二葉亭四迷の一生
内田魯庵



 二葉亭ふたばてい歿後ぼつご坪内つぼうち、西本両氏とはかって故人の語学校時代の友人及び故人と多少の交誼こうぎある文壇諸名家の追憶または感想をい、集めて一冊として故人の遺霊に手向たむけた。その折諸君のまちまちの憶出おもいでを補うために故人の一生の輪廓を描いて巻後に附載したが、草卒の際序述しばしば先後し、かつ故人を追懐する感慨に失して無用の冗句をかさね、故人の肖像のデッサンとしてすこぶる不十分であった。即ち煩冗を去り補修を施こし、かつ更に若干の遺漏を書足かきたして再びここに収録するは二葉亭四迷しめい如何いかなる人であるかを世に紹介するためであって、肖像画家としての私の技術を示すためではない。かつ私が二葉亭と最も深く往来交互したのは『浮雲うきぐも』発行後数年を過ぎた官報局時代であって幼時及び青年期を知らず、更に加うるに晩年期には互いに俗事にわずらわされて往来ようやうとく、ひじって深く語るの機会を多く持たなかったから、二葉亭の親友の一人ではあるが、そのボスウェルとなるには最も親密に交際した期間が限られていた。

 かつこの一篇は初めからデッサンのつもりで書いたゆえ、如何に改竄かいざん補修を加えてもデッサンはついにデッサンたるを免がれない。勿論もちちん二葉亭の文学や事業を批評したのではなく、いわば履歴書に註釈加えたに過ぎないので、平板なる記実にもし幾分たりとも故人の人物を想到せしむるを得たならこの一篇の目的は達せられている。更に進んで故人の肉を描き血を流動せしめて全人格を躍動せしめようとするには勢い内面生活の細事にまでも深く突入しなければならないから、生前の知友としてはかえってくしがたい私情がある。故人の瑜瑕ゆか並びおおわざる全的生活は他日再び伝うる機会があるかも知れないが、今日はマダその時機でない。かつおのずから別に伝うる人があろう。本篇はただわずかに故人の一生の輪廓を彷彿ほうふつせしむるためのデッサンたるに過ぎないのである。下記は大正四年八月の旧稿を改竄補修をしたもので、全く新たに書直し、あるいは書足した箇処もあるが、大体はすべて旧稿にる。


一 生いたちから青年まで


 二葉亭が明治二十二年頃自ら手録した生いたちの記がある。未完成の断片であるが、その幼時を知るにはこれにくものはなかろう。いわく、

 余は元治元年二月二十八日をもって江戸市ヶ谷いちがや合羽坂かっぱざか尾州びしゅう分邸に生れたり。父にておはせし人はその頃年三十を越え給はず、また母にておはせし人もなほ若かりしかば、さのみは愛し給ひしとも聞かざれど、祖母なる人のいとめでいつくしみ給ひて、父のしかり給ふ時は機嫌よろしからぬほどなれば、おのづから気随におひたてり。されど小児の時余のもっともおそれたるは父と家に蔵する鍾馗しょうきの画像なりしとぞ。

 幼なかりしころよりみだりに他人にしたしまず、いはゆる人みしりをせしが、親しくゆきかよへる人などにはいと打解けてませたる世辞などいひしと叔母おばなる人常にの給ひき。

 六歳のころ父なる人自ら手本をものして取らし給ひつ。されど習字よりは画を好みて、夜は常に木偶でくの形など書き散らして楽みしが、ただみづから画くのみならで、絵巻物(註、錦絵の事なり)などことの外よろこびて常にあそべりとか。

 画の外余のもっとも好みしは昔物語りにて、夜に入ればいつも祖母なる人の袖引きゆるがして舌切雀したきりすずめのはなしし玉へとせがみしといふ。

 されどこれらは幼き時のことなれば今は覚えなし。ただ祖母なる人の物語り給ひしを記せるのみなり。

 上野戦争後諸藩引払ひの時余の一家は皆尾州へおもむきたれど、ただ父なる人のみはなほとどまりて江戸の邸を守り給へり。

 尾州にいたりてのちに初めて学にけり。組外れに漢学塾ありたりしが、その門に入りて漢学を修めり。また余の叔父おじなる人にも就きて素読そどくを修めり。藩に学あり、英仏両語を教授す。余またこれに入りて仏語を修めり。

 余は常に学校に行くをたのしみとせしが、学問するが面白きにはあらで、学校にて衆童と遊戯嬉笑きしょうするが面白きゆゑなりき。

 余のすめる近傍の児童は皆余の朋友なりき。但し何人も経験したる事ならんが、余の朋友中としたけたるもの二人ありたり。くだんの両人相親しむ時は余らは皆その麾下きかに属してさまざまなる悪戯をして戯れしが両人仲違なかたがひしたる時は余らもまた仲間割れをせり。余は到つて臆病なりしかばかかる時は常に両人中余の尤もおそるる方に附きしたがひてこびを献じてその機嫌を取れり。

 余はかくの如く他人に対して臆病なりしかど、家人に対して大胆にていはゆる湾泊わんぱくを極めたりき。余ははなはだしき疳性かんしょうにて毎朝衣服を母なる人に着せてもらひしが、常に一度にては済まず、何処どこか気持しければ二、三度も着かへるを常とせるをもて、これにりて母なる人をくるしめたる事もありき。

 概していへば当時の余の心状は卑劣なりしなり。

 以上はその全文である。取出でていうほどの奇はないが、二葉亭の一生を貫徹した潔癖、俗にいう気難きむずかし屋の気象と天才はだの「シャイ」、俗にいう羞恥はにかみ屋の面影おもかげ児供こどもの時からほの見えておる。かつこの自伝の断片は明治二十二年ごろの手記であるが、自ら「当時の余の心状は卑劣なりしなり」と明らさまに書く処に二葉亭の一生鞭撻べんたつしてやまなかった心のなやみが見えておる。

 尾州から父に伴われて父の任地島根に行き、ほとんど幼時の大部分を島根に暮した。その頃の父の同僚であって叔姪しゅくてつ同様に親しくした鈴木老人その他の話に由ると、すこぶ持余もてあましの茶目であったそうだ。軍人志頤で、陸軍大将を終生の希望とし、乱暴して放屁ほうひするをえらいように思っていたと、二葉亭自身の口から聞いた。

 二葉亭の伯父おじで今なお名古屋に健在する後藤老人は西南の役に招集されて、後に内相として辣腕らつわんふるった大浦兼武おおうらかねたけ(当時軍曹)の配下となって戦った人だが、西郷贔負さいごうびいきの二葉亭はこの伯父さんが官軍だというのが気にわないで、度々たびたび伯父さんをつかまえては大議論をしたそうだ。二葉亭の東方問題の抱負は西郷の征韓論あたりから胚胎はいたいしたらしい。こんな塩梅あんばいに児供の時分から少し変っていたので、二葉亭を可愛がっていた祖母おばあさんは「この子は金鍔きんつばすかこもるかだ、」と能く人に語ったそうだ。(金鍔指すか薦被るかというは大名となるか乞丐こじきとなるかという意味の名古屋附近に行われる諺。)

 十五歳の時、島根から上京して四谷の忍原横町おしはらよこちょう親戚しんせきの家に寄食した。その時分もヤンチャン小僧で、竹馬の友たる山田美妙びみょうの追懐談に由ると、お神楽かぐら馬鹿踊ばかおどりが頗る得意であって、児供同士が集まると直ぐトッピキピを初めてヤンヤといわせたそうだ。間もなく芝の愛宕あたごした高谷たかたに塾に入塾した。高谷塾というは『日本全史』というかなり浩澣こうかんな大著述をしたその頃の一と癖ある漢学者高谷龍洲の家塾であって、かなり多数の書生を集めて東京の重なる私塾の一つに数えられていた。大阪朝日の旧社員の土屋大作や、今は故人となった帝劇の座付作者の右田寅彦みぎたのぶひこ兄弟も同塾であったそうだ。しかるにイタズラ小僧の茶目の二葉亭は高谷塾に入塾すると不思議ににわかに打って変った謹直家となって真面目まじめに勉強するようになった。知らない顔の他人の中へ突き出されて、持前もちまえ羞恥はにかみ屋から小さくなったのでもあろうが、一つは今なら中学程度に当る東京の私塾の書生となったので、俄に豪くなって大人おとなびたのでもあろう。

 その時代、一番親しくしたは二葉亭の易簀えきさく当時暹羅シャム公使をしていた西源四郎と陸軍大尉で早世した永見松太郎の二人であった。殊に永見は同時に上京した同郷人であるし、同じ軍人志願であったからなお更深く交際した。然るに永見は首尾よく陸軍の試験に合格したが、二葉亭はその頃からの強度の近視眼のため不合格となった。(永見はその後参謀部の有数な秀才と歌われていたが、惜しい事に大尉で若死わかじにしてしまった。福島大将と同時代であったそうだ。)二葉亭は運悪く最初の首途かどで失敗やりそこなってしまったが、首尾よく合格して軍人となっても狷介けんかい不覊ふきの性質がわずらいをなして到底長く軍閥に寄食していられなかったろう。

 その頃二葉亭は既に東亜の形勢を観望して遠大の志を立て、他日の極東の風雲を予期して舞台の役者の一人となろうとしていた。陸軍を志願したのも、幼時はくその頃では最早もはやただ軍服が着たいというような幼い希望ではなかった。それ故に軍人志望がむなしくなると同時に外交官を志ざして旧外国語学校の露語科に入学した。その頃高谷塾以来の莫逆ばくげきたる西源四郎も同じ語学校の支那語科に在籍していたので、西は当時の露語科の教師古川常一郎の義弟であったからなお更益々ますます交誼を厚くした。その後間もなく西が外務の留学生となって渡支してからも山海数千里をへだてて二人は片時かたときも往復の書信を絶やさなかった。その頃の二葉亭の同窓から聞くと、暇さえあると西へる手紙を書いていたそうで、その手紙がイツデモ国際問題に関する侃々諤々かんかんがくがくの大議論で、折々は得意になって友人に読んで聞かせたそうだ。二葉亭の露西亜ロシア語は日露の衝突を予想しての国家存亡の場合に活躍するための準備として修められたのだから、「君は支那公使となれ、我は露国公使とならん」というが二人の青年の燃ゆる如き抱負で、殆んど天下の英雄は使君しくんと操とのみの意気込であった。二葉亭が死ぬまでも国際問題を口にしたのは決して偶然ではないので、マダ二十歳はたちになるかならぬかの青年時代から血をかした希望であったのだ。(二葉亭の歿後、或人が西を訪問してその頃の二葉亭の遺事を聞きたいといったところが、西はすこぶる冷然として二葉亭とはホンの同窓というだけの通り一遍の浅い関係だからその頃の事は大抵忘れてしまったといういたって率気そっけない挨拶あいさつだったそうだ。御当人がそういう健忘性だから世間からも西という公使があったかなかったか今では全く忘れられている。)

 明治十八年の秋、旧外国語学校が閉鎖され、一ツ橋の校舎には東京商業学校が木挽町こびきちょうから引越して来て、仏独語科の学生は高等中学校に、露清韓語科は商業学校に編入される事になった。当時の東京商業学校というはと商法講習所と称し、主として商家の子弟を収容した今の乙種商業学校程度の頗る低級な学校だったから、士族気質かたぎのマダせない大多数の語学校学生は突然の廃校命令に不平を勃発ぼっぱつして、何の丁稚でっち学校がという勢いで商業学校側を睥睨へいげいした。今ならこんな専制的命令が行われるはずもなく、そういう場合学生は聯合して示威運動でもする処だが、当時の学生はだそういう政治運動をする考がなく、硬骨連が各自てんでに思い思いに退校届を学校へたたきつけて飛出してしまった。二葉亭もまたその一人で、一時は商業学校に学籍を転じたが、翌十九年一月、とうとう辛抱がまんが仕切れないで怫然ふつぜんたもとを払って退学してしまった。う二、三月辛抱すれば卒業出来るのだし、二葉亭は同学中の秀才だったから、そのまま欠席して試験を受けないでも免状を与えようという校長の内諭もあったが、気に喰わない学校の卒業証書を恩恵的にもらう必要はないと、キビキビ跳付はねつけてプイと退学してしまった。

 が、この頓挫とんざが二葉亭の生涯の行程をこじらすもといとなったは争われない。当時の商業学校の校長矢野次郎は二葉亭の才能をおしんで度々校長室に招いて慰諭し、いよいよ学校を退学してからも身分上の心配をしてやろうとまで厚意を持ってくれた。が、不平で学校を飛出しながら校長の恩にすがるような所為まね餓死うえじにしても二葉亭には出来なかった。かつ露語科に入った当初の志望こそ外交官であったが、語学の研究のため露西亜文学を渉猟ししてから何時いつにか露国思想の感化を受けると同時に、それまで潜在していた文学的興味、芸術的意識が俄に頭を擡上もちあげて来て当初の外交官熱が次第に冷め、その時分は最早以前の東方策士形気かたぎでなくなっていたから、矢野の厚意に縋って官界なり実業界なりに飛込む気にはなれなかった。元来が軍人志願の漢学仕込で、岳武穆がくぶぼくや陸宣公にきたえられていた上に、ヘルチェンやビェリンスキーの自由思想に傾倒して意気欝勃うつぼつとしていたから、一から十までが干渉好きの親分肌の矢野次郎の実業一天張いってんばりの方針と相容あいいれるはずはなかった。算盤玉そろばんだまからはじき出したら矢野のいう通りに温和おとなしくなってる方が得策であったかも知れないが、矢野が世話を焼けば焼くほど、世話になるが利益と思えば思うほど益々反抗して、折角の矢野の厚意をピタリと跳付けて後足あとあしってしまった。無論、学校を飛出してから何をするというあてはなかったが、この場合是非分別を考えるいとまもなくて、一図に血気に任して意地を貫いてしまった。


二 春廼舎との握手


 あたかもその頃であった。坪内逍遥の処女作『書生気質しょせいかたぎ』が発行されて文学士春廼舎朧はるのやおぼろの名がにわかに隆々として高くなったのは。(『書生気質』は初め清朝四号ずりの半紙十二、三枚ほどの小冊として神田明神下かんだみょうじんしたの晩青堂という書肆しょしから隔週一冊ずつ続刊されたので、第一冊の発行は明治十八年八月二十四日であった。)丁度政治が数年後の国会開設を公約されて休息期に入って民心が文学に傾き、リットンやスコットの飜訳小説が続出して歓迎され、政治家の創作がしきりに流行して新らしい機運に向いていた時であったから、今の博士よりもはるかにヨリ以上重視された文学士の肩書を署した春廼舎の新作はたちまち空前の人気を沸騰し、堂々たる文学士が指を小説に染めたという事は従来戯作視した小説の文学的位置を重くもし、世間の好奇心を一層びもした。その頃までは青年の青雲の希望は政治に限られ、下宿屋から直ちに参議となって太政官だじょうかんに乗込もうというのが青年の理想であった時代であったから、天下の最高学府の出身者が春廼舎朧といういきな雅号で戯作の真似まねをするというは弁護士の娘が女優になったり、華族の冷飯ひやめしがキネマの興行師となるよりも一層意外で、『書生気質』が天下を騒がしたのはその芸術的効果よりも実は文学士の肩書の威力であった。

 それ故世間は半信半疑で、初めはやはり政治家の小説と同じ一時の流行カブレで、堂々たる学士がマジメに小説家になろうとは誰も思わなかった。ところが高田半峰たかだはんぽうが長々しい批評を書き、春廼舎もまた矢継早やつぎばやに『小説神髄』(この頃『書生気質』と『小説神髄』とドッチが先きだろうという疑問が若い読書子間にあるらしいが、『神髄』はタシカ早稲田わせだの機関誌の『中央学術雑誌』に初め連載されたのが後に単行本となったので、『書生気質』以後であった。)から続いて『いもかがみ』を発表し、スモレット、フィールディング、ディッケンス、サッカレー等の英国小説家が大文豪として紹介され、戯作の低位から小説が一足飛びに文明に寄与する重大要素、堂々たる学者の使命としても恥かしくない立派な事業に跳上ってしまった。それまで政治以外に青雲の道がないように思っていた天下の青年はこの新らしい世界を発見し、俄に目覚めたように翕然きゅうぜんとして皆文学にはしった。美妙や紅葉こうようが文学を以て生命とする志を立てたのも、動機は春廼舎の成功に衝動されたのだ。

 二葉亭はこれより先き語学校の科目としてゴンチャローフやゴーゴリやレルモントフやドストエフスキー等の大文学を研究し、進んでビェリンスキー、ドブロリューボフ、ヘルチェン等の論文集を耽読たんどくし、殊に深くビェリンスキーに傾倒していた。もっとも半ば語学研究の必要のために外ならなかったが、当時の語学校の教師グレーというがなかなかな文学家であって、その露文学を講ずるや微に入り細にわたって批評し、かつエロキューションに極めて巧妙で、身振みぶり声色こわいろまじりに手を振り足を動かし眼をき首をってゴンチャローフやドストエフスキーを朗読して聞かしたのが作中のシーンを眼前に彷彿せしめて、たびグレーの講義を聞くものは皆語学の範囲をえてその芸術的妙趣を感得し、露西亜文学の熱心なる信者とならずにはいられなかった。二葉亭もまたこの一種の天才ある教師の指導を受けて何時いつとはなしに芸術的興味を長じ、進んで専門文人となるまでの断乎だんこたる決心は少しもなかったが、知らずらずに偶然文人の素地を作っていた。時も時、学校をめて何をするという方角もなく、満腔まんこうの不平を抱いて放浪していた時、卒然としてこの文学勃興の機運に際会したは全く何かの因縁であったろう。

