夏の町
永井荷風




 枇杷びわの実は熟して百合ゆりの花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込うえごみの蔭には、七度ななたびも色を変えるという盛りの長い紫陽花あじさいの花さえ早やしおれてしまった。梅雨つゆが過ぎて盆芝居ぼんしばいの興行も千秋楽せんしゅうらくに近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑のあかる寂寞せきばくが都会を占領する。

 しかし自分は子供の時から、毎年まいねんの七、八月をば大概何処どこへも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである。第二には、両親は逗子ずしとか箱根はこねとかへ家中うちじゅうのものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか音楽とかとにかく中学生の身としては監督者の眼を忍ばねばならぬ不正の娯楽にふけりたい必要から、留守番というていのいい名義のもとみずから辞退して夏三月みつきをば両親の眼から遠ざかる事を無上の幸福としていたからである。

 たしか中学を卒業する前の年の事かと記憶する。どういう訳か逗子へ半月ばかり行っていた時の事を半紙二帖にじょうほどに書いたものが、今だに自分の手篋てばこの底に保存されてある。成島柳北なるしまりゅうほくが仮名まじりの文体をそのままに模倣したり剽窃ひょうせつしたりした間々あいだあいだに漢詩の七言しちごん絶句をさしはさみ、自叙体の主人公をば遊子ゆうしとか小史とか名付けて、薄倖多病の才人が都門の栄華をよそにして海辺かいへん茅屋ぼうおく松風しょうふうを聴くという仮設的哀愁の生活をば、いかにも稚気ちきを帯びた調子でかつ厭味いやみらしく飾って書いてある。全篇の題は紅蓼白蘋録こうりょうはくひんろくというので挿入した絶句のうちには、

已見秋風上白蘋。 〔すでに見る秋風 白蘋はくひんのぼ

青衫又汚馬蹄塵。  青衫せいさん馬蹄ばていの塵に汚る

月明今夜消魂客。    月明るく 今夜 消魂しょうこんの客

昨日紅楼爛酔人。    昨日さくじつは紅楼に爛酔らんすいするの人


年来多病感前因。  年来ねんらい 多病たびょうにして前因ぜんいんを感じ

旧恨纏綿夢不真。   旧恨きゅうこん 纏綿てんめんとしてゆめ真ならず

今夜水楼先得月。   今夜 水楼すいろう ず月を得て

清光偏照善愁人。    清光せいこう ひとえに照らす はなはうれうの人〕

なぞいうのがあった。今日こんにち読返して見ると覚えず噴飯ふんぱんするほどである。わずか十四、五歳の少年が「昨日は紅楼に爛酔するの人」といっているに至っては、文字上の遊戯もまた驚くべきではないか。しかし自分は近頃十九世紀の最も正直なる告白の詩人だといわれたポオル・ヴェルレエヌの詳伝を読み、

Les sanglotsサングロ longsロン

Des violonsビオロン

 De l'automneロオトオヌ……

「秋の胡弓こきゅうの長きむせび泣き」というの有名な La chansonシャンソン d'automneドオトオヌ(秋の歌)の一篇の如きはヴェルレエヌが高踏派こうとうはの詩人として最も幸福なる時代の作で、その時分には妻もあり友達もあり一定の職業もあった事を伝記の著者から教えられた。して見ると、「過ぎし日の事思出おもいいでて泣く、」といったりあるいは末節の、「われは此処彼処ここかしこにさまよう落葉おちば」といったのはやはり詩人の Jeux d'esprit(心の遊戯)であったのだ。しかし自分は無論おのれを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。ただ晩年には Sagesseサッジェス の如き懺悔ざんげの詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。

 私は毎年まいねんの暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬのは七月八月の両月ふたつき大川端おおかわばた水練場すいれんばに送った事である。

 自分は今日になっても大川の流のどのへんが最も浅くどの辺が最も深く、そして上汐あげしお下汐ひきしおの潮流がどの辺において最も急激であるかを、もし質問する人でもあったら一々明細に説明する事の出来るのは皆当時の経験の賜物たまものである。

