菜の花
──春の新七草の賦のその一ツ──
長谷川時雨



水油なくて寢る夜や窓の月(芭蕉)

 の句は、現代のものには、ちよつとわかりにくいほど、その時代、またその前々代の、古い人間生活と、菜の花との緊密なつながりを語つてゐる。いま、わたしたちが菜の花を愛するのもさうした祖先の感謝をもつて、心の底に暖かみを感じてゐるのかも知れない。日の光りと、月光げつくわうと、まきの火と、魚油ぎよゆしかなかつた暗いころの、ともあぶらになるなたねの花は、どんなに大切なものであつたらう。そのほかの、菜の花とよばれる幾種類のものが、みんな、われわれの生活に必要であることは、今日でも變りはない。

 菜の花は、誰にも親しみをもたれてゐる一般的な花だ。葉の中にかじかんでゐるまだ青い時分から、伸びきつて、種になつてゆく末まで、一莖の姿もよければ、多ければ多いほどよく、花の集まつた美觀は、春の新七草のなかでも、豐けさにおいて第一といへよう。大きな眺めでありながら、平凡な、民衆的美觀ともいへよう。

 古くは雪間の若菜として、いさぎよい青さと珍しさをめでられたが、近代人の感覺は、春の色の基調として菜の花の「黄」を推奬する。灼熱の夏日かじつくれなゐに移る一歩前、陽光さんさんと降りくだつて、そこに菜の花は咲きつづき、やはらぎと喜びの色に照りはえ、べひろげられ、麗かに、のどかに國を包んで、朝にけ、夕べに暮れてゐる。

 菜の花は平和を好む蒼人艸に似て、親しみぶかい花だ。

(「東京日日新聞」昭和十一年四月十六日)

底本:「桃」中央公論社

   1939(昭和14)年210日発行

初出:「東京日日新聞」

   1936(昭和11)年416

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2008年127日作成

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