感謝すべき新東京年中行事
──第四回郷土舞踊と民謡の会・批判──
折口信夫



大体の感想は、日本青年館での合評会で申し述べたから、其機関雑誌「青年」に載る事と思ふ。其を御参照願へれば結構である。たゞ爰では、熱心な傍観者が、日本国中の手のとゞく限りの民俗芸術を、真の意味に於て自分の実証的態度を鍛錬する気組みで見て歩いた、さういつた態度を離さないで、今度も見せて貰つた其感想を記録して置きたいと思ふのである。

まづ演出に対して

日本青年館の此事業に対する毎年の苦労と言ふものは実に感謝に値すると思ふ。ついでは、柳田先生、高野博士、主としては訓練のない田舎の芸術団の為に、骨を削る様な苦労をして下さる小寺融吉さんの努力を、我々会員は協同にねぎらはなければならない気がする。たゞ忌憚のない感じを申すと、あまりに小寺さんの近代的審美感から、極めて僅かではあるが、時々シヤウのまゝの原形をまげて居はしまいかと恐れさせられた事である。しかし、此は東京へ持つて来ると言ふ意識の為に、県庁や村に於て既に大修正を施して居るものが多々あるに相違ないのだから、演出者の潔癖な整理から出て来る僅かな形のひずみぐらゐを問題にしては罰が当ると思ふ。欲を言ふなら、其演出の努力の中心を、舞台効果に置かないで、地方人の謂はれない新意匠の混つて居る点を洞察して、出来るだけモトの姿にひき直させると言ふ点に置かれたいとだけは願はないで居られない。此はこの事業を、民俗的にするか芸術的にするかの大切な岐れ目だと思ふが、恐らく此点では、小寺さんにも迷ひがあり、尊敬する二先輩にも解決がつき切つて居ないのではないかと思うて居る。一例を申すと、今度も淡路の大久保踊りの音頭の服装に就いて、大分我々の間に修正案が出て居たが、結局、つとめて田舎らしい味を出さうと言ふところに落ついたのであつた。だが、此なども、土地では存外田舎らしくない姿をとつて居るのかも知れないのだから、其を我々の心に這入り易い古風にひき直す事は、やはり芸術的に修正するのと同じ欠陥がありさうに思はれる。どの道、民俗芸術と言ふものは、都会式な、我々の欲しないでかだんすをも滋養分として常にとり込んで行つて居るので、其が同時に発達の動力にもなつて行くのであるから、此点に考慮なく、たゞ我々の趣味に叶ふ古典味を附加しようとする事は、多少本質的の誤りを含んでは居ないかと思ふのである。

尚一言、芸術的態度に就いて申したい。青年館の立ち場からすれば、新しい綜合芸術を田舎生活へ与へようとする点に、意義を見出しても居られるのであらうが、我々から申すと、其ならば今少し大胆な修正を加へていゝと思ふ。しかし、さうした修正は、うつちやつて置いても、刻々に地方々々で行うて居るのであるから、此催しでは、たゞ地方造型美術の展覧会を開く意味に於て、あまり芸術的と言ふところに目標を置いて戴かない方が、演出者も楽であり、見て居る我々も、真の過去の生活を顧みさせられる事になると思ふ。

悲観せずに居られない日本の民俗芸術

青年館の事業に於てだけでなく、田舎を歩いて見ても常に感じる事であるが、日本の現在の民俗芸術の出発点が比較的近代にあり、而も、其本源が極めて単純で、今尚分化の過程の複雑でない事を思はせる事が屡である。殊に今度のものに於て一層此感が深められた様な気がする。合評会の席上で此事を話して、柳田先生から大分訓戒を戴いたが、どうも其気持ちは、やはり移らないで居る。大体に於て、念仏系統・万歳系統、此二つに分れ、而も其が近世の演芸者の演芸種目の関係上、混乱を来して居ると言つた、極めてものたりないと言はうか、寂しすぎると言はうか、当代の隠者、榎本其角でもあり、平賀源内でもあり、又、原武太夫でもあり、更に最適切には蜀山人を思はせる偉才兼常清佐先生をして、極端なる無視と残虐をホシイマヽにするにまかせるより外はないと言うた歴史的の事情があるのである。日本の民俗芸術をあまりに悲観しすぎると、柳田先生は仰言つたけれども、どうしても悲観せずに居られない。其程分化展開の程度が低いのである。此事に就いては、必兼常先生が同じ誌上で実証して居られる事と思ふが、実際否む事の出来ない事実なのである。

