戞々たり 車上の優人
折口信夫



まことに、人間の遭遇ほど、味なものはない。先代片岡仁左衛門を思ふ毎に、その感を深くする。淡々しい記憶が、年を経て愈濃やかにして快く、更に何か、清い悲しみに似たものを、まじへて来るやうな気がしてゐる。

役者なんぞに行き逢うて、あんな心はずみを覚えたと言ふことは、今におき、私にとつては、不思議に思はれる程である。年から謂つても、十四五─六の間、純と言へば純、だがウハついたと言へば、又少年らしくない、うは〳〵したところのあつた訣であらうか。世間に名の出た人にあうて、妙に其が吹聴したくなる。──あの肩の昂るやうな心持ち。我乍ら、あの軽浮さが、──信頼出来なくなるやうな、唆られる気味あひ──。その頃はまだ、我当と言うた役者に行き逢うて、此が所謂小松島屋といふ鍋蓋の紋を持つた役者だと感じたことが、既に、何だか、町の少年としても、早熟に過ぎた気がする。さう考へたゞけで、後々までも、私は赧くなつたことを覚えてゐる。その頃の私の、最多く見た芝居は、斎入市川右団治の舞台であつた。其と我当との、一座した期間があつて、それが又、大阪芝居の上では、相当記憶すべき時期となつて居る。だが其は、私が、しげ〳〵芝居に出入りしたよりは、一時期後であつて、主として、右団治が、角芝居に拠ることになつた頃の事と思ふ。その前の数年間、中芝居に毎年顔見世の手打テウち芝居から続けてゐた右団治(斎入)、それに、荒五郎・正朝・琥珀郎・玉七などの一座を見て居たのである。この時期は、先代我童仁左衛門狂死の直後で、其に一部の責任あるもの、とせられてゐた斎入に対して、世間への義理からでも、悪意を表現して居ねばならぬ我当であつた。だから、一座に顔を揃へる訣には行かなかつた。其で何方かといへば、却て別の座に拠つてゐた鴈治郎を見る機会はあつても、我当を見ることは、甚稀だつたのではないかと思ふ。見知らぬ筈もないが、素顔を見てすぐ我当だと訣る程、彼の舞台になじんでは居なかつた。其かというて、新聞や、演劇雑誌で見覚えるといふ時代でもなかつた。役者写真といへば、道頓堀の石川屋──後の石川呉服店。元、石川屋というたかどうかも、はつきりしない──で、わびしい台紙に、人気役者の写真をはつて売つてゐたほかはない頃である。

何でも──当時、加賀の屋敷──西横堀川金屋橋西詰から北、木綿橋の南に亘り、西はおなじ橋から今の電車線路を越えて、ずつと、更に長く西に及んでゐた──確か、堀江「橘通タチバナドホリ」が、其屋敷の北側を通つてゐた──中を、西横堀に偏よつて裁ち割つたやうにして、新しく出来た市内電車を通したばかりの時であつた。木綿橋から来た処に、停留場が出来たが、殆、乗りおりのない場処であつた。何処かへ使に行つて、帰り途こゝへ出て来た私より前から、車を待つてゐる中年の人がゐた。背のすらりと高い──やうに感じたが、此はその時の空目の印象であつたらう。──まだふえると草履などのはやらぬ前だから、雪駄だつたらう。素足に其をはいてゐた。この記憶は、後から加つたものかとも思ふが、唯一つ覚えてゐたことがある。帽子、麦藁の縁の思ひきつて広い海水浴型の物をかぶつて居た。

も一つはつきり、記憶してゐるのが、紺飛白の単衣に、羽織を着てゐたことだ。麦藁帽に羽織は、不思議だが、其羽織に、翡翠の前環を抱いた紐のついて居たことが、今も目に残つてゐる。今になつて考へると、まだせるろいど細工の世間に出ぬ時分だから、全く翡翠の環のおちつきは、見る人の心を動したものだつた。そんな生いきなことまで見てゐる、少年だつたのが恥しい。併し第一、いくら秋に入つて居ても、羽織をはふつて居て、麦藁はをかしい。錯覚ぢやないかと思ふが、どうも此二つが、まざ〴〵と印象してゐる。だからどうも可なり、不つりあひの時候になつても、麦藁帽子をかぶつて歩いてゐたと見るより外はない。尤、考へれば役者だもの、人目につくのを厭がつて鍔広の帽子を、放さなかつたのかも知れぬ。今一つ細かな事を覚えてゐる。その帽子がいたりあの麦藁の、編み目の細かなものらしかつた。此帽子だけは、不つりあひに、新しくない感じだつた。そのよごれ加減になつた大帽子をかぶつてる人として、目をひいたものだらう。──そのうち、やつと電車が来た。二人とも南へ乗つて行つたやうな気がする。さうして、其あとの記憶は、もう痕迹も、残つて居ない。私の目にうつゝたのは、その帽子の種姓スジヤウのよさであつた。その時は、電車がすいてゐたので、その人は帽子をぬいで、片手に持つたのだらう。無雑作に、しかし、きちんと結んだ兵子帯も、閑雅な感じを残した。こゝまでは記憶は誤つてゐぬと思ふが、ふと考へると、翡翠は、兵子帯にまきついた時計か何かの附属品だつたのではないか、といふ気もする。だが、前環の羽織の紐の流行の復活したのは、此人のを見て後、幾年かたつてからであつて、此頃は珍しくて、目に残つたのであらう。ともかく、帽子の外は、五分の隙もないといふ風なのである。その帽子すら、右やうのわけで、却てけば〳〵しくない好みを、統一するおちつきが、少年の目にも、快くうつゝたのであらう。