 当時の春廼舎朧の声望は旭日きょくじつ昇天の勢いで、世間の『書生気質』を感歎するやあたかも凱旋がいせん将軍を迎うる如くであった。が、世間が驚嘆したのは実は威力ある肩書のためであって、その実質は生残りの戯作者流に比べて多少の新味はあっても決して余り多く価値するに足らなかったのは少しく鑑賞眼あるものは皆認めた。ましてや偉大なる露国文学の一とわたりをきわめた二葉亭が何条肩書におどかされよう。世間が『書生気質』や『妹と背鏡』や『小説神髄』を感嘆する幼稚さをあきれると同時に、文学上の野心が俄にムズムズして来た。尤も進んで春廼舎と競争しようというほど燃上ったのではなかったが、く春廼舎の技巧や思想の歯癢はがゆさに堪えられなくなった結果が『小説神髄』の疑問の箇処々々に不審紙をったのを携えて突然春廼舎の門を叩いた。語学校を罷めてから間もなくであった。

 二葉亭が春廼舎を訪問したのは、昔の武者修行が道場破りをするツモリで他流試合を申込むと多少似通った意気込がないではなかった。が、二葉亭は極めて狷介な負け嫌いであると同時にまた極めて謙遜けんそんであって、如何いかなる人に対しても必ず先ず謙虚しておしえを待つの礼をおろそかにしなかった。春廼舎をあきたらなく思っていたには違いないが、訪問したのは先輩を折伏しゃくぶくして快を取るよりは疑問を晴らして益をくるツモリであったのだ。が、ビェリンスキーに傾倒しゴンチャローフ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー等に飽満した二葉亭が『書生気質』の著者たる当時の春廼舎に教えられる事が余り多くなかったのはあきらかに想像し得られる。

 が、それ以後しばしば往来して文学上の思想を交換すると共に文壇の野心を鼓吹インスパヤされた事は決して尋常ひととおりでなかった。矢崎鎮四郎やざきしんしろうを春廼舎に紹介したのもやはり二葉亭であった。矢崎は明治十九年の十月には処女作『守銭奴しゅせんどはら』を公けにし、続いて同じ年の暮れに『ひとよぎり』を出版し、二葉亭に先んじて逸早いちはや嵯峨さがむろの文名を成した。

 二葉亭の初めての試みはゴーゴリの飜訳であった。が、世間には発表しなかった。その発表しなかった理由は不明であるが、多分性来の自重心が軽々しく公けにするを欲しなかったのであろう。その時分またビェリンスキーの美論の一部を飜訳した事があった。尤もこの飜訳は春廼舎を初めビェリンスキーを知らない友人に示すためであって、公けにするツモリはなかったのであるが、その中の一部分が飜訳後しばらくってから冷々亭主人の名で前記した早稲田わせだの機関誌の『中央学術雑誌』に掲載された。が、ビェリンスキーの美論は当時の読書界には少し高尚過ぎたから、誰にも碌々ろくろく読まれず、ほとんど注意されずに終ったが、今から三十年前にこういう深邃しんすいな美学論が飜訳されたというは恐らく今の若い人たちの思掛けない事であろう。その時分二葉亭は冷々亭杏雨きょうう、率性堂、または翕々亭きゅうきゅうていと称していた。

 その頃二葉亭は学校を罷めてしまって、これから先きどうでも一本立ちにならねばならない場合であった。親代々家禄で衣食した士族の官吏の家では官吏を最上の階級とし、官吏と名が附けば腰弁こしべんでも一廉いつかどの身分があるように思っていたから、両親初め周囲のものは皆二葉亭の仕官を希望していた。が、二葉亭は決然袂を揮って退学した余勇がなお勃々としていた処へ、春廼舎からは盛んに文学をあおり立てられ、弟分おととぶんに等しい矢崎ですらが忽ち文名をぐるを見ては食指動くの感に堪えないで、周囲の仕官の希望を無視して、砂をんでも文学をやると意気込んでいた。その時分の文学的覇心はしんは殆んど天にちゅうする勢いであった。


三 『浮雲』及びその時代の生活


『浮雲』の第一編が発行されたは明治二十年七月であった。この第一編は今も昔も変らぬ書肆しょしの商略から表紙にもタイトルページにも春廼舎朧著と署して二葉亭の名は序文に見えるだけだから、世間は春廼舎をのみ嘖々さくさくして二葉亭の存在を少しも認めなかった。二葉亭の名が一般読書人に知られて来たは公然その名を署した第二編の発行以後である。が、それすら世間は春廼舎の別号あるいは傀儡かいらいである如く信じて二葉亭の存在を認めるものは殆んどれであった。

 尤も第一編は春廼舎の加筆がかなり多かったから多分の春廼舎臭味があった。世間が二葉亭を無視して春廼舎の影法師と早呑込はやのみこみしたのも万更まんざら無理ではなかった。が、誰でも処女作を発表する時は臆病で、著作の経験上一日の長ある先輩の教えを聞くは珍らしくない。ましてや謙遜な二葉亭は文章の造詣ぞうけいでは遥に春廼舎に及ばないのを認めていたから、おのれをむなしゅうして春廼舎の加筆を仰いだ。春廼舎臭くなったのも止むを得なかった。が、一端発表して後は自信を強くし、第二編には思う存分に大胆な言文一致を試みて自個の天地を開き、具眼の読書子をして初めて春廼舎以外に二葉亭あるを承認せしめた。

 言文一致の創始者としては山田美妙が多年名誉を独占し、今では美妙と言文一致とは離るべからざるものの如く思われておる。が、美妙の『夏木立』は明治二十一年八月の出版で、『浮雲』第一編よりは一年遅れてる。尤も『夏木立』中の「武蔵野」は初め『読売新聞』に載ったのであるが、やはり『浮雲』の方が先んじていた。あるいは『浮雲』第一編は厳密な意味の言文一致でないという人があるかも知れぬが、「武蔵野」もまたすこぶる雅文臭いもので、時代の先後をいったら二葉亭の方が当然その試みに率先した名誉をになうべきはずである。不思議な事には美妙と二葉亭とは親たちが同じ役所の同僚であって、児供こどもの時からの朋友であった。尤も竹馬の友というだけで、中ごろは交際が絶え、相談したのでも申合わしたのでもなかったが、相期せずして幼友達おさなともだち同士のこの二人が言文一致体をはじめたというは頗る不思議な因縁であった。尤もこれより以前、漢字廃止を高調した仮名の会の創立当時から言文一致は識者の間に主張され、極めて簡単な記事文や論説を言文一致で試みた者もあった。同時にこれより三、四年前に発明された速記術がその頃ようやく実際に応用されて若林玵蔵かんぞうの速記した円朝えんちょうの『牡丹燈籠ぼたんどうろう』が出版されてきた口話の実例を示したのが俄に言文一致の機運を早めたのは争えない。美妙も二葉亭もこの円朝の口話の速記に負う処が多かったのは想像するに余りがある。明治の文章史を作る者は円朝の『牡丹燈籠』と速記者若林玵蔵の功労とを無視する事は出来ない。

 かつまた美妙と二葉亭との文体は等しく言文一致であっても著るしい語系の差異がある。美妙はとが韻文家であって韻語に長じ、兼ねて戯文の才があったから、それだけ従来の国文型が抜け切れない処があった。二葉亭も院本いんぽんや小説に沈潜して好んで馬琴ばきん近松ちかまつの真似をしたが、根が漢学育ちで国文よりはむしろ漢文を喜び、かつ深く露西亜文にしたしんでいたから、容易に国文の因襲を脱して思切って大胆なる言文一致を試みる事が出来た。春廼舎の加筆した『浮雲』第一編は別として、第二編となると全然従来の文章型を無視した全く新らしい文体をはじめた。二葉亭の直話にると、いよいよ行詰ゆきづまって筆が動かなくなると露文で書いてから飜訳したそうだ。二葉亭の露文は学生時代からグレエ教師が感嘆したという位で、後にダンチェンコが来朝して能見物に案内した時、ダン君に示すための当日の能の筋書を前夜のうちに露訳したというほどの腕達者だから、露文で書いて邦訳したというのもあながち英雄人を欺くの放言だとは思われない。ゴンチャローフの真似をして出来損できそこなったとは二葉亭がく人に話した謙遜のような自得のような追懐であった。『浮雲』の文章に往々多少の露臭ろしゅうがあるのはこれがためであろうが、そこが在来の文章型を破った独創の貴とさである。美妙のは花やかにコッテリしてわざとらしい厭味いやみのある欧文の模倣にちていた。丁度油をコテコテなすってかつらのように美くしく結上ゆいあげた束髪そくはつが如何にも日本臭いと同様の臭味があった。二葉亭のは根本から欧文に醇化じゅんかされ、極めて楽に日常用語を消化して全く文章離れがしていたが、美妙のはマダ在来の文章型を脱し切れない未成品であった。美妙の功労を十分認めるとしても、また創始者たる名誉は二人の中のドッチとも定められないとしても、今日の言文一致の宗とするは美妙よりはむしろ二葉亭である。

 さてこの『浮雲』の構案であるが、一体この構案を何処どこから得て来たかは不明である。二葉亭は自分の性格の一部を極端に誇張したもの(即ち文三)を中心として両親や周囲の人物の性格を同じく極端に延長したものを配して新旧思想の衝突を描いたのであると、極めて漠然ばくぜんたる話をした事があった。大雑駁おおざっぱにいえばツルゲーネフ等にならって時代の葛藤かっとうを描こうとしたのは争われないが、多少なりともこれに類した事実が作者の視聴内にあった否乎は二葉亭はかつて明言しなかった。ただその頃の作家は自分の体験をありのままに書き周囲の人物をモデルとするような事は余りなかったから、『浮雲』のモデルや事実は先ずなかったろうと信ずる。

 二葉亭から直接聞いたはなしに、二葉亭の家の直ぐ近所にA・Nというその頃若い書生間に評判な新らしい女が住んでいたが、しいていえばこの女が『浮雲』のお勢のモデルであったそうだ。女学生ではあるが学校へは行かないで弟と二人で世帯を持って、国から送る学費で気随気儘きままに暮していた。ちっとばかり洋書が読めて多少の新らしい趣味を解し、時偶ときたまは洋服を着る当時の新らしい女で、男とばかり交際していた。その頃は今より一層はなはだしい欧化熱の頂上に登り詰めた時代であって、青年男女の交際が盛んに鼓舞され、本郷ほんごう神田辺の学生間に□□会、倶楽部クラブなどと称する男女交際を唯一の目的とする、今なら不良扱いされる青年の団体がイクツもあった。Nはこういう団体の何処へでも顔を出して跳廻はねまわっていたから、御面相は頗る振わなかったが若い男の中には顔が売れていた。当時のチャキチャキの新らしい男たる硯友社けんゆうしゃの中にもこの女と親しいものがあったはずである。その上にこの女は弟と二人ぎりの気随気儘の暮しをしていて、遠慮気兼きがねをする者が一人もいなかったから、若い男はい遊び場にして間断しっきりなしに出入でいりして、毎晩十二時一時ごろまでもキャッキャッと騒いでいた。小説家となるツモリになっていても志士気質のせない二葉亭は、女と交際するような事は決してなかったが、ツイ眼と鼻の間だから近所の評判となってるこの女のうわさを聞いていたので、いよいよ小説を立案するにあたって偶然憶付おもいついたのがこの女であった。そこでこの女をモデルとして当時の新らしい女を描こうとし、この目的のためにしばしばこの女の住居すまいの近所を徘徊はいかいして容子ようす瞥見べっけんし、或る晩は軒下のきしたに忍んで障子に映る姿を見たり、戸外にれる声をぬすいたりして、この女の態度から起居振舞たちいふるまい口吻こうふんまでをソックリそのままに写したのがお勢であるそうだ。無論外形の一部分をモデルとしたので、全体を描いたのではなかった。第一、この女は随分マズイ御面相で、お勢のような美人でなかった。かつお勢よりもお転婆てんばであり引摺ひきずりであった。その上に御面相の振わないのを自覚していたせいであろうが、男と交際していてもお勢のような coquettish な容子は少しもなかった。仮にこの女と本田と取組ましたなら、お勢のように本田の翫弄なぶりものにならないでかえって本田を翫弄にしたかも知れない。恐らくこの女は当時の世評嘖々たる『浮雲』を読んだに違いないが、自分がお勢のモデルであるとは気が附かなかったであろう。お政にものぼるにもモデルがあるといって、誰それであろうと揣摩しまする人もあるが、作者自身の口からは絶えてソンナ咄を聞かなかった。勿論、文三が作者自身の性格の一部を極端に誇張して作為したのが争われないと同様に、作者に近接する人物の性格の一部をモデルとしたに違いなかろうが、二葉亭はお政や昇については何にも咄さなかった。

 全体として評すれば『浮雲』の文章及び構作は共に未成品たるを免かれない。が、『浮雲』を評するものは今より殆んど四十年前の作、二十四歳の青年の作である事を記憶せねばならない。これより以後多くの文人が続出して、代る代るに文壇を開拓して仏露の自然主義まで漕付こぎつけるにおよそ二十年を費やしている。少くも『浮雲』の作者は二十年、時代に先んじた先駈者せんくしゃであるといわねばなるまい。単に文章の一事だけでも、今日行われてる小説文体の基礎を築いた功労者であるといわねばなるまい。どの道、春廼舎の『書生気質』や硯友社連の諸作と比べて『浮雲』が一頭いっとうぬきんずる新興文芸の第一の曙光しょこうであるは争う事は出来ない。中には文学史上の著名の傑作が時代という考を去るとしばしば価値が乏しくなる幾多の例から推して、『浮雲』をもまた時代の産物以上の価値がないもののように軽視するものがあるが、外国の名著と比べたらあるいは余り多くを価値する事が出来ないかも知れないが、日本のとなら同時代のものはさて置き、今日嘖々される諸作と比べても決して軒輊けんちする処がない。但し『浮雲』は二葉亭の思想動揺の過程にまたがって作られてるから、第一編と第二編と第三編と、各々箇立していて一貫する脈絡を欠いている。が、各々独立した箇々の作として見ても現代屈指の名作たるを少しも妨げない。しいて評価すれば、第一編はマダ未熟であり、第三編はあぶらが抜けて少しくタルミがあるが、第二編に到っては全部が緊張していて、一語々々が活き活きと生動しておる。未成品であっても明治の文学史に燦爛さんらんたる頁を作るエポック・メーキングの名著である。


四 『あいびき』及び『めぐりあい』


 丁度同時代であった。徳富蘇峰とくとみそほうは『将来之日本』をひっさげて故山から上って帝都の論壇に突入し、続いて『国民之友』を創刊して文名隆々天下を圧する勢いがあった。当時の青年は皆その風を望んで蘇峰に傾倒し、『国民之友』はほとんど天下の思想界に号令する観があった。二葉亭もまた蘇峰が高調した平民主義に共鳴し、ひじって共に語る友と思込んで、辞を低うし礼を尽して蘇峰を往訪した。が、熱烈なる天才肌の二葉亭と冷静なる政治家気質の蘇峰と相契合するには余りに距離があり過ぎたから、応酬接見数回を重ねた後はイツとなく疎遠となってしまった。が、天下の英才を集めて『国民之友』をにぎわすのを片時も怠らなかった蘇峰はこの間に二葉亭のツルゲーネフの飜訳を紙面に紹介して読書界の耳目を聳動しょうどうした。『浮雲』は初め春廼舎の作として迎えられ、二葉亭の名がようやく知られて来てからもやはり春廼舎の影武者であるかのように思われていた。二葉亭の存在が初めて確実に世間に認められたのは『浮雲』よりはむしろ『国民之友』で紹介された翻訳の『あいびき』であった。

 その頃の飜訳は皆筋書であった。大体の筋さえ通れば勝手に省略したり刪潤さんじゅんしたり、甚だしきは全く原文を離れて梗概こうがいを祖述したものであった。かつ飜訳家の多くは邦文の造詣に貧しいただの語学者であったから、飜訳文なるものは大抵ゴツゴツした漢文くずしやあるいは舌足らずの直訳やあるいは半熟の馬琴調であって、西文の面影をしのぶに足らないはおろか邦文としてもまた読むに堪えないものばかりだった。この非芸術的濫訳横行の中にあって、二葉亭の『あいびき』は殆んど原作の一字一句をも等閑なおざりにしない飜訳文の新らしい模範を与えた。後年盛んに飜訳し出した頃二葉亭は『あいびき』時代を追懐して、「あの時分はツルゲーネフを崇拝して句々皆神聖視していたから一字一句どころか言語の排列までも原文にたがえまいと一語三礼の苦辛くしんをした、あんな馬鹿骨折ほねおりう出来ない、今ならドシドシ直してやる、」と笑った事があった。『あいびき』の訳文の価値は人によって区々の議論があろうが、苦辛惨澹さんたんは実に尋常一様でなかった。

 が、余り原文に忠実であり過ぎたため、外国文章の句法辞法に熟する人でなくてはとても理解されない難かしいものとなった。もっとも当時のタワイない低級小説ばかり読んでる読者に対して一足飛びにツルゲーネフの鑑賞を要求するは豚に真珠を投げるに等しい無謀であって、大抵な読者は最初の五、六行から消化し切れないで降参してしまった。この難解の訳文を平易に評釈して世間に示し、口を極めて原作と訳文との妙味を嘖々さくさく激称したは石橋忍月いしばしにんげつであった。当時の一般読者が『あいびき』の価値をほぼ了解してツルゲーネフを知り、かつ二葉亭の訳文の妙を確認したは忍月居士こじの批評があずかっておおいに力があった。

