山の霜月舞
──花祭り解説──
折口信夫



まだあの時のひそかな感動は、消されないでゐます。小正月を控へた残雪ハダレの山の急斜面、青い麦の葉生ハヾえをそよがしてゐた微風、目ざす夜祭りの村への距離を遠く感じさせる笛の響き、其後幾度とも知れぬほど、私どもの花祭りにあひに出かける心の底には、此記憶がひろがつて居るのです。五年ほど此方、初春にさへなると、三・信・遠、三州の境山へ、ものにおびかれた様になつた訣は、この「花祭り」の作者早川さんが、最よく呑み込んでゐられるはずです。今では、広い東京にも大分、花ぐるひなどゝ砧村の先生に冷笑せられることに、却て満足を感じる人々が殖えて来ました。此は皆、早川さんのきめの濃やかな噂話に魅いられたのです。

昔も、洛中に田楽流行して、狐の業と騒がれた記録があります。花祭りにもさうしたつき物の力が、籠つてゐる様な気がしてなりません。

其最初の聞き出し手であり、今尚、語ること益幽に這入つて来たのは、早川孝太郎さんであります。さうして、其手初めに誘惑せられたのが、実は私でした。花祭りを思ふ毎に、此大和絵かきの懐しい話しぶりを憶ひ浮べずには居られません。私などの花祭りに関する乏しい知識は、隅から隅まで、此人の東道によつて、とりこんだものと言はねばならぬ。其ほどおかげを蒙る事が深い次第を皆様に告げておきたいのです。

花祭りに、「ねぎばな」と「法印ばな」とがあり、其が、設楽シタラの奥山家に、昭和の代にも繰り返されてゐる。さうして、時には、「役花」の願主の招きに応じて、平野近くまでも出て来る。その行儀のうちに、鬼のへんべなるものをふむといふ事があつた。さう言ふ不思議な記憶が、長篠ナガシノの山口で育つた幼時の印象として残つてゐる、と初中終、早川さんから聞かされてゐたものです。

その頃既に、早川さんは地狂言を研究せられてゐました。さうして私も、芸能史の組織を思うて居た頃でした。其より又四五年前、私もまだ若く、感傷に溺れ易くてゐた頃、信州の南隅、下伊那の旦開村の通りすがりに、新野の伊豆権現の正月、雪祭りの田楽の話を聞いて、又来る時のありさうな気がしてゐました。新野から東三河の東北隅、佐太に越える坂部サカンベといふ字では、雪祭りの面一つ、遠州から盗まれて来る途中、弁当をしたゝめた大夫に忘れ残された為、新野祭りの晩には、荒びてならぬといふやうな事も、上の空に聞いて通つた事がありました。

此雪祭り見物の宿願と、その後、早川さんに唆られた花祭り採訪の欲とが、道順によい日どりも続いてゐる事を知つて、もう圧へることが出来なくなつたのでした。大正十二年の正月、前後五日に亘つて、雪祭りの作法と、村人の感情とを凝視しました。本祭りの前日は、一日だけ目だつ行事もなかつた。その日ちようど、三河領豊根村三沢の花が、山坂一つ越えるばかりの牧島といふアザにある、と聞き出して、村の好学者仲藤増蔵さんをたよりに、はじめて、新野峠を越えました。設楽の山村の、寒く霞んだ夕を、静かに見おろした其夜を徹して、翌日昼まで見続けたのが、私にとつて、初めての花祭りの行事でありました。此時のが、早川さんの区画に従ふと、振草川系統・大入川系統とある、其後者の現在での代表と見なしてよい、三沢山内ヤマオチのものでありました。

其頃の三沢の花には、顔の整うた、舞ひぶり優な若い衆が揃うて居ました。三つ舞ひ・湯ばやしなど、若衆の役になつてゐるものは、旅人の私どもにも訣り易く、味ひよかつた、と記憶します。

絵巻物に見る下人の直垂から法被に、さうして、近代のはつぴ・絆天の出て来る道筋の明らかに見える上衣ユハギに、山袴をつけた姿は、新しい時代の上に、古い姿の幻を、濃く浮べてゐました。舞ひに焚く榾のいぶりに、眼を労し乍ら、翁の語りや、あるかなしの瞳を垂れて歩く巫女上﨟や、幾らとも知れぬ鬼の出現に、驚きつゞけて居りました。これが、ある時代、神遊びの一つとして、広く行はれた時代を思ひ浮べようとする努力感が、心を衝き動かさずには居ませんでした。けれども、一つ〳〵が、今におき、問題として並んでゐるばかりです。


其ほど複雑な、渦巻き返す夢の様な錯乱と、在所々々で特殊化の甚しくなつた神事芸能とが、其後も常に同行と憑んだ早川さんの手で、此一冊に鮮やかに組織せられたのを見ますと、嫉ましくさへ感じます。

でも、早川さんは、当然酬いられたのです。その後、唯一人の旅人として、村から村へ、木馬キンマの道や、桟道カケハシを踏み越え、禰宜ネギからみようど宿老トネ老女トジの居る屋敷と言へば、新百姓の一軒家までも尋ね入つて、重い鈍い口から、答へをむしりとる様な情熱が、組織を生んだのです。もつとえらい事は、秘し隠しにせられた紙魚のすみかになつた伝法書や記録を、ひき出して来られた事であります。

其結果は、我々の知る限りの神楽以外に、ある時代・ある地方から宣布せられた、一種の神楽があつて、其方式や、目的の点に於て、従来学者の定説変改を促す含蓄のあるものゝ存して居た事が、見出されたのであります。

数十百度、此土地の方言どほり、らんごくな山の家に寝返りし、自身は、稗の飯・切りこみ汁に腹の損ふ事に甘んじて、都会の優雅な人士に、栃餅や、茸の胡桃あへなどの珍味を齎して還つて来られた、とでも言ふべきでありませう。


而も早川さんは、最よい指導者と、美しい心の擁護者とを持つてゐられました。前者は、私ども共同の学問の父たる、日本民間伝承学の祖たる柳田先生であり、後者は、志篤い、学問の本宮へ詣る間もない忙しさから、人をして代参の礼を致さしめようとする渋沢敬三さんであります。

柳田先生から受けた方法を守る為に、採訪記の範囲を出ようとせられなかつた。此事は、今の学問のにさい衆、豈夫、能くせむや、と言ひたい。而も、其記録は、結論を言ふと等しいまでに、賢明な配列法をとられてゐます。柳田先生の方法上の一つの理想は、茲に完全な姿を顕したのであります。

渋沢さんは、早川さんの学問を遂げさせる為に、又其記録を公にさせる為に、述べ難いまでの奇特心を発起せられました。さうして、其間に、自身亦、花狂ひの一人と呼ばれるまでの情熱を持つ様になられたのは、世間に名を掲げる金持ち趣味や、檀那パトロンかたぎの道楽を超越した、晴れやかな志を示してゐます。

早川さんは、師匠に、擁護者に、得難い人を並べ得ました。だが、今一つ、なくては寂しい学友の、一人として学問の感触を温めてあげる者がない事であります。此は、日本の民俗学が、まだ新らしく、おれが〳〵の学者に充ちてゐるからだ、と思ひます。私なども、友人でありながら、早川さんの為のよい友人としての誇りは持てない不心切な心で居ます。此後もつと、採訪と実感と論証とに、互ひの励みをつけて行きたい、といふ気になつてゐます。其は、此「花祭」に対する感謝からばかりではありません。此研究の、形をとり出した始めから、早川さんの後について来た久しい歩みの跡をふりかへる事が、りくつゞくめの、中年の同門の盟友としての感情に、止つてゐられなくしたのです。さう言ふ唆られる様な情愛を以て、此本の解説であり、一異見ともなる様な文章を書きました。

