草紅葉
永井荷風



        ○


 東葛飾ひがしかつしかの草深いあたりに仮住かりずまいしてから、風のたよりに時折東京の事を耳にすることもあるようになった。

 わたくしの知っていた人たちの中で兵火のために命を失ったものは大抵浅草の町中に住み公園の興行ものに関与たずさわっていた人ばかりである。

 大正十二年の震災にも焼けなかった観世音かんぜおん御堂みどうさえこの度はわけもなく灰になってしまったほどであるから、火勢の猛烈であったことは、三月九日の夜は同じでも、わたくしの家の焼けた山の手の麻布あたりとは比較にならなかったものらしい。その夜わたくしは、前々から諦めはつけていた事でもあり、随分悠然として自分の家と蔵書の焼けせるのを見定めてから、なお夜の明け放れるまで近隣の人たちと共に話をしていたくらいで、眉も焦さず焼けど一ツせずに済んだ。言わば余裕すこぶ綽々しゃくしゃくとしたそういう幸福な遭難者には、浅草で死んだ人たちの最期さいごは話して聞かされても、はっきり会得えとくすることができない位である。しかし事実は事実として受取らなければならない。その夜を限りその姿形すがたかたちが、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。

 その頃、幾年となく、黒衣くろごの帯に金槌かなづちをさし、オペラ館の舞台に背景の飾附をしていた年の頃は五十前後の親方がいた。眼の細い、身丈せいの低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖かくそで茶色のコートをかさねたりすると、実直な商人としか見えなかった。大分禿げ上った頭には帽子ぼうしかぶらず、下駄げたはいつも鼻緒はなおのゆるんでいないらしいのを突掛つっかけたのは、江戸ッ子特有のたしなみであろう。仲間の職人より先に一人すたすたと千束町せんぞくまちの住家へ帰って行く。その様子合ようすあいから酒も飲まなかったらしい。

 この爺さんには娘が二人いた。妹の方はうちで母親と共にお好み焼をあきない、姉の方はその頃年はもう二十二、三。芸名を栄子といって、毎日父の飾りつける道具の前で、幾年間大勢おおぜいと一緒に揃って踊っていた踊子の中の一人であった。

 わたくしが栄子と心易こころやすくなったのは、昭和十三年の夏、作曲家S氏と共に、この劇場の演芸にたずさわった時からであった。初日の幕のあこうとする刻限、楽屋に行くと、その日は三社権現さんじゃごんげん御祭礼の当日だったそうで、栄子はわたくしが二階の踊子部屋へ入るのを待ち、風呂敷に包んで持って来た強飯こわめしを竹の皮のまま、わたくしの前にひろげて、うちのおっかさんが先生に上げてくれッていいましたとの事であった。

 舞台の稽古が前の夜に済んで、初日にはわたくしの来ることが前々から知れていたからでもあろう。母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所よそから来る人にもわかちたいというような下町気質したまちかたぎを見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母親のこの厚意が何とも言えない嬉しさを覚えさせた。竹の皮を別にして包んだ蓮根れんこん煮附につけと、きざするめとに、少々あますぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好むあじわいのように思われて、一層うれしい心持がしたのである。わたくしはジャズ模倣の踊をする踊子の楽屋で、三社祭さんじゃまつりの強飯の馳走にあずかろうとは、全くその時まで夢にも予想していなかったのだ。

 踊子の栄子と大道具のかしらの家族が住んでいた家は、商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直まっすぐに北へ行き、横町のはずれに忽然こつぜん吉原遊廓の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった。或晩舞台で稽古に夜をふかしての帰り道、わたくしは何か口ざむしい気がして、夜半過ぎまで起きている食物屋を栄子にきいた事があった。栄子は近所に住んでいる踊子仲間の二、三人をもさそってくれて、わたくしを吉原の角町すみちょう、稲本屋の向側の路地にある「すみれ」という茶漬飯屋まで案内してくれたことがあった。水道尻の方から寝静ったくるわへ入ったので、角町へ曲るまでになかちょうを歩みすぎた時、引手茶屋ひきてぢゃやのくぐり戸から出て来た二人の芸者とすれちがいになった。芸者の一人と踊子の栄子とは互に顔を見て軽く目で会釈えしゃくをしたなり行きすぎた。その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子は富士前小学校の同級生で、引手茶屋何々の娘だと答えたが、その言葉の中に栄子は芸者を芸者しゅといい、踊子の自分よりも芸者衆の方が一だん女としての地位が上であるような言方をした。これに依って、わたくしは栄子が遊廓に接近した陋巷ろうこうに生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。殆ど思議すべからざる事実に逢着し得たのである。しかしこの伝統もまた三月九日の夜を名残りとして今は全く湮滅いんめつしてしまったのであろう。


        ○


 この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。

 すみれという店は土間を間にしてその左右に畳が敷いてあるので、坐れもすれば腰をかけたままでも飲み食いができるようにしてあった。栄子たちが志留粉しるこだの雑煮ぞうにだの饂飩うどんなんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾のれんの下げてあった入口から這入はいって来て、腰をかけて酒肴さけさかなをいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に小紋こもんの羽織に小紋の小袖こそですそ端折はしおり、紺地羽二重こんじはぶたえ股引ももひき白足袋しろたび雪駄せったをはき、えりの合せ目をゆるやかに、ふくらましたふところから大きな紙入かみいれの端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋などにも、こういう着物の着こなしをするものは、明治の時代の末あたりから既に見られなくなっていた。わたくしは仲の町の芸人にはあまり知合いがないが、察するところ、この土地にはその名を知られた師匠株の幇間ほうかんであろうと思った。

