飛騨の怪談
岡本綺堂



(一)


 綺堂君、足下そっか

 聡明なる読者諸君のうちにも、この物語に対して「あんまり嘘らしい」という批評を下す人があるかも知れぬ。いな、足下自身もあるい其一人そのいちにんであるかも知れぬ。が、はたして嘘らしいか真実ほんとうらしいかは、終末おしまいまで読んで見れば自然に判る。

 嘘らしいような不思議の話でも、漸々だんだんに理屈を詮じ詰めて行くと、それ相当の根拠よりどころのあることを発見するものだ。

 勿論もちろん、僕は足下に対して、単にこの材料の調書しらべがきを提供するに過ぎない。これを小説風に潤色して、更に読者の前に提供するのは、即ち足下の役目である。よろしく頼む。

大正元年十一月
XY生

      *      *      *

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 こんな手紙と原稿とを突然だしぬけに投げ付けられては、私も少しく面食めんくらわざるを得ない。宜しく頼むと云われても、これはほどの難物である。例えば、蟹だか蛸だか鮟鱇あんこうだか正体えたいの判らぬ魚を眼前めさきへ突き付けて、「さあ、これうまく食わしてれ」と云われては、大抵の料理番もいささ逡巡たじろぐであろう。いわんや素人の小生に於てをや。この包丁塩梅あんばい甚だ心許ない。

 したがって実際は真実ほんとうらしい話も、私の廻らぬ筆にって、かえって嘘らしく聞えるかも知れぬが、それは最初はじめから御詫おわびを申して置いて、さていよいよ本文ほんもんとりかかる。これは今から十七八年以前の昔話と御承知あれ。

 北国ほっこくをめぐる旅人が、小百合火さゆりびの夜燃ゆる神通川じんつうがわを後に、二人輓ににんびきの人車くるまに揺られつつ富山の町を出て、竹藪の多い村里に白粉おしろい臭い女のさまよう上大久保かみおおくぼを過ぎると、下大久保しもおおくぼ笹津ささつの寂しい村々の柴けむりが車の上に流れて来る。所謂いわゆる越中平えっちゅうだいらの平野はここに尽きて、岩を噛む神通川の激流を右にながら、爪先上りにけわしい山路やまじを辿って行くと、眉を圧する飛騨ひだの山々は、さながら行手をさえぎるようにそそり立って、気の弱い旅人を脅かすように見えるであろう。

 けれども、地図によればらはだ越中の領分で、足腰の疼痛いたみに泣く旅人も無し、山霧に酔う女もあるまいが、更に進んで雲をしの庵峠いおりとうげを越え、川をいだいたる片掛村かたかけむらを過ぎて、越中飛騨の国境くにざかいという加賀澤かがそに着くと、天地の形がいよいよ変って来て、「これが飛騨へ入る第一の関門だな。」と、何人なんぴとにも一種の恐怖と警戒とを与えるであろう。乱山らんざん重畳ちょうじょう草鞋わらじ穿けぬ人の通るべき道ではない。

 この加賀澤から更に二十里ほどの奥であると云えば、の地勢などはくわしく説明する必要もあるまい。そこに戸数八十戸ばかりの小さいしゅくがある。山間の平地に開かれた町で、学校もあれば寺院もあり、かつは近年その附近に銀山が拓かれるとか云うので、土地は漸次しだいに繁昌にむかい、小料理屋のようなものも二三軒出来て、口臙脂くちべにの厚い女がんな唄を謡う様になった。


くにゃ辛いがお山は飛騨よ

   黄金こがね白金しろかね花が咲く


小旦那こだんな……小旦那……。昨夜ゆうべまた彌作やさくの内で鶏をられたと云いますよ。」

「鶏を……。誰にられたろう。又、銀山の鉱夫の悪戯いたずらかな。」と、若い主人は少しく眉をひそめて、雇人やといにんの七兵衛老爺じじいみかえった。

「何、何、鉱夫じゃアねえ。」と、七兵衛はかしらって、「それ、例の……。」

「例の……。」

𤢖わろですよ。」

「むむ、山𤢖やまわろか。ははははは。ここらではまだそんなことを云ってるのか。」

 若い主人は一笑に附し去ろうとしたが、七兵衛は固く信じて動かぬらしい。

「小旦那は幾ら東京で学問したって、そりゃア駄目でがすよ。現在、𤢖が出て来るんだから仕方がねえ。論より証拠だ。」


(二)


 若主人の名は市郎いちろう、このしゅくでは第一の旧家と呼ばるる角川つのかわ家の一人息子である。ういう山村に生れても、家が富裕であるおかげに、十年以前から東京に遊学して、医術を専門に研究し、開業試験にも首尾好く合格して、今年の春から郷里に帰った。年は二十七歳で、色の浅黒い活発の青年わかものである。

 ここは山村で昔から良い医師が無い。市郎の父はこれを憂いて、せがれには充分に医術を修業させ、将来は郷里で医師を開業させる心組こころぐみであった。市郎ももとよりその覚悟であったので、帰郷の後、半年ばかりは富山のある病院の助手に雇われ、此頃このごろ再び帰郷していよいよ開業の準備に取懸とりかかっているうちに、飛騨の山里は早くも冬を催して、霜に悩める木葉このはは雨のように飛んだ。

 十月の末ではあるが、朝の霜は白い。の白きをんで散歩する市郎のところへ、の七兵衛老爺おやじが駈けて来て、大きな眼と口とをしきりに働かせながら、山𤢖やまわろの一件を注進したのである。

 対手あいてが余り熱心であるので、市郎も無下むげに跳ね付ける訳にも行かぬ。

うかねえ。」と、軽く笑って、「僕等も小児こどもの時にはんな話を聞いたことがあるが、真実ほんとうに𤢖が出るのか。」

たしかに出ますよ。幾らも見た者があるんだから争われねえ。」

「そこで、昨夜ゆうべも彌作のところで鶏をられたんだね。」

「何でも夜半よなかのことだと聞きましたが、裏の鶏舎とや羽搏はばたきの音が烈しく聞えたので、彌作がそっと出て見ると、暗い中に例の𤢖が立っている。彌作も魂消たまげて息を殺していると、𤢖は鶏舎とやの中から一羽をつかみ出して、ぎゅうくびねじって、引抱ひっかかえて何処どこへか行ってしまったと云いますよ。」

「ふむ。」と、市郎は首をひねって、「で、の𤢖という奴はんなものだね。」

 七兵衛は慌ててさえぎって、更に前後を見廻して、若い主人を叱るように、

「奴なんぞと云うじゃアねえ。何処に立聞たちぎきをしていて、んなたたりをするか知れねえ。幾らお前様めえさまが理屈を云ったって、𤢖に逢ったが最後、んな人間だってかなうものじゃねえから……。」

「じゃア、奴というのはず取消にして、にかくの𤢖とかいう者に一度逢って見たいもんだね。」

「馬鹿云わっしゃい。」

 若い主人は又叱られた。

 ここで鳥渡ちょっとの𤢖なるものを説明して置く必要が有る。の土地に限らず、奥州にも九州にも昔から山男又は山𤢖の名が伝えられている。勿論もちろん、繁華の地には無いことであるが、山間の僻地では稀にその姿を見ることがある。要するに猿とも人とも区別の付かぬ一種奇怪の動物で、中には人間のことばを少しは解する者もあるとかいう。山𤢖のわろおそら和郎わろという意味であろう。で、おおきいのを山男といい、小さいのを山𤢖と云うらしいが、くは判らぬ。まだ其他そのほか山姥やまうばといい、山女郎やまじょろうと云う者もある。これはおそらく彼等の女性であろう。

 かくに彼等は一種の魔物として、附近の里人から恐れられている。山深く迷い入った猟夫かりゅうどが、暗い岩蔭にうそぶいて立つ奇怪の𤢖をれば、銃を肩にして早々に逃げ帰る。万一これに一発のたまを与えたならば、熱病其他そのたの怖るべきたたりこうむって、一家は根絶ねだやしになると信じられている。彼等は勿論深山の奥に棲んで、滅多に姿を見せることは無いが、時としては里に現われて食物をあさる。その場合には矢張やはり一般の盗賊ぬすびとの如くに、なるべく白昼ひるを避けて夜陰に忍び込み、鶏や米や魚や手当り次第にさらって行く。素捷すばやいことは所謂いわゆるましらの如くで、容易にその影を捕捉することはできぬ。

 又たといその姿を認めた者があっても、臆病な里人は決してこれを追おうとは試みない。迂濶うかつに妨害を加えたらば、彼等は何時なんどき如何いかなる復讐をするかも知れぬので、何事も殆ど𤢖が為すままに任して置く。

 𤢖に対する奇怪の伝説や歴史は、まだ此他このほかにも沢山あるが、概括して云えばずこんなものである。


(三)


 市郎もの土地に生れたので、小児こどもの時から山𤢖やまわろの話を聞いていた。「そんなに悪戯いたずらをすると、山𤢖にってしまいますよ。」と、亡母なきははからおどされたことも有った。が、多年東京の空気にまじっているうちに、そんなお伽話のような奇怪な伝説は、彼の頭脳あたまから悉皆すっかり忘れられていたのを、今や再び七兵衛老爺おやじから叱るが如くにさとされて、彼は夢のような少年当時の記憶を呼びおこすと同時に、の山𤢖なるものについすくなからぬ好奇心を生じた。

「𤢖とは何だろう。はり猿かの一種か知ら。」と、市郎はしきりに考えた。

 七兵衛が去った後の裏庭は閑静しずかであった。旭日あさひの紅い樹の枝に折々小禽ことりの啼く声が聞えた。差したるかぜも無いに、落葉は相変らずがさがさと舞って飛んだ。

「市郎、大分寒くなったな。」と、父の安行やすゆき背後うしろから声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、年齢としよりもはるかに若く見られた。

 父がここへ来たのは丁度ちょうど幸いである。市郎はの𤢖について父の意見をただすべく待ち構えていた。が、父の話はんな問題で無かった。

「時に忠一ちゅういちさんから何か消息たよりがあったか。」

「何でも来月初旬には帰郷するということでしたが……。」

「そうか。それは好都合だ。」と、父は満足のえみを洩らした。

「ですが、私の為に態々わざわざ帰郷させるのも気の毒ですから、此方こっちは別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云ってりました。」

「そう云ってったか。」と、安行は少しく不平らしい口吻くちぶりで、「当人が帰ると云うなら、帰って来いと云ってればいのに……。なるほど、今の所でお前の婚礼を急ぐにも及ばないが、決った事は早くってしまうに限る。吉岡の阿母おっかさんも急いで居るんだからな。」

「でも、一月ひとつき二月ふたつきを争うこともありますまい。」

「むむ。阿母おっかさんはまアうでもいとしても、冬子ふゆこさんがぞ待っているだろう。」

 市郎は少しく顔を染めた。

「まあ、い。」と、父は首肯うなずいて、「そんなら其様そのように吉岡の阿母おっかさんの方へも云って置こうよ。せがれうも冬子さんを嫌っているようですから、婚礼は当分のばしますと……。はははははは。」

 安行は我子にむかっても、何時いつも平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。

阿父おとっさん。あなたに伺ったら判るでしょうが、昨夜ゆうべ彌作のうちで鶏をられたそうですね。」

「むむ。七兵衛がそんなことを云ったよ。」

「私も七兵衛から聞いたんですが、山𤢖がったとか云うことです。一体、𤢖なんて云うものが実際居るんですかね。」

「さあ、居るとも云い、居ないとも云うが、俺にも確然しっかりとは判らないね。」

「けれども、彌作はたしかたと云いますが……。どうも不思議ですよ。」

「不思議だね。」とばかりで、父は此話このはなしを余り好まぬらしい。

「ねえ、阿父おとっさん。外国でも遠い田舎へ行くと、種々いろいろ不思議な話があるそうで……。つまり一種の迷信ですね。ここの山𤢖なんて云うものもはりの一つでしょう。わたくしはこれを十分に研究したいと思うんですが……。忠一君もかつてそんな話をたことが有りましたよ。」

「𤢖を研究したい。」と、安行はや真面目になって、我子の顔をじった。

「そうです。おそらく猿か何かでしょうな。」

「猿でも猩々しょうじょうでも、そんなものには構わずに置くがい。先年駐在所の巡査が𤢖を追って山の奥へ入ったら、その留守に駐在所から火事がはじまって、到頭とうとう全焼まるやけになってしまったことが有る。加之しかも駐在所が一軒やけで、近所には何の事も無かった。の巡査も後に病気になったそうだよ。」

 物の道理を相当に心得ている筈の父安行すらも、はり𤢖を恐るる一人いちにんであるらしい。市郎ははらの中で可笑おかしく思った。


(四)


 𤢖わろに対する市郎の好奇心はいよいよ募って来たので、彼は何とかして父を釣り出そうと試みた。

「あなたも𤢖が怖いんですか。」

「怖いとも思わないが、好んでんなものに関係かかりあう必要も無いじゃアないか。」

 と、安行はすげなく答えた。

祖父おじいさんは𤢖を見たそうですね。」

「誰から聞いた。」

「死んだ阿母おっかさんから聞いたことがあります。」

祖父おじいさんは𤢖に殺されたのだ。」と、父は思わず歎息ためいきいた。

 市郎は驚いて飛びあがった。

「え、祖父おじいさんは𤢖に……。うして殺されたんです。」

「そんな話はそうよ。」

 一旦はう云ったが、到底とても黙って承知しそうもない我子の熱心な顔を見て、安行は又思い直したらしい。

「では、話して聞かせるから、まあ此方こっちへ来い。」と、父は先に立って、日当りのい小屋の前に進んだ。

 午前十時、初冬の日はいよいよ暖かくうららかになって、白い霜の消えて行く地面からは、遠近おちこちに軽い煙を噴いていた。南向みなみむきの小屋の前には、二三枚のむしろが拡げて乾してあった。父子おやこはここに腰をおろして、見るとも無しに瞰上みあげると、青い大空をさえぎる飛騨の山々も、昨日今日は落葉に痩せて尖って、さなが巨大おおいなる動物が肋骨あばらぼねあらわしたようにも見えた。その骨の尖角とがりの間から洩るる大空が、気味の悪いほどに澄切すみきっているのは、やがて真黒な雪雲を運び出す先触さきぶれと知られた。人馬の交通をさえぎるべき厳寒の時節もようやく迫り来るのである。

「今から丁度ちょうど五十年前の事だから、俺も真実ほんとうの話はくも知らない。後にひとから聞いたのだが……。」と、安行は我子をみかえって、「はり今時分のことだ。お前の祖父おじいさんが隣村まで用達ようたしに出かけて、日が暮れてから帰って来た。その晩はい月夜で二三町先までく見える。祖父おじいさんは少し酔っていたので、何か小唄をうたいながらぶらぶら来ると、路傍みちばたの樹の蔭から可怪おかしな者がちょこちょこ出て来た。猿のような、小児こどものような者で、はり真直まっすぐに立って歩いて行く。はて、不思議だと思いながら、抜足ぬきあしをしてそっけて行くと、不意に赤児の泣声が聞えた。よくると、其奴そいつが赤児を抱えていたのだ。」

 市郎は息を詰めて聴いていた。

「そこで、祖父おじいさんも考えた。これは例の山𤢖がひとの赤児をさらって行くに相違ない。対手あいて対手あいてだから大抵の事は見逃して置くが、人間を攫って行くのをただ打捨うっちゃって置く訳には行かぬ。その当時の事だから、祖父おじいさんも腰に刀をしていたので、突然いきなりひらり引抜ひきぬいて、背後うしろから「待てッ」と声をかけた。対手あいて振返ふりかえってきっ此方こっちたが、生憎あいにくに月を背後うしろにしているのでその顔はく判らなかった。」

「顔は判りませんでしたか。」と、市郎は失望の息をいた。

「顔は判らなかったが、暫時しばらく此方こっちを睨んで居たらしかった。が、何分にも此方こっちは長い刃物を振翳ふりかざしていたので、対手あいて流石さすが気怯きおくれがしたと見えて、抱えていた赤児を其処そこほうして、直驀地まっしぐらに逃げてしまった。」

何地どっちの方へ……。」

「あの山の方へ……。」と、安行は北を指さして、「勿論もちろん、飛ぶように足がはやいのだから、到底とても追い付く訳には行かない。そこで、祖父おじいさんはの赤児を拾って帰って、燈火あかりの下でよくると、生れてから十月とつき位にもなろうかと思われる男の児で、色の白い可愛い児であった。いずれ近所の人の児であろうと、あくる朝方々ほうぼうへ問い合わして見たが、このしゅくでは小児こどもられた者は一人ひとりも無い。隣村にも無い。つま何処どこから持って来たのだか判らずにしまった。」

小児こどもうしました。」

「まあ、漸々だんだんに話す。小児こどもの事よりも、祖父おじいさんの方を話さなければならない。祖父さんは強い人であったから、別に何とも意にもめずにいた処が、対手あいての方では執念深く怨んでいて、三日の後に残酷な復讐をたよ。」

 安行の声は少しくふるえて聞えた。


(五)


「復讐……。山𤢖やまわろが……。一体どんなことをました。」と、市郎も思わず摺寄すりよると、安行は今更のように嘆息した。

「それから三日目の晩に、祖父おじいさんは用があって又隣村まで行ったが、夜が更けても帰って来ないので、家中うちじゅうの者も心配して、松明たいまつけて迎いに出た。その晩は真闇まっくらで、寒い山風が吹きおろしていた。で、先夜山𤢖から小児こども奪返とりかえしたという場所へ来ると、祖父おじいさんは血だらけになって死んでいた。さあ大騒ぎになって、よくよく死骸をあらためると、人か獣か知らないが何でも鋭い牙のある奴が、背後うしろから飛び付いて喉笛を食い破ったらしい。祖父さんも幾らかは防いだと見えて、手や足にも引っ掻かれた爪の痕が沢山あった。勿論もちろん死人しにんに口無しで、誰にうされたのか判らないが、祖父さんはひとからうらみを受けるような記憶おぼえも無し、又普通の追剥おいはぎならばんな残酷な殺し方をする筈がない。突然いきなりに人の喉笛に噛み付くなどと云うことは、普通の人間には容易にできる芸で無い。それ等の事情から考えると、同じ場所といい、残酷な殺し方と云い、どうしても例の山𤢖が先夜の復讐に来たとしか思われないのだ。いや、たしかにそれに相違ないということに決着して、死骸は寺に葬った。すると、まだまだ驚くことが有る。」

 う云って父は一息いた。市郎も余りに奇怪なる物語に気を呑まれて、何ともことばはさむ勇気が無かった。

「それから初七日しょなぬかの日に、親類一同がかたの如く寺参りに行くと、祖父おじいさんの墓は散々に掘り返されて、まだ生々しい死骸が椿の樹の高い枝に懸けてあった。勿論もちろん、誰の仕業か知れないが、これも大抵は判っている。その以来、土地の者はいよいよ山𤢖を恐れるようになって、今日こんにちまで誰も指をさす者が無いのだ。まあ、そんな訳だから何も好んで山𤢖なんぞに関係かかりあうことは無い、打捨うっちゃって置く方がいよ。」

なるほど不思議ですな。」と、市郎も何だか夢のように感じた。天狗や山男や、そんなものは未開時代の昔語むかしがたり一図いちずに信じていた彼の耳には、この話が余りに新し過ぎて、殆ど虚実の判断に迷った。が、彼は一概にこれを馬鹿馬鹿しいとけなしてしまうほどの生物識なまものじりでもなかった。市郎はあくまでも科学的にの怪物の秘密をあばこうと決心したのである。

「それで、明治以後にも相変らずんな怪談が屡々しばしばありましたか。」

「さあ。」と、父も考えて、「今も云うような訳で、此方こっちでは誰も手出しをないから、対手あいての方でも別に悪い事はないらしい。時々に里へ出て来て鶏や野菜などをさらってくけれども、まあその位のことは打捨うっちゃって置くのさ。」

「警察でも構わないんですか。」

「昔は女や小児こどもさらったと云うことだが、今は滅多にそんな噂を聞かない。で、人でも殺せば格別だが、小泥坊こどろぼうをする位のことでは、警察でもまあ大目に見逃して置くらしい。先刻さっきも云った通り、巡査が一度追掛おっかけたことも有ったが、到頭とうとうつかまらなかった。何しろ、猿と同じように樹にも登る、山坂を平気でかける、到底とても人間の足では追い付かないよ。しかし近所に銀山も拓けて、漸々だんだんここらもにぎやかになるから、𤢖も山奥へ隠れてしまって、余り出なくなるかも知れない。」

「そうですねえ。ここらも昔に比べるとほど開けて来ましたから……。」

「土地の繁昌は結構だが、銀山の鉱夫などが大勢入込いりこんで来たので、怪しげな料理屋などが追々おいおい殖えて来るのはちっと困る。」と、安行は苦笑いした。

「今に山𤢖も料理屋へあがって、甚九じんくでも踊るようになるかも知れません。ははははは。」

 父子おやこは笑いながら内へ入った。

 今日はちっとも風のない温かい日であった。午餐ひるめしの済んだ後、市郎は縁側に立って、庭の南天の紅い実を眺めていると、父の安行が又入って来た。

い天気だな。うだ。運動ながら吉岡のうち一所いっしょに行かないか。吉岡の阿母おっかさんに逢って、お前の婚礼をのばすことを一応ことわって置こうと思うから……。」

「はあ、おともしましょう。」

 市郎は散歩がすきであった。加之しかも未来の妻たるべき冬子の家を訪問するのであるから、悪い心地こころもちなかった。早速に帽子を被って家を出た。

 近来にぎやかになったと云っても、はり山間の古いしゅくである。町の家々は昼も眠っているように見えた。

 富山の友人から貰ったトムと云う大きな西洋犬せいよういぬが、主人父子おやこの後を遅々のそのそいて行った。


(六)


 長くもない町をつくして、やがて駅尽頭しゅくはずれかどに来ると、冬を怨む枯柳が殆ど枝ばかりで垂れているかたわらに、千客万来と記した角行燈かくあんどうを懸けて、暖簾のれんに柳屋と染め抜いた小料理屋があった。雪国のならいで、板葺いたぶきの軒は低く、奥の方は昼も薄暗い。

 安行父子おやこが今やここのかどを通ると、丁度ちょうど出合頭であいがしらに内から笑いながら出て来た女があった。年は二十二三でもあろう、髪は銀杏返いちょうがえしの小粋なふうであった。

 市郎の顔を見るや、彼女かれにわか衣紋えもんつくろって、「あら、若旦那……。」と、叮嚀ていねいに挨拶した。市郎も黙って目礼した。

「よいお天気になりました。」と、女はえみを含んで再びことばをかけた。

い天気になりましたなあ。」と、市郎も鸚鵡返おうむがえしに挨拶して、早々にここを行き過ぎた。女は枯柳の下に立って、暫時しばしの後姿を見送っていた。

「お前はあの女を知っているのか。」

 五六けん行き過ぎてから、安行は低声こごえで訊いた。

「いえ、知ってると云う程でも無いんですが、この夏、吉岡の忠一君が帰省した時に、一所いっしょにあのうちへ飲みに行ったことが有るんです。何、った一度ですよ。」

「そうか。しかし狭い土地だから、お前が角川の息子だと云うことは、先方むこうでも知ってるだろう。あんなところあんま出入ではいりするなよ。世間の口がうるさい。」

「そうですとも……。あんなうちへは決して二度と足踏あしぶみませんよ。」と、市郎はいさぎよく答えた。が、何を思い出したか、嫣然にやにや笑いながら、「それでも忠一君はの女に思惑でも有ったと見えて、しきりからかって騒いでいましたよ。」

「若い者には困るな。」と、安行も共に笑いながら、「あれは酌婦しゃくふだろう。何という名だ。」

「たしかおようと云いました。」

「お葉か。忠一が今度帰ったら冷評ひやかしろうよ。」

つまらない。おしなさいよ。あれでも表面は真面目なんですから……。」

「それだからからかってるんだ。」

 ういう暢気のんきな親父が、何故山𤢖やまわろなんぞを恐れるのだろうと、市郎は不思議に思いながら、不図ふとみかえると、自分達の後を追って来たトムの姿が見えない。

 はて、何処へ行ったかと見廻すと、犬はの柳屋の前にとまって、お葉から何か食物くいものを貰っているらしい。

「トム、トム……。」と、二三度呼んだが、犬は食物くいものに気をられて、主人の声を聞付ききつけぬらしい。市郎は舌打したうちしながら引返ひっかえして来た。

「トム、トム……。」と、少しく声をあらくして呼ぶと、犬は初めて心付いたらしく、食物くいものを捨てて駈け出そうとしたが、早くも背後うしろからお葉に抱かれてしまった。

「この犬はい犬ですね。」

「無闇に吠えて困るんです。」

「でも、温良おとなしいわ。あたしこの犬が大好だいすきよ。」

「トム、トム……。」と、市郎は又呼んだ。犬は尾をって行こうとしたが、お葉は相変らず緊乎しっかり抱いていた。

「トム、トム……。」

 市郎は重ねて呼びながら、犬のくびに手をかけると、お葉はそばへ寄って来て、低声こごえで少しく怨恨うらみを含んだように、

「あなた、あの時限ときぎ被入いらしって下さらないのね。」

 市郎は黙っていた。

「後生ですから、あなたう一度来て下さいな。え、おいやですか。え、どうしても厭……。来て下さらないの。」

「厭という事も無いんだが……。」と、市郎は返事に困って、思わず父の方をみかえると、安行は小半町こはんちょうばかり先の木蔭こかげに立って、此方こっちじっと見詰めているので、市郎は何とも無しに赤面した。

にかく又来ますよ。」

 ことば短かに云い捨てて、無理に犬をき出すと、お葉は漸く手を放したが、今度は市郎の腕に手をかけて、

「あなた、必然きっとですか。ござんすか。だますと山𤢖を頼んで、意趣返しをせますよ。」

 お前ならば山女郎やまじょろうの方がかろうと云おうとしたが、からかっていると長くなる。市郎は黙って首肯うなずいて、早々に立去たちさった。


(七)


「おや、角川のおじさん被入いらっしゃい。市郎さんも……。さあ、どうぞ……。」

 吉岡の母おまさは、喜んで安行父子おやこを迎えた。吉岡も隣村では由緒ある旧家で、主人は一昨年世を去ったが、お政との間に二人の子供があった。総領は忠一と云って、帝国大学の文科に学んでいる。いもとの冬子も兄と共に上京して、ある女学校に通っていたが、昨年無事に卒業して今は郷里の実家に帰っている。地方にはくあるならい、角川の市郎と冬子とは所謂いわゆる許嫁いいなづけの間柄で、市郎が医師を開業すると同時に、めでたく祝言しゅうげんという内相談ないそうだんになっている。勿論もちろん、二人の間に異存は無かった。

 ういう関係であるから、昔から両家は殆ど親類同様に親しく交際していた。殊に主人が死んだのちは、吉岡の家では何かに付けて角川一家を力と頼んでいた。

 安行父子おやこが座敷へ通ると、今年二十歳はたちの冬子も笑顔を作って出て来た。

「東京のせがれの方から一昨日手紙が参りまして、冬子の婚礼について来月初旬には必然きっと帰って来ると云うことでした。」と、お政がず口を切った。

「いや、其事そのことですが……。」と、安行は市郎をみかえって、「倅の云うには、それが為に忠一さんを態々わざわざ呼び戻すにも及ぶまい。どうで歳暮くれには帰郷するのだから、その時までのばしても差支さしつかえはあるまいと……。」

「それもうですが……。」と、お政は娘の顔をた。市郎は何の気もかずに、「実は私から忠一君の方へ、う云ってったんですが……。」

「まあ。」と、お政は更に市郎の顔をた。

「私も今朝初めて聞いたのだが、延期しては何か御都合が悪いかな。」

 安行のといに対して、母子おやこは即坐に何とも答えなかった。お政は霎時しばらく考えて、

「いいえ、別に都合の悪いと云うこともありませんが……。善は急げとか云いますから、一日も早く御婚礼を済まして、わたくしも安心したいと思うのですが……。是非来月で無ければ成らないと云う訳もありませんから、つま貴下あなたや市郎さんの思召おぼしめし次第で……妾の方は何方どちらでもよろしいのです。ただ、妾の方では……こんなことを申しては何ですけれども、市郎さんもだお若いのですから、何かの間違いのないうちちっとも早く……とう思って居りますので……。ほほほほほ。」

 お政は冗談のように笑って云ったが、其詞そのことばの底には何かの意味があるらしくも聞えた。冬子も恨めしそうな眼をして、市郎の顔をていた。うなると、何だか聞捨ききずてにもならぬようなもするので、安行もや真面目になった。

「御承知の通り、せがれもまだ書生あがりで小児こどもも同然だから、私も平生ふだんから厳しく監督していますが、冬子さんとの婚礼は昨日今日にはじまった話でも無し、たとい一月ひとつき二月ふたつき延びたからと云って、決して間違いのおこるなどと云うことは……。」

「それはうですとも……。」と、お政はさえぎって、「ですから、わたくしの方でも決して心配はませんが……。それでもお若い方と云うものはね。」と、又笑った。

 市郎も何だか黙ってはいられぬ羽目になった。

「じゃア、おばさん、私が何か不都合な事でもていると被仰おっしゃるんですか。」

「別に不都合ということは無いのですけれど、ひとの噂を聞くと、市郎さんは此頃このごろ柳屋とか云ううちにお馴染なじみが出来たそうで……。みんながう云っていますよ。」

「へえー。」と、市郎は眼を丸くした。柳屋と聞いて、安行の眼も少しくひかった。

「嘘です、そりゃア実際嘘ですよ。」と、市郎は口早に、「そんなことは決してありませんよ。今も親父に話したのですけれども、の夏、忠一君が帰省した時に、った一度行ったことが有るだけで、其後そのごは柳屋のしきいまたいだ事は無いんです。」

「そうですかねえ。」と、お政はまだ笑っていた。疑惑うたがいけぬらしい。


(八)


「市郎、お前は真実ほんとうに柳屋へ出入ではいりするのか。」と、今度は安行が問うた。

「いいえ、嘘です、嘘ですよ。何かの間違いでしょう。」と、市郎は慌てて弁解した。

「でも、忠一もその時に云っていましたよ。市郎君は色男だ、柳屋の女が大層チヤホヤしていたと……。ねえ、うでしょう。」

 如才じょさいないお政は絶えず笑顔を見せているが、対手あいては甚だ迷惑に感じた。と云って、ここで何時いつまで争っても究竟つまり水掛論みずかけろんである。市郎も終末しまいには黙ってしまった。

 安行も考えた。何方どちらの云うことが真実ほんとうか知らぬが、先刻さっき市郎の話では、忠一が女と巫山戯ふざけたと云う。今又ここの話では、市郎が女と情交わけがあるらしいと云う。何方どっちにしても、対手あいては客商売の女である。要するに二人の客に対して、等分に世辞せじ愛嬌あいきょう振蒔ふりまいたと云うに過ぎまい。したがってその時だけの遊興あそびならばこうの論は無いが、し市郎が其後そのごも柳屋へ通っているようならば、少しく警戒を加えねばならぬ。のお葉という女は、どんな素性来歴の者か知らぬが、豪家ごうかの息子を丸め込んで、揚句あげくはてに手切れとか足切れとか居直るのは、彼等社会に珍しからぬためしである。殊に此方こっちは婚礼を眼の前に控えているから、それを附目つけめに何かの面倒を持ち込まれては、吉岡家に対しても気の毒、自分達も世間に対して余計な恥をさらすようにもなる。うかんなことの無いようにしたいものだと、こころひそかに無事を祈った。

 が、誰の考慮かんがえも同じことで、ここで何時いつまで争った所で水掛論に過ぎない。これだけに釘を刺して置けばいと思ったのであろう、お政は相変らず嫣然にこにこ笑いながら、更に話をほかそらした。

いい塩梅あんばいにお天気が続きますね。しかし来月になったら、急にお寒くなりましょう。来年のお正月も又雪でしょうかねえ。」

 旧暦に依るこの土地では、正月はあたかも大雪の最中さなかである。年々の事とは云いながら、三尺、四尺、五尺、六尺と漸次しだい振積ふりつんで、町や村にあるほどの人々を、暗い家の中に一切封じ込めてしまう雪の威力を想像すると、何と無く一種の恐怖おそれいだかぬ訳にはかぬ。四人は今更のように庭を眺め、空を仰いで、日毎に襲い来る冬の寒気さむさ染々しみじみと感じた。

 この時、表では犬の啼く声がしきりに聞えた。トムは何物をたか知らぬが、狂うが如くに吠えたけるのであった。

「何をあんなに吠えるのだろう。」と、手持無沙汰てもちぶさたの市郎は、これしお起上たちあがってかどへ出た。

 この家は小さい陣屋のような構造かまえで、もんの前には細いながれを引きめぐらし、一けんばかりの細い板橋がわたしてある。家の周囲は竹藪に包まれて、藪垣やぶがきの間から栗の大木が七八本そびえていた。トムは橋の中央に走りでて、凄じい唸声うなりごえを揚げているのである。

「トム、トム……。」と、市郎はず声をかけながら不図ふとると、トムの五六歩前には一人の怪しい女が立っていた。

 女は六十前後でもあろう。灰色の髪をすすきのように乱して、肩の下まで長く垂れていた。彼女かれが若かりし春の面影は、おそらく花のようにも美しかったであろうと想像されるが、冬の老樹おいきの枯れ朽ちたる今の姿は、ただ凄愴ものすごいものに見られた。身には縞目しまめも判らぬような襤褸ぼろの上に、獣の生皮なまかわまとっていた。風体ふうていが既に奇怪であるのに、更に人を脅かすのはその窪んだ眼の光で、およこの世界にありと有らゆる物は、総て我敵わがかたきであると云わぬばかりに睨み詰めているらしい。

 狂人きちがいか、乞食か、ただしは山𤢖やまわろ眷族けんぞくか、殆ど正体の判らぬの老女を一目見るや、市郎も流石さすが悸然ぎょっとした。トムがあやしんで吠えるのも無理は無い。

 しか彼女かれは別に何をするでもなく、門前の往来に飄然ひょうぜんと立っているだけの事であるから、市郎も改まってとがめる訳には行かぬ。ただ暫時しばらくは黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、きいろい歯を露出むきだして嫣然にやにや笑いながら、村境むらざかいの丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くにせてしまった。

 市郎は夢のようにの行方を見送っていると、トムの声を聞き付けて、この下男しもおとこも内から出て来た。その話によると、の怪しの老女は北の山奥に棲むおすぎという親子づれの乞食であると云う。乞食とあれば是非もないが、何だか唯者ただものでは無いように市郎は感じた。

「あれは山𤢖の女房だとも云いますよ。」と、下男は更に低声こごえささやいた。


(九)


「トムは何を吠えていたのだ。」

 市郎がもとの座敷へ戻って来ると、安行は煙草をみながらしずかに訊いた。

「いや、表に変な女が立っていましてね。後で聞けばお杉とか云う乞食だそうで……。」

「ああ、お杉ですか。」と、お政母子おやこは眉をひそめて首肯うなずいた。

「何です、彼女あれは……。すこぶる変な奴ですね。狂人きちがいでしょうか。」

「さあ、幾らか気も変になっているか知れないが、所謂いわゆる狂人きちがいと云うのでも無いようだ。」と、安行は考えて、「彼女あれも俺のうち満更まんざら縁が無いでも無いのだ。お前も知っているだろう。」