私の此文章が、必しも花祭り及び山の神楽カグラの本義を説き得て居ないかも知れません。私自身すら処々、既に転換を欲する固定した考への型に這入つたのもあります。あやふやな点の著しくなつて感じる部分も、可なり悟つてゐます。併し、其も、今日からサキの私の為にも、早川さんや私より後の研究者の為にも、みじめな足場位には、役立つだらうと思ひまして、目を瞑つて、大方の前に暴す事としました。



山の神人団体



一 問題の土地


花祭りを行ふ村々は、早川さんの、細密な報告が既に明らかにして居る様に、此設楽だけでも二十所ばかりあります。其外、境を接した、南信州の一部・北遠州天龍沿ひの山間にも、一二所はあります。此を行ふ村は、それ〴〵範囲がきまつて居るので、どこからどこまでは、どのアザが出て来て舞ふとか、舞ひをしに出て来る字もきまつて居ます。つまり、一種の太夫村とも言ふべきものがある訣なのですが、どうしてそんなものがあるかは、何故、こんな行事が三河の山間にだけ残つたかを考へて行けば、自然訣ると思ひます。

こゝ、三河の北東は、まことに興味の多い土地です。南、北設楽郡を中心に、信・遠の国境一帯の山間には、ただに花祭りがあるばかりではありません。色々な民俗芸術──主に私の謂ふ芸能に属するもの──が残つて居ます。何故こんな土地に、そんな芸能が残つたかは、我々の仲間で、一つの問題でした。嘗ては、設楽と言ふ地名から、設楽舞シタラマひを聯想した人もあつた様です。志多羅神を持つて歩く人──つまり、神を送る人達が、乱舞する、それを設楽舞ひと言うたのですが、何にしても、此は平安朝のものなのですから、あまりに時代が遠すぎる様です。私は、設楽といふ地名には頓著なく、此花祭りの這入つて来た時期を漠然と考へて見ます。


二 傭兵の村──遊行神人の定住


私の考へは、二通りあるのですが、此考へは、当然一致すべきだと思ひます。一つは、三河の山奥に傭兵の村──其は同時に神人団体であつた──があつて、こゝから多くの人が出かけて行つて、諸方の武家に力を貸した、其残りが花祭りの村々であると、かう考へるのです。勿論、今ある花の村が、皆昔からの村々だとは言へないでせうが、大体、さうした昔からのものが、主になつて居るとだけは見られます。どうしてそんな村が出来たか。三河の北東の山間は、前に、三河・尾張・美濃、三国の平野を受けて、一種の神事に与る人達の住むのに適した地勢だつたからです。彼等は、同時に傭兵ともなりました。此等の人達は、それほど大昔から居つたとも思はれません。或時代に、諸国を廻り歩いて居たものが、地勢の関係から、こゝに屯する様になり、其が分派し、又後に来た者も、同じ様に定住をして、村が出来たのだと思ひます。

日本には、国家意識のまだ確定しないほどの大昔から続いて、一つの神人団体が流浪して居ました。一種の宗教的呪力を持つて諸国を遊行し、其力で村々を幸福にもし、押へもした、後の山伏団体で、彼等は、時代々々の色合ひを受け、当代の宗教に近づいて行つた為に、多少の変化は見せて居ますが、本来の精神は、殆変らないで、かなりの後までも、芸能と呪力とを持つて、旅を続けて居たのです。

此形式が、はつきりとは言へないが、鎌倉時代以後、或種の武家によつて真似られてゐます。つまり、武家の亡びたものや、庶流の者などが、部下を引きつれ、土地を求めて旅に出たのが、直に昔からの遊行神人を真似して、村々をおびやかしたのです。らつぱすつぱすりがんどうの様なものが、其から出て居ます。

斯様に武家は、誰でも旅に出ると、さう都合よく、直に神人の真似が出来たと言ふのには、理由があります。昔の武家は、皆一種の、或地方共通の宗教を持つて居たので、自然、神事の中心となるべき儀式も心得、其に附随した芸能も出来た訣です。彼等は、村々国々から歓迎を受ける為には、先、村・国を祝福する芸能を行うて、人心をひきつけた様です。

併し、彼等の為事は、それだけではなかつた。傭兵となつて、戦争にも参加しました。昔は、戦争も一種の神事だつたからです。法力の戦争から、実戦にまで与る様になつたのです。

此らの人達は、大抵、地方の武家・豪族の家に寄食の形で止り、其まゝ居著いてしまふ者もあり、用事がすむか、不都合があれば、また新しい土地を求めて旅へ出るのもあり、時には、保護を受けた主家を倒して其土地を奪つたなどゝ言ふのもありました。鎌倉以後、戦国時代までには、さうして地位を得たものが少くありません。

譬へば、後北条早雲なども、此様式で旅行をした様です。彼の動き出した初めは、宇治の奥、田原から起つて、山城・伊賀・伊勢・近江の一部に跨つて居ます。嫡流は伊勢のセキにあつて、其岐れが宇治附近に居たのでせう。其で伊勢新九郎などゝ称したのだと思ひますが、彼が最初に連れて出た部下は、極僅かで、何れも宇治附近の地名を名告つて居ます。彼が芸能を持つて居たかどうかは訣りませんが、兵力は持つて居ました。それで、最初今川氏に憑り、後追々と東方の勢力を自家のものにして、遂に小田原まで出て行つたのです。少数の団体を組んで歩いて、どうしてそんな勢力が得られたかを、歴史家は疑問にして居ますが、これは、昔から旅行を続けて新しい土地を開いて行く、遊行神人の形式を真似た武士団体には、常にあつた様式です。元々、彼等には伝つて居るものがあつたから出来たのです。


三 山のことほぎ──山人・山姥


かうして漂泊を続ける形の神人も昔からあつたのですが、其よりも、神人としては、常には奥山家にあつて、時折り里に下りて来るのが古い形なのです。山の神に仕へる神人で、此を山人ヤマビトと言ひます。

山人と言ふと、後には、鬼・天狗を想像し、又、山男・山をぢなどゝも言うて、蛮人を考へる様にもなりましたが、決して、さうした妖怪でも、先住民族のあとでもありません。鬼と考へられた道筋は、後の説明で、追々に訣つて行くだらうと思ひます。

山人が山の妖怪らしく考へられたと同じ様に、山姥も山の女怪と信じられる様になりましたが、此は、山の神に仕へる巫女で、うばは、神を抱き守りする職分から出た名で、小母に通じるものです。これが後には、神の妻ともなるのです。

設楽の山間に屯した一団は、此古い形を守つたのだと言へます。併し、だから彼等は、余程古くから居つたらうなどゝは申されません。彼等は都合で、平野にも奥山家にも出入りをしたので、諸国を巡り歩いて居る中に、一つの中心地として、此、美濃・尾張・三河の平野を控へた、設楽の山間に屯する様になつたと見るのがよい様です。其選ばれた理由の一つには、天龍の水を考へに置かねばなりません。

かうした山人と言ふのは、常には里との交渉を絶つて居ますが、歳暮・初春には、檀那の家や村をことほぎに下りて来ます。冬の祭りの、鎮魂を伝へた山舞ひを持つて降りて来るのですが、それが終れば、また行方知れずの様に山へ帰つて行きます。里人に気づかれない様に、道を迂廻するのです。「隠れ里」の伝説は、其から起つて居ます。私は、田峯を訪れ、又遠州の山奥に田楽を見学に行つて、つく〴〵出入りの地形が似て居る事を感じました。うつかり海道を行つたのでは、容易に気づかれない様なところに村が展けて居るのです。山人としての祝言職を持つた人達の根拠は、大抵、さうした隠れ里にあつた様です。


四 冬祭りの古義──たまふり祭り


此山人が里へ下りて来る年の暮は、古くは霜月シモツキでした。三河に残つてゐる花祭りも、今は正月に行ふ所が多く、所によつては十二月にも行ひますが、元はやはり霜月の行事でした。

