椿子物語
高浜虚子




 私は鎌倉の俳小屋の椅子に腰をかけて庭を眺めてゐた。


 俳小屋といふのは私の書斎の名前である。もとは子供の部屋であつて、小諸に疎開して居る時分は物置になつてゐて、ろくに掃除もせず、乱雑に物を置いたまゝになつてゐた。三年越しに小諸から帰つて来た時に、そこを片附けて机を置いて仮りの書斎とした。積んであるものは俳書ばかりで、それが乱雑に置いてあり、その他には俳句に関する反古が又山と積み重ねてある。私は小諸でも自分の書斎にしてゐる処を俳小屋と呼んでゐたが、矢張りこゝも同じ名称で呼ぶことにした。


 俳小屋の前の庭も矢張り乱雑にいろんな草木があるのである。それも特別に植ゑたといふものは少ないのであつて、四十年間此処に住つてゐる間に、風が運んで来た種子とか、小鳥が糞と共に落して行つた種子とかいふものが自然に生えて、狭い庭のわりには草木の多い方である。植木屋に言はしたら、まつたく型をなさない乱雑な庭といふであらう。併し多年見馴れた目には、その一草一木にも何かと思ひ出があつて棄て難いものがあるのである。殊に椿の木が多く、それが赤い花をつけてゐるのが目を惹くのである。


 此の椿はどういふ種類に属するのか知らないけれども普通山椿と呼んでゐるもので真赤な花を夥だしくつけるのである。中には八重なのもあるが単弁なのが多い。花は天辺から根元に至るまで椿全体を押し包んでゐるやうに咲き満ちて、盛りになると、殆ど他の木は目に入らないやうに此の赤い椿が庭を独占してゐるのである。


 私は椅子に腰を掛けて、此の赤い椿の花を眺めてゐた。心はいつか旅路をさまよつて居るやうな感じになつた。其の旅路といふのは東海道とか中仙道とかいふのではないのであつて、自由自在に動いて行つて、とりとめもなく天地をさまよふ、といふやうな感じであつた。さうして此の赤い椿は私を取り囲んだ女の群になつて、いつも身辺に付き添ふてゐるやうな感じであつた。


 実は私は、もう老年になつて、此の頃は独り歩きを家人からとめられてゐる。私自身にしても、少し道が登りになると脚がだるくなつて来るし、又いそいで歩くやうな時は脹脛が硬ばつてしまふのであるから、車馬の通行の劇しい所を歩く時などは危険だと感じるのである。それでも家人が極端に独り歩きを禁じるのは少し行き過ぎのやうに思つて居る。が、まあ〳〵それもよからうと考へて、家人の言ふが儘にしてゐる。

 今此処に腰を掛けて、赤い椿の花に埋もれて、じつとその花を見つめて居ると、いつか浮雲にでも乗つてゐるやうな心持になつて、自分は自由自在に心の欲する処に行く事が出来、足は軽やかに空中を踏んで歩き廻ることが出来るやうな幻覚を覚えるのであつた。


 そんな空想に浸つて居る時は非常に心は楽しいのであつて、子供がお伽噺を聞いて楽しんでゐるやうな快感を覚えるのである。

造花また赤を好むや赤椿

小説に書く女より椿艶

椿艶これに対して老一人

 折節山田徳兵衛君から女人形を送つて来た。それは七八ツかと思はれる女人形であつて、髪はおかつぱで、赤い著物を著て錦のやうな帯を締めてゐた。両手をだらりとさげてゐるのは普通の人形の通りであつた。さうして手紙には、粗末な人形だが私の座右に置いて呉れゝば仕合せだ、といふ意味の事が書いてあつた。丁度赤い椿の盛りであつたところから、私はこれに椿子といふ名を附けて傍の本箱の上に置いた。

 山田徳兵衛君はなんと思つて此の人形を送つて来たのか。たゞ座右の飾物にしてくれといふ意味であつたのかもしれないが、又何か心のあつたもののやうにも受取れた。丁度その時分、私に小唄を作つてくれないかといふ或る人からの需めがあつたので、こんな小唄を作つた。

