活人形
泉鏡花



急病  系図  一寸手懸  宵にちらり  妖怪沙汰  乱れ髪  籠の囮  幻影  破廂  夫婦喧嘩  みるめ、かぐはな  無理 強迫  走馬燈  血の痕  火に入る虫  啊呀!  同士討  虐殺  二重の壁  赤城様──得三様  旭


一 急病


 雲の峰は崩れて遠山のふもともや薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽のあかねみて、遠近おちこちの森のこずえに並ぶ夥多あまた寺院のいらかまばゆく輝きぬ。処は相州東鎌倉雪の下村……番地の家は、昔何某なにがしとかやいえりし大名やしき旧跡あとなるを、今は赤城あかぎ得三が住家とせり。

 門札かどふだを見て、「フムだな。と門前にたたずみたるは、倉瀬泰助という当時屈指の探偵なり。色白くまなこすずしく、左の頬に三日月なり古創ふるきずあり。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭き小刀ナイフにてきずつけられし名残なごりなり。探偵の身にしては、賞牌しょうはいともいいつべき名誉の創痕きずあとなれど、ひとに知らるる目標めじるしとなりて、職務上不便を感ずることすくなからざる由をかこてども、たくみなる化粧にて塗抹ぬりかくすを常とせり。

 倉瀬は鋭き眼にて、ずらりとこの家を見廻し、「ははあ、これは大分古い建物だ。まるでに描いた相馬の古御所というやつだ。なるほど不思議がありそうだ。今に見ろ、一番正体を現してやるから。と何やら意味ありげにつぶやきけり。

 さて泰助が東京よりこの鎌倉に来りたるは、左のごとき仔細しさいのありてなり。

 今朝東京なる本郷病院へ、呼吸いき絶々たえだえ駈込かけこみて、玄関に着くとそのまま、打倒れて絶息したる男あり。年は二十二三にして、扮装みなりからず、容貌かおかたちいたくやつれたり。検死の医師の診察せるに、こは全く病気のために死したるにあらで、何にかあるらんはげしき毒にあたりたるなりとありけるにぞ、棄置き難しと警官がとりあえず招寄せたる探偵はこの泰助なり。

 泰助はまず卒倒者の身体を検して、たもとの中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳はたちばかりなる美麗うつくし婦人おんなの半身像にて、その愛々しき口許くちもとは、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾かんじとして打頷うちうなずき、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人おんなだという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げにう顔を警部は見遣みやりて、「君、ふぐでも食ってしによったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸しがいの顔を指さして、「御覧なさい。人品ひとがらくって、やせっこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄おちぶれたらしい、こういう顔色かおつきの男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、しきりにながめていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやらかすかに脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。しずかにしておかなければ不可いけませんから、貴下方あなたがた他室あっちへお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこのを立去りぬ。

 泰助は一人残りて、死人の呼吸いきを吹返さんとする間際には、秘密をうなり出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みはあやまたず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽にまなこを開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世このよ見納みおさめかなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口ちょこに移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口のはたに持行けば、おもてを背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「うぬ、毒薬だな。とまなこみはりぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。

 医師は声をやわらげて、「毒じゃない、私は医師いしゃです。早くお飲みなさい。という顔をまずきって、やがて四辺あたりを見廻しつ、泰助に眼をそそぎて、「あれは誰方どなた。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名おなまえは。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬さん。ああ嬉しや、私は本望がかなった。貴下に逢えばしんでもい。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮きあつかいをしては、身体からだのために好くない。と諭せども病人はこうべりて、「悪僕、──八蔵に毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂をきて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有ありがとう存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうしてほかの人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意ほい無げに室のおもてに立出でけり。


二 系図


 病人は苦痛を忍びて語り出だしぬ。

 我は小田原のうまれにて本間次三郎という者。幼少の折父母を失いければ、鎌倉なる赤城家に嫁ぎたる叔母のもとにて養われぬ。仮の叔父なる赤城の主人あるじは大酒のために身を損いて、その後病死したりしかば、一族同姓の得三といえるが、家事万端の後見せり。

 叔母には下枝しずえ、藤とて美しき二人の娘あり。我とは従兄妹いとこ同士にていずれも年紀としは我よりわかし。多くの腰元に斉眉かしずかれて、荒き風にも当らぬ花なり。我は食客の身なれども、叔母の光を身に受けて何不自由無く暮せしに、叔母はさる頃病気やまいかかり、一時に吐血してそのゆうべあえなくみまかりぬ。今より想えば得三が毒殺なせしものなるべし。さる悪人とはその頃には少しも思いがけざりき。

 されば巨万の財産を挙げて娘の所有ものとなし、姉の下枝に我をめあわせ後日家を譲るよう、叔母はくれぐれ遺言せしが、我等の年紀としわかかりければ、得三はもとのまま一家いっけを支配して、おのにぞ振舞いける。

 淑母死して七七日のいみも果てざるに、得三は忠実の仮面を脱ぎて、ようやく虎狼ころうの本性をあらわしたり。入用いらざ雑用ぞうようを省くと唱え、八蔵といえる悪僕一人を留め置きて、その余の奴僕ぬぼくことごとく暇を取らせ、素性も知れざる一人の老婆を、飯炊めしたきとして雇い入れつ。こは後より追々にし出ださんずる悪計わるだくみの、人に知られんことを恐れしなりけり。昨日きのうの栄華に引替えて娘は明暮不幸をかこち、我も手酷てひど追使おいつかわるる、労苦を忍びて末々をたのしみ、たまたま下枝と媾曳あいびきしてわずかに慰め合いつ、果は二人の中をもせきて、顔を見るさえ許さざれば垂籠たれこめたるの内に、下枝の泣く声聞くたびに我ははらわたを断つばかりなりし。

 数うれば三年ぜん一日あるひ黄昏たそがれの暗紛れ、ひそかに下枝に密会しのびあい、様子を聞けば得三は、四十を越したる年にも恥じず、下枝をとらえて妻にせん。我心に従えと強迫すれど、聞入れざるを憤り、日に日に手暴てあら折檻せっかんに、無慙むざんや身内の皮は裂け、血にみて、紫色に腫れたるあとも多かりけり。

 下枝は我に取縋とりすがりて、堪えぬ苦痛を訴えつつ、助けてよ、と歎くになむ。さらば財産も何かせむ。家邸も何かせむ、皆得三に投与えて、かかる悪魔の火宅をのがれ、片田舎にて気散じに住みたまう気は無きか、連れてげんと勧めしかど、いや、先祖より伝わりたる財産は、国とも城ともいうべきもの、いかに君と添いたいとて、人手には渡されず。今得三は国のあだ、城を二十重はたえに囲まれたれば、責殺されんそれまでも、家は出でずに守るという。男勝りの心に恥じて、強いてとも言い難く、さればとてこのままにては得三の手に死ぬばかりぞ、といだき合いつつ泣きいたりしを、得三に認められぬ。言語道断の淫戯者いたずらもの片時へんじも家に置難しと追出されんとしたりし時、下枝が記念かたみに見たまえとて、我に与えし写真あり。我はかの悪僕に追立てられて詮方せんかた無く、その夜赤城の家を出で、指して行方もあらざればその日その日の風次第、寄る定めぬ捨小舟すておぶね、津や浦に彷徨さまようて、身に知るわざの無かりしかば、三年越しの流浪にて、乞食こつじきの境遇にも、忘れ難きは赤城の娘、姉妹あねいもとともさぞ得三に、憂いつらい目を見るならむ。助くるすべは無きことか、と頼母たのもしき人々に、一つ談話ばなしにするなれど、聞くもの誰もまこととせず。思い詰めて警察へ訴え出でし事もあれど、狂気の沙汰とて取上げられず。力無く生甲斐無く、さざなみや滋賀県に佗年月わびとしつきを過すうち、聞く東京に倉瀬とて、弱きを助くる探偵ありと、雲間に高きお姓名なまえの、かり便たよりに聞ゆるにぞ、さらばたすけを乞い申して、下枝等を救わむと、行李こうりそこそこかの地を旅立ち、一昨日おとといこの地に着きましたが、暑気あつさあたりて昨日一日、旅店に病みて枕もあがらず。今朝はちと快気こころよげなるに、警察を尋ねて見ばやと、宿を出づれば後より一人け来る男あり。忘れもせぬ其奴そやつこそ、得三に使わるる八蔵という悪僕なれば、害心もあらんかと、用心に用心して、この病院の裏手まで来りしに、思えば運のつきなりけん。にわかにはげしく腹の痛みて、立ってもいられず大地にたおれ、苦しんでいる処へ誰やらん水を持来りて、呑ましてくるる者のあり。眼もくらみ夢中にてただ一呼吸ひといきに呑干しつ、やや人心地になりたれば、介抱せし人を見るに、別人ならぬ悪僕なり。はっと思うに毒や利きけむ、心身たちまち悩乱して、はらわた絞る苦しさにさては毒をば飲まされたり。かの探偵に逢うまでは、束の間欲しき玉の緒を、つなぎ止めたや繋ぎ止めたやと絶入る心を激まして、幸いここが病院なれば、一心に駈け込みし。その後は存ぜずと、呼吸いきつきあえず物語りぬ。


三 一寸手懸


 泰助は目をしばたたき、「薄命ふしあわせな御方だ、御心配なさるな。請合ってきっと助けてあげます。と真実おもてあらわるれば、病人は張詰めたる気もゆるみて、がっくりと弱り行きしが、しきりたもとを指さすにぞ、泰助は耳に口、「何です、え、何ぞあるのですか。「下枝の写真。「むむ、それはこれでしょう。先刻さっき僕が取出しました。とかの写真を病人の眼前めさきかざせば、つくづくと打視うちながめ、「わたくしと同じ様に、さぞ今ではやつれて、とほろりと涙をうかべつつ、「この面影はありますまいよ。死顔でも見たい、もう一度逢いたい。と現心うつつごころにいいければ、察し遣りて泰助が、彼の心を激まさんと、「気を丈夫に持って養生して、ね、翌朝あしたまで眼を塞がずに僕が下枝を連れて来るのを御覧なさい。今夜中に助け出して、財産も他手ひとでには渡さないから、必ず御案じなさるな。と言語ことばを尽して慰むれば、うなずくようにまなこを閉じぬ。

 折からおもてより戸を叩きて、「もう開けましても差支えございませんか。と医師の尋ぬるに泰助は振返りて、「よろしい、おはいんなさい。と答うれば、戸をひらきて、医師とともに、見も知らぬ男り来れり。この男は、扮装みなり、風俗、田舎漢いなかものと見えたるが、日向ひなたまばゆき眼色めつきにて、上眼づかいにきょろつく様、不良よからやからと思われたり。

 泰助きっと眼を着けて、「お前様さんは何しに来たのだ。問われて醜顔むくつけき巌丈男の声ばかり悪優しく。「へいへい、お邪魔様申します。ちとお見舞みめえ罷出つんでたんで。「知己ちかづきのお方かね。「いえ、ただ通懸とおりかかった者でがんすがその方がえらくお塩梅あんばいの悪い様子、お案じ申して、へい、故意わざと。という声耳に入りたりけん。その男を見て、病人は何か言いたげに唇を震わせしが、あわれ口も利けざりければ、指もて其方そなた指示さししめし、怒り狂う風情にて、重き枕をもたげしが、どうと倒れて絶入りけり。

 今病人に指さされし時、くだんの男はあおくなりて恐しげに戦慄わななきたり。泰助などて見遁みのがすべき。はらうちに。ト思案して、「早く、お退きなさい。お前方の入って来る処ではありません。とめつけられて悄気しょげかえり、「ああ呼吸いきを引取ましたかい。可愛や可愛や、袖振合うも他生の縁とやら、お念仏申しましょ。と殊勝らしく眼を擦り赤めてやおら病院を退出まかんでぬ。泰助は医師に向い、「下手人がしらばくれて、(死)をたしかめに来たものらしい。わざと化されて、怪まぬように見せて反対あべこべに化かしてやった。油断をするに相違ちがい無い。「いかさま怪しからん人体でした。あのまま見遁して置くお所存つもりですか、「なあにこれから彼奴あいつを突止めるのです。この病人は及ばぬまでも手当を厚くして下さい。誠に可哀相な者ですから。「何か面白い談話はなしがありましたろう。「ちっとも愉快おもしろくはありませんでした、がこれから面白くなるだろうと思うのです。追々お談話申しましょう。と帽子を取って目深にかぶり、戸外おもてへ出づればかの男は、何方いずれへ行きけん影も無し。脱心ぬかりたりと心急立せきたち、本郷のとおりへ駈出でて、東西を見渡せば、一町ばかりさきに立ちて、日蔭を明神坂の方へ、急ぎ足に歩み行く後姿うしろつきはその者なれば、遠く離れて見失わじと、裏長屋の近道をくぐりて、間近く彼奴かやつの後に出でつ。まずこれでしと汗をれて心静かに後をけて、神田小柳町のとある旅店へ、入りたるを突止めたり。

 泰助も続いて入込いりこみ、突然いきなり帳場に坐りたる主人にむかいて、「今の御客は。と問えば、いぶかしげに泰助の顔を凝視みつめしが、頬の三日月を見て慇懃いんぎんに会釈して、二階を教え、低声こごえにて、「三番室。」

 四番室の内に忍びて、泰助は壁に耳、隣室の談話声はなしごえを聞けば、おのが跟けて来し男の外になお一人の声しけり。

「お前、御苦労であった。これでうちへ帰っても枕を高うしてられるというものだ。「旦那もう帰国けえりますか。この二人は主従と見えたり。「ああしてしまえば東京に用事は無いのだ。今日のしまい汽車で帰国かえるとしようよ。「それがうございましょう。そうして御約束の御褒美は。「家へ行ってからる。「間違ませんか。「大丈夫だ。「きっとでしょうね。「ええ、執拗しつッこいな。「難有ありがてえ、と無法に大きな声をするにぞ、主人は叱りて、「馬鹿め、人が聞かあ。後は何をささやくか小声にてちっとも聞えず。少時しばらくして一人そのを立出で、泰助の潜みたる、四番室よばんの前を通り行くを、戸の隙間すきまよりのぞき見るに、厳格いかめしき紳士にて、年の頃は四十八九、五十にもならんずらん。色浅黒く、武者髯むしゃひげ濃く、いかさま悪事は仕かねまじき人物にて、扮装いでたち絹布おかいこぐるみ、時計の金鎖胸にきらきら、赤城というはこの者ならんと泰助は帳場に行きて、宿帳を検すれば、あきらかに赤城得三とありけり。(度胸の据った悪党だ、)と泰助は心に思いつ。


