水郷柳河
北原白秋



 私の郷里柳河やながはは水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠ほりわりのにほひには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を越えて、わが街に入り来る旅びとはその周囲の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀の光を放つてゐる幾多の人工的河水を眼にするであらう。さうして歩むにつれて、その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰、河骨、或は赤褐黄緑その他様々の浮藻の強烈な更紗模様のなかに微かに淡紫のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてた Noskaiノスカイ 屋(遊女屋)の人もなき厨の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩む昼すぎを小料理屋の黒いダアリヤの花に歎き、酒造る水となり、汲水場くみづに立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽ぎ、気の弱い鶩の毛に擾され、そうして夜は観音講のなつかしい提灯の灯をちらつかせながら、ゐびを隔てて海近きおきはた鹹川しほかはに落ちてゆく。静かな幾多の溝渠はかうして昔のまま白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩である。


 折々の季節につれて四辺の風物も改まる。短い冬の間にも見る影もなく汚れ果てた田や畑に、苅株のみが鋤きかへされたまま色もなく乾き尽くし、羽に白い斑紋を持つた怪しげな高麗烏かうげがらす(この地方特殊の鳥)のみが廃れた寺院の屋根に鳴き叫ぶ、さうして青い股引をつけたはじの実採りの男が静かに暮れてゆく卵いろの梢を眺めては無言に手を動かしてゐる外には、展望の曠い平野丈に何らの見るべき変化もなく、凡てが陰鬱な光に被はれる。柳河の街の子供はかういう時幽かなシユブタ(方言はえの一種)の腹の閃きにも話にきく生胆取いきぎもとりの青い眼つきを思ひ出し、海辺の黒猫はほゝけ果てた白い穂の限りもなく戦いでゐる枯葦原の中に、ぢつと蹲つたまゝ、過ぎゆく冬の囁きに昼もなほ耳かたむけて死ぬるであらう。


 いづれにもまして春の季節の長いといふ事はまた此地方を限りなく悲しいものに思はせる。麦がのび、見わたす限りの平野に黄ろい菜の花の毛氈が柔かな軟風に薫り初めるころ、まだ見ぬ幸を求むるためにうらわかい町の娘の一群は笈に身を寠し、哀れな巡礼の姿となつて、初めて西国三十三番の札所を旅して歩く。(巡礼に出る習慣は別に宗教上の深い信仰からでもなく、単にお嫁入りの資格としてどんな良家の娘にも必要であつた。)その留守の間にも水車は長閑かに廻り、町端れの飾屋の爺は大きな鼈甲縁の眼鏡をかけて、怪しい金象眼の愁にチンカチと鎚を鳴らし、片思の薄葉鉄ブリキ職人はぢりぢりと赤い封蝋を溶かし、黄色い支那服の商人は生温い挨拶の言葉をかけて戸毎を覗き初める。春も半ばとなつて菜の花もちりかかるころには街道のところどころに木蝋を平準ならして干す畑が蒼白く光り、さうして狐憑きつねつきの女が他愛もなく狂ひ出し、野の隅には粗末な蓆張りの円天井が作られる。その芝居小屋のかげをゆく馬車の喇叭のなつかしさよ。

 さはいへ大麦の花が咲き、からしの花も実となる晩春の名残惜しさは、青くさい芥子のうてなや新しい蚕豆そらまめの香ひにいつしかとまたまぎれてゆく。

 まだ夏には早い五月の水路に杉の葉の飾りを取りつけ初めた大きな三神丸さんじんまるの一部をふと学校がへりに発見した沖の端の子供の喜びは何に譬へやう。艫の方の化粧部屋は蓆で張られ、昔ながらの廃れかけた舟舞台には桜の造花を隈なくかざし、欄干の三方に垂らした御簾は彩色も褪せはてたものではあるが、水天宮の祭日ともなれば粋な町内の若い衆が紺の半被はつぴに棹さゝれて、幕あひには笛や太鼓や三味線の囃子面白く、町を替ゆるたびに幕を替へ、日を替ゆるたびに歌舞伎の芸題もとり替へて、同じ水路を上下すること三日三夜、見物は皆あちらこちらの溝渠から小舟に棹さして集まり、華やかに水郷の歓を尽くして別れるものの、何処かに頽廃の趣が見えて祭の済んだあとから夏の哀れは日に日に深くなる。

