其中日記
(五)
種田山頭火



┌─────────────────────────┐

│おかげさまで、五十代四度目の、          │

│其中庵二度目の春をむかへること          │

│ができました。              山頭火拝│

│  天地人様                   │

└─────────────────────────┘


 二月四日


明けてうらゝかだつたが、また曇つて雪がふりだした。

身心不調、さびしいとも思ひ、やりきれないとも感じたが、しかし、私は飛躍した、昨夜の節分を限界として私はたしかに、年越しをしたのである。

朝、冷飯の残りを食べたゞけで、水を飲んで読書した、しづかな、おちついた一日一夜だつた。


    第三句集『山行水行』に揷入する語句二章

 (庵中閑打坐)            (一鉢千家飯)

山があれば山を観る          村から村へ

雨のふる日は雨を聴く         家から家へ

春夏秋冬               一握の米をいたゞき

受用して尽きることがない       いたゞくほどに

                   鉢の子はいつぱいになつた


 二月五日


天も私も憂欝だ、それは自然人生の本然だから詮方がない、水ばかり飲んでゐても仕方がないから、馴染の酒屋へ行つて、掛で一杯ひつかけた、そしてさらに馴染の飲食店から稲荷鮨とうどんとを借りて戻つた。

湯札が一枚あつたので、久振に入浴、憂欝と焦燥とを洗ひ落してさつぱりした。

幸福な昼寝。

やつぱり、句と酒だ、そのほかには、私には、何物もない。

大根、ほうれん草、新菊を採る、手入をする、肥をやる。

私の肉体は殆んど不死身に近い(寒さには極めて弱いけれど)、ねがはくは、心が不動心となれ。

米桶に米があり炭籠に炭があるといふことは、どんなに有難いことであるか、米のない日、炭のない夜を体験しない人には、とうてい解るまい。

徹夜読書、教へられる事が多かつた。

・椿の落ちる水の流れる

・みそさゞいよそこまできたかひとりでなくか

・梅がもう春ちかい花となつてゐる

・轍ふかく山の中から売りに出る

・枯枝をひらふことの、おもふことのなし

 そこら一めぐりする椿にめじろはきてゐる

 ふるさとなれば低空飛行の爆音で


 二月六日


くもり、何か落ちてきさうだ。

うれしいたよりがあつた。

やうやく句集壱部代入手、さつそく米を買ふ、一杯ひつかける、煙草を買ふ。……

四日ぶりに御飯を炊く、四日ぶりにぬく飯をたべる、あたゝかい飯のうまさが今更のやうに身にしみる。

酒もやつぱりうまい、足りないだけそれだけうまい。

山を歩く、あてもなく歩くのがほんたうに歩くのだ、枯木も拾ふたが句も拾ふた。

味ふ楽しむ、遊ぶ──それが人生といふものだらう、それ自体のために、それ自体になる──それがあそびである、遊行といふ言葉の意義はなか〳〵に深遠である。

仏法のために仏法を修行する、仏法をも忘れて修行するのである。

  今日の決算(二月六日)

(収入)

一金壱銭    財布在金

一金七十五銭  句集壱部代入金

 合計金 七十六銭也

(支払)

一金四十六銭  米二升

一金九銭    ハガキ六枚

一金拾銭    焼酎一杯

一金四銭    なでしこ小包

 合計金 六拾九銭也

 差引残金七銭也

    この七銭は、銅貨七個はまことに大切なり。

・たゝずめば山の小鳥のにぎやかなうた

・枯草に落ちる葉のゆふなぎは

・ゆくほどに山路は木の実のおちるなど

・暮れてゆくほほけすゝきに雪のふる

・雪空おもたい街の灯の遠くまたたく

・冬夜の水をのむ肉体が音たてて

・ランプともせばわたしひとりの影が大きく


 二月七日


快晴、身心やゝかるくなつたやうだ。

昨夜もねむれなかつた、ほとんど徹夜して読書した。

心が沈んでゆく、泥沼に落ちたやうに、──しづかにして落ちつけない、落ちついてゐていら〳〵する、それは生理的には酒精中毒、心理的には孤独感からきてゐることは、私自身に解りすぎるほど解つてはゐるが、さて、どうしようもないではないか!

その根本は何か、それは私の素質(temperament)そのものだ。

生きてゐることが苦しくなつてくる、といつて、死ぬることは何となく恐しい、生死去来は生死去来なりといふ覚悟は持つてゐるつもりだけれど、いまのこゝのわたしはカルモチンによつてゞもゴマカすより外はない!

シヨウチユウを二杯ひつかけてきた、むろんカケだ、そして樹明君を訪ねて話す。

風、風がふく、風はさびしい。

昼寝、何ぞ夢の多きや、悪夢の連続だつた。

ほうれん草を摘んで食べた、ほうれん草はうまいかな。

ゆふべ、ぢつとしてゐるにたへなくて山をあるく、この身心のやりどころがないのだ、泣いても笑ふても、腹を立てゝも私一人なのだ。

蓑虫がぶらりとさがつてゐる、蓑虫よ、殼の中は平安だらう、人間の私は虫のお前をうらやむよ。

炬燵をのけたら、何となく寂しい、炬燵は日本の伝統生活を象徴する道具の一つである、家庭生活が炬燵をめぐつて営まれるのである、囲爐裏がさうであるやうに。

火といふものはまことになつかしい、うれしい、ありがたいものである、ぬくいといふよりあたゝかいといふ言葉がそれをよく表現する、肉体をぬくめると同時に心をあたゝめてくれる。

乞食や流浪者はよく焚火をするといふ、私もよく火を焚くのである、そして孤独のもつれをほぐすのである。……

待つてゐた敬坊がやつてきてくれた、間もなく樹明君もきてくれた、お土産の般若湯がうまいことうまいこと。

それから三人で雨の中を街へ、ほどよく飲み直して戻る、樹明君よく帰りましたね、敬治君よく泊りましたね、そして山頭火もよく寝ましたよ。

ほんに、とろ〳〵ぐう〳〵だつた!