 午後ひるすぎに夕立をふらして去った雷鳴の名残が遠くかすかに聞えて、真白な大きな雲の峰の一面が夕日の反映に染められたまま見渡す水神すいじんもり彼方かなたに浮んでいるというような時分、こころみ吾妻橋あずまばしの欄干に佇立たたずみ上汐にさからって河をりて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に沿うてそのを操っているであろう。これは浅草あさくさの岸一帯が浅瀬になっていて上汐の流が幾分かゆるやかであるからだ。しかし中洲なかずの河沿いの二階からでも下を見下みおろしたなら大概のくだり船は反対にこの度は左側なる深川ふかがわ本所ほんじょの岸に近く動いて行く。それは大川口おおかわぐちから真面まとも日本橋区にほんばしくの岸へと吹き付けて来る風をけようがためで、されば水死人のしかばねが風と夕汐ゆうしおとに流れ寄るのはきまって中洲の方の岸である。

 自分が水泳を習い覚えたのは神伝流しんでんりゅう稽古場けいこばである。神伝流の稽古場は毎年本所ほんじょ御舟蔵おふなぐらの岸に近い浮洲うきすの上に建てられる。浮洲には一面あしが茂っていて汐の引いた時には雨の日なぞにも本所へんまずしい女たちがしじみを取りに出て来たものであるが今では石垣を築いた埋立地になってしまったので、浜町河岸はまちょうがしには今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流の小屋のみは他所たしょに取払われ、浮洲に茂った蘆の葉は二度と見られぬものとなった。

 一通ひととおり遊泳術の免許を取ってしまったのちは全く教師の監督を離れるので、朝早く自分たちは蘆のかげなる稽古場に衣服を脱ぎ捨て肌襦袢はだじゅばんのような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流にまかして上流かみ向島むこうじま下流しもつくだのあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上はいあがって犬のように川端を歩き廻る。

 濡れた水着のままでよく真砂座まさござ立見たちみをした事があった。永代えいたいの橋の上で巡査にとがめられた結果、散々さんざん悪口あっこうをついてつかまえられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から真逆様まっさかさまになって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくりうかみ出して、一同わアいとはやし立てた事なぞもあった。


 泳ぐ事もできず裸体はだか川端かわばたを横行する事も出来ぬ時節になっても、自分はやはり川好きの友達と一緒に中学校の教場以外の大抵な時間をば舟遊びに費した。

 われわれは無論ボオトもいだ。しかしボオトは少くとも四、五人の人数にんずを要する上に、一度かいを揃えて漕出せば、疲れたからとて一人勝手にめる訳には行かないので、横着おうちゃく我儘わがまま連中れんじゅうは、ずっと気楽で旧式な荷足舟にたりぶねの方を選んだ。その時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。浅草橋あさくさばし野田屋のだや築地つきじ丁字屋ちょうじやから借舟かりぶねをするにしても、バッテラと荷足とは一日の借賃かりちんに非常な相違があった。

 土曜といわず日曜といわず学校の帰り掛けに書物の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは蔵前くらまえ水門すいもん、本所の百本杭ひゃっぽんぐい代地だいちの料理屋の桟橋さんばし橋場はしばの別荘の石垣、あるいはまた小松島こまつしまかねふち綾瀬川あやせがわなぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学の宿題を考えた事もあった。同時にまた、教科書の間に隠した『梅暦うめごよみ』や小三こさん金五郎きんごろうの叙景文をばあたりに見る川筋の実景に対照させて喜んだ事も度々であった。

 かかる少年時代の感化によって、自分は一生涯たとえ如何なる激しい新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川すみだがわなる自然の風景に対する事は出来ないであろう。

 鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は事実において日に日に土手や畠や河岸かわぎしや蘆の茂りを取払って行きつつあるが、しかし何らの感化をも自分の心の上には及ぼさなかったのだ。黒煙こくえんを吐く煉瓦づくりの製造場せいぞうばよりも人情本の文章の方が面白く美しく、すなわち遥に強い印象を与えたがためであろう。十年十五年と過ぎた今日こんにちになっても、自分は一度ひとた竹屋たけや橋場はしば今戸いまどの如き地名の発音を耳にしてさえ、忽然こつぜんとして現在を離れ、自分の生れた時代よりも更に遠い時代へと思いをするのである。

