「ほ」・「うら」から「ほがひ」へ
折口信夫



ほぐほがふなど言ふ語は、我々の国の文献時代には、既に固定して居たものであつた。だから、当時の用例を集めて、其等に通じた意味を引き出して見たところで、其は固定し変化しきつた不完全な表現を持つたものばかりである。其等の用例に見えた若干づゝの違ひが、段々原義にりつめて行くやうである。

「志ゞま」を守る神の意向は、唯「ほ」によつて表される。その上一旦、「志ゞま」の破れた世になつても、「ほ」を以て示す事のしばしばあることは、前に述べた。

我が文学なる和歌に、「ほに出づ」「ほにあらはる」「ほにあぐ」など言ふ歌詞が、限りなく繰り返されてゐて、その根本の意義はいまだに漠としてゐる。必学者はを以て解決出来た様なふりで居る。併し、ほぐと言ふ語の語原を説いた後に思ひあはせれば、今までの理会は妙なものであつた事に心づく事と思ふ。「ほにあぐ」の方は帆に懸けてゐる類のもあるが、大抵は皆忍ぶる恋の顔色に出る外側にうち出すと言つた意味に使うてゐる。

だが、其では説ききれぬ例がある。古い処では、

はだすゝきワレ尾田ヲダのあかたふしの淡の郡にいます神あり(神功紀)

新しいものでは、

草深き野中の森のつまやしろ。や、はだすゝきにいづる神(夫木和歌集、巻十六)

此例などは外面に現れるとばかりで説けきれぬものである。ほにいづと言ふ語に必忘れられた変遷のある事を暗示してゐるのである。

後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界かくりよから物を人間の前に表す事である。播磨風土記逸文ににほつひめの命が、自分を祀つたらシルシを出さうと言うて、「ひゝらぎの八尋桙ね底つかぬ国。をとめのマヨひきの国。たまくしげ輝く国。こもまくら宝あるタク衾新羅の国を、丹波ニナミけ給ひマツロへ給はむ。」とかうした文句でヲシへて、赤土を出されて……と言つた風の伝へがある。勿論此赤土を呪術に用ゐる為に出されたものと解して、桙・舟・戎衣等に塗り、其上海水を赤く攪き濁して行つたら、舟を遮ぎるものはなからうと託宣のあつた様に説いてゐる。けれども此「善き験を出さむ」と言ふのは、古意を以て説けば赤土を出された事である。其を当時誤解したものと見ることが出来る。更に後世風の解釈は伴うてゐるが、神武天皇熊野入りの条に見える高倉下タカクラジの倉の屋根から落し込まれた高天原からの横刀タチなども、此例である。たけみかづちの命の喩しの言が合理的になつてゐるが、神の「ほ」としての横刀を見て、天神の意思を知つたのである。此外にも大刀を「ほ」として表した神の伝へはある。

中臣寿詞によると、あめの─おしくもねの命が、かむろぎかむろみの命に天つ水を請ふと、天の玉串を与へられて、「之をさし立てゝ、夕日から朝日の照るまで、天つのりとの太のりとゴトを申して居れ。さすれば、マチとしてはワカひるに五百篁ユツタカムラが現れよう。其下を掘れば、アメ八井ヤヰが湧き出よう……」と託宣せられたと説いている。若ひるは朝十時前後の事(沖縄では、おもろ双紙の昔から、今も言うてゐる)で、夜明けになればの意だと言ふ。併し或は字面どほり「弱蒜ワカヒルに」で柔い蒜と五百本からの竹藪が出現しようと言ふのかも知れない。竹藪だけにしても、神の示す「ほ」としての意味のものだと知れよう。天の玉串なども、「ほ」の考へから出たものでないかと思はれるのである。此には「ほ」と言はずに、「まち」と称してゐる。卜象ウラカタの「まち」なる語に訳してゐるのである。「まち」は実はさして古い語ではない。「ほ」の用語例が忘れられてから、いつの間にかとり換へられたに違ひない。此伝へなども、天神たちが教へた語と言ふのは合理的になつてゐると見られよう。あめのおしくもねの命が神を祷ると、天の玉串が忽然と現れた。其串の自ら択ぶ地上にさし立てゝ、天つのりとの太のりとゴトを申してゐたら、若ひるに五百篁が出現した。かう解すれば、「しゞま」の神の示す「ほ」の様子が知れよう。

