実川延若讃
折口信夫



女殺ヲンナコロシ地獄」の芝居を、見て戻つた私である。一日、極度に照明を仄かにした小屋の中にゐて、目も心も、疲れきつてしまつた。思ひの外に、役者たちの努力が、何となく感謝してもよい心持ちを、持たしてくれたけれども、何分にも、先入主となつたものが、度を超えて優秀な技芸であつた為、以前見たその美しい幻影が、今見る役者たちの技術の上に、圧しかゝるやうな気がして、見てゐてひたすら、はかなくばかり見えてならなかつたのである。

明治大正の若い時代トキヨは、貴かつた。その劇も、音楽も、浄い夢のやうに虚空に消えて行つた。はじめて、この河内屋与兵衛を見たのは、今の実川延若の延二郎と言つた頃である。さるにても、この若い油売りの手にかゝるお吉のいとほしさ。中村成太郎──後魁車の、姿なら技術なら、今も冴えざえと目に残つて居る。二度目に見た時は、中村福之助がお吉を勤めてゐたが、此時既に、先の印象が、その後のお吉の感興を淡くしたことであつた。其ほど、魁車のお吉は優れてゐた。与兵衛の両親、同業油屋の徳兵衛・おさはに扮したのが、尾上卯三郎・嵐璃珏りかくであつた。この三人の深い憂ひに閉され、互に何人かに謝罪するやうに、額をあつめた謙虚な姿、まことに、こんなに人を寂しく清くする芝居もあるものか、としみ〴〵感に堪へたことであつた。

もう此以上の感激はあるまい、とその時も思うた。其は今も印象してゐる。而もそれに続く──向ひの老夫婦を送り出した心の、しみ〴〵清らかな油屋の女房へ、恐怖のおとづれびとが来るのであつた。好意を持つもの同士の間に、其でもくり返さねばならぬ疑ひ、ネヂけごと。さうしてやがて、とり返されぬ破局への突進。人間の心と心とが、なぜかうネヂれ、絡み、又離ればなれになつて行かねばならないのだらう。人間はなぜ、人間の悲しみの最深きものに、直に同感し、直に共感する智慧を、持つことが出来ないのか。さう言ふ悔いに似た戦慄が、われ〳〵の心を、極度に厳粛にした瞬時の後、あはれ、謂はうやうない破局への突進。私は、再見ることもなからうと言ふほどの痛苦の感激を覚えて、呆としてゐた。其間に、舞台は頻りに進んで行く。私は、人間の滅亡を、唯傍視してゐるばかりであつた。若いの延若もよかつた。魁車もよかつた。その為に生れて来た人たちだと言つても、誰がアラガふであらう。私は三越劇場の女殺しを眺めながら「とりかへすものにもがもや」を、危く叫ばうとした。其程の至芸が、曾て屡これとほゞ同じ舞台に同じ年頃であつた人々によつて、発揚せられたのを思はずに居られなかつた。

幸にして、今度の禍を免れた延若は、大阪宗右衛門町の浜側の防空壕の中で、孫を抱いたまゝ焼け死んだ、その時の相方に思ひ到ることがあるだらう。さう言ふ時、油地獄の殺しの場面を思ひ起して、魁車を惜しむこともないではあるまい。

延若の芸の亡びるのを痛惜する人々が、その、汽車で東上するに堪へなからうと言ふことを慮つた。出来れば航空の便りをからう、と言ふ心積りまでしたことを聞いてゐる。而も彼はまだ、東京の見物にまみえることが出来ないで居る。終にまみえることなしに、彼はその芸を抱いて、遠く翔けるやうな時が近づいてゐるのではないか。若しさう言ふことになつたら、劇の英傑を、再我々に見ざらしめた責任は、誰が負はうとするのか。

「大晏寺堤」「乳貰ひ」など、今の彼に出来さうな狂言も、其人々の胸には浮んでゐることは勿論である。それすら今は、実現することなく、消え去らうとしてゐる。謂はゞ今、別人の手に演ぜられてゐる「油地獄」も、思ひ深い幻影を、あらぬ青年たちの上に移して見ようとした、其人々の望みの、実現したものと言ふことも出来る。まづ大阪に、彼に替る与兵衛がない。東京に恰好な柄の若手がゐないのも、無理ではない。

まづそのことばである。ことばの音色ネイロあくせんとに導かれて来る地方人の慣性、其を表現せなければ、与兵衛はない訣である。ことばから来る大阪人の数理の上における俊敏性と、其裏うへにある愚痴・怯懦を表現することの出来るものでなければ、与兵衛の持つ特殊性は失はれるだらう。都市に慣れながら、野性を深く持つのが、大阪びとの常である。彼等は、江戸人の常誇りとする洗練を希ふことがない。所謂えげつなさを身につけてゐる。近松が書いた為に、京阪の見物の馴れによつたが為に、毛剃けぞり九右衛門さへ、柳町であんなに臆病なところを暴露させられてゐる。人間の強さの底を知ると共に、自分の弱さを、互に表現し合つて恥ぢとしない大阪びとの持つ普遍性なのであつた。こゝに力点を置かぬ性格描写は、恐らく近松の予想した役の性根とは違つて来るであらう。延若の与兵衛は、後世に牢記せらるべき一つの歌舞妓性格の一基準となるであらう。

おなじ系統の性格の、地理的変更を経たのが、団七九郎兵衛である。この性格は、近年殊に東西の演出法を互に参酌することが多くなつた為に、以前ほどの差異は著しくはなくなつたやうだが、其でも、江戸系統のものには、一応の改訂が加へられてゐる。九郎兵衛は固より、一寸イツスン徳兵衛・釣舟三婦サブ・徳兵衛女房お辰に到るまで、皆江戸型として、一通りありさうな人物であり、又さうした解釈によつて演出せられて来た。だが、実地を考へれば知れるやうに、やはり大阪型の性格である。九郎兵衛は、浮浪児から拾ひ上げられて、いかさま師に養はれ、其家の娘と野合したと言ふ男である。元より江戸風の侠客ではなく単なる無頼漢である。徳兵衛も亦、堺・住吉の間をうろつく中国喰ひつめもので、乞食の仲間に身を落してゐた。大阪側においてすら、此徳兵衛は小意気な男とした──扱ふ外がない為でもあるが、──位だ。江戸の「浪花鑑」における、此人々の描写は、違つた性格基準に入れて演出してゐるものと見ねばならぬ。謂はゞ、ひき出し違ひに演出せられた性格である。此点においても、延若の演出方法は、最正確なものとせねばならぬ。吉右衛門の団七は、父歌六の大阪から伝来した演出法や、解釈によつてゐるから、正しいものと言ふことは出来る。が、歌六の印象が薄れると共に、近年は、頗江戸の男だての颯爽としたものに傾いて来たやうである。かう言ふ、地方性を表現することが特殊な性格を描写するのに適してゐる場合は、演出法は固よりことばも郷土感を構成するものでなくてはならぬ。