霜月の極限がしはつで、しはつとは極限と言ふ事であつたらしい。其をしはすとも発音したので、古代には、師走といふ月があつた訣ではない様です。

此冬祭りの日に、彼等は里へ降つて、鎮魂タマフリをしました。山姥が、山姥の舞を舞ひ、山人が、山の神に扮して舞うたのです。其ニハいちと言はれました。「市」の古義です。

たまふりに来た山人のみやげ山づとで、此を里のものと交換して行つたのです。山姥が市日に来て大食をした話や、小袋に限りなく物を容れて帰つた伝説は、其から起つたと思ひます。古代にといはれた処が、大抵山近くである理由も考へられませう。そこで物々交換が行はれたのです。

冬祭りに就いての私の考へは、他の場合に述べて居ます。ふゆタマふゆの意から出て居るとするのが、私の考へでもあります。ずつと古代には、春祭りと刈り上げ祭りとは、前夜から翌朝までの行儀でした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式です。家屋・家長らへの祓ひをした後に、よい呪詞を以て祝福する。此呪詞が、冬を転じて若春にするのです。春になれば、其一年間の村の行事の祝福と予行とをして、精霊達のみせしめにします。

此祓ひのすんだしるしに、山人の持つて来た山づとを家の内外に飾り、身にもつけます。浄められた村人は、神の物となつた家内に、忌み籠るのです。此が正月飾りの起りで、山かづら・羊歯の葉・寄生ホヨ野老トコロ・山藍・葵・カエ山桑ツミなど、何れも山づとと見られるものです。


五 山人の杖──むつきの起り


此山人が持つて来るものゝ中で、最考へねばならぬものは、山人がついて来る杖であります。大きければほこですが、此杖を山人が里へ残して行きます。此で地面を搗くと、土地の精霊を押へる事になるのです。むつきうづきは、そんな事に関係のある語ではないかと、私は考へてゐます。

むつむちうつと同義語です。むつうつむちうち、すべて同じ意を持つた語です。むつきに就いては色々な説明がされてゐますが、月を聯想するから訣らない事になるので、きさらぎやよひなどにはつきがついて居ません。此なども意味の訣らない語だと思ひますが、結局、月のつかない、意味の訣らない語の方が古いので、むつきなども、さうした語だつたのが、つきとあるので、月の運行を聯想する様になつて、月名となつたのではないでせうか。元は、きさらぎやよひしはすなどゝ同じ様につきはつかなかつたのだと思ひます。其つく様になつた初めは、恐らくむつきなどが最初ではなかつたかと考へられます。


六 地を打つ行事──卯杖・卯槌


正月に関係のあるもので、卯杖・卯槌など言ふものがありますが、此は、元は地面を叩く道具だつたと思ひます。此行事は、今は小正月にも行ひますが、正確には、霜月玄猪の日に行つたもので、土地の精霊を押へて廻る儀式だつたのです。後には、精霊は地中に潜むと考へた事から、土龍モグラなどを想像する様になりましたが、此を打つ木がうつぎでした。中がうつろだからうつぎ(空木)と言うたとも言はれますが、昔のうつぎがあれであつたかどうかは訣りません。とにかくうつぎと言ふ木はあつたのです。其が変化して、うづちうづゑになつたのだと思ひます。

此、地を打つ行事は、歳暮・初春とは限らなかつた。五月田植ゑの前にも、田畑を押へる必要がありました。初春に行つた事を、更に効果がある様に、まう一度くり返すのです。四月のうづきも、やはりむつきと同じ意味だと思ひます。言海などの説明は、もう改めなければならぬのだと思ひます。


七 はなうら──削りかけ・削り花


山人の持つて来る杖には、大体さうした意味があるのですが、尚、其さきの割れ方・裂けた状で、来年の豊凶を占ふと言ふ意もあります。其をはなと言うたので、はなと言へば、後には木や草の花だけに観念が固定してしまひましたが、ついで起るべき事を、予め仮りに示すのがはなです。で、此杖は、根のあるまゝのものを持つて来て地面に突き挿して行く事もあります。根が生えて繁ることを待つたのです。根のないものでも、桑などは根が著き易い木です。祝詞にも、「イカ八桑枝ヤクハエの如く」などゝあります。一夜竹・一夜松の伝説は、此から起つて居ます。

とにかく、此杖の信仰は、我が国の後々の信仰生活にかなり大きな影響を与へて居ます。形状も段々に変つて来たので、ほんたうの杖である事もあり、ほこである事もあり、或は御竈木ミカマギにもなり、又、先の割れたのを主とした、削りかけ・削りばなの様なものにもなつたので、其極端に短くなつたのが、削りかけのウソです。鷽換へは天満宮の行事になつてゐますが、天神様に関係がある訣ではないでせう。地方で、天神様に祀つたので、其から関係がついたのだと思ひます。


八 信・遠・三山間の風習──鬼木・にふ


此杖の一種が、今でも、信・遠・三の奥山家には残つて居ます。年の暮・小正月の前夜に、家の入口・納屋の入口などに薪を立てるので、此をおにぎともにふぎとも言うてゐます。今では人が立てに行くのですが、其に祝福の意味がある事だけは忘れないでゐます。

おにぎは鬼木でせう。こゝの鬼は、尚後で述べます様に、決して悪鬼羅刹ではありません。たゞ巨人といふだけの古い意義を止めてゐます。此鬼木にも、山から来る不思議な巨人が持つて来ると考へた印象のある事は十分感じられます。

にふぎは、もし、此が、丹生ニフ(壬生)から出た語だとしたら、其は非常に古い語なので、どうして此が結びついたか、不思議だと思ひますが、にふみそぎに関係のある語で、禊ぎをしたしるしの木といふ事になります。あまりに古い語で疑問ですが、どうも、それ以外には意味がない様です。

とにかく、年の暮になると、山から不思議なものが来て棒を残して行くと信じた古代の信仰が、そんな形で残つて居るのです。

斯様に、常には奥山家に隠れてゐて、時あつて里を訪れる神人が、古くから我が国にあつたので、殆ど其が空想化されてしまつて、山人を妖怪と考へるほどの後になつても、尚それを学んで、年毎に山を下りて来る人があつたのです。此が三河の山奥に花祭り行事の残つた一つの原因だと考へるのです。だが、此様なものは、必しも設楽の山の中にだけあつた訣ではないでせう。恐らく外にもまだあつたらうと考へられますが、其が、特に設楽にだけ残つたのは、彼等が戦国時代に力を貸した檀那の家々が栄えて、其保護を受ける事が出来た為だと考へて見る事が出来ます。

併し、現在の花祭りが残つた原因は、単に、其だけではない様です。他に、まう一つ原因があると考へられるので、それは割り合ひに新しいところにあると思ひます。



近世に於ける移動



一 伊勢神楽の影響


私は、最初花祭りを見ました時には、以上述べて来た様な事を心に浮かべて、単にそれだけの興味と、一種の尊ぶ様な気持ちとで此行儀を見て居たのですが、尚よく考へて見ますと、其うちには、割り合ひに近世らしい移動のあとが見られます。どうも此には、伊勢皇太神宮の信仰を持つて歩いた人の運動が這入つて居る様です。

此信仰を持つて歩いた人は相応たくさんありました。其芸能は神楽でした。神楽芸能には、最後に獅子が出て解決をするので、段々此が中心になり、今では、神楽と言へば獅子面を想像する様にさへなりましたが、恐らく此にも幾度か変化があつたのだと思ひます。

私どもが知つて居る一番新しいものは、代神楽です。此は色々に聯想が重つた為に、今では殆、訣のわからないものになつて居ますが、代神楽と言うたのには、代参の意味と、寺方で謂ふ永代の意味とがあつたのだと思ひます。つまり一種のきよめはらひに村々を廻つたので、皆が伊勢へ行つて浄めて来なければならぬのを、彼等が廻つて来て、代りにみそぎをしたのです。ミソぎとハラひとには区別があるので、禊ぎには水の関係がある訣ですが、早くに此区別は忘れられてゐます。とにかく、彼等が廻つて来て、伊勢へ参る代りに、其土地でみそぎをして行く。其土地でもやり、また伊勢へ帰つてもやつたのです。其しるしに、衣服・髪、其他色々なものを持つて帰る。此が彼等の収入にもなつたのです。だから、代神楽は社にあるのは間違ひです。さうして、此功徳は永代に及ぶと考へたらしい。代々神楽は、永代神楽と言ふ事らしいと思ひます。

