役者の一生
折口信夫




沢村源之助の亡くなつたのは昭和十一年の四月であつたと思ふ。それから丁度一年経つて木村富子さんの「花影流水」といふ書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載つた源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出してゐる。成程、源之助は写真にうつるのが上手であつた。と言ふのは彼の姉が──縁のつゞき合ひは知らぬが、日本の写真商売にとつては、大先輩だつた──伊井蓉峰の父親の北庭筑波の門に入つて写真を習ひ、新富町に塙芳野といふ名で、写真屋を営んでゐた。さういふ関係で源之助は写真のぽうずを自分で取ることが得意だつたのである。

河合武雄が最近亡くなつたので、これで河合の芸風も消えるであらうが、この人は源之助の芸の正統を新派畠に打ちこんで継いだ形になる人である。父親は地位は低かつたが、源之助とよく一座した大谷馬十である。河合は若い時旧派の役者にならうとして(外の事情は知らぬ)大阪に奔り、その前後大凡源之助の影響を受けて了つた。河合の動きや、きまり方には、晩年迄源之助の気合ひの入れ方が働いてゐた。ともあれ源之助の格を一番正面から取つてゐたのは、河合であつただけに、源之助が死に、河合がこの世を去つた今日、源之助の芸風の絶えて了ふだらうと言ふことがしみ〴〵感じられる。

源之助の時代は四十年位続いたが、その間悪婆あくば即、一口に言ふと──毒婦ものが彼の芸として通つた。あゝいふ芸は模倣し易い訣だが、どういふ訣か、此きりで無くなり相だ。源之助の名を継いだ五代目はまだ若いし、先代市川松蔦しようてうよりは融通はきくが、まだその年にも達してゐない。器量はもつと、あれを悪くした顔で、悪婆ものには、第一条件が欠けてゐる。悪婆は背が高くなくても、さう見える姿で、顔が美しく、声の調子のよい、まともに行けば、江戸の下町女房を役どころとする風格を持つてゐなければならぬ。

次に源之助の芸はどこから来てゐるのだらう。第一は五代目菊五郎から出てゐる。菊五郎は立役の方でも源之助に影響を与へてゐるが、女形の方の影響を殊に多く与へた。芸の固まる時分に一番菊五郎の相手もしたし、芸に触れた為である。処で、菊五郎の方は、女形の芸は誰からとつたかといふと、それは沢村田之助だらう。田之助の舞台をよく観察してゐて、それをよく補正した人である。一体尾上家は江戸へ来た始めから、上方の女形として下つた家柄である。五代目が田之助或は先輩の岩井半四郎などの芸をよく見てゐたのは、尾上家の伝統を正しく襲ぐ者であつた。一つには、九代目団十郎に対抗する為には、団十郎の為難シニクい所に出ねばならぬといふ事情があつた。団十郎は、女形にはまづ極度に不向きであつたからである。

源之助は生涯自分の持つて生れた容貌や才能に頼み過ぎて、血の出る程せつぱつまつた苦しい勉強をしなかつた替りに、さういふ菊五郎の影響が出て来た。彼の身についてゐるものといへば、五代目の型ばかりであつた。しかし容貌から言へば、五代目よりも、源之助の方がずつと好かつたに相違ない。しかも五代目の忠実な模倣者といふよりは、感受した印象を分析してばかりゐた人であつた。

源之助の出身は、大阪島の内の南西の端で、明治元年には十歳になつてゐたであらう。木綿橋の近所である。一方、浜側には此時分二三の興行物が出てゐた。その近所で、露地ロウヂがあちこちにあつて、芸人の住ひがあつた。今も宗右衛門町にある、富田屋のお勇が生んだのだ、といふのは確かだ相である。島の内船場の大檀那の生ませた子といふことになつてゐるが、源之助の容貌を見ると、大阪の中村宗十郎とどうも似て、下顎の少し張つた美しい顔をしてゐる。一体に芝居者は、色町で誕生する子同様、親子の関係が薄いのである。私には宗十郎の子らしい気がしてならぬ。宗十郎は九代目に対しては、東京へ来ても同格で、自分から屈しなかつた人であるが、この人が源之助を目にかけ、一人前の女形にしようとしたのである。