唯、別に一つの問題がある。所謂音羽屋型と謂はれる、五代目菊五郎によつて完全に整頓せられた幾種類かの演出の中、特に優れたものは、「いがみの権太」である。

おなじ上方役者でも、彼の先輩鴈治郎は目先が利いたと言ふより、同化性能が強かつた。権太を大和下市辺の博徒無頼漢とするせぬに、さほど執しては居なかつた。だが延若はさうではなかつた。何処までもその解釈を守つて、今に到つてゐる。だが、音羽屋型に権威を感じなかつた、明治早期における大阪型の権太は、必しも今の延若の演出の基礎となつてゐる訣でもないらしい。其ほど彼の創意があちこちに見えるのである。丸本歌舞妓の立て前からすれば、一にも二にも大阪型によるのが正しいやうに思はれる。が、「いがみ」の場合与兵衛や団七のやうに、郷土色に終始するのを理想とするに及ばぬやうである。なぜなら、大阪や大阪近在乃至は、大和の生活を負つてゐるが為に、性格の特殊性が活きて来ると言ふ風のものではない。謂はゞ、権太においては、普遍性の多い田舎の無頼漢らしさを、示すことを前提として、其から進んで、さうした小悪人が持つ悲しみの方へ深く探究してゆけばよいのである。唯、都会の底に焦げつく市井人でないことを、丸本に対する責務とすべきだらう。だから、菊五郎演出法による権太を否定する理由はないのである。唯、都会的感覚を持たぬ小人の死を以て描く悲喜劇と言ふ点では、やはり延若の態度の方が、落ち入りに到つて、あきらめなさの酷烈を痛感させられる。

この三役の中、団七・権太においては、相当彼を第一と認めぬ人々があるに違ひない。権太における六代目菊五郎、団七にとつての吉右衛門、続いては、菊五郎、亡き幸四郎、同じ羽左衛門など、それ〴〵代表的な演出を示したものはある。が、延若の此等の役における妥当性を否定しようとする人はあるまい。与兵衛においては、彼をさし措いて、他の誰を推す者もないであらう。

此等の芸格からすれば、彼は実悪ジツアク、即、立敵タテガタキに位すべき人で、幸四郎の時代、又は王代ワウダイにおける立敵としての最後の人であるのに対して、唯一人延若があつて、世話・御家物オイヘモノ敵として、残るものと言ふべきであらう。

壮健を誇つた彼の長い春の盛りに、私どもはなぜ、もつと種々の分化を遂げた歌舞妓の敵役を見て置かうとせなかつたか。赤堀水右衛門も、当麻タウマ三郎右衛門も、彼に就いて見た覚えがないのである。さうして竟に見ずならむとしてゐるのである。最終の松王を見たのは、去々年であつた。声かけて駕籠を出る刹那、私は対蹠の位置に立つ松王をまざ〳〵と思ひ浮べた。故市川中車のものであつた。寺子屋一幕、完全な善人として、又ある種の超人的な人格として終止した。延若は門口に顔を改める時から、家に入つてのしどころしどころの気組・表情・動作、皆実悪式の陰翳を添へながら演出した。団十郎の錯誤だと言はれてゐる刀をさしつける首実検なども、立敵の憎々しさ、人もなげな振舞を様式化するものである。彼の演出を見て、瞬間に私は、此古い型の理由を悟つた。其だけ彼の松王は、解釈において、常識的な立役腹タチヤクバラを超越して居たのである。

幸にして、私は延若の石川五右衛門を見る機会が度々あつた。吉右衛門の如く人情負けしたものでなかつた。たゞいつも藤の森を中にする五右衛門ばかりで、壬生村における芸の比較を言ふことが出来ない。其よりも残念なのは、人情を虚脱して、無道徳の世界に優遊するやうな偉大なるぱん(牧羊神)を見ることの出来なかつたことである。

溯つて、安達原の貞任を見る。上手屋台を出て、直方の懐中を調べる処からはじめて、花道に到つての動作・発声、其につぐ呼び戻しに到るまで、徐々に悪の発露を鮮やかにして来る、搬びの自然らしさと言ふよりも、当然の結著の如く悪への復帰。こゝでも、吉右衛門の次第に善をふるひ落すやうな小刻みな動きをくり返し、而も恰も正義への帰還を悲しませるやうなりあるな誠実感に充ちた演出と、比べて見た。立敵腹と立役腹との違ひが、二つの貞任にも現れたのである。だから、お君をかせにしての愁ひになると、吉右衛門は人を泣かしめずにはおかないと言ふ覚悟を持つてかゝる。戯曲の解釈は歴史原典に溯つてすべきものではない。一にも戯曲、二にも戯曲、原作を限界とした解釈が、劇を正しく生すものである。

仁木につき弾正・平知盛・佐倉宗五郎などは、市川団蔵の舞台を見ておいて、よく之にノツトつてゐる。これらの役について見ると、殊に吉右衛門との行き方の違ひが、目に立つて感じられる。全体弾正は、大詰に偏つて出るやうになつてゐるが、三場ともに性根が変つてゐる。床下が飛びぬけて幻怪な役柄になつて居り、対決タイケツが中間で、刃傷ニンジヤウが小世間的に演ぜられることになつてゐる。昔はこの三場に通じて一つの性根が一貫してゐた。其で、刃傷場の恐しさなども、特に出て来ないのだ。出て来たと言ふより、とり残されたやうになつて、今も度はづれに凄く演じる訣である。見物は皆、めい〳〵に一人の外記左衛門になつてしまふ。群衆の中に隠れてゐる自分一人を目あてに、花道からと見かう見して進んで来る弾正だと言ふ気がするのである。団蔵の舞台は尠くとも、その恐怖が舞台へ捲いて来た。今も吉右衛門・菊五郎共に、其は忘れないのが用意らしい。だが、問註所モンヂユウシヨ対決の場は、すつかり「大岡さばき」の一場面のやうに平易化してしまつた。サバき役としての細川勝元は、あゝ童蒙的に聡明な人に演出せられてはいけないのであつた。愚かしい虎の講釈などは、相手方山名一味を嘲弄して正当派の負け色を立て直す立役の一機智に過ぎないものと思はねばならぬ。あれをあまり颯爽と演じ過ぎるので、第一黙々と傾聴してゐる弾正が、卑屈な人間で、又極めて身分の低い武士のやうに見えるに到つたのである。もつと、ふて〴〵しく人もなげな処が出なければならぬ。此はどうあつても、団十郎・菊五郎以前の役者でなくてはもう見られぬものなのだらう。対決の弾正は、延若の芸容が舞台を圧する所で、さすがに神経過敏に目を配つたりする所はありながら、解釈は最古い弾正と言ふことが出来た。其には、彼にとつて、最有力な助勢がある。言ふまでもなく、極めて格はづれで、又格に入つたその容貌が、中年以後、殊に個性を発揮すると共に、普遍的な妥当性を持つて来た為である。とりわけあの敵役らしい顔面が技芸を十分に発揚させるのである。

