木の十字架
堀辰雄



「こちらで冬を過すのは、この土地のものではない私共には、なかなか難儀ですが、この御堂が本当に好きですので、こうして雪の深いなかに一人でそのお守りをしているのもなかなか愉しい気もちがいたします。……」

 この雪に埋まった高原にある小さな教会の管理をしている、童顔の、律儀りちぎそうなHさんはそんな事を私に言ったが、こういうごく普通の信者に過ぎないような人にとっても、こちらで他所者よそものとして冬を過しているうちには、やはりそういうロマネスクな気もちにもなると見える。

 その教会というのは、──信州軽井沢にある、聖パウロ・カトリック教会。いまから五年前(一九三五年)に、チェッコスロヴァキアの建築家アントニン・レイモンド氏が設計して建立こんりゅうしたもの。簡素な木造の、何処どこ瑞西スイスの寒村にでもありそうな、朴訥ぼくとつな美しさに富んだ、何ともいえず好い感じのする建物である。カトリック建築の様式というものを私はよく知らないけれども、その特色らしく、屋根などの線という線がそれぞれに鋭い角をなして天を目ざしている。それらが一つになっていかにもすっきりとした印象を建物全体に与えているのでもあろうか。──町の裏側の、水車のある道に沿うて、その聖パウロ教会は立っている。小さな落葉松林からまつばやしを背負いながら、夕日なんぞにかがやいている木の十字架が、町の方からその水車の道へはいりかけると、すぐ、五六軒の、ごみごみした、薄汚ない民家の間から見えてくるのも、いかにも村の教会らしく、その感じもいいのである。

 私はその隣村(追分おいわけ)で二年ばかり続けて、一人っきりで冬を過したことがあるが、ときどきどうにも為様しようのないような気もちになると、よく雪なんぞのなかを汽車に乗って、軽井沢まで来た。軽井沢も冬じゅう人気ひとけのないことは同様だが、それでも、いつも二三人は外人の患者のいるらしいサナトリウムのあたりまで来ると、何となく人気が漂っていて、万物蕭条しょうじょうとした中に暖炉のけむりらしいものの立ち昇っているのなんぞを遠くから見ただけでも、何か心のなぐさまるのを感じた。そんな村のあちこちを、道傍みちばたから雉子きじなどを何度も飛び立たせながら、抜け道をしいしい、淋しいメェン・ストリィトまで出て、それからこんどは水車の道にはいると、私はいつもながいこと聖パウロ教会の前にたたずんで、その美しい尖塔せんとうを眺め、見入り、そして自分の心の充たされてくるまでそれに愛撫せられていた……

 そういう時なんぞ、私は屡々しばしば、その頃愛読していたモオリアックの「ほのおの流れ」という小説の結末に出てくるそのかわいそうな女主人公の住んでいる、フランスの或る静かな村の古い教会のことなぞを胸にうかべたりしていた。──以前その女の身を誤らせたことのある青年が巴里ぱりからはるばるとその村までその女に逢いに来る。彼はその若い女を偶然村の教会のなかに見出す。彼女は丁度聖体を拝受しようとしているところである。青年はそういう打って変ったような女の姿を見ると、もう彼女に話しかけようともせず、又自分を彼女に気づかせようともしない。彼は聖水を戴いて、つつましく十字を切り、そのまま教会を出ていってしまうのである。……

 そういうモオリアック好みの小説の場面を、私は自分の目の前の空虚な教会の内側にいましも起りつつあるかのように想像をたくましくしたりしながら、いつまでもうつけたように教会の木柵もくさくにもたれかかっているようなことさえあった。

 そんな或る日の事(二月の末だった……)、私はひょっくり出先から戻ってきた其処そこのHさんという管理人と二こと三こと口をき合い、そのまましばらく教会の側面の日あたりのいい石の上で、立ち話をしあっていた。丁度私達の傍らに立っている聖パウロの小さな、彩色した彫像は、彫刻の上手なレイモンド夫人がみずから制作したものだという事を私の教わったのも、そのときの事だった。そして別れぎわになってから、そのHさんがこう言ったのである。

