竹取物語
和田萬吉



 むかし、いつのころでありましたか、竹取たけとりのおきなといふひとがありました。ほんとうの讃岐さぬき造麻呂みやつこまろといふのでしたが、毎日まいにちのように野山のやま竹藪たけやぶにはひつて、たけつて、いろ〳〵のものつくり、それをあきなふことにしてゐましたので、ぞく竹取たけとりのおきなといふとほつてゐました。ある、いつものように竹藪たけやぶんでますと、一本いつぽんみようひかたけみきがありました。不思議ふしぎおもつて近寄ちかよつて、そっとつてると、そのつたつゝなかたか三寸さんずんばかりのうつくしいをんながゐました。いつも見慣みなれてゐるやぶたけなかにゐるひとですから、きっと、てんとしてあたへてくれたものであらうとかんがへて、そのうへせてかへり、つまのおばあさんにわたして、よくそだてるようにいひつけました。おばあさんもこのたいそううつくしいのをよろこんで、かごなかれて大切たいせつそだてました。

 このことがあつてからも、おきなはやはりたけつて、その〳〵をおくつてゐましたが、奇妙きみようなことには、おほくのたけるうちにふしふしとのあひだに、黄金おうごんがはひつてゐるたけつけることが度々たび〳〵ありました。それでおきないへ次第しだい裕福ゆうふくになりました。

 ところで、たけなかからは、そだかたがよかつたとえて、ずん〳〵おほきくなつて、三月みつきばかりたつうちに一人前いちにんまへひとになりました。そこで少女をとめにふさはしい髮飾かみかざりや衣裳いしようをさせましたが、大事だいじですから、いへおくにかこつてそとへはすこしもさずに、いよ〳〵こゝろれてやしなひました。おほきくなるにしたがつて少女をとめかほかたちはます〳〵うるはしくなり、とてもこの世界せかいにないくらゐなばかりか、いへなかすみからすみまでひかかゞやきました。おきなにはこのるのがなによりのくすりで、またなによりのなぐさみでした。そのあひだ相變あひかはらずたけつては、黄金おうごんれましたので、つひにはたいした身代しんだいになつて、家屋敷いへやしきおほきくかまへ、使つかひなどもたくさんいて、世間せけんからもうやまはれるようになりました。さて、これまでつい少女をとめをつけることをわすれてゐましたが、もうおほきくなつてのないのもへんだとづいて、いゝづけおやたのんでをつけてもらひました。その嫋竹なよたけ赫映姫かぐやひめといふのでした。そのころ習慣ならはしにしたがつて、三日みつかあひだ大宴會だいえんかいひらいて、近所きんじよひとたちや、そのほかおほくの男女なんによをよんでいはひました。

 このうつくしい少女をとめ評判ひようばんたかくなつたので、世間せけんをとこたちはつまもらひたい、またるだけでもておきたいとおもつて、いへちかくにて、すきのようなところからのぞかうとしましたが、どうしても姿すがたることが出來できません。せめていへひとつて、ものをいはうとしても、それさへつてくれぬ始末しまつで、人々ひと〴〵はいよ〳〵んでさわぐのでした。そのうちで、よるひるもぶっとほしにいへそばはなれずに、どうにかして赫映姫かぐやひめつてこゝろざしせようとおも熱心家ねつしんか五人ごにんありました。みなくらゐたか身分みぶんたふとかたで、一人ひとり石造いしつくりの皇子みこ一人ひとり車持くらもちの皇子みこ一人ひとり右大臣うだいじん阿倍御主人あべのみうし一人ひとり大納言だいなごん大伴御行おほとものみゆき一人ひとり中納言ちゆうなごん石上麻呂いそのかみのまろでありました。このひとたちはおもひ〳〵にだてをめぐらしてひめれようとしましたが、たれ成功せいこうしませんでした。おきなもあまりのことにおもつて、あるときひめむかつて、

「たゞのひとでないとはいひながら、今日けふまでやしなそだてたわしをおやおもつて、わしのいふことをきいてもらひたい」

 と、前置まへおきして、

「わしは七十しちじゆうさかして、もういついのちをはるかわからぬ。いまのうちによい婿むこをとつて、心殘こゝろのこりのないようにしてきたい。ひめいつしよう懸命けんめいおもつてゐるかたがこんなにたくさんあるのだから、このうちからこゝろにかなつたひとえらんではどうだらう」