暫らく彼にソクせずに言ふ。狂言によつては、立役の対立を要する場合もあつた。さう言ふ時には、今一人の役柄は、多く「辛抱立役」と言つた役方の発生する所以である。さうして舞台では、脇役の立ち場に在るやうになる。たとへば、近年舞台に現れなくなつたが──、曾我狂言の鬼王新左衛門のやうなものである。役は重いが、役の位はタチ役の次位のやうに見えるものである。だから老巧な役者の、若手を立てると言つた役柄、さう言ふことが説明しなくても、見物に理会出来るものと考へてゐたのである。辛抱立役の役柄は後著しく変化してしまつたが、まづ新左衛門のやうな時代物の世話の中心になる忠義者と言つた役から、端を発してゐる。貢・八郎兵衛などの、侮蔑に堪へるだけのものを言ふのではなかつた。こゝに忠僕物と言ふべき一類の様式が出来た。平右衛門・人形屋幸右衛門、名古屋山三の下部と言ふ風に、雑多な分化を遂げた。

延若の成長期の三十年前後は、市川荒五郎(先代)・嵐吉三郎(先々代)、稍降つて中村琥珀郎など言ふジツ悪役が、役の継承者なく死歿して行つた頃である。若い延二郎も、若いだけに敵役で立つて行かうとは思はなかつたであらう。併し彼の芸容の指示する所は、結局平右衛門役者といふ所に落ちつきさうであつた。其だけに彼は努力した。と言ふよりも、初代延若の子としての自覚、親の庇陰を受けた芝居者たちの、父親亡き後の反覆表裏、腸を煮え返らせるやうな態度を見せつけたをり〳〵もあつたであらう。少年期における、彼を育んでくれる筈の母の身に関した事件、世の頼みなさを骨に刻んだ負けぬ気の彼、「見てゝ居いよ」、かう言ふ辞を歯に噛みしめて涙を呑んだ事も幾度だつたであらう。

彼が平右衛門役者としての素質は、彼自身之を破つて後も、一代彼のニンにある役柄と言ふべきものになつた。岡田良助・佐野鹿蔵・向井善九郎、かう言ふ「書き物」においても、平右衛門型は随所に見出される。だが額十郎ガクジフラウ以来の実川の正統として、継承すべき役柄は、儼として他にあつた。

「鐘鳴今朝噂」の刀屋新助、「積情雪乳貰」の狩野四郎二郎、団七茂兵衛・紙屋治兵衛など言ふ上方世話物に一貫する芸の上の系譜は、彼の素質とは、可なり違つた方角へ彼を導いて行つた。

鴈治郎が元来実川姓を名のつた様に、彼の父の誘掖で、第一歩を踏み固めたことは誰よりも彼が知り、鴈治郎自身が知つて居た。其為、唯負けぬ気負ひの若い彼にとつて、第一の「見て居いよ」の相手は、鴈治郎以外の誰でもなかつた。額十郎・延若と続いた芸も、実川から出て、実川に背いたと見える鴈治郎のものとならうも知れぬと言ふ虞れがあつた。而も芸容は、和ゴト以外の領域を思はせるものがあり、芸質は明らかに辛抱立役或は脇役に向つてゐた。父延若とても、美しい顔ではなかつた。だが、長い鍛錬が其に自在性を与へた。其上、その時代は、生れつきの美しさを問題としてゐなかつた。明治時代は、歌右衛門のやうな、羽左衛門・梅幸の様な生得の美貌を、優人に求める好尚が、深まつて来た。大阪でも既に、鴈治郎・我当・巌笑の時代が来てゐた。其中鴈治郎は、飛び抜けて美しい芸容を持つてゐた。容貌・体格兼ね備つて輝くやうな存在になつてゐた。声変りを通過したばかりの天星庄右衛門アマボシシヤウヱモンは、古風の役者としては、相当な舞台顔は持つてゐたが、二枚目和事役者として、家の芸技をついで、美貌の鴈治郎を凌駕するだけの修練を積んで行かねばならなかつたのである。而も、その既に仮設敵ではなかつた鴈治郎は、彼よりほゞ十年の芸歴を先んじて居り、上方劇壇で、揺ぎない地歩を占めてゐたのである。彼の芸の辛酸は、実に此からはじまるのである。

京都新京極の坂井座に座頭として打ち続けた数年も、恐らくかうした彼の周囲の妄念マウネンが、彼を駆り立てたことが多かつたであらう。

何事にも鴈治郎と対蹠の立ち場にゐた我当(十一代目仁左衛門)は、恩怨のない延若遺孤に好意を寄せて、声変りの彼に、丁稚役ばかりを宛てがつて、目を掛けたと言ふ。その時期過ぎた京都の客の人気の上に、彼はあらゆる芸目を出来る限り演じて見ようと覚悟した。幸に、座頭であり、同時に書き出しであると言ふやうな人気を得るやうになつた延二郎は、やがて自分の力を、東京の見物の前に披瀝しようと言ふ野心を持つやうになつた。

大阪の興行師泉熊の試みた新手の興行法が、成功した後である。上方の芝居が、十分東京の口やかましい批評家の鑑賞に堪へるものなることを知つた仕打たちは、さうした機会を狙つてゐた。

明治三十二年五月、東京座へ呼び迎へられた延二郎一座は、二十日初日で、初めての東京客に、目見えをすることになつた。書き出し中村雀三郎(後、嵐吉三郎)、女形中村成若。出し物は「岡山実記」、中幕「天網島」、切「弁慶上使」に、水野三郎兵衛と言ふ真立役同時に辛抱立役を勤め、家の芸といふふれこみで、紙治を演じた。翌月は、「忠臣蔵」「大文字屋」「三代記」で、座頭役の大星は雀三郎に譲つて、彼は、石堂・勘平・平右衛門・万屋助右衛門・番頭権八・三浦之助と言つた、立役・二枚目・三枚目、更に老優フケヤクまでも、出すことになつた。

