深川の散歩
永井荷風



 中洲なかず河岸かしにわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はそののち箱崎川にかかっている土洲橋どしゅうばしのほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋きよすばしをわたって深川ふかがわの町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年坂ばかりの山の手にいえする身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえってさかんになる。

 清洲橋という鉄橋が中洲から深川清住町きよずみちょうの岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合のりあい自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南のかたへと曲っているところから、橋の中ほどに佇立たたずむと、南のかたには永代橋えいたいばし、北の方には新大橋しんおおはしよこたわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀あぶらぼりの口にかかったしもはしと、近く仙台堀にかかったかみはしが見え、また上手には万年橋まんねんばし小名木川おなぎがわの川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳ふくそうしているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。

 或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かつて芭蕉庵の古址こしと、柾木稲荷まっさきいなりやしろとが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。

 清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とをそびやかしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のないひらたい倉庫の立ちつづく間に、一条ひとすじの小道が曲り込んでいて、洋服に草履ぞうりをはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声がにわかに耳につく。

 この静な道を行くこと一、二ちょう、すぐさま万年橋をわたると、河岸かしの北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの湫路しゅうろかたわらに芭蕉庵のあとは神社となって保存せられ、柾木稲荷のほこらはその筋向いに新しい石の華表とりいをそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家こうずかの跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。

 華表の前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、六間堀ろっけんぼりにかかった猿子橋さるこばしという木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖をとどめて見ると、亜鉛葺トタンぶきの汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸ぼろきれをひるがえしながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配こうばいの急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。かくの如き昔ながらの汚い光景は、わたくしをして、二十年前亡友A氏と共にしばしばこのあたりの古寺ふるでらを訪うた頃の事やら、それよりまた更に十年のむかし噺家はなしかの弟子となって、このあたりの寄席よせ常盤亭ときわてい高座こうざに上った時の事などを、歴々として思い起させるのである。

 六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方本所竪川ほんじょたてかわに通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺みろくじの塀外を流れ、富川町とみかわちょう東元町ひがしもとまち陋巷ろうこうを横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷したやの三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町ひがしもりしたちょうの裏長屋に住んでいたことがあった。

 東森下町には今でも長慶寺という禅寺ぜんでらがある。震災ぜん、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊きょぞく日本左衛門にっぽんざえもんの墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建ひらやだての長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横たてよこに通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保おおくぼ長屋、また湯灌場ゆかんば大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、うま背新道せしんみちと呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背にたとえたので。歩き馴れぬものはきまって足駄あしだ横鼻緒よこはなおを切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保豊後守ぶんごのかみの屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向ほりむこうの林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋ととなえていた。

 これらの事はその頃A氏の語ったところであるが、その後わたくしは武鑑ぶかんを調べて、嘉永三年頃に大久保豊後守忠恕ただよしという人が幕府の大目附になっていた事を知った。明治八、九年頃までの東京地図には、江戸時代の地図と変りなく、この処に大久保氏の屋敷のあった事がしるされている。

 かつてわたくしが籾山庭後もみやまていご君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、A氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、

湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。露地ろじを入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久おひさの家で、即ち私の寄寓する家である。阿久はもと下谷したやの芸者で、めてから私の世話になって二年の後、かたばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンをこしらえる職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口がえる将来を案じて、出来ることなら流産ながれてしまえばいがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水でみずの時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。

私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には長火鉢ながひばち箪笥たんす二棹ふたさおと机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。

先ず縁側えんがわ呉座ござを敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓をえた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸よしどを立てた。二畳に阿久がいて、お銚子ちょうしだの煮物だのを運んだ。(略)さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茹しおゆで胡瓜きゅうり香物こうのものを酒のさかなに、干瓢かんぴょうの代りに山葵わさびを入れた海苔巻のりまきを出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに何某が鹿爪しかつめらしい顔で長屋を廻ったりした。すると長屋一同から返礼に、大皿に寿司をよこした。唐紙とうしを買って来て寄せ書きをやる。阿久の三味線で何某が落人おちうどを語り、阿久は清心せいしんを語った。銘々の隠芸かくしげいも出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。