生れたのは大阪であつたが、源之助は小さい時分に東京へ来て、その当時の源之助(三代目)の子になり、沢村家のよい名である源平を名のつた。初舞台が明治三年十二歳で、「夕霧伊左衛門」の吉田屋の娘といふ役で出た。役らしい役をしたのは、十四歳の時の「明烏あけがらす」のゆかりで、余りにも役が平凡すぎるが──これには声がはりか何か事情があつたのだらう。この時、田之助が浦里で出てゐた。田之助も身辺にゐたのであるから、源之助の芸は菊五郎の芸ばかりの模倣といふことにはならなかつたであらうが、事実は田之助には接触が少かつたのである。明治十一年二十歳を越しても、源之助はまだ粒立たぬ役をしてゐた。団十郎・菊五郎など役者揃ひの千本桜の時に、立女形の岩井半四郎の替り役として、木の実の小せん、鮨屋のお里をした。これで、始めて出来デカしたといふ評判を得た。出来るといつても、容貌が問題になるので、源之助の場合は恐らく容貌や姿が助けてゐたらうと思ふ。その後明治十五年になつて、二十四歳で改名して養父の源之助を襲名した。(源之助といふ名は、中村・三桝にもあつたが、今では皆消えてゐる。)彼は二十四歳から死ぬ迄この源之助で通した。改名するだけの興味を持たなかつたと言ふより、又する機会もなかつたのであらう。大変長い源之助で、丁度大阪の鴈治郎が若い時の中村鴈治郎から始つて、死ぬまで鴈治郎で通したのと同じである。尤、鴈治郎は歌右衛門をつぎ損つたことにもよるのだが……。

明治十二年七月の夏芝居に、五代目菊五郎の弟の坂東家橘かきつ──これも働き盛りに死んで、芸は大したことはなかつたが、気分のいゝ役者であつたらしい──その家橘が上置きになつて、福助(後の歌右衛門)を始め数人の花形が集つた。この時、源之助は一番目に妲妃だつきのお百といふ大役をしてゐる。この芝居の殺し場は、女二人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。それを二十を越したばかりの源之助がお百になつて出るといふのは、容貌や姿を認められてなつたものと言はれてゐる。芝居道では何といつても家柄が大事で、沢村の中でも源之助はわるい名でないが、何となくりゆうとした印象のない名になつてゐた。源之助は沢村宗家の印を伝へてゐたといふが、此は後、宗十郎に譲つた。源之助は沢村の流れでは重い名であるが、この妲妃のお百をした時が、殊に彼の一番いゝ、幸福を予約せられた時代であつた。相手役は家橘であるから、大変出世したものである。

これからだん〳〵大きな役者の女房役をするやうになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた。その因縁で、この間死んだ左団次とも関係が深かつた。菊五郎の女房役をしてゐた間は、源之助は自分の身体に合つたものを自由に出して行けた。団十郎になると、女形は大分辛かつたらしい。団十郎が活歴物をするやうになり、黙阿弥の裏に居た桜痴が表面に出て来た時代が丁度源之助の青年から壮年の頃であつたから、生憎なものと言へるだらう。彼は団十郎にいて行かなかつた。活歴は演劇史上の邪道といふことになつてゐるが、私は世間の人のいふよりは、この活歴に面白いものを感じてゐる。源之助としては、この時に充分研究すべきであつた。彼は、舞台も生活も、昔の儘の役者型で押して行つた。明治十七・八年頃から東京を去る二十年頃迄が、源之助の一番盛りの時であつた。源之助の競争者といへば後の歌右衛門、当時の福助であるが、彼は上品ではあり、芸もすなほであるが、色気の点では源之助の敵ではなかつた。であるからその儘で行つて居れば歌右衛門よりも高い地位にも上つたであらう。

役者といふものは風格が具つて来ると、丁度今の羽左衛門のやうに気分で見物人を圧して行く。それは容貌に依つてゞある。役者は五十を過ぎてから、舞台顔が完成して来る。芸に伴つて顔の輪廓が、人生の凋落の時になつて整つて来る。普通の人間なら爺顔になりかけの時が、役者では一番油の乗り切つた頃である。立役はその期間が割に長い。羽左衛門が今の歳になつて、あれだけの舞台顔を持つてゐるのを不思議がるのもよいが、これは不思議ではない。羽左衛門の顔は少し尖つた顔である。あの人は自分の顔にとげのあることを最初から認めてゐたからよいのである。立役はそんな具合で少し頬骨が出て来てもよいが、女の役はもう堪へられない。従つて女形は割合に早く凋落する。三・四十ではまだ舞台顔はよくない。よくなつたと思ふとすぐに終りである。

源之助は盛りの時に大きな、役者としての生活に誤りをしてゐる。源之助が大阪へ行つた理由をあらはに言ひ立てるのはまづいといふ遠慮もあつたかも知れぬが、伊原青々園の仮名屋小梅(花井お梅)を源之助は自分で演じてゐる。しかもこの事件が、彼の大阪行きの一番の動機であつた。「花影流水」には菊五郎について大阪へ行き、鴈治郎に止められてその儘大阪に残つたのだと言つてゐるが、さう言ふ風に伝へてゐる理由もあるのだらう。

