橘曙覧
折口信夫



曙覧は文化九年、福井市内屈指の紙商、井手正玄の長男として生れたが、父祖の余沢に浴することをせず、豊かな家産と名跡、家業を悉く異母弟に譲つて、郷里を離れた山里や町はづれに、さゝやかな藁家を構へ、学究歌道に専念した。庶民の子として、これはあるまじき独行であつた。若くして仏教を学び或は窃かに京師に赴いて、頼山陽の高弟児玉三郎(旗山)の塾に入り、呼び返されても、一途にもたげる学究の炎は消えず、江戸に走つて転変の世相に深い感銘を受けた。

雲脚の変幻極まりない時代の姿を、曙覧他界した慶応四年八月前後の北陸辺に関して抽出してみると、同月会津征討越後口総督府参謀西園寺公望が村松に入り、その翌日長岡藩の反将河井継之助が敗死、同年六月会津征討越後口総督嘉彰親王が征途につかれ、廿七日敦賀に御宿せられ、八月十二日には越後三条に進まれてゐる。その二日前、十日には鹿児島から廻航した西郷隆盛が、柏崎に来着して総督宮に拝謁、新潟に向つてゐる。新代の御光が洽く照り映えようとする直前に、彼は五十七年の生涯を終へたのである。所謂端倪すべからざる時代の波は、彼の在世中ずつと、辺土の領国松平藩をも内外ともに揺り動かしてゐた。この内外多端の時にあつて、古義神道を探求し、厳たる皇国観念に徹した彼は、私情に於て藩主破格の厚情に感泣し乍ら、重なる招聘にも応ぜず、藩禄を食まうとしなかつた。橘左大臣諸兄の末裔にして、大君の直臣なりとの堅い信念を貫き通し、倦みなく藩内武士の血脈を衝いて勤皇観を植ゑ付け、時代に迷ふ福井藩を遂に動かして、勤皇運動に押し出したのだつた。一歌人の業としてこれほどの大業は嘗てない。

松平慶永(春嶽)は、江戸田安家に生れて、斉善のあとを嗣ぎ、福井城に君臨した賢明なる名君であつた。曙覧は一介の町人でありながら、春嶽公の恵みを受け、彼の藁家に藩主自らの来訪を忝なうしたほど、心の繁りがあつた。また福井藩第一の勤皇家にして、明治の御世にも功深かつた中根靱負(雪江)とも深い友誼の仲だつた。当時のしきたりからすれば、所詮国事を憂ふるに値せぬ地下人でありながら、国学者・歌人であつた許りに士人と交遊し、復古の情熱を周囲の関係者に注ぎ込んだ。江戸将軍家の親藩であり、将軍に誠意を示すことをよしとする傾向の、未だ多かつた福井藩を、維新の大業に干与させた、藩主並びに中根氏の陰には、蓋し曙覧の意力の注がれたものがあると言つても過言ではない。

しかも、かうした勤皇思想の鼓吹は実に危険な行動だつた。藩主の意の通り動いた橋本左内が、刑死したのを見殺しにするほかなかつた、藩の動向だつたのだ。藩主とは云へ側近の者より、自分の意志が通じなかつた。春嶽の宗家・末家の感を超える勤皇行為、篤胤門に入つて復古運動に走つた雪江、この主従が苦しんだ板挟みの境遇、薩州その他の堪へ難い圧迫にさいなむ苦衷は、曙覧の心を悲壮なものとしたに違ひない。困難な環境に屈することなく、三百年の習癖で動くことより知らぬ武士に、勤皇の為の啓蒙をいろはから説き諭して行つた。

かくして福井藩の勤皇は、文芸復興の清純な歩みから出発し、復古の情熱は古学のつきつめて尖鋭になつた、古歌の形を以て燃え立つて来たのだつた。もつて曙覧の偉業に起因したものと断ずる訳である。

尊かる天日嗣の広き道 踏まで 狭き道ゆくな。ものゝ夫

真心といはるべしやは。真ごゝろも、正しき道によらで尽さば

古義古学に疎い蒙昧な士には、こんな歌を示しては、第一義から繙く事を怠らなかつた。国学の流れを汲む者の間にも、尊皇から攘夷に到る情熱は見えても、討幕の機運は割合薄く、却て江戸讃美の傾向すらある者があつた。これ等阿世の和学者風にも染まず、また佐幕思想の横行する藩内にあつて、左内の先例にもひるまず、曙覧は己れの信念を力限り表白した。

天皇スメラギは 神にしますぞ。天皇のチヨクとしいはゞ、畏みまつれ

太刀佩くは 何の為ぞも。天皇のミコトのさきを 畏まむため

唯の歌人、みやび男が突如かうした気魄の歌を叫び出しては導いて行つた。更に左内の手足となつて、密勅事件の裏に活躍した歌弟子、野邨恒見に、

愚にも まどへるものか。大勅 たゞ一道にいたゞきはせで

の歌を与へては激励の鞭を打つのだつた。

かういふ風に、風流にことよせては、常に自分の心に蔵せられてゐる耿々の志を弟子達に鼓吹してゐる。此市井の隠士は、その進退に躊躇する武士があると、烈々の気概を以て叱咜する。また大御軍に召されて征討に従軍する弟子達には、はなむけの歌を贈つて、その壮行を祝ふのだつた。

負気なく勅に 背く奴等ヤツコラを キタめつくして帰れ。日を経ず

キミの勅に 背く奴等の首引抜きて、八つもてかへれ

大皇の勅 頭に戴きし功績イサヲあらはせ。戦ひのニハ

勅命を奉戴することの光輝に感激してゐる。玉の御声の揺曳を草莽の身に受け奉るこの心をどり、昂奮は、戦争下の今の我々には殊に共感せられるものだ。この憂国の至情は、反対に挙動を遅疑する者があると、大いに憤激する。軍監付きの要職にあつた野邨某の出入を禁じた事は、その一例だといはれる。

北辺の領国福井にも、ヤガて栄光の瑞兆がきざし染めて来た。もう病床に起つことが出来なくなつた、慶応四年二月十五日、北陸道鎮撫総督高倉永祜の一行が福井に入つた。

隠士ヨステビト(?)も、市の大路に匍匐ハヒならび、をろがみ奉る 雲の上人

老いの眼をしばたゝき、随喜の涙を流してゐる彼の姿が髣髴とするではないか。これより約半歳後、八月二十八日、「斯の如き古来未曾有の大御代に遭ひながら、眼前、復古の盛儀大典を見奉るに至らず、況んや、かねての抱負も、将に達するに向はむとして、今日はかなく世を去るこそ、返す〴〵も口惜しけれ」と歎じて、遂に瞑目した。

終りに、現代短歌の開祖といはれる子規の境地は、夙に曙覧の開墾したものであり、子規また彼の衣鉢をついだこと、曙覧の功が今花咲き実つてゐることを述べて、彼の歌の上にのこした偉業を讃へたい。

底本:「折口信夫全集 14」中央公論社

   1996(平成8)年525日初版発行

底本の親本:「東京新聞」

   1943(昭和18)年226

初出:「東京新聞」

   1943(昭和18)年226

※底本の題名の下に書かれている「昭和十八年二月二十
六日「東京新聞」
」はファイル末の「初出」欄に移しました。

※この作品は、東京新聞連載「勤王烈士に学べ」の二十八回目として掲載されました。

入力:kompass

校正:門田裕志

2013年120日作成

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