良子
中原中也



「お嬢ちやん大きくなつたらお嫁に行くんでせう?……」良子の家に毎日やつてくる真つ赤な顔や手の魚屋の小僧は、いまお祖母ばあちやんが鉢を出しに奥へ行つたと思ふとそんなことを云つた。

「いやーよ。」さう云ふなり良子は、走つて台所と物置との間の、狭い通路に這入つてしまつた。

 彼女は今年七ツになる、先達小学校に入学したばかりだつた。

「おさかな屋さんのばーかやい。」

「お嬢ちやんのばーかやい。」

 彼女はその小僧を、悪い人間なんだらうと思つた。……でも、彼女は、今にこにこして、下唇に涎をいつぱい溜めて、走つたのでハアハア云つてゐた。

「ばかァ。」さう云つて今度は頭をのぞけた。すると小僧も大急ぎで、その方に頭を突きだして笑つた。

 彼女が屋根と屋根との間から落ちる、やつと自分の背幅程の日向に、自分のおかつぱの影を見付けた時に、小僧とお祖母さんの話声が聞え出してゐた。

 もう一度彼女は頭をのぞけて、「ばかァ」と云つたが、魚屋はお祖母さんの方を向いたツきりだつた。

「ばかァ!」──彼女は飛び出して来た。

あじの方はおよしなりますか、ごついでにいかがです、およしなりますか?」

 良子は、さう云ひながらあじとお祖母さんとをかはるがはるに見てゐる小僧の顔を、ヂツとみてゐた。彼女には、その真面目臭つた顔の小僧と、先刻「お嫁さん」と云つた時の小僧とが、どうしておんなしなんだらう? と思つてゐた。

 お祖母さんが台所に這入ると、小僧は天秤棒を担ぎあげて、「ありがと、存じました」といふや、赤い手を振りながら、さつき良子が隠れた、あの通路の方へ行つた。見えなくならうとする前に彼は一寸振向いて、「お嬢さんさよなら」と、高い声で巫戯けて云つた。

 良子はそれらをズツと見てゐた。

 小僧が見えなくなると、彼女は右足の下駄の先でクルリとからだを廻して、それから唱歌を歌ひ出した。空の方を眺めながら、手や指も動かしてゐた。

「良子ちやん、おさらひをするんだよ。」

 家の裡からお祖母さんのダミ声が聞えて来た。

「はーい。」

 彼女が部屋に行つて見ると、お祖母さんは彼女の方を見向きもしないで、壁の傍で良子の袴を畳んでゐた。

 其処が、良子とお祖母さんとの部屋である。夜になると、良子とお祖母さんとはその部屋で一緒の床に這入る。

 小さい机が、庭に面した側の柱の傍に置いてある。空が急に曇つて来てゐる。

 彼女の真正面あたりに、土塀に近く植つてゐる古い大きい柿の樹の根元には、蟻達が忙しさうに働いてゐる。彼女はそれを、ヂツとみてゐる。

「ハータ、ターコ、コーマ、ハート……」そこまで読むと彼女は、ほんの今まで見てゐた、群から一寸外れて歩いてゐた蟻は、もうどのへんに行つただらうと思ひながら柿の樹の根元を見る。が、もう、どれがどの蟻だか分らなくなつてゐる。

「コートリ、タマゴ、ハーカマ、ハオリ……」

「アーメ、カサ、カーラカサ、アサヒ……マツ、ツル、シカノ……ツノ、ウシノツーノ。」そして彼女は、何処まで習つたかと、先の方をパラパラめくつてみる。さうして第一頁から、習つた所までの頁を指で摘んでみる。

「お祖母さん、もうこんなに習つたのよ。」

「あーあ、よく覚えるんですよ。」

「みんな覚えてるわよ。──ナストウリ、モノサシトハサミ、カガミガアリマス、イケニフネ……」大急ぎでそれだけ読んだが、そこで息が切れた。「あ……ア」と息を吸ひながら、お祖母さんの方をみてにつこり笑つた。

「もつとゆつくり、はつきりと読まなくつちや。」

「だつて先生は、はやく読むんですもの……」

 お祖母ちやんは黙つて笑ひさうにしてゐた。

 大粒な雨が、パラツ、パラツ、と降り出した。お祖母ちやんは、忽ち起つて、干物を入れるために庭に下りた。

 お祖母ちやんには、この柿の樹と、塀とに渡してある重さうな干物竿が却々持扱へなかつた。眉と眉との間に皺を寄せたり伸ばしたりしながら、竿のあちらの端とこちらの端をかはるがはるに見てゐた。

