向嶋
永井荷風



 向島むこうじまは久しい以前から既に雅遊の地ではない。しかしわたくしは大正壬戌じんじゅつの年の夏森先生をうしなってから、毎年の忌辰きしんにその墓を拝すべく弘福寺の墳苑におもむくので、一年に一回向島のつつみよぎらぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺せんそうじの塔尖を望み上流の空はるかに筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。そして悵然ちょうぜんとして江戸徃昔おうせきの文化を追慕し、また併せてわが青春の当時を回想するのである。

 震災の後わたくしは多く家にのみ引籠っているので、市中繁華の街の景況については、そのいわゆる復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に関しては、少くとも一年一回来り見るところから、ややこれについて語ることが出来るような気がしている。吾妻橋あずまばしを渡ると久しく麦酒ビール製造会社の庭園になっていた旧佐竹氏の浩養園がある。しかしこの名園は災禍の未だ起らざる以前既に荒廃してほとんどその跡をとどめていなかった。枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置場になっていたが、今や日ならずして洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人ごじんは日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにもまた見るに至るのであろう。三囲みめぐりの堤に架せられべき鉄橋の工事も去年あたりから、大に進捗したようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草あさくさ花川戸はなかわどの岸もやがて公園になされるとかいう事である。思うに紐育ニューヨーク市ハドソン河畔の公園に似て非なるが如きものが、ここに経営せられるのではなかろうか。とにかく隅田川両岸の光景は遠からずして全く一変し、徃昔の風致は遂に前代の絵画文学について見るのほか全く想像しがたきものとなってしまうのである。

 隅田川に関する既徃の文献は幸にしてはなはだ豊富である。しかし疎懶そらんなるわたくしは今日の所いまだその蒐集しゅうしゅうに着手したわけではない。折々の散歩から家に帰った後ただ机辺に散乱している二、三の雑著を見て足れりとしている。これら座右の乱帙中らんちつちゅうに風俗画報社の明治三十一年に刊行した『新撰東京名所図会めいしょずえ』なるものがあるが、この書はその考証の洽博こうはくにして記事もまた忠実なること、く古今にわたって向島の状況を知らしむるものである。明治三十一年の頃には向島の地はなお全く幽雅の趣を失わず、依然として都人観花の勝地となされていた。それより三年の後明治三
十四年
平出鏗二郎ひらでこうじろう氏が『東京風俗志』三巻を著した時にも著者は向嶋桜花の状を叙して下の如く言っている。「桜は向嶋最も盛なり。中略三囲の鳥居前よりうし御前ごぜん長命寺の辺までいと盛りに白鬚しらひげ梅若うめわかの辺まで咲きに咲きたり。側は漂渺ひょうびょうたる隅田の川水青うして白帆に風をはらみ波に眠れる都鳥の艪楫ろしゅうに夢を破られて飛び立つ羽音はおとも物たるげなり。待乳山まつちやまの森浅草寺せんそうじの塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり。懸茶屋かけぢゃやには絹被きぬかつぎの芋慈姑くわい串団子くしだんごつら栄螺さざえの壼焼などをもひさぐ。百眼売ひゃくまなこうりつけひげ蝶〻ちょうちょう花簪はなかんざし売風船売などあるいは屋台を据ゑあるいは立ちながらに売る。花見の客の雑沓狼藉ざっとうろうぜきは筆にも記しがたし。明治三十三年四月十五日の日曜日に向嶋にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、うち負傷者六人、違警罪一人、迷児まいご十四人と聞く。雑沓狼藉のさま察すべし。」云〻

 わたくしはこれらの記事を見て当時の向嶋を回想するや、ここにおのずから露伴幸田ろはんこうだ先生の事に思到おもいいたらなければならない。

 そもそも享保のむかし服部南郭はっとりなんかくが一夜月明げつめいに隅田川を下り「金竜山畔江月浮きんりゅうさんはんにこうげつうく」の名吟を世に残してより、明治に至るまでおよそ二百有余年、墨水ぼくすいの風月を愛してここにきょぼくした文雅の士はげるに堪えない。しかしてそが最終の殿しんがりをなした者を誰かと問えば、それは実に幸田先生であろう。先生は震災の後まで向嶋の旧居を守っておられた。今日その人はなお矍鑠かくしゃくとしておられるが、その人の日夜見てたのしみとなした風景は既に亡びて存在していない。先生の名著『讕言らんげん長語』の二巻は明治三十二、三年の頃に公刊せられた。同書に載せられた春の墨堤ぼくていという一篇を見るに、