四 宵にちらり


 三時少し過ぎなれば、しまい汽車にはまだ時間ひまあり。一度ひとたび病院へ取って返して、病人本間の様子を見舞い、身支度して出直さんと本郷に帰りけるに、早警官等は引取りつ。泰助は医師に逢いて、予後の療治を頼み聞え、病室に行きて見るに、この不幸なる病人は気息奄々えんえんとして死したるごとく、泰助の来れるをも知らざりけるが、時々、「赤城家の秘密……怨めしき得三……恋しき下枝、懐かしき妻、……ああ見たい、逢いたい、」と同じこといくたびも譫言うわごとうを聞きて、よくよく思い詰めたる物と見ゆ。遥々はるばる我を頼みて来し、その心さえ浅からぬに、蝦夷えぞ、松前はともかくも、箱根以東にその様なる怪物ばけものすませ置きては、我が職務の恥辱なり。いで夏の日の眠気覚しに、泰助が片膚かたはだ脱ぎて、悪人ばらの毒手のうちより、下枝姉妹きょうだいを救うて取らせむ。証拠を探り得ての上ならでは、渠等かれらを捕縛は成り難し。まず鎌倉に立越えてと、やがて時刻になりしかば、終汽車に乗り込みて、日影ようよう傾く頃、相州鎌倉に到着なし、滑川なめりがわほとりなる八橋楼に投宿して、他所よそながら赤城の様子を聞くに、「妖物ばけもの屋敷、」「不思議の家、」あるいは「幽霊の棲家すみか、」などと怪しからぬ名を附して、誰ありて知らざる者無し。

 病人が雪の下なる家を出でしは、三年前の事とぞ聞く。あるいは救助すくいの遅くして、下枝等は得三のために既に殺されしにあらざるか、遠くもあらぬ東京に住む身にて、かくまでの大事を知らず、今まで棄置きたる不念ぶねんさよ。もし下枝等の死したらんには、悔いても及ばぬ一世の不覚、我三日月の名折なり。少しも早く探索せむずと雪の下に赴きて、赤城家の門前にたたずみつつ云々しかじかつぶやきたるが、第一回の始まりなり。

 この時赤城得三も泰助と同じ終汽車にて、下男を従えて家に帰りつ。表二階にて下男を対手あいてに、晩酌を傾けおりしが、得三何心無くおもてを眺め、門前に佇む泰助を、遠目に見附けていたく驚き、「あッ、飛んだ奴が舞込んだ。と微酔ほろよいめてあおくなれば、下男は何事やらんとおもてを望み、泰助を見るとひとしくり返りて、「旦那々々、あれは先刻さっき病院に居た男だ。と聞いてますます蒼くなり、「ええ! それでは何だな。お前を疑う様な挙動そぶりがあったというのは彼奴あいつか。「へい、左様でござい。恐怖おっかねえ眼をしておれをじろりと見た。「こりゃ飛んだ事になって来た。と一方ならず恐るる様子、「何もそう、顔色がんしょくを変えて恐怖おっかながる事もありますめえ。病気で苦しんでる処を介抱してやったといえばそれ迄のことだ。「でもお前が病院へ行った時には、あの本間の青二才が、まだ呼吸いきがあったというではないか。「ひくひく動いていましたッけ。「だから、二才の口から当家の秘密を、いいつけたに違いない。「だって何程いつかばちのこともあるめえ。と落着く八蔵。得三はこうべを振り、いや、ほかの奴と違う。ありゃお前、倉瀬泰助というて有名な探偵だ。見ろ、あの頬桁ほおげたきずあとを。な、三日月なりだろう、この界隈かいわいでちっとでも後暗いことのある者は、あれを知らぬは無いくらいだ。といえば八蔵はしたり顔にて、「れも、あの創を目標めじるしにしてしゃつらを覚えておりますのだ。「むむ、きさまはな、これから直ぐに彼奴あいつの後をけて何をするか眼を着けろ。「飲込のみこみました。「実に容易ならぬ襤褸ぼろが出た。少しでも脱心ぬかるが最後、諸共ともどもに笠の台が危ないぞ。と警戒いましむれば、八蔵は高慢なる顔色かおつきにて、「たかが生ッちろせた野郎、鬼神おにがみではあるめえ。一思いにひねつぶしてくりょう。と力瘤ちからこぶを叩けば、得三は夥度あまたたびこうべを振り、「うんや、汝には対手が過ぎるわ。敏捷すばしこい事ア狐の様で、どうして喰える代物じゃねえ。しかしすきがあったら殺害やッつけッちまえ。」

 まことや泰助が一期の失策、平常いつものごとく化粧して頬の三日月は塗抹ぬりけし居たれど、極暑の時節なりければ、絵具汗のために流れ落ちて、創のあらわれしに心着かず、大事の前に運悪くも悪人の眼に止まりたるなり。

 さりとも知らず泰助は、ほぼこの家の要害を認めたれば、日の暮れて後忍び入りて内の様子を探らんものをと、きびすを返して立去りけり。

 表二階よりこれを見て、八蔵は手早く身支度整え、「どれ後を跟けましょう。「くれぐれも脱心ぬかるなよ。「合点がってんだ。と鉄の棒の長さ一尺ばかりにて握太きを小脇に隠し、勝手口より立出たちいでしが、このは用心厳重にて、つい近所への出入ではいりにも、じょうを下すおきてとかや。心きたる折ながら、八蔵は腰なる鍵を取りいだして、勝手の戸に外より鎖を下し、急ぎ門前に立出でて、滑川の方へ行く泰助の後より、跫音あしおとひそかに跟けけども、日は傾きて影もねば、少しも心着かざりけり。


五 妖怪沙汰


 泰助は旅店に帰りて、晩餐ばんさんの前に湯にきつ。湯殿に懸けたる姿見に、ふと我顔の映るを見れば、頬の三日月あらわれいたるにぞ、心潜かに驚かれぬ。ざっと流して座敷に帰り、手早く旅行鞄を開きて、小瓶の中より絵具を取出し、く顔に彩りて、懐中鏡に映し見れば、我ながらその巧妙たくみなるに感ずるばかり旨々まんまと一皮かぶりたり。

 今夜を過さず赤城家に入込みて、大秘密をあばきくれん。まずその様子を聞置かんと、手を叩きて亭主を呼べば、気軽そうな天保てんぽう男、とつかわ前に出来りぬ。「御主人外でも無いが、あの雪の下の赤城という家。と皆まで言わぬに早合点はやのみこみ、「へい、なるほど妖物邸ばけものやしき。「その妖物屋敷というのはどういう理窟だい。「さればお聞きなさいまし。まず御免被って、と座を進み、「種々いろいろ不思議がありますので、第一ああいうおおきな家に、んでいる者がございません。「空屋かね、「いえ、そこんところが不思議でごすて。ちゃんと門札も出ておりますが何者が住んでいるのか、それが解りません。「ふふむ、余り人が出入ではいりをしないのか。「時々、あの辺で今まで見た事の無い婆様ばあさんに逢うものがございますが、何でも安達あだちが原の一ツという、それはそれは凄い人体にんていだそうで、これは多分山猫の妖精ばけものだろうという風説うわさでな。「それじゃあ風の吹く晩には、糸を繰る音が聞えるだろうか。「そこまでは存じませんが、折節女の、ひい、ひい、と悲鳴を上げる声が聞えたり、男がげらげらと笑う声がしたり、や、も、散々な妖原ばけはらだといいますで。とこれを聞きて泰助は乗出して、「ほんとなら奇怪な話だ。まずお茶でも一ツ……という一眼小僧は出ないかね。とさも聞惚ききとれたる風を装おい、愉快おもしろげに問いかくれば、こは怪談の御意に叶いしことと亭主はしきり乗地のりじとなり、「いえ世がこの通り開けましたで、そういう甘口な妖方ばけかたはいたしません。東京の何とやら館の壮士が、大勢でこのさきの寺へ避暑に来てでございますが、その風説うわさを聞いて、一番妖物退治をしてやろうというので、小雨の降る夜二人連で出掛けました。草ぼうぼうと茂った庭へ入り込んで、がさがさ騒いだと思し召せ。ずどんずどんとどこかで短銃ピストルの音がしたので、真蒼まっさおになってげて帰ると、朋輩のお方が。そりゃ大方天狗てんぐくさみをしたのか、そうでなければ三ツ目入道が屍をった音だろう。誰某だれそれ屁玉へだまくらって凹んだと大きに笑われたそうで、もう懲々こりこりして、誰も手出しは致しません、何と、短銃では、岩見重太郎宮本の武蔵でも叶いますまい。と渋茶を一杯。舌を濡してことばを継ぎ、「串戯じょうだんはさて置き、まだまだ気味の悪いのは。と声を低くし、「幽霊れこが出ますので。こは聞処ききどころと泰助は、「人、まさか幽霊が。とわざといえば亭主は至極真面目になり、「いいえ、人から聞いたのではございません。わたくしがたしかに見ました。「はてな。「思い出すと戦慄ぞっといたします。と薄気味悪げにうしろを見返り、「部室へやの外が直ぐ森なので、風通しはうございますが、こんな時には、ちとどうも、と座敷の四隅に目を配りぬ。

 泰助は思い当る事あれば、なおも聞かんと亭主に向い、「はなしてお聞かせなさい、実に怪談が好物だ。「余り陰気な談をしますと是非魔がすといいますから。と逡巡しりごみすれば、「馬鹿なことを、と笑われて、「それではともしてかかりましょう。暗くなりました。「怪談は暗がりに限るよ。「ええ! 仕方がありません。先月の半ば頃一日あるひ晩方の事……」

 この時座敷しんとして由井が浜風陰々たり。障子の桟も見えずなり、天井は墨のごとく四隅は暗く物凄ものすごく、人の顔のみようようほのめき、逢魔あうまが時とぞなりにける。亭主はいよいよ心おくし、団扇うちわにてはたはたと、腰のあたりあおぎ立て、景気を附けて語りけるは、「ちょうどこの時分用事あって、雪の下を通りかかり、かねて評判が高いので、怯気々々びくびくもので歩いて行くと、甲走かんばしった婦人おんなの悲鳴が、青照山のこだまに響いて……きい──きいっ。「ああ、嫌否いやな声だ。「は──我ながら何ともいえぬ異変な声でございます。と泰助と顔を見合せ、亭主は膝下ひざもとまでひたと摺寄すりより、「ええそれがわたくしは襟許から、氷を浴びたような気が致して、釘附にされたように立止って見ました。有様ありようは腰ががくついて歩行あるけませなんだので。すると貴客あなた、赤城の高楼たかどのの北の方の小さな窓から、ぬうと出たのは婦人おんなの顔、色真蒼まっさお頬面ほうッぺたは消えて無いというほどやせっこけて、髪の毛がこれからこれへ(ト仕方をして)こういう風、ぱっちりいた眼が、ぴかりしたかと思うと、魂消たまぎった声で、助けて──助けて──と叫びました。」

 語るを聞いて泰助は心のうちに思うよう、いかさま得三に苛責かしゃくされて、下枝かあるいは妹か、さることもあらむかし。活命ながらえてだにあるならば、おッつけ救い得させむずと、そぞろあわれを催しぬ。談話はなし途切れて宿の亭主は、一服吸わんと暗中くらがりを、手探りに、煙管きせるを捜して、「おや、変だ。ここに置いた煙管が見えぬ。あれ、魔隠、気味の悪い。となおそこここを見廻せしが、何者をか見たりけむ。わっと叫ぶに泰助も驚きて、見遣る座敷の入口に、けぶりのごとき物体ものあって、朦朧もうろうとして漂えり。あれはと認むるひまも無く、いなずま? ふっと暗中やみに消え、やがて泰助の面前に白き女の顔あらわれ、ぬぐいたらむ様にまた消えて、障子にさばく乱髪のさらさらという音あり。


六 乱れ髪


 亭主の叫びし声を怪しみ、あわただしく来る旅店の内儀、「まあ何事でござんすの、と洋燈ランプけて据え置きながら、床の間の方を見るや否や、「ン、と反返そりかえるを抱き止めて、泰助きっと振返れば、柱隠しの姿絵という風情にて、床柱にもたれて立つ、あら怪しき婦人おんなありけり。

 つくづくその婦人を見るに、年は二十二三なるべし。しおしおとある白地の浴衣の、処々裂け破れて肩や腰のあたりには、見るもいぶせき血の汚点にじみたるを、乱次無しどけな打纏うちまとい、衣紋えもん開きて帯も占めず、くれないのくけひもを胸高に結びなし、はぎあらわに取乱せり。露垂るばかりの黒髪は、ふさふさと肩にこぼれて、柳の腰に纏いたり。はだえの色真白く、透通るほど清らかにて、顔はいたく蒼みて見ゆ。ただきっとしたる品格ありて眼の光凄すさまじく、頬の肉落ちおとがい細りて薄衣の上より肩の骨の、いたいたしげに顕われたるは世に在る人とは思われず。強き光に打たれなば、消えもやせんと見えけるが、今泰助等を見たりし時、物をも言わで莞爾にっこりと白歯を見せて笑める様は、身の毛も弥立よだつばかりなり。

 人々ものを言いかくれど、答は無くて、ただにこにこと笑うを見て、始め泰助は近隣の狂女ならんと見て取りつ、問えばさるものは無しという。今もなお懐中せる今朝の写真に心附けば、やつれ果ててその面影は無けれども、ばかりたる処あり。さては下枝のいかにしてか脱け出でて来しものにはあらずや。日夜折檻をせらるると聞けば、責苦にや疲れけん、呼吸いきも苦しげに見ゆるぞかし。こはこのままにいなし難しと、泰助は亭主に打向い、「どこか閑静な処へ寝さして、まあまあ気を落着かしてやるがい。当家へ入って来たのも、何かの縁であろうからと、勧むれば、亭主は気のき男にて、一議も無く承引なし、「向側の行当ゆきあたりの部屋は、窓の外がすぐ墓原なので、お客がございませんから、幽霊でさえなけりゃ、それへ連れて行って介抱してつかわしましょう。といいつつ女房を見返りて、「おい、御女中をお連れ申して進ぜなさいと、いいつけられて内儀は恐々こわごわ手をいて導けば、怪しき婦人は逆らわず、素直に夫婦に従いて、さもその情を謝するがごとく秋波斜めに泰助を見返り見返り、蹌踉よろよろとして出行きぬ。

 おもてにべったり蜘蛛くもの巣を撫払なではらいて、縁の下より這出はいいづるは、九太夫にはちと男が好過ぎる赤城の下男八蔵なり。かれ先刻さきに泰助の後を跟け来りて、この座敷の縁の下に潜みており、散々藪蚊やぶかに責められながら、疼痛いたみこらうる天晴あっぱれ豪傑、かくてあるうち黄昏たそがれて、森の中暗うなりつる頃、白衣を着けたる一人の婦人、樹の下蔭にあらわれ出でつ、やおらあゆみを運ばして、雨戸は繰らぬ縁側へ、忍びやかに上りけるを、八蔵朧気おぼろげに見てもしやそれ、はてよく肖た婦人おんなもあるものだ、下枝は一室ひとまに閉込めあれば、出て来らるべき道理は無きが、となおも様子を聞きいるに、頭の上なる座敷には、人の立騒ぐ気勢けはいあり。幽霊などと動揺どよめきしがようやくに静まりて、彼方あなたへ連れ行き介抱せんと、いざない行きしを聞澄まし、縁の下よりぬっと出で蚊を払いつつ渋面つくり、下枝ならむには一大事、とくと見届けてせむ様あり、と裏手の方の墓原へひそかに忍び行きたりける。