異彩を思はせた臼太鼓踊り

其中、やゝ俤を異にしたものは日向児湯郡の臼太鼓踊りであつた。此には、南国の種子を十分に有して居る事が見られ、前の二つのものよりは、根本に於て古代が窺はれると思うた。でも、其演技法に於ては、かなり近代化したものを見た。私どもは、舞踊音楽の専門家でないだけに、或点には囚はれないで、其ものゝ本質を見る余裕を持つて居る様な気が、他の方々の話を聞いて居る中にしたのである。此踊りが、最現代の生活に受け容れられ易い事は事実でもあり、訓練其外の行き届いて居る点では感心させられて居るが、不幸にして王様の襯衣を空想化出来なかつたあらびやんないとの子供の様な門外漢は、如何に芸術味を要求しないとは言へ、此を芸術国へ持ち出さうと言つた一部の企てと其勇気には驚かずに居られない。

全体、臼太鼓踊りなるものには、名前は一つでも、いろ〳〵違つた、とんでもない種類のものが含まれてゐる。だから、此一つでは、九州南部はもとより、南島地方の臼太鼓踊りの標準的のものと言ふ事も出来ない。寧、臼太鼓踊りの名をかりた他の民俗芸術と言ふ方が正しいと思ふ。念仏踊り・万歳の外に立つ唯一のものとして挙げた此ですらも、御覧の通り、其音頭・囃しは極端に念仏であつた。此では、悲観しないでどう居られよう。此は、鹿児島の妙円寺メエジ参りと同じ系統のもので、一方に祭りの時の大名行列の姿になつて行くものであると思ふ。

要するに、成年戒の時にあたつて行はれた激しい南島風の舞踊が、次第に他の民俗芸術を含んで変化して来たものに相違ない。あの背に背負つた、我々を喜ばした、丈高い指物は、確かに或時期に於て伊勢踊りの要素を含んで来た事を示して居る。即、お伊勢様から貰つて来る万度祓マンドハラヒの一種がだん〳〵に誇張せられて来たのだと思はれる。

伊勢踊り・たゝら踊りと物忌生活の印象と

伊豆新島の盆祭り祝儀踊り。これも近代に、念仏者──門ぼめ・家ぼめの万歳式を含んだ──が此離れ島へ渡つて、青年期を印象する舞踊の上に俤を止めたものと思はれる。而も此には、伊勢踊りの要素が十分にとり込まれて居る事は、其演芸種目に伊勢踊りのある事から見ても知れる訣だが、第一、傘ぼうろくと称する、其傘鉾カサボコが証しても居る。又、顔を極度に隠すかゞみ幕を垂れた褄折笠が証しても居る。若しあの中から強ひて、更に古い新島の姿を求めようならば、はちまきの裾を垂らした下緒サゲヲと称する、伊豆七島のものいみ生活に通じたはちまきの固定した形である。

更に、此は偶感的な事ではあるが、此盆踊りの中に、或はたゝら踊りの系統が色濃く流れて居るのではないかと感ぜられた。あの扇や足の遣ひ方に、たゝら・棒づき──どうづき──或は堂供養の要素が濃厚に見られる様な気がしたのである。

たのむの神事から上覧踊りへの推移の跡

同じ系統のものに、飛騨宮村の神代踊りがあつた。此踊りに対する一般的の批評は、新島の盆踊りと対照して、其時代が遅れて居る、其だけ芸術的に或洗練が加はつて居ると言ふ点にあつた様だ。後半の批評は、芸術批評は控へねばならない私にも訣る様な気がする。けれども、前半の批評は、其が全体の為組服装などの点から出て居るところを考へると、遽かに賛成は出来なく思ふ。為組の中にも、部分的に変化があり、固定がありする点を見なければならない。殊に服装の上では、其が行はれる場合を考慮において見なければ問題にならない。所謂桃山時代以後盛んになつて来た上覧踊りに於ける庶民の服装が、更に時を経て洗練せられてあゝいふ風になり、又、或期間の中絶が、此を一層華美に飛躍せしめた処なども考へて見なければなるまいと思ふ。

