礫川徜徉記
永井荷風



 何事にも倦果あきはてたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔をはらつて、見ざりし世の人をおもふ時なり。

 見ざりし世の人をその墳墓にふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒暄かんけんの辞をのぶるにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。此方こなたより訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思にふけりて、去りたき時に立去るもしいて袖引きとどめらるるおそれなく、幾年月打捨ててかえりみざることあるも、軽薄不実のそしりを受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為人ひととなりを憶ふ。この心何事にもたとへがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味いささかこれに似たりともいはばいふべし。

 わが東京の市内に残りし古碑断碣だんけつ、そのなかば癸亥きがいとしの災禍に烏有うゆうとなりぬ。山の手の寺院にあるもの、幸にして舞馬ぶばわざわいまぬかれしといへども、移行く世の気運は永く市廛してん繁華の間に金石の文字を存ぜしむべきや否や。もしこれ杞人きじんの憂ひにあらずとなさんか、掃墓の興は今の世に取残されしわれらのわづかにこれを知るのみに止りて、われらが子孫の世に及びては、これを知らんとするもまた知るべからざるものとはなりぬべし。

 掃墓のかん事業じぎょうは江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴里パリーにありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にありてあまねく探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、『江戸名家墓所一覧』の一書を著せし老樗軒ろうちょけんの主人を以てまづはその鼻祖ともなすべきにや。『墓所一覧』の梨棗りそうのぼせられしは文政紀元の春なること人の知るところなり。

 春秋の彼岸は墓参の時節と定められたり。しかれども忘れられたる古墳を尋ねとむらはんには、秋の彼岸にはひあし既に傾きやすく、やうやうにして知れがたき断碑を尋出して、さて寺の男に水運ばせこけを洗ひつたはがして漫漶まんかんせる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影のはやくもうすつきてひぐらしきしきる声一際ひときわ耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。春の彼岸には風なほ寒くして雨の気遣きづかはるる日もまた多きをや。花見の頃は世間さわがしければ門をいづる心地もせざるべし。八重の桜も散りそむる春の末より牡丹ぼたんいまだ開かざる夏の初こそ、老躯ろうく杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ。長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも藪蚊やぶかいまだ来らず、醜草しこぐさなほはびこらざれば蛇のおそれもなし。苔蒸す地の上には落花なほみだれてあり。日の光にかがやく木の芽のうつくしさ雨に打れし墓石の古びたるに似もやらねば、亡き人を憶ふ心落葉の頃にもまさりてまた一段の深きを加ふべし。