 いかに自然主義がその理論テオリイいたにしても、自分だけには現在あるがままに隅田川を見よという事は不可能である。


 自然主義時代の仏蘭西フランス文学は自分にはかえって隅田川に対する空想を豊富ならしめたかたむきがある。

 モオパッサンはその短篇中に描いたセエヌ河の舟遊びによって、そぞろにわれわれの過ぎ去った学生時代を意味深く回想させ、ゴンクウル兄弟が En 18… の篇中に書いた月夜げつやムウドンのうるわしい叙景は、蘆と水楊みずやなぎの多い綾瀬あやせあたりの風景をよろこぶ自分に対して更に新しく繊巧せんこうなる芸術的感受性を洗練せしめた。ゾラは『田園(Aux champs)』と題する興味ある小品によって、近頃の巴里人パリーじんが都会のぐ外なるセエヌ河畔の風景を愛するようになったその来歴をくわしく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。

 ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じてはいなかった。その証拠は時代風俗の反映たるべき文学を見ても、十七、八世紀の文学上には一ツとして今日の抒情詩人が歌っているような「自然」に対する感想を窺う事は出来ない。ルッソオでて始めて思想は一変し、シャトオブリアンやラマルチンやユウゴオらの感激によって自然は始めて人間に近付けられた。最初希臘ギリシヤ芸術によって、diviniséeデヴィニゼエ(神らしく)された自然、仏蘭西古典文学によって度外視された自然は、ロマンチズムの熱情によって始めて humaniséeユウマニゼエ(人間らしく)せられた。しかしユウゴオやラマルチンはまだ一度も巴里郊外の自然をそが抒情詩の直接の題材にして歌った事はない。それはかの通俗小説の作家として今ではう忘れられようとしている Paulポオル de Kockコック を以て嚆矢こうし見做みなさなければならぬ。ポオル・ド・コックは何も郊外の風景その物を写生する目的ではないが、今から五、六十年前 Louisルイ-Philippeフィリップ 王政時代の巴里の市民が狭苦しい都会の城壁を越えて郊外の森陰を散歩し青草あおぐさの上で食事をするさまをば滑稽なる誇張の筆致を以てその小説中に描いたのである。その時代から一般の風俗は次第に変って来てポオル・ド・コックのあとには画家の一団体が盛に巴里郊外の勝地を跋渉ばっしょうし始めた。今日では誰も知っている Meudonムウドン の佳景を発見したのは自然を写生するために古典クラシックの形式を破棄した Françaisフランセイ 一派の画工である。それからずっと上流の Mantesマント までをさぐったのは Daubignyドオビニイ である。今まではその地名さえも知られなかったセエヌの河畔は忽ちの間に散歩の人の雑沓ざっとうきたすようになって、最初の発見者 Daubignyドオビニイ はとうとうセエヌ河の本流を見捨て Oiseオアズ の支流を溯って Anversアンヴェール の遠方へ逃げ込み、Corotコロオ はやっと水溜りや大木の多い、Villeヴィル d'Avrayダヴレエ に踏みとどまるようになった。

 この記事からひるがえっ向島むこうじまと江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附いていたのだ。俳諧師のむれ瓢箪ひょうたんを下げて江東こうとうの梅花に「ややとゝのふ春の景色」を探って歩き、蔵前くらまえの旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もましば橋場はしば今戸いまど」の河景色を眺めて喜んだ。

 最初河水かすい汎濫はんらんを防ぐために築いた向島の土手に、桜花おうかの装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は、都会を電信柱の大森林たらしめた明治人の経営に比して何たる相違であろう。

 巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の青草あおぐさの上で葡萄酒を飲む。しかしわれわれの新しき時代は絵のような美しい伝統を破棄するの急務に追われているばかりである。

 この二、三日方々からしきりに絵葉書が来る。谷川を前にした温泉宿や松の生えた海辺うみべの写真が来る。友達は皆例の如く避暑に出かけたのだ。しかし自分はまだ何処へも行こうという心持にはならない。