伊勢に限らず、熊野神明の信仰を持つて歩いたものなどもさうですが、時代によつて色々な形で伝つてゐます。室町から江戸へかけて評判になつたものでは、伊勢踊りがあり、それが新しくなつて伊勢音頭なども出来てゐます。

伊勢踊りと神楽と同じものであるかどうかは疑問ですが、伊勢の神楽は、今の代神楽だけでなく、もつと古い形式のものが幾つかあつたに違ひありません。一昨年、三越呉服店で催された「伊勢詣での会」の出品中、神楽の書止めがあつて、其に、まどこおふすまの絵があつたと言ふ話を聞きました。私は遂にそれを見ないでしまひましたが、恐らく天蓋の様な形をしたもので、其を垂らすとすつかり姿が隠れてしまふ事になるのだと思ひます。真床襲衾マドコオフスマが蒲団の様なものであつたのは、極古代で、後にはそんな形になつたのです。此が伊勢の神楽に這入つたのが何時であつたかは、一寸想像もつきません。又、後の神楽にもそんなものはない様ですが、確に或時代には其があつたらしいのです。其を想像させるものが、設楽の山奥に伝つた神楽の中にあるのです。


二 設楽神楽の輸入者


早川さんの調査によつて訣つたのですが、こゝには元、三日三夜に亘る神楽があつたので、現在の花祭りは其一部分であると言はれてゐるのです。神楽に関しては、其後段々書止めなども出て来たので、其がいつの時代に這入つたかは訣らないが、とにかく、今民間に伝つて居るどの神楽よりも古いと言ふ事だけは言へ相なのです。併し、現在の花祭りが其一部分であると言ふのは問題で、果して神楽が最初から此を含んで居て三河へ這入つたのか、以前から此行事が山間にあつて其が神楽に結びついたのか、三日三夜に亘つた行事が一夜に短縮されたと言ふのは、其重要な部分だけを行ふ様になつたのか、此は、容易には解決の出来ない事ですが、私は、今のところ此二つを別種のものだと見て居るのです。

とにかく、我々の知つて居る、今の代神楽よりは幾代前かの神楽でせう。其を持つて此山間に這入つて行つた人があるのです。此地方でも、漠然と其人を想像して伝へて居るので、其をみるめ様と言うてゐますが、みるめ様はそんなに古い人ではないと伝へて居る村もあります。私も見て来ましたが、坂宇場サカンバ(振草村)の神楽屋敷の庭には、其みるめ様の墓と言ふのがあります。又、曾川(三沢村字上黒川)には変つた伝説があつて、此を持つて来た人を二人だと言ひ、山伏の様に言つてゐます。其屋敷跡といふのも見て来ました。此を二人と伝へるのは、神楽・花祭りを通じて、みるめの王子・きるめの王子といふのがありますので、其から二人と言ひ出したのだと思ひます。勿論こんな事は信じられません。或時代に有力な人があれば、死後の仮想から、家も墓も出来る訣です。だが、此伝説で見ても、これの這入つて来たのが、そんなに大昔でないと言ふ事だけは想像出来ます。

結局これは、山人の職業を、其後幾度か人が変つて受け継いでゐる中に、最後に伊勢の神楽が這入つて来た、さうして以前からあつた花祭りを習合する様になつた、かう考へて見るのがよい様です。其を、山人が習つて来たか、別に持つて這入つた者があつたか、其這入つて来たのがいつ頃であつたかと言ふ事は、もう訣らないと思ひますが、大体伊勢の神楽はそんなに古いものではないのです。何故ならば、伊勢に起るべきものではないからで、八幡の神楽などに比べれば、かなり新しいと言へます。此の這入つて来た年代も、さう古い事ではないでせう。さうして、伝説に従へば、他から持つて這入つたものがある様だとだけが考へられる訣です。


三 物の中に這入る儀式


此神楽で、先注意しなければならぬものは、伊勢の神楽の真床襲衾にあたるものを、こゝでは白山シラヤマと言うてゐる事です。此に這入つて生れ出る式があつたのです。

これも、後にそんな理窟がついたのかも知れませんが、ものが生れ出る時には、すべて装飾を真白にしなければ、生れ出ないと考へたのです。我々の辿れる限りでは、産室は真白でした。八朔には女が白無垢を著ました。此風習は、後には遊女だけに残つたのですが、此は神事に与る女は皆行つた様です。つまり成女戒前の物忌みのしるしで、女となつて生れ出る式ですから、産室を白くした様に、白無垢にくるまつたのです。

白山と言ふと、すぐに越の白山が思ひ出されます。あの山をなぜ白山と言うたかは訣りません。雪が積つてゐるからかも知れません。しらあいぬかも知れません。語原を同時に、三つも四つも考へるか、一つの語原で説明するかは、此からの学問の岐れ目だと思ひます。とにかく、此山を白山と言うたのには、何か由来があつたと思はれますが、一つの聯想は、此山に菊理媛を祀つた(一宮記)とある事です。此神は、黄泉比良坂ヨモツヒラサカに顕れた神で、伊弉諾神が禊ぎをする前に現れてゐます。其から考へて行くと、菊理キクリクヾリで、禊ぎをすゝめた神らしく思はれるのです。白山に祀つた神が、果して菊理媛であるかどうかは訣りませんが、併し、此神が白山の神になつたのは、生れ変ると関係のある、白山シラヤマの聯想からではなかつたでせうか。

山伏の生活の中に、いしこづめと言ふ事があります。こづむはたゞのつむではありません。海岸などに、波でうづ高くなつてゐるのを木積と言うたので、石こづめは、石の中へこづみ込むのです。此が後には春日の十三塚の様な伝説を生む様になつたのですが、此は、山伏生活の中にそんな式があつたのだと思ひます。其も単純に、山伏の私刑であつたなどゝ考へてはなりません。魂を身に著ける、復活の儀式として行はれたのが最初の様です。

爰で聯想されるのが、謡曲の「谷行タニカウ」です。此をたにかうと読んだのには意味があると思ひますが、其に就いて申す事は今は控へませう。たゞ、此は山伏の死んだものを谷に棄てる事だと考へるのは、却つて謡曲から出てゐる考へで、其よりも、松若が後に復活をしてゐる事に注意すべきだと言ふことだけを申して置きます。要するに、真床襲衾に於けると同じ様に、ものゝ中に這入つて、完全に魂の身にくつつく時期を待つたのですが、石の中には這入れぬので、石を積んで其中に這入つたのだと思ひます。


四 うまれきよまりの意味


つひ先頃、穂積忠さんから聞いて非常に興味を覚えたのですが、伊豆の海岸には、まだ盆がまの風習が残つてゐる相です。盆がまと言ふのは、成女戒を受ける前の女児が物忌み生活をした遺風で、まゝごとの起源でもあるのですが、こゝでは、大小二つのカマドを作つて、小さい方を家の外へ出して置くのださうです。此に似た風習は、男の子にもあります。東北では、かまくらと言うて、小正月に雪の洞窟を作つて幸の神のお祭りをします。

かまと言ふ語はどこまで遡れるか、かまどは釜をかけるからと言ひますが、其では訣らないと思ひます。洞窟の事を、かまがまと言ひます。がまは多く水辺の洞窟を言ふ様ですが、其には限らないと思ひます。これにもやはり、洞窟の中に密閉して置いて、或時期が来ると出すといふ風習があつたのではないでせうか。盆がまなども、一緒に飯を食べるといふことゝ、一緒に籠るといふことゝ、二つの意義がある様です。穂積さんの話の、竈を二つ作ると言ふのは、大きい方がコモかまで、小さい方が飯を炊く竈ではないかと見当を立てゝゐます。かまどかまと洞穴のかまとは、元は同じだつたかも知れません。併し、かまどくどほど、皆少しづゝ違ふ様です。とにかく、かまから出ると復活の形になるので、洞穴に這入るのも、山を作つて這入るのも、同じ事だつたのだと思ひます。