「ほ」と卜象との関係は後で説くが、さうした物質を「ほ」とする外、ある動物又は人間を以てし、又其等のある時の状態を以て暗示する事がある。垂仁天皇の時、ほむちわけの皇子が出雲へ向ふのに、三つの道の何れをとらうかと言ふ事になつて、「ふとまに」卜ふと、本道になつてゐる二道では、アシナヘ・盲に出くはすだらう。だから紀州路は脇道ではあるが縁起のよい道だと出たので、其によつたとある。此も実は訣らぬ話で、跛盲に逢ふと、其道は呪はれてゐると言ふ心あたりを得たのであらう。さうした経験の積みかさなりから、かうした逆の言ひ方が生じたものと思ふ。更に此より先、出雲大社に詣でるのが果して神の意かどうかを問ふのに、あけたつのみこは、甘橿アマカシヲカの鷺が落ちたら神の意思と信じると言ふ約束をたてゝ置いて鷺をおとし、又其を飛び立たせ、熊橿の葉を枯らしたり蘇らしたりして、神の意思を試してゐる。此はうけひと言ふ神意を問ふ様式で、どちらかをきめる場合の方法である。此が一転すると、一極イチギめの方法になるし、又一方既に占ひの方に踏みこんでゐる様である。「うけふ」は承ふ(ウゲガフ)と言ふ語の古い形で、くを語根としたものだ。神がいづれを承けひいてくれるかと其肯否を問ふのである。二つ以上の条件を立てゝ、神の選択に随ふ神判を請ふ手段である。だから、此れが一転して神の保証によつて、自分の心を示す誓ひの手だてにも変化する。「うけひ」と言ふ語には、判断に迷うた時神の諭す方に随ふと言ふ考へと、神に二人以上の者の正邪を判決させる場合と、誓ひの手段として採る場合との三つがある。

其対象となるものは、神の示すところの「ほ」である。あけたつのミコの場合にも、うけひまをして鷺をうけひ落しうけひ活し、木の葉をうけひ枯しうけひ生かしたとある。神の「ウケふ」を請ふ事になる。

「ほ」と言ふ語は早く忘れられて、専ら語部カタリベの口から移つて行つた歌詞となつて了うた。其と共に別の語が其位置をとつて、而も意味が一方に偏する事になつて来た。たゝると言ふのが、其である。

たゝると言ふ語は、記紀既にスヰの字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。允恭紀に淡路の島で狩りせられて、終に獲物がなかつたので、占はれると、島の神祟りて曰はく、獣をとらせないのは自分の心だ。赤石の海底の真珠を自分に献つたら獣をとらせようと言うたとある。此文の、卜うたら神が祟つたと言ふのは、今の祟るでない。雄略紀の「十握劔に祟りて曰はく」と言ふのも、さうである。「たつ」と言ふ語は現れる・出ると言ふ意義が古いので、其から、出発・起居などの観念が纏つて来たのである。「月たつ」など言ふのも、月の朔日が来ると言ふよりは、月末に隠れた月が現れると言ふのが元である。「向ひの山に月たゝり見ゆ」などを見ても、知れるであらう。月神の出現を示すのである。其が段々内的になつて来て、神意の現れる事を示す語になる。更にそこに、意義が固定すると、「けしき─たつ」「おもかげ─たつ」など言ふ信仰抜きながら幽界を思はせる様な内容を持つた、捉へ難きものゝ出現の意になる。たゝりたつありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「タヽりて言ふ」は「立有而タヽリテ言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。ところが此処に考へねばならぬのは、善い意味の神は「そしり」「ことゝひ」を自在にするが、わるい意味の神又は、含む所があつて心を示さない神が、専ら「ほ」を示す事に変つて来る。「ほ」の意味の下落でもあり、同時に「ほ」なる語の用ゐられなくなつた一つの原因とも思はれる。かうした場合に、唯ある現象のみ見せて、其由つて来る理由を示さないと言ふ形をとる。あるわるい現象を見て、神の「ほ」と感じ、其意味する所を問ふと言ふよりも寧其原因を求め聞いて、其に対する処置を採らうと言ふ事になる。かう言ふ風に展開して来ると、既にたゝりの観念が確立した訣である。でも其古いものはやはり、人の過失や責任から「たゝり」があるのではなく、神がある事を要求する為に、人困らせの現象を示す風であつた。淡路島神は珠の欲しさであつた。龍田の神は社に祀られたい考へから作物をまづ荒してゐる。即人の注意を惹く為の「ほ」に過ぎない。かうしてくれるかどうかとの強談判に過ぎないので、人のせゐではなかつた。かうして「たゝり」が「祟」の字義にはまつて来る。此が奈良朝或は其以前の此語の内容である。ところが、神の内容が段々醇化して来ると、さうした「たゝり」を人間の過・罪から出るものと考へて来る。平安朝に入つては其色彩が強くなつて、天長四年の詔などに見えて来る。「御体ヤスからず大坐オホマしますによりて占へ求むるに、稲荷の社の樹を伐れる罪、祟りに出づと申す……」。「たゝりにいづ」と言ふ語と「にいづ」と言ふ語とには、輪郭には大した変りはない。唯内容には複雑味が加つて来てゐる。「たゝりにいづ」はたゝりとして表すと言ふ事である。其を直にたゝるとも古くから言うてゐる。但し、「……にたゝる」と言つた発想をとる。「何々となつてを示す」と言ふ事になるのである。語法は後まで固定して残つてゐても、言語情調や意義は、早くから変化してゐるのだから、「島の神たゝりて曰はく……」など言ふ様な表現を用ゐる事になつたのである。古い俤にかへすと、「獣一つすら獲ぬを示し給へるは、何れの神にいまして、いかなる御心かおはしますとて卜ふるに、神の心出で来たり。……」と言ふ風にあるべき処である。して見れば、「……にたゝる」と言つた語法は、其以前から保存せられたものと見てよい。十握の劔を「ほ」として出現せしめられた、古い形の「たゝり」は「ほ」と言ふ語で表すべきものであつて、単に現象のみならず、ある物質をも出したのが、次第に一つの傾きに固定して来たのであつた。

