三枚続
泉鏡花

表紙の撫子なでしこに取添えたる清書きよがき草紙、まだ手習児てならいこの作なりとてつたなきをすてたまわずこのぬしとある処に、御名おんなを記させたまえとこそ。

  明治三十五年壬寅正月
鏡花



「どうも相済みません、昨日きのうもおいで下さいましたそうで毎度恐入ります。」

 と慇懃いんぎんにいいながら、ばりかんを持って椅子なる客のうしろへ廻ったのは、日本橋人形町どおりの、茂った葉柳はやなぎの下に、おかめ煎餅せんべいと見事な看板を出した小さな角店を曲って、突当つきあたり煉瓦れんがの私立学校とせなか合せになっている紋床もんどこの親方、名を紋三郎といって大の怠惰者なまけもの、若い女房かみさんがあり、嬰児あかんぼも出来たし、母親おふくろもあるのに、東西南北、その日その日、風の吹く方にぶらぶらと遊びに出て、思い出すまではうちに帰らず、大切な客を断るのに母親おふくろは愚痴になり、女房は泣声になる始末。

 またかい、と苦笑にがわらいをして、客の方がかえって気の毒になる位、別段腹も立てなければ愛想も尽かさず、ただ前町の呉服屋の若旦那が、婚礼というので、いでやかねての男振おとこぶり、玉も洗ってますますあでやかに、しずくの垂る処で一番綿帽子と向合おうという註文で、三日前からの申込を心得ておきながら、その間際に人の悪い紋床、畜生め、か何かで新道しんみち引外ひっぱずしたために、とうとうひげだらけで杯をしたとあって、恋のかたきのように今も憤っているそればかり。町内の若い者、頭分かしらぶん芸妓家げいしゃや待合、料理屋の亭主連、伊勢屋の隠居が法然頭ほうねんあたまに至るまで、この床の持分となるとわきへはかない。目下文明の世の中にも、特にその姿見において、その香水において、椅子において、ばりかんにおいて、最も文明の代表者たる床屋の中に、このみせつきばかりはその汚さといったらないから、ふりの客は一人も入らぬのであるが、昨日きのうは一日仕事をしたから、御覧なさいこの界隈かいわいにちょっと気の利いた野郎達は残らず綺麗きれいになりましたぜ、お庇様かげさまを持ちまして、女の子は撫切なでぎりだと、呵々からからと笑う大気焔だいきえん

 もっとも小僧の時から庄司が店で叩込んで、腕は利く、手は早し、それで仕事は丁寧なり、殊に剃刀かみそりは稀代の名人、撫でるようにそっと当ってしかもきぬを裂くような刃鳴はなりがする、とえたえて、いずれも紋床々々と我儘わがままを承知で贔屓ひいきにする親方、渾名あだな稲荷いなりというが、これは化かすという意味ではない、油揚あぶらげにも関係しない、芸妓が拝むというでもないが、つい近所の明治座最寄もよりに、同一おなじ名の紋三郎というお稲荷様があるからである。

「おまいどこかでまた酒かい。」と客は笑いながら、

「珍しくはないがよく怠惰なまけるなあ。」

「何、今度ばかしゃ仲間のよりでさ、少々その苦情事なんでして、」

喧嘩けんかか。」

「いいえ、組合のほかに新床が出来たんで、どうのこうのって、何でもいじゃあがあせんか、お客様は御勝手な処へいらっしゃるんだ。一軒えりゃそいつが食ってくだけ、みんなが一杯ずつおまんまの食分が減るように周章あわてやあがって、時々なんです、いさくさは絶えやせん。」

「それじゃあ口でも利かされたのかね。」

「ならび大名の方なんでさ。」

「それに何も二日かかることはないじゃないか。」

「すっかり御存じだ。」と莞爾にっこりする。

「だっておい四たび素帰すがえりをしたぜ、串戯じょうだんじゃあない。ほんとうに中洲なかずからお運び遊ばすんじゃあ、間に橋一個ひとつ、お大抵ではございませんよ。」

「おや、母親おふくろがいった通り。」

貴客あなた、全くそう申すんでございますよ。」と長火鉢の端が見えて、母親おふくろの声がする。



「ははははは、うまくやりましたね、(ほんとうに中洲からお運び遊ばすんじゃあ間に橋一個、お大抵ではございません。)ッさ、え、旦那、先刻さっき親方が帰りました時に内のお婆さんがその通りいいました。ねえ、親方、どうですお婆さん、寸分違わねえ、同一おんなじこッたい、こいつあ面白えや。」と少しかすれた声、顔をしかめながら嬉しそうに笑ったのは、愛吉といって、頬に角のある、鼻のたかい、目の鋭い、眉の迫った、額の狭い、色の浅黒い、さながら悪党の面だけれども、口許くちもとばかりはその仇気あどけなさ、乳首を含ましたら今でもすやすやとそうに見えて、これがために不思議に愛々しい、年の頃二十三四の小造こづくりやせぎすなのが、中形の浴衣の汗になった、垢染あかじみた、左の腕あたりに大きな焼穴のあるのを一枚引掛ひっかけて、三尺の帯を尻下りに結び、前のめりの下駄の、板のようになったのに拇指おやゆびまむしこしらえたが、三下という風なり。実は渡り者の下職人したじょくにん、左の手を懐に、右をおとがいにあてて傾きながら、ばりかんを使う紋床の手をその鋭い眼でにらむようにして見ているのであった。

 客は向うへ足をのばして、

「そうだろう、人情は誰も同一おんなじだから言うことも違わないんだよ。」

「じゃあ何だ、内の母親おふくろもやっぱり同一ようなことを言ってましょう、ふふん、」と頤を支えたまま、うなずくがごとくに言ってえみらす。

 紋床は顔をななめに、ばりかんに頬をつけて、ちょいとめて、

「馬鹿をいいねえ、おめえと同一にされてたまるもんか、人情はかわらないでもり方が違ってらあな、おい、こう見えても母親にゃまだ米の値を知らせねえんだが、どうだ。」

「あれ、あんなことをいうよ、のうおまき。」と母親はかたわらなる女房に言葉を渡したらしい。

「ほほほほほ。」と、気の無さそうに若い女が笑った、と思うと嬰児あかんぼがおぎゃあと泣く。

 紋床はばりかんの歯をすかして、フッと吹き、

「おっとまず黙ってあとを聞くことさ。さよう米の値は知らせねえが、そのかわり〆高しめだかで言訳をさせますか。」

「違えねえね。」

「黙れ! 手前てめえが何だ、まあお聞きなさいまし、先生。」

 客はこの近辺ちかまわりの場所には余り似合わぬ学生風、何でも中洲に住んでるとより外くわしくは知らないが、久しい間の花主とくいで紋床はただ背後うしろの私立学校で一科目預っている人物と心得て、先生、先生とうが、さにあらず、府下銀座どおりなるなにがし新聞の記者で、遠山金之助というのである。

「どうでございます、このわっしに意見をしてくれろッて、涙を流して頼みましたぜ、この愛的の母親おふくろが、およそ江戸市中広しといえども、私が口から小可愧こっぱずかしくもなく意見が出来ようというなあ、その役介者やっかいものばかりでさ、昔だと賭場とばの上へ裸でひッくり返ろうというやっこなんで、」

「何を、詰らねえ、」

「いいえ賭博ばくちは遣りません、賭博は感心に遣りませんが、それも何幾干いくらかありゃきっとはじめるんでさ。それに女にかからずね、もっともまあ、かかり合をつけようたッて、先様が取合わねえんですからその方も心配はありませんが、飲むんです。この年紀としで何と三升酒をかぶりますぜ、可恐おッそろしい。そうしちゃあ管を巻いて往来でひッくり返りまさ、やまいだね。愛、手前その病気だけは治さないと不可いけねえぜと、わっしあこれでもたまにゃあ親身になっていうんです、すると何と、殺されても恨まないから五合ごんつく買っとくんなさい、とこうでしょう、言種いいぐさしゃくに障るじゃありませんか。」



 愛吉は何にもいわず、腕をこまぬいて目をそらして、苦言一針するごとに、内々恐縮のうなじすくめる。

 紋床は構わず棚下たなおろし

「活きるか死ぬかというこれが情婦いろだったって、それじゃ愛想をつかしましょう、おまけにこれがく先は、どこだって目上の親方ばかりでさ、大概てえげえ神妙しんびょうにしていたって、得て難癖が附こうてえ処でその身持じゃあ、三日と置く気遣きづかいはありやしません。もっとも三日なんて置こうものなら、はじめの日は朝寝をして、次のは内をあけて、三晩目には持遁もちにげをしようというもんだ。」

「まさか、」といって客の金之助は仰向あおむけに目をねむる。

 愛は小指のさきで耳朶みみたぶをちょいといて、

ひどいなあ、親方。」

「まあそういった形よ、人情は同一おんなじだから、」

「何が人情、」

「そうじゃないか、だっておめえ真似まねをするにもいことはしたがらねえだろう、この間もね、先生、お聞きなさいまし。そういう風だから山手のても下町も、千住せんじゅの床屋でまで追出されやあがって、王子へきますとね、一体さきさきわたりがついてるだけにこちとらの稼業はつきあいが難かしゅうがす、それだのにしばらく仕事をさしてもらおうというその初対面のとこで、宿しゅくの中ほどの硝子戸がらすどをあけると、突然いきなりわっしあ忙しい身体からだでござえして……とこうさ。

 どうです言種いいぐさは、前かど博徒ばくちうち人殺ひとごろし兇状持きょうじょうもち挨拶あいさつというもんです。それでなくッてさいこの風体なんですもの、懐手でぬッと入りゃ、真昼中まっぴるなかでもねえ先生、気の弱い田舎なんざ、一人勝手から抜出して総鎮守の角の交番へ届けに行こうというんでしょう。

 この頃はひまだからと、早速がりを食ってやっこさん行処ゆきどころなし、飲んだ揚句なり、その晩はとうとうお宮の縁の下に寝ましたッさ。この真似もまた宜しくねえてね。

 仕方がねえんで舞戻って例のごとく親方済みません、が呆れたもんです。そうしてわっしが忙しい体でござえして、とこういう塩梅あんばいに遣ッつけました。目を円くして驚きゃあがって、可笑おかしゅうがしたぜ、飛んだ面白えやと、それを嬉しがっていやあがる、始末におえねえじゃアありませんか。それがまた似合うんです、ちょいとこんな風、」と紋床も好事ものずきなり、ばりかんを持ったままで仕事の最中。

「成程、」といって金之助もわざとらしく振返った。

 愛はきまり悪げに、

「親方沢山だ、何も身振みぶりまでするこたアありません。」と愛くるしいくだんの口許で、べそを掻くような(へ)の字なり

わっしにゃ素直だから可愛いんですがね。どうだこう改って言われちゃあ余り見ッともいこッちゃあるめえ、ちっと気をつけるがいぜ、え、愛こう。」

「可いやさ、罷違まかりちがえばというおぼえがあるから世の中を何とも思わんだろう、中々可い腕があるんだっていうじゃあないか。片腕ッていう処だが、紋床の役介者は親方の両腕だ、身に染みて遣りゃ余所行よそゆき天窓あたまを頼まれるッて言っていたものがあるよ、どうだい。」

「へ、……どういたして、こうなるとわっしきまりが悪い、」とおもてを背けて、たじたじになった罪の無さ。

「ここらで発起をするこッた、また三晩ばかしあけたというじゃあないか。あのここな、」というのがちと仮声こわいろになりかけたので、この場合吃驚びっくりし、紋床は声を呑んでくすりと笑う。

「ですがね親方、今度ばかりゃ、」と愛吉はきっ真面目まじめ



「どうした。」

「ええ、何ね、少し面白くねえ、馬鹿にしゃくなことがあって、腹が立って、わっしあ腹が立ってならねえんで、」と愛はいう内にもその迫った眉を動かすのであった。

 紋床は、しばしばあって、珍しからぬ、愛吉がかかる様子にれて、いうことを何とも思わず、

「妙だな、お前また腹が立って為様しようがないから、そこで身体からだを寝かしていたろう。」

「親方、茶かさずにさ、全くだね、私あ何だ、演劇しばいでするかたきッてものはちょうどこんなものだろうと思いますぜ、ほんとうに親の敵。」

い気なことを言ってらあ、おめえ母親おふくろは死んでやしねえじゃないか、父爺ちゃんの敵なら中気だろう、それとも母親おふくろなら、愛こう、お前がその当の敵だい。」

「何だってね。」

「苦労をさせるからよ。」

「気が早いや親方、誰も権太左衛門に母親が斬られたとは言やしません、私あ親の敵と思う位、小癪こしゃくに障るやつが出来たッていうんです。」

「はてな。」

「それでね、出来るものならふんづかまえて畜生撲殺なぐりころしてやろうと思って、こう胸ッくそが悪くッて、じっとしていられねえんで、まったくでさ、ふらふらして歩行あるいたんで。」

「待ちねえ、おい、お前感心だな、ははあ解ったい、そうするとお前は大望のある身体からだだ、その敵討をしようという。」

「そうですよ。」と真顔でいった。

「そうですよもねえもんだ、何だな、それがために浮身をやつし、茶屋場の由良さんといった形で酔潰よいつぶれて他愛々々よ。月が出て時鳥ほととぎすくのを機掛きっかけに、蒲鉾小屋かまぼこごや刎上はねあげて、その浴衣で出ようというもんだな、はははは。」

「ようがすよ、もう沢山だ、何もそんなに改って今日という今日、脂を取んなさるこたあねえ、食潰くいつぶしの極道にゃあ生れついて来たんだもの、天道様だって数の知れねえ人形をこしらえるんだ、削屑けずりくずも出まさあね、」と正直なだけに怒りッぽい、これでもまだ若いんだから、愛吉はね気味で横を向く。

「ほい、気に障ったら堪忍しねえ、言ったって治らねえ位のこたあ知ってるんだい、言葉のはずみよ、おれだってまだ人に意見を言う親仁形おやじがたは役不足だ、いや、喧嘩なら加勢をしよう、対手あいては何だ。」

「そ、それがね親方、」とたちまち嬉しそうな顔色かおつきで、

「ちっと組合違いの人間でさ。」

「ふむ、船頭か。」

「いいえ。」

馬士うまかたか。」

「詰らねえ。」

「まさか乳母おんばどんじゃあるめえな。」

「親方、真面目に聞いておくんなさいというに。聞くだけで可いんだから、わっしあまた話すだけでもちったあ胸が透くだろうと思うんで。へい、ここのとこへ込上げて来やあがって。」と手を懐にしたまま拡げた胸にななめにかかってるまもりひもの下あたりを、はたはたと叩いて見せる。

し可し、私が聞こう、どうしたんだ。」

「先生、聞いておくんなさるかい、難有ありがてえ、こりゃ先生だとなほわかりが早い、対手あいてはね、先生なんざ御存じじゃありませんか、歌の師匠ですよ。」

 紋床は口を挟んで、

「ああ、中洲の清元の。なるほどこいつあ大望だ、親の敵より大事おおごとに違えねえ、しかし飛んだ気になったぜ、愛、おめえありゃあ不可いけねえや、まるで組合が違ってらあ。」

「何がえ、親方。」

「お津賀さんのことだろう。」

「ありゃ、師匠じゃありませんか。」

「唄の師匠よ。」

「何を、私なあ味噌一漉ひとこしてえやつなんです。」

「味噌一漉? ああ三十一文字みそひともじか。」

「その野郎だ。」と、愛吉は胸を張った。



「歌の先生、三十一文字の野郎で、それが敵、へい、」とばかりで紋床も変に思い、金之助もその意を得ない様子である。

 愛吉は熱心おもてあらわれ、

「先生、貴客あなた知っていらっしゃりやしませんか、その三十一文字の野郎てえのを、」

「何というね、そしてどこの、」

「居る処は根岸なんで、」

「根岸か、」

「へい、根岸の加茂川わたるッてんです。」

「加茂川亘。」と金之助は口のうちでその名を言った。

 紋床は背後うしろへ廻って、

「神主様みてえだな。」

 金之助はあらためて打頷うちうなずき、

「有名な先生だ、歌の、そうそう。くお書きになるぜ。」

「知ッてますよ、手習師匠兼業のやっこなんで、媽々かかあが西洋の音楽とやらを教えて、そのばばあがまた、小笠原礼法躾方しつけかた活花いけばな、茶の湯をあきなう、何でもごたごた娘子むすめッこすきな者を商法にするッていいます。」

「ははあ何でも屋だな、場末の荒物屋にゃあからかさまで商ってら、行届いたものだ。しらみでも買いに行ってひねってやれ、癖にならあ、どうせろくな者は売るんじゃあねえ。」と紋床は話がまことで、ものになりそうな卵だと見て取ると、面白しでおおいあおる。

 金之助は驚いて、

「馬鹿なことを言え、罰の当った、根岸の加茂川と来た日にゃあ、歌の先生でもみんな御前ごぜん々々と言う位なもんだ。宴会のあった時、出ていた芸妓げいしゃが加茂川さんちょいとと言ったら、売女ばいた風情が御前をつかまえて加茂川さん、朋友ともだちでも呼ぶように失礼だ、と言って、そのまま座敷を構われた位ないきおいよ。高位高官の貴夫人令嬢方、解らなけりゃ、うえがたの奥様姫様ひいさま方、大勢お弟子があるッさ、場末の荒物屋と一所にされてたまるもんか、途方もない。」

「何でも、馬車だの腕車くるまだのが門に込合ってるッていますね。」

「そうだろうとも。」

「何だか知らねえがしゃくに障るッたらないんです。」

 と愛吉はさも口惜しそうである。

「おい、その方が敵かい。」

「おめえまた妙な敵を持ったもんだな、金と女ならわっしだって殺してえほどうらみがあらあ、せんの中洲の清元の師匠の口だと、私も片棒かつぐんだが、困ったな歌の先生じゃあ。お前どうした、狙ったか、」

「二晩ばかりつけました、上野の山ね、鶯谷うぐいすだにね、ステッキでも持ちゃあがって散歩とでも出掛けてみろ、手前てめえいかしちゃあ帰さねえつもりで、あすこいらを張りましたけれど、出ませんや。弱っちまいました、親方のめえだけれども。髪結床かみいどこ下職したじょくなんぞするもんじゃアありませんね、せめて字でも読めりゃ何とか言って近づくんですが、一の字は引張ひっぱって、十文字は組違え、打交ぶっちがえはたかの羽だと、呑込んでいるんじゃあ為方しかたがありません、私あもう詰らねえ。」と力なさそうに投首をする。

「ああ、お互に不便ふびんなもんだ。」

「親方本当でございますね、酒の値は上りまさ、たべる物は麺麭パンの附焼、うなぎ天窓あたまさ、串戯口じょうだんぐちでも利こうてえ奴あ子守児こもりッこかお三どんだ、愛ちゃんなんてふざけやあがって、よかよかの飴屋あめやが尻と間違えてやあがる、へ、おかたじけ。」といって、愛吉はフンと棄鉢すてばちの鼻息。

「あいや、敵討かたきうちのお武家、ちとお話がれましたようですが、加茂川が何か君に恥辱でも与えたというのかい、」

「そうです、恥を掻かしやがったんで、対手あいては女ですよ。」

「何、女に恥辱を、待て、たちくない奴だ。」

 ちょうど洗いましょうという処、金之助は膝を叩き、四辺あたりを払って、ついと立った。

「や、先生も味方らしい、こいつあ、難有ありがてえぞ難有えぞ。」



 いただいたのは新しい夏帽子、着たのは中形の浴衣であるが、きっと改まった様子で、五ツ紋の黒絽くろろの羽織、白足袋、表打おもてうち駒下駄こまげた蝙蝠傘こうもりがさを持ったのが、根岸御院殿よりのとある横町を入って、五ツ目の冠木門かぶきもんの前に立った。

「そこです、」と、背後うしろから声を懸けたのは、二度目を配る夕景の牛乳屋の若者わかいもので、言い棄てると共に一軒置いて隣邸となりやしきへ入った。おもうにこの横町へ曲ろうというあたりで、処を聞いたものらしい。加茂川の邸へはじめての客と見える、くだんの五ツ紋の青年わかものは、立停たちどまって前後あとさきみまわして猶予ためらっていたのであるが、今牛乳屋ちちやに教えられたので振向いて、

「は、」と、うなずくとひとしく門を開けてすかして見る、と取着とッつきが白木の新しい格子戸、引込ひっこんで奥深く門から敷石が敷いてある。右は黒板塀でこの内に井戸、湯殿などがあろうという、左は竹垣でここから押廻して庭、向うに折曲って縁側が見えた。

 一体いつもこの邸の門前には、馬車か、くるまか、当世の玉の輿こしの着いていないことはない。居廻いまわりの者は誰うとなく加茂川の横町を、根岸の馬車新道ととなえて、それの狭められるために、豆腐屋油屋など、荷のあるやからは通行をしない位であるが、今日は日曜故か、もう晩方であるためか、内も外も人少なげにしんとして、土塀の屋根、樹の蔭などには、二ツ三ツ蚊の声が聞えた。

 されば敷石をなら穿物はきものに音立てて、五ツ紋の青年わかものはつかつかとその格子戸の前。

 ちょうどここへ立った時分に、今開けた門の、からからと鳴る、ばねつきのりんの音がんで、あたかもし、玄関へ書生が取次にあらわれて、あえてものを言うまでもない。

 黙って、坐って、手をいて、顔を見て、澄して控える。

 青年わかものは格子戸を半ば引いたままで、慇懃いんぎんに小腰をかがめ、

「御免下さいまし。」

「はい。」

「ええ、お友達、御免下さいまし、御当家、」ときまって切口上で言出した。調子もおかしく、その蝙蝠傘を脇挟んだ様子、朝夕ちょうせき立入る在来の男女とは、いた行方ゆきかたことにする、案ずるにけだし北海道あたりから先生の名を慕って来た者だろうと、取次はみつめたのである。

 青年わかものはますます鄭重ていちょう

「いかがでございましょうか、お友達、御当家先生様にお目通めどおりが出来ますでございましょうか。」

貴方あなたはどちらから、」

「ええ、手前事は、ええ何でございまして、そのあれでございますよ。」

「はい、」

 人の内の取次というものは、いかなる場合にも真面目なものなり。

「お友達御免をこうむります、手前はその日本橋人形町通り、勝山と申しまして、」

「勝山さん、」取次は聞きれないという顔色かおつき

「いえ、手前がその勝山と申すんじゃあございませんので、」

「ははあ、」

「御当家先生様の、ええ、お弟子でございまして、その勝山と申しますお嬢さんからちょいと頼まれました、手前使つかいの者でございます、少々お目にかかりとうございますが、お宅でいらっしゃいましょうか、お友達、お取次を願いとう存じますんで、へい。」