 縁先えんさきはぎが長く延びて、柔かそうな葉のおもてに朝露が水晶の玉をつづっている。石榴ざくろの花と百日紅ひゃくじつこうとは燃えるような強い色彩を午後ひるすぎの炎天にかがやかし、眠むそうな薄色の合歓ねむの花はぼやけたべに刷毛はけをば植込うえごみの蔭なる夕方の微風そよかぜにゆすぶっている。単調な蝉の歌。とぎれとぎれの風鈴ふうりんの音──自分はまだ何処へも行こうという心持にはならずにいる。



 モオパッサンの短篇小説 Les Sœurs Rondoli(ロンドリ姉妹しまい)の初めに旅行の不愉快な事が書いてある。

「……転地ほど無益なものはない。汽車で明す夜といえば動揺する睡眠に身体からだも頭も散々さんざんな目に逢う。動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚があかだらけになったような気がする。いろいろなごみが髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入はいって来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪けんおすべき序開じょびらきである。

まずこの急行列車の序開があったあとには旅館ホテルの淋しさ。人が一ぱいいながら如何いかにもがらんとした広い旅館。見も知らぬ気味悪い部屋、怪気あやしげな寝床の淋しさが続いて来る。私には何がさて置き自分の寝床ほど大切なものはない。寝床は人生の神聖なる殿堂である。人は生活を赤裸々にして羽毛蒲団はねぶとんの暖さと敷布しきふ真白ましろきが中に疲れたる肉を活気付けまた安息させねばならぬ。

恋愛と睡眠の時間。われわれが生存の最も楽しい時間を知るのは寝床である。寝床は神聖だ。地上の最も楽しく最もいものとして敬いたっとび愛さねばならぬものだ。

それ故私は旅館の寝床の毛布を引捲ひきまくる時にはいつも嫌悪の情に身をふるわす。ここで昨夜ゆうべは誰れが何をした。どんな不潔な忌わしい奴がこの蒲団マトラの上に寝たであろう。私は人がよく後指うしろゆびさしていやがる醜い傴僂や疥癬掻ひつッかきや、その手の真黒な事から足や身体中はさぞかしと推量されるように諸有あらゆる汚い人間、または面と向うとにらや汗の鼻持ちならぬ悪臭を吹きかける人たちの事を想像するし、不具者や伝染病や病人の寝汗や、人間の身体の汚いという汚いもの、醜いという醜いものを想像する。

自分が寝ようとする寝床にはそういう醜いものが寝たかも知れぬ、と思うと、私は其処そこへ片足を踏入れるのが何ともいいようのないほど厭である。」

 これは無論西洋の旅館の話だ。日本の旅館にはそれにまさるともあえて劣らぬ同じ蒲団の気味悪さに、便所とそれから毎朝顔を洗う流し場の不潔が景物として附加えられてある。

 便所の事はいうまい。もしこれが自分のうちであったら、見知らぬ人に寝起ねおきのままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった寝衣ねまきに細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。

 洗場あらいばながしは乾く間のない水のために青苔あおごけが生えて、触ったらぬらぬらしそうにひかっている。そして其処には使捨てた草楊枝くさようじの折れたのに、青いのや鼠色の啖唾たんつばが流れきらずに引掛っている。腐りかけたいたばめの上には蛞蝓なめくじはった跡がついている。何処からともなく便所の臭気がみなぎる。

 衛生をおもんずるため、出来る限りかかる不潔を避けようためには県知事様でもお泊りになるべきその土地最上等の旅館ホテルあがっておおいに茶代を奮発せねばならぬ。単に茶代の奮発だけで済む事なら大した苦痛ではないが、一度び奮発すると、そのお礼としてはいざ汽車へ乗って帰ろうという間際なぞにきまってりもせぬ見掛みかけばかり大きな土産物みやげものをば、まさか見る前で捨てられもせず、帰りの道中の荷厄介にと背負しょこませられる。日本の旅館の不快なる事は毎朝毎晩番頭や内儀ないぎの挨拶、散歩の度々に女中の送迎、旅の寂しさを愛するものに取ってはこれ以上の煩累はんるいはあるまい。