「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方あけがた、花の下行く風の襟元えりもとに冷やかなる頃のそぞろあるき。

 一、夜ややふけて、よその笑ひ声もたえる頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交番所の燈のちらつくも静なるおもむきを添ふる折ふし五位鷺ごいさぎなどの鳴きたる。

 一、何心もなくあるきゐたる夜、あたりの物淋しきにふと初蛙の声聞きつけたる。

 一、雨に名所の春も悲しき闇の中を街燈遠く吾妻橋まで花がくれにつらなれるが見えたる。

 一、日ごろは打絶えたる人の花に催されてなど打興じながら柴の戸をひらき入り来りたる。

 一、裏道づたひいづくへともなく行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。

 右いづれかをかしからざるべき。」

 明治三十一、二年の頃隅田堤の桜樹は枕橋より遠く梅若塚のあたりまで間隙かんげきなく列植されていたので、花時の盛観は江戸時代よりも遥に優っていたと言わなければならない。江戸時代にあっては堤上の桜花はそれほど綿密に連続してはいなかったのである。堤上桜花の沿革については今なお言問ことといの岡に建っている植桜之碑を見ればこれをつまびらかにすることができる。碑文の撰者浜村蔵六の言う所に従えば幕府がはじめて隅田堤に桜樹を植えさせたのは享保二年である。ついで享保十一年に再び桜桃柳百五十株を植えさせたが、その場所は梅若塚に近いあたりの堤に限られていたというので、今日の言問や三囲の堤には桜はなかったわけである。文化年間に至って百花園の創業者佐原菊塢さわらきくうが八重桜百五十本を白髭神社の南北に植えた。それからおよそ三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島てらじま須崎すさき小梅こうめ三村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のために桜樹の害せられたものが多かったので、須崎村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それから安政元年に至って更に二百株を補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺もくぼじの辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。しかしこの時にはまだ枕橋には及ばなかった。それは明治七年其角堂永機きかくどうえいきの寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とをって始て果されたのである。以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植をなし、永くこの堤上を以て都人観花の勝地たらしむべく、明治二十年に植桜之碑を建てて紀念となした。建碑について尽力した人のおもなるものは、その時には既に世を去っていた成島柳北なるしまりゅうほくと今日なお健在の富商大倉某らであった事が碑文に言われている。かくの如く堤上の桜花が梅若塚の辺より枕橋に至るまで雲か霞の如く咲きつらなったのは、江戸時代ではなくしてかえって明治十年以後のことであったのだ。梅若神社の堂宇の新に建立せられたのもその頃のことである。長命寺門前の地を新に言問ヶ岡と称してここに言問団子ことといだんごを売る店のできたのもまたこの時分である。言問団子の主人は明治十一年の夏七月より秋八月の末まで、都鳥の形をなした数多あまた燈籠とうろうを夜々河に流して都人の観覧に供した。成島柳北は三たびこの夜の光景を記述して『朝野ちょうや新聞』に掲げた。大沼枕山おおぬまちんざんが長命寺の門外に墨水観花の碑を建てたのも思うにまたこの時分であろう。

 かつてわたくしはこの時分の俗曲演劇等の事を論評した時明治十年前後の時代を以て江戸文芸再興の期となしたが、今向島桜花のことをのべるに及んで更にまたその感がある。

 明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者はすくなくない。思出おもいいづるがままにわたくしの知るものをあげれば、華族には榎本梁川えのもとりょうせんがある。学者には依田学海よだがっかい、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋いとうていしゅう瓜生梅村うりゅうばいそん関根癡堂せきねちどうがある。書家には西川春洞にしかわしゅんとう篆刻家てんこくかには浜村大澥はまむらたいかい、画家には小林永濯こばやしえいたくがある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村あえばこうそん、幸田露伴、好事家こうずかには淡島寒月あわしまかんげつがある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。堤上の桜花もまた水害の後は時勢の変遷するに従い、近郊の開拓せらるるにつれて次第に枯死し、大正の初に至っては三囲堤のあたりにはわずかに二、三の病樹を留むるばかりとなった。浜村蔵六が植桜之碑には堤上桜樹の生命は大抵人間と同じであるが故に絶えずこれが補植に力をつくさなければならぬと言われている。しかし大正の都人士に対しては石碑の文の如きは全く顧る所とならなかった。

