正雪の二代目
岡本綺堂



登場人物

大泉伴左衞門

千島雄之助

深堀平九郎

津村彌平次

本庄新吾

犬塚段八

三上郡藏

山杉甚作

備前屋長七

下總屋義平

義平の母おかめ

大泉の妹お千代

大泉の女中およし

同じく おみつ

下總屋の若い者時助

同じく 勘八

下總屋の小僧仙吉

下總屋の女中おとよ

番太郎 權兵衞

與力井口金太夫

同心野澤喜十郎

町の娘 おもと

同じく おきん

 ほかに同心。捕手。町の男。女、子供など


第一幕



江戸の末期、文久二年十一月下旬の午後。

芝の田町、軍學劍術の指南大泉伴左衞門の道場。正面の上のかたに寄せて、一段高いところに疊を敷き手あぶりの火鉢を置き、うしろは大形の襖。平舞臺の正面は板羽目にて、面、籠手、木太刀、竹刀、薙刀などの稽古道具をかけ、下のかたには杉戸の出入口がある。大きい角火鉢には大藥罐をかけ、そのそばには炭取りと茶碗などもある。


(深堀平九郎、廿七八歳、先生の代稽古をしてゐる體、稽古着に胴と籠手を着けただけにて袴をはき、うしろ鉢卷きをして竹刀を持ち、高いところに腰をかけて見物してゐる。大火鉢のまはりには門弟の津村彌平次、犬塚段八、三上郡藏の三人が稽古を待つ姿にて、烟草をのんでゐる。そのなかで彌平次だけは面と胴をつけてゐる。道場のまん中には本庄新吾と刀屋のせがれ長七とが道具をつけて稽古をしてゐる。幕あくと二人は激しく撃ち合ひ、新吾はだん〳〵に危くなる。)

彌平次 (のび上る。)これはいけない。本庄の方があぶないぞ。

段八  町人に撃ち込まれるとは意氣地のない奴だな。

郡藏  まつたくあぶない。これ、本庄。しつかりしろ、しつかりしろ。

(そのうちに新吾は籠手を打たれて竹刀を落せば、長七は附入つて更に胴を撃つ。)

新吾  まゐつた。

平九郎 や、見事だ、見事だ。長七、貴公は此頃めつきりと上達したぞ。

長七  ありがたうございます。

(新吾と長七は面を取る。)

新吾  籠手を撃つたらもう好いではないか。つゞいて胴へ撃ち込むとは何のことだ。

平九郎 はゝ、負け惜みをいふなよ。眞劍勝負と相成つたら、そんな理窟を云つてゐられるものか。なんにしても貴公の負けだ。

長七  稽古にかゝると何うも夢中になつていけません。どうかまあ堪忍してください。

平九郎 なに、本庄にあやまることがあるものか。劍術の極意は相手をずば〳〵と斬りさへすればいゝのだ。まして唯今の時世では、なん時どこで眞劍の勝負が始まらないとも限らないから、平生からその積りで稽古をして、道具はづれでも何でも構はぬ、手あたり次第に引つぱたくがいゝぞ。内の先生はその流儀だ。

長七  よく判りましてございます。

(新吾と長七は會釋して火鉢の前に來る。板戸をあけて、女中およし、おみつ出づ。およしは大藥罐を持つ。)

およし お湯はございますか。

段八  (火鉢の藥罐を取つてみる。)いや、空だ。空だ。水をさしてくれ。

おみつ 炭がございますか。

郡藏  (炭取りを取る。)これも空だ。吝々けち〳〵しないで炭を一杯に持つて來てくれ。いくら我々でも寒いからな。

およし でも、今は寒稽古の筈ぢやありませんか。

(およしは笑ひながら藥罐は水をさし、おみつは炭取りを持ちて去る。)

平九郎 さあ、今度はだれの番だな。

彌平次 手前です。

平九郎 むゝ、津村か。貴公は面をつけながら烟草を呑んでゐるのか。ひどく都合がいゝな。

彌平次 (進み出る。)これは講武所から流行はやり出した鶺鴒張りといふ烟管きせるです。

平九郎 (烟管を取つてみる。)なるほどこれが鶺鴒張りといふのか。講武所の奴等は巧いものを考へ出したな。これならば面を着けてゐても、烟草が自由に喫へるから調寶だ。おれも早速買ふことにしよう。そこらの袋物屋に賣つてゐるか。

彌平次 えゝ、此頃はどこにでも賣つてゐますよ。

平九郎 はゝあ、色々の物が流行るな。(感心したやうに烟管をながめてゐる。)

彌平次 すぐにお稽古が願へますか。

平九郎 まあ、この烟管でおれに一服喫はせてみろよ。

(平九郎は大火鉢の前にゆきて烟草をのむ。下のかたの板戸をあけて、女中おみつは炭取りに炭を入れて出づ。)

おみつ このぐらゐあれば宜しいでせう。

段八  よし、よし。これだけあれば凍え死ぬ氣づかひはあるまい。

おみつ 皆さんは隨分寒がりなんですね。

(おみつは笑ひながら去る。)

新吾  こゝの女どもは兎角われ〳〵を馬鹿にする奴が多いな。

平九郎 貴公達がいつでも手ひどく引つぱたかれるのを見てゐるからだ。はゝゝゝゝ。

(下のかたより伴左衞門の妹お千代、十八九歳、襷と手拭を持ちて出づ。)

お千代 どなたもお精の出ることでございますね。

平九郎 御覽の通り、この寒いのに汗をながして、みんな一生懸命に稽古を勵んで居ります。

お千代 それはお羨ましいことでございます。わたくしもどなたにかお稽古を願はれますまいか。

段八  お孃さん。わたしがお相手をいたしませう。(起ち上る。)

郡藏  いや、お手前はあと𢌞しだ。けふは拙者がお孃さんのお相手をすることに、昨日から決まつてゐるのだ。(これも起ちあがる。)

彌平次 これ、これ、手前はさつきから支度をしてこゝに出てゐるではないか。貴公達が道具をつけてゐるあひだに、手前が先づ一本お願ひ申すのだ。

平九郎 これは道具を早く着けてゐる者の勝だ。さあ、津村。貴公がお稽古を願ひなさい。

彌平次 (よろこんで。)承知いたした。

(彌平次はあわてゝ籠手をつけ、まん中に出て待つてゐる。お千代は身繕ひして襷をかけ、手拭にて後ろ鉢卷きをして、羽目にかけたる稽古用の薙刀を持つて出づ。)

お千代 では、おねがひ申します。

彌平次 手前もお願ひ申す。

(二人は會釋して立向ひ、お千代は薙力、彌平次は竹刀にて撃ち合ふ。平九郎は烟草をのみながら見物している。他の門弟等も一心にながめてゐる。このうちに、正面の襖をあけて、大泉伴左衞門、三十五六歳、髮は合僧がつそう、羽織袴にて出で、下のかたの板戸をあけて、門弟の一人千島雄之助、廿二三歳、羽織をぬいだる袴姿にて出で、いづれも立つたまゝにて勝負を見てゐる。やがて彌平次はお千代に撃たれる。)

彌平次 まゐつた。

段八  又負けたか、どうも弱い奴だな。

彌平次 お孃さんは手前にはどうも苦手だとみえて、殘念ながら今日も撃ち込まれた。

郡藏  貴公はお孃さんの顏ばかり見てゐるから、身體中が隙だらけで、たちまち撃ち込まれてしまふのだ。

平九郎 いや、そればかりではない。(笑ふ。)貴公がお千代さんに勝たうといふには、まだ一年以上の修業が要るな。

彌平次 なに、もう二月か三月も勉強すれば、互角の勝負までには屹と漕ぎ付けてみせますよ。

(面をはづして汗をふく。)

平九郎 はゝ、どうもみんな負け惜みの強い連中ばかりだ。併しまあ其積りで、せい〴〵勉強してくれ。

伴左衞 (同じく笑ふ。)いや、武道を磨くものには、その負けじ魂が大切だ。女に負けて恐れ入つてゐるやうではいけない。二月か三月の後といはずに、明日にもお千代に撃ち勝つ工夫をしなければならんぞ。

彌平次 かしこまりました。

(伴左衞門は坐る。彌平次は火鉢の前に戻る。お千代も鉢卷や襷を取る。)

長七  (進み出づ。)先生、お寒いことでございます。

伴左衞 おゝ、長七か。忙がしい中でよく精が出るな。

長七  仰しやる通り、このごろは商賣の方が夜も晝も忙がしうございますので、思ふやうにお稽古にも出られません。

伴左衞 この時節ではおまへの商賣の忙がしいのは當りまへだ。わたしが頼んで置いた刀のぎもなるたけ早く仕上げて貰ひたいな。

長七  職人に申付けまして、せい〴〵念を入れて磨がせて居りますから、どうぞ明日までお待ちをねがひます。

伴左衞 あの刀は先祖傳來の郷義弘だ。あれでなければ、まさかの時に思ふやうに腕をふるふことが出來ないからな。念を入れてがせてくれ。

長七  はい、はい、もう少しお稽古を拜見いたしてゐたいのでございますが、何分にも店が忙がしうございますのでこれで御免を蒙ります。

伴左衞 むゝ。おまへは町人であるから、武藝も大事だが、商賣も大事だ。忙がしい時には遠慮なく歸るがいゝぞ。(左右を憚るやうに。)こゝではくはしい事は云はぬが、ゆうべは色々の心配をかけたな。

長七  その御挨拶では恐れ入ります。では、どなたも御免ください。

(長七は伴左衞門とお千代に會釋し、更に一同にも會釋して、下のかたへ行きかゝる。)

平九郎 これ、これ、おれも二三日うちに磨ぎに遣るから、宜しく頼むぞ。

長七  いつでもお持ち下さい。

(長七は板戸をあけて去る。)

雄之助 (長七のあとを見送る。)町人にしては毎日よく精が出る。實に感心な男だな。

伴左衞 まつたく町人にしては、頼もしい男だ。それでも長七は商賣が刀屋だから、武藝に縁の無いこともないが、あの義平などは薪屋の忰でありながら、劍道執心とは面白いな。

新吾  ふだんから薪を割り馴れてゐるので、あいつの腕つ節はなか〳〵強うございます。

伴左衞 むかしから下手な劍術を薪割り劍術といふが、義平の腕前はなか〳〵薪割りではないやうだ。貴公たちも油斷してゐると、町人どもに叩きまくられるぞ。

お千代 長七さんや義平さんのほかにも、この道場へ通つて來る町人衆はまだ六七人ございますが、どの人もみな精が出るには感心して居ります。

雄之助 町人や職人までが自然に武藝を勵むといふのも、やはり時世ですな。

平九郎 たしかに時世だよ。かういふ穩かならぬ時世になつては、武士は勿論、町人でも職人でも唯安閑としてはゐられない筈だ。

伴左衞 (うなづく。)さうだ、さうだ。いざりか腰拔けならば知らず、五體滿足の人間がたゞ安閑としてはゐられない時節だ。ふだんから云つて聞かせる通り、夷狄の黒船がそれからそれへと押掛けて來て、港を開けの、交易をしろのと、得手勝手のことをいふ。それを唯一戰に撃ち攘つてしまへばよいものを、意氣地のない幕府の役人どもは、揃ひも揃つた腰ぬけばかりで、相手の云ひなり次第に、先づ神奈川の港を開く。つゞいて江戸に公使館や領事館を置いて、わが神國を夷狄に蹈みにじらせるとは何の事だ。苟くも大和魂のある者が、それを默つて見てゐられると思ふか。

雄之助 それがために櫻田門の一件も起つたのでございますが、それでも幕府はまだ眼が醒めないのでございませうか。

伴左衞 (鐵扇を握つて罵るやうに。)往來なかで天下の大老の首を取られても、まだ眼のさめないやうな奴等を相手にして、議論は無益だ。もう斯うなつたら、腰ぬけの、骨無しの、弱蟲の、意氣地無しの、徳川幕府などを頼まずに、めい〳〵の腕の力で攘夷を實行するより外はない。口の先でばかり呶鳴つてゐてはいけない。(自分の腕をたゝく。)この腕を働かせなければ駄目だ。この腕に物を云はせなければ何の役にも立たないのだ。その鬱勃たる慷慨悲憤の精神が諸人の腹の底からうづ卷きあがつて、武士は勿論、町人職人までも自然に武藝を勵むやうになつたのは、日月いまだ地に墜ちず、神州男兒の意氣衰へざる證據だと思へば、實に頼もしい。實に愉快だ。はゝゝゝゝゝ。(鐵扇をひらいて胸を煽ぐ。)

