湯島詣
泉鏡花

紅茶会  三両二分  通う神  紀の国屋


段階子  手鞠の友  湯帰り  描ける幻


朝参詣  言語道断  下かた  狂犬源兵衛


半札の円輔  犬張子  胸騒  鶯


白木の箱  灰神楽  星



紅茶会



「紅茶の御馳走ごちそうだ、君、寄宿舎の中だから何にもない、砂糖は各々めいめい適宜に入れることにしよう。さあ、神月こうづき。」

 三人の紅茶を一個々々ひとつひとつ硝子杯コップせんじ出した時、柳沢時一郎はそのすっきりとせいの高い、しまった制服の姿をとう椅子いすの大きなのに、無造作に落していった。

 かれ腕袋カウスの美しい片肱かたひじを椅子の縁に掛けて、悠然とぶら下げながら、

篠塚しのづか、その砂糖をお客様に出して上げろ。」

「おい、」と心安げに答えたのは和尚天窓おしょうあたまで、背広を着た柔和な仁体じんてい、篠塚なにがしという哲学家。一脚の卓子テイブルを囲んで、柳沢と差向いに同じ椅子に掛けていたが、たいひねって、背後うしろへ手をのばすと雑書をれた本箱の上から、一瓶の角砂糖を取って、これを二人の間に居る一にんの美少年の前に置いた。

「取って頂くよ。」とおとなしく会釈する、これが神月と呼ばれた客で、名をあずさという同窓の文学士、いずれも歴々の人物である。

 梓は柳沢が煎じてくれた紅茶の、薄紅色うすべにいろ透取すきとお硝子杯コップの小さいのを取って前に引いたが、いま一人哲学者と肩をならべて、手織の綿入に小倉こくらはかまつむぎの羽織を脱いだのを、ひも長く椅子の背後うしろに、裏をかえして引懸ひっかけて、片手を袴に入れて、粛然として読書する薄髯うすひげのあるのを見て、

「何を読んでるんです、」と少しく腰を浮かして、差覗さしのぞいて聞いた。

「僕、」と応じはしたけれども、急に顔を上げたので誰に返事をするのであるか、自分にも分らないで迂路々々うろうろするのを柳沢は気軽に引取って、

若狭わかさが読んでるのは歴史だよ、国史専修の先生だもの、しばらくの間も研究を怠らない。」

「御勉強です、」といって神月が点首うなずくと、和尚は、にやにやと笑いながら、その読んでる書を横目で見た。柳沢は吹出して、

「真面目な挨拶あいさつをするやつがあるものか、歴史は歴史だが大変なもんです。無名氏著、岩見武勇伝だからいじゃあないか。」

ひどく研究をしております、」と哲学者は仰いで飲む。これが聞えたものらしい。若狭は読みながら莞爾かんじとした。

「また何ぞの材料にならないとも限らないだろう。」と梓はその硝子杯を手にした。

 柳沢はななめ卓子テイブルもたれて、小刀ナイフの柄で紅茶に和した角砂糖をつつきながら、

「そりゃある、その材料のあることはちょうど何だ、篠塚が小まさの浄瑠璃の中から哲理を発見するようなもんだ。」

「馬鹿をいえ。」

 梓はかたわらより、

「しかし君も鳥屋のむすめの言は、時に詩調を帯びると、そういった事があるよ。」

 底意なき人達は三人一堂に笑った。

にぎやかだね、柳沢、」と窓の下の園生そのうから声を懸けたものがある。



 一番窓に近い柳沢は、乱暴に胸をそらして振向いたが、硝子越がらすごしに下をのぞいて見て、

竜田たつたか。」

「誰か来ているかい。」

「根岸の新華族だ、入れ。」と云って座に直る。

 同時に、ひよいと窓の縁に手がかかった、飛附いて、その以前、器械体操でらしたか、身の軽さ、肩を揺り上げて室の中に、まずその瀟洒しょうしゃなる顔を出したのは、竜田、名を若吉というのである。

 梓を見てえみを含み、

「堪忍してやれ、神月はもう子爵じゃあない。」といいながら腕組をして外壁に附着くッついたままで居る。柳沢は椅子をずらして、

「まあ入れ、ちょうどい。今その事に就いて、神月問題というのをはじめた処だ。ちょっとその休憩時間よ。神月がひどく弁論に窮して、き様の来るのを待っていたんだぜ、竜田が居たらばッてそういってな。」

 聞きも果てず、満面に活気を帯びきたった竜田は、飜然ひらりと躍込み、二人のなかと立って、卓子テイブルに手をいたが、解けかかる毛糸の襟巻の端を背後うしろねて、

し、また例の筆法で苦しめたか、神月君、」

 親しげに、

「よく、僕を待っててくれました、もう大丈夫だ、心配をしたもうな。僕何のために学生となって、法律を研究してると思う、皆親友神月の弁護をするためだね、どうです。」

「どうぞよろしく、」といって梓はたわむれにつむりを下げた。

 竜田はその薩摩飛白さつまがすりの羽織の胸紐むなひもをぐッとめ、

「さあ、来い。」

「またやんちゃんが始まるな、」と哲学者は両手でおとがいを支えて、柔和な顔を仰向あおむけながら、若吉をみつめて剃立そりたてひげあとで廻す。

「大概分ってるさ、問題というのは神月が子爵家を去って、かの夫人に別れて、谷中やなかの寺に籠城ろうじょうして、そして情婦いろの処へ通うのを攻撃するんだろう。」

「勿論、」と簡単、がちゃりと雑具ぞうぐの中へ小刀ナイフを投出して、柳沢は大跨おおまたに開き直り、

「最初、神月がその夫人との中に感情を害したのは、不幸にも結婚の第一じつ、すなわち式を挙げた日だ。」

「さよう、」と突込つッこんで応ずる竜田の声は明快である。

「き様も知ってるな、僕も聞いた。そうして成程と思ったが、考えて見るとけだし神月の方が非なんじゃあないか。」

「何、そんなことがあるものか、新婚旅行に出掛けようとして、上野から汽車に乗込むと、まだ赤羽の声もかからぬうち、山下の森の中で、光りものがした。神月は──おや、人魂ひとだまが飛ぶ、──と何心なくいったんだ。谷中は近し、こりゃ感情だね。そうすると、あの嚊々かかあめ。」

「竜田たしなめ、旦那様だんなさまの前じゃ、」と哲学者が戯れる。

 顧みて、

「失敬。」

「結構、」といったのは、そのいわゆる旦那様梓であった。竜田はいきおいよく、

「どうだ、小生意気ではないか、──いいえ、星が流れたんです、隕石いんせきでございます、──と云った、そればかりならばまだしもじょすね。」



「神月が人魂だといったのを聞いた時、あいつ愛嬌あいきょうのない、鼻のたかい、目のきつい、源氏物語の精霊しょうりょうのような、玉司たまつかさ子爵夫人りゅう子、語を換えて云えば神月の嚊々かかあだ。君、そいつがねその権式高な、寂しい顔にひややかなえみを帯びてさ、文学士を軽蔑したもんだぜ、神月なるものしゃくに障らざるを得んじゃあないか。」

し、婿さんは癪に障ったろう。癪に障ったろうが、また夫人その人の身になって、その時には限らぬが、すべて神月の性質と、おこないを見た時の夫人の失望を察せんけりゃ不可いかん。もっとも余り物質的の名誉を重んずる夫人の性質も極端だが、それだけにまた儕輩せいはいに群を抜いて、上流の貴婦人に、師のごとく、姉のごとく、敬いたっとばれている名誉を思え、七歳ななつ年紀としから仏蘭西フランスへ行って先方むこうの学校で育ったんだ。」

「待て、待て、少し待て。」と竜田はてのひら卓子テイブルを押え、ことばを遮り、

「まあ待て、先方さき七歳ななつの時から仏蘭西で育ったんなら、手前どものは六歳むッつ年紀としから仲之町なかのちょうで育ったんです、もっとも唯今ただいま数寄屋町すきやちょうりますがね。」

「竜田、」と留めた、梓は恥ずる色があった。

いよ、君、可いから言わしておけ、どうせみんな御存じなんだ。どうです、彼が仏蘭西で、学び、日本で得た、すべての学識と、その子爵たる財産と、家屋と、庭園と、十幾人の奴隷どれいとだ。その言一句といえどもゆるがせにせず、一挙手一投足といえども謹んで、二十七歳の今日まで、あさひの昇るがごとくに博し得た名誉とを、悉皆しっかい神月に捧げて、その妻となったのを、恩だというんなら、こっちにだってその一切にあたいするものがあるんだよ。」

 哲学者はことばを挟み、

「見たまえ、また竜田が例の笛と鼓を持出すからな、はははははは。」

「何を失敬な、」と哲学者をちょっとにらんで、

「そうさ、持出すが悪いか。先方むこうじゃあ巴里パリイで、麺麭パンを食ってバイブルを読んでいた時に、こっちじゃあ、雪の朝、ふるえてるのを戸外おもてへ突出されて、横笛の稽古けいこをさせられたんだ。吹込む呼吸いきが強くなるためだといって抱主かかえぬしが、君、朝御飯も食べさせない、たまるもんか、寒い処を、笛を習ってるうち呼吸いきが続かぬから気絶するのが、毎朝のようだ、水をふきかけて生返らして、それから握飯の針のようなのを二ツずつ貰って食べる、帰ると三味線のお温習さらいをして、そのまま下方したかたの稽古にられる。直ぐに踊の師匠にちのめされるんだ。生疵なまきずの絶間もない位、夜はというと座敷を廻り歩いちゃあ、年上の奴に突飛ばされて、仰向けに倒れると見っともないといって頬板ほっぺたたれたもんだ、何のためだ、同じ我々同胞どうぼうの中へ生れて来て、一方はひげはやして馬車に乗った奴に尊敬される、一方は客とさえいやあ馬の骨にまで、その笛をもって、その踊をもって、勤めるんです、このかんに処して板挟いたばさみとなった、神月たるもの、よろしく彼を棄ててこれを救うべしじゃないか。どうだね、殊に親も兄弟も叔父叔母もない。ただ手足と、顔と、綾羅錦繍りょうらきんしゅうと、三味線と冷酒ひやざけと踊とのみあって存する、あわれな孤児みなしごをどうするんです、ねえ君、そこは男子おとこの意地だ。」と若い人は意気すこぶあがった。

 柳沢は冷然として、

「あらず、そういう意地は、とびの者も持ってるじゃあないか。」



 この折からたとえば荒滝をずたずたに切って落すような、がッがッというひびきがした。この音は校舎の奥のかたよりはるかとどろきたって、床下を決して戸外おもてへ抜けたのである。

 先刻さっきからわざと笑顔を装いながら、何か澄まないらしい色が見えて、ほとんど茫然ぼんやりしたかのごとく、柳沢と竜田の論ずる処を聴いていた文学士は、いたくこれを感じた様子で、

「何だね、今の音は、」と安からぬさまして尋ねた。

 柳沢、そのあらぬかたみつめていて落着かない梓のおもてみまもって、

「忘れたか、神月。」

「何を。」

「今の音を。室をあたためる蒸気じゃあないか。」

 言う時、煉瓦造れんがづくりの高い寄宿舎の二階から一文字に懸けてあるくろがねといが鳴って、深い溝を一団の湯気が白々とうずまあがった。硝子窓がらすまど朦朧もうろうとして、夕暮の寒さが身に染みるほど室の煖まるのが感じらるる。

 柳沢は片手を握って、長くこれを神月に差向けて卓子テイブルの上に置き、

「それだからもう寄宿舎に居た頃の事を君は忘れてしまったのだ。既に幾たびも君が学資に窮して、休学のむを得ざらんとするごとに、常にフランス文の手紙がそって、行届ゆきとどいた仕送しおくりがあったではないか。神月、君が俊才有為の士である事はみんなが認めていた、けれども、いざとなって金貨を積んでその業を助けたものは、天下に今の夫人をいてほかにゃなかろう。

 そうすりゃ恩人でまた唯一の知己といわなければならない。夫人の名誉のため、幸福のため、子爵のためというよりも、ただその知己であるというばかりに対しても、君のおこないはちと間違っているじゃあないか。」

 梓は聞いて物をもいわず差俯向さしうつむいたにもかかわらないで、竜田はりんとして姿を調え、

「柳沢、そんなことをいって僕の居ない時に梓君をいじめるのか、せ。いよ、待て、まあ、僕のいうことを、今君のいうごとくんばだ。嚊々かかあ殿は仏文の手紙と、若干金の学資とをもって神月を買ったものだと言わなけりゃなりません、そいつあ御免をこうむりたいな、仕送をしたっていくらがもんです。金子かねなら千か二千じゃあないか。利をつけて返すくらいさほど困難なことでもなし、またそのくらいなあたいで婿に買占められるような、僕の梓君じゃあない。それをともかくもことばに応じて玉司家をいだのは、すなわち君のいう、その知遇に感じたからだ。

 しかるに、のっけから人魂と流星の事で早くも神月の感情をそこねたのはどういう訳だい。

 すべて女学校の教科書が貴婦人に化けたような訳で、まず情話のろけを聞かされると頭痛がして来るといやあ、生理上そういうことのあろうはずはない、といった調子だからたまった訳のもんじゃあない。

 かつお中落なかおちうまくッて、比良目ひらめは縁側に限るといやあ、何ですか、そこに一番滋養分がありますか、と仰有おっしゃるだろう。衛生ずくめだから耐らない。やれ教育だ、それ睡眠時間だ、もう一分で午砲どんだ、お昼飯ひるだ。おまんまだ。亭主が流行感冒はやりかぜ一つ引いても、まっさきに伝染性なりや否やを医師にただすようなおんなを、貴婦人だって、学者だって、美人だって、年増としまだって、女房にしていらるるもんか。」



「考えて見たまえな、名誉だの、品性だの、上流の婦人の亀鑑きかんだのと、ていい名は附けるものの、何がなし見得坊なんじゃあないか。

 御覧なさい、だから神月と結婚をした当座に、はじめからの関係を知ってる新聞が報道をすると、その記事のうちに、何か夫人がかねて神月にラブをしていたというような意味が書いてあったといって、嚊々かかあめ恐しくいきどおって、名誉を蹂躪じゅうりんされた、世の中へ顔出しも出来ないてッたようなことを云って、あたかも神月君が社をして書かしめたように当り散らしたというんだ。夫にラブしとるということをもって、大なる恥辱と心得るような見得坊がまたあるかい、しからんじゃあないか。」と声を鋭くしていう、竜田はその白面にくれないみなぎらしたのである。

 これを聞いて聞きれて、

「しっかりやれ〳〵。」と哲学者も嬉しそうに応援した。

「それのみならず、数寄屋町と神月君とは神の引合せだと云ってもいな。……

 第一それからして夫人と衝突するもといじゃあったろうけれども、神月は先天的、むしろ家庭的か、そうだ、家庭的信心者で、寄宿舎に居る時分から、湯島の天神へ参詣さんけいをするのが例で、子爵家に行ってからも毎月まいげつ欠かさなかった。去年の夏だ、まだ朝早いのに湯島に参って、これから鰐口わにぐちを鳴らそうと思うので、御手洗みたらしで清めようとすると、番の小児こどもが水銭をくれろと云った。懐を探すと神月が懐中物を忘れたね、後に届けるといっても小児だから訳が分らぬ。内気な殿様だから顔をあかくしてまごまごしたッさ。そこへ来合せて水銭を達引たてひいて、それが御縁となりましたのが、唯今ただいまの美人です。蝶さんなんだ。」

わかりましたよ。」といって柳沢は詮方せんかたなげに苦笑した。

 神月はきまり悪げに、

「もう可いじゃないか、みんな僕が悪いんだから、まあ、柳沢、竜田。」

「いいえ悪かないよ。僕は大賛成、一体婦人が男子に対して貢献するのに、自分の名誉だの、財産だの、芸術だのをもってして、それで、算盤玉そろばんだまに当って、差引こうというほど生意気なことは無い、いわんや、それに恩をせるに到っては、不届ふとどきといわざるを得ないな。

 しかるに蝶さんに至っては、その今まできたったすべての、可いかい。平ッたくこれをいえば苦労だ。その苦労はほとんど天下に大名たいめいをなしたものの、堅忍苦耐したくらいなもんだよ、その閲歴えつれきに対する報酬として、ただ、ひたすら、簡単に神月に見捨てられまいということを願ってまた他意なきを如何いかんよ。その上に一意専念、神月のために形造るに到っては、男子すべからくこれがために名と体とを与うべしさ、下らない名誉だの、財産だの、徳義だのに、毛一筋も払うもんか。」

「しかし竜田、アダムとイヴあって以来、世界に男女なんにょただ二人ばかりではない。たとえば、神月とその美人と、」

「勿論、僕も居る、」

「それからおれよ、」

わしるわい。」と哲学者は前にかがんで、顔を差向けていった。

「加うるに君が居ても差支えない。諸君のような人ばかりなら、幾人いくたり居たって私は心配もなんにもしないが。」と梓は愁然しゅうぜんとして差俯向さしうつむく。



「だから神月、君自ら感情を制して、その美人と別れたらかろう、」と柳沢は慎重に諭した。

「何、もう子爵家を去って、寺に下宿したらいじゃあないか。僕はね、爵位と、君があの高慢な嚊々かかあとを棄てたというので、すべての罪を償うてあまりあるもんだと思う。借金でも何でもッつけッちまえ。しゃくに障ったら片端かたっぱしから弾飛はねとばせ。一般の風潮で、日本にれられなかったら、二人で海外に旅行するさ。それでもけなけりゃ、天に登るこッた。美しい星が二つ出来るんです。天文学者には分らなくッても、情を解するものには、紫か、緑か、燦然さんぜんとして衆星の中に異彩を放つのが明かに見出される。」といい放って、竜田はその若々しい、美しい顔を仰向あおむけて、腕組をした、毛糸の茶色の襟巻は端がほろほろと解けた。

 その背を叩いて、

「江戸ッ! 相変らず暢気のんきなものだな、本人の神月は、君よりよっぽど訳が分ってるよ。だから心配をするんじゃあないか。」とおだやかに云いながら柳沢は老実々々まめまめしく、卓子テイブルの上に両方からつないで下げた電燈の火屋ほや結目むすびめを解いたが、うずたか書籍しょじゃくを片手で掻退かいのけると、水指みずさしを取って、ひらりとその脊の高い体で、靴のまま卓子の上にあがって銅像のごとく突立つッたった。天井はそれよりもはるかに高いが、室は狭く、五人を入れて、卓子を真中まんなかに、本箱を四壁にふさいだ上に、戸の入口には下駄箱がならんで、これに、穿物はきものが脱いであるなり、衣服きものは掛けてあり、外套がいとうさがってる。よけて通らなければ出られないので、学士はその卓子越の間道を選んだので、余り臨機さそくはたらきであったから、その心を解せず、三人は驚いて四方を囲んで、ひとしく高く仰ぎ見た。ために国史専修の学士も、しばらく岩見重太郎に別れなければならず余儀なくされた。

 柳沢は突立つッたったまま、

「おい、ちょっと退かないか。」

「何をする、」と哲学者はあきれ顔をしてほとんど問題を研究する時のように難しく眉をひそめた。

 事も無げに、

「紅茶を入替えよう、湯を取りにくんだから、」

「こっちへ寄越よこせ、僕がこう、」と哲学者もと立上る。

「そうか。」といいさま、柳沢はひらりと下りて、身軽に立直った、ぱたりと靴の音。

 電燈の球は卓子テイブルの上をったまま、朱をそそいだようにさっあかくなって、ふッと消えたが、白くあかるくなったと思うと、あおい光を放つ!