女人形を お側に置いて

明け暮れ眺めしやんすが 気がかりな

わしや人形に 悋気する

 前にも言つたやうに俳小屋には俳書が積み重ねてあつたり俳句の反古が崩れかゝつたりしてゐる中に私が唯一人坐つてゐるのみであつて、外には誰一人居るものもない。前後左右を顧みても、此の女人形に悋気するやうな人影は見当らない。矢張りこれは庭の椿の花を眺めてゐるうちに禁足の自分を自ら憐んで、天地を自由に飛翔する事が出来る夢の天国を描き出し、自ら楽しんで居るのと同じやうに、孤影悄然と本箱の上に置いてある八九歳の少女の椿子に対して居る自分を儚なんで、夢の国を描き出さうとするやうな、そんな欲求に駆られたものかも知れなかつた。「わしや人形に悋気する」といふのは椿子それ自身か、若しくは椿子に対する幻影の女か、それすらはつきりと判らぬやうな心持がするのであつた。


 その後、この小唄は吉村柳さんに節附され、柳さん自身に依つて或る小唄の会に親しく唄はれたのを聴いた。また其後、この小唄を稀音家浄観さんが節附をして、それによつて河合茂子さんが踊つたこともあつた。

 ホトトギス社や玉藻社や花鳥堂の社員が、年に一二回私の宅へ遊びに来る事がある。其の時は木彫の守武の像や子規の像が箱から取り出されて、小さい国旗を持たされて、諸君を歓迎する意味で床の間に置かれるのであつた。其の時に椿子も亦箱から取り出されて、手に国旗を持たされて、守武や子規の像と並んで諸君を歓迎する意味でやはり一緒に並んで置かれた。その時立子が此の部屋に這入つて来るや否や忽ち

「おゝ気味が悪い。」

と言つた。それは此の椿子がいつの間にか俳小屋の箱の中から出て来て、座敷の床の間の真つ先きに立つてゐたからであらう。それは守武の像や子規の像よりも椿子の立つてゐる方が気味が悪かつたのであらう。

 それから私も日暮方になつて俳小屋に入る時などは、箱の中に納つてゐてこちらを見てゐる椿子を見ることがなんとなく気味が悪いやうな心持もするのであつた。


 椿子が俳小屋の本棚の上に置かれてから殆ど三年の月日が経つた。その間に庭の椿は三度開落した。其の時七十五歳であつた私は七十八歳になつた。家人はいよいよ私の外出を厳重に警戒してをる。俳小屋の机の前に坐つてゐる私は愈々孤影悄然としてをる。

 去年の暮であつた。丹波の和田山の古屋敷香葎君がやつて来た。さうしてたまたま東京に来て居つたといふ安積叡子さんを同伴して来た。



 終戦の年であつたか、私は泊雲の墓に詣るために旅行をした。先づ丹波竹田の泊雲の息である西山小鼓子君の家に二泊し、泊雲の墓に詣り、其の翌日は年尾一家の疎開してゐた但馬和田山の古屋敷香葎君を訪ね、そこに一泊し、其の翌日は豊岡の京極杞陽君をたづね、そこに一泊し、其の翌日は又和田山に帰つて安積素顔君を訪ね、又そこに一泊した。

 素顔君の家は和田山一番の旧家で、土地の人が本家と呼んでゐるとのことであつた。素顔君は容貌も体格も立派な人であるが、中年から失明して同志社を中退し、祖先の家を守る傍ら俳句を泊雲君に手引してもらつてゐたのであつた。泊雲君の存生中に泊雲君に導かれて一度わざ〳〵大阪に出て来て、毎日新聞社の俳句会の時に、私と手を握つたことがあつた。又泊雲君が死んで後は杞陽君に俳句の指導をして貰つてゐた。私は杞陽君を通して素顔君の話を聞く事が多かつた。杞陽君は、こんな話をした事があつた。


 素顔君は生れからの盲目ではなかつた。同志社に学んでゐる時に急に眼が見えなくなつたのである。丁度桜の花の咲いてゐる時分であつて、落花がしてそれがちらちらと目に映つてゐる時分であつたが、其の時急に黒い幕が上から下りて来て、その幕がつい〳〵とさがつて来て忽ち眼を隠してしまつた。その時落花が白く目に映じつゝあつたのだが、急に見えなくなつてしまつた。それ以来明暗だけは分るが、ものの形は見わけがつかぬやうになつた。網膜剥離症といふのであつた。かういふ話を杞陽君はした。

 安積家は和田山の旧家であつて、多くの田畑や山林を所持してゐて、盲目になつた後の素顔君は、一家の主として、倹約な質素な生活をして、その父祖の財産を護ることに専らであつた。さういふ話も杞陽君はした。