此踊りで注意すべき点は、あの一群が四組に分れ、各組に一人宛、女に扮した、さうして風流笠を戴いた男の交つて居る点である。此は数个のアザから一所に練り込むと言ふ風習が出来る以前の形を思はせるものであつて、元は水無ミナシ神社に行はれた、八朔頃のたのむの神事であつたのではなからうか。即、収穫を直後に控へて此を祈る行事で、西出雲では、現に今でも念仏踊りと称して居るものである。演技に於ては、練れて居るけれども、新島のものよりは寧素人意識の多いものと考へられる。何にしても大分近代味の加はつた、殊に衣裳に於ては最近のものが加はつて居る様に考へられるのは残念である。此は友人河合繁樹さんあたりが、今少し古風にひき戻す工夫をして戴きたいものだと思ふ。さうして、宮に仕へる若者衆がオコナつた念仏踊りが、更に上覧踊りに変つて行つた道筋を、今少し考へ易くして貰ひたいと思ふ。恐らく昔は、まう少し芸術的感興のあつたものであつたらう。

民俗芸術史の立ち場から

会津の玄如節は、非常に統一のついたものであつたが、一点のもの足りなさがあつた。あまりに自由で、少しの拘泥もない、と言つたところが、却つて欠点だつたのではなからうか。それに、芸を見せると言つた意識のある事が我々にも感じられた点が、如何にも残念だと思はれた。あれでは、どうしたつて向うに磐梯山が聳えて居るとは思はれない。会津平野で踊つて居ると言ふ気持ちでなく、やはり東京の人達が見て居る前で踊つて居ると言ふ意識の方が強く、如何に自由な踊りぶりであるかを見てくれと言つた気持ちが、我々の胸にも這入つて来た。勿論、其が同時にあれの面白かつた所以でもあるのだけれども、まう少し、さうした優越感のなかつた方がよかつた様な気がする。だから、さうした優越感のあつた人ほどいけなかつた。人を指しては気の毒だけれども、あの中では一番うまくもあつたのだらう。それにいろ〳〵他人の世話をやいたりしなければならない地位にあつたんだと思ふが、最後に水を飲んできつかけをつけた人があつたが、あの人から受けるものが一番感銘が不純だつた。此点では、水を飲ました演出者にも不平はある。しかし、日本のかうした大衆的な芸術に、あゝしたせんちめんたりずむな気分は、最早滅びる時期が来たのだと思ふ。勿論、大衆芸術には当然感傷味がなければならぬのではあるが、現代では、さうしたせんちめんと以外に、もつと外の或ものが加はらなければならぬのだと思ふ。

たゞ、爰で民俗芸術史の立ち場から感じた事を一言申して置くと、普通我々が言ふ長篇の口説クドキ節以外に、どゝ逸に近い形の──なげ節以前から見えて居る傾向の──短い口説が出来て居つて、其が長い叙事詩の代りをして居つた。そして其が、地方々々である空想づけられた名高い来歴を持つた民謡を作る事になつた。譬へば、追分の如き、おばこの如き、或は此玄如節の如きものが出来たので、其起源は、勿論、ほそりなげ節などの起源になつて来るのだらう。けれども、さう言ふ一つの、日本民謡史の中の或視野が、此唄をきゝ、此踊りを見て居る中に展けて来た様な気持ちがして来たのである。此玄如節の如きも、玄女と言ふ女が居つて此唄が出来たと言ふけれども、其は反対に、此唄からさうした空想の人物が生れて来たので、又、玄女の名そのものが、唄ひ方やら発音やらから生れて来たのに相違ない。そして其が無限に替へ唄を作つて行つて、やがて一つの民謡の一群団をなすやうにもなつて行つたのであらう。