大阪へは中村宗十郎を頼つて行つた。その頃は角の芝居が格が一枚上であつた。次が中芝居。彼は其後、道頓堀には五つ櫓が並んでゐたが、其処に相応に久しくゐた。一座は、中村時蔵(後、歌六)、市川鬼丸(後、浅尾工左衛門)などであつた。さながら後の宮戸座の座組である。源之助の朝日座でした中将姫の顔を私は見たのを憶えてゐる。中将姫は田之助の芸であつたから、謂はれがない訣でもない。自分の芸に合はなくても、傾倒してゐる人の芸はしたのである。この時、私は尋常三年の頃であつたが、「朝顔日記」の浜松非人小屋の段も見た。これは乳母の浅香が悪者と戦つて死ぬ場で、これを源之助がし、非人小屋の前で戦つてゐたのだけが記憶に残つてゐる。中将姫の時、奉納した額の若顔の彼の中将姫のおし絵を、後、当麻寺で発見して懐しかつた。源之助はこの朝日座を中心として五年間程居て、二十九年ほとぼりのさめた頃、東京へ帰つて来た。不思議なことには、残菊物語で御存じの菊之助が詫びがかなつて大阪から戻つて来たのも、やはり二十九年であつた。この間に福助はうんと延び、ずうつと後輩の尾上栄三郎(後の梅幸)も相当の役をする様になつてゐた。

東京に帰つて来てした芝居が我々には面白いが、「続々歌舞伎年代記」を見ると、この頃は壮士芝居が相当に纏つて来て、山口定雄が「本朝廿四孝」をしてゐた。源之助はこゝで腰元濡衣、橋本屋の白糸をした。杉贋阿弥の劇評は元来余り讃めぬ方であるが、橋本屋の白糸は絶技と讃へてゐる。源之助のやうな出たとこ勝負の役者には時によつて、つぼの外れる所があるが、世話物だと成功する率が多い。生活が即舞台となることが出来るから。そしてこの評判が源之助の芸格を狭める結果になつた。遥かの後昭和十年十一月明治座に久し振りで鈴木主水の芝居が出た。主水が宗十郎、白糸が時蔵であつた。源之助は晩年今にも死ぬか〳〵と思つてゐたので得意芸を演らせたらばいゝにと思つたが、興行者の見徳とでも言ふかどうも変なもので、実現はしなかつた。五人廻しといふものを鈴木主水の劇の中に取り込んである。源之助は通人の役をした。時蔵に白糸をさせ、自分はこの役で出、これが源之助の名残芝居になつたのであるが、明治二十九年に自分が橋本屋の白糸をした時を思へば、その間に四十何年の年月が経つて、のんきな役者かたぎにもさぞ何とか感じたであらう。

さて源之助が大阪から東京へ帰つた頃は、歌舞妓芝居では、既に次の時代に移りかけてゐた。吉右衛門・又五郎(中村)などの「ちんこ」芝居(子供芝居)が出来たのもその頃だ。明治三十年源之助は団十郎の招きに依つて、久々に歌舞伎座へ出て、桜痴作の「侠客春雨傘」に出演した。この芝居は助六と同じことを吉原でする芝居で、葛城は福助、丁山といふきやんな遊女の役を源之助がした。この時のことを伊原青々園が早稲田文学に書いた。当時福助は活歴の影響が満々とあるから品のよい遊女となり、源之助は間違へば宿場女郎といふやうな風に演じた。福助は気位ますます高く上品になつて、世話の遊女は久しくせなくなつた。

源之助はその芸格から見れば、いくらでも出世する場合に立ち、彼でなければ出来ぬ役柄も多かつたけれども、出発点に禍される所があつたと思はれる。一体源之助といふ役者は上方で為込んで来た芸を演ると非常によく、また正確である。であるから大阪で源之助がまう少し揉まれて来ればよかつたと思ふ。元来時代物をおろそかにして、その時の出たとこ勝負の世話物に専門(?)になつたのが弱点であらう。源之助はもつと時代物を身を入れてやればよかつたと思ふ。大阪うまれが東京へ来て東京らしくなつたといふが、大阪へ戻つて身につけて来た芸がぴつたり合つてゐた。太十のミサヲをすると自由にくだける所があるが、輝虎配膳の老女(越路)などの役は非常に苦しんでゐる。彼は顔を見ても悪婆といふ感じはせず、瞳が黒い上に、上品な顔の輪廓を持つてゐる。田之助亡き後に年少の源之助が妲妃のお百をして評判がよかつたといふほんの一寸したことから、誤つて悪婆役者として一生を過したのだと思ふ。

源之助に就いては、まう一方に立役の話をせねばならぬ。年をとつて女形としては衰へても、立役では綺麗であつた。源之助が立役をするやうになつたのは明治二十九年以後のことで、これも大凡菊五郎の芸を見てゐて、それを模倣してゐる。源之助の立役でよかつたのは吉田屋の伊左衛門などで、かういふ芝居では古い菊五郎といふよりは、年齢では少し先輩であつた片岡仁左衛門の影響を何か受けてゐるのではないかと思ふ。

結局田之助や菊五郎の影響を受けたことが、源之助を運命的に芸質を退転させた。とまれ源之助は、生世話物の調子のよさでは、近頃第一の人であらう。声はわるいが、うらがれ声で芝居道での所謂よい調子であつた。