 この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなかった。竹格子たけごうしの窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴ふうりんの吊されたところもあったほどで、向三軒両鄰むこうさんげんりょうどなり、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯などはやしたものはお廻りさんでなければ、救世軍のような、全く階級を異にし、また言語風俗をも異にした人たちだと思込んでいた。

 わたくしは夜烏子がこの湯灌場大久保の裏長屋にひそみかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人気質かたぎを伝承した真の俳人として心から尊敬していたのである。子は初め漢文を修め、そのまさに帝国大学に入ろうとした年、病を得て学業を廃したが、数年の後、明治三十五、六年頃から学生の受験案内や講義録などを出版する書店にやとわれ、二十円足らずの給料を得て、十年一日の如く出版物の校正をしていたのである。俳句のみならず文章にも巧みであったが、人に勧められても一たびも文をろうとした事がなかった。同じ店に雇われていたものの中で、初め夜烏子について俳句のつくり方を学び、数年にしてたちまち門戸を張り、俳句雑誌を刊行するようになった人があったが、夜烏子はこれを見て唯一笑するばかりで、その人から句をわれる時は快くこれを与えながら、更に報酬を受けなかった。

 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面にわずらわされ、虚名のために齷齪あくせくしているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔れんけつで、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携えて、場末の小芝居こしばいに行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。

明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のおかみさんと阿久おひさとを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると霊岸町れいがんちょうの手前で、田舎丸出しの十八、九の色のあおい娘が、突然小間物店こまものみせひろげて、避ける間もなく、私の外出着の一張羅いっちょうら真正面まともに浴せ懸けた。私はせんすべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓がしきりに詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。しゃくさわって忌々いまいましいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とそのつれの図々しい間抜な態度をののしった。飛沫とばっちりを受けたので、眉をひそめながら膝を拭いている婆さんや、足袋たびの先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは私であった。黒江くろえ町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた羽織はおりの仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が八幡様はちまんさまの前だというので、そこへ行って羽織だけつまみ洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の平土間ひらどまへ陣取る。出方でかたは新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立おもだったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞せりふを邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方のとがり声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍なおざむらいなどで、清元きよもとの出語りは若い女で、これは馬鹿にまずい。延久代という名取名なとりなを貰っている阿久は一々節廻しをけなした。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で蕎麦屋そばやへ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が恰度ちょうど夜の十二時。

 かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。

 むかしの黒江橋くろえばしは今の黒亀橋くろかめばしのあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋えんまどうばしのあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺しんぎょうじ鶴屋南北つるやなんぼくの墓をはらったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷のあとを尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)

 今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町すなまちの境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。

 災後、新に開かれたセメントじき大道だいどうは、黒亀橋から冬木町ふゆきちょうを貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通ふくさどおりと称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通きよさどおりと称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地あきちがあるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯ガスタンクばかりで、とんびや烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。昼中ひるなかでも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほどい道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。

 歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里パリーの美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村ことごとく破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷いちるの希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。

 災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれせながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱せんだつすべき時のきたった事を悟らなければならないような心持もするのである。

 木場きばの町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加アメリカ松の山積さんせきせられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場わたしばを思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町わくらまちに臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。

 冬木町の弁天社は新道路のかたわらに辛くもその址を留めている。しかし知十翁ちじゅうおうが、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(ちなみにいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、わずかに改称のわざわいを免れた。)

 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通ふくさどおりを歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川おおよこがわの岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉こうさするあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこにひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船にぶねの往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事が感じられるのである。

 崎川橋さきかわばしという新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹かれきが二本、少しばかりあしのはえた水際から天を突くばかり聳え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏いちょうか松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方かなたの空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児あかごを背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音あしおとがその姿と共に、橋の影を浮べた水のおもてをかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。

 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町すなまちの空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭けんかの間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。

甲戌こうじゅつ十一月記

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店

   1986(昭和61)年916日第1刷発行

   2006(平成18)年116日第27刷発行

底本の親本:「荷風隨筆 五」岩波書店

   1982(昭和57)年317日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2010年415日作成

2019年1212日修正

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