 それから又こんな話もした。素顔君には子供がたくさんあるが、自分の目の見える時分に出来たのは長女の叡子さんだけであつて、自然叡子さんは一番可愛いゝやうであり、又頼りにもしてゐる。又叡子さんも従順に此の盲目の父に仕へ其用を弁じてゐる、とそんな事も話した。


 素顔君の家が和田山一番の旧家であることは、這入つて行つたところの土間や板敷などからも想像された。今猶ほ元禄時代の柱が其儘残つてゐる部分も其の建物の中にあつた。それは釿目が残つてゐて漆光りに光つてゐる柱であつた。縁側から下りると踏石のつゞいてをる古風な庭があつた。其処に大木の柿の木があつて其の梢に熟した柿が二つか三つ取らずに残してあつた。それは私のために残してあるのだとのことであつた。


 素顔君は表に出て先きに立つて私を導いた。普通の盲人のやうに杖をつく事をしなかつた。無造作に一人の少女の肩に手を掛けて、それで目の見える人同様に歩くのであつた。その少女といふのはセーラー服を著て髪を束ねて後に垂らしてゐる十五六位の少女であつた。それが杞陽君の話にあつた素顔君の長女の叡子さんであつた。

 叡子さんは黙つて肩をかしながら歩いた。素顔君は先づ自分の先祖の墓地に私を導いて行つた。それは板塀を囲らした広い塋域えいゐきであつて、元禄時代からの先祖の墓が並んでゐた。

掃苔や十三代は盲なる  素顔

秋晴やあるは先祖の墓を撫し  虚子

 それから又一つの畑に導いた。その畑は素顔君が手づから耕してゐる処であるといひ、そこに生えてゐる菜つ葉に手を添へて満足気に私に示し、いかにもその成長を楽しんで居るもののやうに見えた。それから町を離れて一つの野路を行くと川があつて、そこに橋が架つてゐた。其の橋の上に立つて、

「この川は蓼川といふのです。」

と言つた。さうして其の橋の欄干に背を凭たせて、目はあらぬ処を見詰めてをるやうで暫く深い沈黙に落ちた。

秋深き如くに素顔黙す時  虚子

その蓼川のふちは美しく草紅葉してゐた。

草紅葉しぬと素顔を顧みし  虚子

案内するすべなき我や草紅葉  素顔

 素顔君は尚ほ暫く沈黙をつゞけて居た。その間、叡子さんは淋しさうに素顔君のそばに立つて居た。叡子さんは始めから終りまで一言もものを言はなかつた。暫くその橋の上に、主客ともに沈黙の数分間を過ごして後ち漸くに歩を返した。素顔君は又叡子さんの肩に手を置いてもと来た路を家路に向つた。此行は年尾、立子を同伴し、此時は杞陽、香葎君等も一緒であつた。


 その翌年、香葎君は素顔君を伴つて、私が訪問した礼だといつて、私の疎開先である小諸に来た。其時は香葎君が叡子さんに代つて素顔君に肩をかしてゐた。

ひたすらに小諸近しと汽車涼し  素顔

 小諸に来た時分に、素顔君は、

「自分は盲目になつてから鍼灸を習つてゐるので一つ試みて見ませう。」

と言つて老妻に鍼をし、私の肩をもんでくれた。香葎君は、

「此頃素顔君の門に鍼灸治療といふ看板をかけたが、もと〳〵大家の旦那であるのを憚つて一人も治療を受けるものはない。」

といふ話をした。


 その前後は素顔君の句が最も高潮してをつた時代のやうに思はれた。

乾坤に一擲くれし大夕立

耳一つ恵み残され冬籠

寒卵取りに出しのみ今日も暮れ

 農地改革の声が旺んになつて来た時分から素顔君の俳句はぱつたりと跡を絶つてしまつた。香葎君の手紙に、農地改革の事は非常に素顔君の神経を苦しめつゝある、その為めに俳句に興味を失つたやうである、といふ事を言つて来た。その頃叡子さんは京都に出て、同志社に学んでゐた。素顔君は殆ど座右を離さなかつた叡子さんを、嘗て自分の学んだ母校である同志社に遊学させたのであつた。農地改革の声はそれから間もなく起つたのであつた。此の声は多くの田畑や山林を所有してをつた安積家を根柢から揺がせた。続いて財産税のことが起つた。それ等の事は深く素顔君の頭を悩ませた。盲人である自分の腑甲斐なさを憤つた。視覚は全くなくなつた。今迄は明暗だけは分つてゐたのが、それが全く見えなくなつてしまつた。聴覚も衰へた。「耳一つ恵み残され冬籠」といつた其の聴覚も衰へた。食慾も無くなつた。食つても旨くないから食はぬといつて殆ど箸をとらなかつた日が続いた。