「星を仰ぐこと、正に、」と竜田若吉は腰を落してつむりを卓子の下に入れ、顔を上げて、すずしい目をみはって、

「こういう風。」

 梓はその面羞気おもはゆげな顔を照らされるのをいとうがごとく、椅子を放れて背後うしろ退いた。柳沢は長い足を素直に伸ばして、膝を膝に乗せて組違えると同時に仰向けに寝て一杯にひじを張って、両手でうなじいだきながら、じッとくだんの電燈をみつめた。

 その時、国史専修の学士は、しずかに糸を取って、無心に繋合つなぎあわせて、あかりを宙につるしたと思うと、はかまの下へ手を入れて、片手で赤本をおさえてみたが、そのまま腰を掛けて、また読みはじめる、岩見重太郎武勇伝。



三両二分



んだ、歇んだ、塩梅あんばいだ。」

 空を仰いで立停たちどまったのは、町屋風の壮佼わかもので、雨の歇んだのを見ると、畳んでたもとの下に抱え込んでいた羽織を一揺ひとゆり、はらりと襟をしごいて手を通した。この男が雨に当てまいと大切がるのは、単にこの羽織ばかりではなく、一品ひとしな懐に入れているものがある。大きな紙入ではない。乳貰ちちもらい嬰児あかんぼでもない。すなわち一足表打おもてうち駒下駄こまげたであるが、尾上おのえ使つかい駈出かけだして来た訳ではない。これはさる筋の芸妓げいしゃから年玉に買って頂いたので、すべて、おまもり扱いにしているから、途中で雨をくらったために、汚すまいと懐中した。本人は生白い跣足はだしである。

 かかる人は、下町にまず松のすしせがれ源次郎をいて外にはない。

 それ世に、とびの者の半纏はんてんいなせにして旦那の紋着もんつきは高等である。しかるに源ちゃんは両天秤りょうてんびん、女を張る時は半纏で、顱巻はちまき。宗匠を張る時は紋着で巻莨シガレット、色と点取発句が一斉に出来るのであるから、ついこう下駄を懐に入れるような事にもなる。

 かえって説く源ちゃんは町中まちなかの暗がりに羽織を着込んだが、足が汚れていたから下駄は穿かないで、そのまま懐を揺り固めた。

「可い塩梅だ、畜生。」と、これも何か両面に意味の通ずるような独言ひとりごとをして、また足早に歩き出した。

 その面形めんがたのごとくしゃくんだつらの、眉毛の薄い、低い鼻に世の中を何とにらんだ、ちょっと度のかかった目金めがねを懸けている名代なだいの顔が、辻を曲って、三軒目の焼芋屋のあかりてらされた時、背後うしろから、びたずんぐりした声で、

「源じゃあねえか、おい、源坊。」

「誰だい、」と思入おもいいれのある身振みぶりで、源次郎は振返る。

「俺だ。」

「や、」

「待ちねえ。」

 つかつかとちかづいた、三尺帯を尻下りに結んで、両提りょうさげ莨入たばこいれをぶらりと、坊主天窓あたま親仁おやじが一名。

かしら。」

「おい、」と重く落着いて一ツうなずいた。これは下谷したや西黒門町に住んで、かしら、頭と立てらるる、たつ何とか言うのであろう。本名は誰も知らない、何をして暮すのか、ただ遊んで、どこともわず一群ひとむれ一群入り込むきおい壮佼わかものに、時々木遣きやりを教えている。

 かしらは膨らんだ源のその懐をじろりと見て、

「何だ、それは、」

「ええ、」

「下駄じゃあねえか、下駄じゃあねえか、串戯じょうだんじゃあねえ、何を面啖めんくらったか知らねえが、そいつを懐に入れるだけのひまが有りゃ、あいて向脛むこうずねをかッぱらってげるゆとりはありそうなもんだぜ。何だい、出会でっくわしたなあ、犬か、人間か。」

喧嘩けんかじゃあないんです。」

辻斬つじぎりか。」

「冗談をいっちゃあけません。」

 かしらはわざとらしく呵々からからと笑って、

「じゃあ、どうしたんだ。」といったが、思う処あるらしく、ふっさりしたその眉をひそめた。



 源次は何の気も付かない様子で、

仔細しさいはないんです、喧嘩なんて何も決してそんな訳じゃあないんだけれどね、」

「ふむ、」と心あるかしらは返事まで物々しい。ちと応答うけこたえを仰山にされたので、源次は急にきまりが悪そう。

「降って来たもんですから、その何なんですよ、泥でも刎上はねあげちゃあ、そのね、」と今更のように懐をみまわして、

「へへへへ、なにつまんねえ事なんで、」

「それが、」とその時、かしらはずッと合点のみこんだ顔をして、

「あれだな、評判の。ついまだ掛違いまして手前お目通めどおりつかまつらねえが、源坊が下駄と来ちゃあ当時名高なだけえもんだ。むむ、名高えもんだよ。」

「なに詰らない。」

「馬鹿あ言え。畳算たたみざんより目の子算用を先に覚えようという今時の芸妓げいしゃに、若干なにがしか自腹を切らせたなあ、大したもんだ、どれちょっと見せねえ、よ、ちょっと拝ませねえかよ。」

 思わず上から手で押えて、

かしら、これですか。」

「その芸妓げいしゃ達引たてひいたやつよ。」

「へ、何、下らないことを、」と内々恐悦で、少し含羞はにかむ。

いやな、見せねえ、見せねえ、一番御灯明を奉ることにしようぜ、待ちねえよ。」

 と言い懸けて向直り、左側の焼芋屋の店へ、正面を切ってゆるいで入る。この店は古いもので、とッつきの行燈あんどうに、──おいしくば買いに来て見よ川越かわごえの、と仮名書かながきして、本場○焼俵藤助たわらとうすけ──となん。

父爺とっさんや、」でかしらは無造作にことばを懸ける。

 ぶつぶつ、……ものを読んでいた声がはたとんで、破行燈やれあんどうの灯のす土間の上の一枚の古障子を明けて、

「誰だい。」といった藤兵衛とうべえは、匍匐はらんばいになって、胸の下に京伝の読本よみほんが一冊、悠々と真鍮環しんちゅうわの目金を取って、読み懸けた本の上に置きながら、頬杖ほおづえを突いたままで、皺面しわづらをぬっ!

「俺だよ、へんちっとも珍しくねえ。」

「おお、頭。」

「用じゃあねえんだ。とっさん少しばかり店を貸してくんねえ、あかりが欲しいでの。」

「何か、灯ッて、そのくすぶり返った釣洋燈つりランプのことかい。」

「そうよ。まあ、」

「御念にゃあ及ばねえこッた、内証ないしょふみでも読むか、」

「いんや、質札だ、構わっしゃるな。寒いから閉めてくんな。」

 戸外おもてに向って、

「源坊、こっちへ入らっし。おい、何を茫然ぼんやり石地蔵を抱いた風で突立つッたってるんだ、いじけるない。」

「頭、あたんなさい、」とへッついうしろから皺嗄しわがれた声を懸ける。

「おお、入れ黒子ぼくろのしなびたの、この節あどんな寸法、いや、寸伯すんぱく寸伯すばくか、ははは。」

串戯じょうだんじゃあない、ちょうど一くべべた処だ、あったけえよ。」

「豪儀だな、そいつあ、」とくるりと廻った、かしら法然天窓ほうねんあたまは竈の陰に赫々てかてかして、

「よ、まあこっちへ来ねえ、松のすし兄哥あにい、入れッてことよ。」

 強いられて、源さんむことを得ず。

「御免なさい。」

「さあさあ、」と婆さんも七十ばかりだが如才ない。



「聞きねえ、婆さん、御前おまえなんざあ上草履で廊下をばたばたの方だったから、情人いろ達引たてひくのに、どうだ、こういうものは気が付くめえ。豪儀なもんだぜ、こら、どうだ素晴しいもんじゃあねえか。」

 かしら籐表とうおもてを打った、繻珍しゅちんの鼻緒で、桐のまさという、源次が私生児を引放ひっぱなして、片足打返して差出した。

「ねえ、こら。」とひっくり返して鼻緒をつかんでちょっとひねる。

「どうしたんだね、」と婆さんは膝に手を乗せてうずくまったまま呆れて見ている。

 かしら大袈裟おおげさに、

「どうしたどころかい、近頃評判なもんだ。これで五丁町を踏鳴ふみならすんだぜ、お前も知ってるだろう、一昨年おとどし仁和加にわか退治の武者修行をした大坂家の抱妓かかえな。」

「蝶吉さんかね。」

「うむ、この節あ数寄屋町に居らあ、あのはねッ返りめ、お先走りで、何でも来いだから、仁和加の時も、一本引ッこ抜いて使うんだからッて、それ痛い目に逢わないだけにして、本式に習いたいというので、お前ンとこの藤さんに仕込んでもらったな。

 面小手で竹刀しない引担ひっかついでお前、稽古着に、小倉の襠高まちだかか何かで、ほおの木歯を引摺ひきずって、ここの内へ通っちゃ、引けると仲之町を縦横十文字にならして歩いた。ここにおわします色男も鳴すことその通り。

 それがだな。あのおちゃっぴいめ、ついこないだまで竹馬に乗ったり、学校の生徒に引張ひっぱり出されちゃあ田圃たんぼでぶらんこをしていたっけが、どうだい、一番この男とおっこちゃあがって、それ、お歳玉としだま内証ないしょだよ、とりゃあがったんだとよ。驚くじゃあねえか、この下駄だ。」といって、またひっくり返した。かしらへッついの前に両足を拡げながら、片手で抜取って銀煙管ぎんぎせるくわえ、腰なる両提りょうさげふらふらとたばこを捻る。

「おや、」といったきり、婆さんはかねてその蝶吉というのを知ってるほど、おっこちたとわるる男、すなわちこれなる源次郎のせめてそれだけでもして頂きたい、目金を乗せた鼻の形と、くだんの下駄とかわがわ見競みくらべてせない顔附。

 かしらは悠然と煙をふかして、

「何しろ素晴しいもんじゃあねえか、可恐おそろしい。幾らだとか言ったっけな、んんどうだろう、うむ、豪儀な。」

 言いようが余り業々ぎょうぎょうしいので、取合う気もなかった婆さんも近々と目を寄せて、

「頭、こりゃ今の流行はやりかい。」と老いたる事をまじまじと言う。

 これを聞くと叱るがごとく、

「これくら七戸前ななとまえめた口で、何だい、その言いぐさは、こう源坊、若いうちだぜ、年紀としは取るもんじゃあねえの。ここに居る婆さんは、これでも仲じゃあくずの葉といってその昔は売ったもんだ、ずうっとそれ、」

しねえな、見っともない、」とおだやか微笑ほほえんで目をそらした、もう仏に近いのである。

もとで二朱ぐらいか、源坊、幾らだとかいったっけな、二両二分。」

「頭、三円、」といってくだんの鼻を仰向あおむけにしてすます。

「ああ、三両二分か、何でも二分というはしただけは付いてると聞いたよ。そうか、三両二分か。ふ、豪儀なもんだ、ちょっとした碁盤よりが張ってら。格子戸で、二間なら一月分の店賃たなちんだ、可恐おそろしい、豪傑な。」と熟々つくづく見ながら、うっかりしたか、下駄のはらで吸殻をとん。

 源次あわただしく、

「頭、」

「ほい、これは。」



「しかしどうも可恐おそろしい気前だぜ。もっともあの蝶吉といやあ、いつかも客に連れられて中の植半うえはんへ行った時、お前、旦那がずッしり重量おもみのある紙入をこれ見よがしに預けるとな、かない気だから、こんな面倒臭いものは打棄うっちゃっちまうよ。まさかと思うから、うむ、いとも大川へ流しッちまえ、といったが災難、仲店なかみせで買物をして、お前紙入は、というと、橋の上から打棄ったと言わあ。本当か、とばかりで真蒼まっさおになったとよ。そうだろう、二百円足らず入ッてたんだそうだ。

 それだものこのくらいな達引たてひきはしかねめえ。」という、高がこんな下駄を(しかねめえ。)というほどの事はあるまいと思うほど、かしら為振しぶりを見て、婆さんはこの年紀としになってもそのまぶたの黒い目に、逸疾いちはや仔細しさいがあろうと見て取った。

 源次も何となく気がさして、少し不安心になった、引構ひきがまえで、

かしら、もう沢山だ。」

 気可愧きはずかしそうに装って、もじつきながら、出して取ろうとした手を、外して持更もちかえ、

「遠慮をするなッて事よ、何もはにかもうッて年紀としじゃあねえ。落語家はなしか言種いいぐさじゃあねえが、なぜ帰宅かえりが遅いんだッて言われりゃあ、奴が留めますもんですから、なんてッたような度胸があるんじゃあねえか。」

「なにまたつまらないことを、」

「それでなくッて、どうしてお前、これが長火鉢の上へ持出されるもんか、この間もお前、脱いだやつを持ってあがって、伝がとこの帳場格子の中へ突込つッこんで見せたというぜ。」と風見かざみからすがくるりと廻って、少し北風ならいが吹いて来る。

「え。」

「その時ぶんなぐられなかったのが目っけもんだ。」とずッきり言って、したたかに気を替える。

 ひやりとこたえて、

「何だってね、」

「婆さん、もう一燻ひとくべ𤏋ぱっとやりゃどうだ。」

 といいながら突込つッこむように煙管きせるれた、仕事にかか身構みがまえで、かしらは素知らぬ顔をしてうそぶきながら、揃えて下駄を掻掴かいつかめり。

 形勢おだやかならず、源次は遁足にげあしを踏み、這身はいみになって、掻裂かきさくような手つきで、ちょいと出し、ちょいと引き、取戻そうとしては遣損やりそこない、目色を変えて、

かしら、何ですから、急ぎますから、」

跣足はだし駈出かけだしねえ、跣足で。それがいや、可恐おそろしく路が悪いぜ。」

 また一当ひとあて当てられて揉手もみでをして、

穿いてきますよ、よ、穿くんだから、頭失礼ですが、その。」

「穿かねえでさ、下駄は穿くにきまったもんだ。誰がまあ頂く奴があるもんか。だが、それ懐へ入れる奴はえとも限らねえ、なあ、源坊。」

わっしゃちっと何だから、これから少し急ぐんですから、」

「どこへ急ぐんだ。どこへ、」

「ええ、ちっとその、何で。これから発句の会があるんです。」と捨鞭すてむちで歌を読むような見得をいった。

「発句の会、ああ、そうか。源、何、何とか云ったな、その戒名かいみょう、いや俳名よ。待ちねえ、お前なんざあ俳名よりその戒名の方をつけるが可いぜ、おいらが一番下駄の火葬というのをって、先きへ引導を渡してやろう。」

「ひゃあ、」

「馬鹿め、跣足でせやあがれ。」



通う神


十一


「おやおや、ひどく曇ってるなあ、何だかこれじゃあ君を送って来たようだが、神月君。」

 竜田は校内のそのを抜けて、弥生町やよいちょうの門を出ようとして空を見たのである。

「一所に散歩をしようと思ったけれど、降りそうだから僕はもう失敬するよ、それじゃあ君、議論は議論だが実際は実際だ、よく考えて軽忽かるはずみなことをしたもうな。」と年下の友に熟々つくづく言われて、ただ打頷うちうなずくのは神月であった。

「それでは。」

「失敬。」と言い棄てて、竜田は門から引返した。暗がりの中を詩を唱ったが、低唱してやがて聞えなくなった。

 梓は彽徊ていかいして歩を転ずる、むこうから来て、ぱッたり。

「えッ。」といって何物か身を開いて退しさって神月の姿をすかし、

「よ、先生か。」と冷評ひやかすような調子で言った。

 これは松のすしの源次郎で、蝶吉から頂いた、土付かずといってい大事の駒下駄を、芋を焼くへッついくべられた上に、けんつくをくらって面目を失ったが、本人に聞くより一段情無い愛想尽あいそづかしを、かしらの口から、しかも意見するごとく言い聞かされ、お穿物はきものという謎まで聞いて、色男堪忍ならず。胸はひッくり返るようだが、むずと胸倉むなぐらを取られると、目の玉が出そうな豪傑のかしら対手あいてには文句も言われず、居耐いたたまらなくなった処を、けぶりいぶされて泥に酔ったように駈出かけだして来たのである、が、自分から顛倒てんとうしていて突当った人を見ると、じゃの道はへびで、追廻す蝶吉がまた追廻す探索は届いて、顔まで見知越みしりごしの恋のあだ。恋に上下の差別がないから仇に上下の差別はない、学士神月梓である。むかッぱらたちの八ツ当りで、

「ふん、色男もすさまじいや、うぬはらませたおろされりゃ沢山じゃあないか、お政府かみへ知れて見ろ、二人とも、泥をかじるんだい。知ってていわないのはお慈悲だと思うが可い。こっちから突当ったらな、そっちからあやまって、通るこッた。人をつけ、学者もそれで沢山だい、色男万歳だな。」

 と影の添うがごとく七八歩、学士に添って逆戻ぎゃくもどりをして歩いたが、

「ざまあ見ろ色男、つらが見てえや、青いのか、赤いのか、やい、七面鳥の文学士。」と悪たれ口をき棄てて擦違って駈出した。学士は歩み悩んだ様子で、ふと足を留めたがさすがに後を見も返らず、取るにも足りない下司げすの雑言と思ったから。

「雨か。」

 空を見ると雲低く、ひやりとして頬にしずく、またばらばらと二ツ三ツ。

「ああ、」とつぶやいて、あたかもこの雫にかかるまいとするごとく、かなたこなた身をかわして歩いた。

 最初はただ、廂溝ひさしみぞなどをかすかに打つ音のみであったが、やがて、瓦屋根かわらやねに当ってまたばらばら。

いやだな。」

 見る見るはげしくなって、さっと鳴り、また途絶え、颯と鳴り、また途絶え途絶えしている内に、一斉にの葉にそそぐと見えてしずかな空は一面に雨の音。

 神月は見えなくなった。



紀の国屋


十二


 御待合歌枕おんまちあいうたまくら磨硝子すりがらす瓦斯燈がすとうおぼろの半身、せなかに御神燈のあかりを受けて、道行合羽みちゆきがっぱの色くッきりと鮮明あざやかに、格子戸の外へずッと出ると突然いきなり柳の樹の下で、新しい紺蛇の目の傘を、肩をすぼめて両手で開く。顔はその中に隠れて見えず、たけいすらりとしたやせぎすな立姿。桃色縮緬ちりめん扱帯しごきおびで、弱腰を固くしめている。白足袋で、黒の爪皮つまかわを深く掛けた小さく高い足駄穿あしだばきで、花崗石みかげいしの上を小刻こきざみの音、からからと二足三足。つむりが軒の下を放れたと思うと、腰をして、打仰いで空を見た。

 ここに引着けた腕車くるまが一台。蹴込けこみに腰を掛けて待っていた車夫、我があるじきたれりと見て、立直り、急いで美しい母衣ほろねる。楫棒かじぼうに掛けて地に置いた巳之屋みのやと書いた看板は、新しい光を立てて、蝋紙ろうがみすかす骨も一ツ一ツ綺麗きれいである。

「おや、降っちゃあいないんだね。」しずかに蛇の目を窄めて片手に提げた。鼻筋の通った細面ほそおもてりんとした、品のい横顔がちらりと見えたが、浮上るように身も軽く、引緊ひきしまった裙捌すそさばきで楫棒を越そうとする。

「こちらへ、」といった車夫は小腰をかがめて、紺蛇の目を手早く受取る。その腕車くるまに乗ろうとする時、かちかちかちと木をって、柳の彼方かなたの黒塀の前に、頬冠ほっかむりをした二人が在った。

「へい、御贔屓ごひいきを一両名、尾上菊五郎、沢村源之助。」ト声を懸けたので、腕車の蔭に立停たちどまる。

 その時、板塀の上なる二階の障子へ、明るく影が映ったが、端を開けて、廊下へ出た。植込のこずえがくれに、

「あいよ、」という声、ひねった紙包が宙を切って、忍返しのびがえしの釘をかすめてはたと二人の前に落ちる。

「ええ、鼠小紋春着新形ねずみこもんはるぎのしんがた。神田の与吉よきち実は鼠小僧次郎吉じろきち傾城けいせい松山、」ちょっと句切って、

「鎌倉山の大小名、和田北条ほうじょうをはじめとして、佐々木、梶原かじわら、千葉、三浦、当時一﨟いちろう別当の工藤などへは二三度へえり、まぶな時にゃあ千と二千、少ねえ時でも百や二百、仕事をしねえ事あなかった。その替りにゃあ貧乏と、その名の高え曾我などじゃあ、盗んだ金を置いて来た、悪事はするが義理堅え、いわば野暮な盗人ぬすっとだが、知らねえ先あともかくも、こういう身性みじょうと聞いたらば、おぬしゃあいやになりやしねえか。」

「何で厭になるものかね、これもみんなその身の好々すきずき、お嬢さんといわれるのが、ちいさい時から私ゃ嫌い、油で固めた高髷たかまげより、つぶし島田に結いたい願い、御殿模様の文字いりより、二の字つなぎのどてらが着たく、御新造ごしんぞさんや奥さんと、いわれるよりも内のやつ、内の人かといいたさに、親をば捨てて勘当うけ、お前の女房にょうぼになった私、どんな事があろうとも、何で愛想あいそが尽きようぞいな。」

菊「そんならおぬしゃあ盗人と、知ってもやっぱり愛想もつかさず、」源「お前と一所に居たいのは、たとえにもいう似た者夫婦、」菊「夜盗を働く鬼の女房にょうぼに、」源「枕探しの鬼神きじんとやら、」菊「そういうお主が度胸なら、明日あすが日ばれて縄目にあい、」源「お上のお仕置受ければとて、」菊「ひまゆく駒の二人づれ、」源「二本のやり二世にせかけて、」菊「離れぬ中の紙幟かみのぼり、」源「はては野末に、」菊「身は捨札、」源「思えば果敢はかない、」

「紀之国屋」と思いがけず、暗がりの露地のうしろの方で、うら若いすずしい声。


十三


「ほほほほほほ、」と蓮葉はすは仇気あどけなく笑ったが、再び、

「紀之国屋!」とあてもなくそぞろに気の冴えた高調子。酔ったと見えて、ふらふらして仮色使こわいろづかい背後うしろに立って、

「嬉しいねえ、」

 といいながら、無遠慮に一ツその一人の肩を叩く。吃驚びっくりして黙って呆れる、女は罪もなくまた笑った。

「ほほほほほ。」

「おや! お蝶さんだ。」と二階の欄干てすり凭懸よりかかったのが、思わず威勢よく声を立てた。

 振仰いで、

「今晩は。」

「神月さん参りました、来たんですよ。」と言ったが障子の中に姿が消えた。

「へい難有ありがとう様でございます。」

 度胆どぎもを抜かれて、茫然ぼんやりした仮色使は、慌てて見当を失ったか、かえって背後うしろに立ったのに礼をいって、

「さあ、」

「おい。」

 くびすめぐらすのを見も返らず、女は身をななめにまた蹌踉よろけて、柳の下を抜けようとした。

 門口かどぐちで、

「蝶ちゃん、」

「はい、」

「お気を付けなさいよ。」

「才ちゃんかい。」

「おたのしみだね。」

 とひらりと乗る途端に楫棒かじぼうを取った、腕車くるまの上から、

「さようなら。」

「チャチャチャッチキチッチドンドン。」軽く柳の枝の垂れたさきを細く指で叩いて見せる。

「ふん、」とばかり腕車の上で。見ぬようにしてちょっと見ながらおもてを背ける、途端に車夫はめぐらした。暗夜の小路を看板は、これ流星のごとくに去んぬ。

「チャチャチャッチキチッチ、」と低く口吟くちずさみながら、格子戸をがらりと開けると、同時にかまちの障子を開いて、

「よくねえ、」と声を懸けて、逸早いちはやく今欄干に立顕たちあらわれたその女中が出迎えた。帳場のあかりと御神燈の影で、ここに美しく照らし出されたのは、下谷したや数寄屋町大和屋やまとやわけの蝶吉である。

 着つけは濃いお納戸地に、金で乱菊を織出した繻珍しゅちん黒繻子くろじゅすの打合せの帯、滝縞たきじまのおめし縮緬に勝色かちいろのかわり裏、同じすそを二枚かさねて、もみじに御所車の模様ある友染ゆうぜんに、緋裏ひうらを取った対丈襦袢ついたけじゅばん、これに、黒地に桔梗ききょうの花を、白で抜いた半襟なり。

 洗髪あらいがみ潰島田つぶししまだ、ばっさりしてややほつれたのに横櫛よこぐしで、金脚きんあし五分珠ごぶだまかんざしをわずかに見ゆるまで挿込んだ、目の涼しい、眉の間にくもりのない、年紀としはまだ若いのに、白粉気おしろいけなしの口紅ばかり、小肥こぶとりしてせてはおらぬが、幼い時から、踊が自慢の姿である。

 出迎えた女中は前へのめったと思ってあわただしく身を開いて、

「あれ危いじゃありませんか、」

 蝶吉はつまずくように駒下駄を脱いで、俯向うつむけに蹌踉よろけ込んで、障子に打撞ぶつかろうとして、肩をかわし、退すさって、電燈を仰いで、ふみしめて立った。ほッという酒の息、威勢よく笑って、