「……この御堂が本当に好きですので、こうして雪の深いなかに一人でそのお守りをしているのもなかなか愉しい気もちがいたします。……」


      *


「あなたが自分のまわりに孤独をおいた日々はどんなに美しかったか、僕はそれをうらやむことでいまを築いているといったっていいくらいです……」と、そんな事を若い詩人の立原道造たちはらみちぞうが盛岡への一人旅から私達のところに書いてよこしたのは、彼が亡くなる前年(一九三八年)の秋だった。──そのときはもう私はそのような孤独ではなく、その春さりげなく結婚をして、しかしその年もやはり軽井沢の山中で秋深くなるまで暮しつづけていた。が、今年はどうも私の身体が変調なので、そろそろこんな山暮しを切り上げようかと考えていた矢先だった。──立原も立原で、その夏まえからだいぶ健康を害して、一年ほど前から勤め出していた建築事務所の方もとかく休みがちらしかった。そうしてなかば静養を口実に、好きな旅にばかり出ているようだったが、夏のさなかの或る日なんぞ、新しく出来た愛人を携えて、漂然ひょうぜんと軽井沢に立ち現われたりした。そう云えば、あのときなんぞ彼の弱っていた身体には、私達の山の家まで昇ってくる道がよほどこたえたと見え、最初は口もろくろく利けずに、三十分ばかりヴェランダに横になったきりでいた、息苦しそうな彼の姿がいまでも目に浮ぶ。──私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送ってよこす愉しそうな絵端書などを受取る度毎に、何かと彼のうわさをしあいながら、結婚までしようと思いつめている可憐かれんな愛人がせっかく出来たのに、その愛人をとおく東京に残して、そうやって一人で旅をつづけているなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合っていた。──「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震わせつつ堪える」ことを既に決意している、リルケイアンとしての彼の真面目しんめんもくをそこに私は好んで見ようとしていたのであった。

 その立原は、しかし、その春の末私達が結婚しようとしていたときは、まだなかなか元気で、病後の私のために何かと一人で面倒を見てくれたのだった。そうして結婚するや否や、誰にも知らさずに、すぐ軽井沢に立ってきた私達に、次ぎのような手紙を添えて、私達にささやかな贈り物をしてくれた。──「御結婚のおよろこびを申し上げます。お祝いのしるしにフランスの『木の十字架』教会の少年たちのうたった聖歌をお贈りいたします。美しい村でおくらしになる日、森のなかの草舎でこの歌がきかれる初夏、花々のことなど、一切のきょうのあわれに美しい僕の夢想を花束に編んで、それに添えた心持でお贈りいたします。それからもうひとつのは、去年の秋の奇妙な出来事が僕にえらばせた歌なのですが、これはお祝いのしるしというのではなしに、ただ、あの不意に家のなくなってしまった日のかたみのために、高原の村ぐらしのなかにお持ちになっていただきたかったのでございます。沢山の幸福とよろこびと潤沢な日日とを恵まれますように。道造」──その贈り物というのは二枚のレコオドで、その一つはフランス旧教会ラ・クロア・ド・ボア教会小聖歌隊の合唱したヴィットリアの「アヴェ・マリア」とパレストリイナの「贖主あがないぬしの聖母よ」。もう一つはクロオド・パスカルという少年歌手の独唱したドビュッシイの晩年の歌曲「もう家もない子等のクリスマス」。──文中の去年の秋の出来事というのは、私や立原なんぞが一しょに暮していた追分の脇本陣わきほんじん(油屋)が火事になって二人とも着のみ着のままに焼け出された出来事のことである。──私達はその贈り物をよろこんで受けて、わざわざ山の家まで携えてきたが、小さなポオタブル位はなんとか手に入れて持ってくる筈だったのがうまく行かなくて、只、その贈り物は机の上に飾っておいた。とうとうその山の家ではそれを一度も聴く機会が得られなかった。……

 私達の山の家へは、五月の半ば頃、立原はその新しい愛人とはじめての旅行を軽井沢に試みたときに既に訪れたことがあったのだそうだ。丁度、私の父が急病になって私達が東京に帰っていた間のことらしい。立原たちは、私達が留守でも構わずに、その山の家のヴェランダで三時間ばかり昼寝をしたり遊んだりしていたのだなどと、夏、又二人でやって来たとき私達にはじめて打ち明けて言うのだった。

「ほら、あそこにそのとき僕が楽書らくがきをした跡がある……」

 そう云って、物憂そうに椅子に首をもたせたまま、疲れた一羽の鳥のような、大きなぎょろっとした目で彼が見上げている方を私もふりむいて見ると、ヴェランダの壁の上の方の、誰の手も届きそうもないところに、なるほど彼らしい手跡で、

Wenn ich wäre ein Vogel !