お千代 さういふお話をうかゞひますと、女のわたくし共でも何だか此の胸が躍るやうでございます。

雄之助 いつもながら先生の悲壯激越の御議論をうけたまはつて居りますと、わたくしも總身の血が沸きあがるやうに思はれます。

平九郎 貴公達でさへ其通りだ。まして拙者のやうに多年先生の御指南をうけてゐる者は、血が沸くの、胸が躍るのといふのを通り越して、腹のなかには絶えず大嵐が起つてゐて、腸が引つくり返りさうだ。(いよ〳〵激昂した樣子で。)先生、是非とも攘夷を實行してください。

伴左衞 それは云ふまでもないことだ。身不肖ながら大泉伴左衞門橘の正連まさつら、楠家相傳の軍學を教へ、あはせて劍術を指南して、世間からは由井正雪の二代目であるなどとも噂されてゐるが、拙者は決して正雪のやうな謀叛を企てるのではない。わが日本國の危急存亡を救ふがために、まごころを盡して攘夷の議論を唱へ、更にそれを實行しようと考へてゐるのだ。おまへ達もかならず思ひ違ひをしてはならんぞ。いゝか。

一同  (聲をそろへて。)わかりました。判りました。

伴左衞 判つてゐるならくどくは云ふまいが、みんなもよく覺えて置け。(更に聲を勵まして。)うか〳〵してゐると、わが日本國はほろびるぞ。それを救ふには攘夷のほかは無いのだ。

一同  はあ。

(下のかたの板戸をあけて、下總屋義平、廿二三歳、薪屋のせがれの拵へ、風呂敷づつみを抱へて出づ。)

義平  皆さん、今日は……。(一同に會釋して進み出る。)先生、お寒うございます。

伴左衞 義平、まゐつたか。町人のおまへ達はよく寒い寒いといふが、この道場では寒いの暑いのと云ふのを禁じてある筈だ。かりにも武藝を學ぶもの、殊にこの天下多事の際にあたつて、寒いの暑いのと弱いことを云つてゐられるか。なん時でも火水のなかへ飛び込むほどの覺悟がなければならない。たとひ町人でもこの道場へ足蹈みをする以上、武士のたましひを持たなければならんぞ。

義平  恐れ入りましてございます。つい口癖になつて居りますので、詰まらないことを申上げて御機嫌を損じました。なに、わたくしは些とも寒いことはございません。今までからつ風の吹く店先へ出て、襦袢一枚で松薪まつまきを二十把ほども打ち割つてまゐつたのでございます。薪割り劍術などと皆さんにひやかされますが、どうして、どうして、あたくしの腕つ節はなか〳〵しつかりしたものでございます。

平九郎 今も噂をしてゐたところで、おまへの腕の強いことは、おれ達もよく知つてゐる。お前や刀屋の長七は町人ながらも頼もしい奴だと、先生が褒めてゐられるくらゐで、それだけに又餘計の小言もおつしやるのだ。有難いと云はなければならないぞ。

義平  さう仰しやられるといよ〳〵痛み入ります。町人ながらも何かのお役に立ちますやうにと、せい〴〵勉強いたす積りでございますから、何分よろしく願ひます。

伴左衞 そこで、けふは誰と立合はせるかな。

平九郎 (雄之助に。)千島、貴公は今朝から誰とも立合はないやうだな。

雄之助 ひるまへは他出して居りましたので、唯今はじめて道場へ這入つたのでございます。

平九郎 では、丁度いゝ。貴公、この義平と立合はつしやい。

雄之助 承知しました。では、支度をしてまゐります。(下のかたに去る。)

(義平は風呂敷づつみより稽古着や袴を出して着かへる。)

伴左衞 おれはこれから急ぎの手紙を二三通書かなければならないから、しばらく奧へ行つてゐるぞ。

お千代 お手紙をお書きになりますか。

伴左衞 むゝ。神奈川の同志の者から密書が來た。京都からも來てゐる。すぐにその返事をかいて江戸表の形勢をくはしく知らせて遣らなければならないのだ。

お千代 (不審さうに。)そんなお手紙がいつ參りました。

伴左衞 (すこし口籠つて。)え、午まへに來たのだ。

お千代 わたくしは一向に存じませんでしたが……。

平九郎 いや、それは早飛脚が持つてまゐつたので、拙者がうけ取つて、すぐに先生におとゞけ申した。

お千代 (まだ不審らしく。)あの、神奈川と京都から早飛脚が……。

伴左衞 (叱るやうに。)なにも珍しがることはない。そんな密書はたび〳〵來るのだ。(起ちながら平九郎をみかへる。)平九郎、あとで鳥渡ちよつと來てくれ。

平九郎 はあ。

(伴左衞門は奧に入る。)

お千代 わたくしはこの通りの生れつきで、よく〳〵うつかりしてゐると見えまして、そんな密書がたび〳〵參ることを今まで些とも知らずにゐました。

平九郎 勿論密書の儀でござれば、それを存じてゐるのは拙者一人、先生が口外せらるゝのも今日がおそらく初めてゞござらう。(門弟等に。)貴公たちも決して他言してはならんぞ。

彌平次 (小聲で。)やはり攘夷の一件ですか。

平九郎 (意味ありげに。)時節が來れば自然にわかることだ。まあ、まあ、默つて先生にお任せ申して置け。先生には深いお考へがあるに相違ないのだ。

(義平をはじめ、門弟等は顏をみあはせて、なんとなく緊張した氣分になる。下のかたより雄之助は稽古着をつけて出づ。)

雄之助 (義平に。)お待たせ申した。

(雄之助は面籠手の道具をつける。義平も面を着ける。奧にて手をたゝく音がきこえる。)

平九郎 先生が手を鳴らしてゐられる。拙者を呼ばれたのかな。

お千代 兎も角もわたくしが行つてみませう。

平九郎 いや、拙者に相違ない。すぐにまゐりませう。

(平九郎は急いで正面の奧に入る。雄之助は道具をつけ、竹刀を持つてまん中に出る。義平も竹刀を持つて出る。)

雄之助 貴公はこのごろ大分上達したさうだから、遠慮なしに思ひ切つて撃ち込むぞ。

義平  お手柔かにねがひます。

(二人は竹刀にて撃ち合ふ。お千代と門弟等は見物してゐる。)



大泉家の奧の間。上のかたに床の間、これに「天地有正氣」と大きく書いたる掛地をかけ、時節の花を生け、軍書のやうなものも積んである。それにつゞいて菊水の紋を付けたる出入りの襖。庭には松などの立木がある。左右は建仁寺垣。


(大泉伴左衞門は軍書の卷物をのせたる机を横にし、大きい手あぶり火鉢を前にして、敷皮の上に坐つてゐる。下のかたの縁づたひに深堀平九郎出づ。)

平九郎 御用でございますか。

伴左衞 むゝ。(頤で招く。)薪屋のせがれは稽古をしてゐるか。

平九郎 千島と立合つて居ります。

伴左衞 (苦々しげに。)おれは默つて聽いてゐたが、なぜ千島などと立合はせるのだ。千島のやうな正直者は遠慮會釋なしに撃ち込むではないか。

平九郎 はあ。(頭をかく。)ついうつかりして飛んだことを致しました。刀屋のせがれには本庄を立合はせましたが……。

伴左衞 本庄が負けたか。

平九郎 はあ。

伴左衞 それでなければいけない。いつも云ふ通り、相手は町人の素人だ。なんでも弱さうな奴を出して、向うに勝たせて置けばいゝのだ。(舌打ちして。)千島の奴め、本氣になつて無暗に相手をなぐるだらうな。

平九郎 あの男のことですから遠慮なしにんなぐるかも知れません。まつたく氣のつかない事をして恐れ入りました。(少しく聲をひくめる。)そこで、あの刀屋のせがれは例の軍用金を持つてまゐりましたか。

伴左衞 ゆうべそつと持つて來た。

平九郎 (笑ひながら。)幾ら持つてまゐりました。

伴左衞 五十兩持つて來た。刀屋はなか〳〵大身代だが、長七はまだ部屋住みだから、百兩二百兩などとまとまつた金は自分の自由にはならないらしい。

平九郎 それでも五十兩ならば上出來の方でございませう。今度は薪屋の番でございますな。

伴左衞 一口に薪屋といつても、下總屋はこゝらでも古い店で、商賣も手廣くしてゐる。地所や家作も澤山に持つてゐる。殊におやぢは先頃死んでしまつて、今ではあの義平が跡取りだから、刀屋のせがれとは違つて錢金ぜにかねが自由になる。どうしても彼奴からは二三百兩ぐらゐは引き出さなければならない。その矢さきに千島のやうな奴を立合はせて、色氣もなしにぽん〳〵打んなぐらせては、どうも工合が惡いではないか。

平九郎 (いよ〳〵恐縮して。)はあ。では、これからすぐに參つて、ふたりの立合ひを止めさせませう。(起ちかゝる。)

伴左衞 むゝ。本庄を又出すわけにも行くまいから、三上を出せ。あいつは口ばかりで、腕は弱いからな。

平九郎 はい、はい。

(平九郎はあわてゝ引返さうとするを、伴左衞門は呼びとめる。)

伴左衞 待て、待て。その勝負が片附いたら、義平をこゝへよこしてくれ。

平九郎 軍用金のことはまだお話しにならないのですか。

伴左衞 このあひだも鳥渡ほのめかして置いたが、まだ本當の掛合ひには及んでゐないので、これから改めて富婁那ふるなの辯舌を揮はなければならないのだ。

平九郎 正雪の二代目といふ先生の舌三寸で、百兩が二百兩になるか。

伴左衞 おれが得意の楠流で説得して、二百兩がまた三百兩になるか。

平九郎 三百兩がまた五百兩になるか。

伴左衞 えゝ、貴樣も隨分慾張つた奴だな。

平九郎 そこが楠流のお仕込みでございます。

伴左衞 無駄を云はずに早く行け、行け。

(平九郎は早々に下のかたへ去る。)

伴左衞 (あとを見送る。)あいつ小悧口のやうで、ときどき仕損じを遣るので困る。おれの道場にゐる奴等にはどうして馬鹿が多いかな。

(奧の襖をあけてお千代出づ。)

お千代 あの、深堀さんは……。

伴左衞 平九郎は今そつちへ行つたが……。千島と義平はもう濟んだか。

お千代 はい。

伴左衞 義平が負けたらうな。

お千代 (笑ふ。)それは知れたことでございます。初めから段が違ふのですから、まるで勝負にはなりません。眞向からお面をしたゝかに撃たれて、義平さんは泣きさうな顏をしてゐました。

伴左衞 (舌打ちして。)大方そんなことだらうと思つた。千島の奴め、馬鹿正直だからな。

お千代 なにが馬鹿正直でございます。たがひに立合つた以上は眞劍勝負も同樣で、撃つか撃たるゝかの二つより外はないではございませんか。

伴左衞 理窟を云へばそんなものだが、そこには又、楠流の駈引もあるものだ。

お千代 では、わざと勝を讓つてやれとでも仰しやるのでございますか。楠流はそんな卑怯なものでございますか。

伴左衞 いや、さう云ふわけでもないが……。

お千代 では、どうして千島さんが馬鹿なのでございます。勝つべき勝負に勝つのが、なぜ馬鹿でございます。そのわけを屹と伺ひませう。

伴左衞 おれもあいつを馬鹿とは云はない。たゞ馬鹿正直な奴だと云つたのだ。

お千代 馬鹿も馬鹿正直も同じことではございませんか。

伴左衞 うるさいな。お前はなぜそんなに千島の肩を持つて、おれに食つてかゝるのだ。

お千代 さういふあなたは、なぜ千島さんを馬鹿だと仰つしやるのでございます。わたくしには其譯が判りません。

伴左衞 (じれる。)判らなければ默つてゐろ。あんな奴は馬鹿にきまつてゐる。馬鹿だ、馬鹿だ。この道場で一番の大馬鹿野郎だ。

お千代 もし、お兄いさま。

(お千代は屹となつて詰めよれば、伴左衞門はその顏をみて、急に氣がついて笑ひ出す。)

伴左衞 はゝゝゝゝゝ。まあ、さう勃氣むきになるなよ。今のは冗談だ、冗談だ。はゝゝゝゝゝ。そこで、今こゝへ薪屋のせがれが來る。

お千代 義平さんが參るのでございますか。では、わたくしは御遠慮申しませう。(つんとして起ちかゝる。)