此山が、後には道成寺の鐘にまで変つて来たのですが、かう考へると、設楽神楽のしら山の事がゝなりはつきりしてくる様です。真床襲衾が天幕の様になつた訣で、神楽の方では、これに這入る中心行事を、うまれきよまりと言うてゐます。きよまりきよまはりで、物忌みをして浄める事だつたのですが、白山の聯想から生れ出る事を考へて、うまれとつける様になつたのではないでせうか。此行事は、六七十年前に全く跡を絶つてしまつたのですが、要するに、設楽神楽の中心行事はうまれきよまり、即、はらひをすることであつたと思ひます。さうすると行事の意味がよく訣るので、つまり後の代神楽と同じ事になるのです。



花祭り行事の主なる問題



一 花祭りを行ふ人々──禰宜・山伏・行者


話は愈花祭りに這入りますが、現在行はれて居るものを見ますと、純粋に花祭りだけを行うて居る所、田楽を兼ねてゐる所、まう少し不純な芸能を兼ねてゐる所などがあります。

花祭りを行ふ主なる人を「花禰宜ネギ」と言うてゐます。禰宜は神主の事ですが、別に、もと山伏であつた者が行うてゐる村もあります。山伏であつて、同時に京の土御門家に納金をして陰陽師になつた者がやつて居るのです。花祭りをやるのには、其だけの資格が必要だつたのです。

山伏の方は、「花山伏」とは言ひませんが、此が中心になつて居るのを、「山伏花」「法印花」と言ひ、禰宜の中心になつてゐるのを「禰宜花」と呼んでゐます。勿論正確な区別ではありません。漠然と昔からの伝へが残つてゐるだけで、昔でも、土御門家からの扱ひは同じでした。

処がこゝに、一つ違つたと思はれるものがあります。京花園の妙心寺派に属する、一種の奴隷宗教家──念仏ヒジリの様な者で、禅宗の方で行者アンジヤと言ふもの──のやつて居たのがあるらしいのです。まだよくは訣らないのですが、黒倉クロムラといふところは、田楽をやるものだけが住んでゐるので、田楽が主になつてゐますが、花祭りもやるのです。此村の様子を見ますと、どうも妙心寺に属する行者らしいところがあるので、妙心寺と土御門家との、両方に関係してゐたのかも知れません。此事は、一度妙心寺に行つて調べて来たいと思つてゐます。要するに、禰宜・山伏に限らず、宗教家の資格を持つてゐたものであれば、どんなものでも、破格な芸でもやつて行けたのでせう。

此を行ふ人達は、村の中の小名ともいふべき部落に居つて、他はすべて其をうける形です。どこでも、かうした芸能を持つた部落は、大抵村のはづれなどにあり、他から特別な扱ひを受けた事から、地方によつては、特殊部落だと思はれる様になつたものなどもありますが、幸ひこゝでは、さうした事がなく、全く関係のない他の村からも頼まれて出かけて行く様な事が頻りにあつたらしく、平坦部近くのものは、殊に其が多かつた様です。譬へば田楽を兼ねてゐる、古戸フツト・小林などの花は、南、北設楽のあちこちに頼まれて出かけた様でした。


二 行ふ場所──社と民家と


第一に申さねばならぬ事は、以前は此が霜月に行はれた事です。昔は、霜月が年の終りで、其極限がしはすであると申して置きましたが、斯様に十一月・十二月の区別のなかつた頃の習慣は、暦が出来て師走といふ月が出来れば、当然師走に行うてよさゝうな行事を、やはり霜月に行つて不都合を感じなかつたのです。時代が経つと段々実感がなくなるからです。さうして其が翌年の祝福になつたのです。明治になつて偶然正月に行ふ様になりましたが、此は、偶然ながら当を得た事になつたのです。

此行事を行ふ場所は、村によつて違ひます。社の境内でやる処と、毎年場所をかへて、家々で行ふ処とがあります。此は家々で行ふ方が古いと思ひますが、一概には申されません。可なり古い形式と思はれるものが社で行はれてゐるのもあります。

断定的な事を言ふのは暫く控へたいと思ひますが、社で行ふのは、恒例通り社で行ふといふ考へが生じてからだと思ひます。神楽でも社でやつたとは限りません。神事だから社ですると言ふのは、常識的な考へです。とにかく、此を行ふ場所は二様あるので、其は、禰宜花と法印花とで違ふのでもない様です。

家で行ふ時には、今では戸をはづす位のものですが、昔は、壁もしたみ板も全部とり払つて、吹きさらしにしたのでした。此家を舞ひ屋といひ、入口の土間を、舞ひ(舞戸・舞土とも)と言うて、舞を舞ふところにあて、其中央に釜を据ゑるので、釜の据ゑ方には、やかましい方式が言はれて居ますが、此は陰陽道の方で勝手に考へ出した事です。釜の上に湯ぶた──つまり天蓋です──を下げ、其から四方に紙で作つた綱を渡すので、其うちの一筋を神道といひ、此はかん座前の梵天に通じて居るのです。

家の設け方に就いては申しますまい。上り框を上ると、そこがおへで、其奥が奥座敷で、鬼部屋になるのですが、納屋になる事もあり、舞ひ役者が支度をする処です。おへは、かん座と言うて囃子の座になります。かん座は、三河の方言では解釈出来ない様です。上座でも神座でもない様です。そんなに古い語だとは思はれませんから、或は神楽などの持つて来たものかも知れません。今は、笛・太鼓の楽人と、村の主なる人が坐りますが、昔は檀那衆が控へた処でせう。

舞ひで行ふ事は、其威力が村全体に及ばねばなりません。此が花祭りの精神で、同時に日本固有の芸能の精神を伝へて居るのです。三番叟などもところ繁昌の為に踏んでゐるので、村全体を廻る事は不可能ですから、其中心になつて居る処で行ふのです。だから、其威力が村全体、国全体に及ぶ様に、壁もしたみも取り除いて、吹きさらしにするのです。


三 中心行事──反閇・花の行事・物語り


花祭りの中心になつてゐるものは色々あります。神楽と習合した事から、一層複雑になつたのだと思はれますが、現在行はれてゐるものを見てゐますと、其最中心になつてゐるものは反閇ヘンバイです。三河ではへんべと言うてゐますが、此は、昔から、陰陽道の方でやかましい方式で行つてゐるのですが、反閇の本道の精神は、陰陽道でやるものではなく、その家の主人がやるべきものだつたのです。即、居所を離れる時に行ふ式で、天子から貴族・将軍・大名にまで及んでゐますが、いづれも其主人が行ふのがほんたうでした。後になると、主人がお出ましになる時、家来が掛け声をかけ、力足を踏みます。尊い人がお通りになるのだから悪いものに逃げよと予告をするのです。其力足の方が陰陽道にとり入れられたので、かけ声の方は警蹕になりました。

一つの仮説ですが、此警蹕の声は、家々で皆違つた様です。さうして、それが尊い人の名前にもなつたのだと思ひます。日本紀に、「天圧神アメノオシカミ来る」とありますが、行と行とは、遠い様で、実はもつと関係が緻密だつたかとも考へてゐます。圧神のおしは、或はをしで、をし〳〵と言うて来られた神様だつたのではないかと思ひます。平安朝になると、天子の先払ひはをし〳〵と言うてゐます。此仮名の違ひに就いては、まう少し音韻の研究をしなければならぬと思ひますが、つまり、警蹕の声で、誰が来るかゞ訣つたのでせう。さうして悪い精霊を追ひ払つたのだと思ひます。反閇の踏み方にも、色々種類があつたらうと思ひます。現在行はれてゐるものにも幾通りかありますが、此は陰陽師が勝手に方式を作つたと思はれるものが多いので、此から考へて見る事は出来ないと思ひます。

