A LETTER FROM PRISON
‘V NAROD’ SERIES’
石川啄木



 この一篇の文書は、幸徳秋水等二十六名の無政府主義者に關する特別裁判の公判進行中、事件の性質及びそれに對する自己の見解を辨明せむがために、明治四十三年十二月十八日、幸徳がその擔當辯護人たる磯部四郎、花井卓藏、今村力三郎の三氏に獄中から寄せたものである。

 初めから終りまで全く秘密の裡に審理され、さうして遂に豫期の如き(豫期! 然り。帝國外務省さへ既に判決以前に於て、彼等の有罪を豫斷したる言辭を含む裁判手續説明書を、在外外交家及び國内外字新聞社に配布してゐたのである)判決を下されたかの事件──あらゆる意味に於て重大なる事件──の眞相を暗示するものは、今や實にただこの零細なる一篇の陳辯書あるのみである。

 これの最初の寫しは、彼が寒氣骨に徹する監房にこれを書いてから十八日目、即ち彼にとつて獄中に迎へた最初の新年、さうしてその生涯の最後の新年であつた明治四十四年一月四日の夜、或る便宜の下に予自らひそかに寫し取つて置いたものである。予はその夜の感想を長く忘れることが出來ない。ペンを走らせてゐると、遠く何處からか歌加留多の讀聲が聞えた。それを打消す若い女の笑聲も聞えた。さうしてそれは予がこれを寫し終つた後までもまだ聞えてゐた。予は遂に彼が嘗て──七年前──「歌牌の娯樂」と題する一文を週刊平民新聞の新年號に掲げてあつたことまでも思ひ出させられた。西川光二郎君──恰もその同じ新年號の而も同じ頁に入社の辭を書いた──から借りて來てゐた平民新聞の綴込を開くと、文章は次の言葉を以て結ばれてゐた。『歌がるたを樂しめる少女よ。我も亦幼時甚だ之を好みて、兄に侍し、姉に從ひて、食と眠りを忘れしこと屡々なりき。今や此樂しみなし。嗚呼、老いけるかな。顧みて憮然之を久しくす。』

 しかし彼は老いなかつたのである。然り。彼は遂に老いなかつたのである。

 文中の句讀は謄寫の際に予の勝手に施したもの、又或る數箇所に於て、一見明白なる書違ひ及び假名づかひの誤謬は之を正して置いた。

 明治四十四年五月

H, I,

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 磯部先生、花井、今村兩君足下。私共の事件の爲めに、澤山な御用を抛ち、貴重な時間を潰し、連日御出廷下さる上に、世間からは定めて亂臣賊子の辯護をするとて種々の迫害も來ることでせう。諸君が内外に於ける總ての勞苦と損害と迷惑とを考へれば、實に御氣の毒に堪へません。夫れにつけても益々諸君の御侠情を感銘し、厚く御禮申上げます。

 扨て頃來の公判の摸樣に依りますと、「幸徳が暴力革命を起し」云々の言葉が、此多數の被告を出した罪案の骨子の一となつてゐるにも拘らず、檢事調に於ても、豫審に於ても、我等無政府主義者が革命に對する見解も、又其運動の性質なども一向明白になつてゐないで、勝手に臆測され、解釋され、附會されて來た爲めに、餘程事件の眞相が誤られはせぬかと危むのです。就ては、一通り其等の點に關する私の考へ及び事實を御參考に供して置きたいと思ひます。


無政府主義と暗殺


 無政府主義の革命といへば、直ぐ短銃や爆彈で主權者を狙撃する者の如くに解する者が多いのですが、夫は一般に無政府主義の何者たるかが分つてゐない爲めであります。辯護士諸君には既に承知になつてる如く、同主義の學説は殆ど東洋の老莊と同樣の一種の哲學で、今日の如き權力、武力で強制的に統治する制度がなくなつて、道徳、仁愛を以て結合せる、相互扶助、共同生活の社會を現出するのが、人類社會必然の大勢で、吾人の自由幸福を完くするのには、此大勢に從つて進歩しなければならないといふに在るのです。

 隨つて無政府主義者が壓政を憎み、束縛を厭ひ、同時に暴力を排斥するのは必然の道理で、世に彼等程自由、平和を好むものはありません。彼等の泰斗と目せらるるクロポトキンの如きも、判官は單に無政府主義者かと御問ひになつたのみで、矢張亂暴者と思召して御出かも知れませんが、彼は露國の伯爵で、今年六十九歳の老人、初め軍人となり、後ち科學を研究し、世界第一流の地質學者で、是まで多くの有益な發見をなし、其他哲學、文學の諸學通ぜざるなしです。二十餘年前、佛國里昂の勞働者の爆彈騷ぎに關係せる嫌疑で入獄した際、歐州各國の第一流の學者、文士連署して佛國大統領に陳情し、世界の學術の爲めに彼を特赦せんことを乞ひ大統領は直ちに之を許しました。その連署者には大英百科全書に執筆せる諸學者も總て之に加はり、日本で熟知せらるるスペンサー、ユーゴーなども特に數行を書添へて署名しました。以て其の學者としての地位、名聲の如何に重きかを知るべしです。そして彼の人格は極めて高尚で、性質は極めて温和、親切で、決して暴力を喜ぶ人ではありません。

 又クロポトキンと名を齊しくした佛蘭西の故エリゼー・ルクリユス(Ruclus)の如きも、地理學の大學者で、佛國は彼が如き大學者を有するを名譽とし、市會は彼を紀念せんが爲めに巴里の一道路に彼の名を命けた位です。彼は殺生を厭ふの甚だしき爲め、全然肉食を廢して菜食家となりました。歐米無政府主義者の多くは菜食者です。禽獸をすら殺すに忍びざる者、何ぞ人の解する如く殺人を喜ぶことがありませうか。

 此等首領と目さるる學者のみならず、同主義を奉ずる勞働者は、私の見聞した處でも、他の一般勞働者に比すれば、讀書もし、品行もよし、酒も煙草も飮まぬものが多いのです。彼等は決して亂暴ではないのであります。

 成程無政府主義者中から暗殺者を出したのは事實です。併し夫れは同主義者だから必ず暗殺者たるといふ譯ではありません。暗殺者の出るのは獨り無政府主義者のみでなく、國家社會黨からも、共和黨からも、自由民權論者からも、愛國者からも、勤王家からも澤山出て居ります。是まで暗殺者といへば大抵無政府主義者のやうに誣ひられて、其數も誇大に吹聽されてゐます。現に露國亞歴山二世帝を弑した如きも、無政府黨のやうに言はれますが、アレは今の政友會の人々と同じ民權自由論者であつたのです。實際歴史を調べると、他の諸黨派に比して無政府主義者の暗殺が一番僅少なので、過去五十年許りの間に全世界を通じて十指にも足るまいと思ひます。顧みて彼の勤王家、愛國家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、我日本のみにして殆ど數十人或は數百人を算するではありませんか。單に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言はば、勤王論、愛國思想ほど激烈な暗殺主義はない筈であります。

 故に暗殺者の出るのは、其主義の如何に關する者でなくて、其時の特別の事情と、其人の特有の氣質とが相觸れて、此行爲に立至るのです。例へば、政府が非常な壓制をやり、其爲めに多數の同志が言論、集會、出版の權利自由を失へるは勿論、生活の方法すらも奪はるるとか、或は富豪が横暴を極めたる結果、哀民の飢凍悲慘の状見るに忍びざるとかいふが如きに際して、而も到底合法平和の手段を以て之に處するの途なきの時、若しくは途なきが如く感ずるの時に於て、感情熱烈なる青年が暗殺や暴擧に出るのです。是彼等にとつては殆ど正當防衞ともいふべきです。彼の勤王、愛國の志士が時の有司の國家を誤らんとするを見、又は自己等の運動に對する迫害急にして他に緩和の法なきの時、憤慨の極暗殺の手段に出ると同樣です。彼等元より初めから好んで暗殺を目的とも手段ともするものでなく、皆自己の氣質と時の事情とに驅られて茲に至るのです。そして其歴史を見れば、初めに多く暴力を用うるのは寧ろ時の政府、有司とか、富豪、貴族とかで、民間の志士や勞働者は常に彼等の暴力に挑發され、酷虐され、窘窮の餘已むなく亦暴力を以て之に對抗するに至るの形迹があるのです。米國大統領マツキンレーの暗殺でも、伊太利王ウンベルトのでも、又西班牙王アルフオンソに爆彈を投じたのでも、皆夫れ夫れ其時に特別な事情があつたのですが、餘り長くなるから申しません。

 要するに、暗殺者は其時の事情と其人の氣質と相觸るる状況如何によりては、如何なる黨派からでも出るのです。無政府主義者とは限りません。否、同主義者は皆平和、自由を好むが故に、暗殺者を出すことは寧ろ極めて少なかつたのです。私は今回の事件を審理さるる諸公が、「無政府主義者は暗殺者なり」との妄見なからんことを希望に堪へませぬ。