此序このついでに言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。

忽然として「ほ」の出現するといふ思想は、後世まで一夜竹流の民譚を止めてゐる。一夜にして萩の生えたと言ふ播磨風土記の話も、一晩の中に山の出来たと言ふ伝へも、皆此系統である。「ほ」に就いての信仰生活が忘却せられた後に、唯ゆくりなく物の出現したと言ふ姿に固定したのだ。

を語根とした動詞が、ほぐであり、又ほむと言ふ形もある。ほぐが語根化して再活用すると、ほがふとなる。普通の用語例からつきつめてゆくと、「ほぐ」は優れた神が精霊に向うてする動作らしく思はれる。併し「ほ」と言ふ語から見れば、元庶物の精霊が「ほ」を出すと言ふ義であつたらしい。其が出させる方の動作に移して言はれる事になつて来る径路は考へ難くない。精霊の示す「ほ」を出させると言ふ方面から見れば、やはり「ほ」を出すと言ふ事になる。「ほ」の原義は知れないが、「うら」と似た筋路に立つ事を思へば、ウラウラウラ(うら<うれ)同様、の義だとも言へる。表面・末端の義から、さうした出現形式に言ふのだと説けばわかる。の意義なども、逆に「ほ」の影響を受けて、いよいよ著しく固つたらうと言ふ事も考へねばならぬ。精霊の「ほ」を現す事が、大きく見て常世神の動作に移して考へられ、其が段々人間の行動らしくなつて来ると、「ほ」を乞ふと言ふ様な意義をも通つて来た事であらう。

ところが、信仰様式が易つて来ると、「ほ」の有無は別問題になつて、占ひの方面を分化する。其と共に「ほぐ」と言ふ語も、呪言の効果の有無と言ふ側の内容を持つ事になる。神から伝誦した呪言の威力によつて、精霊を其詞に感染させ、誘導すると言ふ義から出で、更に精霊に対して、ある結果を予約すると言ふ内容を持つ事になり、はては、祝詞の詞を、陳べると言ふ様になつて来たのである。文献はじまつてからの「ほぐ」は、どうかすれば、一様に祝福する意に見られる傾きがある。よく見ると「ほ」の観念は鮮やかに残つてゐる。サカほがひは元酒の出来あがる様に呪言を唱へる事ではなかつた。一夜酒の出来方を、「ほ」と見て人の健康を祝福したのである。大歌オホウタの中の本宜ホギ歌なども、日本の地で子を産まぬ雁の卵を見て「ほ」と感じ、「ほ」を見て後に唱へた一種の呪言的の歌である。此「ほ」の考へ方などはやはり数次の転化は経て来てゐるので、呪言によつて現れる筈の「ほ」を、逆にまづ不思議な瑞祥に対して「ほ」の印象を強く受け、その上で「ほ」の効果を強めようとして謡うた歌なのである。