「いえ、ちっとも知りませんね。一体、彼女あれは何です。」と、市郎は父の顔を覗いた。

「今朝お前に話した通り、祖父おじいさんが五十年ほど昔に、山𤢖やまわろさらわれた小児こどもを助けたことが有る。」

「けれども、それは男のでしょう。」

「まあ、黙って聞くがい。それには又種々いろいろ可怪おかしな話が絡んでいるのだ。」

 山𤢖と怪しの老女、この関連はいよいよ市郎の好奇心を湧かした。お政も冬子も珍しそうに耳をそばたてた。

 茶を一杯、それから安行はこんなことを語り出した。

 市郎の祖父、即ち安行の父は山𤢖の復讐の為に無残の死を遂げた。しかその手に救われた赤児は、角川家のなさけって無事に生長した。もとより何者の子とも判らぬので、仮に重蔵じゅうぞうと名を付けて、児飼こがい雇人やといにんのようにして養って置いた。角川の家は代々の郷士で、かたわらに材木伐出きりだしの業を営んでいたので、家の雇人等も木挽こびきの職人と一所に山奥へ入ることが屡々しばしばある。重蔵も十二三歳の時から山へ入った。

 何でも彼が十五六歳の秋であった。小児こどもの癖に気のあらい重蔵は、木挽の職人と何か喧嘩をした結果、同じく気の早い職人は「どうでも勝手にしろ。」と、山小屋に重蔵一人を置去おきざりにして帰ってしまった。しか其処そこには伐倒きりたおされた杉や山毛欅ぶなの材木が五六本残っていたので、あくまでも強情な重蔵は、自分一人でこれふもとまで担ぎ出そうとしたが、長く大きい材木は少年の肩に余って、到底とてもけわしい山坂をくだる訳には行かぬ。こうするうちに日は暮れかかる。彼も流石さすがに途方に暮れている処へ、おそらく例の山𤢖であろう。人か猿か判らぬ一個の怪しい者がふらりと出て来た。

 並大抵の者ならば、驚いて慌てて逃げ出すべきであるが、重蔵はすこぶる大胆であった。咄嗟とっさあいだに思案をさだめて、腰に提げたる割籠わりごから食残くいのこりの握飯を把出とりだして、「これをるから手伝って担いでれ。」と手真似で示すと、𤢖も合点がてんしたと見えて悠々と材木を担ぎ出した。くして彼は先棒さきぼうとなり、𤢖は後棒あとぼうとなって、幾本の重い材木を無事に麓まで担ぎおろしたのである。

 これが一種の縁となったとでも云うのであろう、其後そのごも𤢖は折々に山小屋へ姿を見せた。ただし他人のいる時は決して近寄らず、重蔵一人の時を窺って忍んで来る。其都度そのつどに重蔵は自分の握飯をわかって、𤢖に仕事を手伝わせていた。が、或時これを見付けた者が有って、重蔵は山𤢖を友としているという噂がたちまち拡がった。角川家でもおおいに心配して、その以来彼を山小屋へらぬ事とした。

 それから又二三年過ぎた。其間そのあいだ別に変った事も無かったが、一旦山𤢖と親しんだという風説が、甚だ青年わかものわざわいして、彼は附近の人々から爪弾つまはじきされた。若い者の寄合よりあいにも重蔵一人は殆ど除外のけものとなってしまった。したがって彼の性質もいよいひがんで来て、仕事を怠ける、喧嘩をする、酒を飲む、それからそれへと堕落して、はては第二の親とも云うべき角川一家の人々からも見放されるようになった。

 が、其間そのあいだに於て独り重蔵に同情した女があった。即ちのお杉である。お杉は駅尽頭しゅくはずれの蕎麦屋の娘で、飛騨小町と謳われる程の美人であったが、ういう訳か不思議に縁遠いので、三十に近いまで独身ですごした。


(十)


 お杉が評判の美人であるにもかかわらず、さかりを過ぎるまで縁遠いについても、山里には有勝ありがち種々しゅじゅの想像説が伝えられた。其中そのなかでも、彼女かれは蛇の申子もうしごで、背中に三つのうろこが有るということが、一般の人々に最も多く信ぜられていた。

 お杉は重蔵に比べると、殆ど十歳とうばかりの姉であったが、何時いつこの二人がなれ馴染なじんで、一旦は山の奥へ身を隠した。お杉の家でも驚いて、そこの森や彼処かしこ谷合たにあいあさり尽した末に、一里ばかりの山奥にある虎ヶ窟とらがいわやという岩穴に、二人の隠れ潜んでいるのを発見して、男は主人方に引渡ひきわたされ、女は実家へ連れて戻られたが、あくる夜に二人は又もや飛び出した。今度は他国へ遠くはしったらしい。遂にその行方を探り得なかった。

 それから十年ほど経つうちに、お杉の家は死絶しにたえてしまった。二人の名も大方忘れられてしまった。しかるに某日あるひのこと、樵夫きこりが山稼ぎに出かけると、の虎ヶ窟の中から白い煙の細くあがるのを見た。不思議に思って近寄って窺うと、岩穴の奥には怪しい女が棲んでいた。十年ぜんに比べると、顔容かおかたちいちじるしくやつれ果てたが、紛う方なきのお杉で、加之しかも一人の赤児を抱いていた。驚いてその仔細をただしたが、彼女かれは何にも答えなかった。赤児は恐らく重蔵のたねであろうと思われるが、男の生死しょうしは一切不明であった。

 それから二十余年の間、彼女かれいわやを宿として、余念もなく赤児を育てていた。赤児も今は立派な大人になって、その名を重太郎じゅうたろうと呼ぶそうである。で、母子おやこは何にって衣食しているか判らぬが、折々にふもとしゅくに現われて物を乞うのを見れば、ず一種の乞食であろう。勿論もちろん、これまでにも警官から度々立退たちのきを命ぜられたが、今日われても明日は又戻って来るという風で、殆ど手の着けようがない。駐在所でも終末しまいには持余もてあまして、彼等が悪事を働かないかぎりは、そのままに捨てて置くらしい。

 虎ヶ窟はその昔、若き恋に酔えるお杉と重蔵との隠れ家であった。彼女かれは今や白髪しらがうばとなっても、思い出多きこの窟を離れ得ぬのであろう。

 で、単にこれだけの事ならば仔細も無いが、このお杉婆すぎばばあついて又もや一種の怪しい風説がおこった。と云うのは、この母子おやこが折々に里へ出て物を乞う時、快くこれに与うれば可矣よしすげなく拒んで追い払うと、彼等は黙って笑って温順おとなし立去たちさるが、その家はその夜必ず山𤢖やまわろに襲われて、とりひえかを奪われる。あるいは偶然かも知れぬが、其間そのあいだに何かの関係が有るらしくも思われるので、人々は自ずとのお杉を忌みかつ恐るるようになった。で、お杉は山𤢖を手先につかうとも伝えられた。お杉は山𤢖の女房であるとも伝えられた。もとよりたしかな証拠がある訳でもないが、こんなような意味からして、おいたるお杉は一種の魔女の如くにも見られていた。

 或時には又こんな事もあった。お杉がかどに立って米を乞うた時に、或人が一合いちごうばかりの米を与えて、冗談半分にう云った。「お前も知っている通り、飛騨の国は米が少いのだから、これを十倍にして返してれるか。」お杉は黙って首肯うなずいて去った。すると、その晩のうちに一しょうほどの白米が、その家の前にき散らされてあった。

 又、或家に夜も昼も泣く赤児があって、お杉がかどに立った時にも、その児は火の付くように泣いていた。彼女かれは黙ってその額を撫でると、赤児はその以来ちっとも泣かなくなった。

 善か、悪か、きょうか、にもかくにも彼女かれは普通の人間でない、一種不思議の魔力をっている女のようにも見えた。

 お杉について安行の知っているのは、この位の程度であったが、迷信の多い人々の説を聞いたら、まだこの上にも種々しゅじゅ不可思議の実例があるらしい。

 こんな話に時の移るのを忘れているうちに、庭にさえずる小禽ことりの声も止んで、冬の日影はほど薄くなった。

「もうおいとまようか。」

 安行と市郎は暇乞いとまごいして、吉岡の家を出た。


(十一)


 飛騨といふことばひだを意味して、一国のうちに山多く、さながらきぬに襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人がこの国の名をく呼んだのである。したがって飛騨と云えばただちに山を聯想れんそうするまでに、一国到る処に山を見ざるは無い。この物語の中心となっている町も村も、殆ど三方はつるぎの如き山々にかこまれていた。

 お杉が棲んでいる虎ヶ窟というのは、角川家のある町と吉岡家の居村きょそんとをさかいする低い丘から、約一里の山奥にあった。一里といえば人里からのみ遠からぬ処であるにもかかわらず、ここは殆ど通路の無いほどに岩石けわしくそそり立っているのと、昔から此辺このあたり魔所ましょと唱えられているのとで、猟夫かりゅうど樵夫きこりも滅多に通わなかった。こけす窟は無論天然のものであったが、幾分か人工を加えてその入口を切拓きりひらいたらしくも見える。奥は真暗でその深さは判らぬ。背後うしろは屏風のような絶壁で、右の方にはおおいなる谷がめぐっていた。

 窟の入口には薄黒い獣の生皮なまかわを敷いて、エッキスという字のように組まれた枯木と生木なまきとが、紅い炎焔ほのおや白いけむりを噴いていた。その火にむかって孑然つくねん胡坐あぐらを掻いているのは、二十歳はたちばかりの極めて小作りの男であった。

 何処どこやらで滝の音が聞えて、石燕いわつばめが窟の前を掠めて飛んだ。男は燃未了もえさしたきぎって、鳥を目がけてはたと打つと、実に眼にもとまらぬ早業で、一羽の石燕は打つにしたがって其手下そのてもとに落ちた。男は拾うより早くも其羽そのはねむしり取って、燃えあがる火に肉をあぶった。

 やがて落葉を踏む音して、お杉ばばあ諷然ひょうぜんと帰って来た。男は黙って鳥をかじっていた。二人共に暫時しばしは何のことばをも交さなかったが、お杉の方からしずかに口を切った。

「重太郎。何か他にべる物は無いか。」

 男は彼女かれせがれの重太郎であった。其風采そのふうさいは母と同じく異体いていに見えたが、極めて無邪気らしい、小児こどものような可愛い顔であった。髪をおどろに被ったかしらって、

「何にも無いよ。」

 一日や二日の断食は此母子このおやこに珍しくもないらしい。お杉はただ首肯うなずいて其処そこに坐ったが、にわかに思い出したように少しくことばを改めた。

「重太郎。お前に少し話して置きたい事があるのだ。」

阿母おっかさん、何だ。」

わたしう十日のうちに死ぬかも知れない。死んだら必然きっとかたきを取っておれよ。」

いとも……。どんな奴でも、おら必然きっと仇を取ってる。ただは置くものか。」

 重太郎は腕を叩いて潔よく答えたので、お杉もこころよげに微笑ほほえんだ。

「そこで、お前に見せて置く物が有る。今まではお前にもかくして置いたが、の窟の奥には大切な宝がしまってある。何か大事が出来しゅったいして、お前がうしてもに居られないような場合になったら、れを持出もちだしてにげるがい。相当な買人かいてを探して売払うりはらえば、お前は乞食をないでも済むのだ。」

 母はって奥へ入ると、重太郎も黙って其後そのあとにつづいた。窟の奥は昼も真暗であったが、お杉のとも一挺いっちょうの蝋燭にっておぼろおぼろに明るくなった。

 行くこと七八けんにして、第一の石門せきもんが有った。これから先はみちが狭く、岩が低くなって、到底とても真直まっすぐに立っては歩けなかった。母子おやこともにかしらかがめて進むと、更に第二の石門が行手をふさいでいた。蝙蝠かわほりのような怪しい鳥が飛んで来て、蝋燭の火をあやうく消そうとしたのを、重太郎は矢庭やにわ引握ひっつかんで足下あしもとの岩に叩き付けた。

 第三の石門には、扉のような大きな扁平ひらたい岩が立て掛けてあって、其下そのしたの裂目から蝦蟆ひきがえるのように身をすくめてもぐり込むのである。二人はかくの石門を這い抜けて、更に暗いつめた石室いしむろに入った。

「さあ、覗いて御覧。」と、お杉は蝋燭を高くささげた。

 石室の隅には広い深い岩穴があって、穴の遠い底には、風か水か知らず、ごうごうかすかに鳴っていた。し一歩を誤れば、この暗い地獄の底に葬られねばならぬ。重太郎も足下あしもとを覗いて流石さすが悚然ぞっとした。


(十二)


 お杉は無言で蝋燭をかざすと、深い岩穴の中腹かとも思われる所に、さながら大蛇おろちの眼の如き金色こんじき爛々の光を放つものが見えた。

「判ったか。」と、お杉が蝋燭を退けると、穴はもとの闇にかえって、金色こんじきの光は夢のように消えた。重太郎は呆れて立っていた。

阿母おっかさん、あれは何だい。」

「何でもい。いざと云う時に持ち出してひとに売れば、お前は金持になれるのだ。」

 穴の中では猿のような声で、キキと叫ぶ者があった。

「騒々しい。しずかにおよ。」と、お杉は鋭い声で叱り付けると、怪しい声はたちまち止んだ。お杉は再び無言で歩み出すと、重太郎も黙って続いて出た。

 二人がもとの入口に出た頃には、山峡やまあいの日は早く暮れて、暗い山霧が海のように拡がって来た。重太郎は再び枯木をくと、霧は音もせずに手下てもとまで襲って来て、燃えあがる火の光はさながしゃに包まれたるようおぼろになった。

 窟の奥から人か猿か判らぬ者が、ちょこちょこと駈け出して来た。四辺あたりが薄暗いので正体は知れぬが、人ならばず十五六歳の少年かとも思われる。髪をさっ振乱ふりみだして、伸上のびあがりつつ長い手をお杉の肩にかけた。小児こどもが親に甘えるように……。

「どこへ行くんだえ。」と、お杉はみかえって、「お前、里へ行くなら頼みたい事が有るんだよ。」と、彼の耳に口を寄せた。

 怪しの者は首肯うなずいて、たちまひらりと飛び出したかと見るうちに、樹根きのね岩角いわかど飛越とびこえ、跳越はねこえて、小さい姿は霧の奥に隠れてしまった。お杉は白い息をいて呵々からからと笑った。

阿母おっかさん、阿母さん。」と、重太郎は思い出したように声をかけた。

「何だえ。」

「お前は十日のうちに死ぬと云ったね。おら先刻さっきも約束した通り、必然きっとその仇を取る。その代りお前にも頼んで置くことが有るんだ。お前が居なくっても、俺が困らないように……。」

「だから、宝の在所ありかを教えて置いたじゃアないか。あれさえ有ればちっとも困ることは無いよ。」

「そればかりじゃア無い。」と、重太郎は少しく云い淀んで、「あの、俺に嫁を貰ってれないか。」

「嫁……。」と、お杉は寂しく笑った。

「むむ。実は俺ア嫁に貰いたい女があるんだ。阿母おっかさん、知ってるかい。」

 母は黙っていた。重太郎も流石さすが面目きまりが悪いか、燃未了もえさしたきぎほじりながら、

「あの、何を……。柳屋にいるお葉という女……。い女だね。俺ア大好だいすきだよ。」

 人か獣か判らぬような生活をしている青年わかものにも恋は有った。彼は何日いつか柳屋のお葉を見染めたものと思われる。お杉はあわれむように我子の顔を見た。

 一口に酌婦しゃくふとは云うものの、お葉は柳屋の一枚看板で、東京生れの気前はし、容貌きりょうも好し、山の中には珍しい粋なねえさんとして、ここらの相場を狂わしている流行児はやりっこである。恋に間隔へだては無いとは云え、此方こっち宿無やどなしの乞食も同様で、山𤢖やまわろの兄弟分とも云うべき身の上では、余りに間隔へだてが有り過ぎて、到底とてもお話にも相談にもなる訳のもので無い。

 けれども、それは普通の人の考える単純の理屈である。小児こどもの時から人も通わぬの窟を天地として、人間らしい(?)のは阿母おふくろ一人で、昔物語に聞く山姥やまうばと金太郎とをのままに、山𤢖や猿や鹿や蝙蝠かわほりを友としつつ、ここに二十余年を送りきたった重太郎自身に取っては、人間の身分や階級などは、何のあたいも無いものであった。彼はただ自己おのれじょうの動くがままに働くのである。彼がお葉を嫁に貰いたいと云い出したのも、決して不思議でも無理でもない。

「お前がそんなにの女がほしければ、わたしがお嫁に貰って上げるよ。」

 お杉は極めて無雑作むぞうさ受合うけあった。


(十三)


 角川安行の父子おやこが吉岡家を辞して、帰途に就いたのは午後四時をすぐる頃であった。ここらの冬の日は驚くばかりに早く暮れて、村境むらざかいを出る頃には足下あしもとようやく暗くなった。

「吉岡のおばさんは、何だか私が柳屋の女に関係でもあるように思っているらしいので、実に困りましたよ。」と、市郎は歩きながら語り出した。

「それだから気をけなければ不可いけない。世間では針ほどの事を棒のように吹聴するのだから……。しか真実ほんとうにお前はのお葉とか云う女に関係はあるまいな。」

「大丈夫です。決して無いです。」

 風は無いが、夜の気は漸々だんだんに寒くなって来た。あなたの丘で狐の啼く声が聞えた。

明後日あさっては市の立つ日だな。」と、安行は独語ひとりごとのように、「うか天気にたいものだ。」

「そうです。月に一度の市ですから……。」

 この時まで主人のあと温和おとなしいて来たのトムは、にわかに何を認めたか知らず、一声いっせい高く唸って飛鳥ひちょうの如くに駈け出した。

「トム、トム……。」と、市郎は呼び返したが聞えぬらしい、犬は直驀地まっしぐらにあなたの森へ向った。市郎も心許なさに其後そのあとを追って行くと、あるもみの大樹の蔭でトムが凄じく吠えていた。加之しかうずたかき枯葉を蹴って、何者かと挑み闘うように聞えた。

 何か知らぬが、猶予はならぬ。市郎は洋杖すてっき把直とりなおして、物音のするかたへ飛び込んで見ると、もう遅かった。わずか一足ひとあし違いで、トムは既に樹根きのねに倒れていた。敵は髪を長く垂れた十五六の少年で、手にはきらめく洋刃ないふのようなものを振翳ふりかざしていた。薄闇で其形そのかたちくも見えぬが、人に似て人らしく無い。

もし山𤢖やまわろか。」と、市郎は咄嗟とっさに思い付いた。で、その正体を見定める為に、たもとから燐寸まっち把出とりだして、慌てて二三本った。この時、敵は血にみたる洋刃をふるって、更に市郎を目がけて飛びかかって来たが、眼前めさきあだかも燐寸の火がぱっと燃ゆるや、彼は電気に打たれたように、にわかに刃物をからりと落して、両手で顔をおおったまま、霎時しばらくそこに立縮たちすくんでしまった。

 この刹那に、市郎の眼に映った敵の姿は、すこぶ異形いぎょうのものであった。勿論もちろん、顔は判らぬが、はだ赭土色あかつちいろで手足はやや長く、爪も長くとがっていた。身丈みのたけは低いが、小児こどもかと見れば大人のようでもあり、猿かと思えば人のようでもある。この寒空に全身殆ど裸で、わずかに腰のあたりに獣の皮をまとうているのみであった。

 が、う見えたのも一瞬時で、燐寸まっちの火はたちまち消えた。火が消えると同時に、彼は再び強くなった。地に落ちたる洋刃ないふを手早く拾い取って、更に市郎にむかって突いて来た。彼は闇中くらがりでも多少は物が見えるらしい。

 市郎はすかさず第二の燐寸をると、彼は再び眼をおおった。彼は野獣にひとしく、非常に火を恐るるらしい。市郎は勝つに乗って、続けさまに燐寸を擦ると、敵は此方こっちを向く勇気がせたらしく、かしらめぐらして一散に逃げ出した。市郎は何処いずこまでもと其後そのあとを追ったが、敵は非常に逃足がはやい。森を出抜ける頃には、既に十五六けん懸隔かけへだたってしまった。

「畜生……到底とても駄目だ。」と、市郎は呟きながら引返ひっかえして来ると、安行も丁度ちょうど駈付かけつけた。トムは咽喉のどを深く抉られて、既に息が絶えていた。

「可哀想な事をましたな。今の奴はうも山𤢖らしかったですよ。」

「そうか。」と、安行は低声こごえで云った。

 かく、愛犬を路傍みちばたに捨てては置かれぬので、市郎は血にみたるトムの死骸を抱えてった。

「市郎、衣類きものが汚れるぞ。」

「けれども、ここへ残して置くのは何だか不安心ですから……。」

 自分達が去った後へ、再び山𤢖が現われて、トムの屍骸を盗み去らぬとも限らぬ。愛犬の骨を敵に渡すのは、何だか口惜くやしようにも思われるので、市郎は到頭とうとうトムを抱えて帰った。


(十四)


 そのあくる日も申分のない天気であった。霜は日増ひましに深くなって来るが、朝の日影はうららかであった。

 鉱山のお客だとか云う三人づれが、昨夜ゆうべから柳屋の奥に飲みあかしていて、今朝けさ早天そうてんから近所構わずに騒いでいたが、もう大抵騒ぎ草臥くたびれたと見えて、午頃ひるごろには生酔なまよい漸々だんだんに倒れてしまった。酌婦の笑い声も聞えなくなった。内も外も蕭寂ひっそりとなった。


心さびしや飛騨みち

     川の鳴瀬なるせと鹿の声


 低声こごえでこんな唄をうたいながら、お葉は微酔ほろよい機嫌でかどに出た。お葉は東京深川生れの、色のやや蒼白い、細面ほそおもての、眉の長い女であった。彼女かれは自ら謳うが如く「心さびしい」のであろう、少しく眉をひそめつつ晴れたる空を仰いでいた。

「お葉さん、お葉さん。」

 奥から続いて出て来たのは、おせいという酌婦、色白の丸顔で、お葉よりも二三歳ふたつみつ若く見えた。これも幾らか酔っているらしい、苦しそうに顔をしかめて、

「お前さん、何を見ているの。」

「何、昨夜ゆうべから飲み続けて、あんまり頭が重いから、表へちっと出て見たのさ。」と、お葉はものうげに答えた。

「ほんとうに鉱山の人はいやね。お酒を飲むと、無闇に悪巫山戯わるふざけをして……。それでも鉱山が出来たおかげで、ここらも漸々だんだんにぎやかになったんだと云うから、仕方がないけれど……。」

芋掘いもほりいやだが、鉱掘かねほりも忌だねえ。どうせ楽はきないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。すきなお酒でも飲んでまぎらしているのさ。」

「お前さん此頃このごろは何だかふさいでばかり居るね。平生ふだんから陽気な人でも、矢張やっぱり苦労があると見えるんだね。」

「呼んでおれよ。」と、お葉は突然いきなりにお清の腕を掴んだ。

「誰を……。」と、対手あいては笑った。

「察しておれな。角川の若旦那を……。お前も知ってるじゃアないか。」

「何故、あれり来ないんだろう。」

究竟つまり妾達あたしたちらないからさ。けれども、あたし必然きっと呼んで見せる。昨日も丁度ちょうどここで逢ったから、腕を掴んで引摺ひきずり上げてろうと思ったんだけれど、生憎あいにく阿父おとっさんが一所いっしょだったから、まあ堪忍して置いてったのさ。嫌うなら嫌うがい、妾ア必然きっと祟ってるから……。」

「だッて、そりゃア無理だ。」と、お清は益々笑い出した。

「無理なもんかね。昔から云う安珍あんちん清姫きよひめさ。嫌えば嫌うほど執念深く祟ってるのが当然あたりまえだアね。先方むこうが何とも思わなくっても、此方こっちが惚れていりゃア仕方がないじゃアないか。お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」

 お清は対手あいてにならずに、相変らず笑っていた。お葉は口惜くやしそうに、

「今に見ておいて。必然きっとあの人を呼んで、お前さん達に見せ付けてるから……。嫌われたからと云って、すごすご指をくわえて引込ひっこむようなお葉さんじゃアないんだから……。確乎しっかり頼むよ。」

 お清の腕を掴んで又小突こづいた。

「痛いよ。だッて、お前さん。角川の若旦那には判然ちゃんとお嫁さんがきまってると云うじゃアないか。」

「決っていてもいよ。そんな悪魔はあたしが追ッぱらってしまうから……。」

「お前さんの方がぽど悪魔だ。𤢖わろの御親類かも知れないよ。」と、お清は笑いながら不図ふと思い出したように、「𤢖と云えば、角川の若旦那は昨夜ゆうべ𤢖に逢ったってね。」

「若旦那が𤢖に……。まあ、そうしてうしたの。」と、お葉はにわかに真面目になった。

「でも、若旦那の方が強かったので、𤢖は逃げてしまったとさ。」

「ほんとうかい。担ぐとかないよ。」

「何でも犬は殺されたとさ。」

「あ、あの犬が……。可哀想にねえ。お前、ほんとうかい。」

「この人は疑り深いね。ここらじゃア今朝からおお評判だわ。それを知らないようじゃア、お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」

他真似ひとまねをおでないよ。馬鹿……。」

「馬鹿……。」

 お清は笑いながら奥へ入ってしまった。人通りのすくない往来には、小禽ことりあさっていた。


(十五)


 お葉はのままふらふらと歩き出した。𤢖わろの噂が何となくかかったのであろう、彼女かれよそながら恋人の様子を探ろうとして、行くとも無しに角川家の門前まで来てしまった。もんの前にはの七兵衛老爺じじいが、銀杏いちょうの黄なる落葉をいていた。横手の材木置場には、焚火の煙が白く渦巻いて、のこぎりの音にまじる職人の笑い声も聞えた。

 お葉は酔っていた。七兵衛のそばへ進み寄って、馴々なれなれしく声をかけた。

「あの、若旦那は昨夜ゆうべ𤢖にお逢いなすったッて、真実ほんとうですか。」

「はあ、ひどい目に逢いましたよ。」

怪我けがでもすって……。」

「何、若旦那はうもねえが、大事の洋犬かめられたので、力を落していなさるようだよ。」

 お葉は首肯うなずいて奥を覗いた。七兵衛は無頓着に落葉を掃いていた。

 この時あたかも市郎の姿が見えた。市郎は庭の空地にトムの亡骸なきがらを葬りおわって、くわを片手に奥の方へ行くらしい。お葉はその姿を見ると共に、有合ありあう小石を拾って投げ付けると、つぶては飛んで市郎のたもとに触れた。振返ふりかえると門前にはお葉が立っている、加之しかえみを含んで小手招こてまねぎをしている。市郎も図迂図迂ずうずうしいのに少しくあきれた。

 前にも云う如く、市郎が冬子の兄忠一と連立つれだって、の柳屋に遊んだのは、今から三四ヶ月前のことで、それもただ一度、別に深い馴染なじみというでもないのに、其後そのごはお葉がかく附纏つきまとって、往来で逢えば馴々なれなれしくことばをかける。あわくば自分のうちへ誘い込もうとする。したがって根も葉もない噂も立ち、吉岡の母にも有らぬ疑惑うたがいを受けるようになった。実に馬鹿馬鹿しい。身の潔白を立てる為には、今後何処どこ行逢ゆきあおうとも決して彼女かれとは口を利くまいと、ひそかに決心している矢先へ、あたかのお葉が現われた。加之しか先方むこうから真白昼まっぴるま押掛おしかけて来て、平気でおでおでをめるとは、図迂図迂ずうずうしい奴、忌々いまいましい奴と、市郎はあきれを通り越して、やや勃然むっとした。

 見ればお葉は嫣然にこにこして、相変らず小手招ぎをしている。市郎は黙って霎時しばらく睨んでいた。

「何故そんな怖い顔をして被在いらっしゃるの。あたし、𤢖じゃなくってよ。妾のばちで、貴下あなたは𤢖に酷い目に逢ったと云うじゃアありませんか。」

 お葉は首をるようにして、はははははと高く笑った。彼女かれは酒の強い方であったが、昨夜以来飲み明かした地酒のよい漸次しだいに発したと見えて、今は微酔ほろよいどころでない。

老爺じいや。その女を追っぱらってしまえ。」と、市郎は声をあらくして云った。

「おめえは酔っているようだ。早く帰らッせえよ。」と、七兵衛はほうきめてみかえった。

「大きにお世話よ。後生だから若旦那をここまで呼んで来て頂戴。」

「そんなこと云わねえで、帰らッせえと云うのに……。」

「どうしても呼んでれないの。」

不可いけねえと云ったら……。」

 この押問答のうちに、市郎は奥へつかつかと入ってしまった。

「若旦那……市郎さん……。」

 お葉も続いて内へ入ろうとするので、七兵衛は驚いた。

「どこへ行くのだ。」

「若旦那に逢わして下さいよ。」

「馬鹿云うものでねえ。」

 一酷老爺いっこくおやじの七兵衛は、箒で手暴てあらく突き退けると、酔っているお葉は一堪ひとたまりもなく転んだ。だらしなく結んだ帯はけかかって、掃き寄せた落葉の上に黒く長く引いた。

「随分酷いのね。」と、お葉は落葉を掴んで起上おきあがったが、やがて畜生ちきしょうと叫んで、その葉を七兵衛の横面よこつらに叩き付けた。眼潰めつぶしを食って老爺じじいも慌てた。

阿魔あま、何をするだ。」

 腹立紛はらたちまぎれに箒を取直とりなおして、お葉の弱腰をはたぐと、女は堪らず又倒れた。

「あら、老爺じいやさん。どうしたの。」

 優しい声に驚いてみかえった七兵衛、にわかに色をやわらげて、

「や、吉岡の嬢様……。被入いらっせえまし。」


(十六)


 市郎が途中で𤢖わろおそわれたという噂は、早くも隣村まで伝えられたので、吉岡の家でも甚だ心配して、冬子が取敢とりあえず見舞に来たのであった。来て見るとの始末で、仔細わけは知らぬが七兵衛老爺じじいの箒のもとに、一人の女が殴り倒されているので、めずにはられぬ。

老爺じいやさん、まあんな乱暴なことをないで……。一体、どうしたの。」

「何、この淫売婦じごくおんなうちの若旦那を呼び出しに来たから、追っぱらってしまう所で……。」

「若旦那を呼び出しに……。もしや柳屋の……。」と、冬子は眼を輝かしてお葉をじった。お葉は落葉の上に倒れていた。

「そうでがすよ。」と、七兵衛は首肯うなずいて、「お前様めえさまよく知っていなさるね。這奴こいつ、若旦那を釣出つりだそうと思ったって、うは行かねえ。」

 七兵衛は憎さげにみかえった。冬子もねたげに顧った。この四つの眼に睨まれたお葉は、相変らず落葉を枕にして、死んだ者のようによこたわっていた。

「酔っているようね。」と、冬子は少しく眉をひそめた。

這奴等こいつらア毎日毎晩、酒ばかりくらっているのが商売しょうべえだからね。お前様めえさまも用心しなせえ。こんな阿魔あまが蛇のように若旦那を狙っているんだから……。」

「何しろ、うかなくっちゃア不可いけまい。かくおこしてって……。」

「さあ、さあ、寝たふりなんぞねえで、起きろ、起きろ、横着な阿魔あまだ。」

 口小言くちこごとを云いながら、七兵衛は進んでお葉を抱えおこそうとすると、彼女かれその手を跳ね退けてった。例えば疾風しっぷう落葉らくようを巻くが如き勢いで、さッと飛んで来て冬子に獅噛付しがみついた。あれと云う間に、孱弱かよわい冬子は落葉の上に捻倒ねじたおされると、お葉はかかって庇髪ひさしがみを掴んだ。七兵衛はきもを潰して、すぐ背後うしろから抱きすくめたが、お葉は一旦掴んだ髪を放さなかった。

阿魔あま、放せ。嬢様をうするだよ。」

 七兵衛は息を切って制したが、お葉はただ冷笑あざわらうのみで何とも答えなかった。余りの意外に驚いたのであろう、冬子は声をも立てなかった。

「これ、馬鹿るでねえ。放さねえか。」と、七兵衛は無理にその手を引放ひきはなそうとしたが、お葉の握った拳はちっともゆるまなかった。彼女かれは冬子の前髪を掴んだままで、じっ対手あいての顔を睨んでいた。

 寂しいと云っても往来である。この騒ぎを見てたちまち五六人駈け付けた。材木置場からも職人が駈出かけだして来た。大勢寄ってかくも二人を引きおこしたが、うもならぬのはお葉の手であった。彼女かれの石の如き拳は、如何いつまでも冬子の黒髪を握り詰めて放さなかった。

 大勢は声を揃えて「放せ」と叫んだが、お葉の口は決して答えなかった。大勢が力をあわせて、無理に引放ひきはなそうとしたが、お葉の拳は決して開かなかった。彼女かれは黙って冬子の髪を掴んでいるのである。

 っても叩いても仕方がない。此上このうえは、お葉の白い手を切るか、冬子の黒い髪を切るか、二つに一つをえらぶのほかは無かった。

「強情な阿魔だなあ。」

 いずれもあきれて顔を見合せている処へ、この騒ぎを聞いて市郎も奥から出て来た。人々から委細の話を聴いて、彼も驚かずには居られなかった。お葉のそばへ進み寄って、

「お前、何故そんなことをするんだ。」

 お葉は初めて口を開いた。

此女これはあなたのお嫁さんでしょう。」

 市郎は返事に困った。

あたし、死んでも放しませんよ。」

 実際、死んでも放すまいと思われた。掴まれた冬子はと見れば、不意の驚愕おどろき恐怖おそれとに失神したのであろう、真蒼まっさおな顔に眼をじて、殆ど息もない。よい漸次しだいに醒めたと見えて、お葉の顔も蒼くなって来た。

 見物人は追々にえて来た。柳屋のお清も駈けて来たが、ただわやわや云うばかりで手の着様つけようがない。其雑踏そのひとごみを掻き分けて、ぬっと顔を出したのはのお杉ばばあであった。彼女かれは例の如くきいろい歯を露出むきだして笑っていた。


(十七)


 前にも云う如く、お葉が角川家の前に来たのは、別に深い意味があるのでは無かった。𤢖の一件がにかかるのと、二つには何と無しに此地こっちの方へ足が向いたと云うに過ぎないのである。けれども、彼女かれは酔っていた。よいに乗じて種々いろいろ捫着もんちゃく惹起ひきおこしているうちに、折悪おりあしくも其処そこへ冬子が来合わせたので、更にこんな面倒な事件を演出しいだす事となってしまった。

 恋のかたきと睨まれた冬子の災難は云うまでもないが、市郎もこれにはすこぶる弱った。この場合に理屈を云っても仕方がない、おどしても仕方がない、こんな狂気染きちがいじみた女はなだめて還すより他はあるまいと思った。

「お葉さん。何しろ、この通り人立ひとだちがしては、お前も外聞が悪かろうし、私のうちでも迷惑するから、まあ堪忍してれ。此方こっちに不都合があるなら、んなにも謝るから……。」

 お葉は冷笑あざわらって答えなかった。

「ね、後生だから堪忍してってれ。必然きっとお前のの済むようにするから……。」

 迂濶うっかり口を滑らせると、黙っていたお葉はきっみかえった。

あたしの済むようにするんですね。」

 いやとも云われぬ、市郎は首肯うなずいた。

「じゃア、二度との女をここのうちれないようにして下さい。の女がここのかどくぐった所を見ると、妾は何日いつでも押掛おしかけて来て、頭の毛を一本一本引ッこ抜いてるから、う思っておいでなさい。」