「先生はお宅ですが、ちょいとお待ち下さい、」と妙な顔をして取次はくるりと入った、青年わかものは我を忘れた風でひょいとそのうなじすくめたが、立直って、えへん内証の咳一咳せきばらい



「さあ、こちらへ、私が加茂川で。はあ、」と仰向あおむいて挨拶をする。これはあえて人を軽蔑するのでもなく、また自ら尊大にするのでもない。加茂川は鬼神おにがみの心をもやわらぐるという歌人うたびとであるのみならず、その気立が優しく、その容貌も優しいので、鼻下、あぎとひげたくわえているが、それさえ人柄に依って威厳的に可恐こわらしゅうはなく、かえって百人一首中なる大宮人のはやしたそれのように、見る者をして古代優美の感を起さしむる、ただしちと四角な顔で、唇は厚く、鼻はひらたい、とばかりでは甚だ野卑に、且つ下俗に聞えるけれども、しずか聞召きこしめせ、色が白い。

 これで七難を隠すというのに、嬰児あかごなつくべき目附と眉の形の物やわらかさ。人は皆鴨川かもがわ(一に加茂川に造る、)君の詞藻は、その眉宇びうの間にあふれるとうのである。

 かかる優美な人物が、客に達するに(はあ、)の調子で仰向くとなっては、いささか性格において矛盾するようであるが、これをいう前に、そのやわらぎのある優しい一双の慈眼を(はあ、)と同時に糸のように細うしてあたかも眠るがごとくに装うことを断っておかねばならぬ。

 その上にいかなればしかするかの理由を説明したら、ますます鴨川の奥床しい用意のほどが知れるであろう。

 紋床でも噂があった、なおこの横町を馬車新道ととなえるのでも解る、弟子の数が極めて多い。殊に華族豪商、いずれも上流の人達で、歌と云えば自然十が九ツまで女流である。

 それのみならず、令夫人が音楽を教えて、後室が茶の湯生花の指南をするのであるから。

 若き時はこれをいましむる色にありで、師弟の間でもこの道はまた格別。花のごとく、玉のごときかんばせに対して、初恋、忍恋しのぶこい互思恋たがいにおもうこいなどという、安からぬ席題を課すような場合に、どんな手爾遠波てにをはの間違が出来ぬとも限らぬ。人木石にあらずおれも男だ、と何も下司げすにタンカを切ったわけではない。歌人うたびとが自分で深くおもんぱかり、すべて婦人の弟子に対する節は、いつもそのべに白粉おしろいかんざし、細い手、雪なすうなじ、帯、八口やつくちあふれるくれないつま帯揚おびあげ工合ぐあいなどに、うっかりとも目の留まらぬよう、仰向いてまなこを塞ぐのが、因習の久しき、ついに性質となったのである。もっとも有数の秀才で、およそ年紀とし二十はたちばかりの時から弟子を取立てた。十年一日のごとく、敬すべき尊むべき感謝すべき心懸けであるから、音楽にけたる鴨川夫人が、かつて弟子のうちの一にんであったことをもって、ごうも先生の品行をあやしんではならぬ。

 世には夫人が、おもて向き結婚してから八月目というのに、女児を流産したといって、云々する者もあるけれども、経典に言わずや、鶴は相見てすなわちはらむ、それ歌人うたびとはこの濁世に処して、あたかもとび烏の中における鶴のごときものであるから、結婚の以前、既にはやを宿さぬというすうはあるまい、従って八月で流産しないとも限らぬのである。夫人は名を才子という、細川氏、父君ちちぎみは以前南方に知事たりしもの、当時さる会社の副頭取を勤めておらるる。この名望家の令嬢で、この先生の令閨れいけいで、その上音楽の名手と謂えば風采のほども推量おしはかられる、次のへや葭戸よしど彼方かなた薔薇ばらかおりほのかにして、時めく気勢けはいはそれであろう。

 五ツ紋の青年わかものは、先刻さっき門内から左に見えた、縁側づきの六畳にかしこまって、くだんの葭戸を見返るなどの不作法はせず、うやうやしく手をいて、

「はじめましてお目にかかります。」



「はあ、貴方あなたがその勝山さんのお使つかい?」と大人うし紅革べにかわ夏蒲団なつぶとんの上に泰悠におわす。此方こなたは五ツ紋の肩をすぼめるまで謹んで、

「さようでございます、へい。」

「御親類の方ですかね。」

「いえ、親類と申しますでもございませんが、ちと懇意に致しますもので、ついこの坂下まで手前用事で参りましたに就いて、彼家あちらから頼まれまして、先生様の御邸へ伺いますように、かねてお世話に相成ります御礼を申上げますよう、またどうぞ何分お願い申上げまするようにと、ことづかりましたんで、へい、めっきりお暑うございますな、」といいながら、たもとを探ると白地の手拭てぬぐいを取出して額を拭った。

「はあ、何、それはわざわざ。」

「実は母親が参りますはずなんでございますが、一体このとかく病身な上、貧乏暇なし、手もございません処から、相済みませんが失礼をいたしまして、」といいかけてまた額の汗を。見る処人形町居廻りから使に頼まれたというが堅気かたぎ商人あきんどとも見えず、米屋町辺の手代とも見えず、中小僧という柄にあらず、書生では無論ない。年若には似ない克明な口上振、時々ものいいの渋るといい、何でも口うつしに口上を習って路々暗誦でもして来たものらしい。

 かかる肌違はだちがいのものに対しては、鴨川大人口を開いて、あえてかみ五文字をも吐くに当らず、

「はあ、」とばかりである。

 葭戸を下の方からそっと開けて、大形の茶碗の底へ、ぽっちり入った結構らしいのを、畳の上へすべらすようにして客の前に推して据えた、高島田の面長で色の白い、品のい、高等な中形の浴衣、帯をお太鼓に結んだ十九ばかりの美人。

 五ツ紋の青年わかものは、ななめにちょっと見たばかりで、はッと言ってこうべを下げ、

「恐入ります奥様、ええお控え下さいまし、手前から申上げます、日本橋区人形町通、」と俯向うつむいたまま手をついて言った。

 茶を持って出た美人は、敷居の外へ半分ばかり出した膝を揃えていたまま、呆気あっけに取られたが、上目づかいで鴨川のおもてうかがうと、かれは目をねむって俯向きながら、頤髯あごひげのむしゃとある中へ苦笑を包んで、

し、」とうなずいて見せたので、葭戸をててすっと消える。

「小間使でありますよ。」と教えたが、たまりかねたか、ふふと笑った。青年わかもの茫然ぼんやり拍子抜のした顔を上げた時、奥のかたで女の笑声。

 此方こなたは面を赤うして、手拭を持った手を額にあて、

「これはどうも、手前不束ふつつかものでございます、へい、実は奥様にはお目にかかってよく御礼をと申しつけられましたものでございますから。ええ、何でございましょうか、奥様はお邸でいらっしゃいましょうか。」

「はあ、りますが。」

「いかがでございましょう、ちょいとお目に、」と御身分おみぶん柄、お家柄、総じては日本の国風を心得ないことを言うのである。

 鴨川は眉をひそめたが、さあらぬ調子で、

「面会日は別にあるです。」

「へい?」

「あれが皆様に別に面会しますのは水曜の午後です。」

「水曜の午後でございますか。」

 鴨川は至極冷淡に、

「はあ、」

 五ツ紋の青年わかものは何か仔細しさいありげに、不心服の色をあらわした。



「ですが、何も別してお手間は取らせません、ちょいといかがでございましょう。」

「誰にもみんなそういうことになっておるですから、」

「へい、ごもっとも様ですが、そこン処をそのお繰合せ下さいまして。」

「たってお逢いなさりたい」と鴨川大人うしきっぱりとなる。

 五ツ紋は慌てた形で、

「いえ、たってと申す訳ではございません。」

「そして何の用ですな。」と改まって尋ねられた。

「その勝山からことづかりましたので、奥様にもお目にかかって御挨拶を。」

「はあ、何、それなれば別にお会い下さるにも及びませんですよ、私から申聞けましょう。そして遠い処をわざわざおいで下さるにも及ばんでした、貴方御苦労でしたな、宜しくどうぞ、ちとこれから出懸けんければならんですから。」

 歌人うたびと住居すまいも早や黄昏たそがれるので、そろそろ蚊遣かやり逐出おいだしを懸けたまえば、図々しいような、世馴れないような、世事に疎いような、また馬鹿律義でもあるような、腰を据えた青年わかものもさすがにそれと推した様子で、

「これはどうも飛んだお邪魔をいたしましてございます、勝山のあの娘も不束なものでございますから、どうぞまた先生様、何分、」と、ここでまたぴったりと平蜘蛛ひらたぐも

「はあ、それは宜しい、」ともう片膝を立てそうにする。

 青年わかものも座を開いてちょいと中腰になったが、懐に手を入れると、長方形の奉書包、真中まんなかへ紅白の水引を懸けてきりりとした貫目のあるのを引出して、てのひらに据え直し、載せるために差して来たか、今まで風も入れなんだ扇子を抜いて、ぱらぱらと開くと、うやうやしくかなめを向うざまに畳の上に押出して、

「軽少でございますが、どうぞおおさめを。」

 と見ると金子きんす五千疋、明治の相場で拾円若干なにがしを、わざと古風に書いてある。

「ああ、こういうことをなすってはけません、そのために、ちゃんと月謝をお入れになることにしてあります。」

「さようおっしゃりましてはお可愧はずかしゅうございます、誠にお麁末そまつで、どうぞ差置かれまし。」

「そうですか、皆様みなさんにもうかねておことわりがしてあるんだのに、何かこういう御心配をなさるから困るよ、ああ、とかく御婦人方は、」と云いながら、その細い目でふと葭戸の内を見着けた。

「おお、お才、そこに……お前差支えがなくばちょっとお逢いなさい、こちらで、」と声を懸ける。

「はい、」と案外軽い返事、さやさやときぬの音がして葭戸越に立姿がちかづいたが、さらりと開けて、浴衣がけの涼しい服装みなり菱田鹿ひったがの子の帯揚をし、夜会結びの毛筋の通った、色が白い上に雪ににおいのするよそおいをして、艶麗あでやかに座に着いたのは、令夫人才子である。

「いらっしゃい、誰方どなた、」と可愛い目で連合つれあいの顔をちょいと見る、年紀としは二十七だそうだが、小造こづくりで、それで緋の菱田鹿の子の帯揚というこのみであるから、二十はたちそこそこに見える位、もっとも十九の時児髷ちごまげに結ったひめで、見る者は十四か五とよりは思わなかった。早朝上野の不忍しのばずの池の蓮見はすみ歩行あるいて、草の露のいと繁きに片褄かたづまを取り上げた白脛しらはぎ背後うしろから見て、既に成女の肉附であるのに一驚を喫した書生がある、その時分から今も相変らず、美しい、若々しい。

 不意の見参げんざんといい、ことに先刻さっき小間使を見てさえ低頭平身した青年わかものの、何とて本尊に対して恐入らざるべき。

 黙って額着ぬかずくと、鴨川大人は御自慢の細君、さもあらんという顔色かおつき、ぐッと澄して、

「勝山さんの使の方です。」



「そう、貴方よくいらっしゃいましたね、勝山さん、あのお夏さん、お変りはないの、ああ、ついこないだおいでなすったのね。」ともっての外御懇のお言葉。

「人形町からでは随分ある。」と鴨川は打頷うちうなずく。

「貴方もあの辺なんですか。」

 青年わかものはやっと口が利けた。

「へい、近所でございまして、」

「遠いんですね、腕車くるまでも随分暑かったでしょう、宅にりましても今日あたりはまた格別なんです、」といいながら純白な麻を細くかさねた、浴衣でも上品な襟をしごいて背後うしろを振向き、

「定や、団扇うちわを持っておいで。」

 小造な若い令夫人は声を懸けて向直ったが返事をしなかったので、

「貴方はばかり様ですが呼鈴よびりんを、」とお睦まじい。

 すなわちかたわらなる一閑張いっかんばりの机、ここで書見をするとも見えず、帙入ちついりの歌の集、蒔絵まきえ巻莨入まきたばこいれ、銀の吸殻おとしなどを並べてある中の呼鈴をとんと強く、あと二ツを軽く、三ツ押すと、チン、リンリンリン──と鳴る、ばたばたと急いで来て、

「はい、」といって顔を出した以前の小間使、先刻意を了したと見えて二本ばかり団扇をそれへ差出す折から、縁側に跫音あしおとして、奥の方からちかづいたが、やがてこの座敷の前の縁、庭樹をめて何となく、隣家となりのでもあるか蚊遣の煙のうっすりと夏の夕を染めたる中へ、しゃであろう、被布を召した白髪しらがを切下げのおうな、見るから気高い御老体。

 それともつかぬさまで座敷を見入ったが、

「御客様かい、貴方あんた御免なさいよ。」といって座に着いた。

あかりをね、」と顔をさし寄せて、令夫人は低声こごえでいう。

 夕暮の徒然つれづれ、老母も期せずしてこの処に会したので、あえて音楽に関して弟子に対するほかは、面会日が水曜とふれの出た令夫人が、次のへやに居合せたり、奥深く世を避けておわす老母が縁側に来合せたりするのが、謝礼金五千疋を持参の者に対する鴨川家の家風ではない。青年わかものけだし期せずして拝顔を得たのであった。

「お初に。どちらの、」とこれも鴨川をちょいと御覧ずる。

「勝山さんのお使ですって、」と令夫人かたわらから引取って引合せる。

「おお、あの何か江戸ッ子の、いつも前垂まえだれ掛けでおいでなさる、活溌な、ふァふァふァ、」と笑って、鯉がを呑んだような口附をする。

 ト一人でさえ太刀打のむずかしい段違だんちがい対手あいてが、ここにかなえと座を組んで、三面六臂ろっぴとなったので、青年わかものは身の置場に窮した形で、汗をき、押拭い、

「へい飛んだ御厄介様で、からもうお転婆でございまして、」

「可いさ。だがの、内なぞははたのおつきあいがおつきあいじゃで、そこはまたな、御婦人じゃから直接じかにいっては赤い顔でもなさると悪いで申さんじゃったが、前掛は止してはかまになさるなぞは、まず第一のお心懸こころがけじゃよ。いや、しかし貴方あんたの前じゃけれどお夏さんは珍しい御容色ごきりょうよし、ほんのこと内なぞはおつきあいがおつきあいじゃから、御華族様から大商人方おおあきんどがたの弟子も沢山見えるけれど、品といい様子といいあのおが一番じゃ。よくしたもので、うえがたはまあ少々はおでこでもそこは事が済みますが、下々しもじもが出世をしようというには、さらりと打明けた処で容色きりょうじゃ。面じゃの、ふァふァふァ、お夏さんなぞは心懸次第またどんな出世でも出来るのじゃ、こっちへ出入ではいってござればおつきあいがおつきあいじゃから、ふァふァふァ。」と鯉呑麩ふをのむの口、蕪村がいわゆる巨口玉を吐くすずきと相似て非なるものなり。


十一


 青年わかものはこれに答うるすべも知らぬさまに、ただじろじろと後室の顔をみまもったが、口よりはまず身を開いて逡巡しりごみして、

「ええ、からもう、」というばかり、逡巡しりごみの上に、なおもじもじ。

「一体何じゃ、内へござるほかの方とはちと気風が違っていなさるから、その辺が何となく御身分のある方とはお交際つきあいがなさりにくいのじゃ、それも心懸こころがけ一ツで、の、ああどうともなります。」と念を入れて喋舌しゃべれば顔も動くし、白い切髪も動いたのである。

「さようでございましょうか、へい、」といってこの泥に酔ったような、あわれな、腑効ふがいない青年わかものは、また額を拭った。汗は流るるばかり、ほとんど取乱した形に見えたので、夫人おくがた才子は、さすがに笑止とやおぼしけん、

「貴方まあお羽織をお脱ぎなさいましよ。」と深切におっしゃりながら、団扇使うちわづかいの片手あおぎに、風を操るがごとくそよそよと右左。

 勿体ない、この風にさえ腰もすわらないほど場打ばうてのしている者の、かかる待遇に会して何と処すべき。

 青年わかものはそわそわしたが、いつの間にか胸紐を外して、その五ツ紋を背後うしろにはらりと、肩をすべらして脱いだのである。

「じゃあ御免を被ってやッつけますぜ。」と素頂天すってんぴんにぞんざいな口を切って、たもとの下をくぐらすと、脱いだ羽織を前へ廻して、臆面おくめんもなく、あなた方のかなえに坐った真中まんなかで、裏返しにしてふわりと拡げた。言語道断、腕まくりで膝を立て、

「借もんだからね、しわにしちゃあ動きが取れませんや、」と、切上ったまなじりに筋を集めてニヤリと笑った。

 余りの思懸けなさに、鴨川の一家いっけ、座にある三人、呆気に取られるひまもなく、とばかりに目を見合せた。中にも才子はその衝に当ったから、風がんだようにじっとする。

 青年わかものは身を斜めに、肩をゆすって才子に突懸つっかけ、

あおぎねえ、へ、奇代な風だ、心持の可い日和だい。遠慮をするこたあねえぜ。こう聞きねえ、実はその団扇使を待ってたんだ。ざまあ見やがれ、」というと、嶮のある目をきっと見据え、今なお座中によこたわって、墨色もあざやかに、五千疋とある奉書包に集めた瞳を、人指指のさきで三方へつつき廻し、

「誰を煽いだつもりだよ、五千疋のお使者が御紋服の旦那だと思うと、はばかんながら違います。目先の見えねえ奴等じゃあねえか、何だと思ってやあがるんだ。手前ことはね、おい、御当所日本橋は人形町通よ、赤煉瓦の学校裏、紋床に役介やっかいになっている下剃したぞりの愛吉てえ、しがねえものよ。串戯じょうだんじゃあねえ、紙包の上書うわがきばかり下目遣いで見てないで、ちッたあ御人体ごじんていを見て物をいねえ。」

「これ!」と向直って膝に手を置いた、後室は育柄そだちがら長刀なぎなた一手ひとても心得ているかして気が強い。

「何を。」

「何じゃな、きさまは一体、」と大人うしは正面に腕を組む。令夫人はものもいわずと後向きになりたまう。後室は声鋭く、

「無法者め!」

「いよ。お、聞えます聞えます、」

 羽織を脱いで本性をあらわした、紋床の愛吉は薄笑うすわらいをして、

「歌の先生、どうだ歌先、ちょっと奥さん、はははは、今日こんちア。」と、けろりと天井を仰いだが、陶然として酔える顔色がんしょく、フフンといって中音になり、

「──九はやまい五七の雨にツひでりサ──」


十二


 ふすまも畳も天井も黄昏たそがれの色がこもったのに、座はただ白け返った処へ、一道の火光さっ葭戸よしどを透いて、やがて台附の洋燈ランプをそれへ、小間使の光は、団扇を手にしたまま背向うしろむきになっている才子のかたわらへ、そッと差置いて退さがろうとする。

「待ちねえ。」

 というがはやいか、愛吉は手をのばしてむずとそのたもととらえた。

「あれ、」

げるない、どうだ、うことをかねえか、うむといやあ夫婦めおとになるぜ。」

御串戯ごじょうだんを遊ばしまし、」と女中は何事も知らないのであるから、つい通りの客とばかり、酒も飲まないのにと、驚いて変に思う。

「何、串戯なものか真剣だ、ずっと寄んねえ、内証ないしょ話は近い方がい、」と、ぐいと引くと、身体からだななめなびく処を、足を挙げて小間使の膝の上に乗せた、傍若無人の振舞。

「何をするか、」

「光!」とたまりかねて大人と後室、いつは無法者を、一は小間使を、ほとんど同時に同音に叱咤しったした。

 小間使こそ、膝は犯される、主人には叱られる、ばたばたと身をもだえ、命の瀬戸際と振放してフイとげた。

 愛吉は腕をそらし、脚を投出したまま哄然こうぜんとして、

「ははははおもしろい、うぬ! 嫌われて何がおもしろい。畜生、」と自らあざけって、くさみを仕損ったように眉をひそめ、口をゆがめて頬桁ほおげたをびっしゃり平手でくらわし、

ざまあねえ、こんなお大名の内にも感心に話せそうなのが居ると思ったがやっぱりいけねえ、ぐうたらのおたんちんだ。おれつらつきが気に喰わねえそうだ、分らねえ阿魔あまじゃあねえか。やい、」と才子がかかとをかさねた腰に近き、その脚で畳をたが、おとがいを突出した反身そりみの顔を、鴨川と後室の方へ捻向ねじむけて、

汝等うぬら一体節穴を盗んで来て鼻の両方へ御丁寧に並べてやあがるな。きょろきょろするない、こうにらむない、蛙になるぜえ、黙って目をねむって、耳の穴を開けて聞け。私等わっちらはたけのよ、勝山さんのお夏さんを何だと思ってるんだ、何と見損いやあがったい、いけ巫山戯ふざけた真似をしやあがって、何だ小股こまたがしまってりゃ附合がむずかしい? べらぼうめ、はばかんながら大橋からこっちの床屋はな、山の手の新店だっても田舎の渡職人わたりじょくにん附合つきええはしねえんだ、おともだち、お気の毒だが附合はこっちでおことわりだ。

 それもよ、行儀なら行儀をしつけようてえ真実からした事なら、どうせお前達めえたちはお夏さんにゃあお師匠様だ、先生だ、わっちが紋床の拭掃除ふきそうじをするのとかわりはねえ、体操でも何でもすら。そうじゃあねえか、これがな、おめえか、ばばあか、またこの御新造様ごしんぞさまなら仔細しさいはねえ、よしんば仔細があった処で泣く子と地頭だ、かれこれいって来る筋じゃあねえ。へん、何曜日とやらの午後でなくっちゃあつらあ出さねえとおっしゃる方が、少しばかり実のある紙包が出ると、たちまちおひきつけへ出てござって、どうだい、下剃のこの愛こうを団扇であおぐだろうじゃねえか。第一、婆の空お世辞が気にくわねえや、何ていう口つきだ、もう一度あの、ふァふァをらねえか。いや、たとえようのない異変な声だぜ、その饒舌しゃべる時の歯ぐきの工合な、先生様の嫌な目つきよ、奥方のこの足のうらまでちゃんと探鑿たんさくが届いて、五千疋で退治に来たんだ、さあ、尋常に覚悟をしやがれ、此奴等こいつら!」

 愛吉はせたのを高胡坐たかあぐらに組んで開き直る。


十三


「震えるない震えるない、何もそう、しゃけ天窓あたまを刻むようにぶりぶりするこたあねえ、なぐり込に来たのなら、たすきがけで顱巻はちまきよ、剃刀かみそりでも用意をしていらあ。生命いのちに別条はねえんだから騒ぐにゃあ当らねえ、おう、奥様おくさんちょいと、おい、先刻さっきのようにお暑うございますとか何とかって、その団扇でわっちをば煽いでくんねえ、煽ぎねえよ、さあ煽げ、煽げ、煽がねえかい。」と、愛吉は目の色の変るまで対手あいての三人をきっめて、手も足も突張つッぱり返った。