切られお富の薩埵サツタ峠の場の科白に「お家のためなら愛敬捨て、憎まれ口も利かざあなるまい」といふのがある。この科白は女形の或特性を表してゐると思ふ。

最近私は尾沢良三氏の女形論を読んで、いろ〳〵得るところが少くなかつた。併し私としては、尾沢氏の考へと関係なしに語りたい。

女形に美しい女形と美しくない女形とがある。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出て来たのは、明治以後で、家橘・栄三郎のやうな美しい役者は今までなかつた、と市川新十郎が語つてゐたくらゐである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さといふ事もあらうけれど、一体に素顔のよくない女形が多かつた。岩井半四郎などは美しかつたといふけれども、どの程度だつたかについては、多分に疑問が残ると思ふ。例へば、最近死んだ坂東秀調は美しい女形であつたが、その先代の秀調は団菊の相手役をしたくらゐの女形だつたが、器量は決してよくなく、青い顔をして、真中にくゝれがあつた。大阪の実川正朝も名女形だつたが、でぶ〳〵肥つて融通の利かぬ女形で、いつも三十代の女房、武家女房しか出来ず、東京の秀調よりはまあましであつたが、美しくはなかつた。今の市川男女蔵の養父で女寅から門之助になつた役者、これは出雲から出て上方芝居に入り、更に団十郎によつて相当な地位になつたが、これもみつともない役者で、どんな芸をしても美しくは見えなかつた。こんな連中が立女形であつたので、鴈治郎附きの老女形で居た市川莚女などは顔の造作に異状はないが、まあ綺麗でない、それに体恰好も男性的であつた。雀右衛門になつて死んだもとの芝雀しばじやくにしても、顔はよくなかつたが、役柄に融通が利き、美しく見える瞬間が多かつた。これは本来が娘形であつたし、常の心がけから美しく見えることがあつたのである。先代の菊次郎も此仲間である。こんな連中が昔の女形で、その他一般に女だか化猫だかわからぬ汚い女形が多かつた。

この頃は女形が大体美しくなつた。併し美しいといふことは芸の上からは別問題で、昔風に言へば軽蔑されるべきものなのである。最近故人になつた市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思はれるくらゐ小柄で美しい女形であつた。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかつたのである。かうした美しさは、鍛錬された芸によつて光る美しさではなく、の美しさで、役者としては寧、恥ぢてよい美しさである。

昔の美しさから謂へば、生地の美しさの見すかされるのではいけない。今の仁左衛門なども、あの素顔のよさがいけないのだと思ふ。地と一緒にその上に作りの美しさ、其以上に鍛錬によつての美しさが見えなければいけない。つまり芸が美しくなれば、姿も美しく見えるといつたやうなものである。今の女形は概して美しいが、美しくない女形も立派に存在し得るものであることは、日本の歌舞妓の為に大きく言はれてよいと思ふ。さういふことによつて、見る方の見物も、見られる方の役者も、芸の上での張り合ひが出来る訣だ。

写楽の絵に表れた女形の醜さは、絵に描くときに隠し切れぬ、男の「女」としての醜さである。写楽はさういふ女形の醜さに非常な興味をもつて、あゝした絵をいくつも描いたのだと思ふ。併しあれは決して誇張ではないので、上方芝居の女形、其に上方の芝居絵は、容貌・体格ともに実に写楽を思はせるものを持つてゐる。

要は、芸によつて美しく見えるといふことが、平凡でも肝腎なことなので、女形がそれ自身純然たる女を思はせるといふことに対しては、条件をつけて考へねばならぬと思ふ。歌舞妓芝居に於ては、女形も女らしい女ではいけない。立役にしてからが、自体、世間普通の男とはどこか違つた男である。さうした芝居の世界の男に相応した女でなければならず、現実の世界の女であつてはならないのである。それだからこそ、松蔦のやうな女形では、そぐはないことになる訣である。梅幸なども時代が遅れてゐたからよいけれど、あれがもつと前だつたら、素の美しさを感じ、舞台の男に調和する女の美しさが感じられなかつたであらう。

東京の女形は、明治以後、早くから女らしい美しい女形になつた。亡くなつた歌右衛門が、小杉天外の「はつ姿」か「こぶし」かの女学生を演じて、舞台で上半身肌脱ぎになつて化粧する場面を見せたなどは、芝居の方からは謂はゞ邪道である。歌右衛門がその天賦の麗質によほどの自信があつたからでもあるが、それを又人々が喜んだのだつた。思へば女形としては突拍子もないことであるが、歌右衛門はこのやうに、素に持つてゐた美しさを、芸と一所くたにして見せた。この点、彼は実に錯覚を起させた役者である。彼は余りに美しく、己もその美しさに非常な自信を持つて居り、その自信の重さが、彼の芸の重々しい質を作つたので、一つは晩年体も次第に利かなくなつたことにもよるが、とにかく動きの少い役をする事になつた。だから歌右衛門といふ役者は、死ぬまで本道に上手下手がわからずにすんだと思ふ。梅幸も美しい女形であつて、その唯一つの欠点は下唇の突き出てゐることだけだが、これが又一つの彼の舞台美でもあつたのである。つまり醜のある強調から生ずる美である。かうして美しい東京の女形は、女優にだん〳〵近いものになつてしまつた。