 江戸時代隅田堤看花の盛況を述るものは、大抵寺門静軒てらかどせいけんが『江戸繁昌記えどはんじょうき』を引用してこれが例証となしている。風俗画報社の『新撰東京名所図会』もまた『江戸繁昌記』を引きこれを補うに加藤善庵かとうぜんあんが『墨水観花記』を以てしている。わたくしは塩谷宕陰しおのやとういんの文集に載っている「遊墨水記」を以て更にこれを補うであろう。

 静軒の文は天保に成ったもの、宕陰の記は慶応改元の春に作られたものである。宕陰が記の一節に曰く、「凡ソ墨堤十里、両畔皆桜ナリ。淡紅濃白、歩ムニ随テ人ニブ。遠キハ招クガ如ク近キハ語ラントス。まま少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテきわまル。曲曲回顧スレバ花幔かまん地ヲおおヒ恍トシテ路ナキカト疑フ。おしひらイテ進メバすなわち白雲ノ坌湧ふんようスルガ如ク、ようトシテ際涯ヲ見ズ。低回スルコトしばらクニシテ肌骨皆香シク、人ヲシテ蒼仙ニ化セシメントス。既ニシテ夕陽林梢ニアリ、落霞飛鳧らっかひふ、垂柳疎松ノ間ニ閃閃せんせんタリ。長流ハ滾滾こんこんトシテ潮ハ満チ石ハ鳴ル。西ニ芙蓉ふようヲ仰ゲバ突兀万仞とっこつばんじん。東ニ波山ヲレバ翠鬟すいかん拭フガ如シ。マタ宇内ノ絶観ナリ。先師慊叟こうそうカツテ予ニ語ツテ、吾京師および芳山ノ花ヲ歴覧シキ。然レドモ風趣ノ墨水ニ及ブモノナシト。まことニ然リ。」云〻

 江戸名家の文にして墨水桜花の美を賞したものは枚挙するにいとまがない。しかし京師けいしおよび吉野山の花よりも優っていると言ったものは恐らく松崎慊堂まつざきこうどうのみであろう。慊堂は昌平黌しょうへいこうの教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはここに言わない。

 隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている。その拠るところは『伊勢物語』に墨多あるいは墨田の文字を用いているにあるという。また新に濹という字をつくったのは林家りんけを再興した述斎じゅっさいであって、後に明治年間に至って成島柳北がしきりにこの濹字を用いた。これらのことはいずれも風俗画報社の『新撰東京名所図会』に説かれている。

 林述斎が隅田川の風景を愛して橋場の辺に別墅べっしょを築きこれを鴎窼おうそうと命名したのは文化六年である。その詩集『濹上漁謡』に花時の雑沓をきらって次の如くに言ったものがある。