 この男は見て見ぬように踊子たちの姿と、物食う様子とを、楽し気に見やりながら静かに手酌てじゃくさかずきを傾けていた。踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いてこらえるような風にも見られるのであった。思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。

 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫ぎゆうの声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶とだえたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過ひけすぎのこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語しんないかたりが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくしは旧習に晏如あんじょとしている人たちに対する軽い羨望せんぼう嫉妬しっとをさえ感じないわけには行かなかった。

 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。

 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子の中の一人はほどなく浅草を去って名古屋に、一人は札幌に行った話をきいた。栄子はその後万才なにがしの女房になって、廓外くるわそとの路地にはいないような噂を耳にした。わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆しゃばに居残っている事を心から祈っている。

 大道具のかしらの外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町たわらまちの方へ抜ける狭い横町であったがためだという話である。観客から贔屓ひいきの芸人に贈る薬玉くすだま花環はなわをつくる造花師が入谷いりやに住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったという。

 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重いちりゅうさいひろしげの名所絵に見るような旧観に復する日はおそらくもう来ないのかも知れない。

 昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座ときわざの人たちと心易くなった時、既に震災前の公園や凌雲閣りょううんかくの事を知っている人は数えるほどしかいなかった。昭和の世の人たちには大正時代の公園はもう忘れられていた。その頃オペラ館の舞台で観客から喝采かっさいせられていた人たちの大半は震災後に東京へ出て来て成功した地方の人のみであった。しかしこの時代も今はまたたちまちにしてむかしとなったのである。平和の克復したこの後の時代にジャズ模倣の名手として迎えらるべき芸人の花形は朱塗しゅぬりの観音堂を見たことのないものばかりになるのである。時代は水の流れるように断え間なく変って行く。人はその生命の終らぬうちから早く忘れられて行く。その事に思い至れば、生もまたその淋しい事において、甚しく死と変りがないのであろう。


        ○


 オペラ館の楽屋口に久しく風呂番ふろばんをしていた爺さんがいた。三月九日の夜に死んだか、無事であったか、その後興行町の話が出ても、誰一人この風呂番の事を口にするものがない。彼の存在は既に生きている時から誰にも認められていなかったのだ。

 その時分、踊子たちの話によると、家もあった、おかみさんもあった。家は馬道うまみち辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外垢抜あかぬけのした小柄の女で、上野広小路ひろこうじにあった映画館の案内人をしているとの事であった。爺さんはいつでも手拭を後鉢巻うしろはちまきに結んでいるので、禿頭はげあたま白髪頭しらがあたまか、それも楽屋中知るものはない。腰も曲ってはいなかったが、手足は痩せ細り、眼鏡をかけた皺の多い肉の落ちた顔ばかりを見ると、もう六十を越していたようにも思われた。夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。

 オペラ館の風呂場は楽屋口のすぐ側にあった。楽屋口には出入する人たちがいつも立談たちばなしをしていた。他の芝居へ出ているものや、地方興行から帰って来た人たちが、内のものを呼び出して、出入口の戸や壁にりかかって話をしている事もあるし、時侯が暑くなると舞台で使う腰掛を持出して、夜昼となく大勢かわがわるに腰をかけて、笑い興じていることもあったが、しかし爺さんがその仲間に入って話をしている事は滅多になかった。この腰掛で若い者が踊子と戯れ騒ぐのさえ、爺さんは見馴れているせいか、何が面白いのだと言わぬばかりの顔附で見向きもしなかった。

 寒くなると、爺さんは下駄棚のかげになった狭い通路の壁際で股火またびをしながら居睡いねむりをしているので、外からも、内からも、殆ど人の目につかない事さえあった。

 或年花の咲く頃であったろう。わたくしは爺さんが何処から持って来たものか、そぎ竹を丹念に細く削って鳥籠をつくっているのを見たことがあった。よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋ちょうちんやが箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合ようすあいから下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑った顔を見たことがなかった。人は落魄らくはくして、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。

 戦争が長びいて、瓦斯ガスもコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消し、掃除は先の切れたほうきで、新顔の婆さんがするようになった。


        ○


 戦後に逢う二度目の秋も忽ち末近くなって来た。去年の秋はこれを岡山の西郊に迎え、その尽るのを熱海に送った。今年下総葛飾しもうさかつしかの田園にわたくしは日ごとに烈しくなる風の響をききつつ光陰の早く去るのに驚いている。岡山にいたのは、その時には長いように思われていたが、実は百日に満たなかった。熱海の小春日和こはるびよりは明るい昼の夢のようであった。

 一たび家を失ってより、さすらい行く先々の風景は、胸裏に深く思出の種をかずにはいなかった。その地を去る時、いつもわたくしは「きぬぎぬの別れ」に似た悲しみを覚えた。もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかしながら期待の実行は偶然の機会を待つより外はない。

 八幡やわたの町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚ぶどうだなからは明るく日がさすようになった。玉蜀黍とうもろこしの茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山にとんびの鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社びっちゅうそうじゃの町の人たちは裏山の茸狩きのこがりに、秋晴の日の短きをなげいているにちがいない。三門みかどの町を流れる溝川みぞがわの水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。

 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁をかもす。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里パリーの空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。

 巴里は再度兵乱にったが依然としてつつがなく存在している。春ともなればリラの花もかおるであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁はるものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき

昭和廿一年十月草

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店

   1986(昭和61)年1117日第1刷発行

   2007(平成19)年713日第23刷発行

底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店

   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3

入力:門田裕志

校正:阿部哲也

2010年39日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。