此頃はもう、さすが若々しかつた鴈治郎も、似合はなくなつて、縮緬づくめの羽織著物と謂つた風は、やめてゐた頃ではないかと思ふ。が、此二人のこのみの相違は、今かうして考へるとおもしろいが、少年には、其処までの聯想のあらう筈はなかつた。人の服装に心をひかれたなどゝいふことは、私のその後の一生にもあまり覚えがない。渋好みなど言ふことにも、一向気のひかれぬ私である。だが、此時の記憶は、ともかくも、いつまでも残つた。

紺の飛白などを、いゝなと見たのも、此時が初めの終りかも知れぬ。我当と悟つて後、其なり形を見直したのなら、こんな見方もするだらうが、何分まだ子どもである。いきなりすべての服装の調和と、それを破つて、而も再ある調和をとり戻す麦藁帽子──、かう言ふ風をして歩いて居た人が、広い大阪にも見かけることのなかつた所から、目についたものであらう。今もさう思うて居る。電車に入りこんで、私の向ひに腰かけた彼を見ながら、何処かの檀那と言はれる人だらうと思うたのだらう。けれども、何と言ふことなしに、私の知つた、どの大家の檀那にも、類型のないすつきりした──まづ其帽子をとつた顔である。

今思ふと、その鼻である。鼻と脣とを繋ぐ線の張り。其から下脣を越して顎・咽喉へ続くくねり──、目を閉ぢて思ふと、額から眉間ミケン鼻準ハナスヂを通り、口・咽喉と連つてゐる曲線が、ぴんと張つて居て、滑らかに流れると言ふのとは、変つてゐた。鼻準も幾分短くて曲り、下顎も心持ち短く見えたところに上方風の標準と違つたよさがあつたと思ふ。彼もまだ、三十代を四十につたばかりの年であつたらう。考へれば、男盛りの頃であつた。

其と又、此は今でこそ考へることだが、江戸風の、よい顔と言ふのとも違つて居た点は、関東好みでは、眉と目とを中心として、あまり明らかな線を欲するところから来る、容貌のこはさまでも、よさの一つの条件にしてゐる。さう言ふ好みとは、全然違つた所を持つて居た。その時の感じ方でいふと、目尻に豊かにあつた皺が、其幾分細めのきれ長の目を、涼しく優しく見せてゐた。髪も、額の辺で幾らか、卑しからず、ちゞれ加減であるのが、何となく緊り過ぎた顔を、しなやかに見せてゐたのではないかと思ふ。かう言ふ風に印象を分解してゐると、よほど後入要素が加つて来て居さうに思ふが、十一代目仁左衛門の素顔を、しみ〴〵見たのは、後にも先にも、これ一度と言うてよい程なのだから、其程、記憶の夾雑がわり込んで居る筈はないと思ふ。其だけ古いが、何か新鮮な、真正直な感情が今も残つてゐる。

尤、後年木挽町近くの街路に、戞々かつかつと蹄を響して乗り越して行つた、一頭立ての幌馬車、幌をはねて乗つてゐた彼を見た。其と知つただけで、詳しくも見なかつた。其間の年月がかれこれ、明治─大正─昭和の初年とたつて居るのだから、彼も生き、我も生きたりの感が深かつた。

彼の容貌は、町の住民として実に洗練せられたよさを示して居たけれども、舞台顔の下地になる為には、すべてよくまとまつて居て、荒さと、おほまかさと、おもくるしさとが足らなかつた。謂はゞ、よさてとり早く出て居て、漠としてとり出させ、考へ出させる空虚味ともいふべきものが、欠けてゐたといふ気がしてならぬ。古い印象を中心として、彼の舞台顔に対する記憶を憶ひ返して来ると、あれで、よく大づくりな顔面の役者たちに伍して、圧倒せられなかつたものだと思ふ。だが、歌舞妓顔のまだ衰へず、幾つも残つてゐた時代の舞台に、彼の顔を見ると、何だかさうした点の、濃厚味の足らぬところも、感じずには居られなかつた。たとへば、所謂芝居のぐろてすく味と言ふものゝ、殆ない容貌で、素の感じの強い人であつた。此顔が、青壮年期を通じて、彼にどの位損させたか知れない。あまりに素人らしい賢さが、人に反感を持たせがちであつた。其と、恐しく正反対の芝雀雀右衛門と、一つ舞台に出てゐた例をひいて見てもわかる。はじめは、どうも不調和な気持ちが、とれないで困つたものである。その中、仁左衛門特有のの心持ちが、情熱で圧せられて来ると、あの顔はあのまゝで、歌舞妓顔になつて来た。たとへば一人舞台でも、さうであつた。どうも新歌舞妓──岡本綺堂氏と左団次の協作になる、あれとは違ふが──らしいものゝ生れる下地を感じさせてゐたものでないかと思ふ。其がカウじて「桜時雨」の「侘び住ひの場」などが出来たのであらうが──。「堀川」の与次郎などは、初年の中、独りでおもしろがつて、客を置き去りにして楽しんでゐたやうに覚えるが、此がなくては、あまり彼の顔から来る素の感じに堪へられなかつたらう、と言ふ気がする。こんな事は言つても、紙上だけでは空な話になるが、彼の舞台を御存じの方々には納得して貰へるだらう。