「うけひ」が一転すると、「ちかひ」になる。此も語原の知れぬ語である。併し考へて見れば、「とこひ」と言ふ形の語根と tik(=tok)を共通してゐる。うけふが後にノロふの内容を持つて来た様に、此も、音韻の変化と意義分化とが並び行はれて、誓ふとトコふとの相違を生じる事になつたと類推する事が出来さうである。その上、「ちぎる」と言ふ語とも関係がある。ちぎるは約束者両人の合意上とる形式的な方法と観られてゐるが、単なる指きり・口固め・語ツガへの様なものでなく、神を中に立てゝの誓約であつたらしい。後期王朝になつて其用語例が著しく微温化してしまうたが、唯の契約ではない事は察せられる。かうして分化してしまうたが、元は一つであつたに違ひない。

うけひは神を試すといふ基礎に立つて、神意の自由発動に任せながら、神の意向を確める事を中心にして、転じて神判など乞ふ場合にも用ゐてゐる。ちかひになると、著しく変つて来る点は、故意に神意の表現を迫る態度を含んでゐる。うけひの中、神判を待つ態度のものは既に、ちかひの要素を顕して来たものである。此誓言は偽りでない。若しも嘘であるなら、どんな不思議な結果でも、神が表して見せるであらう。かうした考へに立つて居るのである。うけひの場合にも、いろ〳〵むつかしい「ほ」を乞ふ習慣があつた。其観念を更に誇張して来たのであるから、ちかひに殆ど、不可能な「ほ」の現れを約する事に成るのである。が最注意せねばならぬ点は、将来の現象を「ほ」としようと約したかどうかと言ふ処である。今日残つた文献の上のちかひの詞は、大抵この言に偽りあらば、今後……言ふ風になるだらうと言うた風に見えるが、実はさうではなかつた。此誓言に対しては、神が責任を負うてゐる。目前現状を覆す様な現象が起るであらう。かうした表現法なので、神を中介とする時には虚言は出来ぬと言ふ信仰の基礎に立てばこそ、こんな方式も認められてゐたのである。神罰至つてみせしめに不思議な有様を現じるだらうとするのは、後の考へ方である。まして天罰をかけて起請する様なのは、遥かに遅れての代の事であつた。後世の考へ方から見れば、むつかしい「ほ」をかけておけば、却つて偽りに都合のよい様に見える。現代尚屡、行はれる歯痛のまじなひで、「此豆に芽の出るまでは、歯の虫封じを約束しました」と言つた風の言ひ方で、煎り豆を土に埋める様な風習も、単に神を所謂詭計オコワにかける訣でなかつた。「煎り豆に花の咲くまでは、下界に来るな」と鬼を梵天国に放つた百合若伝説が、稍古い形を見せてゐる。つまり誓ひの方式が、変化したのである。うけひの神意を試すところに立脚してゐる処から出て、其に加つて来た神に対する信頼の考へが、どんな事でも神力で現れない事はないとするからである。

神功皇后三韓攻めの時、新羅王のなした誓ひの詞は、日本人としての考へから言うてゐるのだから、此証拠に見てもよい。「則、重ねて誓ひて曰はく、東に出づる日更に西に出で、且、阿利那礼河アリナレガハの返りて逆に流るゝホカは、及び河の石昇りて星辰と為るに非ずば、殊に春秋の朝を闕き怠りて梳鞭の貢をめば、天神地祇共にツミし給へ」とある。逆に書かれてゐるので、「日本国の為に忠実ならずは、目のあたり日西に出で、ありなれ河逆に流れむ。されど若し向後懈怠ある時は、わが誓言を保証し給ふ神祇罰を降し給ふも異存なし」とあつたはずなのである。

齶田アキタの蝦夷がした「私等の持つて居ます弓矢は、官軍の為のものでなく、嗜きな野獣の肉を狩り獲る為です。若し、官軍の為に、弓矢を用意したら、齶田の浦の神が知りませう。……」と誓うたのや、「思はぬを思ふと言はゞ、真鳥栖む雲梯ウナテモリの神しるらむ」(万葉集巻十二、三一〇〇)とあるのなども一つで、神罰を附けて語の偽りなきを証するのは、やはり古意ではなかつた。