 座敷には泰助が、怪しき婦人を見送りて、下枝の写真を取出し、洋燈ランプに照して彼とこれと見競べている処へ、亭主は再び入来りて、「お客様、寝床を敷いてやりますと、たおれる様にふせりました。何だか不便ふびん婦人おんなでございます。「それは深切に好くしておやんなすった。そうして何とか言いましたかい。「あれはおうしじゃないかと思われます。何を言っても聞えぬようすでございます。「なんしろ談話はなしの種になりそうだね。「いかさまな。「で、私はこれからちよいと行って来る処がある。御当家おうちへ迷惑はかけないから、帰るまでああして蔵匿かくまって置いて下さらないか、衣服きものに血がついてたり、おどおどしている処を見ると、邪慳じゃけんしゅうとめにいびられる嫁か。「なるほど。「あるいは継母に苦しめられる娘か。「勾引かどわかされた女で、女郎にでもなれと責められるのか。こりゃ、もしよくあるやつでございますぜ。「うむその辺だろう。何でも曰附いわくつきに違いないから、御亭主、一番侠客気おとこぎを出しなさい。「はあて、ようごぜえさあ、ほい、直ぐとその気になる。はははははは。かからんには後に懸念無し。亭主もし二の足ふまば我が職掌をいうべきなれど、蔵匿うことを承知したればそれにも及ばず都合し。人情なればこの婦人をいたわりてやるはずなれど、大犯罪人前にあり、これゆるがせにすべからずと、泰助は急ぎ身支度して、雪の下へと出行きぬ。赤城の下男八蔵は、墓原に来て突当つきあたりの部屋の前に、呼吸いきを殺していたりしが、他の者は皆立去りて、怪しと思う婦人おんなのみ居残りたる様子なれば、倒れたる墓石を押し寄せて、その上に乗りて伸び上り、窓の戸を細う開きて差覗さしのぞけば、かの婦人は此方こなたを向きて横様に枕したれば、顔も姿もよく見えたり。「やあ! と驚きの余り八蔵は、思わず声を立てけるにぞ、婦人は少し枕を上げて、窓をあおぎ見たる時、八蔵ぬっとつら差出し、こぶしに婦人をつかむ真似して、「汝、これだぞ、とめつくれば、連理引きに引かれたらむように、婦人は跳ね起きて打戦うちおののき、諸袖もろそでに顔を隠し、俯伏うつぶしになりて、「あれえ。」


七 籠の囮


 倉瀬泰助は旅店を出でて、雪の下への道すがら、一叢ひとむら樹立こだちの茂りたる林の中へ行懸ゆきかかりぬ。月いと清うさしいでて、葉裏をすかして照らすにぞ、偶然ふと思い付く頬の三日月、またあらわれはせざるかと、懐中鏡を取出とりいだせば、きらりと輝く照魔鏡に怪しき人影映りけるにぞ、はっと鏡を取落せり。

 とたんに鉄棒くうに躍ってこうべを目懸けてえい! と下す。さしったりと身を交せば、ねらはずれて発奮はずみを打ち路傍の岩を真二まっぷたつ。石鉄戛然かつぜん火花を散らしぬ。こはかの悪僕八蔵が、泰助に尾し来りて、十分油断したるを計り、狙撃ねらいうちしたりしなり。僥倖さいわいに鏡を見る時、後に近接ちかづく曲者映りて、さてはと用心したればこそ身を全うし得たるなれ。

「しまった。と叫びて八蔵が、鉄棒を押取おっとり直すを、泰助ははったと睨め付け、「御用だ。と大喝一声、ひるむ処を附け入って、こぶしいなずま手錬のあてに、八蔵は急所をたれ、蹈反ふんぞりて、大地はどうと響きけり。

「月夜に暗殺、馬鹿々々しい、と打笑いつつ泰助は曲者の顔をながめて、「おや、此奴こやつは病院へ来た奴だ。赤城の手下に違いないが、ふむ敵はもうおれが来たことを知ってるな。こりゃ油断がならぬわい。危険々々けんのんけんのん、ほんの一機ひといきでこの石の通りになる処、馬鹿力の強い奴だ。と舌を巻きしが、「待て、何ぞ手懸りになる様な、掘出し物があろうかも知れぬ。とかかる折にも油断無く八蔵の身体からだを検して腰に附けたる鍵を奪いぬ。時に取りては千金にも勝りたる獲物ぞかし。これあらば赤城家へ入込いりこむに便たよりあり造化至造妙しあわせよし莞爾にっこうなずき、たもとに納めて後をも見ず比企ひきやつの森を過ぎ、大町通って小町を越し、坐禅川を打渡って──急ぎ候ほどに、雪の下にぞ着きにける。

談話はなし前にもどる。)

 ここに赤城得三は探偵の様子をうかがえとて八蔵をいだりたる後、穏かならぬ顔色がんしょくにて急がわしく座を立ちて、二室ふたま三室通り抜けて一室の内へきぬ。こは六畳ばかりの座敷にて一方に日蔽ひおおいの幕を垂れたり。三方に壁を塗りて、六尺の開戸ひらきどあり。床の間は一間の板敷なるが懸軸も無く花瓶も無し。ただ床の中央に他にたぐい無き置物ありけり。鎌倉時代の上﨟じょうろうにや、小挂こうちぎしゃんと着こなして、練衣ねりぎぬかずきを深くかぶりたる、人の大きさの立姿。こぼるる黒髪小袖のつま、色も香もある人形なり。ものいわぬ高峰たかねの花なれば、手折るべくもあらざれど、被の雲を押分けて月の面影洩出もれいでなば、﨟長ろうたけたらんといと床し。

 得三は人形の前にと進みて、どれ、ちょっと。上﨟の被を引き上げて、手燭てしょくかざして打見り、「むむ可々よしよし。と独言ひとりごともとのごとく被を下して、「後刻のちに高田が来るはずだから、この方はあれにくれてやって、金にするとしてまずしと。ところで下枝の方は、れが女房にして、公債や鉄道株、ありたけの財産を、れが名に書き替えてト大分旨い仕事だな。しかし、下枝めがまた悪く強情で始末におえねえ。手を替え、品を替え、なでつねりつして口説いてもうむと言わないが、東京へ行懸けに、うつばりに釣して死ぬ様な目に逢わせて置いたから、ちっとは応えたろう。それに本間の死んだことも聞かしてやったら、十に九つはこっちの物だ。どうやら探偵いぬぎ附けたらしい。何もかも今夜中に仕上げざなるめえ。その代り翌日あしたッから御大尽だ。どれ、ちょびと隠妾かくしづまの顔を見て慰もうか。とかねてより下枝を幽閉せる、座敷牢へ赴くとて、廻廊に廻り出でて、欄干にりかかれば、ここはこれ赤城家第一の高楼たかどのにて、屈曲縦横の往来を由井が浜まで見通しの、鎌倉半面は眼下にあり。

 山のに月の出汐いでしお見るともなく、比企が谷の森のかたを眺むれば、目も遥かなる畦道あぜみちに、朦朧もうろうとして婦人おんなあり。黒髪さっと夜風に乱して白き衣服きものを着けたるが、月明りにてえがけるごとく、南をさして歩むがごとし。

 得三は啊呀あなやと驚き、「あれはたしかに下枝の姿だ……いや、いや、三年以来このかた、あの堅固な牢の内へぶちこんであるものを、まさか魔術を使いはしめえし、戸外おもてへ脱けて出る道理が無い。こりゃ心の迷いだ。がしてはならぬ脱がしてはならぬと思ってるからだ。こればかりの事に神経を悩すとは、ええ、意気地の無い事だ。いかさまな、五十の坂へ踏懸けちゃあ、ちとよりが戻ろうかい。だが油断はならない、早く行って見て安心しよう。何、居るに違いないが……ままよ念のためだと、急がわしく、せ行きて北の台と名づけたる高楼の、怪しげなる戸口に到り、合鍵にて戸を開けば、らいのごとき音ありて、鉄張の戸は左右にきぬ。室内に籠りたる生暖なまぬるき風むんむとおもてちて不快こころわるきこといわん方無し。

 手燭に照して見廻みまわせば、地に帰しけん天に朝しけん、よもやよもやと思いたる下枝は消えてあらざりけり。得三は顛倒てんどうして血眼ちまなこになりぬ。


八 幻影


 先刻さきに赤城得三が、人形室を出行いでゆきたる少時しばらく後に、不思議なることこそ起りたれ。風も無きに人形のかずき揺めき落ちて、妖麗あでやかなる顔のれ出でぬ。瑠璃るりのごとき眼も動くようなりしが、怪しいかな影法師のごとき美人静々とうちに歩み出でたり。この幻影まぼろしたとえば月夜に水をけぶりに似て、手にも取られぬ風情なりき。

 折から畳障りの荒らかなる、跫音あしおと彼方かなたに起りぬれば、黒き髪と白き顔はふっと消えせ、人形はまたもとの通り被をかぶりぬ。

 途端にがたひしと戸を開けて、得三は血眼に、この室にけ込み、「この方はどうだろう。あの様子では同じくはねが生えて飛出したかも知れぬ。さあ事だ、事だ、飛んだ事だ。もう一度見ねばならない。と小洋燈こともしの心を繰上げて、荒々しく人形の被をめくり、とくと覗きて旧のように被を下ろし、「うむ、この方は何も別条は無い。やれこれで少しは安堵おちついた。それにしても下枝めはどうしてせた知らん。婆々が裏切をしたのではあるまいか。むむ、なんしろ一番糺明ただして見ようと、たなそこを高く打鳴らせば、ややありて得三の面前に平伏したるは、当家に飼殺しの飯炊にて、お録といえる老婆なり。

 得三は声鋭く、「お録、下枝をどこへにがした。と睨附ねめつくれば、老婆は驚きたる顔を上げ、「へい、下枝さんがどうかなさいましたか、「しらばくれるない。きっときさまにがしたんだ。「いいえ、一向に存じません。「うぬ、言ッちまえ。「ちっとも存じません。「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾たまごめしたる短銃ピストルを取いだし、「打殺ぶちころすが可いか。とお録の心前むなさきに突附くれば、足下にうずくまりて、「何でそんな事をいたしましょう。旦那様が東京へいらっしゃってお留守の間もわたくしはちゃんと下枝様の番をしておりました。縄は解いてやりましたけれども。「それ見ろ。そういう糞慈悲を垂れやあがる。おれが帰るまでうむといわなけりゃ、して下してやることはならないと、あれほど言置いて行ったじゃないか。「でもひいひい泣きまして耳の遠い私でも寝られませんし、それに主公あなた、二日もああしてうつばりに釣上げて置いちゃあ死んでしまうじゃございませんか。「ええ! そんなことはどうでも可い。どこへ遁したか、それを言えッてんだ。「つい今のさきも北の台へ見廻りに参りましたら、下枝様は平常いつもの通り、牢の内にたおれていましたのに、にわかに居なくなったとおっしゃるが、まこととは思われません。と言解いいとく様の我をあざむくとも思われねば、得三は疑い惑い、さあらんには今しがた畦道あぜみちを走りし婦人おんなこそ、籠を脱けたる小鳥ならめ、下枝一たび世にいでなば悪事の露顕は瞬く間と、おのが罪に責められて、得三の気味の悪さ。むごたらしゅう殺したる、くちなわの鎌首ばかり、飛失せたらむ心地しつ立っても居ても落着かねば、いざうれ後を追懸けて、草を分けて探し出し、引摺ひきずって帰らんとお録に後を頼み置き、勝手口より出でんとして、押せども、引けども戸は開かず。「八蔵の馬鹿! 外からじょうを下してく奴があるもんか。とむかばらたちの八ツ当り。

 折から玄関の戸を叩きて、「頼む、頼む。と音訪おとなう者あり。聞覚えのある声はそれ、とお録内より戸を開けば、おもてよりずっと入るは下男を連れたる紳士なりけり。こは高田駄平たかただへいとて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名なだかく、人の活血いきち火吸器すいふくべ渾名あだなのある男なり。召連れたる下男は銀平という、高田が気に入りの人非人。いずれも法衣ころもまといたる狼ぞかし。

 高田は得三を見て声をかけ、「赤城さん、今晩は。得三は出迎いでむかえて、「これは高田さんでございますか。まあ、こちらへ。と二階なる密室に導きて主客三人みたりの座は定まりぬ。高田は笑ましげに巻莨まきたばこふかして、「早速ながら、何は、令嬢は息災かね。「ええ、お藤の事でございますか、「左様さ、私の情婦いいひと、はははははは。と溶解とろけんばかりの顔色かおつきを、銀平はのぞきて追従ついしょう笑い、「ひひひひ。得三は苦笑いして、「藤は変った事はございません。御約束通り、今夜貴下に差進さしあげるが。……実は下枝ね。「ははあ。「あれが飛んだことになりました。「ふむ、死にましたろう。だから言わないことか、あんなにむごいことをなさるなと。とうとう責殺したね。非道ひどいことをしなすった。「いえ、死んだのならまだしも可いが、どうしてか逃げました。「なに! げたえ?「それで今捜しに出ようというところですて。「むむ、それはとんだ事だ。猶予をしちゃ不可いけません。あの饒舌しゃべると一切の事が発覚ばれっちまう。宜しい銀平にお任せなさい。のう、銀平や、お前はそういうことにはれているから、取急いで探しておあげ申しな。といいつくれば得三も、探偵にうかがわるることを知りたれば、家を出でむは気懸りなりしに、これさいわいと銀平に、「じゃ御苦労だが、願います。私どもは後にちっと用事があるから。といえば、もとより同穴ひとつあなむじなにて、すべてのことを知るものなれば、銀平はうなずきて、「へい宜しゅうございます。下枝様がああいう扮装みなりのまま飛出したのなら、今頃は鎌倉中の評判になってるに違いありません。何をいおうと狂気きちがいにして引張ひっぱって参ります。血だらけのあの姿じゃ誰だって狂気ということを疑いません。旦那、左様なら、これから直ぐに。と立上るを得三は少時しばしと押止め、「例のな、承知でもあろうが、三日月探偵がこっちへ来ているから、油断のないように。と念を入るれば、「それは重々容易ならぬことだ。銀平しっかりやってくんな。と高田もことばを添えにける。銀平とんと胸を叩きて、「御配慮おきづかいなされますな。と気軽に飛出し、表門の前を足早に行懸ゆきかかれば、前途むこうより年わかき好男子の此方こなたに来懸るにはたと行逢いけり。擦違うて両人ひとしく振返り、月明つきあかりに顔を見合いしが、見も知らぬ男なれば、銀平はそのまま歩を移しぬ。これぞ倉瀬泰助が、悪僕八蔵を打倒して、今しもここに来れるなりき。