母様おかあさま、」と才子はと身を起しざまに、愛吉をけてった。

貴郎あなたもお立ちなさいまし、狂人きちがいですわ。」と、さも侮り軽んじたごとき調子で落しめて言うのにして、

「狂人だ。」

「うむ狂人じゃ、巡査に引渡すがいじゃろ。」

「さあ、引渡せ、そうでなきゃあ団扇で煽げ、」と愛吉は仰向あおむけに寝て大の字なりてこでも動きそうな様子はない。謂う処に依れば才子に思うさま煽がせさえすれば、畳にはやした根も葉も無く、愛吉は退散しそうに見える。

 あんずるに煽ぐという字は火偏に扇である、しかればますますやっこほのおさかんになっても、消えて鎮まるべき道理はないが、そのかかることをいい、さることをすは、深き仔細があったので。

 愛吉は紋床で謂った、鴨川はそのかたきで親のあだとも思ううらみがある、それはかれがかねて愛顧をこうむる勝山のむすめお夏というのに就いたことである。

 今より五日ばかりの前、振袖立矢たてやの字、児髷ちごまげ、高島田、夜会むすびなどいう出入ではいりの弟子達とはいたく趣の異なった、銀杏返いちょうがえしの飾らないのが、中形の浴衣に繻子しゅすの帯、二枚裏の雪駄穿せったばき、紫の風呂敷包、清書を入れたのを小さく結んで、これをまくり手にした透通るように色の白い二の腕にかけて、その手に日傘をさした下町のむすめ風、服装みなりより容色きりょうの目立つのが一人、馬車新道へ入って来たことがあろう、それがお夏であった。

 お夏は人形町通の裏町から出て、その日、日本橋で鉄道馬車に乗って上野で下りたが、山下、坂本通は人足繁く、日蔭はなし、停車場居廻ステエションいまわりの車夫の目もうるさいので、根岸へくのに道を黒門に取って、公園を横切った。

 あとさきみちは歩いたり、中の馬車も人の出入ではいり、半月ばかりのひでり続きでけた砂をったような東京の市街まちの一面に、一条ひとすじ足跡を印してよぎったから、砂は浴びる、ほこりはかかる、汗にはなる、分けて足のうらのざらざらするのが堪難たえがたい、生来うまれつきの潔癖、しげみの動く涼しい風にも眉をひそめて歩を移すと、博物館の此方こなた、時事新報の大看板のある樹立こだちの下に、吹上げの井戸があって、といの口からあふれる水があたかも水晶を手繰るよう。

 お夏はかざしていた日傘の柄を横に倒してじっと見たが、右手めてに商品陳列所の外囲そとがわが白ずんで、窓々の硝子がらすがぼやけて見えるばかりか、蝉の声さえ地の下に沈んで、人気はなく、近づいて来る跫音あしおともしない。もっともここに来る道で谷中やなかから朝顔の鉢を配る荷車二三台に行逢ったばかりであるから、そのまま日傘を地の上へ投げるように置いて、お夏はほっといきをついた。


十四


 かいなにかけていた紫の風呂敷包は、輪を外して日傘の上。お夏はたもとから手巾ハンケチを出して、くだんの水に浸しながら、手をぬぐい、襟を拭い、胸を拭い、足を冷して埃を洗って、さっとあとを絞出したが、懐にせんも袂にせんも、びっしょり濡れているから、手巾ハンケチをそのまま日傘の柄に持ち添えて、気軽に雪踏せったちゃらちゃらと、鴨川が根岸の家へ急いだのであった。

 鶯谷うぐいすだにを下りて御院殿をかたえに見て、かの横町へ入ると中ほどの鴨川の門の前に、二頭立の馬車が一台、幅一杯になって着いていた。

 月に三度あるいは二度、十四から通うて二十はたちの今まで、いわゆる玉の輿こしがこの門に在ることは、あえて珍しくはないのであったが、かくまで道を塞いで、ほしいままに横附けになっていたのは、はじめて。

 もとより豆腐売、油屋など、荷のあるたぐいはあらかじめこの一条ひとすじの横町は使わぬことになってるけれども、人一人、別けて肩幅のほっそりした女、車の歯を抜けても入られそうに見えるけれども、たくましい鼠色の馬のつらが、小鼻を動かし、呼吸いきを吹いて正面まともに門の処に並んでいるので、お夏は日傘をたてにしてあなたこなた隙間すきま差覗さしのぞくがごとくにしたが進みかねた。

(どなたか、ちょいと、私、用があるんですから。)

 声を懸けると三人が三人、三体の羅漢らかんのように、御者台の上と下に仏頂面を並べたのが、じろりと見て、中にも薄髯うすひげのある一体が、

(用があるなら勝手口へ廻れ、)とつッけんどんに陀羅尼音だらにおんでいったのである。

 対手あいては馬二匹と男が三人、はじめから気を呑まれてお夏は、

(はい、)といって、小戻こもどりをして、黒塀の板戸の角、鴨川勝手口とある処へ引返ひっかえしたが、何となくそのこうべを垂れた。

 されば誰はばかるというではないが、戸を開けるのも極めて内端うちはじゃあったけれども、これがまた台所の板の間に足を踏伸ばし、口を開けてめじりを垂れていた、八ツさがりの飯炊の耳には恐しく響いたので、(騒々しいじゃあないか、誰だよ。)と頓興とんきょうに、驚かされた腹立紛れ。勝手口から入るものには、この位なことをいって差支えないのであろう。

(お休みの処を、済みません、)と丁寧に小腰をかゞめて挨拶あいさつをしたが、うっかり禁句とは心着かなかった。飯炊はつらを膨らして、

(へん、ちゃぶ屋の姉さんじゃあるまいし、夜更よふけにお客は取りませんからね、昼間寝たりなんかしませんよ、はい、憚様はばかりさまでございますよ、いたのはそこに出してあら、)といいずてにのびをして、ふてくされてふいと立った。小間使はともあれ半季がわりの下働きは、かみの弟子なる勝山さえを知らずして、その浴衣、その帯、その雪踏、殊に寝惚目ねぼけめなり、おひるに何か取ったらしい、近いあたりの鳥屋の女中と間違えたのである。お夏は思わず、芙蓉ふようかんばせくれないそそいだ。

 飯炊が居なくなってははかま穿いたいつもの書生が取次に出る場所ではない、勝手は分らず、くわえて振りつけられたような山出しのむく犬を、また呼び出そうという声は持たず、お夏は人いきれに悩んだごとくうっかりしてたたずんだが、我知らずうるんだ目のまなじりの切れたので左手ゆんでを見ると、見透みすかさるる庭の模様、百合の花にも、松の木の振にも、何となく見覚えがある、たしかに座敷から眺めの処、師の君は彼処かしこにこそ。

 お夏は身を忍ぶがごとく思いなしつつ。


十五


 鳳仙花ほうせんかの、草にまじって二並ふたならびばかり紅白の咲きこぼるる土塀際をはすに切って、小さな築山のすそめぐると池がある。このみぎわおおうて棚の上にはびこかさな葡萄ぶどうの葉蔭に、まだ薄々と開いたまま、花壇の鉢に朝顔の淡きが種々いろいろ

 あたかもその大輪おおりんかついだよう、うすものくれない襦袢じゅばんすかして、濃いお納戸地に銀泥をもって水に撫子なでしこを描いた繻珍しゅちんの帯を、せなに高々と、紫菱田鹿の子の帯上を派手に結んだ、高島田で品のい、縁側を横にして風采四辺あたりを払うのが、飛石にかかるとまばゆくお夏の瞳に映じた。

 机を置いてこれに対し、浴衣に縮緬ちりめん扱帯しごきめて、ひじをつき、けざまの目をねむるがごとくなるは、謂うまでもなく鴨川であった。

 二人の中に、やや座を開いて控えたのは、すなわちこれ才子の御方おんかた

 お夏は蝶々髷の頃から来馴れているし、殊にその時三人が座を構えたる一室のごとき、いつも入込いれごみおしえを授かる、居心の知れた座敷ではあったけれども、不断とは勝手が違った庭口から案内なしの推参である上に、門でも裏でも取ってつけない挨拶をされた先刻さっきの今なり、来客らいかくの目覚しさ、それにもこれにも、気臆きおくれがして、思わず花壇の前に立留まると、うなじからつまさきまで、の葉も遮らずかっとして日光した。

 才子は正面まともに、鴨川は横目に、あてなる令嬢を振返って、一斉に此方こなたを見向いた時、お夏は会釈も仕後しおくれて、畳んだ手巾ハンケチ掻撮かいつまんで前髪の処にかざしたのである。

 応とでも言葉がかかれば、取縋とりすがる法もあるけれども、対手あいて方はそれなり口も利かなかった咄嗟とっさの間、お夏は船納涼ふなすずみ転寝うたたねにもついぞ覚えぬ、冷たさを身に感じて、人心地もなく小刻こきざみにつかつかときびすを返した。

 鳳仙花の咲いた処でぬっと出て来たのは玄関番、洗晒あらいざらした筒袖の浴衣に、白地棒縞の袴を穿いた、見知越みしりごしの書生で、

(やあ、貴女あなたでありますか、勝手に居た女中が女の明巣覗あきすねらいが入ったっていうですからな。はははは、何を寝惚けおって。さあ、お通りなさいまし、馬鹿な、)と気抜けのした様子。

(はい、御門の処に馬車が居てこおうございましたから間違えてこっちへ参りました、どうも失礼。)

(いや、飛んだ不都合でありました、ずっとおいでなさい。ちょうど御来客で先生はそこのお座敷にいらっしゃいます。)とこの者だけは調子が可い。

憚様はばかりさまですがちょいとそうおっしゃって下さいましな、またお客様で御邪魔だと悪うございます。)

なあに山河内やまこうち様のお姫様ひいさまで、同じお弟子なんでありますから構いません、いらっしゃい。)といい棄てて、この暑いに袴を穿かせるほどな家風、一体婦人を対手あいての業体、歌所はしつけのいいもので、ニヤリともせず真面目くさり、ひげのない男の手持なげに、見事な面皰にきびを爪探りながら、勝手の方に引込ひっこんでしまった。

 お夏は帰るにも帰られず、折角の取次にも向うから遠慮されて、いた便たよりを失ったが、暑さは暑し弱い身の、日向ひなたに立っていられるすうではないから、むことを得ず、思い切って気の進まないのを元の処へ引返ひっかえすと、我にもあらずおずおずして、差俯向さしうつむいて、姫と、師と、その夫人とおわす縁側へ行って、両手をついたが、天窓あたまから叱りつけでもされるように、お夏は消入るおもいがした。


十六


 お夏はようよう座に着いたが、鴨川が澄して見もせぬ目よりも、才子がつんとしている胸よりも、山河内の姫様というのが、膝に置いた手の宝玉入の指輪よりも、真先まっさきに気が着いたのは、大人うしが机のそばに差置かれたる、水引のかかった進物の包であった。

 今こそ人形町の裏通に母親と自分と二人ぐらし、柳屋という小さな絵草紙屋をしているけれども、父が存生ぞんじょうの頃は、隅田川を前に控え、洲崎すさきの海をうしろいだき、富士筑波を右左に眺め、池に土塀をめぐらして、石垣高く積累つみかさねた、五ツの屋の棟、三ツの蔵、いろは四十七の納屋を構え、番頭小僧、召使、三十有余人を一家いっけめて、信州、飛騨ひだ越後路えちごじ、甲州筋、諸国の深山幽谷ゆうこくの鬼を驚かし、魔をおびやかして、谷川へ伐出きりだす杉ひのきかしわを八方より積込ませ、漕入こぎいれさせ、納屋にも池にも貯うること乱杭逆茂木らんぐいさかもぎを打ったるごとく、要害堅固にいしずえを立てた一城の主人あるじといってもい、深川木場の材木問屋、勝山重助の一粒種。汗のある手は当てない秘蔵で、芽の出づる頃より、ふた葉の頃より、枝をめず、ふりは直さず、我儘わがままをさして甘やかした、千代田のたつみ生抜はえぬきの気象もの。

 随分派手を尽したのであるから、以前に較べてこの頃の不如意に、したくても出来ない師家への義理、紫の風呂敷包の中には、ただ清書と詠草の綴じたのが入っているばかりの仕誼しぎ、わけを知ってるだけに、ひがみもあれば気がけるのに、目の前に異彩を放つ山河内の姫が馬車に積んで来た一件物、お夏はまた一倍肩身が狭くなるのであった。

 されば気のくじけた声も弱く、

(お暑うございます、)と手をついて挨拶して、ものもいってくれぬ師匠夫婦が気色けしきのほどを伺うと、ほたるたたりがあるのでもないから、因縁事でもあるまいけれども、才子はその時も手にしていた深草形の団扇を膝の真中まんなかあたりで、じっと凝視みつめて黙っていたが、顔を上げると、何と思ったか、半白という上目づかいに、お夏のおもてをじろりと見て、

(ああ、暑うございますこと、勝山さんあなたお客様をあおいで下さい、私はちょいとあちらへ参りますから、)と畳へ団扇をすべらして、お夏の身近う突いて寄越よこし、(失礼を、)と姫にいって、そのままふいと座を立った。

 お夏は聞正ききただすまでもなく、疑うまでもない、明かに、ちょうど自分が居る背後うしろから煽ぎ参らせよ、といわれたのである。

 それ、頼まるれば越後から米搗こめつきにさえ出て来る位、分けて師の内室うちぎみおおせであるのに、お夏は顔の色を変えてためらった。

(そうだ、勝山さん煽いでお上げ、)とお夏がただちに命を奉ぜぬのを、歌詠うたよみの大人は寛仁大度、柔かに教えるがごとく仰せられる。

 それでも黙って俯向うつむいていた。

 鴨川はまた優しい声して、

(分りませんか、あのね、今才がそういったのはね、あちらに用があってくから、あなた、そこにありますその団扇で、お客様を煽いで下さいと言ったんです。)

(はい。)

(分りませんか、あのね、今才がそういったのはね、あちらに用があって行くから、あなた、そこにありますその団扇で、)

 お夏はたまらず団扇を持って、姫がうすものの袂を煽いだのであった。


十七


「先生、おしいことをしました、おんなじ一杯回生剤きつけを頂かして下さるのなら、先方むこうへ参りませんさきに、こうやって、」

 と麦酒ビイル硝子杯コップ一呼吸ひといきに引いて、威勢よく卓子テエブルの上に置いた、愛吉は汚れた浴衣の腕まくりで、遠山金之助と、広小路の麦酒ビイヤホールの一方を領している。

「五六杯引掛ひっかけておきゃ、半分は酒が手伝ってあばれてくれます、何しろしらふなんで、」といいかけて、迫った眉根を寄せたのである。

 金之助は腰をかけたまま、両手で椅子をおさえて卓子に胸を附着くッつけて、

「大向うが喝采やんやでない迄も謹んで演劇しばいをする分にゃあ仕損ないが少ないさ、酔っぱらって出懸けてみなさい、ほかの酔っぱらいと酔っぱらいが違うんだよ。愛吉さん、お前が酒と連立ったんじゃ、向上のっけから鴨川で対手あいてになってくれやしない、序幕に出した強談場ゆすりばだし、若干金なにがしかこっちから持込というのだから、役不足だったろう、まあ飲むがい、」と笑っている。

「どういたしまして相済みません、わっしあね、先生、書生や車夫くるやまなんぞが居るてますから、掴出つかみだす位なことはするだろうと思ってね、そうしたら一番撲倒はりたおしておいて、そいつをしおに消えようと思ったんだが、まるで足腰が立たねえんです。まだね先生、そりゃうございますが、彼奴等あいつら人を狂人きちがいにしやあがってさ、寄付よッつきゃしませんでした、男ごかしだの、たてごかしだのは幾らもあるんだけれど、狂人ごかしは私あはじめてなんで、躍るようなてッつきで引上げて参りましたがね、ええ、お羽織はお返し申します。」

 愛吉は胸紐を巻込んで、懐に小さく畳んで持って来た、来歴のあるかの五ツ紋を取出して、卓子の上なる蘇鉄そてつの鉢物の蔭に載せた、電燈の光はその葉をすかして、涼しげに麦酒ビイル硝子杯コップに映るのである。

「ですが先生、下司げすは下司で、この羽織を着た窮屈さッたらありませんでしたぜ、わっしあ思いますが、この上にはかまでも穿いた日にゃ、たって獄舎ごくやくるしみでさ。」

「それでもよくお前ごまかしたな。」

先方さきじゃあおもいもつかなかったからでしょう、あのお夏さんに、こんな友達があると思った日にゃ、に人間の情婦いろが出来るとあきらめなけりゃなりません、へい、希代なもんです。」とまたあおる。

沢山たんとおあがり、どうだね。」

「済みません、どうも五千疋御散財をかけました上に御羽織を拝借、その上御馳走ごちそうでございます。ほんとうに先生は、金主と作者と、衣裳方いしょうかたと、振つけと、御見物とかねて下さるんだ、本雨の立廻りか、せめてのことにきずでもつけるんでなくっちゃあ御贔屓効ごひいきがいがねえんですが、山が小せえんだね、愛宕あたごの石段を上るほどもないんですからね、」

「だって、ちょいとでも煽がせて来たら可いだろう、仕返しはそれだけで十分さ、私も勝山というそのおんなの様子を聞いてさぞ心外だったろうと思ったから。一体風のよくない御公家おくげでな、しみったれに取りたがる評判の対手あいてだから、ついお前の話に乗ってお茶番を仕組んで上げたようなものの、これが道理から言って見なさい、師匠と親は無理な者と思えと、世間じゃあいうんだよ。弟子にお客を煽がした位、手近な物を取ってくれも同然さ。しゃくに障ったの、口惜くやしいのと、怪しからん心得違いだと、かえってお前さん達の方を言い落さなけりゃならない訳だよ。」

「へい、おッきにさようでございます。」と愛吉の神妙さ。


十八


「はははは、真面目まじめになるな、真面目になるな、ぐッとまた一杯ひとつ景気をつけて、さあ、此方方こなたかた楽屋うちとなって考えると面白い、馬鹿に気に入った、痛快ということだ。」

 金之助は色気のないおくびをし、垢抜あかぬけのした目のふちに色を染め、呼吸いきをフッと向うへ吹いて、両手で額を支えたが、

い、可い、ああ溜飲りゅういんの下る話だ、五千疋の顔を見りゃ、知事公の令嬢で歌所の奥方が、床屋の役介者やっかいもの──まあそうしておけよ──役介者をあおごうという当世に、お世辞をいって紅白の縮緬ちりめんでも拝領しようという気はなしに、師匠が華族様を煽がせたといって、やけに腹を立てた柳屋のも難有ありがたい。人事ひとごととは思わないで、それをまた親の敵ほどにしゃくに障らしたお前も私あ嬉しい。理窟はなしにとぼけていて飛んだ可いが、いや、大人気もなくその尻馬に乗って、利のつく金を若干なにがしと痛んだ、この遠山先生も悪くはあるまい、」と金之助は独りで莞爾々々にこにこ

「話せらあ、話せらあ、こいつあ話せらあ。無暗むやみに飲めます。」と愛吉はがぶりがぶり、狼と熊とが親類になったような有様で。

「理窟はないとおっしゃいますがね、先生、時と場合と代物しろものに因るんですよ。何も口のはたつねられるばかりが口惜くやしいというんじゃアありません、時に因りますとね、蚊が一疋留まったのがまむしに食われたより辛うございます。わっしあね、親孝行な奴が感心だというんじゃあねえんで、へい、不孝な奴でもえらいといいます。へい、盗人どろぼうだって気に入るのがあるし、ほどこしをする奴に撲倒はりたおしてやりたいのがありますね。不動様は贔屓ひいきですが、念仏は大嫌だいきらい。水ごりを取ってそれが主人のためなんだと聞いたって、びくともしやあしねえんで、お三どんがひびを切らしたってそれが不便ふびんというんじゃありません、そんなのははじめッからその気でつき合っているんですからね、甘いことをいうと附上りまさ、癖になりますからね、煑酢にえずをぶッかけときゃあ可いんです、べらぼうめ、ヘッ、」といって、顔をしかめ、

「無法なことをいうと吃逆しゃっくりを出させるぞ。ヘッ、不可いけねえ、ヘッ、いやどうしやがった、ヘッ、何のこッたい、ヘッ驚きましたな。先生、そ、それですがお夏さんの団扇じゃあ恐しくきもえました、理窟はねえんです、いえ、理窟がねえんじゃあございませんや、けれどもその理窟は分りません。ヘッ、おい後生だ、ヘッ、何のこッた。」

 愛吉はぐッたりとこうべれて、ふらりとしていたが、

「お待ち下さい、待っておくんなさいまし。ええと、先生、こうです。何だってその、あの毛唐人奴けとうじんめ等、勝山のお嬢さん、今じゃあ柳屋の姉さんだ、それでも柳橋葭町よしちょうあたりで、今の田圃たんぼ源之助きのくにやだの、ぜんの田之助にているのさえ、何の不足があるか、お夏さんが通るのを見ると、大騒動おおさわぎをやりますぜ。柳屋のお夏さんとはいわないで、お夏さんの柳屋、お夏さんの柳屋ッて、花がるたを買いに来まさ。何だ畜生、上野の下あたりに潜ってやあがって、歌読もすさまじい、糸瓜へちまとも思うんじゃあねえ。茄子なすを食ってる蟋蟀きりざりす野郎の癖に、百文なみに扱いやあがって、お姫様を煽げ、べらぼうめ。あの、先生、ここなんですがね、理窟はわっしあ分ってます、お夏さんは、うまれつき団扇ッてものは人を煽ぐものだッてことはかいきし知っちゃあいないんです。」

「うむ、まず。」


十九


 愛吉は思わずまた吃逆しゃっくりをして、

「ヘッ、いや怨敵おんてき退散。真面目な所へ吃逆はなさけない。そうじゃあございませんか、深川の家に居なすった時なんざ、団扇を持って、自分を煽いだ事だって滅多には無かったでしょう。私あ上りまして見ましたがね、お夏さんが行水を使って、立膝でこう浴衣の袖で襟をいてると、女中がね、背後うしろ団扇車うちわぐるまってやつをくるくるとやってました、洗髪あらいがみだし、色は白し、」

 と酔眼をみはって苦い顔で、

「庭の植木からはしずくこぼれます、たもとだの、すそだの、その風でそよそよして、ぞッとするような美しさ、ほんとうに深川中の涼しいのを一人で引受けていなさるようで、見る者も悪汗が引込ひっこんだんです。

 幾ら相場が狂ったって、日本橋から馬車に乗って、上野をてくで、道端の井戸で身体からだを洗って、蟋蟀きりぎりすの巣へへえってさ、山出しにけんつくを喰って、不景気な。この温気うんきに何と、薄いものにしろ襦袢じゅばんと合して三枚もかさねている、うだった阿魔女あまっちょを煽がせられようとは思やしません、私はじめ夢のようでさ、胸気むねきじゃアありませんか。」

いや、まあそんなに怒るな、はたに居る者が怯気々々びくびくする。」

「御免なさいまし。つい、」といって愛吉は苦笑した。

 金之助はややあらたまり、

「何しろ以前は大した栄耀えようをしたものらしい。」と自ら語りうなずいて且つ愛吉のおもてを見た。

「じゃあお前はせんからの知己ちかづきか、紋床に居て近所だから絵草紙屋と懇意になったというんじゃあないのかね。」

 関係のいかんをあやしんでそれとはなく尋ねたのが、愛吉に直ぐ読めて、

「おかしゅうございましょう、先生、檜舞台の立女形たておやま私等わっしらみたような涼み芝居の三下が知己ちかづきッてのもすさまじいんですが、失礼御免で、まあ横ずわりにでもなって、口を利くのには仔細しさいがなくッちゃあなりませんとも。」

「成程、ありそうな仔細だよ。まず飲んで、ふむ。」

過年いつか、水天宮様の縁日の晩でしたっけ、大通おおどおりのごッた返す処をちっとばかり横町へ遠のいて明治座へこうという麺麭屋パンやの物置の前に、常店じょうみせで今でも出ていまさ、盲目めくらの女の三味線を弾くのがあります。投銭にはちゃちゃらかちゃんなんて古風な流行唄はやりうたをやってますが、い声で、ぞッとするような明烏あけがらすをやりますんでね。わっしあ例のへべれけで、素見ひやかし数の子か何か、鼻唄で、銭のねえふてくされ。おう、つとめする身のままならぬテッテチチンテッテチチンリンリン==いつぞやぬし居続いつづけ寝衣ねまきのままに引寄せて==を聞かしねえ、後生だ。こうお客にすりゃ御損がく、情人いろにして不足のねえからっけつ曾我の十郎てえおあにいさんだ、頼むぜ、と取巻いた人立を割って怒鳴り込んだんでさ。ひょろひょろしながら先生、」といって、愛吉は椅子にかかりながら身悶みもだえをして見せた、金之助はやけにあごでて、

「悪くない、うむ、そうすると、」

「いつも交返まぜッかえすんだから盲目めくらめ、声を知ってまさ、かねてお気にゃあ入らなかったと見えて、

(ああ、弾くがね、お鳥目をおくれ。)

(何を!)