伴左衞 いや、おまへはこゝにゐて呉れた方がいゝのだ。おれは薪屋のせがれに頼むことがあるから、お前もそばから口を添へて一緒に頼んでくれ。おまへが頼めば、あいつは屹と承知するよ。

お千代 わたくしが頼めば、どうしてあの人が承知するのでございます。

伴左衞 (意味ありげに笑ふ。)まあ、いゝから俺の云ふ通りになつてくれ。

お千代 さうして、なにを頼まうとなさるのでございます。

伴左衞 (小聲で。)實は軍用金の一件だ。

お千代 軍用金……。

伴左衞 黒船燒撃、異人館燒撃、それらの軍用金が要るではないか。

お千代 (うなづく。)あゝ、そのことでございますか。

伴左衞 何事も御國のためだ。そのつもりでお前も加勢してくれ。

お千代 (凜然として又うなづく。)はい。判りましてございます。

(お千代は俄に緊張した氣色で形をあらためる。下のかたの縁づたひに下總屋義平出づ。)

義平  先生。お呼びになりましたか。

伴左衞 おゝ、義平。もつと近く來てくれ。けふは折入つてお前に内談がある。

義平  はい。

お千代 どうぞ御遠慮なくお進みください。

義平  はい、はい。

(義平はお千代の顏を横目に見て、伴左衞門の前にゐざり寄る。)

伴左衞 (形をあらためて。)扨、ほかでもないが、かの黒船の一件だ。それはわたしからも毎々云ひ聞かせてあるから、おまへ方も萬々承知の筈だが、このごろの世のありさまを見るに、どうしてももう此儘では濟まされない。一度は大風雨を起さなければ駄目だ。近いうちに時機をみて、攘夷の手はじめに先づ異人館の燒撃を遣る。

義平  (これも緊張して。)異人館の燒撃……。

伴左衞 今だから云ふが、去年の六月、高輪の東禪寺へ斬込んだのも、みんなわたしが同志の者だ。併しあんなことではいけない。今度はもつと大がかりに遣る。

義平  もつと大がかりに……。

伴左衞 叱つ、大きな聲をしてはならない。そこで先づ江戸にある異人館を一度に燒き拂つて、それから水陸二手に分かれ、陸をゆく者は神奈川横濱へ押寄せて地雷火を仕掛ける。海をゆく者は横濱の沖へ乘り出して、そこにかゝつてゐる黒船に大筒小筒を撃ちかける。水陸挾み撃の手筈はすでに整つてゐるのだ。

義平  して、それはいつの事でございます。

伴左衞 なにを云ふにも大事の企てゞあるから、その時機をみるのが大切だ。はやまつて仕損じては、折角の苦心も水の泡となるからな。

義平  御もつともでございます。

伴左衞 したがつて、その時機はいつとも決まつてゐないが、遠からず實行する筈になつてゐる。勿論わたし達ばかりではない、ほかにも同志の攘夷家が大勢あつて、先頃から内々でその打合せをしてゐるのだ。

義平  先刻の密書といふのもそれでございますか。

伴左衞 さうだ。就ては何をいふにも先立つものは金で、その軍用金に困つてゐる。(ため息をつく。)勿論それぞれに手をまはして調達してはゐるものゝ、何分にも大仕事で莫大の金が要るからな。(相手の顏をぢつと視る。)なか〳〵思ふ半分も出來ないのだ。

義平  (同情するやうに。)さうでございませうなあ。その御苦心は幾重にもお察し申します。

伴左衞 察してくれるか。そこで、どうだらう。甚だ申しにくい儀ではあるが、何事も御國の爲だと思つて、おまへから三百兩ばかり都合してはくれまいか。

義平  三百兩……。(少しかんがへてゐる。)

(伴左衞門はお千代に眼くばせして、何か云へと指圖する。)

お千代 もし、下總屋さん。

義平  はい、はい。

お千代 今もお聞きの通りの次第で、兄も一生懸命の場合でございます。わが日の本は神の御末、その神國が夷狄に汚されるのを、唯おめ〳〵と眺めては居られません。女でこそあれ、わたくしも兄とこゝろを一つにして、御國のために何かの御奉公をいたしたいと考へて居ります。それにつけても先に立つのは軍用金のことで、わたくし共も明け暮れに心を痛めて居るのでございますから、そこをよくお察し下さいまして……。

伴左衞 われ〳〵の企ては、かの由井正雪の謀叛や大鹽平八郎の一揆などと同じやうに考へられては困る。くどくも云ふやうだが、わが日本國のために夷狄を撃ち攘ふのであるから……。

義平  判つて居ります。わかつて居ります。先生のお企てが由井正雪や大鹽平八郎と違つてゐることは、わたくしにもよく判つて居ります。そこで、唯今わたくしが考へて居りましたのは、先生の仰しやつた三百兩、そのくらゐの金では何程のお役にも立つまいかと存じますので……。

お千代 でも、三百兩といへば大金ではございませんか。

義平  勿論大金には相違ございませんが、非常の場合に三百兩ぐらゐでは……。せめて五百兩ぐらゐは差出しませんでは……。

伴左衞 え、五百兩……。(お千代と顏をみあはせる。)おまへが五百兩の金を都合してくれるか。

義平  微力ではございますが、そのくらゐのお役を勤めませんでは、わたくしの氣が濟まないやうに存じられます。先生が三百兩と仰しやるものを、こちらから五百兩にり上げましては、甚だ失禮のやうでもございますが、どうぞわたくしの心のうちも御推察下さいまして、げて五百兩の金子をお納め下さるやうに……。もし、お孃さま。あなたからも先生にお取りなしを願ひます。

伴左衞 (膝を打つて。)いや、あつぱれ見あげたこゝろざしで、伴左衞門も感服いたした。三百兩と申し出しても、あるひは百兩か二百兩に値切らるゝことかとひそかに危んで居つたところ、却つてそちらから五百兩に糶りあげるとは……。あゝ、これぞまことの大和魂。日本人は皆かうなくてはならぬことだ。拙者もおぼえず感涙に咽び申した。同志の人々も定めて滿足であらう。一同に代つて拙者からお禮申すぞ。(一禮してお千代をみかへる。)どうだ、お千代。町人のなかにも下總屋のやうな天晴れの男もある。わたしも好い弟子を持つて、同志の人々にも肩身が廣いぞ。

お千代 ほんたうに嬉しいことでございます。わたくしからもこの通り、お禮を申上げます。(手をつく。)

義平  いえ、いえ。さう仰しやられては痛み入ります。(誇るがごとく。)一寸の蟲にも五分の魂とやらで、わたくしのやうな者でも大和魂の半分ぐらゐは持ち合せて居りますよ。はゝゝゝゝゝ。

伴左衞 して、その金はいつ屆けてくれるな。

義平  どうぞ明日の夕刻までお待ちを願ひたうございます。

伴左衞 おまへを疑ふわけではないが、餘りに呑み込みが早いので……。(念を押すやうに。)これ義平。よもや間違ひはあるまいな。

義平  (笑ふ。)忠臣藏の口眞似ではございませんが、下總屋義平も男でございます。

伴左衞 いや、それで拙者も安心いたした。

お千代 かへす〴〵も有難うございます。

義平  (お千代の顏をみる。)先生をはじめ、お孃樣にまで、そんなに御叮寧の御挨拶をうけたまはりますと、五百兩はおろか、身上みんな振つても差出したくなります。

伴左衞 それは又おひ〳〵に頼むかも知れないが、差當りは約束だけの金をな。

義平  はい、はい。その御念には及びません。

(下のかたより縁づたひに平九郎が一枚の名札を持ちて出づ。)

平九郎 先生。こんな人物がまゐりました。

伴左衞 (名札をうけ取る。)山杉甚作……。はて、聞いたやうな名前だな。

平九郎 なにか内密の用件で暫時御意得たいと申すことでございます。

伴左衞 内密の用件……。(かんがへる。)まさかに留守も使へまい。兎もかくも通してみろ。

平九郎 はい、はい。(引返して去る。)

義平  お客來とございましては、わたくしはもうこれでお暇申します。

伴左衞 もう歸るか。用がなければ道場で遊んで行つたがよからう。(お千代に。)おまへは茶の支度をしろ。

(お千代は起つて奧に入る。義平はそのうしろ姿を見送つてゐる。伴左衞門は笑ひながらそれを見てゐる。義平は不圖みかへりて伴左衞門と顏をみあはせ、極りが惡さうに會釋して早々に立去る。伴左衞門はやはり笑つてゐる。やがて縁づたひに、平九郎は山杉甚作を案内して出づ。甚作は廿四五歳、ぶつ裂き羽織に小倉の袴をはき、朱鞘の大刀を持ち、少しく酒に醉つてゐる。)

平九郎 御案内申しました。

甚作  先日品川でお目にかゝつた中國の藩士、山杉甚作源の頼經でござる。(云ひながら坐に着く。)

伴左衞 おゝ、先日御意得申した山杉甚作どのでござつたか。好うこそお尋ねくだされた。その節は場所柄とて碌々と御挨拶も致さなんだが、拙者は大泉伴左衞門橘の正連、あらためてお見識みしりくだされ。平九郎、おまへも此のお方を存じてゐる筈だな。

平九郎 實はよく存じて居ります。(甚作に。)その節は飛んだ失禮をいたしました。

甚作  (笑ふ。)いや、拙者こそ散々の亂暴、重々の失禮、なんとも申譯ござらぬ。しかし場所が場所でござれば、おたがひに無禮咎めも相なるまい。はゝゝゝゝゝ。

平九郎 (笑ふ。)今日も大分御氣嫌がよいやうでございますな。やはり南の方でございますか。

甚作  南といはず、北といはず、いはゆる南船北馬といふわけで、ゆく先々を飮みあるく。これでなければ豪傑の英氣を養ふことは出來ませんぞ。いや、拙者ばかりでない。御貴殿たちが先日品川で豪遊をきはめて居られたのも、おなじく英氣を養ふ爲でござらう。違ひますかな。

(伴左衞門と平九郎は顏をみあはせて苦笑ひする。)

伴左衞 その節は武士にもあるまじき放埓惰弱の體を御覽に入れて、面目次第もござらぬ。

甚作  いや、いや、今日のやうな世の中には、放埓も結構、亂暴も苦しうござらぬ。つまりは大石内藏助の廓通ひも同じことで、いざといふ時に天下の眼をおどろかすやうな大仕事をいたせば、それで立派に武士の務は果たしたといふものでござる。

平九郎 まつたく左樣かも知れませぬな。

(奧よりお千代は茶を運びて出づ。)

お千代 (甚作に會釋して。)疎茶でございます。

甚作  いや、おかまひ下さるな。(お千代をみて。)これはなか〳〵の美人。御主人の御愛妾でござるか。

伴左衞 いや、それは拙者の妹で千代と申す不束者、お見識り置きをねがひます。

甚作  おゝ、妹御でござつたか。これは失禮。拙者は山杉甚作と申す田舍侍、今後はよろしくお頼み申す。

(甚作とお千代は挨拶する。)

甚作  就ては早速ながら御無心がござる。拙者は醉さめで喉が渇いてなりませぬ。何か大きいものに冷い水を一杯頂戴いたしたうござるが……。

お千代 はい、はい。かしこまりました。

(お千代は奧に入る。平九郎は伴左衞門の顏をみて、自分もあちらへ行かうかといふ。伴左衞門うなづく。)

平九郎 では、わたくしも暫時あちらへ參つて居りますから、御用があらばお呼びください。

(平九郎は二人に會釋して下のかたへ去る。)

甚作  道場はなか〳〵御盛んのやうでござるな。世間の噂を聞きますれば、御貴殿は劍道のほかに軍學をも指南せられ、由井正雪の二代目と謳はれてゐると申すこと。拙者も今後は何かにつけて御教授にあづかりたいと存じてをります。

伴左衞 (得意らしく。)正雪の二代目などとは及びも付かぬこと。由ない噂を立てられて、拙者も却つて迷惑して居ります。御覽の通りの町道場で、あまりに盛んと申すほどでもござらんが、天下の形勢不穩になるに連れて、このごろは武術の稽古に通ふ者が俄に殖えてまゐりました。

甚作  失禮ながらどのくらゐ御門人を御指南でござるな。

伴左衞 (傲然として。)以前は二三百人でござつたが、唯今では五百人を少々越えて居ります。

甚作  なに、五百人以上……(すこしく驚く。)それは本當でござるか。

伴左衞 武士にいつはりはござらぬ。夜も晝も拙者の道場に竹刀の音の絶え間なく、なにぶんにも手狹でござるに因つて、近いうちに町内の角屋敷を買ひ取り、道場を唯今の三倍ぐらゐに取擴げようと存じて居ります。