花時濹上佳    〔花時かじ 濹上ぼくじょう

佳慵駕  しといえどめいずるにものう

都人何雑沓     都人とじんなん雑沓ざっとうして

来往無昼夜   来往らいおうすること昼夜ちゅうやなみするや

或連袂歌呼    あるいたもとつらねて歌呼かこ

或謔浪笑罵     或は謔浪笑罵きゃくろうしょうば

或拗枝妄抛    或はえだりてみだりになげす

或被酒僵臥    或は酒にいて僵臥きょうが

游禽尽驚飛     游禽ゆうきんことごとおどろきて

聞綿蛮和    聞かず 綿蛮めんばんするを

何若延日時   何若いかに日時にちじばせば

暫遅春花謝     しばらおそ春花しゅんかしゃせん

花謝人絶踪    はなしゃひとあとちて

羸驂始可跨    羸驂るいさんはじめてまたが

高樹緑陰敷     たかみどりかげ

草嫩堪茵   くさわかしとねあつるに

葭短不舸   あしみじかおおぶねさまたげず

百冗以遊   百冗ひゃくじょうすてさりてもって遊ぶ

  中略        中略

清和属首夏   清和せいわ首夏しゅかぞく

境勝固天真     きょうすぐれることはもとより天真てんしんにして

芳葩及外仮     かんばしきはなとも外仮げけなり

惟当斯辰  まさときいて

屡倚水畔榭   しばし水畔すいはんうてなるべし〕

云〻。

 述斎は濹上に遊ぶべき時節の最もきは花の散った後若葉の頃であるとなした。これは柳北が『花月新誌』に言うところと全く符合している。明治十年五月の『花月新誌』載する所の「濹上遊客ぼくじょうのゆうかくをなじるぶん」に曰く、「ソレ我ガ濹上ノ桜花ヲ以テ鳴ルヤ久シ。故ニ花候かこうニ当テハ輪蹄りんてい陸続トシテ文士雅流俗子婦女ノ別ナク麕集きんしゅうシ蟻列シ、繽紛狼藉ひんぷんろうぜき人ヲシテおおいいとハシムルニ至ル。シカシテ風雨一過香雲地ニゆだヌレバ十里ノ長堤寂トシテ人ナキナリ。知ラズ我ガ濹上ノ勝ハ桜花ニ非ズシテ実ニ緑陰幽草ノ候ニアルヲ。モシソレ薫風南ヨリ来ツテ水波紋ヲ生ジ、新樹空ニ連ツテ風露香ヲ送ル。渡頭ととう人稀ニ白鷺雙々そうそう、舟ヲかすメテ飛ビ、楼外花尽キ、黄鸝こうり悄々しょうしょう、柳ヲ穿うがツテ啼ク。籊々てきてきノ竿、漁翁雨ニ釣リ、井々せいせいノ田、村女烟ニ鋤ス。一檐いちえんノ彩錦斜陽ニ映ズルハ槖駝たくだ芍薬しゃくやくヲ売ルナリ。満園ノ奇香微風ニ動クハ菟裘ときゅうノ薔薇ヲううルナリ。ソノ清幽ノ情景ほとンド画図モ描クあたハズ。文詩モ写ス能ハザル者アリ。シカシテ遊客寥々りょうりょうトシテ尽日じんじつ舟車ノ影ヲ見ザルハ何ゾヤ。」およそ水村の風光初夏の時節に至って最佳なる所以ゆえんのものは、依々たる楊柳と萋々せいせいたる蒹葭けんかとのあるがためであろう。往時隅田川の沿岸に柳とあしとの多く繁茂していたことは今日の江戸川や中川と異る所がなかった。ただに河岸のみならず灌田かんでんのために穿った溝渠の中、または人家の園池にも蒹葭は萋々せいせいと繁茂していた。蜀山人しょくさんじんが作にも

金竜山下起金波  〔金竜山下きんりゅうさんか金波きんぱこし

作千金墨河 千金せんきん砕作さいさくして墨河ぼくが

別有幽荘引剰水  べつ幽荘ゆうそう剰水じょうすいけるりて

蒹葭深処月明多     蒹葭けんかふかところ月明らかなることすぐれり〕

という絶句がある。然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬あやせの河口から千住せんじゅに至るあたりの沮洳そじょの地にさえ既に蒹葭蘆荻ろてきを見ることが少くなった。わたくしはかつて『夏の町』と題する拙稾せっこうに明治三十年の頃には両国橋の下流本所ほんじょ御船倉おふなぐらの岸に浮洲うきすがあって蘆荻のなお繁茂していたことを述べた。それよりおよそ十年を経て、わたくしは外国から帰って来た当時、橋場のわたしのあたりから綾瀬の川口にはむかしのままになお蘆荻の茂っているのを見てしばしばここに杖を曳き、初夏の午後には葭切よしきりの鳴くを聴き、月のあきらかな夜には風露の蕭蕭しょうしょうと音する響を聞いて楽んだ。当時隅田川上流の蒹葭と楊柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、並せてまたアンリ・ド・レニエーが抒情詩を追想せしめる便りとなったからである。今日文壇の士に向って仏蘭西フランスの風光とその詩篇とを説くのはいたずら遼豕りょうしわらいを招ぐに過ぎないであろう。しかしわたくしは隅田川の蒹葭を説いてたまたまレニエーの詩に思及ぶや、その詩中の景物に蒹葭を用いたもののすくなからぬことを言わねばならない。

 ヂェー・ワルクの編輯へんしゅうした『仏蘭西現代抒情詩選』の中、レニエーの部の冒頭に追憶の意をうたった Vers le passé の一篇が掲げられている。その初の一節に、

Sur ĺétang endormi palpitent les roseaux.