(私の新内はばら銭じゃあ聞かせないんだよ。)ッて言いましたぜ、先生、御存じじゃありませんか、年増で縁日を稼ぐ癖に、い女でさ。」


二十


 ここに愛吉が金之助に話したことは、ちょうど二年前、一昨年おととしの晩春の事で。

 愛吉は今に到ってもおとなしくない、その時分もおとなしくなかったが、恐らくいつまでもおとなしくないのであろう。

 いうがごとく、縁日かせぎ門附かどづけも利かない気で、へべれけの愛吉が意にさからい、あたいを払わなければわざは見せぬ、おあしがなくっていて、それでたってすごい処を聞きたいなら、さきに立って提灯ちょうちんは持たずとも、月夜に背後うしろからついて来て、お花主とくいかどでやる処を、こぼれ聞きに聞いたらいと、愛嬌あいきょうの無いことをったそうな。

 二ふりおのと、一ちょう剃刀かみそり、得物こそ違え、気象は同一おなじ、黒旋風紋床の愛吉。きちがいみずは過している、懐にはふてている。殊に人立の中のこと、へこまされたつら握拳にぎりこぶしなかだかになってあらわれ、支うる者を三方へ振飛ばして、正面から門附の胸をつかんだ。紋床の若いのが酔ったといえば、交番でも棄てて置くは、店の邪魔はせず、往来ゆききには突懸つッかからず、ひょろついた揚句が大道へ筋違すじかいに寝て、捨鐘を打てば起きてくまで、当障あたりさわりはないからであったに、そのは何と間違ったか、門附の天窓あたま束髪たばねがみのまま砕けて取れよう、啊呀あわやはたの者。

(あれ!)

(畜生さあ、鳴かねえ鶯なら絞殺して附焼だ。)と愛吉はちらつくまなこ、二三度なぐりはずして、ひとり蹌踉よろけざまにまた揮上ふりあげた。

 握拳をしっかり掴んで、力任せにうしろへ引放した者がある。

つらを見ろ、)

(や、)

あおくなれ蒼くなれ、やっこ、居酒屋のしたみめやあがって何だその赤い顔は贅沢ぜいたくだい、おれ注連縄しめなわを張った町内、てめえのような孑孑ぼうふらかない筈だ、どこの流尻ながしじりから紛れ込みやあがった。)と頭ごかし、前後に同一おなじような、あわせ三尺帯の若衆わかいしゅは大勢居たが、大将軍のような顔色かおつきで叱ったのは、なまずの伝六といって、ぬらくらの親方株、月々の三十一日みそかには昼間から寄席よせを仕切って総温習そうざらいを催す、素人義太夫の切前きりまえを語ろうというおことであった。

 過日いつぞやその温習さらいの時、諸事周旋顔に伝六木戸へ大胡坐おおあぐらを掻込んでいて、通りかかった紋床を、おう、と呼留め、つい忙しくって身が抜けねえ、切前にゃあ高座へ上るのだから、ちょいと道具を持って来てひげだけあたってくんなよ、と言種いいぐさが横柄な上、かねて売れたがまえ顔色がんしょくを癪に障らしていた、稲荷いなりさんの紋三もんざ、人を馬鹿にすンな、内に昼寝をしてる処へ、意休が髯を持込んだって気に向かなけりゃお断り申すんだぜ、はゞかんながらこの稲荷はな、寄席へ出開帳でがいちょうはしねえんだ、あばよ、一昨日おととい来い、とフイと通過ぎたことがあるから、坊主が憎けりゃ袈裟けさまでの筆法で、同一おなじ内の愛吉にも含んだ意味があるらしかった。

(放せ、やい、愛の手ッ首は細いッてよ、女の子が加減をして握るぜえ、このなまずめ。)といきなり取られた手を振切って、愛吉は下駄を脱いで飛蒐とびかかった、いきおいに恐れて伝六はたじたじと退さがったが、附いていた若いしゅがむらむらと押取おっとり包んで、胴上げにして放り出した。

 愛吉は足も立たず、腰も立たず、のめッているのを、いや、踏むやら、蹴るやら。これを笑いずてに尻をまくった鯰の伝六を真先まっさきに、若者わかいものの立去ったあとで、口惜くやしい! とばかりぶるぶるとふるえて突立つったったが、愛吉は血だらけになっていたのである。


二十一


 築地明石町あかしちょうに山の井光起みつおきといって、府下第一流の国手がある、年紀としはまだわかいけれども、医科大学の業をえると、ぐ一年志願兵に出て軍隊附になった、その経験のある上に、第二病院の外科の医員で、且つ自宅でも診察に応じている。

 口寡くちすくなで、深切で、さらりと物にかかわらず、それで柔和で、品が打上り、と見ると貴公子の風采あり、疾病やまいに心細い患者はそれだけでも懐しいのに、謂うがごとき人品。それに信州、能登、越後などから修業に出て来て、訛沢山なまりだくさんで、お舌をなどという風ではない。光起の亡き父も、義庵と称して聞えた典薬頭てんやくのかみ、今も残っている門内左手ゆんでの方の柳の下なる、このあたりに珍しい掘井戸の水は自然の神薬、大概の病はこれを汲めばと謂い伝えて、折々は竹筒、瓶、徳利を持参で集るほどで。

 先代の信用に当若先生の評判、午後ひるからは病院に通勤する朝の内だけは、内科と外科としかるべき助手を両名使って、なお詰めかける患者を引受け切れず、外神田に地を選んで、住所の町名をそのまま、明石あかし病院というのを私立で当時建築中、ここで山の手の病家を喰留めようといういきおい

 山の井の家には薬局、受附など真白まっしろな筒袖の上衣をまとって、粛々と神の使であるがごとく立働くのが七人居て、車夫が一人、女中が三人。但しまだ独身であるから、女は居ても何となく書生が寄合ったという遣放やりっぱなしな処があって、悪く片附かないかまえの、かくさず明らさまなのが一際奥床しい。

 記者遠山金之助は、愛吉からこの山の井の名を聞くと、一層、聞く話に身が入った、けだしかねて自分は医学士と別懇であったせいである。

 さるほどに愛吉はなまずの伝六一輩に突転ばされて、身体五六ヶ所に擦疵すりきず、打たれ疵など、殊に斬られも破られもしないが、背中の疼痛いたみが容易でない。

 もっとも怪我をした当夜は、足を引摺ひきずるようにしてそっと紋床へ這戻り、お懶惰なまけさんの親方が、内を明けて居ないのを勿怪もっけさいわい、お婆さんは就寝およってなり、あねさんは優しいから、いたわってくれた焼酎しょうちゅうなすって、上口あがりくちの火鉢のわき突臥つっぷして寝たが、さあ、難儀。

 あくる日帰って来た紋三郎には口惜くやしくっても喧嘩のことは話されず、もとより条理すじみちの立った事ではない、酒の上の悪戯いたずらを懲らした方は、男が可いけれども、親方は身内のこと、邪が非でもきかない気なり、かねて快からぬ対手あいてが伝六と明してはただ済むまい。引被ひっかぶって達引たてひきでも、もしした日には、荒いことに身顫みぶるいをする姐さんに申訳のない仕誼しぎだと、向後きょうご謹みます、相替らず酔ったための怪我にして、ひたすら恐入るばかり。

 転んだ身体からだを引摺って歩行あるいても、これほど疵がつく砂利は界隈かいわいにないはずと、紋三内々はにらんだが、愛的可いほどにしておけ、おめえには母親おふくろがあるぜ、と言って深くはとがめず、大目に見てくれたのが附目な位。可哀そうに染むだろうねと、あねさんがまた塗ってくれる焼酎を、どうぞ口の方へとも何ともいわない弱りさ加減、黒旋風の愛吉いたむこと一方ならず。

 素人療治では覚束おぼつかなくなると、あたかもよし紋床は、かねて山の井に縁故があった。

 せんの義庵先生は、市に大隠をめて浜町にすまったので、若い奴等やつらなどと言って紋床へ割込んで、夕方から集る職人仕事師であいを凹ますのを面白がって、至極の鉄拐てっか、殊の外稲荷が贔屓ひいきであったので、若先生の髪も紋床が承る。


二十二


(どうです豪傑、蝦蟇がまあぶらじゃあ不可いけませんか。)と薬局に痛めつけられて、いつも蝦蟇の膏と酒さえありゃ外科も内科も訳なしだ、お前さん方は弱い者いじめでもうけるんだ、などと大言を発する愛吉、中指のさきで耳の上をきながら大悄おおしょげになってその日もまた。

 明石町へ通うこと五日六日、もうかろうという日のことであった。

 打傾いたり、首垂うなだれたり、溜息ためいきをしたり、しわぶいたり、堅炭かたずみけた大火鉢に崩折くずおれてもたれたり、そうかと思うと欠伸あくびをする、老若の患者、薬取がひしと詰懸けている玄関を、へい、御免ねえ、で愛吉はつかつかと。

 かかる馴染なじみでお出入といったような怪我人であるから、番号も遠慮もない、愛吉は四辺あたり構わず、

(おう、柴田さん、この、診察所、と黒塗の板に胡粉ごふんで書いてある、この札をどうかしておくんなさいな。横ッちょに曲ってかかってるんですが、わっし過日いつか中から気になってならないんで、直すか直すかと思ってるとやっぱり横ッちょだ。わっしの内は貧乏だけれどあねさんが居るから暖簾のれんが汚れませんや、御新造ごしんぞが居なさらねえとそれだもの困っちまう、)と高慢なことをいいながら、背伸をして、西洋造の扉の上に、鶏卵色たまごいろの壁にかかった塗板を真直まっすぐに懸直し、そのまま閉ってる扉を開けて、小腰をかがめて診察所へ入った。

 密閉した暗室の前に椅子が五脚ばかり並んで、それへ掛けたのが一人、男が一人、向うの寝台ねだいの上に胸を開けて仰向あおのけになっている。若先生光起は、結城ゆうきあわせ博多はかたの帯、黒八丈の襟をかさねて少し裄短ゆきみじかに着た、上には糸織藍微塵あいみじんの羽織平打ひらうち胸紐むなひも、上靴は引掛ひっかけ、これに靴足袋を穿いているのは、けだし宅診が済むと直ちに洋服に変って、手車で病院へ駆けつけようという早手廻。

 卓子テエブルわきに椅子にかかって、一個ひとりの貴夫人と対向さしむかいで居た。卓子に相対して、薬局の硝子窓がらすまど背後うしろに、かの白の上服うわぎを着たのと、いま一人洋服を着けた少年と、処方帳をずばと左右に繰広げ、ペン墨汁インキを含ませつつ控えたり。

 薬のかおりは床に染み、窓を圧して、謂うべからざる冷静の趣。神社仏閣の堂と名医の室は、いかなる者にも神聖に感じられて、さすがの愛吉、ここへ入ると天窓あたまが上らず、青菜に塩。愛吉、薬のにおいしおれ返って医学士に目礼したが、一体八字ひげのある近眼鏡を懸けた外科の助手に毎日世話になるのであったから、愛吉は猶予ためらわず、ひょこひょこと進むと、戸が半開はんびらきになっていたので、突然いきなり外科室へ首を突込つっここんだが、驚いて退すさった。

 咄嗟とっさの間、世にもなまめかしい雪のような女の顔を見たのであった、そうして愛吉がお夏を見たのは、それが最初はじめてだというのである。

 見るから心も冷ゆるばかり、冷たそうな、つやのある護謨布ゴムぬのおおいかけた、小高い、およそ人の脊丈ばかりな手術台の上に、腰にまとったくれないこぼるるばかり両の膚を脱いだ後姿は、レエスの窓掛をすか日光ひのひかりに、くッきりと、しかも霞の中に描かれたもののよう目に留まった。

 愛吉の間の悪さ、思わず顔をあからめながら、もじもじ後退あとじさりになり、腰をかけて待合している、患者か、はた供のものか、円髷まるまげ婦人おんなの次なる椅子に堅くなったが、心こそ着かざりけれ、外科室に寄った椅子の上に、これもまた媚かしく差置いてあるのは、羽織と、帯と、解棄てた下〆したじめ懐紙ふところがみ。取乱した藤お納戸、、桃色、水色、白、くれない


二十三


 愛吉はきょとんとして、ぼんやりあらぬかたを眺めながら、目玉をくるくるとっていると、やがて外科室のその半開の扉をおした、洋服の手が引込む、と入違いに、長襦袢ながじゅばんの胴がちらちら、薄紫の半襟、胸白く、袷の衣紋えもんの乱れたまま、前褄まえづまを取ったがしどけなくすそを引いて、白足袋の爪先、はらりとこぼるる留南木とめきの薫。

 診察室を出て来たが、深川の勝山、まだ世盛よざかりの頃で、お夏その時は高島田の、年紀とし十七であった。

何某なにがし。)とかのペンを持った一人が声を懸けると寝台の上に仰向あおむけになっていたのは、すべり落ちるように下りて蹌踉よろよろと外科室へ入交いりかわる。

 同時に医学士に診察を受けていた貴夫人は胸を掻合せたが、金縁の眼鏡をかけた顔で、背後うしろ芍薬しゃくやくが咲いたような微妙いみじ気勢けはいに振返った。

 その時、打合せの帯を両手に取って、床に膝をつきついてお夏の前に廻ったのは、先刻さっきから控えていたかの円髷の婦人おんなであった。

 お夏はおくみを取って揃えると、腰から乳の下に下〆を無造作にぐるぐる巻、あてがってくれる帯をして、袖を上へ投げて肩にかけた。附添の婦人おんなと立って背後うしろへ廻る。

 愛吉は心なく垣間見かいまみた人に顔を見らるるよう、思いなしか、附添の婦人おんなの胸にも物ありげに取られるので、うつむいては天窓あたまを掻いた。

 その帯をまだ結び果てなかったほどのことで、光起は今貴夫人を診察し了して、立身たちみになり、片手を卓子につきながら、低声こごえで何か命じて、学生にそのペンを運ばしめていたが、ちょっと筆を留めて伺った顔にうなずいて見せて、光起はと立直った時、ふと、帯をしているお夏を見て、

(済みましたか。)

(ええ、)と頷く。

(痛かったでしょう。)

(はあ、)と事もなげに、淡泊に答えたのである。

 光起は微笑ほほえんで、

貴女あなた母様おっかさんのいうことをかないとまたできますよ。)

 お夏は襟をくわえるようにして、差俯向さしうつむいて、さっと顔をあからめたが、何にもいわないで莞爾にっこりした。

 愛吉は額をでた。

 医学士の言葉とお夏の素振そぶりを、附添は嬉しそうに、

(お夏様、あれ御挨拶をなさいましな。)

(知らない、)と素気そっけないことをいって再び莞爾にっこり

(先生、たむしの治ります薬はありませんでしょうか。)と不意に言い出したのはくだんの貴夫人であった。

打棄うっちゃっておおきなさい、)と光起は言下に応ずる。

(でもあのこんなですから、)とさも世馴れた、人懐ひとなつッこいといったような調子で、光起にせな捻向ねじむけると、うなじを伸して黒縮緬くろちりめんの羽織の裏、くれないなるを片落しに背筋のななめに見ゆるまで、抜衣紋ぬきえもんすべらかした、肌の色の蒼白あおじろいのが、殊に干からびて、眉を造った、白粉おしろいの濃い、金縁の眼鏡にまぶたしわをかくした顔こそ若けれ、あらわに見ゆる筋骨すじぼねは数四十であるのに、彼をいだくものあらば正にその者の手の下なるべき、左のそびらを肩へかけて、亜弗利加アフリカの地図のごとき一面の癬、あな笑止や。

きたねえな! ってわっしあ本当にうっかり。それが何です、山河内やまこうちという華族の奥方だったんですって、華族だって汚えんですもの。」と愛吉はビイヤホールで語りながら、今も思出すほどか眉をひそめたのである。


二十四


 名は知らず、西洋種の見事な草花を真白まっしろな大鉢に植えて飾った蔭から遠くその半ばが見える、円形まるがた卓子テエブルを囲んで、同一おなじ黒扮装くろいでたち洋刀サアベルの輝く年少としわかな士官の一群ひとむれが飲んでいた。

 此方こなたに、千筋の単衣ひとえもの小倉の帯、紺足袋を穿いた禿頭はげあたまの異様な小男がただ一人、大硝子杯おおコップ五ツ六ツ前に並べて落着払った姿。

 時々ひげのない顔が集り合っては、どっという笑語の声がかの士官の群から起るごとに、くだんの小男はちょいちょい額を上げて其方そなたを見返るのであるが、ちょうど背合せなかあわせになってるから、金之助にこれは見えなかった。

 ビイヤホールの客は、今わずかに三組の外には無かったので、生麦酒なまビイル出入だしいれをする一段高い台の上には、器械を胸のあたりにして受持のボオイがあたかも議長席に着いたもののように正面を切って身動みうごきもせず悠然と控えている、その下に椅子にかかって一人のボオイは新聞を読む、これと並んで肩から脇の下へ金袋かねぶくろをぶらさげた一人、白の洋服の足を膝の処で組違えて、ななめひじ身体からだの中心を支えて立身で居る、しばしば跫音あしおとを立ててしっくいたたきの土間を、靴で士官の群の処へ通うのはこのボオイで、天井は高く四辺あたりはひっそり、電燈ばかり煌々こうこう真昼間まっぴるまのごとく卓子をてらして、椅子には人影もなかったのである。

 戸外おもては立迷う人の足、往来ゆききも何となく騒がしく、そよとの風も渡らぬのに、街頭に満ちた露店ほしみせともしびは、おりおり下さまになびいて、すわや消えんとしては燃え出づる、その都度夜商人よあきゅうどうれわしげなる眉を仰向あおむけに打見遣うちみやる、大空は雲低く、あたかも漆で固めたよう。

 あおと赤と二色ふたいろの鉄道馬車のともしびは、流るるほたるかとばかり、暗夜を貫いて東西より、と寄ってはさっと分れ、且つ消え、且つあらわれ、轣轆れきろくとしてちかづき来り、殷々いんいんとして遠ざかる、ひびきの中に車夫の懸声、蒸気の笛、ほとんど名状すべからざる、都門一場の光景は一重ひとえ硝子がらすに隔てられてビイヤホールの内は物色沈々、さすがに何となくおだやかならぬ宇宙の気勢けはいの、おくを圧して刻々に迫るを覚ゆる、これが、風になるか、雨になるか、日和癖ひよりぐせで星になるか、いずれともきまったら、瀬を造って客は一斉にむのであろう。

 とばかりにしてものの静けさよ。ここかしこの鉢植なる熱帯地方の植物は、奇花を着け、異香を放ち、且つ緑翠りょくすいを滴らせて、個々ひとりひとり電燈の光を受け、一目びょうとして、人少なに、三組の客も、三人のボオイも、正にこれ沙漠の中なる月の樹蔭こかげに憩える風情。

 この間に、愛吉がお夏の来歴を説く一場の物語は、人交ひとまぜもせず進んで、築地明石町の医学士の診察所における出来事にまで至ったのである。

「声を出して言ったのか、きたねえなんて、たむしめさせられはしまいし、肌を脱いで医者に見せた処を背後うしろから、汚え、なんていう奴がありますかい、しかも華族だってな、山河内……伯爵だ。

 もっともその奥様おくさんは赤十字だの、教育会、慈善事業、音楽会などいうものに取合って、運動をするのに辻車で押廻すという名代なだいのかわりものなんだけれども、怒ったろう、みんな驚いたろう、乱暴狼藉ろうぜきだ、どうした、それから、」

わっしもついうっかり遣っちゃったんで、はっと思うと、」

「うむ、」

「ちょうど代診さんの方へ呼ばれたからげ込みました。」


二十五


「しかしたむしきたねえといったのが、柳屋の気に入ったというでもなかろう。」

 愛は真面目に、

「へい、そういう訳でもないんですがね。」

「それじゃあ手術台に肌脱の、俗にそれあられもないという処を見られたのが御縁になったか、但しちっとどうもおかしいな。」

「何、そういうわけでもないんですがね。」

「何しろ、おまえの方からゆすり込んだものと私は思うな。」

「先生御串戯ごじょうだんを、勿論あれです、お夏さんは華族てえと大嫌だいきらいです。わっしが心も同一おんなじだ、癬は汚えに違いません、ですが、それがどうということはありませんよ。それからね、素肌を気にしてわきの下をすぼめるような筋のゆるんでるねえさんじゃアありませんや。けれども私が出入ではいりをするようになったのは、こちらから泣附いたんです、へい。」