甚作  ふむう。(いよ〳〵驚いた體。)それはまつたく御盛んのことでござるな。して、その五百人あまりの門弟衆のうちで、素破と云ふとき先生と生死をともにすると云ふやうな者が、およそ幾人ぐらゐござるかな。

伴左衞 いづれも義氣金鐵のごとき者共ばかりでござれば、拙者が一たび采をふれば、誰も彼も皆よろこび勇んで、水火のなかへも飛び込みます。

甚作  では、五百餘人の門弟がいづれも先生と生死を倶にして、喜び勇んで水火のなかへも……。ふむう。(又もや感嘆する。)さりとはお羨ましい。御貴殿が日頃のお仕付け方も思ひやられて山杉甚作源の頼經、まことに感服仕つた。いや、恐れ入つてござる。(手をつく。)

伴左衞 はゝゝ、左樣に御賞美くだされては、拙者こそ却つて恐れ入る。どうぞお手をお上げくだされ。

(奧よりお千代は大きい湯呑みを盆に乘せて出づ。)

お千代 お冷を汲んでまゐりました。

(甚作はだまつて手をついてゐる。お千代は不審さうに兄の顏をみる。)

お千代 (小聲で。)泣いていらつしやるやうでございますね。

(伴左衞門は微笑みながら、そのまゝ置いてゆけと眼で知らせる。お千代はうなづいてそつと奧に入る。)

伴左衞 山杉氏、水がまゐつた。お飮みなされぬか。

甚作  はあ。ありがたうござる。有難うござる。

(甚作は感激の涙をぬぐひながら顏をあげて、湯呑みの水を飮む。)

伴左衞 もう一杯さし上げませうか。

甚作  いや、十分でござる。唯今のお話で醉も一時に醒めました。(形をあらためる。)さて先生。先日品川の妓樓で初めてお目にかゝつた時には、拙者も大醉、御貴殿もよほど御酩酊のやうに見受けましたが、その砌り御貴殿には盛んに攘夷の説を唱へられ、夷狄にわが國土を蹂躪せらるゝは、神州男兒の恥辱であると仰せられたことは、醉中ながら拙者はよく記憶してをります。

伴左衞 なるほど其節は、隣座敷のお手前と測らずもお心安く相成つて、醉に乘じていさゝか平生のこゝろざしを述べましたる次第、かならずお笑ひくださるな。

甚作  いや、笑ふどころではござらぬ。徳川の膝元といふこの江戸にも、御貴殿のごとき忠勇義烈の御仁が隱れてござるかと思へば、拙者は涙がこぼれるほどに嬉しうござつた。まつたく嬉しうござつた。(又もや感涙をぬぐふ。)就てはよそながら其の御樣子を拜見いたしたさに、今日突然に推參いたした處、床には文天祥の正氣の歌がかけてある。五百人の門弟は先生と生死を倶にするといふ。これにて疑ふところもなく、御貴殿の人物も確に見とゞけましたれば、あらためて拙者が胸中の祕密を打ちあけ申す。(左右をみまはす。)そこらに聽く人はござるまいて。

(伴左衞門は無言にてうなづけば、甚作は一膝すゝみ寄る。)

甚作  拙者は中國の藩中なれど、唯今は浪人の身の上、攘夷の手はじめとして品川御殿山にある異人館を燒撃いたす覺悟でござる。

伴左衞 え。お手前が……。

甚作  同志の者はわづかに五人、今宵の四つを合圖に討ち入つて、異人どもを片端より斬り倒し、その宿所をも燒き拂ふことに評議一決いたしました。

伴左衞 (いよ〳〵驚く。)あの、御殿山の異人館へ夜撃を企てらるゝと……。(わざと落付いて。)それはお勇ましいことでござるな。

甚作  もとより命を捨てゝかゝるからは、味方の多きを望むではござらぬが、五ヶ國の異人館へ五人が向ふのでは、一ヶ國一人の割合で、人數が少々不足でござる。就ては御貴殿の人物を見込んで……。

(云ひかけて相手の顏色をうかゞへば、伴左衞門はおどろいて默つてゐる。)

甚作  先生と生死を倶にするといふ五百人の門弟衆のうちから、武藝もすぐれ、心も逞しい者廿人ばかりを引連れて、なにとぞ我々に御加勢下さるまいか。

(伴左衞門は返事に困つてゐる。)

甚作  (たゝみ掛けて。)御貴殿が日ごろ唱へてゐらるゝ攘夷の御議論を、われ〳〵がこれから實行しようといふのでござる。よもや御異存はござるまいな。

伴左衞 勿論それに異存はござらんが……。

甚作  では、お聞きとゞけ下さるか。

伴左衞 先づお待ちなされ。唯今も申す通り、拙者に於ても勿論異存はござらんが、異人館燒撃の企ては……。少しく時節が早いかと思はれます。

甚作  時節が早いと申さるゝか。

伴左衞 (あわてゝ。)早い、早い。たしかに早うござる。時機到來すれば拙者も遣ります。併し今は早うござる。まして今夜などとは餘りに早まつて居ります。

甚作  しかし形勢は次第に切迫して……。

伴左衞 いや、早い、早い。

甚作  もはや一日も猶豫はなりません。

伴左衞 (いよ〳〵慌てゝ。)いや、いや、何と云はれても、早い、早い。早うござる。お手前たちは年が若いので、たゞ一圖に燥り立たるゝが、天下の大事は左樣に輕率に取扱ふべきものではござらん。大局を見るの明あるものは、今しばらく隱忍して、おもむろに形勢の變化を窺はなければなるまい。なにしろ、まだ早い、早い。お手前たちも無謀の企てはお止めなされ。

甚作  無謀の企て……。(むつとする。)では、貴殿はどうでも不承知か。われ〳〵の味方になつては下さらぬか。日ごろの攘夷論は皆いつはりか。

伴左衞 いつはりではござらんが、時節がまだ早いといふに……。お手前はどうも理窟の判らぬ御仁だな。

甚作  二口目には早い早いと、それにかこつけて逃れようとするは……。さては貴殿、口と心とは違つてゐるな。

伴左衞 (ぎよつとして。)なんでも宜しい。お手前達のやうな亂暴者と論は無益だ。お歸りください。歸らつしやい。

甚作  いや、歸るまい。これほどの機密を打ちあけて、世間に洩れたら萬事の破滅だ。どうでも不同意であるならば、拙者にも覺悟があるぞ。(朱鞘の大刀をひき寄せる。)

伴左衞 (おどろいて身がまへする。)これはいよ〳〵亂暴狼藉、言語道斷。お手前は氣でも違つたか。

甚作  馬鹿をいへ。われ〳〵攘夷の血祭に、先づ貴樣の素つ首をぶつ放すのだ。さあ、おのれ、覺悟しろ。(詰めよる。)

伴左衞 いや、どうも呆れた奴だ。

(伴左衞門も床の間の刀を取らうとする。この時、うしろの襖をあけて、お千代はうかゞひ出で、懷劍をぬいて甚作に斬つてかゝる。甚作も不意におどろいて身をかはしながら、鐵扇を把つてあしらひ、遂に懷劍を打ち落してお千代を引き据ゑる。そのあひだに、伴左衞門は刀を取つて起ちあがり、大きい聲で呼ぶ。)

伴左衞 狼藉者だ、狼藉者だ。早くまゐれ。

(甚作は舌打ちしてお千代を突き放し、縁より庭に飛び降りる。)

甚作  おのれ、卑怯者め。おぼえてゐろ。

(甚作は下のかたへ逃げかゝると、恰も庭口より千島雄之助が駈け來り、出逢ひがしらに甚作は突きあたる。)

雄之助 おのれ、曲者……。

(雄之助は組みつくを、甚作は振り放して逃げ去る。雄之助はつゞいて追つてゆく。お千代も落ちたる懷劍を拾ひて、これも庭へ駈け降りるを、伴左衞門は呼びとめる。)

伴左衞 これ、これ、どこへゆくのだ。

お千代 日ごろの修業も仇となつて、おめ〳〵とおくれを取つたのが殘念でございます。あとを追つかけて二度の勝負を致さなければなりません。

伴左衞 いや、怪我でもすると詰まらない。あんな奴は千島にまかせて置けばいゝのだ。

お千代 その千島さんに怪我でもあつては猶大變でございます。

(お千代は下のかたへ駈けてゆく。)

伴左衞 これ、待て、待て。どうも氣違ひじみた奴が多いな。

(下のかたの縁づたひに平九郎が先に立ち、津村彌平次、本庄新吾、犬塚段八、三上郡藏出づ。彌平次等四人はいづれも竹刀又は木太刀を持ち、段八と郡藏は胴と籠手を附けてゐる。)

平九郎 先生。何事が出來しゆつたいいたしたのでございます。

伴左衞 今の浪士の奴めが不意におれに斬付けようとしたのだ。

彌平次 なにか口論でもなさいましたか。

伴左衞 別に喧嘩口論をしたと云ふわけでもない。あれは亂心してゐるのだ。

四人  氣ちがひでございますか。

伴左衞 むゝ、氣ちがひだ、氣ちがひだ。

平九郎 して、あいつはどこへ參りました。

伴左衞 おれが鐵扇で眉間を一つ撃つて遣つたら、縁から轉げ落ちて這々はふ〳〵の體で逃げて行つた。

新吾  眉間を撃たれて……。縁から轉げ落ちましたか。

伴左衞 それが即ち東軍流の極意で、微塵の一手といふのだ。おまへ達に見せなかつたのは殘念であつたな。

段八  まつたく殘念でございました。

郡藏  して、相手はよほどの手利きでございましたか。

伴左衞 この道場のうちでは恐らく彼の相手に立つ者はあるまい。あれほどの腕前を持ちながら亂心するとは氣の毒なことだ。それに付けても千島とお千代はどうしたか、行つて見て來い。ふたりは彼を迫つて行つたのだ。

平九郎 左樣でございますか。それ。

(平九郎はみかへりて指圖すれば、彌平次等四人はあわたゞしく引返して去る。それを見送つて、平九郎は摺寄る。)

平九郎 先生。實のところは一體どうしたのでございます。

伴左衞 あいつ等は徒黨を組んで、攘夷の手始めに御殿山の異人館を燒撃やきうちするから、おれにも加勢しろといふのだ。

平九郎 ふむう。(顏をしかめる。)して、御承知なさいましたか。

伴左衞 途方もない、誰がそんな氣ちがひの仲間入をするものか。それをいやだと斷つたら、今度は貴樣を血祭にするといふので、おれも少し驚いたよ。

平九郎 併しお怪我が無くつて結構でした。(笑ひながら。)先生。これからは些と川岸かしをかへて、よし原の方へ乘り出さうではございませんか。品川へは兎角にさういふ亂暴ものが入り込んで、とんだ係り合ひになりますからな。

伴左衞 そればかりでなく、品川は眼と鼻のあひだで、どうも近所の噂になり易いからな。

平九郎 さうでございますよ。軍用金の使ひ途が萬一露顯した日には大しくじりですから……。

伴左衞 (下のかたを見て。)叱つ、叱つ。

(平九郎はあわてゝ口を噤む。庭口よりお千代と雄之助が引返して出づ。)

平九郎 おゝ、亂暴者はどうした。

雄之助 殘念ながら取逃がしました。

伴左衞 取逃がしたか。

お千代 わたくしは殘念でなりません。(泣く。)あんな男に不覺を取りまして……お兄い樣に合はす顏がございません。

伴左衞 (打消すやうに。)まあ、いゝ、いゝ。あんな者を相手にするな。あんな奴は逃して遣る方がいゝのだ。あれは氣ちがひだ、亂心者だ。

雄之助 お千代さんのお話では、攘夷の血祭に先生の首を取るとか申したさうで……。

伴左衞 それが氣ちがひの證據だ。攘夷家が攘夷家の首を取る……。そんな馬鹿なことがあるものか。

お千代 でも、ほんたうの氣ちがひのやうにも見えませんでしたが……。

伴左衞 いや、氣ちがひだ、氣ちがひに相違ない。おれにはちやんと判つてゐるのだ。

(庭口より下總屋義平、鉢卷き片肌ぬぎにて木太刀を持ちて出づ。)

義平  先生、亂暴者が押込んださうでございますな。

伴左衞 はゝ。騷ぐことはない。相手はもう逃げてしまつた。

義平  浪士が斬込んだと聞きまして、わたしはびつくり致しました。

伴左衞 そんなことに一々びつくりしてゐて、今の世の中が渡れるものか。浪士などが十人や二十人斬込んで來ても、東軍流の一手で……。(鐵扇で撃つ眞似をする。)みんな此の通りだ。はゝゝゝゝゝゝ。