 と、青い鉛筆で楽書のしてあるのに私はそのときやっと気がついた。


      *


 私達が結婚祝いに立原から貰ったクロア・ド・ボア教会の少年達の歌やドビュッシイの歌のレコオドをはじめて聴いたのは、その翌年の春さきに、なんだかまるで夢みたいに彼が死んでいってしまった後からだった。私達はそのレコオドを友人の家に携えていって、それをはじめて聴いたのである。

 それから、その夏(去年)軽井沢へ往ったときは漸く宿望の蓄音機をもっていけたので、私の好きなショパンの「前奏曲」やセザアル・フランクの「ソナタ」なんぞの間にときどきその二枚の小さなレコオドをかけては、とうとうこれがあいつの形見になってしまったのかと思うようになった。私はその二つの曲の中では、ドビュッシイの近代的な歌よりも、むしろイタリアの古拙な聖歌の方を好んだ。それらのゴブラン織のような合唱の中を、風のように去来する可憐なボオイ・ソプラノはなんとも云えず美しいものだった。

 その夏、軽井沢では、急に切迫しだしたように見える欧羅巴ヨオロッパの危機のために、こんな山中に避暑に来ている外人たちの上にも何か只ならぬ気配が感ぜられ出していた。日曜日の弥撒ミサに、ドイツ人もフランス人も、イタリイ人も、それからまたポオランド人、スペイン人などまで一しょくたに集まってくる、旧教の聖パウロ教会なんぞは、そんな勤行ごんぎょうをしている間、その前をちょっと素通りしただけでも、冬なんぞの閑寂かんじゃくさとは打って変って、何か呼吸いきづまりそうなまでに緊張した思いのされる程だった。前年の夏あたりは、屡々しばしば、その教会の中から聖母をたたえる甘美な男女の合唱がれてきて、それが通行人の足を思わず立ち止らせたりしたものだったが、今年の夏はどういうものか、低いオルガンの音のほかには、聖楽らしいものは何にも聞えて来ないのだった。

 この頃朝の散歩のときなど、その教会の前を通りかかる度毎に、私はその中があんまり物静かで、しかも絶えず何ものかのささやきに充たされているようなので、いつか聞覚えてしまったヴィットリアの「アヴェ・マリア」の一節などを、ふいとそれがさもその教会の中から聞えてきつつあるかのように自分のうちよみがえらせたりするのだった……


      *


 八月の末になってから、その夏じゅう追分で暮していた津村信夫君が、きのう追分に来たという神保じんぼ光太郎君と連れ立って、他に二三人の学生同伴で、日曜日の朝、ひょっくり軽井沢に現われ、その教会の弥撒ミサに参列しないかと私を誘いに来てくれたので、私も一しょについて行った。冬、一度その教会の人けのない弥撒に行ったことがあるきりで、夏の正式の弥撒はまだ私は全然知らなかった。 

 みんなで教会の前まで行くと、既に弥撒ははじまっていて、そのさくのそとには伊太利イタリイ大使館や諾威ノルウェー公使館の立派な自動車などが横づけになり、又、柵のなかには何台となく自転車が立てかけられていた。私達はその柵の中へはいろうとしかけながら、誰からともなしに少し躊躇ためらい出していた。そうして三人でちょっと顔を見合せて、困ったような薄笑いをうかべた。丁度、そんな時だった、私達の背後からベルを鳴らしながら、二人の金髪の少女が自転車でついと私達を追い越すやいなや、柵の入口のところへめいめいの自転車を乗り捨てて、二人ともお下げに結った髪の先をぴょんぴょん跳ねらしながら、いそいで教会の中へ姿を消した。

 私達はその姉妹らしい少女らの乗り捨てていった自転車の尻に、両方とも「ポオランド公使館」という鑑札のついているのを認めた。それは丁度、ドイツがポオランドに対して宣戦を布告した、その翌日だった。私達は立ち止ったまま、もう一度顔を見合せた。