「手を合せて、拝みます、と口説くどいたか。」

「どういたし、……手前御慮外は申しません、泣ついたのは母親おふくろでさ。」

「ははあ、紋三郎がいったように、いつもひだりの方の意見の義だろう。」

「いいえ、その時は生命いのちにかかわります一件。」

「おや、お前それでも酒のほかかかわることがあるだろうか。」

「大有り、」といって愛吉は硝子杯コップの縁をおさえながら、金之助をじっと見て、

串戯じょうだんじゃアありませんでしたよ、まったく。

 それがね、やっぱりその日なんです、事というと妙なもんで、何でもない時は東京中押廻したって、蜻蜓とんぼ一疋ぶつかりこはねえんですが、幕があくと一斉いっときでさ。」

「大層感じたな。」

「まったくですから。」

「じゃあ何か、華族様へ御無礼を申したとあって、お差紙でも着いたのかい。」

「いえ、先刻さっきも申しました通り、外科室の方へ呼ばれたんで、まずお座は濁りましたね。

 それからお手当が済みました、もう通って来ないでも大丈夫だ、あとはただ大人しくなさいよ、さ、大人しくしろがうございましょう。

 無暗むやみとお礼をって匆々そこそこに山の井さんの前を抜けて、玄関へ参りますとね、入る時にゃあ気がつきませんでしたが、ここにそのまた珍事出来しゅったいの卵が居たんです。女の子で、」

「いずれそうだろう。」と金之助はわざとらしく深くうなずく。

「まあ、お聞きなさいまし。上口あがりくち突尖とっさきの処、隅の方に、ばさばさした銀杏返いちょうがえし、前髪が膝におッつくように俯向うつむいて、畳に手をついてこう、横ずわりになって、折曲げている小さな足のかかとから甲へかけて、ぎりぎり繃帯ほうたいをしていました、綿銘仙のあかじみたあわせに、緋勝ひがち唐縮緬めりんすと黒の打合せの帯、こいつを後生大事にめて、」

「大分くわしいじゃないか。」

わっしだって先生、唐縮緬と繻子しゅすぐらいは知ってますぜ。」

幾干いくらか出せ、こりゃ恐ろしい。」

真平まっぴら御免なさい、先方さき小児こどもなんです。ごく内気そうな、半襟の新しいが目立つほど、しみッたれたあわれ服装みなり、高慢にくしをさしてるのがみじめでね、どう見ても女中なんですが。

 恐ろしくいたむかして、小さく堅くなって、しくしく泣いてるんです。

 姉さんどうしたんだッてね、余り可哀相かわいそうだから声を懸けてやりましたが、返事をしません。疵処きずしょにばかり気を取られて、もううつつなんだろうと思いました、わかいのに疼々いたいたしい。」


二十六


「じれったいから突然いきなり肩に手を懸けると、その女中は苦しくッてか、袷もとおすような汗びっしょり、ぶるぶる震えているんでしょう。

 どうしたんだって聞きますとね、足の裏から突通るほどの踏抜ふみぬきをしたんだそうで、その前の日の事だっていうんです。

 見りゃ込合っていましたけれど、どれも病人、人の世話を焼こうという元気の好いやつりませんや、こいつかかり合だ、身体からだを抜くわけにゃいかねえような気になりました。

 一体どこの者だ、うちは遠いかって聞きますとね、つい五町ばかり先でございます、あの、親分の処に、と弱った声でいいました。親方というのはなまずの伝──どうですさわぎの卵じゃありませんか、尋常事ただごとじゃアありますまい。

 何でも伝が内の奉公人に違えねえ。野郎め、親方々々と間違でも人に謂われる奴が、うぬが使ってる者がこんな怪我をしてるのに、医者に寄越よこすッて、ないらやみの猫を押放おっぱなしたような工合は何たる処置だい、あねさんをつけて寄越さないまでも、腕車くるまというものがないのじゃあなかろう、可哀相に丸ぽちゃの色の白いのが、今の間にげっそりせて、目のふちを真蒼まっさおにしていらあ、震えてるぜ。

 そう思ってたまらなかったんですが、気が着きますとね、待てよ、わっしが思ったとおりを口へ出して謂やあ、突然いきなり伝を向うへまわして、ずらりと並べる台辞せりふになる、さあ、おもしろい、素敵妙だ。

 一番、このをかつぎ込んで、奴が平生侠客おとこぶるのを附目にして、ぎゅうと謂わそう。

 蝦蟇がまあぶらで凹まされるのも何のためだ、忘れやしねえ。」

 と話をするにもすさまじい意気込だった、愛吉はちょいと気をかえ、

「へへへへ、せんの縁日の晩のは、全くこっちが悪かったんでさ。落度はあったって口惜くやしいにゃ口惜いでしょう、先生、子曰しのたまわくはよして聞いて下さい、うございますか。」

いさ、可いさ。」

「オイ、姉や、わっしが肩へつかまりねえ、わけなしだ。お前ンとこまで送ってやろうと、穿物はきもの突懸つっかけておいて、しゃがんで背中を向けますとね、そんな中でもきまりのわるそうに淋しい顔をして、うじうじ。

 じれってえじゃあねえか、尻なんざあ抱きやしねえや、帯を持って脊負ってやら、さあ来い、と喧嘩づらの深切ずくめ、いいぐさが荒っぽうございますから、おどおどして、何と肩へ喰いつくように顔をかくして、白昼まっぴるま、それでもこの野郎の背中へおんぶをしましたぜ。あとで考えると気の毒でさ、女の気じゃあきずが痛む方がどんなにお恰好かっこうだか知れませんよ。

 全く叱りつけるように勧めたんですからね、すすめが私でしょう。阿魔あまはてっきり、ぶんなぐられると思っておぶさったもんです、名はお米ッていいます、可愛いなんですがね、十七でしたよ。

 さあ、歩行あるき出すと、こう耳朶みみたぶの処へもつれた髪の毛が障るでしょう、あいつあ一筋でもうるそうがさ、首を振るとなお乱れてまといますから、呼吸いきをかけてふッふッびんの尖を向うへ吹いちゃあ、三角みつかどの処まで参りますとね、背後うしろから腕車くるまが来ました。

 町幅が狭いんですから、すれ違って前へ駆け抜けたと思うと、振返った若衆わかいしと一所に、腕車の上から見なすったのは先刻さっきのお嬢様、ええ、お夏さん。」


二十七


「藤お納戸の、あの脱いであった羽織をておいでなすった。襦袢じゅばんの袖口にからんだ白い手で、母衣ほろの軸につかまって、背中を浮かすようにして乗ってましたっけ、振向いてわっしがお米をおぶってた形を見て莞爾にっこり笑いなすった。

 顔を見合せますとね、こっちでも何だか知己ちかづきのような気がしたもんですから、遠慮しねえで、

(今日は、)とはらの中で言ってお辞儀したんです。

 腕車は何、休んだんじゃあございません、駆けてるうち、ちょいとのなんで、そのまま飛ぶように行っちまいましたが、縁でございましょう、先生。

 世の中というものは、どこにどんなひっかかりがあるか知れませんぜ。なぜッてますと、あとで分りましたが、そのお夏さんの勝山といううちは、私の亡くなりました父爺ちゃんが、船頭で、奉公人同様に久しい間御恩になったのでございました。

 さあ、それから米坊をかつぎ込んで、ちょうど縁端えんばな大胡坐おおあぐらをかいて毛抜をいじくってやあがった、鯰の伝をふんづかまえて、思うさま毒づいたとお思いなさいよ。

 くだらないことをお耳に入れるでもありませんから、始末は申上げませんが、なんしろ侠客おとこだとか何とかいわれる分では、お米に届かねえ点が十分にあったんですから、こりゃ力ずく、腕ずくじゃあ不可いけませんや、伝の親仁おやじ大凹み。

 こっちあぐッと溜飲りゅういんが下って、おさらばをめてフイとなって、ざっぷり朝湯を浴びた気さ、我ながら男振を上げて、や、どんなもんだい。

 人形町居廻いまわりから築地辺、居酒屋、煮染屋にしめや出入でいり往復ゆきかえり、風を払ってしましたわ、すると大変。

 暗がりをくわ楊枝ようじ、月夜には懐手で、呑気のんき歩行あるいてると、思いがけねえ狂犬やまいぬめが噛附かみつくような塩梅あんばいに、突然いきなり、突当る奴がある、引摺倒す奴がある、拳固でくらわす奴がある、一度々々呼吸いきを引かないばッかりで、はッはッと思うことが、毎晩じゃアありませんか。」

「成程、」

「そのたんび微傷かすりきずです、一年三百六十五日、この工合じゃあ三百六十五日目に、三百六十五だけ傷がついて、この世をよろしく申させられそうで、わっしも、うんざり。

 様子を聞くと、伝がこの事を意趣にして、子分子方の奴等がしょっちゅう附け廻すんだそうですから、私あ堪らなくなって、舟賃を一銭ひゃく出して、川尻を渡って佃島つくだじまげました。

 佃島には先生、不孝者を持っていかいこと苦労をする婆さんが一人ね、弁天様のわきけちな掛茶屋を出して細々と暮しています、子にない恐しい堅気なんで。」

「何だい、それは、」

わっし母親おふくろでございます。」

「それだもの。」

「へへへへ、今更いたし方がありません、そこへ転がり込んで、居縮ゐすくまって震えてたもんですから、愛吉どうしたんだって、母親が尋ねます。

 これこれだといいますとね、それだから常日頃いって聞かさないことではない、蟻じゃあなし、毛虫じゃあなし、水があったって対手あいては渡って来ます。しかし……鯰の伝……それならば死んだ父爺おやじが御恩になった深川の勝山さんへ出入をするから、彼家あすこへ行って、旦那様にお頼み申して、伝にいい聞かしておもらい申して、お前の身体からだを無事なよう計らいましょうと、父爺ちゃんが亡くなってからも暑さ寒さにゃあお見舞を欠かしたことがないという、律儀はこんな時用に立ちます、で母親おふくろが取りあえず。」


二十八


「深川へ参りましてね、母親おふくろが訳をって話をしますと、堅気の商人あきんどだ、遊人あそびにんなんぞ対手あいてにして口を利けるんじゃあないけれども、伝か、し、鯰ならば仔細しさいはないと、さらりとらちは明いたんです。

 わっしはこんなやくざものの事ですから、母親も別に話さないでいたのがその時知れまして、そうか、そんなせがれがあるのか、床屋が家業と聞きゃちょうど可い、奉公人も大勢居るこッた、遊びながら働きに寄越すが可いと、深切におっしゃって下すったので、二度目にはお礼かたがた、母親について伺いますと、先生、吃驚びっくりしましたぜ。

 中庭でもってきゃっきゃっという騒ぎ、女中衆が三四人さんよったり、池の周囲まわりを駆けてるんで、鬼ごッこがはじまってるか、深川だって呑気なもんだと、ひょいと見るとどうです、縁側に腰をかけてたのは山の井の診察所で見た、別嬪べっぴんだろうじゃありませんか。

 そうして女中がげるのを追懸けますのは、恐しい、犬でもそうな軍鶏しゃもなんで。

 今でも柳屋に飼ってあります。強いことッたら御用の小僧なんか背後うしろからはたかれて、ぎゃっといって、っ坐りまさ。

 心持がうございますぜ、とさかを立ってずっとして、まなこをくるりと遣りますとね、私とでも取組とっくみそうでさ。一体気の勝った、お夏さんは癇癪持かんしゃくもちなんだけれど、婦人おんなだけにどうすることも出来ないんですから、癪なことは軍鶏と私とで引受けてるんで、ええ、可うごす、軍鶏と愛吉とで請合いましたと謂うと、蒼くなって怒ってる時でも莞爾にっこりしまさあ。

 お夏さんは飛んだそのとりを可愛がってます。それから母上おっかさんはいうまでもありませんが、生命いのちがけで大事にしているお雛様ひなさまがありますよ。

 十軒店じっけんだなで近頃出来合の品物じゃあないんだそうで、由緒のあるのを、お夏さんのに金に飽かして買ったって申しますがね、内裏様が一対、官女が七人お囃子はやしが五人です、それについた、箪笥たんす、長持、挟箱はさみばこ。御所車一ツでも五十両したッていいますが、みんな金蒔絵きんまきえで大したもんです。

 このお雛様の節句と来た日にゃ、演劇しばいも花見も一所にして、お夏さんにかかる雑用ぞうよう、残らず持出すという評判な祭をしたもんですッさ。

 わっし勝山あちらに伺うようになりました翌年あくるとし一昨年おととしですな。

 三月三日の晩、全焼まるやけにあいなすった。」といいかけて、愛吉は四辺あたりみまわしたが、浮かぬ色をした。

 声も低く、

「しかもわっしが行合せていたんです。十時頃じゅうじッころでございましたね、お雛様を見せておくんなさいって、勝手の方から。不断、皆様みなさんで可愛がってくれますし、お夏さんも贔屓ひいきにして下すったもんだから、すぐにその何でさ、二階の座敷へ上りました。

 目の覚めるような六畳は、一面に桜の造花つくりばな活花いけばなの桃と柳はいうまでもありませんや、燃立つような緋の毛氈もうせんを五壇にかけて、まばゆいばかりに飾ってあります、お雛様の様子なんざ、私にゃ分りません、言ったって、聞いたって、ただもう綺麗で沢山。

 お夏さんは直ぐその壇の下の処に雪洞ぼんぼりを控えて、立派に着換えていなすったっけ。

 あの内裏様のだって、別に二個ふたつ蒔絵の蝶足のそうですな!……」

 愛吉は卓子テエブルの上に四角な線を指の先で引いた。

「この位なおぜんがありましょう、男雛おびなのと女雛めびなのと一対、そら、あの、」

 金之助は熱心に耳を傾けながらうなずいた。


二十九


うございますか、その一対の小さなお膳を、お夏さんが自分の前に置いて、もう一個ひとつの方を向うへならべて、差向いというなりで居なすったが、前には誰も見えなかったんです。

 指をまろげた様な蒔絵の椀、それから茶碗、小皿てしおなんぞ、みんなそのお膳に相当したのに、種々いろいろ御馳走ごちそうってありましたっけ。

 その後病気で亡くなりましたが、あの診察所に附いていた年増ね、乳母ばあやというんじゃあなかったんですが、お夏さんのお気にいりわきの処へ。もう二人、小間使が坐って、これが白酒の瓶を持ってお酌をしてる、二ツ三ツあがんなすったか、目の縁をほんのりさせて、嬉しそうに、お雛様の飾りものを食べてる処で。

 や、素敵なものだと、のほうずな大声で、何か立派なのとそこいらの艶麗あでやかさに押魂消おったまげながら、男気おとこッけのない座敷だから、わっしだって遠慮をしました。

 いつものようにお台所へ下ってお末の出尻でっちりと一所に頂くべいとね、後退うしろじさりに出ようとすると、愛吉さん一ツあげましょうかと、お夏さんが言ったんです。

 まるで夢中、私あ腰が抜けたように突然いきなりそこへ坐りましたぜ。

 さあ、一面の桜と、咲乱れた桃の中、雪洞ぼんぼりあかりで見たその時の美しさ。

 しかも微酔ほろよいと来ていましょう。もう雛壇を退けようという三日の晩、この間飾ってから起きると寝るまで附添って、階下したへも滅多にゃあ下りたことのないばかり、たのしみ疲れに気草臥くたびれというなりで、片手を畳について右の方に持ってなすった小杯こさかずきを、気前よくつつと差してくんなすったい。

 震えながら……まったくですよ、震えながらそのお杯を受けようとすると、愛吉さんもうちっとそちらへと、はたから年増のが気をつけたんです。

 坐ったのは、お膳の前でしょう、これは先生。毎年々々そうやって差向いに並べても、向うへ坐った奴はまだ一人も無かったんだそうで。

 お夏さんは朋友ともだちきらいだっていうんです、また番頭や小僧が罷出まかりでようという場じゃアありませんや。

 しかもその年、一昨年おととしですな、その晩にゃわっしより一足さきに、雛の間で一人お客があったんです。

 何でも天下に聞えた立派な豪傑なじいだそうですが、旦那とは謡の方で、築地の宝生の師匠のうちね、あの能楽堂などで懇意になってるんだっていましたよ。大層な雛だというが、どれどれと押上がって、やあ一人でやっていなさるの、わしが相手をしようッて、そのお膳の前に坐りましたっさ。

 お爺ちゃん、いやなこった! とお夏さんがきっとなったので、はたの者はあッふあッふ、旦那も御新造様ごしんぞさんも顔色を変えなすったけ。ははあ、これは遣られたと、肥った腹から大笑おおわらいり出して、爺さんは訳もなく座敷をかえ、階下したで今、旦那、御新造様なぞと一座で飲んでいるという、その後でしょう。

 だから年増は遠慮しろと気を着けたんでさ。

 するとお夏さんがね、可いよッて、言いながら、白酒の瓶を取って、お酌して酔わしてやろうや。莞爾にっこりしてお前さん、いえさ、先生!」

 金之助は唖然として、

「口のはたけ、泡だらけだ。」


三十


 愛吉は仇気あどけなく平手で唇を横にいたが、すがめてたなそこを打眺め、

「嘘、泡なんぞ附着くッついてやしねえ。」

 と例の愛くるしい口を結んで眉根を寄せ、吐息をついて歎息した。

「ほんとうに考えて見りゃ夢の様ですよ。

 お夏さんは酌をしておくんなさる気で瓶を持ちながら、ふと雛の壇を見ましたがね、どうなすったんだか、おや! といってこう、瞳を据えて、またたきもしないでしばらく。

 枕についても目をぱっちり、お雛様の番をして、すやすやと寐息ねいきかんざしの花は動いても、飾った雛は鼠一疋がたりともさせないんでございますってね、過年いつかもお雛様がみんなで話をするッて、真面目に言いなすったことがある位、ってるんだから魂が入ってましょう。

 トその凝視みつめていなすったッけ、ちょいとお囃子の人形が笛を落した、まあ、鼓を打棄うっちゃった、まあ、まあ、まあ、太鼓のばちを、あれはかまが動くんだよ。あれ、みんな! とお夏さんがすっくり立った。

 顔を見合せてみんな呼吸いきを呑みましたわ。

 その様子ッたら、まるで雛がどっと惣立ちになったように、私等わっしらが胸に響いたんです。」

 語る時、十有数日の間を蒸しに蒸した、人類の汗を絞り抜いた、一昨日来の気圧は、正にその極所に達したと見えて、陰々たる中にもののひびき、柱がきしむようである。

 愛吉は肩をすぼめて、

「その途端に私等は雛壇が滅茶めっちゃに崩れるんだと思いましたね、火事だ、火事だと、天井のあたりわめいたと思うと、」

 愛吉は穏かならぬ猿眼さるまなこで、きょろきょろと四辺あたりを見たが、たちまちつッと立上った。

「先生、雨です。」という間もなく、硝子窓がらすまどに一千のつぶてばらばらと響き渡って、この建物のゆらぐかと、万斛ばんこくの雨は一注して、ごうとばかりに降って来た。

 金之助も、話の変と、急な雨に、思わず顔の色を変えて唾を呑んだが、押出すように、

「おお、雨だ。」

 台の上のボオイは真先まっさきに飛び下りた、新聞を見ていたのは真中まんなかつかみ棄てて立つ。立っていたのは金袋かねぶくろの口をおさえて、この三人しばらくの間というものはただ縦横に土間の上を駆け歩行あるいた。白い姿のあわただしく行交ゆきかうのを、見る者の目には極めて無意味であるが、彼等は各々めいめいに大雨を意識して四壁の窓を閉めようとあせるのである。大粒なしずくは、また実際、ななめとも謂わず、すぐともいわず、矢玉のように飛び込むので、かの兀頭はげあたまの小男は先刻さっきから人知れず愛吉の話に聞惚ききとれて、ひたすら俯向うつむいて額をおさえているのであったが、その手を放して天井を仰ぐと、怪訝けげんな顔をして椅子を放れて、窓の下へ行って、これはまた故々わざわざ閉めてあった窓の戸を一枚上へ押し上げて腰をひねって、戸外おもてとその兀頭を突出すや否や、ぱッたり閉めて引込ひっこました、何条たまるべき、雫はその額から、耳から、あぎとの辺から、まるで氷柱つららを植えたよう。

 かかる中にも自若として冷静の態度を保ち、ことさらには耳を傾けて雨を聞こうともしないのは彼等士官の一群ひとむれである。

 ややあって人々はあたかも軍人のごとく静まった。

「障子をあけると、突然いきなり火の粉でしょう。」いう声も沈むばかり、雨はいよいよさかんである。


三十一


「お夏さんが一番しっかりして、そのまま、内裏様に手をお懸けなすったが、愛吉、とりをって一声。聞棄てにしてわっしあ二階から飛び下りて、二ツ三ツ人の体に打附ぶッつかったとばかし覚えています。ええ夢中でね、駆けつけたのは裏口にあるその軍鶏しゃもとやなんですよ。

 何を悟ったのか、ケケッケケッ、羽ばたきをしてる奴を引掴ひッつかんで両手で袖の下へ抱え込むと、雨戸が一枚ばったり内へあおったんですが、かっとして顔が熱かったのも道理、見る間に裏返しに倒れ込むとめらめらと燃えてましょう。戸外おもてかぎりもない狐火のようにちらちらちらちら炎だらけ。はッと後退あとじさりに飛ぶ拍子に慌ててつんのめって、仰向あおのけに倒れたやつでさ。もう天井からあかい舌を吐いてるじゃアありませんか。目がくらんだ足の処へ、箱だか、鉄瓶だか重いものが斜違はすっかいに来て乗っかるというさわぎ。百年目だと思ったわっしあ、板戸も壁も突破るいきおいで横ッ飛びに表の方へね出したんで、どしばたというのがつちの底へ刻み込むように聞えるばかり。あッとも、きゃッとも声なんぞはしませんでした。門口かどぐちへ出ると道も空も土器色かわらけいろにばッとなって、処々段々にこうその隈取って血が流れたように見えましたっけ。

 その中をね、あっちこっち三四人、大きな蟻の影法師が映ったようにまるで酔ッぱらいの足つきで、ひょろひょろしながら歩行あるいてましたが、奇代なもんでございますね、道なら三町ばかりしたと思うと、どっと火の粉が浴びせて来ました。鶏は脇の処で恐しい羽ばたきをしますね、私あそのあおりで宙へ上りそうで足も地につきませんや。背後うしろの方でも、前途まえの方でも、その時分にようようワッという人声が陰にこもって聞えました。やがて私のからだは何の事はないうずまいて来る人間の浪の中に巻込まれてしまいました。