(伴左衞門は反り返つて笑ふ。義平は鉢卷をはづして肌を入れる。)

雄之助 併しあんな奴は又出直して來ないとも限りませんから、めつたに油斷はなりますまい。

平九郎 今の先生は千金のおん身だ。用心に用心しなければなるまい。いろは歌留多にも油斷大敵と教へてあるからな。

お千代 (空をみる。)冬の曰はみじかいので、もう暮れかゝりました。今夜は庭にかゞりを焚いて、夜陣を張らなければなりますまい。

義平  では、わたくしの内から松薪を運ばせませう。お玄關先から庭先まで一面にかゞりを焚いて味方の威勢をみせて遣るがよろしうございます。

伴左衞 いや、世間の手前もあるから、むやみに騷ぎ立てゝはならない。今夜は宵から門をしめておとなしく謹愼してゐろ。たとひ何處で何事が起つても、決して駈け出してはならないぞ。

一同  (わからぬながらに。)はあ。

伴左衞 ほかの門弟にも申聞かせて、今夜は一人も表へ出るなと云へ。出ると飛んだ連坐まきぞへを受けるぞ。

一同  はあ。

伴左衞 義平も早く家へ歸れ。

義平  (よんどころなく。)はい。

伴左衞 表の門を早くしめろ。

平九郎 今からすぐに閉めますか。

伴左衞 えゝ、知れたことだ。閉めろ、閉めろ。

(伴左衞門は無暗に急き立てる。一同は煙にまかれてゐる。)

──幕──


第二幕



芝の田町、薪屋の店さき。正面は店にて、軒には下總屋と漆で書いたる看板の額をかけ、上のかたの壁には帳面が澤山にかけてある。よき所に帳場格子、店火鉢などもある。店の上のかたは出格子の窓。その下には用水桶がある。下のかたには大きい物置小屋、それに薪や炭俵が積み込んである。


(十二月初旬の午に近い頃。下總屋の若い者時助、勘八の二人は小屋の前に出て、時助は薪を割つてゐる。勘八は炭を切つてゐる。小僧仙吉は炭團を干してゐる。近所の娘おもと、おきんの二人は遊藝の稽古の歸りのこゝろにて、燕口つばくろぐちや撥などを持つて立つてゐる。煤掃きのやうな音きこゆ。)

時助  どこだ、どこだ。さつきからトンパタ遣つているのは……。さう〴〵しい奴だな。

仙吉  横町の伊勢屋だよ。

勘八  横町の伊勢屋か。あいつも變り者だな。今から煤掃きをする奴もねえものだ。

時助  ちげえねえ。江戸の煤はきは權現樣以來、十三日にきまつてゐますと云つて教へてやれ。

おもと 煤はきぢやあない、引越しよ。

勘八  引越しならあんなに叩き立てることはねえ、おらあ煤はきかと思つた。

時助  それにしても伊勢屋はどこへ引越すのだ。

おきん こゝらは品川の海に近いから、山の手の遠いところへ引越すと云つてゐてよ。

勘八  そんなに黒船を怖がることもあるめえ、そのためのお臺場が出來てゐるぢやあねえか。

おもと それでも安心は出來ないと云つて、隣町の三河屋さんでも、女や子供たちを川越かはごえの親類にあづけたと云ふわ。

おきん あたし達もどこかへ逃げて行きたいわねえ。

時助  なにしろ世間がさう〴〵しくなるのは困つたものだ。黒船は押寄せて來ねえにしても、御殿山のやうな一件があるからな。

仙吉  あの時はまつたく怖かつたな。

おもと 異人館が燃えあがつた時には、あたしは顫へてしまつてよ。

勘八  異人館へ斬込むのは、今度で三度目ださうだが、どうも惡いことが流行るものだ。

(店の奧より亭主義平出づ。それを見て若い者等はあわてゝ仕事にかゝる。義平は表へ出て下のかたを見る。)

義平  伊勢屋ではいよ〳〵引越しか。

時助  もう御存じですか。

義平  きのふそんな話をちよいと聞いたが……。(笑ふ。)品川の近所が怖いさうだ。こゝらは海に近いので、ふだんから黒船を恐れてゐるところへ、御殿山の燒撃騷ぎが始まつたので、いよ〳〵怯氣が付いて、急に引越すことになつたらしい。

勘八  今聞けば、三河屋でもおかみさんや子供を立退かせたさうですよ。

義平  氣の弱い者はずん〳〵立退くことだ。今に何事がはじまるか判らないからな。

(若い者も娘も義平の前にあつまる。)

時助  旦那。まだ何事か始まりますか。

義平  始まらないとは限らない。いや、屹と始まるに相違ない。このあひだの御殿山の燒撃どころぢやあない。(得意らしく笑ふ。)もつと度偉い騷ぎが出來しゆつたいするかも知れないぞ。

一同  (顏をみあはせる。)さうでせうか。

義平  浪士の五人や十人で異人館へ斬込んだところが何うなるものか。

勘八  それでも異人は驚くでせうな。

義平  おどろくかも知れないが、そのくらゐのことでは日本人のほんたうの腕前をみせるわけには行かない。江戸の異人館なんぞを燒いたところで、多寡が知れてゐる。横濱にある異人館を片つ端からみんな燒き拂つてしまつて、それから沖にかゝつてゐる黒船を燒撃ちするのだ。それでなければ、本當の攘夷が出來るものか。

時助  さうなるといくさですね。

義平  (だん〳〵亢奮して來る。)今もいふ通り、五人や十人で斬込むのとは譯が違つて、何百人が水陸二手にわかれて押寄せるのだからな。地雷火を仕掛ける、鐡砲をうち掛ける、火をつける。その火のなかをくゞつて、槍や刀で攻め込んで行く。その勇しいこと、考へても身體がぞく〳〵するやうだ。

勘八  萬一そんなことが出來したら大欒ですね。

義平  なにが大變だ。さうなるのが本當だとは思はないか。下總屋義平が男をみせる時節が來るのだ。(笑ふ。)それを思ふと、赤橞義士の討入りなどは仕事が小さい。まるで子供だましのやうなものだな。はゝゝゝゝゝ。

(時助と勘八は顏をみあはせてゐる。仙吉進み出づ。)

仙吉  旦那。向う横町の烟草屋で炭團を持つて來てくれと云つてゐました。

時助  さうだ。わたしも忘れてゐた。横町の鐵物屋かなものやでも堅炭を五俵持つて來いと云ふことでした。

義平  よし、よし。堅炭でも佐倉でも、炭團でも消炭でも、なんでも勝手に背負つてけ、持つてけ。かういふ時節になつたら、商賣の損徳なんぞを考へてゐる暇はないのだ。(娘等に。)おまへ達も幾ら町家の娘つ子だからと云つて、この時節に燕口なんぞをかゝへて、遊藝のお稽古に通つてゐると云ふことがあるものか。わたしの先生の道場へ行つて、ちつと薙刀の稽古でもしたらどうだね。

おもと あら、いやだ。ねえ、おきんちやん。

おきん あたし達に劍術のお稽古なんぞ出來やあしないわ。

義平  なに、出來ないことがあるものか。先生の妹さんなんぞは年は若し、容貌きりやうは好し、それで薙刀でも竹刀でも免許皆傳で、大抵の男はかなはないのだからな。

おもと そりやあ劍術の先生の妹ですもの、強いのは當り前だわ。

おきん あの人は内弟子の若い人とよく一緒にあるいてゐるわ。

義平  (聞きとがめる。)先生の妹さんが内弟子の若い男と一緒にあるいてゐる。その相手はなんといふ男だね。

おもと なんといふ人だか知らないけれど、あたしも見たことがあるわ。色の白い、好い男の人よ。

おきん ゆうべも横町の暗いところで、寒い風に吹かれながら二人で内所話をしてゐたわ。

義平  むゝ。(かんがへる。)その相手は千島だらうな。さうだ、さうだ。きつと千島に相違ない。どうも二人の樣子がちつと可怪しいと思つてゐたら、やつぱりさうであつたのか。(舌打ちして。)いま〳〵しい畜生だ。

おもと あら、そんなに怒ることはないぢやあありませんか。

おきん おまへさん、やきもちを燒いてゐるの。をかしいわねえ。

二人  はゝゝゝゝ。

義平  (氣がついて、苦笑ひする。)なに、やきもちを燒くといふわけぢやあないが、行儀のきびしい大泉先生の道場で、そんな不埓を働くとは怪しからぬことだ。

おきん 不埓だか何だか判らないが、たゞ立話しをしてゐただけのことよ。

義平  その立話しが不埓だといふのだ。男と女が暗いところで立話しをしてゐるなどといふのは確かに不埓だ、不埓千萬だ。

(義平の樣子が惡いので、娘等は顏をみあはせる。)

おもと あんまりおしやべりをしてゐるといけないから、あたしもう歸るわ、左樣なら。

おきん さよなら。

(娘ふたりは早々に下のかたへ立去る。)

仙吉  先生のところの千島さんといふ人が、お孃さんと一緒にあるいてゐるのを、わたしも見たことがありますよ。

義平  おまへも見たか。相手はいよ〳〵千島だな。

仙吉  たしかに千島さんでした。

時助  いくら先生の妹でも、もう年ごろの娘だからな。

勘八  それに、あの千島といふ人は、先生の道場では一番好い男だから、さうなるのが當りまへかも知れないよ。

義平  (ひとり言のやうに。)當りまへかも知れない。併し先生はおそらく御存じあるまい。(また思ひ直して。)えゝ、勝手にしろ、勝手にしろ。そんなことは大事のまへの小事だ。女のことなどに屈託して、天下の大事を忘れてはならない。下總屋義平は男をみがけば好いのだ。

(義平はひとり言のやうに云ひながら奧に入る。)

時助  (笑ふ。)旦那の忠臣藏が又始まつたぜ。

仙吉  (臺詞のやうに。)下總屋義平は男でごんす。

勘八  大きな聲をすると、奧へきこえるぞ。馬鹿な奴だ。

時助  しかし旦那の劍術氣ちがひにも困つたものだな。

勘八  それが此頃はだん〳〵に嵩じて來て、異人館燒撃がどうだとか、斯うだとか途方もねえことを云ひ出すぢやあねえか。

時助  冗談にもそんなことを云つて、世間へきこえたら飛んだ目に逢ふぜ。どう考へても困つたものだ。

(上の方より刀屋のせがれ長七、風呂敷につゝみたる二三本の刀を持つて出づ。)

長七  お寒うございます。

時助  毎日空つ風が吹いて困ります。

長七  旦那は……。道場ですか。

勘八  いゝえ、内にゐます。まあ、おかけなさい。(店口から呼ぶ。)おい、おとよどん。おとよどん。

(女中おとよ、奧より出づ。)

勘八  刀屋の若旦那が入らしつたと、旦那にさう云つてくれ。

おとよ はい、はい。(奧に入る。)

時助  ぢやあ、おれも鐵物屋へ堅炭をとゞけて來るかな。

勘八  おれも手傳つて遣らう。(仙吉に。)おまへも早く烟草屋へ炭團を持つて行け。

仙吉  あい、あい。

(仙吉は炭團を笟に入れて、下のかたへ去る。時助と勘八は小屋に入りて炭俵を持ち出す。奧より義平出づ。)

義平  今日は……。この頃はお忙がしいでせうね。

長七  むやみに忙がしくつて困ります。けふもこれからお出入先を二三軒廻らなければなりません。だん〳〵に寒くなつて、こちらの御商賣も忙がしいでせう。

義平  なに、商賣なんぞが忙がしくつても閑でも構ひません。天下の大事が胸一杯につかへてゐるので、十露盤そろばんなんぞを彈いてゐる氣にはなれませんよ。

(時助と勘八は炭俵をかつぐ。)

二人  ぢやあ、ちよいと行つて來ます。

長七  御苦勞ですね。

(時助と勘八は炭俵をかついで、下のかたへ去る。奧よりおとよは茶を持つて出づ。)

おとよ いらつしやい。

(おとよは茶をすゝめる。長七は默禮する。おとよはそのまゝ奧に入る。)