「此優の面貌を御案内すれば、真砂座にゐる璃宗を上味淋で煮上げたと見て可ならん」とは、好評を彼に与へた朝日新聞東帰坊の劇評(続々歌舞伎年代記所引)の中の漫言である。三度目の七月は、団七九郎兵衛・石井常右衛門を出し物にしてゐる。八月は、「塩原」「妹背山」で、延二郎は多助とお三輪である。九月「源太勘当」の平次景高、「三勝半七」のお園早替り代官十内、「五十三次」の怪猫・猟人繁蔵と謂つた風の役割であつた。うつかりすれば、悪達者と言ふ評判の立ちさうな働きぶりである。同じ頃、後年延若との適当な提携者であり、又深い融け合はぬものを持つてゐた中村成太郎(魁車)が、東上して、明治座に入つた。その九月興行に、後のイホリの待遇を受けて、侍女早咲・おとり・矜羯羅こんがら童子・夏目半楽・盛岡屋おなるの役割を得た。

魁車は、此後数年東京にゐるのだが、東上の理由には、直接には幼い恋愛問題と、中村政治郎(後、福助三代目梅玉)に対する位置問題とがあつたのだと言ふが、其決心を促した動機には、延二郎東京上りの刺戟があつたに違ひない。さうしてやがて、政治郎も、父福助(二代目梅玉)に伴はれて上京することになるのである。三人三様の東京入り、考へて見ると、偶然と必然と、三人の若い役者に纏綿する、緒手巻の糸の様な物があつて此後四十年に亘つて、解けつもつれつする様が、思ひ起されるのである。東京座の連続興行は、翌年まで打ち続いて、三十三年の正月芝居には、寿美蔵・猿之助(段四郎)・染五郎(幸四郎)・九女八などの加入がある。中で、延二郎は「陣屋」の義経、「松竹梅」のお杉といふ軽い役に廻つてゐるが、評判は段々によくなつて来てゐる。

延二郎の義経、予は初めての見参なるが、真砂座にゐる璃宗といふ面影あり。先頃、大阪より来りし若手中にて、まづ質のよき方なりといふ。東京に居馴染んで、勉強が肝要なり。

朝日新聞の饗庭篁村の批評であるが、当時所謂御社オシヤの先生の上に特立した竹の家主人だといふ自覚が、あの好人物らしい人にも、其頃はまだこんなもの言ひをさせたのであらうが、馴染み薄いものには、極度に気をゆるめぬ行き方で、此でも可なり褒められた語、と見るのが正当である。容貌については、五十を過ぎて、役者らしく整うて来たのが、まだナマの美しさの要求せられる若さの時代とて、此記事に劇壇の通論といふやうなものゝ出てゐるのも、おもしろい。

私は思ふ。紙治は、竟に先代鴈治郎を以て窮極点に達したものと見てさし支へはないが、梅忠に到つては、延若の持つた野性──、忠兵衛に肝要で鴈治郎に欠けてゐるもの──を、彼が持つてゐる事を、切実に示してゐた。「へど大尽」のくだりなどは、延若の忠兵衛でこそ破綻がない。その為にこそ、後年、鴈治郎は、井筒屋の裏座敷は出しても、へど大尽は出さなかつた──殊に道行になると、延若の忠兵衛に真に、死ぬるまでの一歩でも生きて居ようと言ふ生の執著と、梅川に対する真実とが溢れてゐた。封印切りは勿論、鴈治郎のは一つの典型であつたが、延若の方が生みつけられた忠兵衛であり、八右衛門とのたわいもない争ひから、熱火の中へ陥ちこんで行く、無分別な男を表現してゐた。

其にあの目である。鴈治郎の目の美しさは言ふまでもない。ところが、真実を表現し、美の哀愁を発露しなければならぬ役どころに、相応不似合な資質を持つた延若の目が、どうしてあのやうにしんじつを、愁ひを、訴へを、憐みを、同感を、歓喜を表現したであらうか。偏に、その長い修練の致す所を思ふ。髪結金五郎・三二五郎七(雁の便)・狩野四郎二郎・刀屋新助……まことにとろける様な、無言のぜつ、怨嗟の流れ、其ほど美しく歌舞妓の世界にとり上げられ、弄ばれ、洗ひ上げられ、身につまされる力を持つて来たながし目の響きである。この目の芸を、この後誰が伝へてくれるだらうか。

東京の歌舞妓の世界には、寂しい春が来た。ほんたうの立者タテモノ役者と謂はれる人々が、片手の指の半分にすら足らぬほどにへつてしまつてゐるのである。

この一両年この方、芝居はどうやら息つきを見出したやうであつた。併し、其には、何にも替へられぬ大切な代償を立てゝ来たのであつた。目に立たぬやうにして、実に歯の抜けるやうに、故老が落伍して行つたのである。いろ〳〵原因を言ふ人もあるが、今度こそ愈滅亡といふ瀬戸際に臨んだ歌舞妓芝居であつた。今までは何と言つてもまだ、こんな切羽セツパつまつた感じはなかつた。こゝまで来て、世間は歌舞妓の崩壊を痛感した。俄かに之を支持しようと言ふ情熱が、実に思ひがけない方角に起つて来たのだ。もつとも意外な事は、其が一番若い世代の人々の心を衝いて出たと言ふことなのである。

今度の潮流に当面して現れた優人たちが特に謙譲であつて、技術が優秀だと言ふ訣ではない。唯彼等も、時の重圧を感じ、身を処し、芸に対するにも、今までとは、おのづから変つて見えるのである。

今一番の関心事は、一人の老優人が死ぬることの影響である。さう言つてゐる間に幸四郎が亡くなり、宗十郎が之に次いだ。其死の近かるべきは、皆予想してゐた。だが、彼等の芸質芸量のさのみ愛惜するに及ばぬことゝたかをくゝつて、誰もさう危殆ヒアイの感じは持たなかつた。処が亡くして見ると、誰を喪つたより大きな損失は、殊に幸四郎の上にあつた。彼に備つた芸容の大きさが、全くとり還すすべえたものだつたと言ふことを知つたのである。立敵タテガタキの立敵らしい役方を要する狂言は、此後完全には行ふ事が出来なくなつたのである。立役タチヤクについても、ある種の形容の壮大を主とする役は、彼を恋しく思はせることになるだらう。厳格に言へば、東京の歌舞妓芝居は、彼を失つた為に、ある点まで、かたはになつて行くのを忍ばねばならなくなつた。

若し私の言ふことを、誇張のやうに感じる人があるなら、私は、自分の解説の拙さを恥ぢるであらう。だが、あなた方の聡明にして広い胸を信じるが故に、更にもつと大きな危惧の、迫つてゐることを告げようと思ふ。

大阪役者二代目実川延若が若し今のまゝ、又は今の病状に一歩を進めるやうなことがあつたら、其こそ、幸四郎の場合よりも、更にまざ〳〵と、寂しい歌舞妓の末日の姿を見つゝ耐へねばならなくなるだらう。

私の延若論は、はじめこの人の讃美論を書かうと企てた。其がいつか、彼の前半生を伝することになつた。此でも、彼の一生の芸風の由来を説くことが出来たと思ふので、途中筆をおくことにした。之を読み了へて下さつた大方タイハウの人々、延若の才能、或点では天才的でもあつた彼の素質を、此歌舞妓及び彼自身の末日の今において、思ふ限り伸べさせる望みをお起しにならないだらうか。もしさうでなかつたら、私の不文が其を致したのだ、と言ふ外はない。