 無理は最初はじめから知れているが、一時いっとき逃れに市郎は承知した。

よしよし。それだからう堪忍してってれ。頼むから……。」

必然きっとですね。」

「むむ、必然きっとだ。間違まちがいはない。」

 市郎は心にもないちかいを立てた。これでようやが済んだのであろう、お葉は勝利のえみもらして、掴んだ手を初めてゆるめようとする時、お杉ばばあと寄って来て、例の凄愴ものすごい顔をぬッと突き出した。

「いや、不可いけない、不可いけない。それは嘘だ。」

「え。嘘だ……。」

 市郎も驚いてみかえると、怪しのばばあは傍若無人に呵々からからと笑った。

この娘を二度とここのうちへ入れないと云うのは嘘だ。お前の顔に判然ちゃんと書いてある。ははははは。」

やかましい、引込ひっこんでいろ。」と、市郎は疳癪かんしゃくおこして呶鳴どなり付けた。

「ははははは。怒っても駄目だ。お前の嘘はわたしが知っている。お前もの娘も相互おたがいに惚れ合っている。どうして二度と逢わずに居られるものか。ははははは。」

 忌々いまいましいとは思うけれど、ばばあの云うことはたしか真実ほんとうである。市郎も少しくひるんだが、ここで弱味を見せては落着おさまりが付かない。

「ええ、貴様の知ったことじゃアない。余計な口を出すな。彼方あっちへ行け。」

「はは、妾はお前に云っているのじゃアない。このお葉さんに教えてっているのだ。お前さん、をおけよ。幾らうしたって、この男と娘とは離れるんじゃアないからね。」

 お葉の火の手が折角しずまりかかった処へ、又もやんな狂気婆きちがいばばあ飛込とびこんで来て、横合よこあいから余計なわらべる。重ね重ねの面倒に小悶こじれの来た市郎は、再び大きい声で呶鳴どなり付けた。

やかましい、うるさい。もう彼方あっちへ行け。」

「ははははは。」

 お杉はあざけるように高く笑った。如何いかにもひとを馬鹿にした態度である。もううなっては我慢も堪忍もできぬ。市郎の疳癪かんしゃくは一時に爆発した。

彼方あっちへ行けと云うのに……判らないか。おい、這奴こいつ彼方あっち引摺ひきずって行け。」

 左右をみかえって又呶鳴どなったが、すぐには声に応ずる者もなかった。これが余人ならば知らず、一種の魔力をっているかのように思われているお杉ばばあむかって、迂濶うかつに手をくだすのは何だか不気味ぶきびでもあるので、いずれも眼と眼を見合わして、真先に進んで出る勇者を待っていた。

 この臆病者等がひるんで動揺どよめく醜態ざまをじろじろ見廻して、

「ははははは。」

 お杉は又もや凱歌かちどき笑声わらいごえを揚げた。


(十八)


 この時、群集ぐんじゅ押分おしわけて、捫着もんちゃくの中へ割って入ったのは、駐在所の塚田つかだ巡査。年のわかい、色の黒い、口鬚くちひげの薄い、小作りの男であった。

 彼は職掌柄、平生へいぜいからお杉ばばあついては注意のまなこを配っている処へ、あたかもこの騒動さわぎを見付けたのであるから、容赦は無い。

「こら、お前はここへ来て何をしてる。ここのうちの迷惑になるから、早く立去たちされ。」

 お杉は依然やはり笑って答えず、腰にぶら下げた皮袋から山毛欅ぶなの実を把出とりだして、生のままで悠々とかじり初めた。

「実に困るんです。どうか追攘おいはらって頂きたいもので……。」と、市郎も口を出した。

「よろしい。」と、巡査は首肯うなずいて、「さあ、早く行け。ひとの迷惑になるのが判らんか。ういう所に何時いつまでもぐずぐずしていると、道路妨害で引致いんちするぞ。」

 対手あいては相変らず平気で笑っているので、巡査も少しれ出した。

「こら、行けと云うのに……。何故ぐずぐずしてるのか。判らん奴だ。」

 お杉の痩腕やせうでを掴んで一つ小突いたが、彼女かれちっとも動かなかった。見掛みかけは枯木のようでも容易に倒れない、さながら大地に根が生えたように突ッ立っていた。巡査はいよいよれて、力一ぱいに強くくと、彼女かれ流石さすが二足ふたあしばかり踉蹌よろめいた。

「さあ、行け、行け。」

 突遣つきやっても又ふらふらと戻って来る。市郎も見兼ねて突き戻した。巡査もまた突き戻した。血気の男二人に、突き戻され、押遣おしやられて、強情なお杉も漸次しだいあと退すさったが、やがて口一杯にふくんだ山毛欅ぶなの実を咬みながら、市郎の顔に向ってふッと噴き付けた。

 市郎はあッと顔を押えながら、腹立紛はらたちまぎれの殆ど無意識に、お杉の胸のあたりを強く突くと、彼女かれは屏風倒しに撲地はたと倒れた。袋の山毛欅は四方に散乱した。

 この騒ぎを聞き付けて、安行も奥から出て来た。

「こりゃア一体どうしたのだ。」

 人々はわやわや云いながらお杉の周囲まわりに群れあつまると、ばばあは歯を食縛くいしばって正体もない。巡査は小膝を突いて抱え上げた。

偽死そらじにでもないらしい。急所でも打ったかな。」

 市郎も立寄たちよってあらためた。彼は医師である。左右の人々に吩附いいつけて、かくもお杉を我家へき入れさせた。

 けれども、お葉の方はまだらちが明かぬ。彼女かれは依然として生贄いけにえの冬子を掴んでいるのであった。市郎は気が気でない。忙しい中にも駈け寄って、

「この通りの始末だから、くわしいことは後で話す。かくも今日の処はうか堪忍してれ。」

 拝むようにして只管ひたすら頼むと、お葉は誇りがに首肯うなずいた。

ござんす。じゃア、先刻さっきの約束は忘れませんね。」

「忘れない、必然きっと忘れない。」

 お葉は初めて手をゆるめた。荒鷲の爪から逃れ出たぬくどりのように、冬子は初めてほッと息をいたが、髪を振乱ふりみだした彼女かれの顔には殆ど血色ちのいろを見なかった。

 それも関心きがかりではあるが、なお一方には気を失っているお杉が有る。市郎は倉皇あたふたとして内へ駈込かけこんだ。塚田巡査も続いて入った。

 お杉は南向みなみむきの縁側によこたえられた。市郎の人工呼吸其他そのたの応急手当が効を奏して、彼女かれは間もなく息を吹き返した。

「どうだ、う気がいたか。」と、巡査が問うた。

「何、死ぬものか。」

 独語ひとりごとのように云って、お杉は矗然すっくあがったかと見るうちに、左右の人々を一々め廻しながら、彼女かれふらふらと歩き出した。加之しかも今の騒動さわぎは忘れたように、諷然ひょうぜんと表へ出て行った。居合わす四五人は其後そのあとけて行くと、お杉はみかえりもせずに、町の真中を悠々と歩いていた。

 町の尽頭はずれまで来た時に、お杉は初めて立止たちどまった。尾行して来た人々もう散ってしまった。お杉は柳屋のかどに寄って、皴枯しわがれた声で、

「お葉さん、るかい。」


(十九)


 思うがままに恋のかたきの冬子を呵責さいなんだお葉は、お清にたすけられて柳屋へ帰った。

「お前さん、随分酷いことをたねえ。」

「ああ、これて清々せいせいした。」と、お葉は酔醒よいざめの水を飲んだ。お清はあきれてその顔を眺めている処へ、のお杉ばばあの声が聞えたのである。

「お葉さん……お葉さん。」

 わが名を呼ばれて、お葉はふらふらった。お清は慌てて其袂そのたもといた。

「おしよ、お前さん、もう外へ出るのは……。あんな奴にお構いでないよ。」

「お葉さん。」と、外では又呼んだ。

「あいよ。」

 お葉はお清を突き退けて、かどへ出た。門にはお杉が笑いながら立っていた。

「お前さん、少し話があるから一所いっしょに来ておれでないか。」

「あい、行きますよ。」

 お葉はゆるんだ帯を結び直して、店口みせぐち有合ありあう下駄を突ッ掛けると、お清はいよいよあやぶんで又抑留ひきとめた。

「お前さん、どこへ行くんだよ。」

いよ、うるさい人だねえ。」

「早くおでよ。」と、外では又呼んだ。

「あい、あい。」

 お杉は痩せた手をあげて差招さしまねくと、お葉はさながら死神のむかいを受けた人のように、ただふらふら門口かどぐちへ迷い出た。お清もつづいて追って出ると、ばばあしずかみかえって、

「お前に用は無いよ。」

 鋭い眼でじろりと睨まれて、気の弱いお清は思わず立縮たちすくんだ。其間そのまにお杉は出て行く。お葉も後からいて行った。正午に近い冬の日は明るく晴れて、蒼い空には黒い鳥の一群ひとむれが飛んで渡った。

 お葉は酒のよいだ醒めぬのかも知れぬ、あるいは何かの夢か幻をているのかも知れぬ。にかくお杉ばばあの魔力に引かれたように、殆ど無意識でふらふらと歩いていた。彼女かれは一種の催眠術にかかった人のようであった。

 町を行きつくして村境むらざかいに出た。昨夜トムと𤢖とが闘ったもみの林を過ぎると、みちは爪先上りにけわしくなって来た。落葉松からまつ山毛欅ぶな扁柏ひのきの大樹が日をさえぎって、山路やまみち漸次しだいに薄暗くなって来た。何処どこやらで猿の声が聞えた。

 天正十三年、所謂いわゆる「飛騨の三方崩さんぽうくずれ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変して、ふもと近いみちにまでつるぎなす岩石が突出とっしゅつした。其中そのなかには怒れる人の顔のような真蒼な岩もあった。百千人の生血をそそぎ掛けたような真赤な岩もあった。岩と岩との間は飛んで渡るより他はない、二人は蛇のような山蔦やまづたの太いつるすがって、さながら架空線を修繕しゅぜんする工夫こうふのように、宙にぶらさがりながら通り越した。

 お杉は通い馴れたみちであるから不思議はないが、お葉がうして難所なんじょ跳越はねこえ、渡り越えたかは疑問である。おそらく夢のようで自分にも判るまい。

 虎ヶ窟の入口にはの重太郎が佇立たたずんでいた。かたえには猿のような、小児こどものような、一種の怪しい者が蹲踞しゃがんでいた。

「帰って来たよ。」

 お杉が声をかけると、重太郎は無言でみかえった。母のうしろには、帯もすそもしどけなく、はぎ露出あらわに立ったるお葉のえんなる姿が見えたので、重太郎は山猿のような笑い声を出して、猶予なくその前にひらりと飛んで行った。怪しい者も同じく叫んで、後から続いて行こうとすると、たちまちお杉に叱られた。

「お前は彼方あっちへ行っておいでよ。」

 怪しい者は小さくなって、いわやの奥へ逃げ込んでしまった。お葉は茫然ぼんやりと立っていた。重太郎も黙ってその顔やかたち見惚みとれていた。

 山風がどっと吹きおろして、岩と岩との間を掻き廻すと、そこらにつもっていた真赤な落葉は、さながら火粉ひのこを散らすが如くに、はらはらと乱れて飛んだ。


(二十)


 お杉が去り、お葉が去ったのちの角川家は、所謂いわゆる大風おおかぜの吹いたあとであった。塚田巡査も近所の人々も漸次しだいに帰ってしまった。

 冬子も一時は失神のさまであったが、これも市郎の手当によって回復して、南向みなみむきの座敷に俯向うつむいて坐っていた。そばには安行と市郎の二人がおなじく黙って坐っていた。

「冬子さん、うだね。気分は悉皆すっかりいのかね。」と、安行は霎時しばらくして口を切った。

「はあ、有難うございます。おかげさまで、もう悉皆すっかりくなりました。」

 とは云ったが、冬子の顔はだ蒼ざめていた。市郎は心許こころもとなげに、

「ほんとうにいんですか。まだ血色が不良よくないようだが……。何しろ、飛んだ災難でお気の毒でしたねえ。」

 冬子は黙って俯向うつむいていた。

「災難……実に飛んだ災難だったよ。」と、安行も首肯うなずいて、「あんな狂気染きちがいじみた奴が飛び込んで来るというのは、う云う訳だろう。私が早く知ったら、何とか無事に納めたのだが、あの七兵衛めが一酷いっこくなことを云うもんだから、到頭とうとうあんな騒ぎを演出来しでかしてしまって……。そこへ出ッくわした冬子さんは、実に運が悪かったのだ。それでも怪我けがないのが勿怪もっけさいわいで、大事の顔へきずでも付けられようものなら、取返とりかえしが付きゃアしない。何しろ、お葉とか云う奴は呆れた女だ。」

「実際、呆れた奴ですなあ。あれも少し気がれているんじゃアありませんか知ら。すくなくもヒステリー患者ですな。」と、市郎も眉をひそめた。

うして又、ヒステリーにったんでしょう。」と、冬子は不意に顔をげた。お葉に掴みこわされた前髪のひさしくずれたままで、掻上かきあげもせぬ乱れ髪は黒幕のように彼女かれの蒼い顔をとざしていた。其中そのなかから輝くのは葉末はずえの露の如き眼の光であった。

「さあ、うしてと云って……。」と、市郎も考えて、「ああ云う女にはくあるんですよ。その上に酒にも酔っているようでしたから……。」

「酔っているばかりでも有りますまい。わたくしが二度と御当家こちらへ来ればあの人が又暴れて来るそうですね。あの人は何故そんなに妾を恨んでいるんでしょう。妾にはちっとも訳が判りません。」

 口では「判りません」と云うけれども、冬子は大抵推量している。自分達母子おやこかねて疑っている如く、お葉という女は市郎と情交わけがあるに相違ない。もなければ自分に対して、あんな乱暴を働く筈がない。市郎が婚礼延期などを主張するのも、畢竟ひっきょうの女を恐れている為であろう。自分の夫たるべき男をひとられて、加之おまけに自分がんなひどい目に逢うとは、債権者が債務者から執達吏しったつり差向さしむけられたようなもので、余りに馬鹿馬鹿しい理屈である。自分には何のとがが有ってこんな理非りひ顛倒てんどうの侮辱を受けるのであろう。考えれば考えるほど、冬子は口惜くやしくってたまらなかった。

 けれども、彼女かれも若い娘である。流石さすがに胸一杯の嫉妬と怨恨うらみとを明白地あからさまには打出うちだし兼ねて、ず遠廻しに市郎を責めているのである。自分が折角見舞に来た𤢖の問題などは、もううでもいことになってしまった。

「いや、誰にも判りませんよ。の女は云う通りのヒステリー……究竟つまり狂人きちがいも同様なんですから……。」と、市郎は嘆息するように答えた。

「でも、狂人きちがいになるには何か仔細わけがあるでしょう。」と、冬子は目眦まなじりげて追窮ついきゅうした。

あんまり酒でも飲み過ぎたんでしょう。」

「そうでしょうか。」と、冬子は少しく冷笑あざわらって、「あなたはその原因を御存知ないんですか。」

「知りません、一向知りません。」

「知らない筈は無いでしょう。」

 冬子の声がやや鋭く聞えたので、市郎もいささ面食めんくらって思わずその顔をきっると、露の如き彼女かれの眼は今や火のように燃えていた。

「ああ、判った。あなたは僕を疑っているんですね。それは冤罪えんざいです、全く冤罪です。昨日も云う通り、僕はった一度彼家あすこへ行ったりで、あの女と何等の関係も無いんです。先方むこうではう思っているか知らんが、此方こっち清浄しょうじょう潔白です。」

「それならば何故あんな乱暴をたのだろう。可怪おかしいな。」

 父も我子の味方ではなかった。


(二十一)


 お葉の問題について市郎を責めるのは、実際気の毒であった。本人が自白する通り、過ぎし夏に冬子の兄忠一が帰郷したみぎり、若い同士が連れ立ってただ一度の柳屋へ遊びに行ったことが有る。忠一は元気のい男で、酔って随分騒いだ。市郎も温順おとなしくしては居なかった。けれども、二人ながらただ酔って騒いで帰っただけのことで、別に後日ごにちの面倒を惹起ひきおこすような種はかなかったのである。

 右の通りで、此方こっちでは何の種もかなかったが、結局は此方こっちが自ら刈らねば成らぬような羽目に陥ったのは、市郎の不幸であった。此方こっちには何の考慮かんがえもなかったが、恋の種はお葉の胸に播かれた。東京の深川に生れて、十六の年から神奈川、豊橋、岐阜と東海道を股にかけたウエンチ生活の女が、二十三というこの年の夏に初めてまことの恋を知った。

 市郎は其後そのご再び柳屋のかどくぐらなかったが、元来が狭い町で、恋しい人の家屋敷は眼と鼻のあいだにあるのだから、女は男を呼び出す術が無いでもなかった。ましてお葉は男を恐れるような弱い女では無かったが、恋にやわらげられたこの女は日頃の気性に似もらず、自分の男を捉えて来ることは躊躇して、ただ往来で折々逢う毎に、馴々なれなれしくことばをかけるぐらいせめてもの心遣こころやりに、二月ふたつき三月みつきすごうちに、飛騨の涼しい秋は早くも別れを告げて、寒い冬の山風が吹いて来た。柳屋のかどの柳が霜に痩せると共に、恋に悩める女にも漸次しだいやせが見えた。持病のヒステリーも嵩じて来た。はては酔うて狂うて、前の如き椿事を演出しいだしたのである。

 けれども、其対手そのあいての市郎は云うに及ばず、父の安行も周囲まわりの人々も、お葉の恋をばかりに熱烈なるものとは想像し得なかった。昔から世間にくあるならいで、田舎のお大尽だいじんを罠に掛ける酌婦の紋切形であろう位に、極めて単純に解釈していた。まして市郎は、最初はじめからのお葉という女を意中はおろか、眼中にも置いて居なかったのであるが、今日の一件に出逢っていささか意外の感をした。もとより半狂気はんきちがいの酒乱のような女が、何を云うか判ったものでは無いが、彼女かれは自分の未来の妻たるべき冬子に対して、一種の根強い嫉妬心を懐いているのは事実らしく、加之しかも自分に対しても、二度との女をここのうちへ入れるなと誓わしめたのを見ると、其底意そのそこいは善か悪か知らず、にかく自分に対して何等かの執着心をっているらしく思われる。したがって、冬子にも疑われ父にもあやしまれるのも無理はない。

「この疑惑うたがいうして解くか。」

 市郎も考えた。が、の柳屋について事実の有無を証拠立てるより他に仕様もない。

「じゃア、阿父おとっさんと冬子さんと三人で柳屋へ行って、私が其後そのご遊びに行ったことが有るか無いか訊いて見ましょう。」

「馬鹿な。」と、安行は叱るが如くに苦笑いした。「親と一所いっしょに訊きに行ったって、先方むこう真実ほんとうのことを云うと思うか。」

 これは至極道理もっともである。市郎も叱られて閉口してしまった。冬子も声をふるわして、「わたしは死んでもあんなうちへは行きません。」と云った。これも道理もっともである。

「だが、お前は真実ほんとうにお葉という女と関係は無いんだな。」と、霎時しばらくして父は問うた。

「実際です、実際関係は無いんです。」

 市郎はこれより他に、自分の潔白を表明すべきことばを知らなかった。わが子を信ずる安行はわずか首肯うなずいたが、疑惑うたがい嫉妬ねたみとがわだかまれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。

「冬子さん。」と、安行は声をやわらげて、「せがれの通り云うんだから、よもや嘘じゃアありますまい。で、今日のことは阿母おっかさんが心配しないように、く云って置いて下さい。いずれ私からもくわしいお話をますから……。」

 差当さしあたんなことを云って、冬子をなだめるより他は無かった。冬子も何時いつまでおこっても居られないので、解けぬ疑惑うたがいを懐いたままで、やがて我家へ帰る事となった。が、途中が何となく不安である。

よし、私と七兵衛とで送って上げよう。」

 安行と七兵衛は冬子を送って出た。


(二十二)


 虎ヶ窟の前に立ったお葉は、霎時しばらく夢のようであった。えりむ山風に吹き醒まされて、少しく正気にかえって見ると、自分の白い手は人か山𤢖やまわろか判らぬような重太郎に掴まれていた。お葉は驚いて慌てて振放ふりはなした。

「重太郎、お前のお嫁さんを連れて来たよ。」と、お杉は笑いながら云った。重太郎もえみを含んで首肯うなずいた。

 とんでもない話である。誰がこんな奴の嫁になるものかと、お葉はむし可笑おかしくなった。が、これに伴う不安が無いでもなかった。さりとて逃げる訳にも行かぬ。彼女は相変らず黙って立っていた。

「お葉さん。お前はせがれの嫁になってれるだろうね。」と、お杉はしずかに問うた。

 お葉ははり黙っていた。重太郎はたまり兼ねて又飛び付こうとするのを、母は制して、

「まあ、お待ちよ。ねえ、お葉さん。妾達わたしたちも時々に町へ出るから、お前さんともかねてお馴染だが、妾達は二十年以来このかたこのいわやに棲んで、山𤢖と一所いっしょに暮している。けれども、妾の倅の重太郎は𤢖じゃアない。これでも立派な人間だ。の人間の重太郎がお前さんに惚れたのも無理ではあるまい。そこで、是非お前さんを嫁に貰ってれと云うから、今日お前さんを呼んで来たのだ。うぞまあ仲好くしておれよ。」

 云う人は極めて真面目であるが、云われる方は余り馬鹿馬鹿しくて御挨拶ができぬ。お葉はある岩角に腰をおろして、紅い木葉このはいじっていた。

 重太郎は漸々だんだんに熱して来たらしい、又飛蒐とびかかってお葉の手をろうとするのを、母は再びさえぎった。

「そんなことをすると、お葉さんに嫌われるよ。ねえ、お前さん。ここまで一所に来る位だから、いてれるのだろうね。」

あたしはそんなつもりで来たんじゃありません。」

「それじゃア何しに来た。」

「お前さんが呼んだから……。」

「呼ばれて来るからには、承知だろう。」

「いいえ。」と、お葉はかぶりった。

 しかうなると、お葉も我ながら判らなくなって来た。自分は何の為にここまでお杉に附いて来たのであろう。呼ばれたから来た……とばかりでは、余りに他愛が無さ過ぎる。何か他に相当な理屈が無ければならぬ。が、う考えても夢のようで、何の為に悪所絶所を越えてんな処へ入込いりこんだのか、その理屈は一切判らぬ。まだ酒に酔っていたせいか知らと、無理に理屈を附けても見たが、それも何だか覚束ないようにも思われた。

 酒のよいも醒め、ヒステリー的の発作もようやしずまった今の彼女かれは、所謂いわゆる「狐の落ちた人」のように、従来これまでの自分と現在の自分とは、何だか別人のようにも感じられた。

 お杉は又もやしずかに問うた。

「お前さん、重太郎がいやなのかえ。」

 問わずとも判った話だ。お葉ははり黙っていた。

「何故、忌なのだえ。」

 お葉は相変らず俯向うつむいていた。

「はは、判った。お前はの市郎に惚れているのだろう。無効だめだからおしよ。先方むこうじゃアお前を嫌い抜いているのだから……。」

「嫌われていてもござんすよ。」と、お葉はきっと顔を上げた。

「嫌われても思いを通すというのかえ。それは道理もっともだ。が、お前が市郎に嫌われても、自分の思いを通そうと云うのと同じ訳で、重太郎も幾らお前に嫌われていても、必然きっと自分の思いを通すよ。う思っておいで。」

 お杉は嫣然にやにや笑っていた。

 逃げようと思っても逃げられる筈は無い。そばには重太郎が獣のような眼をひからして見張っている。窟の奥には山𤢖らしい怪物ばけものも居る。みちは人間も通わぬ難所なんじょである。こんな処へ導かれて来て、こんな怪物共ばけものども取囲とりかこまれたからは、自分の智恵や力で自分の運命を左右する訳には行かぬ。運を天に任すと云うのは、まことに今のお葉の身の上であった。


(二十三)


 窟の中から怪しい者の影が又現れた。加之しかも二つ、うす暗い奥から此方こっちを覗いていたが、やがて入口の方へちょこちょこ駈出かけだして来た。

𤢖わろが又来たよ、うるさいねえ。」と、お杉は重太郎をみかえって「少し焚火をおよ。」

 重太郎は燐寸まっちっていた。有合ありあう枯枝や落葉を積んで、手早く燐寸の火を摺付すりつけると、溌々ぱちぱち云う音と共に、薄暗うすぐろい煙が渦巻いてあがった。つづいて紅い火焔ほのおひらひら動いた。

 火の光を見ると、怪しい者共はにわかに恐れたらしい。キキと叫んで、早々に窟の奥へ逃げ込んでしまった。

「お葉さん、寒いだろう。此方こっちへ来てお当りな。」と、お杉はしずかに焚火のそばへ寄った。お葉は岩に腰をかけたままで、返事もなかった。

「幾らお前が強情を張った所で、一旦ここへ連れて来た以上は、もう帰す気配きづかいはないから、其意そのつもり悠々ゆっくりしておいで。夜も寒くないように、毛皮も沢山用意してあるから……。大事の花嫁さんに風邪でも引かせると大変だからね。ははははは。」

 焚火はいよいよ燃えあがって、の紅い光は、お杉のとがった顔と、重太郎の丸い顔と、お葉の蒼い顔とを鮮明あざやかてらした。

 昼も暗い山峡やまあいでは、今が何時頃だか判らぬ。あなたの峰を吹き過ぐる山風が、さながら遠雷のように響いた。

 三人は霎時しばらく黙っていた。やがてお杉は矗然すっくった。

「お葉さん、何を考えているんだえ。もッと此方こっちへおでよ。」

 対手あいてはり黙っているので、お杉は笑いながら其傍そのそばへ歩み寄った。

「判らない人だねえ。何でもいからわたしの云うことをいて、素直にここの人にお成りよ。お前が惚れている市郎も、今にここへ連れて来て上げるから……。いだろう。」

「若旦那がここへ……。」

「ああ、妾が必然きっと連れて来て見せるから、温順おとなしくして待っておいで。え、それでもいやかえ。ねえ、お葉さん、確乎しっかり返事をおよ。」

 お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、対手あいての顔を穴の明くほどじっと見詰めると、お葉は少しくぼうとなって来た。

「え、判ったかえ。」

 低声こごえに力を籠めて云うと、お葉は小児こどものように首肯うなずいた。彼女かれ漸次しだいに酔って来たように感じた。

いかえ。はいと返事をお。」

「はい。」

「重太郎のお嫁になるかい。」

「はい。」

 お葉は夢心地で答えた。

よしよし。さあ、妾と一所いっしょにおで。」

 進んでその手をると、お葉は拒みもせずにふらふらあがった。お杉は捕虜とりこを窟の暗い奥へ連れ込んでしまった。焚火に映る重太郎の顔は、火よりも熱して赤く見えた。

 やがて窟の奥からお杉の声で、

「重太郎、火を消しておしまいよ。」

 重太郎は云わるるままに焚火を踏み消すと、四辺あたりにわかに暗くなった。奥から母が再び出て来た。後につづいて例の怪しい者が二つ飛んで来た。

 お杉は宙を歩むように、かたえの小高い岩角へするすると登った。天をしの山毛欅ぶなの梢のひまから、わずかに洩るる空の色を仰いで、

「もう日が暮れるのに間もあるまい。今夜はお前達に大事だいじの仕事があるんだよ。」

阿母おっかさん、何だ。」

「角川の市郎はお前のかたきだ。彼奴あいつが無事に生きて居ては、お葉は何日いつまでも未練が残って、長くお前に附いて居まいよ。」

 重太郎は眼をいからして首肯うなずいた。

「それから彼奴あいつは妾にも仇だ。先刻さっき妾を突き倒して、半殺しの目に逢わした奴だ。お前達は復讐しかえしをしておれ。頼んだよ。」

よし、大丈夫だ。」

 勢い込んで駈け出そうとするのを、母は呼び止めて何事をか囁き示すうちに、日もようやく暮れかかったらしい。例によっ濛々もうもうたる山霧がうしおの如くに湧いて来た。

「早く行っておでよ。」

 お杉の声をあとに聞きながら、重太郎も𤢖も霧の中をいて出た。お杉は笑いながら再び焚火をほじり初めた。


(二十四)


 冬子を送って隣村まで出向いた安行と七兵衛とは、日が暮れるまで戻らなかった。が、それはのみ珍しいことでも無い。安行が吉岡家を訪問して、半日ぐらい話し込んでいることは、従来これまでにも屡々しばしばあった。

 此頃このごろ日晷ひあし滅切めっきりつまって、午後四時には燈火あかりが要る。うららかな日も、今日は午後からにわかくもって、夕から雨を催した。五時を過ぎても、六時を過ぎても、二人は帰らないので、市郎も少しく不安を感じ初めた。殊に昨夜の𤢖わろの一件もあるので、途中が何だか剣呑けんのんにも思われた。うちにいて心配するよりも、迎いながら町尽頭はずれまで出て見ようと決心して、市郎は洋杖すてっきを振りながら門を出ると、あたかも七兵衛の駈けて戻るのに逢った。

小旦那こだんな……。」

 彼は呼吸いきはずませていた。暗くてくは判らぬが、おそらく顔の色も蒼くなっているだろうと思われた。

「どうしたんだ。」と、市郎も慌しく駈寄かけよって訊ねた。

「大旦那様は戻ったかね。」

「まだ帰らない。お前は親父と一所いっしょじゃアないのか。」

一所いっしょだったが……途中ではぐれて……一体どうしただろう。」

 七兵衛が口早に語るのを聞くと、二人は冬子を吉岡家へ送り届けて、母のお政に昨夜の𤢖の一件や、今日のお葉の一条などを話しているうちに、思いのほかに時が移って、冬の日は早くも傾きかかった。二人はいとまを告げて立出たちでると、お政は途中の用心に松明たいまつを貸してれた。

 七兵衛が先に立って松明を振照ふりてらしながら、村と町との境まで来蒐きかかると、みちは全く暗くなった。昨夜ゆうべ山𤢖に襲われたのは此辺このへんだなどと話していると、行手の木蔭から一人の小作りの男がひらりと飛んで出た。何者かと松明を突き付けるひまもなく、彼はいなごの如くに飛んで来て、七兵衛の持ったる松明を叩き落した。加之しかも落ちたる松明を取って、かたえの小川に投げ込んでしまった。

 火の消えるのを相図のように、同じ木蔭から又もや怪しい者がばらばらと飛び出して、安行を手取り足取り引担ひっかついで行こうとする。安行も無論抵抗した。七兵衛も進んで主人の急を救おうとすると、最初はじめの小さい男が這って来て七兵衛の足をすくった。彼は倒れながらに敵の腕を取って、一旦は膝下しっか捻伏ねじふせたが、なりに似合わぬ強い奴でたちまち又跳返はねかえした。二人は起きつ転びつむしり合っているうちに、安行は自分の敵を突き退けて十けんばかりは逃げたらしい。敵もつづいて追って行った。

 主人の身の上が関心きがかりではあるが、自分も一人の敵を控えているのでうすることもできない。七兵衛は声をあげて救いを呼んだ。この声を遠く聞き付けて、あとの村から二三の人が駈けて来た。其跫音そのあしおとを聞くと、敵も流石さすが狼狽うろたえたらしく、力の限りに七兵衛を突退つきの刎退はねのけて、あなたの森へ逃げ込んでしまった。

 が、主人の行方も安否も判らぬ。救いにきたった人々に仔細わけを話して、七兵衛も共々に其処そこらを尋ね廻ったが、何分にも暗黒くらがりと云い、四辺あたりには森が多いので、更に何の手懸てがかりも無かった。あるいは首尾好く町の方へ逃げ延びたかも知れぬと、彼は念の為にかく駈戻かけもどったのである。

 以上の報告を聞いて、市郎も色を変えた。対手あいては𤢖か、あるいれに似寄により曲者くせものか知らぬが、いずれにしても彼等に襲われた父の運命は、甚だ心許ないものと云わねばならぬ。

「七兵衛、早く駐在所へ行って来い。」

 七兵衛が駐在所へ駈付かけつける間に、市郎は家中うちじゅうの者を呼集よびあつめて、右の始末を慌しく云い聞かせると、一同は眼をみはっておどろいた。何しろ一刻も早く捜査さがしに出ろと身支度する処へ、塚田巡査も出張しゅっちょうした。提灯や松明たいまつとぼされた。

「角川の大旦那が𤢖にさらわれた!」

 誰云うとなく此声このこえ駅中しゅくちゅうに拡がると、まだ宵ながら眠れるような町の人々は、不意に山海嘯やまつなみが出たよりも驚かされた。日頃出入の者は云うに及ばず、屈竟くっきょうの若者共は思い思いの武器をって駈集かけあつまった。

 塚田巡査は町の者共を従え、市郎は我家の職人や下男げなんを率いて、七兵衛老翁じじいに案内させ、前後二手に分れて現場げんじょう駈向かけむかった。夜の平和は破られて、幾十の人と火とが、町尽頭まちはずれの方へ乱れて走った。


(二十五)


 午後からくもった冬の空は遂に雨をもたらして、闇を走る人々の上につめたい糸のしずくを落した。が、そんなことに頓着している場合でない。松明たいまつの火を消すほどの強雨つよぶりでも無いのを幸いに、いずれも町を駈け抜けて、隣村の境まで来て見ると、暗い森、暗い川、暗い野路のみち、見渡す限りただ真黒な闇にとざされて、天地寂寞せきばく、半時間前に怖るべき椿事ちんじがここにおこったとは、殆ど想像の付かぬ位であった。

老翁じいや、このへんかい。」と、市郎は立止たちどまってみかえると、七兵衛は水涕みずばなすすりながら進み出た。

「はあ、丁度ちょうどここらでがすよ。あれ、あのもみの木の蔭から𤢖わろが出て来たので……。それから何でも大旦那は彼地あっちの方へ逃げたように思うのでがすが……。」

 人々は松明を振照ふりてらして、七兵衛の指さすかたを仔細に検査したが、別に手懸りとなるべき足跡もなく、遺留品も見出し得なかった。

「どうも判らんな。」と、塚田巡査も失望の嘆息といきもらした。

 が、かく其儘そのままでは済まされぬ。巡査の率いる一隊は、森に沿うて山路やまみちを北に登る事となった。市郎の一隊は現場げんじょうを中心として、附近の森や野原や村落をあさる事となった。くて夜半やはんまで草を分けて詮議したが、安行の行方は依然不明であった。加之しかも夜の更けると共に、寒い雨が意地悪く降頻ふりしきるので、人々も寒気かんきうえとに疲れて来た。

到底とても今夜のことには行くまい。」と、弱いを吹く者も出て来た。が、市郎は容易に諦めることはできなかった。疲れた一隊を慰め励まして、その附近約三里の間を東西に南北に駈け廻ったが、遂に何の手懸りも無かった。懐中時計を見ると、う午前一時である。松明の火もようやく尽きて来た。

 この上ははり山へ向うより他は無い。で、さきに巡査等が登ったみちとは方角を変えて、西の方から山路やまみち分入わけいろうとする途中に、小さい丘が見えた。ここらに多い山毛欅ぶなが茂って、丘のふもとには名も無い小川がめぐっていた。