 それから間もない事であつた、俄に素顔君の訃を伝へて来たのは。或る夜、二階の寝室に入つたが、其の翌朝は静に冷たい骸になつてゐた。


 一時は九州に緒方句狂君があり、それに対して山陰に安積素顔君が擡頭したのであつた。句狂君は一坑夫であつたが、ダイナマイトで失明して、懊悩して死を決心したこともあつた。それが俳句によつて蘇生して遂に立派な作家として立つやうになつた。併しその後胃癌にかゝつて死んだ。其の死に臨むや高僧のやうに徹底してゐて少しも煩悶しなかつた。

目を奪ひ命を奪ふ「諾」と鷲  虚子

 句狂君は鷲の感じのする人であつた。

 今又素顔君も、視覚を失ひ、聴覚を失ひ、遂に又味覚をも失ひ、消ゆるが如く亡くなつた。

何よりもとり戻したる花明り  虚子

 嘗て落花を見ながら明を失した素顔君も、今は凡て自由な国に生れ代つて又明らかな目を持つやうになつたであらう。

 時を同じくして現れ来つた二人の盲目俳人は又殆ど時を同じくして消えうせてしまつたのであつた。

徂く春や身近きものに古りし杖  句狂

打水をあなやと杖に身を支へ  同

追ひすがり来る雷に杖急かせ  同

我が杖の赴くまゝに恵方道  同

縁先に忘れられゐる杖のどか  同

虹描いて去りゆく雨師に雷きげん  同

杖さそふまゝに良夜の弱法師  同

散る花の無ければ盲つまらなく  同


稲妻にそむける顔を持たぬ我  素顔

小春日の我をとらへて離さざる  同

耳かせばかそけさの音枯野原  同

徒然や文机によむ羽子の数  同

帰らねばならぬ西日の松縄手  同

葉にけはい起りて落つる椿かな  同

行楽の我にむなしき蝶の空  同


 未亡人とし子さんに送つた慰めの句。

冬の去るごと又春の来たるごと  虚子

 叡子さんは父の死を聞いて驚いて家に帰り、喪に籠つて静に母の許にあつた後、又京都に出て同志社に学びを続けてゐた。

 老の月日は経つのが早かつた。素顔君の死から早くも三年を経過した。叡子さんは同志社を卒業して、暫く帰つて家庭にあつたのであるが今度親戚をたづねて一寸東京に出て来た。丁度香葎君も出京して、二人連れ立つて私を訪問して来たのであつた。



 久しぶりに逢つた叡子さんは、昔、素顔君に肩をかして黙々として歩いて居つた一少女とは見違へるほどに人と成つてゐた。髪容ちや服装などにいくらか女学生の名残りはとゞめてゐたが併しもう立派な一個の女性となつてゐた。昔は沈黙であつた一少女も、今はこちらの問ふ事に対してはき〳〵と返辞をした。物に臆するやうな処は少しもなかつた。

 嘗て素顔追悼号を出した「木兎」に、未亡人とし子さんは斯う書いてをるのを見た。

「実家の父、子供たちにとつては外祖父が、子供と一緒に火鉢を囲んでしみ〴〵と、

『お父さまもあの体でようこゝまで生きて下さつた。御苦労さんだつたなあ。今頃は楽になつてほつとしてゐなさるだらうなあ。』

と話してゐるのを隣室から聞くともなしに聞いて私はハツと、自分の悲しみにとぢ籠つてゐた私自身を省みて、故人をはじめみんなに相すま無く思ふと共に

『お祖父さんのおつしやつたやうに、本当にお父さまは御苦労であつたのね。こゝまで生き抜いて下さつたことを感謝して、明るくあたゝかい日日を過しませうね。』

と約束したのであつた。」

と書いてをる。斯くしてとし子さんは、亡き夫に代つて家を守り、叡子さんをはじめ多くの子女を明るく素直に育て上げ、殊に昨今は同志社を卒業した叡子さんを膝下に置いて其の薫陶に余念もなく、又叡子さんは母を助けてよく其の支へ柱となつてゐるであらうことは、今叡子さんを目の前に置いて、想像に難くないのであつた。