花祭りでは、此反閇を、主に鬼が踏みます。此が一つの中心行事になつてゐるので、まう一つは、花の行事(花の唱文・花の言ひ立て・花の舞など言ふのがある、総括して仮りにこんな語で言つて置く)であります。此二つが行事の中心になつて居て、其外につき添うてゐるものがあるのです。此を行ふ人の来歴を語る事で、同時に其は、行事の由来を説く事にもなるのです。先此三つが花祭りの主なるものと見られます。只今では、反閇だけが中心の様になつてゐますが、嘗ては物語りの盛んだつた時代もあつたと思はれます。


四 花の行事──花やすらひと花育てと


花祭りのは、花の行事から出てゐると思ひます。はなと言ふのは、なりものゝ前兆を示す、一種のさきぶれの事です。木の花・草の花は其一部分で、成りものゝ前ぶれになるものは、すべてはなと言うていゝのです。だから、はなが出来る出来ないは、穀物の成熟不成熟を示す重大な前兆になるのです。同時に、此はなは、成年戒とも関係があるのですが、此方は殆忘れられてしまつて、今では、穀物だけの関係を考へてゐる様です。成年戒の方は、神楽の中心行事になつて居た為に、神楽が衰へると共に忘れられてしまつたのだと思ひます。

日本の古い信仰では、花に就いては、初めと終りとの二つを考へてゐました。育てる事、いゝ花を咲かす事、むだに散らさない事、此が非常に大切な事だつたのです。春の花が早く散れば田のみのりが悪い兆と見、人の身に譬喩して悪疫流行の前ぶれと考へたからで、なるべく花を散らすまいと願つたのです。此が鎮花祭の起りで、平安朝の初め頃から愈盛んになつたのですが、奈良朝には既にあつたのです。併し、平安朝にも奈良朝にもない神を祀つてゐるのですから、恐らく其以前からあつたのでせう。やすらひ花のやすらひは、花にぐづ〳〵しろの意で、散るのをまつて落ちつけといふ事なのです。

鎮花祭では、此点が頗重要なのですが、三河の花祭りは、此方面には、深く関係がない様です。此関係があれば、もつと田楽に結びついてゐなければならぬと思ひます。

三河の花祭りは、花育ての方が主になつてゐるので、同時に其は、花の占ひにもなるのです。此行事は、古い芸能では、延年舞の中にあります。露払ひの出た後で、花の稚児と称するものが、花の枝をもつて出て舞ふのですが、三河でも、此行事は大抵子供がします。だから、花祭りは、延年舞と同じものだといふのではありません。併行して行はれてゐる中に、一方は発達をして止まり、一方はそのまゝ続いたゞけです。とにかく、花育ての行事は子供がするものになつてゐる様ですが、或はそれが若者であつたかも知れません。

日本では、赤んぼから子供になる──袴着は褌をつける式である──のと、子供から若者になる──元服──のと、成年戒と準成年戒と、二度も繰り返して行ふので、花の稚児の舞ふのは、其形だと思ひます。さうすると、白山の行事とは二重になる訣ですが、そんな事は平気でやつたでせう。

併し、田舎の人には、うつかりした事は言へないと思ひました。一昨年上黒川の花祭りを見学に行つた時、そこの神主に聞かれて、花祭りの花は、翌年の穀物の花を占ふので、花育てが中心であらうと話したところ、次に行きますと、「成程仰言つた通りらしい。調べて見たら、稚児の持つ花の杖に、米の穂がついて居た」と言うて、早速そんなものを造つて持つて来られたのには驚きました。米の穂がついたのでは意味をなさない事になります。

かやうに、花の占ひが大事な事になつてゐるので、其には唱言トナヘゴトがあつたのです。其が後に分化して、花の唱言(或は荘厳・唱文などゝも)といふものがたくさんあります。


五 鬼──山見鬼・榊鬼・朝鬼


花祭りの中心は、どうしても花育てにあつたと思ひますが、同時に、其が冬の祭りであつたので、山から山人が祝福に下りて来る印象がとり入れられてゐます。鬼の舞ひが其です。

山人が、鬼・天狗と考へられる様になつた事は前に述べて置きました。後には、鬼といふと暗い方面だけが考へられる様になりましたが、花祭りの鬼には、祝福に来る明るい印象が十分見られます。

鬼が里を訪れる機会は幾度かあつたのです。歳暮・初春の外には、五月田植ゑの時にも現れます。此の発達したのが田楽の鬼で、田楽では、天狗もまた大切なものになつてゐます。殊に田楽では、「四匹の鬼」といふ名高い演芸種目がある位ですが、四匹の鬼には意味があると思ひます。花祭りにもやはり四匹の鬼が出ます。四つ鬼、或は朝鬼と言はれてゐますが、恐らく元は一匹であつたのが、二匹になり、四匹になり、後無条件に殖えて来たのだと思ひます。

一匹の鬼を、山見鬼と言ひます。語の意味はよく訣りませんが、土地では、山の姿を見て廻る、ほめて廻るものゝ様に思つて居る様です。

此山見鬼と問答をする役があります。鬼──神──と問答をするのには、人間の語では訣らないから、通弁役が必要なのです。手草タグサを持つのは、即、神の詞を解する事の出来る、神人のしるしで、巫女が榊や笹を持つのにも、其意味があるのです。花祭りに、榊鬼といふのがあります。今は、此鬼が出て来ると、また人が出て来て、榊の枝で背を打ちます。それで榊鬼といふらしいのですが、恐らく元は、榊を持つて山見鬼と問答をした通弁役だつたのが、鬼の詞を解すといふので、此も鬼にされたのだと思ひます。勿論、此は私の仮説ですが、鬼の二匹になつた道筋が凡そ訣ると思ひます。

花祭りでは、此二匹の鬼が大切なものになつてゐます。其中最大切なのが、山見鬼です。此鬼が、鎮魂に来たしるしに反閇を踏む、其威力が村全体に及ぶと考へたのであります。

いづれ斯うした鬼には、眷族がお伴をして来ます。これが子鬼で、今は無数に殖えてゐますが、元は四匹だつたと思ひます。

朝鬼(四つ鬼)は、其引き上げの形を見せたものでせう。昔は、一番鶏が鳴けば朝だつたので、其時には、もう鬼が退出しなければならぬのですが、段々朝日を考へる様になつて、朝の考へが二重になつた為に、鬼の口に旭があたるまでには祭りを終らねばならぬなどゝやかましく言ふ様になつたのです。つまり、鬼はあの世のものなのですから、夜が世界である、だから朝一番鶏が鳴けば引き上げねばならぬので、退出しないのはいけないと考へた事から、追ひ払ふ様になつたのです。此から鬼やらひの考へが出てゐるので、殊に出雲系統の神楽では、皆鬼が悪者になつてゐるのですが、花祭りの鬼には決してさうした処はありません。


六 禰宜と翁と──面の神秘


前に言うた物語りの話になるのですが、神主が出て物語りをします。其に、たゞの禰宜で出てくるのと、まう一度翁に変つて出て来るのと、二度あります。ひいなと称する一種の御幣を担いで出て来て、遠い旅行をして来た、自分の来歴を物語るのですが、此は神楽に関係があると思ひます。つまり神主が祓ひにやつて来るので、なかてばらひと言うてゐますが、中臣祓ひだと思ひます。

土地によつては、此を海道下りとも言うてゐます。日本の芸能に、海道下りといふ一種目が出来たのは鎌倉時代ですが、此形は、余程古くからあつたので、遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語りから出てゐるもので、此の最発達したのが宴曲の海道下りです。つまり都から地方に下つて来た道中を語る道行ぶりです。