発想法が後世風になつて居ても、新羅王の誓言の「天神地祇共に罪し給へ」とあるのは、「罪し給はむ」と言はぬ処に古意がある。「君をおきて、他心アダシゴヽロをわが持たば、末の松山、波も越えなむ」(古今東歌)。此歌常識風に漠然と、波の越える山だからと感じもし、解釈もせられて、末の松山浪越し峠など言ふ地名もあり、地質の上から波の痕跡ある陸前海岸の山を、其と定めたりして居るのは、とんだ話である。其でなくとも単に、「末の松山を浪の越えざる如く」と比喩に解してゐる説もある。だが、此は恋の誓ひの古い形で、波のカブさりさうもない末の松山を誓ひに立てゝ来た処に意味があるのである。而も越えなむと言ふ語も、「誓ひに反いたら波が越えるだらう」と将来に対する想像的な約束ではない。此場合のなむは、動詞第一変化につく助辞で、希望の意を示すものだ。だらうを表す第二変化につく助動詞ではない。「越えてくれ」「越えてほしい」と言つた意で、従つて上の「我が持たば」も将来持たばでなく、「持てらば」の時間省略で、「持つてるものなら」と言ふ事になる。「この誓言本心を偽つて居るものなら、このスヱの地の松山其を、波が越えてみせてくれ」と言ふ意である。かうした処から、比喩を立てゝ「あの物のあゝしてある限りは、言は違へまい」と言ふ新羅王風のになるか、「あの物がわたしの心のしるしだ」と言つた風の言ひ方になる。「鎌倉のみこしがさきの岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ」(万葉巻十四、三三六五)は、単なる修飾ばかりでなく、物を誓ひに立てゝ、心の比喩にする風の変形である。おなじ東歌で、古いものゝ方が新しいものよりも、変化した形をとつて居るのも、民間伝承学の上から見れば、不思議はない。

誓ひは神を偽証人とせない事を本則とするのだが、神の名を利用して人を詐く者が出て来る様になつて来る。日本紀の一書にも、ほのすせりの命が、ほゝでみの命に「我当に汝に事へまつりて奴僕たらむ。願はくは救ひ活けよ。」と言うて置きながら、潮が干ると前言を改めて、「吾は是れ汝の兄なり。如何にぞ、人の兄として弟に仕へむや」と言うて、再び潮満つ珠の霊力で苦しめられる話がある。新しい様式に交つて古い様式の遺つて行くのが常であるから、此話なども誓ひに対する新しい心持ちを見せて居るのである。だから、天罰を背景にして誓ひをする風が行はれて来る。天智紀(十年十一月)の内裏西殿織仏像の前の誓盟は其である。「……大友皇子手に香炉を執りて先起ちて誓盟して曰はく、六人(赤兄・金・果安・人・大人及び皇子)心をトモにして天皇の詔をく。若し違ふことあらば、必天罰を被らむ……左大臣蘇我赤兄臣等手に香炉を執りて、ツイデに随うて起ち、泣血し誓盟して曰はく、臣等五人殿下に随ひて天皇の詔を奉く。若し違ふことあらば、四天皇打ち、天神地祇亦復、誅罰せむ。三十三天、此事を証知せよ。子孫当に絶ゆべく、家門必亡びむ……」と言うて居る。此は必しも仏法の儀礼に拠つたものではない。大体奈良以前から、此処まで信仰様式が変つて来て居たのである。欽明紀(二十三年六月)を見ても、馬飼ウマカヒ首歌依オビトウタヨリ、冤罪を蒙つて「揚言コトアゲして誓ひて曰はく、虚なり。実にあらず。若し是れ実ならば必天災を被らむ」と言うたとある。此揚言は既に原義から離れて来て居るが、神に対して発言する方法と見ればよい。つまり今言ふ語の虚か実かに対しての誓ひである。直接に罪に対して言ふのではない。此も天罰にかけて語の真否を誓うてゐるのである。後世ほど段々にその天罰にも細目を考へて来た。武家の天罰起請文の外に、身体の不具、業病を受ける事を以て、貧窮・離散・死滅などをかける。仏教の影響よりも、根原の種子が段々誇張せられて来た方面を考へなければならぬ。町人たちが「何々する法もあれ」と誓ふのを、武家の感化と見るのは現れたものどうしを繋ぎ合せるから起る間違ひである。