「今晩は。」



段階子


十四


「蝶さん、おごらせますよ。」と帳場から呼んだのは女房である。この待合はその座敷、その器物、その取扱とりあつかい、何につけても結構なものではない。五人一座の二人までは敷かせる座蒲団ざぶとんの模様が違って、違った小紋こもんも、唐草も、いずれ勧工場かんこうばものにあらざるなく、杯洗はいせん海苔のりとお銚子ちょうしが乗って出るのも、牛屋ぎゅうやのちゃぶ台の真中まんなかへ丸く木をめてあろうという組織であるのに、お座料がまた必ずしもお安くない。これでは何の取得とりえもないが、ここに注意すべきは女房たるもの、兄とその情人いろのごときもの、且つ女中に至るまで、よく注意して秘密を守り遂げる信用があるので、知れては身分に係わるといった側が、ちょいちょい懐手で出入ではいりする。

 あえてものの三角形が秘密を守るものだという数学の原理はないけれども、歌枕の女房は目の形が三角である。鼻が三角で、口が三角、眉を払ったあとがまた三角なりで、おとがいの細った頬骨の出た三角をさかさまにして顔の輪廓りんかくの中に度を揃えてならんでいる。白ッぽい糸織の羽織のすそを払って、金の平打ひらうち指環ゆびわめた手を長火鉢の縁から放し、座蒲団を外してふわりと立つと、むッくりと起きた飼犬が一頭。

 真鍮しんちゅうの首環をがちゃがちゃと鳴らして、さらさらと畳を渡り、蝶吉のすそかすめて、取着とッつき階子段はしごだんへ、矢のごとくあがった。

 この犬、一挙一動よく主婦のこころを知る、今その座を立ったのを見ててっきり二階へあがるのだと目敏めざとく先へ立って飛出したのであるが、段を六ツばかり駈上ると、振返って猶予ためらって待っている風情。

 三角の主婦は悠々として、

「さあ、お二階へ。」

「お早くいらっしゃいな、」とそばからまた女中が促した。

 蝶吉は雨の朝桜あさざくらの色しっとりとして、まぶたに色を染めながら、

いやですよ、」とすねるように言って肩を振った。

いのかい、ちょいとそんなことを言って、」

「どうせね、」と主従がすまして莞爾にっこりして左右から顔をのぞくと、

「犬がこわいのよ。」と段階子を見込んで笑う。

 主婦はつかつかと前に出て、目をきょろつかして伺ってる飼犬を見上げながら、左の手を袖の中へ引込ませて、ちょいと出して、指をさすと電気エレキを感じたようにくるりと廻って、小犬はちょろちょろと駈け上る。

けない!」

 というがはやいか、段に片足を上げて両手をく、裾を引いて、ばったり俯向うつむけのめった綺麗な体は、ゆわえつけられたように階子に寝た。

「危い。」

「あれ、」とけたたましく諸声もろごえに叫ぶのを耳にも入れず、蝶吉はそのままかいなのばして、

不可いけません、不可いけない、不可いよ、」と蹌踉よろける足を引摺ひきずって、

「畜生、わたいより先へ行くッて法があるかい。」

「おいで。」

 と膝を軽くって、振返ったのは梓である。

 上口あがりぐちの処で、くるくる廻っていた飼犬は、呼ばれて猶予ためらわずと飛込み、いきなり梓のたもとに前足を掛けて、ひょいとその膝に乗ってかしこまった。

「不可いッたら! あれ。」


十五


「失敬な奴ぢゃ、てッたような訳だわね、不都合だよ、いけすかない、何だ手前は、」ふらふらするのをふみこたえて、

「誰に断ったの、畜生、こっちへ来ないかい、ってやるから、」と袖を飜して、手を挙げたが、そのまま立ってるさえ物憂げであった。

「誰が打たれに、……」

 梓は俯向うつむいて、犬の天窓あたまをこれ見よがし。

いやよ、厭よ、私は厭ですよ。そんなもの、打っちゃらかしておしまいなさいなねえ。」

こわいな、どこかのねえさんが、打っちゃらかしておしまいなさいなねえッて言ってるよ。」

れッたいねえ。」

 梓は笑いながら犬の前足を取ってのばすと、飼犬は口を開けて、目を光らして、わッ!

「悔しがってるじゃあないか、」と横顔を見せて振向いた。

「なぜそうですよ、言うことをお聞きなさいなね、ええ焦れったい、」

 地蹈韛じだんだを踏んでもすまして取合ないので、

「悔しい。」

 と横を向いて上口の壁を、構いつけず平手でどんどんどんとなぐり付けて体をむ。酔ってる処へ激しく動いたので、がっくり膝が抜けて崩折くずおれようとして、わずかにこらへ、掻挘かいむしるように壁に手をすがって、顔を隠してほっという息をいた。

「どうしたんですよ、」

 階子段をあがり上り、主婦おかみは物音をあやしんで来たのである。

「おや、おや、」

言句もんくばかり言ってるさ、構わないでおくがい。なあにおまえが先へ来たって何も仔細しさいはなかろうじゃないか。」

「そのことなんですか、まあ、飛んだ難かしいこと、トン!」

 わッとえて前足を立てた、トンは飼犬の名であろう。

「おいで、おいで。さあ、」

「可いよ、おかみさんこっちへ。」

「でもまた奥様がその何ですから、おほほほほ、」と主婦おかみは三角の口を丸うして笑って控える。

「何を、つまらない。」

「はい、はい。」

 膝に手を垂れ、腰をかがめて、たわむれに会釈すると、トンはよくその心を得て、前足を下して尻尾を落した。ひらたい犬の鼻と、主婦おかみの低い鼻は、畳を隔てて真直まっすぐに向い合った。

「おお、し、可し。」二ツばかりうなずいて、「それではお邪魔を致しましょうか。」

 同時に、ど、ど、ど、ど、どんと床板を踏鳴ふみならして、

「厭! 厭よ、」と壁の中から唐突だしぬけに声を出した。

 主婦おかみは驚いて退すさって、

「まあ、済みません、どうも。」

 蝶吉は振乱すように壁に押着おッつけた島田髷しまだゆすぶって、

わたい、厭、厭よ。」

「泣いてるんだよ、おや、ま、どうしたッてこッたろう。驚きますねえ、」

 と平手を二ツの上へあて、目をみはって、

「しようのない嬰児あかちゃんだよ。」


十六


「どうにかしてやっておくれ、面倒だから。」

 梓は膝からトンを掻退かいのけて、座も言葉もあらためて言った。

「さあ、あなた、」とこれもちゃんときまってせなに手を掛けると、訳もなく振払って、

「厭です。」

すねるもんじゃあありません、あの方が来ていらっしゃるのに、何が気に入らないで、じれてるんですよ、母様おっかあは知らないよ。」

 といって一つつ。

「痛いよ、」

「嘘ばッかり、」

「厭よ。」

「何が厭なんですッてば、よ、れッたい人だ。ええ、」

 蝶吉は身顫みぶるいして、

ねえさん、」

「才ちゃんはとっくに帰りました、居やあしませんよ。さあ、さあ、もう聞かなきゃこうして、」

「あれ。」

 蝶吉が身悶みもだえするのを、主婦おかみは構わずくすぐったが、吃驚びっくりして肩を抱いた。

「おや、本当に旦那、本当に泣いてるんでございますよ。堪忍して下さい、堪忍して下さい、悪かったよ、どうもお前さんただもう嬉しがってるんだろうと思うもんだから、つい知らないで、飛んだことをしたよ。済まなかった、」

 極めて後悔し、そのまま首をのばして、肩にからんで顔をのぞくと、真赤まっかになり、可愛かわゆい目を細くして、およそたまらないといった様子で、麗艶あでやか微笑ほほえんで、

「嬉しい!」とばかりでななめに顔を向けて、主婦おかみおもてと、神月の横顔を流眄ながしめに見ながら蝶吉は莞爾にっこりする。

「畜生。」

 小さくなって、

「擽りッこなしよ、わたいはもう擽られると死ぬんですから、ひどいわ、一番恐いことよ。」といいながらすまして壁を離れ、すそを払って立直る処を、両手で背後うしろから突飛ばした。

可憎にくらしいッたらないんだもの。」

 壁にはうっすり、呼吸いきあとと、濡れた唇が幻にそのまま残って、蝶吉の体は源之助きのくにや肖顔画にがおえが抜出したようになって、主婦おかみの手で座敷の真中まんなかへ突入れられて、足もたまらず、横僵よこだおれになったが、男のそば

 あたかもし、梓の膝を枕にして、片手をさかさいて起上ろうとしたが、支えかねて半面を隠して倒れた。くだんの御所車を染めた友染の長襦袢ながじゅばんは、かわり裏のしどけない、もすそをこぼれてなまめかしい。

 男は懐にした手を出しもやらず、眉をひそめて、

「何だね、そのなりは。」

くッてよ。」

「可かあない、かみさんが見ているよ。」

いのよ、ねえ、おかみさん、」

「どうですか。」と極めて慎重に答えた。主婦おかみは心なく飛込むも異なものなり、そのまま階子段へ引退ひっさがるも業腹ごうはらなりで、おめおめと見せられる。

不可いけないッたッてしかたがない。」

 とその玉のごとき手を畳に、はったり。

わたいはもう草臥くたびれたんです。」

「重い、しようがないな、おい、ちゃんとおしよ、」と揺り落すいきおいで、梓は邪険に肩を振った。


十七


「あら、髪がこわれてよ、」と少し横になって、蝶吉は片手を上げて仰向あおむけに梓の胸を押えて、恍惚うっとりして嬉しそうに、

びんのほつれは枕のとがよ──あれさ、じっとしていらっしゃい。後生だから、」

「構うもんか、しからん。」と男はわざと叱るように言って、振落そうとする。

 蝶吉は目をねむって、口をしめ、眉をひそめて、さも切なげに装った、

「頭痛がしてよ、頭痛が、天窓あたまが痛いのに、ひどいことねえ。」

「嘘をけ、」

「あなたくすぐっておやんなさいまし、」と主婦おかみれったそうに足踏あしぶみをした。

 黙って主婦おかみを見たが、神月は下を向いて、

そう、見ッともないから、擽ると最後、きゃっきゃっいってその騒々しいといったらないもの。」

「おや、いつも擽るんだと見えますね、あなたは。」

「え、何、下らない、何を言ってるんだ。まあ、おかみさん、飲むさ、こっちへ来て。」神月はこれをキッカケに片肱かたひじをちゃぶ台にいて、やや所在を得たのである、しかたのなかった懐中の手は、猪口ちょくを取って、ちょっと上げて、

「飲むさ。」

「いえ、頂きますまい、そんなことでごまかそうたって駄目ですよ。まあ、串戯じょうだんは止して早くこしらえさせますから、寝かしてお上げなさい、本当に酔ってるんですよ、全く苦しそうだわ。」

 主婦おかみは一切呑み込んだ顔附であった。神月はそれとはなげに、

「直ぐ帰るんだから、何だよ。」

「ですから誰もあなたにお休みなさいとは申しません。」

 と悪く切口上で、別におかんを見ようともせず、上口あがりぐち先刻さっきから立っていたままで、二階を下りようとする、途端にちゃぶ台の片隅につくばって、洋燈ランプの影で見えなかったトンは、むッくりと跳起はねおきて首輪の音をさして座敷からつッと出た。

「どこでそんなに酔わされたんだ、よ。」

 神月は期せずして主婦おかみを下に去らしめたくだんの猪口を棄てて、手をその小さな女の胸に置いたのである。

 じっとして、

「存じません。」

「存じないことがあるものか。」

わからなくッてよ。」

 といってすずしい目をぱっちりと開いた。蝶吉は、男の、りんとした品のい、取って二十五のわかい顔を、しげしげと嬉しそうにみつめている。

「それじゃあ、酔わされたんだとはいうまいから、どこで飲んで来た、それなら知ってるだろう。」

「あなた、また叱ろうと思って、いやよ。そんな真面目まじめな顔をしていらしちゃあ……。だって少しばかりなんですもの、」といい懸けて目をそらし、枕にしている神月の膝を着物の上からつまんだが、固くちゃんとしているので、指尖ゆびさきにかからない、絹布にしわを拵えようと、つねるでもなく、でるでもなく、つまさぐって莞爾にっこりして、

「可いじゃあありませんかねえ、少しばかり、たまなんですもの、大丈夫さ。」


十八


「大丈夫? そうさ、また大丈夫でなくったって誰が何というものか、酒はお前さんが飲むんじゃあないか、そしてお前さんが酔ったんだろう、芸者の蝶吉が酒に酔ったって、私にゃあ甘くも辛くもない、何も難しいことはありません。」とむこう押遣おしやると、銚子ちょうしはかまを着けたままで、盤の上をするすると歩いた。杯は一個ひとつ横になって、飲みさしが流れていた。あえてこれをこまかく断る必要はないけれども、ちょうどその銚子が歩いた時、蝶吉が起きたからのことである。

 梓の羽織の袖に、まげ摺合すれあうばかり附着くッついて横坐よこずわりになったが、鹿爪しかつめらしく膝に手を置き、近々と顔を差寄せて、

「おや、おつ仰有おっしゃいますね、おつなことを。何ですッて、」

 蝶吉は詰め寄りそうにしていった、梓は今すべらした銚子を更に手許てもとへ引いて、

「まずお酌でもして頂こうかね、おかんざましじゃあありますけれども、」

「ふん、」と言ったばかりですまして見ている。

「いかがでございましょう、頂く訳には参りませんか、どうです、蝶さん、ここに是非一番ひとつ君のお酌をという、厄介な、心懸こころがけの悪いのが出来上ったんですが、悪うございますか。」

「はあ、随分よろしゅうございましょう。」

 梓は猪口ちょくを拾って、杯洗の水を切り、

「結構な訳ね、宜しければ、どうぞこれへ、」

「おやおや唯今ただいま内の人におことづけをなさいました、蝶吉ねえさんに酌をして欲しいと仰有いますのは、ちょいとお前さんかい。」

わたくしでございます。」

「おお、心懸のやつじゃ、宜しい。さあぐッとお飲み。余り酔わないように致せ、これ、女房かみさんがまた心配をするそうじゃからな。」

かしこまりましたが、一向さようなものはございませぬ。」

「なくても今に出来ます。その心懸なればきっと出来るから、さよう心得るじゃぞ。」

「はい。」

「一体、容子ようすくッて、優しくッて、それで悪くまた学問とかがお出来遊ばしゃあがって、知った顔をしないでな、若殿様のようで、世話に砕けていて、仇気あどけなくって可愛らしくッて、気が置けなくッて、その癖頼母たのもしい、き様は女殺おんなころしじゃ。よくない奴じゃぞ。方々の女の子がみんなで騒ぎゃあがるで、可哀かわいそうに蝶吉が気ばかりんでいるわえ、なぜそうじゃろかな。不心得な奴じゃ、その分には差置かれぬぞ。」と覚束おぼつかなげに巡査の声色こわいろい声で使いながら、打合せの帯の乳の下の膨らんだ中から、一面の懐中鏡を取出して、顔を見て、ほつれ毛を掻上かきあげた。そのくしを取直して、鉛筆になぞらえて、

「コヤコヤ、いつかも蝶吉がお花札はなを引いた時のように警察の帳面につけておく。住所、姓名をちゃんと申せ、偽るとためにならぬぞ。コヤ、」と一生懸命にわらいを忍んで、ほっそりした頬を膨らしながら、唇を結んで真面目である。最初はじめは何か取合って遊ぶつもりだった梓もあんまりだから、

「何だ、馬鹿々々しい。」

「コヤ、巡査に向って何だ、馬鹿々々しい、き様は失敬な奴じゃな。」

可加減いいかげんにしておけよ、面倒臭い。」

 蝶吉はちょっと膝をつッついて、

「よう、巡査おまわりごとをしようよ、よう、可笑おかしくッてよ。」

 梓は叱る訳にもゆかず、苦笑一番して、

暢気のんきなもんです。」



手鞠の友


十九


 神月梓は学士である。同窓の朋友の間にも、その温雅なる風采ふうさいと、秀麗なる容貌ようぼうと、学識の豊富なるをもって聞えた、俊才で、且つ人魂ひとだまと、流星と、意見の衝突以来、不快の念をいだいて、頃日ちかごろ夫人のもとを辞して、谷中の寺に隠れたけれども、梓は子爵家の婿君である。すなわち華族の殿様であって見れば、世に処してかかる待合などには出入ではいりすべき身分ではない。

 もっとも地位あり、名声ある人の芸妓遊げいしゃあそびをせぬというかぎりはない、立派に客たる品位を保って、内にましい処がなければ、まだしも世間は大目に見ようが、梓はさる身分でありながら、一待合の女房を見て、これを(おかみさん)といって自らへりくだり、相手の芸妓げいしゃつかまえて、おいとも、こらともいうのではない、お蝶さん、おまえさんは、という調子たるや、けだし自らいやしゅうしたるものだとわざるを得ぬ。

 少くとも青年の佳士かし、衣冠正しい文学士が、たとえば二人対向さしむかいの時、人知れずであろうともひとり省みて恥辱でないことはない。

 しかるに、梓はもと仙台のうまれで、土地の塗物師ぬりものしの子であったが、ゆたかなる家計のもとに育ったものではなかった。使つかいく問屋の旦那にも、内へ注文に来る余所よその小父さんにも、隣家となりの士官の奥方にも、むこうの質屋の番頭にも、いつも、可愛がられてはいたけれども、いまだ敬礼されたおぼえがないので、人に逢えばまず此方こなたから挨拶をするもののように、余儀なくされて育ったのである。

 加うるに、その母親というのは、そのはじめ江戸から住替えて来た有名な芸妓げいしゃだった、のみならず、これを便たよって同じ仙台の土地へ後から出て来た母の妹夫婦も、また甚だ不遇で、年もかず夫がなくなったので活計たつきを失うと、女の子が二人あったのが、姉妹きょうだい揃って苦界に身をしずめた。前世の因縁とでもいうのか、父の姉の子が一人、梓より年上であったのが、それもまた同じつとめむを得ぬ境遇であったから、中の従姉妹いとこが三人、年紀としの姉なると、妹なると、みんなお嬢様ではおらず、女房にもならず、奥様にはもとよりなり、揃って世の中から畜生よばわりをされるからだで。

 母親は若死わかじにした、やがて父親もなくなった。その遺言に因れば、梓の実の姉が一人ある。内の都合で、生れると直ぐ音信いんしん不通の約束で他へ養女に遣わしたのが、年を経て風の便たよりに聞くと、それも一家いっけ流転して、同じく、左褄ひだりづまを取る身になったという。野辺のおくりが済んで、七々四十九日というのに、自ら恥じて、それと知りつつ今までつい音信おとずれなかった姉者人あねじゃひと、その頃ある豪商の愛妾になっていたのが尋ねて来て、その小使こづかいと、従姉妹三人が竜のあぎとを探るようなおもいをして工面をしてくれた若干金とで、ようよう後弔あととむらいも出来たくらい、梓のうちは窮していた。

 もっとも小学をえ、中学にって、ちょうど高等学校に入っていたその学資は、父が膏血こうけつを絞ったものであることはいうまでもないが、従姉妹達が銘々、自分の境遇を悲しむ余りに、一門の中からせめて一人、梓さんが男だからと、石筆を持って来る、算盤そろばんを買って来る。本のしおりに美しいといって、花簪はなかんざしの房を仕送れば、ちいさな洋服が似合うから一所に写真を取ろうといって、姉に叱られる可愛かわゆいのがあり。


二十


 学校の帰途かえるさ驟雨にわかあめに逢えば、四辻から、紺蛇の目で左褄ひだりづまというのが出て来て、相合あいあいで手をいて帰るので、八ツ九ツ時分、梓はひどく男の友人にうとんじられた。人は皆竹馬の友を持ってるけれども、梓はかえって手鞠、追羽子おいはごの友を持っていたのである。

 父親てておやなくなって、姉が初めて訪寄といよったのが機会で、梓は高等学校の業をえて上京した、学資は姉の手から──その旦那の懐中から──出たのであるが、学年中途にして志いまだ成らず、年紀としはようよう梓より二ツ上の姉が、両親の後を追って、清く且つ美しい一輪の椿、床の花瓶はないけをほつりと落ちた。

 最後にその三人みたり従姉妹いとこが、頭のもの、帯一本、指環ゆびわを一ツ売ったという、二十円あまり二月足らずの学資を達引たてひいてくれたまでで、あわれ一にんは目を煩い、一人は気が狂ったようになり、いま一人は人に連れられて北海道に渡ったという、音信おとずれがあって、それなりけり。

 という境遇であったので、幼少の折から、くれないあけぼの、緑の暮、花のたかどの、柳の小家こいえ出入ではいりして、遊里にれていたのであるが、可懐なつかしく尋ね寄り、用あって音信おとずれた、くさきざきは、残らずかかえであり、わけであり、いずれも主人持のことであるから、いきおいむことを得ず、帳場に片膝立てている女房に挨拶をせねばならず、奥に掻巻かいまきを懸けて昼寝をしている、亭主に天窓あたまを下げねばならない。

 単にそう云えば梓がひど意気地いくじのないように聞えるけれども、人の召使は我が召使ではない、玄関番の書生が、来客のくつを取って送迎するのを見て、来客たるもの、自家を尊大にしておのれに従うものだと思うのは失敬であろう。履を取るはすなわち主公に使うるの道で、あえて来客に対する礼ではないから。

 芸妓げいしゃも自家これに客となって、祝儀を発奮はずみ、ぎょくを附けて、弾け、飲め、唄え、酌をせよ、と命令を奉ぜしめた時ばかり、世の賤業を営むものとおとしめてよろしいけれども、臂鉄砲ひじでっぽう癇癪玉かんしゃくだまを込めた、ドンをくらい、鳩玉はとまめ引退ひきさがるに当ってや、客たるものは商となく、工となく、武となく、文となく、たたかいけたものとわなければならない、いわんや、さッさと貰われてのッけから、対手あいてにされざるものにおいてをや。

 忘八ぼうはちの亭主、待合の女房おかみといえども、おのれ遊客となってこれが敬礼を受ける場合でなく、一個人としてここにい寄れば会釈をしなければならないすうで。

 たとい、売淫婦といえどもそのいもとたるものは、淑女であってもかれは姉さんである。たとい山賊といえども、山路におのれ蹈迷ふみまよった時寸毫すんごうの害も加えられずして、かえって此方こなたより道を聞いて、ふもとに下りることを得たりとせんか、渠は恩人である。世を害するものなりといって訴人に及ぶは情において忍ばるる処ではあるまい。しかるにこれを訴人して、後にざまあ見ろをくらって、のりべにになってもがくのは、芝居でも名題の買って出ぬ役廻やくまわりであろう。