・あんたがくるといふけさの椿にめじろ(敬治君に)

・日が照る草は枯れて石仏

・こゝろあらためて霜の大根をぬく

 大根の、大きいの小さいのが霜ばしら

 葉のない枝が、いつしかみのむしもゐない

・竹の葉に風のあるひとりでゐる

・石ころを蹴とばして枯山

・やりきれない冬空のくもつてくる

・ふめばさく〳〵落葉のよろし

・冬空の、この道のどこへ、あるく

・さいて、かげする花のちる

・あるけば冬草のうつくしいみち

・ウソをいつたがさびしい月のでゝゐる

・ウソをいはないあんたと冬空のした(樹明君に)

・冬の山が鳴る人を待つ日は

 かきよせて、おこつた炭ではあるけれど

・火鉢もひとつのしづかなるかな

・椿が咲いても眼白が啼いても風がふく

・竹があつて年をとつて梅咲いてゐる

・手をひいて負うて抱いて冬日の母親として

・このさびしさは山のどこから枯れた風

・蓑虫の風にふかれてゐることも

・風ふくゆふべの煙管をみがく

   追加

・枯野をあるいてきて子供はないかなどゝいはれて

・ゆふ空へゆつたりと春めいた山


 二月八日


日が射してゐたが、雪となつた、春の粉雪がさら〳〵とふる、もう春だ、春だとよろこぶ。

敬坊は県庁へ、私は身辺をかたづける。

朝の紅茶はおいしかつた、樹明君ありがたう。

友からあたゝかいたよりのかず〳〵、ありがたう、ありがたう。

小鳥よ、猟銃のひゞきは呪はしいかな。

老眼がひどくなつて読書するのにどうも工合が悪い、妙なもので、老眼は老眼として、近眼は近眼として悪くなる、ちようど、彼女に対して、憎悪は憎悪として、感謝は感謝として強くなるやうに。

夕、樹明来、ハムを持つて、──敬坊不帰、ハテナ!

鰹節を削りつゝ、それを贈つてくれた友の心を感じる、桂子さん、ありがたう。

年齢は期待といふことを弱める、私はあまり物事を予期しないやうになつてゐる、予期することが多いほど、失望することも多い、期待すれば期待するだけ裏切られるのである、例へば、今日でも、敬坊の帰庵を待つてはゐたけれど、間違なく、十中の十まで帰庵するとは信じてゐなかつた、彼も人間である、浮世の事はなか〳〵思ふやうにはならない、多分帰庵するだらうとは思ふけれど、或は帰庵しないかも知れないと思ふ、だから私は今夜失望しないではなかつたけれども、あんまり失望はしなかつた、ひとりしづかにハムを食べ、ほうれんさうのおひたしを食べて、ひとりしづかに寝た、──これは敬坊を信じないのではない、人生の不如意を知つてゐるからである。

石油がきれたのには困つた、先日来の不眠症で、本でも読んでゐないと、長い夜がいよ〳〵ます〳〵長くなるのである。

銭がほしいな、一杯やりたいな、と思つたところでいたし方もありません。

・林のなかへうしろすがたのふりだした春雪(敬治君に)

 昼はみそさゞい、夜はふくらうの月が出た(追加一句)

・寝ざめ雪ふるさびしがるではないが

・雪が霙となりおもひうかべてゐる顔

・ひとりへひとりがきていつしよにぬくうねる(旧友来庵)

・梅はさかりの雪となつただん〳〵ばたけ

 雪を見てゐるさびしい微笑

・雪のしたゝり誰もこないランプを消して

 恋のふくらうの逢へらしい声も更けた

・枯れた葉の枯れぬ葉の、日のさせば藪柑子

・風の鴉の家ちかく来ては啼く

 あんたは酒を、あんたはハムを、わたくしは御飯を炊く(敬治、樹明両君に)

 ふたりいつしよに寝て話す古くさい夢ばかり

・枯れて草も木もわたくしもゆふ影をもつ

・ぬかるみのもう春めいた風である

・まがらうとしてもうたんぽゝの花

・大根も春菊もおしまいの夕空

・ふるつくふうふう酔ひざめのからだよろめく


 二月九日


朝は曇つて寒くて、いまに雪でもふりだしさうだつたが、だん〳〵晴れてきてぬくうなつた、吹く風はつめたいけれど。

山をあるく、風がさわがしい、枯枝をふんで寂しい微笑をさがすといふのが、ロマンチケルだ。

午後、岐陽さん呂竹さん、来庵、珍品かたじけなし、といふ訳で、さつそく一杯やつて御馳走ちようだい、うまい〳〵。

敬坊はいまだに帰らない、アヤシイゾ!

街へ出かけるとて、書きのこして曰く、アブラ(いろ〳〵のアブラ)買ひに! よかつたね!

やりきれなくなつて、街まで出かけて熱い湯にはいる、戻つてくると、庵には灯がついてゐる、敬坊が炬燵にぬく〳〵と寝てゐるのだつた。

酒と米とを持つてくることを忘れない彼は涙ぐましい友情を持ちつゞけてゐる、彼に幸福あれ、おとなしく飲んで、いつしよに寝る、一枚の蒲団も千枚かさねたほどあたゝかだつた。……

・バスが通る水田の星もうるめいてゐるを戻る

 夢の女の手を握つたりなどして夢

・春めいた夜のわたしの寝言をきいてくれるあんながゐてくれて(敬治君に)

・酔うていつしよに蒲団いちまい(敬君に、樹明君に)

・あんなところに灯が見える山が空がもう春

・ふたりでふみゆく落葉あたゝかし

 落葉ふんではふたりで枯枝ひらふなんど

・わたしが焚くほどの枯木はおとしてくれる山

・梅がひらいてそこに蓑虫のやすけさ

・をちこち畑うつその音もめつきり春


 二月十日


晴、朝は霜で冷えたが、日中はほんたうにぽか〳〵だつた。

アルコールのおかげで、ぐつすり寝られた、同時にそのまたおかげで胃が悪い、ありがたくもありありがたくもなし、か。

朝酒はうまし、朝茶もうまし、敬坊とふたりで、しめやかな朝飯をたべた、いつもかういふ調子だと……よすぎます!

葉も実もすつかりおとしてしまつた木のゆうぜんたるすがたはよいかな、うらやましいかな。

敬君が実家を見舞ふといふので、連れ立つて街へ。

帰庵して、間もなく敬君も来庵、餅を持つてきてくれた、それにしても其中庵は家庭よりも、そんなにいゝのだらうか!