革命の性質


 爆彈で主權者を狙撃するのでなければ、無政府的革命はドウするのだといふ問題が生ずる。革命の熟語は支那の文字で、支那は甲姓の天子が天命を受けて乙姓の天子に代るを革命といふのだから、主に主權者とか、天子とかの更迭をいふのでせうが、私共の革命はレウオルーシヨンの譯語で、主權者の變更如何には頓着なく、政治組織、社會組織が根本に變革されねば革命とは申しません。足利が織田にならうが、豐臣が徳川にならうが、同じ武斷封建の世ならば革命とは申しません。王政維新は天子は依然たるも革命です。夫れも天子及び薩長氏が徳川氏に代つたが爲めに革命といふのではなく、舊來凡百の制度、組織が根底から一變せられたから革命といふのです。一千年前の大化の新政の如きも、矢張り天皇は依然たるも、又人民の手でなく天皇の手に依つて成されても、殆ど革命に近かつたと思ひます。即ち私共が革命といふのは、甲の主權者が乙の主權者に代るとか、丙の有力な個人若しくは黨派が丁の個人若しくは黨派に代つて政權を握るといふのでなく、舊來の制度、組織が朽廢衰弊の極崩壞し去つて、新たな社會組織が起り來るの作用を言ふので、社會進化の過程の大段落を表示する言葉です。故に嚴正な意味に於ては、革命は自然に起り來る者で、一個人や一黨派で起し得るものではありません。

 維新の革命に致しても、木戸や西郷や大久保が起したのではなく、徳川氏初年に定めた封建の組織、階級の制度が三百年間の人文の進歩、社會の發達に伴はなくて、各方面に朽廢を見、破綻を生じ、自然に傾覆するに至つたのです。此舊制度、舊組織の傾覆の氣運が熟しなければ、百の木戸、大久保、西郷でもドウすることも出來ません。彼等をして今二十年早く生れしめたならば、矢張り吉田松陰などと一處に馘られるか、何事もなし得ずに埋木になつて了つたでせう。彼等幸ひに其時に生れて其事に與り、其勢ひに乘じたのみで、決して彼等が起したのではありません。革命の成るのは何時でも水到渠成るのです。

 故に革命をドウして起すか、ドウして行ふかなどといふことは、到底豫め計畫し得べきことではありません。維新の革命でも形勢は時々刻々に變じて、何人も端睨、揣摩し得る者はありませんでした。大政返上の建白で平和に政權が引渡されたかと思ふと、伏見、鳥羽の戰爭が始まる。サア開戰だから江戸が大修羅場になるかと思へば、勝と西郷とで此危機をソツとコハして仕まつた。先づ無事に行つたかと思ふと、又彰義隊の反抗、奧羽の戰爭があるといふ風である。江戸の引渡しですらも、勝、西郷の如き人物が双方へ一時に出たから良かつたものの、此千載稀れな遇合が無かつたら、ドンな大亂に陷つてゐたかも知れぬ。是れ到底人間の豫知す可からざる所ではありますまいか。左すれば識者、先覺者の豫知し得るは、來るべき革命が平和か、戰爭か、如何にして成るかの問題ではなくして、唯だ現時の制度、組織が、社會、人文の進歩、發達に伴はなくなること、其傾覆と新組織の發生は不可抗の勢ひなること、封建の制がダメになれば、其次には之と反對の郡縣制にならねばならぬこと、專制の次には立憲自由制になるのが自然なること等で、此理を推して、私共は、個人競爭、財産私有の今日の制度が朽廢し去つた後は、共産制が之に代り、近代的國家の壓制は無政府的自由制を以て掃蕩せらるるものと信じ、此革命を期待するのです。

 無政府主義者の革命成るの時、皇室をドウするかとの問題が先日も出ましたが、夫れも我々が指揮、命令すべきことでありません。皇室自ら決すべき問題です。前にも申す如く、無政府主義者は武力、權力に強制されない萬人自由の社會の實現を望むのです。其社會成るの時、何人が皇帝をドウするといふ權力を持ち、命令を下し得るものがありませう。他人の自由を害せざる限り、皇室は自由に、勝手に其尊榮、幸福を保つの途に出で得るので、何等の束縛を受くべき筈はありません。

 斯くて我々は、此革命が如何なる事情の下に、如何なる風に成し遂げられるかは分りませんが、兎に角萬人の自由、平和の爲めに革命に參加する者は、出來得る限り暴力を伴はないやうに、多く犧牲を出さぬやうに努むべきだと考へます。古來の大變革の際に多少の暴力を伴ひ、多少の犧牲を出さぬはないやうですが、併し斯かる衝突は常に大勢に逆抗する保守、頑固の徒から企てられるのは事實です。今日ですら人民の自由、平和を願ふと稱せられてゐる皇室が、其時に於て斯かる保守、頑固の徒と共に大勢に抗し、暴力を用ゐらるるでせうか。今日に於て之を想像するのは、寛政頃に元治、慶應の事情を想像する如く、到底不可能のことです。唯だ私は、無政府主義の革命とは直ちに主權者の狙撃、暗殺を目的とする者なりとの誤解なからんことを望むのみです。


所謂革命運動


 革命が水到渠成るやうに自然の勢ひなれば、革命運動の必要はあるまい、然るに現に革命運動がある。其革命運動は即ち革命を起して爆彈を投ぜんとするものではないか、といふ誤解があるやうです。

 無政府主義者が一般に革命運動と稱してゐるのは、直ぐ革命を起すことでもなく、暗殺、暴動をやることでもありません。誰だ來らんとする革命に參加して應分の力を致すべき思想、智識を養成し、能力を訓練する總ての運動を稱するのです。新聞、雜誌の發行も、書籍、册子の著述、頒布も、演説も、集會も皆此時勢の推移し、社會の進化する所以の來由と歸趨とを説明し、之に關する智識を養成するのです。そして勞働組合を設けて諸種の協同の事業を營むが如きも、亦革命の新生活を爲し得べき能力を訓練し置くに利益があるのです。併し日本從來の勞働組合運動なるものは、單に眼前勞働者階級の利益増進といふのみで、遠き將來の革命に對する思想よりせる者はなかつたのです。無政府主義者も日本に於ては未だ勞働組合に手をつけたことはありません。

 故に今一個の青年が、平生革命を主張したとか、革命運動をなしたといつても、直ちに天皇暗殺若しくは暴擧の目的を以て運動せりと解して之を責めるのは殘酷な難題です。私共の仲間では、無政府主義の學説を講ずるのでも、又此主義の新聞や引札を配布してゐるのでも、之を稱して革命運動をやつてるなどといふのは普通のことです。併し之は革命を起すといふこととは違ひます。

 革命が自然に來るのなら、運動は無用の樣ですが、決してさうではありません。若し舊制度、舊組織が衰朽の極に達し、社會が自然に崩壞する時、如何なる新制度、新組織が之に代るのが自然の大勢であるかに關して、何等の思想も智識もなく、之に參加する能力の訓練もなかつた日には、其社會は革命の新しい芽を吹くことなくして、舊制度と共に枯死して了ふのです。之に反して智識と能力の準備があれば、元木の枯れた一方から新たなる芽が出るのです。羅馬帝國の社會は、其腐敗に任せて何等の新主義、新運動のなかつた爲めに滅亡しました。佛蘭西はブルボン王朝の末年の腐敗がアレ程になりながら、一面ルーソー、ヴォルテール、モンテスキュー等の思想が新生活の準備をした爲めに、滅亡とならずして革命となり、更に新しき佛蘭西が生れ出た。日本維新の革命に對しても其以前から準備があつた。即ち勤王思想の傳播です。水戸の大日本史でも、山陽の外史、政記でも、本居、平田の國學も、高山彦九郎の遊説もそれであります。彼等は徳川氏の政權掌握てふことが漸次日本國民の生活に適しなくなつたことを直覺し、寧ろ直感した。彼等は或は自覺せず、或は朧氣に自覺して革命の準備を爲したのです。徳川家瓦解の時は、王政復古に當つてマゴつかない丈けの思想、智識が既に養成せられてゐた。斯くて滅亡とならずして立派な革命は成就せられた。若し是等の革命運動が其準備をしてゐなかつたなら、當時外人渡來てふ境遇の大變に會つて、危い哉、日本は或は今日の朝鮮の運命を見たかも知れませぬ。朝鮮の社會が遂に獨立を失つたのは、永く其腐敗に任せ、衰朽に任せて、自ら振作し、刷新して、新社會、新生活に入る能力、思想のなかつた爲めであると思ひます。