 ことし甲子かっしの暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に表通おもてどおりも砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の泥濘ぬかるみも大方はかわきしかと思はれし昼過。まるうちより神田かんだを過ぎて小石川原町こいしかわはらまちなる本念寺ほんねんじ大田南畆おおたなんぽの墓を弔ひぬ。われ小石川白山はくさんのあたりを過る時は、かならず本念寺に入りて北山ほくざん南畆両儒の墓を弔ひ、また南畆が後裔こうえいにしてわれらが友たりし南岳なんがくの墓に香華こうげ手向たむくるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの兆域ちょういきにても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石はまったかりき。南岳の墓はもとのところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな土瓶どびんつゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして小波巌谷さざなみいわや先生書する所、石もまた巌谷翁のてて建てられしものなり。われ初て南岳とまじわりていせしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし蘇山人羅臥雲そさんじんらがうん平川天神祠畔ひらかわてんじんしはんの寓居においてなりけり。南岳いみなとおる野口幽谷のぐちゆうこくの門人なり。はじめ陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、素志をひるがえして絵事かいじに従へるなり。そのはじめ武を以て身を立てんと欲せしはその家世〻征夷府に仕へて徒士かちたりしによれるもの。南岳わかくして耳ろうせり。人と語るに音吐おんと鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月日魯にちろ両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を皷煽こせんし電車を焼き官庁を破壊す。輦轂れんこくの下巡邏じゅんらを見ざること数日に及べり。市民おのおのその欲する所をほしいままにする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至りいと御溝おほりに垂れて連日鯉魚十数尾をて帰りしといふ。また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員にひて、記念当日の消印けしいんを切手になつせしむ。南岳すなわち春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓にいたりて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て驚愕の声を発す。この時おそし南岳猨臂えんぴを伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つていわくこれまこと敝家へいかの宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その為人ひととなりおほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒状ほうじょうを得たり。褒賞授与の日川端玉章かわばたぎょくしょう手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これをうくることを欲せざるのみと。爾来ふたたび浮名を展覧会場に争はず。閑居自適し、時に薬草を後園に栽培して病者に与へ、また『田うごき草』と題する一冊子を刊刻してその効験を説く。人たわむれに呼んで田うごきのおきなとなせり。南岳また年々土中にかめを埋めて鈴虫を繁殖せしめ、新凉の節を待つてこれを知友にわかつ。南岳を知るものの家秋に入つて草虫琳琅りんろうの声を聴かざる処なし。知友また呼ぶに鈴虫の翁を以てす。南岳は弓術の達人にしてまた水府流すいふりゅう遊泳の師たりき。大田南畝おおたなんぽが先人自得翁の墓誌を見るに、享保二十年七月、将軍吉宗公中川狩猟の時徒兵の游泳をけみするや自得翁水練すいれんに達したるを以て嘉賞する処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし来由する所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里にうつり寒暑昼夜のわかちなく釣魚ちょうぎょを事とせしが大正六年七月十三日白昼江戸川の水に溺れて死せり。人その故を知るものなし。あるひは言ふ水中にあつて卒中症を発したるならんと。時に年四十ゆう三なり。そのはい中村氏は南畆先生が外姑がいこ後裔こうえいなり。容姿艶麗そのいまだ嫁せざるや近鄰称するに四谷小町よつやこまちの名を以てしたりしといふ。某男某女あり。名は大。家を継ぎしが本年の春病んで歿したりしと。われこの日始てこれを寺僧に聞得て愕然がくぜんたりき。ちなみにしるす南岳が四谷の旧居は荒木町絃歌げんかの地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。この日兼てより写し置かんと思ひゐたりし南畝がしつ富原氏の墓誌を手帳にしるす。墓誌の終に悼亡とうぼうの詩六首を刻したり。『蜀山集』に出でたればここに録せず。