 母をはじめ、姉、従姉妹、幼時における梓が七情を支配したものは、皆苦労人であった。あえてこれ天下にはばかる処なしといえども、しかれども、すうの奇なるもの、かえりみれば無慙むざんな境遇。



湯帰り


二十一


 梓が上京して後東京の地において可懐なつかしいのは湯島であった。湯島もその見晴みはらしの鉄の欄干にって、升形の家が取囲んでいる天神下の一かくながめるのが最も多く可懐しかった。

 可懐しさもまるで過世すぐせの夢をここに繰返すようなもので、あえて、ここで何等のことを仕出しいだしたことはないが、天神下はその母親の生れた処だということについてである。

 されば故郷を去って独り寄宿舎に居る、内気な、世れない、心弱い、美少年は、その界隈かいわいに古びたひさしを見ては、母親の住んだ家ではあるまいかと思い、宮の鰐口わにぐちすがっては、十七八であった時の母の手が、これに触れたのであろうと思い、左側にならんだ意気な二階家の欄干、紅裏もみうらの着物が干してある時、は殊に障子に鏡立かがみたての影の映る時、いつもいつも心嬉しく姿寂しく、哀れさ、床しさが身に染みて、立去りあえずたたずむのがならいであったが、恋しさもしたわしさも、ただ青海あおうみの空の雲の形を見るように漠然とした、幻に過ぎなかった。しかるにある時、それを形にあらわして、梓の感情を支配する、すなわち、床しい、懐しい念のすべてをもって注ぐべき本尊、たとえば婦人が信仰の目じるしに、優しい、尊い、気高い、端厳微妙たんげんびみょうなる大悲観世音の御姿みすがたを持ってるようなものが出来たのである。

 ちょうど玉司子爵の令嬢いまは梓の夫人たる竜子から、まだ仏文の手紙の来ない先、姉が死んで、従姉妹いとこが離散して、学資が途切れたので、休学して、しばらく寄宿舎を退しりぞいた間、夫婦で長屋を借りて世帯を持っていたいささかの知己しるべの処に世話になったが、その主人あるじまた大の貧窮で店立たなだてを命ぜられて、一日あるひ九尺二間の城を明渡すのむを得ざることに立至った。その日も梓は例のごとく、不遇の身を湯島の境内に彷徨さまよわせて、鉄欄干に遣瀬やるせのう時を消して暮方に家に帰ろうとする、途中で会った友達夫婦が、一台の荷車の両脇に附添って、妻恋つまごい下通したどおりを向うからかせて来て、

(天神下の××番地へ引越す、後から来たまえ。)

(神月さん、その時この車に附けあまったがらくたを隣家となりへ預けて来たんですから、車を雇って持って来て下さいな。)

 と暢気のんきなもので別れて行った。意を了して、その頃同朋町どうぼうちょう店借たながりをしていた長屋に引返ひっかえして、残りの荷物をまとめたが、自分の本箱やら、机やら、二人のりには積み切れないで、引越車をまた一輛。

 天神下まではみちも近し、洋燈ランプを手にして宰領して、男坂の裏を抜けて、目的めあての処へくと、さあ知れない。

 向うが言い違えたか、こっちで聞違えたか、覚えた番地を差配にまでかかって尋ねたが、かいくれ分らず、荷車について、ぐるぐる廻ってる、日は暮れる、暗くなる、二三ときもかかったので、間が抜けてるじゃありませんか、と曳子ひきこはぶつぶつ叱言こごとをいう。引返ひっかえした処で寝る家もない場合。梓一人が迷惑してこうじ切っている処を、あかりがないと、交番でとがめられたが、提灯ちょうちんの用意はなし、お前さん。その手に持ってる洋燈をおけなさい、と曳子はちゅうぱらだから口のうちで、幾たびも、ヘン間抜まぬけだな。


二十二


 さるほどに神月梓は、暗夜、町中まちなかひともした洋燈ランプを持って、荷車の前に立たせられて、天神下をかしこここ、角の酒屋では伺います、莨屋たばこやの店でも少々、米屋の窓でもちょいとものを。いずれも知らない、存じませんな、を言わるるたび、背後うしろから、噛着かみつくように叱言こごとをくッて、ほとんどこらえ切れなくなると、雨が降出した。

 梓はあおくなるまでに、はては気をいらって、額がつッぱると思うほどな癇癪筋かんしゃくすじ、一体大人しく、人に逆らわず、争わないだけ、いつもは殺しておく虫があるのでむらむらと、来た。それに気が小さいから、取詰めて、持ってる洋燈をこの荷車に叩きつけよう、そして粉微塵こなみじんに砕けたら、石油に火が移ってめらめらと燃えて無くなるであろうとまで思った。これはしかねない少年であった。

 その時、黒縮緬くろちりめんの一ツ紋。おめし平生着ふだんぎに桃色のまきつけ帯、衣紋えもんゆるやかにぞろりとして、中ぐりの駒下駄、高いのでせいもすらりと見え、洗髪あらいがみで、濡手拭ぬれてぬぐい紅絹もみ糠袋ぬかぶくろを口にくわえて、びんの毛を掻上かきあげながら、滝の湯とある、女の戸を、からりと出たのは、蝶吉で、仲之町からどこにか住替えようとして、しばらくこの近所にある知己ちかづき口入宿くちいれやどに遊んでいた。年紀とし十七の夏のはじめ、春の名残なごりに降ろうとする大雨の前で、戸外おもて真暗まっくら出会頭であいがしら蝙蝠こうもりが一羽ひらひらと地をくう飛んだと見た、早や戸を閉めた縄暖簾なわのれんれて二筋三筋戸外おもてにさす灯の色も沈んだ米屋を背後うしろに、此方こなたを向いて悄然しょんぼり洋燈を手にしてたたずんでる一個白面の少年を見たのである。梓その時はその美しい眉も逆釣さかづッていたであろう。まさに洋燈を取って車の台になげうたむとする、めじりさがったのはまむしよりきらいな江戸ッ肌。人見知ひとみしりをせず、年は若し、かけかまいのない女であるから、癇癪が高ぶって血もさかのぼらんとする、若い品のいのを見て嬉しくッてたまらず、様子を悟って声を懸けた。

(ちょいとどこへいらっしゃるの、)

 一幅ひとはばの赤いともしが、暗夜をかくしてひらめくなかに、がらくたのうずたかい荷車と、曳子ひきこの黒い姿を従えて立っていたのが、洋燈を持ったまま前へ出て、

うちを探してるんです。)と内心に激したれば声も鋭く答えたのである。

 蝶吉は莞爾々々にこにこしながら、愛想よく仔細しさいを尋ねて、

(そう、今日お引越ひっこしなすったの、何でしょう、兵児帯へこおびをして、前垂まえだれを懸けた、ふとった旦那と、襟のかかった素袷すあわせで、器量のいかみさんとが居る内でしょう。そうなの、それじゃあついそこなんだわ。)といって、濡手拭でゆびさしをしてくれた。蝶吉はその長屋の表通おもてどおりの口入宿に居たのであった。

 この口入宿の隣家となりは、小さな塩煎餅屋しおせんべいやで、合角あいかど花簪はなかんざしを内職にする表長屋との間に露地がある。そこを入ると突当つきあたりが黒板塀。ついて右へ廻るといきな格子戸の内に御神燈をつるしたのがあるが、あらず、左へ向うと、いきなり縁側になって、奥の石垣が見透みとおされる板屋根の小家こいえがある、そこが引越先であった。

 この一廓は、柳にかくれ、松がに隔てられ、大屋根の陰になり、建連たてつらなる二階家に遮られて、男坂の上からも見えず、矢場が取払われて後、鉄欄干から瞰下みおろしても、直ぐ目の下であるのに、一棟の屋根も見えない、天神下のかくれ里。



描ける幻


二十三


 さてくだんの花簪屋と煎餅屋との間の露地口の木戸は、おしめ、古下駄等、汚物よごれもの洗うべからずの総井戸と一般、差配様おおやさん取極とりきめで、紙屑拾不可入かみくずひろいいるべからず、午後十時堅く〆切しめきり

 梓が引越してから五日目の夜、十時を過ぎて帰ることがあった。木戸へ来ると、鍵がかかっていた。向うの湯屋では板の間をこする音、男坂下なる心城院の門もしまって、柳の影も暗く、あたりは寝て、切通きりどおしかたには矢声高く、腕車くるまきしるのが聞えたが、重宝なもので、煎餅屋の店から裏長屋へ抜けられるのだから、木戸を閉切ったあとはこれが例、女房が見つけて、ちゃんと心得、

(書生さんの旦那、お穿物はきものをお提げなすって、こちらから。)と言ってくれた。

 きまりも悪し、おもてを背けて店口から奥へ抜けようとすると、おなじく駒下駄を手に提げて裏口からはらりと入って来た、前日の美人とぱったり逢った。袖も摺合すれあうばかり敷居で行違ゆきちがう。ふりあきからこぼれる長襦袢ながじゅばんが梓の手にちらちらとからむばかり、さっとする留南木とめきかおり。顔を見合せて、

(失礼、)

(……………)

(ちとおあそびにいらっしゃいな。)と言い棄てて、それでもまだ答をしないうちに、早やばたばたと戸外おもてへ出たが、

(おばさん、お邪魔様、)と言いさまに口入宿の表の戸がらがら、鈴を鳴らして入った。蝶吉は今夜裏なる常盤津ときわずの師匠のもとに遊びに行ったかえりであった。

 梓は幾ほどもなく仏文の手紙を得て、この隠家かくれがを出て、再び寄宿舎の卓子テイブルにバイロンの詩集をひもどいて粛然とする身になったが、もとより可懐なつかしい天神下はますます床しいものと成りまさったのである。

 今こそあれ、くだんの美人を梓は誰なりと知る由なく、ただかの時と、その時と再度のみ。それもつくづく見たのではないから、年紀としのほども顔立かおだてもよくは分らなかったけれども、ただ彼が風俗は一目見て素人でないことを知った。えんたるこの大都の芸妓げいしゃの風俗、梓はぞっとしたのである。

 しかも窮苦きわまりなきに際して家を教えられたのであるから、事は小なりといえども梓はおおいなる恩人のごとくに感じた。感ずるあまり、梓はなき母が仮に姿をあらわして自分を救ったのであろうと思った。あえてここにあらためていう、梓の母は芸妓げいしゃであった。そして天神下はその生れた処である。

 幾多の星霜を経てはいるけれども、かしこの柳、ここの松、湯屋も古くからあるというし、寺の門前のは今もあたりの女の子が、打集うては遊んでいる、鞠唄まりうたも唄うている、ひさし、軒、土の色も有のまま。これがむかし母親の住んだうちではないかと心の迷うのも慕わしさのあまり、しばらく住んでいた、破屋あばらやいたく古いのにつけても、もしやそれかと、梓はあたかも幻というものをいて、目にこれを見るようなおもいがした。それこれの聯想れんそうから、誰とも知らず、その頃の蝶吉を、母のおもかげたように思ってた折から、煎餅屋の店で行違った時も、母があたかもその年紀としで、その頃、同じことを、ここでして、こうして育ったのであろうと、あたかも前世紀のきた映画うつしえに接するがごとく感じたのである。



朝参詣


二十四


 梓が大学の業をえて、仏文の手紙の姫、年紀としは二ツ上の竜子に迎えられて、子爵の家をぐ頃には、地主の交替か、家主の都合か、かの隠家の木戸は釘附くぎづけ〆切しめきりとなって、古家のおもかげしのばれなくなった。構外かまえそとを廻って見ると、今までとは方面の違った町の側、酒屋の蔵の廂合ひあわい一条ひとすじほの暗い露地が開かれた。大方そこからもとの借家へ通ずることが出来るのであろうと思うばかり、いうまでもなく、先に世話になった友人夫婦は、くに引越して行方ゆきがた知れず、用もない処、殊に、向合って御膳ごぜんを食べる、窓から手を出して、醤油おしたじを借りようという狭い露地内へ、紋着もんつきの羽織でうそうそ入られたものではない。入って見られず、伺うて分らなくなると、ますます可懐なつかしさはまさったけれども、これまでと違って玉司子爵梓氏となってからは、やしきを出入の送迎も仰々しく、往来ゆききの人の目にも着く、湯島のそぞろ歩行あるきは次第に日をき、週を隔つるようになったが、遠いが花の香で、床しさはまた一入ひとしお

 梓はその感情をもって、その土地で、しかも湯島もうであした御手洗みたらしの前で、桔梗連ききょうれんの、若葉と、のぼりと、杜鵑ほととぎす句合くあわせ掛行燈かけあんどう。雲が切れて、こずえに残月の墨絵の新しい、あけぼのに、蝶吉に再会したのである。

 今日しも寄宿舎の紅茶会で、竜田若吉が言ったごとく、梓はその時もある意味をもって、蝶吉に助けられた。

 些細ささいなことだけれども、一体貧窮刻苦の中に育った人の、文学士で玉司子爵夫人の恋婿でありながら、ちっとも小遣こづかいなどは気にしないので、持って来たとも覚えず、忘れて来たとも知らず、落したのか、紙入というものを持合さず、水をすすごうとして干杓ひしゃくを取ると、

(水銭をおくんな。)と豆をってならべてある土器かわらけの蔭から、丸々ッちい、幼い顔を出されて、懐を探るとない。たもとに手を入れるとない。左にもない、帯の間にはもとよりない。

 思わず、どぎまぎしてつぶやいた。

(どうした知らん。)

(水銭をおくんな。)

 梓はきまりが悪いので、

(おや、おや。)と疑わしそうに言ったけれども、一種の見得で、自分にはられたあてもないのである。

 子供は同じことを、

(水銭をおくんな。)

(まあ、懐中を忘れたそうだよ。)

 目をぱちくりして、委細構わず、

(水銭をおくんな。)

 ただ六ツばかりの小児こどもに対しても、梓はさがとしてこれには顔をあかくして、立場なく後へ退さがろうとする。背後うしろに立ったのが、朝参あさまいり婀娜あだたる美人で、罪もなく莞爾々々にこにこしながら、繻子しゅすの不断帯の間から、ふっくりと懐紙に包んだ紙入を抜いて取り、てのひらに拡げて緋地ひじ襤褸錦つづれにしきの紙入を開いた中から、指でこしらえたような、小さな玩弄おもちゃの緑の天鵝絨びろうど蟇口がまぐちを引出して、パチンとあけて、幼児おさなごが袂の中をのぞくように、あどけなく、嬉しそうに、ぱっちりした目を細めて見ながら、一片ひとひらの、銀の小粒を、キラリとつまんで、向うへ投げた。

(小僧さん、旦那様の分もあるんだよ。)

 梓はきっとなった。

 美人は顧みて嫣然えんぜんとして、

(あなたや、さあ、手をお出しなさいな。)

 梓はここに到って、胸中まず後の謝恩を決しながら、と差出した、医師のごとく、しかく綺麗な手に、一杯の清水せいすい、あたかもたまのごときをそそいで、さっと砕けると更に灌いだ、しずくも切らせず、

わたいのを使って下さらなくッて。)と落着いて、しずか秋波ながしめていいながら、ちょいと、仰向あおむいて

 端を引いた、奉納の手拭てぬぐい、いまだ手摺てずれもなく新しい。

 茶色の地に、白で抜いて、数寄屋町、大和屋内──ちょう吉──とある。

ねえさん、きっとお礼をする、)と梓は心をめてはじめていった。

(あら、何ですよ、)

(いいえ、)と押えて、そのまま別れて敷石の上を渡った。額堂の軒、宮のひさし、鳥居のもと御手洗みたらしの屋根に留まった鳩が、あちらこちらしばしば鳴いて、二三羽、二人が間をはらはらと飛交わした。納豆々々の声はるかに、人はあたりになかったのである。──この間二年あまり相たち申候もうしそうろう。歌枕の今夜の逢曳あいびき



言語道断


二十五


「ちょいと今夜はわたい嬉しいわねえ、こないだから塩梅あんばいが悪くッて、それにお前さんは久しくおいでなさらないし、ふさいでばかりいたんですよ。」と急にまたしめやかになった。気の変ることの極めて早い、むしろ鋭いといってもい。この女の心は美しく、磨いた鏡のようなものであろう、月、花、うぐいす蜀魂ほととぎすきたって姿を宿すものが、ありのまま色に出るのである。

 梓も可懐なつかしげにうなずいて、

「ついちっとばかり忙しかったもんだから、病気とは聞いていたけれど。」

「精出して勉強をしていたんですか。」

「ああ、」と何気なく答えたがふと気にかかった様子で浮かぬ顔をした。

 蝶吉はもとより何の気もつかないので、

「そう、生意気だねえ。」

「失礼な、人が勉強してるというのに、生意気だということがあるものか。」

「あなたや、馬車に乗ろうと、いうんじゃあなし、つまらなくッてよ。また煩いでもすると悪いもの。」

「だって怠けてちゃあ食べられませんから、」

わたい達引たてひくからいわ、」といって蝶吉は仇気あどけない顔に極めて老実な色を装った。梓はこれを聞いて、何か気がさしたような様子であったが、わらいに紛らして、

「どうぞよろしく、」

「ええ、それはもうね。」

「しかし、私は駒下駄じゃあいやなんだ。」と思い切ったという語気でひややかにいって、きっと蝶吉を見た、目の中には一種のおもいを籠めたのである。

 蝶吉はさも思い懸けなかったらしかった。

「おや、おや、おつなことを、」といって、すましたもの。

 梓はここに至って居住いずまいを直した。

「いいえ、異なことをいうんじゃあない、隠しだてをされてはおかしくないよ、お前、松のすしは一体どうしたんだえ、」とさすがに問い兼ねて当らず障らず。

「厭よ、やくのかい、貴方あなた気に懸けるような対手あいてじゃあなくッてよう、初心らしいことをいって、可笑おかしいわねえ。」

「何しろ、全くか。」

「はあ、」ときまり悪げに男と見合ってた顔の筋をうごかして、

「それはあの、何なの、だってわたいは何にも知らないんですもの、」と俯向うつむいて膝の上を、煙管きせるで無意識にたたきながら、

「だってもうそれっきり何だってあんなやつは何だろう、それを気に懸けて下さるのは、あんまり可哀かわいそうよ、蝶吉じゃあありませんか。」といって自らたゆげに見えて微笑ほほえんだ。

「その事じゃあないよ、おなかの……」といいかけて、梓は我ながらおもてを背けた。

「まあ、」

 黙って、俯向いてしばらくして、蝶吉は顔をあからめ、

「貴方、誰に聞いて来て、ようどこから知れたのよ。」

「なに少しばかり気になることをみちで聞いたもんだから、つい、」

「もっとまだその上に知ってるんですか、」

 蝶吉は驚いたような声。


二十六


「悪く思ってくれちゃあ困るよ、僕はね、知ってるとおり、遊ぶのはお前がはじめてだ。商売だから嘘をくもんだと思っていたんだけれども、お前が見ッともない、たというそにでも好いたとか、何とかいって、そうして好いた真似まねをして見せる分には、好かれた者に違いはないのだから、好かれたんだと思っておいでなさればい。いやに疑るのは見っともない、男らしくもない、とそういうから、成程そうだと、自分ぎめで、好かれてると思ってる。ああ、ずっとれられたんだと思って、これでも色男に成済なりすましているんだ。だから、何も洗いだてをして、どうの、こうのと、詮議立せんぎだてをするんじゃあないけれども、今来る途中で、松のすしが、妙なことをいってあてこすったよ。」

いやだ!」

 蝶吉はねや透見すきみしたものを、はずかしめ、且つ自分のしどけなかったのをずるごとき、荒ッぽい調子であったが、また自らあやぶんで、罪の宣告を促して弱々しく、

「何か言っていましたか。」

「残らず、」と神月はきっぱり言った。

「へい、」と真面目に、蝶吉はたちまち三ツばかりものの言いざまに年紀としを取ったが、急に気を換えて、

「だって、すっかりくなってよ。西洋じゃあみんな平気ですって。また田舎なんぞには当前あたりまえだと思ってますとさ、わたいもうさっぱりしたんです。

 体にも障らなかったといって、今夜ねえ、床上げやら、何やらで、内のねえさんが赤飯を炊いてくれました。そして一杯飲んだんですもの、祝ったくらいじゃあありませんか、不可いけなくッて、え、え?」

 蝶吉は梓が何か易からぬ面色おももちがあるのを見て、怪しむ様子。

 梓は急にことばも出でず腕をこまぬいて黙然としていた。

「よう、何をふさぐのよ、わたいのことなんですか、不可くッて、」

「可いも悪いもお前、」

 言語道断だ。

「だってしかたがないじゃあありませんか、」と詮方せんかたなげに蝶吉はぱっちりした目を細うして、下目使いで莞爾にっこりしたが、顔を上げてまじくりして、

「もっとも何なのよ。一度そんなことをしたものは、もうもう一生子供は出来ないッていうのよ。ですけれども、貴方嬰児あかんぼはいらないんでしょう、ぎゃあぎゃあ泣いて可煩うるさいから大きらいだって言ったじゃあありませんか。ですもの、三ツばかりのが、父さん、母さんッて、生意気な口を利くのが可愛いんですから、余所よそから貰うことにでもしましょうッていったら、それさえ面倒だ、可愛い口を利かせるなら鸚鵡おうむを飼えば沢山だッて言ったんですもの。」

 梓呆れ果てて言葉なし。

 蝶吉はしたり顔で、

「ほら、御覧なさいな、可いじゃあありませんか、わたいも嬰児なんか欲しくないんですから、」

 と言い懸けて少し体をななめにして、秋波ながしめで男を見ながら指示さししめすがごとく、その胸に手を当てた。

「こっちのお乳をおかずにして、こっちのおおきい方をおまんまにして食べるんだって、」とぐッとめ附けて肩をすぼめ、笑顔で身顫みぶるいをして、

「厭、痛いわ!」


二十七


 梓はたまりかねて、

「お蝶、」とちと鋭くいうと、いつも叱るのをはぐらかす伝で、蝶吉は三指をいて的面まともつぶし島田に奴元結やっこもとゆいを懸けた洗髪あらいがみつややかなのを見せて、俯向うつむけにかしこまり、