 と、いひますと、ひめ案外あんがいかほをしてこたしぶつてゐましたが、おもつて、

わたしおもひどほりのふかこゝろざしせたかたでなくては、をつとさだめることは出來できません。それはたいしてむづかしいことでもありません。五人ごにん方々かた〴〵わたししいとおももの註文ちゆうもんして、それを間違まちがひなくつてくださるかたにおつかへすることにいたしませう」

 と、いひました。おきなすこ安心あんしんして、れい五人ごにんひとたちのあつまつてゐるところにつて、そのことをげますと、みな異存いぞんのあらうはずがありませんから、すぐに承知しようちしました。ところがひめ註文ちゆうもんといふのはなか〳〵むづかしいことでした。それは五人ごにんとも別々べつ〳〵で、石造皇子いしつくりのみこには天竺てんじくにあるほとけ御石みいしはち車持皇子くらもちのみこには東海とうかい蓬莱山ほうらいさんにあるぎんきんくき白玉しらたまをもつたえだ一本いつぽん阿倍あべ右大臣うだいじんには唐土もろこしにある火鼠ひねずみ皮衣かはごろも大伴おほとも大納言だいなごんにはたつくびについてゐる五色ごしきたま石上いそのかみ中納言ちゆうなごんにはつばめのもつてゐる子安貝こやすがひひとつといふのであります。そこでおきなはいひました。

「それはなか〳〵の難題なんだいだ。そんなことはまをされない」

 しかし、ひめは、

「たいしてむづかしいことではありません」と、いひつて平氣へいきでをります。おきな仕方しかたなしにひめ註文ちゆうもんどほりをつたへますと、みなあきれかへつていへりました。

 それでも、どうにかして赫映姫かぐやひめ自分じぶんつまにしようと覺悟かくごした五人ごにんは、それ〴〵いろいろの工夫くふうをして註文ちゆうもんしなつけようとしました。

 第一番だいいちばんに、石造皇子いしつくりのみこずるいほうさいのあつたかたですから、註文ちゆうもんほとけ御石みいしはちりに天竺てんじくつたようにせかけて、三年さんねんばかりたつて、大和やまとくにのある山寺やまでら賓頭廬樣びんずるさままへいてあるいしはち眞黒まつくろすゝけたのを、もったいらしくにしきふくろれてひめのもとにさししました。ところが、立派りつぱひかりのあるはずのはち螢火ほたるびほどのひかりもないので、すぐに註文ちゆうもんちがひといつてねつけられてしまひました。

 第二番だいにばんに、車持皇子くらもちのみこは、蓬莱ほうらいたまえだりにくといひふらして船出ふなでをするにはしましたが、じつ三日目みつかめにこっそりとかへつて、かね〴〵たくんでいたとほり、上手じようず玉職人たましよくにんおほせて、ひそかに註文ちゆうもんたまえだつくらせて、ひめのところにつてきました。おきなひめもその細工さいく立派りつぱなのにをどろいてゐますと、そこへうんわるく玉職人たましよくにん親方おやかたがやつてて、千日せんにちあまりも骨折ほねをつてつくつたのに、まだ細工賃さいくちんくださるといふ御沙汰ごさたがないと、苦情くじようみましたので、まやかしものといふことがわかつて、これもたちまかへされ、皇子みこ大恥おほはぢをかいてきさがりました。

 第三番だいさんばん阿倍あべ右大臣うだいじん財産家ざいさんかでしたから、あまりわるごすくはたくまず、ちょうど、そのとし日本につぽん唐船とうせんあつらへて火鼠ひねずみ皮衣かはごろもといふものつてるようにたのみました。やがて、その商人あきうどは、やう〳〵のことでもと天竺てんじくにあつたのをもとめたといふ手紙てがみへて、皮衣かはごろもらしいものをおくり、まへあづかつた代金だいきん不足ふそく請求せいきゆうしてました。大臣だいじんよろこんで品物しなものると、皮衣かはごろも紺青色こんじよういろのさきは黄金色おうごんしよくをしてゐます。これならばひめるにちがひない、きっと自分じぶんひめのお婿むこさんになれるだらうなどゝかんがへて、おほめかしにめかしんでかけました。ひめ一時いちじ本物ほんものかとおもつて内々ない〳〵心配しんぱいしましたが、けないはずだから、ためしてようといふので、をつけさせてると、ひとたまりもなくめら〳〵とけました。そこで右大臣うだいじんもすっかりてがはづれました。