義平  これから道場へお出でなさるのかえ。

長七  實はその事で少し御相談に來たのですが……。(左右を見まはす。)おまへさんは先生のところへ軍用金をお納めになりましたか。

義平  納めました。おまへさんもお納めになつたさうですね。

長七  わたしは五十兩おとゞけ申しました。

義平  五十兩……。(少いといふやうな顏をする。)わたしは五百兩納めましたよ。

長七  五百兩……。(おどろく。)そんなに納めましたか。

義平  先生は三百兩といふお話でしたが、こつちから糶り上げて五百兩にしました。なにしろ大がかりの仕事ですからね。莫大の軍用金も要りませうよ。わたしも何とか都合して、そのうちにもう少し納めたいと思つてゐます。

長七  (かんがへる。)併し先生は深堀さんやお弟子たちを連れて、品川や吉原で毎晩のやうに全盛遊びをしてゐると云ふぢやあありませんか。

義平  (うなづく。)それはわたしも知つてゐますが、世の中が引つくり返るやうな大仕事を目論んでゐるんだから、些とぐらゐの氣晴しは仕方がありますまい。お弟子達だつて、みんな命がけで懸つてゐるんですからね。

長七  さう云へばさうですが……。(又かんがへる。)わたし達ばかりでなく、攘夷の軍用金と名をつけてほかのお弟子達からも取立てゝゐるさうですね。

義平  (又うなづく。)ほかのお弟子達だつて、都合の出來る人はみんな出すがようござんすよ。それが本當ですよ。(云ひかけて少し考へる。)お前さんは何か先生を疑つてゐるんですかえ。

長七  疑ふと云ふわけではありませんが……。この頃は先生の遊び方が少し激しいので……。

義平  (笑ふ。)まあ、まあ、長い眼で見ておいでなさい。大石内藏之助を疑つた人達は、あとで恥をかきましたよ。はゝゝゝゝゝ。お前さんも用を片附けて早く道場へおいでなさい。わたしも午飯を食ふと、すぐに行きますから。(奧にむかつて呼ぶ。)おい、おい。

おとよ はい、はい。

義平  もう午飯の支度は出來たかね。

おとよ もう出來て居ります。

長七  (起ちあがる。)ぢやあ、わたしも行きませう。

義平  追ひ立てるやうでお氣の毒ですが、どうも此頃はおちついてゐられないので……。(おとよに。)さあ、早く膳を出してくれ。

おとよ はい、はい。(奧に入る。)

長七  どうもお邪魔をしました。

義平  御めんなさい。

(義平は早々に挨拶して奧に入る。長七はかんがへながら下のかたへ行きかゝり、ふと向うを見て思案し、引返して小屋のなかに隱れる。向うより大泉伴左衞門が先に立ち、深堀平九郎、津村彌平次、本庄新吾、いづれも醉ひて出づ。)

平九郎 天氣は好いが、風がなか〳〵寒うございますな。

伴左衞 取分けこの冬は空つ風が吹くやうだな。こゝまで來るうちに酒の醉も大抵醒めてしまつた。

彌平次 (笑ふ。)それで丁度いゝかも知れません。道場の近所へ來て、あんまり赤い顏をしてゐるのは、些と極まりが惡いやうですからな。

新吾  近所ばかりでなく、留守番の奴等にもそねまれますよ。はゝゝゝゝゝ。

(四人は店さきを通りかゝる。)

伴左衞 亭主は店にゐないやうだな。

平九郎 朝から道場へ詰めかけてゐるのかも知れません。

伴左衞 さういふ氣ちがひも無くては困る。あいつが軍用金を奉納してくれたので、先づ當分は遊べるといふものだ。

平九郎 (店の方をみかへりながら。)先生……。(伴左衞門の袂をひく。)

伴左衞 (頓着せず。)併しゆうべは何うも面白くなかつたな。

新吾  やつぱり遊び馴れたせゐか、吉原よりは品川の方が居心がいゝやうでございます。

彌平次 そんなことを云ふとお里が知れるぞ。はゝゝゝゝゝ。

伴左衞 本庄のいふ通り、やつぱり品川の方が居心がいゝやうだ。吉原で寒さうな冬がれの田圃をながめてゐるよりも、品川の廣い海を見晴らした方が、どうも清々して氣分がはつきりするではないか。深堀はどうだな。

平九郎 遊びと名が付けば、どつちでも惡くはありませんが、このあひだのやうな事もありますから、先づ當分は南の方角を避けた方が無事らしうございます。

(店の奧より義平の母おかめ、四十餘歳、出づ。)

おかめ おゝ、先生ではございませんか。

伴左衞 おふくろか。せがれはどうしたな。

おかめ 義平は奧で御飯を頂いてをります。呼んでまゐりませうか。

平九郎 いや、別に用もないのだ。(促すやうに。)先生、まゐりませう。

伴左衞 こゝで水を一杯貰つて行かうかな。

おかめ お冷でございますか。

平九郎 いや、いや、道場はすぐそこだ。先生。家へ歸つてからゆつくり召上るが好うございます。

伴左衞 ひどく氣ぜはしない男だな。

(平九郎は彌平次と新吾に眼くばせして、早く先生を連れてゆけといふ。ふたりも心得て進みよる。)

彌平次 さあ、まゐりませう。

新吾  まゐりませう。

伴左衞 えゝ、うるさい奴等だ。

(三人にせき立てられて、伴左衞門は上のかたへ行きかゝる時、下のかたより山杉甚作出づ。)

甚作  先生……。大泉先生……。

伴左衞 誰だ、誰だ。(みかへる。)おゝ、お手前は……。

(伴左衞門はおどろく。平九郎も甚作をみて驚きながら身がまへする。)

甚作  (笑ひながら。)いや、先日は飛んだ失禮をいたして、何とも申譯がござらぬ。實はそのお詫ながら參上いたす途中、こゝでお目にかゝつたのは仕合せでござつた。

伴左衞 (油斷せず。)なに、詫に來る……。あれほどの狼藉をはたらいて、唯一通りの詫や挨拶で濟むと思はつしやるか。第一、お手前のやうな人物に屡〻出入りをされては、拙者甚だ迷惑だ。足ぶみは屹とお斷り申すぞ。

甚作  (やはり笑つてゐる。)御迷惑は萬々察して居りますが、先づ先日のおわびを篤と申述べた上で、更に少々御無心申上げたい儀がござるので……。

伴左衞 無心がある……。(相手を屹と睨む。)扨はお手前、又もや拙者の首を取りに來たのか。

(伴左衞門は刀の柄に手をかける。平九郎は彌平次に眼くばせして、いづれも鯉口をくつろげる。)

甚作  いや、いや、その御用心は御無用。今日拙者が御無心申すのは、大泉先生の首ではござらぬ。

伴左衞 では、なんの無心だ。

甚作  往來中では些と申しにくい儀でござるが……。(左右をみまはして、少しく聲を低める。)實は軍用金の御分配にあづかりたいのでござる。

平九郎 なに、軍用金を分配しろ。

甚作  (笑ふ。)これだけ申せば、先生にはよくお判りの筈だ。この上にくどいことは申すに及ばぬ。先生も拙者も一つ穴の貉だと御承知くださればよいのでござる。あはゝゝゝゝ。

(伴左衞門は相手の顏をながめて考へてゐる。甚作は笑ひながら進みよる。)

甚作  まだ御疑念が晴れぬとあれば、もう少し詳しく申しませうか。

伴左衞 いや、判つた、判つた。

甚作  おわかりになりましたか。

伴左衞 むゝ。(笑ふ。)お手前の正體も大抵は判つたやうだ。

甚作  御安心なされたか。はゝゝゝゝゝ。

伴左衞 はゝゝゝゝゝ。

平九郎 (不安らしく。)先生……。

伴左衞 まあ、いゝ。(甚作に。)さあ。兎も角もお越しなされ。

(伴左衞門は先に立つてゆく。彌平次と新吾はまだ不安らしく甚作を取圍んでゆく。)

平九郎 (あとに殘りて考へる。)して見ると、あいつもやつぱり食はせ者かな。どうも油斷のならないことだ。

(平九郎は人々のあとを追つて上のかたへ去る。おかめは始終無言で見送つてゐる。小屋の内より長七も伸びあがりて見送る。下のかたより八町堀同心野澤喜十郎、手先ふたりを連れて出づ。手先の一人は長七に眼をつけて喜十郎にさゝやく。喜十郎うなづいて指圖すれば、手先は長七に聲をかける。)

手先甲 もし、おまへさんは刀屋の備前屋さんだね。

長七  左樣でございます。

手先乙 旦那が御用と仰しやるのだ。

長七  はい。

喜十郎 おまへは備前屋のせがれ長七だな。丁度好いところで逢つた。すこし調べることがあるから番屋まで來てくれ。

長七  どんなお調べでございませうか。

喜十郎 べらばうめ。御用の調べ事が往來で出來るものか。貴樣はいざりぢやああるめえ。二本の足でずん〳〵歩いて來い。ぐづ〳〵してゐると繩を打つぞ。

手先  さあ、來い、來い。

(喜十郎は先に立ち、手先ふたりは長七を圍みて、奧のかたへ引返して去る。おかめは驚いてあとを見送つてゐる。奧より義平出づ。)

おかめ お前、刀屋さんが自身番へ連れて行かれたよ。

義平  長さんが番屋へ……。誰が連れて行きました。

おかめ 八丁堀のお役人のやうだつたよ。

義平  なんだらうな。(考へる。)どんな樣子か、ちよいと行つて覗いて來ませう。

(義平は出て行かうとするを、おかめは引きとめる。)

おかめ うつかり行つて係り合になるといけないよ。

義平  なに、大丈夫です。

(義平は振切つて出てゆく。)



第一幕の道場。


(お千代は鉢卷、襷がけにて薙刀を持ち、千島雄之助は稽古着に道具をつけて竹刀を持ち、稽古をしてゐる。やがて二人はうなづき合ひて稽古をやめ、左右をみまはして進みよる。)

雄之助 (小聲で。)誰もゐないやうです。稽古はこのくらゐにしませう。

(お千代はうなづいて鉢卷を取る。雄之助も面を取りて顏の汗をふく。)

お千代 そんなに汗が出ましたか。

雄之助 あなたと立合ふのですもの、どんな寒い日でも汗が出ますよ。油斷をしてゐたら、向ふ脛を手ひどく掻拂はれますからね。

お千代 なんであなたにそんな事をするものですか。大丈夫ですよ。あなたこそわたしを憎がつて隨分ひどくお撲ちなさる事がありますよ。

雄之助 それは先生や深堀さんの見てゐる時だけのことですよ。ほかに誰もゐないときに何でそんなあらつぽいことをするものですか。

お千代 どうだか當てになりませんわ。

(二人は仲よく寄添つて、上のかたの高いところに腰をかける。)

お千代 この二三日は急に寒くなりましたね。

雄之助 なにしろもう十二月の聲を聞いたのですから、このくらゐの寒さが本當でせうよ。この空模樣では近いうちに雪かも知れません。歳の暮に積られると、出這入りが不便で困ります。いくら世の中がさう〴〵しいからと云つて、道普請ぐらゐしたら好さゝうなものだが、どこの町内でも此頃はちつとも構ひませんからね。

お千代 まあ、そんなことは何うでもいゝぢやあありませんか。それよりも千島さん。大變なことがありますの。

雄之助 大變な事……。なんですか。(云ひかけて氣がつく。)あ、誰か來たやうです。

お千代 あら、誰か來ましたか。

(二人はあわてゝ道場のまん中に出て、薙刀と竹刀を取り、掛け聲をしながら二三度撃ち合つて又やめる。)

お千代 誰も來やあしませんわ。

雄之助 來ないやうですね。はゝ、なんのことだ。

(二人は左右をうかゞひて、笑ひながら再び腰をかける。)

雄之助 そこで今のお話の大變とは、どんなことです。浪士でもまた斬込みましたか。

お千代 いゝえ、そんなことぢやありません。千島さん。(摺寄る。)あなたとわたしとの祕密を、兄が薄々感付いたらしいのです。

雄之助 先生が感付いた……。(案外おちついてゐる。)さうかも知れませんよ。先生だつて盲でも聾でもないのですからな。

お千代 おまへが何かにつけて千島を庇ふのはどうも可怪い。正直に白状しろと云つて、兄がわたしを責めるのです。

雄之助 そこで、あなたは白状しましたか。

お千代 どうして白状出來るものですか。わたしはあくまでも知らないと云ひ切つてゐるのです。

雄之助 (笑ふ。)いつそ思ひ切つて白状したらどうです。先生も却つて安心なさるかも知れない。

お千代 なんで安心するものですか。物堅い兄のことですから、どんなに立腹するか判りません。

雄之助 立腹なされば丁度幸ひです。

お千代 あなたは破門、わたしは勘當されるかも知れません。

雄之助 (いよ〳〵平氣で笑ふ。)あなたは勘當、わたしは破門、さうなればいよ〳〵結構で、願つたり叶つたりですよ。

お千代 (呆れたやうに男の顏をみる。)あなた、どうかしたのですか。

雄之助 なぜです。

お千代 (用心するやうに起ち上る。)あなた、なんだか變ですわ。氣でも違つたのぢやあありませんか。

雄之助 冗談云つてはいけません。かう見えても、あなたよりは氣はたしかです。あなた達の方がばかされてゐるのですよ。

お千代 何に化かされたのです。

雄之助 (又笑ふ。)この道場に巣を作つてゐる古狸と古狐……。まあそんなものでせうな。

お千代 古狸と古狐。

雄之助 あなたはどうも正直だからいけない。この道場は化物屋敷と心得てゐれば好いのですよ。はゝゝゝゝゝ。

お千代 (俄に下のかたを見る。)あら、だれか來たやうですよ。(薙刀を把り直して出る。)