樹明君から来信、今日午後、岐陽、呂竹の両君といつしよに、御馳走を携へてくるとのこと、日々好日、今日大好日。

彼等を待つ間のしんきくささに、二人で山を散歩する、……せめて、私たちの生活をして二二ヶ三ぐらゐであらしめたい、などゝ話しながら。……

待つてゐた三人がやつてきた、枯枝を焚いて酒をあたゝめ飯をたく、ヂンギスカン鍋はうまかつた、みんな酔ふた。

それから三人は街へ、どろ〳〵どろ〳〵になる、私は私の最後の一銭まではたいた。

私が最初に帰庵、それから敬君、最後に樹明君、一枚のフトン、一つのコタツに三人が寝た。

・ふるつくふうふう逢ひたうなつた

   再録

・誰かきさうな雪がちらほら

・落葉ふんでは枯木をひらふあたゝかさ

・雀おどるや雲かげもなし

・ちようど酔のでたところが墓地で梅のさかり


 二月十一日


旗日も祝日もあつたものぢやない、身心の憂欝やりどころなし、終日臥床、まるで生ける屍だ。

敬君やうやく帰宅、樹明君来庵、テル坊も(この称呼は樹明君にしたがふ)。

退一歩、そして進十歩、歩々新たなれ。

・朝から小鳥はとべどもなけども

・かうしてこのまゝ死ぬることの、日がさしてきた

・壁にかげぼうしの寒いわたくしとして

・寒晴れ、誰もゐない火の燃えてゐる

・晴れてうつくしい草の葉の霜

・庵はこのまゝ萌えだした草にまかして


 二月十二日


春日和です、私は終日終夜、寝床の中です。

酒も煙草もない一日一夜でした。

風呂はまことに結構でした、餅はたいへんおいしうございました。……

・夜のふかうして薬鑵たぎるなり

 あの夜の梅が北朗作るところの壺(敬君に)

・いつも小鳥が、南天の実の赤さはある

・だん〳〵ばたけに人がきてゐる春の雪ふる


 二月十三日


晴れてあたゝか、曇つてあたゝか、ぢつとしてゐても、出て歩いてもあたゝか。

樹明君を訪問して、切手と煙草と酒代とを貰つた。

倦怠、無力、不感。

夜を徹して句作推敲(この道の外に道なし、この道を精進せずにはゐられない)。

・はれてひつそりとしてみのむし

・火鉢ひとつのあたゝかさで足る

・なむからたんのう御仏の餅をいたゞく

・ふくらうはふくらうでわたしはわたしでねむれない

・汽車のひゞきも夜あけらしい楢の葉の鳴る

・火の番そこから遠ざかるふくらう


 二月十四日


今日は旧のお正月です、お寺の鐘が鳴ります、餅を貰ひに行きましよか、さうらうとして鉢の子をさゝげて。

どうも憂欝だ、無理に一杯ひつかけたら、より憂欝になつた、年はとりたくないものだとつく〴〵思ふ。

畑仕事を少々やつてみたが、ます〳〵憂欝になる、読書すればいよ〳〵憂欝だ。

春風よ、吹きだしてくれ、私は鉢の子一つに身心を托して出かけやう、へう〳〵として歩かなければ、ほんたうの山頭火ではないのだ!

旧暦のお正月だといふのに、百姓は田を耕やしたり、畑を打つたり、洗濯をしたり、大根を刻んだりしてゐる、こゝにも農村窮乏の色が見えるといへるだらう。

思ひがけなく、東京の修君からたよりがあつた、彼も私とおなじく落伍者、劣敗者の一人だ、そして妻君にこづかれてゐる良人だ、幸にして彼にはまだ多少の資産が残つてをり、孝行な息子があり、世才がないこともないので、東京で親子水入らずの、そして時々はうるさいこともある生活をつゞけてゐるらしい、修君よ、山の神にさわるなかれ、さわらぬ神にたたりなしといふではありませんか!

夕、樹明君に招かれて宿直室へ出かける、うまい酒うまい飯だつた、そのまゝ泊る、あたゝかい寝床だつた。

・寒空のからりと晴れて柿の木

・ふくらうがふくらうに月は冴えかへる

・よつぴて啼いてふくらうの月

・冴えかへる月のふくらうとわたくし

・恋のふくらうの冴えかへるかな


 二月十五日


雪、雪はうつくしいかな、雪の小鳥も雪の枯草も。

わらやふるゆきつもる──これは井師の作で、私の書斎を飾る短冊に書かれた句であるが、今日の其中庵はそのまゝの風景情趣であつた。

ふりつもる雪を観るにつけても、おもひだすのは一昨年の春、九州を歩いてゐるとき、宿銭がなくて雪中行乞をしたみじめさであつた(如法の行乞でないから)、そのとき、私の口をついて出た句──雪の法衣の重うなりゆくを──その句を忘れることができない。

裏山のうつくしさはどうだ、私はしん〳〵とふりしきる雪にしんみりと立つてゐる山の雪景色に見惚れた。

地下足袋を穿いて、尻からげで、石油買ひに街へ出る、チヤンチヤン(このあたりではソデナシといふ)を着たおぢいさんの姿には我ながら吹きだしたくなつた、そして、アーブラ買ひにチヤア買ひに、といふ童謡を思ひだして泣きたくなつた。

雪の日の庵はいよ〳〵閑寂なり、閑寂を愛するは日本人老来の伝統趣味なり、私は幸福なるかな。

樹明君から聞いて。──

Tさんはとう〳〵死んださうな、葬式には私も列したいと思ふ、読経回向しなければならない、Tさんは不幸な人だつた、幼にして母を失ひ、継母にいぢめられ、やゝ長じては父に死なれて、多少の遺産を守るに苦しんだ、そしてさらに不治の病気に犯され、青春の悦楽をも味ふことが出来なかつた、彼は樹明君の幼馴染であり、その縁をたどつて、私は一昨年の夏、庵が整ふまで、一ヶ月ばかりの間、その離座敷に起臥してゐた、彼は善良な人間だつた、句作したいといつて、私の句集なども読んでくれた、私は彼の余命がいくばくもなからうことを予感してゐたが、……樹明君は情にあつい人である、Tさんの友達としては樹明君だけだつたらしい、樹明君は病床のTさんを度々おとづれて、或る時は、東京音頭を唄うて、しかも踊つて慰めたといふ、病んで寂しがるTさんと酔うて踊る樹明君との人間的感応を考へるとき、私は涙ぐましくならざるを得ない。

晩の雑炊はおいしかつた、どうも私は食べ過ぎる(飲み過ぎるのは是非もないが)、一日二食にするか、一食は必らずお粥にしよう(胃拡張はルンペン病の一つだ、いや貧乏人はみんな胃拡張だ、腹いつぱい食べたい、といふのが彼等の念願だから、そして彼等は満腹感を味はなければ、食べた気持になれないのである、おいしいものを少し、よりも、まづくても多くを欲求するのである)。

何を食べてもうまい! 私は何と幸福者だらう、これも貧乏と行乞とのおかげである。

句作道は即ち成仏道だ、句を味ふこと、句を作ることは、私にあつては、人生を味ふこと、生活を深めることだ。

主観と客観とが渾然一如となる、或は、自己と自然とが融合する、といふことも二つの形態に分けて考察するのがよい、即ち、融け込む人と融かし込む人、言ひ換へれば、自己を自然のふところになげいれる人と、自然を自己にうちこむ人と二通りある、しかし、どちらも自然即自己自己即自然の境地にあることに相違はないのである。