素で居た顔がしかめられ、又平常の生活以外の何を表現するでもなかつた彼の上体──主として──が、をこつきはじめると、芸の脂が、すつと彼の顔に出て来る。彼の整つた鼻も、顎も、さかしい素人の顔以外の物を形づくつて来る。だが俄然として、時に素人顔に還ることがある。仁左衛門が、舞台に興味を失うた場合である。

世間人としては、整うた顔だが、歌舞妓顔としては、特殊味を持つたと言はれぬ容姿を、よくあれまで、役者のかほがらとして使ひこなしたものと思ふ。

此は、鴈治郎・歌右衛門、其から、仁左衛門といふ風に並べて考へると訣る。一番役者らしさの為に、常人の顔としては、欠点の多かつたのが、鴈治郎である。歌右衛門も、素の感じを絶えず起させた人で、常人としての美しさを、ふんだんに、発揮した人だが、舞台人としての顔面要素は、其でも、彼よりは多かつた。

だがどうも、歌舞妓顔といふよりは、も少し別な顔であつた。彼となると、どうしても揚げ幕を歩み出た位では、さうした感じは出ない顔である。花道七分三分あたりへ来て、見えをし、きまることでもあると、其から舞台顔らしくなるが、若し花道での為事なしに、舞台にかゝる様だつたら、素の気分は、舞台まで続く。彼は、故ら長く誰よりも後まで、さし出しを花道で使うた。歌舞妓の約束よりも、かうまでして、彼の顔は早く濃厚味を持たせる必要があつたのだ。所謂「何が何して何とやら」と開き直らぬと、芸が、のりぢになつて来ぬ人だつたと見える。さうまで言ふのは、言ひ過ぎかも知れぬが、気のりのせぬつまらなさうでゐる仁左衛門を、舞台に見ることの多かつたのも、其せゐが多いと思ふ。其だけに、彼はすき好んでをこついた。どうかすれば、臭いと謂はれる、上体を震幅大きくゆする動作で、さうした気分を作る必要があつたのである。だから、彼における限りでは、をこつく事が、彼の芸を特殊化して居た。生世話物キゼワモノで、彼のをこつきを見ると、もう占めたものだ、と言ふ気がした。一体をこつく動作は、きつぱりきまらずに、きまつてしまふことの過程行動だが、──それが一つの技術として、鑑賞に堪へる様にせられて来たものであつた。謂はゞ見えに到る道程のぎつくりばつたりの表情などもをこつきの一種だ。静止を控へた動揺に、技術を感じる様に、一つは、見物が養はれて来た為である。逆に言へば、「をつとあぶない」と謂つた気分で、転倒を防ぎ止める動作と言ふ風にも説ける。つまりは見えに到るまでに表出を堰きとめ、持ちコタへる努力の型、といふことも出来る。芸の高潮に入る最初で、興奮初めて発する姿であり、又表情の大きく顕れるのを防いでゐる努力時のサマだとも言へる。素で行かうとすることの多い彼にとつては、平常感から一歩のり出す誘引になり、又誇大な、不自然な表情にならうとする表出を圧へる形にもなる。彼の、をこつきを屡用ゐるやうになつた理由も、知れるのである。彼よりも稍古くて、ずつと生硬な型では、歌六のをこつきがあり、仁左衛門と比べて、少し若くて柔軟で、をこつきの型に入らうとしては外す、といふ行き方では、延若のが、将にあの世へのものになりかけてゐる。