雄之助 まあ、よろしい。先生に感付かれた以上は、もうびく〳〵することはありません。そんな芝居は止しにして、まあこゝへお掛けなさい。少し御相談することがありますから。

(お千代はまだ不安らしく奧のかたを窺ひながら、再び腰をかける。)

雄之助 御承知の通り、世の中がだん〳〵騷がしくなつて來たので、幕府では別手組といふものをこしらへて、旗本や御家人の次三男を新規にお召抱へといふことになりました。

(お千代はうなづく。)

雄之助 おかげで冷飯食ひの次三男が食ひ扶持にありつけると云ふわけで、わたしも近いうちに別手組お召抱へを願ひ出ようと思つてゐるところでした。さうなれば、先生に破門されても、こゝの道場を放逐されても、驚くことはありません。あなたも勘當されゝば幸ひです。二人が手を引かれてこゝを出て行かうではありませんか。

お千代 (かんがへる。)そりやもう、一緒になりたいのは山々ですけれども……。御國のために苦勞してゐる兄を見捨てゝ、このまゝこゝを出て行くのは、どうも濟まないやうな氣もしますので……。

雄之助 それだから化かされてゐると云ふのですよ。眉毛に唾でも附けて、まあ、お聽きなさい。

(雄之助はお千代にさゝやく。お千代は一々おどろいて聽いてゐる。このあひだに、奧の襖をあけて大泉伴左衞門出で、ふたりの樣子をうかゞつてゐたるが、やがてだしぬけに呶鳴りつける。)

伴左衞 これ、なにをしてゐるのだ。

(ふたりはびつくりして飛び退く。)

雄之助 おゝ、先生でござりましたか。

伴左衞 なにが先生だ。貴樣のやうな奴に先生と呼ばれては迷惑千萬だ。けふかぎり破門するぞ。

雄之助 (おどろきもせず。)わたくしを破門すると仰しやいますか。

伴左衞 勿論のことだ。仔細は一々云ふにも及ぶまい。貴樣は早々にこの道場を出て行け。お千代は一間に押籠めて窮命するから、さう思へ。

雄之助 わたくしの破門は致し方がございませんが、不義の御成敗ならばお千代さんも一緒に御勘當をねがひませう。わたくしだけ逐ひ出されるのは片手落ちでございます。

伴左衞 えゝ、やかましい。貴樣にそんな指圖をうける覺えはない。お千代はおれの妹だから、おれが勝手に仕置をするのだ。貴樣はだまつて早く立去れ。

雄之助 いや、片手落ちのお捌きではわたくし飽までも不承知でございます。あたくしを逐ひ出すならば、お千代さんも御勘當をねがひます。(お千代に。)さあ、あなたも支度して一緒にお出でなさい。

伴左衞 お千代。おまへは一足も動くことはならんぞ。兄が大勢の弟子を取立てゝ、まさかの時には御國のためにつくさうとしてゐるのを、おまへは豫て知つてゐる筈ではないか。その兄の手助けをしようともしないで、内弟子の一人と不義密通をはたらくとは、なんたる心得違ひだ。

雄之助 (笑ふ。)さう仰しやる先生が深堀さんを始めとして、大勢の弟子たちを代る〴〵に引き連れて、三日にあげず品川や吉原へお乘り出しになるのは、どう云ふお心得でございます。わたくしは馬鹿正直と札附きにされて、みんなから仲間はづれにされてゐるので、一度もお供をしたことはありませんが、なんでも金錢を湯水のやうに撒き散らして、大盡遊びをなさると云ふことでございますが……。

伴左衞 おれの遊蕩は別に仔細のあることだ。大石内藏之助が祇園島原撞木町に遊興したのは、一方には世間の眼をくらまし、一方にはおのれの英氣を養ふためだ。燕雀焉んぞ大鵬のこゝろざしを知らんとはこの事で、貴樣たちのやうな小人ばらに英雄豪傑のこゝろざしが判ると思ふか。馬鹿な奴め。

雄之助 正雪の二代目といふ先生の道場にまゐつて、あしかけ二年苦んだお蔭で、その英雄豪傑のこゝろざしと云ふものが、わたくしにもよく判つて來ました。英雄豪傑といふのは、心にもない議論を吐いて、世間を瞞着して軍用金を澤山にかき集めて、自分の道樂に使ひ捨てることを云ふのです。

伴左衞 (すこし慌てゝ。)なんだ、なんだ。怪しからぬことを申す奴だ。もう一度云つてみろ。

雄之助 (又笑ふ。)幾度云つても同じことです。破門になつた以上、わたくしはもうお暇申します。(起ちあがる。)先生。歸り際にたゞ一言申上げて置きます。軍用金ももう隨分お取立てになりましたらうから、先生がお得意の攘夷論もこゝらで大抵打止めになすつた方が宜しからうかと存じます。どうも長々御厄介になりました。では、お千代さん。

(雄之助はお千代に眼で知らせて、奧のかたへ立去る。お千代は薙刀を羽目にかける。)

伴左衞 (あとを見送つて罵る。)あいつ、途方もないことを云ふ奴だ。これ、これ、お千代。おまへはよもやあんな奴と一緒に出て行きはしまいな。

お千代 お兄いさま。千島さんの云つたことは本當でございますか。

伴左衞 な、なんで本當なものか。一から十までみんな嘘だ。あいつめ、だしぬけに破門を申渡されたので、氣が顛倒して、眼が眩んで、口から出まかせの囈語たはごとをいふのだ。熱に浮かされた病人もおなじことで、相手にならない。あんな奴の云ふことを眞面目に聽いてはならないぞ。

お千代 英雄豪傑といふのは、心にもない議論を吐いて、世間の人を瞞着して、軍用金を澤山に取りあつめて、自分の道樂に使ひ捨てるのを云ふのださうでございます。

伴左衞 (呶鳴る。)うそだ。嘘だ。あいつの云ふことは皆んな嘘だ。それがおまへには判らないか。あんな狐や狸のいふことを眞面目に聽いてはならないと云ふのに……。

お千代 どつちが本當の狐か狸か。わたくしには正體が判らなくなりました。まあ、奧へまゐつてゆつくりと考へてみませう。

(お千代は兄に會釋して、下のかたへ立去る。)

伴左衞 (かんがへる。)腹立ちまぎれに破門を云ひ渡したが、かうなると千島の奴めを無暗に逐ひ出すのも考へものだぞ。むゝ、さうだ、さうだ。

(伴左衞門は俄に起つて下のかたへ行かうとすれば、出合ひがしらに深堀平九郎出づ。)

平九郎 おゝ、先生。千島を破門なすつたのでございますか。

伴左衞 お千代と不義を働いたので、一旦は破門を申渡したのだが……。まだ立去りはしまいな。

平九郎 内々で支度をしてあつたものと見えまして、手早く荷物を取りまとめて居ります。

伴左衞 では、いよ〳〵油斷がならない。あいつに少し云つて聞かせることがあるから、もう一度こゝへ連れて來い。

平九郎 こゝへ連れてまゐりますか。當人はすぐに立去るやうに云つて居りますが……。

伴左衞 (せいて。)それだから早く連れて來いといふのだ。あいつ何うも見拔いたらしいからな。

平九郎 なにを見ぬきました。

伴左衞 英雄豪傑とは、こゝろにもない議論を吐いて、世間の人を瞞着して、軍用金をかき集めるのだなどと平氣で云ふのだ。

平九郎 (おどろく。)あいつがそんな事を云ひましたか。ふだんから馬鹿正直だと思つて油斷してゐたら……。それは怪しからん。實に案外でございました。

伴左衞 それだから迂濶にあいつを放逐するのも少し不安心になつて來た。無暗なことを世間へ吹聽されては困るからな。

平九郎 困ります、困ります。大困りでございます。では、破門の一件は無論にお取消しでございませうな。

伴左衞 むゝ、取消しだ、取消しだ。早く行け。

平九郎 はい、はい。(早々に引返して去る。)

伴左衞 どうもおれが些とまづかつたな。千島の奴め。おれの前でも平氣であんなことを云ふやうでは、お千代にも何を云つて聞かせたか判らないぞ。念のためによく詮議して置かなければならない。これ、お千代……お千代。

(伴左衞門は奧へ行かうとすれば、出合ひがしらに襖をあけて、山杉甚作出づ。)

甚作  先生。いつまで拙者を待たせて置くのでござる。

伴左衞 おゝ、山杉氏……。實は少々こちらに取込みがござつて、まことに失禮をいたした。さあ奧へお越しなされ。

甚作  いや、こゝで結構でござる。(坐る。)うけたまはれば何かお取込みがあるといふ、その最中に長居はお邪魔、早速用談に取りかゝりますが、かの軍用金のわけ前の一條、お聞き入れ下さるか。

伴左衞 では、貴公。異人館燒撃などと云つたのは嘘か。

甚作  お察しの通り。(笑ふ。)御貴殿は堂々たる門戸を張つて、軍學劍術指南の看板をかけてゐる先生、殊に軍學は正雪の二代目とも云はれてゐるので、おなじ嘘をついてもすぐに信用する。軍用金も忽ちあつまる。それに引きかへて我々のやうな痩浪人は、なにを云つても取合ふ者もなく、旨い酒も容易に飮まれぬといふ始末。あまりお羨ましいので、つい一と狂言かきました。

伴左衞 この間はあんなことを云つて、拙者を試しに來たのだな。

甚作  失禮は幾重にも御免ください。併し迂濶に冗談も云へないもので、あれから四五日過ぎると、ほんたうに御殿山の異人館に火をつけた奴があつたには少し驚きました。

伴左衞 實は貴公等の仕業であらうと推量してゐたのだが……。さうすると、貴公はあの一件にかゝり合ひ無しか。

甚作  どうして、どうして、あんなことに係り合ふほどの度胸はありませんよ。はゝゝゝゝゝ。

伴左衞 そこで貴公は幾ら呉れといふのだ。

甚作  さあ、百兩ばかり……。如何でせう。

伴左衞 (首をふる。)いけないな。

甚作  では、七八十兩……。

伴左衞 いけないな。

甚作  では、ぎり〳〵のところで五十兩……。それでも御不承知か。

(伴左衞門はだまつてゐる。)

甚作  それでも御不承知とあれば致し方がない。尾羽うち枯らしても山杉甚作源の頼經。貴殿から二十兩や三十兩は貰ひたくない。

伴左衞 (見縊つたやうに。)貰ひたくなければ、この相談は止めたらどうだな。

甚作  その代りに、大泉先生の攘夷論は口ばかりで、あれは僞者でござる。食はせ者でござると、大きな聲で世間を呶鳴つてあるきますぞ。(笑ふ。)まあ、喧嘩は止めにして、おとなしく五十兩お貸し下さい。

伴左衞 五十兩は高いな。

甚作  では、幾らと云はれるな。

伴左衞 先づ、三十……五兩ぐらゐかな。

甚作  三十五兩……どうも勘定が惡いな。ではせめて四十兩に願ひたい。それで拙者も往生します。

伴左衞 その往生際がよくないな。

(伴左衞門は焦らすやうにまだ澁つてゐる。奧のかたより下總屋義平出づ。)

義平  先生。(云ひかけて、甚作を見て躊躇する。)

伴左衞 なんだ。

(義平はやはり躊躇してゐる。)

伴左衞 なにか急用か。

義平  はい。

甚作  それでは拙者は暫時御遠慮いたさうか。

伴左衞 氣の毒だが、もう一度奧でお待ちください。

(甚作は澁々ながら奧に入る。)