人間に想像空想を許さないならば、そこには芸術はない、芸術上の真実生活的事実から出て来るが、真実は必ずしも事実ではない(事実が必ずしも真実でないやうに)、芸術家の心に於て、ありたいことあらねばならないことあらずにはゐられないこと、それは芸術家の真実であり、制作の内容となるのである。

内容形式を規定する、同時に、形式も内容を規定する、しかし、私は内容が形式を規定する芸術を制作したい。

俳句的内容を持つて俳句的形式を活かす俳人でありたいのである。

高くして強き感情、何物をも──自己をも燃焼せしめずにはおかないほどの感情、その感情から芸術──詩は生れる、自己燃焼がやがて自己表現である

・お正月の小鳥がうたひつつうたれた

・お正月も降つたり照つたり畑を打つ

・降つては晴れる土にこやしをあたへる

 木の実があつて鳥がゐて山がしづけく

・竹をきる風がふきだした

 風ふく日かなほころびを縫ふ

・いちはやく伸びて咲いたるなづなであつた

・握りあはした手に手のあかぎれ(農村風景)

・ほほけすすきのいつまでも春めいてきた

 雪をかぶりて梅はしづかなる花

・雪、最初の足あとで行く

・雪へ轍の一すぢのあと

・雪をふんで郵便やさんよいたよりを持つてきた

・雪ふる火を焚いてひとり

・ひとつやにひとりの人で雪のふる

・ゆきふるだまつてゐる

・春の雪のすぐとける街のいそがしくなる

・雪の小鳥がかたまつて食べるものがない

・すすきに雪の、小鳥はうたふ

・誰も来ない木から木へすべる雪

・雪あかりの、足袋のやぶれからつまさき

・雪のあかるさが家いつぱいのしづけさ

・春の雪のもうとけて山のしめやかないろ

・このみちいつもおとしてゐる枯枝ひらふ

・少年の夢のよみがへりくる雪をたべても

・濡れて枯草の水をくみあげる

 こやしやつたらよい雨となつた葱や大根や

・一つあれば事足るくらしの火を燃やす

・北朗作るところの壺の水仙みんなひらいた

・こちらをむいて椿いちりんしづかな机

・身にちかくふくらうがまよなかの声

・月がうらへまはつても木かげ

 霜晴うらゝかな鰹節を削ります(桂子さんに)

・『とかく女といふものは』ふくらうがなきます


 二月十六日


霜晴れ、霜消し一杯!

旧正月で、鮮人連中の踊り姿を見た、赤、黄、青の原色がけば〳〵しいが、原始的のよさがないでもなかつた。

樹明君を訪ね、さらに久芳さんを訪ねる、週間朝日所載の、井師『酒と水』とを読ましてもらふ、そこには私の事がまざ〳〵と書いてあつた。

午後、武波憲治君の葬式に列した、彼の一生、人間の一生といふものがつく〴〵考へられた。

夕方、樹明君来庵、テル坊も来庵、彼女は餅を持つてきてくれた、餅は好きだ、煮ても焼いてもうまい、餅と日本人の生活、といふやうな事も考へる。

暮れて、樹明君と同道して岐陽さんを訪ねる、さつそく酒になる、久芳校長も浅川国手もやつてこられて、一升瓶が何本か倒れた、下物はお手のもので凝つたものばかり。

酔うて、二人であちらこちらと歩く、そしておそく帰庵。

久芳さんが満洲の石鍋を下さつた、樹明君が生酔本性を発揮して、無事持ち帰つてゐるといふ、東上送別にはその鍋でスキヤキして一杯やりたいな。

   Tさんの葬儀に列して(二月十六日午後)

・野辺のおくりのすすきはよろしいかな

・南無阿弥陀仏もう鴉がきてゐる

 墓石に帽子をのせ南無阿弥陀仏

・これが一生のをはりの、鴉と子供

 人を葬るところ梅の花

・墓場へみちびくみちの落葉鳴らしゆく

 落ちてそのまゝ芽生えた枇杷に枇杷

・ぼんやりをればのぞいては啼くはひたたき

・さびしさのはてのみちは藪椿

・風に木の葉のさわがしいさうろうとしてゆく

・夜ふけの餅のうまさがこんがりふくれ

・枯れたすゝきに日が照る誰かこないかな

   黎々火君に秋田蕗二句

 蕗の芽もあんたのこゝろ

・あんたのこゝろがひろがつて蕗の葉


 二月十七日


あたゝかい、雨が近いらしい、九州行が困らないやうに。

朝、樹明来、昨夜の酔態を気にかけてゐる、酔うて乱れないやうにならなければ人間は駄目生活も駄目だ

身心ぼんやり、大風一過の気分、凝心ばかりではいけない、私は放心を味ふいや楽しむ

いつでも餓死する覚悟があれば日々好日であり事々好事である、何のおそれるところもなく、何のかなしいものもない。

食べることが生きることになる、といふ事実は、老境にあつては真実でないとはいへまい。

終日終夜、寝床で読書、ひもじくなれば餅をたべて安らかに。

・遠山の雪ひかる別れなければならない

・草は枯れて犬はたゞほえて

・雪どけのぬかるみのあすはおわかれ

・朝から降つたり照つたり大きな胃袋(ルンペンのなげき)

・かみしめる餅のうまさの夜のふかさの

・なにもかも雑炊としてあたゝかく

・小鳥も人もほがらかな雲のいろ

 こゝろあらためて水くみあげてのむ

・ほつかりめざめた春めいた雨の柿の木

 ぽつとり椿が雨はれたぬかるみ


 二月十八日


雨、しと〳〵と春めいて降る、出立を延ばした。

午後、風呂へいつた留守に樹明来、ハムを持つてきたといふ、一杯やらずはなるまいといふ、まことに然りで、一杯やる、おとなしく別れる、めでたし、めでたし、あゝめでたし。

餅をたべつゝ、少年時代に餅べんたうを持つて小学校に通うたことをおもひだす、餅のうまさが少年の夢のなつかしさだ。

アルコールのおかげで、ぐつすり一ねむり、それから読書。

・風の中の変電所は午後三時

 風ふく西日の、掘りつゞけてゐる泥蓮

・風をあるいてきて新酒いつぱい

・寺があつて墓があつて梅の花

 風が出てきて冬が逃げる雲の一ひら二ひら

・水底しめやかな岩がある雲のふかいかげ

・ちかみちは春めく林の枯枝をひらうてもどる

・夜あけの葉が鳴る風がはいつてくる


   明日から、東行前記ともいふべき

       北九州
めぐり
 旅日記


 二月十九日


晴、寒い、いよ〳〵出立だ。

樹明君が、約束の珍品を持たせて寄越す、五十銭銀貨弐枚を酒代として、そして旅の餞別として地下足袋、かたじけなく頂戴して歩きだしたことである。

まことに久しぶり行乞の旅である、絡子をかけることを忘れたほど、あはてゝいそいだ(これは禅坊主として完全に落第だ!)。

峠はよいかな、よいかな、昔の面影が十分に残つてゐる、松並木がよい、水音がよい、風もわるくない。……

風は吹いても寒くはなかつた、昼飯はヌキにして酒一杯と饅頭五つ、下手な両刀つかひだ!