「や。人が死んでいる!」

 先に立ったる一人が松明をかざして驚き叫ぶと、の人々も慌てて駈け寄った。見ると、山毛欅ぶなの大樹の根を枕にして、一人の男が赤裸で雨の中に倒れていた。

 市郎は殆ど夢中で駈寄かけよった。消えかかる幾多の松明の火が一時にここへ集められた。の光に照し出されたる屍体の有様ありさまは、身の毛も悚立よだつばかりに残酷なるものであった。男は前にも云う如く、身には一糸いっしを附けざる赤裸で、致命傷は咽喉のどであろう、其疵口そのきずぐちから滾々こんこんたる鮮血なまちを噴いていた。更に驚くべきは、鋭利なる刃物を以ての顔の皮を剥ぎ取ったことである。したがっての顔は判然はんぜんせぬが、わずかに灰色の髪の毛にって、の六十近い老人であることをたしかめ得た。

阿父おとっさんだ。」と、市郎は屍体をいだいて叫んだ。七兵衛も声を揚げて泣いた。

 この意外なる光景ありさまきもひしがれて、余の人々はただ動揺どよめくばかり、差当りうするという分別も出なかった。が、流石さすがは職業であるから、市郎は其疵口そのきずぐちを検査すると、きずは刃物でなく、鋭い牙と爪とて咬破かみやぶ掻裂かきさいたものらしい。彼は再び驚くと共に、敵はまさしく𤢖であることを悟った。

 この時、あなたの山の方から幾箇いくつ松明たいまつが狐火のように乱れて見えた。巡査の一隊は尋ねあぐんで、今や山を降って来たのであろう。くと見るより此方こなたの人々は口々に叫んだ。

「大旦那はここに居たぞ。おうい、おうい。早く来いよ。」

 先方むこうでも声に応じて駈けて来た。が、惨憺たる此場このば光景ありさまを見て、いずれも霎時しばらく呆気あっけに取られた。巡査は剣鞘けんざやを握って進み出た。

「残酷なことをりましたなあ。𤢖でしょうか。」

「無論、𤢖です。𤢖の仕業です。」と、市郎は歯噛はがみをした。

「顔の皮をいだのは、犯跡はんせきくらます為でしょうか。」

「そんなことかも知れませんな。」

 巡査は首肯うなずいて、これも一応屍体をあらためたが、やがて少しく眉をひそめた。


(二十六)


「角川さん。」と、塚田巡査は市郎をみかえって、「もう一度この老人の口を……歯をく見て下さい。」

 市郎は死人しにんの口を開けて見た。

「どうです。ちがませんか」と、巡査は首をひねった。

 成程なるほど、違っていた。今まで気が顛倒てんどうしていたので、流石さすがにそこまではかなかったが、安行の前歯は左が少しくけていた。この男の前歯は左右とも美事に揃っている。髪の色こそ似ているが、たしかに人違いだ、我父では無い。市郎はほっとした。

「違います。違います。成程、これは親父じゃアありません。」

「そうでしょう。」

「違った、違った。」と、人々は喜悦よろこびの声を揚げた。七兵衛は嬉しさに又泣き出した。人々は消えかかった松明たいまつが再び明るくなったように感じた。

 が、これが安行でないとすると、何処いずこの何者であろう。たとい角川家の主人其人そのひとにあらずとも、一個ひとりの人間が惨殺されてよこたわっているのは事実である。塚田巡査は職務上これを捨置すておく訳には行かぬ。取敢とりあえその屍体を町へ運ばせて、おのれその報告書を作る準備にとりかかった。

 夜はいよいよ更けて、雨は益々烈しくなって来た。のまま雨中に立ち尽しては、あるいは凍えて死ぬかも知れぬので、遺憾ながら安行の捜索は一旦中止して、一同も空しく町へ引揚ひきあげて来た。市郎は其夜そのよ一睡もなかった。

阿父おとっさんはうしたろう。」

 彼の冴えたる眼には、の惨殺されたる老人の屍体がありありと映った。自分の父もはりのような浅ましい姿になって、人の知らぬ山奥か谷間たにあいに倒れているのではあるまいか。それにしても、あの老人は何者であろうか。父の行方不明との惨殺事件との間に、何等かの関聯かんれんがあるのではあるまいか。こんな事を際涯はてしもなく思い続けているうちに、夜は白んだ。幸いに暁方あけがたから雨は晴れた。

 遠近おちこちではとりが勇ましく啼いた。市郎はよぎを蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。が、何だか沈着おちついても居られないので、市郎は洋服身軽に扮装いでたって、かく庭前にわさき降立おりたった。

「今日は何地どっちの方面から捜して見ようか。」

 頬を吹く雨後あまあがりの寒い朝風は、無数の針を含んでいるようにも感じられたので、市郎は思わずえりすくめながら、充血した眼に大空を仰ぐと、東はようやく明るくなったが、北の山々は夜のころもをまだ脱がぬと見えて、くずれかかった砲塁ほうるいのような黒雲くろくもうずたかく拡がっていた。

 一昨夜はトムを殺された、昨夜は父を奪われた。山𤢖やまわろなるものは、何が故に執念深く自分等に祟るのか、市郎は殆ど判断にくるしんだ。が、彼は不図ふとこんな事を思いうかべた。

 トムは一昨日吉岡家の門前で、のお杉ばばあに吠え付いた。そうしてその晩に殺された。自分は昨日我家の門前で、同じくお杉婆を突倒つきたおして気絶させた。そうしてその晩に父が行方不明になった。はたして世間で伝うる如く、お杉婆と山𤢖との間に、何か不思議の因縁が結びつけられてあるとすれば、昨夜のわざわいあるいはお杉ばばあに関係が有るのではあるまいか。

「そうだ、必然きっとそうだろう。」

 う考えると、彼は矢も盾もたまらなくなった。家内の者共を呼びおこすまでもなく、自分一人での虎ヶ窟を探ろうと決心した。で、一旦内へ引返ひっかえして、応急の薬剤と繃帯ほうたいとを用意して、足早に表へ出ようとする時、七兵衛父爺じじい寝惚眼ねぼけまなここすりながら裏口を遅々のそのそ出て来た。出逢頭であいがしら喫驚びっくりして、

「や、小旦那……。朝飯も食わねえで何処どこへ……。駐在所かね。」

「いや、虎ヶ窟へ……。私は一足先へ行くから、みんなが起きたらすぐあとから来るようにう云ってれ。」

「虎ヶ窟へ……。」

 七兵衛があやぶむ顔をあとにして、市郎は早々に飛び出してしまった。


(二十七)


 市郎がしゅくを抜けて村境むらざかいに着いた頃には、旭日あさひすで紅々あかあかと昇った。遠近おちこちの森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。

 例の樅林もみばやしの落葉を踏んで行くと、漸次しだい山路やまみち差蒐さしかかる。岩はにわかけわしくなって来た。

多寡たかが一里だ。知れたものだ。」

 市郎は勇をして登った。が、彼は所謂いわゆる虎ヶ窟なるものの在所ありかくわしくは知らなかった。小児こどもの時に友達と一所いっしょに、一度ばかり登ったことが有るように記憶するが、今となってはその方角もすこぶ覚束おぼつかないものであった。何でも本道から西へ入ると聞き伝えているので、心のく彼は遮二無二しゃにむに西へと進んだ。昨日のお葉が踏んだみちである。彼も大小の岩を飛び越えねばならなかった、山蔦やまづたすがってあぶない綱渡りをせねばならなかった。洋服扮装でたちの彼は、草鞋わらじ穿いて来なかったのを悔いた。

 彼は又、かつて読んだ八犬伝のうちで、犬飼現八いぬかいげんぱち庚申山こうしんざんに分け入るの一段を思い出した。現八は柔術やわらに達していたので、岩の多い難所なんじょを安々と飛び渡ったと書いてある。市郎には生憎あいにくそんな素養が無かった。

多寡たかが一里だ。」と、彼は難所に逢う毎に自ら励ました。が、あるいみちを踏み違えたのかも知れぬ。すでに二時間あまりを費したかと思うのに、目指すいわやいまだ探り得なかった。この寒いのに彼は全身に汗を覚えた。岩の蔭から瞰上みあぐれば、日はすでに高く昇ったらしい。

 幾ら気が張っていても、疲労つかれには勝たれぬ。市郎は昨夜雨中を駈廻かけまわった上に、終夜殆ど安眠しなかった。加之しかも今朝は朝飯も食わなかった。疲労ひろうと不眠と空腹とがかさなった上に、又もやの難所を二時間余も彷徨さまよったのであるから、身体からだの疲れと気疲れとて、彼は少しく眼がくらんで来た。脳に貧血をきたしたらしい。ここで倒れては大変だ。

「これでは到底とても歩かれない。」

 市郎はある岩角に腰をかけて、用意の気注薬きつけぐすりふくんだ。足の下には清水が長く流れているが、屏風のような峭立きったての岩であるから、下へは容易に手がとどかぬ。少しく体を前へかがめると、飜筋斗もんどり打って転げちるであろう。う思うと、飲料のみものを用意していない彼はいよいかわきを覚えた。

「自分は医師いしゃでありながら、何故う不注意だろう。」と、彼は自己おのれを叱っても追付おっつかない。市郎は余りに慌てて我家を出たのであった。

「それにしても、七兵衛やほかの者はうしたろう。」と、彼は心細さにんな事も考えた。が、今更引返ひっかえすべきではない。進め、進め、倒れるまでも進めと、市郎は勇気を振いおこして又歩き出した。あなたの梢では大きな山猿が、ひとあざけるように笑っていた。

 市郎は何処どこう歩いたか、なかばは夢中で無闇に進んで行った。それから約一時間ばかりも経ったと思う頃、彼はあなたの大きい岩の狭間から、一縷いちるの細いけぶりの迷いづるを見た。

「占めた!」

 彼は喜んで躍った。で、思わず声を揚げて呼ぼうとしたが、遠方から敵をおどろかしては妙でない。ひそかに近寄ってその不意を襲うにしかずと、市郎は故意ことさら跫音あしおとぬすんで、煙のなびくかたへ岩伝いに辿った。

 このあたりには大樹が多かった。大樹のそびゆるもとに落葉焚く煙が白くあがって、のお杉ばばあは窟を背後うしろに、余念もなくひえかゆを煮ていたが、彼女かれの耳は非常にさとかった。たちまち人の跫音に心附こころづいたと見えて、灰色のおどろ髪を振乱ふりみだしつつ此方こなたきっみかえった。市郎はつかつか眼前めさきに現れた。

 お杉は騒ぐ気色けしきもなく、しずかあがって軽く会釈した。

昨日きのううも飛んだ御邪魔を致しました。」

「いや、僕の方でも大変失礼した。」と、市郎も尋常の挨拶をして、「時に今日来たのは他でもないが、うちの親父が昨夕ゆうべから行方知れずになったので……。」

「まあ。」と、お杉は驚いた顔をした。


(二十八)


 市郎は少しく躊躇したが、更にことばを次いだ。

「そこで、心当りを方々ほうぼう探しているんだが、うも判らないので困っている。」

「それは困りましたねえ。」と、お杉も心配そうに眉を寄せた。

「村の者の話にると、親父は山の方へ登ったとも云うんだ。うならば、万一此地こっちの方へでも迷い込んで来やアしないかと思って……。」

「いいえ、お見掛みかけ申しませんね。」

 お杉は昨日に引替ひきかえて、極めて叮嚀ていねい口吻くちぶりであった。が、市郎は中々油断しなかった。

「親父は来なかったかね」と、考えて、「そこで、ちっと云いにくいことだが、折角ここまで来たもんだから、念の為に窟の中を一応調べさして貰いたいんだが、うだろうね。」

「判りました。あなたはわたしを疑っているんでしょう。妾はこんな姿をして、乞食同様の生活くらしをしていますが、人をさらったり、殺したりした記憶おぼえはありません。山𤢖やまわろとは違いますからね。」

「それは僕も知っているが、まあ念晴ねんばらしだ。あらためてもいだろう。」

 お杉は黙って市郎の顔をていた。

いだろう、鳥渡ちょいと検めても……。」

うとも勝手におなさい。だが、せがれの帰らないうちに早く願いますよ。」

「倅は何処どこへ行った。」

「そこらへ木実きのみを拾いに行きました。」

「そうか。」

 市郎は窟へ五六歩踏込ふみこんだが、奥は暗いので何にも見えなかった。お杉は黙って窟の入口に立っていた。

「中は真暗まっくらだね。」と、市郎は外をみかえって呼ぶと、お杉もつづいて入って来た。

「何か松明たいまつか蝋燭のようなものは無いかね。暗くって仕様がない。」

「松明もあります、蝋燭もあります。」

何方どっちでもいから貸してれないか。」

 お杉は黙って蝋燭に火をけた。

「あなた、どうぞお早く願いますよ。ここへ倅が帰って来ると不可いけませんから……。彼児あれは正直者ですから、ひとから嫌疑うたがいを受けて家捜やさがしをされたなどと聞くと、必然きっとおこるに相違ありませんから……。」

よしよし。判った。」

 お杉が照す蝋燭の淡い光を便宜たよりに、市郎は暗い窟の奥へ七八けんほど進み入ると、第一の石門せきもんが眼の前に立っていた。市郎はお杉の手から燈火あかり受取うけとって、左右の隅々くまぐまてらたが、上も下も右も左もただ一面のけわしい岩石で、片隅の低い岩の上には母子おやこ寝道具ねどうぐかと思われる獣の生皮二三枚と、茶碗と箸と薬鑵やかんのたぐいが少しばかり転がっているのみで、他には別に眼にる物もなかった。市郎は念の為に獣の皮を一枚づつ引きめくって見た。

「何か見付みつかりましたか。」と、お杉は冷笑あざわらうような口吻くちぶりで問うたが、市郎は何とも答えなかった。これより更に奥深く進むと、第二の黒い石門せきもんが扉のように行手をふさいでいて、四辺あたりの空気は凍るばかりに寒かった。

「この先にもみちがあるかね。」

「ありますから、まあ入って御覧なさい。石の下からもぐって行くんですよ。」

 市郎は一旦立止たちどまったが、のまま半途で引返ひっかえしては何にもならぬ。彼は障碍物しょうがいぶつ競走をするような形で、かくつめたい石門の下を這って通ると、其後そのあとからお杉の痩せた身体が蛇のようにするすると抜け出して来た。

「ここが行止ゆきどまりだね。」

 お杉は首肯うなずいた。市郎は一度消えた蝋燭に再び燐寸まっちの火をけて、暗い石室いしむろの中を仔細にてらしてたが、所々の岩の窪みに氷のような水を宿している他には、はり何物も眼にはいらなかった。

「何か見付みつかりましたか。」と、お杉は重ねて問うた。その声が四方の低い石壁に響いて、何となく凄愴ものすごいように聞えた。市郎は黙って立っていた。


(二十九)


 市郎が唯一の希望のぞみの光も消えた。あれほどの難所なんじょを越えてようようを尋ね当てたかいも無く、暗い窟の奥には何の秘密も無かった。彼はお杉に有らぬ疑惑うたがいを掛けたのを、今更おおいに後悔した。

「どうも僕が悪かったよ。」

「じゃア、もういんですか。」

「むむ。ここまで詮議すれば心残りは無い。もう帰ろうよ。」

 とは云ったが、まだ幾分の未練が有るらしい、市郎は壁に沿うて室内を一巡ひとめぐりした。

「や、あの隅に大きな穴がある……。」

 お杉の眼は晃然ぎろりと光った。市郎は進んで蝋燭の火をかざすと、岩穴は深さ幾丈、遠い地の底でごうごうという音がかすかに聞えるばかりで、蝋燭の細い光ぐらいでは到底とてもとどきそうも無い。穴の奥は深い闇にうずまれていた。

 市郎は更にひざまずいて底を覗いたが、底はただ暗いのみで何にも見えなかった。お杉は黙って其背後そのうしろに突っ立っていた。

 低い狭い石室いしむろの中は、墓場のようにしずまり返っていた。が、寂寞せきばく忽地たちまちに破られた。市郎は我が背後うしろかすかに物の動く気息けはいを聞いたので、何心なにごころなくみかえると、驚くべしのお杉ばばあは手にすましたる小刀こがたな振翳ふりかざして、あわや彼を突かんとしているのであった。

「何をするッ。」

 市郎が驚いて叫ぶ間もありや無しや、お杉の兇器は頸筋くびすじへ閃いて来た。が、咄嗟とっさあいだに少しくたいかわしたので、鋭い切尖きっさきわずかの肩先をかすったのみであった。くうを撃ったお杉は力余って、思わず一足前へ蹌踉よろめ機会はずみに、おそらく岩角につまずいたのであろう、身をひるがえして穴の底へ真逆さまに転げちた。蝋燭は消えて真の闇となった。

 意外の出来事に市郎も一時は呆気あっけに取られたが、お杉が自分を殺そうとしたのは、おそら昨日きのうの復讐ばかりではあるまい。彼女かれの岩穴のうちに何等かの暗い秘密をぞうしているので、の発覚を恐れてかかる兇行を企てたに相違ない。はり自分が最初はじめに疑っていた通り、生死しょうし不明の父はこの穴の底深き処に葬られているのかも知れぬ。それにしても、お杉はうしたろう。岩石に骨を砕かれて即座に命をおとしたか、あるいは案外の軽傷で無事に生きているか、その安否をたしかめねばならぬ。いかに悪人にもせよ、のまま見殺しにするという法はあるまい。

かくも穴へ入って見よう。」

 父の行方とお杉の安否とを探る為に、市郎は直ちにの冒険を試みようと決心した。彼は燐寸まっちって再び蝋燭に火をけた。その光によって又もや穴の中を窺うと、底の底は依然として真暗まっくらであったが、彼は幸いに或物を見出した。それは一条の細い綱である。

 今まではちっとも眼にかなかったが、綱は人間の髪毛かみのけよって固く編まれたもので、所謂いわゆる毛綱けづな」のたぐいであった。の一端は穴の降口おりぐちとも思しき処の岩角に結び付けられて、の端は暗い底の方に長く垂れていた。試みにこれ手繰たぐって見ると、綱は古代の大蛇だいじゃのように際限はてしもなく長いもので、れどもれども容易に其端そのはしにはとどかなかったが、こんよく手繰たぐっているうちに、ようやく残りなく引揚ひきあげた。長さは幾丈あるか鳥渡ちょっとは想像が付かぬ位で、黒い固い綱は狭い室内に蟠蜒とぐろを巻いて、其端そのはしは蛇の鎌首のように突っ立った。これが総て人間の髪毛かみのけであるかと思うと、市郎は何となく薄気味悪く感じた。

 が、今は猶予している場合でない。市郎はその綱の片端を自分の胴にしかと結び付けて、海燕うみつばめの巣をあさる支那人のように、岩を伝って真直まっすぐに降り初めた。岩は殆ど峭立きったったようにけわしいが、所々には足がかりとなるべき突出とっしゅつこぶがあるので、それを力に探りながら徐々そろそろと進んだ。

 くだるに従って、深い穴の底はいよいよ暗かった。彼がわずかに頼みとするのは、鬼火のように燃ゆる一挺いっちょうの蝋燭の他は無かった。


(三十)


 市郎はなかば夢中であるから、およそのくらい降りて進んだか判らぬ。にかく手がかり足がかりの岩を辿って、下へ下へとあやうくも降りてゆくと、暗い中から蝙蝠かわほりのようなものがひらりと飛んで来て、市郎の横面よこつらはたと打った。あッと顔をそむけるはずみに、つめたい空気の煽りを受けて、頼みの蝋燭はふッと消えた。

「あ、失敗しまった!」と、市郎は思わず舌打したうちした。が、現在の位置にあって再び蝋燭をけると云うことは、殆ど不可能であった。彼は左の手に蝋燭を持ち、右の手に岩を抱いて、辛くも其身そのみを支えているのであるから、到底とても燐寸まっちるべき余裕は無い。迂濶うかつに手を放せば、彼は底知れぬ暗黒くらやみに転げちて、お杉と同じ運命を追わねばならぬ。さりとてのままの暗黒くらやみでは仕方が無い。

 彼は霎時しばらく途方に暮れたが、の場合かくも進んで行くより他は無いので、市郎は探りながらにしずかに降りた。それから二三げんほど進んだかとも思う時に、彼の左の足は硬い物に触れた。靴で幾度いくたびか探って見ると、これは突出とっしゅつした岩の角で、岩は可成かなりに広いらしい。ここならば両手を放しても立って居られそうに思われたので、「よし、ここで燐寸まっちけようか。」と、市郎は更に右の足を踏み締めると、足の下は意外にやわらかであった。左は硬く、右は柔かい。少しく可怪おかしいとは思ったが、柔かいのはおそら粘土ねばつちであろうと想像して、彼はずここに両足を踏み固めた。

 で、何よりも早く蝋燭を点けねばならぬ。市郎は手早く燐寸を擦ると、余りに慌てた結果、火は点いたが又たちまち消えた。が、この瞬時の光によって、彼は我が足下あしもとに人のよこたわっているのを見た。男か女かしかとは判らぬ、ただ蒼白い顔が朦朧ぼんやりと浮き出したかと思う間もなく、四辺あたりは再びもとの闇に隠れてしまった。

阿父おとっさんか、お杉か、ただしは別人か。」

 市郎はいて又燐寸を擦ったが、胸の動悸に手はふるえて、幾たびか擦損すりそんじた。彼はいよいれて、一度に五六本の燐寸を掴んで力任せに引擦ひっこすると、火はようやく点いた。

 わが足下あしもとよこたわっているのは、尋ぬる父の安行であった。わが右の足で踏んでいた柔かい物は粘土ねばつちで無い、おいたる父の左のももであった。市郎は驚いて声も出なかった。慌てて飛退とびのいて更によくると、人違いでない、たしかに父の安行である。が、その顔は生ける日とちっとも変らず、極めて平和な温順な人相を現わして、かかる変死者に往々おうおう見る所の苦痛や煩悶の死相は少しも見えなかった。父はおそらく不意に殺されたのであろう。父は怖るべき危害の迫り来るを予知せずに突然死んだのであろう。

 市郎は蝋燭を岩の罅間さけめに立てて、一先ひとまず父の亡骸なきがらを抱きおこしたが、脈はうに切れて、身体は全く冷えていた。しかし一通り見た所では、何処どこにも致命傷らしいきずの痕は無かった。多分この岩の上へ突き落されて、脳震盪のうしんとうおこして死んだのではあるまいか。勿論もちろん、これとても想像に過ぎない。

阿父おとっさん……。」

 せめてもの心床こころゆかしに、市郎は父の名を呼んだが、魂魄たましいの空しい人は何とも答えなかった。

「阿父さん……。」

 彼は再び呼んだ。呼んで返らぬとは知りながら、再び呼んだのである。

 市郎は一人児ひとりこであった。小児こどもの時にうみの母には死別しにわかれて、今日こんにちまでおや一人子一人の生涯を送って来たのである。父は年齢としよりも若い、元気のい人であった。わが子にむかっても平気で冗談を云うような人であった。加之しかも我子を又無く愛する親であった。遠からず我子に嫁を迎えて、自分は隠居するつもりの親であった。

 このおやと子と突然に別離わかれを告げたのである。それも尋常一様の別離わかれでない。父は夢のように姿を隠して、夢のように死んだのである。加之しかも人間の通わぬ窟の奥、暗い蝋燭の下でその悲しき死顔を見たのである。

 市郎は父の亡骸をいだいて泣いた。


(三十一)


 この時、背後うしろの方から不意に物の気息けはいが聞えて、何者か忍び寄るようにも思われたので、市郎は手早く蝋燭をって起上たちあがると、余りに慌てたので、彼は父の死骸につまずいた。広いと云っても一坪にも足らぬ岩の上である。彼はあッと云う間に足を踏み外して、深さも知れぬ暗い底へ転げちた。

 が、幸いに彼の身体には例の毛綱けづなが結び付けてあるので、市郎は岩からちる途端に、早くも綱に取付とりついてずるずると滑りちると、二三げんにして又もや扁平ひらたい岩の上にとまった。横さまにひざまずいて倒れたので、左の膝を少しく痛めたが、差したることでも無いらしい。彼は疼痛いたみを忍んですぐに起きあがった。その片手には消えた蝋燭を後生大事に握っていた。

 くして彼は父の死骸から遠ざかってしまったのである。引返ひっかえそうにも足がかりが見出されぬ。降りる方は比較的容易であったが、登るのはほど困難であるらしい。うなるからはいっそのこと、どん底まで真直まっすぐに降りて行って、のお杉の安否をたしかめた方がましかも知れぬ。ええ、うなるものか、行ける所まで行って見ろと、一種の自棄やけと好奇心とがまじって、市郎は更に底深く降りることに決心した。それに付けても唯一の味方は蝋燭である。彼は又もや燐寸まっち擦付すりつけようとする時、人か獣か何か知らぬが、けわしい岩を跳越はねこえてひらりと飛んで来た者がある。

 身をかわす間もあらばこそ、の怪物は早くも市郎の前に飛込とびこんで来て、左の外股そとももあたりはたと打った。敵は兇器を持っているらしい、打たれた所はただならぬ疼痛いたみを感じて、市郎は思わず小膝を突いた。「𤢖わろか。」と、の刹那に市郎はたちまちに悟ったが、敵が余りに近くせまっているので、火をける余裕が無い。彼は右の足を働かして強く蹴ると、敵は足下あしもとに倒れたらしい。暗黒くらやみもとより見当は付かぬが、市郎は勝つに乗って滅多矢鱈めったやたらに蹴飛ばすうちに、靴のさきにはこたえがあった。敵は猿のような声を揚げてきゃッと叫んだぎりで霎時しばらくは動かなかった。

 この隙を見て、市郎はいそがわしく燐寸まっちった。蝋燭の火のゆらめく影を便宜たよりにして、の怪物の正体を見定めようとする時に、一人の男がぬッ眼前めさきへ現われた。市郎は悸然ぎょっとしてよくると、これは𤢖では無いらしい。しかも𤢖とは大差ない程に見ゆる下級労働者らしい扮装いでたちで、年の頃は五十前後でもあろう、髪を長くのばして、とがった顔に鋭い眼をひからせ、身には詰襟つめえりの古洋服の破れたのを着て、足には脚袢きゃはん草鞋わらじ穿いていた。其扮装そのいでたちを見て察するに、近来この土地へ続々流れ込んで来る坑夫か土方どかたの仲間らしい。

わたしは𤢖じゃアありませんよ。御安心なせえまし。ははははは。」

 男は笑いながら馴々なれなれしく近寄って来たが、市郎は容易に油断しない、蝋燭を突き付けたままでその顔をきっと睨んでいた。

「𤢖はここに居まさあ。御覧なせえまし、醜態ざまだ。」

 男が笑いながら指さす我が足下あしもとには、何さま異形いぎょうの者が倒れていた。先夜トムを殺した奴とたしかに同種類に相違ない。赭土色あかつちいろはだで、髪の長い、手足の長い、爪の長い、人か猿か判らぬような怪物である。彼は市郎の靴で額の真向まっこうを蹴破られたと見えて、濃黒どすぐろいような鮮血なまちその凄愴ものすごい半面を浸していた。

 しかし彼は死んだのでは無かった。眼前めさきに蝋燭の火を差付さしつけられると共に、又もやきゃッと叫んで跳ね起きて、血だらけの顔を抱えながら岩から岩へ、何処どこへか飛んで行ってしまった。

 くして真実ほんとうの𤢖は逃げ去ったが、𤢖類似の怪しい男はだ眼の前に残っている。この男ははたして善か悪か、敵か味方か、市郎もその判断にくるしんで佇立たたずんでいると、男はいよい馴々なれなれしい。

「旦那、御心配なせえますな。𤢖なんて云うものは、意気地のねえ奴ですから、もうかかって来る気配きづかいありませんよ。はははは。」

 彼は勇士である。人の恐るる山𤢖を物のかずとも思っていないらしい。


(三十二)


 何しろ、得体の判らぬ男であるが、何時いつまで睨み合っていても際限はてしがないと、市郎の口もほぐれ初めた。

「お前さんはこの穴に棲んでいるのか。」

「そうじゃアありませんが、大抵勝手は心得ていますよ。」

「底まではほど遠いかね。」

「何、もうすぐです。御覧なせえまし、たった三四けんの所でさあ。」

 蝋燭をてらしてると、底は近い。獣の牙のような大小の岩がそびえていた。

「今、人がちたんだが……。」と、市郎は伸上のびあがって底を覗くと、男は首肯うなずいた。

「もう少し前に、上からちて来た者がありましたよ。𤢖わろかと思っていたが、うじゃア無かったか知ら。」

 男は先に立って岩を降りた。市郎も続いて降りた。やがてどん底まで辿り着くと、果して其処そこにお杉の死骸が倒れている。彼女かれは牙のような岩と岩との間に挟まれて、さながら巨大おおいなる野獣に咬まれたような形で死んでいた。

 男は少しく眉をひそめて、お杉の死顔をじっと眺めていた。市郎は念の為に脈を取って見たが、これも手当を施すべき依頼たのみは切れていた。

「一体、この女はうしてちたんだろう。旦那は此女これを御存知ですか。」

 善悪判らぬこの男に対して、市郎はまことを語らなかった。

「さあ、僕も知らない。僕はただこの窟を探険に来たのだ。」

「じゃア、書生さんだね。」

「まあ、うさ。」

 こんなことを云っているうちに、市郎は漸次しだいに足の疼痛いたみを感じた。今までは気が張っていたので、何もも殆ど夢中であったが、さきに岩の上へ転げちた時に彼は左の膝を痛めた。続いて𤢖の為に左のももきずつけられた。加之しかも二度目の傷は刃物で突かれたと見えて、洋袴ずぼんにじみ出る鮮血なまち温味あたたかみを覚えた。究竟つまり彼は左の片足に二ヶ所の傷を負っているのであった。

 父の行方も探し当て、お杉の生死しょうしたしかめ得たので、彼も今は気がゆるむと共に、市郎は正しく立つにえられなくなって来た。跛足びっこきながらかたえの岩角に跟蹌よろけかかって、倒れるように腰をおろした。男も其側そのそばへ腰をかけた。

「旦那はうかすったんですか。」

ちっ怪我けがをした。」と、市郎は顔をしかめて、「そこでお前さんに頼みたいことが有るんだが……。僕はの通り、足を痛めているんで到底とても歩けそうもない。お前さんはの勝手を知っていると云うなら、後生ごしょうだから僕のうちまで行って来てれないか。そうして、僕がここに居るから迎いに来てれと……。」

「旦那のうちは遠いんですか。」

 男は余り気の進まぬような返事であった。市郎は衣兜かくし紙入かみいれから紙幣を探り出して、黙って男の手に渡すと、彼は鳥渡ちょっと頂いてすぐに我が洋袴ずぼん衣兜かくし捻込ねじこんでしまった。

「じゃア、行って来ましょう。旦那のお宅は何方どちらです。」

「この山を降りてもみの林を抜けると、町はすぐに見える。僕のうちは角川と云うんだから、町で訊けばすぐに判る。」

 角川と聞いて、男の顔色は少しく動いた。市郎の顔を再び覗いて、

「あなたは角川の若旦那ですかい。」

「むむ。僕は角川のせがれだ。」

「へえ、そうですか。」と、考えて、「大旦那はまだ御健康おたっしゃですかい。」

「え、お前さんは僕の親父を知っているのか。」と、市郎は不審の眼をひからせると、男はたちまかしらった。

「いいえ、お目にかかったことは有りませんが……。何しろ、それじゃアすぐに行って来ましょうよ。」

「何分頼むよ。」

「よろしい。待っておいでなせえまし。」

 男は口早に、身軽に起上たちあがって、衣兜かくしから新しい手拭をって頬包ほおかむりした。

「旦那、この綱は大丈夫ですかい。」

「むむ、上の岩に緊乎しっかり結び付けてある。」

 市郎は自分の胴に巻いた毛綱けづないて、かたえの岩角に結び付けると、男はこれすがって登り初めた。かれは鉱山生活に慣れているらしい、手は綱に縋り、足は岩に踏みかけて、案外無造作にするすると登って行った。穴の入口に達した時に、彼は下に向って声をかけた。

「旦那、行って来ますよ。」


(三十三)


 虎ヶ窟に於てこれほどの事件が出来しゅったいしている間に、のお葉と重太郎とは、何処どこに何をしていたであろう。二人に関する昨夜以来の成行なりゆきを、ここで簡短かんたんに説明せねばならぬ。

 前にも記す如く、お葉は自分にも判らぬ心理状態のうち山中やまなかいざなわれ、の窟の奥に囚われてしまった。重太郎と山𤢖やまわろとは夜の更けるまで帰って来なかった。

あたしうしてんな処へ来たんだろう。」と、時の経つに従って、お葉は夢から醒めたように考えた。今日一日のお葉は、自分ながら何がうしたのか殆ど判断が付かなかった。あるいは酔い、あるいは醒め、あるいは夢み、自分の頭脳あたま種々いろいろの混乱をきたした末に、お杉ばばあの威嚇的命令のもとに重太郎の嫁たるべく約束した。が、考えて見るとんな馬鹿馬鹿しいことは無い。妾は気でもちがったのか知らと、お葉はつくづく自分の馬鹿馬鹿しさに愛想あいそつかした。

 で、何はさて措いても、んな処に長居すべきでない。自分は東京深川生れのお葉さんである。自分の身状みじょうが悪い為に、旅から旅を流れに渡って、「くにゃ辛い」と唄にまでうたわるる飛騨の山家やまがに落ちて来たが、それでも自分には自分の生命せいめいが有る、自分には自分の恋が有る。こんな山奥へ引摺込ひきずりこまれて、人だか𤢖だか判らぬような怪物共ばけものども玩弄おもちゃにされてたまるものか。ひと面白くもない、好加減いいかげんに馬鹿にしろと、彼女かれは持前の侠肌きゃんを発揮して、奮然たもとを払ってった。

 が、お葉も流石さすがのお杉ばばあに対しては、何となく不気味の感が無いでもなかった。窟の奥からそっと抜け出して、ず表の有様ありさまぬすると、夜はう更けたらしい、山霧は雨となって細かに降っている。お杉は消えかかる焚火を前にして、かたえの岩に痩せた身体をせかけたまま、さながら無言のぎょうとでも云いそうな形で晏然じっと坐っていた。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、起きているのか、一向に見当が付かない。

 つかまったられまでと度胸を据えて、お葉は抜足をして外へ出た。お杉婆は身動きもなかった。お葉は折柄おりからの雨をしのぐ為に、有合ありあう獣の皮を頭から引被ひっかぶって、口には日頃信ずる御祖師様おそしさまの題目を唱えながら、跫音あしおとぬすんで忍び出た。

 それから一時間も過ぎたのちに、重太郎が帰って来た、山𤢖も帰って来た。彼等は山蔦やまづた引縛ひっくくった角川安行を抱えていた。

阿母おっかさん、阿母さん。」

 重太郎が呼んでもお杉は答えなかった。重太郎はず窟の奥へ駈け込んだが、霎時しばらくして狂気の如く飛んで来た。

「阿母さん、お葉は……。お葉は何処どこへ行った。」と、彼はお杉の腕を掴んで、力任せに引摺ひきずり廻した。

「何、お葉が居ない。」と、お杉も初めて眼をみひらいた。

「阿母さん、寝ていたのか。」

いつもの通り、眼をつぶって神様に祈っていたのさ。」

「そんなら判りそうなものだ。お葉は居ない、お葉は逃げた。」

 重太郎は足摺あしずりして泣き出した。

「お葉が逃げた……。」と、母も眼をひからしたが、「心配おでない。何処どこへ行くものか。うちへ帰ったら又連れて来るから……。」と、さびしく笑っていた。

何日いつ連れて来てれる。」

明日あしたでも、明後日あさってでも……。」

 十日のうちには死ぬと予言したお杉ばばあにも、流石さすが明日あしたの自分の運命は判らなかったと見える。彼女は沈着払おちつきはらって我子を慰めた。が、若い血の燃ゆる重太郎には、明後日あさっておろか明日あしたをも待たれなかった。彼はさながら狂える馬のようにおどあがった。

