白い路
種田山頭火



 熟した果実がおのずから落ちるように、ほっかりと眼が覚めた。働けるだけ働いて、寝たいだけ寝た後の気分は、安らかさのうちに一味の空しさを含んでいる。……

 妻はもう起きて台所をカタコト響かせている。その響が何となく寂しい。……寂しさを感じるようではいけないと思って、ガバと起きあがる。どんより曇って今にも降り出しそうだ。何だか嫌な、陰鬱な日である。凶事が落ちかかって来そうな気がして仕方がない。

 急いで店の掃除をする。手と足とを出来るだけ動かす。とやかくするうちに飯の仕度が出来たので、親子三人が膳の前に並ぶ。暖かい飯の匂い、味噌汁の匂いが腹の底まで沁み込んで、不平も心配もいつとなく忘れてしまう。朝飯の前後は、私のようなものでも、いくらか善良な夫となり、慈愛ある父となる。そして世間で所謂 sweet home の雰囲気を少しばかり嗅ぐことが出来る!

 今日は朝早くからお客さんが多い。店番をしながら、店頭装飾を改める。貧弱な商品を並べたり拡げたり、額椽を出したり入れたりする。自分の欠点が嫌というほど眼について腹立たしい気分になるので、気を取り直しては子と二人で、栗を焼いたり話したりする。久し振りに栗を食べた。なかなか甘い。故郷から贈ってくれたのだと思うと、そのなかに故郷の好きな味いと嫌な匂いとが潜んでいるようだ。

 午後、妻子を玩具展覧会へ行かせる。久々で母子打連れて外出するので、いそいそとして嬉しそうに出て行く。その後姿を見送っているうちに、覚えずほろりとした。

 下らない空想をはらいはらい、仕入の事や、店頭装飾の事を考える。──絵葉書とか額椽とか文学書とかいうものは、陳列の巧拙によって売れたり売れなかったりする場合が多い。同業者の一人が「我々の商品は売れるものでなくて売るものである」といったそうであるが、実に経験が生んだ至言である。米屋や日用品店なぞと違って、いつも積極的に自動的に活動していなければならない。始終中しょっちゅう、清新の気分を保っていなければならない。苦しい事も多い代りには、面白い事も多い。

 二時間ばかり経って、妻子が帰って来た。子供が、陳列してある玩具を片端から買ってくれといって困ったという。まだ困った顔をしている。──滑稽な悲劇である。

 夕方、駅から着荷の通知があった。在金一切掻き集めて、受取に行こうとしているところへ、折悪く納税貯金組合から集金に来た。詮方なしに駅行を止める。今日も亦、貧乏の切なさを味わせられた。──もうだいぶ慣れて、さほど痛切ではないけれど。──

 厳密に論ずれば、貧乏は或る一つの罪悪であるかも知れない。しかし現在の社会制度に於ては──少くとも現在の私の境遇にあっては、それは耻ずべきことでもなければ誇るべきことでもない、不幸でもなければ幸福でもない、否、寧ろ幸福であるといえよう。私は「貧乏」によって、肉体的にさえも二つの幸福を与えられた。一つは禁酒であり、他の一つは飯を甘く食べることである。そして私は貧乏であることによって益々人間的になり得るらしく信じている。若し貧乏に哲学が在るとすれば、それは「微笑の哲学」でなければならない!

 夜は早く妻に店番を譲って寝床へ這い込む。いつもの癖で、いろいろの幻影がちらつく。私の前には一筋の白い路がある、果てしなく続く一筋の白い路が、……(大正五年十一月廿七日の生活記録より)

(「層雲」大正六年一月号)

底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社

   2002(平成14)年710日第1刷発行

   2007(平成19)年25日第9刷発行

初出:「層雲 大正六年一月号」

   1917(大正6)年1

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2008年519日作成

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