 人間が活物、社會が活物で、常に變動進歩して已まざる以上、萬古不易の制度、組織はあるべき筈がない。必ず時と共に進歩、改新せられねばならぬ。其進歩、改進の小段落が改良或は改革で、大段落が革命と名づけられるので、我々は此社會の枯死、衰亡を防ぐ爲めには、常に新主義、新思想を鼓吹すること、即ち革命運動の必要があると信ずるのです。


直接行動の意義


 私はまた今回の檢事局及び豫審廷の調べに於て、直接行動てふことが、矢張暴力革命とか、爆彈を用うる暴擧とかいふことと殆ど同義に解せられてゐる觀があるのに驚きました。

 直接行動は英語のヂレクト・アクシヨンを譯したので、歐米で一般に勞働運動に用うる言葉です。勞働組合の職工の中には無政府黨もあり、社會黨もあり、忠君愛國論者もあるので、別に無政府主義者の專有の言葉ではありません。そして其意味する所は、勞働組合全體の利益を増進するのには、議會に御頼み申しても埒が明かぬ、勞働者のことは勞働者自身に運動せねばならぬ。議員を介する間接運動でなくして勞働者自身が直接に運動しよう、即ち總代を出さないで自分等で押し出さうといふのに過ぎないのです。今少し具體的に言へば、工場の設備を完全にするにも、勞働時間を制限するにも、議會に頼んで工場法を拵へて貰ふ運動よりも、直接に工場主に談判する、聞かなければ同盟罷工をやるといふので、多くは同盟罷工のことに使はれてゐるやうです。或は非常の不景氣、恐慌で、餓孚途に横はるといふやうな時には、富豪の家に押入つて食品を收用するもよいと論ずる者もある。收用も亦直接行動の一ともいへぬではない。又革命の際に於て、議會の決議や法律の協定を待たなくても、勞働組合で總てをやつて行けばよいといふ論者もある。是も直接行動とも言へるのです。

 併し、今日直接行動説を贊成したといつても、總ての直接行動、議會を經ざる何事でも贊成したといふことは言へませぬ。議會を經ないことなら、暴動でも、殺人でも、泥棒でも、詐僞でも皆直接行動ではないか、といふ筆法で論ぜられては間違ひます。議會は歐米到る處腐敗してゐる。中には善良な議員が無いでもないが、少數で其説は行はれぬ。故に議院をアテにしないで直接行動をやらうといふのが、今の勞働組合の説ですから、やるなら直接行動をやるといふので、直接行動なら何でもやるといふのではありません。同じく議會を見限つて直接行動を贊する人でも、甲は小作人同盟で小作料を値切ることのみやり、乙は職工の同盟罷工のみを賛するといふ樣に、其人と其場合とによりて目的、手段、方法を異にするのです。故に直接行動を直ちに暴力革命なりと解し、直接行動論者たりしといふことを今回の事件の有力な一原因に加へるのは、理由なきことです。


歐州と日本の政策


 今回の事件の眞相と其動機とが何處に在るかは姑く措き、以上述ぶるが如く、無政府主義者は決して暴力を好む者でなく、無政府主義の傳道は暴力の傳道ではありません。歐米でも同主義に對しては甚だしき誤解を抱いてゐます。或は知つて故らに曲解し、讒誣、中傷してゐますが、併し日本や露國のやうに亂暴な迫害を加へ、同主義者の自由、權利を總て剥奪、蹂躝して、其生活の自由まで奪ふやうなことはまだありません。歐州の各文明國では無政府主義の新聞、雜誌は自由に發行され、其集會は自由に催されてゐます。佛國などには同主義の週刊新聞が七八種もあり、英國の如き君主國、日本の同盟國でも、英文や露文や猶太語のが發行されてゐます。そしてクロポトキンは倫敦にゐて自由に其著述を公にし、現に昨年出した「露國の慘状」の一書は、英國議會の「露國事件調査委員會」から出版いたしました。私の譯した「麺麭の略取」の如きも、佛語の原書で、英、獨、露、伊、西等の諸國語に飜譯され、世界的名著として重んぜられてゐるので、之を亂暴に禁止したのは、文明國中日本と露國のみなのです。

 成程、無政府主義は危險だから、同盟して鎭壓しようといふことを申出した國もあり、日本にも其交渉があつたかのやうに聞きました。が、併し、此提議をするのは、大概獨逸とか、伊太利とか、西班牙とかで、先づ亂暴な迫害を無政府主義者に加へ、彼等の中に激昂の極多少の亂暴する者あるや、直ちに之を口實として鎭壓策を講ずるのです。そして此列國同盟の鎭壓條約は、屡々提議されましたが、曾て成立したことはありません。いくら腐敗した世の中でも、兎に角文明の皮を被つてる以上、さう人間の思想の自由を蹂躝することは出來ない筈です。特に申しますが、日本の同盟國たる英國は何時も此提議に反對するのです。


一揆暴動と革命


 單に主權者を更迭することを革命と名づくる東洋流の思想から推して、強大なる武力、兵力さへあれば何時でも革命を起し、若しくは成し得るやうに考へ、革命家の一揆暴動なれば總て暴力革命と名づくべきものなりと極めて了つて、今回の「暴力革命」てふ語が出來たのではないかと察せられます。併し私共の用うる革命てふ語の意義は前申上ぐる通りで、又一揆暴動は文字の如く一揆暴動で、此點は區別しなければなりません。私が大石、松尾などに話した意見(是が計畫といふものになるか、陰謀といふものになるかは、法律家的ならぬ私には分りませんが)には、曾て暴力革命てふ語を用ゐたことはないので、是は全く檢事局或は豫審廷で發明せられたのです。

 大石は豫審廷で、「幸徳から巴里コンミユンの話を聞いた」と申立てたといふことを、豫審判事から承はりました。成程私は巴里コンミユンの例を引いたやうです。磯部先生の如き佛蘭西學者は元より詳細御承知の如く、巴里コンミユンの亂は、一千八百七十一年の普佛戰爭媾和の屈辱や、生活の困難やで人心恟々の時、勞働者が一揆を起して巴里を占領し、一時市政を自由にしたことであります。此時も政府内閣はヴエルサイユに在つて、別に顛覆された譯でもなく、唯だ巴里市にコンミユン制を一時建てただけなんです。から、一千七百九十五年の大革命や、一千八百四十八年の革命などと同樣の革命といふべきではなく、普通にインサレクシヨン即ち暴動とか、一揆とか言はれてゐます。公判で大石はまた佛蘭西革命の話など申立てたやうですが、夫れは此巴里コンミユンのことだらうと思ひます。彼はコンミユンの亂を他の革命の時にあつた一波瀾のやうに思ひ違へてゐるのか、或は單に巴里コンミユンといふべきを言ひ違へたのであらうと思はれます。

 コンミユンの亂ではコンナことをやつたが、夫れ程のことは出來ないでも、一時でも貧民に煖かく着せ、飽くまで食はせたいといふのが話の要點でした。是れとても無論直ちに是を實行しようといふのではなく、今日の經濟上の恐慌、不景氣が若し三五年も續いて、餓孚途に横はるやうな慘状を呈するやうになれば、此暴動をなしても彼等を救ふの必要を生ずるといふことを豫想したのです。是は最後の調書のみでなく、初めからの調書を見て下されば、此意味は十分現れてゐると思ひます。

 例へば、天明や天保のやうな困窮の時に於て、富豪の物を收用するのは、政治的迫害に對して暗殺者を出すが如く、殆ど彼等の正當防衞で、必至の勢ひです。此時にはこれが將來の革命に利益あるや否やなどの利害を深く計較してゐることは出來ないのです。私は何の必要もなきに平地に波瀾を起し、暴動を敢てすることは、財産を破壞し、人命を損し、多く無益の犧牲を出すのみで、革命に利する處はないと思ひます。が、政府の迫害や富豪の暴横其極に達し、人民溝壑に轉ずる時、之を救ふのは將來の革命に利ありと考へます。左ればかかることは利益を考へてゐて出來ることではありません。其時の事情と感情とに驅られて我れ知らず奮起するのです。

 大鹽中齋の暴動なども左樣です。飢饉に乘じて富豪が買占を爲る、米價は益々騰貴する。是れ富豪が間接に多數の殺人を行つてゐるものです。坐視するに忍びないことです。此亂の爲めに徳川氏の威嚴は餘程傷けられ、革命の氣運が速められたことは史家の論ずる所なれど、大鹽はそこまで考へてゐたか否か分りません。又「彼が革命を起せり」といふことは出來ないのです。