私は日を異にして、延若の二枚目・三枚目を論じたい。此こそ、彼の芸及び、彼の芸の根柢に横はる大きな秘義を示すものなのであつた。

願はくは、実川氏。尚一度は舞台に立つだけの慾望に燃え給へ。一つは、大晏寺堤の春藤を再びする為、今一つは、久しく出ない寺子屋兵助を演じて、世の、悲しみ知らぬ若い日本人を、哭かしめる為である。昔びとの真実が、かくまで人の心を相寄らしめたことを了解して、新たに涙の安息を知らしめる為に──。愁ひの芸術歌舞妓の為に──。


われ〳〵の愚かさは、まことに「りのスサび」に人を憎み、人を疎み、又人を愛して来た。芸のいまだ生々しく到らざるものとして、市川猿之助・市川寿美蔵──新、寿海──を激励する事をすら、惜しんで来た。思へば、今年に入つて既に幸四郎・宗十郎は、突風の煽る如く、俄かに過ぎ去つた。菊五郎・吉右衛門身後の継承者は、実に此二人を外にしては考へられなくなつてゐたのである。両人に尚欠ける所が多いやうに、漠然と考へて来たことも間違ひではない。だが、あの尾上氏(菊)・中村氏(吉)の上を見ても、芸技・芸量相優れた人々だが、実は芸容において、大いに欠ける所があるのであつた。沢村氏(宗)に到つては芸容乏しくはないが、其が、度を越した古風の芸境と相俟つてゐる所の多いと言ふ難があつた。松本氏(幸)に到つては、歌舞妓の芸容、こゝに到つて彼と共に亡ぶと──少し誇大に言へば──言へぬこともないほど、芸容の豊かな優人であつた。単に其だけの優人だと言はれたこともある人だが、其芸容すら蓬々として風に紛れて去つた。

芸容は唯舞台の上の容貌ばかりを言ふのではない。若干の動きの、之を助けて、多少の心理内容を、その舞台顔に持たせることに初まる。少くとも敵役・立役・女形等に必須な動きが、其舞台容姿を、歌舞妓的整頓に導いてゐるかどうかと言ふ前提に立つ。だが其以上更に深く芸の諸要素と結合しなければ成り立たないと謂つたものではない。私の見聞きしてゐる大阪の役者を例にとれば、明治の嵐璃寛、明治から大正昭和にかけた嵐巌笑は、芸容優れて、芸量其に追随しなかつた人である。璃寛を見たことは、かなり幼くて、その印象だけでは伝聞を是非することも出来ない。巌笑に到つては、正に其であつた。私の記憶を筋立てれば、嵐系譜に属する人々には、所謂「押出し」なる芸容又は、擬芸容の優れた人が多かつた。その為に、嵐一門は、明治大正の演劇からは、落伍した芸風になつてしまつたこと、東京に於ける沢村一門と稍似た所がある。我々はもつと、芝居の世間の為に隠忍して、猿・寿二人の芸境の、大きに開くる日まで、美しい協力を惜しんではならないと思ふ。

唯大阪に実川氏(延若)あつて、芸容に秀でゝ、松本氏亡き後の歌舞妓の世界を圧倒せむばかりである。この点では、菊五・吉右衛両氏も、延若の敵ではないと言つてよい。東京に二人、大阪に一人、彼実に日本に三人の一人となつてしまつたことの悲しさ。日本の歌舞妓の為、もつと痛切に、大阪芝居の為に悲歎せずには居られないのである。歌舞妓擁護者を以て、自他共に許す白井・大谷両氏、延若に見る此現状を坐視せんとするのか。今にして、東京の識者たちの抱いて来た大阪芝居の通識に対して、私は抗議を提示せずにはゐられなくなつた。此すら竟に口にすることなく、過ぎれば過ぎたであらう、口舌クゼツに似た未練の繰り言を、敢へてする私である。だが、私が芸容を言ふことが、亦この東京人の考へを一層根深くする虞れがないとは言へないことを思ふ。

大阪芝居は、芸容を讃美点オモテとして、それ以外の芸の諸面には大した価値を置いて来なかつたし、其だけに、内容の空疎な押出しだけの立派な役者が、輩出したと思はれて来てゐる。かうした定見家からすれば、延若の芸は、芸容以外に、多く期待することが出来ないと言ふことになりさうである。鴈治郎の如きも、さうした考へ型に入れて分類すれば、さう言ふことにきまつてしまふ虞れがある。又事実、卓識の士と謂はれた芸苑の名士からは、さう言ふ評価を受けてもゐる。雀右衛門だつてさう言ふ「ひきだし」に容易に這入りさうである。さうした空漠とした概観が大阪芝居の価値を固定させさうに思ふから、此だけは言つておくのである。延若の芸容が、菊五・吉右衛等を抜いてゐると言ふことが、彼の芸質が、後の二人よりも空疎だと言ふことにはならないのである。論より証拠、彼と芸質相反する様に見える尾上氏と並べ見る時、亦芸境の近接してゐるものを時に見せる中村氏(吉)と併せて見る時、誰が菊吉二人の芸量に、彼が圧倒せられたといふだらうか。

菊池寛の「入札イレフダ」を演じる両人を見る。親分は菊五郎であり、子分に扮するのは延若である。此時ばかり、舞台における両役者の芸境の一致したのを見たことも少い。平作や、大文字屋助右衛門・駕籠屋甚兵衛などには、芸容が邪魔をして、「あはれ」が薄いと思はせる彼であつた。が、この時の衰耄に近づいた子分は、今国越えをせなければならぬ親分の心の寂寥──謂はゞ人世に「敗退」といふことのあるを思ひもせなかつた壮年無頼の漢子の、未だ深く意識せぬ憂愁を、象徴すると謂つた役であつた。彼自身も、その老乾児の悲しみを表してゐる──其に努めてゐるとしか考へなかつたかも知れぬ。恐らくその親分に扮した菊五郎に到つては、夢にも考へなかつたらう。或は「七騎落」の舞台が持つ希望をすら、抱いてゐたかも知れぬ。少くともふり棄てゝ行かれる子分を憐む心の表現にのみ努めてゐたのではなからうか。併しさうすると、此一幕物は「入札」に自らを択んだ老旦の出し物となるのであらう。私どもは延若の扮した老乾児の為に泣かうとする情をらすのに容易でなかつた。あれほど違つてゐる両優人の芸質の近接を感じたこと、此の如きは覚えがない。恐らく延若が、菊五郎の為に譲つて、おなじ芸質に踏み入つて行つたのに違ひない。その為に導かれた結果は、彼の老役に、その後も見ることの稀な「あはれ」が出て来たのである。而も尚、いまだ壮んにして国越えの悲痛を身に沁みて感じない国定村の忠次の現在の境遇を象徴することになつたのである。私はその時、ふつと彼の芸歴の上に、類型の問題を糺す必要を感じたのであつた。