「召しましたは何御用にござりまするな。」と男の仮声こわいろを造って、笑いたさを切なくこらえる風情。余りのことに気の弱い梓は胸が充満いっぱい、女が見ないので心のはりゆるんだか、みつめている目にほろりとした。が、思切って、と寄った、膝を膝に突掛つッかけて、肩に手を懸けるとうっかりした処を不意に抱起されて、呆れるのを、じっと瞶め、

可哀かわいそうだな、お前は不幸ふしあわせに生れて来て、何にも世の中の事というものが分らないんだから、私は何にもとがめやしない。たといここで、目の前で、やあい、だましてやった、二本棒め、ころしを言やあ嬉しがって、色男が聞いて呆れる、ざまあ見やがれと、愛想尽あいそづかしを言って舌を出した処で、ちっともはらを立てはしない。

 いいえ、たとい悔しくッて、肚は立っても、お前を不人情だとも何ともいわないよ。

 こうすりゃ薄情だ、不人情だと思ってされてこそ、しゃくだけれども、ちっとも知らないで言うことなり、することなら、不都合でも何でもなかろう。

 だから、何にも言わないが、その何だよ。お前は僕のことを初心だ、坊ちゃんだ、何にも知らないというそうだ。勿論三がさがるものやら二があがるものやら、節はのばすもんだか縮めるもんだか、少しも知らない。通だとか粋だとかいうことは、からももんじいで分らないけれども、意気だといって、この寒中、綿の入らない着物を着ていりゃ、体に毒だということは知ってるんだ。そしてまたここらの芸妓げいしゃは綿のはいったものを引摺ひきずってるといって、お前のえらがることも知っている。

 成程薄着ですらりとして、そりゃ姿はいだろう。ものが間違って、馬鹿げていて、仇気あどけないのが可いとして、わざとさえ他愛ないことをいうようにしこまれるくらいだそうだッてな、字引と首ッ引で、四角い字、難かしい理窟ばかり聞いてた耳に、お前が、訳の分らない、他愛のない、仇気ない、罪のないことを言ってくれるのが嬉しかった。なに面白かったんだ、面白いといやあなぐさみだ。それが段々嬉しくなって、可愛らしくもなり、ついこういうことにもなったんだが、他愛なさも、仇気なさも、おなかを……可いかい、政府おかみへ知れりゃ罪人だぜ。人にゃあ交際つきあいも出来ないようなことをしながら、赤飯を食べさせられて、酔って来るようになりゃ沢山だ。」とひそひそながら声と共に手に力が入ったので、蝶吉はあからむ顔をそらしもならず、呼吸いきを引くように唇を動かしている。

 様子を見守り、

「可哀そうに、決して、それを責めるのじゃあない。さっきも言うとおり、お前がお前だから何とも思いはしないけれど、お前は十九で、私は二十五。七ツ違いの兄さんだ。まあ、妹だと思っていうから聞きな。」



下かた


二十八


 さればぞ思い当る。一月ばかり前の、同じこの歌枕で会った時、蝶吉はそれとはなく、しきりに子が一人欲しくはないかといったのを、気にも留めないで聞棄ききずてにしたが、松のすしの毒口を、ここで聞正せば実際で、梓は思い懸けず、且つ驚き且つ呆れ、あわれにもなさけなくも思ったのである。

 梓はかつて、蝶吉の仇気あどけない口から、汐干しおひに行って、騒ぎ歩いて、水を飲んだ、海水はしょッぱいということを、さもおおいなる学理を発見したごとくにいうのを聞かせられた。

 子供のうち悪戯いたずらをして叱られると、内を駈出かけだして、近所の馬鹿囃子ばやしの中へ紛込んで、チャチャチャッチキチッチッと躍っていると、追駈おっかけて来た者が分らないで黙って見遁みのがしては帰ったが、わたいの顔は今でもおかめの面にているかといって、尋ねられたこともある。

 その気であるから、蝶吉がおもてを歩いて、生意気だと思うやつには突当ってやるというから、何を弱虫、先方さきが怒ったらどうするといってたしなめれば、たれそうになったら二十五座へ紛込んで、馬鹿囃子を躍ってよ、と真面目でいうのだからたまらない。まさかに今十九にもなって、そうとは信じもすまいけれども、口でいうような幼心おさなごころは、今もなお残っている。堕胎だたいをしたものは刑法の罪人だといえば、何の事かもとより分らず、お前巡査につかまってろうへ入れられなけりゃならないといえば、また二十五座へ遁込にげこんで躍るというであろう、手のつけられたものではない。

 さまでに世の中の事というものが分らない生立おいたちが、馴染なじむに従って知れれば知れるほど、梓は愛憐あいれんの情の深きを加えた。

 さらぬだに蝶吉は恩人である。殊に懐旧の情に堪えざる湯島の記念がある上に、今はある者は死し、ある者は行方の知れない、もの心を覚えてから、可懐なつかしい、恋しい、いとおしい、嬉しい情を支配された、従姉妹いとこや姉に対するすべてのおもいを、境遇のひとしい一個蝶吉の上に綜合して、その情の焦点をあつめているのであるから身にかえても不便ふびんでならぬ。

 まして打明けた蝶吉の身の上をくわしく知ってからは、うべからざる同情の感に打たれたのである。

 梓は何となくよく似た身の上だと思った。

 蝶吉の母親はもと京都のしかるべき商賈しょうこの娘であったが、よくある、浄瑠璃じょうるりの文句にある、親々の思いも寄らぬつま定めで、言いかわした土佐の浪人とまだ江戸である頃遁げて来た。二人で根岸に隠れているうち時世ときよといい、活計を失って、仲之町の歌妓うたひめとなった、且つ勤め、且つ夫に情を立てて、根岸に通っている内に、蝶吉は出来たので。

 子持の母も芸で通り、馴染なじみの座敷では小女こおんなが連れて来ると、背後うしろを向いて、三味線を下に置いて、懐を開けて乳房を含ませるという境遇であったが、誕生をすまして、蝶吉がようやく立って歩くようになると、根岸では、父がやまいの床に倒れたがまたたなくなった。

 越えて三歳みッつになる時、母親は蠣殻町かきがらちょう贔屓客ひいききゃくに、連児つれこは承知の上落籍ひかされて、浜町に妾宅を構えると、二年が間、蝶吉は、乳母おんば日傘で、かあちゃん、かあちゃんと言えるようになった。


二十九


 それもしばらく、米屋町は米の上り下りで人間の相場が狂い、妾宅の主人は大失敗で、落魄らくはくして、最後に一旗という資本がないので、心まで淋しくなり、蝶吉の母に迫って、その落籍ひかしただけの金員耳を揃えて返せという。

 蝶吉の母は根岸の情人いいひとなくなってから、世を味気なく、身をただ運命に任せていたので、いうことに逆らわず、芳町から再勤したが、足りない金子かねは、家財を売って、それでもまだ償われなかったので、蝶吉を仲之町の大坂屋というのに預けた、年期が十三年。

 くるわ抱妓かかえの慣例として、色はきっと売らさぬ代り、芸事にかけてはいかなる手段をもって仕込んでも差し支えはない、少々痛いおもいをさせてもという口約束をしたのであるから、そのせたげようと云ったら方外な。

 座敷は三人が一組、姉株の芸妓げいしゃが二人、これに蝶吉が、下方したかたを持っていてくのであった、といって、いつか雪の降る、身の毛を悚立よだてて梓にその頃の難苦を語ったことがある。

 座敷がある、客はというと、あの土地では夜が更けてからのが多い。それという声がかかると、手取早てっとりばやく二人の姉分の座敷着を、背負揚しょいあげ扱帯しごき帯留おびどめから長襦袢ながじゅばんひもまで順序よくそろえてちゃんと出して、自分が着換えるとその手で二人分の穿物はきものを揃えて、三味線を──その頃腕達者なはげしいあねえは、客の前で弾切ひききると糸を掛けてるうちも間が抜けるといって、伊達だてに換え三味線を持ったので──四張。呼ばれた青楼うちの帳場まで運んでおいて、息を切って引返す、両手に下方を持って駈着かけつける。

 それから四張の三味線を座敷に運んで、調子を合せて、差置くや否や、取って返して、自分がもちの下方の調しらべの緒をめる時分には、二人悠々と入って来る。穿物の雪を落して、片附ける間も心がかれ、座敷へあがるとお座附の済む頃で、膝に手を置く猶予もなく、それ下方といって責められるが、指の皮が破れてる上に冷たくッて手がかじかむ。息が切れて、もう小鼓を肩に振懸ける力もない。

 これを梓に言った時、蝶吉は床から出て、友染の夜具の袖を敷いたと見ると、長襦袢のまま片膝を立てた。その上に手をかざして、

わたい小さくッてこれんばかりだったんですもの、鼓ばかりで体がどこにあるか分らなかったの。)と、いいつつ片手を肩に懸けて、小鼓を構える姿できっと直った。びんの毛ははらりはらりとその雪のような素顔に乱れたが、往時を追懐する目もすわって、いうべからざる悲哀の色をうかべたので、梓は思わず寝衣ねまきの襟を正して起きた。

 とんと打入れる発奮はずみをくッて、腰も据らず、仰向あおむけひっくりかえることがある、ええだらしがない、尻から焼火箸やけひばしを刺通して、畳のへり突立つッたててやろう、転ばない呪禁まじないにと、陰では口汚くののしられて、帰ると耳を引張ひっぱっててのひらで横すっぽう。襟首を取って伏せて、長煙管ながぎせるせなかくらわすという仕置。ただその粗忽そこつがあった時ばかりではなく、着物を畳んで背筋を曲げたと言っては折檻せっかん、踊がまずいといってはたれて、体に生疵なまきずの絶間もないのに、寒さは骨を通すようなあけ方までも追廻されて、二人が帰ると、着物から三味線、下駄のあと始末、夜が明けると帳面をさげて、青楼ちゃやを廻らせられるので、寝る間といってもおちおちない。


三十


 昼は昼で、笛やら、太鼓やら、踊の稽古けいこ手習てならいも一日おきで、ほっという間もなかったのである。

 うろ覚えに実の母親は知っていたけれども、年紀としも分らねば所も知らず、泣けば舌のさきじられるから、ほろほろ、涙を流しては、といった、蝶吉はその時、崩折くずおれて涙を払った。

 土手など通ると、余所よそが母親に手をかれてくのを見たり、面白そうに遊んでいるのを見るたびに、おんなじ人間がなぜだろうと、思わぬ時といってはない。ある時も、田圃たんぼのちょろちょろ水で、五六人、目高をすくっているのを見ると、可羨うらやましさが耐えられないから、前後あとさきわきまえず、すそを引上げて、たもとゆわえて、わたいも遊ばして下さいな、といってながれに入った。やい、売婦ばいため、お玉杓子たまじゃくしめ、汚らわしい! と二三人、手と足を取って仰向けにひっくりかえしたので、泥水を飲んで真蒼まっさおになって帰ると、何条これを許すべき、突然いきなり細紐でぐるぐるまきぬれしょびれたまま高い押入の中に突込つッこまれた。半日とそのの夜中二時頃まで、死んだもののようになってるうちに、わたいばかり、なさけないものを、辛いものを、慰めてこそくれずとも、売婦だといって突転つッころがした町の奴等。

 内で芸事をせたげるのも、みんな手前達が甘やかされて、可愛がられて、風にもあてず育てられた、それほどの果報にも飽き足らず、にきびの出る時分にはその親になきを見せて、金をつかんで、女をもてあそびにせるためだ。蹴飛ばしてやろう、おのれ、見返してやろう、おのれだましてやろう、なぶってやろう、死ぬような目にあわしてやろう。泡を吹かせずにおくものかと、それからは気にはりが出て、稽古事も自分で進み、人には負けぬ気で苦労も気にせず、十七の年紀としまでり通したが、堅いつぼみも花になって、もうあとへ、自分を姉さんといってかしずくのが出来て、秋の仁和賀にわかにもひけを取らず、座敷へ出ても押されぬ一本、は清元で、ふり花柳はなやぎの免許を取り、生疵なまきずで鍛え上げて、芸にかけたら何でもよし、客を殺す言句もんくまで習い上げた蝶吉だ、さあ来い!

 花も見、月も見る癖に、きた女を慰もうとする畜生等、目にものを見せてやろう、かんざしの先がとがってるから、憎まれてうらまれて、殺されそうになったらば、対手あいて目球めだま突潰つきつぶして、体だけ逃げればいと、柳眉りゅうび星眼火燄かえんの唇。満腔まんこうの不平をたたえて、かえって嫣然えんぜんとして天の一方をにらむようになり得ると、こはいかに、薄汚い、耳の遠い、目の赤い、繿縷ぼろまとった婆さんがつえすがって、よぼよぼと尋ねて来て、うみの母親が大病である、今生でたった一目、名残なごりおしみたいという口上。

 夢にも逢いたい母様おっかさんと、取詰めて手も足も震う身を、その婆さんと別仕立の乗合腕車のりあいぐるま。小石川さしちょうの貧乏長屋へ駈着かけつけて、我にもあらず縋りついた。母様おっかさん、峰(幼名)か、と嬉しさのあまり、呼吸いきの下で声も出た。母親はその日絶えなむとする玉の緒を蝶吉の手につなぎ留められて、一たびは目を開いたが。

 一目見廻した様子でも、医師はいうまでもないこと、風薬かざぐすりの手当も出来ないと見て取って、何はいて、蝶吉は一先ひとまず大坂家に帰って、後の年期も少いので、上借うわがりをして貢いだけれども、半日もままならぬ抱妓かかえの身。看病人を頼むのも、医者を心付けるのも、北里きたと、小石川の及腰およびごし瘠細やせほそるばかり塩気をって、生命いのちを縮めてもと念じあかした。



狂犬源兵衛


三十一


 七日なぬか目の朝、ようようのことで抱主かかえぬしから半日のいとまを許され、再び母親を小石川の荒屋あばらやに見舞うと、三日が間、夜も昼も差込み通し、鳩尾みずおちの処へぐッと上げた握掌にぎりこぶしほどのものが、上へも下へも通らぬので、唇の色も紫になっていたのが、蝶吉の手でさすられると、恩愛の情に和げられて、すやすやと寝ることが出来た。三時間ばかりつと、病苦も忘れたようになり括枕くくりまくらに胸をおさえて起上った時、蝶吉は生れて以来、しみじみ顔を見たのである。

(よく紀の国屋にていてよ。)

 と蝶吉がそう云う顔立かおだち、母親は名を絹といった。

 娘を大坂屋に預けて、その身葭町よしちょうで弘めをしてから、じみちに稼ぎ稼ぎ借金をなし崩し、およそ五年ばかりで身脱みぬけをした、その間に世話をするものがあって、自前になって御神燈を出したが、抱妓かかえの一人も置いてやろう、と言うものがあったけれども、母親はこれをおのれかんがみ、たといそうして所得が有って身代が出来た処で、けがれた金で蝶吉を救出すくいだしては、きっと末がよくあるまい。また二度のつとめをしてますます深みへ落ちようも知れず、もとより抱妓を置く金で仲之町から引取って手許てもとで稼がせるすうではなし。さればといって人の深切も、さすがに娘を落籍ひかしてくれるまでには到らなかったが、女腕で一人を過す片遑かたひま端金はしたがねを積立てても、なかなか蝶吉の体は買取られぬ。たとえばそれが出来るにせよ、母はもとより天道の大御心おおみこころにはかなわぬ生立おいたち、自分の体をにえにして、そして神仏かみほとけの手で、つまり幽冥ゆうめいの間に蝶吉の身を救ってやろう、いずれ母娘おやこが、揃って泥水稼業というは、のがれぬさきの世の因縁づく。罪滅つみほろぼしのためだと思って母親の持った亭主は──間黒源兵衛──渾名あだな狂犬やまいぬという、花川戸町の裏長屋に住む人入稼業、主に米屋の日傭取ひようとりを世話する親仁おやじ

 渡者わたりものを振廻して処々の米屋に稼がしておく、お絹はその賃銭を集めに廻った。橋場今戸の居まわりは云うに及ばず、本所、下谷、飛離れて遠くは日本橋あたりまでも、草履穿ばきかけずり歩かねばならないのみならず、煮るも、炊くも、水をむのも、雑巾がけも、かよわい人の一人手業てわざで、朝は暗い内に起きねばならず、夜になるまで、足を曳摺ひきずって、日雇ひやといの賃銭を集めて、うちに帰ると親仁の酒の酌をして、きゅうふたを取換えて、肩腰をさすって、枕に就かせて、それから、を取って、各々めいめい、二階に三人、店に五人、入交いれかわりにとまりに来る渡者の稼ぎ高に割当てて、小遣こづかいって、屋根代を入れさせる。この算用を算盤そろばんぱちぱち、五を引いて二が残り、たった三厘の相違があってもたぶさつかんで引摺倒ひきずりたおそうという因業いんごうな旦那を持ってるから、夜の更けるまで帳場に坐って、その疲れ果ててほっと一息くと綿のようになる体で、お絹は添臥そいぶしをしたのである。

 何の! 踊の稽古をしても、三味線の弟子を取っても、我身一ツは安々と世間を清く過さるるを、獄に投ぜられて苦役に就いても、さばかりにはあらずと思う、ほとんど生身を削り落すような難行をしたのは、あえて堕地獄だじごくの我身の苦患くげんたすかろうというのではない、ただひとえに蝶吉のためにしたのであったと、母親がその時の物語。


三十二


 もとより自ら進んでも、かくはなるべき運命であったろうけれども、さまでとはさすがに思い懸けなかった、積年の憂苦辛酸、一じつの安きいとまもないので、お絹は身も心も疲れ果てて、その一月ばかり前から煩い出し、床に就いて足腰の自由が利かなくなると、夫狂犬やまいぬ源兵衛は屋外にこれを追出した。それを争う力もなくて、指すかたもなく便たよったのが、この耳のうとい目腐れのばばうち、この年寄としよりは、かつて米搗こめつきとなって源兵衛が手にかかって、自然お絹の世話にもなったが、不心得な、明巣覗あきすねらいで上げられて、今苦役中なので、その以前からせがれの縁で、お絹にも厚意なさけを受けた。年寄は恩を忘れずうちへ引取って介抱をしてはいるけれども、活計たつきに窮するのはいうまでもない上に、耳が遠くッて用が足りず、水一杯といっても聞えない看護みとりけるお絹の身になったらどうであったろう、またこれを知りつつも、一晩と附切って介抱することのならなかった蝶吉の気はどんなであった? 人が神仏かみほとけうらむのは正にそういう時である。

 そちこちするうち、昼も過ぎたので、年寄はまめまめしくかたばかりの膳立ぜんだてをした、おかずがその時目刺に油揚あぶらげ

おっかさんがあぶって上げよう、)と、お絹は一世の思出おもいで知死期ちしごは不思議のいい目を見せて、たよたよとして火鉢にった。夏近いが、寒いからと、年寄はあやぶんで、背後うしろから昆布のような蒲団ふとんせようとすると、これじゃあきたならしくッて折角の馳走ちそうおいしゅうないと、取って撥退はねのけたので、蝶吉が心得て、被ていた羽織を脱いで着せた。

(じみなんですからおっかさん似合いますよ、)と嬉しそうにいう顔をながめながら、お絹は手を通しつつふり沢山な裏と表をじっと見て、

(峰ちゃん、生意気なものを着てるね、)といった。故郷ふるさとの京の色香に江戸の意気張いきばりを持って、仲之町でも、葭町でも、小さんといって、立てられた蝶吉の母は年紀としわずかに三十三、最後の大厄で、その日の晩方、男は自分で見立てろと言って遺言して、日本の男と女の中に、しかも、くるわの中に、蝶吉ばかりを残したのである。あと十日とはかないで、小石川柳町から丸山の窪地くぼちへ水が出た時、荷車が流れたのが、根太ねだつかって、床を壊すと、くだんの婆は溺れて死んだ。これも葬る者がないので、蝶吉は母が臨終に世話になったのを恩として、同じ寺に葬ったのである。

 印の墓石はいまだ立てることは出来ないけれども、出来る時だけは欠かさないで参詣さんけいする、梓がなかった以前さきは、ただその墓に取縋とりすがることばかりがこの上もないたのしみであった。

 蝶吉はその亡きお絹の引合せだと信じている梓に、いつの晩か手を開いて見せた。指の先が色に染まって、赤くなって血がにじんだようなのをあやしんで聞くと、今日お墓参りをした時濡れ手で線香を持ったといって、

わたいおっかさんと御膳を食べたのは生れてからたった一度なんですもの、)と縋り着いて泣いた。その手が冷たかったから、梓は思わず、しっかと胸に抱いたのである。

(お宗旨は何だ。)

(知りません。)

(問えばいじゃあないか。)

(だって可笑おかしいわ。)

(じゃあ何てッて拝むんだな。)

(一生懸命に南無阿弥陀仏なむあみだぶつ。)

 この女が、この体で、この姿で、ただ一人墓の前に泣くのだと思って、梓は抱いたまま放さなかった。


三十三


「よ、どうしてそれが見棄てられるものか、まだその上に蝶吉は子供の時から、うらみと、ひがみいきどおりとをもって見た世に対して、わば復讎ふくしゅう的におのれが腕で幾多遊冶郎ゆうやろうを活殺して、そのくらい、その血をむることをもって、精魂の痛苦をいやそうとしたが、あたかも母の死に逢って志を果さず、まだ一たびも男に向って、だますのなぶるのというはもとより、お世辞一ツ言わずにいた身をもって、これを梓に献じたのである。たとえば、その家はこぼたれ、その樹はられ、その海は干され、その山は崩され、その民はほふられ、そのじょかんせられた亡国の公主にして、復讎の企図をいだいて、薪胆しんたんの苦を嘗め尽したのが、はりも忘れ、意気地も棄ててかえって我にあいを請い、一片の同情を求むるのである。天下またかくのごとくあわれむべく悼むべきものはあるまい。何としてそれが見棄てられよう。蝶吉はのこりすくなになった年期に借り足して、母親を見送ってからは、世に便たよりなく、心細さのあまり、ちと棄身すてみになって、日頃から少しはけた口のますます酒量を増して、ある時も青楼ちゃやの座敷で酔った帰りに、夜更けて京町の夜露の上に寝倒れた。月がして、その肉はあおく、その骨は白く見ゆるまで、冷えて霜を浴びたようになったのを、往来ゆききの仕事師が見附けて、大坂屋へ抱え込むと、気が付いたが、急に胸前むなさき差込さしこみが来てから、持病になって、三日置ぐらいには苦悶くるしみもだえる、最後にはあまり苦痛がはげしいので、くいしばっても悲鳴がれて、畳をかいむしって転げ廻るのを、可煩うるさいと、抱主かかえぬしが手足を縛って、口に手拭てぬぐい捻込ねじこんだ上、気つけだと言って、足袋を脱がせて、足の拇指おやゆびの間へ続け様に灸を据えた。妙齢としごろになってから、火ぶくれのあとは、今も鮮明あざやかに残ってると、蝶吉は口惜しそうに、母親に甘えるごとく、肩を振って、浴衣にからんで足を揃えて、ちいさ爪尖つまさきを見せながら、目に涙をうかべたその目で、待合のふすまの紙がかにのような形に破れているのを見付けるとのばした足の拇指を曲げて、くだん破目やぶれめを、