Et ĺon entend passer en subites boufféeş

Comme le vol craintif l'invisibles oiseaux,

Le léger tremblement de brises etouffées.

静なる池のおもてに蘆はにわかに打ちそよぎつ。

そはさえぎられたる風の静なる顫動せんどう

さながら隠れし小禽ことりのひそかに飛去るごとく

さとむらがり立ちて起ると見れば消え去るなり。

また Odelettes と題せられた小曲の中にも、次の如きものがある。

Un petit roseau m'a suffi

Pour faire frémir ĺherbe haute

Et tout le pré

Et les doux saules

Et le ruisseau qui chante aussi;

Un petit roseau m'a suffi

A faire chanter la forêt.

蘆の細茎ほそぐき。その一すじをとりてわれかつて笛吹きし時

たけたかく伸びし野の草はおろかや

牧場ははてより端にいたるまで

あるいはしなやかなる柳の木

ささやかなる音して流るる小川さへ

皆一ときこたへてふるへをののぎぬ。

蘆の細茎の一すぢは過ぎし日かつてわれをして

深き林にも歌うたはしめき。

かくの如きパストラルの情趣は日本に帰って来た後に至っても、久しくわたくしの忘れ得ぬものであったので、わたくしはいつも蘆荻の繁った地をもとめて散歩した。しかし蘆荻蒹葭は日と共に都市の周囲よりとおざけられ、今日では荒川放水路の堤防から更に江戸川の沿岸まで行かねば見られぬようになった。中川の両岸も既に隅田川と同じく一帯に工場の地となり小松川の辺は殊に繁華な市街となっている。

 蒹葭は秋より冬に至って白葦黄茅はくいこうぼうの景を作る時殊に文雅の人を喜ばす。流行唄はやりうたにも「枯野ゆかしき隅田堤」というのがある。「心も晴るる夜半の月、田面たのもにうつる人影にぱつと立つのは、アレ雁金かりがね女夫めおとづれ。」これは畢竟ひっきょう枯荻落雁の画趣を取って俗謡に移し入れたもので、寺門静軒てらかどせいけんが『江頭百詠』の中に

漁舟丿乀影西東   〔漁舟ぎょしゅう丿乀へつふつしてかげ西東せいとう

白葦黄茅画軸中    白葦黄茅はくいこうぼう 画軸がじくうち

忽地何人加点筆  忽地こっちとして何人なんぴと点筆てんぴつくわ

一縄寒雁下秋空  一縄いちじょう寒雁かんがん 秋空あきぞらくだる〕

と言った絶句と同工異曲というべきである。

『江頭百詠』は静軒が天保八年『江戸繁昌記』のために罪を江戸払えどばらいとなってから諸方に流浪し、十三年の後隅田川のほとりなる知人某氏の別荘に始めておちつく事を得た時、日々見る所の江上の風光を吟じたもので、嘉永二年に刊刻せられた一冊子である。『江頭百詠』は詼謔かいぎゃくを旨とした『繁昌記』の文とは異って静軒が詩才の清雅なる事を窺知うかがいしらしむるものである。静軒は花も既に散尽ちりつくした晩春の静なる日、対岸に啼く鶯の声の水の上を渡ってかすかに聞えてくる事のいかに幽趣あるかを説いて下の如くに言っている。「凡ソ物ノ声、大抵隔ツテ聴クヲ好シトス。読書木魚もくぎょ琴瑟きんしつ等ノ声もっとも然リトナス。鳩ノ雨ヲ林中ニビ、雁ノ霜ヲ月辺ニ警シメ、棊声きせいノ竹ヲ隔テ、雪声ノ窓ヲ隔ツ。皆愛スベキナリ。山行伐木ノ声、渓行水車ノ声ともニ遠ク聴クベシ。遊舫ゆうほうしょう、漁浦ノ笛モ遠ケレバ自ラ韻アリ。寺鐘、城鼓モ遠ケレバマタ趣キナキニアラズ。蛙声ノ枕ニ近クシテ喧聒けんかつヘザルガ如キモ、隔ツレバ則チ聴クベシ。大声モト聴クニ悪シ。林ヲ隔ツレバ則チ趣ホボ水車ニ等シ。カツ村ノアルコトヲ報ズルヤ山行中人ヲシテ喜意ヲ生ゼシム。コレマタ愛シテ聴クベキナリ。馬ノまぐさヲ食フ。モトヨリ何ノ趣アランヤ。ひとり寒駅ノ泊リ壁ヲ隔テテコレヲ聞ケバ大ニ趣ヲ成ス。晁氏ガ小雨暗々トシテ人寐ネズ。臥シテ聴ク羸馬るいば残蔬ざんそムトイフトコロコレナリ。鶯声ノ耳ニ上ル近キモマタ愛スベシ。今水ヲ隔テテコレヲ聴ク。殊ニ趣アルヲ覚ユ。」