さう言へば、近頃をこつくシグサをする人は、宗十郎位しか見かけぬ様になつた。吾々の記憶では、以前は人によつては、をこつきの連続のやうな舞台を見せる人があつた。吉右衛門などは、よほど自省して居ぬと、をこつきの出さうな芸風である。先代菊五郎は、をこつきに近いしぐさにて有名だつた。つまり、頭で「の」の字を書く、と言はれ〳〵したものだつた。だが今の菊五郎はじめ、五代目系統の芸風の人々の主たる者には、どうも其が見られない。──此条を書いてしまうて後三月、昭和二十一年一月の「直侍」では、丑松との別れに、「筑波おろしに何とやら」といふところで、著しくをこついた菊五郎を見た──団十郎は、はつきり意識して、之を排除したに違ひない。中車は、をこつくところを何時も、もつと別の動作に飜訳して表して居た様である。どうも、戸板君にでも聞いて見ねば、はつきりしたことは言へぬが、羽左衛門などはこれが出てよい場合にも、決して出さなかつたと思ふが、どうだつたらう。九代目・五代目歿後の新歌舞妓では、型としては五代目を襲用したものが多かつたが、演出表情は、団十郎によるのが、正しいとせられて来たのだらう。

少年時の記憶で、彼に絡んで、一層はかないものが、も一つある。──私はまだ忘れない。去年の春の焼き撃ちで乱離骨灰ラリコツパヒになつたが、──大阪の──南海鉄道難波駅から、千日前の南端へ続いて居た大通の南側一帯の町──あすこは、何と謂つたつけか。東西二町あまりの所、一筋の横町もなかつた。唯ずつと後に一本、露地ロウヂが通じたやうに覚えてゐる。其千日前「井筒のうどん屋」の向ひ角から一町南、新金毘羅社の北境にぴつたりくつゝいて、停車場前へ抜ける細道が、まことに細々と、前述の大通に並行して、曲り〳〵ついてゐた。其廂合ヒアハヒが、西の出口に近づいてから、露地屋根を被くやうになつて居た。即、方言に言ふ露地ロウヂらしい道になつて、一町も行くと、ひよつくり停車場前の大通りの明るい光りの中へ、出ることになつて居た。

前に記した時より又、六七年も前、私は町外れの家から、「島の内」の高等小学校へ通うて居た。一里からもある通学距離を、出来るだけ時間をかけて楽しんで往き返りした。其中には、とんでもない処から処に通じてゐる道を通ることも、人知れぬ喜びの一つになつて居た。今言うた道などは、その中殊に、思ひ設けず発見した道であつた。だが、こゝを頻々と通つた訣ではない。第一この道は、泥つぽく、しめつぽく、黴くさかつた。如何にも侘しく細々とした長い家裏の道だつた。恐らく三四度とは通らなかつたと思ふ。併しその内の一度、まう少しで阪堺鉄道──南海線の旧名──前に出ようとする露地の中程で、壁の切れ目から、庭へ出て行く道のあることに気がついた。ちようど逆に、停車場の方から這入つて半町ほど来た辺であつた。ひよつと覗き込んだ目と同時に、足が踏み込んだ庭らしい所は、やはり黴くさい、こけらしい物ものつて居らぬ、何となく、醤油くさく味噌くさい、土も赤ちやけ、煤ぼけた地面であつた。さうして、金錆の出たやうな御影の大きな石燈籠が、によつきり立つて居た。さう言ふところへ、何となく誘ひこまれるやうに、入り込み乍ら、咎められさうな気持ちで覗き込んで行くと、中庭のやうな広めな処の見渡される処へ出た。と言つても、やはり土は乾いて唯背の低くて、色のわるい樫の下生えが一杯にウワつてゐるやうなところが、鼻の先にあつた。併し其先に家があつたのやら、池があつたやうな気もするし、今では何もかも、夢のやうになつた。唯何だかわるい事をして居る気がして、逃げ出して元の露路へ引つ返し、更に阪堺前の通へ出て、ほつと息をついたことであつた。

其時か、其より前か、或はもつと後にか、そんなことも覚えて居ぬが、此が小松島屋の屋敷だ、と聞かされた。今におき果してさうだつたか、誰にも糺して見ようとすることなしに居る。其にしても、此家は、どちらから這入つたものやら、入り口の向いて居た方角も知らずにしまうた。私の覗いたのは、切り戸口といふやうな処だつたのだらう。が、此屋敷以外の地面は、やはり酒屋か、醤油屋か、味噌・漬け物屋か、さう言ふ醸造商の納屋のやうなものが、とり廻してゐたのではないかと思ふ。竹屋町の学校へ通うて居た頃だから、まだせい〴〵十一・二の頃に違ひない。もう芝居は見はじめてゐたが、我当は、見てゐなかつたかも知れぬ。唯何となく、この屋敷の裏から窺うた経験が、そのあるじだつた優人に、違うた興味を感じさせたのは事実だ。さうして、其後いつまでも、此訣の訣らぬ印象が、私の仁左衛門観の上に、翳をおとして来たやうに思はれるのも、妙である。木綿橋の行き逢ひに、何だか不思議な親しみを覚えたのも、そんな事が、関聯してゐたのかも知れぬ。


あまり個人的な何の足しにもならぬ幼な話をし過ぎたかも知れぬ。──が、もつと親しみを感じてよい鴈治郎よりも、彼に、其を深く覚えるのは、どうやらかう言ふ事が、関聯してゐる様な気がしたのである。