ところが、此物語りを翁が出てまう一度やります。黒式の尉で、生ひ立ちから、母の述懐を述べて、自身の醜さを誇張して笑はせ、婿入りの失敗、京に上る道中の出来事などを語るのです。翁と禰宜とは、表裏になつてゐるので、一方は祓ひをし、一方は由来を語つたのだと思ひます。此翁・禰宜が分裂をして色んなものが出来てゐます。翁から媼が、禰宜から巫女が出てゐるのです。巫女を天照皇太神宮と呼んでゐる処がありますが、つまり、面から来る神聖感が、さうした神を想像させる様になつたのだと思ひます。面は、どれでも、非常に神聖視してゐるので、此を被ると一種の神秘な心が起るらしいのです。それから何でも神様になつて行つたらしいのです。

面で、特に注意しなければならぬものは、翁の面の顎が切れてゐる事です。新野で写して来た書物には顎がない様に書いてあつたが、顎の切れてゐるのはものを言ふしるしです。大体面を被る芸は、声を出すべきでないので、翁の面だけが、顎が切れてゐるのです。

更に面で注意すべきは、巫女面・上﨟面などは、殆、目の穴がないほど小さい事です。昔のものには、大きいのと小さいのと二つあつた様ですが、とにかく、日本の芸能には不思議に、盲人を主役にしたものが発達してゐます。猿楽にも田楽にも其がありますが、恐らく此は、面から起つたのだと、私は考へてゐます。

尚、花祭りの面で最大切なものになつてゐるのは、ひのうみづのうと言はれる二つであります。此は最初から二つだつたのでなく、後に対照的に作つたのではないかとも思はれますが、其形が所によつて区々なのです。ひのうは男の様でもあり、赤い翁である所があり、天狗である所があり、みづのうが白尉である処もあり、うずめである所もあります。

どこでも此をしづめ様と言うてゐます。最後に神楽がすむと、此陰陽二つの面を被つて出て来て舞ひ納める。しづめは其から出てゐるらしいのです。恐らく此語は神楽の将来したものでせう。併し、此にみるめきるめの二人の王子の聯想が結びついて、実在の人物の様に考へてゐる所もあり、又、ひのうを猿田彦に、みづのうを鈿女に説明したがつてゐる所もありますが、元は一つだつたらうと思ひます。しづめと言ふ語は、割り合ひ新しい語だと思ひます。


七 もどき──翁は禰宜のもどき


翁・禰宜・巫女などが出ますと、其について大勢のもどきが出ます。花祭りではもどきが肝腎なものになつてゐるので、正式なのと、ふざけたのとありますが、翁には正式のもどきが出ます。翁の言うた事を拡大して言ふのがほんたうなのですが、今では、一緒に言うたり、本を持ち出して読んだりしてゐます。もどきと言ふ語は、反対するが古いのかも知れませんが、中世の芸能では、相手方と言ふ事になつてゐます。その外、飜訳する・物まねするなどの意味があるので、翁の通訳と言ふ事になるのですが、時には違つた語・違つた動作であらはす事もあります。

私の考へでは、禰宜がもとで、翁が其もどきであると思つてゐます。三河には、まだ翁を猿楽とする考へが残つてゐます。譬へば、鳳来寺の田楽を見ても、翁を猿楽と言うて、前にやつた事の物まねをするものになつてゐます。都の芸能が翁を本体にしたのは、翁を主体としてゐた猿楽役者が栄えたからであります。併し、日本の芸能は、或時代、復演に復演を重ねて来ました。こゝでも其が見られるので、禰宜のもどきが翁であり、翁にもどきがつき、更にそれの復演出である、ひよつとこ面を被つたのがあばれ廻りもします。ひよつとこは関東の里神楽にもありますが、此は反対する・逆に出る方の、悪い意味のもどきです。

要するに、翁の語りは、今花祭りの中では重要なものになつてゐますが、此行事には従と見らるべきもので、後から這入つて来たものでせう。主としては、中臣祓をしに出る禰宜が、神楽をすゝめる為に諸国を廻つたと言ふ物語りと、山から鬼が来て反閇を踏む霜月の行事、それにまう一つ花育ての行儀と、此三つが重つて居るので、翁の方は軽く見ていゝと思ひます。

既に平安朝の新猿楽記を見ましても、どれだけの種目があつたのか、どれが主体であるか訣らないほど、色々なものがとり入れられてゐます。由来、民俗芸術には、さうした性質があるので、あらゆるものを吸収して膨脹して行くのです。花祭りにも、色々な種目がとり入れられて、どれが中心だか、もう殆訣らない様になつてゐますが、やはり元は一つの中心があつたに相違ありません。たゞ、昔の人は、後に色々なものをとり入れるにしても、単に面白いからといふのでなく、何か根本的の関係があつて結びついたのだと思ひます。其だけに、一層訣らないものにもなつてゐるのです。

それでも、花祭りで比較的筋目立つてよく見られるのは、田楽との関係、神楽との関係で、此三つが纏綿としてからみついてゐるのです。信・遠・三、此三国の山奥に残つてゐる芸能を集めて見ますと、田楽・花祭り・神楽と言うてゐるものが、皆一部分づゝ関聯してゐて、彼等の間に取り合ひの行はれた跡がよく訣るのです。



延年舞との比較



一 稚児・舞台・山の類似


既に前にも一寸触れておきましたが、此花祭りと、かなり似通うて居る古い芸能を、中世のものに求めますと、第一に延年舞が思ひ浮べられます。延年舞の研究の権威は、何と申しても高野斑山博士であります。其おかげで、非常に此方面の事が訣つたのです。

延年舞は、先、大体、平安朝の末に盛んに行はれたものと見ていゝと思ひます。そして、此中心になつて働くものは、花祭りの話の中で既に暗示を全うして置いたと思ひますが、やはり成年戒前の稚児を主体として居ます。それに対照して、遊僧と称する一団があります。此は、村方に於ける小若衆・若衆の関係を、寺方で行つた形と言ふ事が出来ます。此為組みが複雑になつて来ますと、女をも老体をも含んだ、田楽の様な形が認められ、更に拡張せられても来る訣です。

延年舞の稚児は、先第一に、花の杖をさゝげて出て来る様です。そして舞台の構造が、著しく後々発達する泉殿式の舞台とは区別せられて見えます。それは、最適切に芝居と称するものゝ語原に当つて居る様です。時代によつて舞台の構へ方にも変化はありませうが、如何に後になつても、地上を舞台として、其上に或種の敷物を設けて、此を芝居と称して居た事だけは言へます。

単に、そればかりでなく、舞台以外に、別に山と称するつくり台が設けてありました。此は後には、しんめとりいをとなへる為に、左右に据ゑた様でありますが、私は、此を初めは一つのものと考へます。そして、楽屋と称すべきものが、出演者の道路、即、橋がゝりを隔てゝ、舞台の後にあつた事、そして、其謂はゞ花道を囲んで、囃方・謡ひ手・舞台番などの人々が控へて居つた様に見えます。

此構造と言ふものは、能舞台とも、芝居の舞台とも変つて居て、延年舞が一つの典型をなすものであります。ところが、よく考へて見ますと、昔の芸能の舞台が、泉殿式の舞台になる以前の形を維持展開して来たものだと言うてよさ相です。

私どもの語では、門外の芸・庭の芸・泉殿の芸と、かう三通りに、芸能の格式を分ける標準を立てゝ居ますが、此が庭の芸の、古い形の、少くとも一つであります。

延年舞との比較は、詳しくするほどの資料もありませんし、また其だけの岐路に這入る余裕もありませんから、さしづめ入用な部分だけをとり出して、花祭りと比較しようとしたのです。併し、此を直に、花祭りの出自を延年舞だと引き出す企てだと思はれては困ります。


二 花祭り舞台の特徴


先第一に、花祭りの舞台は庭であります。其が社の庭であるにしても、或は家の庭であるにしても、或は屋外の野天であつたらしい証拠もありますが、いづれにしても座敷芸ではありません。また、ものゝ外側から内に向つて演奏するといふ内容も持つて居りません。其行はれる庭が、即、其家及び家を中心とした、土地・村・郷・荘を意味するものだと考へて居ります。そして、其周囲がすべて見物の見所であり、時としては、舞台までも見物が割り込んで来るといふ事になつて居ります。