 四番よばんめの大伴おほとも大納言だいなごんは、家來けらいどもをあつめて嚴命げんめいくだし、かならたつくびたまつていといつて、邸内やしきうちにあるきぬ綿わたぜにのありたけをして路用ろようにさせました。ところが家來けらいたちは主人しゆじんおろかなことをそしり、たまりにくふりをして、めい〳〵の勝手かつてほうかけたり、自分じぶんいへこもつたりしてゐました。右大臣うだいじんちかねて、自分じぶんでもとほうみして、たつつけ次第しだい矢先やさきにかけて射落いおとさうとおもつてゐるうちに、九州きゆうしうほうながされて、はげしい雷雨らいうたれ、そののち明石あかしはまかへされ、波風なみかぜまれて死人しにんのようになつて磯端いそばたたふれてゐました。やう〳〵のこと、くに役人やくにん世話せわ手輿てごしせられていへきました。そこへ家來けらいどもがけつけて、お見舞みまひをまをげると、大納言だいなごんすもゝのようにあかくなつたひらいて、

たつかみなりのようなものとえた。あれをころしでもしたら、このほういのちはあるまい。おまへたちはよくたつらずにた。ういやつどもぢや」

 とおほめになつて、うちに少々しよう〳〵のこつてゐたもの褒美ほうびらせました。もちろんひめ難題なんだいにはふるひ、「赫映姫かぐやひめおほがたりめ」とさけんで、またと近寄ちかよらうともしませんでした。

 五番ごばんめの石上いそのかみ中納言ちゆうなごんつばめ子安貝こやすがひるのに苦心くしんして、いろ〳〵とひと相談そうだんしてのち、ある下役したやくをとこすゝめにつくことにしました。そこで、自分じぶんかごつて、つなたかむねにひきあげさせて、つばめたまごむところをさぐるうちに、ふとひらたいものをつかみあてたので、うれしがつてかごおろ合圖あひずをしたところが、したにゐたひとつなをひきそこなつて、つながぷっつりとれて、うんわるくもしたにあつたかなへうへちてまはしました。みづませられてやうや正氣しようきになつたとき

こしいたむが子安貝こやすがひつたぞ。それてくれ」

 といひました。みながそれをると、子安貝こやすがひではなくてつばめ古糞ふるくそでありました。中納言ちゆうなごんはそれきりこしたず、氣病きやみもくははつてんでしまひました。五人ごにんのうちであまりものいりもしなかつたかはりに、智慧ちえのないざまをして、一番いちばんむごたのがこのひとです。

 そのうちに、赫映姫かぐやひめならぶものゝないほどうつくしいといふうはさを、ときみかどがおきになつて、一人ひとり女官じよかんに、

ひめ姿すがたがどのようであるかまゐれ」

 とおほせられました。その女官じよかんがさっそく竹取たけとりのおきないへ出向でむいて勅旨ちよくしべ、ぜひひめひたいといふと、おきなはかしこまつてそれをひめにとりつぎました。ところがひめは、

べつによい器量きりようでもありませぬから、お使つかひにふことは御免ごめんかうむります」

 とねて、どうすかしても、しかつてもはうとしませんので、女官じよかん面目めんぼくなさそうに宮中きゆうちゆうかへつてそのことをまをげました。みかどさらおきな御命令ごめいれいくだして、もしひめ宮仕みやづかへにさしすならば、おきなくらいをやらう。どうにかしてひめいて納得なつとくさせてくれ。おやで、そのくらゐのことの出來できぬはずはなからうとおほせられました。おきなはそのとほりをひめつたへて、ぜひともみかどのお言葉ことばしたがひ、自分じぶんたのみをかなへさせてくれといひますと、

「むりに宮仕みやづかへをしろとおほせられるならば、わたしえてしまひませう。あなたのおくらゐをおもらひになるのをて、わたしぬだけでございます」

 とひめこたへましたので、おきなはびっくりして、

くらゐいたゞいても、そなたになれてなんとしよう。しかし、宮仕みやづかへをしてもなねばならぬ道理どうりはあるまい」

 といつてなげきましたが、ひめはいよ〳〵しぶるばかりで、すこしもきいれる樣子ようすがありませんので、おきなのつけようがなくなつて、どうしても宮中きゆうちゆうにはあがらぬといふことをおこたへして、