其外に思ひ出せば、尚一度、舞台外の彼を見てゐる。何でも、新橋演舞場のひどく閑散な、夜の事であつた。錣太夫か誰かゞ、ユカに上つて、浄瑠璃を語つてゐた。ひどく静かな聴き手であつた。その中に思ひがけなく、悠々と長く、静かに手を拍つ人が居たのである。東の鶉の中ほどよりずつと後の方からである。がらあきの小屋に、わざとあんな場席をとらなくてもと言ふやうな位置に控へて、而もおめず臆せず、時々よう〳〵と古風なかけ声すら、入れぬばかりの態度で、如何にも楽しげに聴いては、手を拍つてゐるのである。あんまり手の入れ方が特殊であり、懐しい間拍子を持つた音だつたので、ふつと、そちらを見る気になつた。その鶉の客が、何と、仁左衛門だつたのである。もうよほど年も寄つて居たし、頬もすぼみ、顎もつまつて居た。すきな芝居すら、年何回と言ふほども出なくなつてゐた頃だつたから、大所の檀那のやうなおちつきで、芸人だからと言ふ卑屈な遠慮などなく、楽しみたいまゝに、楽しんでゐた彼を見て、ほつとした気がした。

此三度の遭遇を聯ねて考へると、何となく彼の一生の一部を、断片的に見て来た様な気がした。だから、此楽しげな様子を見て、彼のよい晩年イリマヘを喜ぶ心で、一ぱいになつた。あれだけむつかしい気性であり乍ら、正しい、其から閑雅なよさに幸せられて、よい一生を完結しようとしてゐる。かう思うて、人事ならず、喜びの胸のしめつて来るのを覚えた。その内ユカが廻つて行つた。思ひ出した。此は何でも、文楽連衆の素浄瑠璃の催しのあつたをりである。小屋の中に、外の人々のゐるのも忘れたやうに、唯、彼自身のなじみの太夫が上つて、性根場に達して、其処をとほり越した努力を見届けると、如何にも其労を犒ふ様に、拍手を贈つてゐたのであつた。だから、彼のはやす手拍子は、決して性根場を語る最中にうち込むやうな、無作法はなかつた。太夫たちの浄瑠璃もさることだが、彼の手のかれた音も、美しかつた。私は思はぬ清い伴奏を、素浄瑠璃の会に聞き得て、すが〳〵しい幸福感を持つて家に帰つた。三十年昔の少年が、難波土橋ドバシの電車からおりて来たやうな、おちついた明るい気持ちであつた。寝てからも、よく寝つかれさうなスガやかさだつた。

ところが、数日後のナニ新聞かで、ある演芸記者の、其夜の会の批評の端だつたかに、「仁左衛門が、傍若無人に拍手した。身分を弁へぬことの甚しいものだ」大体こんな意味の詞が書き添へてあつた。かうも違ふかなあと思うた。なる程、隠居してしまつた気で、芝居も休み傍題ハウダイに、役者である事も忘れかけてゐる彼が、することである。而も彼の最久しく嗜んで来てゐる道であり、彼のまだ多く居た傍輩・後輩・出入りの人間と謂つた人たちの浄瑠璃を聞いて、昔の若い大阪時代に戻つたやうな、気まゝ気楽に戻つて居た彼と、彼を役者として眺めてゐる傍観者が、役者の癖にナマいき過ぎると見て感じた苦々しさと──、かうも見方が、隔つて来るものかと思うた。彼の、極度に気をゆるしてかゝつてゐる素浄瑠璃会に、銭を出して見つけてゐる客から見れば、──其は批評家だつたのだが──、今日は同格の見物であつても、今日もやはり遠慮して貰ひたかつた筈だつた。其はよくわかる──だが、仁左衛門の方に、やつぱり正しさと、人に侵されぬ閑雅な処があるやうな気がして、此事がらについては、安心が出来た。


彼は少くとも、東京の役者の間では、義太夫の語れる、聞きわけられる人としては、先輩であつた。近代では、その右に出る者はなかつたらう。彼も其は知つて居たゞけに、単純な、よい気になり易い彼は、其を何の気なく顔に出した。さうして、人に厭な気を起させたり、迷惑がらせたりした。其は、中年時代も、老年に及んでも、やまなかつたと見てよい。

だが又其だけに、浄瑠璃は深く読んでゐた。さうして、作中の人物々々を其々舞台の性根に訳して、行き届いた解釈を持つてゐた。

戯曲としても、単純化のよく出来、一幕物として綜合の行き届いた物を、可なりよく探求して来た。其には、彼を指導した人々があるかも知れぬが、教へられたゞけでさうなれる性格でもなく、又独創を喜んだ彼だけに、自分自身の発見も、多いのだらうと思ふ。事実実際に語つて、知つた彼なのだ。──さうして見ると、「桜鍔恨鮫鞘」の鰻谷も、「紙子仕立両面鑑」の大文字屋も、語り物としては名高いものだつたが、舞台には、彼の発意で移されたものだつた。其から観音霊験記の壺坂も、さうだつたと記憶してゐる。一段とり出して見ると、一幕物としての綜合のよく出来た、段物浄瑠璃が、よくあるものである。之を可なりよく、知つて居た彼である。又、ひいき客などで、彼にさう言ふ語り物の上演を、奨める人もあつたに違ひない。わりあひさう言ふ事には、虚心坦懐で居られたらしい彼であつた。