 寺門静軒が『江頭百詠』を刻した翌年嘉永
三年
遠山雲如とおやまうんじょが『墨水四時雑詠』を刊布した。雲如は江戸の商家に生れたがはじめ文章を長野豊山ながのほうざんに学び、後に詩を梁川星巌やながわせいがんに学び、家産を蕩尽とうじんした後一生を旅寓に送った奇人である。晩年京師けいしに留り遂にその地に終った。雲如の一生は寛政詩学の四大家中に数えられた柏木如亭かしわぎじょていに酷似している。如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。

 遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべきものがある。島田筑波さんは既に何かの考証に関してこの詩集中の一律詩を引用しておられたのを、わたくしは記憶している。それは

年年秋月与春花 〔年年ねんねん あきつきはるはな

行楽何知鬢欲華   行楽こうらくしてなんらんびんしろからんとほっするを

水唯開川口店   みずへだててひら川口かわぐちみせ

隄空鎖葛西家   つつみにしてむなしくとざ葛西かさいの家

紅裙翠黛人終老    紅裙翠黛こうくんすいたい ひとつい

冷蜨寒烟路自賒   冷蜨寒烟れいちょうかんえん みちおのずからとお

憔悴一般楊柳在    憔悴しょうすい一般いっぱんの 楊柳ようりゅうりて

風前猶剰旧夭斜    風前ふうぜんあま旧夭きゅうようななめなり〕

の一篇である。これによって三囲堤の下にあった葛西太郎かさいたろうという有名な料理屋は三下さんさがりの俗謡に、「夕立や田をみめぐりの神ならば、葛西太郎の洗鯉、ささがかうじて狐拳きつねけん。」とうたわれていたほどであったのが、嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸山谷堀さんやぼりの入口なる川口屋お直の店のみなお昔日せきじつに変らず繁昌していたことが知られる。

 川口屋の女主おんなあるじお直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。この事は風俗画報『新撰名所図会』に『好古叢誌』の記事を転載して説いているからここぜいせない。

 わたくしの言わむと欲する所は、隅田川の水流は既に溝涜こうとくの汚水に等しきものとなったが、それにもかかわらず旧時代の芸術あるがために今もなお一部の人には時として幾分の興趣を催させる事である。わが旧時代の芸文はいずれか支那の模倣にらざるはない。そはあたかも大正昭和の文化全般の西洋におけるものと異るところがない。我国の文化は今も昔と同じく他国文化の仮借かしゃくに外ならないのである。唯仔細しさいに研究しきたって今と昔との間にやや差異のあるが如く思われるのは、仮借の方法と模倣の精神とに関して、一はあくまで真率しんそつであり、一は甚しく軽浮である。一はく他国の文化を咀嚼そしゃく玩味がんみして自己薬籠中の物となしたるに反して、一はいたずらに新奇を迎うるにのみ急しく全く己れをかえりみいとまなきことである。これそも何が故に然るや。今人こんじんの智能古人に比して劣れるが故か。はたまた時勢のわざわいするところか。わたくしは知らない。わたくしは唯墨堤の処々に今なお残存している石碑の文字を見る時鵬斎ほうさい米庵べいあんらが書風の支那古今の名家に比して遜色そんしょくなきが如くなるに反して、東京市中に立てる銅像の製作西洋の市街に見る彫刻に比して遥に劣れるが如きおもいをなすのみである。江戸旧文化の支那模倣は当代の西洋模倣に比較して、誰か優劣なしと言い得るものがあろう。

昭和二年丁卯ていぼう五月稿

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店

   1986(昭和61)年916日第1刷発行

   2006(平成18)年116日第27刷発行

底本の親本:「荷風隨筆 四」岩波書店

   1982(昭和57)年217日第1刷発行

※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、旧仮名部分のルビの拗音、促音は小書きしました。

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2010年528日作成

2019年1212日修正

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