九 破廂


 泰助は昼来て要害を見知りたれば、その足にて直ぐと赤城家の裏手にき、垣の破目やれめくぐりて庭に入りぬ。

 目も及ばざる広庭の荒たきままに荒果てて、老松ろうしょう古杉こさん蔭暗く、花無き草ども生茂りて踏むべきみち分難わけがたし、崩れたる築山あり。水のれたる泉水あり。倒れかけたるほこらには狐や宿をりぬらん、耳許みみもと近き木の枝にのりすれのりすれふくろうの鳴き連るる声いとすさまじ、木の葉を渡る風はあれど、ちりを清むるははき無ければ、蜘蛛の巣ばかり時を得顔に、霞を織る様あわれなり。妖物ばけもの屋敷と言合えるも、道理ことわりなりと泰助が、腕こまぬきてたたずみたる、頭上の松のしげりを潜りて天よりさっと射下す物あり、足許にはたと落ちぬ、何やらんと拾い見るに、白き衣切きぬぎれようのものに、いしこを一つ包みてありけり。押開きて月にかざせば、鮮々なまなましき血汐にて文字もんじしたためたり。

 虐殺なぶりごろしにされようとする女が書きました。どうぞ、このの内から助け出して下さいまし。……書様の乱れたる字の形の崩れたる、筆にて運びし物にはあらじ。思うに指など喰い切りてその血をその手ににじり書き、句の終りにはおびただしく血のぬらぬらと流れたるを見て、泰助はほろりと落涙せり。

 これを投げたるは、下枝か、藤か。目も当てられぬことどもかな。いで我来れり、泰助あり、今夜のうちに地獄より救い取りて、明日はこの世に出し参らせむ。そもいずくよりなげうちたらんと高楼たかどのを打仰げど、それかと見ゆる影も無く、森々と松吹く風も、助けを呼びて悲しげなり。きっと心を取直し、丈に伸びたる夏草を露けき袖にて押分け押分けなお奥深く踏入りて忍び込むべき処もやと、彼方あなた此方こなた経歴へめぐるに、驚くばかり広大なる建物の内に、住む人少なければ、ともしびの影もおもてれず。破廂やれびさしより照射入さしいる月は、崩れし壁の骨を照して、家内寂寞せきばくとして墓に似たり。ややありて泰助は、表門のかたに出で、玄関に立向い、戸をして試むれば、固く内よりとざしてかず。勝手口と覚しき処にきて、もしやと引けども同じく開かず。いかにせんと思いしが、ふと錠前に眼を着くれば、こは外より鎖せしなり。試みにたもとを探りて、悪僕より奪い置きたる鍵をむれば、きしと合いたる天の賜物たまもの、「占めた。」とじればひらくにぞ、得たりと内へ忍び入りぬ。

 暗闇を歩むにれたれば、爪先探りに跫音あしおとを立てず。やがて壇階子だんばしごを探り当て、「これで、まず、仕事に一足踏懸けた。と耳を澄ましてうかがえど、人の気附たる様子も無ければ、心安しと二階に上りて、壁を洩れ来る月影に四辺あたりを屹と見渡せば、長き廊下の両側に比々として部屋並べり。大方は雨漏に朽ち腐れて、柱ばかり参差しんしと立ち、畳は破れ天井裂け、戸障子も無き部屋どもの、昔はさこそとしのばるるがいと数うるにえず。はるか彼方に戸を閉じたる一室ひとまありて、燈火ともしび灯影ほかげかすかに見ゆるにぞ、要こそあれと近附きて、ひたと耳をあてて聞くに、人のあるべき気勢けはいもなければ、ひそかに戸を推して入込みたる、ぞかの人形を置ける室なる。

 垂れ下したる日蔽ひおおいは、これ究竟くっきょう隠所かくれどころと、泰助は雨戸とその幕の間に、いなずまのごとく身を隠しつ。と見れば正面の板床に、世に希有めずらしき人形あり。人形の前に坐りたる、十七八の美人ありけり。

 泰助は呼吸いきを殺してその様を窺えば、美人は何やらむ深く思い沈みたる風情にて、こうべれて傍目わきめもふらず、今泰助の入りたることは少しも心附かざりき。額襟許清らに見え、色いと白く肉置ししおく、髪房やかに結いたるが、妖艶あでやかなることはいわむ方無し。美人は正坐に堪えざりけん、居坐いずまい乱して泣きくずおれすすり上げつつ独言つぶやくよう、「ああ悪人の手に落ちて、げて出ることは出来ず、助けて下さる人は無し。あの高田にけがされぬ先に、いっそこのまま死にたいなあ、お姉様あねさんはどう遊ばしたかしら、定めし私と同じ様に。と横に倒れて唯泣ひたなきに泣きけるが、力無げに起直り赤めたる眼を袖にて押拭おしぬぐいて、くだんの人形に打向い、「人形や、よくお聞き。お前はね、死亡おなくなり遊ばした母様おっかさんに、よく顔がておいでだから、平常いつも姉様ねえさんと二人して、可愛がってあげたのに、今こんな身になっているのを、見ていながら、助けてくれないのは情ないねえ、怨めしいよ。御覧な、誰も世話をしないから、この暑いのに綿の入った衣服きものを着ておいでだよ。私をもとのようにしておくれだったら、甘味おいし御膳ごぜんげようし、衣服も着換えさせますよ。お前のに綺麗な衣服を、姉様と二人で縫い上げて、翌日あすは着せてあげようと楽みにして寝た晩から、あの邪慳じゃけんな得三に、こうされたのはよく御存じでないかい。今夜は高田に恥かしめられるからさあ、どうかして下さいてばよう。ええ、これほどいうのに返事もしないかねえ。とひしと上﨟の腰にすがりて、口説きたるには、泰助も涙ぐみぬ。

 美人はまた、「あれ堪忍して下さいましよ。貴女あなたは仮にも母様おっかさん、恨みがましいことを申して済みませんでした。でももう神様も、仏様も、わたしを助けて下さらないから、母様どうぞ助けて下さい。そうでなくば、私を殺して早うおそばに連れて行って下さいまし、よ、よ。と力一杯抱緊だきしめて、身を震わせば人形もともにわななくごとくなり。

 泰助は見るに忍びず。いでまずこのを救いいださん、家の案内は心得たれば背負うて遁げんに雑作は無しと幕を掲げてと出でたり。不意に驚き、「あれ。と叫びて、泰助声をも懸けざるに、身をひるがえして、人形のかずきくぐって入るよと見えし、美人は消えて見えずなりぬ。あまりの不思議に呆気に取られ、茫然として眼をぱちぱち、「不思議だ。不思議と泰助は、潜かに人形の被の端へ片手を懸けたる折こそあれ。部室へやおもてにどやどやと跫音あしおとして、二三人が来れる様子に、南無三宝飛び退すさりて再び日蔽の影に潜みぬ。


十 夫婦喧嘩


 高田の下男銀平は、下枝を捜しいださんとて、西へ東へ彷徨さまよいつ。ちまた風説うわさに耳をそばだて、道く人にもそれとはなく問試むれど手懸り無し。南を指して走りしと得三の言いたれば、長谷はせかたに行きて見んと覚束おぼつかのうは思えども、比企が谷より滑川へ道を取って行懸り、森の中を通るとき、木の根を枕にくさむらに打倒れたる者を見たり。

 時すがら悪き病疾やまいかかれるやらむ、近寄りては面倒、と慈悲心無き男なれば遠くより素通りしつ。まてしばし人を尋ぬる身にしあれば、人の形をなしたる物は、何まれ心をくべきなり。と思い返してそばに寄り、倒れし男の面体を月影にてよく見れば、かねて知己ちかづきなる八蔵の歯を喰切くいしばりて呼吸いき絶えたるなり。銀平これはと打驚き、脈を押えてうかがえばかすかに通う虫の呼吸、呼び活けんと声を張上げ、「八蔵、やい八蔵、どうしたどうした、え、八蔵ッ、と力任せに二つ三つ掴拳にぎりこぶしくらわせたるが、死活の法にやかないけん。うむとうめくに力を得て「やい、しっかりしろ。と励ませば、八蔵はようように、脾腹ひばらを抱えて起上り、「あいつ、あ痛。……おお痛え、痛え、畜生非道ひどいことをしやあがる。と渋面つくりて銀平の顔をながめ、「銀平、遅かったわやい。「おらあすんでの事で俗名八蔵と拝もうとした。「ええ、縁起でもねえ廃止よしてくれ。物をいうたびに腹へこたえて、こてえられねえ。「全体どうしたんだ。八蔵は頭をき掻きありし事ども物語れば、銀平は、驚きつまた便たよりを得つ、「ふむ、それでは下枝は滑川の八橋楼に居るんだな。「ああ、どうしてか紛れ込んだ。おらあ、窓からのぞいてたしかに見た。何とか工夫をして引摺り出そうと思ってる内に、泰助めが出懸ける様だから、早速跡をけて、まんまと首尾よくぶっちめる処を、さんざんにぶっちめられたのだ。忌々いめえましい。「し一所に歩べ。行って下枝を連れてけえろう。「おっと心得た。「さあこうぜ。「参りまする参りまする。何かと申すうちに、はやここは滑川にぞ着きにける。

 八橋楼の亭主得右衛門は、黄昏時たそがれどきの混雑に紛れ込みたる怪しき婦人を、一室ひとまの内にやすませおき、心を静めさせんため、傍へは人を近附けず。時たば素性履歴を聞きただし、身に叶うべきほどならば、力となりて得させむず、と性質うまれつきたる好事心。こうしてああしてこうして、と独りほくほくうなずきて、帳場に坐りて脂下やにさがり、婦人をうかがう曲者などの、万一もしきたることもやあらむと、内外に心を配りいる。

 勝手を働く女房が、用事しもうてたすきを外し、前垂まえだれにて手を拭き拭き、得衛の前へとんと坐り、「お前さんどうなさる気だえ。「どうするって何をどうする。と空とぼければ擦寄って、「何をもないもんだよ。分別盛りの好い年をして、という顔色の尋常ただならぬに得右衛門は打笑い、「其方そなたもいけどしつかまつってやくな。といえばかっとなり、「気楽な事をおっしゃいますな。お前様見たような人を怪我にもく奴があるものか。「おや恐ろしい。何をそうがみがみいうのだ。「ああいう婦人おんなうちへ置いてどんな懸合かかりあいになろうも知れませぬ。「その事なら放棄うっちゃッときな、おれが方寸にある事だ。ちゃんと飲込んでるよ。「だッてお前様、御主筋の落人ではあるまいし、世話を焼く事はござりませぬ。「お前こそ世話を焼きなさんな。「いいえ、ああして置くときっと庄屋様からお前を呼びに来て、手詰の応対、寅刻ななつを合図に首討って渡せとなります。「その時は例の贋首にせくびさ。「人を馬鹿にしていらっしゃるよ。「そうして娘は居ず、さしずめ身代みがわりにお前さね。「とんでもない。「うんや喜こばっし。「なぜ喜ぶの。「はて、あの綺麗首の代りにたてば、お前死んでも浮ばれるぜ。「ええ悔しい。「悔しい事があるものか。首実検に入れ奉る。死相変じてまッそのとおり、ははははは。「お前はなあ。「これ、古風なことをするな。呼吸いきが詰る、これさ。「とりが鳴いても放しはしねえ。早く追い出しておしまいなさい。「水を打懸ぶっかけるぞ。「くらい附くぞ。「、痛、ほんとにくいついたな。この狂女きちがいめ、と振払う、むしゃぶりつくを突飛ばす。がたぴしという物音は皿鉢飛んだ騒動さわぎなり。

 おもてうかがう、八蔵、銀平、時分はよしとぬっと入り、「あい、御免なさいまし。」


十一 みるめ、かぐはな


「はい、光来おいでなさいまし、何ぞ御用。と得右衛門居住い直して挨拶すれば、女房もびんのほつれ毛掻き上げつつ静まりて控えたり。銀平は八蔵にきっ目注めくばせしておのれはつかつかと入込いりこめば、「それお客様御案内と、得衛の知らせに女房は、「こちらへ。と先に立ち、奥の空室あきまへ銀平を導き行きぬ。道々手筈てはずを定めけむ、八蔵は銀平と知らざる人のごとくに見せ、その身は上口あがりくちに腰打懸け、四辺あたりをきょろきょろ見廻すは、もしや婦人を尋ねにかと得右衛門も油断せず、顔打守りて、「貴方は御泊おとまりではございませんか。と問えばちょっとは答せず、煙草たばこ一服思わせぶり、とんとはたきて煙管きせるを杖、「親方、逢わしておくんねえ。とおつにからんで言懸くれば、それと察してとどろく胸を、押鎮めてぐっと落着き、「逢わせとはそりゃ誰に。亭主ならば私じゃ、さあお目にかかりましょ。と此方こなたも負けずに煙草をすぱすぱ。八蔵は肩をゆすってせせら笑い、「おいらがが来ている筈、ちょいと逢おうと思って来た。「ふむ、してどんな御婦人だね。「ちと気がれて血相変り、取乱してはいるけれど、すらっとして中肉中脊、戦慄ぞっとするほどい女さ。と空嘯そらうそぶいて毛脛けずねの蚊をびしゃりと叩く憎体面にくていづら。かくてはいよいよかの婦人の身の上思い遣られたり、と得衛はきっと思案して、「それは大方門違い、わしの代になってから福の神は這入はいっても狂人きちがいなどいう者は、門端かどばたへも寄り附きません。と思いの外の骨の強さ。八蔵は本音を吐き、「おい、いい加減に巫山戯ふざけておけ。これ知るまいと思うても、先刻さっきちゃんとにらんでおいた、ここを這入って右側の突当つきあたり部室へやの中に匿蔵かくまってあろうがな。と正面より斬ってかかれば、ぎょっとはしたれど受流して、「居たらまた何とする。「やい、やい、馬鹿落着に落着おちつくない。亭主の許さぬ女房をかくしておけば姦通まおとこだ。足許あしもとの明るい内に、さらけ出してお謝罪わびをしろと、居丈高に詰寄れば、「こりゃ可笑おかしい、お政府かみに税を差上げて、天下晴れての宿屋なら、他人ひとの妻でもめかけでも、泊めてはならぬ道理は無い。それとも其方そちの女房ばかりは、泊めるなというおきてがあるか、さあそれをきこうかい。と言われて八蔵受身になり、むむ、と詰りて頬ふくらし、「何さ、そりゃ此方こなたの商売じゃ、泊めたが悪いというではない。用があるから亭主のおれが連れて帰るに故障はあるまい。といわれていやとは言われぬば、得衛もぐっと行詰りぬ。八蔵得たりと畳みかけて、「さあ、出して渡してくれ、否と言うが最後だ。とどっかと坐して大胡坐おおあぐら。得右衛門思い切って「居さえすれば渡して進ぜる、らぬが実じゃで断念あきらめさっし。と言わせも果てず眼を怒らし、「まだまだぬかすか面倒だ。踏み込んで連れてく、と突立上れば、大手を拡げ、「どっこい遣らぬわ、誰でも来い、家の亭主ここに控えた。「何をと、八蔵は隠し持ったる鉄棒を振翳ふりかざして飛懸とびかかれば、非力の得衛仰天して、あおくなって押隔つれど、腰はわなわな気はあぷあぷ、こうじ果てたるその処へ女房をさきに銀平が一室ひとまを出でてけ来りぬ。