 然るに、連日の御調に依つて察するに、多數被告は皆「幸徳の暴力革命に與せり」といふことで公判に移されたやうです。私も豫審廷に於て幾回となく暴力革命云々の語で訊問され、革命と暴動との區別を申立てて文字の訂正を乞ふのに非常に骨が折れました。「名目はいづれでも良いではないか」と言はれましたが、多數の被告は今や此名目の爲めに苦しんで居ると思はれます。私の眼に映じた處では、檢事、豫審判事は先づ私の話に「暴力革命」てふ名目を附し、「決死の士」といふ六ヶしい熟語を案出し、「無政府主義の革命は皇室をなくすることである。幸徳の計畫は暴力で革命を行ふのである。故に之に與せるものは大逆罪を行はんとしたものに違ひない」といふ三段論法で責めつけられたものと思はれます。そして平生直接行動、革命運動などいふことを話したことが、彼等に累してゐるといふに至つては、實に氣の毒に考へられます。


聞取書及調書の杜撰


 私共無政府主義者は、平生今の法律裁判てふ制度が完全に人間を審判し得るとは信じないのでしたけれど、今回實地を見聞して更に危險を感じました。私は唯だ自己の運命に滿足する考へですから、此點に就いて最早呶々したくはありませんが、唯だ多數被告の利害に大なる關係があるやうですから、一應申上げたいと思ひます。

 第一、檢事の聞取書なるものは、何と書いてあるか知れたものでありません。私は數十回檢事の調べに會ひましたが、初め二三回は聞取書を讀み聞かされましたけれど、其後は一切其場で聞取書を作ることもなければ、隨つて讀み聞かせるなどといふこともありません。其後豫審廷に於て、時々、檢事の聞取書にはかう書いてあると言はれたのを聞くと、殆ど私の申立と違はぬはないのです。大抵、檢事が斯うであらうといつた言葉が、私の申立として記されてあるのです。多數の被告に付いても皆同樣であつたらうと思ひます。其時に於て豫審判事は聞取書と被告の申立と孰れに重きを置くでせうか。實に危險ではありませんか。

 又檢事の調べ方に就いても、常に所謂「カマ」をかけるのと、議論で強ひることが多いので、此カマを看破する力と、檢事と議論を上下し得るだけの口辯を有するにあらざる以上は、大抵檢事の指示する通りの申立をすることになると思はれます。私は此點に就いて一々例證を擧げ得ますけれど、クダクダしいから申しません。唯だ私の例を以て推すに、他の斯かる場所になれない地方の青年などに對しては、殊にヒドかつたらうと思はれます。石卷良夫が「愚童より宮下の計畫を聞けり」との申立を爲したといふことの如きも、私も當時聞きまして、また愚童を陷れむが爲めに奸策を設けたなと思ひました。宮下が爆彈製造のことは、愚童、石卷の會見より遙か後のことですから、そんな談話のある筈がありません。此事の如きは餘りに明白で直ぐ分りますけれど、巧みな「カマ」には何人もかかります。そして「アノ人がさう言へば、ソンナ話があつたかも知れません」位の申立をすれば、直ぐ「ソンナ話がありました」と確言したやうに記載されて、之がまた他の被告に對する責道具となるやうです。こんな次第で、私は檢事の聞取書なる者は、殆ど檢事の曲筆舞文、牽強附會で出來上つてゐるだらうと察します。一讀しなければ分りませんが。

 私は豫審判事の公平、周到なることを信じます。他の豫審判事は知らず、少くとも私が調べられました潮判事が公平、周到を期せられたことは明白で、私は判事の御調べに殆ど滿足してゐます。

 けれど、如何に判事其人が公平、周到でも、今日の方法制度では完全な調書の出來る筈はありません。第一、調書は速記でなくて、一通り被告の陳述を聞いた後で、判事の考へで之を取捨して問答の文章を作るのですから、申立ての大部分が脱することもあれば、言はない言葉が揷入されることもあります。故に被告の言葉を直接聞いた豫審判事には被告の心持がよく分つてゐても、調書の文字となつて他人が見れば、其文字次第で大分解釋が違うて參ります。

 第二は、調書訂正の困難です。出來た調書を書記が讀み聞かせますけれど、長い調べで少しでも頭腦が疲勞してゐれば、早口に讀み行く言葉を聞き損じないだけがヤツトのことで、少し違つたやうだと思つても、咄嗟の間に判斷がつきません。それを考へる中に讀聲はドシドシ進んで行く。何を讀まれたか分らずに了ふ。そんな次第で、數ヶ所、十數ヶ所の誤りがあつても、指摘して訂正し得るのは一ヶ所位に過ぎないのです。それも文字のない者などは適當の文字が見つからぬ。「かう書いても同じではないか」と言はれれば、爭ふことの出來ぬのが多からうと思ひます。私なども一々添削する譯にも行かず、大概ならと思つて其儘にした場合が多かつたのです。第三には、私初め豫審の調べに會つたことのない者は、豫審は大體の下調べだと思つて、左程重要と感じない、殊に調書の文字の一字、一句が殆ど法律條項の文字のやうに確定して了ふ者とは思はないで、孰れ公判があるのだから其時に訂正すれば良い位で、強いて爭はずに捨て置くのが多いと思ひます。是は大きな誤りで、今日になつて見れば、豫審調書の文字ほど大切なものはないのですけれど、法律裁判のことに全く素人なる多數の被告は、さう考へたらうと察します。こんな次第で豫審調書も甚だ杜撰なものが出來上つてゐます。私は多少文字のことに慣れてゐて隨分訂正もさせました。けれど、それすら多少疲れてゐる時は面倒になつて、いづれ公判があるからといふので其儘に致したのです。況んや多數の被告をやです。

 聞取書、調書を杜撰にしたといふことは、制度の爲めのみでなく、私共の斯かることに無經驗なるより生じた不注意の結果でもあるので、私自身は今に至つて其訂正を求めるとか、誤謬を申立てるとかいふことは致しませんが、どうか彼の氣の毒な多數の地方青年の爲めに御含み置きを願ひたいと存じます。

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 以上、私の申上げて御參考に供したい考への大體です。何分連日の公判で頭腦が疲れてゐる爲めに、思想が順序よく纒まりません。加ふるに、火のない室で、指先が凍つて了ひ、是まで書く中に筆を三度取落した位ですから、唯だ冗長になるばかりで、文章も拙く、書體も亂れて、嘸ぞ御讀みづらいでありませう。どうか御諒恕を願ひます。

 兎に角右述べました中に、多少の取るべきあらば、更に之を判官、檢事諸公の耳目に達したいと存じます。

 明治四十三年十二月十八日午後

東京監獄監房にて
幸徳傳次郎



EDITOR'S NOTES


*一 幸徳はこれを書いてから數日の後、その辯護人の勸めによつて、この陳辯書と同一の事を彼自ら公判廷に陳述したさうである。'V NAROD' SERIES の編輯者は、此事を友人にして且同事件の辯護人の一人であつた若い法律家 H──君から聞いた。

*二 亂臣賊子の辯護をするのは不埓だといふ意味の脅迫的な手紙が二三の辯護士の許に屆いたのは事實である。さうしてさういふ意見が無智な階級にのみでなく、所謂教育ある人士の間にさへ往々にして發見されたのも事實である。編輯者は當時その勤めてゐる新聞社の編輯局で遭遇した一つの出來事に今猶或る興味を有つてゐる。それはもう晝勤の人々が皆歸つて了つて、數ある卓子の上に電燈が一時に光を放つてから間もなくの時間であつた。予の卓子の周圍には二人の人──マスター・オヴ・アーツの學位を有する外電係と新しく社會部に入つた若い、肥つた法學士──とが集つてゐた。この若い法學士は何處までも「若い法學士」──何事に對しても、たとへば自分の少しも知らぬ事に對しても、必ず何等かの「自分の意見」を持ち出さずには止まれぬ──の特性を發揮した人で、社會部の次席編輯者が數日前の新聞のこの事件の記事に「無政府共産黨陰謀事件」といふ標題を附けたことに就いて頻りに攻撃の言葉を放つた。彼の言ふ處によると、無政府共産黨といふ言葉は全く意味を成さぬ言葉で、この滑稽な造語を敢てした次席編輯者(彼は法學士ではなかつた)は屹度何か感違ひをしてゐるのであらうといふことであつた。さうして彼はその記事の出た朝の新聞を見た時には、思はず吹き出したのださうである。予はこの何事にも自信の強い人の自信を傷けることを遠慮しながら、クロポトキンの或る著述の或る章の標題にたしか Anarchist Communism と書いてあつた筈だと話したが、「法學士」は無論自分の讀んだことのない本のことを自分より無學な者の話すのに耳を傾ける人ではなかつた。『しかし「無政府」といふことと「共産」といふこととは全く別なことなんだから、それを一しよにするのはどうしても滑稽だなあ』これ彼の最後の言葉であつた。彼にとつては、政治は政治、經濟は經濟、さうして又宗教(彼は基督教徒であつた)は宗教、實際生活は實際生活で、その間に何等の内部的關係なく、人生は恰も歌牌の札の如く離れ離れなものであつた。しかし予はもうこの上彼の自信を傷けることはしなかつた。又その所謂滑稽な言葉は、犯罪の動機及性質に就いて檢事總長から各新聞社に對して發表した文書(すでに記事として掲載された)にあつたので、次席編輯者がそれを襲用したに過ぎぬといふことも言はなかつた。何故なれば、予はその時、假りにこの法學士の用ゐた論理を借りると、或る面白い結論を得るといふことに氣が付いたからである。さうして予はただ笑つた。彼の論理に從へば、「尊王攘夷」とか、「忠君愛國」とか、「立憲君主制」とかいふ言葉がすべて滑稽な、矛盾した言葉になる許りでなく、「日本の道徳は忠孝を本とす」といふことさへ「吹き出」さねばならぬことになるのである。