彼の擁護者を想像して見ることは、彼一代の芸風と、生活とを考へる上に、楽しい暗示となるだらう。大阪の檀那衆の大通と言はれた人々が、若い彼に、明るい色々な境遇を見せたに違ひない。東西を通じて、他の優人には、遊びぬいた人たちも多かつたらうが、皆どうしても芸人としての境を越えなかつた。彼ほど通人らしい、風格を持ちとほした者はない。併し、遊所には、俳優の遊興を喜ばぬ風が、明治時代までは、続いて居た。だから彼の如く遊び、彼の如く拘泥なかつたのは偏に、彼の擁護者の、引き廻しによるのである。彼の富んだぱとろんたちは、まづ彼を導くに、大通の生活を理会させる所から初めた。此が彼の最特異な風格を作るのに、役に立ち、同時に生得の気むつかしさを愈発揮せしめた。江戸期の優人にも、内々乍ら通人の生活を学ばうとしたものもあつた。だがさうした気位を保つて行くことは、彼等を表向き遮断した社会の制裁が、許さなかつた。東京になつて、芝居町以外に住むことが自由になつても、彼等は脱しきれぬ役者臭を持つてゐた。かう謂つては、言ひ過ぎだと思ふ人もあるだらう。が、彼だけである。ほんたうの通人らしくふるまひ、心底通人となり得たのは、我当も三十代に達してからの事であつた。

年代で言ふと、明治二十年以後のことである。私などはまだ生れたばかり、呼吸し初めたばかりの大阪の町には、まだ、昔の町人中心の空気が満ちて居た。江戸の町の町人の代表者と言へば、蔵前の札差であつた。其から見ると、おなじ町人でも、ずつと高い富と、深い為来りとがあつた。鴻池・泉屋──住友・加島屋・天王寺屋、少し低いところで、銭屋・島屋・千草屋などのあるじの、謂はゞ町人貴族の暮し方が残つて居た。幸福な我当の経験は、大阪風の丸持粋人の生活の一部を体得したことであつた。さうして、前後何年かの江戸生活の与へた江戸通人の気分が、之を洗ひあげた。鴈治郎が、紫縮緬の上下ウヘシタでおし出す場合も、彼は久留米飛白に書生羽織を重ねて出ると謂つた風を創案した。潔癖であり、気むつかしかつたこと、人を見くだす様に見えたこと、執意の容易にとけず、さうかと思へば又、一瞬に其が、だましでもして居たものゝやうに、氷釈することなども、彼一代生活の中心になつてゐるが、此が皆、昔の粋人・通人気質カタギに根ざして居り、又さういふ質であつたからこそ、通人生活に這入り易かつたのでもあつた。

併し粋人だの、通人だの言ふのは、一つの生活態度で、其を立てとほすだけの資力が必要であつた。其上、時に其態度と反対になる現実生活の、皮肉な方面のあることも是非のないことであつた。併し大体において、仁左衛門一代を通じて、壮年時代に擁護者から授つた此生活法は、保ち続けられてゐたやうである。

曲りなりにでも貫いた彼一代の正義観も、其から間々見当違ひを交へて居た、愛敬ある主張も、笑殺はせられても、軽蔑を受けなかつた。偏癖な行動も、皆彼を憎みきらせなかつた。其ほど、彼の持つて居る善良で、上品な稚気が、ものを言つたのである。我がまゝではあつたが、威張るのではなかつた。

新作の大石内蔵助で、横身で三味線を爪弾き乍ら、狐火前唄か何かをうたつて居た、ずつと後の彼の舞台を見て、此人が居なくなれば、此ほど適切な大石を見ることが出来るかしらと思つたことであつた。我当時代から仁左衛門になつて後まで、かうした生活を、身につけた彼である。彼一代の教養は、此点を主として考へられてよい。此が他の俳優になかつたものである。成程かう言ふ点で、彼が堀越秀なる団十郎を凌がうとしたのも、頷かれる。つまり此教養を自負したのであつた。

完全な粋人は、相当な資産を擁して居なければ、其立て前をとほすことは出来なかつた。彼の擁護者は果して、何人であつたか、ほんの一二人のほかは、まだ私には訣つてゐない。当時まだ生れて居なかつた今の我当君なども、大体は聞き知つて居るだらう。其中、当代の松島屋に見識りが出来れば、此は是非、教はつて置きたいと思うてゐる。彼が為たい様にふるまひ、思ふさまにものを言つても、生活に、大した破綻を起させなかつたのは、この安定の上に立つての自由であつたのである。彼の擁護者は、異常な通人を作る為、型変りの優人をつくり上げる為に、彼にまづ資産を作らせたものと見ねばならぬ。だから仁左衛門の財産を整理し、更に若干の富みを分与した人があることになる。彼に、布引炭酸水の泉源地を買ひ与へた擁護者があつたことは、古くから聞いてゐる。彼の財産状態は、如何なつて居たかは聞かぬが、其が、唯の金持ち役者と違ふ所のあつたことは、確かに注意せねばならぬ。

