芸術論覚え書
中原中也



一、「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。


一、名辞が早く脳裡に浮ぶといふことは尠くも芸術家にとつては不幸だ。名辞が早く浮ぶといふことは、やはり「かせがねばならぬ」といふ、人間の二次的意識に属する。「かせがねばならぬ」といふ意識は芸術と永遠に交らない、つまり互ひに弾き合ふ所のことだ。


一、そんなわけから努力が直接詩人を豊富にするとは云へない。而も直接豊富にしないから詩人は努力すべきでないとも云へぬ。が、「かせがねばならぬ」といふ意識に初まる努力は寧ろ害であらう。


一、知れよ、面白いから笑ふので、笑ふので面白いのではない。面白い所では人は寧ろニガムシつぶしたやうな表情をする。やがてにつこりするのだが、ニガムシつぶしてゐる所が芸術世界で、笑ふ所はもう生活世界だと云へる


一、人がもし無限に面白かつたら笑ふ暇はない。面白さが、一と先づ限界に達するので人は笑ふのだ。面白さが限界に達すること遅ければ遅いだけ芸術家は豊富である。笑ふといふ謂はば面白さの名辞に当る現象が早ければ早いだけ人は生活人側に属する。名辞の方が世間に通じよく、気が利いてみえればみえるだけ、芸術家は危期に在る。かくてどんな点でも間抜けと見えない芸術家があつたら断じて妙なことだ。

 尤も、注意すべきは、詩人Aと詩人Bと比べた場合に、Bの方が間抜けだからAよりも一層詩人だとはいへぬ。何故ならBの方はAの方より名辞以前の世界も少なければ又名辞以後の世界も少ないのかも知れぬ。之を一人々々に就て云へば、10の名辞以前に対して9の名辞を与へ持つてゐる時と8の名辞以前に対して8の名辞を持つてゐる時では無論後の場合の方が間が抜けてはゐないが而も前の場合の方が豊富であるといふことになる。


一、芸術を衰褪させるものは固定観念である。云つてみれば人が皆芸術家にならなかつたといふことは大概の人は何等かの固定観念を生の当初に持つたからである。固定観念が条件反射的にあるうちはまだよいが無条件反射とまでなるや芸術は涸渇する。

 芸術家にとつて世界は、即ち彼の世界意識は、善いものでも悪いものでも、其の他如何なるモディフィケーションをも許容出来るものではない。彼にとつて「手」とは「手」であり、「顔」とは「顔」であり、A=Aであるだけの世界の中に彼の想像力は活動してゐるのである。

 従つて、「面白い故に面白い」ことだけが芸術家に芸術の素材を提供する。恰も「これは為になる、故に大切である」ことが生活家に生活の素材を供する如く。


一、而も生活だけするといふことは出来るが、芸術だけするといふことは芸術家も人間である限り出来ぬ。かくて、其処に、紛糾は、凡そ未だ甞て誰も思つてもみなかつた程発生してゐるのであるが、そのことを文献は殆んど語つてゐないといふも過言ではない。かくて此処では、「多勢に無勢」なる法則だけが支配し、芸術は何時も窘められるが、而も生活側が芸術を窘めようとすることこそ人類が芸術的要求を有する所以のものであり、芸術的要求の生活側に於ける変態的現象であると云へる。何故ならば、無勢であるために多勢にとつて覗き見ること難きものを窘めることはまた、芸術側が面白い故に面白いものだけを関心するのに相似し平行してゐる。

 かくて古来真摯な芸術家が、謂はば伝説的怪物の如き印象を遺して逝つたことは示唆深きことである。


一、芸術家には、認識は不要だなぞとよく云はれる。然し認識しようと観察しようと結構だ。たゞ応用科学が、何かの目的の下に認識したり観察したりする様に認識したり観察したりするのは無駄だ。認識が面白い限りに於て認識され、観察が面白い限りに観察されるのは結構なことだ。

 それよ、芸術とは云つてみれば人類の倦怠を医する役を持つてゐるといへばいへる。それは自然の面白さを拡張する一つの能力で、されば断じて興味以外のものを目的とすることが許されぬ。何を目的としようと勝手ではある。而も興味以外の目的がある限りに於て、芸術能力は減殺されることは自然法則である。何故ならば、芸術の存在理由は芸術自身の裡にあること、恰も塩ッからいものが塩ッからく、砂糖が、甘いが如きものであり、恍惚は恍惚であれ、恍惚は直接ひとに伝達出来るものではなく、恍惚の内部がよく感取され、即ち他の恍惚内部との相関関係に於て僅かに暗示・表現することが出来るに過ぎないから。