 何処へ行こうかと避暑の行先を思案しているうち土用半どようなかばには早くも秋風がめる。蚊遣かやりけむりになおさら薄暗く思われる有明ありあけ灯影ほかげに、打水うちみずの乾かぬ小庭を眺め、隣の二階の三味線を簾越すだれごしに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろう。一帯に熱帯風な日本の生活が、最も活々いきいきとして心持よく、決して他人種の生活に見られぬ特徴を示すのは夏のゆうべだと自分は信じている。

 虫籠、絵団扇えうちわ蚊帳かや青簾あおすだれ風鈴ふうりん葭簀よしず、燈籠、盆景ぼんけいのような洒々しゃしゃたる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに単白たんぱくで色彩の乏しきに苦しむ白木造しらきづくりの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺㦸的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻だてまきの細帯にあらい浴衣ゆかた立膝たてひざして湯上りの薄化粧する夏のゆうべを除いてにはあるまい。

 町中まちじゅうの堀割に沿うて夏の夕を歩む時、自分は黙阿弥もくあみ翁の書いた『島鵆月白浪しまちどりつきのしらなみ』に雁金かりがねに結びし蚊帳もきのふけふ──と清元きよもと出語でがたりがある妾宅の場を見るような三味線的情調に酔う事がしばしばある。

 観潮楼かんちょうろうの先生もかつて『染めちがえ』と題する短篇小説に、西鶴のような文章で浴衣と柳橋やなぎばしの女の恋を書かれた事があった。それをば正直正太夫しょうじきしょうだゆうという当時の批評家が得意の Calembour を用いて「先生の染めちがえはそめちがえなり。」とののしった事をも私は明治小説史上の逸話として面白く記憶している。


 いつぞや(二十三、四の頃であった)柳橋やなぎばしの裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこのの女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外まどそと物干台ものほしだいへ照付ける日の光のまぶしさに辟易へきえきして、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子おとわやこうしや水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる流行はやりの浴衣が新形しんがたと相交って幾枚となく川風に飜っている。其処そこから窓の方へおりる踏板の上には花のしおれた朝顔や石菖せきしょうやその他の植木鉢が、硝子ガラスの金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり渋紙しぶかみが敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥たんすが順序よく引手のカンをならべ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓のすだれうごかすと、その間から狭い路地を隔てて向側むかいがわの家の同じような二階の櫺子窓れんじまどが見える。

 鏡台のかずだけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものにからかいかける。揚句あげくの果に誰かが「あたまへ触っちゃいやだっていうのに。」と癇癪声かんしゃくごえを張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋みつまめやの呼び声にまぎらされて、一人が立ってあわただしく呼止める、一人が柱にもたれて爪弾つまびきの三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」とく。

 坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には舟底枕ふなぞこまくらがひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本けいこぼんが投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段はしごだんあがって来るので、みんなが落ちていた誰かの赤いしごきを振ってじゃらす。

 自分は唯黙ってみんなのなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろのなまめかしい身の投げざまをした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦しきがわらの上につど土耳其トルコ美人のむれを描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿うたまろの浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。

 自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにもく澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している……


 これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉造りの運送問屋のつづいた堀留ほりどめあたりを親父橋おやじばしの方へと、商家の軒下の僅かなる日陰をって歩いて行った時、あたりの景色と調和して立去るに忍びないほど心持よく、倉の間から聞える長唄ながうたの三味線に聞取れた事がある。

 歌は若い娘の声、いと高音たかねを入れた連奏つれびきである。この音楽があったために倉続きの横町の景色が生きて来たものか、あるいは横町の景色が自分の空想を刺㦸していたために長唄がかくも心持よく聞かれたのか、今ではいずれとも断言する事はできない。真正の音楽狂はワグネルの音楽をばオペラの舞台的装置を取除いて聴く事をかえって喜ぶ。しかしそれとは全然性質を異にする三味線はいわば極めて原始的な単純なもので、決して楽器の音色ねいろからのみでは純然たる音楽的幻想を起させる力を持っていない。それ故日本の音楽にはいつも周囲の情景がその音楽的効果の上に欠くべからざる必要を生ぜしめるのはやむをえぬ事であろう。