(繕ったらさそうなものね、何だい、何だい、)と叱るようにいってえぐるのを、

(馬鹿な、)と叱りつける梓の顔、鼻をつまらせながら、涙の目で、蝶吉は嬉しそうにみつめていた。それをも梓は忘れはせぬ。そんな他愛のない、取留とりとめのない、しかも便たよりのないみなしごに、ただ一筋に便らるる、梓はどうして棄てられよう。

 蝶吉はかの時無慙むざんなる介抱をした抱主の処置にたいらかなることあたわず、おさえ切れない虫は突走つッぱしって、さてこそ天神下の口入宿へ来たのであった。柳橋か、葭町よしちょうかと行先を選んでいるうちに、内々勧めるものがあった。これは天下の秘密だけれども、髪結かみゆいが一人、お針が二人、料理人が一人、医師が一人、女を十二人選んで、世話役が三人これを頭取が率いてパリイとかシカゴとかいう処の、博覧会へ日本の女を見せにく。場所も薔薇ばらの花のさかんな中へ取って、朱塗しゅぬりらちも結ってある、日給は一日三円、十月とつきの約束でどうだという。どの道東京で死んだ処で、誰一人そうかとも言ってくれない体だからと、既に観世物みせものになる処、湯屋の前でふっと見た梓に未練が残ったので、ようようけだものたのしまれるだけ助かったのである。その話をする時も、蝶吉は坐ったまま、大手を振って、

(こうやって威張って見せてやろうと思ったのよ。)

 梓は余りのことに吹出して、

(シャモのめすはこれでございと言やあしないか、)

(まずね、)と莞爾にっこりした暢気のんきさ加減、浅はかさも程があった。

「僕が附いていない日には、お蝶、お前どんな目に逢おうも知れぬ、」と梓は息をきもあえず、

「それさえ見棄てて、別れなければならないような、おろすなどという、飛んだことをしてくれた。」と蝶吉のうなじを抱いて口移しにんで含めるように、自分の赤心まごころを語るため、今まで久しい間、時に触れ、折に当って、動かされた、至憐至愛の情の切なるを、ここに打明けて語ったのである。

 蝶吉は聞くこと半ばにして、色を変えて、心、その心を貫くごとに、ほとんど顔を見らるるに耐えざるごとく、摺抜すりぬけて駈出かけだしもしかねない様子に見え、左に、右に、そのおもてを背けたが、梓の手と、声と、ことばと、真心は、ますます力がこもったから、身も世もあらず、動きもならずいうこと、ここに到るころおいの、はては、悄然しょうぜんかしられて、かいなに落した前髪がひやりとしたので、手折たおった女郎花おみなえしはかない露を、憂き世の風が心なく、吹散ふきちらすかと、胸にこたえる。


三十四


「僕だって最初はじめからこういう間の中といっちゃあ、末始終すえしじゅうはきっとなきを見なければならないと思うから、今度こそ別れるような話にしようか、今度こそと、その度にしおれちゃあここへ来ると、何かしらお前に言われること、されることが、一々思いの増すようなことばかり。私はもう一服ずつ痺薬しびれぐすりを飲まされるようだった。

 今じゃうちにも居られなくッて、谷中に引込ひっこむようになった上は、どうせ破れかぶれだから、人が何といったって、世間も義理も構うことはない、お前とどうぞしてという覚悟をめた処へ飛んだことを聞いてしまった。

 お蝶さん、お前は訳が分らないから、何にも世の中のことは知るまいがね、およそ堕胎だたいということをした者は、これが罪とも恥とも知らないでした事にしろ、心は腐っても、人間という目鼻だけの、せめて皮でもかぶってるうちは、二人ならんじゃあ居られやしない。こう言えば水臭いと、きっと私をうらむだろうが、いつも言う通り、お前のような稼業をしている者とは、兄弟であったり従姉妹いとこであったりした上に、みんなにたんと世話にもなった。どういう因縁だか、お前にも恩をた私だから、訳は分ってる、こう見えても可愧はずかしいが、馬車に乗ったこともあるし、御前様ごぜんさま々々とかしこまられたこともあるが、おおきな声一つ出してお前にゃあ、用を言い付けたこともない。あんまり大人しくッて、頼りがないから、私は何だか物足りない、きりッとして叱ってくれ、癇癪かんしゃくを起して横顔の一ツもなぐられたいと、芸妓げいしゃのお前にいつも言われた、男が一人そのくらいにれたらかろう。故郷とは始終便たよりをして、人のおもちゃになってる女に、姉上々々と書いたから、ああこんなことをするような身分ではないと知りながら、お前の手紙が来れば、様づけにして返事を出した、何も機嫌を取った訳でもなし、取入って色男になろうと思ったのでもない。

 うわべはどうでも、理窟は知ってても、小児こどもの内からの為来しきたりで、本当ほんとに友達のようにも思い、世話になったとも思う上に、可愛い、不便ふびんだと思うから、前後あとさきも考えなかった。

 お前を立派な女だ、姫様ひいさまだ、女房おかみさんだとしんから思ってしたことだよ。僕はお世辞も何にも言わない。女は氏なくして玉の輿こしだから、どんな身分の人に姉さんといわれないとも限らぬが、そりゃ男の方から心を取って惚れさせようとか、気に入られようとかして、後じゃあ玩弄おもちゃにするためだ。

 えさをかって肥えさしてしめて食べようという、かもおんなじ訳じゃあないか。これが遊人あそびにんとか、町内の若い衆とかいうなら知らず、ちったあ身分もあるものに本当に惚れられた芸妓げいしゃといっちゃあ、まあ、お前一人だろうよ。

 それを思出おもいでにして、後生だから断念あきらめておくれ。神月は私の良人ていしゅだったと、人にいっても差支えはない。そしてうに謂われない仔細しさいがあって別れたといって御覧、お前の恥にゃあならないから、よ、わかったかい。

 いまにもう少し年紀としでも取って、ちったあ分別がついて来ると、成程無理はなかったと、自分のしたことに気が付いて私の心も知れるから、体だけ大事にして軽忽かるはずみをしないで辛抱しな。別れるといって見棄てやしない、蔭じゃあどこまでも思っている、」と神月もほろりとした。蝶吉は死んだ者のようである。


三十五


「悪いことはいわないから、その綿の入らないものを威張って着るのと、いつもいうことだけれど、これから暑くなって、氷の打欠ぶっかきをおまんまにかけて食べるのと、それから無理酒を飲むのはせ、よ、気を付けなけりゃ、お前今年は大厄だ。」

 としめやかに言ったがふと心付いて、手をゆるめた、

酔醒えいざめか。寒くはないか。」

「いいえ、」と内端うちわに小さな声で、ものを考えるがごとく蝶吉はいった。

「そうか、また冷えると悪いぜ。」

「ええ。」と仇気あどけなくかくさず、打明けてすがり着くような返事をする。梓はこの声を聞くと一入ひとしお思入って、あわれにいとおしくなるのが例で。

「体はもうすっかりいのかい、」

「ええ、」

「お前は駄々ッ子で、鼻ッ端が強くって、威勢よくあばれるけれど、その実大の弱虫なんだから心配だよ、この頃は内でねえさんと喧嘩けんかはしないか。」

「ふふ、」と泣出しそうにしながら、蝶吉は無理に片頬で微笑ほほえむ。

「やっぱり母様おっかさんの夢ばかり見てるのか。」

「ええ、」ともいわず蝶吉はおもてを背けると、御所車のすだれの青い裏に、燃立つような緋縮緬ひぢりめんを、手にからんで、引出して、目をぬぐって、

「何にも言わないで下さいな、胸が一杯になって来てよ、可笑おかしいねえ、」といって袖口をけたが、ぱっちりと目をみひらいて、梓を見まいとするかのごとく、あらぬかたみつめたけれども、

「おやおや、けないねえ。」

 また俯向うつむいて目をふさいで、

貴方あなた、手を放して下さいな、」

 声も消入るようであった。

 梓はともかくも蝶吉の心の落着いているのが知れて、いうままに手を放したが、ほとんど失心しているような女の体は、そのまま背後うしろへ倒れるだろうと思った。

 蝶吉は、かえって、ちゃんとして、膝に両手を組みながら、恍惚うっとりして梓の顔を見ていたが、細い声で、

「あなた、」

「どうしたの、」

「後生だから顔を見ないで下さいな。」

 梓は思わずおもてを背けた、火鉢の火は消えかかって籠洋燈かごランプの光も暗い、と見るとせたすすきと、しおれた女郎花おみなえしと、桔梗ききょうとが咲乱れて、黒雲空に、月は傾いて照らさんとも見えず、あわれに描いた秋草の二枚折の屏風びょうぶが立っているのが、薄暗いあかりで、幻のようで、もの寂しい。

わたい泣くんだから、あっちを向いてもくッて?」

 梓はつむりから寒くなったが、俯向いてうなずくと、蝶吉はむこうむきになって屏風に影が映った、その胸をしっかり抱いた。

 着物のふりが両方から、はらりと迫って、身も痩せた。細々とした指のさきが、肩から見えて、つぶし島田の乱れかかったのを、ふらふらとさしてじっとしていたが、折れたように身を倒す、姿はしぼんだごとくになり、声を殺してわっと泣いた。梓もたまらず、背向そがいになった。二人の茫然ぼんやりした薄い姿は、くだんの秋草の中へ入って、風もないのに動いたと見ると、一人は畳へ、一人は壁へ、座敷の影が別れたのである。



半札の円輔


三十六


「さて早や、」と云う懸声かけごえで大和家の格子戸を開けて入る、三遊派の落語家はなしか円輔えんすけとて、都合に依れば座敷で真を切り、都合に依れば寄席よせで真を打つ好男子。但しこの男が真の時は必ず御定連へ半札はんふだを出す例であるから、通称は半札の円公。鈴本がねてあいにく繰込のお供もつかまつらず、御酒頂戴ちょうだいも致されず、うちへ帰っていもとじゃ間に合ずというので、近所だから大和家へ寄ることちょいちょい。さてはや半札の円公は、御神燈の下から、まず御馴染おなじみ顔色がんしょくを御覧に入れますると、

「よう!」と長火鉢の前から奇な声を発して応じたものあり。内のねえさんか、あらず、やといの婆さんか、あらず、お茶をいてる抱妓かかえか、あらず、猫か、あらず。あらず。あらず。湯島天神中坂下なかざかしたの松のすしせがれ源ちゃんである。この男銭を遣わずに女の子と遊ぶのをもって、通と悟ったからたまらない。数寄屋町の御神燈の下をくぐる事、毎夜あたかもつばめのごとしで、殊にこの大和家には、蝶吉という、野郎首ッたけの女が居るから、その取入ること一通ひととおりではなく、余所よその障子を張ってやりの筆法で芸妓げいしゃ用達ようたしから傭婆やといばば手助てだすけまでする上に、ひまな時は長火鉢の前で飼猫の毛をいている。運がいと、雛妓おしゃくの袖を引張ひっぱることも出来るし、女中のしりを叩くことも出来るのが役得。蝶吉に肱鉄砲ひじを食ッて、鳶頭かしらに懐中の駒下駄を焼かれた上、人のこどもを食おうとする、獅子身中の虫だとあって、内の姉御あねごに御勘気をこうむったのを、平蜘蛛ひらぐもわびを入れて、以来きっと心得まするで、何卒なにとぞ相変りませず、今夜も来ている。

 あいにく抱妓かかえどもは皆出を勤めてらず、女中はせわしいし、姉御は用達にお出懸けなり、火鉢の灰は綺麗だし、す後から鉄瓶の湯は煮立つので、色男あまりの所作なさに、猫をでたり、さすったり、どうしたなどと、言って見たり、耳を引張ひっぱったり、ひげの数を数えたり、様々に扱うと、畜生とて黙っておらず、ニャアと一声身顫みぶるいをして駈出かけだそうとするのを、逃がしてなろか、と引抱ひっかかえて、首環くびだまかじり着いて、頬杖して、ふと思い着いて、「恩愛雪の乳貰ちもらい」という気取きどり、わざと浮かぬつらをしている処へ、くだんの半札がさて早であった。

「師匠上りたまえ。ようこそ、」と諸事内の人で挨拶する。

 ぐッと呑込のみこんで、円輔はあたりをみまわし、

「へへえ、成程なる、あいにく出懸けまして御愛想もございませんがね、どこへ、姐さんは。」

「また、これだそうさ、」といってくぼんだ顔の真中まんなかゆびさしをした、近眼鏡の輪を真直まっすぐに切って、指が一本。何と気を変えたか、宗匠、今夜は大いにいなって、印半纏しるしばんてんに三尺帯、但し繻珍しゅちん莨入たばこいれ象牙ぞうげの筒で、内々そのお人品ひとがらな処を見せてござる。

 円輔は細長い膝を小紋縮緬こもんちりめんうすっぺらな二枚襲にまいがさねの上から、てのひらでずらりと膝頭ひざがしらさすり落すこと三度にして、がッくりと俯向うつむき、

「さてはや。」


三十七


「どうしました、大分落胆の気味だね、新情婦しんいろも出来ませんか。」と源次郎は三味線のかかった柱にもたれて澄ましている。

 円輔はまた耳朶みみたぶへ掛けて頬辺ほっぺたき上げて、

「いや、まず、はははは、時に何は、君の落ッこちはどうしたんでげす、お座敷かね。」

「何ちっと、遠方だそうです。」

「ははあ、遠出でげすかい、なにかに就けてさぞ気がめるこってえしょう、よ、色男。」とうわッ調子でしりをぐいと突くと、尋常に股をすぼめて、

せッてえに、これ、つまらないことを、何だ。こう見えても苦労があるんだから、ねえ、おい。」と甘ッたるい。

「よ、苦労!」

 と仰々しく手をいて、ぐッと反って、

「来ましたね、隊長、恐入おそれいったね、どうも。苦労と来たね、畜生、おごりたまえ、奢りたまえ。」

「いずれ帰ったら奢らせることに致しましょうよ。」と北叟笑ほくそえみをする。

「これは!」

「いや、師匠、串戯じょうだんは止してさ、蝶吉が帰りさえすりゃ、是非その御一統が一杯ありつこうという寸法があるんでさ。ごくごく吝嗇けちに行った処で、うなぎか鳥ね、中な処が岡政で小ざっぱり、但しぐっと発奮はずんで伊予紋となろうも知れず、わっしゃ鮨屋だ! 甘いものは本人が行けず、いずれそこいらだ、まあ、待っていたまえ。」

たしかに、」

「ええ、しっかりだ。」

えらい!」と大声を張上げて、ぴたりと、天窓あたまを下げたが、ちゃんときまって、

「さてどっちです、こうなると待遠しい。」

「八丁堀だそうだ。」

「成程御遠方だ。幾時頃から、」

一昨日おとといの晩からきッ切り、おなじく、」と鼻を指して、「ね、さっき使つかいが来て、今夜は遅くとも帰るッていうんだ、ねえ、ますどん。」

 勝手から女中の声で、

「はあ、」

「ねえ、おい、ふうちゃん。」

 次の部屋の真中まんなかで、盆に向って、飯鉢おはちと茶の土瓶を引寄せて、此方こなたあかりを頼りにして、幼子おさなごが独り飯食う秋の暮、という形で、っ込んでいた、あわれ雛妓おしゃくが、

「ええ、」と答えてがッくりと飲む。

たしかかい。」

「きっとでございますって。」

「占めた!」という時からからと戸がいた。

 円輔は振返って、

「や、御帰館!」とわめいて、座を開いて、くるりと向く。

 源次はぬうと首を伸ばして、

「誰だい、」

「蝶吉姐さんだよ、誰だたあ何のこッた。」

「そう、」といって源次は猫を落して坐り直った。

 蝶吉は何か悄然しょんぼりとして帰って来たが、髪も乱れて、顔の色も茫然ぼんやりしている。前垂懸まえだれがけ繻子しゅすの帯、唐桟とうざん半纏はんてんを着た平生ふだん服装なりで、引詰ひッつめた銀杏返いちょうがえし年紀としも老けて見え、頬もせて見えたが、もの淋しそうに入って脇目もらず、あたりの人には目も懸けないで、二階へすましてあがろうとするのを、円輔がみつめて、ちっと当ての違ったという形で、変に生真面目きまじめに、

「お帰んなさい。」

唯今ただいま、」と言ったばかり、つんとしてトン、トン、トン。


三十八


「御機嫌麗わしからずじゃあないか。顔色が可恐おそろしく悪いぜ、花札ふだが走ったと見える、御馳走ごちそうはお流れか、」と円輔はてかてかした額を撫でた。

「いえ、師匠、御馳走はその勝負にゃあ寄らないんだ。但し御機嫌の悪いのはこの節しょっちゅうさ、心太ところてんの拍子木じゃあないが、からぶりぶりしてらあな。」

「やっぱり……。」と押えて、それか、と呑み込んだようにいうと、源次は黙ってうなずく。

 声を低うして、

「何でげすかい、あの神月とやらいう先生に一件が知れて、先方むこうから突出したというのは本当なんで?」

「ああ、」と何だか聴きたくもなさそうに、源次郎は乗らない返事。

「成程ならべて置けばひな一対というのだが、身分には段があるね。学士とやあお前さん、大したもんでげしょう。その上に華族の婿様だというじゃあありませんか、幾ら若い同志でれ合ったって、お前さん、その身分で芸妓げいしゃかかり合って屋敷も出たッてえから、世の中にゃべら棒もあったもんだ。それだから円輔も大学へ入る処をさらりとして、落語家はなしかとなったような訳だと、思ったんでげすが、いや、世の中へ顔出しも出来なくなった処で、子をおろしたと聞いて、すっぱり縁を切ったなあさすがにえらいや、へん、猪口ちょこの受取りようを知らねえような二才でも、学問をしたやつかなめが利かあ、大したもんだね、して見ると蝶さんが惚れたのも男振おとこぶりばかりじゃあないと見える、よりが戻りそうでもありませんかい。」

「どうして、ちっとでも脈がある内にふさぐような女じゃあないんだ、きゃッきゃッて騒があね。」

「成程、して見るとこちとら一味徒党。色情事いろごとはらむなあ野暮の骨頂だ、ぽてと来るとお座がさめる、ひきがえるの食傷じゃあねえが、お産の時ははらわたがぶらさがりまさ、口でいってさえいきでねえね、芸妓げいしゃが孕んでいものか悪いものか、まず音羽屋おとわやに聞いてもらいたいなんてッて、あのが、他愛のない処へ付け込んで、おひゃり上げて、一服承知させた連中、残らず、こりゃうらまれそうなこッてげす。何を目当あてに、御馳走なんぞ、へん下らない。」

 と円輔はまた落胆がっかり、源次は落着きすまして、

「師匠心配したもうなッてえのに、疑り深いな。」

「だってあの御気色みけしき御覧ごろうじろ、きっとあれだ、ちげえねえね、八丁堀で花札ふだが走った上に、怨み重なる支那チャンチャンと来ちゃあ、こりゃおごられッこなし。」

「勿論僕の、その御相伴なんだよ。」

「へ、君だってあんまり、奢られる風じゃありますまいぜ。」

「ずッと有る、有るね、そこあはばかりながら源ちゃん方寸にありさ。」

「じゃあ一番ひとつお手形を頂きたいね。」と円輔は詰寄った。

「手形よろしい。当てが違えば、師匠、どうだ、これを献上は。へへ、つまらねえもんだけれど。」

 と少し見せたくもあってくだん莨入たばこいれを抜く。円輔は打返してひねくッて、

まかり間違えば、手前にこのお腰のもの、ちょいと武士に二言はなしかね。」

「いや、江戸ッだ。」と誰かの声色こわいろで、判然きっぱりとなる。

「豪い?」と大声で、ぴたりとお辞儀をした、円輔は驚いて顔を上げる。

 二階から蝶吉の声で、

ふうちゃん! 富ちゃん。」



犬張子


三十九


「はァい。」と引張ひっぱって返事をして、雛妓おしゃくぜんらして立ち、段階子だんばしごの下で顔を傾けて、可愛らしく、

「何、ねえさん。」

「あのね、わたいは今夜塩梅あんばいが悪いから、どこからかかって来てもお座敷はみんな断って下さいな、そして姐さんがお帰りだったら済みませんがお先へふせりましたッてね。」

「はい。」

いかい。」

 蝶吉は、帰るとその時まで何をするともなく可厭いやな心持で、箪笥たんすの前にぼんやり立っていたのであった。

 雛妓に言付けて、座敷をななめに切って、上口あがりくちから箪笥の前へ引返ひっかえすと、一番目の抽斗ひきだしが半ばいていた。蝶吉はつッと立って、

「おやおや、わたいが開けたのか知ら、」

 と思い寄らずつぶやいた。抽斗には、神月の写真をいつも立て掛けておくのである。

 ふッつり切られてしまってからは、人は見なくッても、神月は知らないことでも、蝶吉は何となく、その写真を見ることさえ、我身でままならぬようではかないので、あえて、今はあだなれと、しのおもいの増すのが辛さに、おもかげを見まいとするのでない、身に過失あやまちがあって、縁切ったと言われた人の、たといその姿でも、見てはならないようにされたごとく感じている。

 抽斗の縁に手を掛けて、猶予ためらいながら、伸上るようにしてこわいもののように差覗さしのぞこうとして目をふさいだ。がッくり支えるように抽斗を差し懸けて、ああこの写真から下げて来ちゃおいしいものを食べたっけと、たまらなくなって、此方こなたを向くと、背中でとんとしまッた途端に、魂を抜去られたか、我にもあらず、両手で顔を隠して、俯向うつむいて、そのまま泣いていた。