 続いて『都之花』の発刊と共に『めぐりあい』が五号に渉って連載された。『あいびき』に由てツルゲーネフの偉大と二葉亭の訳筆の価値とを確認した読者は崑山こんざんの明珠を迎うる如くに珍重愛惜し、つぶさに一字一句を翫味研究して盛んに嘖々した。が、普通読者間にはやはり豚に真珠であって、当時にあってこの二篇の価値を承認したものは真に寥々りょうりょう晨星しんせいであった。が、同時にこの二篇に由て初めて崇高なる文学の意義を了解し、堅実なる新らしい文学の基礎を固め、もしくは感激して新文芸の開拓を志すに至ったものは決して少くなかった。国木田独歩くにきだどっぽの如きは実にその一人であって、独歩一派の自然主義運動は実にこの『あいびき』と『めぐりあい』とに発途しておる。短かい飜訳であるがだ飜訳界の新生面を開いたばかりでなくて、新らしい文芸の路を照すの光輝ともなった。その文壇に与えた効果は『浮雲』よりもかえって偉大であったかも知れない。時代の先駈者としての二葉亭の名誉は今から三十余年前にツルゲーネフを飜訳した功績だけでも十分承認しなければなるまい。


五 『浮雲』時代の失意煩悶


『浮雲』著作当時の二葉亭は覇気はき欝勃うつぼつとして、わずかに春廼舎を友とする外は眼中人なく、文学を以てしては殆んど天下無敵の概があった。が、一面から見れば得意時代であったが、その得意というは周囲及び社会を白眼傲睨ごうげいする意気であって、境遇上の満足でもまた精神上の安心でもまた思想上の矜持きょうじでもなかった。

 その頃の二葉亭は生活上の必要と文芸的興味の旺盛おうせいと周囲の圧迫に対する反抗とからして文学を一生の生命とする熱火の如き意気込があった。が、二葉亭の文学というは人生に基礎を置く文学であって、単なる芸術一天張の享楽主義や遊蕩三昧ゆうとうざんまいや人情趣味の文学ではなかった。即ちビェリンスキーの文学、ゴンチャローフの文学、ドストエフスキーの文学、ツルゲーネフの文学であって、京伝きょうでんの文学、春水しゅんすいの文学、三馬さんばの文学ではなかった。

 然るに当時の文壇は文芸革命家をもてひとも許し自らも任ずる春廼舎主人の所説ですらが根本の問題に少しも触れていない修辞論であって、人生問題の如きは全く文学と交渉しないものと思われていた。例えば『浮雲』に対する世評の如き、口をそろえて嘖々さくさく称讃したが、かれらの称讃は皆見当違いあるいは枝葉末梢まっしょうであって、凡近卑小の材をとらえて人生の機微を描こうとした作者の観照的態度に対して批判を加えた者は殆んど一人もなかった。尤もこの二葉亭の目的は失敗していたが、その失敗を認めて考察の足りないのを痛切に感じたのは作者自身であって、世間一般の読者は(文壇の審判官たる批評家でさえも)作者が油汗を流した人生の観照には全く無関心没交渉であった。如何に感嘆されても称讃されても藪睨やぶにらみの感嘆や色盲的の称讃では甘受する事が出来ないで、先ず出発の門出かどでからして不満足を感ぜざるを得なかった。

 加之しかのみならず、初めは覇心欝勃として直ちに西欧大家の塁をこうとする意気込であったが、いよいよ着手するとなると第一に遭逢したのは文章上の困難であった。如何に因襲の旧型を根本的に破壊するツモリであっても、日本文で書く以上は日本の在来の文章語や俗談口語の一と通りを究めねばならなかった。二葉亭は漢学仕込で魏叔子ぎしゅくしや壮悔堂を愛読し、国文俗文の一と通りにも通じていたが、いよいよ文学を生命とするとなると、それまでは閑余の漫読に過ぎなかった群書の渉猟にヨリ一層進んで深く造詣しなければならぬから骨が折れた。然るに二葉亭の志ざす文学は道楽気分の遊戯でなくして真剣命掛けであったから、如何に文章を研究するためでも、日本の在来の遊戯文章を真面目まじめになって研究する馬鹿々々しさに堪えられなかった。二葉亭の当時の日記に、「我れ今まで薬袋やくたいもなき小説を油汗にひたりて書き来りしが、これよりはた如何にすべき、我が筆は誠におさなし、もしこれよりも小説を書きて世を渡らんとせば先づ文を属する事を習はざるべからす、迷惑がらるるを目をねぶつてこらへ、人の蔵書を借りて読まざるべからず、その書は如何なるたぐひかといへば、粋とか通とかいひてこの世を遊び暮せし人々の食はうがため呼吸をしやうがために書散らしたるありても益なくなくとも不自由にもなきつまらぬ書物のみなり、かかる書類に眼をつからせ肩をはらし命をむしり取られて一世を送るもあに心外ならずや」云々とあるは当時の心事をらした述懐であって、二葉亭はこの文章上の困難に一と通りならない苦辛をみた。とりわけ自己を批判するに極めて苛酷かこくな人の癖として十目の見る処『浮雲』が文章としてもまた当時の諸作に一頭いっとうぬきんずるにもかかわらず、深く自ら恥じかつおそれて「自分には小説は書けない、自分は文人たる資格がない」とまで気を腐らせてしまった。

 かつまた二葉亭のためには文学それ自身よりは根本の人生問題の方が重大であった。ツマリ人生のための文学というが、そもそも人生をどうしようというの。人生の帰趣とか目的とかいうものが果してあるのだろう乎。安心とか信仰とかいうものが果して得られるのだろう乎。知識で究めるのははてしが着かないというなら、科学や哲学に何の権威がある乎。科学や哲学で究めても解らないものなら文学や宗教でどうして満足出来る乎。そんな疑問が推究すれば推究するほどあとから後から後からと生じてついには文学その物の価値までがあぶなっかしくなり、ツルゲーネフやドストエフスキーの後光が段々薄くなり出すと、これらの文豪に比べて遥に天分薄い日本の文人亜流──自分もその一人として──の文学三昧は小児の飯事ままごと同様の遊戯であって、人生のための文学などとは片腹痛い心地がして堪えられなかった。

 然るにまた一方には物質上の逼迫ひっぱくがヒシヒシと日に益々加わって来た。尤もその頃二葉亭はマダ部屋住へやずみであって、一家の事情は二葉亭の自活または扶養を要求するほど切迫しているとは岡目には見えなかった。く土蔵附きの持家もちいえすまっていた。シカモ余り広くはなかったが、木口きぐちを選んだシッカリした普請で、家財道具も小奇麗に整然きちんと行届いていた。親子三人ぎりの家族で、誰が目にも窮しているどころか、むしろ気楽そうに見えていた。が、その頃の──恐らくは今でも──すべての人の親は、家に資産があると否とを問わず一家の運命希望を我が子の立身出世につないでるから、滞りなく無事に学校を卒業してドコへか就職してくれなければ安心もし満足もしなかった。折角卒業の間際まぎわまで漕付けながらはかまを脱ぐ如く暢気のんきに学校をめてしまい、シカモ罷めてしまって後に何をする見当もなく、何にもしないで懐手ふところでをしてブラブラ遊んでいるとほか思われない二葉亭の態度や心持をあきたらなく思うは普通の人の親としての当然の人情であった。昔の士族気質から唯一の登龍門と信ずる官吏となるのを嫌って、ろくでもない小説三昧にふけるは昔者むかしものの両親の目から見れば苦々にがにがしくて黙っていられなかった。

 尤も『浮雲』に由て一躍大家数たいかすうに入った二葉亭の成功については老親初め周囲のものは皆驚嘆もし満足もした。丁度ドストエフスキーの『しいたげられた人々』中のイユメニエフという老人が青年作家たる若いおいの評判高い処女作を読んで意外な作才に驚くと同一の趣きがあった。が、文名のもたらし来る収入はというといくばくもなかったので、感嘆も満足もただの一時いっときであった。加之のみならず、二葉亭は一足飛びに大家班に入ったにかかわらず、文学を職業とする気があるかないか解らぬくらいノンキであって、文名の籍甚せきじんに乗じて文壇におどり出すでもなく、そうかといって他に相当な生活の道を求める手段を講ずる気振けぶりもなかったから、一図いちずに我が子の出世に希望を繋ぐ親心おやごころからは歯痒はがゆくも思いあきれもして不満たらざるを得なかった。

 てて加えて一家の実際の事情は岡目で見るほど決して気楽でなかった。気楽どころかむしろ逼迫していた。これより二、三年前、二葉亭の先人は官を罷めていささかの恩給に衣食し、二葉亭の毎月の学費も最後の一、二年は蓄財をいて支弁しつつ万事の希望を二葉亭の卒業後の栄達に期していたのである。であるから二葉亭は卒業するとしないとに論なく、学校を罷めたその日から直ぐ一家を背負って立たねばならない実際上の責任があった。二葉亭の日記に由ると、父の恩給高は十一円であったそうだ。如何に物価の安い四十年前でもまた如何に小人数こにんずでも十一円で一家を維持するというは容易でなかったから、岡目から見るように気楽でなかったのは想像されるので、この窮状を子として拱手こうしゅして知らぬふりする事は出来なかった。尤も公債もあり蓄財もあり、家屋も自分の所有であって、正味十一円こっきりの身代ではなかったが、割合に気楽な官吏の生活を送ったものが多年倹約してあました蓄財を日に日に減らして行くは、骨を削り肉を刻むに等しい堪えがたい苦痛であるのが当然で、何かにつけて愚痴の出るのも無理ではなかった。かつあたかも少年時代から友達同士の山田美妙が同じ文壇に立って名声籍甚し、『以良都女いらつめ』や『都之花』の主筆として収入もまた豊かであるのを見ては、二葉亭の生活上の煮え切らない態度がもどかしくなって、何かにつけては「山田の武さんを御覧」とい云いした。

 二葉亭がもし「山田の武さん」の真似をするツモリなら、生活問題の如きは造作もなく解決されたのである。が、二葉亭の文学というは満身に力瘤ちからこぶを入れて大上段おおじょうだんに振りかぶる真剣勝負であって、矢声やごえばかりをさかんにする小手先こてさき剣術の見せ物試合でなかったから、美妙や紅葉と共にくつわならべて小手先きの芸頭を競争するような真似は二葉亭には出来なかった。文学の立場は各々めいめい違ってるから、一概に美妙や紅葉の取った道を間違ってると軽断するではないが、二葉亭にいわしむれば生活の血のにじまない製作は文学を冒涜ぼうとくする罪悪であったのだ。「あんな器用な真似は出来ない、自分には才がない」と二葉亭は謙遜していたが、出来る出来ない、才のあるなしよりは自分の信奉するツルゲーネフやドストエフスキーやゴンチャローフの態度と違った行き方をして生活の方便とするを内心ひそか爪弾つまはじきしていた。その頃、二葉亭の交際した或る文人が或る雑誌に頼まれて寄稿した小説がすこぶる意に満たないツマラヌ作であるをしきりに慚愧ざんきしながらも、原稿料を請取ると大いに満足して直ぐ何処どこへか旅行しようと得意になる心のさもしさをかろんじて日記にののしっている。自信のない作を与えて報酬を請取るを罪悪の一つとしていた二葉亭は、これではとても文学でパンを得る事は覚束おぼつかないと将来ゆくすえ掛念けねんしたばかりでなく、実は『浮雲』で多少の収入を得たをさえ恥じていた。文壇的野心の欝勃としていた当初はく、自分の文学的才能を危ぶみ出してからは唯一の生活手段とするつもりの文学に全く絶望して、父の渋面、母の愚痴、人生問題の紛糾疑惑、心のすみ何処どこかにだ残ってる政治的野心の余燼よじん等の不平やら未練やら慚愧やら悔恨やら疑惑やらが三方四方から押寄せて来て、あたかも稲麻とうま竹葦ちくいと包囲された中に籠城ろうじょうする如くに抜差ぬきさしならない煩悶はんもん苦吟にさいなまれていた。

 二葉亭の日記の数節を引いて、その当時の煩悶焦慮を二葉亭自身をして語らしめよう。

白石はくせき先生の『折焚柴おりたくしば』を読みてそぞろに感ずる所あり、先生が若かりし日、人のさかしらに仕を罷めて浪人の身となりさがりたる時、老いたる父母を養ひかねて心苦しく思ふを人も哀れと見て、あるいは富家の女婿になれと勧められ、あるいは医を学びて生業を求めよといさめらる、並々の人ならましかば、老いたる父母の貧しうくらすを看過みすごしがたしとて志もくじけ気の衰ふるにつけ、我に便よき説をも案じ出して、かかる折なほ独善の道を守らば弥々いよいよ道にそむかんなど自らも思ひ人にもいひて節を折るべきに、さはなくてあくまでも道を守りてその節をへず、父なる人も並々の武士にはあらでかえりてこれをうれしと思ひたり、アアこの父にしてこの子あり、新井あらい父子の如きは今の世には得がたし、われ顧みてうら恥かしく思ふ。」

「ああ我が気力は衰へたるかな、学校をでしより以来一日として心のるる事なければ楽しとおもひたることもなし、今の我が身の上をひしひしと思ひつむる時、生きてかかる憂目うきめ見んより死してこの苦を免かるる方はるかにまさるべしなど思ひたるは幾度もありたれど、その頃はまだ気力衰へたれど澌滅しめつするには到らざりしをもて、筆を執りて文を草することも出来しなり、されどこのごろは筆を執るもものうくてただおもひくづをれてのみくらす、誠にはかなきことにこそあれ。」

反訳叢書ほんやくそうしょは本月うちに発兌はつだせんといひしを如何にせしやらん、今においてその事なし、この雑誌には余も頼まれて露文を反訳せしにより、その飜訳料をもて本月の費用にあてんと思ひをりしに今は空だのめとなりしか、人事齟齬そご多し、覚えず一歎を発す。」

「この頃は新聞紙を読みて、何某は剛毅ごうきなり薄志弱行の徒は慚死すべしなどいふ所に到れば何となく我をそしりたるやうにおもはれて、さまざまに言訳いいわけめきたる事を思ふなり、かくまでに零落したる乎。」

 当時の二葉亭の煩悶はこの数節に由るもあきらかであろう。進んで小説家たる覚悟も勇気もなく、さればとて退いて欲するままに静かに読書研究するをも許されない境涯であった。二葉亭の日記に、「公債を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるといやになり、借家を買ひたい買ひたいといふゆゑ周旋していよいよとなるとこれもまた二の足を踏む人は周旋人が迷惑すとかやいひたり、うまき事をいひたるものなり、」とあるは当時の二葉亭が右すべきや左すべきやと迷った心状を自ら罵った冷嘲れいちょうであろう。二葉亭は人のする事が何でも面白くなって常に気が変るを到底事を成すに堪えざる性格として同じ日記中に自ら嘆息しているが、こういう性格も多少は手伝ったのであろうが、当時の境遇上処世の方向に迷ったのは無理もなかった。

 その間に試みたのがツルゲーネフの『あいびき』の飜訳であった。が、この飜訳は前にビェリンスキーを飜訳したと同じく、自ら傾倒するツルゲーネフを紹介して公衆に興味をわかとうとしたので、原稿料を取るためではなかった。勿論、民友社は報酬を支払ったが、その報酬は何ほどのものでもないから生活を補う資にはならなかった。

 今の女子学院の前身の桜井女学校にへいされて文学を講述したのもこの時代であった。ツイ先頃欧羅巴ヨーロッパから帰朝する早々脳栓塞のうせんそくで急死した著名の英語学者長谷川喜多子はせがわきたこ女史や女子学院の学監三谷民子みたにたみこ女史はタシカ当時の聴講生であったと思う。が、ビェリンスキーやドブロリューボフを祖述する二葉亭の文学論は当時の女学生の耳には(恐らくは今の女学生にも)余りに高遠深邃しんすいであって、満堂殆んど耳を傾くるものが一人もないのに失望していくばくもなくめた。が、これもまた生活のためではなかったので、自分の信奉する説を一人にだも多く──うら若い婦人に対してすらも──講演して新らしい思想を鼓吹する機会を得たのを喜んで応じたのであるから、この窮乏の間にりながら初めから報酬を辞して受けなかった。


六 『浮雲』第三篇及び官報局出仕


『浮雲』第三篇の発表されたのはこれより少し後であった。この三篇を書いていた時はあたかも胸中の悶々に堪えなくて努力も功名も消えてしまった真最中まっさいちゅうであった。日記に、「余は今日に到るまで小説家にて世を送る望みなしといひつつもなほ小説家とならんことをのみつとめり、他より見ればをかしく見ゆべし」とあるは毎月書肆しょしから若干ずつ資給されていた義理合上余儀なくされて渋りがちなる筆をしつつよんどころなしに机に向っていた消息を洩らしたのであろう。

 二葉亭は何をするにも真剣勝負であった。たすき鉢巻はちまき股立ももだち取って、満身に力瘤ちからこぶを入れつつ起上たちあがって、右からも左からも打込むすきがない身構えをしてから、えいやッと気合きあいを掛けて打込む命掛けの勝負であった。追取刀おっとりがたなでオイ来たと起上る小器用な才に乏しかった。「間に合わせ」とか「好い加減」とかいう事が嫌いであったし、また出来ない人であった。談話するにさえ一言一句を考え考え腹の底から搾出しぼりだし、口先きでお上手じょうず胡麻化ごまかしをいう事が決して出来なかった。それ故、文芸上の興味が冷め、生活上の苦労にさいなまれていても一夜漬いちやづけの書流かきながしで好い加減にけりをつけて肩を抜いてしまうという事は出来ないで、イヤイヤながらもやはり同じ苦辛くしんを重ねていた。が、実はう小説どころでなかった。根本の人生の大問題が頭の中でうずを巻いていた。身に迫る生活上の苦労がヒシヒシと押寄せて来た。惰力で筆を執っていてもイツマデっても油が乗って来なかった。イクラもだいてもあせっても少しも緊張して来なかった。真剣勝負でなければ何にも出来ない人がどうしても真剣勝負の意気込になれなかった。