 その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色あいいろしたたり落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は真直まっすぐなようでも不規則に迂曲うねっていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋さんばしからおりる堀割の水のおもてが丁度洞穴ほらあなの中から外を覗いたように、暗い倉の中を透してギラギラひかって見える。荒布あらぬのの前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞しゃがんで凉んでいると、往来際おうらいぎわには荷車の馬がたてがみを垂して眼を細くし、蠅のれを追払う元気もないようにじっとしている。運送屋の広い間口の店先には帳場格子ちょうばこうしと金庫の間に若い者が算盤そろばんはじいていたが人の出入りは更に見えない。鼠色した鳩が二、三羽高慢らしく胸を突出して炎天の屋根を歩いていると、荷馬にうまの口へ結びつけた秣桶まぐさおけから麦殻むぎからのこぼれ落ちるのを何処から迷って来たのか痩せた鶏が一、二羽、馬の脚の間をば恐る恐る歩きながらついばんでいた。人通ひとどおりは全くない。空気は乾いてゆるやかに凉しく動いている。

 自分はいつも忙しかるべきこの横町の思いもかけぬ夜のような寂寞せきばくと沈滞とに、新しい強い興味に誘われながら歩いて来た時、立続たちつづく倉の屋根にさえぎられて見えない奥の方から勢よく長唄の三味線の響いて来るのを聞いたのである。炎天のあかるい寂寞のうちに二ちょうの三味線は実によくその撥音ばちおとを響かした。

 自分は「長唄」という三味線の心持をばこの瞬間ほどよく味い得た事はないような気がした。長唄の趣味は一中いっちゅう清元きよもとなどに含まれていない江戸気質えどかたぎの一面を現したものであろう。拍子はいくら早く手はいくらこまかくても真直で単調で、極めて執着に乏しく情緒の粘って纏綿てんめんたる処が少い。しかしその軽快鮮明なる事は俗曲と称する日本近代の音楽中この長唄に越すものはあるまい。

 端唄はうたが現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家ちょうかの娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば自分は長唄の三味線のにつれてありありと空想中に描き出した。そして八月の炎天にもかかわらず、わが空想のその乙女おとめ襟附えりつき黄八丈きはちじょうに赤い匹田絞ひったしぼりの帯を締めているのであった。


 順序なく筆の行くがままに、う一ツ我が夏の記憶をここに語らしめよ。

 山の手の深い堀井戸の水を浴びようとかいうので、夏は水道の水の生温なまぬるきをかこつ下町の女たち二、三人づれで目黒の大黒屋だいこくやへ遊びに行く途中であった。茂った竹藪や木立こだちの蔭なぞに古びた小家こいえの続く場末の町の小径こみちを歩いて行く時、自分はふいと半ば枯れかかった杉垣の間から、少しばかり草花を植えた小庭の竹竿に、女の浴衣ゆかたが一枚干し忘れられたように下っているのを目にした。

 下町でも特別の土地へ行かねば決して見られぬあらい肩抜かたぬきの模様の浴衣である。それが洗いさらされて昔を忍ぶ染色そめいろは見るかげなくげていた。青いものは川端の柳ばかり、蝉の声をも珍しがる下町の女の身の末が、汽車でも電車でも出入でいりの不便な貧しい場末の町に引込んで秋雨を聴きつつ老い行く心はどんなであろう……何の気なしに思いつくと、自分は今までは唯淋しいとばかり見ていた場末の町の心持に、突然人間の零落れいらく、老衰、病死なぞいう特種とくしゅの悲惨を附加えて見ずにはいられなかった。

 下町の女の浴衣をば燈火とうかの光と植木や草花の色のあざやかな間に眺め賞すべく、東京の町には縁日えんにちがある。カンテラの油煙ゆえんめられた縁日の夜の空は堀割に近き町において殊に色美しく見られる。自分は毎年まいねんのようにこの年の夏も東京に居残りはしまいか。

 もう八月も十日近くなった……

明治四十三年八月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店

   1986(昭和61)年916日第1刷発行

   2006(平成18)年116日第27刷発行

底本の親本:「荷風隨筆 一」岩波書店

   1981(昭和56)年1117日第1刷発行

※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2010年528日作成

2019年1212日修正

青空文庫作成ファイル:

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