 やがて、卓子の端に腰かけて片足をぶらぶらさしてゐた外電係兼國際論文記者が口を開くべき機會を得た。この學者──實際この人は、何事にも退嬰的な態度をとることと、その癖平生は人の意見には頓着なしに自分の言ひたいことだけを言ふといつた風な傾きのあることとの二つの學者的な習癖を除いては、殆ど全く非難すべき點のない、温厚な、勤勉な、頭の進んだ學者で、現に東京帝國大學に講師となり、繁劇な新聞の仕事をやる傍ら、其處の商科に社會學及社會政策の講義をしてゐるが、しかしその最も得意とする處は寧ろ國際法學であつて、特にその米國に關する國際法に於ては自分が日本のオオソリチイであると、嘗て彼自ら子供らしい無邪氣を以て語つたことがあつた。彼の論文は時々彼等少數の國際法學者の學會から發行する機關雜誌の卷頭を飾ることがあり、且つ彼の從事してゐる新聞は國際的事件に關する評論を掲ぐること最も多き新聞である。さうして彼はまた十數年以前に於て、日本に於ける最初のバイロン傳の著者であつた。──この學者は、その專門的な立場から、今度の事件に對する日本政府の處置の如何が如何に國際上に影響するかといふことに就いて話し出した。若し噂の如く彼等二十六人をすべて秘密裁判の後に死刑に處するといふやうなことになれば、思想の自由を重んずる歐米人の間に屹度日本に對する反感が起るに違ひない。反感は一度起つたら仲々消えるものでない。さうしてその反感──日本が憎むべき壓制國だといふ感情が一度起るとすれば、今後日本政府の行爲──たとへば朝鮮に於ける──が今迄のやうに好意的に批評される機會がなくなるかも知れぬ。間接ではあるけれども、かういふ影響は却つて豫期しない程の損失を外交上齎すことがないと言へぬといふのであつた。さうして彼は恰もその講座に立つて學生に話す時のやうに、指の短い小さい手を以て一種の調子をとりながら、以上の意見に裏書すべき一つの事實について語り出した。それは露佛同盟が何故その最初の提議から數箇年の後まで締結されなかつたかといふ事情であつた。當時佛國の上下には、露國政府の殘酷な壓制に苦しんでゐる同國の自由主義者及び波蘭人に對する同情が非常に盛んであつた。駐佛露國公使を主賓とした或る宴會に於て、佛國の小壯議員が公使の面前に一齊に盃を擧げて「波蘭萬歳」を叫び、爲めに公使が宴半ばに密かに逃げ出したといふやうな事さへあつた。この事情こそ、實に、兩國の當時の國勢に於て、一方は國債市場を得る意味から、一方は對獨關係から、全く必至の要求であつた所の同盟を、猶且つ數年の間延期せしめた眞の理由であつた。何故なれば、時の佛國政府にして若しも早急にこの同盟を締結しようとすれば、それに先立つて先づ、「壓制者の黨與」てふ惡名を負はされ、おまけにその内閣の椅子を空け渡すだけの決心をする必要があつたのである──。

 恰度比處まで彼の語り來つた時に、やや離れた卓子にゐた一人の記者──その編輯してゐる地方版の一つの大組が遲れた爲めに殘つてゐた──が、何を思つたか、突然椅子を離れて、だらしなく腰に卷いた縮緬の兵子帶の前に兩手を突込み、肩を怒らした歩き方で我々の方に近づいて來た。さうして、謠曲で鍛へた錆のある聲で、叱るやうに言つた。

『さういふ議論は可かん。さういふ議論を聞くと、吾輩も大いに口を出さねばならん』

 彼は故落合直文の門下から出て新聞記者になつた人で、年はまだ三十八九にしかならぬ癖に大分頭の禿げてゐると同じく、その記者としての風格、技倆も何時か知ら時代の進歩に伴はなくなつてゐた。ただ彼は主筆の親戚であつた。さうして彼の癖は醉うて謠曲を唸ることと、常に東洋豪傑的の言語、擧動を弄ぶことであつた。

 我々三人は一樣にその聲に驚かされた。さうして默つて彼の顏を見上げた。彼は直ぐまた口を尖らして吒るやうな言葉を續けた。『ああいふ奴等は早速殺して了はなくちや可かん。全部やらなくちや可かん。さうしなくちや見せしめにならん。一體日本の國體を考へて見ると、彼奴等を人並に裁判するといふのが既に恩典だ………諸君は第一此處が何處だと思ふ。此處は日本國だ。諸君は日本國に居つて、日本人だといふことを忘れとる。外國の手前手前といふが、外國の手前が何だ。外國の手前ばかり考へて初めから腰を拔かしてゐたら何が出來る。僕が若し當局者だつたら、彼等二十六名を無裁判で死刑にしてやる、さうして彼等の近親六族に對して十年間も公民權を停止してやる。のう、君、彼等は無政府主義だから、無裁判でやつつけるのが一番可いぢやないか。』

 名指された予は何とも返事のしようがなかつた。ただ苦笑した。我が國際法學者はこの時漸くその不意を食つた驚きから覺めたやうに物靜かに笑つた。

『しかし日本も文明國なさうだからなあ』

『さうさ、文明國さ』「日本人」は奪ひ取るやうに言つた。『しかし考へて見たまへ。建國の精神を忘れるのが若し文明なら、僕は文明に用はない。その精神を完全に發揮してこそ眞の文明ぢやないか。文明、文明といつて日本の國體を忘れてるやうな奴は、僕は好かん。第一僕は今度のやうな事の起つた際に、花井だの何だのいふ三百代言共が、その辯護を引受けるのが可かんと思ふのだ。何處を辯護する。辯護すべき點が一つもないぢやないか。貴樣達のやうな事をする奴を辯護する者は日本に一人もゐないぞといふことを示してやらなくちや可かん……』

『それあさういふ極端な保守主義の議論も』と、コツコツ卓子を叩いてゐた鉛筆を左の胸のポケツトに揷して、法學士が言つた。『日本といふこの特別の國には無くちやならんさ。寧ろ大いに必要かも知れん。僕は君のやうに無裁判で死刑にするの、罪を六族に及ぼすのといふことは贊成しない。すでに法律といふもののある以上は何處までもそれによつて處置して行かなくちやならんと思ふが、しかし日本が特別の國柄だといふことは、議論でなくて事實である。──』

『君は僕の議論を極端な保守主義といふが、何處が極端だ。若し僕の言ふ事が保守主義の議論とすれば、進歩主義の議論とは何か。幸徳傳次郎に同情することか』

『そんな無茶な事を言つては困る。僕はちつとも彼等に同情してゐないさ。歐羅巴でならああいふ運動もそれぞれ或る意義があるけれども、日本でやらうといふのは飛んでもない間違だからなあ』

 辨當屋の小僧が岡持を持つて入つて來た。それは予がこの話の初まる前に給仕に誂へさしたものであつた。小僧は丼と香の物の皿とを予の前に併べた。予等の話を聞いてゐた給仕の一人は茶をいれるべく立つて行つた。我が國際法學者はこの時漸くこの不愉快な場所から離れるべき機會を得た。『さうだ、僕も飯を食つて來なくちやならなかつた』さう言ひながら卓子から辷り落ちて、いそいそと二重𢌞しを着て出かけて行つた。法學士も大きな呿呻を一つして自分の椅子に歸つた。予は默つて丼の蓋を取つた。あたたかい飯から立騰る水蒸氣と天ぷらの香ばしいにほひとが柔かに予の顏を撫でた。

 地方版編輯記者も遂に予の卓子を離れねばならなかつた。予は恰度、予の前に立ちはだかつてゐた一疋の野獸が、咆え、さうして牙を鳴らしただけで、首を𢌞らして林の中に入つて行つたやうな安心を感じた。彼は自分の椅子に歸らずに、ストオヴの前に進んで行つた。『日本人にして日本人たることを忘れとる奴がある。』突然かういふ獨語が彼の口から聞かれた。それは出て行つた人と予とに對する漫罵であつた。さうして直ぐ、『貴樣も日本人だから、日本人だといふことを忘れちやいかん。のう、貴樣は犬の頭のやうな平つたい頭をしとるけれども日本人ぢや。のう。』かういひながら、椅子に腰かけて雜誌を讀んでゐた給仕の肩に手をかけて、烈しく搖り動かしてゐるのが見えた。予は「日本人」に對する深い憐れみを以て靜かに箸を動かした。