『浮雲』第三篇は作者の日記の端に書留めた腹案に由ると、お勢の堕落と文三の絶望とに終るのだが、発表されたものを見ると、腹案の半ばにも達しないで中途から尻切しりきりとんぼに打切られておる。恐らくはマダ発表するを欲しない未定稿であったろうと思う。尤もこの悶々の場合にこれより以上に玉成ぎょくせいする事はとても出来なかったろう。かつ、二葉亭の性質として決して好い加減に書擲かきなぐったものではないだろうが、三方四方の不平不満が一時に殺到する心的葛藤に忙殺されていては、虚心坦懐たんかい沈着おちついて推敲すいこう鍜練たんれんしていられないのが当然であった。恐らく書肆に対する義理合上拠ろなしに自分でも満足しない未成の原稿をイヤイヤながら引渡したに違いないのは前後の事情から明瞭に推断される。

 二葉亭の日記に由ると、第三篇の発表された『都之花』を請取った時は手がブルブルふるえて、歩きながら読んで行くうちたちまち顔色が変って、「これほどつたないとは思わなかった、印刷して見ると我ながら拙なくて読むに堪えない」と、読終った時は心が早鐘はやがねを突く如くワクワクして容易に沈着いていられなかったとある。

 なるほど、前にもいった通り、第三篇は油の十分乗った第二篇に比べると全部にたるみがあって気が抜けておる。が、同じ時代の他の作家の作と比べて決して見劣りしなかったが、己れの疵瑕しかを感ずるに余りに鋭敏な作者は、丁度神経過敏家がの毛で突いたほどの負傷でも血を見ると直ぐ気絶するように、自分の作が意に満たないとてもってもいられなかったらしい。聡明そうめいに過ぐるものは自信を欠くと昔からいうが、二葉亭の如きはその適切な一例であった。自分を局外に置いて見る時は群小作家皆豆粒よりも小さかったが、自分をその中の一人として比較する時は豆粒よりも小さく思う人よりも更に一層自分が小さく思われて堪えられなかったようだ。その時の日記にも「今までは某々らの作る小説は拙なくして読むにたへずと思ひつるが、余の作に比ぶれば彼らの作は遥に勝れり、余は元来小説家にもあらず、また小説家とならんとも思はず、」云々とあるように、これより以前から文学に絶望して衣食の道を他に求めるべく考えていたのがこの不快な絶望にいよいよ益々沮喪そそうして断然文学を思切るべく決心した。

 だが、世間は作者自身が失望する如くにこの第三篇にも失望しないで、文人は交を求め書肆は原稿を乞うて益々やまなかったので、文学を思切った二葉亭はこれらの文人交際づきあいや本屋の応接に堪えられなかった。日記の一節に曰く、「吉岡書店よりまた『新著百種』をおくりこす、こは第三巻なり、かう発刊の都度々々におくりこすは予にも筆を執らせんとの下心したごころあればなるべし、そを知りつつ取り置くは愚なり、いなみやらんとは思へどもさすがに打付けにさいはんも何となく気の毒にてそのままに打過ごす、余はかほどまで果断なき乎、歎ずべき事の第一なり、」と。また曰く、「書肆某来りて四方山よもやまの物語をす、余はかかる射利の徒と交はるだも心苦しけれどもこれも交際と思ひ返してよきほどにあしらへり、もし心に任せたる世ならましかば彼ら如き輩を謝して明窓浄几じょうきの下にしずかに書を読むべきを、」と。二葉亭が全く文壇から遠ざかろうとして苦悶していたはこれを見ても明かである。

 この決心は第三篇の執筆中からきざしていた。あくまでも自分の天分を否定し、文学ではとても生活する能力はないものと断念あきらめ、生中なまなか天分の乏しいのを知りつつも文学三昧に沈湎ちんめんするは文学を冒涜する罪悪であると思詰め、何とかして他に生活の道を求めて学問才芸をつぶしに投売なげうりしても一家の経済を背負って立とうと覚悟した。が、この覚悟はありながら、一面には極めて狷介で人に下るを好まないと同時に、一面には人に対して頗る臆病であって、つてを求めて権門貴戚きせきに伺候するはおろか、先輩朋友の間をすらも奔走して頼んで廻るような小利口な真似は生得しょうとく出来得なかった。どうにかしなければならないと思いつつもどうにもする事が出来ないでひとりで窘窮きんきゅう煩悶していた。この苦境を見るに見兼ねて、もし仕官する希望でもあるならと片肌抜かたはだぬいでくれたのが語学校の旧師の古川常一郎であった。二葉亭はこの間の消息を日記に洩らして、官吏は元来心に染まぬが今の場合いささかなりとも俸銭を得て一家をささえる事が出来るなら幸いであると古川に頼んで、さてそのあとで、「何となくうら恥かしきやうに心落ちゐず。白石先生の事など憶出せばそびら冷汗ひやあせを流す」と書いておる。二葉亭の自卑自屈を余儀なくされる窘窮煩悶の状がこの二、三行の文字に見えるようである。

 が、結局古川の斡旋あっせんで、古川部下の飜訳官として官報局に出仕したのが明治二十二年の夏であって、これから以後の数年は生活の保障に漸く安心して暫らく官途に韜晦とうかいし、文壇からは全く縁を絶って読書に没頭する事が出来た。


七 官報局及び雌伏時代

露語の両川・高橋時代の官報局・精神心理の研究・罪悪心理と下層研究・最初の家庭生活の失敗・『片恋』・官報局を去る


 二葉亭の仕官を説く前に先ずその恩師古川常一郎を語らねばならない。古川は今から十四、五年前に不遇の中に易簀えきさくしてしまったが、今でもなお健在であるはずの市川文吉とならんで露語学界の二大先輩であった。この両川に二葉亭即ち長谷川を加えて露語の三川と称されておる。不思議な事には両川とも功名心が薄く、各々数年露国に留学して帰朝した後、しばしば先進の大官から重要の椅子いすすすめられても決してがえんじないで、一は終生微官に安んじ、一は早くから仕官を辞して、功名栄達を白眼冷笑していた。殊に古川は留学前は大隈おおくま侯の書生であって、義弟西源四郎は伊藤公の知遇を受けて終に公の駙馬ふばとなった浅からぬ縁故があったから、もしいささかでも野心があったらドンナ方面にでも活躍出来たのである。が、富貴顕栄を見る土芥どかいに等しく、旧外国語学校廃止後は官報局の一属僚を甘んじて世の栄達を冷笑していた。市川文吉は多少の資産があったからでもあろうが、早くから官途を退隠して釣道楽に韜晦していた。二葉亭はこの両川の薫陶を受けたが、就中なかんずく古川に親近して古川門下の顔淵子路がんえんしろを任じていた。その性格の一部が古川によって作られたのは争われない。

 当時の官報局は頗る異彩があった。局長が官界の逸民たる高橋健三で、翻訳課長が学界の隠者たる浜田健次郎、その下に古川常一郎、陸実くがみのる等、いずれも聞ゆる曲者くせものが顔をならべ、しかして表玄関の受附には明治の初年に海外旅行免状を二番目に請取って露国の脳脊髄系を縦断した大旅行家の嵯峨寿安さがじゅあんが控えていた。そろいも揃って気骨きこつ稜々りょうりょうたる不遇の高材逸足の集合であって、大隈侯等の維新の当時の築地つきじ梁山泊りょうざんぱく知らず、吏臭紛々たる明治の官界史にあっては恐らく当時の官報局ぐらい自由の空気の横流していたはけだし類を絶しているだろう。

 高橋健三は官報局の局長室に坐している時でも従五位勲何等の局長閣下でなくて一個の処士自恃庵しじあん主人であった。浜田は簡樸質素の学究、古川は卓落不覊ふきの逸民、陸は狷介気を吐く野客であった。而して玄関番は高田屋嘉兵衛たかだやかへえ、幸太夫に継いでの露国探険者たる一代の奇矯児ききょうじ寿安老人であった。局長といい課長といい属官というは職員録の紙の上の空名であって、堂々たる公衙こうがはあたかも自大相下らざる書生放談の下宿屋の如く、局長閣下の左右一人として吏臭あるものはなく、煩瑣はんさなる吏務を執るよりはむしろ詩を品し画を評し道徳を説き政治を談じ、大は世界の形勢より小は折花攀柳はんりゅうの韻事まで高談放論珍説贅議ぜいぎたたかわすに日も足らずであった。

 二葉亭はこの中に投じた。虚文虚礼便佞べんねい諂諛てんゆいやしとして仕官するを欲しなかった二葉亭もこの意外なる自由の空気に満足して、局長閣下と盛んに人生問題を論じて大得意であった。くこの間は衣食の安定を得たので、思想を追究するあたかもゆるが如き二葉亭は安心して盛んに読書に没頭した。殊にダーウィン、スペンサー等の英国進化論を専ら研究したが、本来ヘーゲルの流れをむ露国の思想に養われていたから、到底これらの唯物論だけでは満足出来ないで、終にコントに走ってここに初めて一道の曙光に接する感があった。恐らく二葉亭の思想の根本基礎を作って終生を支配したのはコントのポジティヴィズムであったろう。

 この時代の愛読書であって、二葉亭の思想を豊かにし根柢を固くしたのはモーズレーの著述であった。殊にその〝Pathology of Mind〟は最も熱心に反覆翫味して巨細こさいに研究した。この時分の二葉亭の議論の最後の審判官は何時いつでもモーズレーであって、何かにつけてはモーズレーを引合に出した。『浮雲』に二箇処まで見えるサリーやペインも愛読書であって、サリーの所説はしばしば議論の典拠となったが、殊に傾倒していたのはモーズレーの研究法であった。

 が、二葉亭は如何なる場合にも批評家であった。科学を除いてはすべての研究は空理であるといいつつも科学にもまた不満足であって、科学に偏するスペンサーの哲学の如きも或る程度以上は決して推服していなかった。かつ常に曰く、「科学となると全然無識だから、勢いかぶとを脱いで降参しなけりゃならぬが、例えば22が4というは欺くべからざる確実の数理であっても、科学者が天体を観測するにあたって毫釐ごうりの違算がしばしば何千万億の錯誤をきたすと同様に、眼前の研究にもまた同じ誤算がないとは限らない。数その物は確実であっても数を算出する運算の方式は必ずしも正しいとは信じられない、」と。この理由からして科学者の説を有力な参考としていても或る程度以上はやはり余り信仰しなかった。「科学者というものは枝ぶりや花ばかりを気にして根を枯らすを忘れる素人しろうと植木屋のようなものだ、」といっていた。

 呉秀三くれしゅうぞう博士の『精神啓微』や『精神病者の書態』を愛読して、親しく呉博士をおとのうて蘊蓄うんちくたたいたのはやはりその頃であった。続いてロンブロゾ一派の著書をさぐって、白痴教育、感化事業、刑事人類学等に興味を持ち、日本の現時の教育家や宗教家がこれらの科学的知識を欠くためかれらの手に成る救済事業が往々無用の徒労に終るを遺憾とし、自ら感化院をはじめて不良少年の陶冶とうやや罪人の矯正をしようという計画を立てた事もあった。

 無論書斎の空想で、実行するつもりがあったとも思われなかったが、計画は頗る科学的であった。当時の二葉亭の説を簡単に掻摘かいつまむと、善といい悪というは精神の健全不健全のいいで、いわゆる敗徳者、堕落者、悪人、罪人等は皆精神の欠陥を有する病人である、その根本の病因をいやさないで訓誡、懲罰、刑辟けいへきを加えても何の効があるはずがない。今日の感化院が科学の教養のない道学先生に経営され、今日の監獄が牛頭馬頭ごずめずに等しい無智なる司獄官に一任される間は百年河清かせいを待つも悪人や罪人の根を絶やす事は決して出来ない。それよりも先ず一種の特殊精神病院を建設していわゆる不良少年や罪人を収容し、最新科学の研究を応用して渠らの感覚欠如や精神欠陥を精査し、根本の病因を究めてこれを医療するのが科学的でもありかつ有効でもある。尤も今日の科学はマダ研究が足りないから、罪人や不良少年に対する根本的精神療法もマダ十分に攻究されていないが、先ず一つの実験所を作るツモリで科学的手段を応用する感化院や監獄を設置し、あたかも病人に対する医者の態度で渠らの犯罪や悪癖に対する対症療法を研究するが社会政策上最も急務である。これまでのいわゆる哲学や宗教や道徳や法律は皆この根本の人間の疾患に立到たちいたらない空理空文である。もしこの精神的欠陥に対する心理療法が完成したなら古今の聖賢の教訓はすべて皆廃紙となってしまうというのがその頃の二葉亭の説であった。

 この説はモーズレーやロンブロゾから得たので、二葉亭自身の創見ではなかった。かつ近世心理学の片端かたはしをだもかじってるものなら誰でも心得てる格別目新らしくもない説であるし、今ではこの一派の学説は古臭くなってる。が、二葉亭は総てこの見地から人を見ていた。例えば下層社会の低劣な品性の如きも教育の不備よりはむしろ精神欠陥に帰し、一時好んで下層社会に出入するやライフの研究者を任ずると共に下層社会に共通する悪俗汚習の病因たる精神欠陥を救うの教師を自任し、つぶさに下級の生活状態を究めて種々の自己流の精神医療の方法を案出して試みた。尤もこの試みは大抵失敗して、傍観者からは頗る滑稽こっけいに思われた事もあったが、当人自身は一生懸命で、この失敗を来す所以ゆえん畢竟ひっきょう科学の素養を欠くから応病与薬の適切な方法を案出する事が出来ないのだと考えて益々研究に深入した。一時はその手段の一つとしての禅の研究を思い附き、『禅門法語集』や『白隠はくいん全集』をしきりに精読し、禅宗の雑誌まで購読し、熱心鋭意して禅の工風くふうふけっていた。が、衛養療法や静座法を研究するつもり千家せんけの茶事を学ぶに等しい二葉亭の態度では禅に満足出来るはずがないのが当然で、結局禅には全く失望した。禅は思想上のキューリオ、精神上の催眠剤であって、今日の紛糾錯綜入乱れた文化の葛藤を解決し制馭せいぎょする威力のないものであるというのが二葉亭の禅に対する断案で、何かの茶咄ちゃばなしのついでに一休いっきゅう売僧まいす、白隠は落語家、桃水とうすい和尚はモーズレーの研究資料だと茶かした事があった。

 結局書斎の研究ばかりでは満足出来ないで、学者の畑水練はたけすいれんは何の役にも立たぬからと、実際に人事の紛糾に触れて人生をあじわおうとし、この好奇心にあおられてしばしば社会の暗黒面に出入した。役所に遠いのを仮托かこつけに、猿楽町さるがくちょうの親の家を離れて四谷よつやかみの女の写真屋の二階に下宿した事もあった。神田の皆川町みながわちょう桶屋おけやの二階に同居した事もあった。奇妙な風体ふうていをして──例えば洋服の上に羽織を引掛けて肩から瓢箪ひょうたんげるというような変梃へんてこ扮装なりをして田舎いなか達磨茶屋だるまぢゃやを遊び廻ったり、印袢纏しるしばんてん弥蔵やぞうをきめ込んで職人の仲間へ入って見たり、そうかと思うと洋服に高帽子で居酒屋に飛込んで見たり、垢染あかじみた綿服の尻からげか何かで立派な料理屋へ澄まして入って見たり、大袈裟おおげさ威張いばり散らして一文も祝儀をやらなかったり、わざと思切ってしみったれな真似をした挙句あげくに過分な茶代を気張って見たり、シンネリムッツリと仏頂面ぶっちょうづらをして置いて急にはしゃぎ出して騒いで見たり、故更ことさらけたはずれた馬鹿々々しい種々雑多な真似をして一々その経験をあじわって見て、これが人生ジーズニだよと喜んでいた。

 殊にその頃は好んで下層社会に出入し、旅行をする時も立派な旅館よりは商人宿や達磨茶屋に泊ったり、東京にいても居酒屋や屋台店やたいみせへ飛込んではっさんくまさんとならんで醤油樽しょうゆだるに腰を掛けて酒盃さかずき献酬とりやりをしたりして、人間の美くしい天真はお化粧をして綾羅りょうらに包まれてる高等社会には決して現われないで、垢面襤褸こうめんらんるの下層者にかえって真のヒューマニチイを見る事が出来るといっていた。この断案の中に真理がない事はないが、この偏寄かたよった下層興味にしばしば誤まられて、例えば婦人を観察するにあたっても、英語の出来るお嬢さんや女学校出の若い奥さんは人形同様で何の役にも立たないと頭からけなしつけ、下等女の阿婆摺あばずれを活動力に富んでると感服したり、貧乏人の娘が汚ない扮装なりをしてめず臆せず平気な顔をしているのを虚栄にとらわれない天真爛漫と解釈したり、飛んでもない見当違いをする事が度々たびたびであった。

 同じ見当違いからして罪人や堕落漢や敗徳者に極端に同情し、時としては同情を通り越してやたらと讃美し、あたかも渠らの総てが皆ショーペンハワーやニーチェのような天才であって、社会の圧迫に余儀なくされ、あるいは求めて反抗して誤まって岐路にはしった気の毒な犠牲であるように考えていた。少くも渠らが世間の道徳にそむいたにはやましくも恥かしくもない立派な哲学的根拠があるように思っていた。この考察も万更まんざら見当違いでなく、世には確かに二葉亭の信ずるようなよんどころない境遇の犠牲となって堕落した天才や、立派な主張を持ってる敗徳者もあるにはあるが、二葉亭は一切の罪人や堕落者の罪悪をしいて肯定する気味合があった。殊に貧民に対しては異常な同感を払って、もし人間から学問技芸等のお化粧を奪って裸一貫の露出むきだしとしたなら、貧乏人の人格の方がはるかに高等社会にまさっていると常にいっていた。この説もまた必ずしも見当違いでなく、無知文盲なる貧民階級に往々縉紳しんしん貴族に勝るの立派な人格者を見出す事もまれにはあるが二葉亭は強てイリュージョンを作って総ての貧民を理想化して見ていた。