 しばらくして、蘇生よみがえったもののように、顔を上げる。

 むこうの隅に、ひな屏風びょうぶの、小さな二枚折の蔭から、友染の掻巻かいまきすそれて、ともしびに風も当たらず寂莫せきばくとしてもの寂しく華美はでな死体がているのは、蝶吉がかしずく人形である。掻巻はいつも神月と添寝した五所車ごしょぐるまを染めた長襦袢ながじゅばんったのに、紅絹もみの裏を附けて、藤色縮緬ちりめん裾廻すそまわし、綿も新しいのをふッかりと入れて、天鵝絨びろうどの襟を掛けて、黄八丈の蒲団ふとんを二枚。畳を六ツに仕切ったほどの処へ、その屏風、その枕、小さく揃えて寝かした上の、天井には犬張子いぬはりこの、見事大きなのが四足よつあしをぶら下げて動きもせず、一体りッ放しのおきゃんで、自転車に乗りたがっても、人形などは持ってもみようと思わないたちであったのが、おろしたために神月との縁が切れて、因果を含められた時始めて罪を知って、言われたことを得心してから、縁なればこそ折角腹に宿ったものを、やみから闇へ遣った児に、やがて追い着いて手を引くまで、わびをする気でこうしている。あたかもきたるものを愛するごとく、起きると着物を着更きかえさせる。抱いて風車かざぐるまを見せるやら、懐中ふところへ入れて小さな乳を押付おッつけるやら、枕をならべて寝てみるやら、余所目よそめにはまるで狂気きちがい


四十


「ああ、天窓あたまが重い、胸が痛い、体中がふらふらする、もう寝ようや、」

 蝶吉は枕をならべて、着たまま横になってすそを伸ばして、爪先つまさきくるんだが、玉のようなかいなを人形の掻巻かいまきの上へ投げ掛けて、ぴったり寄って頬を差寄せ、

「坊や、ちょいと、どうしたの、おっかちゃんはけなくッてよ、すっかりお花を引いて負けて来たわ。二晩ちっとも寝ないんだもの、天窓が割れるようなの、悪いわねえ、穴蔵ン中でお前、六人一座でさ、あかりけ通しだし、息が苦しくなると、そこらへ酢を打つのよ。わたいはもう死ぬようだ。お前のおとっちゃんに叱られてから、お花なんざ引くまいと思って、水もわかしたんでなくッちゃ飲まないでいたけれども、おっかちゃんはおいとまが出たんですもの、体を大事にしたってつまらなくなってよ。だから、最初はじめッから、お前さんに棄てられると、わたいはどうなるか知れないッて、始終いっていたのにさ、打遣うちやってしまってさ、そして軽忽かるはずみなことをするなッて言ってくれたってわたいは知りません。天窓へぴんと来るような五円花でも引かなくッちゃあ、自分で生きてるのか何だか分らないもの。

 だけどもねえ、身でも投げて死んじまうと、さも面当つらあてにしたようで、どんなに心配を懸けるか知れないし、愛想を尽かされると、死んでからも添われないと悪いから。何もわたいいやなんじゃない、世間の義理だからって言うんだけれども、何だか自分勝手のようだわねえ。

 どうせ早く死にたいんだから、何だって、構やしない。坊や、お前でも生きてるならいけれど、目ばッかりぱちぱちしていて、何にも言わないんだもの、張合はりあいも何にもありやしない。わたいも死んじまったら、死んだものと、死んだものとだから、お前も口を利くだろう。少しも分らないでした事だから、堪忍することはするッて、おとっちゃんもそうお言いだから、坊や、お前もひどいことをされて、鬼ともじゃとも思ってようけれど、堪忍して、かあちゃんと言って頂戴な。」

 と摺着すりついたが、がッくり仰向あおむき、薄い燈火ともしびに手をかざして見た。

「おやおや、せたわねえ。徹夜よどおしをして、湯にも何にも入らないから、黒くなったよ、段々痩せて消えれば可いな。」

 と袖口をつかんで肩のあたりまで、で下げると、上へ伸ばしていた着物は飜って、二の腕もあらわになった。柔肌やわはだに食い入るばかり、金金具かなぐで留めた天鵝絨びろうど腕守うでまもり、内証で神月の頭字かしらじ一字、神というのが彫ってある。

 蝶吉はすずしい目をぱっちりとみはって、恍惚うっとりとなったが、枕を上げると突然いきなり忘れたように食い付いた。腕守をんで、かしらを振って、髪をゆすぶり、

「厭よ、わたい厭よ、別れるのは厭、厭! 厭だ、厭だ、別れるのは厭。」と、泣吃逆ないじゃくりをして、身をふるわし、

「写真くらい見たって、可いじゃないかね、けないかい、ええ、構うもんか。わたいはもう、」

 むッくり起上ろうとすると、茫然ぼんやり犬張子が目に着いた。

「はッ、」という溜息ためいきで、またばったり枕に就いたが、舌打をして、

「寝ッちまえ!」

 とすがり寄り、

わたいも端の方へ入ってよ、坊や、さあ、お乳。」

 といって、見得もなく、懐を掻開かいあけて、ふッくり白いのを持ち添えて、と見ると、人形の顔はふッと消えて無かったのである。



胸騒


四十一


「おや、おかしいねえ、」と吃驚びっくりしてきっとなったが、蝶吉は出がけに人形の顔を掻巻かいまきの襟で隠しておいたのに気が付いた。

「まあ、さっきから顔が見えたようだっけ、それじゃあ、おもかげだったかしら。」

 思わず悚然ぞっとして、あたりを見たが、莞爾にっこりして、

「ちょいと、ていると思うもんだから、お前は生意気だね。」といって掻巻の上を軽く叩くと、ふわりと手が沈んでこたえがない。

「あれ、」とばかりで、考えたが、そッと襟を取って、恐々こわごわ掻巻を上げて見ると、牡丹ぼたんのように裏が返った、敷蒲団しきぶとんとの間には、紙一枚も無いのである。

 蝶吉は我知らず、

ふうちゃん、」と声を立てて、真直まっすぐに跳起きた。

「はてな、」机にりかかった胸を正しく、読んでた雨月物語から目を放して、座の一方を見たのは、谷中瑞林寺ずいりんじの一間にぐうする、学士神月梓である。

 衣帯正しく端然として膝に手をいてじっともの思いに沈んだが、かりものの経机をそばに引着けてある上から、そのむかしなにがし殿でんの庭にあった梅の古木で刻んだという、かれ愛玩あいがん香合こうごうを取って、一捻いちねんして、

「こんなこッちゃあかん。」と自からたしなめるがごとくつぶやいて、洋燈ランプを見て、再び机に向った時、が広いので灯も届かず、薄暗い古襖ふるぶすまの外にしわぶく声して、

「先生、御勉強じゃな、」といいながら静かに入ったのは、院の住職律師雲岳うんがくである。

 学士の前に一揖いちゆうして、

「お邪魔を。実はまた一石願おうかと思って、参ったがな、御音読中でござったで、暫時ざんじあれへ控えておりました。何を御覧なさるか、結構なことじゃ。襖越ではござるし、途切れ途切れで文章はよく聞取りませぬが、不思議に先生、今夜の貴方あなたの御声というものは、実に白蓮びゃくれんの花に露がまろぶというのか、こうその渓川たにがわの水へ月が、映ると申そうか、いかにもたとえようのない、清い、澄んだ、冴々さえざえした、そういたして何か聞いている者までが、引入れられますような、心細いなさけないといったように、自然とうら悲しくなりましたが、一体お読みなされたのは。」と思入った風情である。

 梓はト胸を突いた様子で、

「希代なことがあるんですよ、お上人しょうにん、読んでいましたのは御存じの雨月なんですが、私もなぜか自分の声に聞きれるほど、時々ぞッぞッとしちゃあその度に美しい冷い水を一雫ひとしずくずつ飲むようで、が涼しいんです。近頃はどういうものか、ものを言うにさえ、唾がねばって、舌がぬめぬめして心地の悪さといったらなかったんですが、まあ、体が半分水になって、それが解けてくようで、月の雫で洗ったようです。それでいてさわやかない心持かと思うと、そうじゃない、ここン処が。」といいかけて、梓はうら寒げに、冷たいきぬの上から胸をおさえた、人にも逢わず引籠ひきこもって、二月あまり、色はますます白く、目はますます涼しく、唇の色はいやが上に赤く、髪はやや延びたが、つやを増して、品やせぎすな俤は、見るとものすごいほどである。

胸騒むなさわぎッていうんでしょう。」




四十二


「痛いのかと思うとそうでもなしに、むずがゆい、たよりない、ものでおさえつけると動気どうきおどようで切なくッてけません。じっとしていれば倒れそうになるんですもの、それを紛らそうといつになく、声を出して読み出したんですが、自分ですごくなるように、仰有おっしゃれば成程い声というんでしょうか。」

「なかなか、幽冥ゆうめいに通じて、餓鬼畜生まで耳を傾けて微妙の音楽を聞くという音調だ、妙なことがあるものでございますな、そして、やはりお心持は。」

憑物つきものでも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」とかすかにえみを含んで、神月は可愧はずかしげに上人が白きひげあるなつめのごときおもてを見た。

「どうしても思い切れなかったんです、実は……。」

 ここに梓が待人まちびと辻占つじうら、畳算、夢のうらないなどいう迷信のさかんな人の中に生れもし育ちもし、且つ教えられもしたことをあらかじめ断っておかねばならぬ。

 はじめ蝶吉と歌枕で逢曳あいびきの重なる時分、神月は玉司子爵の婿君であったから、一擲いってき千金はそのかたしとせざる処、蝶吉が身を苦界から救うのはあえて困難な事ではなかった。

 もっともひとと違い、神月は、おのれが既往の経歴に徴して、花街にあるものの、かえって、実があって、深切で、情を解して、殊に一種任侠にんきょうの気を帯びていることを知ってはいたが、さすがに清い、美しい体のものだとは思わない。そのほとんど、たなそこにも、額にも、悪汗わるあせ一ツいたことのない、黒子ほくろも擦傷のあともない、玉のごとき身を投じて、これが歌枕の一室に、蝶吉とふすまを同じゅうする時は、さばかり愛憐の情は燃えながら、火中一条の冷竜あって身を守り、婀娜窈窕あだようちょうたる佳人にも梓の肌をけがさしめず、幾分の間隙を枕のなかに置いたのであるが、一朝あるあさ、蝶吉はふッと目を覚して、うつつの梓を揺起して、吃驚びっくりしたようにあたりを見ながら、夢に、菖蒲あやめの花を三本、つぼみなるを手に提げて、暗い処に立ってると、あかるくなって、太陽した。黄金のようなその光線ひかりを浴びると、見る見る三輪ともぱっと咲いた、なぜでしょう、といって、仇気あどけなく聞かれた。梓はあたかも悪夢に襲われて、幻の苦患くげんめていた、冷汗もまだとまらなかったくらいの処へ、この夢を話されて、おもてを赤うするまで心に恥じた、あわれ泥中のこの白きはちすに比して、我が心かえってけがれたりと、学士はしみじみ蝶吉の清い心を知った。

 その時と、いま一度は、蝶吉がしかるべき軍人の一座の客に呼ばれたが、言うことがしゃくに障った上に、酔って懐の玉を探ろうとしたので、癇癪かんしゃくを起してその横顔よこッつらを平手でなぐると、虎髯とらひげさかさにして張飛ちょうひのように腹を立て、ひいひい泣入る横腹をつけたばかりでは合点せず、その日の主人役が客にすまずとあって、しんだもののようになってるのを引起し、二人両手を取って、小刀ナイフで前髪を切って、座敷をつッ立った。居合した朋輩も、女中も、駈上かけあがった若い者も、ふるえるばかりで、とりおさえ手もなかったといって、梓に顫着ふるいついて口惜くやしがった時には、たまらずその場から車に乗せて、これをわがそのへ移し植えようと思ったのである。


四十三


 もとよりその時には限らない、女は迷惑を懸けようとはしないで、一生芸妓げいしゃをしているから、変らず見棄てないでさえくれればいというのだけれども、いうがごとく、聞くがごとく、はたそれ見るがごとき気性の女、梓は心の動くごとにつとめ落籍ひかそうと思わぬことはなかったが、かれが感情の上に、先天的一種の迷信を持ってるというはここのこと。

 一体、天神様の境内で、恩を謝す心を決して以来、その機会がなかった処、翌年一月、伊予紋で、大学出の人の新年会があった。一座のうちに蝶吉が居た。また一座のうちに、下宿の二階に住んで六畳の半ばをおおう白熊の毛皮を敷いて、ぞろりと着流して坐りながら、下谷の地を操縦する、神機軍師朱武しゅぶあって、とくより秘計をめぐらし、兵を伏せて置いたれば、酒半ばにしてどっ矢叫やさけびの声を立てて、突然いきなり梓の黒斜子くろななこに五ツ紋の羽織を奪って、これを蝶吉の肩にせた。嬉しい! と手を通して三枚襲さんまいがさねの上へ羽織るとひとしく引緊ひきしめて、すそを引いたまますッと出て座敷を消えると、色男梓君のために、健康を祝してビールの満を引くものすうをしらず。梓は丸腰の着流し、あたかもおやかた法度はっとを犯して裏庭から御台みだいのおなさけで落ちてくように、腕車くるまで歌枕に送られたが、後を知らず、顔色も悪く未明に起きると、帯を取って、小取廻ことりまわしさきを渡して、本式に畳んで置いたはかまの腰板を取ってあてがい、着たまま枕頭まくらもとに坐って介抱していた蝶吉がくだんの羽織をおしそうに脱いで被せた。人肌のぬくみも去らず、身に染みた移香うつりがをそのまま、梓はやしきに帰って、ずッと通ると、居間の中には女まじりにわやわや人声。明けて入るのを、小間使こまづかいが、あれといって、手を突く間もなく、一人が背後うしろからぴッたり閉めた。雨戸は半開はんびらきのまま、朝がけのいくさ狼狽うろたえたような形。はたきを持つやら、ほうきやら、団扇うちわかざしているものやら、どこにすきがあって立ち込んだか、うぐいすがお居間の中に、あれあれという。鴨居かもいから飛んで、到来ものを飾った雪の積ったような満開の梅の盆栽の枝にとまったのを、逃がすなと箒を突出すから、梓は引留めながら件の羽織を脱いで、はらりと投げたのが、中に鶯を包んで落ちた。

 手を入れて労り取って、二十四の梓は嬉しそうに、縁側を伝って夫人竜子の寝室ねやって、寝台ねだいの枕頭に押着おッつけて、呼起して、黄鳥うぐいすを手柄そうに見せると、冷やかに一目見たばかり。

(私はまだ起きる時間ではございません。)と背後うしろも向かず自若として目をねむった。その時も梓は顔の色を変えたのであるが、争うこともせず。

(失礼、)といってずッと出て、廊下に立ちながらかごを命じ、持って来るを、手では、と懐に入れながら、見霽みはらしの湯島の空を眺めている内、いかなる名鳥か嚶々おうおうとして、三たび、梓の胸に鳴いたのである。

 が、籠が来て懐から出そうとすると、羽ばたきもしないので、早やれたかと思うと、あわれ、翼をちぢめて目を落していたのである。蒔絵まきえの鳥籠に、くだんの盆栽の梅を添えて、わざわざ葬らせに使つかいを出した。以来心にかかって、蝶吉を落籍ひかそうと思うたびに、さることはあらじと知りながら、幼い時からの感情で、羽織の同一おんなじのが兆をなして、恐らく、我が手に彼を救うてこれを掌中の玉とせんか、時をかず砕けるのである。日もあらず煩いでもするのであろう、むしろ、生命いのちが長くあるまい、と思う念に制せられて、その寿ことぶきを欲するために、常に躊躇ちゅうちょしていたのであったが。


四十四


「……一旦いったん縁を切ってしまった上では、私が心持にも、また世間の義理にも、やましいことはないんですから、それが未練というんでしょう。そのうち玉司へ行って、表向おもてむき縁を切りかたがた、あの男は手切てぎれを取ると言われても構わない。芸妓げいしゃ落籍ひかせると隠さずにいって、金子かねを取って、それで、勿論二度とかかりあいはしないつもりじゃありますがね、苦界だけは救って素人にしてやろうと、お上人、可愧はずかしいんですが言います。実はそれを心たのしみにして、幾分かまだまるッきり離れてしまわないような気で、当分逢わないだけだというような心持でおったんです。

 先刻さっき私を尋ねて来た、品のい老女があったでしょう。彼は玉司に昔から勤めているとりしまりで、何十年にも奥からは出た事がない、まだ鉄道はどんなものだか知らない女で、竜子の乳母なんですが、実はその用で参ったんで、私にまた帰れっていいます。それとはあんな御気性だから、怪我けがにも仰有おっしゃりはしないけれども、何をいったって、初めて男を知ったお姫様だ。貴方あなたが内を出てからは、鬱々うつうつとして人にもお逢いなさらない。

 医者は神経衰弱だというそうですが、不眠性にかかって、三日も四日も、七日なぬかばかり一目もおやすみなさらない事がある。悩みが一通ひととおりじゃない。この間もうとうとしかけた処へ、縁側を通った腰元が跫音あしおとたてて、それがために目が覚めたといって腹を立って、小刀ナイフを投付けて、もうちっとで腰元の胸を突こうとしました。

 この頃じゃ、まるで一室ひとまの外へも出て来ないような始末。見かけはどんなでもよくよく心を知ってるのは、乳母だから、私に帰れ。

 承れば大分御謹慎で、すっかりお品行みもちも治ったそうだって、そういうことでございました。

 随分片意地な老女が、を折っていましたから嘘じゃあありますまい。

 成程それではあんな夫人ひとでも私をそれまでに思ってくれるのがわかりましたが、こうなった上のこと。

 謹慎をしているのは、あえて辛抱を見せて、玉司の家に帰りたいためではないから、断然、これッきりだと思ってくれ、私の引籠ひきこもって身を責めているのは、ただ先祖に対して済まないと思うからだ。

 ときっぱりいって帰しましたよ。」

「ふう、」と上人はうなずいて、じっと考え、

「いや、段々お心が静まって来て、い御返事をなされた、結構じゃ。」といいかけて、梓のもの寂しげなる顔を見て、

「それでさっぱりとなされたかな。」

「ええ、さっぱりしたそのせいだろうと思うんです。まだ、金のつるがあって、一式のことに落籍ひかして素人にしてやろうと、内々思ってました内は、何かしら心の底にあったまりがあったのを、断然、使つかいを帰した上、夫人の心も知れて見れば、いかに棄身すてみになった処で、無心などいえたものじゃあない。そうすりゃお蝶の方も、もうあれッきり、ふッつり切れた、私はこう孤島はなれじまに独り残されたようで心細い、胸騒むなさわぎのするのはそのために違いないんです、お可愧はずかしいね、」といった清らかなる学士の笑顔はうら寂しい。

「ははあ、いや、お若いうちまた余り悟りすまさないのもよろしかろう。たんと迷わっしゃるも面白い。」とこの人こそ悟り切ったらしいことをいって、呵々からからと笑って、きがけに大音で、「誰ぞ先生に茶を上げい。」

 梓はまた机に向ったが、木の角では、心のおどるのが押え切れず、胸騒がする、気がふさぐ、もう引入れられそうでこたえられなくなって、こうかおりに染みた不断着をそのまま、かかる時、梓がくのは必ず湯島。



白木の箱


四十五


ふうちゃん、ちょいと、富ちゃん、わたいの人形を知らなくッて、」

 あたふた狼狽うろたえたようなものの気勢けはい癇癪交かんしゃくまじりに呼んだのは蝶吉である。

「一件だ、」と、これを聞いてかねて心得たもののごとく、源次はかたわらに目配せした。

「来ましたね。」と低声こごえでいって、訳もなく天窓あたまを叩いてすくんだが、円輔は、えへん! 声繕こわづくろいをして二階に向い、

「お蝶さん、何ですか、人形。人形どころかい、そこどころじゃあない、大変なことがありますぜ、ちょいと大したこッた、えらいこッたよ。」

「何、」と切って棄てたような、つッけんどんなもの言いである。

「まあさ、ちょいとおいでなさいていこッた、こッたのしょうなら下まで来いだよ。」

「富ちゃん、富ちゃんてば。」

 蝶吉は取合ずに、雛妓おしゃくばかり呼立てる。

「まあおいでなさいっていうのに、何ですぜ、ちょいと、大変なこった、お蝶さん、神月の旦那から、」

「ええ、」

「それ見ねえ、」と源次がちょいと突いて、にやりと笑うと、円輔は大乗地おおのりじで、

「旦那から、もし小包郵便が来たんですぜ。」

「ええ。」

「神月さんからお届けものだ。」と源次もそばから口を添える。

「知りませんよ。」と邪険には言ったけれども、そのうちおのずかやわらぎのある、音色ねいろを下で聞澄ききすまして、

「御存じのはずですが、神月さんといやあお前さん、」

いよ。」

よろしくばおめになさいまし。」と大いに澄し、顔を見合せてだんまりとなった。

「富ちゃん、」

「そら、また富ちゃんだ。」といって円輔は、敷居の処まで来て立っている雛妓を見てきっと目で知らせた。

わたいは知らないの。」

 しばらくして、声も優しく、

「いいえ、小包さあ、」

「本当だってば、何を疑るんだな。」と源次は大真面目でいる。

「嘘ばッかり、」といいながら、ちょいとためらった様子であったが、階子段はしごだんがトンと鳴った。

 下から仰山に遮って、

「ちょいとお待ちなさい、お蝶さん、請取うけとりがいりますぜ、いらっしゃるなら、どうぞ、御懐中物を御持参で、」

「宜しい、」と男らしく派手にさわやかにいった。これを機掛きっかけに、蝶吉は人形と添寝をして少し取乱したまま、しどけなく、乱調子に三階から下りて来て、突然いきなり

「どこにさ、」と嬰児あかんぼ強請ねだるようにいいながら、人前を澄した顔。

「気がはやいな、どうも、師匠出してやりたまえ。」

「まずお受取を頂戴いたしたいような訳で。」

「すッかり負けて来たんですからたんとはなくッてよ。」

「豪い!」といいさま、小紋縮緬こもんちりめんで裏が緞子どんすおなじく薄ッぺらな羽織をひらりとねて、お納戸地の帯にぐいとさした扇子を抜いて、とんと置くと、ずっと寄って、紙幣を請取り、