 しかしかういふ極端に頑迷な思想は、或る新聞などによつてやや誇大に吹聽されてゐるに拘らず、ごく少數者の頭脳を司配してゐたに過ぎなかつた。それはこの事件に對して殆ど何等の國民的憎惡の發表せられなかつた事實に見ても明らかである。國民の多數は、かういふ事件は今日に於ても、將來に於ても日本に起るべからざるもの、既に起つたからには法律の明文通り死刑を宣告されなければならぬものとは考へてゐた。彼等は彼の法學士と同じく決して彼の二十六名に同情してはゐなかつたけれども、而してまた憎惡の感情を持つだけの理由を持つてゐなかつた。彼等は實にそれだけ平生から皇室と縁故の薄い生活をしてゐるのである。また彼等は、一樣にこの事件を頗る重大なる事件であるとは感じてゐたが、その何故に重大であるかの眞の意味を理解するだけの智識的準備を缺いてゐた。從つて彼等は、彼等の所謂起るべからずして起つた所のこの事件(大隈伯さへこの事件を以て全く偶發的な性質のものと解したことは人の知る所である)は、死刑の宣告、及びそれについで發表せらるべき全部若しくは一部の減刑──即ち國體の尊嚴の犯すべからざることと天皇の宏大なる慈悲とを併せ示すことに依つて、表裏共に全く解決されるものと考へてゐたのである。さうしてこれは、思想を解せざる日本人の多數の抱いた、最も普遍的な、且精一杯の考へであつた。

 ただこれに滿足することの出來ぬ、少くとも三つの種類の人達が別に存在してゐた。その一は思想を解する人々である。彼等はこの事件を決して偶發的なものであるとは考へ得なかつた。彼等は日本が特別な國柄であるといふことは、議論ではなくして事實だといふことを知る上に於て、決してかの法學士に劣らなかつた。ただ彼等はその「事實」のどれだけも尊いものでないことを併せ知つてゐた。その二は政府當局者である。彼等はその數年間の苦き經驗によつて、思想を彈壓するといふことの如何に困難であるかを誰よりもよく知つてゐた。かくて彼等はこの事の起るや、恰も獨帝狙撃者の現れた機會を巧みに社會黨鎭壓に利用したビスマアクの如く、その非道なる思想抑壓手段を國民及び觀察者の耳目を聳動することなくして行ひ得る機會に到達したものとして喜んだのである。さうしてその三は時代の推移によつて多少の理解を有つてゐる教育ある青年であつた。彼等は皆一樣にこの事件によつてその心に或る深い衝動を感じた。さうしてその或る者は、社會主義乃至無政府主義に對して強い智識的渇望を感ずるやうになつた。予は現に帝國大學の法科の學生の間に、主としてこの事件の影響と認むべき事情の下に、一の秘密の社會主義研究會が起つたことを知つてゐる。また嘗て予を訪ねて來た一人の外國語學校生徒の、學生の多くが心ひそかに幸徳に對して深い同情をもつてゐることを指摘し、「幸徳の死は最も有力なる傳道であつた」と言つたのを聞いた。また或る日、本郷三丁目から須田町までの電車の中に於て、二人の大學生──二人共和服を着てゐたから何科の學生であるかは解らなかつたが──が、恰度予と向ひ合つて腰かけて、聲高に、元氣よくこの事件について語るのを聞いた。話は電車に乘らぬ前からの續きらしかつた。車掌に鋏を入れさせた囘數切符を袂に捻じ込むや否や、小柄な、嚴しい顏をした一人が、その持前らしい鋭い語調で、『第一、君、日本の裁判官なんて幸徳より學問が無いんだからなあ。それでゐて裁判するなどは滑稽さ。そこへ持つて來て政府が干渉して、この機會に彼等を全く撲滅しようといふやうな方針でやつたとすれば、もう君、裁判とは言はれんぢやないか』

『まあさうだね。それが事實だとすれば』と、顏の平つたい、血色の惡い、五分許りに延びた濃い頬髯を生やした一人が落付いた聲で言つた。『兎に角今度のやうな事件は、いくら政府が裁判を秘密にしたり、辯護を試みたりしたつて默目だよ。かういふ事件が起つたといふことだけで、ただそれだけでも我々の平生持つてゐた心の平和を搖がすに充分なんだからなあ。人の前ぢや知らん顏してるけれど、僕の方の奴にも大分搖がされてるのが有るやうだぜ』

『さうだよ。昨夜山本(予はこの姓を明瞭に記憶してゐる。何故なればそれは予の姉の姓と同じであるから)に會つたら、幸徳のお蔭で不眠症にかかつたつて弱つてゐたつけ』

『不眠症とは少し御念が入り過ぎたね』

『何でも四五日前に誰かと夜遲くまで議論したんだそうだよ──無論今度の事件についてだね。するとその晩どうしても昂奮してゐて眠れなかつたんださうだが、それが習慣になつて次の晩から毎晩眠られないんだそうだ。君もそんなに昂奮することがあるのかつてからかつてやつたら、これでも貴樣より年は一つ若いぞとか何とか言つて威張つてゐたつけがね』

 かう話してゐる二人の聲はあまりに高かつた。予はひそかに彼等のために、若しや刑事でも乘客の中にゐはしないかと危んだ。しかしそれらしい者は見付からなかつた。二人の會話は須田町に近づくまでも同じ題目の上を行きつ戻りつしてゐた。予は其處で他の車に乘換へなければならなかつた。

 かかる間に、彼等の檢擧以來、政府の所謂危險思想撲滅手段があらゆる方面に向つてその黒い手を延ばした。彼等を知り若しくは文通のあつた者、平生から熱心なる社會主義者と思はれてゐた者の殆どすべては、或ひは召喚され、或ひは家宅を搜索され、或ひは拘引された。或る學生の如きは、家宅搜索をうけた際に、その日記のただ一ヶ所不敬にわたる文字があつたといふだけで、數ヶ月の間監獄の飯を食はねばならなかつた。さうしてそれらのすべては晝夜角袖が尾行した。社會主義者の著述は、數年前の發行にかかるものにまで遡つて、殆ど一時に何十種となく發賣を禁止された。

 かくてこの事件は從來社會改造の理想を奉じてゐた人々に對して、最も直接なる影響を與へたらしい。即ち、或者は良心に責められつつ遂に強權に屈し、或者は何時となく革命的精神を失つて他の温和なる手段を考へるやうになり(心懷語の著者の如く)、或者は全くその理想の前途に絶望して人生に對する興味までも失ひ(幸徳の崇拜者であつた一人の青年の長野縣に於て鐵道自殺を遂げたことはその當時の新聞に出てゐた)、さうして或者はこの事件によつて層一層強權と舊思想とに對する憎惡を強めたらしい。亂臣賊子の辯護をするといふ意味の脅迫状を受取つた辯護士達は、又實に同時に、この最後の部類に屬する人々からの、それとは全く反對な意味の脅迫状及び嘆願的の手紙を受取らねばならなかつたのである。

*三 國民の多數は勿論、警察官も、裁判官も、その他の官吏も、新聞記者も、乃至はこの事件の質問演説を試みた議員までも、社會主義と無政府主義との區別すら知らず、從つてこの事件の性質を理解することの出來なかつたのは、笑ふべくまた悲しむべきことであつた。予が某處に於いてひそかに讀むを得たこの事件の豫審決定書にさへ、この悲しむべき無智は充分に表はされてゐた。日本の豫審判事の見方に從へば、社會主義には由來硬軟の二派あつて、その硬派は即ち暴力主義、暗殺主義なのである。