 この見地からして二葉亭は無知なる腹掛股引はらがけももひきの職人を紳士と見て交際し、白粉おしろいを塗った淪落りんらくの女を貴夫人同様に待遇し、渠らに恩恵を施しつつ道徳を説き、渠らを罪悪のふちから救うて真人たらしむべく種々の手段を講じた。が、実行については全く失敗した。晩年或る時、この時代の誤解や失敗の経験を語って曰く、「あの時代、むやみと下層社会が恋しかったのは、やはり露国の小説に誤まられたのだ。スラヴ人は元来空想にふける国民性だから、無教育者の中にも意外な推理力や想像力を蓄えて人生をフィロソファイズするものがある。露西亜は階級制度の厳重な国だから立派な学問権識があっても下層に生れたものは終生下層に沈淪しておらねばならない。その結果が意外な根柢ある革命的煽動せんどうが下層社会に初まったり、美くしいヒューマニチーが貧民の間に発現されたりする。露国の小説にはこの間の消息がしばしば洩らされて下層社会のために気を吐いている。こういう小説に読耽ったもんだから自然下層社会に興味を持つようになったが、日本の下層社会は根本から駄目だ。精神の欠乏が物質の不足以上だから、何を説いても空々寂々で少しも理解しない。倫理も哲学もあったもんじゃない、根柢からして腐敗し切っていて到底救うべからずだ──」と日本の下級者の無知無恥に愛想を尽かしていた。こういう見当違いをしたのはツマリ理想負けがしたので、二葉亭の面目はこういう失敗にかえって躍如しておる。

 官報局に出仕する間もなく二葉亭は家庭を作って両親と別居した。初めは仲猿楽町に新居を構えたが、その後真砂町まさごちょう、皆川町、飯田町いいだまち東片町ひがしかたまちとしばしば転居した。皆川町から飯田町時代は児供が二人となった上に細君(先妻)の妹を二人までも引取り、両親にも仕送っていたから、家計は常に不足がちであった。その上に二葉亭は、ドチラかというと浪費家であって、衣服きものや道具には無頓着むとんちゃくであったが食物くいものにはかなりな贅沢ぜいたくをした。加之しかのみならず、その頃の先妻は家政を料理する才が欠けていて、二人が二人ともそろって経済に無茶であったから、さらぬだに不足がちの家計が一層紊乱びんらんして、内証は岡目に解らぬほどの不如意ふにょいを極めていた。

 かつ加うるに夫婦の間が始終折合わないで、沈黙の衝突が度々繰返された。その間の紛糾いりくんだ事情は余り深く立入る必要はないが、く夫妻の身分教養が著るしく懸隔して、互に相理解し相融合するには余りに距離があり過ぎたのが原因であった。公平に見たなら二葉亭の方が暴君で、細君の方は極めて柔順な奴隷であったろうが、夫婦の間が暴君と奴隷との関係では互に満足出来るはずがないから、あたかも利刃をふるって泥土をるに等しい何らの手答えのない葛藤を何年か続けた後に、二葉亭は終に力負けこん負けがして草臥くたびれてしまった。二葉亭のためにも勿論不幸であったが、細君の方にも同情すべき気の毒な事情があった。とうとう最後が破縁となって、善後の処分をするために二葉亭は金を作らねばならなくなった。

 その時分、文壇の機運はいよいよ益々爛熟し、紅露は相対塁あいたいるいして互にを称し、鴎外おうがい千朶せんだ山房に群賢を集めて獅子吼ししくし、逍遥は門下の才俊を率いて早稲田に威武を張り、樗牛ちょぎゅうは新たにって旗幟きしを振い、四方の英才俊髦しゅんぼう一時に崛起くっきして雄を競うていた。二葉亭は『浮雲』以後全く韜晦とうかいしてこの文壇の気運を白眼冷視し、一時莫逆ばくげきを結んだ逍遥とも音信を絶していたが、丁度その頃より少し以前、逍遥と二葉亭とは偶然私の家で邂逅かいこうして久闊きゅうかつを叙し、それから再び往来するようになっていた。その頃『早稲田文学』を根城ねじろとして専ら新劇の鼓吹に腐心していた逍遥は頻りに二葉亭の再起を促がしつつあったが、折も折、時なるかな、二葉亭はこの一家の葛藤の善後処分を逍遥にはかった結果、終に再び筆をるべく余儀なくされたのがツルゲーネフの『アーシャ』即ち『片恋』の飜訳であった。

 その時は明治二十九年の十二月、即ち『浮雲』第三篇発表後八年目であった。世間はあたかも暫らく消息不明であった遠征将軍が万里の旅から凱旋したのを迎えるように歓呼した。が、二葉亭自身は一時の経済上の必要のため拠ろなく筆を操ったので、再び文壇に帰るツモリはすこしもなかった。文学に対する態度もまたしたがって以前とは全く違って、一生の使命とするというような意気込も理想や抱負もまるくなっていた。以前は重く感じた責任をも感じなくなって、「自分は文人でない」と文学とは絶縁したつもりでいたから、ツルゲーネフを訳したのもほんの一時の融通のための拠ろないドラッジェリーで、官報局で外字新聞を翻訳した時と同じ心持であった。尤も二葉亭は外字新聞を翻訳するにもやはり相当な苦辛をした。如何にドラッジェリーのツモリでもツルゲーネフを外字新聞なみに片附ける事は二葉亭の性分しょうぶんとして出来得なかった。が、その心持は以前と違って遥かに気楽であった。それゆえ『片恋』一冊ぎりで再び彗星すいせいの如く隠れてしまうつもりであったが、財政上の必要が『片恋』一冊の原稿料ではたすに足りなかったので、あたかも凱旋将軍を迎える如くに争い集まる書肆しょしの要求を無下むげしりぞける事も出来なかった。

 折からあたかも官報局長は更任して、卓落不覊ふきなる処士高橋自恃庵は去って、晨亭しんてい門下の叔孫通しゅくそんつうたる奥田義人おくだよしんどが代ってその椅子に坐した。奥田は東京市の名市長として最後の光栄をひつぎに飾ったが、本来官僚の寵児ちょうじで、礼儀三千威儀三百の官人気質かたぎ権化ごんげであったから、豪放洒脱しゃだつな官界の逸人高橋自恃庵が作った放縦自由な空気はたちまち一掃されて吏臭紛々たる官場と化してしまった。くがや浜田は早くも去って古川一人が自恃庵の残塁にっていたが、区々たる官僚の規矩きくを守るをいさぎよくしないスラヴの変形たる老書生が官人気質の小叔孫通とれるはずがないから、暫らく無言のにらみ合いをした後終に引退してしまった。二葉亭は本来狷介けんかい不覊なる性質として迎合屈従を一要件とする俗吏を甘んじていられないのが当然であって、八年の長い間を官報局吏として辛抱していたのは、上に自由なる高橋健三をいただいて、恩師古川の下に吏務に服していたからであった。高橋が去り古川がめる以上はイツマデ腰弁を甘んずる義理も興味もないので、古川が罷めると間もなく自分も辞職してしまった。二葉亭の一生中、その位置に満足して矻々こつこつとして職務をたのしんでいたは官報局の雌伏時代のみであった。


八 放浪時代から語学校教授
原稿生活・実業熱・海軍編修・語学校教授


 官報局を罷めてから暫らく放浪していた。その間に海軍の編修書記ともなり陸軍の嘱托教師ともなったが、ドレもこれも一時の腰掛であって、初めからその椅子に安んずるつもりは少しもなかったのだ。ツルゲーネフの『ルージン』を初めゴーゴリやガルシンの短篇の飜訳にクツクツとなって『新小説』や『太陽』や『文芸倶楽部』に寄稿したのはその時代であった。

 が、文壇的活動は元来本志でなく、一時の方便として余儀なくされたのだから、その日その日を糊口ここうする外には何の野心もなかった。『浮雲』第三編が発表された『都の花』を請取った時は手がふるえたというほどの神経質にも似合わず、この時代は文壇的には無関心であって世間の毀誉褒貶きよほうへんは全く風馬牛ふうばぎゅうであった。同じ翻訳をするにも『あいびき』や『めぐりあい』時代と違って余り原文には拘束されないで、自由気儘きままにグングン訳し、「昔のようなくそ正直な所為まねはしない、まずい処はドンドン直してやる」と、しばしば豪語していた。が、興に乗じた気焔きえん飛沫とばしりえらそうな事をいっても、根が細心周密な神経質の二葉亭には勝手に原文を抜かしたり変えたりするような不誠実な所為まねは決して出来ないので、「むやみと訳しなぐるんだ」といいつつも世間の尋常翻訳と比べてはやはり忠実に原文に従っていた。

 が、イクラ訳しなぐるツモリでいても、世間の賃訳ちんやくをするもののような無責任にはなれないのが二葉亭の性分であった。例えば『浮草うきくさ』の如き丁度関節炎を憂いて足腰あしこしたないでていた最中で、病床に腹這はらんばいになって病苦と闘いながらポツポツ訳し、三十枚四十枚と訳しおわると直ぐ読返しもしないで金に換えたものであるが、それでも二葉亭の飜訳としてはかなり不手際ふてぎわであっても、英訳本と対照するにやはりほしいままに原文を抜いたり変えたりした箇処は少しもなかった。イクラ訳しなぐるつもりでも二葉亭には訳しなぐる事は出来なかった。

 二葉亭が官報局を罷めた直接の原因は局長の更任に続いて恩師古川の理由なき罷免に対する不満であったが、それ以外に何時いつかは俗吏の圏内を脱して自由の天地に翺翔こうしょうしようとするかねての志望が幇助てつだっていた。と本と二葉亭は軍事であれ外交であれ、く何であろうとも東亜の舞台に立って活動したいのが夙昔しゅくせきの志であった。軍人たらんと欲して失敗し、外交家たらんと願うてまた蹉躓さちし、拠ろなしに一時横道にれて文学三昧に遊んでいたが、夙昔の志望は決して消磨したのではなかった。官報局に在職中、哲学や精神生理に頻りに興味を持って研究していたが、東亜の国際関係や産業等の調査はこれがために少しも怠たらないで継続していたので、一度は東亜の舞台に躍り出して一と芝居打とうとする念は片時も絶えなかった。官報局を罷めたのは偶然であるが、退職すると同時にこの野心がにわかに活火山の如く燃上って来た。

 しかるに野心を充たすための計画は浮んで来ても、何をするにも先立つ金を作るは決して容易でなかった。一家の葛藤を処理するためのいささかの金ですらが筆のかせぎでは手取早てっとりばやく調達しがたいのを染々しみじみと感じたかれは、「文学ではとても駄目だ。金儲かねもうけ、金儲け!」と心の底から叫ぶようになった。加之しかのみならず、語学校時代の友人の多くは実業界に投じ、中には立派に成功して財界の頭株あたまかぶに数えられてるものもあるので、折に触れて渠らと邂逅して渠らの辣手らつしゅを振う経営ぶりを目のあたりに見る度毎たんびに自分の経済的手腕の実は余り頼りにならないのを内心あぶなッかしく思いながらも脾肉ひにくに堪えられなかった。その度毎に独語して「金儲け、金儲け!」とつぶやきつつ金儲け専門の実業界に乗出そうとした。

 その必要からして、官報局を罷めた後の二葉亭は俄に辺幅へんぷくを飾るようになった。一体衣服なりには少しも頓着しない方で、親譲りの古ぼけた銘仙めいせんにメレンスの兵児帯へこおび何処どこへでも押掛けたのが、俄に美服を新調して着飾り出した。「これが資本だ、コンナ服装なりをしないと相手になってくれない」と常綺羅じょうきらで押出し、学校以来疎縁となった同窓の実業家連と盛んに交際し初めて、随分待合まちあい入りまでもしてかれらと提携する金儲けの機会をうかがっていた。が、二葉亭の方は心の底から真剣であっても、対手あいての方は少しもマジメに請取ってくれなかった。

「右の手に算盤そろばんを持って、左の手に剣をにぎり、うしろの壁に東亜図を掛けて、ふところには刑事人類学を入れて置く、これでなければ不可いかん、」などとしきりに空想を談じていた。尤も座興の戯れで、如何に二葉亭が世間に暗くてもこれほど空想的では決してなかった。が、こういう座興の戯れが折角実業界へ飛込もうとするマジメな希望をどれほど妨げたかは解らなかった。かつまた、これほど空想的でなかったにしろ、極めて平凡な常識一点張いってんばりの実業家気質から見れば二葉亭の実業論が非常な空想を加味していたのは争われなかった。第一、実業家の金儲けは金を儲けるための金儲けであって、金を以て始まり金を以て終るが、二葉亭の金儲けは何時いつでも人道または国家の背景を背負っているのが不用意の座談の中にも現われていたから、実業界に飛込むマジメな志はあっても対手になって機会を与えてくれるものは一人もなかった。

 加之しかのみならず、一方には生活上拠ろなしに続々翻訳し、心にもない文学上の談話が度々雑誌に載せられて文名が日に益々高くなるので実業界の友人からはいよいよ文人扱いされ、マジメに実業談を試みても一笑に附されてしまった。「小説なんぞを書いてちゃアとても駄目だ、まるで対手にしてくれない、」と度々不平をらしていた。

 二葉亭を海軍編修書記に推薦したはやはり旧友の一人たる鈴木某(その頃海軍主計大監)の斡旋あっせんであった。鈴木は極めて粗放な軍人肌であって、二葉亭の人物や抱負を理解もしなければ理解しようとも思わず、ただ二葉亭が浪人しているのを気の毒がって斡旋してくれたので、「丁度君には適当の位置だ。こうして辛抱していれば追々高等官になれる、」と大いに兄貴ぶりを発揮して二葉亭に辛抱を勧告した。

「親切ない男だが、高等官になれば誰でも満足するものと思ってる、」と二葉亭はにがり切っていた。(鈴木は日露戦争後は海軍を引退して実業界の諸方面に頭を突込んでいたが、位階勲等を持ってる軍人だから、置き物に祭り上げられるだけで一向花々しい成功もしなかったようだ。今はドウしているかサッパリ消息を聞かない。)

 語学校の教授となったのはそれから間もなく、明治三十二年の九月であった。高等官の教授を栄としたわけではないが、露語科の主任たる恩師古川の推挙を満足して喜んで就任した。古川はその後いくばくもなく病気のため辞職したので、二葉亭は代って主任の椅子に坐した。

 教師としての二葉亭は極めて叮寧ていねい親切であって、諸生の頭に徹底するまで反覆教授して少しもまなかった。だが、それよりもなおヨリ多く諸生を心服さしたのは二葉亭の鼓吹した学風であった。およそ語学は先ず民族の研究から初めなければならない必要と、日露の地理的関係から生ずる露語学者の特殊の使命というような事を語学を教授するかたわら常に怠たらず力説し、尋常語学の学習以上に露語学者としての特殊の気風を作るに少からず腐心した。同時に露語に交渉する各会社各事業から浦塩ウラジオの商人にまで連絡をつけて卒業生の生活の便宜まで心配した。二葉亭が語学校に在任したはわずかに三年であったが、その人格はあまねく露語学生を薫化して、先進市川及び古川とならんで露語の三川と仰がれるまで悦服された。日露戦争に参加して抜群の功績を挙げた露語通訳官の多くは二葉亭の薫陶を受けたものであった。


九 哈爾賓行
二葉亭独特の実業論・女郎屋論・哈爾賓の生活及び奇禍


 が、二葉亭は長く語学校の椅子に安んずる事が出来なかった。と本と教職に就いたは恩師の推薦を徳としたためで、教育家を一生の仕事とするツモリはなかったのだから、暫らくすると一時鎮静した実業熱が再び沸熱して来た。

 あたかもその時分、暫らく西比利亜シベリアに滞留していた旧同窓の佐波が浦塩から帰朝してしばしば二葉亭を訪問し、新たに薩哈連サハリンから浦塩へ渡航した一人の友人からも度々手紙が来て、浦塩方面の消息が頻りに耳に入るので、機会を待構えていた実業上の野心は忽ちムクムクと頭を擡上もちあげて食指俄に動くの感に堪えなかった。

 二葉亭の実業というは単なる金儲け一天張いってんばりではなかった。実業側の友人から余り対手にされなかったはこれがためであったが、二葉亭の夙昔しゅくせきの希望からいえば一貫した国際的興味を有する問題であった。二葉亭にいわせると、日本人が浦塩あたりで盛んに商売するのは、当人自身は金儲けより外考えないでも、これが即ち日本の勢力を扶植する所以であるから、商売の種類は何であろうともかまわぬ、海外の金儲けは即ち国富の膨脹、国権の伸長、国威の宣揚である。極端な例を挙げれば、醜業婦の渡航を国辱である如く騒ぐは短見者流の島国的愛国論であって、醜業婦の行く処必ず日本の商品を伴い日本の商業を発達させ日本の地盤を固めて行く。東露に若干たりとも日本の商業を拡げる事が出来たのは全く醜業婦のおかげである。露国は自国の商工業を保護するために外国貨物に重税を課し、例えば日本の燐寸マッチの如き一本イクラに売らねばならぬほどの準禁止税を賦課している。が、こういう極端な保護政策を取って外国貨物を塗絶しようとしているが、ひとり外国醜業婦の移入に限っては殖民政策の必要から非常に歓迎し、上陸後もまたすこぶる好遇して営業の安全及び利益を隠然保護している。浦塩における日本の商売が盛んに発展しつつあるは畢竟醜業婦の背後に隠れて活動する結果であるから、この特恵に乗じていよいよ益々多数の醜業婦を輸出するはとりも直さず益々日本の商業を振う所以である、というのがその頃しばしば二葉亭に力説された醜業婦論であった。