一、美とは、宿命である。而も、宿命であると分れば、人力で、幾分美を人為的に保存し増大せしめることが出来る。即ち、芸術家が、生活家の義務を強ひられざるやうな環境を作ることによつて。故に、芸術家は、芸術家同志遊ぶがよい。それ以外の対坐は、こちらからは希望してかゝらないこと。

 君の挨拶が滑稽だといつて笑はれるがよい。そんな時は唯赤面してればよい。その赤面を回避しようとするや、君は君の芸術を絞めにかゝつてゐるのだ。

 生活が拙いといふことは、断じて芸術が拙いといふことではない。

 社交性と芸術とは、何の関係もない。芸術家がえて淋しがりやであるので関係があるやうに見えたりするだけのものだ。而も、芸術家はもし社交が面白ければ社交するがよい。


一、芸術とは、物と物との比較以前の世界内のことだ。笑ひが生ずる以前の興味だ。笑ひは、興味の自然的作品だ。生活は、その作品を読むとか読まぬとか、聞くとか聞かぬとかの世界だ。故に、芸術とは、興味が、笑ひといふ自然的作品よりも、作品といふ人力の息吹きのかゝつたものを作り出すためには、興味そのものの内部に、生活人よりも格段と広い世界を有さねばならぬ。故に、生活を、殊には虚栄を、顧慮する限りに於て衰褪する底の、呆然見とれてゐる世界のことである。

 故に、芸術家たる芸術家が、芸術作用を営みつつある時間内にある限りに於て、芸術家はひとに敵対的ではなく、天使に近い。

 生活人は屡々芸術家の此の天使状態を、何かと訝かる。訝かつても自分に殆んどない要素である故遂に推察出来ず、疑心悪鬼を生じ、芸術家を憎むに到る。これは無理からぬことであるから仕方がない。而もこれを生活人に十分解らせることは困難である。自分に持つてゐないものは分りはせぬ。もし分つたとしても、それが生活人自身にとつて何にもならぬことから、分らないよりもつと悪い結果を起すだけのものである。だからさういふ時には、よく云はれるやうに「芸術家は子供つぽいものですよ」と云つておけばよい。尤も、このことは、芸術家が、非常に顕著に芸術的である場合にのみ起る。


一、芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更ない。

 芸術家が、学校にゆくことは、寧ろ利益ではない。

 然し学問を厭ふことが、何も芸術家の誉れでもない。学問なぞは、人が芸術家であれば、耳学問で十分間に合ふやうになつてゐる。認識対象が、実質的に掴めてゐれば、それに名辞や整頓を与へた学問なぞは、例へば本で云へば目次を見たりインデックスを見たりするだけで分る。偶には学びたくなるのも人情だから学ぶよろしいが、本の表題だけで、大体その本が分らない位なら、芸術なぞやらぬがまあよい。(尤も、表題の付け方の拙い本は別の話だ。)


一、比喩的に云へば、太初には「消費」と「供給」は同時的存在だつたが、人類は恐らく「食はねばならぬ」とか「身を防がねばならぬ」といふ消極方面のことに先づ走つたので「消費」の方は取り残された。由来人類史は「背に腹は換へられぬ」歴史で、取残された「消費」を回想リメインさせるのは芸術である。それで芸術と生活とは、絶対に互ひに平行的関係にあるもので、何かのための芸術といふやうなものはない。

 芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である。そこで生活で敏活な人が芸術で敏活とはいかないし、芸術で敏活な人が生活では頓馬であることもあり得る。謂はば芸術とは「樵夫山を見ず」のその樵夫にして、而も山のことを語れば何かと面白く語れることにて、「あれが『山(名辞)』であの山はこの山よりどうだ」なぞいふことが謂はば生活である。ましては「この山は防風上はかの山より一層重大な役目をなす」なぞといふのはいよいよ以て生活である。そこで例へば謂ふ所の問題劇を書いたイブセンだつて、自身も云つた通り慥かに「人生ライフのために書いたのではない」のであつて、偶々人生で問題になり勝な素材を用ゐたに過ぎぬ。即ちその素材の上で夢みるといふ純粋消費作用を営んだに過ぎぬ。