乳房榎ちぶさのえのきは、彼の得意の芸であつた。彼が大先輩市川右団治(斎入)の芸目の中から移し取つた数種の中の一つである。其早替り三役の中で最努力して、人の感動を誘はうとしたのは、愚直な下男の役であつた。国定の「入札」の老乾児の前型の見られるのは、この正助なる愚忠人であつた。彼には、固より「ひき出し」のない役ではなかつた。併し類型の上から言へば、彼の父ならびに多くの先輩の演じたものを移した、寺子屋兵助があつた。勿論性格は違つてゐる。が、役の性根殊に其を表現する動きに、正助に通じるものが多い。其から見れば「入札」の子分は、性格において、かなり懸け離れてゐる。だが菊池氏の問題劇は性格劇ではないのだから、優人に、自由な解釈の余地もあつた訣である。私が言ひたいのは延若の流用する類型の方法なのである。

菊五郎は、歌舞妓第一の性格役者と言はれてゐる。だがまことは、実生活の意義を、外的表現の最純粋な写形表現において考へてゐる。さうする事が、性格を描写する正しい道だと考へて来てゐた。だからその描写の対象は、極めて細かに区分せられた職業・階級の生活様式に一往入れて行く。だから極めて精細に確実に描写せられた行動の上に立つ、無性格人が表されて来ることが屡ある。菊五郎の表現する悪人に愛敬のあるのは、其無性格から来てゐることが多い。宗五郎は、実直な肴屋であつて、時に大いに酒乱する人であることの外に何があるか。おなじ酔態を描く五斗兵衛にしても、結局は、大阪陣の後藤又兵衛を想見せしめるやうな性格表現のない目貫師で、口うるさい女房の居ない処ではどうかすれば、呑み仲間の誘ひに惑うて、間の外れたやうでゐて、大いに間の叶つた芸術的な舞踊をなし得る、薄志なる武具職人と言ふに止る。此は、私は今性根論をしてゐるのではない。舞台批評にくり返される道玄・長庵を演じる基礎としての写実表現は、恐らく道玄・長庵以上に、さうした職業人の習性又さう言ふ悪人らしき者に共通する生の様式を表現してゐることは事実である。識者はそれに心づき、その準備行動の周到なのを喜ぶのである。だが其は性格不明な座頭ザトウが蕎麺を喰ひ、老車夫が如何にも老車夫らしく車を挽く様を演じてゐる場合と、ちつとも違つて居ないのである。畢竟、菊五郎ほどの人間が、かう言ふ段階の写形に止つた理由は、性根の意義の解釈が異つてゐて、性格表現とは別なものに向いてゐたからである。

私は、憎々しくものを言つてゐることを恥ぢる。だが菊五郎の表現論をして、延若を揚げようとする積りはない。唯芝居の性格描写と言ふことが、そんなものであつて、ある通有性を詳細巧緻に描くことに了つて、到達した性格ならざるものを性格だと誤認することがあり、之に批評家・同業優人その他識者の「見巧者」が煩ひして、技巧万能に傾くことを言ひたがつてゐるのだ。

延若も亦「ひき出し」を用ゐてゐる。だが、通有性を描かうとして描かずにしまふことが多い。金五郎も、三二五郎七も、同じ髪結だけれど、髪結道具に関聯して、しぐさを要する時、まさか髪結らしくなくふるまひもしないが、音羽屋風の挙手投足職業意識を明らかに示さうとする訣ではない。菊五君だと貢を演ずると、極度に御師オシにならうとする。だが「御師」に対する根本の理会のある訣がないから、油屋における貢の職業が問題になつて来るのである。神主に見えても、郷士になつても、乃至は医者の食客に似ても、大して不審は立たないと言ふ行き方が、ほんたうなのではないか。此は江戸歌舞妓の伝統においても同様で、御師職について知り過ぎてゐた時代でも、寧、御師に即かず離れず、辛抱立役にもなれば、和事にも傾くと言ふゆき方でよかつたのである。油屋の貢をまつたうな御師で行くと言ふやうな──職の性根を表現する──演じ方は、伊勢芝居(古市)は知らぬこと、上方江戸を通じて、幕末明治以来あつたことを聞かない。その意味で、大和下市の無頼漢を江戸式の権太で演じても、──地理的性根を表現することが重大ではないから──ちつとも誤算とは見ないのである。権太の性根は、土臭い博奕の徒と言ふ所にないからだ。

延若が忠臣蔵で七役替つた。そんな数回の記録なども、ちつとも驚くには足らぬ。近代の歌舞妓役者として、七役が替れなかつた方が寧不思議な位である。「かねる」と言はれないまでも、近代の優人は皆、相当にかねるのが普通になつてゐた。重要な役方の中、兼ねないのは、真女形役者位のものであつたらう。その中五段目の三役、七段目の平右衛門・大星、九段目の戸無瀬・大星が、早替りに部類するもので、性格の変化に興味があると言ふほどのものではない。与市兵衛などこそ、辛抱立役(勘平)・色敵(定九郎)の間に老役に変るのだから、替り栄えあるべき役だが、寧早替りの都合から、どころの略されてしまつた役である。定九郎だつて「おうい〳〵親爺どの」の出が失はれてしまつてゐる。此亦早替りの禍ひである。七段目でも、由良助・平右衛門を替る為に色々不都合はある。でも延若の場合、さうした「観場趣味」を外にしても、彼の芸境の広さは察しることが出来る。唯、適不適もあると言ふだけで、彼一代の芸目を省みる時、忠臣蔵七役の如きは、彼としては狭きに失すると言ふ気持ちがする。師直に有職イウソク師範の高家カウケ衆の行儀を見ようとする江戸の忠臣蔵に対して、殺伐乱離の戦国出世の卑陋な俄大名として書かれた太平記世界の一実悪である。之を高家出頭扱ひするのは、明治以前既に存した早期の活歴腹である。其で、師直のおもしろからう訣がない。此役については、晩年に近い段四郎・中車よりも、此人の方が遥かに真敵に徹してゐる。芸格に秀でゝゐても、芸量に富まない幸四郎の此役に比べれば、稍劣るかと見える芸容も、遥かに優れて見えたことは争はれない。