自身の善意に憑んで主張する場合にはちかふと言ふが、他人の心の善悪を判じかねて、悪なら禍あれ、善なら事なかれと言ふ観念から出る呪言は、とこひであり、其をする事をとこふと言ふ。やはり神の判断に任せてするのである。其も後には、単なる呪咀を言ふ事になつて来た。尠くとも奈良朝での用語例は、もはや此処に結着して居た。古い正則な使ひ方は、「天神其矢を見て曰はく、此れ、昔我が天稚彦アメワカヒコに賜ひし矢なり。今何故に来つらむとて、乃矢を取りトコひて曰はく、若し悪心を以て射たりしならば則、天稚彦必害に遭はむ。若し平心を以て射たりしならば則、つつがなからむと、因りて還し投ず。則、其矢落下して、天稚彦の高胸に中りぬ」と見えるのが其である。唯こゝも「害に遭へ。恙なかれ」と発想する法が古いのである。

うけひに於いては、神意から出てゐるかどうかと問ふのが、神意がどちらにあるかと言ふ考へに移り、ちかひでは、わが行為意思が神慮に叶うてゐる事を、神に証して貰ふといふ観念から、誓約方式となつたが、一方分化したとこひの例では、倫理観が著しく這入つて来て、善なら無事であれ。悪なら禍あれと言ふ考へ方になつてゐる。ちかひの例にも此考へが這入つて、天罰の背景の下に誓約する事になるのである。

とこひが悪に対する懲罰を請ふ方法と言ふ風に考へられ、更に転じて自分を不利に陥らした相手に罰の下る事を願ふ呪言と言ふ考へに移つて、純然たる呪咀となる。だが、復讐観念の伴うてゐないとこひはなかつた。秋山下冰壮夫シタビヲトコに対する春山霞壮夫の御母ミオヤの採つた方法などは、此例のとこひの著しい例である。嫉妬・我欲等の利己の動機から出るものは、かしり(動詞かしる)と言ふ語であつたと考へられる。つまりは、とこひの分化したもので、単に必要上他人の生活力を殺がうとする呪言である。とこひの後期からかしりに入ると、あひての人格の一部又は表象となる物を対象に据ゑて、此に呪言をかける(即、ことゝふ)事になつてゐる。

うけひの効果として現れるはずの「ほ」が、混乱して逆に当体の代表物を立てる法が、とこひかしりの上に出て来る。とこはれ、かしられる当体の性質から見て「ほ」の変形と見る事は間違ひでなからうと考へる。大体うけひは「ほ」の側から見れば、二次的なものである。其「ほ」が積極消極両方面に現れて来たものが、段々不当不正の場合にばかり出現を乞ふ事になつたのであるが、かしりになると、ふたたび形を変へて「ほ」が出て来る事になつた訣である。

おなじくかしりと言うても、とこひに近いものだと対照風のもの言ひを忘れて居ない。御馬ミウマノ皇子、三輪ミワ磐井イハヰの側で討たれる時、井を指して詛した語は「此井は百姓のみ唯飲む事を得む。王飲むに能はじ」と言うたと言ふのが其である。

椎根津彦と弟猾オトウカシとが香具山の土を盗んで来て種々の土器を作つて、天神地祇を祭つた条に、「譬はゞ水沫ミナハの如くカシり著くる所あり」と言ふのは、単純な祭器を作る為ではなかつた。香具山の土は倭宮廷の領土の象徴ととり扱はれたのである。「武埴安タケハニヤス彦の妻吾田アタ媛密かに来て倭の香具山の土を取り領巾ヒレツヽみ、『是は倭の国の物実モノザネ(又ものしろ)とみ曰ひて乃ち反りぬ」とあるのも、国のカシりの為に土を持つて行つたのであつた。だから土を盗みに行くに先つて、神の訓へた言には、「宜しく天の香具山の社の中の土を取りて、アメ平瓫ヒラカ八十枚ヤソヒラを造り、并せて厳瓫イツベを造りて、天神・地祇を敬祭し、亦イツ呪咀カシリをせよ。此の如くせば則、虜自ら平伏せむ」とある亦の字の用法が、土をカシりの対象にした事を示すと共に、香具山の動植物を神聖視するに到つた径路を見せてゐる様である。だから、祭器を作つたと言ふのは、合理的な説明と見てよい。