 二葉亭の醜業婦論は一時交友間に有名であった。その頃二葉亭の家に出入したものは大抵一度は醜業婦論を聞かされた。二葉亭の説に由ると、日本の醜業婦の勢力は露人を風化して次第に日本雑貨の使用を促がし、例えば鰹節かつおぶしが極めて滋味あり衛養ある食料品として露人の間に珍重されて、近年俄に鰹節の輸出を激増したのは露人が日本の醜業婦に教えられた結果である。かつ日本の醜業婦の露人に落籍されるものが益々多く、中には案外なる上流階級の主婦となるものさえあって、これがために日本風の生活が露人間に流行し、日本品でなければ上等でないように思うものが段々えて来た。その結果が日本の商品の販路拡張となり、日露両国民の相互の理解となり、国際上の無言の勢力となるから、もし資本家の保護があれば国際上の最良政策としても浦塩へ行って女郎屋を初めるといっていた。この女郎屋論は座興の空談でなくして案外マジメな実行的基礎を持ってるらしかったが、余り突梯とっていだから誰もマジメに聞かなかった。二葉亭と実業というさえも大抵な人の耳には奇怪に響いた。ましてや二葉亭と女郎屋というに到っては小説の趣向を聞くと同じ興味を以て聞くより外なかった。

 く二葉亭の実業というは女郎屋に限らず、すべて単なる金儲けではなかった。金に逼迫ひっぱくしていたから金も儲けたかったろうが、金を儲ける以外に大なる経綸けいりんがあった。その経綸が実業家の眼から見るというべくして行うべからざる空想であったから、偶々たまたまその方面の有力者に話しても聞棄ききずてにされるばかりで話に乗ってくれなかった。

 然るに浦塩の友なる佐波武雄が浦塩の商人徳永と一緒に帰朝して偶然二葉亭を訪問したのが二葉亭の希望を果す機会となった。佐波はそれまで二葉亭から度々浦塩渡航の希望を洩らされても、文人の性格と商売とは一致しないという理由から不理を説いていたが、どういうキッカケからか三人が相会して一夕の交歓を尽した席上、徳永商店の顧問として二葉亭をへいそうという相談が熱した。その頃浦塩で最も盛んに商売していたのは杉浦龍吉で、杉浦が露国における日本の商人を代表していた。徳永は新進であったが、杉浦と拮抗きっこうして大いに雄飛しようとし、あたかも哈爾賓ハルビンに手を伸ばして新たに支店を開こうとする際であったから、どういう方面に二葉亭の力を煩わすつもりがあったか知らぬが、哈爾賓の支店に遊び半分来てくれないかといった。二葉亭は徳永とは初対面であったが、徳永の人物をひじって共に語るに足ると思込み、その報酬はようやく東京の一家を支うに過ぎない位であったが、極めて束縛されない寛大な条件を徳として、かねての素志を貫ぬく足掛りには持って来いであると喜んで快諾した。かつあたかも語学校の校長高楠たかくすと衝突して心中不愉快に堪えられなかった際だったから、決然語学校の椅子を抛棄ほうきして出掛ける気になった。多くの友人の中には折角足場の固くなり掛けた語学校の椅子を棄てるをおしんで切に忠告するものもあった。家族は前途を危ぶんで余り進まなかった。加之ならず語学校の僚友及び学生は留任を希望して嘆願した。が、二葉亭は宝の山へ入る如き希望を抱いて、三十五年の五月末に断然語学校を辞職すると直ちに東京を出発した。

 この西比利亜行については色々な説がある。ただに徳永商店の招聘に応じたばかりでなく、別に或筋からの使命を受けていたという説もある。が、恐らくは一個の想像説であろう。二葉亭は早くから国際的興味を有して或る場合には随分熱狂していた。が、秘密の使命を果すに適当な人物では決してなかった。二葉亭の人物を見立ててそんな使命を托する人もあるまいし、托せられて軽率に応ずる二葉亭でもなかった。かつもしそんな使命を受けていたなら、二葉亭は最少もすこし豊かであるべきはずであったが、哈爾賓到着後は万事が予想と反して思うようにならなかったのみならず、財政上にもまた頗る窮乏して自分自身はなお更、留守宅への送金もまた予期の如くならざるほど頗る困迫していた。

 東京を出発する前、二葉亭は暇乞いとまごいに来て、「何も特別の用務はないので、ただ来てさえくれればいというのだ。露西亜では官憲の交渉が七面倒臭いから、多分そんな方面にでも向けるつもりだろう。く来いというから行って見るので、そのうちに面白い仕事が見付かったらそっちへ行ってしまうのサ、」と無造作にいった。

 が、哈爾賓へ行って何をした? 縦令たとい聊かにもせよ旅費まで出して呼ぶからには必ず何かの思わくが徳永にあったに違いない。が、二葉亭が着くと間もなく哈爾賓では猛烈な虎疫コレラが流行して毎日八百五十人という新患者を生じ、シカモ防疫設備が成っておらんので患者の大部分がたおれてしまうという騒ぎであったから、市民は驚慌して商売はほとんど閉止してしまった。てて加えてその頃から外国人、殊に日本人に対して厳しく警戒し、やともすると軍事探偵視して直ぐ逮捕した。或る日本人は馬車の中で寺院の写真を見ていた処を警吏に見咎みとがめられて十日間抑留された。また他の或る日本人は或る工事を請負って職工を捜すため浦塩哈爾賓間を数度往復したので三カ月の禁錮きんこに処された。日本人という日本人は皆こういう常識では理解されない無法な圧迫を受けたから手も足も出せなくなった。大いに発展するツモリの徳永商店も手を伸ばすどころか圧迫されて縮少しなければならなくなった。

 搗てて加えて哈爾賓へ着く草々詰らぬ奇禍を買って拘留された。当時哈爾賓では畜犬箝口令かんこうれいかれ、箝口せざる犬は野犬と見做みなされて撲殺された。然るに徳永商店では教頭の飼犬の中の一頭だけくつわを施こして鎖でつないだが、残りの何頭かは野犬として解放してしまった。すると或る日、その中の一頭が巡査に吠付ほえつき、追われて元の飼主たる徳永商店に逃込んだのを巡査は追掛けて来て、店から引摺出ひきずりだして店前で撲殺し、かつ徳永を飼主と認定するゆえ即時に始末書を警察へ出せと厳命した。丁度二葉亭は居合わしたので不法をなじってかれこれ押問答をすると、無法にも二、三人の巡査が一度に二葉亭におどかかって戸外へ突飛ばし、四の五のいわさず拘引して留置かんへ投げ込んでしまった。徳永店員を初め在留日本人はこの報を得て喫驚びっくりし、重立つものが数人警察署へ出頭して嘆願し、二葉亭が徳永店員でない事を証明したので一時間経たない中に放還され、同時に二葉亭の身分や位置が解ったので、その晩巡査部長がわざわざ来訪して全く部下の一時の誤解であったから何分穏便にしてくれと平詫ひらあやまりに陳謝して、事件は何でもなく容易に落着したが、詰らぬ事で飛んだ目に会った。二葉亭が軍事探偵の嫌疑で二タ月か三月みつきも拘禁されたようにうわさされ、これに関聯して秘密の使命を受けていたかのような想像説まで生じたのは多分この事が訛伝かでんされたのであろう。事実は犬の間違であったのだ。

 こんなはなしにもならない馬鹿々々しい目に会って二葉亭は幾分か気を腐らせた。もともと初めから徳永商店に長くこびり着いてる心持はなく、徳永を踏台ふみだいにして他の仕事を見付けるつもりでいたのだから、日本人の仕事が一も二もなくおさえつけられて手も足も出せない当時の哈爾賓の事情を見ては、この上永く沈着おちつく気になれなくなった。そこで哈爾賓を中心として北満一帯東蒙古に到るの商工業、物産、貨物の集散、交通輸送の状況等をつぶさに調査した後、ついに東清鉄道沿線の南満各地を視察しつつ大連、旅順から営口えいこうを経て北京ペキンへ行った。


十 北京時代
川島浪速と佐々木照山・提調時代の生活・衝突帰朝


 北京へ行った目的は極東の舞台の中心たる北京の政情を視察する傍ら支那を知るための必要上、本場の支那語を勉強するツモリであったのである。幸い旧語学校の同窓の川島浪速なにわがその頃警務学堂監督として北京に在任して声望隆々日の出の勢いであったので、久しぶりで訪問して旧情をあたためかたがた志望を打明けて相談したところが、一夕の歓談が忽ち肝胆相照らして終に川島の配下に学堂の提調に就任する事となった。

 川島浪速の名は今では知らないものはない。満洲朝滅亡後北京の舞台を去って帰朝し、近年浅間の山荘に雌伏して静かに形勢を観望しているが、川島の名は粛親王しゅくしんのうの姻親として復辟ふくへき派の日本人の巨頭としてぐうを負うの虎の如くに今でも恐れられておる。旧語学校の支那語科出身で、若い東方策士のグループの一人として二葉亭とは学校時代からの親交であった。旧語学校廃校後はさらでも需要の少ない支那語科の出身は皆窮乏していたが、殊に川島は『三国志』か『水滸伝すいこでん』からでも抜け出して来たような豪傑肌だったから他にも容れられず自らも求めようともしないで陋巷ろうこうに窮居し、一時は朝夕にも差支さしつかえて幼き弟妹がうえに泣くほどのドン底に落ちた。団匪だんぴ事件の時、陸軍通訳として招集され、従軍中しばしば清廷の宗室大官と親近する中に計らずも粛親王の知遇を得たのが青雲の機縁となった。事件落着後清廷が目覚めて改革を行わんとするや、川島は粛親王府に厚聘されて警務学堂を創設し、毎期四百名の学生を養うて清国警察を補充し、ただに学堂教務をぶるのみならず学堂出身者の任命の詮衡せんこう及び進退黜陟ちゅっちょく等総てを委任するという重い権限で監督に任じた。当時の(あるいは今でも)支那の軍制は極めて不備であって、各省兵勇はあたかも烏合うごうの無頼漢のようなものだったから、組織的に訓練された学堂出身の警吏は兵勇よりも信頼されて事実上軍務をも帯びていた。したがってこれを統率する川島の威権は我が警視総監以上であって、粛親王を背後の力として声威隆々中外を圧する勢いであった。

 提調というは監督の下に総教習と聯び立つ学堂事務の総轄者であった。出納庶務から人事の一切をべ、学堂の機密にも参じ外部の交渉にも当って、あたかも大蔵と内務と外務とを兼掌していたから、任務は頗る重くて極めて困難であった。二葉亭は生中なまなか文名が高く在留日本人間にも聞えていたので、就任の風説あるや学堂の面々は皆小説家の提調を迎うるを喜ばなかった。就中なかんずく、総教習稲田穣の如きは当初のっけから不信任を公言して抗議を持出そうとした。然るにいよいよ新任提調として出頭するや、一同は皆瀟洒しょうしゃたる風流才人を見るべく想像していたに反して、意外にも状貌じょうぼう魁偉かいいなる重厚沈毅ちんきの二葉亭を迎えて一見忽ち信服してしまった。

 川島の妹婿たる佐々木照山も蒙古から帰りたての蛮骨稜々として北京に傲睨していた大元気から小説家二葉亭が学堂提調に任ぜられたと聞いていた激昂げっこうし、虎髯こぜん逆立さかだって川島公館に怒鳴り込んだ。「小説家を提調にしてどうする」と厲声れいせい川島に喰ってかかると、「くも一度会って見るサ」といわれて川島の仲介で二葉亭と会見し、鼎座ていざして相語って忽ち器識の凡ならざるに嘆服し、学堂のための良提調、川島のための好参謀を得たるを満足し、それから以来は度々往来して互に相披瀝して国事を談ずるを快としたそうだ。

 二葉亭の提調生活は当時私に送った次の手紙に髣髴ほうふつとしておる。

拝啓、今日は支那の十二月二十八日にて学校も冬期休業中ゆゑいたって閑散なるべき理窟りくつなれど小生の職務は学堂庶務会計一切の事宜を弁理するにありと支那流にては申す職掌ゆゑ日曜も祭日も滅茶苦茶に忙がしく、一昨夜なども徹夜していはゆる事宜を弁理候始末ほとほと閉口いたし候うちに自ら一種のおもしろみさすがになきにしもあらず、このおもしろみ読書の面白味にもあらず談理のおもしろみにもあらで一種変梃へんてこなおもしろみに候、小生おもふに学者の楽しむ所は理のおもしろみ、詩人の楽しむ所は情のおもしろみ、事務家の楽しむ所は action のおもしろみ、事の趣にあらんか、元来当学堂は表面は清国の一学堂なれど裏面は日本の勢力扶植の一機関たれば自ら志士集合所の如き趣ありて公使館あたりの純然たる官吏社会よりれば頗る危険の分子を含みたる一団体の如く目さるる傾有之かたむきこれあり、ために随分迷惑を感じ候事も有之候へど、そこが即ち一種の面白味の存する所にて学堂の仕事常に必しも学堂らしからず、時ありて梁山泊の豪傑連が額をあつめてひそかに勢力拡張策を講ずるなど随分変梃来へんてこな事ありてその都度提調先生ひそかに自ら当代の蕭何しょうかを以てるといふ、こんな学堂が世間にまたとあるべくも覚えず候、然れどもおもしろみのある所はまたくるしみの伏在する所にてその間一種いふべからざる苦痛も有之、この苦痛最初はいたって軽微なりしも仕事に深入すればするほど重かつ大になりゆきて時には殆んど耐へがたき事も有之候、小生の力くこの苦痛にち四囲の困難を排除する事を得ば他日多少の事功を成就し得んも、この苦痛と困難とに打負くれば最早それまでにて滅茶々々に失敗致すべく、さうなつたらむを得ず日本へ遁帰にげかえりて再び生命を一枝の筆に托せざるを得ざるべきも、先づそれまでは死力を尽して奮闘の覚悟に候、北京の町の汚なさお話になつたものにあらず、宮中かわやと申候共同便所の如きもの往来の両側に処々散在すれども日本の共同便所と同日に談ずべくもなし、ただ大道上に一空地を劃し低き土壁をめぐらしたるのみにて糞壺くそつぼもなければ小便だめもなく皆垂流たれながしなり、然れども警察の取締皆無のため往来の人随所に垂流すが故に往来の少し引込みたる所などには必ず黄なるもの累々としてうずたかく、黄なる水たんとしてくぼみにたまりをりて臭気紛々として人にせまる、そのくせ大通にあつては両側に櫛比しっぴせる商戸金色燦爛さんらんとして遠目には頗る立派なれど近くれば皆芝居の書割然かきわりぜんたる建物にて誠に安ツぽきものに候、支那は爆竹ばくちくの国にて冠婚葬祭何事にもこれを用ゐ、毎夜殆んどパチパチポンの音を聞かざるはなし、日本の花火はこれが進化したるものにはあらざるべきか、その他衣食住において日本に類似せる点多く、さすが昔は東洋文明の卸元おろしもとたりし面影どこかに残りをり候──

 天晴あっぱれ東洋の舞台の大立物おおだてものを任ずる水滸伝的豪傑が寄ってたかって天下を論じ、提調先生昂然こうぜんとして自ら蕭何を以て処るという得意の壇場が髣髴としてこの文字の表に現われておる。

 真実、提調時代の二葉亭は一生の中最も得意の時であった。俸禄も厚く、信任も重く、細大の事務ことごとく掌裡に帰して裁断を待ち、監督川島不在の時は処務を代理し、隠然副監督として仰がれていた。然るにこの得意の位置をどうして抛棄するようになった、その原因が判然しないが、く止むに止まれない或る事情があって、監督川島及び僚友が頻りに留任を勧告するをも固く謝して、決然辞任して帰朝した。この間の事情は当時の消息を知るものの間にも種々の説があって判然しないが、仮に川島あるいは僚友との間に多少の面白からぬ衝突があったとしても、その衝突は決して辞職に値いするほどの大事件ではなかったらしい。ツマリ二葉亭の持前もちまえの極端な潔癖からしてそれほどでもない些細ささいな事件に殉じて身を潔くするためらしかった。二葉亭自身もこの事については余り多く語らなかった。「腹を立てるほどの事でもなかったので、と早まり過ぎたのサ、」とばかり軽くいっていた。

 間もなく日露の国交が破裂した。北京に在留中から露西亜の暴状を憤って、同志と共にしばしば公使館に詰掛けて本国政府の断乎たる決心を迫った事もあり、かねてからこの大破裂の生ずべきを待設けて晴れの舞台の一役者たるを希望していたから、この国交断絶に際して早まって提調を辞して北京を去ったのを内心ひそかに残念に思っていたらしかった。「こう早く戦争が初まるならう少し北京に辛抱しているのだった、」とは開戦当時私に洩らした述懐であった。


十一 朝日新聞社に入る


 北京から帰朝したのは三十六年の七月で、帰ると間もなく脳貧血症にかかって田端たばたに閑居静養した。三十七年の春、日露戦争が初まると間もなく三月の初め内藤湖南ないとうこなんの紹介で大阪朝日新聞社に入社し、東京出張員として東露及び満州に関する調査と、露国新聞の最近情報の翻訳とを担任した。満洲及び北京から帰朝したての意気込もあり、豊富に資料も蓄えていたし、この調査にはすこぶる興味を持っておおいに満足して職務を服した。