延年の記録では、花祭りの様な乱雑な村々の祭りを書いて居りませんから、見物と舞台との関係を截然たる区画のあるものと言ふ風に考へさせ易く記され、描かれしてゐます。でも、此は、かうした舞台の性質上、後にうすべり或は所作舞台に似た敷板を設けるまでは、優人見物の入り乱れの行はれた事は考へられます。

まして、此に似た様式の祭りが、古い村々に行はれて居たとしたらどうでありませうか。其、囃方や役方の控へて居る中を中道が通るといふ事は、只今では花祭りの著しい特色になつて居ますが、歌舞妓芝居の如きも、或は此に似たものでないかといふ姿をそなへて居りました。其は、見物が舞台の後方に、役者よりも高い位置に控へて居る、所謂らかん台の形でありますが、此もらかん台の発生を探つて見ない以上は、只今の花祭りのかんに見物が割り込んで居るのと早急に一つには出来ません。唯、最延年舞の側の形が、花祭りのかん座に似てゐる事だけは言へます。さうして此かん座は、謂はゞ舞台の芸を観る、客殿の位置であります。そして、其に控へて居る人は、祭りを執行させる擁護者、即、檀那、並びに其招待客及び一族といふ考へがある様です。で、さうしますと、其場合、庭の芸は、よび迎へられた芸人のすることゝいふ形です。

ところが、まう一つ含まれてゐる考へを分析して見ますと、かん座に控へて居る人達は、舞台へ出て舞ひ奏でる人と同種類の、神聖な人達と見られて居つたらしいのです。

楽屋は、其後にとつてあるといふのも、此また今日の花祭りに必、見られる事でありまして、之はかん座の一部分を、特に神聖な秘密部屋として囲ひ込んだものだといふ姿は見えます。


三 延年舞の山


それに、今一つ大事な、延年舞の山は、勿論、大嘗祭り其他の古い祭りに曳かれたヒヲヤマの意義に於て立てられて居たに違ひありませんが、大昔の標の山が、まだ標山シメヤマであつた時代、神の依るところのしるしの山だと考へられて居つた時代から段々変化して、ヒヲヤマのうちに尚、外の内容を含む様になつて居たらしい事は、早い時代から考へられます。

其は、此神物なる事を示された山の中に、同じく神物となるべき人が山ごもりをして居るといふ考へが含まれて来た事を思ふ事が出来ます。

標の山に人形を立て、其人形が人間の舞人になり、舞車マヒグルマに変化して来た一方に、延年舞などでは、造り山の上に、女装した稚児が控へて居つた様です。

とにかく、山を立てなければ延年舞の完全な形が備らなかつたといふ事だけは申されます。此山は、ねりもの芸には、非常に執念深く残つて居りますが、舞台芸の上では、痕蹟といへば痕蹟、或は別種のものと言へば、さうも言へ相なものが、歌舞妓芝居に存して居るばかりです。即、高野博士が謂はれる山台の事です。

何故舞台の外辺ソトに山を立てるか。勿論、芸能を行ふ神を迎へる形式です。だが、其に早くから、前に言うた別の意味が加はつて、芸能を行ふ神の出て来る時に、其山ごもりをして、精進潔斎の生活を続ける者を控へさせて置く場所と言ふ意味を生じて来たのであります。此は、文献の僅な延年舞の山を、却つて花祭り側から説明する事が出来ます。其は、花祭りと関係の深い神楽の山であります。

今日の花祭りでは、此山を立てる式を行ひませんが、此は、かなり重大な事の忘却と言はねばなりません。恐らく此山は、花祭りに於ては、また複合して、柴燈サイトウと称する庭燎ニハビの中に含まれてしまつたのでありませう。だから山見鬼が出て山割りの儀式をし、また柴燈の火を掻き散らす所作をする事にもなるのでせう。


四 神楽の白山


花祭りで最注意しなければならぬ事は、神楽を改作したとすれば、修験の方式が、其規範になつて居るに違ひありません。だから、舞ひの外辺に立てる山を、山伏の柴燈と一つにするのは、無理のない事です。そして此が、屡、家に於て行はれる為に、柴燈を出来るだけ小さくして、実のところは、柴燈とは言ふべからざる焚火にしてしまつて居るのであります。

神楽の一大事とせられたものは、山についての行事で、凡そ、若衆の舞ふ、三つ舞ひ・四つ舞ひに、直に接して行はれて居たのであります。伝天正・伝正徳・伝慶長以下、六種類の神楽の次第書を見ても、大体、ウマれきよまりの山立て、或は山を立つべし、山をまつるべし、山をたづぬべし、山を売り買ふことゝいふ事から、子供の誕生に比喩をとつた行事を行ふ様であります。

そして、此行事を、総括して、うまれきよまりと称してゐました。勿論、ゆまはりきよまはりと言ふ俗神道にも通用せられた、古い語が、其用途と直に聯絡して、生れきよまりと言ふ様な形になつたものと思うていゝ様です。

そして、此行事を行ふものが、山割り鬼で、花祭りの中、最重大な神役であります。たゞ、花祭りでは、山を割るといふ事を主にしなくなつた為に、山をたづねる方面から、山見鬼なる名前が普通になつて来たのだと見てよいと思ひます。



結語



此設楽の一番奥、御園ミソノ園部ソノベと言ふところに大入オホニユ川といふ川があり、其川上の山の上に大入といふ、たつた家が二軒しかない寒村があります。こゝを花山ハナヤマと言ひ、花山院が来られたところだと伝へてゐますが、勿論それは嘘でせう。併しこゝが花祭りの元祖だと言ひ、一つの根拠地にはなつてゐる様です。現在は豊根村三沢の山内・振草村古戸などが中心になつて居ますが、段々里近く下に下りて来たとも見られます。山内の花も、一代前に有力な人があつて、方々の花を調べて改修したのだと言ふ者があります。或は妬んで言ふのかも知れませんが、古戸・山内が元祖だとも思はれません。つまり、方々の村が、皆まねし合つて居るので、もつと古い状態を考へて見なければならぬのです。

要するに三河の山奥には、最初から、単に花祭りだけがあつた訣ではないでせう。色々な芸能を行ふ一種流浪の宗教家が居つて、彼等は時々里へ祝福に下りて来ては、里の趣向に応じた芸能を含んで行つたのだと思ひます。花祭りの村も、最初は、さうたくさんはなかつたのでせう。奥といふのも、最初は里近い処だつたのが、後に、里が開けて行くに随つて段々山奥に這入つて行く様になつたのだと思ひます。たゞ考ふべき事は、高山霊山などいふものがあると、そこへ這入つて行きます。此は、彼等の旅行には、常に一つのめどであつたのです。

只今のところでは全然訣らないのですが、大入は或は古い村かも知れません。三河では一番奥で、殆、遠州領といつてもいゝほどの山奥で、山の彼方には水があります。此は大いに考へねばならぬ事で、山の上の池・滝の水で浄めに来ると言ふ考へは、日本の宗教では大切なものになつてゐたのです。いつの時代か、遊行神人の一団が三河の山奥に屯したのには地勢の関係があると前に述べて置きましたが、境山を下りると天龍の流れがあります。此水が彼等の生活には大切だつたのだと思ひます。

若、花祭りが古いと言ふ事を許せば、先、東に聳えてゐる山々に、根拠を据ゑねばならぬ様です。さういふ点から言ひますと、中心が段々里近くへ下りて来た様で、山内・小林・古戸と下つて来て居るのです。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「民俗芸術 第三巻第三号」

   1930(昭和5)年3月発行

※底本の題名の下に書かれている「昭和五年三月「民俗芸術」第三巻第三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:フクポー

2019年329日作成

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