いやだ、否だ。今夜中に連れて来てれ。」

「でも、今夜は不可いけない。あたしは他に用が有る。明日までお待ちよ。」

 重太郎はう耳にも入れなかった。これからすぐにお葉の行方を追うつもりであろう、彼はもと来しかた直驀地まっしぐらに駈けて行った。


(三十四)


 お葉は虎ヶ窟から虎口ここうを逃れた。

 逃れたのは嬉しいが、さて其先そのさき種々いろいろの困難がよこたわっていた。みち屡々しばしば記す通りの難所なんじょである、加之しか細雨こさめふる暗夜あんやである。不知案内ふちあんないの女が暗夜にの難所を越えて、つつがなく里へ出られるであろうか。

 けれども、今はそんなことに頓着する場合で無かった。お葉はただ無闇に行手を急いだ。昼ならば一度越えた路について、多少の心覚えや目標めじるしも有ったか知らぬが、真暗黒まっくらがりでは何が何やらちっとも判ろう筈が無い。同じような岩や、同じような谷や、同じような坂が、そこにもにも路をさえぎって、彼女かれらじと抑留ひきとめるようにも思われた。

「死んでも構うものか」

 お葉は覚悟をめた。𤢖わろ見たような奴等の玩弄おもちゃになる位ならば、いっそ死んだ方がましである。彼女かれは足の向く方へと遮二無二しゃにむにと進んだ。その勇気は健気けなげとも云うべきであったが、この種の冒険は気の強いばかりでは押通おしとおせるものでない。猟夫かりゅうど樵夫きこりの荒くれ男ですらこれを魔所と唱えて、昼も行悩ゆきなや三方崩さんぽうくずれの悪所絶所を、女の弱い足で夜中に越そうと云うのは、余りに無謀で大胆であった。

 彼女かれすそを高くかかげて、足袋跣足たびはだしで歩いた。何を云うにも暗黒くらがり足下あしもとも判らぬ。つるぎなす岩に踏み懸けては滑りち、攀上よじのぼってはまろび落ちて、手をきずつけ、はぎを痛めた。まして飛騨山中の冬の夜は、凍えるばかりに寒かった。霧に似たる細雨こさめは隙間もなく瀟々しとしと降頻ふりしきって、濡れたる手足は麻痺しびれるように感じた。

 しか彼女かれあくまでも強情であった。倒るるまでは進むという覚悟で、方角も知らずに起きつころんづ、盲探めくらさぐりに辿って行くと、かくも普通の山路やまみちらしい処まで漕ぎ着けた。東に迷い、南に迷い、彼女かれは実に幾時間を費したか知らぬが、人の一心いっしんは怖しいもので、うやらうやら難所なんじょ乗切のりきったらしい。

 ここまで来ると、流石さすがのお葉も寒気かんきと疲労とにえ兼ねて、ある大きな岩の蔭に這い寄ったが、再びあがる元気は無かった。彼女かれは殆ど夢のように倒れてしまった。

 雨は何時いつ降歇ふりやんで、其夜そのよも明け放れた。あかつきの霧は晴れて、朝日は昇った。父を尋ぬる市郎も、同じ時刻に山路やまみちへ迷い入って、あるいのあたりを過ぎたかも知れぬが、お葉は遂に見出されずにしまった。

 ここで市郎に見出されたら、お葉はんなに幸福であったろう。ここで重太郎に見出されたら、お葉はんなに不幸であったろう。あくまでも運の悪いお葉は、第二のくじを取らねばならぬ不幸に陥った。彼女かれはここで重太郎に見出されたのである。

 重太郎はお葉の跡を追って、これも東西のきらい無しに山中やまじゅうを駈け廻ったが、容易に女を捉え得なかった。嶮岨けんそに馴れたる彼は、飛ぶが如くに駈歩かけあるいて、一旦はふもとまで降ったが又思い直して引返ひっかえした。お葉ははり山中さんちゅうに迷っていると信じたからであろう。

 くて其処そこよと捜し廻るうちに、夜が明けた。彼は目眩まばゆき朝日の光を避けて、岩の蔭を縫って歩いていると、不図ふと我眼の前に白い物のよこたわっているのを見付けた。

「お葉だ、お葉だ。」と、重太郎はおどってちかづいた。

 彼は半死半生のお葉を抱えおこして、霎時しばしは飽かずにその顔を眺めていたが、やがてかたえの谷間の清水をすくい取って、女の口にそそぎ入れた。死んだ方がいっましのお葉は、不幸にも又蘇生いきかえったのである。

 気がいて見ると、自分の手は獣のような重太郎に握られていた。驚いて振放ふりはなして起上おきあがると、重太郎は再びその手を掴んだ。

「お葉さん。何故逃げるんだ。お前はおらの女房になるという約束じゃアないか。」

「馬鹿にしてるよ。」と、お葉は蒼い顔をいからして、眼を吊上つりあげた。

「だって、昨夕ゆうべ約束したじゃアないか。」

「知らないよ。昨夕は昨夕、今日は今日さ。昨夕は雨が降っても、今日はお天気になるじゃアないか。」

「じゃア、おらの女房にはならないのか。」

「知れたことさ。」

 お葉はののしるように答えた。


(三十五)


 獣のような重太郎と相対あいたいしているお葉は、すこぶる危険の位置にあると云わねばならぬ。かれじょうが激して一旦の野性を発揮したら、孱弱かよわい女に対してんな乱暴をあえてせぬとも限らぬ。

 お葉もそれを知らぬでは無かったろうが、彼女かれも或時にはの野性を遠慮なく発揮する女であった。或時には坑夫や土方を客にして、負けず劣らずに乱暴比べをする程の勇気をっていた。彼女かれは大抵の男を恐るるような女では無かった。昨日のお杉に対して殆ど絶対的の服従をあえてしたのは、自分にも判断の付かぬ一種不可思議の心理作用にった為で、醒めたるのち彼女かれは依然として強い女であった。

 ましてお杉はここに居ない。わが目前の敵は重太郎一人いちにんである。たとい這奴こいつ山𤢖やまわろの同類にした所で、一人ひとりと一人との勝負ならば多寡たかの知れたものである。まかり間違ったらば、の喉笛にでもくらい付いてるまでのこと。勝負は時の運次第と、彼女かれ咄嗟とっさあいだに度胸を据えてしまった。

 対手あいてういう覚悟で居ようとは、重太郎は夢にも知らぬ。彼は母に甘える小児しょうにのような態度で、あくまでもお葉に附纏つきまとった。

「お葉さん。お前、うしてもおらの嫁になるのはいやか。え、お葉さん。後生だから承知してれないか。おらんな山の中に棲んでるけれども、宝物たからものを沢山っているんだ。」

 お葉はただ冷笑あざわらうのみで、見向きもなかった。

「お葉さん、真実ほんとうだよ、決して嘘じゃアない。おら昨日きのう……いや、一昨日おととい……阿母おっかさんから大事の宝物の在所ありかを教わったんだ。それを持出もちだしてひとに売れば、一足いっそく飛びに大変な金持になれるんだ。おらく知らないが、の宝物というのは実に立派なものだ。真闇まっくらな処でもぴかぴか光って……。何だかう……。」

 山育ちの彼は、これを形容すべき適当のことばを知らなかった。重太郎は徒爾いたずらに眼をみはり、手を拡げて、とうとき宝であるべきことをしきりに説明ようと試みた。

「そんな立派な宝物がありゃアれでいじゃアないか。お前さんが金持になりゃア、んないお嫁さんでも貰えるんだから、あたしなんぞに構っておれでないよ。」

 お葉は相変らず鼻であしらっているので、重太郎はいよいいた。

「だから、お前に頼むんだ。おらが金持になるから、お前を嫁に貰いたいんだ。何日いつだったか忘れたが、雨のふる日の夕方に、俺が町へ食物くいものあさりに出て、柳屋の門口かどぐちに立って彷徨うろうろしていると、酒に酔った奴等が四五人出て来て、の乞食め、彼地あっちへ行けと俺を突き飛ばした。口惜くやしいからなぐってろうと思ったけれども、対手あいてが大勢だから我慢していると、そこへお葉さん、お前が出て来たんだ。」

 彼はの当時の光景ありさまを思いうかべたらしい、今更のようにお葉の顔をしげしげと眺めた。

そうしてお前が大きい声で、おしよ、そんな可哀想なことをするもんじゃアない。その人はあたしの可愛い人なんだから……。ねえ、お葉さん。お前はう云ったろう。おらその時にたしかに聞いた。その晩、俺は窟へ帰ると、お前と夫婦になった夢を見たんだ。それから……それから俺は、うしてもお前と夫婦になる気になったんだ。ねえ、お葉さん。判ったろう。俺は毎晩お前を夢に見ていたんだ。」

 う云われると、此方こっち記憶おぼえが無いでもない。なるほど過日いつかそんなことも有ったようである。が、それはもとより酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの青年わかものただ一図いちず真実ほんとうと信じて、こことんでもない恋の種をいたのであろう。対手あいてよっては迂濶うっかり冗談も云えぬものだと、お葉は今更のように思い当った。

 山𤢖同様の分際で、深川生れのお葉さんに惚れるとは、途方もない贅沢な奴だと、今の今までは馬鹿馬鹿しくもあり、腹立はらだたしくもあったが、うなって見ると自分にも罪が無いでもない。嘘にもしろ、冗談にもしろ、自分は重太郎を可愛い人だと云った。で、対手あいての方でも自分を可愛い人だと思い染めた。究竟つまりは無心の小児こどもむかって菓子をるとからかった為に、小児こどもは本気になって是非れろと強請ねだって来たような理屈である。対手あいてが世間を知らぬ小児こども同様の人間だけに、うなると誠に始末が悪い。


(三十六)


 お葉が黙って考えているので、重太郎は又もや迫り寄った。

「ねえ、お葉さん。お前はおらが髪をこんなにはやしているので、いやなのか。それから……こんな獣類けだものの皮をているので、いやなのか。髪は今でもすぐに切るよ。衣服きものは……金持になればすぐ衣類きものを買ってるよ。お前にもッと良い衣類きものせてる。それから……山に棲んでいるのがいやなら、お前と一所いっしょに町へ行く。何処どこへでも行く。ね、いだろう。ね、それから……。」

 云わんとすることは種々いろいろたたまっているらしいが、山育ちの悲しさには彼の口が自由に廻らぬ。重太郎はおしどもりのように、なかばは身振や手真似で説明しながら、の切なき胸を訴えているのである。普通の人から見れば、彼は野蛮である、兇暴である、殆ど𤢖わろ眷属けんぞくである。が、彼は決して所謂いわゆる悪人では無かった。彼が獰猛野獣の如きは其人そのひと境遇の罪で、其人そのひと自身の罪では無かった。

 そんな理屈までは思い及ばぬにしても、お葉は気の強いと共に涙もろい女であった。種々いろいろ考えると、最初はじめただ憎いと思っていた重太郎其人そのひとも、今は漸々だんだんに可哀そうにもなって来た。先刻さっきからの様子を見ると、彼はあくまでも無邪気である。彼は極めて明白に、正直に、自己おのれいつわりなき恋を語っているのである。

 形は人か猿か判らぬような青年わかものではあるが、彼の恋は深山みやま清水しみずの如く、一点いってん人間のちりを交えぬ清いものであった。お葉もの誠には動かされた。が、の返事は何となろう。

「お前さん、堪忍しておれよ。」

 お葉は重太郎の手をって泣いた。

「じゃア、嫁になってれるかい。」

「それが不可いけないから謝るんだよ。あたしうしてもお前さんのお嫁にゃアなれないんだから……。」

 重太郎は黙って眼をひからせた。

「だから、堪忍しておれと云うんだよ。」と、お葉はすかすように重ねて云った。

何故なぜだ。」と、重太郎は息をはずませて詰寄つめよった。

 何故と聞かれると返事に困るが、お葉も重太郎と同じように片思いの恋が有る。重太郎の片思いが哀れであると共に、お葉の片思いも哀れであった。彼女はうしてもの市郎を思い切れぬのである。

「お前さんは可哀想な人だねえ。」と、お葉は我身につまされて嘆息した。

「可哀想なら、嫁になってれないか。」

 重太郎はあくまでも無邪気であった。可愛いと可哀想とは其間そのあいだに少しく距離のあることを、彼はだ理解し得なかった。お葉は重太郎を可哀想だとは思ったが、その同情が変じて恋とはならなかった。

「どうしてもいやか。おらんなに云ってもいてれないのか。」と、重太郎は泣かぬばかりに口説いた。

「堪忍しておんなさいよ。」と、お葉は泣いて答えた。

「だから、何故だと云うのに……。」

 以前のお葉ならば、「お前がいやだからさ」と、木て鼻をくくったようにすげなく断ったかも知れぬ。が、今はうでない。彼女かれは優しく重太郎の手をった。

「ねえ、お前さん。あたしは決してお前を嫌う訳じゃアない。それほどに妾を思ってれるのは、真実ほんとうに嬉しいと思っている。だが、困ることには、妾にも思っている人があるんだから……。どうしてもお前のお嫁になることはできないんだから、うぞ諦めておんなさい。ね、判ったかい。決してお前さんを嫌うんじゃないよ。世間に女は妾一人ひとりじゃアない。お前が真実ほんとうに金持になれば、どんないお嫁さんだって貰えるんだから……。妾よりも若い、っと綺麗な人がお内儀かみさんにできるんだから……。」

 重太郎はかしらった。その眼には熱い涙をたたえていた。

「判らないの。」と、少しく持余もてあましたようなお葉の声も湿うるんで聞えた。

 可哀想ではあるが、何時いつまでも際限はてしが無い。お葉はられたるたもとを払って、

「じゃア、左様さよなら。」

 重太郎は追掛おいかけて、又の袂を捉えた。


(三十七)


 お葉を追い捉えた重太郎は、定めて破れかぶれの乱暴を始めるかと思いのほか、彼ははり温順おとなしい態度であった。が、湿うるんだ眼は一種異様に輝いていた。

「お葉さん。どうしても帰るのか。」

「今も云ったような訳だから……。」

「どうしても帰るのか。」と、重ねて念を押した重太郎の声には、低いながらも力が籠っていた。

 彼もおそらく最後の決心を固めたかも知れぬ。涙の眼は漸次しだいに乾いて、けわしい眉のあいだに殺気を含んで来た。物を奪い、人を殺すぐらいのことは、彼等の仲間では別に不思議の事でもない。

 お葉も眼色めいろを早くも悟った。

「お前さん、あたしを殺す気かい。」

 重太郎は黙っていた。

「殺すなら殺してもいよ。だが、力づくで乱暴をようと云うなら、妾にも料見があるから……。」

 重太郎は黙っていた。

「だから、素直にお帰りよ。」

 重太郎ははり黙っていた。が、やがてかたえの岩蔭にそびえたる山椿の大樹に眼をけると、彼はたちまち猿のようにの梢にするする攀登よじのぼった。南向みなみむきの高い枝は既に紅いつぼみを着けているので、彼は二叉ふたまたの枝をえらんで折った。

 うするのかと見ていると、重太郎はの枝を口にくわえてひらりと飛び降りたが、物をも云わずお葉の前に歩み寄って、二叉の枝を股から二つに引裂ひきさくと、何方どっちの枝にも四五輪の蕾を宿していた。彼は一枝ひとえだをお葉に渡した。お葉も黙って受取うけとった。

 二人は黙って各自めいめいの枝を眺めていた。

取替とりかえて貰おう。」と、霎時しばらくして重太郎は自分の枝を出した。お葉も自分の枝を出した。春待顔はるまちがおに紅い蕾を着けた椿の二枝ふたえだは、二人の手によって交換されたのである。

 重太郎はお葉の枝を我が胸にひし押当おしあてた。お葉は重太郎の枝を我が袖にいだいた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。

「じゃア、もう帰りますよ。」

 重太郎は無言で首肯うなずいた。市郎が窟にあると知ったら、お葉は無論引返ひっかえしたであろうが、そんなことは夢にも知らなかった。重太郎も知らなかった。飛騨山中の寒いあした、哀れは同じ片思いの男と女は、温かい涙を形見の花にそそいで別れた。

 重太郎はいさぎよくお葉を思い切ったのであろうか。彼はお葉から受取うけとった椿の枝を大事に抱えて、虎ヶ窟のかた悄々しおしお引返ひっかえした。

 昨夜さくや彼が𤢖わろと共に山を降って、七兵衛と闘い、安行をうばったのは、市郎に対する恋のうらみと母の恨とであった。が、そんなことはう忘れてしまったらしい。重太郎はただこの形見の枝を保護することにのみ屈託して、夢のように岩石の間を辿った。

 窟の前に来ると、母の姿が見えぬ。少しくあやしんで内を覗いたが、奥にもお杉の姿は見えなかった。

阿母おっかさん、阿母さん。」

 彼は続けて呼んだ。この途端に窟の奥から一人の見馴れぬ男が飛んで出た。これは前に記した通り、市郎の使つかいを頼まれて、穴の底から登って来た坑夫ていの男である。

 二人はあたかも入口ではたと出逢った。

「誰だい、お前は……。」

 重太郎は眼に角立かどだててなじったが、男はいているのであろう、返事もせずに駈け出した。窟には母の姿が見えず、加之しかも怪しい男が出て来たのであるから、重太郎の不審はいよいよ晴れぬ。ず飛びかかって男の腰に組付くみついた。

「お前は誰だ。」

「誰でもいよ。うるせえ。」

 男は突放つきはなして又駈出かけだそうとした。

「お前はおら阿母おっかさんを殺したのか。」と、重太郎は呶鳴どなった。

「そんなことは知らねえ。」

 男は手暴てあらく重太郎を突き退けると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口にくわえて又跳ね起きた。ここたちまち掴みあいが始まった、上になり下になり、たがいに転げて挑み争ううちに、何方どっちが先に足を滑らしたか知らず、二人は固く引組ひっくんだままで、かたえの深い谷へ転げちた。


(三十八)


 山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な別離わかれがあった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてあるあいだ、市郎は暗い岩穴の底に取残とりのこされて、救いの人々の来るのを待っていた。

 一本の蝋燭は漸次しだいに燃えつくして、風なきに揺めく火の光はやがの消えんとするを示している。したる重傷ではないと知りながらも、ももと膝との疼痛いたみ漸々だんだんに激しくなって来た。疲労と空腹とはいよいよ我をなやまして来た。

「七兵衛はうしたろう。彼奴等あいつらみちに迷っているのか知ら。それにしても使つかいの男が早く行着いきついてくれればいが……。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、何時いつまで経っても際限はてしがあるまい。うか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。彼奴あいつが不親切な奴で、金を貰いながら其儘そのままどこへか行ってしまったらうだろう。いや、真逆まさかにそんな事もあるまい。」

 それからそれへと考えながら、市郎は硬い岩を枕にしばらく寝転んでいた。

「もう何時なんじだろう。」

 懐中時計を取出とりだしてると、先刻さっきからの騒ぎで何時いつうしたか知らぬが、硝子がらすの蓋はこわれて針は折れていた。日光ひのめえぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。

 待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、取分とりわけていまの場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを染々しみじみ感じた。彼はなにとは無しに起きあがって、蝋燭をてらしつつ四辺あたりを見廻すと、四方しほうの壁は峭立きったての岩石であるが、所々にこぶのような突出とっしゅつの大岩があって、その岩の奥には更に暗い穴があるらしい。

𤢖わろこの穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は首肯うなずいた。先刻さっき自分をきずつけた𤢖も、おそらくあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、の𤢖なるものが何匹居るのか知らぬが、し大勢が其処そこ彼処かしこの穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら到底とてもかなわぬ。

 彼は何等の武器をって居なかった。しかも先夜の経験によって、彼等に対する唯一の武器は燐寸まっちの火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱をあらためると、あます所はわずかに五六本に過ぎぬ。彼は先刻さっきから燐寸を濫用したのを悔いた。

 で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を其処そここことてらしてると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く金色こんじきの光をた。蝋燭の淡い光でくは判らぬが、にかく其処そこに一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。あるいは怪獣の眼かと市郎はきっ瞰上みあげる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身にはあたらなかった。市郎はにわかに蝋燭を吹き消した。敵のまとにならぬ用心である。

「これも𤢖の仕業だろう。」

 う思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のはほど大きいと見えて、投げると云うよりも、むしろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。

 市郎も流石さすがきもを冷して、いよいよ小さくなっていると、又もや石をがらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が一時いちじに上から落ちて来た。何人なんぴとの石攻めに逢ってはたまらぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容のできぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。

「どうしたらかろう。」

 のまま小さくなっているのもである。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに種々いろいろ考えていると、わがかたわらにひらりと飛んで来た者があるらしい。𤢖め、近寄って来たなと、市郎はただちに用意の燐寸まっちった。はたして一人いちにんの敵は刃物を振翳ふりかざして我が眼前めさきに立っていた。

 不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く立縮たちすくんでしまった。其隙そのすきを見て、市郎は我が足下あしもとに落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の真向まっこうを目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。


(三十九)


 目前の敵を一人ひとりたおしたので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の恐怖おそれしたか、其後そのごは石を降らさなくなった。が、彼等は何処どこに隠れているか判らぬ、又何時なんどき不意に近寄って来るか判らぬ。う思うとちっとも油断ができぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。

 しかしこんな不安の状態ありさま何時いつまでも続いていたら、結局自分は根負こんまけがしてしまうにきまっている。先刻さっきからほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は勝誇かちほこった市郎も漸次だんだんに心細くなって来た。この上は依頼たのみにもならぬ救援すくいの手を待ってはいられぬ、自分一人の力での危険の地を脱出するより他はない。

「早くう決心すればかった。」

 市郎は痛む足を踏み締めて、例の毛綱けづなを再び我が胴にしかと結び付け、綱を力に精一杯伸びあがって、かたえの高い岩に飛び付こうとしたが、うも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又ちた。さらでも痛い足を更に痛めた。

到底とても不可いけない。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。

 この時、遠い頭の上で例の金色こんじきの光が淡く閃いた。市郎は眼をさだめてよくると、穴の入口と覚しき所で何者か火をてらしているらしく、その光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。

さては救いの人が来たか。」

 市郎は我を忘れてね起きた。精一ぱいの声を振絞ふりしぼって、「助けてれ。角川市郎はここにいるぞ。」

 声はあなたまで響いたらしい、上でもこれに応じて、「おうい。」と、答えた。

 市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ可矣よしと安心する途端に、何処どこから飛んで来たか知らず、例の大石が磊々がらがらと落ちて来て、市郎の左のひじを強く撃ったので、彼はたまらず横さまに倒れた。生きているのか死んでしまったのか判らぬ、彼はう再び起きあがらなかった。

 上ではんなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。其中そのなかには塚田巡査のびた声も、七兵衛老翁じじい破鐘声われがねごえまじって聞えた。

 この人々は今やようやくここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山のに就いたのち、七兵衛は慌てて家内かないの人々を呼びおこしたが、疲れ切っている連中は容易にとこを離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者もこれに加わって、一隊十四五名の人数にんず草鞋穿わらじばきの扮装いでたち甲斐甲斐かいがいしく、まだ乾きもあえぬ朝霜をんで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。

 巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、うしたものかみちを踏み違えて、あらぬかたへと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに有合ありあう岩角に腰をおろしてほッと息をく者もあった。寒気かんきしのぐ為に落葉を焚く者もあった。

 けれども、巡査は流石さすがに屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人がず窟の奥へくぐり入って、第二の石門せきもんまで仔細に検査したが、内には暗いつめたい空気がみなぎっているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。

「どうしたのだろう。」

 二人はいよいよ不安を感じて、そこらをしきりに見廻すうちに、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の松明たいまつをあげて、真暗まっくらな底をうかがっていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、にかく市郎だけは穴の底にいることがたしかめられた。

 七兵衛は引返ひっかえしてくと報告すると、の人々もどやどや入込いりこんで来た。

かくも降りて見よう。」

 巡査はう決心して、再び四辺あたりに鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたるの長い毛綱けづなを見出した。これを手繰たぐったら、市郎の身体は無事に引揚ひきあげられたかも知れぬが、その綱の端が彼の胴にくくられてあると云うことを誰も知らなかった。が、何人なんぴとの考えも同じことで、巡査も毛綱けづなすがって、行かれる所まで行ってようと思い付いた。

 片手は綱にすがり、片手は松明たいまつって、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、漸次だんだんに暗い底へ降りて行った。の人々は息をんでその行動に注目していた。


(四十)


 塚田巡査が穴をくだるについては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱をあやつって彼の行動を助け、つ幾多の松明たいまつ振翳ふりかざして、あたう限りの光明あかりを彼の行手に与えて居た。

 巡査もまた大胆であった。一条の綱を力として猶予なくするすると降りて行くと、彼は中腹のやや扁平ひらたい岩石の上に立って、の安行の死骸を発見した。驚いての手足をあらためると、既に数時間の前に縡切こときれたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。

 父がかくの如き有様であるとすれば、その子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の返答こたえもなかった。十分前まではしきり救助すくいを呼んでいた市郎が、にわかに黙ってしまったのは不可思議である。これももしや何等かの禍害わざわいこうむったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。

 この上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に突出とっしゅつした大小の岩がそびえて、天然か人工か知らず、の岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査はその穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼はただ真直まっすぐに降りて行った。

 やがて底近く来たと思う頃に、滔々とうとうたる水の音が凄まじく聞えた。松明を振照ふりてらしてたが水らしいものは見えぬ、おそらく地の底を流れるのであろう、岩に激するような音がさながららいのように響いた。更に二けんばかり降りると、自分のすがっている綱のはしには何物かくくられているのを発見した。巡査は息もかずに急いで降りると、それは人であった、の市郎であった。

 巡査は今や幾十尺の底に達したのである。まずの綱をいて市郎を抱えおこすと、彼も所々しょしょに負傷して、脈は既にとまっていた。が、これはたしか血温けつおんが有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、取敢とりあえの綱を強くくと、上ではすぐおうと答えた。

 この時、巡査の足下あしもとる一けんばかりの所で、怪しい唸声うなりごえが聞えた。きずついた野獣があえぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面血塗ちまぶれの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが所謂いわゆる山𤢖だな。」と、巡査も悟った。で、なおその正体を見届ける為に、そのかたわらへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げちて来た。巡査は慌てて飛退とびのくと、石はかたえの岩角にあたって、更に跳ね返っての𤢖の上に落ちた。𤢖のきずつける顔は更に微塵みじんに砕けて、怪しい唸声うなりごえは止んだ。

 しかの大石は自然に落ちて来たのか、あるいは故意に投げ落したのか、巡査には早速さそくの判断が附かなかった。し故意であるとすれば、四辺あたりには𤢖の同類がなおひそんでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。

 穴の底は再びもとの闇にかえった。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、霎時しばしは太古の如くにしずかであった。

 下の松明がにわかに消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。迂濶うかつに叫ぶと、その声を便宜しるべ何処どこからか岩石を投落なげおとされる危険をおそれたからである。

 そうとは知らぬ人々はいよいよ不安の念に駆られて、手に手に松明を振翳ふりかざしつつ穴の底を窺ったが、底の底までは到底とてもとどかぬ。この上は更に第二の探検隊をくだすより他は無かった。

よしおらが降りて見る。」

 六十に近い七兵衛老爺じじいが手につばきして奮然とつを見ては、若い者共も黙ってはられぬ。皆口々に、「老爺じいさんは危ねえ、私等わしらが行く。」と、さえぎとどめた。が、毛綱けづなを伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。

「何かい物はあるまいか。」

 飛騨の山人やまびと打寄うちよって、この国特有のふごを作ることを案じ出した。


(四十一)


 飛騨の畚渡ふごわたしは、昔から絵にもかれ、舞台にものぼされて甚だ有名である。河中かわなかに岩石突兀とっこつとして橋を架ける便宜よすがが無いのと、水勢が極めて急激で橋台きょうだいを突き崩してしまうのとで、少しく広い山河やまがわには一種のかごを懸けて、旅人はの両岸に通ずる大綱おおづな手繰たぐりながら、畚に吊られて宙を渡って行く。勿論もちろん今日こんにちではその仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形はいまだ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な生命せいめいを一個の畚に託して、眼もくらむばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。

 されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮のもとに、大勢は窟の外へ一旦引返ひっかえして、四辺あたりに立ったる杉やもみの大枝を折った。或者は山蔦やまづたつるを折った。くて約二十分ののちには、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人をるるに足るほどの畚を作り上げた。

「これがあれば大丈夫だ。」

 彼等は再び窟にって、畚をおろす準備に取懸とりかかった。畚を吊るには毛綱けづなが必要である。大勢が手を揃えてその綱を繰上くりあげると、綱のはしにはすくなからず重量めかたを感じたので、不審ながらかくも中途まで引揚ひきあげると、松明たいまつの火はようやとどいた。洋服姿の市郎は胴をくくられたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつあがって来たのである。人々も驚いて声を揚げた。

「や、小旦那こだんなだ……。角川の小旦那だ……。早く引揚ひきあげろ。」

 市郎はつつがなく引揚げられた。が、彼は正体も無く其処そこに倒れてよこたわったので、騒ぎはいよいよ大きくなった。一隊のうちでも足の達者な一人いちにんは、ふもとまで医師を迎えに走った。うなると、巡査の身の上も益々不安である。権次ごんじという若者を乗せたふごただちにおろされた。

 畚が中途までさがって来た時、暗い岩穴の奥から一個ひとりの怪しい者が現われた。彼は刃物を振翳ふりかざして、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃がたたなかった。しかも権次が無闇に振廻ふりまわす松明の火に恐れて、彼はたちまち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。

 塚田巡査は先刻せんこくから待侘まちわびていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、の無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強くくと、上ではおうと答えて、畚をするする繰上くりあげた。

「用心しないと不可いけない。何処どこからか石を投げる奴があるぞ。」と、巡査は注意した。権次は首をすくめて岩のかげに隠れた。

 つづいて第二第三の畚がおろされて、穴の底にも大勢の味方がえた。もううなっては、隠れたる敵も恐怖おそれしたのであろう、何等危害を加えようともなかった。人々は持ったる松明を揚げて四辺あたりを窺うと、そこには鬼の如きお杉ばばあの死顔と、猿の如き山𤢖やまわろ亡骸なきがらとを発見した。

 この上の手続てつづきくわしく記すまでもあるまい。権次が一旦上まで引返ひっかえして、一同にその始末を報告した上で、三個みつの亡骸は畚に乗せて順々に引揚ひきあげられた。第一は安行、第二は𤢖であった。最後に乗せられたお杉の亡骸は、既に頂上までとどいたと思う頃、うした機会はずみその畚は斜めに傾いて、亡骸は再び遠い底へ真逆様まっさかさまに転げ落ちた。更に畚に乗せて再び吊上つりあげると、今度もまた中途から転げ落ちた。お杉の霊魂たましいこの窟を去るのを嫌うのであろう。が、うしても其儘そのままには捨置すておかれぬので、最後には畚にしかくくり付けて、遂に彼女かれを上まで運び出した。

 これでず屍体の収容は済んだ。三個みつの亡骸を窟の外へき出して明るい所で検視を行うと、安行の屍体には何等負傷の痕も無く、その顔は依然として安らかに眠っていた。が、お杉のいかれる顔は宛然さながらの鬼女であった。加之しかも高い所から再三転げ落ちて、つるぎの如き岩石にうたつんざかれたので、古い鳥籠をこわしたように、身体中の骨は滅裂ばらばらになっていた。

 更に人をおどろかしたのは、の山𤢖の最期であった。幾百年の昔から、口でこそ山𤢖と云うけれども、誰も明白あきらか其形そのかたちを認め得た者は無かった。しかるに今や白昼にの怪しき形骸をさらしたのである。白昼に幽霊が出たように、人々は驚異の眼をみはって、いずれも周囲まわりあつまきたった。


(四十二)


 ここ怜悧りこう観世物師みせものしがあったら、ただちに前代未聞と吹聴すべき山𤢖やまわろなるものの正体はそもんなであったか。勿論もちろん、彼等にもめすおすはあろうが、今ここに屍体となって現われたのは、たしかに女性であった。脊丈せいず四尺ぐらいで、腰に兎の皮をまとっている他は、全身赤裸々あかはだかである。さめのように硬い皮膚の色は一体に赭土色あかつちいろで、薄い毛に覆われていた。頭は小さく、眼も小さく、額のいちじるしく窪んでいるのが人の注意を惹いた。彼等のある者は非常に長い髪を垂れていると伝えられるが、これは殆ど禿頭はげあたまと云ってもい位で、脳天に僅少わずかばかりの灰色の毛がちょぼちょぼと生えているのみであった。

 鼻は猿のように低かった。耳は狐のように立っていた。口も比較的に小さい方で、きいろ口唇くちびるから不規則に露出むきだしている幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指ははり五本であるが、爪は鉄よりも硬くかつとがっていた。手掌てのひらの皮が非常に厚く硬いのを見ると、ある場合には足の働きもして、四つ這いに歩くらしい。

 これが満足でても既にかくの如き異体いていの怪物である。まして市郎の為に、最初はじめは靴で額を蹴破られ、次に石を以て真向まっこう打割うちわられ、最後には味方の石によって顔一面を砕かれたのであるから、肉は砕け、骨はあらわれて、しゅうかい、実に形容もでき光景ありさまであった。人々もこれに対しては何とも云うべきことばを知らなかった。

「一体、これは何だろう。猿か知ら、人間か知ら……。」

 猿か人間か到底とても判らぬ、究竟つまりは一種の山𤢖と云うものであると答えるより他は無かった。塚田巡査もの解釈にはくるしんだ。

これが生きていたらなあ。」と、呟く者もあった。実際、これが生きていたら、人か猿かの区別が付くかも知れぬ。万一、彼が人間のことば幾許いくらか解するとすれば、訊問の結果、どんな有益な発見が無いとも限らぬ。

「そうだ。の機会に乗じて奴等を生捕いけどってろう。」

 塚田巡査は野心に富んでいた。又、たとい野心が無いにしても、人間に対して屡々しばしば危害を加える山𤢖の如きものを、ただ見逃して置くという法は無い。殊に昨夜さくやの身元知れざる惨殺屍体と云い、今日きょうの安行殺害事件と云い、いずれも𤢖に関係があるらしく思われるのであるから、警官の職分として、ただ見逃しては置かれぬ。巡査は再び窟に入って、穴居けっきょの𤢖を捕獲すべく決心したのも無理ではなかった。

 巡査の決心と勇気とに励まされ、これに又幾分の好奇心もまじって、数名の若者は其後そのあとに続いた。七兵衛等はあとに残って、生死しょうし不分明ふぶんみょうの市郎と三個みつの屍体とを厳重に守っていた。

 松明たいまつったる巡査とほか数名の勇者は、頼光らいこう四天王してんのう大江山おおえやまったような態度で、再び窟へ引返ひっかえした。巡査がふごに乗って降りた。の者も順々に降りた。

 穴の中は依然として暗かった。松明の光を便宜たよりにして、ここぞと思うあたりの岩穴を一々検査すると、岩壁を穿うがったる横穴はヶ所にひらかれていた。が、穴の天井は極めて低いので、到底とても真直まっすぐに立っては歩かれぬ。人々は𤢖のように四つ這いになって進んだ。

