故社員の一言今尚精神
福澤諭吉



 明治元年正月、伏見の変乱、前将軍慶喜公は軍艦に乗て東帰、ついで諸方の官軍は問罪として東海東山の諸道より江戸に入り、関東の物論沸くがごとく、怒て官兵に抗せんとする者あり、恐れて四方に遁逃とんとうする者あり。江戸広しといえども、市に売る者なし、家に織る者なし。学者書生の如きもその行く所を知らず、大都会中た一所の学校を見ず、一名の学士に逢わず。ひとり我慶應義塾の社中は、偶然の発意にして断じて世事に関せず、都下の東南芝新銭座の塾舎に相集りて眠食常に異ならず、弾丸雨飛うひの下、咿唔いごの声を絶たざることほとんど半年、社中自称して戦場中の一小桃源といしはけだしこの時なりき。

 この際に当て府下百万の人民は一時に方向を失い、もとより官軍の何ものたるを知らず、仮令たとい東征の名義云々うんぬんは伝聞するも、その官軍なるものが江戸に入たる上は何等の挙動あるべきや、これを測量することはなはやすからず。数百年来いまかつて見ざる所の軍事なれば、軍人とあれば必ず乱暴なるものならん、乱暴人は之を避くるにかずとて、下等社会の群民は無論、上流の士人にてもあるいにわかに家を挙げて藩地に帰る者あり、或は近郷に故旧あれば暫時これに身を寄する者あり。その中について独り西洋学者の流は深謀遠慮にして、ひそかおもえらく、官軍或は暴ならん、仮令い暴なりと雖ども西洋人に害を及ぼすことは彼輩のよくする所にあらざるべし、れば我輩のよりもって頼む所は横浜にある外国人居留地の安全なるに若くものなしとて、該地に居を移す者日に多く、府民もまたこの例にならうて皆横浜に走り、浜の市中すでに充満して、その東南なる北方村、本牧村等に及ぼし、一時はその地方にて家賃宿料の騰貴とうきするに至れり。今日在東京の紳士学者にして既往を回想したらばみずから之を記臆する輩も多からん、又あるいはその当局者もあらん。

 かかる世上の有様なれば、在江戸の人にしていやしくも横浜在留の西洋人に知る者あれば、西洋人もまた私にこれを保護せんとするの情を抱き、或は仮に某国の籍に入れとう者あり、或はその印鑑を与えて万一危急のときはこの印鑑を官軍に示して一時をまぬかれよと云う者あり。いずれも皆深切の情に出ることにして、あえ奸策かんさくとは云うべからず。我義塾のごときももとより外人に知る者多ければその顧る所とりて、る日某氏よりわざと印鑑を贈り来りしは、全くその友情に出たるものよりほかならざるなり。

 時に本塾の教員小幡仁三郎おばたじんざぶろう小幡篤次郎の実弟。明治四年亜米利加に
遊学中不幸にして同六年彼地に物故。
この事を聞き、走て塾の広間に出て、顔色を変じ目をいからして同窓の諸友に告ていわく、諸君は今日の形勢を見て如何いかがの観をすや、東軍西軍あい戦うならんといえども、畢竟ひっきょう日本国内の戦争にしてただれ内乱なるぞ、我輩は文を事としてその戦争に関するなしと雖ども、内外の分は未だ之を忘れず、西軍あるいは暴ならん、東軍或は無法ならん、きたりて我輩に害を加えんとする者あらば、我また男児なり、よく之を防がん、之を防て力足らざるときはただ一死あるのみ、堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、むしろ同国人のやいばに死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処いずこに在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立をはかりてその趣旨を一国に及ぼし、もって我国権を皇張するの一点に在るのみ、しかるを今にしてこの大義を顧みざるが如きははじめより目的を誤るものと云うべし、我義塾の命脈を絶つものと云うべし、彼の印鑑の如きはすみやかに之を火に投じて可なりとて、その語気凜々りんりん、決する所あるが如し。聞く者悚然しょうぜんとしてた一言を発せず。之より社中の気風ますます固結してかつて動変することなく、爾後じご王政維新の太平に逢い又無数の事変をも目撃したれども、報国致死ちしは我社中の精神にして、今日我輩が専ら国権の議論を主唱するも、その由来一朝一夕にあらず、けだし社中全体の気風なりとは雖ども、仁三郎君の一言亦重しと云うべし。往事回顧すれば十五年、社中君をうしなうてより又十年、今の学友或は之を知らざる者もあらん。記して以て君の言行の一班を知らしめ、兼て天下国権論者のいましめに供す。

底本:「福澤諭吉著作集 第5巻 学問之独立 慶應義塾之記」慶應義塾大学出版会

   2002(平成14)年1115日初版第1刷発行

底本の親本:「時事新報」

   1882(明治15)年327

初出:「時事新報」

   1882(明治15)年327

※【】内の編者による解説は省略しました。

※底本の編者による語注は省略しました。

※初出時の署名は「慶應義塾 某」です。

※〔〕付きの傍註は、編集者によります。

入力:田中哲郎

校正:hitsuji

2019年1227日作成

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