「はやくしないと、あたしのジバンが濡れちやふわよう、お祖母さん!」

「いいから大丈夫だよ。」

 そこへ二階からドヤドヤドヤと降りて来た良子の義理の兄さんが、便所に行かうとして椽側に出ると、其処に猫の食べ物を入れてやるお皿が置いてあるのを見ると、お祖母さんの眼を怖い顔で見ながら、そのお皿を庭の方へ蹴り棄てた。

「また!」と云つてお祖母さんも怖い顔になつて兄の方を睨んだ。兄はお祖母さんの怖い顔には頓着しないで、便所の中に這入ると、きつく戸を閉めてしまつた。

 お祖母さんと兄とは、昨日の晩、兄の嫁のことから喧嘩をしてゐたが、良子には、それはどんな理由なのか分らなかつた。

 蹴り出されたお皿は庭の土の上で、だんだん雨に濡れてゐた。良子はそれを、兄がまだ便所にゐるのが気になつて、なぜかゆつくり見てゐることが出来なかつた。お祖母さんは台所の方で、ゴトゴト音を立てながら、時折呟いてゐるのが聞えた。

 良子のお父さんは、良子が五つの時に死んだ。それから一年ばかり経つとお母さんがゐなくなつたが、何処に行つたのか彼女は知らなかつた。お父さんとお母さんとは、結婚してから十二年経つても子供が生れなかつた。それで養子したのが、ゆんべからお祖母さんと喧嘩してゐる兄であつた。

「お祖母さーん……」と良子は、台所の障子のかげにゐるお祖母さんの方へ呼んでみた。

「なんですよツ」と、お祖母さんは気短かに、返答した。良子は、それからなんと云つてよいのか分らなかつた。そこへ兄が便所から出て来て、良子の傍を通つて、またドヤドヤと階段を上つていつた。

「あたしおなかが空いたの──」

 兄が傍を通る時に、畳の座板がひわるのが、良子の重ね合せて坐つてゐる足に感じられた、彼女は悲しい気持になつてゐた。「ねえ、お祖母さん、あたしお腹が空いたの──」

「ぢきに御飯にしてあげるから、勉強してるんですよ。」

「フーネニホ、ホバシラニハータ、コヒガヰマス、ヒゴヒモヰマス……」

 雨がザアーツと降り出して来た。柿の幹も見る間に余りなく濡れていつた。と、蟇蛙ヒキガヘルが一匹、ピクピク〳〵しながら何時の間にか、庭の真中に匐ひ出してゐた。

「ああ! 気持がいいわねえ。」と金切声をあげながら、彼女は椽側に出て行つた。土塀を越して見える屋根といふ屋根に、一度落ちた雨がまた跳ねあがつてゐる。一丁ばかり先の練瓦建の家が、泳いでゐる緋鯉のやうに、ボンヤリトキ色に見える。何処かの女中が裾をからげて、下ばかりみながら近づいて来る。「お祖母さんお祖母さんみてごらんナさいよ。」お祖母さんは暗い台所でゴトゴト何かしてゐて、何も聞えないふうだ。「……来てごらんなさいよ! あんなに降つてるわよ。」

 猫のお皿は一寸の間に、雨でキレイに洗はれて、真ッ白になつてゐた。

 良子は机の上に振り向くと、家の中は暗くつて、机の上に池の中の鯉や舟を、ふちに立つて見てゐる二人の男の子の描かれた挿絵がボンヤリ出てゐる。二人の男の子の足は、草かなんかでかくれてゐる。それをみると、彼女は一寸シカメ顔をした。

「お祖母さん、猫どーこ?」

「こつちですよ。」

 良子は台所の方へ走つて行つた。右手で障子につかまりながら、左の足を浮かせてからだをまはすやうにし、彼女はお祖母さんが摺鉢でゴマと味噌とを摺合せてゐるのを見入つてゐた。

 雨はまだ、ひどい勢ひで降り続いてゐる。

底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店

   2003(平成15)年1125日初版発行

入力:村松洋一

校正:なか

2010年128日作成

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