窓から高い岸の上を通る雪仕度の人を見ることが出来た。それから私達は船橋の下なぞをくゞり抜けたことも有つた。あの時はずつと川下の方まで乗つて行つて、小諸辺とは余程よほど様子の変つた飯山いひやまの町を見た。

「万歳──万歳──」

 長い行列が雪の中を遠ざかつて行くのを聞きながら、私は自分の眼にあることを紙に写して見た。私は戦争をよそに見て、全く自分の製作に耽るほど静かな気分には成れない。私の心は外物の為に刺戟され易くて困る。私の始めたことは私の心を左様さう静かにさせては置かないやうなものだ。


 やうやく長い冬をぎ抜けることが出来た。しばらく床場とこばへも行かないと思つて居るうちに、私の頭の髪はうづらのやうに成つた。今日は久し振りで延びたひげつた。これで清々した。

 私の長い仕事は一年近くかゝつて漸く半分しか出来ない。私は学校を一方に控へて居る。これが精一ぱいだ。斯の仕事を持つて山を下りるとしたところで、これから先一年といふものは奈何どうしよう、奈何してそのあひだ妻子を養つて行かう。た一つ心配にぶつかつた。斯の町にいくらか私を知つて居て呉れる人がある。私はその人に自分の志望を話して見るつもりだ。


 断られた。

 志賀しがに居る友達に相談して見るより外に道が無くなつた。牧野まきのさんこそは真実ほんたうに私の力に成つて呉れさうな人だ。私は一週間もそのことを考へた。そして毎日出掛けて行かうとしては、毎日思ひとまつて居る。いかに私が今こゝで挫折したくないからと言つて、それを話すといふは容易でない。

 おかうさんは女ながらに私の知己の一人いちにんだ。牧野さんの細君より一つ年の下な若い叔母をばさんだ。あの人も志賀へ遊びに行きたいと言ふから、誘ふことにしたら、この雪に出掛けるか、途中の激寒を奈何どうすると家の人に笑はれたと言つて、見合せるといふ話に来た。お幸さんはショウルにくるまつて、その中に肩から顔まで埋めて、寒さうに震へながら戻つて行つた。

 私は牧野さんに話して見ることに決心した。単独ひとりで雪をいて倒れるところまで行つて見る。


 昨日きのふから今日へかけて、これほど私は自分の弱いことを経験したためしは無い。洋服で出掛けて行つたのも一つは自分の不覚であつたが、岩村田いはむらたで馬車を下りる頃には私の身体からだ最早もはや水を浴びせ掛けられたやうに成つて居た。恐しい寒気かんきだつた。私は馬車の内で着て居る洋服の外套ぐわいたうを脱いで、それで腰から下を温めて見たり、復た筒袖つゝそでに手を通して肩の方を包んで見たりした。まだそれでも岩村田の町はづれにある休茶屋へ寄つて焚火で身体からだを温めて行つた頃は好かつたが、そのうちに私は身体からだの関節の一つ〳〵が凍り着くほどの思をした。行く人もまれな雪の道──つく〴〵私はその眺めが自分の心の内部なかの景色だと思つた。時々眠くなるやうな眩暈めまひがして来て、何処どこかそこへ倒れかゝりさうに成つた。私は未だかつて経験したことのない戦慄みぶるひを覚えた。しまひに息苦しく成つて来た。まるで私の周囲まはりは氷の世界のやうだつた……お幸さんなどを連れなくて真実ほんとに好かつた。もし一緒だつたら、それこそ二進につち三進さつちもいかなかつたかも知れない。二人で雪の中に凍えたかも知れない……左様さうでなくてすら、あの際涯はてしの無い白い海のやうなところで、もうすこしで私は死ぬかと思つた……私は身体からだが寒いばかりだとは思はなかつた。心が寒かつた……漸く自分で自分の身体からだを堅く抱き締めるやうにして、心覚えの道を進んで行つた……私の足許には氾濫はんらんの跡の雪に掩はれたのがあつた。それが起伏する波のやうに見えた。私はその中へ滑り込まないやうに気をつけながら、前へ、前へと辿つて行つた……前へ……前へ…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

底本:「島崎藤村全集第五巻」筑摩書房

   1981年520日初版第1刷発行

初出:「太陽」

   1913(大正2)年1

入力:林 幸雄

校正:木浦

2012年1021日作成

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