併し親から伝へて、更におのが子に引き渡した長い役者渡世の間に、整理すべき財政状態に、立ち到つたこともあらう。若い頃の彼は兄我童と、相当に流離の苦しみも重ねた。之を整理してやつた何人かの厚意が思はれる。殊に晩年の綺麗な身の所置トリオキは、之を考へずには訣らぬ。

最後の舞台になつた忠臣講釈の喜内を勤めるまで、非常に長く休み、又、其後も久しく舞台を見限つたやうに出なかつた。さうして唯、甥我童の子の改名口上の為に下つた大阪で、風邪に罹つて死んだ。まづ此ほど、さつぱりした死に際も少いと言へる。子や孫の身の立ち行きを案じて、ちよつとでも、息のある中に、粒立つた役をつけて置かうと、其ばかり考へたらしいのは、歌右衛門である。不自由なからだを何時までも、すわりきりに、板についたまゝの舞台で勤めた僚友を見て、彼一流の冷笑を放つたこともあらう。「早うやめをればえゝのに」と。或は、歌右衛門のゆき方が、むやみにみじめに見えるのに張り合うて、彼は舞台に出ぬことに快さを感じたかも知れぬ。まさかと思ふほどの心持ちを、表現することのある彼だから、かう言ふことも、考へられる。

根が役者のことだから、根柢の修養として、芸能一通り心得て居ねばならなかつた。其中でも、第一義の位置にあるものは、上方では舞ひ、江戸では踊り、謡ひ物・浄瑠璃・三味線に、その他の囃し、此等は役者の持つべき舞台知識の根拠になるものであるので、ある点まで之を備へなくては、歌舞妓役者としての、資格を欠いたことになる訣だ。彼が、義太夫に通じてゐた事は、疑ひもない。が、実際どの程度の語り手であつたかは、私には訣らぬ。彼の自慢の芸を、私の耳で聞いて訣る年に達した頃は、もう彼にも、自慢らしくは、語りひけらかす時が過ぎてゐた。

大阪を離れて、東京に永住するやうになつて後も、萩の茶屋の辺に、広い地面や家作を持つてゐて、其からあがる収入が、彼の生活を気楽にさせて居ると聞いてゐた。此なども、さう言ふひいきの紳士たちの好意が、遥か後に、幸福な実を結んだものと思つてよいのであらう。萩の茶屋と言へば、元の今宮新家シンケの而も海道筋に近い処であつた。今の停留所のある処は稍違つてゐる。そんな処を自ら進んで思はく買ひして置くやうな役者ではなかつたのである。さう言ふことは芸道に生きる役者として最恥づべき事であることを、最深く感じた彼であらうし、又役者と言ふよりも、紳士として、通人として、一層そんな貨殖の道に長けてゐると思はれることを嫌つて居たらしい彼である。

先に述べた馬車の話だが、一度は、確かに新しい「歌舞伎座」の新築後だつたが、一頭立ての馬車に乗つて、目の前を通り過ぎた、のどかな彼の姿を見、彼の馬を見、幌をはねた車体を見、彼の車の別当を見た。一時は役者仲間でも、此が相当にはやつたものらしいが、其があまり重くるしく、古風に見える感じから、誰一人せぬやうになつても、彼はなか〳〵やめなかつた。寧、誰もしなくなつて、彼の得意は愈加つて来たらしく思はれる。

馬車の行く先が、木挽町でなくて華族会館の玄関でゞもあるやうな気がした。彼もたしかにそんな幻想を始中終シヨツチユウ浮べて乗つて居たに違ひない。さう言ふ車上に見た、彼の横顔──彫刻的だが、曲つた鼻準ハナスヂ、稍短くて真直な鼻の下、深く喰ひ占めた口、ある点まで貴族らしくて、亦大いに平民的な──もつと適切に言へば、井上伯爵邸の天覧芝居から引きとつて来たばかりの──明治二十年代の先輩同輩たちの気持ちを、いつまでも自分の記憶のやうに反芻してゐた顔だつたのだらう。一頭立ての馬車は、彼にとつて、一つの古典的な幻術の函だつたのである。

彼の想像する世界は、何時も、有洲成人に扮した彼の居る谷間姫百合時代であつた。

同年輩の芝翫が、こぶし──小杉天外作を戯曲化したもの──の女主人公で、諸肌脱ぎで湯を使ふなど言ふ自信深い舞台を見せた時すら、谷間の姫百合は既に、歴史になつて居た。其でもまだ彼は、「姫百合」よりも前の天覧芝居を、大阪で聞いてゐた印象を忘れなかつたのである。其だけに、彼の空想は、大きかつた。天覧芝居三年後に興行した有洲成人の姿が、彼の一生に、そのまゝ張りついてしまつたものと言へる。かう言ふ彼だから、生活の上に、二時代三時代前の姿を固執してゐたのである。