 この騒ぎが静まれば柳河にはまたゆかしい螢の時季が来る。

あの眼の光るのは

星か、螢か、鵜の鳥か

螢ならばお手にとろ、

お星様なら拝みませう。


 をさない時私はよくかういふ子守唄をきかされた。さうして恐ろしい夜の闇におびえながら、乳母の背中から手を出して例の首の赤い螢を握りしめた時私はどんなに好奇の心に顫へたであらう。実際螢は地方の名物である。馬鈴薯の花さくころ、街の小舟はまた幾つとなく矢部川の流を溯り初める。さうして甘酸ゆい燐光の息するたびに、あをあをと眼に沁みる螢籠に美しい仮寝の夢を時たまに閃めかしながら、水のまにまに夜をこめて流れ下るのを習慣とするのである。

 長い霖雨の間に果実くだものの樹は孕み女のやうに重くしなだれ、ものの卵はねばねばと瀦水たまりみづのむじな藻にからみつき、蛇は木にのぼり、真菰は繁りに繁る。柳河の夏はかうして凡ての心を重く暗く腐らしたあと、池の辺には鬼百合の赤い閃めきを先だてゝ、くが如き暑熱を注ぎかける。

 日光の直射を恐れて羽蟻は飛びめぐり、溝渠には水涸れて悪臭を放ち、病犬は朝鮮あざみの紫の刺に後退りつつ咆え廻り、蛙は蒼白い腹を仰向けて死に、泥臭い鮒のあたまは苦しそうに泡を立てはじめる。七八月の炎熱はかうして平原の到るところの街々に激しい流行病はやりやまいを仲介し、日ごとに夕焼の赤い反照を浴びせかけるのである。

 この時、海に最も近い沖ノ端の漁師原れふしばらには男も女も半裸体のまま紅い西瓜をむさぼり、石炭酸の強い異臭の中に昼は寝ね、夜は病魔退散のまじなひとして廃れた街の中、或は堀の柳のかげに BANKOバンコ(縁台)を持ち出しては盛んに花火を揚げる。さうして朽ちかかつた家々のランプのかげから、死に瀕した虎刺拉これら患者は恐ろしさうに蒲団を匍ひいだし、ただぢつと薄あかりの中に色変へてゆく五色花火のしたたりに疲れた瞳を集める。

 焼酎の不摂生に人々の胃を犯すのもこの時である。犬殺しが歩るき、巫女みこが酒倉に見えるのもこの時である。さうして雨乞の思ひ思ひに白粉をつけ、紅い隈どりを凝らした仮装行列の日に日に幾隊となく続いてゆくのもこの時である。さはいへまた久留米絣をつけ新しい手籠をかかへた菱の実売りの娘の、なつかしい「菱シヤンヲウ」の呼声をきくのもこの時である。


 九月に入つて登記所の庭に黄色い鶏頭の花が咲くやうになつてもまだ虎刺拉コレラは止む気色もない。若い町の弁護士が忙しさうに粗末な硝子戸を出入りし、蒼白い薬種屋の娘の乱行の漸く人の噂に上るやうになれば秋はもう青い渋柿を搗く酒屋の杵の音にも新しい匂の爽かさを忍ばせる。

 祇園会が了り秋もふけて、線香を乾かす家、からし油を搾る店、パラピン蝋燭を造る娘、提燈の絵を描く義太夫の師匠、ひとり飴形屋(飴形は飴の一種である、柳河特殊のもの)の二階に取り残された旅役者の女房、すべてがしんみりとした気分に物の哀れを思ひ知る十月の末には、先づ秋祭の準備として柳河のあらゆる溝渠はあらゆる市民の手に依て、一旦水門の所を閉され、水は干され、魚は掬はれ、腥ぐさい水草は取り除かれ、どぶどろは綺麗に浚ひ尽くされる。この「水落ち」の楽しさは町の子供の何にも代へ難い季節の華である。さうしてこの一騒ぎのあとから、また久濶ひさしぶりに清らかな水は廃市に注ぎ入り、楽しい祭の前触が異様な道化の服装をして、喇叭を鳴らし拍子木を打ちつつ、明日の芝居の芸題を面白をかしく披露しながら町から町へと巡り歩く。