練道・立合の演劇化せる前と後と

淡路の大久保踊りに就いては、或晩一緒に見て居た北原白秋氏が、此と同じものを大分の臼杵ウスキでも見たと言うて居られた。さうして見ると、存外我々の知らない陰に、いろんなものが広く分布して居ると言ふ事が感じられる。私の感じた処では、此芸は、阿波方面で盛んに行はれる、先に述べた堂供養から出発したと思はれる、たゝら踊り・笠踊りの演劇的な要素を多分に含んだものらしい。第一に細い廊下のやうなところを練り歩くと言ふ事が其である。此形のだん〳〵発達して行つたのが、川崎音頭・伊勢音頭、引いては明治の都踊り以下のり踊りを形づくつて来たのである。そして其間変化を求める為に、一組づゝの演劇的な要素をもつたものを入れる様になつて来たのが、白石・寺子屋・土橋などであるのだが、爰で注意すべきは、何故その間に刀の類をとり扱ふ事を主として居るかと言ふ事である。単に演劇的の要素を入れると言ふだけならば、必しも刀を振りカザすものと、此を受けるものとの対立だけにしなくともよい筈である。此は、刀を持たせる前に、相舞アヒマヒよりも、寧、立合タチアヒとも言ふべき、同じとりものを持つて対立的に舞ふ風があつたのであらう。其が多くは長い棒の類であつたところから、かうしたものが発達して来たのだと、私は見たい。そして、其立合の形を作らない前のものが、髭奴・三階笠・片手枕・淀の車などであらうが、此とても、既に練り踊りの形から、一歩相唱的な繰り返しの形が出来て居たものと思はれる。だから、其以前には、個々別々な服装と即興的な舞踊で、練道風に練り歩いた姿を思はせて居るのである。

演芸種目の固定に対する打開

尚此機会に述べて置くが、私は、いつでも此郷土舞踊の会に、日本の舞踊の一原理になつて居る、極かすかな演劇的な味を含んだ、演劇的なものが避けられ勝ちな傾向にあるのを遺憾に思うて居る。若し此が、職業的であると言ふ、或は都会的であると言ふ事の為にさうされて居るのであるとしたら、そこに尚一層の苦心を願つて、都会的・職業人的でないところの演劇舞踊の発見と紹介とを一つの標目にして戴きたいと思ふ。でなければ、我々は、少くとも平安朝以後の歌謡・舞踊に通じて居る一大原動力を見落す事になるのである。

何にしても青年館の毎年の努力に対しては、二本の手では賛成し切れないほど厚意と満足とを感じて居るのであるが、外の方々も既に感じて居られる様に、こゝで一飛躍をしなければ、演芸種目の上に或固定が出来る事は事実である。其には、かう言ふ方面を考へて見る事も、確かにさうした方面の一活路を開く事になると考へられるのである。

どつさり節と六斎念仏と

あまり長くなつたが、あとの二つに就いて一言だけ言うて置かう。

隠岐のどつさり節の如き、山城の六斎念仏の如き、片方は追分の一分化と称しながら、極めて追分とは縁遠くなつて居る点に於て、日本民謡の或性質が見られる様に思うた。

六斎念仏では、殊に出て来た村が、上葛宮吉祥院であるだけに、御霊信仰・念仏などの関係が、深く我々の歴史的考究欲をそゝつたのだが、譬へ、私の考へる民俗芸術の範囲は全然離れて居ないにしても、既に私が最後の条件を加へた部分の民俗芸術に入り過ぎて居るものである。若し此を許す事の出来る雅量があるならば、今少し静かな、今少し演芸的でないもので、而ももつと田舎の演劇的な要素を含んだ──演劇芸能の歴史を顧るに好都合な──材料がたくさんあるに違ひないと思ふ。

しかし、何の彼のと言うても、我々は街に居ながら、静かに田舎の人と同じ呼吸をかはす一夜を、譬へ一年の間に数夜だけであらうと得られると言ふ事は、幸福な年中行事だと感謝をして居る。

底本:「折口信夫全集 21」中央公論社

   1996(平成8)年1110日初版発行

底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社

   1967(昭和42)年325日発行

初出:「民俗芸術 第二巻第六号」

   1929(昭和4)年6月発行

※底本の題名の下に書かれている「昭和四年六月「民俗芸術」第二巻第六号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:フクポー

2018年1024日作成

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