 私達は、おそらくきょうこの教会に集まってきている人達は、それぞれの祖国の危急をおもって悲痛な心を抱いているものばかりであろうのに、そんな中へ心なしにも数人でどやどやとはいって行くのが少々気がひけて来たのだった。が、それだけにまた一層、いましがたそういう人達の中にまじっていった二人のポオランドの少女が私達の心をいたくいた。私達はこんども誰からともなく思い切ったように教会のなかへはいって行った。そうしてめいめい他の人達のように十字は切らないで、一人ずつ、内陣の方へ向って丁寧に頭を下げながら、まだすこし空いていた、うしろの方の藁椅子わらいすの上に順々に腰を下ろした。

 一番うしろの藁椅子を占めた私は、しばらく黙祷もくとうの真似のような事をしていたが、やがて目を上げて、さっきの二人の少女の姿を会衆のうちに捜し出した。すぐ彼女たちの可愛らしいお下げ髪が目に止った。彼女たちは一番前列に、面帕おもわをかぶった母親らしい中年の婦人の傍に、ひざまずきながら無邪気に掌を合わせてお祈りをしていた。

 私はそういうお下げ髪の少女たちの後姿にいつまでも目をそそいでいたが、そのうち何気なく、立原の形見の一つである、パスカル少年のうたったドビュッシイの歌なぞを胸に浮ばせていた。それはドビュッシイが晩年病床にあって、無謀なドイツ軍のベルギイ侵入の事を聞き、家も学校も教会もみんな焼かれてしまった可哀そうな子供たちのために、彼等の迎えるであろうわびしいクリスマスを思って、作曲したものだった。

Noël ! petit Noël ! ńallez pas chez eux,

N'allez plus jamais chez eux, punissez-les !

(クリスマスよ、クリスマスよ、どうぞ彼等のところへは行かないで。

もう決して行かないで。そうして彼等を懲らしてやっておくれ。)

 いま、そうやっていたいけな様子でお祈りを続けているそのポオランドの少女たちが、ふいと立ち上るなり、いまにもそんな悲しい叫びを発しそうな気がする。そう、この歌のレコオドはまあ何という偶然の運命から私の手もとに今あるのだろう。ちょっとその少女たちを私の家に連れていってそれを聴かせてやったら、まあ彼女たちはどんなに目をかがやかす事だろう……と、そんな事を考えているうちに、ふいと眼頭めがしらの熱くなりそうになった目をいそいで脇へ転じると、其処では、何か考え深そうな面持をしているドイツ人らしい両親の間にはさまれた、まだ幼い、いかにも腕白者らしい子供が、彼から少し離れた席にいる同じような年頃の、しかし髪なぞをもう綺麗に分けている子供に向って、しきりに顔つきや手真似でからかいかけているのなどがひょいと目に映ったりした。私のすぐ前に並んで腰かけている津村君と神保君は、私のように行儀悪くしないで、じっとさっきから神妙に頭を下げつづけているらしかった。

 弥撒ミサおわって、なんだか亢奮こうふんしているような顔のおおい外人達の間にまざりながら、その教会から出てきた時は、私達もさすがに少しばかり変な気もちになっていた。私達は、教会のまわりにあちらこちらと一塊りになって立ち話をしだしている外人達からずんずん離れて、まだ教会の中に残っているらしいポオランドの少女たちの事を気づかいながら、しかししばらくは黙ったまんまで歩いていた。それは何か一しょに好いものを見てきたあとで、いつも気の合った友人達の上に拡がる、あの共通の快い沈黙であった。

 これから森のなかの私の家へ寄ってお茶でも飲もう、──そういう事に決めてからも、私達はとかく沈黙がちに林道の方へ歩いて行った。こうやって津村君、神保君、それから僕、野村少年と、みんな揃っているのに、当然そこにいていい筈の立原道造だけのいない事が、だんだん私にはどうにも不思議に思えてきてならなかった。そう云えば、なんだか私ははじめて彼が私達の間にいないのに気がつき出したかのようだった。……

底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社

   1969(昭和44)年1112日発行

   1992(平成4)年52016

入力:横尾、近藤

校正:松永正敏

2003年1212日作成

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