 私は、此の日は俳句の会が午後からあるので、午からは外出せなければならず、香葎君、叡子さん、それに老妻をも加へて、四畳半で炬燵を取り囲んで、其の上でお惣菜の昼飯をしたゝめることにした。小さいコツプに一杯づつの酒をついで御飯の前にその盃を挙げて互の健康を祝し、殊に叡子さんが何物にも煩はされずすくすくと素直に伸び育つて来たことを祝福した。それはほんの口を湿ほすほどの少量の酒であつたが、御飯をたべて居るなかば頃から、叡子さんの顔はだん〳〵と赤くなつて来た。老妻は笑つて

「まあ、叡子さん、まつかになつて。」

と言つた。

 叡子さんは黙つて頬をおさへ、席をかへて坐つたが、その顔は愈々赤くなつて来た。香葎君も笑ひ、私も笑つた。

 私は此の時の叡子さんを美しいと思つた。嘗て素顔君に肩を貸して黙つて蓼川までの道を歩いて行つた時の陰気な淋しい面影は払拭されて、つゝましやかではあるが、快活で、それで今斯く目のあたりに見て、別に粧ひを凝らしてゐるとも思へない顔を真赤にして、一杯の酒の酔を持てあましてゐるらしい、それを大変美しいものと眺めた。

 新年の俳句会の放送をした時、私は、この時の叡子さんの事を思ひ出してかういふ句を作つた。

この女この時艶に屠蘇の酔

 あとでこれは誰のことを言つたのかといふ質問があつたので、私はいつかの叡子さんの事を話した。放送俳句会の為に豊岡から出て来てゐた杞陽君は、

「叡子さんが『この女』になつたのですね。」

と笑つた。


 その後和田山に帰つた叡子さんから手紙が来たが、その手紙には斯ういふ事が書いてあつた。

「先生がお留守になつてから奥様のお許しを得て俳小屋を一見しました。其処には先生の毎日のお仕事が運ばれて居る様子を想像する事が出来ました。」

と書いてあつた。それから又かういふ事が書いてあつた。

「かねて承つてをりました椿子さまにもお目にかゝりました。これが常に先生のおそばにあつて明け暮れをお慰さめしてゐるのかと思ふとおなつかしく思ひました。」

と書いてあつた。


 叡子さんも、お母さんのとし子さんも、以前は素顔君の感化で俳句を作つて居つた。がその後は作つて居るやうな様子も聞かなかつた。或は作つて居つたのかも知れないが、それらしい様子は私には伝はらなかつた。久し振りに香葎君と一緒に私の家を訪ねたことが機会になつて、それからの叡子さんは又香葎君の仲間と共に熱心に俳句を作るやうになつたらしい。その会の句稿が私の所に廻つて来た時分に、選をして返すのを楽しみに待つてをるといふ手紙が来た。さうして今度は二句選ばれた、今度は一句も無かつた、といふやうな事を其の都度報じて来た。


 今年の椿も真赤に咲いた。例の如く椅子に腰を掛けて毎日のやうに眺めるのであつたが、併し嘗てのやうな感じは、はつきりとは浮ばなかつた。此の赤い椿に包まれて雲に乗つて自由に大空をさまよひ歩くやうな空想は、全く起らないではなかつたが、現れては消えるといふやうな影の薄い朧気なものであつた。本箱の上の箱に這入つてゐる椿子を見ると、それもなんだか生気がなく、埃つぽく見えた。私はそれを机の上に下ろした。


 私は不図この椿子を叡子さんに贈らうかと思ひ立つた。なぜ叡子さんに贈らうかと思ひ立つたかと自分で考へて見たが、その理由は判らなかつた。只、私の留守に叡子さんが俳小屋に這入つて、この椿子を見てなつかしく感じた、といふ事以外には其の理由は見出せなかつた。が只なんとなく叡子さんに贈らうかと思ひ立つた。叡子さんに葉書を書いた。さうして椿子をあなたに上げようかと思ふのであるがお受取り下さいますか、といふ意味のことを言つてやつた。叡子さんから返事が来た。

椿子さんを私に下さるとの御事、夢のやうな気がいたしながら拝見いたしました。可愛らしい顔が思ひ出せて参ります。是非々々戴かせて下さいませ。身にあまる光栄でございます。三年間先生のお側を離れなかつた椿子さん、必ず可愛がつて淋しがらせぬやうに致しますから戴かせて下さいませ。