だが大阪には今に、きたない女形がゐる。近代の大阪の女形で一番美しいのは、何といつても今の中村梅玉であらう。

政治郎時代の梅玉が明治三十年に東京で八重垣姫をした頃の美しさなどは、素晴しいものだつた。一体に東京の芝居に出入りする連中は大阪芝居を非常に軽蔑してゐて、大阪といふと何でもけなしつけるのだが、その自信の強い東京の見物も、是だけは文句なしに参つたのである。尤、最近の娘形は、たうが立つ以上にすさまじいものになつてしまつたけれども。

これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といつて、沢村源之助の四十年代の芝居によく相女形をした中村魁車かいしやになると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼつて雀右衛門あたり以上に古くなると、美しい女形といふものはまるで見当らない。私の見た時代は女形凋落時代で、大概みんな化猫女形ばかりであつた。又歌舞妓芝居には、見物にとつて舞台に出て来る役者は一種の記号のやうなもので、美しい顔をしてゐようが汚い顔をしてゐようが、ともかく舞台で役者が動いてゐればよいので、あとは見物がめい〳〵勝手に幻想のやうなもので、いろ〳〵に芝居を作つてしまふやうなところがある。だから女形の顔の美醜などは、以前はそれ程大した問題にはならなかつたと言へると思ふ。今の映画俳優にも、此は大いに共通の事実がある。

東京ではこの源之助のやうに素顔もよく、舞台顔としては殆完全な女形、その源之助の前の沢村田之助も有名な美しい女形であり、更に岩井半四郎も眼千両と謂はれた役者である。江戸の女形は早くから美しくなつた傾向が考へられるのである。

源之助の美しかつたことに就いては、明治三十五年上演の「小笠原騒動」のお大の方といふ草刈り女から大名の愛妾になつたといふ女に扮した時の批評に、贋阿弥の「国を傾ける艶色といふ柄にははまりました」とあることによつても窺はれる。そしてその美しさは、毒婦型・悪婆型の女形としては極めて適切だつた。田之助・半四郎の後にその代りになるには源之助よりほかになかつた。

前に言つた通り源之助は若い時分から、「妲妃のお百」をやらせて、人々が田之助の幻影を見て喜んだといふ歴史を持つてゐるのもそのためであつた。これは明治六年に書かれた脚本で、元来田之助のために書かれたものなのだが、田之助の後、三津五郎を経て、源之助がさせられたのである。江戸末期に絶えんとした毒婦型・悪婆型を、一時、間に合せに源之助がさせられたのだが、それが源之助の役柄を決定してしまつたのであつた。かうして源之助は人々の渇望に応へて華々しく世に出たのであるが、それは又一面彼にとつて不幸なことでもあつた。



昔から歌舞妓芝居は女形の演ずる女を、悪人として扱つてゐない。立女形や娘役には昔から悪人が少い。昔の見物は悪人の女を見ようとしなかつたのである。其処に、新しい領域が江戸末期に発見された。舞台の女が悪いことをするといふことは、つまりそれだけ相手役がいぢめられることで、それを見物の方でも自分々々に感じて楽しむといふ──まあ訣り易くいへば一種のまぞひずむだが、これが源之助の芸の場合には大切な解釈であつたのだ。これは又、女形の領域が広くなつたことで、江戸歌舞妓にとつても大事なことであつた。

一体女形は人間としては存外善人ではない。例へば敵役も、立敵の役のやうなものは立役と並んだ大役であるから、舞台の上では重々しくて、やたらに打つたり叩いたりへらず口をきいたりすることはない。紳士であつて立役と択ぶ所はない。ところが端敵になると、それは〳〵いろ〳〵な憎むべきことをする。併し舞台以外ではまるで愚人と同様で、例外なしに善人である。それと同じ訣で、元来舞台の上では善人である筈の女形が、実生活では存外悪人である。

端敵役の善良さ加減といふものは、実に呆れるばかりで、実際どれもこれも例外なしに人が善いのである。これは舞台で始終憎らしい役ばかりするから、その反動で実生活上でそんなになるのか、と私も思つたが、実際はさうでないやうである。つまり、彼等が知識的に、殆零に近い点で、まあ一種の愚人なのだらう。さういふ愚の善良さだと思ふ。

女形はまづ第一に口うるさいのは例外なしで、喧嘩早い者がゐる、意地の悪い奴がゐる、酒癖の悪いのがゐるといつたあんばいで、ねち〳〵した女としての悪さも兼ねてゐる。それと男の悪さも加つてゐるといふ訣なのだ。ところが舞台では善人ばかりだつた。そして却つて毒婦型・悪婆型の女形である源之助などは善人だつたと思ふ。殊に晩年の源之助は、実にあきらめきつた解脱し切つたやうな、玲瓏な人柄になつてゐたらしい。