 右左透間すきまのねえ混雑なんで、そいつあみんな火事場の方へ寄せるんでしょう、私あ向うへ抜けようとするんでしょう。

 突当るやら、蹌踉よろけるやら、目も口も開かねえんで、何でえ! 田舎ものが神田の祭にはぐれやしめえし、人ごみにまごまごする事あねえ、火事に逃げるたあ何の事だと、おされて剣突を食う癇癪かんしゃくまぎれに、立直たてなおして引返そうとする、と気が着きました。鶏を抱えてます、そいつはただ一言お夏さんに頼まれたから起った事。

 ホイ何のこッた、行くにも帰るにもこの騒ぎに揉まれちゃあ、羽も翼も坊主にならあ、と吃驚びっくりして、背後うしろは見ないで、抜けたり、くゞったり、呼吸いきぐるしいほどの中をもぐって出て、まず水のある処へ行きましたがね。

 水ッてのは何、深川名物の溜池ためいけで、片一方は海軍省の材木の置場なんで、広ッ

 一体堀割の土手つづきで、これから八幡はちまん前へ出る蛇のうねった形の一条ひとすじ道ですがね、洲崎すさきへ無理情死しんじゅうでもしに行こうッて奴より外、夜分は人通のない処で、場所柄とはいいながら、その火事にさえ、ちっとも人間が歩行あるきません。気のせいか、かッかッと燃える中に、木竹の折れる音もするほど近間で居て、それで何と私の跫音あしおとにばらばらかわずげ込みます。水の音を聞くと一杯のんだ気になって、一呼吸ひといきいたんですが、──はてな。」


三十二


「そこでお夏さんだ、どうなすったろう。わっしがこの慌て方じゃあ二階に残った女れん気絶ひきつけたかも分らない。お夏さんはお夏さんで、雛を大切に取出しそうな権幕だったが、火急にも何にも内裏様一個ひとつ抱く時分にゃあ、火の粉をかぶんなすったに違いがないと、さあ、心配になってたまりません。

 矢でも鉄砲でも火事場へ飛んで帰って、お夏さんの様子を見ようと、引返そうとすると、抱えているとりなんです。

 先刻さっきのあの場合にも、愛吉鶏をッておいなすった、どうしよう、これをまあ。

 葛籠つづら長持と違って、人のうちほうりッ放しに預けて来られるんじゃあなし、かばって持っていた日にゃあ、人混ひとごみの中だってうっかり歩行あるかれるんじゃあねえ。火の中から助け出したばかりで、跡をお去らばにして可い位なら、お夏さんがお頼みはなさるまいし、わっしだって頼まれる程の事じゃあなし、困りましたね、どうも、なんしろ活物いきものだから始末が悪かったろうじゃアありませんか。

 人通のない土手だって、軍鶏ばかり置いて行きゃ、どこへっちまうも知れたもんじゃアありませずね。見りゃ溜池の中に舟もあったし、材木もありましたが、水死人どざえもんを捜すように鶏をうかしとくすうじゃありませず、持扱いましたね、全く気が気じゃあなかったんで、一羽抱え込んで跣足はだしで池の縁をまごまごしてる風ッてのはありません、我ながら薄ぼんやり、どうしてるのかと思いました。

 火事はまださかんです。

 すると灰のように薄赤い向うの路へ影がさして、四五人一列ひとならびになって来るのがあります。土手を横に切って、あれから埋地にかかった橋の、欄干が真中まんなかで切れて水へ折れ込んでいようという、ぺんぺん草の生えてるたもとへ寄って、渡ろうとする時分にゃあ私が居る間近になったから見えました。

 真先まっさきが女で、二番目がまた女、あとの二人がやっぱり女、みんな顔の色が変ってまさ、島田か銀杏返いちょうがえしか、がッくり根が抜けて、帯を引摺ひさずってるのがありますね、八口の切れてるのがありますね、どれもどれも小刻みに、歩行あるくとからむのは燃立つでしょう。

 一人々々てんでてんでに人形だの、雛の道県だのを持ってる、三人目の、内裏様を一対、両手に持って、袖で掻合して胸に押着おッつけていたのがお夏さん、夜目にも確か、深川中探したって、およそその位なのはないのですからね、……助かった。

 つかつかとけ寄って、背後うしろから、ちょうど橋の真中へその一組のかかったのを、やあ、と私あ嬉し紛れに頓興とんきょうな声を懸けました。

 きっと立留って、黙って私を見なすった、その時のようにお夏さんの、あんな気高いすごい顔を見たことはありませんでしたよ。びんの毛も乱れています、それに、場所がそんなでしょう、天を焦すあかりでしょう。つい目の前にあの、愛吉、鶏をッて謂いなすった二階の景色が見えるのに、急に変ってそれなんでしょう、こりゃ死んだ魂がすぐとここへ映るのか、そうでなけりゃお夏さんの守護をして、緋の袴の連中が火の中から化けて来たのだ。」


三十三


「ちょうどその時分下火になったと見えまして、雲がさっとかかったように、一面赤かった中へ黒味がさしましたわ、女連の姿は消えたよう、お夏さんばかりが判然はっきりと、ぱっちりとした目の色も見えて、私が手の鶏を御覧なすったが、何、あとのは張詰めた気がゆるんだか、足取が乱れて、あっちへふらり、こっちへひょろり、一人は危険けんのんな欄干にもたれかかりましたし、もう一人は何の事はない、そこへ打坐ぶっすわってしまったんです。手を取って起して見りゃ、松ッていう女中なんで、怪しいも怪しくないも、場所だって不思議はありません。

 全体この橋も、池を渡った向うも、もとはやっぱりその時分の勝山さんぐらいな御大家の庭だったんで、橋がまた庭の景色の一ツだったそうですが、馬、車なんざ思いも寄らず、人ッ子だって通りやしません。ただね、材木を組んでいかだこせえて流して来るのが、この下を抜ける時、どこでも勝手次第に長鍵ながかぎ打込ぶちこんで、突張つっぱって、くぐるくらいなもので、旦那が買置かっときなすった。そのうち綺麗にして、藤棚の池へ倒れ込んでるのなんぞ直したら、お夏さんの祈祷所きがんじょみたようのもの、勝山さんだけの弁天様の堂を建立しようなんてね、いっていなすった、その埋地へげて来たんでさ。考えて見るとそれなんですが、不意につかった時はこの世のことじゃあないように思いましたよ。」

大分だいぶん涼しくなって来た。」と金之助は袖を合せて、想い出したように言いつつも、うなずき頷き聞くのである。

「へい、凄いような雨でございましたね、わっしあどうなるんだ知らんと、お話をいたします内に気が変になりましたっけ、塩梅あんばいでございます。

 いいえ、私ばかりじゃあなかったんで、火事場では、官女が前後あとさきを取巻いて、お夏さんが東の方に、通ったと謂う評判で、また勝山が焼けるちっとばかり前、緋の袴を穿いた素白まっしろな姿の者が、ちょうどその屋根の上あたりを走るのを、汐見橋しおみばしの上で見た者がある、前兆だなんて種々いろんなことを謂ったもんです。

 ようよう夜が夜の色になって、湿っぽい風が吹いて来ると、御新造様、それから旦那が、あとさきになって、女中が三人、私とお夏さんと、お雛様と軍鶏の居るそこの埋地へお見えなさいましたが、どなたもはし一本持っちゃあいらっしゃらないんで、追々集った、番頭小僧、どれも不残のこらず着のみ着のまま。

 もっとも私が二階を飛下りると、入違いに旦那と御新造様ごしんさんがお夏さんの処へ駆け上んなすったッけ、はたに居た女中は助けてくれというんでしょう。手を合せてただ拝む程とちってるのに、たもとのさきを口にくわえてお夏さんは悠々とお雛様を片附けていらしったってね、みんな来い、お夏が死ぬ、お雛様だけ出しておくれと、お二人が一生懸命。

 それですもの。

 こういいますと、お夏さんが我儘三昧わがままさんまい、親御は甘いばっかりに聞えましょう、けれども因縁事なんですよ、だって勝山のものといったら、池に浮してあった材木まで焼けッちまいましたから。ごうの火とかいうんですな、恐しいじゃアありませんか。

 それでね、一度その埋地で家中うちじゅうが寄ったが最後で、あとはもうちりちりばらばら。」


三十四


「雛はみんな助かりましたし、かざりの道具といったような物も、目立ったのは大抵出たんだそうですが、たまだの、珊瑚さんごだので飾った、天人が胸に掛けてるようなびらびらの下った女雛の冠ですが、無くなって、それから房のついた御簾みすのかかってる結構な、一品ひとしなで五十両、先刻さっきも申しましたね、格別わっしなんぞも覚えている御所車がそれッきりになったんですって、いつまでっても、お夏さんがひどく気にしていますがね、もとより金目にかかわったことじゃありません、あの姉さんのことですから、へい。

 大方何でしょう、人並はずれて雛を大事がんなさるんでも分ります、そこらの様子でも知れますが、こう謂っちゃあ何ですけれども、お雛様をまず恋しい方のようにでも思ってるんじゃアありますまいか。

 そうすると、対手あいての女雛を自分ごッこにでもめているんで、その冠がせたのも、許嫁いいなずけの印のかんざしでも落したように思ってることでしょう、婦人おんな天窓あたまの物と謂いますから。

 まことに砕けていて、ちっともみずからがらないひとだけれど、どこか恐しく品があって、私なんざ時々我ながらつむりの下がることがありますもの。

 ねえ先生、御所車と冠がなくなったのを、気にしてふさぐ位なのが、今更じゃアありませんけれども、上野を歩行あるいて、路傍みちばた身体からだを洗って、ちゃぶ屋の姉やと間違えられて、たむしむすめを、ちょいと先生、お夏さんもそういって話しなすったが、山河内の姫様ひいさまというと一件もののむすめですっさ。其奴そいつあおがされるなんて可哀相じゃアありませんか。

 いいえね、竜宮の乙姫てえ素ばらしいのだって、蜈蚣むかでにゃあかないませんや、瀬多の橋へあらわれりゃ、尋常の女でしょう、山の主が梅干になって、木樵きこりめられたという昔話がありますッてね、争われねえもんです。

 全体ちゃきちゃきの深川ッが、根岸くんだりへ行って、ももんじいに歌を習うなんて、そんな間違ったことはないんです。郷にったら郷に従えだと、講釈で聞いたんですが、いかな立女形たておやまでもあの舞台じゃあにらみが利かねえ、それだから飛んだ目に逢うんでさ。

 それが先生、一体がお夏さんは、歌だの手習だのは大嫌だいきらいで、鴨川かもがわなんて師匠取をするんじゃあないんですが、ただいま申しましたその焼け出されが只事ただごとじゃアありません。前世のごうのようなんだから致し方はありません、柱一本立直らないで、それだけの身上しんしょうがまるでフイ。気ばかりあせっていなさるうちに旦那が大病、その御遺言でさ、夏に我儘をさせ過ぎた。行末が案じられる、盆画なんぞよしにして手習をしてくれと、そこで発心をなすったんだが、なあにもう叩き止めッちまうがうごす。その足で藤間へいらっしゃりゃ、御自分の方が活きた手本になろうてんで、ええ私の仕返しゃ動かねえ縁切えんきりだ。お夏さんがこれから行こうたって行かれやしません、さっぱりして可うございます。へい、いちいちどうも難有ありがとうございました先生。

 あなたのような紋着もんつきを着た方が、私等わっちたちを可愛がって下さろうとは思わなかったんで、柳屋のも便たよりにするものはなし、この頃は御新造様ごしんさんが煩っていらっしゃるなり、あの勝気なのが、めっきりせなすった。

 力になろうというのがわっしと軍鶏だから困っちまう。」と、つくづく腕を組んであどけない、罪のないことを真心から言って崩折くずおれた。真面目な話にえいもさめたか、愛吉は肩肱かたひじ内端うちはにして、見るとさみしそうであわれである。雨はれた、人は湯さめがしたようにあつさを忘れた、敷居を越してあふれ込んだ前の大溝の雨溜あまだまりで、しっくいたたきの土間は一面に水を打ったよう。


三十五


 愛吉がいう処も、大雨の後をそよ吹く風も、いたく身に染みた様子であった、金之助は改めて硝子杯コップを挙げ、「もう一杯ひとつ景気をつけよう、大分引込まれて私まで妙になった、お前にも似合わない何もふさぐにも当るまい、」と、はげます人も何となく理に落ちて来たのである。

「ええ、この位にしておきましょう、何年ぶりかで不思議にこうやって折角真面目になったものを、また酔っちゃあつまりません、ねえ先生、どうぞ可愛がって下さいまし、わっしはくらい酔ってそれなりけりでも構いませんが、お夏さんはほんとうに誰も便たよりにするものがないんですから、後生でございます。旦那方のような紋着を着た方は大嫌なんだけれど、何、実の処は私等を軽蔑して取合って下さらないと相場がきまってるとおもいますから、じゃじゃ馬ですねてるんでさ、心細うございます。ほんとうにお夏さんは便りのない身でおいでなさるんですからね、御不便ごふびんがありゃ、直ぐにでも柳屋へ引張って行って見せてえや、そしてこの先生がお前さんのことを身に染みて聞いて下すったって話したら、どんなにか喜ぶでしょう。」とさも懐しげにいうのである。

 金之助も他所事よそごととは取らない気色けしきで、

「いや、私はこれでなかなか当世じゃあないんだから、女のとお附合はちっと困る、しかしお前とは改めて朋達ともだちになろう。なあ、朋達──そうだ親類とでも何とでも思いなさい。用に立つことがあったら出来るだけ智慧ちえも貸そうよ、身体からだも貸そうよ。込入った話でそのお夏さんのことについちゃ、こりゃ懸直かけね無し私も一ツもの思いだ、帰ってからも路々もすじ辿たどって考えよう、いやしかしおかげでおもしろい……といっちゃあ済まないような気もするね。」

「はい、」といったッきり、愛吉はしばらく差俯向さしうつむいていたが、思出したように天窓つむりを上げて、

「飛んだ頂きまして、もう御免をこうむります。」

「一所に出ようか、そこいらまで同じ向だ。」

 金之助は愛吉が返した、根岸の鴨川の討入の武器なる黒糸おどしの五ツ紋を、畳んであるまま懐へ捻込ねじこんで、ボオイを呼んで勘定をすると、くだんの金袋を提げたのがその金袋はけだし代金を受納めるために持っているのではなく、剰金つりを出す用意をしているもののよう、規則正しく返したのに、銀一ツ添えて金之助はここに長座を償ったが、断るまでもなく、ボオイはこれを別の衣兜かくしれたのである。

「御機嫌よろしゅう、」

 それと二人は卓子テエブルさしはさんでひとしく立上ったのが、一所になり前後あとさきになって出ようとする、横合の椅子から、

「やあ、」と声を懸けたのは、くだん兀頭はげあたまの小男であった。

 金之助ははじめて心着いて、はたと立留って顔を見て、不意だという面色おももちで更に見直したが、

「おお、どうして、」と驚いて言った。

 ここに先刻さっきからおみこしを据えて、愛吉の物語に耳を傾けたり、士官の方をじろじろ見たり、あるいは空合そらあひを伺ってびっしょりの奇観を呈するなど、慌てたような、落着いたような、人の悪いような、呑気なような、ほとんど端倪たんげいすべからざる、たとえばりょうのごとき否、むしろ大雨に就いて竜を黙想しつつありしがごとき、奇体なる人物は、渾名あだな外道げどうとなえて、名誉の順風耳じゅんぷうに、金之助と同一おなじ新聞社の探訪員で、竹永丹平たんぺいというのであった。


三十六


 軒の柳、出窓の瞿麦なでしこ、お夏の柳屋は路地の角で、人形町どおりのとある裏町。端から端へ吹通す風は、目に見えぬ秋の音信おとずれである。

 まだ宵の口だけれども、何となく人足まれに、一葉二葉ともすれば早や散りそうな、柳屋の軒の一本柳ひともとやなぎに、ほっかりとかかっている、一尺角くらいな看板のさいころは、ななめに店のともしびに照されて、こっちへは一が出て、裏の六がまともに見られる。四五軒筋違すじかいの向う側に、真赤まっか毛氈もうせんをかけた床几しやうぎの端が見えて、氷屋が一軒、それには団扇うちわが乗ってるばかり、涼しさは涼し、風はあり、月夜なり。

 氷屋の並びに表通から裏へ突抜けた薬屋の蔵のうしろがあって、壁を塗かえるので足代あししろが組んである、この前に五六人、女まじり、月を向うの仕舞屋しもたやの屋根に眺めて、いずれも、つくばって雨上りに出たひきがえるという身で居る。

「え、もし。」

「さようでございますね、」

「どうでしょう、」

 と口々にどれが何をいうのか知らず、低声こごえでひそひそ。

「ねえ、おい、」

「どうだろう、」

「そうさな。」

 時々吸殻が呼吸いきをして、団扇が動くわ。

「構わず談じようじゃあねえか、十五番地の差配おおやさんだと、昔気質かたぎだからいんだけれども、町内の御差配ごさいはいはいけねえや。羽織袴でステッキを持とうという柄だもの、かわってってくれねえから困るよな。」

「むむ、だが何しろ打棄うっちゃっちゃあ置かれめえ。」

「もし、確に不可いけますまいね。」

 ちとけた声で、

「されば宜しくござりません、昔から申すことで、何しろ湯屋で鐘のを聞くのさえむとしてござります。」

「そして詰る処、何に障るんですね。」

「いえはじまりは地震かと思うてびくびくしていたんで、暑さがひどかったもんだからね。それという時の要心だ、わっしどもじゃ、にいいつけて、毎晩水瓶みずがめふたを取って置きました。」

「へい、火事ならまあ、蓋を取る内も早いが可いというんでしょうが、地震に水瓶の蓋を取って置くはおかしいね。」

「理詰じゃあねえんでさ、まずいわばお禁厭まじないさ。安政の時に家中うちじゅうやられたのが、たった一人、面くらって水瓶の中へ飛込んだ奴が、不思議に助かったと謂いますからね、よくよく運だ、あやかるだけでもうございましょう。」

「お待ちなさい、して見ると鉄さん。」

「ええ。」

「お前さんがこの頃また毎晩色ものの寄席へくのはやっぱりそこらの地震よけから割出したもんだね。」

何故なぜ、何故、ええ御隠居。」

麹町こうじまちの人だがね、同一おなじその安政年度に、十五人の家内でたった一人寄席へ行っていて助かったものがありますわい。」

「ざまあ見やがれ、おいらが寄席へくのを愚図々々ぐずぐずぬかしやがって、鉄さんだってお所帯持だ、心なくッて欠厘けちりんでもむだな銭を使うものかい、地震除だあ、おたふくめ、」

「おや、それじゃあ地震よけに、いつも寄席に行って、お前一人助かる気かい。」

「何だと。」

「いいえさ、お前一人助かれば女房は可いのかよ。」とそのかみさんか、女の声。


三十七


「べらぼうめ、何を、何をいってやあがる、」と、何か言っていやあがる。

「鉄さんぐうのも出ずさ、こりゃお時さんが道理もっともだ、はははは、」

 歯の抜けた笑いに威勢の可い呵々からからが交ってどっとなると、くだん仕舞屋しもたやの月影の格子戸の処に立っていた、浴衣の上へちょいと袷羽織あわせばおり引掛ひっかけたえんなのもと遣る。実はこれなる御隠居の持物で。

 鉄と謂われたのはやっきとなり、

「やい、じゃあうぬあどうだ、この間鉄砲汁をやッつけた時一箸ひとはしも食やしめえ。命取だ。恐しいといって身震みぶるいをしやあがって、コン畜生、その癖おいらにゃあ三杯とすすらせやがって、鍋底をまたりつけたろう、どうだ、やい、もう不可いけねえだろう。勿体ない打棄うっちゃった処で犬だって困るだろうと謂ったじゃあねえか、犬だって困るよ、命取をよ、亭主が食ってるのを見て汝一人助かりゃ可いのかい、やい、七面鳥。」

「東西!」

「さあお家の乱れだ。」

「さてはこの前兆かッ。」

 かたわらより、

「もし何でございます。」

牝鶏ひんけいのあしたすると言うて、牝鶏めんどりが差し出るからよ。」

「ええ、牝鶏があしたなら構いませんが、こうやってつむりを集めているのは、柳屋の雄鶏おんどり宵啼よいなきをするからでございますぜ。」

「うう成程、雄鶏だっけの。」

御串戯ごじょうだん、」

「これはやられた。」

皆様みなさん笑いごとじゃアありませんぜ、火に障るっていうのじゃアありませんか、ねえ御隠居。」

「されば……謂うて。」

「御隠居さんなんざ歯に障りましょうね、柳屋のは軍鶏しゃもだから。」

「誰だ、交ぜるない、嘉吉かきちとこ母親おふくろさえ、水天宮様へ日参をするというさわぎだ。尋常事ただごとじゃあねえ、第一また万に一つ何事もないにした処が、心持が悪いじゃあねえか、宵啼なんていやなものだ、ほんとうにどうにかしようじゃあねえか。」

「どうするッて、殺しっちまえばいんでしょう。」

「そうだとよ。」

「それはもうわざわいの根を断つのだから、宵啼をする鶏は殺すものとしてあるわさ。」

「そこで、」

「謂ったってあのくものか、どうして可愛がることといったら、」

 恐しく声を密めて、

「御隠居のめえですが、お内の猫ぐらいなものじゃアありませんぜ。」

「まずの、」とあやふや。

「だから差配おおやさんに懸合ってもらってよ。」

「その差配さんが今謂うステッキだ。」

 一段声を張上げて高らかに策を献ずるものあり。

「交番々々。」

「馬鹿をいえ、杖でさえ不可いけねえものが、洋刀サアベルで始末におえるかい。構うこたあない、みんなで押懸けて行ってあの軍鶏を引奪ひッたくッてしまうとするだ。」

「大勢でか、ちと変だな。」

「何さ、対手あいてがどうというんじゃあないが、一人や二人ではさすがに話しにくいて。」

「気の毒なり、可哀相でもあり、」

「まあ、何にしろ困ったものだ、今夜にも宵啼がみさえすりゃ、ああもこうもないんだけれど、留まなきゃあ、事のねえ内よ、気の毒だが仕方がねえ。」

 風はさらさらと軒を渡って、ああ、柳屋で鶏が鳴く。


三十八


蔵人くらんど、蔵人。」

 涼しい声で、たしなめるように呼懸けながら、店の左手ゆんでに飾った硝子戸がらすどの本箱に附着くッつけて、正面から見えるよう、雑誌、新版、絵草紙、花骨牌はながるたなどを取交ぜてならべた壇の蔭に、ただ一人居たお夏は、小さな帳場格子の内からと浴衣のなりで立つとひとしく、取着とッつき箪笥たんすのほのめく次の間のへだて葭簀よしず蓮葉はすはにすらりと引開けて、ずっと入ると暗くて涼しそうな中へ、姿は消えたが、やがて向直ってつかつかと店へ出た、乳のあたりにその胸を置かせて、翼に手をかけ抱いたのは、お夏が撰んで名をつけた、蔵人という飼鶏かいどりである。