 第一の穴は行止ゆきどまりになっていて、別に何者をも発見しなかった。第二の穴も空虚からであった。

「𤢖め、もう逃げたかな。」

 更に降って第三の穴を窺った。ここは比較的に大きい岩が突出とっしゅつしていて、こけに包まれたる岩のおもて卓子テーブルのように扁平たいらであった。巡査は松明を片手に這い寄ると、穴の奥から不意に一個ひとつの石が飛んで来た。石は松明にあたって、火の粉は乱れ飛んだ。素破すわやと一同色めいて、いずれも持ったる武器を把直とりなおした。

 若者の一人いちにんは猟銃を携えていた。ある者は棒を持っていた。ある者は竹槍を掻込かいこんでいた。巡査はけんつかを握って立った。

 敵より投げたる一個ひとつの石は宣戦の布告である。人間と𤢖とはここ戦闘たたかいを開かねばならぬ。


(四十三)


 𤢖わろはこの奥に棲んでいると見当は付いた。が、敵の方にもんな準備があるか測り知られぬので、巡査等も容易には進み兼ねた。敵の方でも最初の石を投げたのちは、しずまり返って音もない。

 しかのままに何時いつまでも睨み合っていては、際限はてしが付かぬ。塚田巡査はここに一策を案じ出した。

松明たいまつを消せ。燈火あかりを消せ。」

 敵は最も火を嫌うのである。此方こっちが火を消したならば、おそらく勢いを得て突出とっしゅつして来るであろう。そこを待受まちうけて囲み撃つという計略であった。守ること固きものはいざのうてこれを撃つ、我が塚田巡査は孫子そんし兵法へいほうを心得ていた。

 𤢖ははたして人間よりもおろかであった。松明の火が消されると共に、にわかに石を投げ初めた。巡査等は身をかがめて其的そのまとに立つのを避けた。敵はいよいよ増長して、穴の奥から二匹三匹這い出して来た。彼等は我が術中に陥ったのである。

「占めたッ。」

 巡査は心に喜んで、闇を探りながらと寄って、の一匹の襟首えりくびを掴んだ。が、敵も中々素捷すばやかった。たちまその手を払い退けて、口にくわえたる刃物を把直とりなおした。其切先そのきっさきあやうくも巡査の喉をかすめて、背後うしろの岩に戞然がちりあたると、ぱっと立つ火花に敵は眼がくらんだらしい。其隙そのすきを見て巡査は再び組んだ。せいの低い敵は巡査の足を取った。しか此方こっちは柔道を心得ているので、倒れながらに、敵の腕を引担ひっかついで投げた。が、生憎あいにくに穴の入口へ向って投げたので、彼は奇怪な叫声さけびごえを揚げながら、再び奥へ逃げ込んでしまった。

 𤢖は一匹でなかったが、は入口に立って格闘の模様を窺っていたらしい。で、今や真先まっさきの一匹がかかる始末となったので、少しくおくれが出たのかも知れぬ。いずれも奥へ引退ひきさがって、再び石を投げ初めた。何分にも暗いので始末が悪い。巡査は危険をおかして、穴の奥へもぐり込んだ。の者共も勇をしてあとに続いた。

 敵は屈せずに石を投げたが、幸いに石が小さいのと、距離が余りに接近しているのとで、われには差したる損害を与えなかった。それでも二三人は顔や手に微傷かすりきずを負った。もううなれば騎虎きこの勢いで、今更あとへは引返ひっかえされぬ。巡査も頬に打撲傷を受けながら、なおも二三げん進んで行くと、天井は少しく高くなって、初めて真直まっすぐに立つことがきた。

 敵は幾人るか判らぬが、にかく石を投げ尽したらしい。今度は木のような物や、骨のような物を投げ初めた。骨はとがっているので、巡査は又もや左手さしゅきずつけた。

 もう仕方がないので、巡査は剣を抜き閃かした。ある者は猟銃を撃った。散弾が轟然として四辺あたりほとばしると、頑強の敵も流石さすがきもひしがれたらしい、くびすかえしてばらばらと逃げ出した。巡査等はかつに乗って追い詰めると、穴はようやく広くなった。ここがおそら行止ゆきどまりで、彼等は今や袋の鼠になったろうと思いのほか何処どこくぐったか知らず、漸次しだい跫音あしおとも消えてしまって、後は寂寞せきばくたる闇となった。

「奴等は何処どこへ隠れたろう。」

 松明たいまつは再びとぼされたが、広い穴の中に何者の影も見えなかった。幾ら𤢖でも隠形おんぎょうじゅつを心得ている筈はない。おそら何処どこにか隠れ家があろうと、四辺あたりくまなくてらると、穴の奥には更に小さい間道ぬけみちが有った。彼等はから這い込んだに相違あるまい。巡査等は続いてその穴をくぐった。

 穴は極めて低く狭いので、普通の人間には通行甚だ困難であったが、人々はさなが蝦蟇ひきのようになってわずかに這い抜けた。行くにしたがって水の音が漸々だんだんに近く聞えた。水の音ばかりで無い、日の光も薄くれて来た。

 みち漸次しだいに明るくなった。暗い湿っぽい岩穴は全く尽きて、人々は大いなる谷川のほとりに出た。岩を噛む乱流は大小の滝布たきして、滔々とうとうみなぎり落ちている。川に沿うて熊笹のやぶが生い茂っていた。左右はけわしい岩山である。𤢖は間道ぬけみちから山深く逃げったのであろう。


(四十四)


到頭とうとうにがしてしまった。」

 塚田巡査は歯噛はがみをした。微傷かすりきずではあるが、の手首からは血が流れていた。の二三人も顔や手の傷を眺めながら、失望と疲労との為に霎時しばらく茫然ぼんやりと立っていた。

 この時、頭の上で人声がわやわや聞えた。仰げば高き絶壁の上に、大勢の人の行き違う姿が見えた。初めて知る、ここはあたかも虎ヶ窟の前によこたわれる谷底で、頭の上に立騒たちさわいでいる人々は、の七兵衛や権次の群であった。

 くと知るや、下からはおういおういと呼んだ。上からも答えた。中にも権次は岩の出鼻ではなすがりつつ、谷に向って大きな声で叫んだ。

𤢖わろうした、つかまったか。」

「駄目だ、駄目だ。間道ぬけみちから逃げてしまった。」と、下でも叫んだ。

おしいことをたな。今お医師いしゃが来て、角川の小旦那は蘇生いきかえったぞ。」

蘇生いきかえったか。」

「大丈夫だとお医師いしゃ受合うけあった。何しろ、早くあがって来い。」

「おお。」

 上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも屏風びょうぶのような峭立きったて懸崖けんがい幾丈いくじょう、下では徒爾いたずら瞰上みあげるばかりで、攀登よじのぼるべき足代あししろも無いには困った。其中そのうちに、上では気がいたらしい。

「待て、待て。ふごを持って来るぞ。」

 う云って権次は立去たちさった。下の人々はある大岩に腰をおろして、ほッと一息いた。其間そのあいだも巡査は油断が無い、川に沿うてきつ戻りつ、ここらの地形を案じていた。

 この川は人跡絶えたる山奥から湧いて来るのであろう、凄じい勢いで滔々とうとうと流れ落ちている。の支流は虎ヶ窟の下をくぐっているらしい。窟の底で絶えず轟々たるひびきを聞くのはこれためであろう。近く聞けば水のひびきは、実に耳をろうするばかりであった。

 の水音に消されて、今までは誰も聞付ききつけなかったが、何処どこやらでかすか唸声うなりごえが聞えるようである。巡査はたちまちに耳をそばだてた。そこかかと声するかたを辿って行くと、いやが上にも生い茂れる熊笹や歯朶しだの奥に於て、たしかに人のうめくを聞いた。そこらの枝や葉は散々さんざん踏躪ふみにじられて、紅い山椿のつぼみが二三輪落ちていた。

 巡査は進んで熊笹を掻分かきわけると、年の頃は五十ばかりの坑夫ていの男が、喉を突かれて倒れていた。巡査も驚いた。の人々も駈集かけあつまった。昨日きのうから今日きょうにかけて、種々いろいろの出来事がうしてう続発するのであろう。一同もいささか呆れた形であった。

「一体、これは何者だろう。」

「これも𤢖に殺されたのか知ら。」

 かく引起ひきおこして介抱すると、男にはだ息がかよっていた。巡査は谷川の水をすくって飲ませると、彼はわずかに眼をみひらいたが、警官の姿をるやにわかに恐怖と狼狽の色を現わして、しきりに手足をもがいていたが、何分身動きも自由ならぬ重傷である、彼はうなりながら又倒れた。

 崖の上ではおういおういと呼んだ。畚は今やおろされたのである。人々は順々に乗って、瀕死の男も同じく乗せられた。塚田巡査は最後にのぼった。

 市郎は医師の手当てあてよって、幸いに蘇生したので、すぐふもとき去られていたが、安行とお杉と𤢖との三個みつの屍体は、まだ其儘そのままに枕をならべていた。そこへ又、の怪しい男があけみたる身をよこたえたのである。昔から魔所と伝えられた虎ヶ窟の前に、かかる浅ましい姿の者が四個よつまでもならんだのを見た人々は、そも如何いかに感じたであろう。白昼まひるではあるが山風は寒かった。人々は顔を見合わして物を云わなかった。

 この驚くべき報告が麓へ拡まると、町からも村からも大勢の加勢が駈着かけつけた。安行の屍体は自宅へ、お杉と𤢖の亡骸なきがらは役場へ、れに引渡ひきわたしの手続てつづきえた。まだ息のかよっている怪しの男は一先ひとまず駐在所へ運び入れて、医師の手当を受けさせた。

 塚田巡査は疲労をも厭わず、ただちに事件の取調べに着手した。お杉と山𤢖との死は市郎の申立もうしたてにって事情判明したが、安行は如何いかにして殺されたかく判らぬ。次にの瀕死の男は何者の手にかかったのか、それも判らぬ。彼はお杉や𤢖に関係があるか、あるいは別種の出来事か、それも判らぬ。なお其他このほかにも昨夜さくやの惨殺屍体と云うものが有る。それとこれと因縁の糸が連絡しているかうか、それもまた疑問である。巡査もの解釈については大いに頭をなやました。


(四十五)


「どうも判らぬ。」と、塚田巡査もしきりに考えた。市郎についてはこの上に取調べようも無い。𤢖わろは逃げてしまった、重太郎は行方不明であった。ただここに残っているのは、重傷にくるしめるの坑夫ていの男一人いちにんである。これについて厳重に詮議するより他はないが、何分にも生命せいめい危篤きとくという重体であるから、手の着様つけようが無い。

 昨夜さくや村境むらざかいで発見した惨殺死体は、つらの皮をがれているので何者か判らぬ。この男も言語不通であるから何者かだ判らぬ。たとい被害者は誰にもあれ、の加害者はいずれも𤢖であると断定してしまえば、無造作に解釈は着くのであるが、𤢖以外にも何等かの因縁があるらしく感じられた。しかして又、の惨殺死体との負傷者との間には、何か眼に見えぬ糸が繋がっているようにも感じられた。が、それは単に「感じられる」と云うに過ぎないので、巡査にもその理屈は到底説明し得られなかった。

 負傷者は容易に死なず、医師の説に依れば幾分か持直もちなおした気味だと云う。巡査はよんどころなく手をつかねて、の快癒に向うのを待つうちに、四五日は徒爾いたずらに過ぎた。

 虎ヶ窟を中心としておこれるの奇怪なる殺傷事件は、たちまち飛騨一国に噂が拡まって、更に隣国となりぐにをも驚かした。明治の世の中に𤢖が出現したと云うすらも既に新聞だねであるに、ましれが人を殺したと云い、巡査と格闘したと云う。𤢖の牝が大石で頭を砕かれたと云う。これと同時に幾多の殺人事件がって湧いたと云う。鬼婆おにばばあが殺されたと云う。聞く事毎に人を騒がす事ばかりなので、ある者は嘘だろうと云い消した。けれども、事実は争われぬ。地方の各新聞は筆を揃えて、の顛末を記載した。𤢖の屍体の写真まで掲げられた。市郎の遭難実話が載せられた。塚田巡査の探偵談が記された。噂は更に尾鰭おひれを生じて、殆ど前代未聞の大椿事だいちんじとまで伝えられた。

 無論、うなっては塚田巡査一人の手に負える問題ではない。高山たかやまからも警官が大勢出張した、岐阜の警察からも昼夜兼行ちゅうやけんこうで応援に来た。狭い駅中しゅくじゅう沸返わきかえるような混雑である。

「どうも大変な事がおこったね。」

 大学の制帽をかぶって、旅行用の大革包おおかばんひっさげた若い男が、四辺あたり光景ありさま幾度いくたびか見返りながら、急ぎ足で角川家の門をくぐった。門口かどぐちには七兵衛老爺じじいが突ッ立っていた。

「やあ、吉岡の小旦那こだんな……。どうもえれ騒動さわぎが出来ましてね。」

「そうだッてね。驚いたよ。」と、若い大学生は首肯うなずいて、「しかし市朗君は大した事もないのか。」

「はあ、お庇様かげさま大分だいぶほうで……。何、大丈夫だとお医者も云って居ますが……。何しろ、一時はきもを潰しましたよ。」

「そうだろう。まあ、早く行って逢おうよ。𤢖に殺され損なうなんて、馬鹿な話だ。言語同断だよ。」

 大学生は七兵衛に誘われつつ、威勢よく奥へ駈込かけこんだ。彼は吉岡家の長男忠一である。いもとの冬子が市郎と結婚するについて、十一月初旬には帰郷する心構えをしていた所が、更に市郎から年末休暇まで延期しろと云って来た。と思うと、やがて又冬子から電報が来て、大変が出来たからすぐに帰れと云う。何が何だか少しくけむに巻かれたが、かくも大変とあっては聞捨ききずてにならぬ。忠一は早々に旅装を整えて帰郷の途に就いた。

 富山へ来ると、例の噂がう一面にひろがっていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見るとなるほど大変である。が、彼はの大変に驚くと同時に、この事件について一種の興味をわかした。彼はの機会に乗じて、所謂いわゆる山𤢖なるものを十分に研究したいと思った。冬の夜の明けぬうちに富山をって、午後四時すぐる頃にここへ着いたのである。

 安行の葬儀は市郎全快の上で営む事に決したので、一旦は火葬に附し、その遺骨は広い座敷の正面に祭られてあった。親戚や近所の人々も大勢控えていた。忠一の母お政も来ていた。それ等に対する挨拶は後にして、忠一はず市郎の病室に入った。

 市郎は書斎の八畳に寝ていた。其傍そのそばには冬子が看護していた。

「あら、兄さん。」

「どうしたい。とんだ騒動が持上もちあがったもんだね。」と、忠一はその枕元に坐り込んだ。室内には洋燈らんぷとぼっていた。


(四十六)


「冬子さんから電報を打ったと云うはなしは聞いたが、よく早く帰って来られたね。」

 市郎は痛む手を抱えながら起きようとするのを、忠一は慌しく制した。

「まあ、無理をしずに寝て居たまえ。阿父おとっさんはうも飛んだ事だったね。そこで、君の痛所いたみしょうだ。もういのか。」

「いや、まだ悉皆すっかりいという訳には行かないよ。何でも三週間ぐらいはかかるだろうと思うが……。しかしまあ、生命いのちに別条の無いのが幸福しあわせさ。」

 市郎は苦笑いした。顔の色はまだ蒼ざめていたが、元気はのみ衰えたようにも見えないので、忠一もず安心した。

「生命に別条があってたまるものか。対手あいて多寡たか𤢖わろじゃアないか。はははは。」

「でも、一時は真実ほんとう喫驚びっくりしましたわ。」と、冬子は眼をまろくして云った。

「そりゃア誰でも喫驚びっくりするさ。僕だって、一旦は驚いたよ。吉岡忠一の友人が、そんな馬鹿馬鹿しい目に逢ったかと思うと、実に唖然とせざるを得なかったよ。全体、𤢖なんて云う者にくるしめられると云うのが、文明人の恥辱だからね。と云うと、君ばかりでなく、死んだ阿父おとっさんまで侮辱するようだが、実際つまらない災難に逢ったものだよ。」

「恥辱でも仕方が無いわ。先方むこうから不意に襲って来るんですもの。」と、冬子は少しく不平そうに兄をみかえった。

「いや、不意に襲われると云うことがすでに不覚だよ。」と、忠一は笑って、「𤢖の如き者は一挙して全滅してしまうか、もなくばこれ教化きょうかして真人間まにんげんにするか、二つに一つの方法をえらぶよりほかはないよ。ただ漫然と打捨うっちゃって置くから、往々にして種々いろいろ禍害わざわいかもすのだ。勿論もちろん打捨うっちゃって置いても、自然にほろびつつあるには相違ないが、それにはすくなからぬ年月を要するだろう。」

「真人間にするッて……。𤢖は矢張やっぱり人間でしょうか。」と、冬子は眉をひそめた。

「人間だよ、たしかに人間だよ。ねえ、市郎君、この夏も君と𤢖につい種々いろいろと研究した事があったじゃないか。」

「むむ。僕もくわしく研究したいと思って、参考の為に親父にも種々いろいろ訊いているうちに、今度の騒動さわぎさ。親父はあんな気象にも似合わず、因襲的に𤢖を恐れていたらしかったが、到頭とうとうこんな事になってしまった。そこで、君はいよいよ𤢖を人間と見極めたのか。」

「𤢖や山男のたぐいは皆人間だよ。僕も従来はこれついて多くの注意を払っていなかったが、この夏君と話し合ってから、にわかに𤢖研究を思い立って、東京へ帰るとすぐに人類学の書物を種々いろいろあさって見た。諸先輩の説も聴いた。何分研究の日がなお浅いのだから、僕も余り詳細の説明はできないが、にかく我々と同一の人類であると云うことだけは明白に云えるよ。すくなくも僕はう信じているよ。」

「我々と同じ人間がうして𤢖なんぞになったのでしょう。」と、冬子の疑惑うたがいは解けそうも無かった。

くわしく云えば長いことだが、まあ簡短かんたんに説明すると、こんな理屈になるんだ。」

 冬子がいで出す茶を一杯飲んで、忠一は鉄縁てつぶちの眼鏡を掛け直しながら、今や本論にろうとする時、の七兵衛がふすまから顔を出した。

「あの、駐在所から塚田さんが見えましたが……。」

「むむ、此方こっちへ通してれ。」と、市郎が首肯うなずいて見せると、七兵衛は心得て去った。

「塚田巡査、相変らず勤勉だね。」と、忠一は微笑した。

「実際、勤勉だよ。殊に今度の事件に関しては、殆ど寝食を忘れて奔走しているんだ。今日来たのも、何か犯人捜索上について僕に聞合ききあわせにでも来たんだろう。」

「あの巡査は𤢖と格闘したと云うじゃアないか。職務とは云え、流石さすがに偉いよ。」

 こんなことを云っているうちに、噂のぬし帯剣たいけんからめかしながら入って来た。近所の人であるから、忠一ともかね相識あいしっているのである。双方の挨拶はかたの如くに終った。

「何かお急ぎの御用ですか。」と、市郎が問うた。

「いや、急ぎと云うでも無いですが、今日は虎ヶ窟を検査に行くと、不思議なものを発見したのです。」

「ははあ、んなものを……。」

「岩穴の壁に沢山の字が書いてあるのです。おそらく字だろうと思うのですが、我々には到底とても読めないので……。」

「字が書いてありましたか。」と、忠一は思わず乗出のりだした。


(四十七)


 虎ヶ窟の壁に文字もんじの跡が有るというのは、すこぶる興味を惹く問題であった。一座ことごとく耳を傾けると、塚田巡査は首をひねりながら、

「今も申す通り、我々には字だか絵だか符号だか実際判然しないのですけれども、うも文字もじらしく思われるのです。勿論もちろん、刃物のさき彫付ほりつけたもので、何十行という長いものです。あれが悉皆すっかり判ればほど面白かろうと思うのですが、うでしょう、あなたには……。読んで下さることはできますまいか。」

「さあ、読めるかうか判らんですが、にかくんなものだか、是非一度見たいもんですな。」と、忠一も非常の乗気のりきであった。

「今日はう遅いですから。明日みょうにち御案内をましょう。」

「どうか願います。はたしてれが文字もんじであるとすれば、𤢖わろに対する僕の意見がいよいよ確実になる訳ですから……。」

「何か𤢖について御意見があるですか。」

「忠一君には大いに意見があるんだそうで、今これから大演説を始めようと云う処へ、あなたが見えたんです。」と、市郎は笑いながらくちを挟んだ。

「それはい所へ来ました。わたくしも参考の為に是非伺いたいものです。」と、巡査も熱心に膝を進めた。

「兄さん、お話しなさいよ。」と、冬子も強請せがむように迫り問うた。

 聴者ききてが熱心であるだけに、弁者べんしゃにも大いに挑発はずみが付いて、忠一も更に形を改めた。

「いや、大いに意見があると云う程でも無いんですが、近頃僕が取調べた所では、概略ずこんな訳なんです。日本ばかりでなく、支那にも昔から山鬼さんき又は野婆やばなどと云う怪物の名が伝えられています。山鬼は日本で云う山男或は山𤢖のたぐいで、野婆は即ち山姥やまうばでしょう。もっとも地方によっその名をことにするようで、日本でも奥羽地方では山人やまびとと云い、関東地方では山男と云い、九州地方では山𤢖やまわろと云い、ここらでも主に𤢖と呼ぶようです。そこでその𤢖なるものは元来何であるかと云うと、大和民族の我々よりも早く既にの本土に棲んでいた人種で、其中そのうちにはアイヌもありましょう、所謂いわゆる土蜘蛛という穴居けっきょ人種もありましょう、又は九州の熊襲くまそやからもありましょう。ういう野蛮人種が我々大和民族と闘って、ある者はほろぼされた、ある者は山奥へ逃げ込んだ。の逃げ込んだ奴等が深山幽谷しんざんゆうこくあいだに隠れて、世間普通の人間とは一切の交通をって、何千年か何百年かの長い間、親から子、子から孫とその血統を伝えて来たもので、かく人間には相違ないんです。現に誰も知っている一例を挙げれば、肥後ひごの山奥にある五個ごかしょうです。壇の浦でほろびた平家の残党はの山奥に身を隠して、其後そのご何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。」

成程なるほど……。」と、巡査は酷く感心して聴いていたが、市郎は少しくかしらを傾けた。

「君の説も一応は道理もっともように聞えるが、五個の庄の住民ははり普通の人間で、決して𤢖や山男のたぐいでは無いと云うじゃアないか。」

「無論さ。」と、忠一は首肯うなずいて、「五個の庄の住民はいずれも平家に由縁ゆかりの者で、彼等は久しく都の空気を呼吸していた。平家の公達きんだち殿原とのばらその当時における最高等の文明人種であったのだ。したがって彼等が如何いかなる山村僻地に流落りゅうらくしても、ある程度までは自己の有する文明を維持して行く力をっていたから、子孫相伝えてかく今日こんにちに至ったのだ。これに反して、のアイヌや土蜘蛛の種族は元来の野蛮人種で、最初はじめから自己の文明というものを所有していないから、彼等が山に隠れ、谷にひそんで何十代を送るあいだには、野蛮の程度がいよいよ加わるのみで、むし漸々だんだんに退化して、人間か獣か区別が付かぬようになってしまったのだ。昔から山𤢖や山男と云うのは即ちこれだ。頼光らいこう足柄山あしがらやまから山姥のを連れて来たと云うのが実説ならば、の金太郎と云うのは即ち山𤢖の一人いちにんで、文明の教育を受けた結果、後に坂田金時さかたのきんときという立派な勇士になったのだろう。」

成程なるほど……。」と、巡査は又首肯うなずいたが、市郎と冬子はだ腑に落ちぬらしく、霎時しばしは黙って考えていた。広間の方には坊さんでも来たのか、かねを叩く音が低く聞えた。


(四十八)


う云う理屈であるから、我々の先祖は勝利者で、𤢖わろの先祖は敗北者で、我々が𤢖を恐るる筈は無いのだ。けれども、先祖の歴史をくわしく知らぬ我々が、何百年ののち、不意に山奥で異形いぎょうの者に出逢うと、何か一種の魔者まものであるかのように考えられて、跡をも見ずして逃帰にげかえるという事になる。又、彼等は先祖代々深山幽谷しんざんゆうこくに棲んでいるから、山坂を駆歩かけあるくことは普通の人間よりも素捷すばやいであろうし、腕力もまた強いかも知れない。したがって種々いろいろの臆説がそれからそれへと附会ふかいされて、何だか神秘的の色彩を帯びた怪談が伝えられるようになってしまったのだ、要するに𤢖は、人間が漸次しだいに退化して所謂いわゆる猿人えんじんに近くなったものだと思えばい。」

 忠一が息もかずに弁じるのを、市郎はしずかさえぎった。

「まあ、待ち給え。君の議論も一通りはわかったよ。けれども、長い年月のうちには、うか云う機会で𤢖を生捕いけどる事もありそうなものだ。し生捕って調べたらば、総ての疑問はうに解決されている筈だ。日本にも昔から種々いろいろの冒険者もあれば、勇士もある。誰かの𤢖を生捕るとか退治するとか云う人もありそうなものだったが……。」

「そんなことも無いでは無かったが、おしむらくはこれを研究するほどの熱心家ねっしんかも無し、学者も無かったらしい。現に今から百余年ぜん、天明年間に日向国ひゅうがのくに山中やまなかで、猟人かりゅうどが獣を捕る為に張って置いた菟道弓うじゆみというものに、人か獣か判らぬような怪物がかかった。全身が女の形で色が白く、赤裸まっぱだかで黒い髪を長く垂れていた。猟人等は驚いて、これおそらく山の神であろうと、のちたたりを恐れて捨てて置いたら、自然に腐って骨にってしまったと、橘南谿たちばななんけい西遊記せいゆうきに書いてある。これなども山𤢖の女性であったに相違ないが、徒爾いたずらに腐らしてしまったのはおしい事であった。同じく西遊記に山𤢖の事も記してあったと記憶している。昔から諸国にんな例も沢山あったのだろうが、ただの一地方の夜話よばなしに残るだけで、識者しきしゃが研究の材料にはのぼらなかったのだ。いや、ういう例について、もっと面白い話が有る。これは日本の出来事じゃアないが、現に英国での𤢖を取押とりおさえた人の実話だ。まあ、聞き給え。」

 忠一の研究談はつくる所を知らなかった。人々も耳をすましていた。

「何でも西暦千七百二十年頃の事だ。プットバリーの講師にレヴェレンド・シメオン・ピジョンと云う人があった。この人のやしき屡々しばしば家禽かきんを何者にか盗まれる。土地の者はこれをピキシーと云う怪物の仕業だと昔から唱えていたが、講師はこれを信じなかった。で、暗い晩に鶏小舎とりごやの蔭に隠れて待っていると、例の如く午前一時頃に何者か忍んで来た。何でも小児こどものような奴であった。講師は不意に飛び出して取押とりおさえようとすると、賊は刃物を振廻ふりまわして激しく抵抗した。何しろ、其奴そいつの正体を見届けようと思って、講師は燐寸まっち擦付すりつけると、対手あいてにわかに刃物をほうり出して、両手で顔を隠してしまった。」

「むむ。」と、市郎も思わず蒲団から乗出のりだした。彼も𤢖に対して、ピジョン氏と同じような経験をっているからであった。

「そこで難なく取押とりおさえて、貴様は何者だと問うたが、賊は何とも返事をない。かくうちの中まで引擦ひきずって行こうとしたが、燐寸の火が消えると共に、対手あいては再び強くなって、講師を突き退けて何処どこへか逃げて行ってしまった。が、の一刹那せつなに講師が認めた彼の姿は、極めてせいの低い、殆ど赤裸あかはだかで、皮膚の色は赭土色あかつちいろで……。」

 云う事毎ことごとに符合しているので、市郎も巡査も同時に叫んだ。

「むむ、それから……。」

「それから講師が現場げんじょうを調べて見ると、そこには賊の刃物が落ちていた。く研究すると、これは古代の羅馬人ローマじんが持っていた短いけんたぐいであった。而巳のみならず、その附近にはローマンケーヴと昔から呼ばれている岩穴が有る。それやこれやを綜合して考えると、賊はピキシーと云う怪物ばけものでも何でも無い、おそらく古代の羅馬人であろうと鑑定した。が、土地の者は容易にこれを信じないで、はりピキシーの仕業だと云っていたので、講師は更にう云う説明を加えた。」


(四十九)


 𤢖わろの正体も漸々だんだんに判りかかって来た。忠一はしわぶきして又語り続けた。

「ピジョン講師の説明にると、その羅馬人ローマじんが英国へ侵入して来た時に、その一部が戦闘たたかいけての地方へ逃げ込んで来た。が、もとより敵地であるから、到る処で追詰おいつ追巻おいまくられた結果、山の奥深く逃げこもってしまった。その子孫が相伝えて今日こんにちに至ったのである。と云ったら、男ばかりあつまっていて、うして子孫が絶えぬかと云う疑問がおこるに相違ないが、彼等は夜に乗じてふもとの里へくだって、見当り次第に小児こどもさらって行く。で、女のは生長するのを待って結婚する、男のは自分達の眷族けんぞくにしてしまう。勿論もちろん、同族結婚などを頓着とんちゃくしているのでは無い。ういう風であるから、肉体も精神も漸次しだいに退化して、殆ど猿のような野蛮人になってしまったが、にかくに今日までその血統をつないでいられたのである。しかし彼等が漸々だんだんほろびて行くことは争われぬ道理で、昔に比べると其人数そのにんずも非常に減って来たに相違ない。やがては自然とほろつくすであろう。で、彼等は平生へいぜい日光ひのめを見ない穴の中に隠れ棲んでいて、暗い夜になるとひそかに出て歩く。その習慣が幾代も続いて来たので、眼の働きが甚だ弱いものになってしまって、火のような強い光線に出逢うと、眼をいては居られないようになったのである。又、彼等の皮膚が赭土色あかつちいろってしまったのは、生れてから死ぬまで岩石や赭土の中に棲んでいる為である。体躯からだ小児こどものように小さいのは、同族結婚や野蛮生活によって身体の発育が衰えた為である。と、う云うのだ。」

「いや、解りました。よく解りました。」と、塚田巡査がまず第一に降伏した。

成程なるほどうかも知れませんねえ。」と、冬子も再び兄に反抗する勇気は無かった。

「実際、そうだろう。君もちっとのに大分研究したね。」と、市郎も笑った。

 三人を目前に説破せっぱした忠一は、おのずから得意の肩をそびやかすようになった。

「であるから、この虎ヶ窟に棲む山𤢖なる者の正体は、大抵想像するにかたからずで、はり前に云ったような種類に相違ないんです。それにしても、文字もんじが彫ってあると云うのはすこぶる面白い問題で、文字もんじの解釈ができたら、𤢖の正体はいよいよ確実に判りましょう。」

うです、然うです。明日みょうにちは是非御案内をましょう。今日は丁度ちょうどい処へ来合きあわせまして、種々いろいろ有益なお話を伺いました。岐阜や高山から出張している同僚の者にも、参考の為にく云い聞かせましょう。」

 塚田巡査が喜んで帰ったあとは又寂寞しずかになった。

「馬鹿馬鹿しいの、つまらないのと云うものの、君の阿父おとっさんがんなことになろうとは、実に夢にも思わなかったよ。」と、忠一は今更のように嘆息して、「一体の𤢖なる奴が、何故う執念深く君の一家に祟るのだろう。新聞にると、お杉ばばあ種々いろいろの原因をしているようだが実際うなのか。」

「さあ、それは僕にも判然はっきりとは解らないが、うもう解釈するより他は無いのさ、僕の祖父じじいも𤢖に殺されたそうだが、親父もまた今度のような事になった。究竟つまり一種の因縁とでも云うのだろうよ。」と、市郎も嘆息した。

「むむ、それから……。」と、忠一は思い出したように、「あの柳屋の女ね、確かお葉と云った女だ。新聞の記事にると、彼奴あいつも何か今度の一件について、関係があるらしいじゃないか。妙な事があるもんだね。」

「いや、関係があると云う訳でも無いらしいが……。」と、市郎は冬子をみかえって、「にかく親父がさらわれた日に、お杉ばばあさそわれて山へ行ったことは真実ほんとうさ。何故行ったか判らないが、少し狂気染きちがいじみた女だから、何だか夢のようにふらふら出掛けたらしいよ。で、あくる日茫然ぼんやり帰って来たんだ。警察の方でも無論これに目をけて、再三取調べたけれども更に要領を得ない。実際、親父の死については何にも知らないらしいんだ。」

「それでうした。」

うも仕方が無いさ。相変らず柳屋へ帰って、唄なんぞうたっているそうだ。」

暢気のんきな奴だな。しかの女の事だから、うだろうよ。」と、忠一も笑い出した。


(五十)


 忠一はその夜、安行の霊前に通夜した。あくる日はくもって寒かった。が、そんなことに余り頓着とんちゃくする男では無いので、草鞋穿わらじばきの扮装いでたち甲斐甲斐かいがいしく、早朝から登山の準備にとりかかっていると、約束をたがえずに塚田巡査が来た。活発なる若い学生と勤勉なる若い巡査とは、相携あいたずさえて角川家を出発した。

「兄さん、気をけておでなさいよ。」と、冬子はかどまで送って出た。

「心配するなよ。𤢖わろを五六匹お土産みやげに持って来るから、𤢖汁わろじるでもこしらえる支度をして置くがいさ。」と、冗談を云いながら兄は去った。

 巡査はの事件以来、日々にちにち通い馴れているので、険阻けんそ山路やまみちも踏み迷わずに、森を過ぎ、岩を越えて、難なく虎ヶ窟の前に辿り着いた。足の達者な忠一は巡査にちっともおくれなかった。

 窟の入口には落葉を焚いて、一人の警部と二人の巡査が張番はりばんしていた。重太郎や𤢖が何時なんどき旧巣ふるすへ帰って来るかも知れぬので、過日来かじつらい昼夜交代で網を張っているのである。塚田巡査は挨拶した。

「どうです、奴等は姿を見せませんか。」

「影も形も見せないよ。多分山奥へ逃籠にげこもってしまったのかも知れないが、これだけの所を山狩やまがりするのも大変だからなあ。」と、警部も少しくんだ形であった。

 塚田巡査の紹介によって、忠一はただちに穴へ入ることを許された。巡査の案内に従って、松明たいまつを片手に奥深く進み入ると、この頃は昇降の便利を計る為に、横木よこぎわたした縄梯子なわばしごおろしてあるので、幾十尺の穴をくだるに格別の困難を感じなかった。二人は中途に突出とっしゅつしたる岩に立って、霎時しばらく四辺あたりてらた。

「この岩の上です。角川の阿父おとっさんの屍体がよこたわっていたのは……。」と、巡査が指さして教えた。忠一は粛然として首肯うなずいた。

「まあ、順々に御案内しますが、𤢖の棲んでいたのはこの下の穴です。」

 巡査が松明を振翳ふりかざす途端に、遠い足下あしもとの岩蔭に何かは知らず、金色こんじきの光を放つ物が晃乎きらりと見えた。が、松明の火のうごくにしたがって、又たちまちに消えた。