人をかしる為に、様々の物を用ゐてゐる中、秋山下冰壮夫のかたみ(身代り)として、出石川の河の石を塩にまぶし、出石川の竹の葉に包み、其竹で造つた八目ヤツメ荒籠アラコに入れて、此竹葉の萎むが如青みしぼめ。又此汐の満ち干る如満ち干よ。又此石の沈むが如沈みこやせと咀言してカマド(?)の上に置かしたと言ふのが著しい例である。

かしりの呪文を見ると、全くかたみを以て「ほ」と一つに扱うてゐるではないか。かしるの語原は知れぬが、選択を神に任せる対象的のとこひから一転したものなる事は明らかである。かしりつく事が受け身にとつてはまじこるで、之を却ける法を行ふ事を、まじなふと言うたらしい。語原まじは、蠱物の字面に当る鳥・獣・昆虫類の人に疫病を与ふる力を言ふのであるが、之を使ふ側をも、後にはまじなふと言ふが、始めは防ぐ方を言うたと考へられる。此点かしりまじなひとの違ふ所である。尚一つ違ふ点は、庶物の精霊を術者が役すると言ふ所に在るらしい。

此等の語の代表語とも言ふべきのろふと言ふのは、平安朝の用語例で見ると、語根に既に呪咀の義がある様に思はせる「のろ〳〵し」など言ふ語がある。けれどものろふの分化した意義ばかりしか残らなかつた時代に、出来た新語の語根に、逆に呪咀の義を感ずる様になつてゐたと見るべきであらう。のろふがさうした分化を遂げるには、る・るなどの悪し様に言ふと言つた用語例が助けてゐる事であらう。まじなふだけが少し違ふが、うけふ以下皆一類の語で呪文が悪用せられて行く傾向を見せてゐる。同時に、「ほ」の出現を問題にせなくなつて来る。「ほむ」と「ほぐ」とに違ふ所があるとしたら、「ほむ」にはおだてる意を持つて来てゐる事である。此点は、ねぐも共通であつた。「ねぐ」の最初から願ふ義でなかつた事は、「ねぎらふ」の語根なる「ねぐ」と同根なる事である。「すめらがうづのみ手もちかき撫でぞねぎ給ふ。とり撫でぞほめ給ふ」など言ふのは、唯の犒ひではない。対句としての意味の近似性を中心にして、其に「ねがふ」の語根である事を併せて考へると、義は大分変つて来る。まだある勤労を致さない先から「ねぎ給ふ」と言うてゐるので見ると、どうしても労力の結果に対する予め褒める誇張的な表現の語を言ふのに違ひない。「お前はえらいから、うまくするに疑ひがない」など言ふ風なのが、ねぐの本義らしい。上の詔勅は其用語例が倫理観を伴うて来てゐるが、古意はそこにあるので、禰宜ネギと言ふ語も、ほんとうに訣つて来るのである。語根のはほかで説く(索引参照)が、ほぎ人ほがひゞとなどゝ同様の成立を持つて居るのである。神・精霊をねぐ人なのであつた。「願ふ人」の意ではない事が知れる。

ほむも讃美・褒賞の義を分化する道筋を考へて見ると、現状以上の理想的な結果を誇張して言ふ義を含んでゐたのである。即幾分ほぐよりは、新しく「ほ」なる語根の意識が変化してからの事と思はれる。後に言ふ「ほがひ」の人々に似た職業の「ほめら」と言ふ部落が四国吉野川の中流以下の地方にある。此は「ほめなむ」「ほめようよ」など言ふにおなじ方言で、此等の職業人が、家々に来て「ほめら〳〵」とほめさせてくれと要求した為の名で、近世風の者ではあるが、ほぐに近いほむのなごりの固定したものと考へる。「まけ柱ほめて造れる殿の如、いませ。母刀自オメ変りせず」(万葉巻二十、四三四二)は真木柱より其を建て、其様にゆるぎなかれとほぎ言して造つた殿と言ふので、ほぐと殆違はぬ時代の用例である。「ほ」を語根とした語と見えるものに、今一つある。