一、生命の豊かさ熾烈さだけが芸術にとつて重要なので感情の豊かさ熾烈さが重要なのではない。寧ろ感情の熾烈は作品を小主観的にするに過ぎない。詩に就いて云へば幻影イメッジも語義も感情を生発せしめる性質のものではないところにもつてきて感情はそれらを無益に引き摺り廻し、イメッジをも語義をも結局不分明にしてしまふ。

 生命の豊かさそのものとは、必竟小児が手と知らずして己が手を見て興ずるが如きものであり、つまり物が物それだけで面白いから面白い状態に見られる所のもので、芸術とは、面白いから面白い境のことで、かくて一般生活の上で人々が触れぬ世界のことで、謂はば実質内部の興趣の発展によつて生ずるものであり、而して生活だけをして芸術をしないことはまづ〳〵全然可能だが、芸術をして生活をしないわけには行かぬから、芸術は屡々忙しい立場に在り、芸術が一人の芸術家の裡で衰褪してゆくのは常にその忙しさの形式を採つてのことである。

 扨、芸術家は名辞以前の世界に呼吸してゐればよいとして、「生活」は絶えず彼に向つて「怠け者」よといふ声を放つと考へることが出来るが、その声が耳に入らない程名辞以前の世界で彼独特の心的作業が営まれつつあるその濃度に比例してやがて生ずる作品は客観的存在物たるを得る。而も名辞以前の「面白いから面白い」さかひのことは、その面白さを人は人為的に増減することは困難だから茲に宿命性が在ると云へる。尤も該ノートの論旨を心得てゐれば心得てゐないよりは幾分宿命をいい方に転向させることが出来るといふものであらう。


一、技巧論といふものは殆んど不可能である。何故なら技巧とは一々の場合に当つて作者自身の関心内にあることで、殊に芸術の場合には名辞以前の世界での作業であり、技巧論即ち論となるや名辞以後の世界に属する所から、技巧論といふものはせいぜい制作意向の抽象表情を捉へてそれの属性を述べること以上には本来出ることが出来ない。つまり便宜的にしか述べることが出来ない。而も述べられたことから益するのは述べた人自身かそれと非常に相似的芸術家に役立つだけである。


一、一作品中に於けるデータ(細部)とデータは、理想的に云へば絶対に類推的に結合されてゐてはならぬ。何故なれば類推なるものは、先に云ふ「面白いから面白いさかひ」にもともとあるものではないから、例へば詩に於ては語が語を生み、行が行を生まなければならぬ。乃ち類推はそれが十分に行はれない場合の補助手段である。繰返せば、類推とは名辞と名辞との間に取行はれる一つの作用の名前である。即ち生活側に属する作用である。


一、作品の客観性は、人為的に穫得出来るものではない。それは名辞以前の世界、即ち「面白いから面白い境」でその面白さが明確であることと同時に存在する所のものである。かくて作品の客観性は作品の動機の中に必然約束されてあるものであるから、科学知識の有無などに直接関連のあることではない。


一、根本的には唯一つの態度しかない。即ち作者が「面白いから面白い」ことを如実に現したいといふ態度である。そのために、外観的に云つて様々な手法といふものがあるが、それとてもそれは近時一般に考へられてゐる程数多くあるのは邪道である。それらの多くは欧州大戦の疲弊が一時的に案出したものに過ぎず、芸術本来の要求に発したよりも芸術的スランプの救済要求に発したものと考ふべき理由がある。尤もこれは手短かに云つて理想論的見解でありすぎるかも知れない。


一、ロマンチシスムとレアリスムと対立するわけはない。概観するに批評精神の等閑にされた時代はえてロマンチックと謂はれる傾向が比較的顕著であつた。こんな具合だから、ロマンチシスムといひレアリスムといふは作品の色合、傾向等の主要属性の指示に過ぎぬ。


一、屡々謂はれる意味で「芸術には思想が必要」なぞとは意義をなさぬ。「面白いから面白い」ことは既に意向的なことである。その上思想を持込むなぞは野蛮人がありつたけの頸飾りを着けるがやうなものだ。イリュージョンと共にない所の何事も芸術には無用である。