尤、此は女出入りとは引離して考へられなければならない。花井お梅などは源之助のためにどうにもならない羽目に陥れられた女であり、その他にもいろ〳〵さうした女出入りはあるけれども、さういふ軽薄さといふものは、昔の役者の集団式な性格なのだから、その点で源之助だけが所謂棘を負ふ、の訣もない。

つまり彼は真女形マヲンナガタでなかつたから、善人だつたといへよう。

歌舞妓芝居では世界とか時代とかいつたものは、大きく分ければ四つになつてしまふ。王代物(入鹿や鎌足などの極く古い時代のもので、従つてその表すところの生活が宮廷に近いもの)・時代物(よろひかぶとの源平の時代を中心とした、それと同じ服装のもの)・お家物(現代ながら芝居の観客や役者たちの生活とかけ離れた大名などの生活を描いたもので、便宜上多少時代を離してはゐる)・世話物(純粋の現代のもので、市井の生活に取材したもの、個々に分離した立場に於ける武士なども出て来るが、主として観客や役者の日常生活に最近い下町生活を描いたもの、稀には農村生活もあるが)の四つで、これだけで役者のものゝ考へといふものは出来てゐたのである。

元来善人ばかりの女を出してゐる歌舞妓芝居だが、時代物・世話物のうちには、悪の分子を持つた女が古くから少しづゝは出てゐる。大名の家庭に於ける継母・後室のやうな役は安つぽい役者には出来ないので、自ら相当地位のいゝ役者がするのだが、例へば「ヒバリ山姫捨松」の中将姫をいぢめる岩根御前などは普通立女形の役である。又「浅間嶽面影双紙」の時鳥といふ浅間家の妾が、瞿麦なでしこといふ老女に殺されるのだが、その時鳥を菊五郎がすれば、瞿麦は団十郎が勤めるといふやうなものである。悪人の女を含まぬ歌舞妓芝居も、ずつと昔からある悪女を改めて善人にして出すといふことは出来ないことであるし、又さういふ妬婦のあることによつて善人の女が更に引き立つのである。お家物になつても、お家騒動の原因は多く女で、例へば後妻が夫の眼をぬすんで男に会ふところを継子に見つけられ、それからいろ〳〵の悪いことをするといふやうなものは昔からある戯曲上の類型であり、説経浄瑠璃にもあるもので、これは変へられない。それでさういふものが繰り返されてゐるうちに或特別な女の性根が出来る。それがまあ「をんな武道」になるのである。私は源之助は一番「女武道」にかなつた役者であると思ふ。例へば「ひらがな盛衰記」のお筆のやうな役は割にしどころの少い役で、十分発揮出来ない憾みはあつたにしても、源之助にうつてつけのものだと思ふ。

「女武道」は正義で、又時としては武芸に達し、容貌もいゝ中年の女といふ立女形の役である。女形が勢力を持つて来て、芝居の中心になつて、主役をしなければならなくなつた場合、「女武道」の必要が起つて来るのである。又昔の芝居は仮りに午前に時代物をかけたとしたら、午後は世話物をするといふ風だから、時代物が武道なら、世話物の方でも武道を出したいといふ要望が起つて来る。かうして世話物の「女武道」としての「毒婦・悪婆」といふものが出来て来る。

芝居の正義といふのは道徳的な本道の正義でなくともよいので、何にしても鬱積した気持ちを打ち払ふやうな華々しいものが、正義になるのである。今までおとなしい一方のものにきめられてゐた女といふものが、乱暴してみせるといふことでもよい。又立廻りはしなくても、殺人だとか、男を自在にあやつるとかいふことでもよい。とにかく自分たちの胸が透けばそれでよいので、さういふ正義が武道の範囲に入るのである。かういふところから毒婦・悪婆といふものも出て来るのである。切られお富の科白「お家のためなら愛敬すて、憎まれ口も利かざあなるまい」といふのも、女形としてあるべからざることを演じるのも、忠義のためだから為方がないといふ断りをする。こゝで毒婦をしても、常に女形本来の性質である善人の反省に還つてゐる。

悪婆といふと、その文字面は老人のことのやうだが、若い女のすることなので、たんかをきつたり女白浪になつたり、かたりやつゝもたせをしたりする。元来上方の花車方、江戸の婆方にある性質で老人のものには違ひないが、それが永い間の習慣で語だけ残つても、若い役になつたのである。

これは花車がやりてになるのと同様で、やりてとさへ言へば、廓茶屋の引手婆を意味するやうになつたが、もとは若い女房であつたのである。これらの変化も併し、さう古くからあつた語ではないだらうとは思ふ。

男の沢山ゐる中で、それらの男を飜弄する女が出て来て、これが毒婦・悪婆の訣だが、さうは謂つても毒婦・悪婆の範囲は広いのである。例へば、源之助がよく演じた「鬼神のお松」(初演明治二十六年)の様な英雄型の女も毒婦・悪婆だが、又「ウハヾミおよし」の様な少しも悪いところのないのも悪婆で、「女団七」のお梶の様なのも善人なのだが、やはり悪婆の型に入るし、実に多種多様なものである。田之助・源之助などがすれば、今までに型の決つてゐない役は、毒婦型・悪婆型になつてしまふといふ傾向は非常に顕著である。