次は平右衛門である。此役の性根については既に述べた。万人に好意を持たれる役であるだけに、一往の芸量ある人の、失敗する気遣ひのない、所謂気のよい役──戸板君は「機嫌のよい役」と言ふ通言を復活した。名言である。──だ。之に扮したことのある優人の一人々々を回想しても、皆其々に成功してゐるやうに見える、不思議な役だ。だが、愈第一等の佳品を択ぶとなると、問題が多い。朴実だけではいかぬ。此役に欠けぬと見える明朗に過ぎたのも、必しも適してゐるとは言へぬ。濶達性のあると言ふことが第一要件でもなかつたらしい。近代の平右衛門役者と、われ人共に信じて来た吉右衛氏のものも、悲劇的な点において、奴役の条件たる颯爽味を失ふ嫌ひがある。第一「鳩の平右衛門」と此とでは、ひき出しの違ふことを反省して貰ひたく思つた。此役は思慮深い、腹の据つた立役腹でゆくべきものではない。必平明といふ一点に帰著せねばならぬ。「はやわかり」のする男であることが、要件である。播磨屋氏のを見てゐると、足軽・家老の間に横つてゐる、解決せられざる階級観念に思ひ及さしめられて、重圧を感じる。茶屋場においてゞある。此役、大阪芝居では中村玉七(福松郎)があつて、其為に生まれて来たかと思はせる程だつた。鴈治郎の七段目を助けて、真の脇役たるを思はせた先代梅玉の平右衛門も、玉七を思ひ出さぬ限りにおいては、名品であつた。名誉の梅玉も、此役では、弟子玉七に譲らなければならなかつた。今にして思ふ。延若の為馴れて身につけた魯鈍性は、芸の盛りであつた時期の玉七の朴訥篤実よりも、此役柄を一層活してゐるものであらう。私は玉七の平右衛門より更に、上位にあるものと見てゐる。ついでに言ふ。魁車の此種の奴役も佳品が多く、平右衛門などは、彼一代の中の代表所演に数へられるが、芸質の似てゐることから思へば、玉七に倣ふ所が、延若よりも多かつたのだらうと思ふ。延若・菊五郎の芸質その他の相違点を思ふと共に、吉右衛門との近似性についても、よく〳〵考へて見る必要がある。

「泣き笑ひ」の芝居は、突如として、我々の不意を衝いて来る。我々はその間暫し、舞台上の人物と共に、腹のふくれるやうな満悦感を味ふ。併し其哄笑の時過ぎて、依然として未解決に残される。舞台・見所、寂しさ深き人生を思ひ深めるばかりである。吉右衛門はかうした役柄を追求することに、興味を持つた優人だ。高浜虚子さんの書いた「一茶」は、かうした播磨屋芸を伸さうとした目的を持つてゐる。この頃重ねて演じられた法界坊・「らくだ」の屑屋・紅長・空樽買ひ久八などは、以前から言はれてゐた吉右衛門の喜劇才能を発揮させようとするかの様に見える。だが、紅長も法界坊も、悲しさの底から出る笑ひを破裂させてゐるのであつた。底ぬけにふざければふざける程、紅長は渋面を作り、法界坊はべそを深める。此は若い詩人たちのする文飾ではない。彼の泣き笑ひは悲しみの合理化である。笑ふことによつて、人生の苦渋の荷は軽められるものと思つてゐるらしい。そこに、短詩の詩人播磨屋は、やるせなく詩を謳はうとするのである。

延若は、笑ひによつて、悲痛追求の原理を試みようとしない。笑ひばなしに、悲しい舞台は進んで行く。金比羅利生記の百度平ヅンドベイ、小笠原騒動の岡田良助等、笑ひは皆台本の指定どほり、突如として起る。さうして、彼の場合は、播磨屋氏の如く、解決に向つて努力しない。恰も人間自身が悲しみの宿命に対して、何の手をうつことも出来ぬやうに──。吉右衛門は彼自身の力で之を敢行する──。延若においては、さうした若干の文学素質さへあるものとも思はれない。若し指導者がつくとしても、その演出に対して、何処まで従順だか疑はしい彼である。でも、彼一流の舞台上の生活衝動が、さうした泣き笑ひの人生に突貫するだけの意力を与へて来るらしいのである。筋に乗り、舞台にこなしてゐる間に、彼には、あるめどが、人生に向つて立てられて来るのではないか。

池田大伍さんの傑作に「西郷と豚姫」があつた。彼は、女主人公お玉に扮して、度々舞台に上せてゐる。英雄に恋した廓の女の悲劇であるが、彼は徹頭徹尾、見所を笑ひに覆した。とゞ、愚かな人間が、運命に裏切られて、失意に陥る──さう言つた如何にも、愚者の自業自得するが如き結末に到る。と、上り框に尻餅をつき──時としては土間に呆然として立つたまゝ、掌なる小判の飜り落ちるに任せて、幕を切らしめた。故池田氏の演出法は如何にともあれ、延若の舞台における行動力は、泣き笑ひの大団円と言ふべき、此結末を決して、悲劇とは感じさせなかつた。「悲しいけれども、人生は望みがある」。「私の欲を超えて望み得る清しき希望あることの自覚」を、彼同様の教養しかない見物たちに抱かせた。延若は決して、そんな事を考へてゐない。夢にもさうした思想人ではなかつた。心中死シンヂユウに趣かうとする土壇場になつて、男は光明を得て明るく去る。女は無明の闇に生きなければならなくなつた。之を表現するには、きつと失意の極の女として演出することになるだらう。川田芳子が一度上演した時にも演じたやうに。又外の誰でもやつぱりさうするだらう。ところが、延若が見物に与へた印象はさうではなかつた。さうした苦しい生の反覆にその目を掩ふことなく、之に堪へて清く此世に生きて行くだらうといふ信頼をよせることが出来た。さうして見てゐる自分たちも、然幸に生きるだらうと言ふ心が起つた。此は、今の私には説明しきれないかも知れぬ。つまり人間としての表現力において、延若に遥かに劣つてゐるからだ。延若の喜劇の表現力が、此境地に到つてゐることは、私の空想ではない。悲しみの中に、明るい光りを注ぐことの出来るだけ、その力量が喜劇において、自在だつたのである。

だから、場合によつては、彼と芸質の似た曾我廼家五郎よりも、喜劇上の表現力を持つてゐるのではないかと疑つた事さへある。彼の芸談を見ると、相当に深い処に達してはゐるが、やはり彼の演ずる芸には及ばないと思ふ。やはり優人は優人である。台本の解釈力よりも、表現力が高いのである。恐らく彼の芸談から察しれば、解釈は彼の芸の入り口を語るに過ぎないのであらう。今の優人中、解釈力に優れた者は、やはり尾上菊五郎だらう。だが性格表現力は、その芸談や舞台演出の高さまで達してゐるとは思はぬ。其故に、その優れた解釈力も亦、ひき出しに入れて見る──類型による理会ではないだらうかとさへ疑ふ。