厚狭まで歩いて、それから汽車で長府まで、そしてまた歩いて、黎々火居に地下足袋をぬいだ、君はまだ帰宅してゐない、日記をつけたり本を読んだりして待つ、黎々火居の第一印象はほんとによかつた、家も人も何もかも。

今日は何故だか労れた(六里強しか歩いてゐないのに)、老のおとろへもあらう、なまけ癖もあらう、出発がおくれたためもあらう、風がふくからでもあらう(風は孤独者には禁物だ)、待ちきれなくて、勧められるまゝに、ひとりで酒をいたゞき餅をいたゞく、酒もうまく餅もうまい、ありがたいありがたい。

やうやくにして黎君帰来、しんみり飲んで話しつゞける、酔うて労れて、ぐつすり寝る。……

返事をしない男! 厚狭駅の待合室で、新聞を読んでゐる男に読まして下さいといつたら、彼は黙つてゐた、物をいふことが惜しいといつた風に!

・食べもの食べつくし旅へでる春霜

・これから旅も春風のゆけるところまで

・春がきた水音のそれからそれへあるく

・梅もどき赤くて機嫌のよい頬白目白

・こゝからは長門の国の松葉ふる

・誰もゐない筧の水のあふれる落葉

・岩を白う岩から寒い水は走る

・こゝで泊らうどの家も餅がほしてある(改作)

 春が来たぞな更けてレコードもをんなの肉声

   追加二句

・灯つてまたたいてあれはをなごや

・春寒いをなごやのをんなが一銭持つて出てくれた


 二月二十日


五時すぎにはもう起きた、お雑煮はいつでもおいしい、お辨当まで貰つて、いつしよに出立、朝ぐもりの寒さだ。

黎君は汽車で局へ出勤、私は海岸線を下関へ。

関門風景はよろしい、なつかしい、ゆつくりと歩く、ぼつり〳〵句もできる、おもひでの感慨多少。

長府はまことにおつとりとした遊園地だ、享楽場ではないが、とにかく、ブルヂヨアの土地だ、プロレタリヤの土地でもあるが。

下関へ着いたのは九時だつた、唐戸市場を見物する、どうしても行乞気分になれない、あちこち歩きまはるだけ。

下関といふところは、何と食べ物の多いこと! 食べる人の多いこと!

かうして歩いてゐると、私といふ人間がどれだけ時代錯誤的であるかゞよく解る、世間と私との間にある距離を感じる、しかし、私の悩みはそこにはない、私の悩みは、なりきれない──何物にもその物になりきりえないところにある。

花屋さんがもう、菜の花を売つてゐる、八百屋には蕗の薹

街の老楽師! なんとみじめな。

午後、地橙孫居を訪ねて閑談二時間。

四時、唐戸から船で大里へ、大里から荒生田まで電車、公園の入口でひよつこり星城子君にでくわす、よかつた。

入浴、身心やゝかろし、酒、飯、話。……

同道して井上さんを訪ねる、また酒だ、シヤンもゐらつしやる。

酔うて戻つて熟睡、大鼾であたりをなやましたらしい。

井上さんがトンビを供養して下さつた、私にはよすぎるほどの品である、トンビはむろんあたゝかい、井上さんの人情と共に。

トンビでもほしい夜のトンビをもらつて着てゐる

帰途の一句である。

 朝はつめたい煙草も分けてさようなら

・なか〳〵寒い朝から犬にほえられどうし

 崖にそうてきて曲れば蘭竹二株の早春

汽笛フネとならんであるく早春の白波

 昇る日は春の、はいつてくる船出てゆく船(関門風景)

 日が出るとあたゝかい影がながう枯草に

 早春のさゞなみが発電所の石垣に

・投げて下さつた一銭銅貨の寒い音だつた

 春もまだ寒い街角で売る猪の肉で

 きたない水がちろ〳〵と寒い波の中へ(御裳川)

 そこらを船がいつたりきたり岩に注連をかざり(壇ノ浦)

・鴎が舞へば松四五本の春風(巌流島)

・あのがかあいさうでと日向はぬくいおばあさんたち

・春めいた風で牛肉豚肉馬肉鶏肉

・こんなに食べる物が食べる人々が

・みんな生きねばならない市場が寒うて

・背中流してくれる手がをさなうてぬくうて

   星城子居即事

・冬木をくゞつて郵便やさんがうらから

・かけごゑかけてかつぎあげるは先祖代々の墓

・よい道がよい建物へ、焼場です


 二月二十一日


春光うらゝかである、満ち足りた気持である。

星城子君我儘不出勤、自から称して禄盗人といふ、いつしよにぶらぶら歩いて到津遊園鑑賞。

動物園はおもしろい、獅子、虎、熊、孔雀、兎、鶴、等々には好感が持てるが、狐、狸、猿、鸚鵡、等々には好感が持てない、殊に狐は悪感をよぶばかりだ。

七面鳥はおしやれ、鳩はさびしがりや、鶴はブルヂヨア、いやさインテリゲンチヤ、鸚鵡はどうした、考深さうに首をかしげてゐる!

総じて、獣よりも鳥が好き、人間は人間にヨリ遠いものほど反感をうすらげますね。

星城子なげくところの犬の墓を見た。

顔は生活気分を表象する、私の顔の変化についての、星城子君の言説は首肯する。

ちよつと四有三居訪問、「一即二」の額がまづ眼についた、井師がよく出てゐる。

それから小城さんの白雲閣を襲ふ、赤ん坊が生れてゐる、おめでたい、主人がすゝめられるまゝに、二階で飲む、牛肉がうまいやうに芋がらもうまかつた、酒のうまさは握飯のそれに匹敵した。