卅八年、おなじ芝翫が、東京で、河合武雄の君江──乳姉妹──におしかぶせて、同じ役をした直後、大阪では延若延二郎の昭信、雀右衛門芝雀の房江を相手に、彼は君江をした。芝翫のは見なかつたが、当時東京側の評判では、河合よりも容色において、遥かに君江らしかつたと言はれてゐた。芸の上でも、時代遅れの感じられる所はなかつたらしい。大阪の君江(仁)は、私も見たが、どうも明治末期の華族の娘ではなかつた。極めて古風な芝雀の房江が、君江の旧式なのを目立たせなかつたにも繋らず──。どうも此は、時代に対する勘が、彼に乏しかつたといふよりも、彼の思ひが、明治二十年代初期に釘づけになつてゐた為であらう。

ともかく彼は、早く東京において檜舞台を去つて、中島座に立て籠つた。鼻の先に迫つて来る明治廿年代の時代感覚を満す様な芝居を、とあせつて居た。さうして、色んな新作に手を染めた。此なら、やつて行けさうだと、自分も信じ、人もさう言ふ彼を認め出した時分になつて、急に又大阪へ引き取つた。世は、明治十九年、年は三十に達してゐた。昔かたぎの人間だけに、三十歳といふ年齢の価値を深く考へたことであつたらう。大阪における彼の周囲にも、新しい芝居の機運は、動いてゐたのだが、離れて見る東京は、更に激しい時の潮流に乗つてゐるやうに見えた。翌年四月の天覧芝居も、天外の孤客のやうな侘しい感動を、彼に与へて過ぎた。其時「忠臣蔵年中行事」の内蔵助・三平の外、弁天小僧・保名などを、大阪・京都で打ち続けて居た彼は、定めてやるせない気がしたことであらう。

彼は、遠く咲く白蘭花ハクランクワのやうな運命を見たであらう。其が、やゝ凪いだ気味合ひにおちついたのが、二十三年十月の「谷間の姫百合」である。若い有洲伯爵に扮した彼の印象は、其後長く大阪の町びとの心を去らなかつた。私などは、其頃四つになつて居たばかりだが、十代になつても、家族や、親類の女たちが、此成人の記憶を語るのを聞いて、育つたものである。其だけに、舞台よりも、生活の上に、此白蘭の花を幻想する人と、我当のなつて居たことが思はれる。さうして恐らくは、仁左衛門としての生を終るまで、此清浄で一途イチヅな望みは棄てなかつたであらう。芝居町の住人としての生活癖を何処までも身につけて居ながら、超越した通人の生活様式を捉へ得た彼である。而も尚、愉しくて苦しい──役者としては望まれぬ──白蘭の花を生活に持ち来す──さう謂ふ慾望に執して居た彼である。彼の新作好みの所由は、一面此意味からも、会得が出来る。何か、有洲伯に似た役をして居れば、さう言ふ生活の幻影に、近よることが出来さうに思はれたものであらう。

だから、此に近いと思はれたものを二十年三十年代の彼は、始中終模索してゐる風に見える。さうして、其に当りさうなものは、新派役者等の演ずる演目の中にありさうな気がしたらしい。やつと逢著したのが、卅八年三月の「乳姉妹」である。異色ある女形を見せようと言ふ考へよりも、彼一人にとつては、もつと深い原因があつた。其を察し得た者はなく、皆その、妙に強張コハバつた君江を嗤つた。だが、有洲成人伯の賤しい腹に生ませた二人の令嬢、老後に得たよき婿がねを喜ぶ時に現れる、姉娘の婚約者なる無頼漢、姉娘の死──かう云ふ飜案者菊池幽芳の筋立てが、そつくり谷間の姫百合だつたのに、気のついた人は、殆なかつた。併し恐らくいちはやく気づいたのは、彼であつたに違ひない。自ら進んで君江の役をひき受けた心の、ほのかな満悦も、亦彼自身の外に、幾人の知つた人があるだらうか。

野州無宿の富蔵や、盲兵助に、舞台の生きがひを覚え乍らも、心は常に明滅するものを忘れることの出来なかつた我当の白蘭の愁ひは、誰が、之を感じて居たであらう。

底本:「折口信夫全集 22」中央公論社

   1996(平成8)年1210日初版発行

底本の親本:「かぶき讃」創元社

   1953(昭和28)年220

初出:「日本演劇 第四巻第八号」

   1946(昭和21)年9月発行

※「歌舞伎」と「歌舞妓」の混在は、底本通りです。

※初出時の署名は「釈迢空」です。

※平仮名のルビは校訂者による加筆です。

※底本の題名の下に書かれている「昭和二十一年九月「日本演劇」第四巻第八号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:酒井和郎

2018年1224日作成

青空文庫作成ファイル:

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