自分じぶんいへうまれた子供こどもでもなく、むかしやまつけたのをやしなつただけのことでありますから、氣持きもちも世間せけん普通ふつうひととはちがつてをりますので、殘念ざんねんではございますが……」

 とおそつてまをへました。みかどはこれをきこされて、それならばおきないへにほどちか山邊やまべ御狩みかりの行幸みゆきをするふうにしてひめくからと、そのことをおきな承知しようちさせて、きめたひめいへにおなりになりました。すると、まばゆいようにかゞやをんながゐます。これこそ赫映姫かぐやひめちがひないとおぼしてお近寄ちかよりになると、そのをんなおくげてきます。そのそでをおとりになると、かほかくしましたが、はじめにちらと御覽ごらんになつて、いたよりも美人びじんおぼされて、

げてもゆるさぬ。宮中きゆうちゆうくぞ」

 とおほせられました。

わたしがこのくにうまれたものでありますならば、お宮仕みやづかへもいたしませうけれど、さうではございませんから、おれになることはかなひますまい」

 とひめまをげました。

「いや、そんなはずはない。どうあつてもれてく」

 かねて支度したくしてあつたお輿こしせようとなさると、ひめかたちかげのようにえてしまひました。みかどおどろかれて、

「それではもうれてはくまい。せめてもとかたちになつてせておくれ。それをかへることにするから」

 と、おほせられると、ひめはやがてもと姿すがたになりました。みかどいたかたがございませんから、そのはおかへりになりましたが、それからといふもの、いままで、ずいぶんうつくしいとおもつたひとなどもひめとはくらべものにならないとおぼすようになりました。それで、時々とき〴〵お手がみやおうたをおおくりになると、それにはいち〳〵お返事へんじをさしげますので、やう〳〵おこゝろなぐさめておいでになりました。

 さうかうするうちに三年さんねんばかりたちました。そのとし春先はるさきから、赫映姫かぐやひめは、どうしたわけだか、つきのよいばんになると、そのつきながめてかなしむようになりました。それがだん〳〵つのつて、七月しちがつ十五夜じゆうごやなどにはいてばかりゐました。おきなたちが心配しんぱいして、つきることをめるようにとさとしましたけれども、

つきずにはゐられませぬ」

 といつて、やはりつき時分じぶんになると、わざ〳〵縁先えんさきなどへなげきます。おきなにはそれが不思議ふしぎでもあり、こゝろがゝりでもありますので、あるとき、そのわけをきますと、

いままでに、度々たび〳〵はなししようとおもひましたが、御心配ごしんぱいをかけるのもどうかとおもつて、けることが出來できませんでした。じつまをしますと、わたしはこのくに人間にんげんではありません。つきみやこものでございます。ある因縁いんねんがあつて、この世界せかいてゐるのですが、いまかへらねばならぬときになりました。この八月はちがつ十五夜じゆうごやむかへのひとたちがれば、おわかれしてわたし天上てんじようかへります。そのときはさぞおなげきになることであらうと、前々まへ〳〵からかなしんでゐたのでございます」

 ひめはさういつて、ひとしほりました。それをくと、おきな氣違きちがひのようにしました。

たけなかからひろつてこの年月としつき大事だいじそだてたわがを、だれむかへにようともわたすものではない。もしつてかれようものなら、わしこそんでしまひませう」

つきみやこ父母ちゝはゝすこしのあひだといつて、わたしをこのくにによこされたのですが、もうなが年月としつきがたちました。みのおやのこともわすれて、こゝのお二人ふたりしたしみましたので、わたしはおそばはなれてくのが、ほんとうにかなしうございます」

 二人ふたり大泣おほなきにきました。いへものどもゝ、かほかたちがうつくしいばかりでなく、上品じようひんこゝろだてのやさしいひめに、今更いまさらながのおわかれをするのがかなしくて、湯水ゆみづのどとほりませんでした。