義平  (聲を低めて。)先生。一大事でございます。備前屋のせがれが番屋へ連れて行かれました。

伴左衞 長七が自身番へ連れて行かれた。それはどうしたのだ。

義平  なんだか不安でございますから、わたくしもあとを追つて行つて番屋のかげでそつと樣子を窺つてをりますと、町人の身分で何で大泉の道場へ出入りをするのだといふ詮議でございます。

伴左衞 町人でも武藝を習ふものは此頃幾らもある。それをなんで詮議するのだ。

義平  先づその詮議から始まつて、それからだん〳〵に先生の詮議に取りかゝると、長七も意氣地のない奴で、色々のことを饒舌つてしまひまして、攘夷の軍用金として下總屋義平は五百兩納めたの、自分は五十兩納めたの、誰々は幾ら出したのと、みんなべら〳〵と申立てたのでございます。

伴左衞 仕樣のない奴だな。

義平  このあひだの晩、御殿山の異人館へ火をつけたのは先生達の仕業と睨んでゐるとみえまして、役人は頻りにそれを詮議してゐました。

伴左衞 (罵るやうに。)そんな事をおれが知るものか。ばか〳〵しい。

義平  それは御存じないとしても、一方の企てが露顯いたしましては一大事でございます。先生はどうなさいます。

伴左衞 一方の企て……。(義平の顏を見て、やゝ曖昧に。)むゝ、それは少し困るな。

義平  かうなつたらよもや無事では濟みますまい。(いよいよ亢奮して。)わたくしはもう覺悟して居ります。しかし長七のやうな意氣地無しとは違ひますから、萬一召捕りになりまして、たとひ火水の拷問をうけましても、むやみに白状するやうな卑怯な眞似はいたしません。下總屋義平は男でございます。町人でこそあれ。わたくしも天下の志士の一人でございます。

(伴左衞門は默つて考へてゐる。)

義平  あなたはどうなさいます。正雪の二代目で尋常に切腹をなさいますか。それとも捕手をひき受けて、花々しく斬死をなさいますか。

伴左衞 さう〴〵しい。まあ、靜にしてくれ。

(下のかたより津村彌平次出づ。)

彌平次 おい、下總屋。おふくろが呼びに來てゐるぞ。

義平  おふくろが來ましたか。

彌平次 なんだか知らないが、顏の色を變へて、駈け込んで來て、すぐに忰を呼んでくれと云ふのだ。

義平  その用は大抵わかつてゐます。先生、もうお別れでございます。

(義平は覺悟して下のかたへ去る。)

彌平次 をかしな奴だな。先生、義平はどうかしたのでございますか。

(伴左衞門はだまつてゐるので、彌平次は不思議さうに立去る。それと入れちがひに下のかたより平九郎出づ。)

平九郎 千島の奴はどうしてもかないで、強情に立去つてしまひました。

伴左衞 (みかへる。)千島はたうとう立去つたか。

平九郎 それからお千代さんもこんな書置をのこして、出て行かれたさうでございます。

伴左衞 お千代も出て行つたか。(忙がはしく書置をひらいて讀む。)

平九郎 やはり千島にそゝのかされたのでございませうな。

伴左衞 狐狸の化物屋敷を立去るに就て、お兄いさまの手箱のうちから金百兩を拜借してゆくと書いてある。

平九郎 行きがけの駄賃に金百兩とは……。お千代さんにも似合はない大膽不敵なことでございますな。これはいよ〳〵驚きました。

伴左衞 まだ驚くことがある。刀屋の長七が召捕られて、なにも彼も白状したさうだ。

平九郎 (驚く。)え、ほんたうでございますか。

伴左衞 薪屋のせがれが今こゝへ知らせに來たのだ。

平九郎 なんだか樣子が可怪いと思つたら、義平はそれを云ひに來たのですな。

伴左衞 このあひだの晩、御殿山へ火をつけたのは、おれたちの仕業と睨まれてゐるらしいのだ。

平九郎 (すこし安心して。)いや、それならば全く覺えのないことで、別に心配することもございますまい。何とでも申開きは立ちます。

伴左衞 御殿山の一件は勿論おぼえの無いことで、その申開きは立つ筈だが、困つたことには不斷からおれが心にもない攘夷論を唱へてゐる。おまけに異人館を攻めるの、黒船を燒撃するのと云つて、大勢から軍用金を取立てゝゐる。それらの機密が長七の口から洩れたらしいから、所詮無事には濟むまいではないか。今さら嘘でございますとも云へず、云つたところで、上役人が素直に承知する筈があるまい。

平九郎 (ため息をつく。)さうでございませうな。そこで、先生はどうなさいます。

伴左衞 それをおれも考へてゐるのだ。最初は一時の強がりに攘夷論を唱へたが、だん〳〵調子に乘り過ぎて、たうとう本物にされてしまひさうだ。(同じく嘆息する。)おれも正雪の二代目かな。

平九郎 さうして、長七はどうなりました。

伴左衞 長七はどうなつたかは知らないが、義平もつゞいて引擧げられるらしい。おふくろが呼びに來たといふのは大方それだらう。

平九郎 (悸えたやうに。)さうすると、今度はこつちの番でございますな。

伴左衞 さう思はなければなるまい。平九郎、おまへも覺悟しろ。

平九郎 え、覺悟とは……。

伴左衞 世のことわざにも嘘から出た誠といふことがある。今さら役人どもに召捕られて、我々は僞者でございます。食はせ者でございます。日ごろの攘夷論はみんな嘘でございますと、本音を吹いて白状するのも、あまりと云へば恥さらしだ。もう斯うなつたら、乘りかゝつた船で仕方がない。いつそ思ひ切つてほんたうの攘夷家で押通してしまはうではないか。人は一代、名は末代、どうも其の方が立派なやうだぞ。

平九郎 (よんどころなく。)はあ。

伴左衞 おれは書置をかいて切腹する。おまへ達も一緒に腹を切れ。

平九郎 はあ。

伴左衞 さうすれば世間でもあつぱれ攘夷家の最後だと褒めてくれるだらう。

平九郎 (迷惑さうに。)承知いたしました。では、これから一同にその趣を觸れてまゐりませう。

伴左衞 併しおれが書置をかく間、邪魔をしないやうにしてくれ。

(伴左衞門は奧に入る。)

平九郎 どうも大變なことになつたな。

(平九郎はぼんやりと考へてゐる。下のかたより津村彌平次、本庄新吾、犬塚段八、三上郡藏があわたゞしく出で來り、いづれも武裝する心にて、羽目にかけたる胴を着けようとする。)

平九郎 これ、これ。みんなどうするのだ。

彌平次 刀屋のせがれも薪屋のせがれも召捕られました。

平九郎 それはおれも知つてゐる。

新吾  つゞいてこゝへも捕手が向ふといふ噂ですから、その防ぎをしなければなりません。

段八  先生はどうしておいでです。

平九郎 先生は奧にゐる。

郡藏  表口と裏口をどう防ぐか。先生のお指圖をねがひます。

平九郎 まあ、待つてくれ。少し靜かにしろよ。

(彌平次等は構はずに武裝する。下のかたより女中およしとおみつが手をひき合つて出づ。)

およし もし、皆さん。何事が起つたのです。

彌平次 えゝ、おまへ達に話しても判らないことだ。

おみつ でも、なんだか怖いぢやありませんか。どうしたんです。

段八  なんでもいゝから、早く行け、行け。

郡藏  うか〳〵してゐると、飛んだ目に逢ふぞ。

およし まあ、どうしたらいゝだらうねえ。

(およしとおみつは怖々ながらに立去る。)

平九郎 先生は書置きをかいてゐるのだから、邪魔をしてはいけない。(考へて。)おれも少し用がある。貴公達はこゝに待つてゐてくれ。(早々に下のかたへ立去る。)

彌平次 併しこゝに待つてゐても仕方があるまい。

新吾  兎もかくも表口を見張つてゐようではないか。

一同  さうだ、さうだ。

(彌平次等四人も下のかたへ去る。やがて奧の襖を蹴放して、山杉甚作が逃げて出るを、手先一人が追つて出づ。)

手先  神妙にしろ、神妙にしろ。

甚作  人ちがひ……人違ひでござる。拙者は來客で……この道場の者ではござらぬ。人ちがひ……人違ひ……。

(甚作は叫びながら逃げかゝるを、手先等は追ひまはして組み伏せる。)

甚作  これは怪しからぬ。人違ひだといふのに……人違ひ……人ちがひ……。

(甚作は叫びつゞけながら繩にかゝる。)



もとの薪屋の店さき。


(下のかたよりおかめは番太郎の權兵衞に送られて出づ。)

權兵衞 どうも飛んだことになりました。

おかめ (泣く。)せがれが眞先に召捕られ、つゞいて奉公人がみんなお呼び出しになつて、一體どうなることでせうかねえ。

權兵衞 ほんたうにお氣の毒なことでございますよ。併しまあお前さんだけ返して下すつたのはお上のお慈悲でございますから、お調べの片附くまでは謹愼しておいでなさるより外はありますまい。番屋の方に何か變つたことがあれば、わたしがすぐに知らせに來ます。

おかめ 何分おねがひ申します。

(おかめは巾着より小錢を出し、紙につゝんで遣る。)

權兵衞 ありがたうございます。

(權兵衞は下のかたへ行きかけて、小屋に眼をつけ、少しく思案しながら立去る。)

おかめ (ため息をつく。)まつたくこれから何うなるのかねえ。

(おかめは眼をふきながら四邊あたりをみまはし、これも小屋に眼をつける。)

おかめ 何かごそ〳〵云ふやうだが、犬でも這入つたかしら。

(おかめは小屋を覗きにゆくと、炭俵のかげには深堀平九郎が着流し、頬冠りにて忍んでゐる。)

おかめ おゝ、深堀さん……。

平九郎 叱つ、叱つ。

おかめ (小聲で。)あなた……いつの間にこんなところへ。

平九郎 兎もかくも日の暮れるまでこゝに隱して置いてくれ。誰が來てもこゝへ入れてはならないぞ。

おかめ はい。

(平九郎は再び隱れる。おかめは不安らしく左右をみまはしてゐると、奧より女中おとよ出づ。)

おとよ お歸りなさい。

おかめ 留守に何事もなかつたかえ。

おとよ はい。

(下のかたより野澤喜十郎は手先五六人を連れて出づ。あとより權兵衞も出づ。)

喜十郎 番太郎、これか。(十手にて小屋を指す。)

權兵衞 左樣でございます。

喜十郎 炭部屋に隱れてゐるとは、師直のやうな奴だな。それ、引出せ。

(喜十郎の指圖にしたがひて、手先は小屋へ蹈み込まうとすれば、内より炭俵や薪を投げ出す。)

手先  御用だ、御用だ。

(手先は飛び込んで、平九郎をひき出せば、平九郎は一生懸命にふり放して下のかたへ逃げてゆくを、喜十郎と手先は追つてゆく。)

おかめ (權兵衞に。)おまへさんが訴へたのかえ。

權兵衞 隱して置くと、こちらの御迷惑になりますよ。

おとよ (上のかたを見る。)あれ、あれ、道場の先生が……。

おかめ おゝ、先生が繩附きになつておいでなさる。

權兵衞 先生もたうとうお召捕りになつたのか。

(下のかたより近所の男、女、子供、往來の人などがわや〳〵云ひながら出づ。上のかたより與力井口金太夫が先に立ち、同心一人と手先五六人が大泉伴左衞門に繩をかけて出づ。そのあとからも男女大勢が附いて出づ。)

金太夫 さあ、往來の邪魔だ、邪魔だ。退け、退け。

手先  (口をそろへて。)退け、退け。

(伴左衞門は舞臺のまん中に立ちどまつて左右をみかへる。)

伴左衞 (大きい聲で。)大勢のうちには拙者の名を聞き知り、顏を見識つてゐる者もあらうが、大泉伴左衞門橘の正連は攘夷のはかりごと顯れて、今や召捕りの身と相成つたのだ。大鹽平八郎や由井正雪の二代目と思ふな。拙者は楠や新田にも劣らぬ、日本國の忠臣義士だぞ。死んだ後には神に祀れ。

金太夫 さあ行け、ゆけ。

(金太夫等に追ひ立てられて、伴左衞門は悠々として向うへ牽かれてゆく。人々は感激の眼を以て見送る。)

──幕──

底本:「修禅寺物語 正雪の二代目 他四篇」岩波文庫、岩波書店

   1952(昭和27)年1125日第1刷発行

   2008(平成20)年221日第7

初出:「本郷座」

   1927(昭和2)年5月初演

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「廻」と「𢌞」の混在は、底本通りです。

入力:川山隆

校正:門田裕志

2011年327日作成

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