一、問題が紛糾するのは何時も、宛然芸術の格構せる非芸術といふものが存在するからである。例へば語呂がよいだけの韻文なぞといふものがある。早く云へば語呂合せだ。所で語呂合せの大家が語呂の一寸拙い芸術の大家に云ふのだ、「君は語感をおろそかにする」なぞ。

 扨語感は、非常に大切だ。云つてみれば、ポンプに於てバルヴは非常に大切だ。所でその柄が折れてゐたら、ポンプは汲めぬ。それよ、作品観賞に際して抽象的視点(例へば「語感」の如き)を与へて、その点よりみるといふことは意義がない。──彼女の鼻は美しい。口は醜い。睫毛は美しい。額は醜い。それから頬は……生え際は……耳は云々。さてそれで彼女はいつたい美人なのかどんなのか、分りはしないと同様に、「此の詩の脚韻駆使は云々。頭韻駆使は云々。措辞法は云々。」なぞといふとも批評とはならぬ。そんな批評も偶にはあれだがそんな批評しか出来ない詩人や批評家がゐるから御注意。


一、一つの作品が生れたといふことは、今迄箒しか存在しなかつた所へ手拭が出来たといふやうに、新たに一物象が存在したことであり、従来あつたものの改良品が出たといふやうなこと以上である。斯くいふは世人屡々芸術作品を以て、箒なら箒、手拭なら手拭といふ一定のテーマがあつて、それの種々なる解説(インタプリテイション)が彼是の作品だとなしがちだからである。

 作品は、テーマの発展であるとも、テーマの解説ではない。これは、小説に於ても詩に於ても其の他、絵画、音楽等に於ても同様である。厳密に云へば、テーマとその発展も同時的存在である。


一、何故我が国現在は芸術が発展しないか。──何事にまれ最初プランがあつて次にその実施がある。プランは精神的作業で、実施は肉体的作業である。このことは時代としてみても(比較的の話だが)プランの時代と実施の時代がある。今は何れかと云へば実施の時代である。実施の時代にはえて低級の事が跋扈バツコする。つまり名辞以前の世界が閑却されがちである。こんな時には芸術的素質の所有者は必要以上に辛いのである。そんな時には芸術が発展しにくい。──今や漸く実施はウダつて来つつある。即ち前代プランが漸く陳腐に感じられつつある。そんな時人は謂ふ所の指導原理もがなといふことになる。然し芸術に指導原理なぞといふものはない! それどころか芸術は指導原理を気にならない堺に住すれば住する程開始される一つの生命能力である。指導原理だの、何だのと声を涸らしてゐることが、みんな空言であつたと分る日が来るのである。だが振返つて考へてみれば、さういふことが流行してゐる今だとて、さういふことを口にしてゐる人は、現実感を以て云つてゐる筈はない。もともと木に竹をげると思つてゐられる程の馬鹿でなければ、芸術に指導原理だのといふことを云へるものではない。而も彼等を黙させるに到るものは、多分良い作品の誕生が盛んになつて来ることのほかにはない。面白い物が現前しはじめると、漸く実感は立ち返るものだ。それからは彼等だとて全然の空言は吐かぬやうになるものだ。


一、何故我が国に批評精神は発達しないか。──名辞以後の世界が名辞以前の世界より甚だしく多いからである。万葉以後、我が国は平面的である。名辞以後、名辞と名辞の交渉の範囲にだけ大部分の生活があり、名辞の内包、即ちやがて新しき名辞とならんものが著しく貧弱である。従つて実質よりも名儀が何時ものさばる。而して批評精神といふものは名儀に就いてではなく実質に就いて活動するものだから、批評精神といふものが発達しやうはない。(偶々批評が盛んなやうでも、少し意地悪く云つてみるならばそれは評定根性である。)

 つまり、物質的傾向のある所には批評精神はない。東洋が神秘的だなぞといふのはあまりに無邪気な言辞に過ぎぬ。「物質的」に「精神的」は圧へられてゐるので、精神はスキマからチヨツピリ呟くから神秘的に見えたりするけれど、もともと東洋で精神は未だ優遇されたことはない。


一、生命が豊富であるとは、物事の実限が豊富であるといふことと寧ろ反対であると解する方がよい。何故なら実限された事物はもはや物であつて生命ではない。生命の豊富とはこれから新規に実限する可能の豊富でありそれは謂はば現識の豊富のことである。現識の豊富といふことがとかく閑却され勝な所に日本の世間の稀薄性が存する。とまれ現識の豊富なことは世間では、殊に日本の世間では、鈍重とのみ見られ易い。