「おやッ。」と、忠一も共に火をかざしたが、岩にさえぎられて何にも見えなかった。

「何でしょう、今光ったのは……。」

「さあ。」と、巡査は考えて、「何だか知らんが時々に光るのです。けれども、光線の工合で見える時もあり、見えない時もあるのです。私も過日このあいだから不思議に思っているのですが……。」

 う云いながら、巡査は無闇に松明を振廻ふりまわすと、火の光は偶中まぐれあたりに岩蔭へ落ちて、さんたる金色こんじきの星の如きものがやみうかんだ。が、あれと云う間に又朦朧もうろうと消えてしまった。

「何だろう。」

かくも行って見ましょうか。」

 好奇心に駆られた二人は、松明を振廻ふりまわしながら更に降った。

「ここらでしたね。」と、巡査はあても無しに又もや松明を振廻ふりまわすと、忠一も四方をてらしてた。が、ここぞと思うあたりには何物をも見出さなかったので、二人は失望の顔を見合せて立った。

「不思議ですね。」

うも不思議ですね。」

 鸚鵡おうむ返しの声が終らぬうちに、忠一の持った松明の火先ひさきが左へ揺れると、一けんばかり下の大岩のあいだに又もや金色こんじきが閃いた。

「あ、彼処あすこだ。」と、二人はおどって飛び降りた。岩はさながら獅子が口を明いたような形で、のどとも云うべき奥の処から、怪しき金色こんじきの光を発するのであった。二人は松明を差付さしつけて窺うと、これは意外、幾百年を経たりとも見ゆる金のかぶとであった。

 山𤢖の棲家に金の兜を発見するとは、豚小屋から真珠を掘出ほりだしたようなもので、何人なんぴとも想像の及ばぬ所であろう。歴史の智識に富んでいる大学生は、早くもこれを鎌倉時代の物と見た。五枚じころ大兜おおかぶと、これが火の光に映じて輝いたのであった。それにしても、こんな貴重な物がうしてに隠してあったのか。𤢖が何処どこからか盗み出して来たのか、ただしは𤢖以前にもに棲んだ者があるのか。忠一も即座に判断は付かなかった。

 兜は岩の上に据えられた。げにも由緒ありげな宝物ほうもつである。忠一も霎時しばしは飽かず眺めていたが、やがて手に取って打返うちかえして見ると、兜の吹返ふきがえしの裏には、「飛騨判官藤原朝高ひだのほうがんふじわらのともたか」と彫ってあった。


(五十一)


「飛騨判官というのは何者でしょうな。」と塚田巡査は首をかしげた。

「飛騨判官朝高という人は、かつ飛騨国ひだのくに地頭職じとうしょくを勤めたことが有るように記憶しています。左様さよう、何でも鎌倉時代の中葉、北條時宗ほうじょうときむね頃の人でしたろう。蒙古もうこ退治の注進状ちゅうしんじょうの中に、確か此人このひと連名れんみょうもあったかと思いますが……。いや、それは調べればすぐに判ります。何しろ、面白いものを掘出ほりだしましたよ。」

 忠一はの歴史的遺物発見について、すくなからぬ興味を覚えたらしく、大事そうに金のかぶとを捧げてった。

「それから例の不思議な文字もじというのは、何処どこにあるんですか。」

「あの岩穴の中です。」

 巡査は先に立って少しく登った。ここはさきの日に、巡査等が𤢖わろ戦闘せんとうを開いた古蹟こせきである。低い穴を横にくぐって奥深く進んで行くと、天井はようやくに高くなった。ここを行き過ぎると、更に広い場所へ出た。行止ゆきどまりのように見えて、実は狭い間道ぬけみちのある所であった。

「𤢖はの穴から逃げたのです。」と、巡査は残念そうに云った。

「ああ、そうですか。」と云いながら、忠一は何心なにごころなく四辺あたりを見廻したが、たちまあッと叫んだ。

 ここにも彼を驚かすものが有った。それは累々るいるいたる人間の骸骨で、規則正しく順々に積み上げてあった。年を経て全く枯れたる骨は、松明たいまつの火に映じて白く光っていた。更に仔細に検査すると、下の方に敷かれた骨は普通の人よりもやや大きい位であるが、上の方へ行くにしたがって骨格が漸々だんだんに縮まって、終局しまいには殆ど小児こどものように小さくなった。これを見ても彼等が漸次しだいに退化したことが證明しょうめいされる。忠一は自己の想像のあやまらざりしことを心ひそかに誇った。

「これです。御覧下さい。」

 巡査のかざす松明はかたえ石壁せきへき鮮明あざやかてらした。壁は元来が比較的にひらたい所を、更に人間の手にってなめらかに磨かれたらしい。おもてには何さま数十行の文字もんじらしいものが彫付ほりつけてあった。忠一は眼鏡を拭って熱心に見詰めていた。

「どうも文字もじのようですな。」と、巡査がみかえると、忠一は黙って首肯うなずいたが、やが衣兜かくしから手帳を把出とりだして、一々これを写し始めた。石のおもてには所々ところどころけた所があるので、全く写しおわるまでにはすくなからぬ困難と時間とを要した。巡査もこんく待っていた。

「これはたしか蒙古もうこの字です。僕には全部は判りませんが、所々はおぼろげにその意味が推察されます。」と、忠一は手帳をしまいながら、「これによって考えると、の𤢖なるものはげんの蒙古の子孫らしい。彼等が隠していた飛騨判官の兜と対照して研究したら、すこぶる面白い歴史上の事実を発見するかも知れません。ただ、蒙古の人間がうしてんな山中に隠れ棲んでいたかと云うことが甚だ疑問ですが、東京へ帰って蒙古語専攻の学者にの文章を読んで貰い、又一方に飛騨判官の伝記を調べて見たら、秘密は自然に解決されるでしょう。何しろ、お庇様かげさま種々いろいろの興味ある発見をました。」

 二人は再び縄梯子を伝って、穴の入口へ登った。窟の前にたむろしていた警部等も、金の兜には驚いた。

何処どこに有ったのです、そんなものが……。」と、皆口々に問い寄るので、忠一はその概略を説明した上で、これは何人なんぴとわたくしすべきもので無い、事件が落着するまでは何分よろしく保管を頼むと云えば、警部等も快く承諾した。で、兜は警官の手に渡して、二人は早々そうそう下山の途に就いた。

 やがてふもとちかづいた頃、忠一はある樹根きのねに腰をかけて草鞋わらじを結び直した。巡査はこれを待つあいだ不図ふと何を見出したか、たちま疾風しっぷうの如くに駈け出して、あなたの岩蔭へ飛び込んだ。忠一は呆気あっけに取られて見送っていると、霎時しばらくして巡査は悄々すごすご引返ひっかえして来た。

うしたんですか。」

「今あの岩の蔭に重太郎の隠れているのを見付けましたから、すぐ追掛おっかけて行ったのですが、彼奴あいつ中々足がはやいので、たちまち見えなくなってしまいました。残念なことをたです。」

 巡査は酷く口惜くやしそうであった。


(五十二)


 それから又二三日過ぎた。忠一は実家と角川家とのあいだを往来しながら、熱心に飛騨の古い歴史を研究して、飛騨判官の伝記及び彼と蒙古との関係を明白あきらかにすべく努めていた。

 一時は口もかれぬ程の重態であった坑夫ていの負傷者も、医師の手当てあてよって昨今少しく快方に向ったので、警官はただちに取調とりしらべを始めた。彼は中々の横着者おうちゃくもので、最初はじめ兎角とかくに自分の素性来歴を包もうと企てたが、要するにれは彼の不利益におわった。彼が不得要領ふとくようりょう申立もうしたてをすればるほど、疑惑うたがいの眼はいよいよ彼の上にそそがれて、係官は厳重に取調とりしらべを続行した。

 で、ある時係官がお杉と重太郎との身上みのうえついて彼に語り聞かせて、お前をきずつけた当の相手はおそらく行方不明の重太郎であろうと告げるや、彼はにわかに色を変えて、「う云えば過日このあいだ、虎ヶ窟で見付けたばばあの死骸はうもお杉にていると思いましたよ。悪いことはできねえもんだ。私は実のせがれに斬られたんです。」と、ここに初めて自分の暗い秘密を打明うちあけた。

 彼は重太郎の父の重蔵であった。今から殆ど三十年以前に、彼は角川家を出奔して、お杉と共に諸国を流浪るろうして歩いた。が、頼むべき親戚みよりもなく、手に覚えた職もないので、彼は到る処で種々しゅしゅの労働に従事した。其間そのあいだにも酒や博奕ばくちや女狂いや、悪い道楽は何でも為尽しつくした。うなると、二人が仲にも温かい春の続こう筈はない。年上で嫉妬深いお杉は、明暮あけくれに夫の不実を責めて、ある時はお前を殺して自分も死ぬとまで狂いたけった。重蔵はいよいよお杉に飽いた。が、蛇の申子もうしごと噂された程のお杉の執念は、あくまでも夫に附纏つきまとうて離れなかった。彼は幾度いくたびかお杉を置去おきざりにして逃げようと企てたが、何日いつも不思議にの隠れ家を見付みつけ出された。

あたしを捨てて逃げるような料見だから、お前さんは一生涯ろくなことは無い。終局しまいには必然きっとむご死様しにようをするよ。」と、お杉は鬼のような顔をして、常に夫を呪った。重蔵はいよいよお杉に飽いた。飽いたと云うよりもむしろ恐れたのであった。そんな状態ありさまで幾年かを無意味に送るあいだに、お杉は懐胎して重太郎を生んだが、産後の肥立ひだち不良よくないので久しく床に就いた。其隙そのすきを窺って重蔵は逃げてしまった。

 今度はう諦めたのか、ただしは病中の為か、流石さすがのお杉も執念深く追っては来なかったので、これを幸いに重蔵は又もや漂泊さすらいの旅路にのぼった。或時あるとき土方どかたとなり、或時あるときは坑夫となって、それからそれへと際限はてしもなく迷い歩くうちに、二十年の月日は夢と過ぎた。彼の頭には白髪しらがえた。先頃までは加賀のあたりに徘徊していたが、近来飛騨に銀山がひらかれて、坑夫を募集しているという噂を聞込ききこんだので、彼は同じ仲間の熊吉くまきちと云う老坑夫をさそって、殆ど三十年ぶり故郷ふるさとの土を踏んだのである。

 変遷のいちじるしからざる山間さんかんの古いしゅくではあるが、昔に比ぶれば家も変った、人も変った、自分も老いた。誰に逢っても昔の身上みのうえを知られる気配きづかいもあるまいと多寡たかくくって、彼は平気で町中まちなかを歩いた。旧主人きゅうしゅじんの角川家の前も通った。しゅくを抜けて村境むらざかいまで出ると、日が暮れかかって来て、加之おまけに寒い雨が降って来た。目ざす銀山まではまだ三里もあるので、二人は其処そこらで野宿をすることに決めた。

 ここらの案内は重蔵がく心得ているので、彼は熊吉を導いて樅林もみばやしの奥へ入った。木立の深い処には、人をるるに足るほどの天然の土穴つちあな所々ところどころに明いているので、二人はここへもぐり込んで、雨を避けながら落葉を焚いた。のままに眠ってしまえば、彼等は平和に夢を結ばれたのであろうが、かかやからの癖として重蔵は懐中ふところから小さなさい取出とりだした。二人は焚火のそばで賽の目の勝負を争った。

 かかる賭博に喧嘩の伴うのは珍しくない。二人は勝負の争いからたちまちに喧嘩を始めて、熊吉は燃未了もえさしの枝をるより早く、重蔵の横面よこつらを一つなぐった。熱いのと痛いのとで眼がくらんだ重蔵は、衣兜かくしから把出とりだした洋刃ないふを閃かして、矢庭やにわに敵の咽喉のど一抉ひとえぐりにした。が、腹立紛はらたちまぎれに人を殺したものの、わが眼前めのまえよこたわれる熊吉の屍体を見ては、彼もにわかに怖しくなった。

「どうしたらかろう。」と、彼は犯跡はんせき湮滅いんめつついて考えた。


(五十三)


 重蔵は不図ふと𤢖わろを思い出した。この殺人事件をして𤢖の所為しょいであるかのようによそおって、ひとの目をくらまそうと考えた。彼は熊吉の屍体を抱き上げて、咬殺かみころした如くに疵口きずぐちを咬んだ。が、なお不安に思われるので、更に洋刃ないふを以ての顔の皮をぎ取った。衣服きものも剥いで赤裸あかはだかにしてしまった。うして置けば手懸てがかりも付くまいと、今度はその死骸を引抱ひっかかえて行って、一ちょうばかり先の小川のほとりへ捨てて来た。

 この時、村の方から松明たいまつの火がちかづいて、大勢の人声や跫音あしおとが乱れて聞えたので、すねきず持つ彼は狼狽うろたえて逃げた。しかも人里の方へ逃げるのは危険だと悟ったので、彼は案内知ったる山の方へ逃げ込んだ。雨はますます降って来たので、彼はある大きな岩蔭に隠れて、眠るとも無しに一夜を明かした。夜が明けると、雨は止んだ。けれども、ふもとでは昨夜さくやの殺人事件の詮議が厳しかろうと推察されるので、彼はただちに山をくだるほどの勇気は無かった。今日きょう一日は山中に潜伏して、日の暮るるを待って里へ出る方が安全であろうと、ひもじい腹を抱えて当途あてども無しに彷徨さまようちに、彼はおおいなる谷川のほとりに出た。

 瞰上みあぐれば我が頭の上には、高さ幾丈の絶壁が峭立きったっていて、そこはの虎ヶ窟なることを思いあたった。若い男と女とが社会のうるさい圧迫をのがれて、自由なる恋をたのしんだ故蹟こせきである。

「俺もあの時は若かったな。」

 重蔵もそぞろに三十年ぜんの夢を辿って、谷川のながれに映る自己おのれの白髪頭を撫でた。それに付けてもお杉はうしたろう。生きては俺を恨んでいるだろう、死んでは俺を呪っているだろう。

「俺も悪いことをた。」と、彼は今更のように悔恨の情に打たれた。が、のお杉は二十年ぜんから旧巣ふるすへ戻って、加之しかも今やおいたるかばねを窟の底によこたえていようとは夢にも思い及ばなかった。何はあれ、ここは屈竟くっきょうの隠れ家である。万一、𤢖が昔のままに棲んでいるならば、これに乞うて何等なんらかの食物を得て、一時の空腹をしのごうとも思った。その昔、𤢖を友としていた重蔵は、ほかの人のように𤢖を恐しい者とも思わなかった。むしふるい友達を尋ねて、当分の隠れ場所を借りようかぐらいに思っていたのである。

 彼は窟に暫く棲んでいたので、岩穴からの川辺へ抜け出る間通かんどうを心得ていた。彼はただちにその穴を見出して、蛇のようにもぐり込むと、暗い中であたかの市郎に出逢ったのであった。市郎は彼が家出ののちに生れたであるから、相互たがいに顔を見識みしろう筈はなかったが、其詞そのことばはしよって、重蔵は早くも彼が角川家のせがれであることを悟った。で、一旦は其奇遇そのきぐうに驚いたが、今はんなことを詮議する場合でない。彼は頼まるるままに角川家へ使つかいするつもりで、かくも窟の外へ走り出た。

 外へ出ると、又もや重太郎に逢った。が、これも相互たがいに顔を見識みしらなかったので、二十年ぶりで初めて邂逅めぐりあった現在の父と子が、ここたちまち敵となった。二人は引組ひっくんだままで崖から転げ落ちると、下には幸いに熊笹が茂っていたので、身体には別に怪我けがもなかった。けれども、格闘たたかいのままにまなかった。二人はここで又もや組討くみうちを始めたが、若い重太郎は遂においたる父を捻伏ねじふせた。彼は母のかたきと叫びつつ、持ったる洋刃ないふを重蔵ののど差付さしつけたのである。

 急所を刺された父は殆ど気を失って倒れた。重太郎はおそら何処いずこへか立去たちさったのであろう。それから塚田巡査に発見されるまでは、重蔵も夢心地で何にも知らなかった。

 おいたる浮浪者の懺悔ざんげこれおわった。

「私も女房や子を捨てて逃げました。友達を殺して逃げました。それだけの罪でもろくなことの無いのは当然あたりまえです。二十年ぶりで現在の子に邂逅めぐりあいながら、その手にかかって殺されると云うのも自然の因縁でしょう。う何もも白状してしまえば、私は人殺しの犯人ですからうせ無事には済みますまい。いっのまま死んでしまって、地獄にいるお杉に謝った方がうございます。」

 彼の眼には悔恨の涙が見えた。警官も医師もの自殺をおそれて昼夜警戒していたが、彼は一旦快方におもむいたにもかかわらず、爾来じらい再び模様が悪くなって、囈言うわことのようにんなことを叫び続けた。

「お杉……堪忍してれ。俺が悪かった。お杉……お杉……重太郎……。熊吉、ゆるしてれ。熱い、熱い、地獄の火が……。」

 くして、三日ののちに重蔵は死んだ。人間の運命は不思議なもので、彼は故郷こきょうの土とるべく、偶然にここへ帰って来たのであった。


(五十四)


 十一月も中旬なかばになった。

 飛騨の冬はいよいよ迫って来て、霜はやがて雪となるらしい、鯨の群のような黒い雲が山から里へおおって来た。この三日ばかりは日も見えなかった、風も吹かなかった。ただ天地暗澹あんたんうちに、寒い日がしずかに暮れて、寒い夜がしずかに明けた。この沈黙は恐るべき大雪をもたらす前兆である。里の人家ではいずれも冬籠ふゆごもりの準備にかかった。

 午後三時、一人の青年わかもの村境むらざかいの小高い丘に立って、薄暗い町のかたを遠く瞰下みおろしていた。彼は重太郎である。大方の冬木立は赤裸あかはだかになった今日此頃このごろでも、もみの林のみは常磐ときわの緑を誇って、一丈に余る高い梢は灰色の空をしのいで矗々すくすくそびえていた。この深林しんりんを背景に、重太郎は無言の俳優やくしゃとして舞台に立っていた。

 彼は恋しいお葉と泣いて別れた。更に父と知らずして父をきずつけた。お葉が形見の山椿の枝を抱えて、一旦はその場から姿を隠したが、流石さすがに遠くは立去たちさらなかった。彼は木間このまや岩蔭に潜んで、絶えず其後そのごの模様を窺っていると、安行も死んだ、お杉も死んだ、𤢖わろ一人いちにんも死んだ。その屍体はいずれも里へ運び去られたのである。

 安行や𤢖の死については、彼は何にも考えなかったが、お杉の死は彼の胸を深くえぐった。二十年来この窟に隠れ棲んで、殆ど人間との交際をっていた母子おやこ二人は、さながら車の両輪の如き関係であった。今やその母をうしなって、彼は殆ど片輪かたわになってしまった。さき、母から十日の内には死ぬと云い聞かされた時には、彼は心ひそかにお葉というものを頼みにしていた。が、それも希望のぞみの綱が切れた。彼は枝を離れた木葉このはのように、風のまにまに飛んで行くより他は無かった。

 ここばかりが自分の天地でないことは、重太郎も流石さすがに知らぬでは無かった。母に別れ、お葉に離れて、必ずしもの山奥に棲んでいる必要は無いと思った。けれども、窟の底には母に教えられた大切の宝が有る。これ持出もちだしてひとに売れば、自分は大金満家おおがねもちになれるのである。乞食をないでも済むのである。ここを立去たちさる前に、の宝を持出もちださねばならぬと、彼は昼夜このあたりを徘徊して、ひそかにい機会を窺っていたが、の事件以来、窟には多数の警官が絶えず見張っているので、彼も迂濶うかつ踏込ふみこむ隙を見出し得なかった。

 と云って、のままに立去たちさるほどの断念あきらめは付かぬ。断念の付かぬのも無理はない。重太郎は宝に心をひかされて、徒爾いたずらに幾日かを煩悶のうちに送った。勿論もちろん、普通の人とは違って、山に馴れたる彼は寝床や食物には困らなかった。岩を枕にして眠った、木実このみを拾って食った。くして日をくらあいだに、塚田巡査に一度見付けられたが、幸いに逃れた。

「あの宝はおれの物だ。俺が持って行くのに不思議があるものか。」

 重太郎はうも考えた。けれども、自分の姿を見ればただちに追跡する警官等が、その理屈をいてれるや否やをあやぶんだ。警官等は自分の敵であると彼は一図いちずに信じていた。いっ腕力付うでづくで奪い取ろうかとも考えたが、剣をびたる多数の警官と闘うことは、彼も流石さすがはばかった。この場合、味方と頼むのは多年同棲したる𤢖であるが、彼等もその以来何処どこへ隠れたか姿を見せぬ。母と友とに離れたる孤独の重太郎は、ここらあたりを出没して空しく夜と昼とを送っているのであった。

 其間そのあいだも彼は山椿の枝を放さなかった。紅いつぼみくに砕けてしまったが、恋しき女の魂魄たましいが宿れるもののように、彼はの枯枝を大事に抱えていた。

 今日もようやく暮れかかって来た。灰色の低い雲は町の空一杯に拡がっていた。

「雪が来るな。」と、重太郎も思った。

 更に山の方を振返ふりかえって見ると、三方崩さんぽうくずれの彼方あなたから不思議な形の黒雲くろくも勃々むくむくと湧き出して来た。例えば大入道のような怪物が黒い衣服きものすそを長くいて、太い片腕を長く突き出したような形で、しずかに北の空から歩んで来た。重太郎は眼も放さずに怪物のちかづくのを仰ぎた。

 普通の人はこれを不思議の雲と見るであろうが、重太郎は更にこれを不思議の物と見た。彼はこれを一種の悪魔であると思った。あの雲が出る時には必ず人間にわざわいがあると、小児こどもの時から母に教えられたのであった。

 現在の重太郎に取っては、里の人間は総て我が敵であると云ってもい。の里に向って、悪魔は天をかけり行くのである。彼は云い知れぬ一種の愉快を感じて、なおも雲の行方を睨んでいると、黒い悪魔の手は漸次しだいに拡がって、今や重太郎の頭の上を過ぎた。

 彼は思わずひざまずいて、天を拝した。


(五十五)


 日は全く暮れた。悪魔のような黒雲くろくもは町から村へと大きな手を拡げてしまった。ここに有るほどの家も人も、総て悪魔の黒い袖の下に包まれたのであった。

 今までは凍り着いたように静寂しずかであった町も村も、にわかに何となくさわがしくなった。鴉や雀は何物にか驚いたように啼き出した。犬もしきりに吠え出した。山の方では猿が悲しそうに叫び出した。重太郎も一種の不安を感じて、何のも無しに丘を駈け降りた。

 鳥の声は又止んだ、犬や猿も啼き止んだ。天地は再びもと寂寞せきばくかえったかと思うと、灰のようなこまかい雪が音もせずに降って来た。ういう前触まえぶれの気配を以て降って来た雪は、一丈に達せざれば止まぬのである。重太郎も骨に沁むような寒気さむさを覚えた。

「山へ帰って焚火でもようか。」

 懐中ふところを探ると、燐寸まっちの箱は空虚からであった。彼は舌打したうちして明箱あきばこほうり出した。此上このうえは何とかして燐寸を求め得ねばならぬ。重太郎は思案して町のかたへ歩み去った。燐寸の尽きたる時、これを人家より盗み去るのは彼が年来のならいであった。

 今もこの目的で彼は町のかたへ忍び出た。こまかい雪は益々烈しく降って来た。

 しゅくへ入ると、大方の家は既に戸を閉じていた。雨風を恐れぬ重太郎も、この雪には流石さすがおもてを向けられぬので、なるべく人家の軒下を伝って歩くと、暗い町の中でただ一軒、燈火あかりの外へれる家を見た。かどには枯柳が骸骨のように立っていた。

「ああ、柳屋か。」

 重太郎の血はにわかに沸いた。眼に見えぬ糸にかるるように、彼はふらふら門口かどぐちに窺い寄ると、奥には春めいた空気がみなぎって、男や女の笑い声が聞えた。やがて三味線の音が冴えて聞えた。


美濃みのの柳と、近江おうみの柳。

風のまにまにもつれてけて、

国は違えど、恋はする。


 唄の声はまさしくお葉であった。重太郎は枯柳にひし取付とりついて、酔えるように耳をすましていた。雪はいよいよ降頻ふりしきって、重太郎も柳も真白まっしろになった。

 糸のが止むと、又もや話声はなしごえや笑い声が聞えた。其中そのなかにお葉の声も聞えるかと、重太郎はなおも耳を傾けていた。

 客ははり鉱山に関係の人らしい、よいを帯びた調子は高かった。

うだい、到頭とうとう降って来たらしいぜ。過日このあいだから催していたんだから、滅多めったに止むまいよ。困ったもんだ。」

いじゃありませんか。うせ寒いうちは休みでしょうから、当分はここのうち冬籠ふゆごもりをさいよ。」と、若い女の声。これはお葉ではなかった。

「だが、雪が降って食物くいものが無くなると、𤢖わろが山から里へ出て来ると云うじゃアないか。迂濶うっかり酔倒よいたおれている処を、さらって行かれちゃア大変だからね。ははははは。」

「大丈夫、𤢖は何処どっかへ行ってしまってよ。」と、今度はお葉の声であった。

「ほんとうに過日このあいだ騒動さわぎは大変だったわねえ。」と、若い女が相槌あいづちを打った。

あたしあの騒動さわぎじゃアひどい目に逢ってしまった。」と、お葉が口惜くやしそうに云った。

「お前も𤢖にさらわれたんだと云うじゃアないか。」と、客は笑った。

「嘘よ。あたしはお杉ばばあ魔法遣まほうつかいに電気を掛けられて、夢中でふらふら行ったんですわ。だから、何にも知りゃアないのに、警察では種々いろいろな詮議をして……。ほんとうにいやになってしまった。角川の大旦那が殺されたと云うことも、うちへ帰ってから初めて聞いた位ですもの……。」

「でも、若旦那は運がかったのね。」と、若い女の声が聞えた。

「そうさ。あやうくお杉ばばあに殺される所を、若旦那が早く気がいたんで、お杉の方が反対あべこべに穴の底へ墜落おっこちて死んだんですとさ。何でも人の話で聞くと、お杉婆の身体は粉微塵こなみじんになって居ましたとさ。」

 この説明はお葉の口から出た。これと聞くや重太郎はにわかに顔色を変えた。彼は懐中ふところから秘蔵の洋刃ないふ把出とりだして、例の「千客万来」の行燈あんどうの火できった。

 雪には少しく風がまじって来た。


(五十六)


 燐寸まっちを盗む為に里に出た重太郎は、今や柳屋のかどに立って、思いも寄らぬ秘密を聴き出したのであった。彼は理由をくもたださずに、の怪しき坑夫ていの男を母のかたき一図いちずに思い定めて、その場を去らずに彼を刺止さしとめた。これで復讐の役目ははたしたものと信じていた処が、今この人々の話を聞くと、それは自分の思い違いで、当の仇は角川市郎であった。自分に取っては恋の仇とも云うべき角川市郎であった。重太郎は驚きかついかって、思わず拳を握った。

 母の仇は必ず討つと、彼はさきの日お杉に誓ったのである。その仇の名は今やお葉の口かられた。気の短い重太郎はう一刻も猶予はならぬ、仇の血をるべき洋刃ないふ把出とりだして、彼はにわか身繕みづくろいした。奥では又もやお葉の笑い声が聞えた。が、恋しい人のなまめかしい声も、熱したる彼の耳にはう入らなかった。復讐の一念に前後をかえりみぬ重太郎は雪を蹴立てて手負猪ておいじしのように駈け出した。

 角川の家ではだ眠らなかった。市郎の傷もようやえて、此頃このごろは床の上に起き直られるようになったので、看病の冬子は一旦わが家へ帰った。今日は忠一が昼から遊びに来ていたが、この雪の為に今夜は泊る事となって、市郎の枕辺まくらもとで相変らず𤢖わろの研究談に耽っていた。

「雪が降ると世間がしずかだね。」

「殊にここらは山奥だもの。」と、市郎は笑って、「まあ、これから来年の春までは、蛇や熊のように穴籠あなごもりをして居るんだよ。」

「穴籠りと云えば、𤢖の奴等はこの雪にうしているだろう。」と、忠一は自ら問い、自ら答えて、「あんな奴等だから、雪のけるまで何処どこかの穴にでももぐっているだろうね。」

「そうだろう。しかしあの以来、𤢖の噂も消えたようだよ。まあ、いい塩梅あんばいだ。何しろ、金のかぶとは掘出物だったよ。」

「あれが真実ほんとうの掘出物と云うのだろう。僕も県史や飛騨誌などを調査した結果、飛騨判官朝高という人物の伝記も大抵判った。𤢖はいよいげんの蒙古に疑い無しだ。」

「そうかねえ。」

 この時、庭の竹藪でがさりと云う音が聞えた。忠一は話をめて耳を立てた。

「何、竹が折れたんだろう。」

「いや。」と、忠一は考えて、「竹の折れる程はつもるまい。𤢖じゃアないか。」と、笑いながらなおも耳をすましていた。

 音もせぬ雪は一時間のうちほどつもったらしい。庭には雪を踏む跫音あしおとがさがさと聞えて、雨戸の外へ何者か窺い寄るような気息けはいを感じた。二人は顔を見合わした。

「いよいよ𤢖かな。」

真逆まさか……。」と、市郎は笑った。

 何者か雨戸に触れた。南天なんてんつもっている雪がばらばらと落ちた。忠一はって縁側の障子を明けると、外の物音は止んだ。忠一は続いて雨戸を明けた。一面に降頻ふりしき粉雪こゆきは、戸を明けるのを待って居たように、庭の方からたちまさっと吹き込んで来た。

「や、ひどく降るな。」と、忠一は袖で顔を払った。それから更に庭を見渡したが、白い木立、白い竹藪、そのほかには何にも見えなかった。

「じゃア、風か知ら。」

 云ううちに、彼は雪にいんせる人の足跡を見付けた。たしかに人の足である。加之しかも入口のほうから庭伝いに縁先へ来て消えている。何者か忍び込んだに相違ない。忠一はいよいよ眼を輝かして四辺あたりを見渡したが、雪明ゆきあかりではうも判然はっきりと解らぬ。

鳥渡ちょいと燈火あかりを貸し給え。」

 彼は洋燈らんぷ持出もちだして庭をてらすと、足跡はたしかに残っているが、人の形は見えぬ。なお燈火あかり彼地此地あちこちへ向けているうちに、雪は渦巻いて降込ふりこんで来た。袖でおおひまも無しに、洋燈らんぷの火は雪風ゆきかぜに吹き消されて、へやの内はにわかに闇となった。

 忠一は引返ひっかえして燐寸まっちを擦ろうとする時、一個ひとりの小さい人間が闇に紛れてひらりと飛び込んで来た。重太郎は縁の下に潜んで内の様子を窺っていたのである。暗い中でも眼の鋭い彼は、洋刃ないふ逆手さかて振翳ふりかざして直驀地まっしぐらに市郎の寝床へおどかかった。


(五十七)


 何者か知らぬが、不意に庭から飛び込んで来たので、忠一は早くも背後うしろから組付くみついた。重太郎はいらって振放ふりはなそうと試みたが、此方こなたも多少は柔道の心得があった。

「こん畜生、温順おとなしく降参しろ。一体、貴様は何だ、何者だ。」

 重太郎は物をも云わなかった。羽翅締はがいじめの身をもがきながら、洋刃ないふを逆にして背後うしろを払うと、切先きっさきは忠一が右のひじかすった。これで思わず手をゆるめる隙を見て、彼は一足踏込ふみこんで当のかたきの市郎に突いてかかると、対手あいては早くもね起きて、有合ありあよぎを投げ掛けたので、小さい重太郎は頭から大きい衾をかぶって倒れた。

「占めたッ。」

 忠一は衾の上からのりかかって押えた。が、何しろ暗いので始末が悪い。

「早く燈火あかりを持って来い。燈火を……燈火を……。」と、市郎が呼んだ。

 雪は降ってもだ宵である。入口のを囲んでいた人々は、この声を聞いてばらばらって来た。ある者は手に洋燈らんぷを持った。

「何です、うしたんです。」と、皆口々に問うた。

「賊だ、賊だ。賊を取押とりおさえたんだ。」と、忠一は叫んだ。

「何、賊だ。」と、人々は眼を皿にして衾の周囲まわりどやどやあつまった。重太郎は土龍もぐらもちのように衾の下でうごめくのであった。が、彼も流石さすがに考えた。かかる始末となって多勢たぜい取巻とりまかれては、到底とても本意ほんいを遂げることは覚束おぼつかない。一旦はここを逃げ去って、二度の復讐を計る方が無事である。と、う考えたので、彼は故意ことさらに小さくなって、さながら死せるようにしずまっていた。対手あいて温順おとなしいので、忠一も少しく油断した。

燈火あかり此方こっちへ出し給え。にかくんな奴だかつらを見てるから……。」

 云いつつしずかに衾をめくると、待構まちかまえたる重太郎は全身の力をめてえいやとね返したので、不意をくらった忠一は衾を掴んだまま仰向けに倒れた。重太郎は洋刃ないふを閃かして矗然すっくった。と思うと、たちまちに人の袖をくぐって、縁先から庭へひらりと飛び降りた。

「あ、逃げた。」

 人々は続いて追った。忠一も歯噛はがみをして追った。重太郎は狐のように雪を飛んで、早くも門外まで逃げ去った。

 けれども、あくまで不運なる彼はここで又もや強敵に逢った。巡回中の塚田巡査があたかもここへ来合きあわせて、角燈かくとうの火をの鼻の先へ突付つきつけたのである。重太郎もこれには少しくひるんだ。

 背後うしろからは忠一を先に、角川家の人々が追って来た。前には巡査が立っている。敵に前後を挟まれた重太郎は、ず当面の邪魔をはらうにしかずと思ったのであろう、刃物をふるって巡査に突いてかかった。巡査はたいかわして其利腕そのききうでを掴んだが、降積ふりつむ雪に靴を滑らせて、二人は折重おりかさなって倒れた。

 忠一は駈け寄って其襟髪そのえりがみを取ろうとしたが、の場合、身体の小さいと云うことが重太郎に取っては非常の利益であった。彼は早くも忠一の足の下をくぐって這い抜けた。加之しかも二けんばかりは四つ這いになって走って、又ひらりあがった。犬だか人だか判らぬ。

「賊だ、賊だ。」と、人々は口々に叫びながら追った。

 この騒ぎを聞付ききつけて、町の家々でも雨戸を明けた。「賊だ、賊だ。」と叫ぶ声がそれからそれへと伝えられた。重太郎は哀れや逃場にげばを失った。それでも彼はなお一方の血路けつろを求めて、ある人家の屋根へ攀登よじのぼった。茅葺かやぶき板葺こけら瓦葺かわらぶきの嫌いなく、隣から隣へと屋根を伝って、彼は駅尽頭しゅくはずれの方へ逃げて行った。

 追手おって漸次しだい人数にんずを増して、前からうしろから雪を丸めて投げた。雪礫ゆきつぶてを防ぐ手段として、重太郎も屋根から石を投げた。雪国のならいとして、板屋根には沢山の石が載せてあるので、彼は手当てあたり次第に取って投げた。石のつぶてと雪の礫とが上下うえしたから乱れて飛んだ。

 しかも敵は益々えるばかりである。何処いずこも同じ彌次馬やじうまが四方からあつまって来て、警官や忠一等に声援を与えた。其中そのうちに長い梯子はしご持出もちだして来る者もあった。塚田巡査は靴を脱いで屋根に登った。二三人の消防夫も続いて登った。う肉薄して来られてはたまらぬ。重太郎も流石さすが根負こんまけがして、遂に屋根から飛び降りた。ただし往来の方へ出るのを避けて、彼は裏手のかたへ飛んだ。