「何にいたしましょうな。」

 源次は取片附けて、

「まあ、師匠。」

「じゃあちょいと升どん。」

 勝手から、

御馳走様ごちそうさまですね。」


四十六


「さてはや、何でげすえ御到来物は。」と円輔は洋燈ランプの方へ顔を突出し、源次は柱に天窓あたまを着けて片陰で仰向あおむいた、この両人、胴中どうなかを入違いに、長火鉢の前で形がエッキス

「どうもお相伴を難有ありがとうございますよ。」とむこうへ坐ったのは、遣手やりてが老いたりという面構つらがまえ目肉めじしが落ちたのに美しく歯を染めている、胡麻塩天窓ごましおあたま、これが秘薬の服方のみかた煎法せんぽう堕胎おろした後始末、体の養生まで一切取計とりはからった、口の臭い、お倉というばばである。

 蝶吉は、たしかに小包を請取ったので、かくとは思い懸けず、慎みながら、若いから、今も今で、かねていいつけられてたしなんだ、花札はなを引いて、気の衰えるまで負けて帰ったので、済まなさも済まないし、嬉しさも嬉しければ、包んでも色に出るきまりの悪さ。震える手であかるい処へ持出して、顔を見られまいと、傍目わきめらず、血の上った耳朶みみたぶあこうして、可愛らしくかしこまって、右見左見とみこうみ

「おやおや、大倭やまとや家内松山峰子様行と書いてあるねえ。」

「峰子様、よッ。」と懸声かけごえをするは円輔なり。

くッてよ、」と可愧はずかしそうに、打返してまた裏を見た。

「神月より、……おや、平時いつもの字と違ってやしなくッて?……何だか手が違ってるようだねえ。」

 あえて疑うというではないが、まさかと思う心から人にも、確めてもらいたいので、わざと不審いぶかしげにつぶやいた。

「わざッと手を替えてお書きなさいましたあね、そりゃ、お前さん。」と婆々は極めて鹿爪しかつめらしい。

「そうねえ、何だか包が大きいわねえ、何だしら。」

 玉手箱という形で両手に据えながら目をねむる。

「何でげしょう。」

「何だか、」

「そうさね。」

「一番あてッこで、ちょうと出たらまた頂戴は、どうでげすえ。」

 源次は鷹揚おうように、

下司張げすばるな下司張るな。」

「どうせつまらないものよ。」と蝶吉は笑いたそうにして押耐おしこらえる。

 円輔は例に因って、

「よッ!」

「沢山おひゃらかして下さいな。」と怒ったのでも何でもない、いそいそ膝の上へ抱下だきおろしてななめにした。

 蝶吉はかんざしを抜いて、そっと持って、

「邪険に封をしてさ。」といいいい、名工が苦心のまなこで、みつめて、簪のさきで、封じ目を切ってほどく。

 上包はくるくるといて、やまと新聞の一の面がさっと膝の上に広がった。中は、中は、手文庫ばかりの白木の箱。

「さあさあ御覧ごろうじろ、封がとけるに従うて、お蝶さんの、あの顔が段々ゆるんで来る処を、」

「どういう訳だか、不思議なもんさね、」と源次郎は憎体にくていな。

わたい沢山だ。」

「何もお前さんそんなにつんとすることはないじゃありませんか、頬を膨らしてさ。」

「一生懸命でおいで遊ばす、さあ、たまらない。ほれ、」

「それ笑った。」

 蝶吉は莞爾にっこりして、

「御免なさい、」というかと思うと、引攫ひっさらうように小包を取って、もすそを蹴返すと二階へ、ふい。

 驚いたのは円輔である。ぐんにゃりとなって、

えらい!」


四十七


「堪忍なさいな、わたいは見向いても下さらないんだと思って、自暴やけよ、お花札はななんか引いてさ、堪忍して下さいな、くッて。おまえさんの深切を無にしたようだけれど、だってしようがないんだもの。これからきっと大人しくしますから。いいつけたとおりにしていると思っていらっしゃるんだよ。悪かったわねえ。それでも開けても可くッて。嬉しいなあ、」と胸をだきしめて身をふるわした。この音信たよりがあったので、許されたもののように思われて、蝶吉は二階にあがると、まずその神月の写真を懐に抱いたのであった。

 それでも箱の中が気にかかって、そわそわして手も震い、動悸どうきの躍るのを忘れるばかり、写真でおさえて、一生懸命になってふたを開けた。

 箱の中には紙にも包まず裸の人形が入っている。

 ふっと見て少し色を変えて、

「おやおや、おかしいねえ、あてッこすりに寄越よこしたのかしら、わたいをこんなにしておいて、まだそんなことをする方じゃあない、」とこの時気が付いたのは、自分の人形のことである。

 蝶吉は夢のような心持がして、気味悪そうに、ともしびの暗い、しんとして、片附いた美しい二階の座敷をみまわしたが、そうだ、小包が神月からというのに顛倒てんどうして忘れていた、先刻さっきを思出すと、ぞっとして、ばたりと箱を落して立ち、何をはばかるともなく、浮足うきあしで、そっと寄って、蒲団ふとんを上げて見ると何にもない。思切って、白い手を冷い小さなねやうちに差入れると、丹精をして着せておく、筒袖の着物に襦袢じゅばん縮緬ちりめんの書生帯までひっくるめて、まるげてあった。蝶吉は、呼吸いきを詰めて、つばを呑み、座に直って、引寄せて、じっと見てあおくなった。涙をはらはらと落して、震い着いて、

「坊や、」とばかり、あわれな裸身はだかみを抱え上げようとして、その乳のあたりを手に取ると、首が抜けて、手足がばらばら。胴中どうなかの丸いものばかり蝶吉の手に残ったので、

いや!」と声を上げざまに、蛇をつかんだと思って、どんと投げると、空を切って、姿見に映って落ちた。

「あれえ。」

 下階したではどっと笑う声、円輔はきっと見得をして、

「今のはたしかに、」

しっ!」と押えて源次はしてやったという顔色かおつき

「雲井の印紙を引剥ひっぺがして、張り付けて、筆で消印を押したお手際なんざあ、」

「どんなもんだい。」

「いや、御馳走様でございますよ。」

口惜くやしい!」と泣く声が細く耳を貫いて響いたが。

 下じめの端を両手できりきりとめながら、蹌踉よろめいて二階を下りて来た、蝶吉の血相は変っている。

 顔も蒼白く、目が逆釣さかづり、口許くちもとも上に反ったように歯をんで、驚いて見る下地ッ子の小さな手を砕けよと掴んでぐッと引着けた。

「あれ、ねえさん。」

「さあ、言っとくれ、言っとくれ、承知しなくッてよ、わたいの、私の人形をあんなにしたなあ誰だ。いいえ、知らないッたって不可いけないの、あんなにお前さんにも頼んでおくものを、……」と力をめておさえるようにいったが、ぶるぶる震える、額には筋が通った。

「手も足もばらばらよ、ひどいッたら、酷いことよ。さあ、誰だか、いっておしまい、いえ、聞かしておくれ。蔭になり日向ひなたになり、しょっちゅうかばってやる姐さんだ、お聞かせなね、ええ! 畜生言わないかい。」

「痛い、痛い、姐さん。」とべそをいてたのがわっと泣出した。



灰神楽


四十八


「ま、ま、お前さん何でございます、手荒なことを。」とばばは居合腰に伸上って、たもとを取って分けようとするのを、身悶みもだえして振払い、振向いてきっと見て、

「おばあさん、お前にもわたいうらみがあってよ、い加減なことをいってだましてさ、おなかが痛むかさすろうなんぞッて言っておくれだから、深切な人だと思ったわ、悔しいじゃあないかね。畜生、放せ、何をするのよう。」

「おや、こわい、恐いこッた。へん、」と太々ふてぶてしい。血眼ちまなこでもう武者振附むしゃぶりつきそうだから、飽気あっけに取られていた円輔が割って入った。

「さてはや、」

「ええ、手前達の手を触る体じゃあないんだい、御亭主が着いてるよ、野幇間のだいこめ、」と平手で横顔をぴたりと当てる。

 天窓あたまを抱えて、

えらい、」と吃驚びっくり

「亭主持がすさまじいや、むこうから切られた癖に、何だ、取揚婆のさかさまめ、」まさかにこうとは思い懸けず、いやがらせをやって、なぶっておごらせた上、笑い着けて、下駄の肚癒はらいせをして、それから、仲直りをして、ちょいと悪党な処を見せて、そこらで思い着かれようという際限のない大慾張おおよくばり、源次は源次だけのかんがえで、既に今夜印半纏しるしばんてんで、いなって反身そりみの始末であったが、悪戯わるさも、人形の手足をいでおいたのにきわまって、蝶吉の血相の容易でなく、尋常ただではおさまりそうもない光景を見て、居合すはおそれと、立際たちぎわ悪体口にくていぐち

「ざまあ見やがれ、」とふていて、忘れずに莨入たばこいれを取って差し、生白なまっちろい足を大跨おおまたにふいと立って出ようとする。

「待ちゃあがれ。」

「ええ、」

悪戯いたずらをしたなあ、源の野郎、手前てめえだな。」

「いいえ、私だ。」とすっきりいって、ずッと入ったのは大和屋のねえさんで、蔦吉つたきちという中年増ちゅうどしま。腕も器量もすごいのが、唐桟とうざんずくめのいなせななりで、暴風雨あらしに屋根を取られたような人立ひとだちのする我家の帳場を、一渡ひとわたりみまわしながら、悠々として、長火鉢の向側、これがその座に敷いてある、黒天鵝絨くろびろうどの大座蒲団にきちんと坐って、「寒い。」と肩を一つゆすっておいて、

みんなしずかにしておくれ、お蝶さんお前もおすわり。」

「何ですッて、」と蝶吉は目を据えて立ったまま、主婦あるじかたに向直って、

「悪戯をしたなあ、お前さん、」ときっという。

「あい、私さ、」

「何、」

突立つッたって、何だ。」

「坐ったらどうおしだい。」

「おやおや、このは、目があがってるよ、水でもぶッかけておやんなね。」

「まあ、姐さん、」とばかりで円輔は遣瀬やるせがない。

「お蝶私は主人だよ。」

「は、わたいお前さんの抱妓かかえじゃありません、誰が、そんな水臭い、分らないやつに抱えられるもんか。人が知らないと思ってさ、薬を飲ませてさ、そのせいで、わたい逢えないんじゃありませんか、命もいらない人よ。あんまり思遣おもいやりがない、何が気に入らないで、人形を壊したのよ、よ。お前さんは悪いことを、ようく知っててわたいに教えてさ、無理にあんなことをさせておいて、まだ足りなくッて。畜生! 義理知らず、お前さんのは田舎じゃあないか、わたいはね、仲之町で育ったんです。」と蝶吉はき上げて言うこともしどろである。


四十九


「黙れ、黙れ、黙れ、ええ黙らないかい。」といいさま持ってた長煙管ながぎせるで蝶吉の肩をぴしと打った。

「畜生!」

「生意気な、文句をいうなら借金を突いてかかるこッた、わけが何だい、はばかンながら大金がかかってますよ。そうさ、また仲之町でお育ち遊ばしたあなただから、分外なお金子かねを貸した訳さ。しッこしもない癖に、情人いろなんぞこしらえて、何だい、はらむなんて不景気な、そんな体は難産ときまってるから、血だらけになって死なないようにとお慈悲でおろしてやったんだ。商売にも障ります、こっちゃ何もなぐさみに置くお前じゃあない、お姫様もい加減にしておくが可いや、狂気きちがいあさっから晩まで人形いじくりをし通されてたまるもんか、ほかにも障るんです、五人六人と雑魚寝ざこねをする二階にあんなもの出放だしはなしにしておかれちゃあ邪魔にもなるね。つらも生ッちろいし、芸も出来て、ちったあ売れるからと大目に見て、我ままをさしておきゃあ附け上って、何だと、畜生。もう一度いって見ろ、言わなきゃあ言わしてやろうか、」

 と乗上って火鉢越に、またそのえりのあたりを強くったのである。

「神月さん!」と蝶吉は半狂乱で悲鳴を上げる。

「まあさ、まあさ、姉さん。」と円輔は手持不沙汰てもちぶさたなのをしきりむ。

「一体口が過ぎるんですよ。」と婆はねッつり。

「いいえ、たまにゃこんな目に逢わせておかないとね、いい気になってつけ上りまさあね。神月さんがどうした、向うから突出された癖に何だい、器量の悪さッたらありやしない、呼べるなら呼んで見るが可いや。」

「ええ、呼べなくッて、」と泣々なきなきいいながら、立とうとするのを、婆がむずとつかまえた。

「お前さんは。」

 蝶吉は弱々となって崩折くずおれて、

「悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、みんなわたいを、私をどうするのよ。どうせ死ぬんだから、さあ、殺しておしまいなさいなね、さあ、さあ、」と小供がをいうごとく、横坐よこずわりになって、顔も体も水から上ったようにびッしょり汗になりながら、投遣なげやりにつッかかる。

「殺してたまるもんか、大枚たいまいのお金子かねだあね、なあお婆さん。おほほほほほ。」

「さようでございますとも、ははははは、」と笑いつけてあえて不関焉かんせず

 真蒼まっさおになり、髪も乱れて、泣吃逆なきじゃくりをしいしい、

「殺さなくッたっていのよ、可いのよ、いやならせ、わたいどうせ死ぬんだから。そして、あのみんな神月さんに言付いッつけてやるから覚えているが可い。わたい誰も構っちゃあくれないんだもの、世間にゃあ、鬼ばッかり。」とはや血が狂ったか舌ももつれて他愛がない。

「ええ、性根をつけないかい!」と、力なくおのれを捕えた敵のかいな、婆の膝によりかかって肩で息をいている、胸の処を、また一つ煙管でなぐった。

 途端に糸切歯をきりりとならして、脱兎だっとのごとく、火鉢の鉄瓶を突覆つッかえすと、すさまじい音がして𤏋ぱッと立った灰神楽、灯も暗く、あッという間に、蝶吉の姿はひらひらとして見えなくなる。

「待て、」とすがって戸口で押えたのは源次であった。

 物をも言わず、すわった瞳で、じっと見るや、両手に持った駒下駄をたすきがけに振ったので、片手は源次が横顔を打って退のぞけ、片手は磨硝子すりがらすの戸を一枚微塵みじんに砕いた、蝶吉は飜って出たと思うと、糸をくようにさっける。


五十


「こりゃ、待て。」

 学士は胸騒むなさわぎがして、瑞林寺のその寓居ぐうきょに胸をおさえて坐するに忍びず、常にさる時はいて時を消すのが例であった湯島から、谷中に帰るみちの暗がりで、唐突だしぬけに手を捕えたのは一名の年若き警官である。

 梓は気も心も沈んでいたから少しも騒がず、もとより驚く仔細しさいはない。しずかに顧みて、

「私、」

「どこへ行くか、あッ貴様は。」

 言葉も荒く、ものに激しているようである。

「谷中の方へくんですが、」

「うむ、墓原へでも寝にくか、嘘をけ! き様掬摸すりじゃろう、」とほとんど狂人きちがいひとしい譫言うわごとを言ったけれども、梓はよく人を見て、この年少巡査があえて我をいんとする念慮のあるのでもなく、また罪人をにくむ情がはげしいのでもなく、単に職務に熱誠であるため、自ら抑うることの出来ない血気にはやるのであることを知った。

貴方あなた御心配には及びません。」と微笑ほほえむばかりに涼しく答える。清らかなそのおもてを見ても、可懐なつかしいこうかおりの身に染みたのに聞いても、品位ある青年であることが分るであろうに、警官は余り職務に熱心であった。

「名を言え、番地はどこか。」

「…………」

「こら!」と驚くべき声でののしわめく。

 あえてはばかる処はないけれども、名告なのるは惜しい名であった。神月はいいよどみ、

「玉……月、」とばかり言葉が濁る、と聞免ききのがさず、

「玉……玉……玉何だ、」と畳みかけて尋問する。

「玉月、あ、秋太郎です。」といったが我にもあらず狼狽あわてたのである。

うちは、」

「下宿して、」

「どこだ、何というか、うむ、はやく言わんか。」とき立てられて、トむねをついて猶予ためらって、悪いことをしたと思った。

 横顔を一拳ひとこぶしひしげよとりつけて、威丈高になって、

「来い、」

 蒲柳ほりゅうの公子は生れて以来、かばかりの恥辱を与えられたことをかつて覚えぬ。夜目にこそ見えね色をして、

「君!」

「馬鹿いえ、君たあ何か、」といいざまに横撲よこなぐりはたく手を、しっかと取ったが声も震えて、

「名を言おう。」

「何い。」

「神月梓というんだよ。」といいながら手を向うへ押遣おしやったが、ほっと息をいて俯向うつむいた。学士はここで名乗った名がいたくもけがれたように感じたのである。

 警官はこれを聞くと、その偽名を語ったゆえんをなじろうともせず、たちまち声をやわらげて、

「神月かね、」

「用があるんですか。」と、いきどおりはまだ消えずひややかに答えた。

「さようか、何にしても交番まで、」といって、巡査はその仔細を語った。

 ちょうど今しがた、根津の交番で、いたく取乱した女が一人つかまったが、神月という人を尋ねるのだとばかりで、取留とりとめのないことを言っている。最初はじめその女が路を歩いている時背後うしろから一人けて来た男があった、ということを通行人が告げたので、女は身装みなりい上に、容色が抜群であるから、掬摸か、何ぞ悪意あって尾行したものであろうという鑑定で、女を取調べるかたがたその悪漢の手当に巡行を命ぜられたものである。

 語りかけて巡査はあざけるがごとく梓を見て、

「ふむ、色狂気いろきちがいの亭主だな。」




五十一


 しかり、==色狂気の亭主==これを警官の口から聞くに至って梓は絶望したのである。

 されば冥土よみじ辿たどるような思いで、弥生町やよいちょうを過ぎて根津までくと、夜更よふけ人立ひとだちはなかったが、交番の中に、蝶吉は、かいなそびらねじられたまま、水を張った手桶ておけにその横顔を押着けられて、ひいひい泣いていた。

 帯を解いて下じめと共に卓子テイブルの上にわがねてあった。この時までたしなんで持っていたか、懐中鏡やら鼈甲べっこう透彫すかしぼりの金蒔絵まきえ挿櫛さしぐしやら、あたりちらばった懐紙の中には、見覚みおぼえのある繿縷錦つづれにしきの紙入も、落交おちまじって狼藉ろうぜき極まる、蝶吉はあたかも手籠てごめにされたもののごとく、三人がかりで身動きもさせない様子で、一にん柄杓ひしゃくを取って天窓あたまから水を浴びせておった。黒髪も海松みるとなり、胸もすそも取乱して乳もあらわになって震えている。

 梓は歯切はがみをして、と寄って、その行為おこないなじったが、これに答えた警官のことばは、極めて明瞭に、且つ極めて正当なものであった。

 狂人力きちがいぢからで手に合わず、取静めようとして引留めれば、ぬしのある身体からだだ、指を指すなと、あばれ廻って、かんざしを抜いて突こうとする。突かれて手の甲にきずつけられたものも一名ある、ようようつかまえてからも危険だから、腕はじ上げておかねばならぬ。且つその住所、姓名、身分の手懸てがかりを知るために、懐中物もしらべねばならず、あるいはいかなる迫害を途上受けたかも計られないから、身内を検するには、着物も脱がさなければならぬ、もちろん帯も解かんけりゃ不可いけない。逆上のぼせ夥多おびただしく鼻血を出すから、手当をして、今ひやしている処だといった。学士がここに来た時には、既にその道をく女に尾行した男というのが明かに分っていた。

 交番の窓に頬杖をいて、様子を見ている一名紋着もんつきを着た目の鋭いのがすなわちそれで、かれは学士にうらみのある書生の身のはてで、今は府下のある小新聞こしんぶんに探訪員たる紳士であった。

「やあ、神月。」

 これにも答えず、もとより警官には返すべきことばもなく、学士は見る目も可憐いとおしさに死んだもののようになっている蝶吉を横ざまに膝に抱上げた。

「神月だ。」

 思わず骨も砕くるばかり、しっかとすがって離れぬのを、かして、帯をしめさせて、胸を掻合かきあわせてやって、落散った駒下駄を穿かせて、手を引いて交番を出ようとする時、

「そら忘物だ、」といって投出ほうりだして呉れたのは、年紀とし二十はたちの自分の写真、大学の制服で、折革鞄おりかばんを脇挟んだのを受取って、角燈の灯のとどかぬ、暗がりの中に消えてしまった。が、深更の大路に車のきしる音が起って、みやこの一端をりんりんとしてひびき、山下を抜けて広徳寺前へかかる時、合乗あいのり泥除どろよけにその黒髪を敷くばかり、蝶吉は身を横に、顔をあおむけにした上へ、梓は頬を重ねていた。その時は二人抱合っていたが、死骸しがいは大川で別々わかれわかれ

 男は顔を両手で隠して固く放さず、女は両手を下〆したじめ鳩尾みずおちに巻きしめていた。

 この死骸を葬る時、疾風一陣土砂をいて、天暗く、都の半面が暗くなって、矢のごとき驟雨しゅううが注いだ。ひつぎは白日暗中を通ったが、寺に着くころおいには、ぬぐうがごとき蒼空あおぞらとなった。

 墓は、神月梓、松山峰子、と二ツならべて谷中の瑞林寺にある。

 弔うものは、梓が生前の三個の信友と、いま一にん忍々しのびしのび音信おとずるる玉司子爵夫人竜子であるが、姫は一夜、墓前において、ゆくりなく三人の学士にあった時、あいを請うもののごとく、その自分がここにもうずることは、固く秘密を守って世にあらわれぬよう、名にかけて誓われたいといってひざまずいたのである。哲学者は直ちに霊前に合掌してこれを誓い、柳沢は卵塔の背後うしろに粛然としてうなずいたが、一人竜田は、柳沢の胸にその紅顔を押当てて落涙しつつかぶりった。星はその時きらめいたであろう。いかに、紫か、緑か、燦然さんぜんとして。

明治三十二(一八九九)年十一月

底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年124日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店

   1940(昭和15)年330

初出:「湯島詣」春陽堂

   1899(明治32)年1123

※「すし」と「すし」、「飜」と「翻」の混在は、底本通りです。

※底本の編者による脚注は省略しました。

入力:門田裕志

校正:砂場清隆

2018年1024日作成

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