星城子君は飲めないから飲まない、山頭火君は飲めるから飲む、などゝ、小城さん思つたかどうだか。……

暮れてお暇乞する、次良さんの事を話しながら戻つた、二郎さんは不幸な人だ、彼の善良と不幸とは正比例してゐる。

読書するつもりだつたが、しぜん眼があけてゐられなくなつた。

   到津遊園

・人影ちらほらとあたゝかく獅子も虎もねむつてゐる

   白雲閣即事二句

・お産かるかつたよかつた青木の実

・訪ねて逢へて赤ん坊生れてゐた


 二月廿二日


曇、何か降つてきさうだ。

九時、星城子さんは役所へ、私はアスフアルトの街道へ。

星城子さんは好きだけれど、八幡は好かない。

小倉の寝十方花庵を訪ねる、庵主不在、奥様と話しながらよばれる、酒は飲んでも飯は食べない、お嬢さんはホガラカで、しごくよろしい。

降りだした、濡れて戸畑へ、そして若松へ。

病院で入雲洞君に逢ふ、退けるまで待つて、また戸畑へ、入雲洞居へ、あつい風呂はうれしかつた、酒も肴もおいしかつた、奥さんはお留守で、すべてが主人みづからの心づくしだ。

病院は病院くさい、それでよいのだらうけれど、まめでたつしやな私は嫌だ。

食べられるだけ食べて、いや、そのまへに飲めるだけ飲んで、さてこれから寝られるだけ寝ればよい。

今日は風が吹いた、風は禁物だ、ルンペンのからだへ吹きつける風のさびしさよ。

飲んで食べてから、入雲洞も出かけてゆく、奥さんが手伝してゐる近所の婚礼へ、──私はまづ留守番といつた体、ほろ酔で漫読、よろしうございます。

・みちはうねつてのぼつてゆく春の山

・これでも住める橋下の小屋の火が燃える

・放送塔を目じるしにたづねあてた風のなか

・さてどちらへ行かう風のふく

・招かれない客でお留守でラヂオは浪花節

・さんざ濡れてきた旅の法衣をしぼる

   若松病院

・病人かろ〴〵とヱレヹーターがはこんでいつた

   戸畑から若松へ、入雲洞君に

・あんたとわたしをつないで雨ふる渡船

 宿直室も灯されて裸体像などが

・待たされてゐる水音の暮れてゆく

・宵月のポストはあつた旅のたよりを

・旅のたよりも塗りかへてあるポスト


 二月二十三日


晴、すこし風はつめたいが春がきてゐることに間違はない。

もつたいなくも朝酒頂戴。

入君は出勤、私は足にまかせて街をあるきまはる、やつぱりこゝもたべものやが多い、工場町、漁港町はどこでもさうだが。

入雲洞君の喜捨で理髪する、身心さつぱりして、先日来の欝屈がほぐれた。

昨日も今日も(多分明日もまた)行乞は駄目、当分行乞なんか出来さうにない、やつぱり私はまだ平静をとりかへしてゐない。

午後は読書、こんなに我儘ではいけないとも思ひ、これだけ他の供養をうけてはすまないとは思ふのだが。──

夜は句会、とほる君、箕三楼君、入雲洞君、そして私、つゝましい、たのしい会合だつた。

よく寝られたが、よく夢も見た、その夢は苦しい夢だつた、夢は妄想執着のあらはれだ、夢を見ないやうになりたいものだ。

   戸畑漁港(一)

 金バス銀バス渡船も旗立てゝ春風に(廿三日奉祝)

・海から風はまだ寒い大福餅ダイフクをならべ

・クレーンおもむろに春がきてゐる空

 やたらに汽笛が鳴るとつしりと舫つた汽船フネ

・今日がはじまる七輪の石炭スミが燃えさかる

・バツト吸ひきれば重い貨物で

 朝から安来節ヤスキで裏は鉄工所

   戸畑漁港(二)

・日向はぬくうて子供があつまる廻転饅頭

・仕事すましてぶらさげてもどる大刀魚のひかる

・枯葦に汐みちてくる何んにもゐない

・こんなに帆柱が、春風の、出る船入る船

 長屋の真昼はひつそりとホウホケキヨ

 もうあたゝかい砂の捨炭ひらふことも


 二月廿四日


晴、朝の寒さは昼の暖かさとなる。

入雲洞君よ、たいへんお世話になりました、何から何までありがたう。

山越して八幡へ、のんびりぼんやりの気分で市街見物。

小山の枯草にすわつて古い握飯を食べる。

製鉄所の煙突と煤煙とを鑑賞する。

四有三居訪問、番人に誰何されたり、押売と間違へられたりした、それも旅の一興、いや、私にはふさはしい出来事だ。

からいおひやをよばれる、ペハアミントをよばれる、いやはや。

夜は光の会、会者十数名、なか〳〵盛況だつた。

黎々火君と共に星城子居に泊る、星城子君の友情が骨身にしみとほる。

・こんな水にも春の金魚が遊んでゐる

・かすんでけぶつて山の街にも日の丸へんぽん

・今日の乞ふことはやすくておいしい汁粉屋の角まで

・おぢいさんの髯のながさをおもちやにして日向ぼつこ

・食べものうつくしうならべ煤がふる

 白い煙が黒い煙が煙突に煙突

(八幡は製鉄所を持つ都会だけに、くろがねせんべいといふのがある、鉄町といふ町名があつた)


 二月廿五日


朝からかしわで酒の贅沢三昧。

黎々火君とは駅で別れる、君は上りで門司へ、私は下りで糸田へ。

一時にはもう緑平居に落ちついて、湯豆腐で一杯二杯三杯だつた。

緑平老はまことに君子人なるかな。

急に左半身不髄の症状に襲はれた、積悪の報いいたしかたなし、飲みすぎ食ひすぎはつゝしむべし。

 曇れば寒いボタ山ふたつ

・逢うてうれしくボタ山の月がある

      緑平居

ふきのとう、焼いてもらふ

雀のお宿、雀が泊りにくる

泰山木、雀の好きな木

夕雀にぎやかなり、雀と仲よし


 二月廿六日


左手が利かない、身体が何だか動かなくなりさうだ、急いで帰庵することにする、八時出立、直方までは歩いた、それから折尾まで汽車、八幡まで歩く、門司まで汽車、下関へ汽船、それから黎々火居まで歩いて一泊、黎々火君の純情にうたれる。

私もいよ〳〵本格的癈人になりさうだ、本格的俳句が出来るかも知れない。

ヒダリはかなはなくても飲むことは飲める、水はなか〳〵酒にならない、酒は水になりやすいが。

酒と心中したら本望だ。

・けさはおわかれの太陽がボタ山のむかうから(緑平居)