(五十八)


 重太郎の飛び降りたのは、美濃屋みのやという雑穀屋ざっこくやの裏口であった。追手おって一組ひとくみは早くも駅尽頭しゅくはずれの出口をやくして、の一組はただちに美濃屋に向った。ここらの町家まちやは裏手に庭や空地あきちっているのがならいであるから、巡査等は同家どうけ踏込ふみこんでず裏庭を穿索せんさくした。が、縁の下にも庭の隅にも重太郎の姿は見えなかった。

 見えないのも道理で、重太郎はここへ飛び降りると、すぐに垣根を乗越のりこえて、隣から隣へと四五軒も逃げた。折から烈しく降る雪は、彼の小さい足跡をただちにうずめ消して、人には鳥渡ちょっと判らぬのであった。

「この雪の降るのに何を騒いでいるんだろうねえ。」

 お葉は独語ひとりごとを云いながら裏庭の雨戸を明けた。柳屋の客も女も、この騒ぎを聞附ききつけて、いずれも表へ見物に出たが、お葉は「何の、つまらない。」と云う風で、先刻さっきから一人残っていたのである。彼女かれは大分酔っていた。

 雪風ゆきかぜに熱い頬を吹かせながら、お葉はいい心地こころもち庭前にわさきを眺めていると、松の樹の下に何だか白い物の蹲踞しゃがんでいるのを不図ふと見付けた。どうやら人のようである。

「誰だい。そこにいるのは……。」と、お葉は試みに声をかけた。

 声のぬしを早くもれと知ったのであろう、白い物は勃々むくむくと起きあがって、縁のさきへ忍んで来た。障子をるる燈火ともしびの光にすかしてると、それは雪だらけの重太郎であった。先刻さっきからの格闘たたかいで疲れたと見えて、流石さすがの彼も切なそうに肩で息をしていた。

「まあ、じゅうさん。」

 お葉も少しく意外に驚いて、霎時しばらくその顔を眺めていた。雪は小歇おやみなく降っていた。

燐寸まっちれないか。」と、重太郎は低い声で云った。

「燐寸がほしいの。そんなものは幾許いくらでも上げるけれども、一体どうして今頃こんな所へ来たのさ。」

かたきを討ちに行ったんだ。」

何処どこへ……。」

「角川のうちへ……。」

 お葉はいよいよ驚いて、縁から半身はんしん乗出のりだした。

「それでうしたの。仇を討ったの。」

 重太郎は口惜くやしそうにかしらった。

「角川の息子を殺してろうと思って行ったんだけれども、見付かったんで無効だめだった。それから大勢に追掛おっかけられて、やッとまで逃げて来たんだ。」

「じゃア、今のさわぎはお前さんだね。だが、角川の若旦那を何故殺そうとしたの。」

阿母おっかさんの仇だ。」

「どうして……。」

先刻さっき、お前がう云ったのを聞いていた。おらが表に立っていると、お前が人に話していたんだ。」

 お葉は又驚いた。自分の口からんな騒ぎが出来しゅったいしたとは、今の今までちっとも知らなかったのである。

「そりゃア間違いだよ。お前さんの鑑違かんちがいだよ。なるほど、あたしう云ったけれども、若旦那が手をおろしてお前の阿母おっかさんを殺したんじゃアない。お前の阿母さんが背後うしろから不意に突こうとするのを、若旦那が気がいて急にけたもんだから、阿母さんは自分で踉蹌よろけて墜落おっこちたんだよ。究竟つまり、お前の阿母さんの方が悪いんだよ。ね、考えて御覧ごらん。」

 考えて見ろと云われて、重太郎は素直に考えていた。

「一体を云えば、お前さん達の方が仇なんだよ。角川の大旦那を殺したのは誰だえ。お前の阿母おっかさんや𤢖わろだろう。それだから、若旦那の方こそお前さん達をうらんでもいのに、お前さんの方で反対あべこべに若旦那を怨むなんて、早く云えば外道げどう逆恨さかうらみで、理屈が全然まるで間違っているんだよ。ね、うだろう。く考えて御覧。」

 再び考えろと云われて、重太郎は又考えた。いかに野育のそだちの彼でも多少の理屈は呑込のみこめるのである。加之しかこれはお葉の説教である。復讐に凝固こりかたまった彼の頭脳あたまの氷も、愛の温味あたたかみで少しくめて来たらしい。

「そうかなあ。」と、彼は嘆息ためいきいた。

「そうさ。解ったろう。」

 重太郎は黙って又考えていた。表でも裏でも大勢のわやわや云う声が聞えた。


(五十九)


 さきの日、椿の枝を折って別れてから、お葉は重太郎を憎んで居なかった。うらむまじき人を怨んだのは、彼の料見違りょうけんちがいには相違ないが、人並ならぬ彼にむかって深くこれを責むるのは無理である。にかく市郎の身につつがなかったのは何よりの幸福さいわいであったと、お葉は安堵の胸を撫下なでおろすと同時に、我が眼前めのまえに雪を浴びて、狗児いぬころのようにうずくまっている重太郎を哀れに思った。

「何しろ、此方こっちへおでよ。」

 お葉は重太郎の手を取って、えんに腰を掛けさせた。

いよ。追手おっての人が来たら隠して上げるから、安心しておいで。お前さん、寒かアないかい。」

 お葉は座敷へかえって、徳利とくり洋盃こっぷとを持って来た。

「おかん熱過つきすぎているかも知れないが、一杯お飲みよ。温暖あったかになるから……。」

「こりゃア何だ。」

「お酒だよ。飲んで御覧ごらんあたしのおしゃくですよ。」

 重太郎はお葉の酌で、満々なみなみがれたる洋盃を取った。が、生れてから今日こんにちまで酒と云うものの味を知らぬ彼は、熱い酒を飲むにえなかった。彼は一口飲んでたちませ返った。

「熱いの。」と、お葉は微笑ほほえんだ。重太郎は顔をしかめて首肯うなずいた。

 お葉は更にって縁先えんさきに出た。左の手には懐紙ふところがみを拡げて、右のかいな露出あらわに松の下枝したえだを払うと、枝もたわわつもった雪の塊は、綿を丸めたようにほろほろと落ちて砕けた。の白い一片ひとかけを紙に受けて、「さあ、これでめて上げるよ。」

 つめたい雪はお葉の白い手から洋盃に移された。重太郎は無言で雪と酒とを一所いっしょに飲んだ。が、口に馴れぬ酒ははりにがいと見えて、彼は二口ふたくちばかり飲んで洋盃を置いた。

うまくないの。これを飲むと温暖あったかになるんだけれども……。」と、お葉は笑った、「じゃア、あたしけて上げますよ。」

 お葉はの洋盃を取って、一息にぐっと飲み干した。重太郎は眼を丸くして眺めていたが、やがて懐中ふところから椿の折枝おりえだ把出とりだして見せた。いかに大切にしていても、過日このあいだから水もらずに我肌わがはだに着けていたのであるから、つぼみすでに落ちつくした、葉も已に枯れ尽して、枝も已に折れていた。恋しい人の形見と思えばこそ、花も葉もないんな枯枝を、彼は幾多の不便を忍んで今まで身に添えていたのであろう。

「お前さんも可愛い人ねえ。」

 お葉の眼には涙が見えたが、って再び座敷へかえった。とこ花瓶はないけにはの椿が生けてあって、手入ていれ所為せいでもあろう、紅い花は已に二輪ほど大きくほころびていた。彼女かれその枝を持って出た。

「これ、御覧ごらん。お前さんに貰った花は、あたしの方でも大事にして、の通りに花を咲かしてあるよ。」

 重太郎は手に取って、紅い花をつくづく眺めた。彼は自分の魂魄たましいこの花に宿って、お葉の温かきなさけを受けているようにも思った。

「どうだい、よく咲いたろう。」

「むむ。」と、重太郎もましげに答えて、なおも飽かずにその花を眺めていたが、「ねえ、この花を一つれないか。」

「ああ、ほしければ上げますよ。丁度ちょうど二輪咲いてるから、お前さんとあたしとで一個ひとつずつ分けようじゃアないか。」

 二輪の花を折って縁側にならべると、重太郎は一個ひとつを取った。

「紙に包んで上げよう。」

 お葉は白い紙に紅い花を軽く包んで渡すと、重太郎は菓子を貰った小児こどものように、莞爾にこにこしながら懐中ふところに収めた。

「お前さん、これからうするの。」

「宝物を持出もちだして何処どこかへ行くんだ。」

「宝物ッて、金のかぶとじゃア無いの。」

「むむ、何でもんなものだ。」

「そりゃアう駄目。警察の方で引揚ひきあげてしまったと云うことよ。」

「そうかい。」

 重太郎も驚いて声を揚げた。その声が度外どはずれに高いので、お葉は慌てて四辺あたりみかえった。


(六十)


 母に別れ、棲家すみかを失った今の重太郎に取って、唯一の依頼たのみというのはとうとき宝であった。それを手に入れたいばかりで、彼は厳重なる警官の眼をくぐりつつ、今日きょうまであたり漂泊さまよっていたのである。しか希望のぞみの光は今や消えた。

おらり乞食をするよりほかは無いんだなあ。」と、彼は泣かぬばかりに嘆息した。実際、彼は泣くにも泣かれぬ絶望の淵に沈んだのである。

「ほんとうに可哀そうだねえ。」と、お葉も共に嘆息した。親戚みよりも無し、職業しょうばいも無し、金も無いの人が、これから他国を彷徨うろついて、末はうなることであろう。何時いつまでも乞食をしているよりほかはあるまい。いや、の乞食すらも満足にできるかうだか解ったものでは無い。うなると、人間よりも犬の方がいっましである。お葉は犬にも劣った重太郎の不幸に泣いた。

 が、二人は何時いつまでも泣いている場合でなかった。追手おっては美濃屋の庭を探しつくして、更に両隣をあさり始めた。人の声が漸次しだいちかづいた。警官の角燈かくとうが雪に映じて閃いた。

「あ、此方こっちへ来たよ。」

 お葉が眼をいてあがると、重太郎も無言でった。雪を踏む大勢の跫音あしおとが隣にちかづいて来た。

 危険がようやく迫ると知って、重太郎の眼はにわかけわしくなった。彼は例の野性を再び発揮したのであろう、洋刃ないふ逆手さかてに持って庭の真中まんなかに進み出た。

其方そっちへ行っちゃア危ない。此方こっちからそっと出る方がい。」

 お葉は素足で雪を踏んで、庭口の裏木戸をおとせぬように明けると、重太郎は何にも云わずに走って出た。何を思い出したか、お葉は急に「あ、鳥渡ちょいと……。」と呼び止めたが、重太郎は見返りもせずに駈けて行った。

 たとい乞食をするにしても、土方どかたをするにしても、これからほか土地へ行こうと云うには、多少の路銀ろぎんが無くてはならぬ。咄嗟とっさあいだにお葉はこれを思い出したのであった。

 彼女かれは慌てて又もや座敷へ引返ひっかえして、有合ありあ燐寸まっち我袂わがたもとに入れた。更に見廻すと、とこわきには客の紙入かみいれが遺してあって、人はまだ誰も帰って来なかった。お葉はその紙入から札と銀貨を好加減いいかげんに掴み出して、数えもせずに紙にくるんだ。これ懐中ふところ押込おしこんで、彼女かれも裏木戸から駈け出した。

 この時、塚田巡査を先に四五人の追手おってが裏口へ廻って来た。素足で雪の中を駈けて行くお葉の姿を不思議と見たのであろう、巡査は角燈かくとうかざして呼び止めたが、お葉は聞かぬふりをして駈抜かけぬけてしまった。

「変な奴ですな。」と、忠一が云った。

「あれはうちのお葉という女ですが……。」と、云いながら巡査も考えた。不徳要領ふとくようりょうの為に一旦は釈放したものの、お葉は𤢖わろ一件について何等かの関係ありげにも見ゆる女である。それが今この場合に雪中を跣足はだし駈歩かけあるくのは、何か仔細があるらしくも思われるので、巡査も職掌柄、すぐその跡を追って行った。

 夜の雪はますます烈しくなって来た。風もまた吹きつのって来た。天から降る雪と地に敷く雪とが一つになって、真白まっしろ大浪おおなみ小波こなみが到る処に渦を巻いて狂った。の凄じい吹雪ふぶきの中を、お葉は傘もさずに夢中で駈けた。

じゅうさん……。重太郎さん……。」

 声は吹雪にへだてられて聞えないので、重太郎の小さい姿は十けんばかりの先に見えつ隠れつしながらも、お葉は容易に追い止めることができなかった。加之しかも風の吹き廻しで、声は却ってあとの方へ響くので、巡査は彼女かれが重太郎を呼ぶ声を聞いた。忠一の耳にもお葉の声が聞えた。重太郎の名を聞いてはいよい捨置すておかれぬ、巡査も人々も続いてその跡を追った。が、何分にも眼口めくちつ雪が烈しいので、人々は火事場のけむりせたように、殆ど東西の方角が付かなくなって来た。

 この中でも、お葉は例の本性を発揮して、あくまでも強情に吹雪をいて進んだ。しゅくを出ると風も雪もいよいよ強くなって来た。山国の冬に馴れたる彼女かれは、泳ぐように雪を掻いて歩んだ。が、心は矢竹やたけはやっても彼女かれはり女である。村境むらざかいまで来るうちに、遂に重太郎の姿を見失ったのみか、我も大浪おおなみのような雪風ゆきかぜに吹きられて、ある茅葺かやぶき屋根の軒下につまずき倒れた。雪は彼女かれの上に容赦なく降積ふりつんで、さながら越路こしじの昔話に聞く雪女郎ゆきじょろうのようなていになった。

 この茅葺かやぶきは隣に遠い一軒家であった。加之しか空屋あきやと見えて、内は真の闇、しずまり返って物のおとも聞えなかった。


(六十一)


 お葉は雪を払いつつ又起きあがった。酒のよいも全く醒めてしまった。

 彼女かれ流石さすが狂人きちがいではない。吹雪ふぶきの中を的途あてども無しに駈け歩いたとて、重太郎の行方は知れそうも無いのに、何時いつまで彷徨うろついているのも馬鹿馬鹿しいと思った。

「もう諦めて帰ろうか。」

 それにしても生憎あやにくに雪が酷い。かくも一時をしのぐ為に、彼女かれ空屋あきやの戸を明けようとすると、なかばちたる雨戸は折柄おりからの風に煽られてはたと倒れた。お葉は転げるように内へ入った。

「おお、寒い。」と、彼女かれは肩をすくめつつ四辺あたりを見廻すと、暗いいえの中には何物も無かった。更に雪明ゆきあかりですかしてると、土間の隅には二三枚の荒莚あらむしろが積み重ねてあったので、お葉はこれ持出もちだしてかまちの上に敷いた。腰をおろしてさてほッと息をくと、彼女かれは今更のように骨に寒気さむさを感じた。

 何か焚火でもする材料は無いかと、お葉は急に我がたもとを探ると、重太郎にろうと思って折角せっかく持って来た燐寸まっちは、何時いつの間にか振落ふりおとしてしまった。仕方がないと舌打したうちしながら、倒れた戸のあいだから表を覗いて見ると、風も雪もますますれて来た。こんな所に何時いつまでも躊躇ぐずぐずしていたら、こごえて死んでしまうかも知れぬ。夜の更けぬちっとも早く帰った方が怜悧りこうだと、お葉はびんの雪を払いつつ、ゆるんだ帯を締直しめなおしてった。

 この時、がさがさと雪を踏む跫音あしおとが聞えて、何者か門口かどぐちへ走り寄ったらしい。もしや重太郎か、ただしは追手おっての者かと、お葉は眼を据えてすかひまに、人か猿か判らぬような者が雪を蹴ってちょこちょこと飛び込んで来た。加之しかれは二人ふたりであった。と思うと、あとから又一人入って来た。後の一人は色の白い女を抱えているらしい。

「おや、何だろう。」

 お葉も不思議に思った。暗い隅の方へ身を退いて、霎時しばらくの様子を窺っていると、新しく入って来た三人は一種奇怪な声を出してキキと笑った。その声はたしか記憶おぼえがある。さきの日の虎ヶ窟で聞いた山𤢖やまわろの叫び声であった。𤢖はの雪の夜に、何処どこからか若い女をさらって来たのであろう。お葉はいよいよ驚きあやしんで、なおひそかに成行なりゆきを窺っていた。

 家の中は何分なにぶんにも暗いので、お葉は女の顔をく見ることができなかったが、その顔を知ったらば彼女かれは更に驚いたに相違ない。今や𤢖にさらわれて来た若い女は、の吉岡の冬子であった。𤢖は何故なにゆえに冬子を奪い出して来たのであろう。彼等の料見は到底普通の人間の想像しべきかぎりでないが、にかくある罪悪を犯すべき犠牲いけにえとして、若い処女しょじょを担ぎ出して来たものと察せられた。冬子は口に桃色の手巾はんかちーふ捻込ねじこまれているので、泣くにも叫ぶにも声を立てられなかった。

 我が恋のかたきとも云うべき冬子がかかる危難に陥っていると知ったら、お葉は此際このさいんな処置を取ったであろう。が、表よりるるおぼろ雪明ゆきあかりでは、お葉にれと判然はっきり解らなかった。彼女かれは単に𤢖の餌食えじきとなるべき若い女の不幸をあわれんで、何とかしてこれすくってりたいと思ったのである。しか対手あいては𤢖三人で、此方こっちは女一人、迂濶うっかり加勢に飛び出したら自分もんな酷い目に遭うかも知れぬ。お葉は息を殺してなおも窺っていると、彼等はしきりにキキと笑いながら冬子を荒莚あらむしろの上に投げ出した。

 冬子も一生懸命である。もすそを乱して一旦は倒れたが又たちまね起きて、脱兎だっとの如くに表へ逃げ出そうとするのを、𤢖は飛びかかって又引据ひきすえた。お葉もう見てはられぬ。さりとて何等の武器をも持たぬ彼女かれは、咄嗟とっさあいだに思案を定めて、頭にしている銀のかんざしを抜き取った。

 目前の獲物に気を奪われていた𤢖共は、暗い中から突然おどり出たお葉の姿に驚くひまもなく、彼女かれ逆手さかてに持ったる簪の尖端とがりは、冬子に最も近き一人いちにんの左の眼に突き立った。不意と云い、急所と云い、彼は猿のような悲鳴を揚げて倒れた。

「𤢖の畜生ちきしょうめ。何をやアがるんだ。早く何処どっかへ行ってしまえ。」と、お葉は勝誇かちほこって叫んだ。思いも寄らぬ救援すくいの手を得た冬子は、まりのように転がってお葉の背後うしろに隠れた。

 けれども、敵はまだ二人ににんあましている。加之しか一人いちにんの味方をきずつけられた彼等は、いかってたけってお葉に突進して来た。洋刃ないふ小刀こがたな彼女かれ眼前めさきに閃いた。冬子も恩人の危険を見てはられぬ、這いながら一人いちにんの足に絡み付くと、𤢖は鉄のような爪先で強く蹴放けはなしたので、彼女かれ脾腹ひはらいためたのであろう、一旦は気を失って倒れた。𤢖は左右からお葉に迫った。

畜生ちきしょう……畜生……。」と、お葉はののしりながら逃げ廻った。


(六十二)


 追手おっての人々もおなじ村境むらざかいまで走って来たが、折柄おりからの烈しい吹雪ふぶきへだてられて、たがいに離れ離れになってしまった。其中そのなかでも忠一は勇気をして直驀地まっしぐらに駈けた。が、咫尺しせきも弁ぜざる冥濛めいもうの雪には彼も少しく辟易へきえきして、にぐるとも無しに空屋あきや軒前のきさきへ転げ込んだ。

 雪明ゆきあかりと一口に云うものの、白い雪もう一面に烈しく降って来ては雨と変らぬまでに天地は暗いのである。ましとざされたるいえの内は殆ど真の闇であったが、彼はあやうくも吹き倒されんとする雪風ゆきかぜしのぐ為に、かくも一歩踏み込もうとする途端に、内には怪しい唸声うなりごえ断続きれぎれに聞えた。

 彼はにわか立止たちどまって声するかたすかたが、生憎あやにくに暗いので正体は判らぬ。更に耳をすまして窺うと、声は一人ひとりでない、すくなくも二人ふたり以上の人が倒れてくるしんでいるらしい。さてはここにも何か椿事ちんじおこっているに相違ないと、忠一も驚いて身構えしたが、燐寸まっちを持たぬ彼はやみてらすべき便宜よすがもないので、抜足ぬきあししながら徐々そろそろと探り寄ると、彼はたちま或物あるものつまずいた。ひざまずいて探って見ると、これは女らしい、長い髪を乱して土にいて、その頬からのどあたりには生温なまあたたかい血が流れていた。

 忠一も一旦は悸然ぎょっとしたが、なおの様子を見届ける為に、倒れたる女を抱えおこして、比較的薄明るい門口かどぐちへ連れ出して見ると、まさしく女には相違ないが、もう息は絶えていた。

「これは一体何者だろう。」

 彼はなおその顔を見届けようと、おぼろ雪明ゆきあかり便宜たよりじっと見詰めている時、たちまち我が背後うしろあたって物の気息けはいを聴いたので、忠一は驚いてきっみかえると、物のおとは又んだ。雪風ゆきかぜはいよいよ吹きつのって、の一軒家は大地震おおじしんのようにめりめりゆらいだ。

 内にはこの女のほかにもだ何者か倒れて居る筈であるから、忠一は再び探りながら入った。が、不意にんな敵が襲って来ぬとも限らぬので、彼は大いに用心して、土間に身を伏して這いながら進んだ。かすか唸声うなりごえが左の隅に聞えたので、彼は其方そのほうへ探って行くと、一枚の荒莚あらむしろが手に触れた。莚を跳退はねのけて進もうとすると、何者かその莚のはしを固く掴んでいるらしい。更に探って見ると、はたしてにも人らしい者が拳を握って倒れていた。

 と思う途端に、又もや背後うしろに物音が聞えた。暗い中から猿のような者が刃物を閃かして来て、忠一のくびを刺そうとするのであった。はッと驚くと同時に、彼は幸いに這っていたので、矢庭やにわに敵の片足を取って引いて、倒れる所を乗掛のりかかっての胸の上に片膝突いた。

「貴様は何者だッ。」

 敵は何とも答えずに、力の限り跳返はねかえそうともがいたが、柔道を心得たる忠一は急所を押えて放さぬので、敵は倒れながらに刃物を打振うちふって、下から忠一ののどを突こうと企てた。が、右の腕もしかと掴まれたので自由がかぬ。敵は獣のような奇怪な声を絞って、しきりうなった。

「さあ、どうだ、降参しろ。」

 忠一は左に敵の腕を押えて、右の手で敵の喉輪のどわを責めた。敵は苦しそうに唸ってもがいていたが、もうかなわぬと覚悟したのであろう、一生懸命に跳返はねかえすと同時に、右の手に握ったる刃物を左に持換もちかえて、我と我が胸を力任せにえぐると、鮮血なまちさっほとばしって、上なる忠一の半面はんめんあけに染めた。なまぐさい血汐に眼鼻めはなたれて、思わず押えた手をゆるめると、敵の亡骸むくろがっくりと倒れた。

 目前の敵をたおし得た忠一は、ほッと一息くと共に、にわかかわきを覚えたので、顔に浴びたる血の飛沫しぶきぬぐいもあえず、軒の外へひらりと駈け出して、吹溜ふきだまりの雪を手一杯にすくって飲んだ。風は相変らず轟々ごうごうえて、灰ともけむりともたとえようの無い粉雪こゆきが、あなたの山の方から縦横上下じゅうおうじょうげに乱れて吹き寄せた。

 その雪烟ゆきけむりの中に迷うが如き火の光が一点ひとつ、見えつ隠れつ近寄って来たので、忠一は思わず声をあげて呼んだ。

「おうい、おうい。」

 火の光は漸次しだいちかづいた。それは全身に雪を浴びたる塚田巡査の角燈かくとうであった。

「やあ。」

「やあ。」

 双方が顔を見合みあわせて叫んだ。

「あなたはお早い。うここへ来ていたのですか。」と、巡査は雪を払いながら軒下に立った。

「まあ、早く燈火あかりを見せて下さい。ここに大勢の人間が倒れているらしいんです。」

 巡査は角燈をかざして内へ入った。


(六十三)


 今や角燈かくとうの火にてらいだされたる、の暗い空屋あきやの内の光景は惨憺さんたん、実に眼も当てられぬものであった。ず入口に黒髪を振乱ふりみだしてよこたわっているのはのお葉で、彼女かれは胸や肩やのどヶ所の重傷を負っていた。続いて眼に触れたのは醜怪なる𤢖わろ三人の屍体で、一人いちにんは眼をつらぬかれた上に更に胸を貫かれ、一人は脳天を深くさされて、荒莚あらむしろの片端をつかんだまま仰反のけぞっていた。最後の一人は左の手に小刀こがたなを持って、我と我が胸に突き立てていた。

 以上四人の浅ましさ屍体のほかに、あけみたる重太郎もまた倒れていたのは意外であった。そのかたわらには、彼の運命を象徴するような紅い椿の花が、地に落ちて砕けていた。

「もうこれだけかな。」

 巡査は更に四辺あたりを見廻すと、鮮血なまちにおいみなぎる家の隅に、なお一人いちにんの若い女が倒れていた。これが最も忠一を驚かしたのであったが、冬子は単に気を失っただけのことで、身には別に負傷の痕も無かったので、手当てあてのちに息を吹返ふきかえした。

 飛騨の山国の風雪ふうせつゆうべ、この一軒家に於て稀有けうの悲劇を演じたる俳優やくしゃうちで、わずか生残いきのこっているのは幸運の冬子一人いちにんに過ぎぬ。したがってくわしい事情は何人なんぴとも知るによしない。単に冬子の口供こうきょう基礎どだいとして、其余そのよ好加減いいかげんの想像を附加つけくわえるだけの事である。

 で、諸人しょにんの説はういうことに一致した。虎ヶ窟に棲める𤢖の眷族けんぞくは、其数そのかずはたして幾人であるか判らぬが、さきの日の市郎の為にの女性の一人いちにんうしなったのは事実である。其後そのご彼等は警官にわれて山深く逃げこもったが、食物はもあれ、女性の缺乏けつぼうということが彼等のあいだに一種の不足を感じたらしい。そこで彼等三人はの大雪に乗じて里にくだり、何処どこからか女をさらって行こうと試みた。これみこまれたのがの冬子で、彼等は吉岡家へ忍び寄って窺ううちに、便所へかよった冬子は手を洗うべく雨戸を明けたので、彼等は矢庭やにわに飛びかかって彼女かれを捉えた。なお其袂そのたもとから手巾はんかちーふ取出とりだして、声立てさせじと口にませた。くして冬子は、空屋あきやまで手取てど足取あしどりに担ぎ去られたのであった。

 空屋には偶然にものお葉が居合いあわせて、彼女かれは冬子をすくわんとして𤢖と闘った。そこまでの事は冬子も知っているが、気を失って倒れたのちの出来事はちっとも判らぬ。又うしてへ重太郎が引返ひっかえして来たか判らぬ。おそらくは烈しい吹雪にみちを失って、再びここまで迷って来ると、あたかもお葉が𤢖に殺されんとする所に会ったので、彼は又お葉をすくわんとして闘った。その結果、お葉も討たれ、重太郎も討たれた。𤢖二人ににんも枕をならべて死んだ。究竟つまり双方が相撃あいうちとなった処へ、忠一があとから又来合きあわせて、残る一人いちにんの𤢖も自殺を遂げるような事になったのであろう。

 ただこれは一種の想像に過ぎぬ。この以外にも彼等のあいだんな秘密の糸がつながれているかも知れぬ。普通の世間の出来事にも、人間の浅い智慧ちえでは想像や判断の付かぬことは幾許いくらも有る。まして𤢖やお杉や重太郎等の関係に至っては、尋常一様じんじょういちようの理屈を以て推断することはできまい。

 これで何百年来この山国をさわがした𤢖の眷族けんぞくも、はたして全滅したであろうか。あるいなお其余類そのよるいが山奥にひそんでいるであろうか。それは何人なんぴと返答こたえくるしむ所であるが、にかくの物語はお葉と重太郎の最期を一段落として、読者と別離わかれを告げねばならぬ。

 大雪は其後そのご幾日も降続ふりつづいて、町も村も皆うずめられた。悲劇の舞台たりしの一軒家は、三日目の夕暮に遂に潰されてしまった。


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 市郎と冬子の結婚は、安行死去の為に来年まで延期されたので、忠一は一先ひとまず東京へ帰った。それから半月ほど経ってのち、彼は市郎のもとへ長い手紙をよこした。𤢖に対する調査の報告書である。地方の各新聞は市郎に懇願して、いずれもその記事を紙上に連載した。

 原文はすこぶる長いものであるが、大略ういう事であった。


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 今から六百余年ぜん弘安年中こうあんねんじゅうに、げん蒙古もうこ大軍だいぐんが我が九州に襲って来た。北條時宗むかえ撃って大いにこれやぶったことは、およそ歴史を知るほどの人は所謂いわゆる元寇げんこうえき」として、たれそらんじている所である。

 この大戦たいせんに参加したのは九州の諸大名ばかりでない。鎌倉からも出征した、東海東山とうさん中国からも出征した。その当時、飛騨国ひだのくに地頭職じとうしょくは藤原姓をおか飛騨判官朝高ひだのほうがんともたかという武将で、彼も蒙古退治の注進状ちゅうしんじょうに署名したる一人いちにんであった。


(六十四)


 朝高は異国の敵を撃破うちやぶって帰った。彼は凱陣がいじん家土産いえづととして百人の捕虜をいて来た。飛騨の国人くにびとは驚異の眼を以て、風俗言語の全くことなれる蒙古の兵者つわものを迎えた。

 彼が捕虜をいて来たのは、単に其功名そのこうみょうを誇るが為では無かった。九州の戦闘たたかいに於て、最後の大勝利は幸いに我にしたけれども、初度しょど戦闘たたかい屡々しばしば我に不利益であった。敵のいしびやと我の弓矢とは、その威力に於ていちじるしい相違があった。朝高は早くもこれ看取かんしゅして、我も彼と等しき巨砲を作ろうと思い立ったのである。が、その製法を知る者は日本に無いので、彼は居城高山たかやま一里いちりの処へあらたに捕虜収容所を設けて、ここに百人の蒙古兵を養い、彼等に命じて異国の礮を作らせようと企てた。

 この時代に於てこの着眼はすこぶる聡明であると云わねばならぬ。が、彼の企画くわだては不幸にも失敗に終った。主将の意思は必ずしもうでは無かったのであろうが、敵を愛することを知らぬ部下の者共は、の異国の捕虜に対してはなはだしき侮辱と虐待を加えたので、彼等はあまんじて仕事に着かなかった。監督の武士と捕虜との間に日々にちにち衝突が絶えなかった。朝高も終局しまいには疳癪かんしゃくおこして、彼等をことごとく斬れと命じた。

 これが捕虜のあいだにもれたと見えて、百人の蒙古兵は風雨の夜に乗じて逃走を企てた。番兵が追掛おっかけてその幾人を捕え、その幾人を殺したが、の七八十人は山を越えて何処いずこへか姿を隠してしまった。飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げこもった以上は、容易に狩出かりだすこともできないので、余儀よぎなく其儘そのまま捨置すておいた。

 くて一年ばかりも過ぎると、或夜あるよ何者か城内へ忍び入って、朝高が家重代いえじゅうだい宝物ほうもつたる金のかぶとを盗み去ったのである。無論、その詮議は極めて厳重なものであったが、その犯人は遂に見当らなかった。あるいさきに逃走したる蒙古兵が、一種の復讐手段としてかかる悪事を働いたのではあるまいかと云う噂もあったが、たしかな証拠も無くて終った。兜の行方は遂に不明であった。

 朝高の家は三代でほろびた。其後そのご幾多の変遷を経て、豊臣氏時代から徳川氏初年までは金森かなもり氏ここを領していたが、金森氏が罪をてから更に徳川幕府の直轄ちょっかつとなって、所謂いわゆる代官支配地として明治まで引続ひきつづいて来たのである。で、この土地の人が𤢖わろの名を唱え初めたのは、何時いつの頃からか判然せぬが、古い昔にはんな噂も聞かず、そんな記録も残っていないのを見ると、おそらく前に記した蒙古一件以後の事ではあるまいか。に新しい発見がない限りは、の𤢖を以て蒙古人の子孫と見るのが正当の解釈であろう。

 彼等は収容所を逃れでて深山の奥に隠れた。で、のピジョン講師の説明した如く、人の目を避けて穴の中に世を送っていたのであろう。最初はじめは遠い山奥に棲んでいたので、の人間社会と接触する機会もすくなかったが、生活上の都合で漸次しだいに山奥からくだって来て、比較的に里へ近い虎ヶ窟に移り棲むようになったのではあるまいか。里人がの窟に対して、日本に無い虎という獣の名をかぶせたのも、何やら蒙古に関係があるらしくも思われる。里へちかづくにしたがって、彼等は折々に人間に出逢うことが有る。又必要に迫られて、人家の食物を奪い、婦女小児しょうにを奪うことが有る。人が𤢖の名を口にするに至ったのは多分この以後の事であろう。元来野蛮の蒙古人が山奥に棲むこと多年たねんのますます蛮化したのはあやしむに足らぬ。

 彼等の種族が漸次しだいに減って行くのもまた当然の結果である。しかなお連綿として六百余年の𤢖生活を継続しきたったのは、彼等が折々に里を荒して、婦女を奪い小児しょうにさらって行くが為に、辛くも子孫断絶をまぬかれ得たものと察せられる。ただ、いかに彼等が蛮化したとは云え、わずかに五六百年の深山生活によって、猿か人か判らぬまでにはなはだしく退化するや否やと云うことは、少しく疑問に属するのであるが、ず右の如くに解釈するよりほかはあるまい。

 窟の内に彫ってあった文字もんじまさしく蒙古の字で、自分等はげんたみであるが捕われてこの国にきたった。日本の大将が残酷に取扱とりあつかうので、同盟しての山中に隠れたと云う意味を記し、最後に数十人の姓名が連署してあった。金の兜もはたして彼等が盗み出したのであった。

 これれば、蒙古人がの窟に棲んでいたと云うことはすでに疑いもなき事実である。が、蒙古人即ち𤢖わろであるか。蒙古人はくに死絶しにたえて、更にの𤢖なる者がかわって棲むようになったのか。そこにはだ幾分の疑いが無いでもない。しかし岩穴の中で発見された多数の骨が、最初はじめは普通人以上の骨格を有し、れが漸次しだいに退化して小児こどものようになっているのを見ると、蒙古人が五六百年のあいだいちじるしく退化して、遂に𤢖となったとも云いべき相当の根拠が有る。

 是等これらの理由によって、吉岡忠一は𤢖を以て蒙古人の子孫と認めた。この以上の考證は、の識者を待つのである。

底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー

   2008(平成20)年35日初版第1刷発行

   2008(平成20)年35日初版第1刷発行

初出:「やまと新聞」

   1912(大正元)年1113日~1913(大正2)年121

※「市郎君」と「市朗君」の混在は、底本通りです。

入力:川山隆

校正:江村秀之

2013年811日作成

2013年918日修正

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