 安ピカ物の方が通りがよいといふことはかにかくに人生が幸福であることではない。価値意識の乏しい所は困雑が支配することとなる。困雑は結局価値乏しい人々をも幸福にはしない。


一、幸福は事物の中にはない。事物を観たり扱つたりする人の精神の中にある。精神が尊長されないといふことは、やがて事物も尊長されないことになる。精神尊長をロマンチックだとて嗤ふ心ほどロマンチックなものもない。之を心理的に見ても、物だけで結構なぞといつてる時人は言葉に響きを持つてゐようことはない。それは自然法則と共に事実である。


一、芸術作品といふものは、断じて人と合議の上で出来るものではない。社会と合議の上で出来るものでもない。


一、精神的不感症が、歴史だけが面白いのではないかなぞと思つてみることがあるものだ。だが歴史とは個人精神の成果の連続的雰囲気である。個人の精神が面白ければそれは歴史も面白からう。然し、歴史は面白いが個人は面白くないなぞといふことはあり得ない。


一、精神といふものは、その根拠を自然の暗黒心域の中に持つてゐる。

 近代人中の極くもう愚劣な、へ理窟屋共が全然人造的なものを作りたいと企図したりする。彼は彼を生んだのが自分でないことも忘れてゐるやうなものだ。

 ところで精神が客観性を有するわけは、精神がその根拠を自然の中に有するからのことだ。

 而して思考上の紛糾といふものは精神自体の中にその原因を有するのではない。精神の表現過程の中に偶然的雑物が飛込むことにその原因はあるのだ。

 色々の解釈があるのではない。数々の解釈が多少とも夫々の偶然性に支配されるといふだけのことだ。


一、芸術といふものが、生れるものであつて、拵へようといふがものではないといふことは、如何にも芸術の説明にはなつてゐないやうであるけれど芸術家である人には、かう聞けば安心のつくことである点に留意されたい。

 而して、芸術論が屡々余りに空言に終ること多い理由は、芸術家でない人に芸術的制作を可能ならしめんとする意向を知つてか知らないでかひそめてゐることそれである。

 芸術といふものは、幾度もいふ通り名辞以前の現識領域の、豊富性に依拠する。乃ちそれは人為的に増減出来るものではない。

 かくて、芸術家は宿命的悲劇に晒されてゐる。彼は、面白くないことにはいくらせつせと働かうとも徒労である。これは辛いことと云へる。而も、この辛さの由来する所にこそ精神の客観性は依拠するのである。


一、一切は、不定だ。不定で在り方は、一定だ。


一、芸術家よ、君が君の興味以外のことに煩はされざらんことを。

 かくいふことが、芸術家以外の人に、虫のいいことと聞えるならば云はねばなるまい、「自分の興味以外に煩はされずして生きることは、それに煩はされて生きることよりもよつぽど困難なのが一般である。虫のいいのは君の方だ。」

 名辞以前、つまりこれから名辞を造り出さねばならぬことは、既に在る名辞によつて生きることよりは、少くも二倍の苦しみを要するのである。


一、然し名辞以前とは云へ、私は印象派の信条と混同されたくはない。即ちかの瞬間的描写といふ意向と。──名辞以前だとて、光と影だけがあるのではない。寧ろ名辞以前にこそ全体性はあるのである。


一、芸術家にとつて先生はゐないといつていい。あればそれは伝統である。先生は言ふまでもなく、目指すかたではない。それは介添してくれるものだ。このことを混同するために屡々困乱が生ずる。例へば、甞て私が人々が伝統から学ぶことを余りに等閑にしてゐることを唱へるや、或る人達は私を伝統主義者の如くに思つた。

 が、私は伝統主義者であるのでも、ないのでもない。私は伝統から学べる限り学びたいのに過ぎない。

 (尤も、右の如き誤解は、当今では珍しいことではない。蓋し熟読といふことはどういふことかも思ひも到らぬ連中といふものは多いものである。)

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

※底本のテキストは、著者自筆稿によります。

※()内の編者によるルビは省略しました。

※底本巻末の編者による語注は省略しました。

入力:村松洋一

校正:shiro

2018年425日作成

青空文庫作成ファイル:

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