何故なぜ今時分くんだね、」と人にものを謂うような、されば宵の一声にお夏がいそがわしく立ったのは、あたかもかしつけた嬰児みどりごが、求めて泣出すのに、嫁がその乳房をもたらすがごとき趣であった。

「お前、さみしいのか。」

 さみしいのかと謂って、少しく抱きあげて、きばのごとく鋭きくちばしにお夏は頬の触らぬばかり、

「私だって店にひとりで居るんだもの、我儘でございますよ。」

 くるくると動かす蔵人の目は光って、ものに動ずる風情あり。

母様おっかさん塩梅あんばいが悪いし、寝ていらっしゃるじゃありませんか、人がね、宵啼をするッていやがります。不可いけないよ、いやだよ、幾度いくたび言って聞かせるか知れないのに、何故言うことをお聞きでない。」

 と品ある目できっと見たが、傾けている片頬かたほから顔の色がやわらいで、

あかりを見せてあげようね、宵ッぱりたらないのだもの。」

 店の真中まんなかへ二足三足、あかりさきへ、お夏は釣洋燈つりランプもとに立ち寄った。新版ものの表紙、錦絵の三枚つづき、二枚合せ、一枚もの、就中なかんずく飼鶏がぱっと色彩を放って、金、銀、みどりくれない、紫、あらゆる色のここに相応ずる中に、墨絵にたる立姿は、一際水が垂りそうである。

「お祭だわねえ、あかりがついてにぎやかだろう。」

 飼鶏は心あるごとくまばゆ洋燈ランプをとみこう見た。たてをも砕くべきその蹴爪けづめは、いたいたしげもなくお夏の襟にかかっている。

「あっちを御覧、綺麗じゃあないか、音羽屋だの、成田屋だの、片市かたいち……おやおや誰かの姫君様といったような方がいらっしゃる、いやに澄してさ、高慢な風じゃあないか、お前知ってるかい、何が合点がってんさ、」と言いかけて打微笑うちほほえみ、

「何にも分らない癖に、おもしろいかい、そうかい。これは相撲の番附、こちらが名人かがみ、向うが凌雲閣りょううんかく、あれが観音様、瓢箪池ひょうたんいけだって。喜蔵がいつか浅草へ供をして来た時のようだ。お前あの時分はおとなしかったっけ、この頃はまるで嬰児あかんぼのようじゃあないか、夜啼をして、良い児だからもうちっと遊んだらあっちへおいで、可いかい。夜になってとやへ入るのは何もかわったことはないけれど、何だかさみしそうで可哀相だねえ、母様おっかさんと二人ばかしになったって、お前、私が居れば可いじゃあないか。」と、いつか独言ひとりごとをいいながら段々軒に近づいた。

「まだ見たいのかい、さあ、何にしよう、これはいくさの絵でございます、」と謂ってお夏は胸をらし、黒目がちなのを仰向あおむくと同時に、両手で上へ差上げたが、翼のさきびんにかかって、

「あら髪がこわれるよ。」と思わず手を放した、飼鶏はどんと身を落して、突立って土間へ下りた。


三十九


 溝石で路をくぎって、二間ばかりの間の軒下の土間に下りた、蔵人は踏留まるがごとくにして、勇ましくと立ったが、秋風は静々と町の一方から家毎やごとひさしを渡って来て、ちょうどこの小さな散際ちりぎわの柳をあてに、柳屋へ音信おとずれたので、葉が一斉になびくと思うと、やがて軍鶏の威毛おどしげおののゆらいで、それから鶏を手から落した咄嗟とっさの、お夏の水髪を二筋三筋はらはらと頬に乱して、さっと吹いてそのまま寂寞ひっそり

 この名残なごりであろう、枝に結えたさいころは一ツくるりと廻って、三が出て、柳の葉がほろりと落ちた、途端に高く脚をあげて、軍鶏は店前みせさきをとッとッと歩行あるき出した。

 お夏は片手をついて腰をかけて、土間なる駒下駄の上へ一片ひとひらの雪かとばかり爪先をかけて、うっかりとなった。フトその飼鶏を念頭から奪い去られたのであろう、ものおもひをする人の常として、こうは思いがけずしばしば心を失うのである。

 その間に軍鶏の健脚は、猫の額のごとき店頭みせさきを往復することをもって満足が出来なくなった。

 かつて黒旋風愛吉をして、お夏の一諾いちだくおもんぜしめ、火事のあかりの水のほとりで、夢現ゆめうつつの境にいざなった希代の逸物いちもつは、制する者の無きに乗じて、何と思ったか細溝を一跨ひとまたぎに脊伸びをして高々と跨ぎ越して、小路の真中へずっと出て、あたかも西側を離れて、これから東側へ廻ろうとして、狭い町の屋根と屋根との中空へ来た、月の下にすっくとこそ。

 土蔵の前に集った一団の人の驚きは推するに余りある次第であろう。

 渠等かれらが額を集め、鼻を合せ、呼吸いきをはずませて、あたかも魔界から最後のたたかいを宣告されたようにしている、忌むべき宵啼の本体が、十間とは間を措かず忽然こつぜんとしてあらわれたのであったから。

 あまつさえ這個しゃこの怪禽は、月ある町中へつッ立つとひとしく、一振りふって首をのばして、高く蒼空あおぞらを望んでまた一声、けい引おう! と叫んだ。

 これをしも忌み且つ恐れたる面々は、鳴声があとを引いて、前町裏町すべて界隈かいわいの路地の奥、土蔵の隅、井戸の底、屋根裏、階子はしごの下、三階、額の裏、敷居、鴨居かもいの中までも遠く響いて押拡がってくに連れて、次第に霧が起り、月がかくれて、ほとんど名状すべからざるありさまに変ずるがごとく見て取った。

 鶏鳴けいめい暁を報ずる時、夜のさまが東雲しののめにうつり行くさまは、いつもこれに変らぬのであるけれども、月さえややてらめたほどの宵の内に何事ぞ。

 宵啼をもって、火の神の町を焼く前駆とする者の心には、その声の至る処、路地の奥、土蔵の隅、井戸の底、屋根裏、階子の下、三階、額の裏、敷居、鴨居の中までも、燃えんとして火気のはびこり伝わる心地がして、あわれ人形町は柳屋の店を中心として真黒まっくろな地図に変ずるのであろうと戦慄せんりつした。

「ワッ!」

 古浴衣を蹴返して転がるように駆出したのは、町内無事の日参をするという、嘉吉がとこの婆様じゃ。


四十


 と見れば白髪を振乱し、おとがい細ってせさらぼい、年紀とし六十に余るのが、ししの落窪んだ胸に骨のあらわれたのをいはだけて、細帯ばかり、跣足はだしでしかもまなこが血走り、薪雑木まきざっぽう引掴ひッつかんで、飛出したと思うと突然いきなり

「火事だ、」と叫んで、軍鶏を打とうとしたが、打外した。

 蔵人は咄嗟とっさかわして、横なぐれに退すさったが、脚を揃えて、背中を持上げるとはたとばばつっかけた。

「火事だ、」

 またわめいてくだんの薪雑棒を振廻す、形相あたかも狂者のごとく、いや、ごとくでない、正に本物である。けだし小金もたまって、家だけは我物にしたというから、人一倍、むしろ十倍、宵啼よいなき神経こころを悩まして、六日七日も寝られず、取り詰めたはてが逆上をしたに違いはないので。

 白髪は飛んで、翼は乱れた。あれよと見る間に、婆と軍鶏と、とんと当り、さっと分れて、月下にただぐるりぐるりと廻った。

うぬ、業畜生、」と激昂げっこうの余り三度目の声は皺嗄しわがれて、滅多打に振被ふりかぶった、小手の下へ、恐気おそれげもなく玉のかんばせ、夜風に乱るる洗髪の島田をと入れて、敵と身体からだの擦合うばかり、中を割って引懸ひっかけにぐいと結んだ帯の背後うしろへ、軍鶏をかばったのはお夏である。

「お婆さん何をなさるんです。」

 ちょいと横顔で振返って、

しっ!」

 軍鶏もすくむようであった。婆は恐しい目をしながら、胸に波を打たせて肩で呼吸いきだ、歯を喰緊くいしめて口が利けず。

 かかる処へ殺気を籠めて、どかどかと寄せて来た、お夏と蔵人とを中に、婆の右左へかけて取巻いたのは土蔵の前に居た連中てあい

「何だ、火事だ。」

「火事だ?」と口々に尋ねたが、これは事件ことがら緒口いとぐちを引出そうとするに過ぎない、皆々は云うまでもなく、その間の消息を解していた。

「こ、こ、こいつじゃ、火事はこいつじゃ。」

 人数にんずが襲いきたったので思わずおさえていたたもとゆるんだ、お夏の手を振放して、婆は蔵人に躍りかかった。

「何をするんですよ。」

 遮ろうとするお夏の帯を、ぐいと留めた者がある。同時に婆を突退つきのけて、

「まあ、待ちなさい、」と一名。

 発奮はずみをくらい、婆は尻餅をついて、熟柿じゅくしのごとくぐしゃりとなったが、むっくと起き、向をかえると人形町通のかたへ一文字に駆け出した、且つ走り、且つ声を絞って、

「火事じゃ、火事じゃ。」

「あれ。」

 嬰児あかんぼを懐にしっかとおさえ、片手を上げて追懸けたのは、嘉吉のうち女房かみさんである、亭主その晩は留守さ。

「さてお夏さん、思切っておくんなさい、二三日前から薄々様子は知っていなさろうがね、町内じゃあ大抵気にするッたらないんだから、一番ひとつね、思切って私等わたしどもとりをおくんなさい。何も宵啼をすりゃこうと、政府おかみからおふれが出たわけじゃないけれども、うがすかい、心持だ。悪いことはいませんや、お前さんのおためにその方がかろうと思うからね。」

 お夏は黙ってかこみの中に居るのである。


四十一


「どうです、御承知だろうね、町内じゃあお前さんのうち第一いっち新顔だから、何かその辺にものでもあるように思われては迷惑、可うごすかい、分りましたろう。」

軍鶏これを寄越せって謂うんですか。」

「さようさ。」

「連れてってどうなさるの。」

「占めるんでえ、っちまうんでえ。」

 と鉄だろう、ぶちまけた。

 慌て騒ぐとおもいの外、お夏は莞爾にっこりして、

不可いけませんわ。」

「不可ねえと!」

「まあまあまあ、静かに言っても分ることだ。もし、不可ませんなんてそう平気でいられちゃあ困るじゃあごわせんか。一体、母様おっかさんに懸合うはずなんだけれど、御病人だからお前さんだ、見なすったろう、嘉吉さんとこのなんざ、あのさわぎ。」

「御免なさいな。」となお笑いながら平気なもので、お夏は下に居て片袖のたもとを添えて左手ゆんでを膝に置いて、右手めてで蔵人のそびらでた。

「仕ようがないねえ。」

 顔を見合せたのが二三人、談判委員もちと案外という語気で、

呑気のんきにどうも軍鶏とはなしなんかしていられちゃ困りますよ、ちょこまかした事とは違いますぜ。」

 お夏は振仰いで、

「ですから御免なさいまし。」

「あやまるの、あやまらないのというような岡ったるいこっちゃあないんだというに、困っちまうな。」

「私だって困っている、」とお夏も差俯向さしうつむいた。

「月夜でかどへ寄合ったという条、大きな野郎が五人三人、こうやって来たんだから、よくよくの事だと思いなさい、ね、ささ、これが一番わかりが早い、分りましたか。」

 退引のっぴかせず詰寄るに従って、お夏はますます庇立かばいだて、蔵人に押被おっかぶさるばかりにしつつ、

「もうきっとですよ、きっと鳴きはしませんよ、大丈夫だよ。私がよく言って聞かせますから。」

「おやおや、この上軍鶏と話なんぞされてたまるものか、気味の悪い、何てッたってどうせ助けてはおかないんだ。へん、言って聞かせる、人間の言うことをいて鶏が鳴かないようなら、勝手の悪い時は夜が明けねえや。」と嘲笑あざわらった者がある。

 お夏はきっと見て、

「何、」

「何、何たあ、何たあ何だい、経師屋きょうじやの旦那に向って、何たあ何だい、そんな口は軍鶏に利け。」

「はい、軍鶏の方が、お前さん方より余程よっぽどいうことが分りますよ。」

皆様みなさん。」

 一同のまなこはお夏に注いだ。

「面倒だ、やッつけましょう、可いや、手籠てごめが悪いという方がありゃ後でまた対手あいてになる、留めなすったって合点がってんしねえ、さあ、退け。」

 腕まくりをしてつかみかからんず権幕であるのに、お夏は更に意に介しないか、眼あるものならばおもてをも向けられないほど、品ある顔にえみたたえて、

「それでもほんとに分らないんだもの、あやまったら可いじゃありませんか。」

 自ら疑わないことまたかくのごときはあるまい。まさに突飛ばして軍鶏を奪わんとした男も、余りのことに手が出なかった。

 それが猶予ためらったので、かえってはたからいきり出した。あっちこっち耳ッこすりをして、

「エ、」

「さようさ。」

 衆議一決。


四十二


 両人あり、その時、さしはさんでお夏の左右より、ひとしく袖を引いて、

「さあ放した、退かないか。」

「余り強情を張りなさりゃ仕方がない、姉さん、お前さんの身体からだに手を懸けますよ。」と断って立懸たちかかる、いずれも門札かどふだを出した、妻子もあろうという連中であるから、事ここに及んでも無法にこぶしは握らぬので。

「何をするのよ。」

「いや、どうもしねえ、そン畜生を渡せてえんだい。」

「これ。」

いやですよ。」

「厭? 一人前の男に向って、そんな我儘な挨拶があるものか。」

「分らなけりゃ分らないで、可いから町内の交際つきあいというものを教えてやろう。」

「姉さん、虫の薬だ、我慢しな。」

「厭、」という時、黒髪は崩るるごとく蔵人のせなに揺れかかって真白まっしろかいなは逆に、半身ねじれたと思うと二人の者に引立ひったてられて、風に柳のなびくよう、横ざまに身悶みもだえした、お夏はさも口惜くやしげに唇を歪めたが、まなじりをきりりと上げて、

「私を、……私を、……私を、……」といかりを帯びた声強く、月に瞳を見据えたが、さっ耳朶みみたぶに紅を染めた。胴をそらして、雪なす足を折曲げて、

「あいつ々々々。」

 たちまち血の気は頬に消えて、色は一際白ずむのである。

「虫殺しだ、ちったあ痛えや。」

つかまえッちまいなせえ、」とお夏を押えたのが早速の懸声、それもこれも瞬く間で。

あぶねえ、わッ!」

 といって、今、お夏を引立ひったてたのを見るや否や、軍鶏のうなじを捕えようとした鉄は、両のてのひらで目をふたして背後うしろった。

 軍鶏はその肩の辺りまで素直まっすぐに宙へ飛んだのである。

 その脚の地に着くともろともに身をひるがえしてどんと突くと、

「おッ、」とわめいて、お夏のかいなねじっていたのが手を放して飛退とびさがると、袖がれたか、とぐいと払って、お夏はいま一人を振放して、つつと月影に姿を消したが、柳の下をくぐるがはやいか、溝を超えて、店へ駆け上ると奥へ入った。

 後を追って、奇異なる断々きれぎれの声を叫びながら駆け出した蔵人を、ばらばらと追詰める連中の、ある者は右へ退き、ある者は左へ避け、三人五人前後に分れて、さいの目のように散らばった。

 要こそあれ滅多あたりこぶしを廻して、砂煙のうずまくばかり、くるくる舞して働きながら、背後うしろから割って出て、柳屋の店頭みせさき突立つったった、蚰蜒眉げじげじまゆの、猿眼さるまなこの、ひょうの額の、熟柿じゅくし呼吸いきの、蛇の舌の、汚い若衆わかいしゅを誰とかする、紋床のやっこ愛吉だ。

「待ちゃあがれ此奴等こいつらわっしが出入先をどうするんだ。」

 奥から引返ひっかえして出たのはお夏、五七人の男を対手あいてに、いかに負けじとてどうする事ぞ、右手めて長煙草ながぎせるひっさげたり。かねて煙草はたしまぬから、これは母親の枕辺まくらべにあったのだろう、お夏はこの得物を取りに駆込んだのであった。

「お嬢さん。」

「愛吉か。」

 そのまま店から下りそうなるを、びったりとせなでおさえて、愛吉は土間一杯に身構えながら、くだんさいの目のごとき足並の人立に向って、かすれた声、

「やい! 何方様どなたさまもよくおいで遊ばされやがったね、へへへへへへ、何御用でございますか、仰せ聞けられまし、へへへへへ。」


四十三


「……七銭三厘、二銭、五銭、十五銭、一銭、二十五銭、三十銭、いかい。」

「へい、うございます。」

 愛吉は神妙に割膝でかしこまり、算盤そろばんはじいている。間を隔てた帳場格子の内に、掛硯かけすずりの上で帳面を読むのはお夏で、釣洋燈つりランプは持って来て台の上、店には半蔀はんしとみを下してある。

「十銭、十八銭、四十銭、五十八銭。」

うめえもんですぜ。」

「こんなに遅く読むのを置くのじゃあないか、ちっとも旨いことはありゃしない。」

「いいえさ、あきないもこうなりゃ、占めたものだというんでさ。」

 お夏は何にも謂わないで微笑ほほえみながら、

「八銭、七銭、五銭、合せて十二銭、三十二銭、十六銭。」

 愛吉あわただしく急込せきこんで、

「おっと! と。」

「またかい。」

「大概うがすがね。」

「算用が大概じゃあ困るからね、また遣損なったんでしょう。」

「ええと、今何でさ、合せてなんて、余計なことを言いなすった時、おやゆび引懸ひっかけて、上が下りて一ツ飛んで入りましたっけ。はてな、」

 お夏は帳場格子にひじをついて、顔を出して、愛吉が手なる算盤を差覗さしのぞいた。間近に照らす洋燈ランプあかりに、と見れば喧嘩の名残なごりである、前髪が汗ばんでいた。頬にかかるのは愛嬌毛あいきょうげで、

「幾ツ入違えたの、お直しな。」

 愛吉は小指でちょいちょいと耳をき、

「珠を幾つ遣損なったか、それが分りますと可うがすがね。」

 お夏は肱を掛硯の上へき直して、あかりうしろへ胸を引いた。

「もうこっちへお寄越しなさい。」

 愛吉は一議もなく、算盤と一所に額を突出し、お辞儀をして、

「どうぞ願います。」

 入違いにぽんと投出す、帳面を受取って、愛吉は膝の上。

「読みますぜ。」

 お夏は前髪の下へ、美しい指を一本、珠を狙って傍目わきめらず、

「さあ、」

「しっかりおやんなさい。」

「ああ、」と真面目である。

「えゝと、こうだに寄って、はじまりから遣りますよ、拾銭なり。」

「ああ、」と置く。

「八銭八厘也、可うがすかい。」

「ああ、」と置く。

「三十五銭也。」

「ああ、」と置く。

「それから二十八銭也。」

「ああ、」

 愛吉は目をこすった。

「お嬢さん、貴女あなたは手習はからっぺただっていうんですが、この字は細くって綺麗ですね。」

「ああ。」

「おっと、また二十四銭也。」

「ああ、」と置く。

「違った、二、二、二、二十二銭、そう、そう。」

 と独りで狼狽うろたえてひとりで落着く。

 お夏は後生大事に、置いた処を爪紅つまべにさきおさえながら、

「ちらちらするね、きっと飲んでおいでだよ。」

「おっと、八銭也。」

 早速珠を弾いて、

「ああ、」

「どうも一ツ一ツ、ああと返事をなさっちゃあ、その間にぽつぽつ、わっしなんざ及びッこなし、旨いものです。」

「旨いもんです。」とお夏は珠を凝視みつめたままで莞爾にっこりする。

 愛吉はけろりとして、

「お次が二十八銭也。」


四十四


「お夏や。」

 折から奥で衰えた声して呼んだのは、病の床にしているという母様おっかさん。この声を聞くと、愛吉は胸を折って、肩の中へうなじすくめて、口をむぐむぐと遣る。お夏はこれを見ぬようにしてちょいと見ながら、

母様おっかさん。」

「おお、いいえ、来るに及びません、勘定をしておいでか。」

「はい、」と軽く言う。

「御苦労だの。」

「母様、今夜は愛吉が来てくれまして、種々いろいろあの交ぜかえしたり、下手な算盤を置いたり、間違ったことをいったりしますから、おもしろくッてうございますよ。」

ひどいことを、」と口のうち、愛吉は苦い顔をして、お夏をうらめしそうに見る目をぱちくり。

「愛吉、難有ありがとうよ。」

「これは、」と額を押えたが、隔てていれば見えもせず、聞えもせず、のあたりのお夏にはどんなに可笑おかしかったろう。

「母様、愛吉があんな風をいたします。」

 愛吉はじたばたしたが、くるりと坐り直って奥のかたに手をついた。

「どういたしまして、ええ、水をって申しますと、平時いつものとおり裏長屋の婆さんが汲込くみこんで行ったと仰有おっしゃるんで、へい、もう根っから役に立ちません。」と膝をさすったり、天窓あたまを掻いたり。

「へい、何でございまして、その、」

「何がどうおしなのさ、」とお嬢さん人の悪い。

 愛吉はまた慌てて、

「その、何でございまして、へい。」

「佃島のは達者かい。」

「ええ阿母おっかあでございますか、ええ、ぴんぴんいたしております。ええ毎日のようにもお伺い申し上げませんければなりませんと、いつでもそう申しちゃあね、済まないッて言いますんでございますが、ああして一人で店をっておりますし、それにこの頃じゃあ、度々上ると、お夏様が気をんでお構い遊ばして、却ってお邪魔だからと、こんなに申しまして、へい。」

「そうかい、お前がちょいちょい来てくれるんだもの。佃島からは大変だ、今度逢ったら宜しくと申してくんなよ。」

難有ありがとうございます、わっしはどうもちっとも御用にゃ立ちませんで、ほんのもうお嬢様の癇癪かんしゃく、」

 途端にお夏が帳場格子をコトコトと叩いて気を着けた。振向くと眉をひそめて、かぶりを振って見せたので、

「癇、」と行詰り、

「癇……癪なんぞお起しなすっちゃあ不可いけません、紋床の親方なんぞも申しますが、気永に御養生なさいませんと、おれなさるのは一番毒ですって、」といいかけて、額の汗をぬぐいながら、愛吉は這身はいみになり、暗い蘆戸よしど覗入のぞきいれるようにして、