 銀平は何思いけん、いきおいに乗る八蔵を取って突除つきのけずいと立ち、「勾引かどわかしの罪人、御用だッ。と呼ばわれば、八蔵もまた何とかしけむ、「ええ、と吃驚びっくり身をひるがえして、おもて遁出にげだし雲を霞、遁がすものかと銀平は門口まで追懸け出で、前途ゆくてを見渡し独言ひとりごと、「素早い、野郎だ。取遁がした、残念々々と引返せば、得右衛門は興覚顔にて、「つい混雑に紛れまして、まだ御挨拶も申しません。貴下あなたは今しがた御着おつきになった御客様、さてはその筋の。と敬えば、銀平したり顔に打頷うちうなずき、「うむ、僕は横須賀の探偵だ。」

 遁げると見せかけ八蔵は遠くも走らず取って返し、裏手へ廻って墓所はかしょり、下枝がしたる部室へやの前に、忍んで様子をうかがえり。

 横須賀の探偵に早替りせる銀平は、亭主にむかいて声低く、「実は、横須賀のさる海軍士官の令嬢が、江の島へ参詣さんけいに出懸けたまま、今もって、帰って来ない。と口より出任せの嘘をけど、今の本事てなみを見受けたる、得右衛門は少しも疑わず。真に受けて、「なるほどなるほど。と感じ入りたる体なり。銀平いよいよ図に乗り、「ええ、それで必定てっきり誘拐かどわかされたという見込でな。僕が探偵の御用を帯びて、所々方々と捜している処だ。「御道理ごもっとも。「先刻さっきからの様子では、お前の処に誰か婦人を蔵匿かくまってある。それをば悪者がぎ出して、奪返しに来た様子だが。……と言いつつ亭主の顔をきっと見れば、おぞや探偵と信じて得右衛門は有体に、「左様、その通り。実はこれこれの始末にて。と宵よりありし事柄を落も無くいうてのくれば、銀平はしてやったりとはらに笑みて、表面うわべにますます容体を飾り、「ははあ、御奇特の事じゃ、聞く処では年齢と言い、風体と言い、全く僕が尋ねる令嬢に違いない。いや、追ってその許に、恩賞の御沙汰これあるよう、僕から上申を致そう、たしかにそれが見たいものじゃが、というに亭主はほくほく喜び、見事善根をしたる所存、傍聞かたえぎきする女房を流眄しりめに懸けて、乃公だいこうの功名まッこのとおり、それ見たかといわぬばかり。あわれ銀平が悪智慧にあざむかれて、いそいそと先達して、婦人をやすませおきたる室へ、手燭てしょくを取って案内せり。

 前には八蔵驚破すわといわばと、手ぐすね引きて待懸けたり。うしろには銀平が手も無く得右衛門に一杯くわして、奪い行かむとはかりたり。わずかに虎口をのがれ来て、仁者の懐に潜みながら、毒蛇の尾にて巻かれたる、下枝が不運憐むべし。


十二 無理強迫


 赤城家にては泰助が、日蔽ひおおいに隠れし処へ、人形室の戸を開きて、得三、高田、老婆お録、三人の者入来いりきたりぬ、程好き処に座を占めて、お録はたずさえ来りたる酒とさかな置排おきならべ、大洋燈おおランプに取替えたれば、室内照りて真昼のごとし。得三その時膝押向け、「高田さん、じゃ、お約束通り証文をまいて下さい。高田は懐中より証書をいだして、金一千円也と、書きたる処を見せびらかし、「いかにも承知は致したが、まだ不可いけません。なにしてしまったら、綺麗さっぱりとお返し申そうまずそれまでは、とまた懐へ納め、おとがいでている。「お録、それそれ。と得三が促し立つれば、老婆は心得、莞爾にこやかに高田に向いて、「お芽出度めでとう存じます。唯今ただいま花嫁御を。……と立上り、くだんの人形のかずきを掲げてくぐり入りしが、「じたばたせずにおいでなさい、という声しつ。今しがた見えずなりたる、美人の小腕こがいな邪慳じゃけんつかみて、身をのがれんともだえあせるを容赦ようしゃなく引出ひきいだしぬ。美人は両手に顔を押えて身をすくましておののきいたり。

 得三これを打見遣り、「お藤、かねて言い聞かした通り、今夜は婿を授けてやるぞ。さぞ待遠であったろうの。と空嘯そらうそぶきて打笑えば、美人はわっと泣伏しぬ。高田はお藤をじろりと見て、「だが千円はすこぶ高直こうじきだ。「考えて御覧なさい。これ程の玉なら、つぶしに売ったって三年の年期にして四五百円がものはあります。それを貴下あなたは、初物をせしめるばかりか、生涯のなぐさみにするのだもの、こちらは見切って大安売だ。千円は安価やすいものだね。「それもそうじゃな。どれ、一つ杯をそう。この処ちょいとお儀式だ。と独り喜悦よがりの助平づら、老婆は歯朶はぐきき出して、「すぐ屏風びょうぶを廻しましょうよ。「それがい。と得三はうなずきけり。虎狼や梟に取囲まれたる犠牲いけにえの、生きたる心地は無き娘も、酷薄無道のこの談話はなしを聞きたる心はいかならむ。絶えも入るべき風情を見て、得三は叱るように、「おい、藤。高田さんがお盃を下さる、頂戴しろ。これッ、人が物を言うに返事もしないか。と声荒らかによばわりて、掴みひしがん有様に、お藤は霜枯の虫のにて、「あれ、御堪忍なさいまし。「何も謝罪あやまる事アねえ。機嫌よくお盃を受けろというのだ。ええ、忌々しい、めそめそ泣いてばかりいやあがる。これお録、媒灼人役なこうどやくだ。ちと、言聞かしてやんな。老婆は声を繕いて、「お嬢様、どうしたものでございますね。御婚礼のお目出度めでたいに、泣いていらしっちゃあすみません。まあ、涙を拭いて、婿様をお見上げ遊ばせ。どんなに優しいお顔でございましょう。それはそれは可愛がって下さいますよ、ねえ旦那様、と苦笑い、得三は「そうともそうとも。「ほんとに深切な御方っちゃアありません。不足をおっしゃては女冥利みょうりが尽きますによ。貴女あなたお恥かしいのかえ、とめるがごとく撫廻せば、お藤は身体からだを固うして、かぶりるのみいらえは無し。高田はわざと怒り出し、「へん、つらの皮だ。嫌否いやなものなら貰いますまい。女ひでりはしはしまいし。工手間くでまかかるんなら破談にするぜ。と不興の体に得三は苛立いらだちて、「うぬ渋太しぶとい阿魔だな。といいさまお藤の手をとらうれば、「あれえ。「やかましいやい。と白きうなじ鷲掴わしづかみ、「この阿魔、生意気に人ごのみをしやあがる。うぬどうしてもかれないか。と睨附ねめつくれば、お藤は声を震わして、「そればっかりは、どうぞ堪忍して下さいまし。と諸手を合すいじらしさ。「うむかれないな。よし、肯かれなきゃあ無理に肯かすまでのことだ。して見せる事があるわい。というは平常いつも折檻せっかんぞとお藤は手足をすくめ紛る。得三は腕まくりして老婆を見返り、「お録、一番責めなきゃらちが明くめえ。お客の前でき廻ると見苦しい、ちょいと手を貸してくれ。老婆はチョッと舌打して、「ても強情なおだねえ。といいさま二人は立上りぬ。高田は高見に見物して、「これこれ台無しにしては悪いぜ。「なあに、売物だ。つらきずはつけません。

 泰助は、幕の蔭よりこれを見て、躍りいでんと思えども、敵は多し身はひとつ、はやるは血気の不得策、今いうごとき情実なれば、よしや殴打おうだをなすとても、死に致すうれいはあらじ。捕縛してその後に、渠等かれらの罪を数うるには、娘を打たすも方便ならんか、さはさりながらいたましし、と出るにも出られずとつおいつ、こぶしに思案を握りけり。

 得三はかねてかくあらんと用意したる、弓のおれを振上ぐれば老婆はお藤の手をとりしばりぬ。はっしとたれて悲鳴を上げ、「ああれ御免なさいまし、御免なさいまし。とうしろり前へし、もだえ苦しみのりあがり、くれない蹴返す白脛しらはぎはたわけき心を乱すになむ、高田駄平は酔えるがごとく、酒打ち飲みていたりけり。


十三 走馬燈


 無慙むざんやなお藤は呼吸いきも絶々に、紅顔蒼白く変りつつ、苛責かしゃくの苦痛に堪えざりけん、「ひい、殺して下さい殺して。と、死を決したる処女おとめの心。よしやこのまま撲殺うちころすとも、随うべくも見えざれば、得三ほとんど責倦せめあぐみて、腕をさすりてしもとめつ。老婆はお藤を突放せば、身を支うべき気力もせて、はたとたおれて正体無し。

 得三は、といきをきて高田に向い、「御覧の通りで仕様がありません。式作法には無いことだが、お藤の手足をふんじばって、そうして貴下あなたに差上げましょう、のう、お録、それがいじゃないか。「それがうございます。その後はいかすとも殺すとも、高田さんの御存分になさいましたら、ねえ旦那。といえば得三引取って、「ねえ高田さん。駄平は舌舐したなめずりして、「よくにも得にももうとてもじゃわい。そうして貰いましょうよ。「では証文をな。「うう、承知、承知。ここに恐しき相談一決して、得三は猶予ゆうよなく、お藤の帯に手を懸けぬ。娘は無念さ、恥かしさ。あれ、と前褄まえづま引合して、蹌踉よろめきながらげんとあせる、もすそをお録が押うれば、得三は帯際おびぎわ取ってきっと見え。高田は扇をさっと開き、骨のあいからのぞいて見る。知らせにつき道具廻る。

 さても得右衛門は銀平を下枝の部屋いま誘引いざないつ、「に寝さしておきました。と部屋の戸を曳開ひきあくれば、銀平のうしろに続きて、女房も入って見れば、こはいかに下枝の寝床は藻脱もぬけの殻、ぬしの姿は無かりけり。「や。「おや。「これは、と三人が呆れ果てて言葉も出でず。

 銀平は驚きながら思うよう、亭主はあくまで探偵と、我を信じて疑わねば、下枝を別の部屋にかくして、我をあざむくびょうもなし。こは必ず八蔵が何とかして便たよりを得て、前に奪い出だせるならん。さすれば我はこのに用無し。長居は無益むやくと何気無く、「これは、怪しからん。ふとすると先刻さっき遁失にげうせた悪漢わるもの小戻こもどりして、奪い取ったかも知れぬ、猶予する処でない。僕は直ぐに捜しに出るといわれて亭主はきまり悪げに、「飛んだことになりました、申訳がございません。「なあに貴下あなたの落度じゃない、僕が職務の脱心ぬかりであった。いやしからば。と言い棄ててとつかわ外へ立出でて雪の下へと引返せば、とある小路の小暗き処に八蔵は隠れいつ、銀平の来かかるを、小手で招いて、「おい、ここだよ。」

 お藤は得三の手籠てごめにされて、遂には帯も解け広がりぬ。こは悲しやと半狂乱、ひしと人形にいだき附きて、「おっかさん! と血を絞る声。世に無き母にすくいを呼びて、取りすがる手を得三がもぎ離してじ上ぐれば、お録は落散る腰帯を手繰ってお藤を縛り附け、座敷の真中まんなかにずるずると、まげつかんで引出ひきいだし、押しつけぬ。形怪しき火取虫いと大きやかなるが、今ほどかけり来て、赫々かくかくたる洋燈ランプ周囲めぐりを、飛びめぐり、飛び狂い、火にあくがれていたりしが、ぱっと羽たたき火屋ほやの中へ逆さまに飛び入りつ、煽動あおりに消える火とともに身を焦してぞせにけり。

 さっ照射入さしいる月影に、お藤の顔はあおうなり、人形の形は朦朧もうろうと、煙のごとくほの見えつ。霊山にく寺の鐘、丑満時うしみつどきして、天地寂然しんとして、室内陰々たり。

 かかりし時、いずくともなく声ありて、「お待ち! と一言ひとこと呼ばわり叫びぬ。

 思いがけねば、得三そやと見廻す座敷のうちに、我々と人形の外には人にたらむ者も無し。三人奇異の思いをなすうち、が手を触れしということ無きに人形のかずきすらりと脱け落ちて、上﨟じょうろうかんばせあらわれぬ。啊呀あなやと顔を見合す処に、いと物凄き女の声あり。「無法を働く悪人ども、天の御罰ごばちを知らないか。そういう婚姻は決してなりません。」

 幕の内なる泰助さえ、この声を怪しみぬ。前にも既にうごとく、この人形は亡き母として姉妹あねいもとが慕い斉眉かしずく物なれば、宇宙の鬼神感動して、仮に上﨟の口をりかかる怪語を放つらんと覚えず全身粟生あわだてり。まして得三高田等は、驚き恐れつ怪しみて、一人立ち、二人立ち、次第に床の前へ進み、じっと人形を凝視みつめつつ三人みたり少時しばらく茫然たり。

 ときこそ来たれ。と泰助が、幕を絞ってあらわれたり。名にし負う三日月の姿をちらと見せるとおもえば、早くもお藤を小脇にいだき、身をひるがえして部屋を出でぬ。まことに分秒電火の働き、一散に下階した駈下かけおりて、先刻忍びし勝手口より、と門内にのがれ出づれば、米利堅産種メリケンだね巨犬おおいぬ一頭、泰助の姿を見て、すさまじく吠えいだせり。

 南無三、同時に轟然一発、こうべねらって打出す短銃ピストル

 幸い狙いはれたれど泰助はやや狼狽ろうばいして、内より門を開けんとすれば、跫然きょうぜんたる足音門前に起りて、外よりもまた内に入らんとするものありけり。

 泰助蒼くなりて一足退さがれば、轟然たり、短銃の第二発。

 いとも危うく身を遁れて、泰助は振返り、きっ高楼たかどのを見上ぐれば、得三、高田相並んで、窓より半身を乗出のりいだし、逆落さかおとしに狙う短銃の弾丸たまは続いて飛来らん。その時門の扉を開きて、つッと入るは銀平、八蔵、連立ちて今帰れるなり。