 然るに新聞紙の材料は巧遅なるよりは拙速を重んじ、堂々たる大論文よりは新鮮なる零細の記事、深く考慮すべき含蓄ある説明よりは手取早く呑込む事の出来る記実、噛占かみしめて益々味の出るものよりは舌の先きでめて直ぐ賞翫しょうがんされるものが読者に受ける。新聞紙の寿命はただ一日であって、各項記事に対する読者の興味を持つはただ二分間か三分間である。この二分間三分間の興味を持たしめるのが新聞記者の技倆であって、十日一水を描き五日一石を描く苦辛は新聞記事には無用の徒労である。この点において何事も深く考えつぶさに究め右から左から八方から見て一分のすきもないまでに作り上げた二葉亭の原稿は新聞材料としては勿体もったいなさ過ぎていた。折角苦辛惨澹さんたんしてこしらえ上げた細密なる調査も、故池辺三山いけべさんざんが二葉亭歿後に私に語った如く参謀本部向き外務省向きであって新聞紙向きではなかった。例えば当時『朝日新聞』に連掲された東露及び満洲輸送力の調査の如きは参謀本部の当局者をさえ驚嘆せしめたほどに周到細密を究めたが、読者には少しも受けないで誰も振向いても見なかった。新聞紙は一に読者の興味を標準として材料の価値を定めるゆえ、如何なる貴重の大論文でも読者の大多数が喜ばないものは編輯局もまた冷遇する。折角油汗を流して苦辛した二葉亭の通信がしばしば大阪の本社で冷遇されて往々没書となったのは、二葉亭の身にすれば苦辛を認められない不平は道理であるが、新聞記事としては止むを得なかったのだ。加うるに東京出張員とはいいながら東京に定住して滅多に大阪へ行かなかったから、自然大阪本社との意志の疎通を欠き、相互の間に面白からぬ感情の行違いを生じ、或時は断然辞職するとまで憤激した事もあった。この間に立って調停する楫取役かじとりやくを勤めたのは池辺三山であって、三山は力を尽して二葉亭を百方慰撫いぶするに努めた。が、二葉亭が自ら本領を任ずる国際または経済的方面の研究調査にはやはり少しも同感しないで、二葉亭の不平を融和するかたわら、機会あるごとに力を文学方面に伸ばさしめようと婉曲えんきょく慫慂しょうようした。二葉亭は厚誼こうぎには感謝したが、同時に頗るあきたらなく思っていた。

 が、三山の親切に対してしいて争う事も出来ずに不愉快な日を暮す間に、大阪の本社とは日に乖離かいりするが東京の編輯局へは度々出入して自然したしみを増し、折々編輯を助けて意外な新聞記者的技倆を示した事もあった。ポーツマウスの条約に挙国の不平が沸騰した時に偶然東京朝日の編輯局で書いた「ひとりごと」と題するかつら首相の心理解剖の如きは前人未着手の試みで、頗る読者に受けたもんだ。(この一編は全集第四巻に載っておる。)あるいは前人未着手でないかも知れぬが、これほど巧みにこれほど小気味く窮所を穿うがったものは恐らく先人未言であったろう。二葉亭の直覚力と洞察力どうさつりょくと政治的批評眼とがなければとても書けないものであった。あるいは不満足なる媾和こうわに憤慨した余りの昂奮で筆が走ったので、平素の冷静な二葉亭ではかえって書けなかったかも知れない。こういう方面にもっぱら力を注いだなら新聞記者としてもまた必ず前人未拓の領土を開き得たろうと、朝日の僚友は皆二葉亭が一度ぎりでこの種の試みをやめたのを惜んでいた。が、二葉亭はかえってこれを恥じて、「あんな軽佻けいちょう真似まねをするんじゃなかったっけ、」と悔いていた。


十二 『其面影』と『平凡』


 そのうちに戦争はんだ。読者は最早露西亜や満洲の記事には飽き飽きした。二葉亭の熱心なる東露の産業の調査は益々新聞に向かなくなった。そこで三山初め有力なる朝日の社員は二葉亭をしていよいよ力を文学方面に伸ばさしめようと百方勧説した。その度毎たんびに苦い顔をされたが、何遍苦い顔をされても少しも尻込しりごみしないで口をくして諄々じゅんじゅんと説得するに努めたのは社中の弓削田秋江ゆげたしゅうこうであった。秋江は二葉亭の熱心なるアドマヤラーの一人として、朝日の忠実なる社員として、我儘わがままな華族の殿様のお守りをするような気になって、気を長くして機嫌を取り取りとうとう退引のっぴきならぬ義理ずくめに余儀なくさしたのが明治三十九年の秋から『朝日』に連載した『其面影そのおもかげ』であった。続いて翌年の十月は『平凡』を続載して二葉亭の最後の文藻ぶんそうを輝かした。この二篇の著わされたのは全く秋江の熱心なる努力の結果であった。

 有体ありていにいうと『其面影』も『平凡』も惰力的労作であった。勿論、何事にも真剣にならずにいられない性質だから、筆をれば前後を忘れるほどに熱中した。が、肝腎かんじんの芸術的興味がとっくの昔に去っていて、気の抜けた酒のような気分になっていたから、苦辛くしんしたのは構造や文章の形式や外殻の修飾であって、根本の内容を組成する材料の採択、性格の描写、人生の観照等に到っては『浮雲』以後の進境を見る事が出来なかった。

 殊に『其面影』は二十年ぶりの創作であったから、あたかも処女作を発表する場合と同じ疑懼心ぎくしんが手伝って、眼が窪み肉がせるほど苦辛くしんし、その間は全く訪客を謝絶し、家人が室に入るをすら禁じ、眼が血走り顔色があおくなるまで全力を傾注し、千鍜万練して日に幾十遍となく書きあらためた。それ故とかくに毎日の締切時間を遅らしがちなので、編輯局から容子を見届けに度々社員を派したが、苦辛惨憺する現状を見るものは誰でも気の毒になって催促し兼ねたそうだ。池辺三山が評して「造物主が天地万物を産出うみだす時のくるしみ」といったは当時の二葉亭の苦辛を能く語っておる。が、苦辛したのは外形の修辞だけであって肝腎の心棒が抜けていたから、二葉亭に多くを期待していたものは期待を裏切られて失望した。

『其面影』を発表するに先だちて二葉亭は新作の題名について相談して来た。「ふたはあと」とか「はあとくずし」とか「新紋形二つはあと」とかいうような人情本臭い題名であって、シカモこの題名の上にふたどもえの紋を置くとか、あるいは「れウィオリノ」という題名としていとの切れたウィオリンの画の上に題名を書くというような鼻持ならない黴臭かびくさい案だったから、即時にドレもこれも都々逸どどいつ文学の語であると遠慮なくけなしつけてやった。かれこれ往復二、三回もした、最後に『其面影』でモウ我慢してくれといって来た。この相談を受けた時、二葉亭の頭のすみッコにマダ三馬さんば春水しゅんすいの血が残ってるんじゃないかと、内心成功を危ぶまずにはいられなかった。

 いよいよ『其面影』が現れて、回一回と重ぬるに従って益々この懸念が濃くなった。『其面影』の妙処というは二十年前の『浮雲』であじわわされたものよりもヨリ以上何物をも加えなかった。加之しかのみならず『浮雲』の若々しさに引換えて極めて老熟して来ただけそれだけ或る一種の臭みを帯びていた。言換えると『浮雲』の描写は直線的に極めて鋭どく、色彩や情趣に欠けている代りには露西亜の作風の新らしいにおいがあった。これに反して『其面影』の描写は婉曲に生温なまぬるく、花やかな情味に富んでる代りに新らしい生気を欠いていた。幸田露伴こうだろはんはかつて『浮雲』を評して地質の断面図を見るようだといったが、『其面影』は断面図の代りに横浜出来の輸出向きの美人画を憶出おもいださせた。更に繰返すと『其面影』の面白味は近代人の命の遣取やりとりをするくるしみの面白味でなくて、渋い意気な俗曲的の面白味であった。

『平凡』は復活後の二度目の作であるだけ、『其面影』よりは筆が楽に伸んびりしておる。無論『其面影』と同じ洗錬を経たので、決して等閑なおざりに書きなぐったのではないが、『其面影』のような細かい斧鑿ふさくの跡が見えないで、自由に伸び伸びした作者の洒落しゃらくな江戸ッ子風の半面が能く現れておる。ツマリ『其面影』の時は「文人でない」といいつつも久しぶりでの試みにおのずと筆が固くなって、余りに細部の雕琢ちょうたくにコセコセしたのが意外のわずらいをした。が、『平凡』の時は二度目の経験で筆が練れて来たと同時に「文学はドウでもい」という気になって、技術の慾を離れて自由に思うままを発揮したから、前者に比べると荒削りではあるが活き活きした生気に富んでおる。文人としての二葉亭の最後を飾るに足る傑作である。

 が、いずれも『浮雲』の惰力的労作であるは争われなかった。『浮雲』以後の精神的及び物質的苦悶に富んだ二葉亭の半世の生活からは最少もすこし徹底した近代的悲痛が現れなければならないはずであったが、案に相違して極めて平板な不徹底な家常茶飯的葛藤しか描かれていなかったのは畢竟ひっきょう作者の根本の芸術的興味が去ってしまったからであろう。


十三 第二期の失意煩悶
朝日社内における葛藤不平・国際的危機・『平凡』前後・実際的抱負


 が、それにもかかわらず、世間は盛んに嘖々さくさくして歓迎し、『東朝』編輯局は主筆から給仕きゅうじに到るまでがこぞって感歎した。前には満蒙に関する二葉亭の論策研究を虐待した『大朝』の編輯局が二葉亭の籍が大阪にあるを名として当然大阪の紙上にも載すべきものだと抗議を持出した。各文学雑誌は争って文学及び思想に関する論文または談話を請うて載せ、社会の公人としての名は益々文人として輝いた。

 二葉亭は益々不平だった。半世の夙志しゅくしすべて成らずに、望みもしない文人としての名がいよいよ輝くのが如何にも不愉快でたまらなかった。が、世間は如何に見ようとも、自分の使命は国際的舞台にあるをあくまでも任じて、少しも志望を曲げずに極東時局に関する内外の著書は得るにしたがって精読し、内外新聞の外交に関する事項はつぶさに究めて切抜きを保存し、殊に『外交時報』は隅から隅までを反覆細読していた。(二葉亭は『倫敦ロンドンタイムス』『ノーウ・オウレーミヤ』『モスコー・ウェドモスチ』等の英露及び支那日本の外字新聞数十種に常に眼をらしていた。『外交時報』は第一号から全部を取揃とりそろえて少しも座右から離さなかった。)

 かくの如く全力を傾倒して国際問題を鋭意研究したのはと本と青年時代からの夙志であったが、一時人生問題に没頭して全く忘れていたのが再燃したには自ずから淵源えんげんがある。日清戦争の三国干渉の時だった。或る晩慨然として私に語った。「日本はこれから先き世界を対手あいてとして戦う覚悟がなけりゃアならん。東洋の片隅に小さくなって蹲踞うずくまってるなら知らず、いささかでも頭角を出せば直ぐ列強の圧迫を受ける。白人聯合して日本に迫るというような事が今後ないとは限らん。それも圧迫を受けるだけなら、忍んで小さくなって辛抱がまん出来ない事もなかろうが、圧迫が進んで侮辱となり侵略となったらドウする。国際公法だの仲裁条約だのというはまさかの時には何の役にも立たない空理空文である。欧洲列強間の利害は各々相扞格あいかんかくしていても、根が同文同種同宗教の兄弟国だから、いざとなれば平時の葛藤を忘れて共通の敵たる異人種異宗教の国に相結んであたるは当然あり得べき事だ」と、人種競争の避くべからざる所以ゆえんを歴史的に説いて「この覚悟で国民の決心を固め、将来の国是こくぜを定めないと、何十年後に亡国の恨みがないとも限らない、」と反覆痛言した事があった。二葉亭の青年時代の国際的興味が再び熱沸して来たのはその頃からで、この憂国の至誠から鋭意熱心に東洋問題の解決を研究するので、決して大言壮語を喜ぶ単純なる志士気質やあるいは国家をめしたねとする政治家肌からではなかった。二葉亭の文学方面をのみ知る人は政治を偏重する昔の士族気質から産出した気紛れのように思うが、決してんな浮いた泡のような空想ではなかったので、牢乎ろうことして抜くべからざる多年の根強い根柢があったのだ。今にして思うと、三十年前に人種競争の止むを得ざる結果から欧亜の大衝突の当然来るべきを切言した二葉亭の巨眼は推服すべきものであった。

 明治四十年の六月、突然急痾きゅうあに犯されてほとんど七十余日間病牀びょうしょうの人となった。それから以後著るしく健康を損じて、平生健啖けんたんであったのがにわかに食慾を減じ、或る時、見舞に行くと、「この頃は朝飯はお廃止やめだ。一日に一杯ぐらいしか喰わない。夜もおちおち寝られない、」といった。「そりゃ不可いかん。転地したらどうだい、神経衰弱なら転地が一番だ、」というと、「転地なんぞしたってなおるもんか。社の者もしきりと心配して旅行しろというが、海や山よりは町の方が好きだ。なアに、僕の病気は何でもない、小説を書かないでも済むようにさえしてくれたらその瞬間に直ぐ癒ってしまう、」といって淋しく笑った。

 一体が負け嫌いの病気に勝つ方で、どんなに苦しくても滅多に弱音よわねを吹かなかった。官報局を罷めてから間もなく、関節炎にかかって腰が立たなかった時も元気はすこぶる盛んで、談笑自如として少しも平生と変らなかった。その時から比べると、病気はそれほど重くも見えなかったが、元気はまるくなって頗る銷沈しょうちんしていた。豈夫まさかに嫌いな文学を強いられるばかりで病気になったとも思わなかったが、何となく境遇を気の毒に思って傷心に堪えなかった。

『平凡』の予告が現われた時、二葉亭が昔しから推奨したゴンチャローフの名作を憶い浮べて題名に興味を持ったので直ぐ手紙を送った。文句は忘れたが、意味はこうである。──『平凡』という題名が如何にも非凡で面白い、(というのは前にもいった通り『其面影』の題名に関して往復数回した事があったからで、)定めし面白いものであろうとたのしみにしておる、く現に文学を以て生活しつつある以上は仮令たとい素志でなくても文学にもまた十分身を入れてもらいたい、人は必ずしも一方面でなければならないという理由はないから、文人であって政治家あるいは実業家を兼ねるのも妙であろう、政治あるいは外交に興味を有するが故に他の長所である文学を廃するというは少しも理由にならない、かついやしくも前途に平生口にする大抱負を有するなら努めて寛闊かんかつなる襟度きんどを養わねばならない、例えば西園寺さいおんじ侯の招宴を辞する如きは時の宰相たり侯爵たるが故に謝絶する詩人的狷介けんかいを示したもので政治家的または外交家的器度ではない──という、こういう意味の手紙であった。

 無論この手紙を送ったのは二葉亭と議論するつもりでも何でもなかった。ただ『平凡』の題名に興味を持った余りに筆を走らしたので、陶庵とうあん侯招宴一条の如きは二葉亭の性質として応じないのは百も二百も承知していて少しも不思議と思っていないから、二葉亭の気質を能く理解のみこんでる私があらためて争うような事は決してない。無論また数行の手紙で二葉亭を反省させあるいは屈服する事が出来ようとも思っていなかった。

 然るにこの位な揶揄やゆ弄言ろうげんは平生面と向って談笑の間に言合いいあうにかかわらず、この手紙がイライラした神経によっぽどさわったものと見えて平時いつにない怒気紛々たる返事を直ぐ寄越よこした。曰く、「平凡は平凡なり、それをしいて非凡とおつしやるなら非凡でもよろし、されど平凡はやはり平凡也、首相の招待に応ぜざりしはいやであつから也、このいやといふ声は小生の存在を打てば響く声也、小生は是非を知らず、可否を知らず、ただこれが小生の本来の面目なるを知りたる而已のみ、」云々と。それから最後に、「いずれその中に行く」と私が書いたに対して、「謀面ぼうめんは今時機にあらず、やがて折あるべし、」と結んで、手もなく当分面会謝絶を通告して来た。私が二葉亭から請取った何十通の手紙の中でこれほど墨痕ぼっこん淋漓りんりとした痛快なものはない。青筋出して肝癪かんしゃく起した二葉亭の面貌めんぼうが文面及び筆勢にありあり彷彿して、当時の二葉亭のイライラした極度の興奮が想像された。が、腹の立ったありのままが少しも飾られないで表白されているだけに、二葉亭の面目が歴々ありありと最も能く現われていた。このいやというが二葉亭の存在を打てば響く声であるといったは何よりも能く二葉亭を説明している。

 二葉亭の文学嫌いは前にいったように単純な志士気質や政治家肌からではなかったが、それほどに懊悩おうのうしてジリジリと興奮するまで文学を嫌い抜いていたのは、一つは「このいやという存在の声」が手伝っていたのである。二葉亭は何事についても右といえば左、左といえば右という一種の執拗な反抗癖があって、終局の帰着点が同一なのが明々白々に解っていても先ず反対に立って見るのが常癖であった。如何いかなる得意のものでもめられるとにがい顔をして、如何なる不得意のものでもけなされると一生懸命になって弁明した。仮にもしその欲する如くに政治家または実業家として相当の位置を作らしめたなら、その時は恐らく余は政治家に非ず、実業家に非ずといったかも知れない。これが即ち長谷川辰之助はせがわたつのすけの存在の声であったのだ。