・よぼ〳〵のからだとなり水をさかのぼる

・驢馬にひかせてゆくよ春風

・枯草ふかく水をわたり、そしてあるく

・また逢へようボタ山の月が晴れてきた

     遠賀川風景

枯葦

雲雀の歌

放牧の牛の三々五々

霞うら〳〵

 あされば何かあるらしい鶏は鶏どち

 焼芋やけます紙芝居がはじまります

 旅のつかれのほつかりと夕月

・枯草の日向見つけて昨日の握飯

 病めばをかしな夢をみた夜明けの風が吹きだした


 二月廿七日


夜来の雨がはれて、何となく春だ。

七時の汽車に乗る、九時帰庵、其中一人のうれしさよ。

さつそく樹明君を訪問する、そして方々の借銭を払へるだけ払うてまはる。

酒を食べ鮨を食べる、酔うて寝る。

樹明君来訪、積る話は尽きなかつた。

・こんなにつかれて日照雨ふる

・うらからはいればふきのとう

・ほろにがいのも春くさいふきのとうですね(緑平居)

 誰も来ない月はさせどもふくらうなけど

 利かなくなつた手は投げだしておく日向

 げそりと暮れて年とつた


 二月廿八日


片手の生活、むしろ半分の生活がはじまる。

不自由を常とおもへば不足なし、手が二本あつては私には十分すぎるのかも知れない、一つあれば万事足る生活がよろしい

街へ米買ひに、──食べずにはゐられないことは困つたことだ。

身辺整理、──遺書も認めておかう。

樹明君が病状見舞に来てくれる、酒と下物とを持つて。

死を待つ心、おちついて死にたい

 鳴きつゞけて豚も寒い日

・何やら来て何やら食べる夜のながいこと

 もう一杯、柄杓どの(酔ざめに)

・月がぱち〳〵お風呂がわいた

 夜ふかうして白湯サユのあまさよ

   追加

 乞ひあるく道がつづいて春めいてきた


 三月一日


曇つて寒い、井上さんから貰つてきたトンビのありがたさよ。

新若布がおいしい、私には菜食がよろしい。

何事もなし。


 三月二日


晴、春寒、不自由不愉快。

我儘な猟人が朝からパン〳〵うつ、気の毒な小鳥たちよ。

何事も積悪の報い、甘受いたしませう。

孤独、沈黙、句作。

めづらしや女性来訪、F屋のおばさんとちいちやん、水仙もらひに寄つたのです、紅茶を御馳走する。

夜、冬村君来庵、お土産として水餅どつさり。

つゞいて樹明来、おとなしくすぐ帰宅。

さらにTさんがやつてくる、酒を持つて、──おそかりし、おそかりし。

月のあかるさ、一人のよろしさを味ふ。

・風が明けてくる梅は満開

 いつもつながれてほえる犬へ春の雪

 待つても来ない木の葉がさわがしいゆふべとなつた

・ちかみちは夕ざれの落葉ふめば鳴る

 さむいゆふべで、もどるほかないわたくしで(樹明君に)

 犬がほえる鳥のなく草は枯れてゐる

・水底ふかくも暮れのこる木の枯れてゐる


 三月三日


さむいけれどうらゝかである、餅と酒と豆腐と。

樹明君を徃訪して、帰庵して、御馳走をこしらへて待つ、待ちきれなくて街をあるく、帰つてみれば、樹明君はちやんと来てゐて、御馳走を食べてゐる、さしつさゝれつ、とろとろとなる、街へ出てどろ〳〵となつて別れる。

・酔ひざめの春の霜

・藪かげほつと水仙が咲いてゐるのも

 みんな酔うてシクラメンの赤いの白いの

・風がふくひとりゆく山に入るみちで

・すげなくかへしたが、うしろすがたが、春の雪ふる(樹明に)

・洗つても年とつた手のよごれ

・心あらためて土を掘る


 三月四日


樹明君が朝も晩もやつてきて、昨夜の酔態をくやしがる。

雪がとけて風がふく、さみしいな、やりきれないな。


 三月五日


晴れたり曇つたり、今日も雪だ。

形影問答、年はとりたくないものだのう、さうだのう。……

風呂にはいる、身心やゝ解ける。

夜は宿直室に樹明君を訪ねて御馳走になる、そして泊る。


 三月六日


雪、雪、寒い、寒い。

母の祥月命日、涙なしには母の事は考へられない。

終日独居。

友はありがたいかな、私は親子肉縁のゆかりはうすいが、友のよしみはあつい、うれしいかな。

忘れられた酒、それを台所の片隅から見出した、いつこゝにしまつてゐたのか、すつかり忘れてゐた、老を感じた、その少量の酒をすゝりながら。……

陶然として、悠然として酔ふた、そして寝た、寝た、宵の七時から朝の七時まで寝つゞけた。

・雪あした、すこしおくれて郵便やさん最初の足跡つけて来た

・死ねる薬はふところにある日向ぼつこ

・水のんで寝てをれば鴉なく

・売れない植木の八ツ手の花

・寒い雨がやぶれた心臓の音


 三月七日


晴、春風しゆう〳〵だつたが、午後は曇つて降つた、しかし昨日の雪のとけるといつしよに冬はいつてしまつたらしい。

草が萠えだした、虫も這ひだした、私も歩きださう。

一片の音信が、彼と彼女と私とをして泣かしたり笑はしたりする、どうにもならない私たちではあるが。

街へ出て、米すこしばかり手に入れる、餅ばかりでは困る。

心臓がわるい、心臓はいのちだ、多分、それは私にとつて致命的なものだらう。

どうせ畳の上では徃生のできない山頭火ですね、と私は時々自問自答する、それが私の性情で、そして私の宿命かも知れない!

・晴れて風ふく春がやつてきた風で

・日がのぼれば見わたせばどの木も春のしづくして

・むのむしもしづくする春がきたぞな

・木の実ころ〳〵ころげてくる足もと

・豚の子のなくも春風の小屋で

・まがればお地蔵さまのたんぽぽさいた


 三月八日


降つても照つても、晴れても曇つても、風が吹いても、春が来てゐることに間違はない。

日がさすと、雲雀が出てきてあるいてゐる、私も出てあるく。

緑平老、春風春水、一時到!

