小詩論
小林秀雄に
中原中也



 此処に家がある。人が若し此の家を見て何等かの驚きをなしたとして、そこで此の家の出来具合を描写するとなら、その描写が如何に微細洩さずに行はれてをれ、それは読む人を退屈させるに違ひない。──人が驚けば、その驚きはひきつゞき何かを想はす筈だが、そして描写の労を採らせるに然るべき動機はそのひきつゞいた想ひであるべきなのだが。(断るが、茲でいふ想ひとは思惟的なのでもイメッヂでのでも宜しい。)


 生きることは老の皺を呼ぶことになると同一の理で想ふことは想ふことゝしての皺を作す。

 想ふことを想ふことは出来ないが想つたので出来た皺に就いては想ふことが出来る。

 私はうたはこの皺に因るものと思つてゐる。

 古来写実的筆致を用ひた詩人の、その骨折に比して効果少なかつた理由は、想ふことを想はうとする風があつたからだと私は言ふ。或は、真底想はなかつたから、判然皺が現れなかつたのだ。

 然るに此の皺は決して意識的に招かるべきものではない。よりよく生きようといふ心懸けだけが我等人間の願ひとして容れられる。


 ラムボオは或一物に驚ろくとすると、彼は急ぎ過ぎたので、そして知能が十分だつたので、その驚きをソフィズム流に片附けた。即ちラムボオの皺はソフィズム色を多いか少いかしてゐたのだ。けれども何れにしろ、皺の出来るより前に彼は筆を取つてはゐない。


 実際、人は驚けばその驚きが何であるかと知りたいのは当然過ぎる程のことで、だからといつてその驚きはその時努力して何だと分る筈のものではない。けれども努力して凡そ何だとくらゐ分らないものでもない。それで大抵の人がその凡そ何かを探すのだ。そしてその凡そで以て何やかや書き出すやうになる。その凡そだ、うたを退屈にするのは。その凡そを持たないためには一心不乱に生きるばかりの人である必要がある。──ヴルレエヌには自分のことは何にも分らなかつた。彼には生きることだけが、即ち見ることだけがあつた。それが皺となつたその皺は彼の詩の通りに無理のないものだつた。──人類が驚きにひきつゞいた想ひを書かずに驚きの対象を記録した方が手つとり早いと考へたことには微笑すべき道理がある。けれども詩人の仕事を困難にした一番主なものはこの道理だ。

 ラムボオはこの道理の犠牲の最後の人として、金色の落日の光りを見せて死んで行つたのだ!


 今言つた道理が、世界の中にどんな具合に駐屯してゐるかといふと、元来思想なるものは物を見て驚き、その驚きが自然に齎らした想ひの統整されたものである筈なのだが、さうして出来た思想は形而上的な言葉にしかならないので、人間といふ社交動物はその形而上的な言葉の内容が、品性の上に現じた場合の言葉にまで置換へたので、そして社交動物らしいそのことが言葉を個人主義者であらしめなくしたので、世界はアナクロニズムにみなぎつたのだ。それで例へば欧羅巴の如きレリジョンの確立してゐる所では、それに批評の発達した所では、批評家は個人的に言葉を使用しないで社交的圏を相手に話すので、言葉は専ら比較によつて成立つ品性についての言葉が人の頭に滲みきつて、そのため驚きはその滲みきつた言葉で片附られ勝になるといふことは想像出来るでせう。──ヴルレエヌも随分いまいふ言葉に禍ひされてるといはれる所もあることを私は思ふ。


 友よ、この一文を書きたくなつた今晩君が傍にゐて呉れたら僕は大変沢山なことが喋舌れた。いろんな詩の方法が一度に三つも四つも私に見えて来て僕はもう此の一文を打切ります。けれどもこんな草稿でも君に見せれば大変好いと僕は思つてゐるのです。


 つまり、この一文の結論は次のことなのです。


Ah ! que le temps viennent

Où les cœurs śéprennent !


 そして僕の血脈を暗くしたものは、

「対人圏の言葉」なのです。


Je me suis dit : Laisse,

Et qu'on ne te voie.

qu'on ne te voie !!!

     ──────────

 以後出来る限り、僕は詩論の断片をお送りします。

⦅読み返さずに送ります。読み返すと嫌になりますから。⦆


これは千九百二十七年に小林に送る手紙です


私には過去と未来が分らなくなつた。

それで私には統覚作用がない。

私は現在を呼吸するばかりだ。

肉弾で歌ふより仕方がないのだ。


祖先達の習慣が私の中で、

精巧な銃があれば好いにと言ふ。

肉弾で歌ふ歌は、

分り易い代りに頼りがない。


けれどもその頼りがないといふのはないといふ方が邪曲なのだとは知つてゐる。

それでゐて私自身頼りがなく思ふのだから私は邪曲だ。

──私の軛は軟くて硬い。


おまへくらゐのものにまだ相対界を尽滅させられて堪るものかいと空で無頼漢が私にいふ。

そして私自身まだ相対界が好きなのだから私は無頼漢の奴隷になつてなくちやならなくとも仕方がない。

私は自分に甘えたくないのに甘えたりする時もある。


(私は斎戒沐浴しなければならない。)

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語註は省略しました。

入力:村松洋一

校正:shiro

2018年326日作成

2018年425日修正

青空文庫作成ファイル:

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