お葉書を手にして裏に居る母と話して居ました。山椿の赤い花がしめつた岩の上に落ち重なりました。それから草取りをしてゐる間にも、鎌倉のお書斎の先生、お書斎に侍んべつてゐる椿子さんのことを思つてゐました。香葎さまにお電話して、大変なことになつたと話し合ひました。

父が元気であればどんなにか喜んで呉れるだらうかと思ひます。

明日は末の妹の入学式(小学一年生)でございます。杞陽先生のお宅のおぼつちやんもおない年であつたやうに存じてをります。

生野鉱山においでになりました山口青邨先生をお迎へしての句会は、夜でございますので帰る汽車がございません。楽しみにしてをりましたのに残念でございます。

 それから椿子を受取つた時の手紙に、

只今、椿子さんが無事到著いたしました。ほんたうに有難うございました。不思議な運命の椿子さんが今私の手にございます。亡き父がいつも私にしてくれてゐたやうに、今私は椿子さんの髪を撫ぜてやつて居ります。

 それから又二三日して、

近日杞陽先生にお願ひして、昭子奥さまをお招きして、椿子さんの歓迎句会を催すことにいたし度いと存じます。楽しみでございます。

 それからその時の句会の結果を報告して来た手紙に、

ふくみたる酒にほの〴〵桃日和  とし子

椿子と叡子とふと似春の宵  香葎

逝く春の卓に椿子物語  昭子

 他に三四人の句が書かれてあつた。さうして椿子を詠つた叡子さんの句は無く、かういふ句があつた。

夜桜にまじる裸木おそろしく  叡子

 さうして又

今皆様を送り出した部屋には只椿子と私があるのみでございます。此の際句作する心を取り戻した母を嬉しいと思ひます。

 香葎君、並に香葎君の細君のはる女さんからも椿子句会のことを報じて来た。又杞陽君からも手紙が来た。

今日叡子主催椿子歓迎会。私は留守番、昭子が参りました。電話がかゝつて来て、大変面白い句会であつたとのこと。昭子は和田山一泊とのこと。

この間、椿子をいたゞきたての叡子さんに逢ひました。大変仕合せさうでした。

 私は山田徳兵衛君に此事を報ぜなければならぬと思ひながら、まだ其のまゝにしてゐる。

 私は椿子をどういふ意味で叡子さんに贈つたのであつたかといふ事を考へて見たが、矢張り明らかなことを答へることが出来なかつた。たゞなんとなく叡子さんに贈りたいやうな心持がして贈つたのであつた。斯く椿子歓迎句会が催され、京極昭子さんまでがそれに参会されたといふ事を聞くのも、又、叡子さんのお母さんのとし子さんもそれに依つて句作の心を取り戻されたといふことを聞くのも、それが私の叡子さんに贈つた心持と合つたものであらうとも、又違つたものであらうとも、私にとつて満足の事であらねばならなかつた。

 或事の為め上京した杞陽君は、其の用事を果した後、一日暇を見て鎌倉の草庵を訪れた。話が椿子のことにも及んだ。

 さうして叡子さんに頼まれた短冊を取り出して、それに句を書けとのことであつた。私は、

椿子と名付けてそばに侍らしめ

椿子に絵日傘持たせやるべきか

 それから椿の句をも二三認めた。杞陽君は叡子さんに代つて丁寧に礼を言つて、それを風呂敷にくるんだ。其の容子がをかしかつた。

「何だか恋の使のやうですね。」

と笑つた。杞陽君も

「若い娘さんの使ですからね。」

と笑つた。


 椿子を入れるための硝子の箱を其の後山田徳兵衛君から送つて来たのが其のまゝにしてあつた。それはまだ叡子さんに送つてなかつた。こはれものだから誰かいゝ序があつた時分に頼まうと思つて居ると私は話した。杞陽君は私が持つて行つてもいゝのだが、外に重い鞄も持つてゐるからと躊躇してゐた。併し、その硝子の包みを見せて呉れと言つたので、私は取り出して見せた。杞陽君はそれを見て、矢張り私が持つて行くことにしませうと言つた。重い鞄のほかにそれを提げて玄関を出る時には「恋の重荷」といふ感じがした。


 米原駅から出した鉛筆書きの葉書が来た。

「椿子の箱、只今伊吹山麓を通過。五月二十五日朝、米原駅、京極杞陽」

底本:「近代浪漫派文庫 7 正岡子規 高浜虚子」新学社

   2006(平成18)年911日第1刷発行

初出:「椿子物語」中央公論社

   1951(昭和26)年6

入力:門田裕志

校正:高瀬竜一

2017年311日作成

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