*四 幸徳が此處に無政府主義と暗殺主義とを混同する誤解に對して極力辯明したといふことは、極めて意味あることである。蓋しかの二十六名の被告中に四名の一致したテロリスト、及びそれとは直接の連絡なしに働かうとした一名の含まれてゐたことは事實である。後者は即ち主として皇太子暗殺を企ててゐたもので、此事件の發覺以前から不敬事件、秘密出版事件、爆發物取締規則違反事件で入獄してゐた内山愚童、前者即ちこの事件の眞の骨子たる天皇暗殺企畫者管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作であつた。幸徳はこれらの企畫を早くから知つてゐたけれど、嘗て一度も贊成の意を表したことなく、指揮したことなく、ただ放任して置いた。これ蓋し彼の地位として當然の事であつた。さうして幸徳及他の被告(有期懲役に處せられたる新田融新村善兵衞の二人及奧宮健之を除く)の罪案は、ただこの陳辯書の後の章に明白に書いてある通りの一時的東京占領の計畫をしたといふだけの事で、しかもそれが單に話し合つただけ──意志の發動だけにとどまつて、未だ豫備行爲に入つてゐないから、嚴正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであつたに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相聯絡なき三箇の罪案を打つて一丸となし、以て國内に於ける無政府主義を一擧に撲滅するの機會を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。予はこの事をこの事件に關する一切の智識(一件書類の秘密閲讀及び辯護人の一人より聞きたる公判の經過等より得たる)から判斷して正確であると信じてゐる。されば幸徳は、主義のためにも、多數青年被告及び自己のためにも、又歴史の正確を期するためにも、必ずこの辯明をなさねばならなかつたのである。

 一切の暴力を否認する無政府主義者の中に往々にしてテロリズムの發生するのは何故であるかといふ問ひに對して、クロポトキンは大要左の如く答へてゐるさうである。曰く、「熱誠、勇敢なる人士は唯言葉のみで滿足せず、必ず言語を行爲に飜譯しようとする。言語と行爲との間には殆ど區別がなくなる。されば暴政抑壓を以て人民に臨み、毫も省みる所なき者に對しては、單に言語を以てその耳を打つのみに滿足されなくなることがある。ましてその言語の使用までも禁ぜられるやうな場合には、行爲を以て言語に代へようとする人々の出て來るのは、實に止むを得ないのである。」云々。

 猶予は此處に、虚無主義と暗殺主義とを混同するの愚を指摘して、虚無主義の何であるかを我々に教へてくれたクロポトキンの叙述を、彼の自傳(‘MEMOIRS OF A REVOLUTIONIST’)の中から引用して置きたい。それはこの事件にも、はた又無政府主義そのものにも、別に關係するところのない事ではあるが、かの愛すべき露西亞の青年の長く且つ深い革命的ストラツグルが、その最初如何なる形をとつて現はれたかを知ることは、今日の我々に極めて興味あることでなければならぬ。文章は即ち次の如くである。──

 A formidable movement was developing in the meantime amongst the educated youth of Russia. Serfdom was abolished. But quite a network of habits and customs of domestic slavery, of utter disregard of human individuality, of despotism on the part of the fathers, and of hypocritical submission on that of the wives, the sons, and the daughters, had developed during the two hundred and fifty years that serfdom had existed. Everywhere in Europe, at the beginning of this century, there was a great deal of domestic despotism─the writings of Thackeray and Dickens bear ample testimony to it─but nowhere else had that tyranny attained such a luxurious development as in Russia. All Russian life, in the family, in the relations between commander and subordinate, military chief and soldier, employer and employee, bore the stamp of it. Quite a World of customs and manners of thinking, of prejudices and moral cowardice, of habits bred by a lazy existence, had grown up; and even the best men of the time paid a large tribute to these products of the serfdom period.

 Law could have no grip upon these things. Only a vigorous social movement, which would attack the very roots of the evil, could reform the habits and customs of everyday life; and in Russia this movement─this revolt of the individual─took a far more powerful character, and became far more sweeping in its criticisms, than anywhere in Western Europe or America, “Nihilism” was the name that Turguéneff gave it in his epoch-making novel, “Fathers and Sons.”

 The movement is often misunderstood in western Europe, in the press, for example, Nihilism is confused with terrorism. The revolutionary disturbance which broke out in Russia toward the close of the reign of Alexander II., and ended in the tragical death of the Tsar, is constantly described as Nihilism. This is, however a mistake. To confuse Nihilism with terrorism is as wrong as to confuse a philosophical movement like Stoicism or Positivism with a political movement, such as, for example, republicanism. Terrorism was called into existence by certain special conditions of the political struggle at a given historical moment. It has lived, and has died. It may revive and die out again, But Nihilism has impressed its stamp upon the whole of the life of the educated classes of Russia, and that stamp will be retained for many years to come. It is Nihilism, divested of some of its rougher aspects─which were unavoidable in a young movement of that sort─which gives now to the life of a great portion of the educated classes of Russia a certain peculiar character which we Russians regret not to find in the life of Western Europe. It is Nihilism, again, in its various manifestations which gives to many of our writers that remarkable sincerity, that habit of “thinking aloud”, which astounds western European readers.

 First of all, the Nihilist declared war upon what may be described as the “conventional lies of civilized mankind”. Absolute sincerity was his distinctive feature, and in the name of that sincerity he gave up, and asked others to give up, those superstitions, prejudices habits, and customs which their own reason could not justify. He refused to bend before any authority except that of reason, and in the analysis of every social institution or habit he revolted against any sort of more or less masked sophism.

 He broke, of course, with the superstitions of his fathers, and in his philosophical conceptions he was a positivist, an agnostic, a Spencerian evolutionist, or a scientific materialist; and while he never attacked the simple, sincere religious belief which is a psychological necessity of feeling, he bitterly fought against the hypocrisy that leads people to assume the outward mask of a religion which they continually throw aside as useless ballast.

 The life of civilized people is full of little conventional lies. Persons who dislike each other, meeting in the street, make their faces radiant with a happy smile; the Nihilist remained unmoved, and Smiled only for those whom he was really glad to meet. All those forms of outward politeness which are mere hypocrisy were equally repugnant to him, and he assumed a certain external roughness as a protest against the smooth amiability of his fathers. He saw them wildly talking as idealist sentimentalists, and at the same time acting as real barbarians toward their wives, their children, and their serfs; and he rose in revolt against that sort of sentimentalism, which, after all, so nicely accommodated itself to the anything but ideal conditions of Russian life. Art was involved in the same sweeping negation. Continual talk about beauty, the ideal, art for art's sake, aesthetics, and the life, so willingly indulged in─while every object of art was bought with money exacted from starving peasants or from underpaid workers, and the so-called “worship of the beautiful” was but a mask to cover the most commonplace dissoluteness─inspired him with disgust; and the criticisms of art which one of the greatest artists of the century, Tolstōy, has now so powerfully formulated, the Nihilist expressed in the sweeping assertion, “A pair of boots is more important than all your Madonnas and all your refined talk about Shakespeare”.

 Marriage without love and familiarity without friendship were repudiated. The Nihilist girl, compelled by her parents to be a doll in a doll's house, and to marry for property's sake, preferred to abandon her house and her silk dresses; she put on a black woollen dress of the plainest description, cut off her hair, and went to a high school, in order to win there her personal independence. The woman who saw that her marriage was no longer a marriage─that neither love nor friendship connected any more those who were legally considered husband and wife─preferred to break a bond which retained none of its essential features; and she often went with her children to face poverty, preferring loneliness and misery to a life which, under conventional conditions, would have given a perpetual lie to her best self.

 The Nihilist carried his love of sincerity even into the minutest details of everyday life. He discarded the conventional forms of society talk, and expressed his opinions in a blunt and terse way, even with a certain affectation of outward roughness.

 We used in Irkūtsk to meet once a week in a club, and to have some dancing, I was for a time a regular visitor at these soirées, but gradually, having to work, I abandoned them. One night, as I had not made my appearance for several weeks in succession, a young friend of mine was asked by one of the ladies why I did not come any more to their gatherings. “He takes a ride now when he wants exercise”, was the rather rough reply of my friend, “But he might come to spend a couple of h'ours with us, without dancing”, one of the ladies ventured to say. “What would he do here ?” retorted my Nihilist friend, “talk with you about fashions and furbelow ? He has had enough of that nonsense”. “But he sees occasionally Miss So-and-So”, timidly remarked one of the young ladies present, “Yes, but she is a studious girl”, bluntly replied my friend, “he helps her with her German”. I must add that this undoubtedly rough rebuke had the effect that most of the Irkūtsk girls began next to besiege my brother, my friend, and myself with questions as to what we should advise them to read or to study. With the same frankness the Nihilist spoke to his acquaintances, telling them that all their talk about “this poor people” was sheer hypocrisy so long as they lived upon the underpaid work of these people whom they commiserated at their ease as they chatted together in richly decorated rooms: and with the same frankness a Nihilist would inform a high functionary that he (the said functionary) cared not a straw for the welfare of those whom he ruled, but was simply a thief !