 さすがの泰助も度を失いぬ。

 短銃の第三発轟然。


十四 血の痕


 贋探偵の銀平が出去いでさりたる後、得右衛門はなお不審晴れ遣らねば、いまの内を見廻みめぐるに、畳に附たる血のあとあり。一箇処のみか二三箇処。ここかしこにぼたぼたとこぼれたるが、敷居を越して縁側より裏庭の飛石に続き、石燈籠のあたりには断えて垣根の外にまた続けり。こはあやしやと不気味ながら、その血の痕を拾いくに、墓原を通りて竹藪たけやぶくぐり、裏手の田圃たんぼ畦道あぜみちより、南を指して印されたり。

 一旦助けんと思い込みたる婦人おんななれば、このままにて寐入ねいらんは口惜し。この血の跡を慕い行かばその行先を突留め得べきが、単身ひとりにては気味悪しと、一まず家に立帰りて、近隣の壮佼わかもの究竟くっきょうなるを四人ばかり語らいぬ。

 各々興ある事と勇み立ち、読本よみほんでこそ見たれ、婦人といえば土蜘蛛つちぐもに縁あり。さしずめ我等は綱、金時、得右衛門の頼光らいこう中央まんなかにして、殿しんがり貞光さだみつ季武すえたけ、それ押出せと五人にて、棍棒よりぼう、鎌など得物を携え、鉢巻しめて動揺どよめくは、田舎茶番と見えにけり。

 女房は独り機嫌悪く、由緒よしなき婦人おんなを引入れて、蒲団ふとんは汚れ畳は台無し。鶏卵たまごの氷のと喰べさせて、一言ひとことの礼も聞かず。流れ渡った洋犬かめでさえ骨一つでちんちんおあずけはするものを。おまけに横須賀の探偵とかいう人は、茶菓子を無銭ただでせしめてんだ。と苦々しげにつぶやきて、あらねむたや、と夜着引被ひっかつぎ、亭主を見送りもせざりける。

 得右衛門を始めとして四人よつたり壮佼わかものは、茶碗酒にて元気を養い一杯機嫌で立出でつ。惜しや暗夜やみなら松明たいまつを、ともして威勢はからんなど、語り合いつつ畦伝い、血の痕を踏んで行く程に、雪の下に近づきぬ。金時真先まっさきに二の足踏み、「得右衛門もう帰ろうぜ。と声の調子も変になり、進みかねて立止まれば、「これさおぬしはどうしたものだ。と言い励す得右衛門。綱は上意を承り、「親方、大人気無い、廃止よしにしましょう。余所よそならいが、雪の下はちと、なあ、おい。と見返れば貞光が、「そうだともそうだとも、もうかれこれ十二時だろう。というしりにつき季武は、「今しがた霊山の子刻ここのつを打った、これから先が妖物ばけものの夜世界よ。と一同に逡巡しりごみすれば、「ええ、弱虫めら何のこれたかが幽霊だ。腰の無い物なら相撲を取ると人間の方が二本足だけ強身だぜ。と口にはいえどおのれさえ腰より下は震えけり。金時はこうべり、「なに鬼や土蜘蛛なら、糸瓜へちまとも思わねえ。「おれもさ、巨蛇うわばみなら、片腕で退治て見せらあ。「おいらだって天狗の片翼を斬って落すくらいなら、朝飯前だ。「ここにも狼の百疋は立処に裂いて棄てる強者つわものが控えておると、口から出任せ吹き立つるに、得右衛門はあてられて、「豪気々々えらいえらい、その口で歩行あるいたら足よりは達者なものだ。さあこうかい。といえばどんじりの季武が、「ところが、幽霊は大嫌否きらいさ。「弁慶も女は嫌否かッ。「宮本無三四むさしらいに恐れて震えたという。「遠山喜六という先生は、蛙を見ると立竦たちすくみになったとしてある。

「金時ここにおいてか幽霊が大禁物。「綱もすなわち幽霊れこには恐れる。といわれて得右衛門大きに弱り、このまま帰らんは余り腑甲斐ふがい無し、何卒なにとぞして引張り行かん。はて好い工夫はおっとある。「どうだ。一所に交際つきあってくれたら、翌日あすとは言わず帰り次第藤沢(宿場女郎の居る処)をおごってやるが、と言えば四人よつたり顔見合わせ、「なるほどたかの知れた幽霊だ。「この中に人を殺したものは無いから、まず命に別条はあるまい。「むむ、背負おぶってくれがちと怪しいが、「ままよこうか、「おう。「うむ。と色でまとまる壮佼等わかものども、よしこの都々逸どどいつ唱い連れ、赤城の裏手へ来たりしが、ここにて血のあと途断とぎれたり。

 得右衛門立停たちどまって四辺あたりを見廻し、「皆待ったり。この家はどうやら、例の妖物ばけもの屋敷らしいが、はてな。して見るとあの婦人おんな化生けしょうのものであったか知らん。道理で来てから帰るまで変なことずくめ、しかし幽霊でもおれ一廉いっかどの世話をしてやったから、あだとは思うまい。何のせいだかあの婦人おんなは、心から可愛かわゆうて不便ふびんでならぬ。今じゃ知己ちかづきだから恐しいとも思わぬわい。おい、おらあ、一番表へ廻って見て来るから、一所に来い。といえども一人として応ずる者無し。「そんなら待っていろ、どれ、幽霊に逢うて来ましょ。と得右衛門ただ一人、板塀を廻って見えずなりぬ。

 四人の壮佼は、後に残りて、口さえもよう利かれず。早は更けて、夏とはいえど、風冷々ひやひやと身に染みて、戦慄ぞっと寒気のさすほどに、えいさえめて茫然と金時は破垣やれがき依懸よりかかり、眠気つきたる身体からだ重量おもみに、竹はめっきと折れたりけり。そりゃこそ出たぞ、と驚き慌て、得右衛門も待ち合えず、命からがら遁帰りぬ。


十五 火に入る虫


 短銃ピストルの筒口に濃き煙の立つと同時に泰助が魂消たまざる末期の絶叫さけび、第三発は命中せり。

 かれ立竦たちすくみになりてぶるぶると震えたるが、鮮血なまちたらたらと頬に流れつ、いだきたるお藤をどうと投落して、屏風びょうぶのごとく倒れたり。

 それと見て駈け寄る二人の悪僕、得三、高田、お録もろとも急ぎ内より出で来りぬ。高田はお藤を抱き上げて、「おお、可哀相にさぞ吃驚びっくりしたろう、すんでのことで悪漢わるもの誘拐かどわかそうとした。もういわい、泣くな泣くな。とせな掻撫かいなでていたわれば、得三もほっと呼吸いき、「あ、好かった。何者だ、大胆な、人形が声を出したのに度胆を抜かれた処へ幕のうしろから飛出しゃあがって、ほんとに驚いたぜ。お録、早く内へ連れてきな。「へいかしこまりました。と高田の手よりお藤を抱取り肩に掛けて連れて行く。

「まず、安心だ。うん八蔵けえったか、それその死骸しがいつらを見いと、指図に八蔵心得て叢中くさむらなかより泰助を引摺ひきずり出し、「おや、此奴こいつあ探偵だ。おれ非道ひどい目に逢わしゃあがった。「何、どうしたと、そくなって反対あべこべ当身あてみくらった。それだから虚気うっかり手を出すなと言わねえことか。や、銀平殿お前もお帰りか。「はい、旦那唯今。「うむ、御苦労、なに下枝さんはどうじゃ。「早速ながら下枝は知れましたか。と二人ひとしく問懸くれば、銀平、八蔵交代かたみがわりに、八橋楼にての始末を語り、「それでね、いざという段になって部屋へ這入ると御本人さんどこへ消えたか見えなくなりました。これは八蔵殿どんさきへ廻って連出したのかと思った処が、のう八蔵殿。「おおさ、おれも墓場の方で、銀平さんの合図を待ってましたが、別に嬢様の出て来る姿を見附けませんで、「もうもう尋飽倦たずねあぐみまして、も更けますし、旦那方の御智慧を借りようと存じましてひとまず帰りました。というに得三こうべを傾けやや久しく思慮かんがえいたるが、それにて思い当りたり。「して見ると下枝はまた家内うちへ帰って来たかも知れぬ。というのは、今しがた誰も居ないのに声がかかって、人形が物を言うていこたあ無い筈だと思ったが、下枝のわざであったかも知れぬわい。待て、一番ひとつ家内うちしらべて見よう。その死骸はな、よく死んだことを見極めて、家内うちの雑具部屋へ入れておけ。高田さん貴下あなたも御迷惑であろうが手伝って下枝を捜して下さい。探偵は片附けてしまったト、これで下枝さえ見附ければ、落着いてお藤が始末も附けます。と高田をいざない内にりぬ。

 八蔵は泰助にうらみあれば、その頭蓋骨は砕かれけん髪の毛に黒血かたまりつきて、頬より胸に鮮血なまちほとばしり眼を塞ぎ歯をしばり、二目とは見られぬ様にて、死しおれるにもかかわらず。なお先刻の腹癒はらいせに、滅茶々々になぐつぶさんと、例の鉄棒をひねる時、銀平は耳をそばだてて、「待て! 誰か門を叩くぜ。八蔵はよくも聞かず、「日が暮ると人ッ子一人通らねえこの辺だ。今時誰が来るもんか。といううち門の戸をとん、丁、丁、「お頼み申す。という声あり。

 八蔵は急いで鉄棒押隠し、「いかさま、叩くわ。「探偵の合棒でも来はしねえか。おらあ見て来る、死骸を早く、「合点だ。と銀平は泰助の死骸を運び去りつ。八蔵は門の際に到り、「誰だね。「へい私。「へい私では解らないよ。夜夜中けたたましい何の用だ。戸外おもてにて、「ええ、滑川の者ですが、おうち婦人おんなが入って来はしませんかい。八蔵は聞覚えあるたしかに得右衛門の声なれば、はてなと思い、「どんな女だ。「中肉中脊、凄いほど婦人おんな。と聞いて八蔵心可笑おかしく、「その様な者は来ない、何ぞまたへ来たという次第わけでもあるのか。「私どもの部屋からこぼれて続いてる血の痕が、お邸の裏手で止まっております。

 さては下枝は得三が推量通り、再び帰りしに相違なからん。それはそれにて可いとして、少時しばらくなりとも下枝を蔵匿かくまいたる旅店の亭主、女の口より言いもらして主人を始めおれまでの悪事を心得おらんも知れず。がしはやらじ、とやにわに門の扉を開けて、むずと得右衛門の手を捉え、「婦人おんなは居るから逢わしてくれる、さあ入れ。と引入れて、門の戸はたとしければ、得右衛門はおどおどしながら、八蔵を見て吃驚びっくり仰天、「やあ此方こなた先刻さっきの、「うむ、用があるこっちへ来いと、力任せに引立ひったてられ、鬼にらるる心地して、大声上げて救いを呼べど、四天王の面々はこの時既に遁げたれば、誰も助くる者無くて、あわれとりことなりにけり。


十六 啊呀!


 今は悪魔ばかりの舞台となりぬ。磨ぎすましたる三日月は、惜しや雲間に隠れき、ゆかりの藤の紫は、厄難いまだ解けずして再び奈落に陥りつ、外よりきたれる得右衛門も鬼の手に捕られたり。さてかの下枝はいかならん。

 さるほどに得三は高田とともに家内うちり、下枝はらずや見えざるかと、あらゆる部屋をあさり来て、北の台の座敷牢を念のため開き見れば、射込む洋燈ランプの光の下に白くうごめくもののあるにぞ、近寄り見れば果せるかな、下枝はここにぞ発見みだされたる。

 かばかり堅固なるかこいの内よりそもいかにして脱け出でけん、なお人形のうしろより声をいだして無法なる婚姻をとどめしも、なんじなるか。と得三は下枝に責め問い、うたがいを晴さんと思うめれど、高田はしきりに心急ぎて、早くお藤のかたをつけよ。夏とはいえど夜は更けたり。さまでに時刻おくれては、枕に就くととりうたわむ、一刻の価値あたい千金と、ひたすら式を急ぐになん。さはとて下枝を引起して、足あらばこそ歩みもいでめ、こうして置くにしくことあらじ。人に物を思わせたる報酬むくいはかくぞとののしりて、下枝が細き小腕こがいなを後手にじ上げて、いましめんとなしければ、下枝は糸よりなお細く、眼を見開きてうらめしげに、「もう大抵にひどうしたがうござんしょう。坐っている事も出来ぬように弱り果てた私の身体からだ、どこへも参りは致しませぬ。といえば得三冷笑あざわらい、「その手はくわぬわ。また出てしょうと思いやあがって、へん、そう旨くはゆかないてや、ちっとのの辛抱だ。後刻のちに来て一所に寝てやる。ふむ、痛いかざまを見ろ。と下枝の手を見て、「おや、右の小指をどうかしたな、こいつは一節切ってあらあ。やい、どこへ行って指切断きりをして来たんだ。と問いかかるを高田は押止め、「まあまあ、そんな事ア何時でもいて。早くおれの方を、「はて、せわしない今行きます。と出血まざる小指の血にて、我掌わがてのひらけがれたるにぞ、かっぷと唾を吐き懸けて、下枝の袖にて押拭い、高田と連立ち急がわしく、人形室に赴きぬ。後より八蔵入来り、こうこういう次第にて、八橋楼の亭主をとらえ、一室ひとまに押込め置きたるが、というに得三うなずきて、そのはたらきめそやし、後にて計らうべき事あり。そのままにして置きて、銀平と勝手にて酒を飲んでくつろげ。と八蔵をなして手を打鳴し、「録よ、お録。と呼び立つれど、老婆は更にいらえせねば、「はてな、お録といえば先刻さっきから皆目姿を見せないが、ははあ、疲れてどこかで眠ったものと見える。老年としよりというものはええ! らちの明かぬ。とつぶやきつつ高田に向い、「どうせ横紙破りの祝言だ。媒灼なこうども何も要った物ではない。どれ、藤をげますから。と例のかずき取除とりのくれば、この人形は左の手にて小褄こづま掻取かいどり、右の手を上へ差伸べて被を支うるものにして、上げたる手にてひるがえる、綾羅りょうらの袖の八口やつくちと、〆めたるにしきの帯との間に、人一人肩をすぼむれば這入らるべき透間あり。そこに居て壁を押せば、縦三尺幅四尺向うへ開く仕懸しかけにて、すべての機械は人形に、隠るる仕方巧みにして、戸になる壁の継目など、肉眼にては見分け難し。得三手燭てしょくにてこの仕懸を見せ、「平常ふだんじょうを下してお藤を入れておくが、今晩は貴下あなたに差上げるので、開けたままだ。こちらへお入り。と先に立ちて行く後より、高田も入りて見るに、壁の彼方うらにも一室あり。畳を敷くこと三畳ばかり。「いいちょんのだ。と高田がいえば、得三呵々からからと打笑いて、「東京の待合にもこれ程の仕懸はあるまい。といいつつ四辺あたりを見廻すに、今しがた泰助の手より奪い返してお録にへ入れ置くよう、いいつけたりしお藤の姿、またもや消えて見えざりければ、啊呀あなやとばかり顔色がんしょく変じぬ。