新酒二合の元気で、街へ山へ。

酔はねばさびしいし、酔へばこまるし。

歩いてゐると、足がしぜんに山の方へ向く、私は本能的に山が好きだ。

・遠山の雪のひかるや旅立つとする

・影も春めいた草鞋をはきかへる

・春がきてゐる土を掘る墓穴

 これだけの質草はあつてうどんと酒

・みちはいつしか咲いてゐるものがちらほら


 三月九日


春光うらゝかなり、陽はあたゝかく風はさむい。

けふも餅を焼いては食べた、まだ米はあるけれど。

風よふくな、鴉よなくな。

電燈屋さんが二人連れでやつてきたが、お気の毒様、庵には電燈もありません。

藪椿を活ける、水仙もよかつたが椿もよいな。

はじめて蛙を見た、蛙よ、うれしいか、とんでゐる。

やぶれかけた心臓が私に自然的節酒ができるやうにしてくれました。

 風ふく日の餅がふくれあがり

・水田も春の目高なら泳いでゐる

・眼は見えないでも孫とは遊べるおばあさんの日なた

・もう春風の蛙がいつぴきとんできた

・夕ざれはひそかに一人を寝せてをく

・山から暮れておもたく背負うてもどる


 三月十日


晴、なか〳〵冷たい、霜がふつてゐる。

あれやこれやと東上準備、なか〳〵忙しい。

また山の方へ。──

独酌二本、対酌三本、酒は味ふべし、たゞ〳〵味ふべし。

夕方、樹明君来庵、ハムと餅を持つて、──酒は買ひに行く、ハムはおいしかつた、餅はおいしいよりも腹をふくらす。……

樹明君おとなしく帰る、私は街へ出て歩く。

今夜は多少の性慾を感じた、それがあたりまへだ、人間は人間でよろしい、枯木寒巌になつては詰らない。

おそくなつて帰庵、見ると机上に酒壱本と海苔一袋とが置いてある、T子さんに間違はない、だいぶ待つたらしい形跡がある、私も樹明君もゐなくて、かへつてよかつた、よかつた。

・日かげりげそりと年をとり

・そこらに冬がのこつてゐる千両万両

・地つきほがらかな春がうたひます

・ゆふべはゆふべの鐘が鳴る山はおだやかで

・鴉があるいてゐる萠えだした草


 三月十一日


晴、晴、朝酒はよいかな、よいかな。

街へ、飲みすぎ食べすぎのたたりてきめん、身心がだるい、熱い溢れる湯にはいりたくなり湯田へ行かうかとも思つたが止めにして戻る。

水菜一把四株四銭也。

酒もある、肴もある、そして餅もある、其中一人春十分。

酒ぼいとう! おもしろい方言ではないか。

疾病の福音、事々是好事。

花時風雨多し、春めいて花が咲きはじめる、曇が雨となり風となつた。

・枯枝ひらふにもう芽ぶく木の夕あかり

・春の夜の街の湯の湧くところまで

・つゝましく大根煮る火のよう燃える

 曇り日のひたきしきりに啼いて暮れる


 三月十二日


ぬくい雨、さう〴〵しい風、ひとりしづかに読書。

記念写真帖について、大山君、瀧口君の友情こまやかなるにうたれた、私はその友情に値しない友人だ、省みて恥づかしかつた。

熱い湯にはいつて身を洗ひ心を洗つた。

待てども樹明来らず、私一人で飲んで食べて、そして寝た、そこへやつてきた樹明、そして私、何だか二人の気持がちぐはぐで、しつくりしなかつた。

 風のなか酔うて寝てゐる一人

・木の芽、いつもつながれてほえるほかない犬で

・つながれて寝てゐる犬へころげる木の実

・春風のはろかなるかな鉢の子を

・からりと晴れたる旅の法衣の腰からげ


 三月十三日


折々降るが、ぬくいので何よりだ。

思ひ立つて山口へゆく、椹野川風景もわるくない、桜冬木、白梅紅梅、枯葦、枯草、ことに川ぞひの旧道は自動車が通らないのがうれしい。

蕎麦は敦盛、味は義経──このビラには新味はないが効果はあらう。

温泉はよいなあ、千人風呂は現世浄土だ。

鰯の卯の花〓(「飮のへん+旨」)はうまかつた、一つ三銭、三つ食べた。

秤り炭二十銭、線香十銭、これが今日出山の目的の買物だつた。

定食二十銭の(これはたしかに安い)一杯機嫌で映画館にはいつた、何年ぶりのシネマ見物だらう、今日初めてトーキーを聴いたのだから、私もずゐぶん時代おくれだ。

ぬかるみを五里ぐらゐ歩いたらう、くたぶれた、帰庵したのは一時頃、それからお茶をわかして。……

手足多少の不自由、何だか、からだがもつれるやうな

・生きてゐるもののあはれがぬかるみのなか

・いつも馬がつないである柳萠えはじめた

・猫柳どうにかかうにか暮らせるけれど

 ぬくい雨でうつてもついても歩かない牛の仔で

・焼芋やいて暮らせて春めいた

・監獄の塀たか〴〵と春の雨ふる

・病院の午後は紅梅の花さかり

・ずんぶりと湯のあつくてあふれる(湯田温泉)

・早春、ふけてもどればかすかな水音

・春めけば知らない小鳥のきておこす

・あたゝかい雨の、猿のたはむれ見てゐることも


 三月十四日


曇、白い小さいものがちら〳〵する。

老遍路さんがやつてきた、珍客々々。

身辺整理。

しづかに読書してゐると、若い女の足音がちかづいてきた、女人禁制ではないが、珍らしいなと思つてゐると、彼女はF屋のふうちやんだつた、近所まで掛取りにきたので、ちよつと寄つて見たのだといふ、到来の紅茶を御馳走した、紅茶はよかつたらう!

夕方、約の如く敬治君が一升さげて来てくれた、間もなく樹明君が牛肉をさげて来た、久しぶりに三人で飲む、そして例の如くとろ〳〵になり、街に出かけてどろ〳〵になつて戻つた。

・雪ふりかゝる二人のなかのよいことは

・雪がふる人を見送る雪がふる

・この道しかない春の雪ふる

・ふる雪の、すぐ解ける雪のアスフアルトで

・かげもいつしよにあるく

・けふはこゝまでの草鞋をぬぐ

・椿咲きつづいて落ちつく


 三月十五日


雪が降りしきる、敬君を駅まで見送る、一杯やる、雪見酒といつてもよい。

酔うて労れてぐつすりと寝た。

夜は読書。


 三月十六日


雪、しづかな雪であり、しずかな私だつた。

おとなしく新酒一本、それで沢山。

・うれしいたよりもかなしいたよりも春の雪ふる

・けふも木を伐る音がしづかな山のいろ


 三月十七日


晴、風、春だ。

旅立つ用意をする。──

蓬摘む女の姿、春らしいな。


 三月十八日


晴、今日からお彼岸。

なしたい事、なすべき事、なさずにはゐられない事。

早く旅立ちたい。──

樹明来、同道して散歩、そしていら〳〵どろ〳〵。

春の水をさかのぼる

笑へば金歯が見える春風


 三月十九日


花ぐもりだ、身心倦怠。

T子さん来庵、愚痴と泣言とをこぼすために(それを聞く私は辛いかな)。

夜はしんみり読書。


 三月二十日


倦怠、倦怠、春、春。

樹明君、そしてT子さんが来た、例によつて例の如し。

底本:「山頭火全集 第五巻」春陽堂書店

   1986(昭和61)年1130日第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:小林繁雄

校正:仙酔ゑびす

2009年115日作成

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