 With a certain austerity the Nihilist would rebuke the woman who indulged in small talk, and prided herself on her “womanly” manners and elaborate toilette. He would bluntly say to a pretty young person: “How is it that you are not ashamed to talk this nonsense and to wear that chignon of false hair ?” In a woman he wanted to find a comrade, a human personality─not a doll or “muslin girl”─and he absolutely refused to join those petty tokens of politeness with which men surrounded those whom they like so much to consider as “the weaker sex”. When a lady entered a room a Nihilist did not jump off his seat to offer it to her─unless he saw that she looked tired and there was no other seat in the room. He behaved towards her as he would have behaved towards a comrade of his own sex: but if a lady─who might have been a total stranger to him─manifested to desire to learn something which he knew and she knew not, he would walk every night to the far end of a great city to help her with his lessons. The young man who would not move his hand to serve a lady with a cup of tea, would transfer to the girl who came to study at Moscow or St. Petersburg the only lesson which he had got and which gave him daily bread, simply saying to her: “It is easier for a man to find work than it is for a woman. There is no attempt at knighthood in my offer, it is simply a matter of equality”.

 Two great Russian novelists, Turguéneff and Goncharōff, have tried to represent this new type in their novels, Goncharōff, in Precipice, taking a real but unrepresentative individual of this class, made a caricature of Nihilism. Turguéneff was too good an artist, and had himself conceived too much admiration for the new type, to let himself be drawn into caricature painting; but even his Nihilist, Bazāroff, did not satisfy us. We found him too harsh, especially in his relations with his old parents, and, above all, we reproached him with his seeming neglect of his duties as a citizen. Russian youth could not be satisfied with the merely negative attitude of Turguéneff's hero. Nihilism, with its affirmation of the rights of the individual and its negation of all hypocrisy, was but a first step toward a higher type of men and women, who are equally free, but live for a great cause. In the Nihilists of Chernyshévsky, as they are depicted in his far less artistic novel, “What is to be Done ?” they saw better portraits of themselves.

 “It is bitter, the bread that has been made by slaves”, our poet Nekràsoff wrote. The young generation actually refused to eat that bread, and to enjoy the riches that had been accumulated in their father's houses by means of servile labour, whether the labourers were actual serfs or slaves of the present industrial system.

 All Russia read with astonishment, in the indictment which was produced at the court against Karakōzoff and his friends, that these young men, owners of considerable fortunes, used to live three or four in the same room, never spending more than ten roubles (one pound) apiece a month for all their needs, and giving at the same time their fortunes for co-operative associations co-operative workshops (where they themselves worked), and the like. Five years later, thousands and thousands of the Russian youth─the best part of it─were doing the same. Their watchword was, “V narōd !” (To the people; be the people.) During the years 1860─65 in nearly every wealthy family a bitter struggle was going on between the fathers, who wanted to maintain the old traditions, and the sons and daughters, who defended their right to dispose of their life according to their own ideals. Young men left the military service, the counter, the shop, and flocked to the university towns. Girls, bred in the most aristocratic families, rushed penniless to St. Petersburg, Moscow, and Kieff, eager to learn a profession which would free them from the domestic yoke, and some day, perhaps, also from the possible yoke of a husband. After hard and bitter struggles, many of them won that personal freedom. Now they wanted to utilize it, not for their own personal enjoyment, but for carrying to the people the Knowledge that had emancipated them.

 In every town of Russia, in every quarter of St. Petersburg, small groups were formed for self-improvement and self-education; the works of the philosophers, the writings of the economists, the researches of the young Russian historical school, were carefully read in these circles, and the reading was followed by endless discussions. The aim of all that reading and discussion was to solve the great question which rose before them: In what way could they be useful to the masses ? Gradually, they came to the idea that the only way was to settle amongst the people and to live the people's life. Young men went into the villages as doctors, doctors' assistants, teachers, villagescribes, even as agricultural labourers, blacksmiths, woodcutters, and so on, and tried to live there in close contact with the peasants. Girls passed teachers' examinations, learned midwifery or nursing, and went by the hundred into the villages, devoting themselves entirely to the poorest part of the population.

 They went without even having any ideals of social reconstruction or any thought of revolution; merely and simply they wanted to teach the mass of the peasants to read, to instruct them, to give them medical help, or in any way to aid to raise them from their darkness and misery, and to learn at the same time from them what were their popular ideals of a better social life.

 When I returned from Switzerland I found this movement in full swing.


クロポトキンの瑞西より歸つたのは千八百七十三年か四年であつた。

文中にあるカラコオゾフといふのは、千八百六十六年四月、亞歴山二世がサムマア・ガアデンから出て來て馬車に乘らうとしてるところを狙撃し、狙ひがはづれたために目的を達せずして捕縛された男。

 相互扶助(ソリダリチイ)といふ言葉は殆どクロポトキンの無政府主義の標語になつてゐる。彼はその哲學を説くに當つて常に科學的方法をとつた。彼は先づ動物界に於ける相互扶助の感情を研究し、彼等の間に往々にして無政府的──無權力的──共同生活の極めて具合よく行はれてゐる事實を指摘して、更にそれを人間界に及ぼした。彼の見る處によれば、この尊い感情を多量に有することに於いても他の動物より優れてゐる人類が、却つて今日の如くそれに反する社會生活を營み、さうしてそのために苦しんでゐるのは、全く現在の諸組織、諸制度の惡いために外ならぬのである。權力といふものを是認した結果に外ならぬのである。

 この根柢を出發點としたクロポトキン(幸徳等の奉じたる)は、その當然の結果として、今日の諸制度、諸組織を否認すると同時に、また今日の社會主義にも反對せざるを得なかつた。政治的には社會全體の權力といふものを承認し、經濟的には勞働の時間、種類、優劣等によつてその社會的分配に或る差等を承認しようとする集産的社會主義者の思想は、彼の論理から見れば、甲に與へた權力を更に乙に與へんとするもの、今日の經濟的不平等を來した原因を更に名前を變へただけで繼續するものに過ぎなかつた。相互扶助を基礎とする人類生活の理想的境地、即ち彼の所謂無政府共産制の新社會に於いては、一切の事は、何等權力の干渉を蒙らざる完全なる各個人、各團體の自由合意によつて處理されなければならぬ。さうしてその生産及び社會的利便も亦何等の人爲的拘束を受けずに、ただ各個人の必要に應じて分配されなければならぬ。彼はかういふ新組織、新制度の決して突飛なる「新發明」でなく、相互扶助の精神を有する人類の生活の當然到達せねばならぬ結論であること、及びそれが決して「實行し得ざる空想」でないことを證明するために、今日の社會に於いてさへさういふ新社會の萌芽が段々發達しつつあることを擧げてゐる。權力を有する中央機關なくして而もよく統一され、完成されつつある鐵道、郵便、電信、學術的結社等の萬國的聯合は自由合意の例で、墺地利に於ける鐵道賃銀の特異なる制度、道路、橋梁、公園等の自由使用、圖書館などに於ける均一見料制等は必要による公平分配の例である。これらの事に關する彼の著書にして更に數年遲れて出版されたならば、彼はこれらの例の中に、更に萬國平和會議、仲裁裁判、或る都市に實行されて來た電車賃銀の均一等の例を加へ得たに違ひない。『今日中央鐵道政府といふやうなものがなくして、猶且つ誰でも一枚の切符で、安全に、正確に、新橋から倫敦まで旅行し得る事實を見てゐながら、人々は何故何時までもその「政府といふ權力執行機關がなくては社會を統一し、整理することが出來ぬ」といふ偏見を捨てぬのであらうか。又、本の册數や、種類や、それを讀む時間によつてでなく、各人の必要の平等であることを基礎として定められた今日の圖書館の均一見料制を是認し、且つ便利として一言の不平も洩らさぬ人々が、如何してそれとは全く反對な、例へば甲、乙の二人があつて、その胃嚢を充たすに、甲は四箇の麺麭を要し、乙は二箇にて足るといふやうな場合に、その胃を充たさんとする必要に何の差等なきに拘らず、甲は乙の二倍の代償を拂はねばならぬといふ事實を同時に是認するであらうか。更に又同じ理に於いて、電車の均一賃銀制を便利とする人々が、その電車を運轉するに要する人員の勤務の、その生活を維持するの必要のためである點に於いて、相等しきこと、猶彼等が僅か三町の間乘る場合も、終點から終點まで三里の間乘りつづける場合も、その「乘らねばならぬ」といふ必要に差等なきに同じきに拘らず、如何してそれらの勤務者の所得に人為的の差等を附して置くのであらうか。』クロポトキンの論理はかういつた調子である。

 編輯者の現在無政府主義に關して有する知識は頗る貧弱である。

底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店

   1961(昭和36)年810日新装第1刷発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※底本では副題の「‘V NAROD’ SERIES’」が「‘V NAROD’ SERIFS’」と誤植されています。

※クロポトキンの‘MEMOIRS OF A REVOLUTIONIST’の後に、底本では、石川啄木の原稿にはない訳文が添えられています。「大杉榮譯『革命家の思出』から抄出」したとあるこの部分は、入力しませんでした。

※「囘」と回、「贊」と「賛」の混在は底本通りです。

入力:蒋龍

校正:阿部哲也

2012年38日作成

2012年85日修正

青空文庫作成ファイル:

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