 本念寺を出で白山権現はくさんごんげんの境内をよこぎりわづかに人力車を通ずべき垣根道を北へと歩み行けば、坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年癸亥きがい七月十二日わが狎友こうゆう唖々子ああし井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに離々たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の塋域えいいきを問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、冢土ちょうど新にしていまだ碑碣ひけつを建てず。かたわらなるはは某氏の墓前に香華を手向たむけて蓮久寺を出づ。われは今日に至りても唖々子既に黄土に帰せりとの思をなすことあたはず。この日子のわれと共にあらざるは前夜の酒を病みなぞして約にそむきて来らざるが如き心地のせらるるのみ。世に竹馬ちくばまじわりをよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。学生の頃悪少年を以て目せられしものは、儕輩せいはいうち子とわれとの二人なり。十六、七の頃にはともに漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染めまた倶に俳諧に遊べり。わが狎妓こうぎひそかに子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれのこれを奪ひしものまたなしとせず。けだし這般しゃはんの情事は烟花場裏一夕の遊戯にして新五左衛門しんござえもん等の到底解し得べきところにあらざるなり。われ田舎の人より短冊を乞はるることあるや常に唖々子が句を書してせめふさげり。われ俳才なく自作の句を記憶せず。これをおもふ時子の名吟まづわが念頭に浮びいづるを以てなり。旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか白山御殿町はくさんごてんまちを過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高きもぐさりしはこの寺なり。われらいとけなき頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづからとして糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院でんずういん兆域のほとりに連り一流の細水潺々せんせんとしてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに窮巷の間を通ずる溝阬こうこうとなれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆つくしを摘み、夏は蛍をちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃金富町かなとみちょうなるわが家の抱車夫かかえしゃふに虎蔵とて背に菊慈童きくじどうの筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町方まちかたの手先なりしとか。老いて盲目めしいとなりせがれ虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り夕餉ゆうげさいにもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に盲目めしいの老夫のかしらを剃りたるが、兀然ごつぜんとして仏壇に向ひてかね叩き経める後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたるむくいにて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家よりいとま取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の待合まちあいにて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。極楽水の麓をめぐりし細流のほとりには今博文館の印刷工場聳え立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公孫樹いちょうも既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久堅町ひさかたまちより竹早町たけはやちょうの垣根道を過ぐるにかつて画伯浅井忠あさいちゅうが住みし家の門前より、数歩にして同心町どうしんちょう康衢こうくに出づ。電車砂塵をいて来徃らいおうせり。道の向側は切支丹坂きりしたんざかに通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗荷谷みょうがだにのあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく新坂しんざか降口おりくちあり。新樹のこずえに遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏のやしき、音楽学校長伊沢氏の邸、尾崎咢堂おざきがくどう僦居しゅうきょ門墻もんしょうを連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口おりくちを見る。これすなわち金剛寺坂こんごうじざかなり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷うぐいすだには金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図きりえずには金剛寺の裏手多福院に接する処明地あきちの下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址やしきあと、今は岩崎家の別墅べっしょとなり、短葉松植ゑつらねし土墻ついじは城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史しあんがいし石橋いしばし氏のきょあり。遅塚麗水ちづかれいすい翁またかつてこのあたりに鄰をぼくせしことありと聞けり。正徳しょうとくのむかし太宰春台だざいしゅんだい伝通院でんずういん前にとばりを下せしは人の知る処。礫川こいしかわの地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径はたちまちにして懸崕けんがいいただきに達しひもの如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼せんきょうろうの旧址はいづこならむ。文化五戊辰ぼしんの年三月三日、南畝はここに六秩ろくちつ賀筵がえんを設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。大窪詩仏おおくぼしぶつが『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻せつごうぐいすだににすこしくあつまりてこういんをえたり」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く