源之助は娘役をしたことが少く、その点大阪の魁車と同様であつた。

魁車は十八くらゐから女房役をして、それで評判を取つた人である。

でも若い時にはよくしたのであつて、明治十七年「手習鑑」の道明寺の場の苅屋姫で評判をとつたし、明治二十四年にした「妹背山」のおみわの役などは、饗庭篁村が「源之助のおみわ本役とて座の光をまし舞台も広く思はれたり 云々」と批評してゐる。四十代以後の源之助にはありさうにも思はれぬ激賞ぶりで、而も娘役を本役として認めてゐることは注目さるべきであらう。

今の歌舞妓の本流は竹本劇、つまり浄瑠璃劇にある。これが本道に出来なければ、歌舞妓役者としては本格でないと言はれねばなるまい。源之助はその若い時にはこのやうに本格の竹本劇が出来たのに、次第にそれから遠ざかつて生世話物に移つて行つたのである。役者として己を鍛錬するための本道から遠ざかつたことは、源之助一代の痛恨事であつたと思ふ。

歌舞妓芝居もこの頃では、「古典劇」などゝ書かれてゐるのを見受けるが、どうもぴつたり来ない感じで、今の若い人々には歌舞妓芝居のやうなものも古典劇に見えるのかも知れないが、歌舞妓芝居を人生ほど見続けて来てもやはり、どうしても歌舞妓芝居が、げすな猥雑な感じがしてならないのである。本道の歌舞妓芝居がどれ程までに古典化されたかはまだ疑問だと思ふのである。



次に源之助のもつてゐる先輩について、まあ模倣原型論といつたやうなことを考へてみたい。

源之助の先輩は、女形の先輩も立役の先輩も彼にとつて有難いものではなかつたと思ふ。例の花井お梅の事件で、明治二十年から五年くらゐ大阪に逃げて行つてゐた間に覚えた芸が、一番本格的なものであつた。例へば「夏祭浪花鑑」の徳兵衛の女房おたつの如きは本格的であつた。東京で彼が最影響を受けたのは、田之助・菊五郎の芸だが、彼の直の先輩としてはこの田之助くらゐしかなかつた。田之助は同じ沢村家の先輩でもあり、当時最評判の高い女形でもあつた。だから源之助が田之助を学ぶのは、極めて当然なことで、その前の岩井半四郎と田之助の娼婦式な役柄の方面が、彼に力強く保たれたのである。

毒婦が認められるやうになつたのも半四郎からで、「三人吉三」のお嬢吉三のやうなものは、もと〳〵半四郎のために書いたもので、後に菊五郎のものとして盛んに上演された弁天小僧などゝ同様、半男女物と言ふべきだが、まあ傾向から謂へば、悪婆物である。

これらの半四郎、殊に田之助のしたことを、源之助がいくつもしてゐる。田之助は何も毒婦・悪婆ばかりした訣ではなかつたが、その毒婦型・悪婆型が世人に残した強い印象といふものが、田之助の死後までも世人は繰り返させようとしたのであつて、源之助がそれを踏襲してその穴をうめるのは当然の勢ひのやうになつてゐた。で「廓怪談敷島物語」だの「妲妃のお百」だのといふものは、みな田之助・半四郎系統の女形の芸なのである。

源之助に一番困るのは、五代目菊五郎に接近したために、菊五郎の芸をすべて取り入れなければならなくなつたことである。一体先代の菊五郎は実に芸の範囲が狭さうに見えて実は広かつた人で、元来立役だが、女形も随分したし、それを源之助がほゞうつしてゐるのである。

今の菊五郎も近頃になつて、その家の芸たる女形をして、あの肥つた身体でよく一つの面を拓いてゐる。踊りの場合は、断篇としては実によい女を表現する。併し、何と言つても真女形にはなれぬ。先代と比較して今の菊五郎といふ役者は、役柄の範囲が広い様に見えて、実は狭い役者である。

所作事は源之助の得意とするところではないので、先代菊五郎が、「茨木」「戻橋」「土蜘蛛」など沢山の所作事をしてゐるのはうつさなかつた。けれども役者である以上、全然踊らぬのではない。踊りを出し物にする役者が、外にあつたと言ふ訣なのだ。又その他にも村井長庵だの、加賀鳶の按摩道玄などの、色めいたところの少しもない悪党役は源之助の演じないところであつた。つまり気のよい役はしたが、気の悪い役はしなかつたので、尤、それには一部分は源之助自身がしようとしても興行師の方がさせなかつたといふところはあらうけれど、役者として色気があり過ぎたと言へるかも知れない。菊五郎の芸は市川小団次の芸を移してゐるので、つまり写実的な生世話な狂言が多いのだが、それを源之助が継承したのである。そして源之助は自分の柄に合はないものまで随分してゐる。切られ与三郎や清心のやうなものを継承するのは、少しも怪しむに足らぬ至極当然なことだが、場合によつては唯菊五郎がしたからするといふだけでするやうな、源之助自身の柄を考へないところの役もずゐぶんある。例へば「四千両小判梅葉」の野州無宿の富蔵・「牡丹燈籠」の伴蔵・宇都谷峠の文弥殺しの十兵衛などがそれで、唯菊五郎がやつたからやるといふだけのことで、もと〳〵源之助の柄にない役である。