 高田はいたく不興して、「令嬢はどうしました。え、お藤さんはどうしたんです。とせきこむにぞ、得三は当惑の額を撫で、「いやはや、お談話はなしになりません。藤が居なくなりました。高田は顔色変え、「何だ、お藤が居なくなったと?「この通り、この室より外に入れて置く処はない。実に不思議でなりません。とさすがの得三も呆れ果てて、しおれ返れば高田は勃然むっとして、「そういうことのあろう道理は無い。ふふん、こりゃにわかにあの娘が惜しくなったのだな。「滅相な。「いや、それに違いありません。隠して置いて、おれあざむくのだ。「と思召おぼしめすのも無理ではない。余り変で自分で自分を疑う位です。先刻さっきから見えぬといい、あるいは婆々が連れ出しはしないかと思うばかりで、それよりほかに判断の附様つけようがございません。早速探し出しますで、今夜の処は何分にも御猶予を願いたい。と腰をかがめ、揉手もみでをして、ひたすら頼めどいっかなかず、「なんのかのと、体の可いことを言うが、婆々とれ合ってする仕事に極まった。誰だと思う、ええ、つがもねえ、浜で火吸器すいふくべという高田駄平だ。そんな拙策あまてを喰う者か。「まあまあそう一概におっしゃらずに、別懇の間に免じて。「別懇も昨今もあるものか。おれもたってお藤を呉れとは言わぬ。そんでえに貸した金千円、元利揃えてたった今貰おうかい。と証文眼前めさきに附着くれば、強情我慢の得三も何と返さん言葉も無くこうじ果ててぞいたりける。


十七 同士討


 高田はなおも詰寄りて、「妖物ばけもの屋敷に長居は無益むやくだ。直ぐ帰るから早く渡せ。「そりゃ借りた金だ抵当のお藤が居なくなれば、きっとお返済かえし申すが、まだ家の財産も我が所有ものにはならず、千円という大金、今といっては致方がございません。どうぞ暫時しばらくの処を御勘弁。「うんや、ならねえ。この駄平、言い出したからは、血を絞っても取らねば帰らぬ。きりきりここへ出しなさい。と言い募るに得三はかっとして、「ここな、没分暁漢わからずや。無い者ア仕方がねえ。と足を出せば、「踏む気だな、いわ。踏むならば踏んで見ろ。おおそれながらとまかり出て、きさまの悪事を訴えて、首にしてやる覚悟しやあがれ。得三はぎょっとして、「何の、踏むなどという図太い了簡りょうけんを出すものか。と慌つるさまに高田は附入つけいり、「そんなら金を、さあ返済かえせ。「今といっては何ともどうも。「じゃ訴えて首にしようか。「それはあんまり御無体な。「ええ! 面倒だ。と立懸たちかかれば、「まあ、待ってくれ。とたもとを取るを、「乞食め、動くな。と振離され、得三たちまち血相変り、高田の帯際むずとつかみて、じりじりと引戻し、人形のうしろの切抜戸を、内よりはたととざしける。

 何をかなしけむ。壁厚ければ、内の物音外へは漏れず。

 ややありて戸を開き差出さしいだしたる得三の顔は、まなこ据って唇わななき、四辺あたりきっと見廻して、「八蔵、八蔵、と呼懸けたり。八蔵は入来りぬ。得三は声を潜め、「八、ちょっとここへ来い。「へい、何、何事でございます。と人形の袖をくぐって密室の戸口に到れば、得三は振返ってうしろゆびさし、「これを。……八蔵はのぞき込みてり返り「ひゃっ、高田さんが自殺をしたッ。と叫ぶを、「しっ! 声高しと押止めて、眼を見合わせ少時しばらく無言だんまり、この時一番鶏の声あり。

 得三は片頬かたほに物凄きえみを含みて、「八蔵。という顔を下より見上げて、「へい。「お前にもそう見えるかい。「なにが。「いやさ。高田の死骸は自殺と見えるか。「へい。自分で短刀のつかを握ってそして自分ののどを突いてれば誰が見ても全く自殺。「うむ、たしかにそう見える。が、実はおれが殺したのだ。「ええ、おやんなすったか。「突然藤が居なくなったぞ。八、先刻さっきからお録は見懸けまいな。「へい、あの婆様ばあさんはどこへ行ったか居りません。「そうだろう。彼奴あいつもしたたか者だ。お藤を誘拐かどわかして行ったに違いない。あのはまだ小児こどもだ。何にも知らないからし、老婆ばばあも、我等おれらと一所に働いた奴だ。人に悪事は饒舌しゃべるまい。惜くも無し、心配も無いが、高田の業突張ごうつくばり、大層怒ってな。お藤がなくなったら即金で千円返せ、返さなけりゃ、訴えると言い募って、あの火吸器すいふくべだもの、何というても肯くものか。すんでに駈出そうとしやあがる。ままよ毒喰わば皿迄と、おれが突殺したのだ。「それはうございました。「するとやっこさん苦しいものだから、こぶしでしっかりとこの通り短刀どすの柄を握ったのよ。「体の可い自殺でございますね。「そうよ。そこでおれが旨い事を案じついたて。これからあの下枝を殺してさ。「下枝さんを。「三年以来このかた辛抱して、気永になびくのを待っていたが、ああ強情では仕様がえ。今では憎さが百倍だ。虐殺なぶりごろしにして腹癒はらいせして、そうして下枝のそばに高田の死骸をたおして置く。の、そうすれば誰が目にも、高田が下枝を殺して、自殺をしたと見えるというものだ。何と可い工夫であろうが。」

 さりとは底の知れぬ悪党なり。八蔵は手をって「旨い。と叫べり。「そうしておれが口のさきで旨く世間をあざむけば、ほかに親類は無し、赤城家の財産はころりとおれが手へ転がり込む。何と八蔵そうなる日にはお前に一割は遣るよ。「ええ難有ありがたい、夢になるな夢になるな。「もうこれッ切り御苦労は懸けないが、もう一番ひとつ頼まれてくれ。「へい、何なりとも。「銀平はどうした。「しきりに飲んでおります。「彼奴あいつついでに片附けてしまいたい、家でやっては面倒だから、これから飲直すといって連出してな。「へいへい、なるほど。「どこかへ行って酒を飲まして、ちょいと例の毒薬を飲ましゃあ訳は無い、酔って寝たようになって、翌日あすの朝はこの世をおさらばだ。「かしこまりました。しかし今時青楼おちゃやで起きていましょうか。「藤沢の女郎屋は遠いから、長谷はせあたりの淫売店じごくやどへ行けば、いつでも起きていらあ、一所にお前も寝て来るが可い。「じゃあ直ぐと参ります。「御苦労だな。「なんの貴下あなた。と行懸くるを、「待て、待て。「え。「宿屋の亭主とかはどうしたのだ。「手足を縛って猿轡さるぐつわまして、雑具部屋へ入れときました。「よし、よし。仕事が済んだらしらべて見て大抵なら無事に帰してやれ。「へい左様なら。と八蔵は勝手に行きて銀平を見れば、「八、やい、置去りにしてどこへ行っていた。というさえ今は巻舌にて、泥のごとくに酔うたるを、飲直さむとて連出しぬ。


十八 虐殺


 得三は他に一口ひとふり短刀かいけんを取りいだして、腰に帯び、下枝を殺さんと心をさだめて、北の台に赴き見れば、小手高うそびらじていましめて、柱に結え附け置きたるまま、下枝は膝に額をうずめ、身動きもせでいたりけり。

「約束通り寝に来た。と肩に手を懸け引起し、移ろい果てたる花の色、悩める風情を打視うちながめ、「どうだ、切ないか。永い年月よく辛抱をした。えらい者だ。感心な女だ。その性根にすっかり惚れた。柔順すなおに抱かれて寝る気は無いか。と嘲弄ちょうろうされて切歯はがみをなし、「ええ汚らわしい、聞とうござんせぬ。とかぶりれば嘲笑あざわらい、「聞きとうのうても聞かさにゃ置かぬ、もう一度念のためだが、思い切ってうむといわないか。「嫌否いやですよ。「そうか、淡々あっさりとしたものだ。そんならこっちへ来な。好い者を見せてやる。立て、ええ立たないか。「あれ。と下枝は引立られ、殺気満ちたる得三の面色、こは殺さるるにきわまったりと、屠所としょの羊のとぼとぼと、廊下伝いに歩は一歩、死地に近寄る哀れさよ。蜉蝣ふゆうの命、あしたの露、そも果敢はかなしといわば言え、身に比べなば何かあらむ。

 閻王えんおうの使者に追立てられ、歩むに長き廻廊もしにく身はいと近く、人形室に引入れられて亡き母の存生いまそかりし日を思い出し、下枝は涙さしぐみぬ。さはあれ業苦の浮世をのがれ、天堂におわ御傍おんそばへ行くと思えば殺さるる生命いのちはさらさら惜からじと、下枝は少しも悪怯わるびれず。その時得三下枝をば、高田のかたえに押据えつ、いと見苦しき死様を指さしていいけるは、「下枝見ろ、この顔色つらつきを。殺されるのはなかなか一通りの苦しみじゃないぜ、それもこう一思いに殺ればまだしもだが、いざお前を殺すという時には、これ迄の腹癒はらいせに、かねても言い聞かした通り、虐殺なぶりごろしにしてやるのだ。いか、それでも可いか。これと、肩を押えてゆすぶれば、打戦うちわななくのみいらえは無し。「それからまだある。この男と、お前と、情死しんじゅうをした様にして死恥をさらすのだ。どうだ。どうだ。下枝は恨めしげに眼をみはり、「得三さん、あんまりでございます。「下枝さん貴嬢あなたも余り強情でございます。それが嫌否いやなら悉皆しっかい財産をおれに渡して、そうして⦅得三さん貴下あなたは可愛いねえ。⦆とこういえば可い。それは出来ないだろう。やっぱり、斬られたり、突かれたりする方が希望のぞみなのか、さあ何と。と言わるるごとにひやひやと身体からだに冷たき汗しっとり、斬刻きりきぎまるるよりつらからめ。猛獣犠牲いけにえて直ぐには殺さず暫時しばらくこれをもてあそびて、早あきたりけむ得三は、下枝をはたと蹴返せば、あっ仰様のけざまたおれつつ呼吸いきも絶ゆげにうめきいたり。「やい、婦人おんな冥途めいどの土産に聞かしてやる。きさまの母親はな。顔も気質きだてきさまて、やっぱりおれの言うことを聞かなかったから、毒を飲まして得三が殺したのだ。下枝は驚きに気力を復して、打震えて力無き膝立直して起き返り、「怪しき死様しによう遊ばしたが、そんなら得三、おのれがかい。「おう、おれだ。驚いたか。「ええ憎らしいその咽喉のどへ喰附いてやりたいねえ。「へ、へ、唇へ喰附いて、接吻キッスならば希望のぞみだが、咽喉へは真平御免こうむる。どれ手を下ろして料理りょうろうか。と立懸たちかかられて、「あれえ、人殺し。と一生懸命、もすそを乱してげ出づれば、いましめの縄の端を踏止められて後居しりいに倒れ、「誰ぞ助けて、助けて。と泣声らして叫び立つれば、得三は打笑い、「よくある奴だ。殺して欲いの死にたいのと、口癖にいうていて、いざとなるとその通り。ても未練な婦人おんなだな。「いえ、死にとうない、死にとうない。親を殺したかたきと知っては、私ゃ殺されるのは口惜くちおしい。と伏しつまろびつ身をあせりぬ。

 得三は床柱を見て屈竟と打頷うちうなずき、やにわに下枝をいだき寄せ、「もがくな。じっとしておれ。とかの人形と押並べて、床柱へぐるぐる巻きに下枝の手足を縛り附け、一足退すさって突立つったちたり。下枝は無念さ遣る方なく、身体からだもだえて泣き悲しむを寛々ゆるゆると打見遣り、「今となってはきさまの方からしたがいます、財産も渡しますとかしても許しはせぬ。と言い放てば、下枝は顔にこぼれかかる黒髪をさっと振分け、まなこ血走り、「得三さん、どうしても殺すのか。という声いとど、裏枯れたり。「うむ、虐殺なぶりごろしにするのだ。「あれえ。「何だ、まだびくびくするか、往生際の見苦しい奴だ。「そんならどうでも助からぬか、末期いまわの際に次三郎さんにお目にかかって、おのれの悪事をお知らせ申しかたきが討って貰いたい。と泣き入る涙も尽き果てて血をも絞らむばかりなり。「次三もなおれいいつけて、八蔵が今朝毒殺したわい。「ええあの方まで殺したのか。御方のせさせたまいし上は、最早この世に望みは無し、と下枝は落胆がっかり気落ちして、「もう聞とうない、言とうない。さあお殺し。と口にて衣紋えもんを引合わせ、縛られたるまま合掌して、従容しょうようとして心中に観音の御名みなを念じける。

 その時得三は袖を掲げて、雪より白き下枝の胸を、乳もあらわに押寛おしくつろぐれば、動悸どうき烈しく胸騒立さわだちて腹は浪打つごとくなり。全体虫が気に喰わぬはらわた断割って出してやる。と刀引抜き逆手に取りぬ。

 夜は正に三更万籟死して、天地は悪魔の独有たり。

(次三郎とは本間のこと、第一回より三回の間に出でて毒を飲みたる病人なり。鎌倉より東京のことなれば、さと看官みるひとの眼も届くまじとて書添え置く。)


十九 二重の壁


 得三一度ひとたび手をうごかさば、万事ここに休せむかな。下枝の命の終らむには、この物語もみぬべし。さらばそれに先立て、一旦滑川の旅店までのがれ出でたる下枝の、何とて再び家に帰りてほふり殺さるる次第となりけむ、その顛末てんまつを記し置くべし。

 下枝は北の台に幽囚せられてより、春秋幾つか行きては帰れど、月も照さず花もい来ず、眼に見る物は恐ろしきくろがねの壁ばかりにて、日に新しゅうなるものは、苛責かしゃくの品の替るのみ、苦痛いうべくもあらざれど、家に伝わる財産も、我身の操も固く守護まもりて、明しつ暮しつ長き年、月日は今日にいたるまで、待てども助くる人無ければ、最早忍び兼ねて宵のほど、壁にかしらを打砕きて、自殺をせんと思い詰め、西向の壁の中央ただなかへ、ひしと額を触れけるに、不思議や壁は縦五尺、横三尺ばかり、裂けたらむがごとくさっと開きて、身には微傷うすでも負わざりけり。

 大名の住めりしやしきなれば、壁と見せて忍び戸をこしらえ置き、それより間道への抜穴など、ふるき建物にはあることなり。人形のうしろの小座敷もこれと同じきものなるべし。