 このことがみかどのおみゝたつしましたので、お使つかひをくだされてお見舞みまひがありました。おきな委細いさいをおはなしして、

「この八月はちがつ十五日じゆうごにちにはてんからむかへのものるとまをしてをりますが、そのときには人數にんずをおつかはしになつて、つきみやこ人々ひと〴〵つかまへてくださいませ」

 と、く〳〵おねがひしました。お使つかひがかへつてそのとほりをまをげると、みかどおきな同情どうじようされて、いよ〳〵十五日じゆうごにちると高野たかの少將しようしようといふひと勅使ちよくしとして、武士ぶし二千人にせんにんつて竹取たけとりのおきないへをまもらせられました。さて、屋根やねうへ千人せんにんいへのまはりの土手どてうへ千人せんにんといふふう手分てわけして、てんからりて人々ひと〴〵退しりぞけるはずであります。このほかいへつかはれてゐるもの大勢おほぜいぐすねいてつてゐます。いへうちをんなどもがばんをし、おばあさんは、ひめかゝへて土藏どぞうなかにはひり、おきな土藏どぞうめて戸口とぐちひかへてゐます。そのときひめはいひました。

「それほどになさつても、なんのやくにもちません。あのくにひとれば、どこのもみなひとりでにいて、たゝかはうとするひとたちもえしびれたようになつてちからません」

「いやなあに、むかへのひとがやつてたら、ひどいはせてかへしてやる」

 とおきなはりきみました。ひめも、年寄としよつた方々かた〴〵老先おいさき見屆みとゞけずにわかれるのかとおもへば、おいとかかなしみとかのないあのくにかへるのも、一向いつこううれしくないといつてまたなげきます。

 そのうちによるもなかばになつたとおもふと、いへのあたりがにはかにあかるくなつて、滿月まんげつじつそうばいぐらゐのひかりで、人々ひと〴〵毛孔けあなさへえるほどであります。そのときそらからくもつた人々ひと〴〵りてて、地面じめんから五尺ごしやくばかりの空中くうちゆうに、ずらりとならびました。「それたっ」と、武士ぶしたちが得物えものをとつてむかはうとすると、だれもかれもものおそはれたようにたゝかもなくなり、ちからず、たゞ、ぼんやりとしてをぱち〳〵させてゐるばかりであります。そこへつき人々ひと〴〵そらくるまひとつてました。そのなかからかしららしい一人ひとりおきなして、

なんぢおきなよ、そちはすこしばかりのいことをしたので、それをたすけるために片時かたときあひだひめくだして、たくさんの黄金おうごんまうけさせるようにしてやつたが、いまひめつみえたのでむかへにた。はやかへすがよい」

 とさけびます。おきなすこしぶつてゐると、それにはかまはずに、

「さあ〳〵ひめ、こんなきたないところにゐるものではありません」

 といつて、れいくるまをさしせると、不思議ふしぎにもかたとざした格子こうし土藏どぞう自然しぜんいて、ひめからだはする〳〵とました。おきなめようとあがくのをひめしづかにおさへて、形見かたみふみいておきなわたし、またみかどにさしげるべつ手紙てがみいて、それにつき人々ひと〴〵つて不死ふしくすり一壺ひとつぼへて勅使ちよくしわたし、あま羽衣はごろもて、あのくるまつて、百人ひやくにんばかりの天人てんにんりまかれて、空高そらたかのぼつてきました。これを見送みおくつておきな夫婦ふうふはまたひとしきりこゑをあげてきましたが、なんのかひもありませんでした。

 一方いつぽう勅使ちよくし宮中きゆうちゆう參上さんじようして、その一部始終いちぶしじゆうまをげて、かの手紙てがみくすりをさしげました。みかどは、てん一番いちばんちかやま駿河するがくににあるときこして、使つかひの役人やくにんをそのやまのぼらせて、不死ふしくすりかしめられました。それからはこのやま不死ふしやまぶようになつて、そのくすりけむりはいまでもくもなかのぼるといふことであります。

底本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語 No.33」復刻版日本兒童文庫、名著普及会

   1981(昭和56)年820日発行

底本の親本:「竹取物語・今昔物語・謠曲物語」日本兒童文庫、アルス

   1928(昭和3)年35日発行

※拗促音の小書きの散在は、底本通りです。

入力:しだひろし

校正:noriko saito

2011年43日作成

青空文庫作成ファイル:

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