 祭は町から町へ日を異にして準備される、さうして彼我の家庭を挙げて往来しては一夕の愉快なる団欒に美しい懇親の情を交すのである。加之、識る人も識らぬ人も酔うては無礼の風俗をかしく、朱欒ざぼんの実のかげに幼児と独楽こまを廻はし、戸ごとに酒をたづねては浮かれ歩るく。祭のあとの寂しさはまた格別である。野は火のやうな櫨紅葉に百舌がただ啼きしきるばかり、何処からともなく漂浪さすらうて来た傀儡師くぐつまはしの肩の上に、生白い華魁おゐらんの首が、カツクカツクと眉を振る物凄さも、何時の間にか人々の記憶から掻き消されるやうに消え失せて、寂しい寂しい冬が来る。



 要するに柳河は廃市である。とある街の辻に古くから立つてゐる円筒状の黒い広告塔に、折々、西洋奇術の貼札が紅いへらへら踊の怪しい景気をつけるほかには、よし今のやうに、アセチリン瓦斯を点け、新たに電気燈でんきをひいて見たところで、格別、これはという変化も凡ての沈滞から美しい手品を見せるやうに容易く蘇らせる事は不可能であらう。ただ偶々たま〳〵に東京がへりの若い歯科医がその窓の障子に気まぐれな赤い硝子を入れただけのことで、何時しか屋根に薊の咲いた古い旅籠屋にはほんの商用向の旅人が殆ど泊つたけはひも見せないで立つて了ふ。ただ何時通つても白痴の久たんは青い手拭を被つたまま同じ風に同じ電信柱をかき抱き、ボンボン時計を修繕なほす禿頭は硝子戸の中に俯向いたぎりチツクタツクと音をつまみ、本屋の主人あるじは蒼白い顔をして空をただ凝視みつめてゐる。かういふ何の物音もなく眠つた街に、住む人は因循で、ただ柔順おとなしく僅に Gonshanゴンシヤン(良家の娘、方言)のあの情の深さうな、そして流暢な軟かみのある語韻の九州には珍しいほど京都風なのに阿蘭陀訛のとろけ込んだ夕暮のささやきばかりがなつかしい。風俗のみだらなのにひきかへて遊女屋のひとつも残らず廃れたのは哀れふかい趣のひとつであるが、それも小さな平和な街の小さな世間体を恐るゝ──利発な心が卑怯にも人の目につき易い遊びから自然と身を退くに至つたのであらう。いまもなほ黒いダアリヤのかげから、かくれ遊びの三味線は昼もきこえて水はむかしのやうに流れてゆく。


   沖ノ端


 柳河を南に約半里ほど隔てて六騎ロツキユの街沖ノ端がある。(六騎とはこの街に住む漁夫の渾名であつて、昔平家没落の砌に打ち洩らされの六騎がここへ落ちて来て初めて漁りに従事したといふ、而してその子孫が世々その業を継襲し、繁殖して今日の部落を為すに至つたのである。)畢竟は柳河の一部と見做すべきも、海に近いだけ凡ての習俗もより多く南国的な、怠惰けた規則しまりのない何となく投げやりなところがある。さうしてかの柳河のただ外面うはべに取すまして廃れた面紗おもぎぬのかげに淫らな秘密を匿してゐるのに比ぶれば、凡てがあらはで、元気で、また華やかである。かの巡礼の行楽、虎列拉避けの花火、さては古めかしい水祭りの行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は温ければすなどり、風の吹く日は遊び、雨にはね、空腹ひもじくなれば食ひ、酒をのみては月琴を弾き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊楽に結びつけ、遊楽のなかに微かに一味の哀感を繋いでゐる。観世音は永久とこしへにうらわかい町の処女に依ていつがれ(各の町に一体づつの観世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配り、或は小屋をかけていろいろの催をする。さうしてこの中の資格は処女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新しい妙齢としごろのものが代つて入る。)天火てんびのふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子の大提灯は、またわかい六騎の逞しい日に焼けたかひなに献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要に寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣づるとては、わかい男女夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌めえらんかん…………の淫らな小歌に浮かれて媾曳あひびきの楽しさを仏のまへに祈るのである。

 沖の端の写真を見る人は柳、栴檀、石榴、櫨などのかげに、而も街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍薬の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を画く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋をにほひの滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二条の大きな樋に極まり、渦を巻いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。

 今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋の生鼠なまこ壁の隣に越太夫といふ義太夫の師匠が何時も気軽な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、桜のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相対して同じ様な生鼠壁の旧家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonkaトンカ Johnジョン(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油醸造を止した。