 こは怪しやと思いながら、開きたる壁の外を見るに、暗くてしかとは見分け難きが、壇階子だんばしごめきたるものあり。しずかみて下り行くに足はやがて地に附きつ、暗さはいよいよ増りぬれど、土平らにて歩むに易し。西へ西へと志して爪探りに進み行けば、蝙蝠かわほり顔に飛び違い、清水の滴々したたりはだえとおして、物凄きこと言わむ方無し。とこうして道のほど、一町ばかり行きける時、はるかふくろうの目のごとき洞穴の出口見えぬ。

 この洞穴は比企ヶ谷の森の中にあり。さして目立つほどのものにあらねば、誰も這入はいって見た者無し。

 下枝は穴を這出でて始めて天日を拝したる、喜びたとえんものも無く、死なんとしたる気を替えて、誰か慈悲ある人にすがりて、身の窮苦を歎き訴え、扶助たすけを乞わんと思いつる。そは夕暮のことにして、畦道あぜみちより北のかた、里ある方へぞ歩みたれ。

(得三が高楼たかどのにて女を見たるはこの時なり。)

 かくて下枝は滑川の八橋楼の裏手より、泰助の座敷に入りたるが、浮世にれぬ女気に人の邪正をはかりかね、うかとはくちを利かれねば、黙して様子を見ているうち、別室に伴われ、一人残され寝床に臥して、越方行末思いび、涙に暮れていたりし折から、かの八蔵に見とがめられぬ。それのみならず妹お藤を、今宵高田にめあわすよしかねて得三に聞いたれば、こもまた心懸りなり、一度家に立返りて何卒なにとぞお藤を救いいだし、またこそ忍び出でなんと、いまわしき古巣に帰るとき、多くの人にあやしませて、赤城家に目を附けさせなば、何かに便たよりよかるべしと小指一節喰い切って、かの血のあとを赤城家の裏口まで印し置きて、再びくだんの穴に入り冥途よみじを歩みて壇階子に足踏懸くれば月明し。いずくよりかるると見れば、壁を二重に造りなして、外の壁と内の壁の間にかかる踏壇を、仕懸けて穴へ導くにて透間より月の照射さすなり。直ぐ眼の下は裏庭にてこの時深きくさむらたたずめる人ありければ、(これ泰助なり)浴衣のすそを引裂きて、小指の血にて文字したため、かかる用にもたたむかとて道にて拾いしこいしに包み、ちょうと投ぐればあたかもし。その人の目に触れて、手に開かれしを見て嬉しく、さてお藤をばいかにせむ。

 この壇階子の中央なかほどより道はふたつにわかれたり。右に行けば北の台なるかの座敷牢に出づべきを、下枝は左のかたに行きぬ。見も知らざる廊下細くしていと長し。肩をすぼめてようように歩み行くに、両側はまた壁なり。理外の理さえありと聞くこは家のほかの家ならんか。十数年来住める身の、得三もこは知らざるなり。廊下の終る処に開戸あり、開けて入ればおのずから音なく閉じて彼方かなたより顧みれば壁と見紛うばかりなり。ここぞかの人形の室の裏なる密室になんありける。

 この時しも得三が、お藤を責めて婚姻を迫る折なりしかば、いかにせば救い得られんかと、思い悩みいたるうち、火取虫に洋燈ランプ消えて、こよなき機会を得たるにぞ、怪しき声音に驚かせしに、折よく外にも人ありて妹をいだきて遁出にげいでたれば、嬉しやお藤は助かりぬ。我も早く出去らんとまたもや廊下を伝わりて穴に下りんと蹈迷ふみまよい、運つたのうしてまたもとの座敷牢に入り終んぬ。かかりしほどに身は疲れ、小指のきず痛苦いたみはげしく、心ばかりははやれども、足蹌踉よろぼいて腰たず、気さえ漸次しだいに遠くなりつ、前後も知らでいたりけるを、得三に見出されて、さてこそかくは悪魔の手に斬殺されんとするものなれ。


二十 赤城様──得三様


 普門品ふもんぼん、大悲の誓願ちかいを祈念して、下枝は気息奄々えんえんと、無何有むかうの里に入りつつも、刀尋段々壊とうじんだんだんねと唱うる時、得三は白刃を取直し、電光胸前むなさききらめき来りぬ。この景この時、室外に声あり。

「アカギサン、トクゾウサン。」

 不意に驚き得三は今や下枝を突かんとしたる刀を控えて、耳傾くれば、「あかァぎさん、とくぞうさん。」

 得三は我耳を疑うごとく、耳朶みみたぶに手をあてて眉をひそめつ、傾聴すれば、たしかに人声、

「赤城さん──得三さん。」

 得三はぎょっとして、四辺あたりを見廻し、人形のかずきを取って、下枝にすっぽりと打被うちかぶせ、おのが所業をおおい隠して、白刃にたもとを打着せながら洋燈ランプの心を暗うする、さそくの気転これで可しと、「誰だ。何誰どなたじゃ。と呼懸くれば、答は無くて、「赤城様。得三様。しや忌々し何奴ぞと得三からりと部屋の戸開くれば、かの声少し遠ざかりて、また、「赤城様、得三様。「ええ、誰だ。誰だ。とつかつかとおもていづれば、廊下をばたばたと走る音して姿は見えずに、「赤得、赤得。背後うしろかたにてまた別人の声、「赤城様、得三様。啊呀あなや背後うしろを見返れば以前の声が、「赤得、赤得。と笑うがごとく泣くがごとく恨むがごとく嘲けるごとく、様々声の調子を変じて遠くよりまた近くより、透間もあらせず呼立てられ、得三は赤くなり、あおくなり、行きつ戻りつ、うろ、うろ、うろ。拍子に懸けて、「赤、赤、赤、赤。「何者だ。何奴だ。出合え出合え。といいながら、得三は血眼ちまなこにて人形室へ駈け戻り、と見れば下枝は被を被せ置きたるまま寂として声をも立てず。「ちええ、面倒だ。と剣をふるい、胸前むなさき目懸けて突込みしが、心きたる手元狂いて、肩先ぐざと突通せば、きゃッと魂消たまぎる下枝の声。

 途端に烈しく戸を打叩きて、「赤得、赤得。と叫び立つれば、「うぬ野狐、またせた。と得三室外へ躍出づれば、ぱっと遁出にげだす人影あり。廊下の暗闇やみに姿を隠してまた──得三をぞ呼んだりける。

 憎さも憎しと得三が、地蹈韛じだんだふんで縦横にやいば打掉うちふる滅多打。声はようようはるかになり、北の台にてかなしげに、「あかァぎさん、とくぞうさん。──四辺あたり寂然しん

 これより以前さき得三が人形室を走り出でて声する者を追いける時、室の外より得三と入違いりちがいに、鳥のごとくに飛び込む者あり。突然下枝の被を外してこれを人形に被らせつ。その身は日蔽ひおおいの影に潜みぬ。

 されば得三が引返し来て、被の上より突込みたるは、下枝にあらで人形なりけり。ただ下枝は右にありて床柱に縛し上げられつ、人形は左にありて床の間に据えられたる、肩は擦合うばかりなれば、白刃はくじんものを刺したるとき、下枝は胆消え目もくらみて、絶叫せしはさもありなん。またもや声に呼び出されて、得三再び室の外へけ行きたる時、幕に潜めるかの男はいたちのごとく走り出で、手早く下枝の縄を解き、いだき下して耳に口、「心配すな。とささやきたり。時しも廊下を蹈鳴ふみならして、得三の帰る様子に、かの男少し慌てる色ありしが、人形をわきへずらして柱に寄せ、被は取れて顔も形もあからさまなる、下枝を人形の跡へ突立せ、「声を立てるな。と小声に教えて、おのれは大音に、「赤城様、得三様。」いうかと思えば姿はし。すでに幕のうしろへ飛込みたるその早さ消ゆるに似たり。

 かれもこれも一瞬時、得三はまなこ血走り、髪逆立ちて駈込つ、猶予ためらう色無く柱にれる被を被りし人形に、きりつけつきつけ、狂気のごとく、愉快、愉快。と叫びける。同時に戸口へ顔を差出し、「赤城様、得三様。「やあ、うぬは! と得三が、物狂わしく顧みれば、「光来おいで、光来。ここまで光来と、小手にて招くに、得三は腰に付けたる短銃ピストル発射はなつ焦躁もどかしく、手に取って投附くれば、ひらりとはずして遁出すを、遣らじものを。とこの度は洋燈ランプを片手に追懸おっかけて、気も上の空何やらむ足につまずき怪し飛びて、火影に見ればこはいかに、お藤を連れて身を隠せしと、思い詰めたる老婆お録、手足を八重十文字にくくられつ、猿轡さるぐつわさえまされて、いものごとくに転がりたり。

 得三後居しりいにどうと坐し、「やい、このざまはどうしたのだ。と口なる手拭退けてやれば、お録はごほんとき入りて、「はい、難有ありがとうございます。「ええどうしたのだ。「はい、はい。もしお聞きなされまし。あの時お藤さんを人形のうしろへ隠して、それから貴下あなた階下したへおりてがらくた部屋の前を通ると、内でがさがさいたしますから、鼠か知らん、とのぞきますとね、どうでございましょう。あの探偵泰助がむくむくと起き上る処でございました。「え!」


二十一 旭


 幾度か水火の中に出入して、場数巧者の探偵吏、三日月と名に負う倉瀬泰助なれば、何とてもろくも得三の短銃ピストルたおるべき。されば高楼たかどのより狙い撃たれ、外よりは悪僕二人が打揃いてり来しは、さすがの泰助も今迄に余り経験無き危急の場合、一度は狼狽ろうばいしたりしが、かねて携うる絵具にて、手早く血汐ちしおを装いて、第三発の放たれしを、避けつつわざと撃たれし体にてくさむらに僵れしに、果せるかな悪人ばら誑死そらじにあざむかれぬ。

 さりながら八蔵がなお念のため鉄棒にてなぐつぶさむとひしめくにぞ、その時敵は二人なれば、蹴散らして一度ひとたび退かむか、さしては再び忍び入るにはなはだ便り悪ければ、いたく心を痛めしが、あたかも好し得右衛門がこの折門を叩きしかば、難無く銀平にいだかれて、雑具部屋へ押込まれつ、後より得右衛門がとりこにされて、同じ室へ入れられたるをも、泰助はよく知れるなり。

 四辺あたりしずかになりしかば、ひそかに頭をもたぐる処を、老婆お録に見咎められぬ。声立てさせじと飛蒐とびかかりて、お録の咽喉のどを絞め上げ絞め上げ、老婆が呼吸いきも絶々に手を合して拝むを見澄まし、さらば生命いのちを許さむあいだ、お藤を閉込め置く処へ、案内せよ、とさきに立たせ、例の人形室に赴きて、その仕懸の巧みなるに舌を巻きて驚歎せり。かくてかの密室より、お藤を助けいだしつつ、かたのごとく老婆を縛りてまた雑具部屋へ引取りしを、知る者絶えてなかりけり。それより泰助は庭の空井戸の中にお藤を忍ばせ、再び雑具部屋へ引返してもとのごとく死をよそおい、身動きもせでいたりしかば、二三度八蔵が見廻りしも全く死したる者と信じて、かくとは思い懸けざりき。

 とこうするうち、高田は殺され悪僕二人は酒を飲みに出行いでゆきたれば、時分は好しと泰助は忍びやかに身支度するうち、二階には下枝の悲鳴しきりなり。驚破すわやとって行き見れば、この時しも得三が犠牲いけにえを手玉に取りて、いきみ殺しみなぶりおれる処なりし。

 ここにおいて泰助も、と胸をきて途方に暮れぬ。の事ならず。得三は刀を手にし、短銃ピストルを腰にしたり。我泰助は寸鉄も帯びず。相対して戦わば利無きこと必定なり。とあって捕吏とりてを招集せんか、下枝は風前のともしびの、非道のやいばにゆらぐたまの緒、絶えんは半時を越すべからず。よしや下枝を救い得ずとも殺人犯の罪人を、見事我手に捕縛せば、我探偵たる義務はまったし。されども本間が死期の依頼を天に誓いし一だくあり、人情としては決して下枝を死なすべからず。さりとていでて闘わんか、我が身命は立処に滅し、この大悪人の罪状を公になし難し。ああ公道人情両是非ふたつながらこれひなり。人情公道最難為もっともなしがたし若依公道人情欠もしこうどうによらばにんじょうかけ順了人情公道虧にんじょうにしたがわばこうどうをかくかず人情を棄てて公道に就き、眼前に下枝が虐殺さるる深苦の様を傍観せんか、と一度は思いさだめつ、我同僚の探偵吏に寸鉄を帯びずしてよく大功を奏するを、栄として誇りしが、今より後は我を折りて、身に護身銃を帯すべしと、男泣に泣きしとなん。

 下枝が死を宣告され、仇敵あだがたきの手には死なじとて、歎きもだゆる風情を見て、咄嗟とっさいつの奇計を得たり。

 走りて三たび雑具部屋に帰り、得右衛門の耳に囁きて、その計略を告げ、一臂いっぴの力を添えられんことを求めしかば、くだんの滑稽翁かねたり好事家こうずか、手足を舞わして奇絶妙と称し、両膚りょうはだ脱ぎて向う鉢巻、用意はきぞやらかせと、ひとしく人形室の前に至れば、美婦人正に刑柱にあり、白刃の下に臨める刹那せつなさいわいにして天地は悪魔の所有ものに非ず。

 得右衛門は得三の名を呼びて室外におびき出し、泰助は難無く室内にりて潜むを得たり。しかる後二人計略合期ごうごして泰助をして奇功を奏せしめたる、この処得右衛門大出来というべし。かずき被替かけかえて虚兵を張り、人形を身代みがわりにして下枝を隠し、二度ふたたび毒刃どくじんを外して三度目に、得三が親仁おやじを追懸け出でて、老婆に出逢い、一条の物語に少しくひまの取れたるにぞ、いでこの時と泰助は、下枝をいだきて易々と庭口に立出づれば、得右衛門待受けて、彼はお藤を背ににない、これは下枝を肩に懸けて、滑川にぞ引揚げける。

 時正に東天紅。

 暗号一発捕吏を整え、倉瀬泰助疾駆しっくして雪の下に到り見れば、老婆録は得三が乱心の手にほふられて、血に染みて死しいたり。更に進んで二階に上れば、得三は自殺して、人形の前に伏しいたり。

 旭の光輝ひかりに照らされたる、人形の瞳は玲瓏れいろうと人を射て、右眼、得三の死体を見てめいするがごとく、左眼泰助を迎えて謝するがごとし。五体の玉は乱刃らんじんに砕けず左の肩わずかに微傷のこんあり。

明治二十六(一八九三)年五月

底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年822日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店

   1942(昭和17)年730日第1刷発行

初出:「探偵小説第十一集 活人形」春陽堂

   1893(明治26)年53日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:清角克由

2014年120日作成

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