日本紀の一書に見えるもので、「スベコヽに諸物皆来聚しき。時に、中臣の遠祖アメノ児屋命則以神祝祝之カムホサキホサキキ神祝々之。此加武保佐枳保佐枳々」とあるほさくと言ふ動詞があつた様に見える事である。谷川士清はその書紀通証に、今も言ふ「ほざく」と言ふ語の元と言ふ思ひつきらしい説を記しつけてゐる。なるほど託宣から出て、「御託ゴタクを並べる」など言ふ類もあるから、一概に否定は出来ない。但し其には、近世まで文献に現れる事なく「ほさく」と言ふ語が、庶民信仰の上に行はれて居たと見ねばならぬ。此点は、千数百年間の空白を補ふ用例の出る時まで断言は預つて置く。

さう見られなくもない事は、古い祭文の芸術化(索引ほがひゞと参照)した側から考へられる事実があるのである。其由緒を陳弁する方面から「ほざく」を悪い意味に使ふ様になつたと見られる。其と共に「ふざける」と言ふ語原不明の近代語も、ほがひゞとの「おどけ祭文」の側から言うたものと見ることも出来さうである。「ことほぎ」を「こどき」と言うた事は其条に述べたが、此も亦、祭文として芸術化したものと見れば、後世の「口説クドキ」と言ふ叙事風な語り物の本義が知れるのである。「くど〳〵」など言ふ副詞の語根「くど」から動詞化した「くどく」と言ふ語と同根と見、男女間のくどき言が多いからと考へて来たのは、実は間違ひかも知れない。口説クドキの中に男女間の口舌クゼツや妄執・煩悶ばかりを扱はぬ純粋な叙事詩もあるのである。さうすると、こどきと言ふ語も文献に現れないで、民間信仰の上にくどきと音韻の少しの変化した儘で、曲節が伝つて居り、さうした節まはしに謡はれる詞曲はすべて、「くどき」と言ふ名にべられたと見られる。さすれば、「ほざく」の説もなり立ちさうである。

唯万葉にも一箇所「ほさく」らしいものがある。「千年保伎保吉とよもし」(巻十九、四二六六)と言ふのであるが、鹿持雅澄は伎は佐の誤字として「ほさきとよもし」と訓んだ。宣長が「ほぎほぎとよもし」が「ほぎきとよもし」となつたのだとした説を修正したのである。宣長説も理窟は立つてゐるが、雅澄の方が正しいと思はれる。さて「ほさく」と言ふ語があつたとすると其語源の考へが、「ほ」の議論に大分大きな影響を与へさうである。私の考へでは、ほぐほむの外に今一つ「ほす」と言ふ語があつて、其を更に語根として、「ほがふ」同様、「ほさぐ」と言ふ語が出来たのかと思ふのである。だが、不安であるから、尚臆説を並べて見る。「ほす」から「ほしぐ」と言ふ形が出来て、其が融合して「ほさぐ」となつたと見る。語原の意義を忘れて活用も変る例はある。併し「上ぐ」の意識を明らかに持つてゐたとすれば、「ほさぎ(第二変化)」と言ふ形の成立は少し問題である。私は語尾を多くの場合単音節に見たいので、「ほ・さぐ」と言ふ様な形は考へにくいのだが、此方面で考へて見ると、「ほく」とでも語源が説かれさうである。古語では、「さく」の用語例が広いから、かうした意義にも使はれて不思議はない。唯成立上疑問がある。だから、やはり内心は、「ほす」と「ぐ」との複合と見る方に傾いてゐる。いづれにしても、語源は「ほ」を根にして居るには違はぬ様である。「ほさく」と言ふ語が文献の誤りでないとすれば、まだ推測の出来る事がある。九州方面に「ほさ」と言ふ神職又は巫女のあるのは、「ほさく」の意義固定から語根が遊離したものと見られる事である。

泡斎ハウサイ念仏と言はれるものも、実は字は宛て字に過ぎないので、江戸期の小唄類の囃し詞に見えるほうさほうさいなどゝ関聯して、「ほさき祭文」のなごりでなからうかと思はれるのである。

猿楽に神聖せられて来た「翁」の、由来不明な「おうさい〳〵」の句も、唯の囃し詞ではなく、「ほさき〳〵」と言ふ風な畳語で、呪文の附属文句から変化したのではないかとも考へられる。

底本:「折口信夫全集 4」中央公論社

   1995(平成7)年510日初版発行

※底本の題名の下には、「草稿」の表記があります。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2009年1031日作成

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