乳貰ひ──。十人に聞けば、十人ながら、延若と共に亡びさうな芸の一つにあげる。その癖、近年二代目鴈治郎も、之を出した。その成績があまりよくなかつたので、愈さう言ふ執著を持たせる様になつたらしい。この「積恋雪乳貰」の狩野四郎二郎は、時々は彼の弱点とさへ見える過剰な色気、ともすれば色悪にならうとする表情、空々しいほど自在なこなし、其等が皆寄つて、四郎二郎と彼とを放すことの出来ないものにしてゐる。早く彼の「地にある芸」とせられるやうになつたが、親延若は固より、宗十郎も出したことがあるといふ風に、明治初期の大阪の立役は、相当に手掛けたものであつた。先代の芸を襲いだと見られてゐるが、其よりも広く綜合して、個性を加へて、結局飽和度に達したものと見る方がよいのである。これと三二五郎七と、とん〳〵の三吉とは、大阪狂言の喜劇的なものゝ三つの代表作と言ふことになつてゐる。とん〳〵の三吉は、延若も之を演じて居ないやうだ。「雁のたより」の三二五郎七の方は、此亦度々くり返されて、延若の仁に叶うたものとせられてゐるが、唯、如何にも短い上に、作意が如何にも空々しい。唯、延若によつて、生命を盛り返したと言ふことが出来る。此方は鴈治郎(二世)が演じて、相当の評判を得てゐる。かうして又伝つて行くのであらう。

極度に三枚目に近よつてゐる和事役と、辛抱立役に近い和実と言ふべき古手屋八郎兵衛──彼は「鐘諸共」も「恨鮫鞘うらみのさめざや」も両方共に演じるが、前者の方は、彼の演出を標準とせねばならない。──・紙屋治兵衛・亀屋忠兵衛の様な純真型のもの、と謂つたやうに、実に様々な二枚目に多くの得意の芸目を持つてゐる。表情・動作・科白すべて、和事としての練達を極めたものである。壮年以後、和実以外に出ることを欲しなかつた鴈治郎と比べては、此点においても、領域に広かつたのである。

而も、彼の本領と見られて来た和事は、実は初代延若の子なるが為の加役が、いつか本役になつたもので、彼に最適したものは、やはり立敵であつたことを述べねば、この話は結著するものではない。其と同時に、近代の真敵は、到底独立するだけの芸目を持たなくなつて来てゐた。従つて立役から出て、之を補ふのが寧、本義のやうにならうとしてゐたこと。其意味において、逆に延若の立役が、新しい立役の立ち場を持つてゐたことを、幸四郎氏を対照として説かうとして来たのである。

由良助における彼の芸容と、その芸量との関聯する点において、我々は、彼を思ふ。今のあらゆる劇団に望み得る忠臣蔵の主役として、彼以外に優れた由良助は望まれなくなつてゐるのである。而も其さへ永遠に失はれようとする日が近づいてゐるのである。明治・大正・昭和にわたつての歌舞妓の世界の名優──その一人として、実川延若は、巨大な松明を以て送るべき人である。

大谷氏・白井氏、此巨大なる火の消えむとするのを、唯手を空しくして眺めようとする気か。


私の生れた大阪の家の東隣が鰻屋で、そこの長男が早く役者になつて三桝稲丸の弟子入りして、稲桝と言つてゐた。その人の弟といふのが兄貴に弁当を搬んでは、殆毎日芝居を見て来る。その子につれられて、私も小学校に通ふ頃から、芝居を楽屋から入つて見る事を覚えてゐた。

幼いころの記憶はあきれる程残つてゐないものである。だがどう言ふ訣か、覚えてゐる一こまの映像がある。今思へば恐らく、まだ京都修行時代で、上京して東京座に居据つた時より前の延若であらう。その当時の延二郎が「中の芝居」の涼み芝居にかゝつた事がある。その時の一役「大黒屋惣六」が延二郎だつたが、宮城野も信夫も記憶から消えてしまつてゐる。

顔の輪廓は後年の延若のまゝだが、鴈治郎さへあれだけは及ばないと言はれてゐる彼の自由な眼づかひが、まだこの時はそれ程にも蠱惑的でなかつたのであらう。しかも二枚目もつゝころばしも、何の事とも訣らなかつた顔から柔靡な印象の残つたのは、右の「白石噺」以外の役で、延若のよさを見たからであらう。近年も菊五郎が「兼ねる番附」を出して、問題になり、うやむやになつてしまつたと言ふが、なるほど、菊五郎は名人だつたと言へるが、兼ねる役者ではない。第一彼のおやま役は、踊りの女形で、本格的な女では大して成功してゐない。兼ねる役者といふのは本領は立役で、敵役をも兼ねて堂々たる貫禄を見せる者でなくてはならぬ。それと同時に立女形に扮し、又親爺方・三枚目その他の役にもなりきる事の出来ることが、正しい意味のかねるであつた。

幕末から明治初めにかけて居た東西の名優たちは、兼ねることを目標として、芸域を広める事につとめたやうだ。団十郎・菊五郎以来、この方面に執心する事が少くなつたやうで、東京では事実、兼ねる役者はなくなつた。大阪では、仁左衛門も鴈治郎も中年に至るまでは、その心掛が見えたが、女形を加役以上に為出かす事が出来ないのに諦めをつけてしまつたやうである。その点では和事から出て、三枚目で軽味を鍛へ、その体質に固有してゐる敵役に転じて本領を据ゑ、又戸無瀬・岩藤・敷島から豚姫に至るまで、およそ立女形に属するものは、格を崩す事なく為遂げた延若こそ、近代東西通じての「兼ねる役者」と言ふ事が出来るであらう。

若い友人、戸板康二などは、乳貰ひの四郎二郎・雁のたよりの三二五郎七などの見られなくなつた事を悲しんでゐる。五右衛門と言ひ、又今度の八陣「御座船の場」の正清と言つた立敵、或はその類型に属する役の典型を見ることが出来ると言ふことで、満足すべきであらう。

底本:「折口信夫全集 22」中央公論社

   1996(平成8)年1210日初版発行

底本の親本:「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年220

初出:第一部分「苦楽 第四巻第五号」

   1949(昭和24)年5月発行

   第二部分「演劇界 第七巻第四号」

   1949(昭和24)年4月発行

   第三部分「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年220

※「歌舞伎」と「歌舞妓」の混在は、底本通りです。

※第一部分の初出時の表題は「実川延若論」です。

※第二部分の初出時の表題は「延若讃」です。

※第一部分、第二部分共に初出時の署名は「釈迢空」です。

※第一、第二、第三の各部分は本文では空行で区切られています。

※平仮名のルビは校訂者による加筆です。

※底本の題名の下に書かれている「昭和二十四年五月「苦楽」第四巻第五号。同年四月「演劇界」第七巻第四号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:酒井和郎

2018年1124日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。