源之助が頻りに立役をしたのは、明治三十六年五代目尾上菊五郎が死んだ年あたりからである。これは田之助の継承を無理にもさせられた時とは対蹠的に、自分からすゝんでしたものだつた。

四谷怪談のお岩・播州皿屋敷の侍女お菊・「恋闇鵜飼燎こひのやみうかひのかがりび」などの怪談物で、菊五郎のした女形を可なり克明にうつして、それには成功してゐる。一体彼は容貌風采がいゝので、何をしても一通り見られるものになつた。

歌舞妓芝居の役者には一体にさういふところがあるので、今の十五代市村羽左衛門が本道に立派な芸を見せて来たのは、最近になつてゞあるし、それまではたゞその美しい容貌、きやしやな風采だけで持ちこたへて来たのである。今の松本幸四郎なども、ひとへにあの立派な容貌と、堂々たる体躯に頼つてゐる。最近故人になつた市川左団次も同様である。

源之助の演技について考へてみると、いつも彼の芸はその場その場のもので、極端にいへば稽古など一向しないで、舞台でしてゐるうちに、その場その場に美しい型がくり出されて行くといつた様な迷信を持つてゐた様である。つまり役を確実に把持しなかつたといふこと、又自分の芸に対する反省の足りなかつたこと──それらは源之助自身が持つてゐた外的な天分が豊富でありすぎたために、彼自身もそれに頼りすぎて真剣な勉強をしなかつたことによるものであつて、そこに彼の最大の欠陥があつたやうである。

晩年の源之助が不遇であつたのは、今述べたやうな彼の欠陥が禍したのだと思ふ。勿論彼も随分借金に苦しめられたことだから、そのために苦しまぎれに小さな芝居小屋に出ることになつたわけだが、もうどうしても大芝居に根をおろさなければならない頃になつても、歌舞伎座に帰れず、浅草あたりにいつまでも流離してゐなければならなかつたのである。

源之助は上達して名人になるためには、煩ひになるやうなものを余りに沢山持ちすぎてゐたのであつた。今日になつて源之助といふ役者を考へてみると、成程源之助は名人にはならなかつただらう。だが、あれだけの印象を我々に残してゐる人であつてみれば、唯の人物ではあるまいと思はれるのである。結局、源之助のもので一番残つて行くものは、吉原その他の色街の太夫・遊女であつたらうと思ふ。だが、其が彼の素質的なものかどうかは断言出来ぬのである。でも源之助の遊女の定評になつた頃には、もう彼がすがれた頃だつた。

羽左衛門が梅幸を失つて、一時源之助を相手にして、直侍三千歳を出した頃には、源之助は如何にもいゝ芸を見せたが、それが又如何にもすがれてゐた。だから動きの少い役、例へば佐野次郎左衛門に対する遊女八橋などは実に絶品だつた。次郎左衛門の心はよくわかるが、自分では心にきめた恋人があるので、次郎左衛門が如何に口説いても冷然とすましこんでゐる遊女八橋の冷淡さなどゝいふものは、あとにも先にもあんな見事な八橋といふものはなかつた。それから女役者市川九女八くめはちのために書かれた「女大杯」や、源之助自身のために書かれた「赤格子血汐舟越」のかしくのお糸などの、女の酔つぱらひの役もよかつた。そして源之助の芸の一部は、準弟子たる河合武雄によつて継承されたのであつた。


誰しも、自分の為事でない側の事をそゝのかすあくたうに誘はれると、よい気になつて、つひ浮かれずには居られぬものである。さうした後で、物蔭から、あれがあの男の酢豆腐さと嗤ふ。わらはれても為方がない。此程しやべつて見れば、無恥厚顔至極、世間を知らぬ人間だつた、といふ自覚が起らずには居ぬ。まことに、此座談は、私にとつて酢豆腐である。

底本:「折口信夫全集 22」中央公論社

   1996(平成8)年1210日初版発行

底本の親本:「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年220

初出:「渋谷文学 第十八巻第二号」

   1942(昭和17)年12月発行

※「歌舞伎」と「歌舞妓」の混在は、底本通りです。

※平仮名のルビは校訂者による加筆です。

※底本の題名の下に書かれている「昭和十七年十二月「渋谷文学」第十八巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

※初出時のルビは平仮名です。

入力:門田裕志

校正:酒井和郎

2019年329日作成

青空文庫作成ファイル:

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