 尤も文学を嫌って実際界に志ざしたはあながちこの一癖からばかりでなく、実際方面における抱負も或る人々の思うように万更まんざら詩人的空想から産出うみだしたユートピヤ的あるいは志士気質の自大放言ではなかった。ちょっと聞けば馬鹿々々しい浦塩の女郎屋論でも、底を叩くと統計やら報告やら頗る周到細密な数字的基礎があった。殊に北京から帰朝した後の説には鑿々さくさく傾聴すべき深い根柢があった。無論実際の舞台に立たせたなら直ぐ持前の詩人的狷介や道学的潔癖が飛出して累をなしたであろうが、それでももしいよいよその方面に驥足きそくを伸ぶる機会が与えられたら、強ち失敗に終るともめられなかった、あるいは意外の功を挙げないとも計られなかった。く終に一回もこの自信ある手腕を試みる機会を与える事が出来ずにしまったのは、二葉亭自身の一生の恨事であったのみならず、二葉亭の知友としてもまた頗る遺憾であった。


十四 露国の亡命客及びダンチェンコ


 その頃波蘭ポーランドの革命党員ピルスウツキーという男が日本へ逃げて来て二葉亭をたずねて来た。その外にも二葉亭をたよって来た露国の虚無党亡命客が二、三人あった。二葉亭はかれらのために斡旋あっせんしてあるいは思想上多少の連絡ある人士または政界の名士に紹介したり、あるいは渠らが長崎で発行する露文の機関雑誌を助成したり、渠らの資金を調達するために布哇ハワイの耕地の買手を捜したり、あるいは文芸上の連絡を目的とする日波協会の設立を計画したりして渠らのために種々奔走をした。二葉亭はかつてヘルチェンやビェリンスキーに傾倒して虚無党思想についての多少の興味をも持っていたから、帝国主義を懐抱して日本の膨脹を夢見つつも頭のすみ何処どこかで渠らと契合していたかも知れぬが、それ以外に渠らを利用して国際的芝居を一と幕出そうとする野心が内々あったらしい。その頃北京時代の友人阿部精二へ送った手紙に、「西伯利シベリアより露国革命派続々逃込み、中には東京へ来るものも有之これあり候故、これらを相手に一と仕事と出懸でかけし処、相手がまるでお坊ちやんにて話にならず、たうとう骨折損ほねおりぞんとなりたり、今も革命派の上京する者は必ず来つてあれこれと相談を掛け候へども最早相手にならない事に決し候、渠らは皆空論を以て事を成さんと欲する徒にて口舌以上の活動をせんといふ意なし、こんな事で何が出来るものかと愛想をつかしたる次第に候、実は最初は今度こそ一世一代の仕事といふ意気込で取掛けたれども右の次第にてこれもまた駄目となりたり、ああ心中の遺恨誰に向つて訴へん、この上は最早退隠の外なし、小説でも書いて一生を送るべく候、」とあるは多分この間の機微を洩らしたものであろう。が、露西亜の革命党員を相棒に何をするつもりであったろう。二葉亭は明石あかし中佐や花田中佐の日露戦役当時の在外運動をしきりに面白がっていたから、あるいはソンナ計画が心の底にきざしていたかも解らぬが、それよりはソンナ空想を燃やしてままにならない鬱憤を晴らしていたのだろう。公平に見て二葉亭が実行力に乏しいのを軽侮した露西亜の亡命客よりも二葉亭自身の方がヨリ一層実行力に乏しかった。二葉亭では明石中佐や花田中佐の真似まねはとても出来ないのを自ら知らないほどのウツケではないが、そんな空言を叩いてよんどころなしの文学三昧に送る不愉快さを紛らすための空気焔からきえんを吐いたのであろう。

 明治四十一年の春、ダンチェンコが来遊した。二葉亭は朝日を代表して東道の主人となって処々方々を案内して見せた。ダンチェンコは文人としては第二流であるが、新聞記者としては有繋さすがに露西亜有数の人物だけに興味も識見も頗る広く、日本の文人のような文学一天張の世間見ずではなかった。随って思想上に契合するものがあってもなくても、毎日々々諸方を案内しつつ互に宏博こうはくなる知見を交換したのは、あたかもかごとりのように意気銷沈していた当時の二葉亭の憂悶不快を紛らす慰藉いしゃとなったらしかった。

 ダンチェンコは深く二葉亭に服して頻りに露都への来遊を希望し、かつ池辺三山及び村山龍平むらやまりゅうへいむかって露都通信員の派遣を勧告し、その最適任者としての二葉亭の才能人物を盛んに推奨したので、朝日社長村山も終に動かされてその提案に同意した。耆婆扁鵲ぎばへんじゃくの神剤でもとてもなおりそうもなかった二葉亭の数年前から持越しの神経衰弱は露都行という三十年来の希望の満足にぬぐうが如く忽ち掻消かきけされて、あたかも籠の禽が俄に放されて九天に飛ばんとして羽叩はばたきするような大元気となった。その当座はまるで嫁入咄がきまった少女のように浮き浮きとはしゃいでいた。


十五 露都行及びその最後
露都行の抱負・入露後の消息、発病・帰朝・終焉・葬儀


 こう決定してからは一日も早く文学と終始した不愉快な日本の生活からのがれるべく俄にき立って、入露の準備をするためにほとんど毎日、朝から晩まで朝野の名流を訪うて露国に関する外交上及び産業貿易上の意見を叩き、碌々ろくろく家人と語る暇がなかったほどに奔走した。

 いよいよ新橋を出発したのが四十一年の六月十二日であった。十四日にあたかも露西亜から帰着した後藤男を敦賀つるがに迎え、その翌日は米原まいばらまで男爵と同車し、随行諸員を遠ざけて意見を交換したそうだ。如何いかなる意見が交換されたかは今なお不明であって、先年追悼会の席上後藤男自らの口からもその談話の内容を発表する事は出来ぬといわれたが、くこの会見によって男爵の知遇を得、多年の夙志しゅくしが男爵の後援で遂げられそうないとぐちを得たのは明らかであった。

 米原で後藤男の一行と別れて神戸へ行き、神戸から乗船して大連を経て入露の行程に上った。その途上小村外相の帰朝を大連に、駐日露国大使マレウイチの来任を哈爾賓ハルビンに迎えて各々意見を交換した。これらの会見始末はくわしく三山に通信して来たそうだが、また国際上の機微にわたるが故に世間に発表出来ないと三山はいっていた。この三山も今では易簀えきさくしてしまったが、手紙は多分三山の遺篋いきょうの中に残ってるかも知れない。

 が、露国へ行って何をするツモリであったは友人中の誰にも精しく話さなかったが、く出発に先だって露国と交渉する名士を歴訪し、更にその途上わざわざ迂回うかいして後藤や小村やマレウイチと会見した事実から推しても二葉亭の抱負や目的をほぼ想像する事が出来る。出発前数日、文壇の知人が催おした送別会の卓上演説テーブルスピイチは極めて抽象的であったが抱負の一端が現れておる。その要旨を掻摘かいつまむとこうである。

「自分は平生露西亜の新聞や雑誌を読んで論調を察するに、露西亜人の日本に対する睚眦がいさいうらみは結んでなかなか解けない。時来らば今と戦争しようという意気込は十分見えている。けだし白人種の異人種を征服するは征服されるものから見れば領土の簒奪さんだつであるが、白人種の立場からいえば、人類の幸福のための未開の土地の開発であって、露西亜の南下の如きも露西亜人は神の特別なる恩寵を受くるスラヴ人の当然の使命だと思ってもいるし、文明が野蛮に打勝つ自然の大法だとも信じている。それ故に露西亜人の眼から見て野蛮国たる日本に露西亜が負けたのは英人がブアに負けたのと同様、ただに露西亜一国の不名誉ばかりじゃない、世界の文明国の前途のためのしき一大事である。このままにもし済ましたなら、白人の文明はあるいは黄人の蛮力に蹂躙されて終には如何なる惨禍を世界に蒙むらすかも解らん。ツマリ黄人の勝利は文明の大破壊であるから、このまま指をくわえて引込んでる事は世界の文明のために出来ない。勝誇った日本の羽翼いまだ十分ならざる内に二度と再び起つ事の出来ないまでに挫折ぶっくじいて置かねばならんというのは単に露西亜一国のためばかりでなくて、世界の文明のため人道のためだというが露西亜人の腹の底の覚悟である。可也よし、そっちがその了簡ならこっちもそのツモリでう一度対手になろうといいたい処だが、一度の戦争は東洋問題を解決するため止むを得ないとしても、二度の戦争は残念ながら日本の国力が許さない。日本人としては日本の国力が十分恢復かいふく出来るまでは何とかして二度の戦争はあらせたくないというのが当然の願いで、それには露西亜人がまだ知らない日本の文明の真相を理解させて、日本人はブア人のような未開人でないという事を十分会得させるが第一策だと思う。無論、そんな姑息こそくの方法では根深い誤解を除く事はとても出来ないかも知れんが、少くも彼我国際間の融和を計るには日本の文明を紹介するが有力なる一手段である。自分が露西亜に行くのは朝日の通信員としてであるが、この機会を与えられたを幸いとして、及ばずながらも尽して見たいと思うはこの方面の努力で、甚だ不完全であるがいささかの経験ある露西亜語を利用して日露国民相互間の誤解をき、再び不祥の戦争がなからしむるように最善の努力を尽したいと思う。自分の微力を以てしては精衛海をうずむる世間の物笑いを免かれんかも知れんが、及ばずながらもこれが自分の抱懐の一つである、」云々。

 果して二葉亭のいう如くその頃の日露国民間に暗雲が低迷していたか否かは別であるが、国家を憂うる赤誠はこの一場の卓上話の端にも十分現われておる。出発前暇乞いに訪ねてくれた時も、露国へ行けば日本に通信する傍ら露国の新聞にも頻々投書して日本の文明及び国情を紹介し、場合に由れば講演をも開くつもりだから、ついては材料となるべき書籍を折々廻附してもらいたいといった。私は大いに同感を表して、取敢えず手許に有合わした『開国五十年史』を贈り、註文次第何でも送ると快諾したが、露西亜へ着いてから尚だ一回も註文を受ける間もない中に不起の病に取憑とりつかれてしまった。朝日の通信員としてタイムスのブローウィツやマッケンジーを期すると同時に日本の平和のための福音使ともなろうとしたらしかったが、その抱負の一端だも実行の緒にいとまがない中に思わぬ病のために帰朝すべく余儀なくされた。

 二葉亭は学生時代から呼吸器が弱かった。自分でも要慎ようじんしてたんは必ず鼻紙へ取って決してやたらとてなかった。殊に露西亜へ出発する前一年間は度々病気になって著るしく健康を損じていた。この懸念される容体で寒い露国へ行くのは険呑けんのんだから一応は健康診断を受けて見たらと口まで出掛ったが、幸いに何にも故障がなければだが、万一多少の故障があったからッてこれがために多年の夙望しゅくぼう思留おもいとどまりそうもなし、折角意気の旺盛おうせいなる目出たい門出に曇影を与うるでもないと思って、多少は遠廻しに匂わして見たが、強ては余りに勧めなかった。だが、こんなに早く不起の病のとこに就こうとも思わなかった。

 露都へ着いたのが四十一年の七月十五日であって、着くと直ぐ、一と月経つか経たない中に神経衰弱に罹ってしまった。で、かれこれ半年近くも何にもないで暮して、どうかこうか癒り掛けたあくる四十二年の二月十四日、ウラジーミル太公の葬儀を見送るべく、折からの降りしきる雪の中を行列筋の道端みちばたに立っていると、何しろ露西亜の冬の厳しい寒さの中を降りしきる雪に打たれたのだから、病上やみあがりの身の何とて堪えらるべき、忽ち迷眩して雪の上に卒倒した。同伴の日本人の誰彼れは驚いて介抱して直ぐ下宿に連れて戻ったが、これが病みつきとなって終に再びまくらが上らなくなってしまった。そのはてがとうとう露人の病院に入院して肺結核という診断を受け、暫らくオデッサあたりに転地するかさなくば断然帰朝した方が上分別じょうふんべつであると、医師からも朋友からも切に忠告された。

 この忠告を受けた時の二葉亭の胸中万斛ばんこくの遺憾苦悶は想像するに余りがある。折角ここまで踏出しながら、何にもしないで手をむなしゅうしてオメオメとどうして帰られよう。このまま縦令たとい露西亜の土となろうとも生きて再び日本へは帰られないとねたは決して無理はなかった。が、このまま滞留すれば病気は益々重るばかりで、終には取返しが付かなくなるのがいていながら万に一つ帰朝すれば恢復かいふくする望みがないとも限らないのを打棄うっちゃって置くべきでないと、在留日本人の某々等は寄ってたかって帰朝を勧告した。初めは何といっても首を振ってかなかったが、剛情我慢の二葉亭も病には勝てず、散々手古摺てこずらした挙句がよんどころなく納得したので、病気がやや平らになったを見計らって大阪商船の末永支配人が附添い、四月五日在留日本人の某々らに送られて心淋しくも露都を出発し、伯林ベルリン迂廻うかいして倫敦ロンドンに着し、郵船会社の加茂丸に便乗したのが四月九日であって、末永支配人に船まで送られて、包むに余る万斛の感慨を抱きつつ心細くも帰朝の途にいた。

 初めいよいよ帰朝と決するや、西比利亜シベリア線を帰る、あるいは倫敦へ出て海路を取る乎というが友人間の問題となったそうだ。その結果が短距離の西比利亜線を棄ててわざわざ遠廻りの海路を択ぶに決したのは、寒い西比利亜線を行くよりは船で帰るが海気療法ともなるという意見が勝ったからだそうで、不思議に加茂丸へ移乗した時は担架で運ばれたほどの重態が出帆してから次第に元気を恢復して来た。末永大阪商船支配人の特別の依頼といい、朝日の記者、名誉ある文人としての名は事務長を初め船員が皆知っていたから、船医の外に特に一名の給仕を附添つきそいとして手厚く看護し、この元気なら滞りなく無事に帰朝出来そうだと一同安心して大いに喜んでいた。然るにポルトセイドに着き、いよいよ熱帯圏に入ると、気候の激変から病が俄にあらたまって、コロンボへ入港したころは最早たのみすくなになって来た。

 電報はくしの歯を引く如く東京に発せられた。一電は一電よりも急を告げて、帰朝を待侘まちわびる友人知己はその都度々々に胸を躍らした。

 五月十日、船は印度洋に入った。世界にしる澎湃ほうはいたる怒濤が死ぬに死なれない多感の詩人の熱悶苦吟に和して悲壮なる死のマーチを奏する間に、あたかも夕陽いりひ反映てりかえされて天も水も金色こんじきいろどられた午後五時十五分、船長事務長及び数百の乗客の限りなき哀悼悲痛の中に囲繞とりまかれて眠るが如くに最後の息を引取った。

 五月十五日新嘉坡シンガポールに着いた。近藤事務長は土地の有志と計りて、事務長以下十数人、遺骸むくろを奉じて埠頭ふとうを去る三マイルなるパセパンシャンの丘巓きゅうてんに仮の野辺送りをし、日本の在留僧釈梅仙を請じてねんごろに読経供養し、月白く露深き丘の上にはるかに印度洋の鞺鞳とうとうたる波濤を聞きつつまきを組上げて荼毘だびに附した。一代の詩人の不幸なる最後にふさわしい極めて悲壮沈痛なる劇的光景であった。空しく壮図を抱いて中途にして幽冥ゆうめいに入る千秋の遺恨は死の瞬間までももだえて死切れなかったろうが、生中なまなかに小さい文壇の名を歌われて枯木かれきの如く畳の上に朽ち果てるよりは、遠くヒマラヤの雪巓を観望する丘の上に燃ゆるが如き壮志を包んだ遺骸を赤道直下の熱風に吹かれつつ荼毘に委したは誠に一代のヒーローに似合わしい終焉しゅうえんであった。

 遺骨が新橋に帰着したは五月三十日で、越えて三日葬儀は染井そめい墓地の信照庵に営まれた。会葬するもの数百人。権門富貴の最後の儀式を飾る金冠繍服しゅうふくの行列こそ見えなかったが、皆故人を尊敬し感嘆して心から慟哭どうこくし痛惜する友人門生のみであった。初夏はつなつ夕映ゆうばえの照り輝ける中に門生が誠意をめてささげた百日紅ひゃくじつこう樹下に淋しく立てる墓標は池辺三山の奔放淋漓りんりたる筆蹟にて墨黒々と麗わしく二葉亭四迷之墓とろくせられた。

 三山は墓標に揮毫きごうするにあたって幾度も筆を措いて躊躇ちゅうちょした。この二葉亭四迷は故人の最も憎める名であった。この名を墓標に勒するは故人の本意でないかも知れぬので、三山は筆を持って暫らく沈吟ちんぎんしたが、シカモこの名は日本の文学史に永久に朽ちざる輝きである。二葉亭は果して自ら任ずる如き実行の経綸家であった乎否かは永久のなぞとしても、自らいさぎよしとしない文学を以てすらもなおかつかくの如く永久朽ちざる事業を残したというは一層故人の材幹と功績の偉なるを伝うるに足るだろう。と、三山は終に意を決して二葉亭四迷と勒した。

 以上はただ一生の輪廓を描いたに過ぎないが、人物と思想とは特に剖析細究しないでもほぼ知る事が出来よう。文人としての二葉亭の位置の如何なるやは暫らく世間の判断に任すとしても明治の文壇に類の少ない飛離れた人物であったはこの白描のデッサンを見てもおおよそ推測おしはかられよう。文人乎、非文人乎、英雄乎、俗人乎、二葉亭は終にその全人格をひとにも自分にも明白に示さないで、あたかも彗星の如く不思議の光芒こうぼうを残しつつ倏忽しゅっこつとして去ってしまった。かれは小説家でなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。

(明治四十二年六月記、大正十三年十月補修)

底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店

   1994(平成6)年216日第1刷発行

   2008(平成20)年710日第3

底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社

   1925(大正14)年6月初版発行

初出:「二葉亭四迷」

   1909(明治42)年81

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2011年529日作成

青空文庫作成ファイル:

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