「もし御新造様ごしんぞさまえ。」

 ややあって、

「あいよ。」

「そして早くよくおなんなすって、またお襟でもあたらして下さいまし、そうまずくはありませんや、剃刀かみそりだけは御用に立ちます。」としんみりする。

「涼しくなったら可かろうと思うよ、今夜あたりは余程よっぽど心持がいようだよ。」

 しばらくことばが途絶えたが、

「お夏や。」

「母様。」

先刻さっきうとうとしていると、戸外おもて大分だいぶん騒がしかったようだっけ、」

 愛吉はぎょっとして、またうなじすくめ、

「そうら。」

「何? あれは。」


四十五


「何でございますか、向うの嘉吉さんのとこの婆さんが気がれて戸外おもてへ飛び出したもんですから、みんなで取押えるッて騒いだんですよ。」

 とお夏は自若としていって真顔で居る、愛吉は苦笑にがわらい、また苦笑。

「そうかい、飛んだこッたね、そしてどうなりました。」

「火事だ火事だといって表町の方へ駆出して行きましたっけ、しばらくすると角の交番のお巡査まわりさんが連れて戻りましたよ。」

 自分かかり合のことは丸抜にして言い紛らした。お夏は母親の前を繕ったのであるが、しかし事実で。

 先刻さっきちょうど来合せた愛吉が、常に口にするよう、お夏の癇癪を引受けて、町内の人々と言い争い、すわや、掴合つかみあいの始りそうになった時、あたかも可し、婆を捕えて、かの嬰児あかんぼを抱いた女房を従えて、嘉吉の宅へ届けるため、角の交番から出張したのか、見ると騒動、コヤコヤと叱りとどめて、所得税を納める者まで入交って、腕力沙汰は、おい、何事じゃい。

 双方聞合せて、仔細しさいが分ると、仕手方の先見あきらかなり、ステッキ差配おおやさえ取上げそうもないことを、いかんぞ洋刀サアベルうなずくべき。

 各々めいめい自分勝手な迷信から、他人の持物を侵そうとする、それも方角が悪いといって、掃溜の置場所を変えよとでも謂うことか、とりを殺そうとは沙汰の限り。

 なお人一人、それがためにと申立てるが、鶏の宵啼よいなきで気が違うほどの者は、犬が吠えると気絶をしよう、理非を論ずる次第でない。火事だ、火事だと駆け廻って、いや火の玉のような奴、かえってその方が物騒じゃ、家内の者注意怠るな、一同の者、きっと叱り置くぞ、早々引取りませい、とおさばきあり。

 あっちでもこっちでもぶつぶつがらがら、口小言やら格子の音。靴のひびきが遠ざかって、この横町はしずかになったが、嘉吉が家ではなおばたばたするので、うるさいと謂って、お夏が半蔀はんしとみを愛吉におろさした、その内に蔵人はもとねや煙管きせるもそっと、母親の枕許へ、それで事済ことずみとなったのであるが、つきなり殊にやまいの疲れ、知らぬと思っていた母親に尋ねられて、お夏は落着いても、胸は騒いだのであるけれども、これも案ずるより産むが安かった。

「愛吉、」

「ええ、」

 無言で目を合せていて、やがてのこと。

「あの、母様おっかさん。」

 黙って返事がないから、

「寐なすったよ。」

 まなこみはって呼吸いきこらした、愛吉はほっとばかり、

塩梅あんばいたしかですか。」とそッという。

「始終すやすやしていらっしゃる、先刻さっきもよく寐ていなすった様だっけ。」

「それであの煙管などを持出して、ほんとうにあれを揮舞ふりまわすつもりでございましたか。」

「むむ、」とお夏は打頷うちうなずく。

 愛吉驚いた風で、

「途方もねえ。」

「私にだって一人や二人はてようじゃあないか。」

「飛んでもねえ。」

 お夏は澄したもので、

不可いけないかしら?」

「不可いたって、可いたって、そんな身体からだで、あの中へ揉込まれて、串戯じょうだんじゃアありませんぜ。髪の毛でもつかまったらどうします。」

「まあ、」

「ええ?」

「そうね。」とわけもなく合点がってんする。

 愛吉は乗出して、

呑気のんきじゃあ困りますな。」


四十六


「だからわっしがいつでも言うんじゃございませんか、荒いことは軍鶏と私とで引受ひきうけますッて。ですから私におっしゃるまで、我慢をしていなさらなけりゃ不可いけません、まったくですよ。御新造様ごしんさんがどんなに心配をなさるか知れません、うがすかい。」

「それでも打棄うっちゃって置くと殺されるじゃあないか、とりを寄越せってうんだもの。」

「そりゃもう。いえ、済んだ事は仕方がありませんが、これからもあることです、これからの事ですよ。だって先刻さっきも私が来合せましたからかったようなものの、どうして立至った場合なら、貴女一人で叶いっこがありますか。どうせ叶わねえので見りゃ、怪我なんぞなさらない方が割方わりかたでございましょう、威張ったって婦人おんなだ、何をし得るもんですか。ねえ、」

「はい、さようでございますよ。」

「そら、御覧なさい。」と愛吉は説破し得たりという顔であった。

「愛吉、」

「へい。」

「私が来たから可いようなもののと、お言いだがね。」

「ええ、さようさ。」

「私はそうとは思いません、」と莞爾々々にこにこする。

 怪訝けげん顔色かおつきで、

「はてね。」

「私は巡査おまわりさんが見えたからそれで助かったと思いますよ。」

「や、成程。」

「どうだい。」

「へへへへへへ、一言ひとこともござなく、……」

 続けさまに天窓あたまを掻き、

「ですがね、お嬢さん。」

「ああ。」

わっしも深川のお宅へ泣込んで参りました時のように、いつも弱くばかしはございませんぜ。あの頃は何でもこう二三人とは謂いませんや、一人でも向うへ廻して、わッというと、」

 愛吉はぎょッとする仕方をして、

「もう目がくらみました。何、どんな目に合おうかと危険けんのんだからふさぐんで、卑怯ひきょう生命いのちおしいと思うんじゃありませんけれども、さぞ痛かろうと、あらづもりをするんでさ。」

「まあ、」

「もっとも、何ですか、一寸さきは分らないといった工合で、からだらしがありませんでしたが、段々れて来てお前さん、この頃じゃあ、立身たちみになりましょうと、喧嘩の虫が声をかけると、それから明るくなりますぜ。そら拳固だ、どッこい足蹴あしげだ、おっとその手を食うものか、その内に一人つんのめるね、ざまあ見やがれと、一々合点がってんが出来ますだろう。どうです、強くなった証拠ですぜ。親方も言いましたっけ、なぐりあいに目を塞がないようになりゃ、喧嘩流の折紙だって、もうちっと年紀としを取って功を積んで来ると、極意皆伝奥許おくゆるしと相成ります。へ、」

「おやおやそうすると。」

「喧嘩をしませんとさ。」

「何、」

「極意皆伝奥許というのは喧嘩をしない事ですとさ、何のこッた詰らない。」

 と愛吉は何か詰らなそう。

「ほんとうに詰らない、」

「いえ、ところがわっしにゃあ不可いけません、お嬢さんなんざ何でも分っていなさるんだから、はじめから幾らも皆伝になられます、荒っぽい気をお出しなすっちゃあ不可いけませんぜ。」

「ああ、だからお前も喧嘩の話はおよし、お前の話というときっと喧嘩の事だよ。」

 と淡泊あっさりしたことを謂いながら、物足りなそうな、済まぬらしい、愛吉の様子を眺めて、もの優しく、

「おもしろい話をお聞かせな、私もさみしいからゆっくりおし。そして、煙草たばこがなくば上げようか。」


四十七


 愛吉は店の箱火鉢を引張り寄せ、叩き曲げた真鍮しんちゅう煙管きせるを構え、膝頭ひざがしらで、油紙の破れた煙草入の中を掻廻しながら少し傾き、

「ト、おもしろいはなし? なまずとこのかのお米が身の上……ありゃたしかもう御存じでございましたね。」

「ああ、二三度聞いたよ、可哀相だわ、おもしろくはないよ。」

「さてと、困ったな、喧嘩が禁制となって酔払いがお気に入らずとあっては、前座種切れだ。」

 と吸いつけ、

「お待ちなさい、お米が身の上は可哀相ときまって、長崎から強飯こわめしが長い話と極った処で、これがおもしろいとかたのついた話といってはありますまい。わっしが一度甲州街道の府中に行っていたことがあります。

 よくはやりましたが、新店しんみせで、親方というのがわかいので、女房かみさんもまだ出来たてだもんですから、職人は欲しい、世話はしたいが一所に居るのはちと工合が悪い、内には妹と厄介な叔母おばとが居て、ちょうど別に一軒借りようという処で、家は見つかっている、所帯道具なんぞ、一式調い次第あとから繰込むとするから、私に先へ行って夜だけ泊っていてくれろとこういう話です。

 うございますとも。早速その晩から煎餅蒲団せんべいぶとん一枚ずつ抱えて寝にきました。木戸があって玄関まであって室数まかずが七ツばかり、十畳敷の座敷には袋戸棚、床の間づき、時代にてらてらつやが着いて戸棚の戸なんぞは、金箔きんぱくを置いて白鷺が描いてあろうという大したもんです。

 私は曰附いわくつきの家へ瀬踏せぶみに使われたんだとは気が着きませんや。

 床屋風情にゃあ過ぎたものを借りやあがった、ふすまの引手一個ひとつ引剥ひっぺがしても、いっかど飲代のみしろが出来るなんと思って、薄ら寒い時分です、深川のおやしきがあんなになりました、同一おなじ年の秋なんで。

 その十畳敷の真中まんなかで、昆布巻こぶまきめて手足をのびのびとりましたっけ。」

 愛吉は吸殻をはたいて、

うごすかい、さあ寝られません。総鎮守の風の音が聞えますね、玉川のながれは響きますね、遠くじゃあ、ばッたんばッたん機織はたおり夜延よなべでしょう、さみしいッたらありません。

 悪くするとこりゃ狐でも鳴きそうだ、弱りましたね、さよう、一時頃でございましたろうか。」

 聞惚ききとれていたお夏は急にあどけないことをいった。

「出たかい。」

 余り唐突だしぬけに聞かれたから、愛吉まごついて、

「へい、何でございます。」

「いずれ何か。」

「最初は、庭に手水鉢ちょうずばちがあります、その雨戸がカタリといいましたっけ、縁側を誰か歩行あるいて来ます、変だと思ってる内に、広間の前の処で跫音あしおとんだんです。へい、」といって一ツ自分で頷いた。

「それだけ。」

「どういたしまして、これからなんでさ。しばらくすると、すッと障子を開けましたが、私が枕を持上もたげる時には、もう畳を三畳ばかりすらすらと歩行あるいて来ました。

 見ると婦人おんな

 はてな、られる物はなし、戸締りはして置かないから、店から用があって来たのかしらと、ひょいと見ると、どうつかまつり……床屋の妹というのはちょいと娘柄こがらうございましたけれど、左の頬辺ほっぺたあざがあって第一円顔なんで。」


四十八


「よく演劇しばいでしたり、に描いたりするのは腰から下が霧のようになってましょう。

 わっしがその時見ましたのは、どうして、大した結構なものですぜ。

 目鼻立のはっきりとした、面長で、整然ちゃんとした高島田、品は知りませんが、よろけた竪縞たてじまの薄いお納戸の着物で、しょんぼり枕許へ立ったんです。

 時刻は時刻だし、場所は場所ですし、第一、その玉がまた、府中あたりに見ようたって見られるのじゃありません。なんしろお嬢様、三階だち青楼おちゃやの女郎が襟のかかった双子ふたこ半纏はんてんか何かで店を張ろうという処ですもの。

 歌舞伎座こびきちょうのすっぽんから糶上せりあがりそうな美しいんだから、驚きましたの何のって、ワッともきゃっともまさかに声を上げはしませんが、一番生命いのちがけで、むっくり起上ると、フイと背後向うしろむきになって、風を切るようにすっと引返しました。その時は背筋のあたり、真白まっしろな襟を艶々つやつやしたまげね、毛筋もならべたほどに見えましたっけ、もう消えたんです。あくる朝はぼんやりでどうも考えて見ると夢のよう、早い処でまず、その消えたあとのことを思出すと、何しろ真暗まっくらなんでございましょう。夢でなくッて顔色がどうの、着ものの色がどうの、髷のかたがこうのと、分るわけがなかろうじゃありませんか。

 夢とすると話が出来ない、いかに田舎かせぎに出ていたって、野郎の癖に新造しんぞの夢でもありますまい。これが山賊に出逢って一貫投げ出したとでもいう事なら、意気地がねえたって茶話にゃなりまさ。

 黙っていました。

 その晩、また昨夜ゆうべのように、燧火マッチだけは枕頭まくらもとへ置いて火の用心にあかりは消して寝たんですが。

 同一刻おなじじこくになりますと、雨戸がカタリ、ほんの、カタリと聞えますだけなんで、縁側に跫音あしおとがしましょう。枕を上げて見たばかりで、何故なぜだか起返る事が出来ません。

 その女もしばらく立っていましたっけ、別に何という事は無しに、縁側の障子の際で、肩のあたりが消えますとね、桟が見えて高島田もなくなりました。」

 お夏は半ば聞棄てて、気を入れるともなく返事ばかりして、帳面をあっちこっちばらばらと返していたが、この時一点も疑う色のない顔を上げた。

「奇代だわねえ。」

「ええ、まだまだそれが三晩四晩と続きましたね、段々気味が悪くなって来るせいですか、さあ、おいでなすったと思うと天窓あたまから慄然ぞっとして、おしを置かれるような塩梅あんばいで動くこともなりません。

 五日ってからお約束の、叔母と、妹というのが引移りました。けれども、そらわっしに瀬踏をさした位なんですから、そうやって日が経っても、何にもいわないについて大丈夫とは思ったでしょうが、まだ安心がなりますまい、そこで段取はぬき、所帯道具は運ばないでまず泊りに来たもんです。

 次のの六畳に二人抱ッこをして寝ましたっけよ。お前さん昨夜ゆうべは大層うなされてねと、夜が明けてからぬかしまさ。さあいよいよだ、とぎょっとしたけれど、何時頃にと、とぼけて尋ねますと、ちょうど刻限が合ってるんで。

 ままよ、こうなりゃ百年目だ。新造に取着とッつかれるおぼえはないから、別に殺そうというのじゃあなかろう、生命いのちに別条がないときまりゃ、大威張りの江戸児えどっこ、」

、」

「ほんとうに度胸を据えました、いえ、大したことじゃありません。何か化けて出る因縁があるに相違ないと思いましたからね、思い切って聞いてようと、さあ、事がきまると日の暮れるのが待遠いよう。」


四十九


婦人おんな二人は、また日が暮れると泊りに来ました、いい工合に青緡あおざしを少々握りましたもんですから、宵の内に二合半こなからあおりつけて、寝床に潜り込んで待ってると、案の定、刻限もたがえず、雨戸カタリ。

 ちらりと姿が見えたが勝負で、わっしあ目をねむって、江戸児だ、お前さん何の用だ、と言いました。

 すると莞爾にっこり笑ったからすごうございまさ。少し俯向うつむいてこう胸の処に袖を重ねていた、それをね、両方へ開いたでしょう。

 突然いきなり大蛇うわばみ天頭あたまでもあらわれるかと思うと、そうじゃアありません。これを預けたさに、と小さな声で謂いましたね。青い襦袢じゅばんの中から、細い手を差延べたから、何か知らんが大変だ、幽霊の押着おッつけものなんざ恐しい、突退つきのけようと向うへ突出したこの手ッ首の細い処へ、」

 愛吉は指ので左の手首を握りながら、

「一本きらきらする銀のかんざし、脚を割ってつきさすように挟んだんです。たしかに、うござんすか。確に、という口の下、ぐいぐいとその簪の脚がしまりましてね、ここが不思議ですよ、その痛いことと謂ったら。思わずキャッというと、愛吉さん愛吉さんと呼びますわ、次ので二人の声がするから、気が着きますと、わっしは床の上へ坐り直って、うつつにもお嬢さん、こうやって左の手ッ首をおさえていたんです。

 恐しいことには、夜があけても何だか脈処みゃくどころが冷たいようで、ずきずき痛みましたからたまりません。

 打明けては言いませんでしたけれども、二晩続けてわっしうなされたのを聞いたんで、婦人おんな二人はもういやだとかぶりを振ります。

 有耶無耶うやむやの内は、夢だろうぐらいで私も我慢をしましたけれども、そうどうも手首へ極印を打たれちゃあ辛抱がなりません。とても次の晩からはその家へは寝られませんで、かたなしになりましたが、私あはじめてです、いまだに不思議に思いますがね。」

「それッきり逢わなかったの。」

「ええ、もう木賃の方へ逃げました。」

「惜しいことをしたねえ、何かお前に頼みごとでもあったんじゃあないか、それでなくってもまた来た時を待っていて、わけを聞けばかったのにね。」

 と身に染みて、お夏は残惜しそうな風情であった。

「今で見ますと、私もおしいことをしたと思います、ですがお嬢さん、その場に臨んで御覧なさい、その気味の悪いことといっちゃあ、口で謂うようなものではないんですから。」

 お夏はこれを聞取らなかったほど、何か考えていたが、

幾歳いくつ、」

「十八九で、」

一昨年おととしのことだって、」

「一昨年でございますよ。」

「一昨年十八九、私と同一年おないどしぐらいだねえ?」

「飛んだことを、たとえになすっちゃあ不可いけません。」と驚いて言う。

 お夏は自若として、

「そしてかんざしを預けたいといったって、十八九で綺麗な女で、可愛らしいおばけだこと。ほんとに可愛いじゃあないかねえ、」とものおもい、もの思う様子で謂いながら、つむりへ手を遣ると、さしていた銀脚の簪を抜いて取った。

「愛吉、ちょいとお見せな、手を。」

「へい、」

「こんな風に預けたの。」と、そのまま手首へはさんだが、よくは入らないから耳の処へ力を入れた、しろがねは柔かく二ツに分れて、愛吉の手は帳場格子の上に結いつけられたようになったが、双方無言で、やがて愛吉はぶるぶると震えた。


五十


「取ってお置き、それをお前に上げましょう。」とお夏は事もなげに打微笑うちほほえみ、

「それであのお化の念が届くんだわ。」とあっけに取られた愛吉の顔をさも嬉しそうに眺めたが、不意に色をかえて、お夏はちょっと簪を抜いた髪に、手を触れて見てきっとした。この時の容貌は、過般いつぞや深川の橋の上で、女中に取巻かれて火を避けたのを愛吉が見たそれのごとく、ほとんど侵すべからざる、威厳のあるものであった。しかもあきらかに一片の懸念のおもかげは、美しい眉宇びうの間にあらわれたのである。お夏は神に誓って、たわむれにもかかる挙動ふるまいをすべき身ではないのであった。

 しかるに愛吉がさまもまた極めて案外。

 その手も引かずかれは色を正して、やや開き直ったというていで、

「お嬢さん、それじゃあこれをお記念かたみに頂きましょう。」

「え。」

「お嬢さん、わっしは何とも申し上げようはございません。」と片手をそれへ、つむりをさげたが、声の調子も変っている。

「私あお嬢さん、あなたに取っちゃあかたきでございます。へい、とんでもない、わばその獅子身中の虫と謂うんで、こんな分らずやで何にも存じませんもんですから、愛吉々々とおっしゃって下さるのを、可い事にして、癇癪かんしゃくは引請けましたなんぞと、うぬが勝手な熱を吹いちゃあ、ちょいちょいお出入をするもんですから、こんな役雑やくざものと口をお利きなさりますばッかりで、お嬢様、あなたに人が後指を指すんです。知らない内はから呑気で、一向澄したものでおりましたが、人から気をつけられて身体からだを持って行き処のないほど、驚いたんでございますよ。

 まあどの位、こちら様に害をなすか、こん畜生、すうが知れねえんで、へい。実に相済みません、何てっておわびのいたしようもないのでございます。

 今晩も実は一言ひとこと申上げて、お暇乞いとまごいをしましょうと、その事で上りましたが、いつに変らず愛吉々々とおっしゃるので、つい言い出しかねておりました。

 唐突だしぬけにこんな事をやぶから棒、気が違ったかとお思いなさいましょうが、お嬢さん。

 あなたも何にも御存じなし、私もちっとも知らないでおります内に、あなたの御縁談が一ツ打破ぶちこわれたんでございまして。

 これが並一通ひととおりのことじゃアありませんや。対手あいてがまたその辺に対手欲しやでうろついてる出来星のけちな野郎じゃアありません、うぬ身体からださえ打棄うっちゃってる私ですもの、大臣だって、大将だって、大金持だって何だって、糸瓜へちまとも思わねえのに、こればかりは大の贔屓ひいきで、心底かられています山の井の若先生。」

「愛吉!」

「お待ちなさい、それだ、分ってます。京橋から築地、この日本橋、神田、下谷したや、一度見た親はこういう人をと思わねえものはありますまい。今度あなたの代りにきまりました縁の先方さきの、山河内の奥方てえ、あのたむしの大年増なんざ、断食をしないばかりに、むすめおッつけようといって騒いだと申すんで。

 その若先生が、お嬢さん、あなたを望みで、影日向ひなた心を入れていたというのに、何と私が着絡つきまとってるばかりに、控えたというじゃアありませんか。」

「愛吉!」

「済みません、分ってます、分ってます。しかもこういう事をはじめて聞きましたのが、先達てお嬢さんが口惜くやしがっておいでなすった、根岸の鴨川一件だ。鼻元思案のおさきばしりに私があばれ込んで、ひッくりかえって可い心持で飲みました晩ですぜ。それと分ってからはお顔を見るにも御不便ごふびんで、上りかねましたから、こんなに御不沙汰にもなりましたが、もう一度問直そうと、山の井先生がその時は、自分で鴨川のとこへ行ったッていうんです。それが頼まれもせずいいつけもなさらない、お嬢さんの名を出して、私が暴れて帰ったあとだった、というじゃありませんか。

 口惜くやしいのは、お嬢さんに団扇うちわあおがせた時がと言うと、あの鴨川めが肝入きもいりで、山河内の娘に見合をさせるのに、先生を呼んだ日だと謂いますわ。かたきだもの、おまけに、私が帰ったあとで、あなたの相談がどうなります。それに、まだ、そんな事じゃあない、といいますのはあの若先生は、お嬢さん、あなたが誰にもおっしゃらないで、心で思っていらっしゃる、……」

「愛吉!」

「いいえ、分ってます。誰も知りませんが、これを、いって聞かしたのは、竹永丹平という、新聞社の探訪員。」

明治三十三(一九〇〇)年九月

底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年624日第1

底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店

   1941(昭和16)年1110日第1刷発行

初出:「大阪毎日新聞」

   1900(明治33)年89日~927

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2012年35日作成

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