遷喬楼在懸崖上  〔遷喬楼せんきょうろう懸崖けんがいうえ

闌干方与赤城平  闌干らんかんまさ赤城せきじょうたいらなり

霞気不消連旬雪  霞気かきさず連旬れんじゅんの雪

万瓦渾如水晶  万瓦まんがすべ水晶すいしょうよそうがごと

疑在広寒清虗府  疑うらくは広寒清虚こうかんせいきょるかと

四望生眩総瑩瑩  四望しぼうげんしょうじてすべ瑩瑩えいえいたり

主人愛客兼愛酒  主人 客を愛しねて酒を愛し

暇日開宴迎客傾  暇日かじつ えんひらき 客をむかえてつく

衣冠何須挂神武  衣冠いかんなんもちい神武しんぶかけることを

身并忘刀筆名  ともあわせわす刀筆とうひつの名

我是江湖釣漁客  われ江湖こうこ釣漁ちょうぎょの客

平生不曾接冠纓  平生へいせいかつ冠纓かんえいせっせず

十里泥濘深海  十里 泥濘でいねい 海よりも深けれども

今日肯来訂酒盟  今日 あえて来たりて酒盟しゅめいむす

唯応爛酔報厚意  まさ爛酔らんすいして厚意こういむくゆべく

君不酔作麼生  君とたいしてわずんば作麼生いかんせん〕

 また六樹園ろくじゅえんが狂文『吾嬬あずまなまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、勾欄こうらんの前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は金富町かなとみちょうとなふれど、むかしは金杉かなすぎ水道町にして、南畆がいはゆる金曾木かなそぎなり。懸崖には喬木きょうぼくなほ天をし、樹根怒張して巌石のさまをなせり。澗道かんどうを下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬籬笆りはの間より人の来るを見て吠ゆ。宛然田家でんかの光景なり。細径に従つて盤回すればおのづから金剛寺のさかいに出づ。寺はわづかに堂宇を遺すのみにして墓田はことごとく人家となりたれば、旧記に見る所の実朝さねともの墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ庫裏くりと人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中におさなき頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の康荘こうそうは年々面目を新にするに反して窮巷屋後きゅうこうおくご湫路しゅうろは幾星霜を経るも依然として旧観をあらためず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き。人一たび勢利のちまた奔馳ほんちするや、時運に激せられて旧習に晏如あんじょたる事あたはず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論をとなうるものあればたちまち雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭に醜陋しゅうろうなる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るにひとり吾輩の如き世間無用の間人かんじんにあつては、あたかも陋巷の湫路今なほ車井戸と総後架そうごうかとを保存せるが如く、七夕たなばたには妓女と彩紙いろがみつて狂歌を吟じ、中秋には月見団子つきみだんごを食つて泰平を皷腹するも、また人のこれをとがむることなし。幸なりといふべし。

 金剛寺坂の中腹には夜ごとわが先考せんこうの肩みに来りし久斎きゅうさいとよぶ按摩あんま住みたり。われかつて卑稿『伝通院でんずういん』と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の御家人ごけにんなりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて炊爨すいさん浣滌かんできの労を取り、わづかなる給料にて老いたるしゅうとめと幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家をうつして、つい燕息えんそくの地を大久保村に卜せられし時、衡門こうもんの傍なる皀莢さいかちの樹陰に茅葺かやぶきの廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて野辺のべのおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、先考せんこう館舎をてられし後は、一際ひときわまごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われ先考の旧居を人に譲り琴書を築地の僦居しゅうきょに移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、そのせがれの既に家を成して牛込築土うしごめつくどに住みたりしをたより、次の年の春いとまを乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより言越いいこきたりぬ。享年六十余歳。流行感冒にかかりて歿せしといふ。しんきて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れもとより文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一としてくところはあらざりき。良人おっとにわかれて後永くを守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見てひるがえつてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるもあに偶然ならんや。しんの墓は小日向水道町こびなたすいどうちょうなる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きてとむらひしことなければ、この日初夏のひあしのなほ高きに加へて、寺は一牛鳴いちぎゅうめいの間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石級せききゅうあり。そのいただきに寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るにやすからしむ。登れば一望たちまち曠然として、牛込赤城うしごめあかぎ嵐光らんこう人家を隔てて翠色すいしょくしたたらむとす。供養くよう卒塔婆そとばを寺僧にたのまむとてを通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事良久しばらくにして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここにはしなく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。

 やがて寺のしもべ来りて兆域ちょういきに案内す。兆域は本堂のうしろなる丘阜きゅうふにあり。石磴せきとうを登らむとする時その麓なる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かとしもべに問へば咳嗽せきのばばさまとて、せきを病むものがんを掛け病いゆれば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝子罎ガラスびんの甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊験れいげんのほど思ひ知るべし。

 日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂をぢて新長谷寺しんちょうこくじの樹下にいこふ。朱塗しゅぬり不動堂ふどうどうは幸にして震災を免れしかど、境内の碑碣ひけつは悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山とうほうざんの眺望を遮断しゃだんしたり。来路を下り堰口せきぐちたきいたり見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋こまとめばしのあたりは電車製造場となり上水の流は化して溝瀆こうとくとなれり。鶴巻町の新開町を過れば、夕陽せきようペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気芬々ふんぷんたり。神楽坂かぐらざかを下り麹町こうじまちを過ぎ家に帰れば日全くくらし。燈をかかげて食後たわむれにこの記をつくる。時に大正十三年甲子かっし四月二十日也。

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店

   1986(昭和61)年916日第1刷発行

   2006(平成18)年116日第27刷発行

底本の親本:「荷風隨筆 三」岩波書店

   1982(昭和57)年118日第1刷発行

※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。

※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。

※「南畝」と「南畆」の混在は、底本通りです。

※表題は底本では、「礫川徜徉記れきせんしょうようき」となっています。

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2010年528日作成

2019年1229日修正

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