 南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英たんぽぽの生えた旧い土蔵づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、渋い店格子を透いて、銘酒を満たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁の一つに紺色の可憐な燕の雛が懐かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は広く、店全幅いつぱいの薬種屋式の硝子戸棚には曇つた山葵わさび色の紙が張つてあつて、其中ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の絵の、眼の青い、そして胸の白い女の横顔のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを続けてゐた。その戸棚を開けると、緑礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだみの葉、中には売薬の版木等がしんみりと交錯こんがらがつた一種異様の臭を放つ。それはある漂流者がここに来て食客をしてゐた時分密かに町の人に薬を売つてゐたのが、くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、旧い話であらう。

 庭には無論朱欒ザボンの老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に樋匠をけなわは長閑に槌を鳴らし、赤裸々あかはだかの酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り廻り、さうして町の水路から樋をくぐつて来るかの小さい流は隠居屋の凉み台の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒樋を洗ひ真白な米を流す水となり、同じ屋敷内の瀦水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然るのち、ちゆうまえんだの菜園を一周回めぐりして貧しい六騎ロツキユの厨裏に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹籔であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹籔を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ昼は赤い鬼百合の咲く畑に夜は幽霊の生じろい火が燃えた。

 世間ではこの旧家を屋号通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋ふつどいや」と称へた。実際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石数高く魚類の問屋としては九州地方の老舗として夙に知られてゐたのである。従て浜に出ると平戸、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜ボウブラ、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで来て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々は、血のついた腥くさい石甃いしだゝみの上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を真赤に開けては、激しい夕焼の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。

 私はかういふ雰囲気の中で何時も可なり贅沢な気分のもとに所謂油屋の Tonkaトンカ Johnジヨンとして安らかに生ひ立つたのである。


    南関


 私の第二の故郷は肥後の南関なんくわんであつた。南関は柳河より東五里、筑後境の物静かな山中の小市街である。その街の近郊外目ほかめの山あひに恰も小さな城のやうな何時も夕日の反照をうけて、たまたま旧道をゆく人の胆仰の的となつた天守造りの真白な三層楼があつた。それが母の生れた家であつて、数代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であつた。

 私もまたこの小さな国の老侯のやうに敬はれ、かしづかれ、慕はれて、余生を読書三昧に耽つた外祖業隆なりたか翁の真白な長髯の家で生れて──明治十八年一月二十五日──然る後古めかしい黒塗の駕籠に乗つて、まだ若い母上と柳河に帰つた。

 私は生れて極めて虚弱な児であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外気に当るか、冷たい指さきにさはられても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危険極まる児であつた。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆んど壊れ物に触るやうな心持で恐れて誰もえう抱けなかつたさうである。それで彼此往来するにしても俥からでなしに、わざわざ古めかしい女駕籠をんなのりものを仕立てたほど和蘭の舶来品扱ひにされた。それでもある時なぞは着いてすぐ玄関に舁ぎ据ゑた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりでもう蒼くなつて痙攣ひきつけて了つたさうである。

 三歳の時、私は劇しい窒扶欺チブスに罷つた。さうして朱欒サボンの花の白くちるかげから通つてゆく葬列を見て私は初めて乳母の死を知つた。彼女は私の身熱のあまりに高かつたため何時しか病を伝染うつされて、私の身代りに死んだのである。私の彼女に於ける、記憶は別にこれといふものもない。ただ母上のふところから伸びあがつて白い柩を眺めた時その時が初めのまた終りであつた。

 家に来た乳母はおいそと云つた。私はよく彼女かれ外目ほかめの母の家に行つては何時も長々と滞留した。さうして迎への人力車がその銀の輪をキラキラさして遙かの山すその岡の赤い曼珠沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすじ道を懐しさうに音をたてて軋つて来るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の様に何ものかを探し廻つて、もう馴つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ帰らうとも思はなんだ。

 かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出来た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを臭ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉虫と斑猫はんめうと毒茸と……いろいろの草木、昆虫、禽獣から放散する特殊のかをりを凡て驚異の触感を以つて嗅いで廻つた。かゝる場合に私の五官はいかにも新しい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄いきれに冷たいアルコールを浸して身体の一部を拭いたあとのやうに山の空気は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。

 南関の春祭はまた六騎の街に育つた羅漫的ロマンチツクな幼児をして山に対する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭物見の前後に顫へながらどんぐりの実のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で触つた。

底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版

   1976(昭和51)年81日初版発行

底本の親本:「思ひ出 抒情小曲集」東雲堂書店

   1911(明治44)年67日発行

※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。

入力:林 幸雄

校正:浅原庸子

2004年616日作成

2007年1117日修正

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